★本のたび 2008★



 若いころから読書カードを作っていましたが、近年、読書離れが続いているということを聞き、こんなにも楽しいことからなぜ離れてしまうのかと思い、この掲載をはじめました。
 でも、自分が読んだ本について語るということは、自分の本棚を他人に見せるようなものですし、もう少し踏み込んで言うと、自分の心のうちをさらけ出すようなものです。それは、とても恥ずかしいかぎりです。
 でも、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさ、本と遊ぶおもしろさをなんとか伝えたいと思うようになりました。
 2014年9月30日に1,000冊を超えましたが、これからも本とたびを続けて行きますので、ときどきはのぞいてみてください。
 ここが、本のワンダーランドになれば、本望です。



No.325 『四国八十八ヶ所感情巡礼』 

 たまたまですが、同じ日に出版された本を続けて読みました。
 この著者の本は初めて読んだのですが、感情巡礼というわりには、尾籠な話しがところどころに出てきて、感情的にはイマイチというところでした。でも、それが小さいときからの著者の体質らしいので、なんとも言えませんが、ちょっと臭ってきそうでした。
 お遍路というのは、「雨の中、雀が鳴いている。雀は将来自分が死ぬことを知らない。だからあんな無邪気な声で鳴けるのだ。人間は将来自分が死ぬことを知っているから、お遍路なるものがあるのである」というのは、なるほどと思いました。そのつながりで、下に抜き書きしたのも、その覚悟はすごいと感心しました。
 そういえば、遍路笠には、「同行二人」「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」などと墨書されてありますが、「同行二人」というのは、いつも弘法大師がそばにいらっしゃるというほどの意味です。それ以下の句は、「迷うゆえに三界の城があり・悟るゆえに十方は空なり・本来、東西は無く・何処にか南北あり」ということで、「三界」は輪廻の世界を現し、悟りを得なければ逃れられないのがこの三界であり、「十方」とは全ての空間を表します。
 もちろん、この句はいろいろに解釈できますが、それを見つけるのが遍路だという解釈もあります。
 著者の巡礼には、奥様の高橋純子さんも同行され、歌を詠んでいられます。こちらは格調高く、たとえば

 縦横に風のゆきかふ野面にはあの世この世と迷子の遍路

 など、50首が附録として最後に掲載されています。機会があれば、お読みください。
(2008.12.30)

書名著者発行所発行日
四国八十八ヶ所感情巡礼車谷長吉文藝春秋2008年9月15日

☆ Extract passages ☆

 人間ほど不幸な生物はない。生きている間にあらかじめ、将来自分が死ぬことを知っているのだ。他の生物は将来自分が死ぬことを知らない。だから鶯はあれほど美しい声で鳴けるのだ。私は作家などになってしまったが、もう二度と人間には生れて来たくはない。今日は終日、それを思うていた。作家というのはつくづく厭な商売だ。人間の醜さ、浅ましさだけを見詰め続けて来た。

(車谷長吉著『四国八十八ヶ所感情巡礼』より)




No.324 『キャッチコピー大百科』 

 キャッチコピーはその時代を映す鏡のようなものだと個人的には思っているのですが、この本を読んで、さらにその意を深くしました。副題が「カタログ・チラシ」と出ているので、それらのキャッチコピーなのですが、それをただズーッと6,600ほども並べて掲載してあるだけです。いわば、脚色もなければ編集者の意図もそこには反映されないのです。だからこそ、原資料としての価値がそこにはあるのです。
 それら一つ一つを見ていくと、「あぁー、これ知ってる!」というものから、「こんなのあったっけかなぁ?」と思うものまで、いろいろとありました。でも、その一つ一つが、相当な時間と努力で作り上げられたものに違いはありません。なかには、著名なコピーライターがつくったものもあれば、単なる思いつきで文字化されたようなものもありそうですが、それとて、長い時間のなかで忘れ去られていきます。そして、万に一つほどの確率で、その時代を象徴する名キャッチコピーとして残るのだと思います。
 さて、この6,600ほどのキャッチコピーのなかで、後の世まで語り継がれるようなものが生まれるかどうか、それは時間が経過してみないとわからないことです。
(2008.12.28)

書名著者発行所発行日
キャッチコピー大百科久野寧子 取材・編集ピエ・ブックス2008年9月15日

☆ Extract passages ☆

 「ワタシはこういうモノです。」という自己紹介より、確かで信頼を得られる客観的情報。
 それを効果的に伝える役目、あるいは一目惚れしてもらうためのキャッチコピー、珠玉の言葉の数々。
 商品の特長、特質はもちろん、どれほど優秀な環境で育ったか、そして、その出来上がりを、分かりやすく端的に語り、人々の感性にダイレクトに届ける役目を一身に担っている。
 多くの人によりよい伴侶を得てもらいたい、出違って欲しいという願いを込め、商品という主人公をビジュアルと共に盛り立て、出自の明らかさ、オリジナリティをコピーに込めて謳い上げる。この人なら絶対あなたを幸せにしてくれるはず、という仲人の自信、すなわち、企業の自信を言語化し、見る人、接する人の心に訴えかけるのがキャッチコピーの使命、そして、「私た引まあなたとの出逢いを心から望んでいます。」と、一組でも多くのお見合いを成功させるためのMC、ナビゲーターの存在、商品のアイデンティティを的確に表現しているのが名キャッチコピーである。

(久野寧子 取材・編集『キャッチコピー大百科』より)




No.322 『巨樹・巨木をたずねて』 

 著者は、現在、環境省の巨樹データ管理者で、自らも
『日本の巨樹・巨木』というホームページを開設しています。もし、巨樹や巨木に興味があれば、このホームページにアクセスしてみるのも一つで、いろいろなことがわかるかと思います。
 下に抜き書きしたものは、「はじめに」のなかで「私と巨樹・巨木」と題し書いてあるもので、その思いが凝縮されているのではないかと思います。巻末に基本データを載せてありますが、環境省のランキングと著者自らの計測ランキングに相当な違いがあり、それぞれの巨樹や巨木に対する地域の思いなどが反映されているのかもしれません。たとえば、屋久島の縄文杉は1966年に紹介されたときには樹齢7,200年と公表されましたが、その後の研究で、約6,000年前に屋久島の北方に位置する喜界カルデラ噴火により屋久島の森林が絶滅したことが判明し、この説は否定せざるを得なくなりました。
 また、この本でも紹介されていますが、千葉県鴨川市にある清澄の大杉は幹周り15mほどもあり千年杉と呼ばれ親しまれてきたそうですが、その横に並んでいたほぼ同じ大きさの杉が昭和中期に倒れ、その年輪を数えると約380年しか経っていなかったそうです。ですから、全国にある巨樹の伝承樹齢もあくまでも伝承にしか過ぎないものなのかもしれません。
 それでも、人間の年齢の数十倍も生きるのですから、すごいものです。そういえば、世界最長寿の木は、スエーデンにある9,550年のものだそうで、2008年の今年、確認されたとのことです。
(2008.12.26)

書名著者発行所発行日
巨樹・巨木をたずねて高橋 弘新日本出版社2008年10月25日

☆ Extract passages ☆

 本書は、全国で著名な巨樹もさることながら、環境省巨樹・巨木林調査で新たに確認された巨樹たちや、まだ無名に近い存在であるが、隠れた名木とも言えそうな、見るものに感動を与えてくれる巨樹を数多く選んでみました。
 前書のように単に巨樹の大きさにとらわれるのではなく、私が愛してやまない巨樹たちを紹介した本と考えていただければ良いでしょうか。・・・・・・ここ数年、環境問題がクローズアップされ、巨樹に対する関心も再び上向いているようです。各地の巨樹には保護用の対策もされるようになりました。それでも、日本には残された問題が山積ということもあります。この本を手に取っていただき、日本にはまだまだ素晴らしい自然、巨樹が存在しているのだということを再認識していただければ幸いです。

(高橋 弘著『巨樹・巨木をたずねて』より)




No.321 『秋の七草』 

 この本は「ものと人間の文化史」の1冊として出版されたもので、秋の七草だけを取り上げて1冊にするというのも、かなりおもしろい企画ではあります。しかも、総ページ数293頁ですから、多方面から取り上げています。たとえば、第2章の「ハギ」についても、『万葉集』や『源氏物語』、さらには『徒然草』や芭蕉などの詩歌や民俗や昔話に取り上げられている文化的側面など、そして人間の生活に密着したものとして、さらにはハギの名所や植生、栽培法など、本当に多岐に亘っています。また、クズなどは、採取の方法や民間薬としての効能や料理方法、とにかく考えられるいろいろな切り口から書かれているのには感心しました。
 おそらく、この1冊を読めば、秋の七草のほとんどを理解できるのではないかと思います。
 最後の「参考文献」を見ても、その多方面さがわかります。古典及びその解説書、農書、地方史誌、民俗、植物の文化史誌、事典・図鑑・歳時記類、食物文化、国語教科書、その他と、数え切れないほど掲げられています。
 著者はあとがきで、「秋の七草全般と、七草個々の文化史をまとめ上げることができた」としていますが、まさにその通りです。これら個々の草花に、これほどの日本文化の懐の深さがあるとは、頭ではわかっていても、実感としてはありませんでした。
 この労作を、ぜひ多くの方々にお読みいただきたいと思います。読むたびにカードを作成していますが、今回は24枚になりました。読み切るまでにも10日以上かかりました。それだけ読み応えのある本ではないかと思います。
(2008.12.24)

書名著者発行所発行日
秋の七草有岡利幸法政大学出版局2008年10月10日

☆ Extract passages ☆

 ハギ、ススキ、オミナエシ、ナデシコ、キキョウなどの秋の七草は、刈られたり、山焼きされるなどにより、草丈の低い植生の明るい草原だけに生育できる植物で、ヤブ状態の陽光がほとんど射し込んでこな 森林へとうつり変わっていく植生遷移とよばれる変遷のなかでの途中相である。
 里山やススキ草原は、人間が定期的に伐採や山焼きなどをおこない植生を攪乱することで、その植生を維持してきた。このような植物群落の維持には、人為的な植生攪乱が必要なのである。しかし、常に攪乱 している田畑の周囲の、日当たりのよい場所であっても、近年秋の七草がみられなくなった原因は、いまだ突き止められていない。いや、誰も突き止めようと調べる人もいないのが実情である。

(有岡利幸著『秋の七草』より)




No.320 『だまし絵の描き方入門』 

 よく、言葉でもって人をだます人がいますが、これは絵で人の既成概念を巧みに利用してだまそうとするものです。でも、言葉のだましとはいささか違って、よく見るとおかしいと気づき、そのだまされている自分に笑みさえこぼれます。その普通ではありえない不可思議な絵を見て、読み始めました。だまし絵を描きたい、というよりは、こんなおもしろい絵が世の中にはあるのだ、と知りたいと思ったのです。
 副題に、「エッシャーの描法で不思議な絵が誰でも描ける」とありますが、このエッシャーという人はオランダの版画家だそうで、「不可能立体の絵」とよばれ、それを見た人は立体が描かれていると感じると同時に、そんな立体はありえないという印象を持つ不思議な絵です。日本でも、安野光雅氏などが好んで用いたことがあるそうです。
 これらを読んでみると、だまし絵といいながらも、いろんな手法があり、それなりの歴史もあります。むしろ、人をだますというよりは、人を楽しませるということに力点があり、ただ見ているだけでも不可思議な世界に引きづり込まれるような気がしました。
 今、この本を読んでいるとき、世の中では非正規雇用者のリストラが相次ぎ、仕事だけでなく住まいさえも奪われてしまうとニュースなどで伝えられています。ますますこの世の中はわかりにくくなり、何が正しく、何が悪いのかさえ、判断できなくなってきているようです。
 まさにだまし絵の世界が、そのままこの世の世界になりつつあります。
 だからというわけではありませんが、このようなだまし絵の世界がある、ということを知っていただければと思います。
(2008.12.19)

書名著者発行所発行日
だまし絵の描き方入門杉原厚吉誠文堂新光社2008年7月31日

☆ Extract passages ☆

 人は絵や写真を見たとき、そこに写っている立体をたやすく理解できます。でもそれと同じことをコンピュータにさせることはやさしくありません。私は、この研究テーマに私自身の専門である数理工学の立場から挑戦してきました。数理工学とは、数学の考え方を使って工学の問題を解決しようする学問です。この立場で研究を続けているうちに、絵の中の数理的な構造に自然に目が向くようになり、それを積み重ねるうちに頭の中にたまってきたものを、だまし絵を描く技術という見方で整理してみたのがこの本です。

(杉原厚吉著『だまし絵の描き方入門』より)




No.319 『直江兼継』 

 平成21年度のNHK大河ドラマの主人公が直江兼継です。そのこともあって、続々と兼継関連の本が出版されていますが、江戸時代には世間一般の評価は高くなく、むしろイメージ的には悪かったようです。ですから、伝えられている事柄も信憑性のあるものが少なく、人柄もとらえどころのないような感じです。でも、歴史家ではなく、小説家の立場に立てば、そこに想像をふくらませる余地があり、自分なりの直江兼継を作り出せる楽しみがありそうです。
 しかも、副題が示すように、「戦国史上最強のナンバー2」ですから、さらに上に対する思いと下に対する思いが錯綜するわけで、読み物としてはさらにおもしろくなります。おそらく、永禄3(1560)年に生まれ、元和5(1619)年に亡くなったことだけはまちがいないでしょうが、その人生をうかがい知ることは難しそうです。
 しかし、歴史物のおもしろさは、史実だけに振り回されるより、そこに自分の思いを反映できることですし、史実そのものでさえ、為政者の思いが反映され残されているわけですから、過度に重視するのは考えものです。伝説には伝説の良さがありますし、残るべくして残った長い時間のフィルターがあるはずです。
 もちろん、史実を基本にして読み解くことは大事ですし、数多くの史実を知ることも大切なことです。この本は、その史実を取り上げながら、その裏に隠された兼継やその周りの思いなどを類推し、それを現代に役立てようとして書かれています。
 おそらく、来年の『天地人』も、数多くのエピソードのなかに作者や脚本家の味付けがされるはずです。さらにテレビ独特の見せ場も考えられるはずですから、それまでに多くの本を読んで下準備をしておくのも一興かと思います。
(2008.12.17)

書名著者発行所発行日
直江兼継(アスキー新書)戸川淳アスキー・メディアワークス2008年11月10日

☆ Extract passages ☆

 慶長20(1615)年7月12日、懸命の介護も実らず、景明は21歳の若さで亡くなった。長女に続き次女も病没しており、兼統・お船夫婦は不幸にもすべての子に先立たれたことになる。
 実家の樋口家には、養子にふさわしい候補が存在したにもかかわらず、兼続は、名族直江家を自分たち夫婦の代で断絶する覚悟を決めた。関ケ原の戦いの後、大幅な減封処分を受けた上杉家を存続の危地から救ったのは兼続であったとしても、盟友三成との一連托生路線によって、窮地に陥れたのも兼続だった。
 兼続は、自分の責任を痛感しながらも職務を放棄することなく、上杉家の再生のために全力を傾注した。そして、上杉家再生と徳川将軍家との関係修復という目的を達成したいま、敗戦の責任を取り、自身の功績を功績として残さないため、直江家を取り潰すという非情の手段を選択する。14年前、天下分け目の一戦に敗れたとき、兼続は責任を一身に負う覚悟でいたが、不言実行の美学を貫いたのだ。

(戸川淳著『直江兼継』より)




No.318 『ダライ・ラマ 平和のために今できること』 

 今年はオリンピックイヤーで、中国の北京で開催されました。しかし、そのことで注目されたことは、競技そのものより、チベットなどの中国の民族問題でした。世界各地をリレーするオリンピックの聖火は各地で寸断され、国によっては誰もいないようなところを淡々と走らざるを得なかったところもあります。それほど、世界の目は中国国内に注がれたのです。でも、国内の様子はほとんど報道されることなく、海外での活動だけがクローズアップされたようです。
 なかでも注目されたのは、チベット問題です。その中心がダライ・ラマ14世で、そのときのことなども、この本に書かれています。たとえば、「チベット人のみなさんへ(2008年4月6日、インド、ダラムサラ)、アピール(2008年4月2日)、中国人のみなさまへ(2008年3月28日)、チベット民族平和蜂起49周年にあたって(2008年3月10日)などです。それ以外にも、欧州議会における演説(2001年10月24日、フランス、ストラスブール)、五項目和平プラン(1987年9月3日、米国議会人権議員連盟に対する演説)、世界平和のために人としてできること(1984年)なども掲載されています。
 これらを読みますと、以前見たことのある映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」の一こま一こまを思い出します。あの広大な大地のなかで何百年も生きてきたチベットの人々が、その祖国を追われ、海外で暮らさざるをえなくなったことはやはりどこかがおかしいと思います。誰が良いとか悪いとかという問題ではなく、素朴な気持ちでどこかがおかしい、ヘンだと思います。
 私も、現在のチベット法王庁があるダラムサラの近くまで行ったことがありますが、ここはあくまでも仮の場所であり、本来はあのポタラ宮殿です。
 この本を読んでいるときに、新聞に「中国人学者や作家などが303人が9日、三権分立など共産党の一党独裁体制の撤廃を求める「08憲章」をインターネットで発表した。香港メディアの明報によると、署名者の相当数が身柄を拘束されたという。」とありました。さらに、「同憲章は、「20世紀後期の改革開放で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対権力制から抜け出し、生活水準が大幅に向上し、個人の経済の自由と社会権利も部分的に回復した」と評価する一方で、2004年の憲法改正で盛り込まれた「人権の尊重と保障」など政治の進歩は「紙の上にとどまっている状態」と批判しています。おそらく、このような形で堂々と政府批判をしたのは、きわめて珍しいことではないかと思います。
 おそらく、この「08憲章」もチベット問題などと同じような民主化への要求であり、一党独裁体制への批判でもあります。
 チベット問題だけでなく、宗教者としてのダライ・ラマ14世の考え方もわかり、とても有意義な本だと思います。ぜひお読みください。
(2008.12.13)

書名著者発行所発行日
ダライ・ラマ 平和のために今できることダライ・ラマ14世著、北川和子訳ダイヤモンド社2008年8月7日

☆ Extract passages ☆

 今世紀の文明の急速な進歩にもかかわらず、私は、私たちが現在直面しているジレンマのもっとも直接的な原因は、私たちが物質的な発展だけを不当に強調しているところにあると考えています。私たちは物質的な豊かさを求めるあまり、気づかないうちに、愛情や思いやり、協調、配慮といった人間としてもっとも基本的な欲求を育むことを忘れてしまっていました。
 もし私たちがある人たちを知らないとしたら、あるいは、特定の個人や集団に対して、まったく無関係だと感じるとしたら、その人たちの欲求に日もくれないのは当然でしょう。しかし、人間社会の発展は、完全にお互いの助け合いにかかっています。人間の基本である人間性を失ってしまったとしたら、物質的な進歩だけを求めたところで、どんな意味があるのでしょうか。

(ダライ・ラマ14世著『ダライ・ラマ 平和のために今できること』より)




No.317 『カラー版 屋久島』 

 この本は、写真家の青山潤三氏が書かれたもので、自らの写真もたくさん載っています。表紙がヤクシマシャクナゲというのがとても気に入りました。やはり、屋久島を代表するのはヤクシマシャクナゲです。副題は「樹と水と岩の島を歩く」とありました。
 ちょうどこの本を読む前、11月22日のNHK総合テレビで、探検ロマン世界遺産「悠久の森の声が聞こえる〜鹿児島・屋久島〜」という番組がありました。その番組でも紹介されていましたが、屋久島は島そのものが一つの命であり、屋久島でただ一人の樹木医の方は、海に10日、山に10日、野に10日いる、と話されていました。それらがすべて屋久島という一枚岩にへばりつくようにして生かされているといいます。
 もちろん、番組を見られた方も多いかと思いますが、屋久島の植物は、あまりいい環境のなかで生きているとはいいにくいということでした。私が訪ねたときも、根っこがめくれたようになったシャクナゲもあり、いかに薄い土壌に根を張りながら必死に生きているのかということを実感しました。番組のなかでは、その養分を含む土壌がわずか5センチと紹介されていたようです。
 しかし、この貧弱な土壌に育つからこそ樹脂も多く屋久杉などの長寿の樹が生育しているのですから、世の中皮肉なものです。そういえば、この屋久島に昨年度は30万人の人々が訪れたそうですが、来島者が多くなればなったで、自然の破壊も広がります。増えても困る、増えなくては島の観光が成り立たない、その難しい問題を抱えていることも事実のようです。さらに保護されているヤクジカの増加も問題で、下草が食べ尽くされてしまった状態が映し出されていました。
 それと、屋久島を代表する縄文杉が大雪で枝折れしたときがあったそうです。それも自然の姿として、特別な手当をしなかったそうです。この本のなかでも、「屋久島のスギやモミやツガの古木には、絞め殺し樹木ヤマグルマがとりついていて、何百年にわたる壮絶な格闘のひとコマを、かいま見ることができます。ヤマグルマをけっしてじゃまものとは見ないでください。敵との戦いはまた、自らが生きている証でもあるのです。」とありましたが、まさにその通りです。それが自然なのです。いっときのかわいそうという感情でそれを変えてしまうと、逆に不自然なことになってしまいます。
 もし、屋久島に興味がありましたら、ぜひお読みいただきたいと思います。屋久島特有の植物にも多くのページを割いていますので、植物好きにも必見です。
(2008.12.10)

書名著者発行所発行日
カラー版 屋久島(岩波ジュニア新書)青山潤三岩波書店2008年10月30日

☆ Extract passages ☆

 屋久島の山での鉄則ともいえそうなのは、道に迷ったら、ぜったいに沢に下りてはいけないということ。はじめは歩きやすそうに見えても、下るにつれ谷は深く険しくなり、滝や大きな崖が突然あらわれて、転落してしまう恐れがあります。かならず稜線に上ること。尾根伝いに歩けば、やがて登山道に出ます。
 また、屋久島の山の登山道は、もろい花崗岩で形成されているため、大量の雨と登山者の踏みつけが相互に作用して、どんどん深くえぐれつつあります。場所によっては、背丈の数倍の深さにえぐれていたりして、気がつかずにストンと落ちてしまうと、大けがをすること必至です。道におおいかぶさるヤクザサのようすをつねにチェックしつつ、細心の注意をはらいながら、歩行する癖をつけておきましょう。

(青山潤三著『カラー版 屋久島』より)




No.316 『アート書を楽しもう』 

 この手の本は読むというよりは、見て楽しむもので、副題も「文字とあそぶ ハガキであそぶ」とあります。
 著者はカルチャーセンターなどで書道を教えているそうですが、その書道から文字そのものを創作するような気分でアートとして書き上げています。ですから、この本のなかで、アート書とは「好きな文字や書きたい文字を心を込めて書く。文字を楽しみ、文字と遊ぶ・・・・・・。」としています。
 墨と毛筆だけで書くのではなく、絵の具やクレヨンを使ったり、和紙やラメを使って華やかさを出したり、割り箸や木片なども使って書いています。そして、その書き上げた作品を、こんどはさまざまな方法で楽しみます。たとえば、絵手紙はもちろんのこと、コースターや書のブローチなども作ります。その練習で書き損ねた反古紙は、一閑張りやタペストリーなどに加工し、毎日の暮らしを彩ります。
 この一閑張りには感心しました。というのは、以前、韓国に行ったときにすてきな一閑張りを買い、今も重宝して使わせてもらっていますが、その作り方も書かれているのです。それが意外と簡単なのです。
 ぜひ、柿渋を手に入れて、ネパール紙の反古紙を使い、お茶事のときの干菓子器でも作りたいと思っています。おそらく、誰も中身の竹かごは100円ショップのものとは思わないに違いありません。ただ、それだけのものが自分で作れるかどうか、この本に書かれている通りにできるかどうか、それは未定で、これからの問題ではあります。
(2008.12.07)

書名著者発行所発行日
アート書を楽しもう鹿田五十鈴日貿出版社2008年10月10日

☆ Extract passages ☆

 一つの文字をじっと見つめてください。目玉をもった動物に見えたり、今にも動き出すような気配を感じませんか?
 大昔、文字がなかった頃、人は文字の代わりにものの形で記していました。それが記号になり、文字が誕生したのです。つまり文字のもとは絵のようなものの形ですから、じっと見ていると生き物に見えたり、人に見えたりするのだと思います。・・・・・・
 文字がまだ考え出されていない時代の人々が伝えたいという気持ち、古代の文字に込められた原始的なエネルギーを表現できたらと思っています。私はこれも「アート書」としています。

(鹿田五十鈴著『アート書を楽しもう』より)




No.315 『偽善入門』 

 著者の小池龍之介氏は、1978年生まれで月読寺の住職だそうで、2003年にウェブサイト「家出空間」を立ち上げ、2007年までオテラとカフェの機能を兼ね備えた「iede cafe」を展開していたそうです。
 この本の副題は「浮世をサバイバルする善悪マニュアル」で、先ずは読んでみないと何が何だかわからないということで読み始めました。
 たしかに、ちょっとユニークな書き方ですが、若いわりには言葉も丁寧で、いつの間にか引きこまれてしまいます。でも、ちょっとおかしい、と思いながらも、そのおかしいところが何なのか、ついつい考えてしまいました。
 すると「あとがき」のところに、この本は担当編集者の方に自房の月読寺に来ていただき、4日間口述した内容をそのままタイピングしてできたということでした。まさに語り下ろしですから、それで納得できました。
 しかし、自分の場合もそうですが、相手がいて、その相手に分かっていただけるように話しをしますから、その相手によって話し方も内容も違ってきます。おそらく、自分のモチベーションなども違ってきますから、それがいいか悪いかといわれれば、ちょっと返答に困ります。
 ただ言えることは、話しを聞くように読むことができ、それはそれで臨場感があります。本の向こうに著者がいて、語りかけてくれているかのような雰囲気があります。これはこれで、楽しいことですが、何度も同じような語り口があり、同じ内容の繰り返しもあり、もう少し推敲されたほうがいいのではないかと感じました。
 でも、もしかすると、若い方にはうけるかもしれません。後から気づいたのですが、いわばブログのような雰囲気もある、と思いました。
(2008.12.06)

書名著者発行所発行日
偽善入門小池龍之介サンガ2008年9月25日

☆ Extract passages ☆

 ネジを抜いたりビスをはめたりして、自らの心という壮大な機械装置を複雑に作り変えてきましたが、その変化はものすごく単純にまとめて説明することができます。それは、偽善を嫌うあまりに「悪いことをやって何が悪いんだ」という開き直りに陥っていた自分が、格好をつけるのを止めて、善人になることは仮に不可能でも、まずは偽善でもいいから、偽善人になることから始めながら、善人を目指そう、という変化でした。
 その道を長らく歩んで参りました結果、昔の自分を知っている人と久しぶりに会いましたなら、「同一人物とはまったく思えない」と皆が驚くほどに穏やかになることができ、味の薄い繊細な幸福感の味わいに満足できる人間になることができました

(小池龍之介著『偽善入門』より)




No.314 『75歳のエベレスト』 

 この本は、著者が2008年5月26日7時33分(日本時間10時48分)に75歳で世界最高峰のエベレストに立ったときのことを書いています。それに、2006年9月に日経の文化欄に連載された「私の履歴書」を大幅加筆し、これまでの自らの冒険史を網羅したものになっています。
 おそらく三浦雄一郎氏のことを知らない方はいないかと思いますが、日本最初のプロスキーヤーで、数々の冒険スキーをやり遂げています。たとえば富士山滑降もそうですし、極めつけはエベレスト滑降です。登るだけでも大変なところをスキーで滑降するわけですから、まさに命がけです。1970年のことです。
 それから1985年までに、世界7大陸最高峰をすべてスキーで滑降することを成し遂げ、一時はメタボリックになるほど冒険とはほど遠い生活をしていたそうですが、2003年に70歳7ヶ月の世界最高齢エベレスト登頂を果たし、今年の75歳でエベレスト登頂という偉業を達成されたのです。
 何年か前、野口健氏にエベレストの頂上はどんな感じなのかを伺ったとき、まさに死と隣り合わせの世界で、一刻も早くその場から立ち去りたかったそうです。この本にも、登頂して、その喜びもつかの間、もう下山途中の心配をしているところが描かれています。むしろ、登るときよりも下るときのほうが危険が多いと自分の少ない経験からも思います。
 著者は、「人間は、誰もが死亡率100パーセントである。それがいつになるかというだけだ」といいます。つまり、どこで死んでも悔いはないということだそうで、こういう気持ちで事に当たるということが冒険の基本になっているのだそうです。
 たしかに、そのような気持ちがなければ、命をかけた冒険などはできないでしょう。しかし、私には、冒険というよりは肝試し的な要素が多分にあるように思います。たとえば、エベレスト山頂付近の岩棚に貴重な植物が生えていて、それが何なのかを調べてみたいということであれば、誰もなしえなかった冒険であり科学的な調査でもあります。そこには有益な何かがありそうに思うのです。
 まあ、いずれにしても、誰もできなかった、あるいはしなかったことをするというのは勇気のいることです。しかも、それを75歳でするということに拍手を送りたいと思います。
(2008.12.04)

書名著者発行所発行日
75歳のエベレスト(日経プレミアシリーズ)三浦雄一郎日本経済新聞出版社2008年9月8日

☆ Extract passages ☆

 誰も助けてくれる人もいない、夜も独りぼっちの岩陰での仮宿、こうしたことが一体何の役に立つのだろう。気ままに泳ぎ歩くだけなのに、なぜか、こうしたサバイバル暮らしが気に入って弘前高校のころを中心に中学から大学の三年まで計七回もの夏を津軽半島で過ごすことになる。学生時代の思い出の中では、この津軽半島の原始生活が最高だ。
 みんなは必死で受験勉強している。しかし、夏はこれをやるものだと決めていた。わずか二十日のふんどし一丁の原始生活から真っ黒になって学校へ帰ると、何かどえらいことをやってきた、というずっしりとした充実感があった。学校というのはどうしてこんなに楽なのだろう。食べる心配もないし、夜は布団の中、授業は半ば休養の時間だ。あの生きるに苦しい、それでいて美しかった津軽の海に比べ、学校は退屈極まりないところであった。
 青春時代の始まりに孤独に耐え、生きる原点を繰り返し体験したことは、その後の人生の荒海で大きな原動力になったと思う。
 生きることはすぼらしいことだと、言葉でなく本能で感じることができたからだろう。

(三浦雄一郎著『75歳のエベレスト』より)




No.313 『話してみよう 旅行の英語』 

 この本は、旅行の英語というよりは、仲良し3人組の高校2年生トリオがロンドンで伯父さんに会い、さまざまなサポートを受けながらイギリス各地をめぐる旅日記のようなものです。そこに旅行で必要な英語がほんの少しだけ取りあげられています。
 イギリスは一度は訪ねてみたいところで、なかでもスコットランドのシャクナゲ庭園はぜひ見てみたいと思っています。そこで、米語と英語の違いとか、イギリス独特の風俗習慣の違いとかを勉強できればと思い読み始めました。でも、この岩波ジュニア新書は高校生までが対象ということもあり、そんなに参考にはなりませんでした。それでも、旅行記として読めば、とても楽しく、彼ら3人組と悪戦苦闘しながらなんとか英語を話し、旅行をしているような気になります。
 イギリスには、多くの世界遺産もあり、たとえばカンタベリー大聖堂、聖オーガステイン大修道院および聖マーティン教会などの宗教施設や、バース市街やリバプールの海洋都市やグリニッジ河港都市など、さらにはストーンヘンジやエーヴベリーと関連する遺跡群など、たくさんあります。なかでもぜひ行ってみたい世界遺産は、キュー王立植物園(RoyaI Botanic Gardens,Kew)で、シャクナゲの花が咲く時期に訪れてみたいと思っています。もちろん、ここには少し年などの都市とっても行けるでしょうから、先ず今はシャクナゲの自生地が優先です。
 ところで、もう一カ所行ってみたいところといえば、やはりビートルズの出身地リバプールです。高校生3人組も行きましたが、日本にいたときにネットでイギリス政府観光庁をみていたら、ビートルズ関連のスポットを回るMaglcl Mystery Tour というのがあったそうです。そのホームページには、a must という語句があり、辞書で調べると「必見のもの」という意味があったそうで、日本出発の前にネット予約を入れておいたそうです。そういえば、このリバプールには、映画『タイタニック』で有名な豪華客船タイタニックの所有者であるホワイト・ライン社があったところでもあるそうです。
 さて、「イギリスで本場の英語を聞いてみたい」「教室で習った英語を使ってみたい」とイギリスへ旅だった3人組が体験したことは、それはこの本を読めばわかります。
(2008.11.30)

書名著者発行所発行日
話してみよう 旅行の英語(岩波ジュニア新書)大津幸一岩波書店2008年10月21日

☆ Extract passages ☆

 お土産 souvenir は、フランス語から英語に入ってきた言葉で、記念として残るものや「思い出の品」を表します。どちらかというと、自分の旅の記念として買うもののことです。
 他人に贈る「(旅で買う)手みやげ」は、gift や Present が適当です。したがって、だれかに「これ、旅行のおみやげです」と言うときには、souvenir ではなく、gift、present を用います。
 ただし、欧米では、日本ほど、旅先でお土産を買って多くの人に渡す習慣はないようです。

(大津幸一著『話してみよう 旅行の英語』より)




No.312 『ヘルマン・ヘッセ 老年の価値』 

 最初に手に取ったときには、446ページもの本をこの1年で一番忙しいときに読み通せるかと不安でした。しかし、随所にヘルマン・ヘッセの末っ子で写真家のマルティーン・ヘッセの表現豊かな写真が収められていて、興味深く読み終えました。これらの写真は、エルンスト・ペンツォルトの言葉を借りると、「すべての芸術家の努力の目標は、老年になってヘルマン・ヘッセがもつことのできるようになった容貌をもつことにはかならない。それどころか、その場合には私たちはもう彼の生涯と業績を理解するために、彼の作品を読む必要はなく、ただ彼を眺めるだけでよい、と私は主張する。なぜなら、彼の作品の登場人物とこの年齢を感じさせない顔との同一性は完壁なものであって、いわば彼の詩と散文作品の本質を具現しているからである。けれどももちろん、私たちは、彼の作品を読んでいなかったなら、彼を実際に知ることはできないであろう!」と。
 たしか作品を読まなければ知ることはできませんが、ここに掲載されている写真は、ヘルマン・ヘッセという人を知る大きな手がかりとなります。
 下にも抜き書きしましたが、自らが年を重ねることによって思い至ったことがたくさん書いてあります。若い時には気づきもしなかったことや、体の衰えとともに感じ始めたことなど、これからそこにいたる人たちにはあらかじめ知りうるとても有益なことと思います。
 たしかに、ページ数は多いですが、写真も多いので、手元に置いて置くと、知らず知らずのうちに読み終えます。とくに50〜60歳台の方にはおすすめです。それ以上に年を重ねた人には、自分の今を知るためには読んでみると理解できることが多いのではないでしょうか。
(2008.11.28)

書名著者発行所発行日
ヘルマン・ヘッセ 老年の価値マルティーン・ヘッセ写真 フォルカー・ミヒェルス編 岡田朝雄訳朝日出版社2008年6月30日

☆ Extract passages ☆

 老人の本領は、青年よりもずっと自由に、ずっと簡単に、ずっと上手に、ずっと寛大に、自分自身の愛する能力とつきあえることです。老人は若者たちを常にこしゃくな奴と思いがちです。しかし老人自身、いつも若者の身振りや流儀をまねしたがるし、狂信的で、公正さを欠き、独りよがりで、傷つきやすいのです。老年は青年より劣るものではありません。・・・・・・老年が青春を演じょうとするときにのみ、老年は卑しいものとなるのです。 (1930年12月17日 ヴィルヘルム・クンツェ宛の手紙から)

(フォルカー・ミヒェルス編 岡田朝雄訳『ヘルマン・ヘッセ 老年の価値』より)




No.311 『森の力』 

 この本を少しずつ読み始めていたとき、たまたま見た市報に、「米沢市花と樹木におおわれたまちづくり計画(案)にご意見をお寄せください」とあり、『米沢市は後世に美しいまちを残すことを目的に、市民と行政との協働を基本とした「米沢市花と樹木におおわれたまちづくり計画」を策定中です。この計画について皆さんから広く意見を募集します』という記事が載っていました。
 たしかに、森や林のなかにいると、気持ちが良いし、不思議さ、おもしろさ、すごさなど、数え切れないほどの感情や感覚をもちます。まさに、言葉にできないほどの、何かが感じられます。この本のなかでも、ある不登校の生徒の話しが載っていますが、「農業系の高校だったが、中学時代に不登校や引きこもりだった生徒が入学することが近年増えているという。しかし、その高校に入ると、まずほとんどの生徒がきちんと出席し、入学後半年、だいたい夏休みがあけると目が違ってくるのだそうだ。生き生きと輝きだす、と。どうしてかと尋ねると、「いのちを扱うからだと思う」と答えが返ってきた。植物にせよ動物にせよ、自分が関わりを放棄したら枯れたり死んでしまう。そしてそのいのちは、どうやっても取り戻せない。とても単純なことだが、しかし、やはりその一回限りの「いのち」に触れているゆえだと思わずにはいられないそうだ。」とありました。
 まったくその通りで、都市型生活は便利だが、何かをどこかに置き忘れてきたような寂寞感にとらわれるときがあります。命の尊さを知るには、その生きものたちと真っ正面から向き合うことが大切です。それが森であり林であり、さらには自然そのものだと思います。
 この本の副題は、「育む、癒す、地域をつくる」ですが、自分たちが住みよい地域は、他から訪ねてきてもいい場所であるに違いありません。やはり時代は、自然などのすばらしさをしっかり感じられる場所造りが必要なんだと改めて思いました。
(2008.11.25)

書名著者発行所発行日
森の力(岩波新書)浜田久美子岩波書店2008年10月21日

☆ Extract passages ☆

 スウェーデンをはじめ、ヨーロッパの林業国では、・・・・・・林業はほぼ総合産業となっている。木はカスケード利用される。カスケード利用とは、滝が落ちてくるのを上から順々に利用して、一滴も無駄なく最後まで利用することを模してそう呼ばれる。
 日本では、狭い意味では林業と言えば山で木を育て伐る、それを売る、というところまで。一方、先進林業国では、植えて育てる部門、伐る部門、それらを加工する部門、加工品目を売る部門、あらたな資源として開発する部門、さまざまな木クズをエネルギーに変換する部門、などの複合的な業態をもつ大型総合産業のような形態を中心にしているのだった。逆に言えば、そのように一本の木を100%すみずみまで使いきるように利用しなければ、「稼げない」。
 日本では、この形態が成立していない。木一本を丸々使いきることができないということは、裏返せば資源をムダにしていることになる。

(浜田久美子著『森の力』より)




No.310 『無理しない』 

 著者の葉 祥明氏は、この本の紹介によると、画家・絵本作家・詩人とあります。とすれば、この本は詩集だと思います。CDのようなサイズの本で、1ページにたった6文字しか書いてないところもあり、97ページを一気に読みました。でも、心のどこかに引っかかるところがあり、何度も読み返し、ついにはすべてをノートに書き写しました。いままで、気に入った語句やフレーズはカードに抜き書きしていたのですが、本を丸ごと1冊全部を抜き書きしたのは、もちろん初めてです。詩集でさえも、印象に残ったものを数点書き写すことはあっても、すべてをということはありませんでした。ある意味、すごく印象的だったといえます。
 たとえば、その1句を下の「Extract passages」に抜き書きしてみますと、これだけでもそれなりの内容を含んでいますが、なんか尻切れトンボのようです。その前には何が書かれているか、この後はどのようになっているかと、とても気になります。だから、ついつい、いつの間にか全ページを書き写していたのです。
 ぜひ、機会があればじっくりとお読みいただきたい1冊です。
(2008.11.22)

書名著者発行所発行日
無理しない葉 祥明日本標準2008年8月10日

☆ Extract passages ☆

 「自然」とは
 自ずと然り
 そうあって当然。
 そうなるように
 なっているということ。

 そこにはなんの無理もなく
 物事が自然に流れ
 歓びと美が生まれる。

(葉 祥明著『無理しない』より)




No.309 『カラー版 四国八十八カ所』 

 2冊続けてカラー版で、しかも岩波書店の発行、さらにはカメラマンが書かれたもの、ということになりました。副題は、「わたしの遍路旅」です。
 石川文洋氏は、いわば戦場カメラマンで、ベトナムやカンボジアでの戦争の写真記録をされた方です。この本によりますと、それらの戦争で亡くなられたジャーナリストは95人だそうで、解放勢力側ベトナム人ジャーナリストを加えるとこの数字の倍ほどになるそうです。このなかに日本人15人も含まれているそうですが、そのうちの12人は友人・知人だそうで、彼らについてもコラムとして書いているのが印象的でした。今回のこの巡礼の旅は、彼らペンとカメラで戦争を報道しようとした仲間たちの慰霊の意味もあったといいます。
 著者も書いていますが、「P123」 戦争というのは絶対にあってはならないものですが、もしあったとすれば、それを余すところなく報道することが必要です。その悲惨さや残虐さなどを赤裸々に知らしめることが戦争をなくす一番の近道のような気がします。だからこそ、命をかけて戦場を駆け巡って撮り続けるのです。
 もちろん、この本は四国八十八カ所の遍路旅がメインですから、歩くその道すがら感じたことや撮った写真のことなどが綴られています。やはりカメラマンらしい目線で、風景を切り取っています。たとえば、『私は峠が好きだ。たいがいの峠は何の変哲もないが、「峠を越した」という小さな満足感がある』というあたりはたしかにそうだと思いますし、「朝、暗いうちから起きて外で朝日を待った。水平線に昇ってくる太陽を見ると感動する。夕日、朝日、それぞれに趣がある」というのも、写真はそのときが風景のなかでも一番際だつように感じます。
 最初は歩き遍路を4回にわけてする予定だったのが、最後の讃岐だけは、心筋梗塞で倒れその克服のための遍路ということもあり、交通機関を使ったといいます。それでも、この四国八十八カ所をすべてお詣りしたわけですから、すごいものです。そして、お遍路を終えた印象を、「あとがき」に下の抜き書きのように記しています。
 もし、将来、歩き遍路をしてみたいと思っていたら、必ずや参考になると思います。ぜひ、お読みください。
(2008.11.19)

書名著者発行所発行日
カラー版 四国八十八カ所(岩波新書)石川文洋岩波書店2008年9月19日

☆ Extract passages ☆

 四国遍路を終え長年の夢の一つが実現して、本当によかったと思っています。訪れた八八札所各地でいろいろな風景を新鮮な気持ちで見ることができたことに人生の喜びを感じました。
 チョウが花の蜜を吸う光景は見慣れてはいても、遍路の中で見ると花とチョウの息づかいを感じます。それは歩いているうちに風景に敏感になっているからだと思います。失われてゆく自然の中で懸命に生きていた、セミ、トンボ、トカゲ、沢ガニなどの小さな生命が印象に残っています。
 多くの人との出会いもありました。人生の悩みを持った人、定年後、新しい道を進もうとしている人、野宿をして肉体と精神を鍛えている若者たちです。そして田畑、漁港で働く元気なお年寄りの姿からは元気そのものを頂きました。

(石川文洋著『カラー版 四国八十八カ所』より)




No.308 『カラー版 里山を歩こう Part2』 

 この岩波ジュニア新書は、ときどきこの「ホンの旅」でも取りあげていますが、『カラー版 里山を歩こう』もここに掲載したことがあります。写真家のカラー版なので、写真そのものもすばらしいし、琵琶湖を望む棚田にアトリエを構え、腰を落ち着けて撮っている姿勢にも感動しました。その第2版です。
 副題は、「わき水の里から琵琶湖へ」ということで、滋賀県高島市針江というところが中心です。ここは、嘉田由紀子滋賀県知事が「かばた」という独特の水の使い方をするので、「かばた文化」と呼んだ地域です。これは、この本を読んでいただくとよく理解できますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
 この湖西地区の人たちには、『湖西には外から来た人を「風の人」、地元に住んでいる人を「土の人」と呼び、「風の人の話をよく聞きなさい」という教えがあります。この地ははるか昔、渡来人が住みついた場所であり、祖先は大陸から渡ってきた人たちだといわれています。祖先も外から来た人間であるために、ものごとを客観視できる能力を潜在的にもっているのではないかという気がします。ですから、外の人の声に耳をよく傾ける人たちがわりと多いようです。できるだけ外から来た人に学ぼうという気持ちのある人が多いと、ぼくには思えます』とあり、自分たちの文化をしっかり守りながら、新しいことにも目を向けるといいます。普通なら、古いものを守るというと新しいものを受け入れない頑迷さを感じますが、そうではなく、新しいことを知りながらも、古き良きものを大切にするということなのでしょう。
 ここは、私も一度訪ねたことがありますが、そのときは西国33観音霊場巡りの途中で、ゆっくりもできなかったのですが、琵琶湖畔を走りながら、その風景にゆったりしたものを感じました。
 もし、また機会があれば、今度はこの針江地区にもまわり、その地下水の使い方を学んでみたいと思いました。
(2008.11.15)

書名著者発行所発行日
カラー版 里山を歩こう Part2(岩波ジュニア新書)今森光彦岩波書店2008年6月20日

☆ Extract passages ☆

ぼくは、風景は人間がつくるものだ、とくに琵琶湖の場合はそうだと思っていたのですが、まさにそのお手本がここにあるという気がしたからです。
 別に「清掃活動でいっせいに町をきれいにしましょう」というのでなくて、理由は1つ、「魚を捕りたいから」、それだけなのですね。
 三五郎さんに聞くと、それしか返ってきません。
 「なんでこんなことをしているのですか」
 「魚を捕るためだ」
 魚を捕って自分が食べものとしていただく、すべてがそこにつながっています。だから、三五郎さんはそれを「誰かのためにしている」のではなくて、自分のためにしています。ぼくは、それがすごくおもしろいことだと思いました。

(今森光彦著『カラー版 里山を歩こう Part2』より)




No.307 『株とギャンブルはどう違うのか』 

 今、株が乱高下して注目を浴びていますが、そもそも『株とギャンブルはどう違うのか』というセンセーショナルな題名に惹かれて読み始めました。もともと、経済学には興味があり、それなりの古典的名著といわれている本も読んでいますが、この副題が「資産価値の経済学」とあり、この資産価値が株価と密接に関係するので、先ずはそれを知りたいと思いました。
 資産価値というのは、この本によれば、「将来時点で初めて手に入る所得や便益の一連のフローを、それと等価な現在すぐ手に入る金銭の価値に直して表現したもの」ということで、それが株価に直接影響します。
 この本で、久しぶりに数式の伴う経済学理論に触れましたが、やはり数式にするといかにも論理的だと思ってしまいます。でも、数式はあくまで理論付けを簡略化するための方法で、数学ではないようです。でも、本をパラパラとめくったとき、経済学の本なのに複雑な数式が見えたりすると、やはり敬遠する方が多いのではないかと思います。そこで、この本では、巻末に補注として掲載してあり、これも多くの方々に読んでいただく一つの方法かな、と思いました。
 ただ、経済のなかで不確定さを考える場合、経済学では、「不確実性とは、文字どおり何が起こるかの予想がまったくつかないことをさす。それに対して、リスクというのは、将来の収益が少なくとも平均値としてはいくらぐらいと予想できることを前提としたうえで、その平均値のまわりのばらつきの大きさをさしていう概念である」と分けますので、その違いははっきりと区別して考えなければなりません。
 では、『株とギャンブルはどう違うのか』という結論は、下に引用した通りですが、庶民感覚からすれば、ギャンブルとは違うと思っても、ギャンブル的要素を多分に含んでいるように思えます。まあ、それがあまり株に親しんだことのない人の多くの意見のような気がします。だから、逆に考えれば、このような本が書かれたのかもしれません。
(2008.11.13)

書名著者発行所発行日
株とギャンブルはどう違うのか(ちくま新書)三土修平筑摩書房2008年9月10日

☆ Extract passages ☆

 株式というものは、将来収益が不確定であるという意味でのリスクを含むだけでなく、時には・・・・・・「ババ抜き」的な所得移転をも引き起こすという意味で、ギャンブルに酷似した要素も含んでいるわけである。そのためか、わが国では、株は堅実な庶民が手を出すものではないというイメージが、戦後も長らく支配的であった。
 しかし、「株はギャンブル」と言い切ってしまうのは、誤解である。純粋なギャンブルならば、それはゼロ・サム・ゲーム(利得の総和はゼロで、正の利得を得た者がいればかならず同額だけ損失をこうむった者がいるゲーム)だが、株はそうではない。
 株式は、多くの銘柄に分散投資するだけの資金力のある人が買った場合には、銘柄ごとの含むリスクをある程度相殺することができて、全体としてのリスクを減らしつつ、大きな収益性を確保できる。また、短期間の損益だけをみれば、大きくプラスマイナスに振動するとしても、長期間所有しっづけた場合には、期間ごとの損益がこれまた相殺される効果が生じるから、収益性は安定してくる。その収益性を、配当利回りとキャピタル・ゲイン率の和で定義するなら、例の基本方程式にしたがって、市場利子率にリスク・プレミアム率を加算した値ぐらいは期待できるのだ。

(三土修平著『株とギャンブルはどう違うのか』より)




No.306 『おぐのほそ道』 

 この題名では、何が何だかわからないでしょうが、これは松尾芭蕉の『奥の細道』を思いっきり山形弁(んだんだ弁!)で綴り、朗読したものです。ですから、CD BOOK の体裁をとっています。おそらく、山形県人以外の方にはわかりにくいでしょう。同じ山形県内に住んでいても、このんだんだ弁(尾花沢弁)はちょっとわからないところもあります。
 でも、方言の温かさみたいなものが伝わってきます。ですから、この本を読んだ、というよりは、この本を聞いたという感じです。
 「はじめに」にも書いてありますが、『もしも、芭蕉が『おくのはそ道』の旅を、山形弁でお兄さんに「語ったら」どうなるのだろうか。というのが、このCDブック制作のそもそもの発端です。芭蕉は曾良とともに山刀伐峠を越え、元禄二年(一六八九)五月十七日に尾羽根(現・山形県尾花沢市)に入りました。今の七月三日にあたります。ここで芭蕉たちは、紅花商人の鈴木清風たちに大歓迎され、清風宅や養泉寺に十泊も滞在しています。きっと居心地がよかったのでしょう。そして周りには楽しげな尾花沢弁が飛び交っていたに違いありません。それなら、いっそ芭蕉に尾花沢弁で『おくのはそ道』の旅を語ってもらおうじゃありませんか!芭蕉さんもびっくりするやらあきれるやらでしょうけれど、ここはひとつ大いに語ってもらって、楽しませてもらいましょう。』ということで、この本が作られたようです。この発想は、まさに地方の時代であり、どっかの政府のかけ声だけのものとはだいぶ違い、現実味があります。
 今まで、何度か『奥の細道』を読んだことがありますが、そのなかでも、最上級のおもしろさでした。しかも、音声で聞くと、そのおもしろさが直接伝わります。これは、ぜひ、山形県内の方々には読んでいただきたいと思いました。そして、さらに各地の方言版ができれば、それこそ文化財的な資料になりうるとも思いました。
 もし、そこまでできなければ、『奥の細道』の道中のその場所の方言で語る、なんていうのもおもしろいのではないかと勝手に想像してしまいました。
(2008.11.10)

書名著者発行所発行日
おぐのほそ道大類孝子/訳・朗読、山口純子/訳、上川謙市/編彩流社2008年7月31日

☆ Extract passages ☆

 何だがよぉ、考えでみっどな、月日なの俺達が生まっで来るしょっでんがら、ずーっと旅すてるみでぇなもんだなぁ。ほれどころがよぉ、今がら先だてもずーっと歩ぎ続げで行ぐ旅人だべ。
 歳だてよ、一年が終わったがど思うど、すんぐぇ新すぃ年が来っべ。行っちゃ来、行っちゃ来、ずーっと歩ぎ続げでんべ。んだからよ、月日も年も旅人なんだず。
 俺達だて、時間の旅の中で生ぎでんださげて。船乗りも馬子も、毎日毎日が旅だべ。こがえすと暮らすながら年ば取って行ぐ。言ってみっど、旅ほのものが栖ど言う事なんだなぁ。
 昔の人もたぁんと旅の中途で死んだべ。
 何時がらだべなぁ、俺も、ほだいな人達みでぇに当でもねぇ旅さ、何ったって行ってみっだくなってよぉ。

(大類孝子訳と朗読『おぐのほそ道』より)




No.305 『日本人の背中』 

 副題が、「欧米人はどこに惹かれ、何に驚くのか」とあり、世界90カ国の外国人が購読する『HIRAGANA TIMES』を創刊した著者が、それに答えてくれるのがこの本です。ですから、自らが体験したことが綴られ、とてもわかりやすい日本人論でもあります。
 もちろん、日本人のここがきらいだとか、ここがまったくわからない、ということもあるでしょうが、それよりも日本人の良さに触れるところがたくさんあり、意外と自分では意識していないところが見えてきます。やはり、自分たちのことを知るには、外国の人たちの目を通して見ることが分かりやすいと思いました。
 また、「英語圏の若者と陸続きのヨーロッパを旅していると、国境を越えるや、次の国に到着する前に、みんながガイドブックを開いて 「ありがとう」 「こんにちは」 などの挨拶を現地の言葉で覚えていることに気づきました。」とありますが、実は私もそのような経験をしたことがあります。たった数個のフレーズを覚えただけでも、旅が楽しくなり、いい思い出をたくさんつくれました。今でも、メールなどをいただきますから、外国語を恐れず、チャレンジしてもらいたいと思います。
 そして、その外国から日本を見たり、自分自身のことを考えたりすると、意外と客観的に見えてきます。それが旅に出た良さでもあります。日常のなかに埋没していると、その日常の煩雑さに押し流されてしまいます。ややもすると、自分自身を見失ってしまうこともあります。
 この本は、そのような気持ちになったときも、いろいろと教えてくれるようです。
(2008.11.06)

書名著者発行所発行日
日本人の背中井形慶子サンマーク出版2008年3月15日

☆ Extract passages ☆

 欧米人は他人と意見が食い違うと、なぜ相手がそう考えるのか、がぜん興味をもち興奮します。他人と違う意見をもつことは、素晴らしいことだと考えるからです。他人と違う反応、他人と違う興味を言葉や表情で示すことは尊いこと。たとえそれが特異なものであっても、物言わぬ人よりはるかに評価されるのです。
 オリエンタルマスクに慣れたある在日フランス人は、何を考えているかわからないほうが日本でつつがなく生きる最良の方法だとしながらも、次のように言いました。
「僕が育ったフランスでは親にも教師にも正直に生きろと教えられた。けれど日本では自分の思ったことを言うとたいていトラブルになる。むしろ口数少なめな人ほど、『言い訳しない、立派な人』と思われ、男らしいと言われる。だから僕は誰と話すときも、『ナルホド』を繰り返す。この国では意思を捨て嘘つきになるか、思ったことを口にして嫌われるか、どちらかを選ばなくてはいけないんだ」

(井形慶子著『日本人の背中』より)




No.304 『カレンダーから世界を見る』 

 この本は、白水社の「地球のカタチ」シリーズの1冊で、カレンダーをとおして世界にあふれる「ちがい」を楽しもうというものです。
 そういう意味では、暦やカレンダーがない世界というのは考えられませんし、その違いが下に抜き書きしたような文化の違いになるのでしょう。著者は、このような学問を「考暦学」としています。
 この違いを初めて知ったのは、ネパールに行ったときです。たしか4月上旬だと思いますが、正月の行事をしていました。日本では考えられないことですが、ネパール暦では、それが当たり前なのです。そういえば、世界中に13億人以上もいる人々が使っているイスラーム暦でも、西暦とは違い、1年が11日ほど短くなっています。だからラマダーンと呼ばれる断食月も変わっていき、冬のときも夏のときもあるわけです。でも、彼らにとってはそれが当たり前ですから、西暦で考えようなんてことは絶対にありません。それでも貿易などで世界中の人たちと交流している人は、もちろん西暦で日にちを見ています。
 著者は、『今日、「文明の衝突」というような議論がでていますが、その妥当性を吟味する場合にも暦は役立つはずです。なぜなら、カレンダーを見るかぎり、衝突よりもむしろ「文明の共存」がはかられているからです。この場合の文明とは、統合原理としてのシステムと言っていいでしょう。』といっていますが、ここに世界中の人々が仲良くできるカギがありそうです。
 もし、これらのカレンダーに興味を持たれたら、『国立民族学博物館のホームページ』の所蔵資料のデータベースにカレンダー約2,100点の画像と情報にアクセスすることができるそうなので、参考にしてみてください。
 たしかに、カレンダーには興味を引く多くの資料があります。
(2008.11.03)

書名著者発行所発行日
カレンダーから世界を見る中牧弘允白水社2008年7月28日

☆ Extract passages ☆

 カレンダーに表現されている情報はいろいろな文化と複雑に結びついています。文化には民俗文化から国民文化まで、あるいは宗教文化から大衆文化まで、さまざまな生活様式を含んでいます。民族文化もあれば、企業文化もあります。芸術性の高いものもあれば、政治性の濃いものもあります。カレンダーをとおして文化を理解する窓口を確保しょうとする研究をわたしは「考暦学」と称しています。「考暦学」とは考古学にならい、暦を考える学というほどの意味です。暦の文法ともいうべき暦法だけでなく、絵や写真や広告を含めた情報発信のメディア(媒体)としての暦(カレンダー)が対象となります。

(中牧弘允著『カレンダーから世界を見る』より)




No.303 『病気が逃げ出す生き方』 

 この本はとてもおもしろく、一気に、そして何度も読み返しました。
 著者の安保徹氏と石原結實氏とが、それぞれを担当し、それを補完し合いながら書き進めています。現在の医学はめざましく発展し、とても素人には分かりにくいのですが、それをとてもわかりやすく解説し、しかも今まで培われてきた経験や習慣をもう一度見直し、自分自身の体の「声」にも耳を傾けようということです。
 それを安保徹氏は、「そもそも生命体というのは、ある程度のストレスを前提にして生きています。たとえば、食べ物の中にも微量の毒はあるわけですね。そうして毒がある程度入ってきてはね返すというのが生命を維持するための前提条件なのだと思います。無農薬、化学肥料もなしの無毒な健康食品を食べていたため、逆に体がひ弱になった人たちの存在を見てしまうと、「微量毒=活力」というのは説得力があります。」といいます。本当にその通りだと思います。なんでも、ほどほどが大切で、どちらか両極端に走るようでは、大きな問題も出てきます。これは、とても考えさせられることでした。
 下に抜き書きした薬に関してもそうですが、なんでもかんでも薬に頼ってばかりでは、自然治癒力を発揮できなくなるばかりではなく、その力すらそげ落とすことになりかねません。まさに、薬を逆に読むとリスクで、そこには取りかえしができないような危険が潜んでいるかもしれません。
 いつも抜き書きをしながら読んでいるのですが、今回は20箇所以上も書き留めました。それだけ印象深い箇所があったということです。
 もし、健康に関心のある方なら、ぜひお読みいただきたいと思います。まさに、目から鱗がはがれます。
(2008.10.31)

書名著者発行所発行日
病気が逃げ出す生き方安保徹・石原結實講談社2008年5月30日

☆ Extract passages ☆

 薬は昔からよく「クスリを反対から読むとリスクになる」と冗談のように言われています。しかしこれはある面、非常に的を射た言葉でしょう。
 必要な時にパッと使ってパッとやめる。これが薬の本当の使い方だと思いますね。高血圧の薬を何年、何十年と使っていたら、それはおかしくなりますよ。薬という異物を最終的に解毒しなければならない肝臓とか腎臓がやられてしまいますからね。でも、そういった薬の服用自体がどういった影響を及ぼすのかという研究はあまりないのです。・・・・・・
 薬には、説明書に「LD50」と書いてあります。Lethal Dose、これは致死量という意味なのです。ネズミの実験で、ネズミ100匹にその薬をずっと与えていって50匹が死ぬ薬の量をLD50といいます。これを人間の体重にあてはめれば人間の致死量がおおよそわかってしまうわけですね。これは風邪薬にも胃薬にも書いてあります。すなわち、どこにでも売っている市販の薬でも飲みすぎると死ぬのです。(石原結實)

(安保徹・石原結實著『病気が逃げ出す生き方』より)




No.302 『少年院のかたち』 

 著者の毛利甚八氏は、中津少年院の篤志面接委員をきっかけに、財団法人・矯正協会の『刑政』に連載することになり、そのなかで多くの法務教官と出会い、少年院を見つめ続けてきたようです。
 ちょうど、折も折、10月10日にある少年院を見学する機会があり、それを思い出しながら読むことができました。そこで講義をしていただいたなかに、少年院ではいろいろな矯正活動をしているが、大きく2つあると聞きました。この本のなかでも、「少年院には、その教育に2つの大きな柱があるようだ。1つは行進や点呼などに見られるカタチに異様にこだわる様式性(ある意味での強制力)。いま1つは授業や寮生活を通じて法務教官が少年1人ひとりの内面に日常的に寄り添い、デリケートな関係を保ち続ける親密性だ。どちらも、良かれ悪しかれ今の日本に欠け落ちている要素である。少年たちは、食事も風呂もおしゃれも娯楽も、おしゃべりさえも厳しく制限された暮らしを1年、2年と過ごす。そして法務教官という古風で男臭い人々と、みずからの家族関係を語り合ったり、内観療法やロールレタリングという心理技法を通じて自分の内面と向き合ったり、職業補導を通じて仕事のひな型を体験する。」とありますが、そのようでした。
 この本の構成は、第1部が「育ち直しの歌、少年よ ウクレレを抱け!」で、著者と少年院の関わりを綴ったもの、第2部が「法務教官インタビュー 法務教官という生き方」で、9名の法務教官にインタビューしたことを綴ったもの、そして第3部が「小説 法務教官・深瀬幸介の休日」というものです。
 いずれも、法務教官や少年院に収容されている少年たちとの情愛こもる内容で、読んでいて共感できる部分が多々ありました。もし、機会があればお読みください。
(2008.10.27)

書名著者発行所発行日
少年院のかたち毛利甚八現代人文社2008年7月30日

☆ Extract passages ☆

 ここ10年ほど少年たちの心が変わってきていると幸介は感じていた。多くの少年たちは自尊心が高く、みずからのプライドを守ろうとする意識が強い。それに比べ、他人の感情を自分に重ねようとする共感 能力は薄い。少年たちの心は小さな密室のように狭苦しく、他人が上がり込む玄関やリビングルームを持っていない。少年たちはひとりよがりな密室の壁を、内側から厚く塗り込めることは知っているが、自分の部屋の構造そのものを他者との情報交換を通じて強靱に組み立て直していくという回路を持っていないらしいのだ。

(毛利甚八著『少年院のかたち』より)




No.301 『iPS細胞ができた!』 

 この細胞に関する研究の困難さは、人的な障害、たとえば韓国の黄教授の捏造問題やアメリカのブッシュ大統領がES細胞での研究を拒否権を行使してまで強行に反対したりと、いろいろありました。だから、山中伸弥教授も、この研究成果を発表するときには、友だちだと思っていた人に嘘のように思われたり、学会で袋だたきに遭うとまで考えたそうです。それでも、このiPS細胞は誰でもそれなり研究設備が備わっていればできるそうで、すぐにアメリカの二つの大学で追試に成功し、これは本物だと脚光を浴びるようになったのだそうです。
 それ以降は、新聞などでも取り上げられましたから、ご存知の方も多いと思います。もともとは外科医だそうですが、お父さんの影響などもあり、コツコツとたたき上げる研究の道に進まれました。「自分で工夫してやる」、それにあこがれたそうです。
 この本は、畑中正一京大名誉教授がiPS細胞をつくられた山中伸弥教授と対談し、万能細胞のひとつであるiPS細胞のすばらしさを聞き出すという設定になっています。
 本のなかで山中教授は、「イモリは手を切ったら骨まで生えますから。やはりちょっとした違いで再生能力がすごいんですよ。で、イモリと人間って、けっこう遺伝子が一緒なんですよ。・・・・・・どうしてイモリができて人間ができないのか、人間も切断して骨生えてきたら、こんないいことないじゃないですか。」と話しておられますが、まったくその通りです。医学の発展に相当寄与できるのは間違いありません。
 ただ、それが人間の幸せにすぐ結びつくかどうかは、分かりません。私的には、自分に与えられた体を、そのまま全うできればいい、病気や怪我をしたら、治ればいいし、治らなければそれも仕方ないと思っています。ちょっと水を差すようですが、それが一番自然で素直な生き方のような気がします。
(2008.10.24)

書名著者発行所発行日
iPS細胞ができた!山中伸弥・畑中正一集英社2008年5月31日

☆ Extract passages ☆

畑中正一・・・・・・ES細胞は1個の受精卵から完全な個体を作り得るわけですから、それは細胞としては万能であると。それとほぼ同じような細胞をお作りになったと。それがiPS細胞であるということだと思うんですが。
山中伸弥・・・・・・ES細胞1個からは、個体はできません。厳密にいうと、受精卵は全能性で、ES細胞やiPS細胞は多能性です。一般の方向けにはES細胞は万能細胞と呼ばれていますが、正確には多能性細胞です。

(山中伸弥・畑中正一著『iPS細胞ができた!』より)




No.300 『息の発見』 

 この本は、書き下ろしエッセイとトークで構成されていて、とても読みやすく、難しいテーマですがなんとか理解できました。
 五木寛之氏の本は、『百寺巡礼』(全10巻)や『五木寛之 21世紀・仏教への旅』などのシリーズ本はほとんど読んでいますし、この『ホンの旅』でもときどき取り上げています。また、玄侑宗久師は臨済宗寺院の住職として文筆活動をしているマルチな方です。その対談ですから、話しもあちらに行ったりこちらに来たり、パッと飛んだりととても楽しいものでした。
 さらに、様々な呼吸法も紹介していますが、結局のところ、万人に合うものはなく、それぞれに試行錯誤しながら見つけ出すしかないということで落ち着いています。それにしても、「息」ということをたった2日間の対談でこれだけまとめ上げるというのは、やはりすごいことです。多方面に話しが及んでいますので、ぜひ機会があればお読みいただきたいものです。
 下に引用したのは、息についてのお釈迦さまの言葉です。何気なく、あるいは無意識で息をしているのかもしれませんが、やはり息ができるということは生きているからです。生きていることを実感するためにも、息は気づきながらすべきものなのでしょう。
(2008.10.21)

書名著者発行所発行日
息の発見五木寛之・玄侑宗久平凡社2008年10月6日

☆ Extract passages ☆

 「息を吸うときには、息を吸っている自分に気づこう。吐いているときには、吐いている自分に気づこう。歓びを感じながら息をしよう。心を感じつつ、心を静めて呼吸しよう。心を安定させ、心を自由にとき放つように息をしよう。そして、無常を感じ、生の消滅を感じ、自己を手放すことを意識しつつ呼吸しよう」

(五木寛之・玄侑宗久著『息の発見』より)




No.299 『篆刻入門 実例500』 

 この篆刻も私の趣味の一つで、冬などの比較的時間がとれるときにしています。なかなかおもしろいもので、素材が石なので自分の思い通りには彫れず、欠けたりします。それがまた、雅味があったり、思いがけない印になったりもします。
 そのような篆刻の実例を、500も掲載されています。一つ一つ見ているだけで、楽しいものです。このような印を彫ってみようかとか、こんな印もあるのかなど、それなりの想像をふくらませることができます。
 そもそも印というのは、「印を使用する目的は、信を保証し、機密を守り、器物の所有を主張することにあります。」とあり、「紙が後漢時代に蔡倫により発明される遥か以前から使用され存在して」いたようです。だから、印は一つの文化ですし、ある意味では芸術であるのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、篆刻をする際の心構えみたいなものですが、たとえ欠けたとしても「印面に咲いた花だと思えばよい」というあたり、たしかにその通りだと思いました。
 もし、篆刻に興味がありましたら、参考にしてみてください。
(2008.10.18)

書名著者発行所発行日
篆刻入門 実例500關正人監修、遠藤彊著天来書院2008年4月30日

☆ Extract passages ☆

 初心者の場合、手を怪我してしまわないように、また欠けたりはみ出したりしないようにと、なかなか思い切り刻すことができないようです。ビクビクと刻すと、それが作品に反映され勢いのない弱い作品に なってしまいがちです。
 日本の印人山田正平は、刻しているときの欠けなどは、印面に咲いた花だと思えばよいと言ったそうです。皆さんも、そのくらいの強い気持ちで、思い切り刻して生命力のある強い作品をめざしてほしいと思います。

(遠藤彊著『篆刻入門 実例500』より)




No.298 『生きるとは、自分の物語をつくること』 

 本文の1ページ目の最初に、河合隼雄氏が、「『博士の愛した数式』(新潮社)を読ませていただきました。」とあり、それだけでこの本を読み始めました。それだけ、『博士の愛した数式』の映画の印象が強かったのだと思います。そして、読み進めるうちに、映画のシーンがよみがえってきました。河合氏は、昔、奈良育英学園高校で数学を教えていたことがあるそうで、ルートという若き数学教師の姿とダブって見え、それが感激に結びついたのかもしれません。
 また、この本の題名にも、興味をひかれました。自分もときどき、そのように思うところがあったからです。それを、ある人は絵を描くように生きたいと言ったりもするのですが、数式のようにはっきりと割り切れないのが人生でもあります。それを、無理矢理割り切ろうとするところから、多くの間違いが生まれてきます。それを物語化することによって、なんとなく折り合いを付けてしまう、それも必要なことだと思っています。
 残念なことに、河合氏は2007年7月19日に逝去されましたが、あの独特の語り口や物事の進め方など、とても印象深い臨床心理学者でした。とくにユーモアに富み、自称「日本ウソツキクラブ」なるものの会長さんですから、それも当然といえば当然なのかもしれません。
(2008.10.15)

書名著者発行所発行日
生きるとは、自分の物語をつくること小川洋子・河合隼雄新潮社2008年8月30日

☆ Extract passages ☆

 人は、生きていくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を、必ずやっていると思うんです。小説で一人の人間を表現しょうとするとき、作家は、その人がそれまで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、お話の形で取り出して、再確認するために書いているという気がします。
 臨床心理のお仕事は、自分なりの物語を作れない人を、作れるように手助けすることだというふうに私は思っています。(小川洋子)

(小川洋子・河合隼雄著『生きるとは、自分の物語をつくること』より)




No.297 『マインドセット ものを考える力』 

 経済学者のP.F.ドラッカーは、20世紀最後の数年は「不連続的変化」の時代といいましたが、今もそれが続いているようです。だとすれば、この不連続で不確定な時代を生き抜くには、この大きなうねりを読む力が必要になってきます。その未来を読み解くものの考え方、それがマインドセットであり、この本で提唱している11のマインドセットを使うことの有用性を示しています。
 よく、「未来予測」に関する本が出版されていますが、それとは違い、未来を分析するのではなく、しっかりしたものの考え方を手に入れることにより、時代の変化を見つけることです。いわば、そのチャンスをいかにつかむかということでもあります。
 ジョン・ネスビッツは『メガトレンド』、『メガトレンド2000』など数冊の本を出しているだけでなく、世界各地で講演や講義をしているそうです。その活動のなかで徐々に考え出されてきたのがこの11のマインドセットであり、とても有効なスキルです。
 第一部はそのマインドセットものの考え方を説明し、第二部「未来図」では、その応用編ともいうべき位置づけで、実際にマインドセットを使って世界を読み解くという構成になっています。もちろん、時代は日々動いています。書かれたのが2006年ですから、少しは違う方向に動いているものもあります。ただ、マインドセットものの考え方そのものはこれからも使えるはずです。
 興味がありましたら、ものの考え方の一つとして、お読みいただければと思います。
(2008.10.12)

書名著者発行所発行日
マインドセット ものを考える力ジョン・ネスビッツ著、本田直之監訳ダイヤモンド社2008年5月15日

☆ Extract passages ☆

 未来は・可能性と趨勢と出来事とゆがみと回転と前進と驚きの集合である。未来のジグソーパズルも、個々のパーツはすべておさまるべき場所におさまるだろう。
 未来がどんな絵になるか知りたいなら、ピースを一列に置いてもだめだ。互いにぴったり合うパーツを見つけなければならない。まず、常に不変のパーツ、あなたの土台となるものがある。それから、テーマに関係のある、つまりあなたが焦点をしぼっているパズルに関係のあるピースを選び出し、どちらの側が合い、互いに完全なものになるかを調べる。何度もやり直さなければならないだろうが、一列に並べたときにはまったくつながりがなさそうだった出来事でも、適合するパートでつながると首尾一貫したものになる。アインシュタインも天才の単純さで「熟れた果実」を選び集め、それらを適切な位置に置いたのである。

(ジョン・ネスビッツ著『マインドセット ものを考える力』より)




No.296 『フォト・リテラシー』 

 写真の用語でもっとも知られているのは、「決定的瞬間」ではないかと思います。これは、カルティエ=ブレッソンの写真集のタイトルから生まれたものですが、このタイトルにもおもしろい物語が秘められています。そういえば、写真月刊誌の「CAPA」2008年10月号の「今、スナップ写真が面白い!」のなかでも、このカルティエ=ブレッソンの写真集と写真を取り上げています。写真好きにはたまらない記事ですから、興味があれば見てみてください。
 さて、本題に入ると、まず、題名の『フォト・リテラシー』とは、著者の定義によると、「市民が写真メディア(特に現実を報道する役割を担う写真)を、芸術史的および社会的文脈の双方でクリティカルに分析し、評価できる力、延いてはその知識と倫理をもって、一方で歴史認識を精練し、他方で現在における多様なコミュニケーションを創り出す力を指す。」といいます。どうも、比較文化専攻だからというわけではないのでしょうが、わかりにくい定義です。
 もし、ちょっと理解できなければ、直接この本を読んでいただくしかないわけですが、「写真を読む」ということの難しさを多方面から解き明かそうとしています。たとえば、決定的瞬間といっても、その1枚の写真はいろいろな角度から選ばれた1枚です。それを「写真は選択の芸術」だとしていますが、その理由を、次のように取りあげています。ここでは、アナログカメラの銀塩写真の場合ですが、
 (1) 現実を、ファインダーで切り取る。
 (2) ネガフィルムからコンタクトシート(密着印画)を作成し、その中から焼き付けに回す画像を「選ぶ」。
 (3) プリント時に、トリミングなどをして、映像の構図を「選択」する。
 (4) さらにプリント時には用紙の種類や大きさ、濃淡や諧調など、あたかも版画制作のような微細な作業と美的判断、つまり美的「選択」が介入する。
 (5) 写真が展覧会に出品される時の作品「選別」。
 (6) 写真が雑誌や写真集に掲載される時には、再び印刷工程が介在し、さらにページ内での位置や順序、キャプションの有無などの「選択」がなされる。
 といいます。今のデジタルカメラの場合は、(2)が省略されるだけで、あとはほとんど同じようなものですから、これらを考えると、たしかに選択の芸術だと思いました。
 こうして、写真というものを改めて考えてみると、自分では気づかなかったことがいろいろとありました。もし、写真が好きなら、ぜひお読みいただきたい1冊です。
(2008.10.08)

書名著者発行所発行日
フォト・リテラシー(中公新書)今橋映子中央公論新社2008年5月25日

☆ Extract passages ☆

写真家(あるいは雑誌の造り手)たちは、無意識のうちに、観る者たちが 「見たい」と思う欲求に従って、取材対象を選択することは、十分あり得るだろう。その際、演出写真であるかないかは、実は全く関係ない。あえて単純化して言えば、エロスに関わる映像も、恋人たちの閥歩するパリ写真も、悠久の大地インドの映像も、野生の息づくアフリカの象たちの写真も、その事態に何ら変わる所はない。もしそうした循環が安易に続くならば、つまるところ私たちは見たいと思っているものだけを見ていることになってしまうだろう。写真における「真実」とは、究極的にここまで、撮る者と観る者との共犯関係の中で成立しているのだ。

(今橋映子著『フォト・リテラシー』より)




No.295 『子どもはなぜ「跳び箱」を跳ばなければならないのか?』 

 あるテレビ番組で「お受験」というのがあったそうですが、それは有名私立幼稚園に合格させるための悲しくもユーモラスな顛末記だったようです。この有名幼稚園や小学校に毎年高い合格実績を持つジャック幼児教育研究所の理事をされているのが、この本の著者です。したがって、題名からもわかるように、副題にも『幼稚園児を持つ親必読の「ジャック式」教科書』とありました。
 たしかに、これから子育てをする両親には、とても参考になりそうです。もし、これからもう一度小さな子を育てなければならないとしたら、これをやってみたい、これもやらせてみたい、と思いました。
 題名の「なぜ?」は、下の抜き書きに記してありますが、これ以外にも、「受験に限らず、何かに挑戦すれば、必ず成功が待っているわけではありません。つまり、それ相応の覚悟を持って臨まなければ、何もできないということです。しかし、だからといって、負けるのが嫌だから試合に出ない、落選するのが嫌だから展覧会に絵を出さない、不合格になるのが嫌だから試験を受けない、倒産するのが嫌だから起業しないでは、何も始まりません。人生とは、立ちはだかる跳び箱の連続です。勇気を出して次々と現れる跳び箱に全力で向かっていかなければ、前へは進めません。」とあり、まさに跳び箱はチャレンジする勇気を測るものかもしれません。
 そういう意味では、この本は、成功するためのハウツー本でもあります。
(2008.10.05)

書名著者発行所発行日
子どもはなぜ「跳び箱」を跳ばなければならないのか?大岡史直小学館2008年6月21日

☆ Extract passages ☆

跳び箱を跳ぶにはちょっとした勇気が必要です。みなさんも覚えがあると思いますが、跳び箱というのは、前方に立ちはだかる高い箱に向かって勢いよく走って行って、「えい、やー」で跳び越える競技。スタート前には「跳べるかなあ、大丈夫かなあ」とドキドキするし、怖気づくことだってあります。しかも失敗すれば、多少は痛い思いもしなければなりません。運動能力が高くても、度胸のない子は失敗する。そ れが跳び箱なのです。
 教育には、必ず目的があります。
 では、跳び箱の目的は何かといえば、そこには間違いなく、度胸、すなわち胆力の養成があるのです。

(大岡史直著『子どもはなぜ「跳び箱」を跳ばなければならないのか?』より)




No.294 『パリ音楽散歩』 

 おそらくフジコ・ヘミングを知らない音楽愛好者はいないと思いますが、まさにピアニストをあきらめきれずに必死にしがみついてきて、ついには1999年に発売されたファーストCD『奇跡のカンパネラ』で知られるようになってきたようです。また、テレビでドラマ化された半生記で初めて知ったという方も多いかと思います。
 自分でも、「回り道をしたおかげでたくさんのことが経験できて、今、私の奏でる音になっている。」といいますから、ピアニストになる希望を待ち続けたことがよかったようです。
 「遅くなっても待っておれ。それは必ず訪れる。」
 これは聖書の言葉だそうですが、まったくその通りになったようです。
 この本は、著者自身が住んでいるパリの街を、音楽家などのエピソードを交えながら、案内するという筋立てになっています。写真も所々に載っていて、とても親しみある語り口で書いていますから、読みやすいと思います。また、パリ案内のガイドブックにもなるかもしれません。
 私は、フジコ・ヘミングのCDを聴きながら読みましたが、それもありです。もし、近くで演奏会でもあるなら、ぜひ生で聴いてみたいとも思っています。
(2008.10.03)

書名著者発行所発行日
パリ音楽散歩フジコ・ヘミング朝日新聞出版2008年7月30日

☆ Extract passages ☆

 (ドビュッシーは、)詩人のヴエルレーヌやボードレール、マラルメ、それに画家のワトーなどからたくさんのインスピレーションを受けて曲を完成させていった才能はやっぱり素晴らしい。彼は「音楽はこの世で最も美しい表現手段」と言っているけど、私もそう思っている。私が子供のころにピアノを弾くと最初に感じたのは、音楽の旋律ではなくて色彩だったのね。今も音のひとつひとつに色をつけるように弾くことを大切にしているの。テクニックで弾くより豊かな色を奏でたいから。

(フジコ・ヘミング著『パリ音楽散歩』より)




No.293 『父親--100の生き方』 

 昔は「地震 雷 火事 親父」と言って、それなりの怖さと権威があったように喧伝されていますが、さて、本当なんでしょうか。著者も、そのような見地からこの本を書き進めたようです。
 著者はあとがきのなかで、「一冊を読んで、なるほどと親子関係に思いを寄せ、次の自伝で新しい親子に出会い、それをどう考えたらよいか悩む。そうした形で100人の父親と子どもの関係をたどり、まとめ たのが本書である。」と書いています。そういえば、以前、同じ著者の『昭和の子ども生活史』という大著を読んだことがありますが、それが下地になっているような気がしました。
 この本を読みながら、いい父親とはなんだろうかと考えましたが、結論らしきものはでませんでした。下に抜き書きしたように、経済的な支えはもちろん大事でしょうが、これだって多くあればいいというものでもなく、やはり、「父親のまじめに働く姿勢が大事になるのではないか」という部分が目を引きます。
 では、今の時代に、ただまじめに脇目もふらず働くことがすべていいのかというとこれも問題がありそうです。『父親--100の生き方』を読んで、最後は父親が自分なりの生き方を崩さなかったということが大きな支えになっているような気がしました。それが仕事であれ、地域の活動であれ、あるいはボランティアであっても、その姿勢に一貫性があるということです。もっと簡単にいえば、子どもたちが自慢したいような父親とか、あるいは誇りに思えるような父親とか、そのような感じです。
 昔のように、「地震 雷 火事 親父」のような威厳のある強い父親でなくても、いや、そのような父親は時代遅れかもしれませんが、仕事と家庭をうまく両立させられる父親が求められているようです。いやはや、父親になるのも、大変な時代です。
(2008.10.01)

書名著者発行所発行日
父親--100の生き方(中公新書)深谷昌志中央公論新社2008年6月25日

☆ Extract passages ☆

生活できないような貧しさでは困るが、経済的に豊かになったからといって子どもがうまく育つわけではない。生活できる程度のほどはどの豊かさがあればよい。そう考えると、父親は稼ぎの多少にこだわる必要はないように思われる。今より収入が増えれば、家族は好きなものを買えるようにはなる。だからといって、子どもがうまく育つわけではない。ある程度の我慢を強いられ、それを突き破る過程を通して子どもは成長する。そう考えると子どもの成長にとって、稼ぎの高より、むしろ、父親のまじめに働く姿勢が大事になるのではないか。

(深谷昌志著『父親--100の生き方』より)




No.292 『男読み 源氏物語』 

 今年は『源氏物語』の作者の「紫式部日記」から推定すると、書かれてちょうど1,000年にあたり、多くの関連する出版が相次いでいるようです。今までの多くが、どちらかというと女性の立場や視点から見たものが中心で、あえて「男読み・・・・・」とするあたりが斬新であります。
 そして、このアイディアのもとは、「光源氏のここに学べ『できる男』の処世術」というコラムがAERAに掲載されたものだそうです。たしかに、読んでみると、そのような視点が感じられ、今まで以上に『源氏物語』が身近なものになってきました。しかも、今月3回開催された「第19回 古典文学講座」では「光源氏の生涯 価値紊乱の光と影」が取り上げられたこともあり、系図や寝殿造りの様子などを参照しながら読み解きました。
 なににでも、流れやきっかけがあります。その意味では、『源氏物語』が書かれて今年で1,000年というのは、大きな一つの出来事です。だからこそ、関連する展示会や展覧会などの行事も多いのでしょうから、せっかくのこの機会を見逃す手はありません。せいぜい利用すべきです。
 そして、この本との出会いは、『源氏物語』はいろいろな読み方ができる、それを教えてもらいました。
(2008.09.29)

書名著者発行所発行日
男読み 源氏物語(朝日新書)高木和子朝日新聞出版2008年7月30日

☆ Extract passages ☆

 忠誠を貫いた惟光や良清と、貫けなかった小君と----。『源氏物語』は時流に乗って華やぐ方へと心を移ろわせる人々のことを、繰り返し措く。そして、初心を貫き、忠誠を守り続ける部下や女に、その報奨として幸福な未来を与えるのだった。だが、初心を貫けず、浮薄に時の勢力に靡く人々を、だからといって厳しく弾劾するわけでもない。それもまた、人の世のやむを得ぬ次第と、受けとめているようだ。
 この物語には、人々の多様な生き様を、ふところ深く抱きとめるような、ある種の豊かさがある。

(高木和子著『男読み 源氏物語』より)




No.291 『日本の「伝統」食』 

 副題に「本物の食材に出会う旅」とあり、フォトジャーナリストの著者が味わい歩いた記録でもあります。しかも、食材の基本中の基本、塩や味噌、醤油、酢、みりん、ごま油、和三盆、鰹節、昆布、だしの素など、さらには野沢菜漬けや奈良漬け、梅干し、納豆、豆腐、野菜を訪ね歩きます。
 とくに興味を引いたのは、調味料としての食材です。京都の村山造酢の村山さんが、「お酢は主役じゃないのです」と言ったそうですが、だからこそ、料理の引き立て役としての存在感があるのでしょう。出しゃばらず、ほかのものを殺さず、調和を保つ、それが大切なのかもしれないと感じました。
 それと、「だしの素」って、なんか簡易調味料みたいなものかと思っていたのですが、今日との「うね乃」というところで作っているインスタントものだそうです。それでも、パック詰めされた中身は、「枯節、つまり黴付けしたものと鰹ふし、されていないもの(共に鹿児島の枕崎産)と大分産の椎茸、そして、北海道は利尻の昆布だけ」というからスゴイものです。しかも、その原料も自分自身で買い集めてくるというから半端ではありません。
 ここには、このように手間暇を惜しまず、本物にこだわり続けている方々が次々と出てきます。おそらく、日本の食文化もこの方たちに支えられているんだろうな、と思いました。世の中は、食べ物さえも高いか安いかだけを基準として選びつつあります。最近は、これに安心・安全というキーワードも付け加えられつつあります。さらに、これからは月に1回程度でも、本物を味わいたいと思いました。
 「あわりに」という後書きを読んだら、この本にまとめた話は、「自遊人」という雑誌に現在も連載している『本物の「食」』がベースになっているそうです。たしかに、なんど伺っても「真っ当な食」の話しはおもしろいものです。
(2008.09.27)

書名著者発行所発行日
日本の「伝統」食(角川SSC新書)森枝卓士角川SSコミュニケーションズ2008年7月25日

☆ Extract passages ☆

昔の日本の食というものが、・・・・・・稲作を中心に、米からは摂りにくいタンパク質などの栄養素は、あぜ道にも植えられる大豆からというコンビである。あぜ豆という言葉があるくらい。
 東南アジアでは潅漑用水路などにいる小魚をその米とセットにした。保存食や調味料である魚醤、塩辛の類いである。日本ではそれが米と大豆のセットで、その加工法として、味噌や醤油、あるいは豆腐、納豆等々にしたのである。

(森枝卓士著『日本の「伝統」食』より)




No.290 『チャイナフリー』 

 この『チャイナフリー』は、経済ジャーナリストとしてというよりは家庭の主婦としての立場から中国製品なしの1年間を過ごした経験を書き綴ったものです。もっと具体的には、2005年元日から大晦日の1年間、中国製品を買うことなしに生活を送るという家族全員で取り組んだドキュメンタリーです。久しぶりで、夢中になって読みました。
 じつは、私も今年の春、孫にベビー服をプレゼントをしようとお店に行ったのですが、ほとんどが中国製品でした。そこで店員に聞いたところ、ほんの申し訳程度に日本の製品があり、値段も3〜5倍以上もしました。さらに近くにあった赤ちゃん向けのおもちゃの生産国を確認すると100パーセント中国産でした。それで、出たついでに何ヶ所かの赤ちゃん向けのおもちゃを見て歩きましたが、やはり中国産でした。あの冷凍餃子の問題があった後なので、少し敏感になっていたとはいえ、その事実にビックリしました。
 そのような経験を何度かしていたこともあり、この『チャイナフリー』を見つけたときには、迷わず手にしました。
 何度も著者自身が断っていますが、「中国製品ボイコットは試験的なものにすぎないとばかり思っていた。いずれ中国製品とは、好き嫌いというより便利さを優先してよりを戻さざるをえず、これはその前にちょっと一服するための一年間の冒険だと」という意味での中国製品のボイコットです。
 とくに興味を引いたのが4歳の男の子ウェスの子ども心理で、テレビなどで放映される子ども玩具がほしくてたまらないが、今年1年間だけという説得でなんとか収まるが、それでも時々は爆発して泣き出してしまいます。子ともにとっては、それがアメリカ製であっても中国製であっても、ほしいものはほしいという気持ちだけなんでしょう。それと対称的に大人は、それがないと仕事や生活に支障を来してしまう場合があり、たとえばランプやプリンターのインク、ホッチキスの針などです。さらに電気製品を修理してもらうとすれば、その部品も多くが中国製品です。もちろん、機械の一部品ともなれば生産国が内部でわからないこともあり、その他の国々の部品で一つの製品ができあがっていることもあり得るわけです。それがグローバル化ということなのでしょう。
 著者の貴重な1年間の経験後の結論は、「私たちは中国からの輸入品をある程度受け入れることにした。中国製品を永久に断つということは、携帯電話や水鉄砲、あるいはいずれテレビも二度と買えなくなることを意味するかもしれず、非現実的な気がするからだ。これらのものを永遠に手放すということはしたくない。しかし同時に、ボイコットは私たちに今まで欠けていた消費者としての規律を与えてくれた。」としています。
 すべて読んでみて考えると、家庭から今の世界の経済状況を考えるという意味では、とてもおもしろい計画だったのではないかと思いました。家族みんなの挑戦でもあり、それぞれにいい経験になったのではないかと思います。ぜひ、機会があればお読みになり、今の世界経済のグローバル化がどこまで進んでいるかを考えてみてください。それがいいことかどうなのか、それを食糧問題などとも絡めて考える必要があるのではないかと思います。
(2008.09.25)

書名著者発行所発行日
チャイナフリーサラ・ボンジョルニ著 雨宮寛/今井章子訳東洋経済新報社2008年7月10日

☆ Extract passages ☆

 クリスマス前の数週間はパニック状態でそれどころではなかったものの、ボイコットによって、私たちは買い物かごにものを投げ入れる前に少し考えるようになった。ボイコットのおかげで私たちが思慮深くなったことは、けっして悪いことではない。さらに、以前は必要でなくても買わずにいられなかった小物で家があふれていたが、ボイコットでそういった物を買わなくなったため、家は間違いなく前より綺麗になった。

(サラ・ボンジョルニ著『チャイナフリー』より)




No.289 『麦の穂 四季のうた2008』 

 この本は、「読売新聞」に2007年4月1日から2008年3月31日まで連載された「四季」に加筆・修正されたものです。たしか今までは『四季のうた』という題名だったようですが、今回の第4集からはそれなりの題名を付けたのだそうです。ちなみに、この「麦の穂」は、横山未来子の「麦の穂のひかりを捌きゆく風の速き歩みを見てゐたりけり」からとったと書かれています。
 読んでいただくとわかりますが、古い時代の和歌や今様、俳諧から川柳、さらには現代に活躍する歌人や俳人まで、いろいろな分野からまんべんなく採りあげており、入門書としても最適ではないかと思います。
 下に抜き出した言葉は、おそらく著者の言ではなさそうですが、出版社の方がこの本を紹介しようとして書かれたもののようです。でも、たしかにこれらの言葉が、この本の性格を表しているようです。
 四季それぞれにそれぞれのうたがあります。日本に生まれてよかった、と必ず思ってもらえるうたばかりですので、暗唱してもらえれば、もっともっと深く楽しめるかもしれません。私は暗記が不得意なので、好きなうただけ、ノートに書き写しました。
(2008.09.21)

書名著者発行所発行日
麦の穂 四季のうた2008(中公新書)長谷川櫂中央公論新社2008年7月25日

☆ Extract passages ☆

 ひとの心にも、色はあるのだろうか。よろこび、悲しみ、寂しさ、切なさ。人を想い故郷を思う気持ち・・・・・・。世界が垣問見せる一味の表情や自然のうつろいを映し出した短い言葉が、わたしたちの心に色を与えてくれるのかもしれない。新古今和歌集から、芭蕉、茂吉、そして平成の詩歌まで・・・・・・、日本語の美しい表現をめぐり、四季のいろどりに出会う旅。繊細な感受性で読み解いた、名詩名歌の数々。

(長谷川櫂著『麦の穂 四季のうた2008』より)




No.288 『なぜ、いいことを考えると「いいことが起こる」のか』 

 副題に、「自己評価の高い人ほど成功する!」とあり、精神科医からのポジティブに考えることの大切さ、みたいなススメの本です。
 著者自身、「無意味に悲観的になるより、いつも「いいこと」を考えるクセをつけようというのが本書の趣旨です」と言っていますが、本全体を通して題名のように、なぜ、いいことを考えると「いいことが起こる」のかを何度も何度も繰り返し述べられています。
 著者は精神科医ですが、医学的な根拠から述べていると言うより、ご自身の体験や患者さんや多くの人たちとのふれ合いから感じ取ってきたものを書かれているようです。それだけに、現実的だともいえそうです。
 この世の中は、「いいこと」の後には「悪いこと」も起こりますし、調子が悪かったりすると、「悪いこと」だけが立て続けに起こったりします。よく、「一度あることは三度ある」ともいいますが、これはいいことでも悪いことでも同じようにあるということです。いわば、その繰り返しなのかもしれません。だとしても、ずーっと「いいこと」も「悪いこと」も続かず、朝の来ない夜もないはずです。
 だとすれば、「いいこと」と「悪いこと」の繰り返しが人生なのだと割り切り、著者の言うように「いいこと」を考え続けると「いいことが起きる」と思って生きた方が幸せというものです。
 話し言葉口調で書いてありますので、さーっと読めますから、講演を聞いているような気分でお読みください。
(2008.09.19)

書名著者発行所発行日
なぜ、いいことを考えると「いいことが起こる」のか和田秀樹新講社2008年4月1日

☆ Extract passages ☆

 わたしが言いたい現状肯定、あるいは現状満足とは、現在の自分を受け入れて明るく励まし、そこからもうもう一段高いことをめざすという意味です。つねに上を見る、目標をめざす気持ちを忘れないということです。「それでは現状肯定にならない」と言われそうですが、モチベーションを失わないためには自己評価の高さが欠かせません。自分を低く見積もってしまうと、上をめざす気力も湧いてこないからです。
 自分の不満をごまかすために下を見る人は、その時点ですでに自信を失っています。つまり下を見て自分を慰めても、現状に満足しているわけではないのです。

(和田秀樹著『なぜ、いいことを考えると「いいことが起こる」のか』より)




No.287 『【対談】芸術のある国と暮らし』 

 これは『月刊美術』に2006年4月号から2007年4月号まで連載された、12人との対談です。河合隼雄、蓑豊、淺木正勝、倉田陽一郎、福武總一郎、小山登美夫、安藤忠雄、伊藤彦信、本江邦夫、西松典宏、石塚邦雄、平山郁夫の各氏で、まさに日本を代表する芸術文化に造詣のある方々です。
 それぞれの立場からの発言はとても的を得ており、読んでいて、なるほどと思いました。また堺屋太一の突っ込みも鋭く、とくに行政官に対する批判は、やはり経験していることもあり、すっきりとしていました。たとえば、「すべてが役人主導。役人が税金でやることが一番国のためになる、だから世のため、人のためというならまずは税金を払え、ここには情報も集まれば専門知識もある、役人が使い道を選んでやる、といった具合です。日本国中の国公立美術館には、実は個人から寄付された立派なコレクションがあるんです。しかし、それが日の目を見ることはめったにない。これではいかにも文化国家として情けないと思うんです。」とまで言い切ります。
 さらに、美術館や音楽ホールなどは街の真ん中につくるべきなんですが、「無知蒙昧な日本人に見せてやるためには、猥雑な商店街ではなく、それに相応しい森の奥に安置すべきだ」として今でも主要な施設は不便なところにつくってあるというのです。これも、なるほどと思いました。今まで、そのようには考えてみたこともないのですが、そう言われてみると、そう思えてきます。
 やはり、日本では、文化だ文化だといいながらも、意外と根付いてなく、上っ面なものだったような気がします。しかし、これからは、下に抜き書きした安藤忠雄氏のような考え方が必要です。ぜひ、この本を読み、いろいろな方々の意見を聞いてみるのも参考になるのではないかと思いました。
(2008.09.17)

書名著者発行所発行日
【対談】芸術のある国と暮らし堺屋太一実業之日本社2008年4月30日

☆ Extract passages ☆

 文化的栄養というのは、生きることにおいて一番のエネルギーになると思います。これからは長寿の時代ですから、美術や映画を見たり、音楽を聴いたりして、好奇心を養っていかないと、長生きだけが目標ではね・・・・・・。その点で美術館は世界中どこにでもありますから、いいですよね。印象派でも現代美術でも、自分が面白いと感じたものを見ながら、自分が生きているということをしっかりと考えるチャンスができる。そんな風に芸術と関わっていくことが、これからの時代はとても大切だと思いますね。(安藤忠雄)

(堺屋太一著『【対談】芸術のある国と暮らし』より)




No.286 『もっと知りたい! 「科学の芽」の世界』 

 おそらく、夏休みの課題の手助けになってもいいと考えられ、出されたものかもしれませんが、「ノーベル賞への夢を紡ぐ」とあり、理科離れの現在を憂いてのことかもしれません。
 この「科学の芽」という言葉は、ノーベル賞を受賞された朝永振一カ博士の言葉です。この本には、「1974(昭和49)年11月6日に、国立京都国際会館で湯川秀樹・朝永坂一郎・江崎玲於奈の三博士を招いて開かれた座談会「ノーベル物理学賞受賞三学者故郷京都を語る」(主催:京都市,京都市教育委員会)で、三博士に,京都の子どもたちに向けた言葉をとの要請に応えて、朝永先生が書かれたものです。」と説明されています。
 そして、この本は、この「科学の芽」賞を受賞された小学生の部16編、中学生の部17編、高校生の部4編で構成されています。それに先生方がそれぞれの作品について講評され、さらに随所にコラムを掲載しています。
 そして第U編として、「科学の芽」賞と朝永振一カと題し、大泉、金谷和至の両氏が書いています。
 最後に資料編として、「科学の芽」への応募状況や受賞作品などをまとめて掲載しています。
 この「科学の芽」賞は、私も知らなかったのですが、第1回は2006年ですから、新しい賞のようです。でも、この本を読んでもわかりますが、子どもたちの素直な驚きの心をなんとか形として表したいという願いが込められているようです。
 子供さんたちだけでなく、学校の先生方やご父兄の方々にもお読みいただきたい1冊です。
(2008.09.15)

書名著者発行所発行日
もっと知りたい! 「科学の芽」の世界「科学の芽」賞実行委員会編筑波大学出版会2008年6月30日

☆ Extract passages ☆

 ノーベル化学賞を受賞された白川英樹先生も理科を学ぶ上で大切なことは、童心を忘れないことだとお話しされています。童心とは自然の巧妙さや奥深さを素直に感じることができる心です。
 宮沢賢治の童話は有名ですが、彼は理科の先生もしていました。植物のことを生徒に教えるとき、植物の身になって考えてみようといったそうです。自分を自然の対象物に置いて、対象物から周りを眺めてみるのです。動物ならまだしも、植物や、ましては物質まで擬人化して考えることは、あまり正当な科学的な態度とはいえないかもしれません。しかし、こうすることで生き生きとしたイメージで自然を感じることができます。(守橋健二)

(「科学の芽」賞実行委員会編『もっと知りたい! 「科学の芽」の世界』より)




No.285 『いのちをはぐくむ農と食』 

 今、食料問題が多く話題となり、事故米が食用に使われる事件が発生したばかりです。このままでは、食の安心、安全が脅かされ、何を信用していいかわかりません。
 そんなとき、この本に出会いました。岩波ジュニア新書ですから、若い世代を対象に書いてあるのでしょうが、意外や意外、とてもおもしろく読ませてもらいました。
 先ず、日本の農政のこと、食料自給率が40パーセントを割ってしまったこと、そんなに食料生産を外国にゆだねて問題はないのか、など多くの問題に一定の方向性を示しています。農業を活性化するためのさまざまな取り組みを紹介し、食べものを選ぶ基準をどこにするのかなど、これも具体的に若い世代にわかりやすく書いています。とくにおもしろかったのは、三重県立相可高校の「まごの店」レストランです。高校生たちがレストランを運営し、そこから実践的ないろいろなノウハウを勉強していくのです。そこで学んでいる食物調理科1年の奥村くんは、「コミュニケーション能力とは、いろんな人たちと積極的にふれあい、円滑にコミュニケーションをとることが出来る能力のことをいいます。・・・・・・では、この能力を身に付けるために、具体的にどんなことを学ぶのでしょうか?まず、「笑顔」と「挨拶」です。考えてみたら、日常生活においてもこの「笑顔」と「挨拶」が一番大切で当たり前のことですが、努力しないとなかなか出来ないのが現実です。それがごく自然に身につくように、僕たちは、毎朝校門に立って、生徒や先生、地域の人たちに大きな声で挨拶する運動をしています。」ということを作文に書いています。自分は将来調理師になり、自分の店を持ちたいという夢をもっているそうですが、それは高校生の今から実践しているわけです。これはすごい、と思いました。今時の若者は、自分に合う仕事を見つけるためにという大義名分でもって、何もしなかったり、フリーターを続けたりしています。仕事なんて、やってみなければそのおもしろさも厳しさも何もかもわからないと思います。それをやらずして見つけようというのですから、どだい無理な話です。
 考えてみれば、食の問題は人間にとって生きるか死ぬかの大問題です。机上の空論では、絶対にわからないし見えてもこないものです。この本に書かれているように、先ず具体的に一歩でも半歩でも進んでみること、それがもっとも大事なことだと思いました。
 いつまでも食の偽装やまやかしに振り回されるよりは、自分自身でもう一度原点に立ち返り、考えなければならない時にきているようです。
(2008.09.13)

書名著者発行所発行日
いのちをはぐくむ農と食(岩波ジュニア新書)小泉武夫岩波書店2008年7月11日

☆ Extract passages ☆

 舌でものを考えるのはひじょうに大切なのです。食べることは生きることの基本であって、その生きる基本の入り口のところがみんな同じになってしまったら、どうなるのでしょうか。個性を失って特徴ある人間はできなくなってしまうでしょうし、味気のない、同じような感覚をもった人間しかできなくなってしまうかもしれません。とくに幼児では、ひょっとしたら脳の発達まで影響するかもしれません。そうではなくて、人間はさまざまなものを食べて、「これはおいしい」とか「これはまずい」という判定を舌と頭で考えながらおこなうのが本性で、それによってはじめて食のすぼらしさを知るわけです。

(小泉武夫著『いのちをはぐくむ農と食』より)




No.284 『よみがえる源氏物語絵巻』 

 この本は、NHK名古屋『よみがえる源氏物語絵巻』取材班が2001年12月12日にハイビジョンで放送した「よみがえる源氏物語絵巻」から、17回の同シリーズ番組を集大成したものです。ですから、副題に「全巻復元に挑む」とあるのも、復元できたものから順に放映してきたことによります。
 時あたかも、『源氏物語』が作られて今年でちょうど1,000年。ゆかりの各地でさまざまなイベントが催されていますが、そもそもこの 『源氏物語絵巻』は、『源氏物語』から100年ほど後に制作されたものです。現在は徳川美術館と五島美術館に分藏されており、19図が国宝に指定されています。それをよみがえらせようとし、その過程をまとめられたのがこの本というわけです。
 その大変さはこの本を読めばわかりますが、絵図を見ただけで、900年の時を超えて現代によみがえったことがいかにスゴイものかが手に取るようにわかるかと思います。すべて科学調査に基づいて復元模写されていますから、資料的な価値もあります。さらに、これら復元された絵と、コンピューターグラフィックで再現した詞書をつなげて、平安時代そのままに絵巻をよみがえらせ、載せてあります。
 これを見ながら、もうすし古文書を読める素養があれば、と思いました。現在、9月5日から3回ほど、市図書館主催で古典文学講座が開かれ、『源氏物語』を読んでいます。これを機会に、また古典文学に少しは親しみたいと思っています。
(2008.09.10)

書名著者発行所発行日
よみがえる源氏物語絵巻NHK名古屋『よみがえる源氏物語絵巻』取材班NHK出版2006年2月25日

☆ Extract passages ☆

 よみがえった絵師たちの技が、わたしたちを平安の世界に引きずり込んでいく。
 徳川美術館前館長の徳川義宣氏が残した言葉が印象的だ。
 「『源氏物語絵巻』は、作品だけが絶対的な存在ではなくて、そこにそういう作品があって、しかもその作品はなるべく見る人が感情移入しやすいように、そういう余白部分をたくさん残して、主体と客体が揮然一体となって美しい世界が作り上げられやすいように作ってある絵画ですね。そういった日本の伝統的な美しきといいますか、宇宙観といいますか、それをやっぱり忘れないで引き継いでいってほしいですね」

(NHK名古屋『よみがえる源氏物語絵巻』取材班『よみがえる源氏物語絵巻』より)




No.283 『教科書に載った小説』 

 これは編者の小学生のときの個人的な思い出から集めた教科書に載った小説たちです。作者は菊池寛や芥川龍之介を始めとする名だたる小説家や、橘成季(なりすえ)によって編纂された『古今著聞集』など、全12編です。
 教科書は昭和47年検定済のものから平成18年検定済のものまでで、平成になってからのものが9編載っています。読んでみて、いかにも教科書で取り上げるような主題のものがあったり、なぜ、これが教科書に載ったのかわからないというものまで、いろいろありました。でも、読んでみて、それぞれが何らかの形で印象に残り、やはり教科書で取り上げられるほどのものなのだと納得いたしました。
 特に印象的だったのは、安部公房の『良識派』で、大修館書店の高等学校国語科用『国語総合』(平成18年検定済)のなかに載っているものだそうです。ほぼ2ページ程度の短い文章ですが、安部公房らしい内容で、良識派といわれる人たちを鋭く描いています。たった2ページなのですが、ニワトリを通して自分たちのものの考え方の狭量さを感じました。
 教科書に載ったのだからといって、むやみにここに掲載はできませんので、そのさわりだけ下に抜き出しました。本当はこの後の展開がおもしろいのです。いかに良識派といわれる人たちが日和見かということを鋭く突いています。機会があれば、ぜひお読みいただければと思います。
(2008.09.08)

書名著者発行所発行日
教科書に載った小説佐藤雅彦編ポプラ社2008年4月20日

☆ Extract passages ☆

 昔は、ニワトリたちもまだ、自由だった。自由ではあったが、しかし原始的でもあった。たえずネコやイタチの危険におびえ、しばしばエサをさがしに遠くまで遠征したりしなければならなかった。ある日そこに人間がやってきて、しっかりした金網つきの家をたててやろうと申し出た。むろんニワトリたちは本能的に警戒した。すると人間は笑って言った。見なさい、私にはネコのようなツメもなければ、イタチのようなキバもない。こんなに平和的な私を恐れるなど、まったく理屈にあわないことだ。そう言われてみると、たしかにそのとおりである。決心しかねて、迷っているあいだに、人間はどんどんニワトリ小屋をたててしまった。
・・・・・・・・・・・・

(佐藤雅彦編『教科書に載った小説』より)




No.282 『モンスターペアレントの正体』 

 副題が「クレーマー化する親たち」とあり、現在多くなっているというモンスターペアレントを取り扱っている本です。私が子育てをしているときには、ほとんどなかったと思われることですが、マスコミなどの報道によると、最近とくに増えている問題なんだそうです。そこで、以前と今の問題の違いなどを浮かび上がらせようと、この本を手に取りました。
 しかし、おそらく以前にもこのような問題のある親はいたでしょうが、学校や地域、そして保護者がそれなりに子育てに関わっていたこともあり、表面化することもなかったのかもしれません。ところが、今では、給食費を払わない保護者の問題などを聞くと、ほとんどが自己中心で、自分さえよければ他の人はどうでもよい、などと考えているような気がします。自分中心ですから、その自分が満足することを第一に考えます。でも、そのような欲がらみでは、満足するということがありません。したがって、いつも、いつまでもそれを追い求めますから、他人のことを考える余裕すら生まれるはずはありません。そして、いつも不満足で、未来に対しても悲観的になり、それを他の人にぶつけてしまうことになります。著者は、『未来を悲観しているからこそ、「うちの子だけは絶対に人生を失敗させたくない」という思いが強くなる。自分が不幸だ、自分ばかりが苦労していると感じていると、自分本位になってしまうのは仕方がないことだ。・・・・・・これがモンスターの正体である。モンスターは保護者なのではない。大人たちの心身の疲労、自分が不幸であるという嘆き、そして未来への悲観、そしておのおのが抱えている被害意識がモンスターを創造してしまっているのだ。』といいます。
 たしかに、その通りかもしれません。やはり、子どもたちのためにも、大人になることは楽しいことだ、愛する人といっしょになることはとても楽しいことだ、そして、他の人を幸せにすることはもっともっと楽しいことだ、と思えるような生活をすべきだし、それがなによりの教育です。子どもたちは、昔から言うように、「大人の背中を見て育つ」のは間違いありません。見ていないようで見ている、それが子どもです。
(2008.09.05)

書名著者発行所発行日
モンスターペアレントの正体山脇由貴子中央法規出版2008年3月20日

☆ Extract passages ☆

 子どもは、言葉で学ぶよりも、見て学ぶ。感じて学ぶ。「この人といて楽しい」と思える人から多くを学び、「この人は信頼できる」と思える人から学ぶ。「この人のようになりたい」と思えた時に、そこに将来の自分のモデルを見出し、初めて努力する。そういう大人に出会えなければ、子どもたちには努力する理由が見つけられない。どうせ努力したって大人になった時に待っているのは苦労だけなのだ。だったら今、享楽的に生きた方が良いではないか。そう思っても仕方がない。

(山脇由貴子著『モンスターペアレントの正体』より)




No.281 『溶けゆく日本人』 

 この本は、産経新聞に平成19年1月8日から平成20年2月15日まで掲載された「溶けゆく日本人」と、短期連載された「大丈夫か日本語」に加筆・修正し、再構成されたものだそうです。
 たしかに、今、いろいろな問題が出ていますが、かつてイエズス会神父のロレンツ・メシアが同僚に宛てた手紙の中で「日本が清潔であることは想像もつかぬほど」と綴ったことが嘘のようになりつつあります。モラルはなし崩し的に崩壊しつつあり、過保護から自己中心が増え、変な平等観から人間関係がぎくしゃくし、快適であればそれでいいとばかりに便利なものに群がり、本当にこのままでいいのだろうかと心配になります。
 たとえば川嶋名誉教授は、「『指導』を『支援』と言い換えたり、教壇も取っ払ったりして、教育やしっけに欠かせない上下関係を自ら放棄してしまった。ルールを教えることは軽んじられ、個性や自主性 ばかり重視される。今、困ったときに子供がすがれるような頼りがいのある先生や大人が、果たしてどれだけいるのでしょうか」と指摘しています。また、また子どもばかりではなく、大人までキレるらしく、医療現場では「モンスター・ペイシェント(患者)」と呼ぶほどになっています。
 では、なぜキレるのか。それは自己中心だけでなく、「待つ必要がない社会」になりつつあるからかもしれません。たとえば24時間コンビニは開いているし、電話は携帯しているのでいつでも使用可能だし、知りたい情報はパソコンや携帯電話で即座に検索できるし、となれば、物事がスムーズに進まないとそれに耐えられなくなります。実際に、平成15年に首都圏で「待ち時間」の調査をしたところ、総合病院なら30分、通勤時の電車の遅れは5分、スーパーやコンビニのレジは3分以内ならイライラせずに待てるのだそうです。ということは、それ以上待たせられればイライラするということになります。
 この本を読みながら、たしかに今の世はおかしいと思いました。これを反面教師として、自分を見つめ直したいと思いました。
(2008.09.01)

書名著者発行所発行日
溶けゆく日本人(扶桑社新書)産経新聞取材班扶桑社2008年6月1日

☆ Extract passages ☆

 「がまんするのは精神衛生上よくない」「楽しめるときに楽しもう」と言ってもらえると、気が楽だ。だが、それは容易に「好きなことだけする」「いやなこと、面倒なことはしない」に転換する。
 教育現場や心理カウンセリングの現場では「自分を大切にする人は、ほかの人も大切にできる」といわれる。本当にそうなのか。最近、この言葉が、どうにも気になって仕方がない。

(産経新聞取材班著『溶けゆく日本人』より)




No.280 『偏差値よりも挨拶を』 

 著者の廣川州伸氏は、コンセプトデザイン研究所所長の肩書きを持ち、いくつかの大学の非常勤講師もしているそうで、いわば中小企業主やビジネス人を元気にする活動をしているそうです。私は初めて読みましたが、著書も多く出しているみたいですが、この本の題名に惹かれて読み始めました。
 たしかに、偏差値よりも挨拶が大切です。副題は、「社会で伸びる子どもたち」とあり、子どもたちに勉強だけでなく、仕事や社会についても教えていかなければといいます。これも、たしかにそうです。
 この本は、「東書アクティブ・キッズ」シリーズの1冊で、これらは子どもたちの「学力」や「しつけ」などの問題を考えていこうとするものです。すでに4冊出ていますが、梶田叡一著「〈現代っ子〉ノート」なども読んでみたくなりました。
 さて、この題名のように、おそらく読者はこれから子育てをする父親や母親が読むことを想定して書いているようです。仕事や子どもたちの将来について、これからどのように考え行動すればいいのかということを考えさせようとしています。
 今の時代、キーワードは「スモール・イズ・ビューティフル」です。ナンバーワンを求めるのではなく、限りある資源を有効に活用しながら、質を高めようということです。人だって同じで、ことの大小に関わらず、自分の興味のあること、人のためになること、やっていて充実感があることなどの愚直ともいえる生き方が大切だと思います。
 だとすれば、やはり、偏差値より挨拶が大切になるということなのでしょう。
(2008.08.29)

書名著者発行所発行日
偏差値よりも挨拶を廣川州伸東京書籍2008年3月6日

☆ Extract passages ☆

 挨拶は「思いやり」の心が伴わなければ意味がありません。コミュニケーションの基本は挨拶であり、それは思いやりの心をベースにしているのです。
   大切なことは、直接、声を出し、挨拶することで心が通じ合うということです。・・・・・・
 人を動かすコツは、そう多くはありません。心が届けば人は動くのです。では、どうしたら心が届くようになるのでしょうか。それは何よりもまず、自分から伝えることに始まります。自分がまず、相手に関 心があることを、心が届いてほしいと思っていることを、相手に伝えなければなりません。いくら待っていても、コミュニケーションは始まりません。まず自分が相手を観察し、ツボをおさえ、「相手が言ってほしいこと」をサラリと伝えるのです。
 ここで重要なのが、「君のことをちゃんと見ている、いつも気にかけている」ということがわかるように、観察したことをストレートにいうことです。

(廣川州伸著『偏差値よりも挨拶を』より)




No.279 『大人の社会科見学』 

 青嶋ひろのが文章を書き、さのともこがイラストを描き、編集者のイチカワとの三人三脚で訪ね歩いた社会科見学です。
 ドールズ・パーティー、天皇誕生日一般参賀、雪国地吹雪体験ツアー、陸上自衛隊ヘリコプター体験搭乗、コミックマーケット、裁判傍聴、チアリーディング選手権大会、東京オートサロン、ファッションショー、かなまら祭の10カ所です。なかには、行きたくてもなかなか行けないところとか、間違っても将来とも行かないだろうなと思うところとか、いろいろありました。たしかに、題名通りで、社会科見学的なわくわく感を味わいました。
 たしかに、世の中にはフシギな世界があるものです。雪国地吹雪体験ツアーだけは、雪国に住んでいることもあり、「まあ、そんなことでしょうね!」と考えていた通りでしたが、最初のドールズ・パーティーからして、「大の男がそんなことするの?」とフシギで不思議でたまりませんでした。もし、これらに興味があれば、自分が直接体験するより、少しは緩衝材になる本です。
 でも、東京オートサロンへの見学で、「でも世の中には、男にしか楽しめない世界、男性ホルモンが足りないとのめり込めない世界というものも、やっぱり確実にあるらしい。鉄道マニアしかり、模型マニアしかり。めくるめく車ワールドも、そう。なんとか食らいついて味わってみたかったけれど、私には手ごわかった。おもしろかったけれど、やっぱり一歩離れて、夢中になる男たちを見守るばかりだった。」とありましたが、その通りなのです。最近は、男だか女だかわからない、いや格好だけでなく性格もそうだが、ちょっとついて行けない感じがします。せめて、趣味の世界だけには、このようなオタク的な世界があってもいいと思いました。
(2008.08.27)

書名著者発行所発行日
大人の社会科見学青嶋ひろの&さのともこナナ・コーポレート・コミュニケーション2005年10月15日

☆ Extract passages ☆

 同人誌の売り場は、どんなにチープな製本の雑誌でも、あか抜けないデザインのチラシでも、あの祝祭的な空気の中では、ものすごく魅力的な作品の宝庫に見えてしまう。彼らにとっては売れる売れない、は関係ない。好きな本、好きなジャンルの同人誌を作ること、作ってこの「コミケ」という場に出品すること、そのことにこそ意義や喜びがあるのだろう。
 私たちプロは、時には生活のために書きたくもない文章を書くし、意に染まないイラストも描くし、売れることだけを目的に本作りをしたりもする。でも、本当に書くこと、描くこと、本を作ることが好きだったら……、こっちサイドにいたほうが、幸せなのかもしれないね。好きなことだけ好きなように書いて、ほんの少しの本当に読みたい人にだけ読んでもらって・・・・・・。

(青嶋ひろの&さのともこ著『大人の社会科見学』より)




No.278 『食卓から地球環境がみえる』 

 この本は地球研叢書の1冊で、地球研とは「総合地球環境学研究所」の略称です。執筆者は、編者の湯本貴和、伏木亮、米田穣、佐藤洋一郎、秋道智彌、嘉田良平の各氏です。
 編者によると、「食」というだれにとっても身近な観点から地球環境問題を考えるという趣旨だそうで、副題も「食と農の持続可能性」と出ています。たしかに身近な食の問題から解き明かすことで、いろいろな地球環境の問題点が見えてきたように思います。さらに、去年から今年にかけて、食の安全が産地の偽装や製造年月日への不信感から大きく揺らいできています。安心と思えるから、食べてもおいしさを感じるわけです。安全と思えなければ、何を食べてもまずく、食文化そのものが根底から覆されかねません。
 この本では、おいしさの理由を、1.生理的なおいしさ、2.食文化のおいしさ、3.情報がリードするおいしさ、4.やみつきになるおいしさ、の4つに集約していますが、なるほどと思います。
 なかでも、食の文化や情報の占める割合が多く、たとえば、4個のパンの1つに辛子を入れたと聞けば、とても美味しく食べられる状況ではなくなります。それほど、安全情報に左右されるということの証です。でも、その食が不安定になっているのも事実で、1つは、「地球温暖化による農水産業への影響と生産性低下の問題」、2つめは、「バイオマス燃料というエネルギー問題の登場」、3つめは、「鳥インフルエンザ、BSEなど食に関係する感染症の国際的拡大、つまり食品リスクの拡大」だそうです。
 これらはみな、それぞれに大きな問題となっています。
 はたして、これらを解決する道はあるのでしょうか?
(2008.08.25)

書名著者発行所発行日
食卓から地球環境がみえる湯本貴和 編昭和堂2008年3月31日

☆ Extract passages ☆

 今後の戦略として、次の三点を提案しておきたい。ひとつは、いかに環境への負荷が小さな生産方法(環境保全型農業)を採用するかである。農水産業に、自然環境や生物多様性への配慮が求められる。二番目に、農業や水産業が経済的、社会的に成り立つという条件づくりが必要である。近年のように、多くの農村で農業を継ぐ若者が都会へと去ってしまうという光景は決して持続可能ではない。やはり経済的な基盤を農村に築きたいものである。そして三つめは、食の安全・安心が担保される必要があり、消費者の生産者・食品産業への信頼を高めうる条件づくりが重要である。もちろん、これらの改革は決して簡単ではないが、実現できなければ日本農業にとって明日が展望できないことも確かであろう。

(湯本貴和 編『食卓から地球環境がみえる』より)




No.277 『文字のデザイン・書体のフシギ』 

 この本は、神戸芸術工科大学レクチャーブックスの第2弾として出版されたもので、著者名に4名の方が連名で載っています。本の中身も、「ブックデザインとかなもじ書体のフシギ」祖父江慎、「フォントデザインの視点と細部」藤田重信、「デザインを語ることは不可能なのか」加藤卓、「制約から見えてくるもの」鈴木浩光、という順に並んでいます。
 これらの講義は、神戸芸術工科大学のおもに1年生を対象として「特別講義」という科目名のもとにゲスト講師を招き連続講義をしているそうで、2007年度のビジュアルデザイン学科のそれらをまとめたものなのだそうです。
 とくに「フォントデザインの視点と細部」は興味があり、楽しく読ませていただきました。自分でもフォントはいろいろと持っていますし、印刷するときもそれなりに工夫しているつもりですが、フォント作者の話しを聞いて、初めて知ったことも多かったです。なぜ、本文は明朝体が多いのかとか、その明朝体にもいろいろな歴史があり、あらためてそのおもしろさを再認識しました。
 私の好きな明朝体はリュウミンですが、筑紫明朝もいいなあ、と思いました。なにぶん、作者の思いがストレートに伝わり、その苦労や工夫を知ったことで、親しみがわいてきたようです。
 また、「制約から見えてくるもの」というのも、江戸期の慶長13年に刊行された嵯峨本『伊勢物語』を使ってのタイポグラフィも、とてもおもしろかったというより、初めて知ったことが多々あり、興味津々で読みました。とくにかな文字の特性に関しては、あまり普段は意識しないことなので、指摘されて初めて納得できるものです。たとえば、「仮名は、もともと印刷されることを想定されてできた文字ではない。一字一字独立させると不安定になる。ところが活版印刷は、文字を分断しなければならない、四角の中に文字を押し込めなければならないという前提がある。だから、仮名と活版印刷は本来、相容れない性格を持つのです。けれども、角倉素庵たちはそれを克服して、嵯峨本という美しい印刷本をつくりあげた。」ということなのだそうです。
 でも、文章を書くときには考えますが、文章ができあがってからは、仮名文字もカタカナ文字も漢字も、そんなには意識しません。それを考えさせてくれたのです。ぜひ、このようなことに興味がありましたら、大学1年生になったつもりで、お読みください。
(2008.08.22)

書名著者発行所発行日
文字のデザイン・書体のフシギ祖父江慎・藤田重信・加藤卓・鈴木浩光左右社2008年5月20日

☆ Extract passages ☆

 デザインが語られ始めた時は、デザイナーにとって「美の本質」は、重要ではなかったはずでした。なぜなら、デザイナーは「感性」や「センス」を否定していたからです。しかし、「デザインは語ることができない」と語られ始めた時、デザイナーにとっての「美の本質」は、再び重要視されるようになりました。なぜなら、「芸術家としてのグラフィックデザイナー」という言い方ができてしまえば、「感性」や「センス」を否定する必要がないからです。
 デザイナーとして「感性」や「センス」を肯定するということは、「美の本質」を認めることであり、これによってようやく、「やはりデザインは語ることができない」という、冒頭に述べた語り方ができる ようになるのです。「やはり語ることができないデザイン」にとって、「作者性」や「作家性」は重要な意味をもちます。なぜなら、デザイナーが芸術家と同じであれば、その作者固有の感動を人々に与えるた めに、その作品でしか表現できないという語り口を選択せざるを得ないからです。つまり「作家性」が強ければ強いほど、作品を言語化する必要は相対的になくなっていくのです。
 これが、デザインは語ることができないと語られ始めた時のことです。(加藤卓)

(祖父江慎・藤田重信・加藤卓・鈴木浩光著『文字のデザイン・書体のフシギ』より)




No.276 『もうひとつの日本の旅』 

 この本は「モノとワザの原点を探る」という副題が付いているように、民族文化的側面から日本のモノやワザの原点を探ってみようというものです。このもとは、雑誌『望星』に2005年10月から2007年11月にかけて23回にわたっての連載で、それに大幅な加筆と再構成をしたものだそうです。
 自分ではほとんど意識していないことでも、日本文化に知らずに条件づけられていることも多いといいます。この本では、それらを多角的に各国の現地調査などをもとに解き明かしていきます。たとえば、土器を成形するろくろの回転方向が、世界で、沖縄以外の日本だけ時計回りなのはなぜか、のこぎりやかんなを引いて使うのはどうしてなのか、などです。
 さらに、消滅寸前ともいわれる和船作りと、それを陰で支えてきた船釘作りなどの調査から、なぜそのような文化が消えようとしているのか、それを伝え続けることはできないのか、などを考えます。これらの問題は、後継者がいないなどのこともあり、急を要することがらです。さらに、いったん途絶えると、取り返しが付かないだけでなく、もしそれを復興させようとすれば、とてつもない時間とお金がかかります。そのことは、身近な成島焼でも同じことです。いったん途絶えた成島焼を復元しようと米沢の水野さんが取り組み、30年以上経った今でも、その努力を続けています。その当時焼いていた登り窯の跡があり、陶片も残っていて、さらにそこで焼かれたモノが残っていてさえも、そうなのです。
 たしかに、この本は、もうひとつの日本の旅でした。お盆の前後に読み続けたことも、なんかの縁ではないかと思いました。
(2008.08.19)

書名著者発行所発行日
もうひとつの日本の旅川田順造中央公論新社2008年3月25日

☆ Extract passages ☆

 無形文化遺産が生き残れるかどうかを考える上で、三つの点が重要だと思う。
 第一は、その文化遺産を支える人たちに、「やる気」を十分に起こさせられるかどうか。第二は、その文化遺産を支えてきた素材や、基礎となる技術の面での保証が、あるかどうか。第三に、文化遺産が生きてきた社会との関係が、整合的であるか、ズレていないか。いうまでもなく、これらの三点は、相互に密接に関わり合っている。

(川田順造著『もうひとつの日本の旅』より)




No.275 『魯山人・器と料理』 

 この本は、平成10年1月5日に発行され、翌年に改訂版が出され、今年の6月10日に新装版として出されたものです。出版社は、私も時々購入している月刊誌「眼の目」を出しているところで、そこに書いたものが下地になっているようです。題名の前に「持味を生かせ」とありますから、魯山人がつねに言っていた「すべての素材は各自独特の味、持ち前の味をもっている。これを生かすことが大切である。」からきているようです。
 76ページまでは著者である茶懐石「辻留」の三代目主人である辻義一氏が1月から12月まで魯山人の器を使って盛りつけた料理の数々をカラーで載せ、次に「魯山人に学ぶ」、さらに「辻留 旬ものがたり」と続き、最後に「魯山人の器をめぐって」と題し、著者と梶川芳友氏が対談をするという構成になっています。
 何度か魯山人の器で懐石をいただいたことがありますが、たしかに料理を盛る器であると思いました。料理をいただいた後にもう一度眺め回すと、なんとなく物足りなさを感じます。でも、その料理をいただきながら、少しずつ器の全体が見えてくると、それなりの変化があり、おもしろくもあります。それについて、最後の対談で「料理も映えて、器も映える。その一体感ですね。」と著者が言われているあたりが魯山人の器なのでしょう。
 あるお茶事でのことでしたが、床に魯山人の軸が掛けてありました。それがいかにも良寛の書に近いものを感じましたが、著者が20歳ころに1年ほど鎌倉にあった魯山人の星岡窯でお世話になっていたそうで、そのとき、魯山人は良寛や中国の懐素などを書の手本にしていたとありますから、これで納得です。「先生の眼」の項には、「魯山人が良寛の書を学ばれたときは、その書から良寛が見えてきて、良寛の精神や姿態が分かり、その気持ちで書を書かれた」とあり、もしかすると、私の拝見した軸も、そのような気持ちで書かれたものかもしれません。
 なにはともあれ、実際に魯山人の身近にいた著者が直接見て聞いて書かれたものですから、その天才ぶりがうかがえるような内容です。魯山人に興味がある方は、ぜひお読みください。
(2008.08.17)

書名著者発行所発行日
魯山人・器と料理辻義一里文出版2008年6月10日

☆ Extract passages ☆

 食器は料理の着物である。着物というものは、寒さをしのぐだけではなく、着ることによって個性を発揮したり美しくなるものです。・・・・・・
 魯山人の造形は土の持ち味を生かして、のびやか、無理をせず、寸法においては計算されたように、中に入れる分量もよく、量の多少は器が補なってくれます。
 器の美しさはさりげなく、ちょっとぼうとしたところにあります。このちょっとした間に料理がはいるから、両方がひきたち、一体感が生まれます。この間は計算したり考えてできたものではなく、自然にわいてでた魯山人だけの世界といえそうです。古陶を愛し、師として友として、ある時は崇め、ある時は語りかけをして、古陶の心にふれあった。それが魯山人の器に宿っているのでしょう。

(辻義一著『魯山人・器と料理』より)




No.274 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』 

 著者の齋藤孝氏は、「声に出して読みたい日本語」で一躍時の人になった感がありますが、孫といっしょに見ているNHK教育テレビの「にほんごであそぼ」の企画、監修もしているそうです。
 さて、この本は、この題名を見ただけで、なんとなく内容がわかったように思いました。それだけ、日本人は学ばなくなったという実感があったからです。最近のバカタレもそうですが、わからない、知らないことになんの抵抗も感じられないことが不思議です。それを見ておもしろがる視聴者も不思議だといえば不思議です。そんなおバカな答えを聞いておもしろがる神経もわかりません。
 ですから、読んでいても「なるほど」と合点のいくことがいくつもありました。何枚もカードを作りました。たとえば、「フランスの政治学者トクヴィルは、もともとアメリカ人は書物を有する国民ではなか ったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも捨象でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。
 ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。」というあたりは、そのまま納得できます。まあ、「アメリカ人には一日でなることができる。簡単にいえば、アメリカ人になるのに教養は必要ない」という箇所では少しは考えさせられますが、それでも当たらずとも遠からずみたいに思えます。
 また、「読書とは、自分の中で行う、偉大なる他者との静かな″対話″です。」というのは、まったく同感です。この「ホンの旅」を書いていて、そう思います。多くの著者たちから学ぶことの多さにびっくりしたり、ある言葉をヒントにして今までの考え方を訂正したり、ある本から別な本へと導かれるように興味が移ったりと、それらが日常茶飯事です。以前より読書量は減ったとはいえ、考えることはほとんど変わっていないように思います。学ぶとか学ばないというより、学び続けることが大切だと今も思っています。
(2008.08.15)

書名著者発行所発行日
なぜ日本人は学ばなくなったのか(講談社現代新書)齋藤孝講談社2008年5月20日

☆ Extract passages ☆

 「情報はタダ」という認識が一般化しています。どれだけタダで出して知名度を高めるか、あるいは好感度を持たれるかといったことが、情報発信側の勝負どころになっている。それを助長しているのが、検索機能によってタダの情報を自由にセレクトできるインターネットです。言い方を換えるなら、情報の発信者ではなく、ネット利用者のほうが立場的に強者になっているわけです。・・・・・・碩学と呼ばれる学問の大家が心血を注いで書いた言葉も、アイドルの言葉も、一般の人による″街の声″も、あるいはショップや商品の宣伝文句も、すべて並列的に同じ情報として扱われています。特定のキーワードによって一律的に検索の綱にかかるという意味で、同等のポジションにいるわけです。世の中全体が水平化、フラット化した社会になりつつあるといえるでしょう。

(齋藤孝著『なぜ日本人は学ばなくなったのか』より)




No.273 『マンダラ事典』 

 副題が「100のキーワードで読み解く」とあり、100の項目を解説することでマンダラを分かってもらおうという本です。「あとがき」にも書いてありますが、ひとつの項目をほぼ1,000字で書いてあるそうで、この項目数と文字数を絞り込むことで、本当に必要な情報だけが見えてきたような気がするといいます。
 たしかに、読んでいて、もう少し詳しい説明があればと思うところもありましたが、あまりグダグダと解説があったとしても理解できるとはかぎりません。むしろ絞りに絞った説明だからこそ、すっきりと理解できたと思います。このようなことを考えられたのも、この本を読んだからです。
 本を読む以上、その本に何が書かれているのか、何を眼目にしているのかなど、読むことによって得られるものがたくさんあります。ですから、読者にとって、それらのことがスムーズに理解できることが大事なことで、著者はそのことに心を砕くべきです。ところが現実には、難しく書かれているほうが高尚だと勘違いしている向きがあります。たとえば、書の世界で、簡単に読めるものより、何が書いてあるのかさえ分からないものが有り難いというようなものです。書は言葉ですから、その言葉がわかり、さらにその言葉の意味も理解できることが大切です。ただ有り難いだけでは、困ります。それと同じことが、本の世界にも当てはまります。この「あとがき」を読んで、なるほどと思いました。
 さて、マンダラですが、もともとは須弥山上の三十三天にある帝釈天の居城、善見城をモデルにしているそうですが、そういえば、私が収集しているネパールやチベットのマンダラもそのようです。もし興味がありましたら、『甲子大黒天本山のホームページ』の「My collections」を見てみてください。
(2008.08.13)

書名著者発行所発行日
マンダラ事典森雅秀春秋社2008年4月28日

☆ Extract passages ☆

 マンダラは正方形や円の形をしています。いずれも図形の中で最も安定した形です。日本のマンダラは、たいてい縦が横よりも少し長い長方形ですが、これは掛け軸として作られることが多いため、縦長にした方がよかったのでしょう。チベットのマンダラも吊り下げるタンカの場合、全体は長方形となりますが、中に措かれるマンダラは円や正方形です。上下に余白ができるので、祖師や護法尊の姿でそこを埋めます。
 マンダラの全体を表す円は、仏教的な宇宙観にもとづくものです。全体を火炎が取り囲み、その内側に金剛杵、さらに蓮華の花弁が続きます。宇宙全体が炎と金剛杵によって結界され、その内部にハスの形をした世界が包まれているのです。世界がハスとしてイメージされるのは、大乗仏教の『華厳経』などに見られ、蓮華蔵世界と呼ばれます。

(森雅秀著『マンダラ事典』より)




No.272 『マグロが減るとカラスが増える?』 

 この本は「環境問題を身近な生きものたちで考える」ということで、エコ捜査局の局長とコータくんとミズキさんで話し合いながら捜査するという設定になっています。
 捜査ファイル1はシカが増えると山崩れが起きる、捜査ファイル2はハチが消えて農作物がとれなくなった、捜査ファイル3は田んぼが変わり、メダカが消える、捜査ファイル4はマグロやイワシが減っているのはなぜか、捜査ファイル5はアオマツムシとカラスは、なぜ増える、捜査ファイル6は人間がつくり出す"毒"が、地球をめぐる、から成り立っています。そのほかにお話の前後とコラムがあり、たくさんの生きものがいることの大切さを教えてくれます。
 とくにシカが増えていることも問題ですが、当地区ではサルの被害が深刻で、それに関する本も何冊か読みました。これを書いているうちにも、サルが出てきたようで、花火がなっています。汗水垂らしてやっと収穫というときに、サルにほとんどもぎ取られてしまうというのは泣くに泣けません。とくに農家の方にとっては深刻な問題です。それが生活の糧でもあるからです。
 ある山住みの人が犬を放し飼いしたらサルは来なくなったという話しをしているのを聞いたことがありますが、犬を放し飼いするのはこれはこれで問題です。それで今度は犬をロープでくくりつけたら、その近くまでサルがやってきたそうです。さらに、そのときに犬のロープをはずそうとしたら、一目散に逃げていったそうですから、サルの知恵には恐れ入ります。たしかに、この本で紹介しているように、本来人を怖れるはずの野生動物が人慣れしてしまったことやサルの好物の実のなる木が山に少なくなったことも原因でしょうが、これらが複雑に絡み合っているような気がします。ただ言えることは、下に抜き書きしたように、自然のバランスが崩れてきていることは事実のようです。それを早い段階で、考えなければならないと思います。そして、それに対する対策も当然ながら必要になります。
(2008.08.10)

書名著者発行所発行日
マグロが減るとカラスが増える?小澤祥司ダイヤモンド社2008年5月29日

☆ Extract passages ☆

 特定の生きものが増えるというのは、自然のバランスが崩れている証拠なんだ。自然が豊かであれば、ある生きものが増えても、その生きものをえさにする生きもの、つまり天敵が増えて、だんだんと数が減って落ち着いていく。
 都会ではそういう自然の営みが失われているだけじゃなくて、クマゼミやアオマツムシやカラスが生きていくのに都合のよい環境を、人間が用意し続けているってことだと思うよ。

(小澤祥司著『マグロが減るとカラスが増える?』より)




No.271 『『論語』百章』 

 この本は、「子供と声を出して読みたい」と副題にあり、さらに「人の品格を磨くために」とも書かれています。たしかに、論語はぜひ読んでいただきたい古典の一つではありますが、この前の教育再生会議の答申のなかに、「子供たちに、古典や偉人伝などの読書、民話や神話・おとぎ話、童話、茶道・華道・書道・武道などを通じて、徳目や礼儀作法、形式美・様式美を身につけさせる」とあり、それにそって出版されたもののようです。
 昔は、「読み、書き、そろばん」といって、この論語なども何度も読み、ついには「読書百篇意自ずから通ず」(漢時代の董遇の言葉)というようなものでした。何度も読めば、意味よりも言葉がそのまま潜在的に植え付けられるかもしれませんし、なにより世界の三大聖人の一人、孔子の説かれた儒教の教えですから、今でもいろんな場面で通用します。
 この素読に対して批判もあるかと思いますが、この本では、評論家の小林秀雄の「(素読を)暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を考えることは、実に暖味な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりとした教育です」という話しを紹介しています。
 この百章を読んでみて、あらためて論語の良さを感じました。そして、古い教えではなく、今でも十二分に通用する教えであると思いました。座右において、何度も何度も読んでみたいものです。
(2008.08.08)

書名著者発行所発行日
『論語』百章岩越豊雄致知出版社2008年1月15日

☆ Extract passages ☆

 「家に三声あり」という古い言葉があります。三声とは、文字通り、家での三つの声をいいます。一つは赤ちゃんの泣く声、二つ目は子供の素読する声、三つ目は、母親が台所で、父親が土間で働く声や音です。家を中心に生活が営まれ、子供たちが親の後ろ姿を見て成長していった、一昔前の自然な家庭の教育的な雰囲気が感じられる言葉です。家の子供たちの学習もこのような古典の素読が中心だったのでしょう。

(岩越豊雄著『『論語』百章』より)




No.270 『日本を降りる若者たち』 

 この著者の本は何冊かは読んでいますが、ほとんどがアジアの旅の本です。もともとは新聞社勤務をしていたそうで、その後にフリーのライターになり、現在もそのようです。
 そういえば、昔の流行にバックパッカーというのがあり、その最初の年代です。これはベトナム戦争が大きく影響しており、反戦運動などに関わりながら何もできない無力感などで旅に出た若者もいたと思います。もちろん政治問題だけでなく、個人的な自分なりの生き方を模索しての旅や、生活に行き詰まってしまった果ての旅もあったかもしれません。何はともあれ、インドやネパール、そしてタイなどにザックを背負い漂うように旅を続けたようです。
 それが今、新たな動きとして、日本を降りる若者たちが増えていると著者はいいます。それが、この本の主題です。直接出合った多くの人たちの話しを交えながら、その外こもり、これは海外の街でひきこもる若者たちというほどの意味だそうですが、その実態を紹介しています。そして、なぜ、そのような外こもり状態になったのか、その解決策はあるのか、などを解き明かします。
 著者の強みは、自分も過去にバックパッカーであったことで、今でもときどきそのような旅に出かけていることです。さらに定年後の老人が、「ここだったら老後を生きていける」というあたり、まさに現代的な諸問題を含んでいます。
 第11章の最終章では、海外で外こもりする人たちだけでなく、日本の沖縄でもそのような動きのあることを取りあげています。今の日本が抱えている様々な問題の縮図が、ここにあるように思います。
 さらに、付章の「ラングナム通りの日本人たち」は、文化人類学専攻で現在マレーシア国民大学に在籍している小野真由美さんが寄稿しており、著者のカオサン中心とは違った感覚で書いています。もちろん、カオサンとラングナムの違いはあるでしょうが、書き手の個性も相当違うようで、とてもおもしろく読ませていただきました。
(2008.08.05)

書名著者発行所発行日
日本を降りる若者たち(講談社新書)下川裕治講談社2007年11月20日

☆ Extract passages ☆

 一度、ひとりのタイ人が東京にやってきた。僕の家に遊びに来て、当時、小学生だった娘が通っていた水泳教室を一緒に見にいくことになった。プールサイドから見ていると、まだ幼い娘が、先生にクロールで息を吸う方法を習っていた。それを見ていたタイ人の知人がぼつりとこういうのだった。
「どうして息を吸う方法を小学生から習うの? 苦しかったら顔を出して泳げばいいじゃない」
 大変なことはできるだけ避けようとするのがタイ人の発想である。僕はそういう彼を見ながら、つまりはそういうことなのかもしれないと思ったものだった。日本人は息の吸い方がうまくできずに悶々と悩み、その挙げ句、心の均衡を欠いてしまうような民族なのだ。

(下川裕治著『日本を降りる若者たち』より)




No.269 『直江兼続』 

 先月、同じ出版社である新潟日報事業社の『良寛を歩く』を読みましたが、それとタイプの違うもので、副題が「新潟県人物小伝」とあり、著者の花ケ前盛明氏は現役の越後一の宮居多神社宮司で、新潟関連の著書がいくつかあるようです。
 おそらく、直江兼続は来年のNHKの大河ドラマは「天地人」の主人公ですから、それで急にスポットライトを浴びるようになったもののようです。これは新潟だけではなく、地元の米沢市でも同じことのようで、市報にさえも毎回、直江兼続関連の記事が載っています。それだけNHKの大河ドラマの影響力はあるということなのでしょうが、もともと直江兼続は「義」と「愛」に生きた名将ですし、多くのファンもいます。この本を読むと、大正13年2月11日に従四位に叙任されたとありますし、昭和13年4月14日に松岬神社に合祀されたといいますから、現代にもその魅力は伝わるように思います。
 兼続には、逸話も多く、下に抜き出したものもその一つです。概略は、『聚楽第(京都府京都市上京区千本丸太町付近)で伊達政宗が懐から大判一枚を取り出し、諸大名にみせびらかした。兼続が扇の上にのせて見ていると、「政宗は手にとってよく見よ」と声をかけた。すると兼続は「謙信公のときより采配をとった手で、このような賤しきものは持てない」と、政宗に投げ返したという。』ということです。
 やはり、ただ者ではなく、豊臣秀吉は安心して天下の政治を預けられる1人だと言っているし、徳川家康も一目置いていたそうです。
 先ずはともかく、来年の大河ドラマ「天地人」の予備学習としては最適な小冊子ではないかと思います。
(2008.08.02)

書名著者発行所発行日
直江兼続花ケ前盛明新潟日報事業社2008年4月1日

☆ Extract passages ☆

 聚楽第にて、諸大名並居たる中に、伊達政宗懐中より金銭取出し、人々に見せられしに、其頃金銭の始まりし頃にて、珍しとて、翫はやさる、兼続にも之を見られよとありし時、兼続扇の上に金銭を置て、打返し打ち返し女童の波根(はね)突く様にして視しかば、政宗否苦うも候はず、手に取られよと言も終らぬに、兼続、謙信の時より先陣の下知して、麾取り侯手に、斯る賎き物執れば汚れ候故、扇に載せて侯とて、政宗の方に投げ戻せしかば、政宗大に赤面せりとぞ(『名将言行録』)。

(花ケ前盛明著『直江兼続』より)




No.268 『絵手紙 花のことば集』 

 この本には、300種の花と2,000の語句と絵手紙が500も掲載されています。ですから、絵手紙を書くときのヒントがたくさんあります。
 ただ、もう少し大人びた語句もあるかと思いましたが、意外と感性の断片が多く、ちょっと尻切れりトンボのような気がしました。もちろん、絵手紙が中心ですから、花の絵があり、そこの隙間に語句をちょっとだけ紛れ込ませるというようなものなのでしょう。
 私の知り合いにも絵手紙を毎日書いている人がいますが、やはり絵だけではもの足りず、気の利いた言葉が添えてあって形をなすように思います。どちらが主ということではなさそうで、両方が相まって味のある絵手紙になるようです。
 機会があれば、いつかはやってみたいものの一つです。
(2008.07.29)

書名著者発行所発行日
絵手紙 花のことば集大森節子・浅沼明次日貿出版社2008年2月17日

☆ Extract passages ☆

 花は昔から好きでしたが、ただ単に美しいなとか、珍しいなとかぐらいのものでした。けれども花を描くようになると、じっと見つめるようになりました。その花の持っている持ち味を味わいながら、事細かく観察するようになりました。色の美しさ、花びらのつき方、香り、葉のつき具合、又つぼみから開花までの様子などを鑑賞する楽しさは、心に充実感を与えてくれます。そしてそれぞれの花たちのけなげに咲く様は、愛らしく、いとおしく、私の心に安らぎをもたらしてくれます。心は満たされ、手は感動をもらって気持ちよく動き、言葉も出てくるようになりました。感じたままを素直に出せた時の満足感はたとえようもありません。何という思いもかけなかった小さな喜びのある日々がやってきたことかと、毎日描いています。

(大森節子・浅沼明次著『絵手紙 花のことば集』より)




No.267 『自然は緑の薬箱』 

 この本は、月刊『言語』(大修館書店)に2001〜03年まで、「緑の薬箱」として不定期に連載されたもの10編を大幅に書き直し、さらに6編を書き加えたものだそうです。ですから、読むと分かりますが、副題の「薬草のある暮らし」にとくに関係するものと、あまり関係がないのではないかと思われるものまで載っているようです。
 取りあげられた植物は、キナ、ケシ、イボガ、ヨヒンベ、バッカク、ヤムイモ、エキナセア、ジンコウ、ラベンダー、サイカチ、バラ、ハス、バジル、アロエ、センキュウですが、あまりなじみのないものもあります。むしろ、それがこの本のおもしろさです。
 バッカクやエキナセアなどははじめて知りましたし、それらの使い方も、いろいろと紹介されています。もちろん、今ではあまり使われていないものもありますが、いまでも現役で使われているものもあり、さらには今でもそれなくしては困るというものまであります。下に抜き書きしたジンコウなどは、香道や茶道でも使いますが、現地で直接取材したものだそうで、その希少性がじかに伝わってきます。
 また、イラストがきれいですから、ゆっくりと読みながら、イラストを鑑賞してもらいたいと思います。186ページのあまり厚くない本ながら、読み応えはあります。ぜひ、植物好きの方には、お読みいただきたいものです。
(2008.07.28)

書名著者発行所発行日
自然は緑の薬箱植松黎大修館書店2008年3月10日

☆ Extract passages ☆

 沈香というのは、東南アジアに産するアキラリアという学名の常緑樹で、水に落とすと沈むほど重い木ということで名づけられた(実際には沈まないものもある)。ジンチョウゲの仲間であるが、花から強い香りを発するジンチョウゲとは異なり、生きている立ち木からは何の匂いもしない。引っかいても、削っても、火を近づけても、せいぜい薪の匂いしか発しないのである。香りを引き出す芳香成分は、何かの拍子で樹皮や根が傷つけられたとき、あたかも人間の肉体が傷ついて出血するように、その傷口を覆うかのように染み出てくる樹脂から生まれるのだ。それは、さらに長い年月を経て、複雑な化学変化を起こし、褐色や黒に変色し、はじめてジンコールという芳香成分のつまった香木と化すのである。それがいつ起こるかは神のみぞ知るで、50年か、100年か、はたまた200年に一度か、誰にもわからない。

(植松黎著『自然は緑の薬箱』より)




No.266 『良寛を歩く』 

 もちろん『良寛』という名前につられて読み始めました。副題は、「ふらり気ままに 新潟 大人の遠足」とか「良寛をたずねる30コース」などと出ていました。おそらく、新潟の地方紙でしょうから、詳しく様々な話題まで含めて載っているのではないか、とメモしながら読みました。
 昨年の12月にも載っている何カ所かは回ってきたのですが、この本を見ると、まだまだゆかりの場所があると知りました。これからも、機会があれば何度でも訪ねてみたいと思っています。そのための情報をこの本で集めることができました。
 特に興味深かったのは、以前中国四川省の峨眉山に行ったとき、ある吊り橋のたもとに良寛さまの漢詩が刻まれた歌碑が建っていたのにびっくりしたことがあります。そのときは、植物調査が主だったのでゆっくりと石碑を見る余裕は無かったのですが、そのいわれがこの本に載っていました。良寛さまは「峨眉山下橋杭に題す」という七言絶句を詠んでいました。その峨眉山下橋杭というのは、柏崎市宮川に流れ着いたもので、鈴木牧之の著書『北越雪譜』にも登場しているそうです。そこには、「文政八年乙酉刈羽部椎谷の漁人、ある日椎谷の海上に漁して、一本の流れ漂うを見て…按ずるに、蛾眉山は唐土の北にある峻岳…」とあるそうです。それが今も保存されているとかで、かつての高柳町長らが中心になって峨眉山のふもとに歌碑を建てたのだそうです。それが私の見てきたもののようです。
 縁は異なもの味なものです。でも、それで納得しましたから、この本にも感謝です。だからというわけでもないのですが、もし良寛さまに興味があれば、ぜひお読みいただき、紹介されたコースを歩いてみてください。
(2008.07.25)

書名著者発行所発行日
良寛を歩く野崎史子 文・写真新潟日報事業社2008年4月22日

☆ Extract passages ☆

 (国上寺)住職さんは「良寛には申し訳ないようですが」と前置きしてこんなことを教えてくれた。「本堂などが建つ境内と客殿や五合庵などがある境内を仕切る山門は、江戸末期までは開かずの門でした。この山門をくぐられたのは住職と殿さまと修行僧と稚児だけで、一介の居候僧侶であった良寛はここを通ることはできなかった。従って良寛が本堂へお参りにくる際には、一般的に紹介されているように五合庵から直接10分ほどで容易に登ってきたのではなく、五合庵からひとたびふもとまで下り、あらためて本堂の参道を登ってきていたんですよ。優に片道1時間30分の軽登山の参拝になります」。えっ!?

(野崎史子 文・写真『良寛を歩く』より)




No.265 『いやな世の中〈自分様の時代〉』 

 『いやな世の中』という本の題名ですが、いわれなくても、ホント、いやな世の中だと思います。食品の偽装表示や大分県の不正な教員採用試験、無差別殺人や尊属殺人の増加、クレーマーやモンスターペアレンツ、ワーキング・プアなどの問題などなど、数え上げればきりがないほどいやな問題が増えています。
 しかし、この本にも書かれていますが、「努力しても報われない。人生は自分の思い通りにならない。裕福にはなれない。宝くじにはあたらない。健康は損なわれる。失恋する。傷つく。コケにされる。挫折する。なりたいものになれない。年老いて醜くなる。だれも認めてくれない。すべて、あたりまえのことである」のです。おそらく、相当数の人たちが、このように考えているかもしれないのです。ただ、「このあたりまえのことを、こと自分に関しては、あたりまえのこととして受け入れることができない」ことが問題なのです。それがこの副題でもある〈自分様の時代〉の特徴でもあります。
 これを著者は、「自分病」と表現していますが、「自分」のことだけで頭がいっぱいであることを認識していないことも大きな問題で、自分以外はどうなってもかまわないとまで言い切る輩も出てきています。しかも、自分はいつも正しく、間違っているのはいつも他人で、自分の思い通りにならないと、それも他人のせいにしてしまいます。
 おそらく、このような本を書かせた動機は、下に抜き出したような感情からではないかと想像するのですが、ホント、いやな世の中だと思います。
 ただ、このようなコメントで終わってしまうのも、根本的な解決策がないからです。まさに、なるようにしかならない、からでもあります。たしかに、根は深そうです。
(2008.07.22)

書名著者発行所発行日
いやな世の中〈自分様の時代〉(ベスト新書)勢古浩爾KKベストセラーズ2008年4月14日

☆ Extract passages ☆

 なにがつまらんといって、人間がどんづまりになっていることが一番つまらない。なぜどんづまったかというと、資本主義的欲望が頭打ちになって、大人から子どもまで、自分自身という存在じたいが生きることの目的となったからである。それが、いやな価値観の正体である。
 その根底には無制限の権利意識と放玲な自由意識がある。マスコミや世間が煽る「自分様」意識も作用しているだろう。それに底上げされて、自分一番の「自分様」が激増している。「自分という立場」があらゆる立場の頂点に立ったのである。

(勢古浩爾著『いやな世の中〈自分様の時代〉』より)




No.264 『世界の宗教問題の基本』 

 この本の副題は「2時間でザックリわかる!」とありますから、いわば宗教問題のハウツー本かと思って読み始めました。しかし、世界の宗教問題といいながら、付録で仏教やヒンドゥー教、チベット仏教などをわずか数ページで取りあげていますが、ほとんどがイスラム教とキリスト教の問題でした。
 考えてみれば、今、世界で大きな問題になっているのはイスラム世界とキリスト教世界の対立です。もちろん、直接の対立ではないことは当然でしょうが、民族対立や部族対立、領土紛争などの陰で見え隠れするのが宗教対立です。それをその宗教史を絡めながら、歴史の中でとらえ直し、現在の問題までの過程をつぶさに見ていきます。まさに2時間でイスラム世界とキリスト教世界の対立構図が見えてきました。
 この本によると、その対立の後ろに隠れて見えないものが一番の問題のようです。しかも、そのときの都合によって、イスラム世界の一部と手を組んだり、次はキリスト教世界と手を組むという、まさに節操のなさがあるようです。もちろん、これが真実ではないかもしれませんが、そのように見えなくもないのが国と国との争いごとです。
 下に抜き出したように、元大統領補佐官のズビグネフ・ブレジンスキー氏の言葉が重みを持つのも、その決定権を持つ側近であったからこそなのかもしれません。
 機会があれば、お読みください。
(2008.07.20)

書名著者発行所発行日
世界の宗教問題の基本(青春新書)保坂俊司編著青春出版社2008年5月15日

☆ Extract passages ☆

 古来、戦争は当事者には惨事でも、周辺者にはビジネスチャンスであった。しかも、アメリカは国内に大きな軍需産業を抱えており、これらが「テロ戦争」をバックアップしている、という構図が見え隠れする。この「マッチポンプ式」を考慮に入れると、テロ戦争の正義の異なった側面があらわとなる。・・・・・・
 ブレジンスキー氏は、「国際テロという、敵が見えず、明確な勝利と戦略が見えない戦争によって、アメリカの安全保障戦略は大きな間違いを犯している」「ゴルフ場からコカ・コーラの売店まで、すべての場所がテロのターゲットとされたことで、防御のしようがなくなった」と、アメリカが始めてしまった対テロ戦争の根本的な問題点を指摘している。

(保坂俊司編著『世界の宗教問題の基本』より)




No.263 『祭りのゆくえ』 

 この本の題名より、副題の「都市祝祭新論」というところに目が止まりました。地方の祝祭も少しずつですが変化していますが、都市部はすでに大きく変化しているようです。だとすれば、その都市部の祝祭というのは、これからどうあるべきなのか、それを考えてみたいと思い、読み始めました。
 結論からいえば、「こんな時代に、過去の共同をもとにした集団の結びつきをそのままもちこむ地縁のマツリがうまく受け入れられないのは、至極もっともなのである。」ということです。変わらなければ残れないし、その激動のまっただ中にいると著者はいいます。
 しかし、古いものがすべて新しくかえるべきなのではなく、残すべきは残し、変えるべきは変えていく、それがうまくいったマツリが、現在支持されているのではないかと思われます。ここでは、その代表的なものとして「YOSAKOIソーラン祭り」や「沖縄の「エイサー」などを上げていますが、たしかに勢いもあるし、あまり制約がないのも現代人には受けそうです。でも、これらとし、このまま永遠に続くわけではなく、むしろ続けていく気構えが必要なのかもしれません。
 なにはともあれ、祭りを「マツリ」として、ここまでしっかりと分析して考えさせてくれた著者に感謝したいと思います。
(2008.07.17)

書名著者発行所発行日
祭りのゆくえ松平誠中央公論新社2008年3月10日

☆ Extract passages ☆

 現代の都市マツリには、いろいろな特徴があるが、歴史も伝承もない商店街マツリや市民マツリの場合、当事者がマツリを「ミル」「スル」ことのほかに、行事をイベント化して、「ミセル」ことが欠かせない。
 マツリそのものが「ミセル」ものになっているから、素人でもかなり質の高いものでなければ人を呼びにくい。それも、毎回同じでは観客に飽きられるおそれがある。いつも進化した出し物を提供できなければ、持続的に感興を与えつづけることができない。いい換えれば、長続きしない。「よさこい祭り」は、戦後生まれのマツリのなかで、そのことに成功した数少ない例の一つである。

(松平誠著『祭りのゆくえ』より)




No.262 『和暦で暮らそう』 

 この本によれば、「和暦とは、大陸から旧暦が伝来する以前に存在したと推定される日本独特の自然暦・農事暦・祭事暦のことです。それは日本人の魂の原型。「和の心」を育みつづけてきた母体。日本文化のDNA。」であるとしています。ということは、現在の暦とは当然違うものの、いわゆる旧暦とも違うことになります。いわば、日本独特の暦ということのようです。
 もともと、昔の日本人は、「年の循環を稲作の始め終わりに結びつけ、トシの初めに田の神を迎えて種を蒔き、収穫をもたらしてくれた田の神を送ってトシが終わる、と考えた」といいますから、この和暦の基本は農事暦に近いもののようで、日本の自然と一体のものでもあります。
 とくに興味深かったのは、下に抜き出した文章で、なぜ日本人が花鳥風月に関心があるのかという下りです。普通はこのような解釈はしないようですが、この説のほうがもっともだと納得できました。そして、知らず知らずのうちにこの和暦に影響を受けている自分を感じました。そういう意味では、この本のタイトル『和暦で暮らそう』というのは、ストレスのたまりやすい現代社会を生き抜く清涼剤なのかもしれません。
 ただ、いまいちすっきりしない部分もあったので、自分なりにもう少し勉強してみたいと思いました。
(2008.07.15)

書名著者発行所発行日
和暦で暮らそう柳生博と和暦倶楽部小学館2008年3月4日

☆ Extract passages ☆

 たぶん、それは風流の嗜みが主導したものではありません。危険と引き替えの山紫水明・花鳥風月。つまり、風流心が季節感を発達させたのではなく、危険な土地柄で生存を安んじて、食いつなぐための適応が先。この風土で暮らしを立てていく必要上、極度に洗練された感受性を発動して、自然の気配への細やかな気づきと精確な名づけを試みざるをえなかったからではないでしょうか。
 生き死にを賭けて、知性・感性を総動員すべき生活の基本をなす営みであったがゆえに、劇的な造化を遂げたのです。日本人の協調性も、この風土に根づいたものでしょう。我を張った争いは適当におさめ、まとまって協力しなければ地震や洪水など克服できるはずがありませんから。

(柳生博と和暦倶楽部著『和暦で暮らそう』より)




No.261 『いま、働くということ』 

 偶然ですが、2冊続けてちくま新書を読んだのですが、これを書いていてまたもビックリ。発行日が奇しくも同じ日でした。
 今、働くことの意味があらためて問われているように思います。フリーターが多くなり、正社員との格差が広がっているのも問題ですが、仕事そのものにつけない引きこもりなども多くなっています。この本にも書かれていますが、「"こつこつ続けたところで、しょせん……"。こうしたシニシズムは、たんに働くことを覆っているだけにとどまらず、さらには、生きていること・自分が存在するということをも覆いはじめているようである。働くことへのシニシズムは、"生きていたって、どうせ……"というシニシズムと、表裏一体とまでは言えないにせよ、思われるよりも深いところで深刻に絡みあっているように感じられる。」のです。働くというのは、まさに生きるということでもあります。働けないということは、下に抜き出したように、「辛い」ものなのです。
 ただし、この本はちょっと読んだだけでスーッと入ってくるようなものではなく、昔、読書会でマルクスの『資本論』を読んだときのような難解さを感じました。ですから、とても理解できたとは思えません。
 この本は、しばらく間を置いてまた読む、それでもわからなければ、またしばらく間を置いて再び読む、そのように読み進めるしかないと思います。
(2008.07.12)

書名著者発行所発行日
いま、働くということ(ちくま新書)大庭健筑摩書房2008年5月10日

☆ Extract passages ☆

 働けないということは、非常に幸いのである。もちろん、働けないことの辛さのうちには、自分で生計を立てるのが困難になる、という実際の辛さが含まれている。しかし、それが、働けない辛さのすべてなのではない。むしろ、人々が、協業のネットワーク全体をつうじて自然に対して働きかけて、万人の生命・生活を維持し再生産するのに必要なものを作り出し、必要とする人の手に届ける活動に参与しているときに、自分だけはそうしたネットワークの綱目を織り成していない、という事実が、幸いのである。

(大庭健著『いま、働くということ』より)




No.260 『私塾のすすめ』 

 齋藤孝さんと梅田望夫さんとが、3回対談を行い、それをまとめたのがこの本です。副題は「ここから創造が生まれる」とあり、ただ空気を読むだけでなく、空気を共有し、その方向性を自ら体現することが必要であり、その一つが私塾であるようです。そういえば、幕末維新という変革期に若者たちが「私塾」を手がかりに、大きな力になっていったことを考えれば、その可能性には大きなものがありそうです。
 しかも、今は世界中とインターネットでつながる時代ですし、ブログなどはすぐに私塾になりうるものを含んでいます。
 さらに、社会そのものに大きな閉塞感がただよい、本気で今のこの閉塞感を打ち破ろうとしているのかさえ、疑問に思えます。ますます所得格差が広がり、何をやってもダメというやる気のなさも感じられます。そういう意味では、まさに幕末維新に似ていると思います。
 学ぶとはどういうことか、学ぶためには何が必要か、など、多岐にわたる提言をまとめたようなものがこの本です。これからは私塾的なものも必要かな、って思わせます。
 機会があれば、ぜひお読みください。
(2008.07.08)

書名著者発行所発行日
私塾のすすめ(ちくま新書)齋藤孝・梅田望夫筑摩書房2008年5月10日

☆ Extract passages ☆

 天才とか偉人と呼ばれている人は、学ぶことがうまい。あるいは学ぶ情熱にあふれているので、そういう人たちのほうが、ヒントを多く与えてくれる気がします。大きな仕事をする人というのは、向き合っているトラブルもまた、ふつうの人より多いんですよね。そういうトラブルの乗り越え方というメンタリティの面でも、勉強になります。自分と比べれば、偉大な人の陥っているトラブルのほうがうんとすさまじい。(齋藤孝)

(齋藤孝・梅田望夫著『私塾のすすめ』より)




No.259 『かけがえのない人間』 

 この本によると、今はやりの「癒し」という言葉を流行らせたのはこの本の著者だそうですが、たしかに軽い語り口で、読みやすく、読み終えると、「たしかにそうだなあ!」と思わせます。こういう人って、講演もそつなくこなすんだろうな、と思いました。
 専門は文化人類学ですが、『がんばれ仏教!』や『目覚めよ仏教!』(ともにNHKブックス)、『宗教クライシス』(岩波書店)などの著書があるところをみると、宗教に対してもさまざまな提言などをおこなっているようです。この本でも、何度かダライ・ラマとの対談の様子が出てきますから、とくに仏教への思いがあるのかもしれません。
 この本では、自分の生い立ちを語り、そのなかで本当は人に話したくないような部分まであからさまにして一人一人がかけがえのない人間であることを明らかにしていきます。おそらく、相当な勇気が必要だったのではないかと思います。もし、自分だったら、ここまで話せるだろうか、おそらく講演だったら話せても、文字として残ることを考えれば、できないだろうなと思いました。
 ある講演をよくされる方にお聞きしたのですが、おそらく成功した話しとか立志伝的な話しを聞いて参考になることは意外と少ない、むしろ、失敗した話しや人生を棄てそうになった話しのほうがとても参考になると言われたことがあります。まさに、そのような話しがここにたくさん載っています。やはり、相当な実力と自信がなければ書けないのではないかと思います。
 もし、機会があればお読みください。
(2008.07.02)

書名著者発行所発行日
かけがえのない人間(講談社現代新書)上田紀行講談社2008年3月20日

☆ Extract passages ☆

 自分の周りの人間は、みんな仲間で信頼できるんだ、という感覚を小学校の六年生までに得られれば、そのあとで人生にかなりの問題が起こってきて、相当な負荷がかかっても、人間は大丈夫だ。壊れない。しかし子ども時代に信頼というものを築き上げられなかった人たちは、その後の人生でたいへんなことになる。自分が調子がいいときはいいけれども、人生がピンチになったときに、いろんな問題が噴出してくる。キレて他人に暴力的になったり、自分自身に暴力的になったり、たいへんなことになるというのです。

(上田紀行著『かけがえのない人間』より)




No.258 『宮大工の人育て』 

 中学卒業と同時に大工見習いに入り、ふとしたきっかけから地元の福泉寺鐘楼堂の新築の仕事をし、それが社寺建築との出会いとなったようです。その後、21歳で法隆寺の宮大工である西岡常一棟梁のもとで働き、足かけ7年(1973年9月〜1979年4月)お世話になったそうです。そこでの見聞きがこの本の底辺にあるようです。副題も、「木も人も「癖」があるから面白い」です。
 実は、「西岡棟梁はよく、「木組みは入組み」ということを言っていました。木には癖がある。人にも癖がある。癖のある木を組み合わせて立派な社寺を建立するには、癖のある職人たちを適材適所に配置し、心を一つにしないといけない・・・・・・」ということも載っていました。それと、今、行政のいろいろな問題がよく話題になりますが、公務員だって失敗することはあります。ただ、「自ら失敗と向き合うことです。それには大前提として「ミスを隠さない心」が必要です。」という言葉には、ぜひ耳を傾けてほしいと思います。
 結局は、人が伸びるかどうかの大きなポイントは、「なぜだ」を追い続ける探求心とともに、「素直さ、真面目さ」だそうです。さらに「一途さ」で、著者の場合には、とにかく大工になることしか頭になく、生活のすべてが大工の腕を上げることで、ほかのことには目もくれなかったそうです。
 さすが職人さんですが、このような気持ちで仕事に打ち込むことは、どんな世界でも卓越するためには必要なことなのでしょう。
 今、このような心が失われつつあるのが残念ですが、だからこそ、このような本が出版され、版を重ねるのかもしれません。
(2008.06.29)

書名著者発行所発行日
宮大工の人育て(祥伝社新書)菊池恭二祥伝社2008年4月5日

☆ Extract passages ☆

 大事なのは、雑用でも手元でも、言われたことに対して、どれだけ素直に真面目に好奇心をもって取り組めるか、です。私どものような職人の世界は、学校とは違いますから、手取り足取り教えることはありません。棟梁や先輩大工は手本になるだけで、そこからどれだけのものを学び取れるかは、弟子の心構え一つです。・・・・・・
 手本を見せてもらったら、それを自分のものにできるかどうかは、本人のやる気と努力次第です。失敗を繰り返し、試行錯誤を重ねながら、少しずつ自分のものにしていく。それこそが職人の世界の学びのプロセスです。

(菊池恭二著『宮大工の人育て』より)




No.257 『日本民藝手帖』 

 No.252 『井戸茶碗の謎』の中に、この日本民藝館の初代館長だった柳宗悦(普通は「そうえつ」と読んでいるが、本名は「むねよし」)のことが出ており、朝鮮陶磁器との関わりが書かれていました。それと、何年か前に倉敷の大原美術館を見学したとき、民藝運動に関わったパーナード・リーチや濱田庄司、河井寛次郎、芹沢鮭介、棟方志功などの作品を見て感動したことがありました。また、直接彼らの作品に茶道具として出会ったこともあり、民藝の美しさを感じていました。
 そんなこんなで、この本を手にしました。題名の通り、日本民藝館の紹介のようなもので、随所に初代館長の柳宗悦氏や第3代目館長の柳宗理氏の文章なども掲載され、適度な読み物になっています。もちろん、収蔵されている民藝の数々もカラーで紹介され、行ってみたいなという気にさせてくれます。  場所は、東京都目黒区駒場4丁目3番33号、電話は 03-3467-4527 です。
 『日本民藝館』というホームページもありますので、アクセスしてみてください。
 また、『日本民藝協会』は、1934年に民藝運動の振興を主な目的として作られた団体です。雑誌『民藝』なども発行されていますので、興味のある方は見てみてください。
(2008.06.27)

書名著者発行所発行日
日本民藝手帖日本民藝館監修ダイヤモンド社2008年2月28日

☆ Extract passages ☆

 物を見るには物差など持出さずともよい。持出さぬ方がよい。持出せば物差で計れるもの以外は見えなくなってしまう。この世にはそんな目盛や長さで計りきれないものが沢山ある。一定の物差の如きは、見方を縛って不自由なものにさせるに過ぎぬ。真に美しいものは、寧ろ割り切れないものであろう。物差で計り切れる美しきは、高が知れていよう。少くとも美しきの自由は、計量を越える。(柳宗悦)

(日本民藝館監修『日本民藝手帖』より)




No.256 『本草学者 平賀源内』 

 平賀源内というと、エレキテルや火浣布などを作ったことしか思い出さないのですが、「本草学者」と書いてあるので興味を持ちました。
 本草学とはこの本によれば、『「本草」とは草に本づくという意味で、前漢の武帝(在位、前141〜前87年)時代に誕生した新語であるという。自然に存在するもののうちで薬になるのは植物性のものが多いため、本草学は漢方医学でいう薬物学を指す。』とあります。そして読み進めていくと、下に抜き書きしたような「東都薬品会」という今の博覧会のようなものを催していました。しかし、本草学で大成したかというとそうではなく、結局は器用貧乏そのもののような生き方をしていたようです。
 そして、最後は小伝馬町の牢獄で破傷風に罹り病死してしまうという、ちょっと惨めなものです。ありあまる才能を生かし切れないというか、その才能をもてあましていたというか、結局はエレキテルの平賀源内としてしか思い出されないのです。
 源内の墓碑銘を書いた杉田玄白は、『ターヘルアトナミア』の翻訳をふとしたことから言い出したのを前野良沢ら同士が賛同してくれて、『解体新書』を訳し遂げました。晩年玄白は、「自身が九つの幸福に包まれているとして九幸老人と称した。太平の世に生まれ、江戸で育ち、藩から扶持を受け、極貧でなく、貴賤を問わず人と付き合い、有名になり、子孫が多く、長寿で、高齢でも元気でいるという幸福である。」ということで、有名になったこと以外は平凡かもしれませんが満ち足りた世を送ったようです。どちらがいいかなどと簡単に比較はできませんし、人それぞれ考え方も違いますが、同じ時代を生きたということを思うと、ちょっと考えさせられます。
 たしかにこの本では、本草学者としての平賀源内は中途半端ですが、精一杯もがきながらも生きたという印象は持ちました。
(2008.06.25)

書名著者発行所発行日
本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ)土井康弘講談社2008年2月10日

☆ Extract passages ☆

 「東都薬品会趣意書」により、開催を諸国へ呼びかけたことが功を奏したのか、集まった物産の総数が2,200余りであったことを源内はのちに自著『物類品隲』の凡例で伝えている。これにより過去第一回から四回までの田村藍水一門で行った総数七百数十余りを一度で凌いでしまったわけだが、この快挙で源内の本草学者としての名声は一層高まった。
 しかし源内は、これで満足したわけではなかった。それまでの五回の物産会で出品された合計2千余種の中から、重要だと判断した360種について記した『物類品隲』全六巻を宝暦22(1763)年7月に出版した。

(土井康弘著『本草学者 平賀源内』より)




No.255 『名画はあそんでくれる』 

 二玄社っていうと、書道や美術関連書籍を一番に思い出すんですが、このようなエッセイ風のものも出しているのをはじめて知りました。そこで、ホームページを見てみると、クルマ関連の本も出しているそうで、なかなかバラエティに富む出版社のようです。やはり、人の興味なんていうのは狭いもので、井戸の中の世界で遊んでいるようなものです。
 さて、名画といわれても、何を名画と考えるかは人それぞれでしょうが、その名画とのつきあい方もまた、人それぞれのようです。著者は、名画と友だちのように付き合いたいとして、「友だちになる前から、その人の家族構成や趣味を知っていることがないように、つき合いながらだんだん背景を知り、理解を深めていけばいい。それがいつしかかけがえのない存在に変わる。そんなつきあいがしたいと思っている。」といいます。
 おもしろいのは、美術館で本物を見ると感動してきたのに、買ってきた図録を見ても、ほとんど感動しない場合があります。それと逆に、本物のように感動する印刷物もあったりします。また、見る側のこちらの体調に左右されたりもするようです。
 それも、名画が私たちに遊びを提供してくれていることなんでしょうかね?
(2008.06.21)

書名著者発行所発行日
名画はあそんでくれる結城昌子二玄社2008年3月10日

☆ Extract passages ☆

 私にとっていい絵は友だちのような存在だった。
 もちろん絵を見る楽しみはいろいろで、例えば純粋に「目の喜び」だったり、(マティスの絵なんて本当に目のごちそうだ)あれこれ想像する面白さだったり、(ミロのヴィーナスの失われた腕が発見されていたらこんなにも魅力的ではなかったかもしれない)、さらには知識を深める楽しみだったりする。けれどなんといっても、私が経験的に感じてきたことは、いい絵には人を励ます力があり、人を慰める優しさがあるということだった。
 それってどういうこと? と聞かれてもひとことではうまく説明することができない。いい絵に親しむようになって、折々に名画に触れながらふと元気になっている自分に気づくことがしばしばあるわけで、訳もなく憂鬱な時など、ずいぶんいい絵に救われてきたと思う。

(結城昌子著『名画はあそんでくれる』より)




No.254 『シャーマンと預言』 

 シャーマンという文字に惹かれて手に取りました。著者の定義は、「シャーマンは人間の世界と精霊の世界を行きかうために意識的に脱魂(エクスタシー)や憑霊(ポゼッション)をする技術を、生命をかけた厳しい修行を通じてマスターし、自分を別の意識状態にすることができる。」とありました。
 この本は、著者がシャーマンの一人といわれる松堂玖邇とのつきあいの中から自分が見聞きしたことを書き記したものです。私は、それらが本当のことかどうかはわかりませんし、結局は信じられるか信じられないかということなのでしょう。
 ところで、預言の意味ですが、「辞書を引けば、「よげん」には二つの漢字があり、それは「予言」と「預言」である。「予言者」とは未来を予測する者のことであり、「預言者」とは神託を告げる者のことである。」と書かれていますから、ここではシャーマンが神託を告げるその内容が中心です。しかし、それが預言といわれるものかどうか、それも結局は信じられるか信じられないかということに行き着きます。何度読み返しても、そう感じました。
 ただ、この本を読んで参考になったのは、戦時中の沖縄戦についての記述です。いかに戦争というのは、残酷で非人間的なものかがわかります。
(2008.06.17)

書名著者発行所発行日
シャーマンと預言石巖怪フォレスト出版2007年12月5日

☆ Extract passages ☆

 「宿命」は変えられないが、「運命」は変えられる。
 「宿命」とは、生まれた場所やこの世に生を与えてくれた父親や母親など、人間の手で変えることのできないものである。
 では、「運命」とは何か。古い昔に例えていうならば、国の王子が成人して、新たな王国をたてる旅に出ることになったとしよう。東に行くのか西に行くのか、すべては王子の意思しだいで決まる。東に行き、旅の途中で病に倒れてしまうのか、西に向かって苦難のすえに豊穣の土地を見つけるのか、すべては王子の選択と自らの力にかかっている。
 これが「運命」である。
 父親である王は、王子の未来が幸福なものであることを願って、シャーマンに東に行くべきか西に行くべきかをたずねるだろう。シャーマンは「超越した世界」に魂の旅をして、「神」に行くべき道を相談し、その結果を王子に教える。王子がシャーマンの神託を信ずるか否かは、王子の選択しだいである。

(石巖怪著『シャーマンと預言』より)




No.253 『物語が生きる力を育てる』 

 著者は1948年生まれで現在ノートルダム清心女子大学教授だそうで、「岡山子どもの本の会」代表や岡山県子ども図書活動推進会議会長もされているそうです。読むとわかりますが、実践されている活動から書かれている部分が相当あります。
 しかも、具体的に多くの絵本や読み物などを取りあげ、物語がいかに子どもたちにとって大切なもので、それが生きる力になるかを明らかにしていきます。
 今、社会を見渡すと、大人になりきれないというか、いい年の大人までモンスター・ペアレントやモンスター・ペイシェントといわれることもあります。それだって、理不尽な要求や自己中心的な行動をするから「怪物」扱いされるわけですが、たんにモラル低下とは言えきれないものがあります。
 そういえば、今月8日に秋葉原で起きた無差別殺傷事件もそうですが、事件を起こした直接のきっかけについて「(勤務先の)ツナギ(作業服)がなくなり、やけを起こした」と供述しているそうですが、まったく身勝手な犯行で理解に苦しみます。
 やはり、子どもの時に、ゆったりと絵本を読んだり外で遊んだりする経験が少なかったような気がします。とくに、この本を読んで、考えさせられました。
 巻末にこの本で取りあげた絵本や読み物を一覧で紹介していますので、これから子育てをする方には、ぜひお読みいただきたいと思います。
(2008.06.13)

書名著者発行所発行日
物語が生きる力を育てる脇明子岩波書店2008年1月29日

☆ Extract passages ☆

 子どもが物語を読むことにはどんな意味があるのか、という問いに対して、感情体験ができるということ、実体験にはかなわないとはいえ、五感で世界を味わうことのすぼらしさに気づき、それが自然体験へと発展していく可能性もあるということ、そして、人間らしい暮らしのイメージをつかむとともに、「心の居場所」を見出すこともできるということを挙げてきました。もちろんそれは作品の質次第であって、だからこそ「質のいい物語」をしっかり選んで子どもたちに手渡すことが重要になってくるのです・・・・・・

(脇明子著『物語が生きる力を育てる』より)




No.252 『井戸茶碗の謎』 

 著者は韓国の陶芸家で、この本も2005年6月に『私たちの茶碗の物語』という題名で韓国で出版されたそうです。それで、大変な反響を呼び、今回日本でも出版されたのですが、バジリコ株式会社という出版社ははじめて聞きました。
 この井戸茶碗ですが、著者は、「いくつかの根拠により、日本で名品となった井戸茶碗のほとんどが韓民族の祭器だったことを、私なりに明らかにしたいと思います。井戸茶碗の中で、飯茶碗が名品になったものもわずかにありますが、大半は祭器であったのではないかと・・・・・・。」と述べています。それがこの本の流れでもあります。読むと、井戸茶碗を美術館などで何度か見ていますが、そのように思えてきます。
 一番不思議だったのは、韓国ソウルの国立博物館で韓国の名品をつぶさに見たときに、なぜ、粉青沙器(粉を塗った青磁)、日本では三島や刷毛目粉引などと呼ばれていますが、意外と短期間しか作られなかったのかでした。もちろん、文禄・慶長の役以降に日本からの注文で作られた高麗茶碗(御所丸茶碗、金海茶碗、彫三島茶碗、伊羅保茶碗、御本茶碗など)はありますが、それらはあくまでも日本から注文して作られたものですから、もちろん韓国にはほとんど残っていません。もちろん、現在でもそれらしい茶碗を日本人向けに作って売っており、私もお土産として、金海の猫掻き茶碗を購入してきました。
 この「なぜ?」に対する答えが、書いてありました。そして、韓国の陶磁器の歴史も、陶工としての立場から、詳しく書いています。井戸茶碗だけでなく、高麗茶碗などに興味のある方には、ぜひお読みいただきたいと思います。後ろのほうの「陶工の火の物語」には、自らの制作風景が描かれており、実際の陶磁器制作の難しさもよくわかります。
(2008.06.09)

書名著者発行所発行日
井戸茶碗の謎申翰均(シンハンギュン)バジリコ株式会社2008年3月30日

☆ Extract passages ☆

 それ(韓国陶磁器の美しさ)は、歪んだ壷から感じ取れる非対称の趣、過酷な荊棘の刑を前にしても正義を貫き通したソンビ(官職につかない在野の学者)精神に似つかわしい節制の美。この二つが絶妙に調和し、創造的な「匠の精神」と「ありのまま」を愛する余裕と諧謔が交わることで、韓国の古陶工の自由を求める魂が表現されているためです。
 韓国の古陶磁器の美しさの秘密を一言でいうと、陶磁器の「肌の美しさ」にあります。ここでいう陶磁器の「肌」とは胎土を指しますが、胎土は土です。土と薪火が出会って生み出す色彩が陶磁器の肌だといえます。

(申翰均著『井戸茶碗の謎』より)




No.251 『中国名言集 一日一言』 

 6月4日、この本を読んでいるときに、NHKのクローズアップ現代で、「ランキングに依存? 本の危機」という放送がありました。
 それを見ると、ここ10年間で66の出版社が倒産や廃業をしているといいます。さらに1990年以降中小の書店が半分以下になり、大型書店が増えているそうです。しかも、売り上げは1996年を頂点にして、それ以降下がり続けており、逆に出版点数は増えているようです。
 問題は、たとえば草思社のように「いい本をじっくり作って、時間をかけて売っていく」タイプの出版社はダメになり、あまりにも一極集中的なランキングに翻弄されているように思いました。でも、ある調査によると、ランキングに左右されるのは年に2〜3冊しか買わない人が多いそうです。
 思うに、本なんてものは、自分が興味を持つから読むものであって、ランキングに左右されるようなものではないはずです。この『中国名言集 一日一言』も、ちょっと古風な装丁で、いかにも岩波書店らしさがあり、よくまとまっています。日本になじみのある成句でさえ、その出典は意外とおぼろげなものですが、これ1冊読めば、ちょっとした中国名言通になれそうです。
 一日一言ですから、ちょっとした時間でも読み進められ、いつの間にか読み終わるようなものです。ぜひ、机の脇に置いてお読みください。忘れっぽい人は、何度でも楽しめます。
(2008.06.06)

書名著者発行所発行日
中国名言集 一日一言井波律子岩波書店2008年1月8日

☆ Extract passages ☆

 「書を読むことを好めども、甚だしくは解するを求めず。意に会する有る毎に、便ち欣然として食を忘る」(『五柳先生伝』)。「読書は好きだが、徹底的にわかろうとはしない。ただ心にかなうところがあるたび、うれしくなり食事も忘れる」の意。重箱の隅をつつくような神経質な読み方はせず、わからない箇所があってもこだわらず、どんどん読み進めてゆく陶淵明の読書法は後世、文人の理想となる。

(井波律子著『中国名言集 一日一言』より)




No.250 『草手帖』 

 この本は、道ばたを歩いて出会った花たちに、一歩近づいて描いたものです。1ページにイラストのような写真と、まさににらめっこするような近さで感じた文章とで成り立っています。
 取り上げられた草花(著者は好意を寄せて雑草というしています)を40、その他にコラムのような文章を載せてあります。著者は、この本から、「名前をおぼえ、生活の中にとり入れ、四季の移り変わりを肌で感じてもらえるとうれしいです」といいます。
 たしかに、一口に雑草とはいいますが、よく見ると、とてもおもしろいものです。踏まれても踏まれてもという印象はありますが、その強さにも秘密があります。その秘密を、端麗な言葉で解き明かす、それがこの本です。
 装丁もすてきですから、ぜひ手に取ってみてください。
(2008.06.01)

書名著者発行所発行日
草手帖かわしまよう子ポプラ社2008年3月6日

☆ Extract passages ☆

 自然のままに咲いている花、というのは、小さな種が自分の意志を目覚めさせて、根を伸ばし葉を広げた花のこと。どんなに暑くても寒くても、いままで見たことのない世界の中でも、根をおろせば愚痴をこぼさず、他所をうらやましがることなく咲いている花。芳しい香りにつつまれてやさしく咲く花もよいのだけど、わたしはたくましく咲いている花ばかりに目が動く。スッと、こころは惹かれてしまう。

(かわしまよう子著『草手帖』より)




No.249 『新個人主義のすすめ』 

 個人主義というと、利己的で身勝手な印象がありますが、イギリスをはじめ西欧の国々では当たり前のことです。ところが日本では、戦後、一方的に与えられたようなもので、自らの意志で勝ち取ってきたものではありません。そこに、わかりにくさの原因があります。もちろん、個人主義は利己主義でも孤立主義でもありません。
 著者は、その区別を次のようにまとめています。
 1、他の人のことも考えずに、たとえば鉄火巻きなら鉄火巻きばかり、自分の好物だからといって、30個も40個も食べてしまう人、これは利己主義者です。
 2、他の人の好みや都合を考えずに、すべての人を十把一からげにして、一定のものを押し付ける人、これは全体主義または団体主義者です。
 3、他の人の好みや都合を考えて、よけいなおせっかいはしない、そしてまた同時に他の人の食べる分もよく慮って自分の欲望は抑制する人、これが個人主義者です。
 とまとめています。
 たしかに、このあたりの区別を日本人の多くはごちゃ混ぜにしているような気がします。また、著者の意見ですが、「長いものが出てきたら、積極的にそれに巻かれないように手足を運動し、脳細胞を総動 員して、反撃を試みる。そのくらいでちょうどいいのです。
 出る釘は打たれる、そのことを恐れてはなにもなりません。むしろ、打たれ続けた釘はしっかりと材木に固定されて大きな力となるのだ、とそのくらいの気概を持って、敢然として打たれてみる。打たれてもまた意見を言う。また打たれる。しかしまた意見を言う。そういうふうにして、もっとも妥当なところへ全体の意見を集約していくというのが本当の民主主義なのです。」には同感です。長いものにまかれて、自分を見失って良いことはありません。
 著者は、個人主義とはなにかと問われたら下の「Extract passages」に抜き書きした二十箇条のなかにその答えがあるといいます。ぜひ、ゆっくりと味わいながらお読みいただきたいと思います。
(2008.05.29)

書名著者発行所発行日
新個人主義のすすめ(集英社新書)林望集英社2008年1月22日

☆ Extract passages ☆

個人主義はつるまない。
個人主義は他者を認めて調和する。
個人主義は思いやりの心を大切にする。
個人主義は不必要に人に干渉しない。
個人主義は自分の言行に最後まで責任を持つ。
個人主義は威張らない。
個人主義は人に無駄をおしつけない。
個人主義は自分の好みを人におしつけない。
個人主義は感情に流されない。
個人主義は約束を守る。
個人主義は時間を大切にする。
個人主義は付和雷同しない。
個人主義は流行に流されない。
個人主義は自分を自分らしく表現する。
個人主義は家族を大切にする。
個人主義は規則を守る。
個人主義は人の話を良く聴く。
個人主義は貪らない。
個人主義はいつも静かに。
個人主義は環境に配慮した暮らしをする。

(林望著『新個人主義のすすめ』より)




No.248 『子どもをナメるな』 

 副題に「賢い消費者をつくる教育」とあり、その書かれている内容がつかめず、かえって分からないからこそ読み始めたようなものです。でも、要点がはっきりしていて、よく理解できました。途中まで読んで、そういえばこの著者の本を以前に読んだことがあると思い出しました。
 ここで一番言いたいことは「人間は好きなことなら言われなくてもやるが、嫌いなことは自分から進んではやらない。」ということらしい。だから、好きだと思えるような工夫が大切だということになります。それには、すべての人たちが消費者であることに視点を置き、子どもたちもその消費者の一人であるとして、賢い消費者になってほしいというわけです。でも、ナメるなってわざわざ題名に使う意図があまりわかりませんでした。たしかに、子どもをちゃんと見なさいとか一人の人間として理解しなければということはわかりますが、ナメるっていうと、いささか乱暴な物言いに聞こえます。
 著者の経済学の考え方を子どもの教育にも取り入れるということは理解できますし、それは教育を観念的にとらえる風潮にくさびを打ち込む意味もあると考えられます。また、経済学の「比較優位の原則」を社会全体に当てはめて考えることもとても大事なことだと思います。そうすることによって、能力が一定レベルに達しないことを理由に社会から排除することの無意味さも理解できます。
 でも、やっぱり、最後まで『子どもをナメるな』という題名には抵抗がありました。
(2008.05.25)

書名著者発行所発行日
子どもをナメるな(ちくま新書)中島髏M筑摩書房2007年12月10日

☆ Extract passages ☆

 教育現場でなすべきなのは、教育の目的が「賢人」の育成にあるという大前提を子どもたちに示した上で、各教科の学習目的を明確にし、習ったことが生きていく上でためになることを体験させる実践的な演習を取り入れることである。勉強の楽しさは、習ったことが役に立ったときにこそ実感できる。そうした実践が子どもを勉強好きにするのだ。
 私が400人相手の経済学の授業で心がけているのは、どんなに抽象的な内容の理論であっても、できる限り新聞記事などの実例を紹介しっつ、経済学を知っていれば世の中の見方や記事の読み方が変わってくると実感させることである。そうした体験を積むことで学生は次に習うことも何か役に立つはずだと思うようになる。勉強に励みが出て、自分から進んで実例を見つけようとする。こうしていい循環が生まれるのだ。

(中島髏M著『子どもをナメるな』より)




No.247 『香りの愉しみ、匂いの秘密』 

 BBCで映像化された『匂いの帝王』というノンフィクションものがありますが、その主人公になったのがこの本の著者ルカ・トゥリン(Luca Turin)です。最強の鼻を持つとまで形容される彼が、なぜこの世界に足を踏み入れることになったのか、それは日本の資生堂の香水だったとここには書かれています。ちょっと長いのですがそれを紹介しますと、
 「ときどき出かけていたパリのギャルリーラファイエットで、香水売り場の一角にぴかぴかの黒いアーチがあるのが目にとまった。それは「資生堂」という初めて聞く日本の会社のために新しく設けられたコーナーで、同社が初めて手がけた「洋風」のフレグランス、「ノンブル・ノワール」が陳列されていた。黒い服を着た販売員が、八角形の黒いガラス瓶に入った見本のそれを私の手に吹きかけてくれたのをいまも憶えている。
 その香りは斬新な驚きだった。それはいまも変わらない。香水は声の音質と同じように、実際に話される言葉とは別の何かを独自に語ることができる。ノンブル・ノワールは「花」と言っていたが、その言いかたが天啓だった。ノンブル・ノワールの核となる花は蓄薇とスミレの中間だが、どちらの甘さもまったくなく、背景には厳粛な、気高いといってもいいほどの葉巻箱のシーダーの香りがあった。同時にそれは乾いた香りではなく、液体に濡れてみずみずしくきらめき、深い色彩がステンドグラスのように輝いていた。 」  実は、このような香水に興味があり読み始めたわけではなく、花の持つ香りについておもしろいことが書かれていないかと思ったのです。しかし、残念ながら少しはそれに触れていますが、ほとんどが香水そのものの話しでした。ですから、読み方も飛び飛びで、斜め読みもいいとこです。しかし、なかには題名に魅せられて読んでみたら、おもしろくはなかったというのも多々あります。これも、その1冊です。
 それでも、「嗅覚研究において匂いと構造を考えるときに、生物学、物理学、化学の三つの領域をおさえないといけない」と東原和成氏が解説されていますから、やはり生物との関わりは大事なようです。
(2008.05.23)

書名著者発行所発行日
香りの愉しみ、匂いの秘密ルカ・トゥリン著、山下篤子訳河出書房新社2008年1月30日

☆ Extract passages ☆

 ある意味では、天然原料が本物のレプリカとしてできがよくないからこそ香料が存在するとも言える。もしローズオイルの匂いがバラの匂いと同じだったら、調香師はうなだれて降参するしかない。しかし実際はちがう。調香師の課題とは、そのように切りきざまれて加熱され、変わりはててしまった自然物の破片を混ぜあわせ、まるで遺体修復師のように、ふたたび生命の輝きをあたえることなのだ。しかし天然原料の魅力は、同時に最大の難点でもあるのだが、その複雑さにある。複雑さは定義づけがむずかしく、認識するのはたやすい。

(ルカ・トゥリン著『香りの愉しみ、匂いの秘密』より)




No.246 『名文で巡る国宝の千手観音』 

 この本は「seisouおとなの図書館」シリーズの1冊で、他に弥勒菩薩や観世音菩薩、十一面観音、阿弥陀如来などがあるそうです。いわば、古今の名文と言われているものを集めたもので、旅の手引きなども掲載されています。
 おそらく、この本を片手に持ち、国宝の仏さまをお参りして歩きましょう、という企画らしいです。しかし、地図や連絡先が書いてあっても、たとえば葛井寺(藤井寺)の千手観音さまは、毎月18日の開帳時しか拝観できません。私も西国観音巡礼で立ち寄ったことがありますが、日にちが合わず拝観出来ませんでした。もちろん、事前に予約をしなければならないところもあり、なかなか日程的に厳しいところもあります。でも、いつかはお参りしたい、そう思えるところばかりでした。
 そういえば、今年の4月29日、85歳で亡くなられた岡部伊キ子さんは、「人が知性と名づけたものの中には、立身出世への計算や、世間体への見栄や、周囲の人間への配慮などがたくさん含まれている。そういうものがいっさい心に浮かばなくなったとき、はじめて、ああこれが純粋の思いなのかと思い知ることができるわけだ。ほんとうの知性とは、いわゆる知性で抑えられぬ心を知るときにきびしく極まる一種の覚悟ではないだろうか。」と和歌山県の道成寺の解説で書かれていますが、さすが知性派の随筆家だけのことはあります。
 もし、機会があればの話しですが、読んでみられればいいと思います。
(2008.05.20)

書名著者発行所発行日
名文で巡る国宝の千手観音水上勉他青草書房2007年12月5日

☆ Extract passages ☆

 千手観音は、われわれの苦しみを救ってくださる仏さまだそうである。千の手をもち、千の眼をもち、ココニ悩メル女アレバ、ただちに赴いて悩みを救い、アソコニ貧シキ男アレバ、たちまちにして福を与えてくれる仏さま。それが、千手観音である。
 よく注意して千本のお手を見ると、その一つ一つに眼が存在している。たいていの場合、われわれの悩みは、孤独である。隣人にはほとんど理解できない悩みをわれわれはもち、わが苦しみを理解する友をもたない嘆きは深い。人の悩みを聞くとき、たいてい分る、分るとあいづちをうつけれど、語り手の悩みを、聞き手がともに悩んでいるわけではない。人間の悩みは常に孤独である。 (哲学者 梅原猛)

(水上勉他著『名文で巡る国宝の千手観音』より)




No.245 『日本人の愛した色』 

 著者は染色工房「染司よしおか」の五代目当主であり、その道の専門家です。京都の伏見に染場があり、職人も10名ほどいるそうです。だからこそ書ける、そう思いました。
 たとえば、たかが茶色といいましても、この本によると、下記の「Extract passages」のように80種ほどあるそうです。なかには今も使っている白茶や焦げ茶、赤茶などの色もありますが、どのような色を指すのか分からないものがほとんどです。辞書を引いても、出てこない色もありました。してみると、昔の人の色感覚はすごいものだったと思います。また、ネズミ色もこのように種々あって、この本には70種ほど載っていました。
 もちろん、専門の染め色についても書かれてあり、たとえば緑色が染め色を出すには、まことに難しい色なんだそうです。それを引用しますと、「常磐色を例にすると、まず、白布を刈安という黄色の染材で染め、さらに蓼藍、すなわち青色の染材を重ねて濃い緑色にしてゆくのである。藍色の濃度により、線色の濃淡ができると考えていい。刈安の代わりに黄乗を藍染にかけて緑色を染めるときもある。緑色はじつは手間のかかる染色なのである。」といいます。
 もし、染色に興味のある人だけでなく、古典文学や歴史に興味のある方でも、その色を知ることによって分かってくるものがあります。ぜひ座右におかれて、お読みいただきたいものです。
(2008.05.16)

書名著者発行所発行日
日本人の愛した色(新潮選書)吉岡幸雄新潮社2008年1月25日

☆ Extract passages ☆

 路考茶 璃寛茶 梅幸茶 団十郎茶 芝翫茶 岩井茶 路春茶 遠州茶 利休茶 利休白茶 宗伝唐茶 宗伝茶 観世茶 白茶 黄茶 赤茶 青茶 緑茶 黒茶 金茶 唐茶 昔唐茶 樺茶 江戸茶 土器茶 枯茶 媚茶 焦茶 葡萄茶 栗皮茶 煤竹茶 御召茶 黄海松茶 木枯茶 桑茶 沈香茶 千歳茶 礪茶 百塩茶 丁子茶 枇杷茶 黄唐茶 山吹茶 鶯茶 鶸茶 雀茶 鳶茶 柳茶 藍媚茶 御納戸茶 銀御納戸茶 茶微塵茶 宝茶 栗金茶 猩々茶 栗梅茶 小豆茶 紅海老茶 丹柄茶 蜜柑茶 桃山茶 蘭茶 黄雀茶 梅茶 海松茶 素海松茶 柳煤竹茶 威光茶 藍礪茶 藍墨茶 極焦茶 憲房黒茶 猟虎茶 鼠茶 文人茶 光悦茶 信楽茶 翁茶 鴇唐茶 桑色白茶 豆殻茶 唐竹茶(など八十種)

(吉岡幸雄著『日本人の愛した色』より)




No.244 『そのブログ!「法律違反」です』 

 この「ホンの旅」も、本からの引用があり、副題のように「知らなかったではすまない知的財産権のルール」を知りたいと思い、読んでみました。3人の著者が身近な例を題材にして知的財産権をわかりやすく解説してありました。今、ホームページやブログを作成している方はもちろん、これから作ろうと思っている方にも読んでいただきたいものです。
 著作物の引用に関しては、『著作権法では、「公表された著作物は、引用して利用することができる」と規定しています。そして、この場合の「引用」は、「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」とされています(著作権法32条1項)』とあります。
 だとすれば、ここでも引用をしていますが、著作権法で認められた範囲内といえます。
 これら法律は、知らないではすませられません。たとえば交通ルールを知らないから何をしてもいいわけではありません。知らなくても、当然違反すれば反則金は取られますし、あるいは裁判で罰せられることもあります。知らないということは、理由になりませんので、先ずは知ることが必要です。知ってさえいれば、最悪の状況にはならないはずです。お互いに、気をつけましょう。
(2008.05.13)

書名著者発行所発行日
そのブログ!「法律違反」です(ソフトバンク新書)前岨博・早坂昌彦・石塚秀俊ソフトバンク クリエイティブ株式会社2008年2月29日

☆ Extract passages ☆

 個人のブログが知らず知らずのうちに、他人の知的財産権を侵害している(=法律違反)可能性もあるのです。知的財産権の侵害は、交通事故と違って人的な被害はありませんが、ひとたび侵害が起これば、経済的な被害が甚大になる時代です。そのような面倒な事態を避けるため、最低限の知的財産権に関する知識をもった上で、インターネット上での情報の受発信を行うべきでしょう。

(前岨博・早坂昌彦・石塚秀俊著『そのブログ!「法律違反」です』より)




No.243 『み──んなダメな子だった』 

 この本は、この本を作ろうと思った理由もなにもなく、66名のちょっとは知られた方々の子供時代のことを綴ったものです。そのほとんどがあまり芳しくない子供時代を過ごしたようで、それでも今こうしてあるのはそのあまり芳しくない子供時代があったからです、と書いています。たとえば、暗い子供時代だったという藤巻幸夫氏も、今は下記の抜き書きのような考えをしていますし、作家の柳美里さんのようにずっといじめられっ子であったとしても、「いつかきっと救いとなる出会いがある」といいます。
 もし、今悩んでいる子供たちにこそ、この本を薦めたいと思います。
 また、親にしても、たとえば、作家の乙一氏の『母とはけんかもしました。一度、あまりに腹が立ったので、復讐に母の一番大事なものを捨ててやろうと、仲直りしたふりをして「お母さんの一番大事なものは何?」と聞いたことがあるんです。そうしたら「あんたよ」と言われてしまって(笑)。自分は捨てられないから復讐をあきらめたということもありました。』という話は、とても子育ての参考になりそうです。
 いつも思うのですが、人なんて、途中で人生の善し悪しを判断はできないと思います。最後の最後になって、あと数分でこの世と分かれなければならないとき、なんとなく良かったとか悪かったとかと走馬燈のように駆け巡るのではないかと想像しています。ダメがいつまでも続くわけでもなく、いいことだっていつまでも続く保証はありません。
 だから、この世は、おもしろいのです。
(2008.05.09)

書名著者発行所発行日
み──んなダメな子だった日経Kids+編日経ホームマガジン2008年1月10日

☆ Extract passages ☆

 今、どんなにつらくて大変でも毎日楽しく思えるのは、暗い少年時代があったから。あのつらさを克服して強くなれたからこそ今がある。
 人生ってそうやって帳尻が合うんだと思いますね。
 (セブン&アイ生活デザイン研究所社長 藤巻幸夫)

(日経Kids+編『み──んなダメな子だった』より)




No.242 『ヨーロッパの庭園』 

 副題が「美の楽園をめぐる旅」とあったので、当然シャクナゲのことも取りあげていると思ったのですが、植物そのものにはほとんど触れていませんでした。むしろ、庭園史のようなもので、イタリア・ルネッサンスの庭やフランス幾何学式庭園、そしてイギリス風景式庭園、イギリス現代庭園、スペインのイスラム庭園とパティオなど、歴史的流れに沿って書き進めています。
 ですから、あまり興味のない分野のことで、結局は飛ばし飛ばし拾い読みしました。
 おもしろかったのは、イギリス風景式庭園とイギリス現代庭園についての章で、数年前に浜名湖畔で開かれた園芸博の展示庭園を思い出しました。特にシシングハーストの庭は、日本の庭にも応用できそうで、その構成図をゆっくりと読み解きました。これは、ある意味、拾い読みした贖罪みたいなものかもしれません。
 読書はおもしろいと続けられますが、おもしろくなく義務感だけでは長続きはしません。だから、興味のないところはさらっと読み終える、それでもなにがしかの印象は残るはずです。それで十分のような気がします。
(2008.05.07)

書名著者発行所発行日
ヨーロッパの庭園(中公新書)岩切正介中央公論新社2008年2月25日

☆ Extract passages ☆

 近年の自然な庭造りの背景には、自然の急激な減少に対する懸念がある。かつて地球を覆っていた広大な森(地表の四分の三を占めていた)、草原、湿地など、多くの植物と動物が棲息する自然が人間の開発によって急速に破壊された。それに対し、各自が、今度は庭に、小さいながらも自然環境を再現する。庭はひとつひとつは小さいが、世界で合計すれば、その面積は相当な広さになるだろう。・・・・・・自然の庭には、小鳥や小動物、昆虫が戻ってくる。新しい庭造りは、この意味でも自然の回復になる。

(岩切正介著『ヨーロッパの庭園』より)




No.241 『遺したい言葉』 

 著者は出家してからなお忙しい生き方をしているような瀬戸内寂聴さんです。この本は、「瀬戸内寂聴 遺したい言葉」ディレクターの中村裕さんとの対談形式で、収録したインタビューのテープは80時間にもなったそうです。それを、NHKで110分と90分のテレビドキュメンタリーとして放映され、さらにそれらをDVD化し、さらにさらにそれを本として出版した、それがこれというわけです。
 たしかに法話も自然体でされ、その言葉も慈愛に満ちたもので、誰にでも受け入れやすいものです。この本のなかでも、たとえば、「人生に無駄っていうことは何一つないのね。」と言い、さらに、「あの時は文芸雑誌から5年間、干されたんですよ。5年ってそれは長い。でもね、その時も、その後もずっと書いて耐えぬいたでしょ。本当に悔しい思いをしましたけれどね。でもあの時の、なにくそっていう屈辱感を跳ね返す力が、今の私を作ってくれたのだなと思います。」と続けます。それを読むと、たしかにそうだと思いますし、そこまであからさまにしていいのかとさえ思えます。
 その歯に衣着せぬ言い方がおもしろいのであり、その飾らない人柄に好感を持つのかもしれません。文章も簡単なので、ついつい一気に読んでしまいます。でも、もう一度繰り返して読むと、また新たな発見があり、ついにはメモまでとりました。もし、機会があればぜひお読みいただければと思います。
(2008.05.05)

書名著者発行所発行日
遺したい言葉瀬戸内寂聴NHK出版2008年1月30日

☆ Extract passages ☆

 人間は、自分はこれをしたら幸せだと思うことをすればいいんですよ。人がそれをおかしいと思ったって、いいじゃないですか。人が10人いてね、10人全員に好かれる人なんていません。10人が集ったら、その中に必ず嫌いな人がいますよ。だけど、そんなことにこだわっていてもしょうがないじゃないですか。
 だから、自分と仲良くしてくれる人だけと付き合えばいいんです。無理に嫌な人と付き合うことはないと思います。

(瀬戸内寂聴著『遺したい言葉』より)




No.240 『おとなの男の心理学』 

 著者は幅広いジャンルで活躍していますが、精神科医で帝塚山学院大学人間文化学部教授でもあります。
 その豊富な臨床経験から書かれたこの本は、自分の男の部分に潜む訳の分からないところをはっきりとえぐり出すようなものでした。ある意味、男だからこそ分からない、いや、分かろうとしない部分を、女性の目で引き出すような感じでもあります。
 特にこの本の中心部分は、おとなというより更年期以降の男で、少しずつ老年になり、そして病気になったり、ついには死んでしまうところまでを描いています。誰も病気にはなりたくないし、ましてや死にたくもありません。しかし、生き物である以上、高確率で病気にはなるし、確実に死んでしまいます。それをどのようにとらえるかで、生き方が変わってきます。
 ここに、バリントのオクノフィルとフィロバットの考え方を紹介していますが、もし、フィロバットの考え方ができればあまり老後を悲観的に考えることもないようです。ちょっとだけ、この説明を抜き書きしますと、『バリントが言うオクノフィルとは、特定の相手やまわりの人たちが自分に対して適切なケアをしてくれるのをあたりまえのこととして期待し、相手に依存しようとし、しがみつく人たちを指す。それに対してフィロバットとは、相手が自分に対して何かをしてくれることを最初から期待せず、それよりも現実に適応していくための「スキル」を磨こうとする。フィロバットにとって、自分のまわりの世界は、まだ見ぬ部分も含めて「友好的な広がり」として認識される。』といいます。ですから、いくら変化したとしても、『必ずしも「良い方向への変化」である必要もない。フィロバットたちが求める変化は、あくまで「これまでとは異なる方向に変わること」であって、そこには良い・悪い≠ニいった価値や意味は含まれていないのだ。』ということになります。
 簡単に言えば、変化そのものも楽しんでしまおうという考えのようです。まあ、そう考えられれば、老後を悲観的に考えることもないというのは当然の理といえます。
(2008.05.03)

書名著者発行所発行日
おとなの男の心理学(ベスト新書)香山リカKKベストセラーズ2007年12月15日

☆ Extract passages ☆

 病気になったり死んだりすることには、実ははっきりした原因も理屈もない。しいていえば、それは「生物だから」ということになるかもしれないが、健康に悪い食生活を送っていたから、などというのは結果論かつ一方通行のような説明でしかなく、世の中にはこれ以上ない、というくらい不健康な食生活を送っていながら元気で長生き、という人もたくさんいる。
 結局のところ、すべてはある確率で誰にでも起きる、というのがいちばん正解に近いのだろう。

(香山リカ著『おとなの男の心理学』より)




No.239 『桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている』 

 著者は8歳で旧満州のハルビンから引き揚げてきて、不登校になったとき、『牧野植物大圖鑑』で出会って植物に興味を持ったといいます。そして、桜に興味を持ったのは、ワシントンD・Cポトマック河畔の五色桜を見てからだそうで、それから約30年ほどになります。
 出版社勤務を経て、1989年にフリーになってから本格的に桜を訪ねる旅を続け、それがこの本になったようです。副題は「桜とともに四季を歩く旅」です。
 たしかに、桜に対する造詣の深さは随所に見られ、たとえば、「山桜は、日本列島のどこにでも咲いている。しかし、同じ山桜でも太平洋側と日本海側とではやや違いがある。これは気象条件や風土によって違ってくるらしい。極端には、関東の栃木県と群馬県あたりから西と北では、かなり違いが出るという。いちばんいい例が、栃木県あたりまでの山桜は白い花であるが、福島県からは紅色が強く、花も大きい大山桜に変わってくる。」とあり、いろいろの桜を見ていないとなかなか判断できないものです。
 下の「☆ Extract passages ☆」を読むとわかりますが、一つのものに打ち込むことの大切さが如実に出ています。まさに虜になったからこそ、見えてくるものがあるようです。そこまですれば、おそらく桜の神さまもあきれかえり、他の人には見せないものまで見せてくれるのではないかと思います。
(2008.04.29)

書名著者発行所発行日
桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている印南和磨河出書房新社2004年4月5日

☆ Extract passages ☆

 私は車の運転ができない。だから公共の交通機関を使う。1本の桜を見るために1日がかりで出かけたこともあった。片道8時間かけて、見るのは15分か20分である。それでも心は満たされた。桜の花には魔性が宿っているのではないか、と思う。一度とり憑かれたら、虜にされてしまうのである。そして、いちばん美しい瞬間を見たいと思うのである。これからも、私は可能な限り、人生を桜に捧げたいと思っている。

(印南和磨著『桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている』より)




No.238 『茶箱のなかの宝もの』 

 副題が「わたしの昭和ものがたり」とあり、今はやりの昭和の時代に対するノスタルジアのようなものかと思いながら、読み進めました。でも、男の子と女の子の成長や考え方の違いが鮮明で、今更ながら女の子が女性になっていく姿が見えてくるようでした。
 いつの時代も、異性は不思議な存在ですが、このホンを読んでも、やはり不思議な存在そのままでした。もちろん、共感できるところも多々ありますが、これは絶対にわからない、と思えるところもあります。もう、わかろうとするより、そのまま受け入れるしかない、というのが本音です。
 しかし、性別より人間として共鳴できるところもたくさんあり、楽しく昭和の時代を思い返しました。たしかに、これらの思い出は、茶箱のなかの宝ものです。
(2008.04.27)

書名著者発行所発行日
茶箱のなかの宝もの鶴田静岩波書店2007年3月7日

☆ Extract passages ☆

 牛や馬や山羊は飼い主に引っ張られながらも、道端に生えている革を食べながら、ゆっくりと行く。時にはもっとおいしい草を追って別の方向に行ってしまう。これが「道草」だ。子どもたちが食う道草も、子どもの成長のための栄養をたっぷりと与えてくれるのだ。時間をかけ、他の事柄と出会い、ゆったりと「道草を食って」行く生き方は、決して無駄なことではない。むしろ後の人生に役に立ち、創造性を高めることになるのである。
 今の自分、そしてこれまでの自分を振り返ると、私は子ども時代だけでなく大人になってからも、たっぷりと道草を食ってきたことに我ながら驚く。しかし、30ヶ国に近い外国に行き、様々な人々に出会えたことなどすべてが、現在の私を作る滋養になったのだ。そのチャンスが与えられたことに、大いなる感謝の念を感じている。

(鶴田静著『茶箱のなかの宝もの』より)




No.237 『種をまく子どもたち』 

 読んでいるうちに涙腺がゆるくなり、やっと読み終えました。でも、生きるということの意味をはっきりと示してくれたことに感謝します。この本は、あとがきに「この本には、ガンを体験した7人の子どもたちの、いのちと祈りがこめられています。元気になった子どもたちも亡くなった子どもたちも、その過程においては等しく野の花のように輝いていたことを、たくさんの方に知っていただければよろこびです。」とありますように、まさに小児がんを体験した7人の物語です。
 もともとポプラ社から単行本として2001年4月に出版されたものですが、この文庫本のために執筆者の数人が一部加筆や補筆をされたそうで、巻末の支援団体などの情報も新しくなっています。解説をされている聖路加国際病院の細谷亮太先生も、小児科部長から副院長になられ、この「ホンの旅 2008」 No.211 『生きるために、一句』で紹介した通りです。ちなみに、細谷先生は、小児がん治療の専門家です。
 また、闘病する子たちの物語に、カットのように添えられたひろはまかずとしさん(愛をテーマに活動されている墨彩詩画作家)の言葉も、とてもいいです。たとえば、「人生で味わう「楽しい事」が人を大きくし 「つらい事」が人を優しくします」や「いっしょに歩ければいい 泣ければいい 笑えればいい それだけでいい」なんて、種をまく子どもたちそのものの言葉のような気さえします。生きるって、難しいようで、優しいことのようです。難しく考えれば難しいかもしれないけど、誰かに生かされているって考えると、意外と気楽に生きられるような気がします。
 抜き書きした清水真帆さんは、21歳で急性骨髄性白血病の診断を受け、23歳で旅立つまで、このような言葉をたくさん残されました。これを読むと、人って生かされているというのを実感します。生かされているなら、絶対に人を苦しめたり傷つけたりはできないと思います。真帆さんの墓碑に「ありがとう ありがとう」の文字が刻まれているそうですが、たしかに有ることが難いのがこの人生です。つねに有ることが難い、有り難いと思って生きることを肝に銘じたいものです。
(2008.04.23)

書名著者発行所発行日
種をまく子どもたち(角川文庫)佐藤律子編角川書店2006年4月25日

☆ Extract passages ☆

 病気したおかげで、
 人はずっと
 生きてるわけじゃないっていうことに
 気がついたっていうか。
 それだったら、やっぱり、
 それまで
 どれぐらいハッピーでいられるかが
 勝負だろうなっていう気が、
 今はする。
 (1994年10月。雑誌インタビューで 清水真帆)

(佐藤律子編『種をまく子どもたち』より)




No.236 『茶を楽しむ』 

 「日本人の癒し」シリーズの第1に取り上げられたのが『茶を楽しむ』で、ハートフルティーのすすめとあります。ということは、癒しの一番がお茶ということですから、お茶を習っているものとしては納得です。
 また、お茶室の平和性として取り上げられていることは、とてもユニークです。手水鉢で手を洗うのは神道、掛け軸は仏教、茶室内の作法は儒教、方角や位置は道教、袱紗はキリスト教、といわれると全てについて納得はできませんが、それっぽくはあります。そう考えれば、なるほどという気持ちになります。
 それにしても、コーヒーは意識を「外」に向かわせ、緑茶は「内」へと向かわせるという意見には、同感です。私も、どちらも好きですが、飲むときの意識としてはそのような面を持っています。もちろん、ただ単純にお茶菓子がコーヒーに合うか緑茶に合うかを考えて飲む場合も多いのですが・・・。
 もともとお酒を飲めない体質なので、お茶やコーヒーなどの飲み物には関心があります。お茶は、緑茶や紅茶、ウーロン茶、なんでも飲みます。だから、ただ飲むよりは、いかにおいしく飲むかを考え実行しています。今のところ、一番おいしいのは、抹茶です。海外へ行く場合でも、抹茶と茶筅は忘れません。この茶筅だけは、絶対に代用が利かないと思っていますが、茶碗などは現地でさがしたほうが楽しいですし、帰国してからも思い出の一品になります。
 そういえば、今まで一番おいしかったのは、早朝のエベレストを眺めながらお茶を点てて飲んだときです。
(2008.04.19)

書名著者発行所発行日
茶を楽しむ一条真也監修現代書林2007年12月8日

☆ Extract passages ☆

 茶で「もてなす」とは何か。それは、最高のおいしい茶を提供し、最高の礼儀をつくして相手を尊重し、心から最高の敬意を表することに尽きます。そして、そこに「一期一会」という究極の人間関係が浮かび上がってきます。・・・
 また、家庭においてもリビングルームはあっても、いわゆる「茶の間」が消えつつあると言われています。日本の茶の間とは、母親がいれてくれた茶を飲みながら、家族が互いを思いやり、気づかい、いたわり、何よりもつながり合う空間でした。家族という共同体がドロドロと溶けてゆく中で、いま、茶の間の復活が必要なのではないでしょうか。

(一条真也監修『茶を楽しむ』より)




No.235 『脱線者』 

 織田裕二を知らない人はいないと思うが、まずは役者であり、アーティストでもあります。
 その彼がなぜこのような本を書いたのかは知りませんが、ところどころにきらっと光る文がありました。たとえば、「自分は、この世界でしか生きられない。そう思い込みすぎると、本当にその世界でしか生きられない人間になる。そして、何かアクシデントがあり、そこで生きられないことになった場合、その人には何も残っていないことになってしまう。」とか、「正しいことは、ひとつじゃない。逆から見る方法だってある。上から見る方法もある。下から見る方法もある。左から見る方法もある。右から見る方法もある。別な角度から見る方法だってある。そうすれば、きっと、違う答えが出てくる。ケンカだって両者の言い分は違うのだから。」などです。
 この題名は、最後の「あとがき」で明かされます。ぜひそこまで読んでみると、役者としての生きざまを知ることができます。
(2008.04.16)

書名著者発行所発行日
脱線者(朝日新書)織田裕二朝日新聞社2007年12月30日

☆ Extract passages ☆

 デビュー作の監督に言われたことがある。
「お前、30秒考えてから、物を言え」
 実際、30秒考えていたら、話題は次に移っていて、話にはついていけない。つまり、それは 「喋るな」ということだった。
 きみのレベルに話を落としたくはない。きみは物を知らなすぎる。きみのためにいちいち教えていたら、僕らの話は盛り上がらないじゃないか。きみの勉強に付き合うつもりはないよ。

(織田裕二著『脱線者』より)




No.234 『その言葉、異議あり!』 

 著者はセントルイス生まれのアメリカ人で、70年代からたびたび日本に滞在し、日本文学で博士号を取得したとのこと。しかも趣味は将棋や尺八とか、今の日本人より日本人らしいセンスをお持ちのようです。副題は「笑える日米文化批評集」とありますが、比較せず批評するあたり、おもしろいものがあります。
 ただ、ちょっと理解できないことに、レッドネックやホワイト・トラッシュなどの軽蔑語をジョークとするあたりです。ある意味、これらの言葉は、一種の階級差別的表現でもあり、日本でなら田舎者というよりもうちょっと悪い言葉のような気がします。これが多民族国家アメリカの現実なのか、と疑ってもみました。
 それでも、日本を外から見たり内から見たりと、その視点を変えることによって浮き出てくるものがあり、その気づきに驚かされました。たとえば、日本で何気なく使っているタレントという言葉を、「日本語では、「タレント」とは、才能に欠ける人を指すことばである。(In Japanese; a "talent" refers to someone without talent.)」と説明されると、タレントのみなではないでしょうが、この意味に当てはまるのも多いのではないかと思いました。また、日本は島国だからとか農耕民族だからといういいわけも、論理性に欠けると思いました。
 そう肩肘張らずに読める、というのは間違いありません。ただ、すべて実体験かというと、妄想的部分も感じられ、それがおもしろくさせているのではないかと思いました。
(2008.04.13)

書名著者発行所発行日
その言葉、異議あり!(中公新書ラクレ)マイク・モラスキー中央公論新社2007年11月10日

☆ Extract passages ☆

 あらゆる携帯メディアの中でも、ケータイはとくに矛盾と逆説に富んでいるような気がする。何しろ、他の人とのつながりを促進することが目的なのに、その強烈な支配力によって、むしろ使用者の不安と孤立感を高める。常時メールを確認しないと不安に駆られ、落ち着いて独りでいられなくなるような人間が急増する。また、公共の場で多くの人間に囲まれていても、ケータイの小さな画面にとりつかれているために、まわりの人間(他人とはいえ)がまったく存在していないかのように振る舞う。あるいは、アメリカの場合、レストランと公衆便所とがセルフォーン使用によって、突然同じような(場)と化してしまうこともある。

(マイク・モラスキー著『その言葉、異議あり!』より)




No.233 『桜を撮る』 

 この本は風景写真講座と銘打ち、同じ出版社であるサライなどでも活躍している写真家・竹内敏信氏が写真などの解説をしています。
 ちょうど、4月12日に福島市の花見山に行くことになり、その前夜から朝にかけて読みました。この花見山は東海桜やレンギョウ、花桃、サンシュユなどが盛りと前日のテレビ中継を見て、あわてて読み始めたようなものです。というのは、意外と桜の写真は難しく、撮れそうで撮れません。とくに花色を出すのが難しく、天気にもよりますが白っぽくなりすぎます。そこでハウツー本のやっかいになろうという訳です。
 日本各地のさまざまな桜が載り、まさに日本の桜図鑑のようです。しかも、風景の中にある桜の存在感は強く、たった1本でも絵になり、数本だとその色彩に圧倒されます。やはり、桜は日本を代表する花だと再認識しました。それと同時に、やはり桜の撮影は難しいとも思いました。これは、花見山で撮ったあとにも感じましたので、私には難しい素材の一つであることに違いはなさそうです。
(2008.04.12)

書名著者発行所発行日
桜を撮る竹内敏信小学館2000年4月10日

☆ Extract passages ☆

 私の桜撮影行脚は、有名桜や桜の名所を避け、それらの周辺を巡ることにしている。そういった場所には、酔っぱらいやボンボリなどの無粋なものがなく、背景の美しい場所が多く、ゆっくりと桜を愛でながら撮影することができる。
 ところで、写真を撮るための三大名所がある。それは「学校」「墓場」「発電所」である。桜はなぜか、このような場所に好んで植えられている。学校や墓場は理解できるが、小規模の発電所(ダムによってできた人造湖の沿岸なども含めて)に、どうして桜を植える習慣ができたのかわからない。ともかく桜を撮りたいのなら、古い学校、田舎の学校、山裾の墓場、大きな墓地、谷問の小さな発電所、人造湖の沿岸や周りの山腹へ行けば、必ず美しい桜に出会える。

(竹内敏信著『桜を撮る』より)




No.232 『寅さんは税金を払っていたのか?』 

 著者は元国税調査官を10年間ほどしていたそうで、その後フリーライターになったそうです。この本は、その経験を生かしたもので、『男はつらいよ』の登場人物を借りて、わかりやすく税金の解説をしたものです。
 この本にもなんどか書かれていますが、税金というのは戦後から昭和の時代までは高額所得者や資産家に対しては高い税金を課し、低所得者は見逃していたそうです。ところが、その後は高額所得者や資産家の税金は大幅に引き下げられ、その代わりに低所得者からも多くの税金を取り立てるようになってきたといいます。さらに大企業の税金は引き下げられ、その代わりに中小企業の優遇税制が縮小されました。それが、格差社会を招いた原因の一つかもしれません。
 そう考えれば、もう少し税金のことを知ることが必要です。それには、この本のように、寅さんやタコ社長、さくら、博など、『男はつらいよ』でおなじみの人たちを使って税金の話しをすれば、とても親しみやすくわかりやすく感じられました。おそらく、早い人だと、2時間もあれば読むことができるでしょう。
 ちょっと変わった税金入門書ですので、機会があればぜひどうぞ。
(2008.04.11)

書名著者発行所発行日
寅さんは税金を払っていたのか?大村大次郎双葉社2007年11月10日

☆ Extract passages ☆

 税務署員が、「老舗の会社」として認めるのは、設立後、何年くらいたった会社だと思います?50年?30年?
 違います。10年なのです。
 会社というのは、10年間経営を続けられれば老舗といえるのです。10年間続く会社というのは(休眠などせずに)、全体の1割くらいのものなのです。それくらい、会社というのは存続し続けるのが難しいものなのです。

(大村大次郎著『寅さんは税金を払っていたのか?』より)




No.231 『団塊漂流』 

 著者の海江田万里さんを知らない人はいないでしょうが、1949年生まれのまさに団塊の世代です。副題は、「団塊世代は逃げ切ったか」といういささか「何から」という意味がわからないまま読み始めました。しかも、新書の「角川oneテーマ21」シリーズを2冊続けてです。
 結論からすると、やはり民主党に属する政治家で、税金や経済問題などを国会論戦のように書いています。もう少し、政党を離れて、個人的見解でもいいから、つっこんでもらいたかったというのが本音です。たしかに、政治家である以上、それから離れて書くことはできませんし、今までも政治家が出版された本の内容がマスコミなどで問題になったことがありました。公人は、いかなるときもそこから離れられないものなのでしょう。
 そう考えれば、これも一つのマニフェストの形だと思えます。年金一つ取ってみても、国会論戦だけからはなかなかわかりにくい内容も、本という体裁をとれば、その資料も内容も分かるまで読み返すことができます。選挙が近づいてからあわてて出すマニフェストと違い、中身が濃いとも感じます。たとえば、公的年金制度は「修正賦課方式」であると知ってはいましたが、それがなぜ採用されたのかとか、スウェーデンなどのやり方と同じなのか違うのかなどは分かりませんでした。
 もし、民主党の年金や雇用法などの考え方を知りたいときには、ぜひ読んでみてください。自民党との違いが浮き出てくるかもしれません。
(2008.04.10)

書名著者発行所発行日
団塊漂流(角川oneテーマ21)海江田万里角川書店2007年12月10日

☆ Extract passages ☆

 小泉元総理は7年前、「自民党をぶっ壊す」といって自民党の総裁、そして日本国の総理になったが、彼がぶっ壊したのは、日本の中流社会だったのです。
 現在の日本の政治・経済の状況を見ていると、中流崩壊の現象はまだまだ続くと考えざるを得ません。脅かすわけではありませんが、これから、さらに厳しい選択、選別が日本の中流階層を襲い、「中の下」から「下」に落ち込む人々の数が増えることを、考えなければなりません。

(海江田万里著『団塊漂流』より)




No.230 『粗食で生き返る』 

 著者の幕内秀夫さんは、「FOODは風土」を提唱する管理栄養士です。そして、伝統食と民間食事療法の研究をしているそうです。その成果がこの本なのでしょう。
 今、日本食が海外でもブームで、それが本当の日本料理かどうかを検定しようと政府がもくろんでいるそうですが、では今の日本人がその日本料理を食べているかというといささか疑問です。朝はパン食だったり、昼はパスタやピラフを食べたり、夕食もハンバーグや魚のムニエルだったりします。そう考えれば、下に抜き出した「Extract passages」の通りです。おそらく、子どものおやつだって、ケーキやクッキー、そしてジュースなどではないでしょうか。
 だとすれば、日本人が昔から食べていたものとは、だいぶ違います。昔は野菜などは生で食べるよりお浸しや酢の物にしたり、スープではなく味噌汁を常食していました。お米と味噌汁と漬け物、それが日本食でした。
 もちろん、病気は食生活からくるとは限りません。ストレスや運動不足など、さまざまな要因が考えられるでしょうが、やはり、生活習慣病のもっとも大きな引き金が食生活だと思います。ぜひ、今だからこそ、昔の粗食をもう一度考えてみたいと思います。粗食で元気、それが今のお年寄りのような気がします。
(2008.04.08)

書名著者発行所発行日
粗食で生き返る(角川oneテーマ21)幕内秀夫角川書店2007年11月10日

☆ Extract passages ☆

世界的には日本食が健康食として注目されています。生活習慣病が蔓延する日本の食事が、健康的と言われるなんて不思議です。
 これは、「伝統的な日本食」と「現在の日本の食事」がずれてしまっている影響でしょう。つまり、世界がよいと認めたのは日本古来の伝統的な日本食だったのに、現代の日本人は食生活の欧米化、間違った栄養教育などによって、伝統食をおろそかにしてしまい、健康とは かけ離れた食生活を送っているのです。
 現在の日本では「無国籍」「無地方」「無季節」「無家庭」「無安全」の「五無」の食生活が中心になっているように感じます。「飽食の時代」と呼ばれ、物質的には豊かになったはずが健康を脅かしている。この現実に早く気づき、本当の意味で豊かな食生活とは何かを考えてみて欲しいものです。

(幕内秀夫著『粗食で生き返る』より)




No.229 『不都合な真実 ECO入門編』 

 この本は、一昨年話題になった『不都合な真実』の映画や本をさらに理解しやすいようにするためと、より多くの人たちに読みやすいように作られたものだそうです。そういえば、確かに写真も多く、活字も工夫され、簡単に読み進めることができました。
 著者のアル・ゴア元アメリカ副大統領を知らない人はいないでしょうが、彼がなぜこのような本を書くようになったのかを知る人は少ないでしょう。この本には、「私はよく、父といっしょに農場の隅から隅まで歩いたものです。父は歩きながら、自然についていろいろなことを教えてくれました。雨が降ると、降った雨水が小さな流れを作って、肥沃な表土を流してしまいます。どうやって石や枝を置いたら土を守ることができるかを、父はやってみせてくれました。今では、その農場は私の農場になっています。父が私に教えてくれた『土地を大事に守るという務め』を、子どもたちや孫たちといっしょに歩きながら伝えています。」と書かれています。
 また、「できることからはじめよう」として、自宅の省エネや車などの移動時の排出量を減らすこと、さらには消費そのものを減らし節約することなど、具体的な方法が書かれています。下の「Extract passages」に抜き書きしたように、自らが変化をおこす推進役にならなければならないのです。誰かではなく、自分から一つでもいいから始めたいと思います。
(2008.04.05)

書名著者発行所発行日
不都合な真実 ECO入門編アル・ゴアランダムハウス講談社2007年6月27日

☆ Extract passages ☆

 地球温暖化ほどの大きな問題を考えると、圧倒されそうな気がして、無力感を感じてしまうかもしれない。「自分ひとりぐらいやったって、何にもならないのではないか」と思ってしまうかもしれない。しかし、そのような気持ちに負けてはいけない。私たちひとりひとりが責任を負わないかぎり、この危機は解決できないからだ。自分やまわりの人々を教育・啓発すること、自分の資源使用量やむだを最小限にするために自分にできることをやること、今より政治的にも活動的になり、変化を求めることーーこのようなさまざまな方法によって、私たちひとりひとりが事態を変えていけるのだ。

(アル・ゴア著『不都合な真実 ECO入門編』より)




No.228 『パワーストーン大事典』 

 ネパールやインド、中国などに行くと、けっこう宝石を扱うお店があります。雲南省には4〜5回程度行っていますが、ここは特に翡翠が人気です。それもそのはず、この本を見ると翡翠は「中国では玉と呼ばれ、儒教でいう五徳(仁、義、礼、知、信)の備わった石として、王の象徴とされてきました。また、魔よけやお守り、治療用として、死者の霊魂を鎮める石として、特別に扱われてきたようです」とありますが、この項を立ち読みし、興味を持ちました。
 最近はネパールに行くことが多いのですが、ここではトルコ石(ターコイズ)の装身具を露天でも売っています。この石は、「この石は、あらゆる害悪から身を守り、幸運をもたらすといいます。旅の守護石として尊ばれてきました。持ち主に危険が迫ると変色したり、身代わりとなって割れることも。」とありますから、チベット遊牧民に好まれるはずです。
 著者は、「意志には"意思"があるように思います」と言いますが、私には"変わらないもの"にこそ石の価値があるように思います。
(2008.04.03)

書名著者発行所発行日
パワーストーン大事典森村あこナツメ社2008年1月10日

☆ Extract passages ☆

 ダイヤモンドのように地下150km以上の深部で1000℃を越える高温と数万気圧の極限状態のなかで生まれる石もあれば、火山活動やプレートの影響などによって誕生するエメラルドやクリスタル、ジェード、ルビーなど、生まれる環境は異なるものの、数億〜数十億年かけて地球内部ではぐくまれたパワーストーンたち。そんな気の遠くなるような年月をかけて生まれたパワーストーンには、地球からのメッセージが込められているような気がしてなりません

(森村あこ著『パワーストーン大事典』より)




No.227 『ひみつの植物』 

 本屋さんで何度か立ち読みをしたのですが、内容のほとんどを知っていることだったので、あえて、買ってまで読まなくてもいいと思っていました。でも、図書館で見つけたら、もしかすると意外な秘密のことが書かれているかも知れないと思い、借りてきて読みました。
 それほど、秘密めいたことが書かれているわけではありませんでしたが、このような本を形にするのは大変だろうな、と思いました。まず、ある程度は掲載しようとする植物を育ててみたいでしょうし、それをいろいろな角度から写真を撮らなければならないし、自分が知っていると思いこんでいることが本当のことなのかどうかも確認しなければならないでしょう。さらに許可を得なければ掲載できないこともあるでしょうし、広がりをもつためにも各種データを添付することもあります。そう考えれば、1冊の本をつくるということは大変な作業だと思います。本をつくるには、著者だけでなく、校正や印刷や製本などにも関わる人たちの協力も大切です。
 そう考えれば、出版は文化を支える大きな役割を担っています。でも、いい本ほど売れない時代なんだそうです。本屋さんに行っても、立ち読みをしている人は多いのですが、買っている人は少ないようです。
 みなさん、いい本をたくさん買いましょう!
(2008.04.01)

書名著者発行所発行日
ひみつの植物藤田雅矢WAVE出版2005年5月5日

☆ Extract passages ☆

 ほんの二百年前には、そうしてひとりの人間の生涯をかけて収集された植物も、いまでは簡単に手に入れることができます。グラジオラスの球根を手に入れるのに、何ヶ月も船に乗ったり、ハイエナに追われたりすることもありません。お茶の間で、種苗会社の通販カタログをみながら注文書に記入するだけです。あるいはちょっと冒険をするなら、ネットサーフィンの波に乗って、世界中に珍しい植物の種子を探し求めることもできるのです。紅茶を飲みながらのお茶の間プラントハンターもいいものだと、文明の進歩にありがたさを感じる瞬間です。

(藤田雅矢著『ひみつの植物』より)




No.226 『大山鳴動してネズミ100匹』 

 著者の福井栄一氏の肩書きは、「上方文化評論家」で、各地で上方文化に関する講演やテレビ・ラジオにも出演しているそうです。でも、ネズミと上方文化がどのように結びつくのか、それは全部読んでみてから考えようと思い、読み始めました。
 すると、ネズミを生態学の立場から書いたのではなく、ネズミと一般の人たちとの結びつきを取り上げ、いかにネズミさんが人との生活に深く馴染んでいたかを書いています。ネズミをイヤなものと考えず、ネズミに優しいまなざしを投げかけているように感じました。
 ほとんどが2ページで終わる読み切りの文章で、それを100編集めたのがこの本で、題名にも通じます。副題はいかにもの「要チュー意動物の博物誌」です。おそらく、今年がネズミ年なので、その関連で出版したものでしょうが、ウシ、トラ、ウ、と続くかどうかは、著者の力量にもよるでしょうが、ひとえに読者の関心にかかっています。干支と日本人の生活習慣とはかなり密接な関連があるので、年の初めにこのような本を読み、今年一年を考えてみるのもいいことかと思います。
 そのためにも、この本をお薦めいたします。
(2008.03.29)

書名著者発行所発行日
大山鳴動してネズミ100匹福井栄一技報堂出版2007年12月20日

☆ Extract passages ☆

 漢字だらけの字面や、いかにも漢語調の言い回しのせいで、多くの人は、この成句を中国由来と思っているが、それは誤解である。実のところ、その淵源は、「山が産気づいた。そして、ネズミを1匹生み落とした。」というギリシアのことわざである。詩人ホラーティウス(紀元前65〜紀元前8年)は、著書『詩論』の中でこの句をひき、詩人たちに向かって、作品が龍頭蛇尾とならぬように注意を促している。
 ちなみに、このことわざは、有名な『イソップ物語集』に取り入れられて寓話化され、日本には16世紀頃、キリスト教文化の流入とともに伝えられたようだ。

(福井栄一著『大山鳴動してネズミ100匹』より)




No.225 『「まじめ」をやめれば病気にならない』 

 「簡単! 免疫生活術」とありますが、そもそも免疫って何、という感じで読み始めました。この本によれば、「免疫は、生体のホメオスタシス(恒常性)を維持するはたらきを担っています。ホメオスタシスとは、「生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態を一定に保とうとする」機能を指します。この生体のホメオスタシスのはたらきによって、私たちは健康に生活することができるわけ」なんだそうです。
 特におもしろかったのは、お医者さんの立場でありながら、なるべく薬に頼らない生活をすべきだと書いてあることです。しかも、定期的な健康診断を受ければ、知らなくてもよい病気が見つかったり、過剰な診療につながるからあまり勧められないというあたりは、ちょっと意外でした。それでも、その理由を読みますと、納得できる内容で、このような考え方もあると初めて知りました。
 読み終わってから、著者の経歴を見ますと、免疫学の世界的権威だそうです。その免疫学の立場から、生活習慣病にいかにして対処するかという記述などは、ぜひ読んでいただきたいと思いました。2月1日に第2刷が出たそうですから、多くの読者にも支持されているようです。
 最後に書かれている付録の「免疫力を高め生きる力を発揮するための十三カ条」は、今までの自分の生活を反省し、これからいかに健康で生きるかの指摘でもあります。毎回している切り抜きも、今回は17枚で、ぜひ記憶しておきたいと思うことがたくさんありました。
 なんだかんだ言いましても、ただ長生きすればいいものではなく、生きている意義といいますか、それなりの社会貢献をしながら人生を送りたいと私はつねづね考えています。
(2008.03.26)

書名著者発行所発行日
「まじめ」をやめれば病気にならない(PHP新書)安保徹PHP研究所2008年1月7日

☆ Extract passages ☆

 野生動物は病気になると、何も食べないでじっと回復を待っています。それは、本能的にからだの声を聞いて病気を治そうとしているからです。
 ところが人間は、病気を治すためには食べないと、からだが消耗するだけだと考えます。からだがほんとうに栄養を必要としているのならば、病気になっても自然に食欲が増すはずなのです。ところが無理に栄養補給をするからかえって病気が治らずに、長引いて寝たきりが続くのです。

(安保徹著『「まじめ」をやめれば病気にならない』より)




No.224 『冬の日』 

 この本のジャンルは、いちおう写真集です。副題が「里山の一日」とありますから、冬の里山の一日の風景などを撮ったものだと思い、見始めました。あるページの写真は、どこにでもあるような風景で、ある種の懐かしささえ感じました。ところが、最後のページに、「写真は全て、琵琶湖周辺の里山で撮影したものです。」と書かれてありました。そういえば、写真スタジオも琵琶湖を望む田園風景のなかにあるそうです。
 もちろん、写真集ですから、文字による記述はホンの少しなのですが、それでも「白い世界は、人の想像力を豊かにしてくれる。」などという言葉は、雪の様々な色合いを知っている北国の人にとっては、その雪の下に眠る大地まで見透かしたような気持ちにさせてくれます。
 この手の本は、読むというより見るというもの、いや、鑑賞するものです。ですから、時間をおいて、ときどきは引っ張り出して見る、そして忘れたような頃に、またまた引っ張り出すという繰り返しのなかから、何か感じるものがあるのかもしれません。これも後から気づいたのですが、この本にはページもありませんでした。ということは、どこから読み始めても、どこから見始めてもいいということで、たった1枚の写真だけを見てもかまわないということです。
 思うに、写真集は以前よりだいぶ安くなったと思います。それと、豪華本も少なくなりました。そういう意味では、誰でも気軽にいい写真集を手元に置けるいい時代なのです。
  (2008.03.24)

書名著者発行所発行日
冬の日今森光彦アリス館2007年12月15日

☆ Extract passages ☆

 だれもいない冬の田園は、青空も木々も、白い雪も、みんなひとりじめです。植物も昆虫も動物も深い眠りのなか。こんなときこそ、自然とじっくり向きあえるまたとない機会です。生き物たちは、冬の寒さから身を守るため、地面の下で丸くなったり、枯れ葉にそっくりな形となってぼくの前にあらわれます。この静的な美しさは、どの季節にもない魅力です。

(今森光彦著『冬の日』より)




No.223 『日本人の春夏秋冬』 

 「季節の行事と祝いごと」という副題が付いていますが、日本の季節感はたしかに行事や祝いごとと深く結びついています。季節の行事をすることによってさらに季節感が深まりますし、毎日の生活に深みと潤いを与えてくれるように思います。
 この本を読んでいる今、季節は春彼岸ですが、この彼岸という言葉は、「彼岸というのは春秋2回あり、春分と秋分の日をそれぞれ中日としてその前後3日ずつ、合わせて7日間」という意味です。さらに仏教的な意味合いは、前後の6日間で六波羅蜜を1つずつ実践し、真ん中の中日だけは六波羅蜜全部を実践してみようということです。
 現代の生活は、多くの国々との安定的な結びつきで成り立っています。だからこそ、日本人としてのメンタリティを大事にしなければならないし、それを深く理解し、多くの国々の人々とも友好的な関係を結ぶことができます。自分を抑えて、人と人との結びつきが良くなることはあり得ません。
 この国際化の流れの中で、改めて日本人としてよって立つ伝統的文化を考えることは大切なことです。この本は、カラー写真も少し載っていますし、あとがきに「この小さな本は、春夏秋冬の季節の行事の由来について、日本民俗学から現代社会へ向けて進呈するささやかを報告書である。」と書かれていますが、行事そのものもしっかりした裏付けがあり、とても読みやすいものでした。
(2008.03.23)

書名著者発行所発行日
日本人の春夏秋冬新谷尚紀小学館2007年12月5日

☆ Extract passages ☆

 時間雇用の企業社会では、一見、勤務時間と自由時間とが峻別されているかにみえる。しかし、実際はそうではない。企業社会とは競争社会である。勝ち抜くためには時間外の超過勤務や自主研修という自縛から逃れられないのが現実である。
 そうではあっても、基本的に仕事のはかどりとは、「はか」をとること、出来高にほかならない。それを確保しようとしてきた伝統的な生業の知恵とは何か。それは無理をしないこと、上手に休みを取ることであった。
 私が忘れられないのは、中国地方のある村の、峠越えの荷物運びをしていた老人の昔語りである。彼の指差す山道の路傍には、数か所の休み場の跡があった。どんなに余力があっても必ずそこで休むのが決まりで、それを無視した力自慢の若者は、あとでみんな身体を壊したという。

(新谷尚紀著『日本人の春夏秋冬』より)




No.222 『大地と人を撮る』 

 副題は『アンデスを歩きつづけて』とありますが、1973年から毎年ペルーやボリビアなどの南米諸国に通い続けている写真家の本です。おそらく、ジュニアの皆さんに一つの目標を定めて見続けると、必ず何かが見えてくる、ということを言いたいのではないかと思いました。最近は何をしていいのかわからない、という若者が多くいますが、ぜひ、読んでいただきたいものです。何かをしているうちに、ひとりでに見えてくるものがある、そのような気がします。
 この本のなかに出てくるエピソードの一つですが、2年に1度だけ1月に開かれるインカ時代から続く縄の吊り橋の架け替えを見るためにカナス地方に行ったそうですが、すでに10日前に終わっていました。ということは、次は2年後ということになりますから、それまで待つしかないわけです。しかも、クスコ市内にいては、地方のお祭りや行事に詳しい人はほとんどなく、やはり足で調べるしかないのです。逆から見れば、そのような苦労をして撮った写真は、ほとんど誰も撮っていないということになります。
 この本には、カラーのページも随所にあり、そのような苦労をしながら撮られた写真を見て、感じるものがありました。何度も何度も通っているからこそ撮ることができた、と私は思います。たった1枚の写真でも、おそらく気の遠くなるような時間がかかっているし、考えられないような苦労を重ねられたのではないかと思います。まさに、オンリーワンの写真です。
 私は、生き方も同じで、自分が納得できれば、それでいいと思っています。
(2008.03.20)

書名著者発行所発行日
大地と人を撮る(岩波ジュニア新書)高野潤岩波書店2008年1月22日

☆ Extract passages ☆

 アンデスの山は大きく高原は広い。だが、そこで作物を育てることは一瞬たりとも気が抜けず、繊細過ぎるほど繊細な面を持つ。どちらにころぶかわからない不利と有利の条件が、同一線上で重なるところが彼らの農地になっているからでもある。放牧地も同じで、寒冷だからこそ良質な純毛をはぐくむアルパカは、わずかの雪が草原を覆って2日間ほど凍結しただけでも餓死してしまう。
 そのさびしい環境を相手にして、村人たちは朝早くから起きて家畜や畑の作物を心配しながら、夕闇が訪れるまで、それこそ働きづめの日々を過ごしている。そんな生活を見ていると、彼らはいつも希望を追いかけ、1日1日を希望でつないでいるようにも思われてきたのである。

(高野潤著『大地と人を撮る』より)




No.221 『ジャガイモの世界史』 

 副題は『歴史を動かした「貧者のパン」』とあり、元中日新聞社記者として社会面を担当していた幅の広さが『ジャガイモの世界史』の広がりにも通じているのではないかと思いました。現在は桜美林大学教授として環境史を担当しているそうで、ところどころに環境問題を取り上げているのもこれで頷けます。
 おそらく、この本を1冊読めば、相当なジャガイモ通になれます。そういえば、No.204 『キュウリのトゲはなぜ消えたのか』でもジャガイモを取り上げていますが、こちらは1冊丸ごとジャガイモだけを取り上げています。だいぶ以前、『トマト革命』石黒幸雄著、草思社、という本を読んだことがありますが、そのときもトマト一つで1冊の本が書けるとびっくりしましたが、この本の場合は読むに従ってもう1冊ぐらいは書けそうだと思いました。それだけ、ジャガイモが世界中の人々に大きな影響を与えている証なのかもしれません。
 特に、冷凍ギョウザ問題に端を発し、食の安心・安全に関心が集まっている現在、もう少し日本の野菜の現状や食料自給率の問題など、食に関わることなどを真剣に考えなければなりません。そのときには、この本も役立ちそうです。
(2008.03.17)

書名著者発行所発行日
ジャガイモの世界史(中公新書)伊藤章治中央公論新社2008年1月25日

☆ Extract passages ☆

 ジャガイモの栽培は、種イモを地中に植え付けることから始まる。万一、種イモがウイルスや病害虫に侵されていれば、収穫されるジャガイモは全滅となる。このためわが国では指定種苗制度に基づき、種イモの生産と流通は、独立行政法人種苗管理センターによって、厳重に管理されている。
 種イモの元になるのが原原種。「元だね」とも呼ばれるこの原原種がジャガイモ生産の出発点だから、管理は厳格をきわめる。人里離れた、種苗管理センターの八つの農場でだけ隔離栽培される。それが特定の原種農家で増殖され、採種農家におろされるはか、余裕のあるときは種イモとして一般農家にも出荷される。採種農家で増殖されたものはすべて種イモとして一般農家に出荷される仕組みだ。
 原種農家、採種農家が増殖したイモも、植物防疫官の厳しい検査を受ける。合格したイモだけが、「種馬鈴しょ検査合格証」が添付され、種イモとして販売できることになるのだ。

(伊藤章治著『ジャガイモの世界史』より)




No.220 『山頭火を行く』 

 この本は、山頭火の句のイメージを写真で表現しようとしたものですから、読むというより見るというものです。ですから、パッパッパッとめくってしまうと、ものの30分で見終わってしまいます。で、何が残るかといえば、おそらく印象としてはあまり残らないのではないかと思います。写真は、1枚1枚をゆっくりと見て、山頭火の句を味わって、その後にどんな余韻が訪れるかです。
 種田山頭火は、生涯に約84,000句を詠んだと言われていますが、この本で取り上げているのはそのホンの一部です。今、手元に『山頭火大全』(講談社)を置き、ときどき参照しながら読み進めていますが、これには山頭火の行脚地図や句の索引もあり、とても使い勝手がいいものです。もし山頭火に興味があれば、ぜひ手元に置いていただきたい1冊です。
 ところで、山頭火の句のイメージといっても、みなそれぞれに違いますし、それを写真で表現したとしても、それはあくまでその写真家のイメージでしかありません。たとえば、あの有名な「分け入っても分け入っても青い山」の句には、深緑色の常緑樹のなかに紅葉した樹があり、そこがスポットライトで照らし出されたかのような空間の写真が載っています。私なら、この句そのままに、青く霞んでしまうような山が重なり合っている様子をイメージします。
 ある意味、読者自身がいろいろのイメージができるように、著者である写真家はまったく違うイメージを持ってきたのかもしれません。そう考えて、もう一度見始めると、また違ったイメージが広がり、一粒でなんども美味しいのではないかと思ってしまいました。
(2008.03.14)

書名著者発行所発行日
山頭火を行く四宮佑次 写真講談社2006年11月1日

☆ Extract passages ☆

 山あれば山を観る
 雨の日は雨を聴く
 春夏秋冬
 あしたもよろし
 ゆふべもよろし

(四宮佑次 写真『山頭火を行く』より)




No.219 『すべては脳からはじまる』 

 脳科学者としていろいろのマスメディアに出てくる茂木健一郎さんの本です。話題も政治から食べ物、そしてIT問題まで、いわば何でもありです。
 というのも、もともとは「読売ウイークリー」や「中央公論」に連載されたものだそうで、その時々の話題を俎上にあげているからです。ご自分でも、週刊誌に毎週書くということはプレッシャーだったが、それがある種のリズムになり、「今週は何を書こう」と楽しみにすらなったといいます。だからこそ、このように書き続けられたのでしょう。
 また、読む方も、話題が変わることから、どこから読み始めてもどこで読み終えてもいいわけで、ちょっとした時間の隙間でも案外気楽に読めました。それでも、随所に脳科学者としての分析みたいな解説があり、無意識でしていることが、ある種の脳からの指令で動いているのかもしれない、と感じました。題名通り、『すべては脳からはじまる』に間違いはなさそうです。
 本を読むときには、ただ読みふけるだけでなく、気に入ったところは抜き書きしたり、メモを取ったりしているのですが、この本の抜き書きは19枚にもなりました。ということは、ある意味、とても気に入って読んだということです。ただいま3版ですから、多くの人たちにも読まれています。ぜひ、おすすめいたします。
(2008.03.12)

書名著者発行所発行日
すべては脳からはじまる(中公新書ラクレ)茂木健一郎中央公論新社2006年12月10日

☆ Extract passages ☆

 創造性の程度は、側頭葉に蓄えられた「体験」と、前頭葉によって創られる「意欲」のかけ算で決まる。経験なしに創造性は生まれない。2006年に生誕250周年を迎えたモーツァルトも、幼少期よりたくさんの音楽に接してその体験を側頭葉に蓄えたからこそ、あのように驚くべき創造性を発揮することができたのである。年齢を積み重ねるほど、体験の厚みも増す。
 高齢になると創造性が落ちる、と一般に言われるのは、「意欲」が低下するからであろう。逆に言えば、意欲的な高齢者は「最強」だということになる。

(茂木健一郎著『すべては脳からはじまる』より)




No.218 『したたかな生命』 

 副題に「進化・生存のカギを握るロバストネスとはなにか」とあり、そのロバストネスそのものが分からず、それを知りたいと思い、読み出しました。ところが、これがとても難しい本で、進化や生存だけでなく、糖尿病や癌などの病気をシステムとして考えているようです。そこで、分からない語句を一つ一つ調べていくと興味をそがれるので、さーっと読み続けました。おそらく理解度は20パーセントかもしれません。
 まず、このロバストネスですが、その定義は「システムが、いろいろな擾乱に対してその機能を維持する能力」だといいます。つまり、ロバストネスを議論する際には、「システム」が、どのような「擾乱」に対して、どの「機能」が維持されるのか、されないのかを明確にして議論する必要があるというのです。それで考えると、私には、糖尿病がなぜ起こるかという問題より、吉野家はどういう戦略を展開するかという問題のほうが、このロバストネスについての理解はできました。たしかに、癌をシステムで考えるでは、その癌の多様性や抗ガン剤開発の難しさなどは、その内容が分からずともその大枠は理解できます。しかし、ロバストネスの発想で癌の治療を考えるとなると、何度読んでもなかなか理解はできそうもありません。
 おそらく、これは基礎学力の問題で、システムそのものが理解できていないからのようです。でも、何が分からないかが分かれば、今度はそれを分かるようにすればいいわけで、いつかは理解できるようになります。まあ、そう期待して、今回は理解度20パーセントでも仕方ないと思いました。
(2008.03.09)

書名著者発行所発行日
したたかな生命北野宏明・竹内薫ダイヤモンド社2007年11月15日

☆ Extract passages ☆

われわれの体にはグルコースがないと生きていけない重要な細胞が2つあります。1つは神経細胞。もう1つは、マクロファージやモノサイトといった、自然免疫系細胞です。
 われわれの祖先が生きていく際に、進化的スケールではなにが脅威だったかというと、猛獣などの天敵と、病原体です。それに対応するためには、 神経系の機能が十分維持されていなくてはいけないでしょうし、免疫系も十分に活性化されていなくてはいけないでしょう。・・・・・
インスリン抵抗性は、血液中のグルコースが脂肪細胞や骨格筋細胞へと取り込まれることを低下させます。少ない食料摂取という環境下で、血液中のグルコースレベルを維持するという観点からは、インスリン抵抗性によって、中枢神経系やマクロファージへのグルコース供給が必要以上に低下することを回避できる非常に都合のいいメカニズムだったのではないでしょうか。

(北野宏明・竹内薫著『したたかな生命』より)




No.217 『昭和の子ども生活史』 

 最近、昭和30年代がブームだといいますが、そのきっかけとなったのは西岸良平原作の『三丁目の夕日』(小学館・ビッグコミックオリジナル)だといわれています。私は読んだことがありませんが、それが2005年に『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画になり、いちやくブレーク、まだその余波が続いているようです。「映画生活」というホームページによると、「昭和33年の東京。短気だが情の厚い則文が営む鈴木オートに、集団就職で六子がやってきた。小さな町工場にがっかりした六子を、一家のやんちゃ坊主・一平は、「もうすぐテレビがくる」と慰める。鈴木オートの向かいで駄菓子屋をする茶川は、芥川賞の選考に残った経験がありながら、今は少年誌に冒険小説を投稿する日々。ある日茶川は、淡い思いを抱く飲み屋のおかみ、ヒロミに頼まれ、身寄りのない少年、淳之介を預かることに。」という筋書きだそうです。
 でも、この本はそれとはまったく関係がなく、純粋に学問的に『昭和の子ども生活史』を豊富な資料をもとに書いています。ただ、個人的には、自分の育った時代のことは懐かしさや郷愁などで楽しく読めますが、戦前のことについてはただあらすじだけを追っていたようです。でも、戦後の団塊の世代のことになると、今との比較で良いこと悪かったことなどがたくさん思い出され、なかなか前に進みませんでした。
 とくに、子どもの置かれていた社会環境の違いは、今と比較すらできないすことも多く、失ってしまったことも多いと気づかされました。単純に昔は良かったとばかり言えませんが、少なくとも子どもたちの目は輝いていたように思います。
 何はなくても、いっしょに遊ぶ仲間がいました。悪いことをすると、大きな声で叱ってくれる大人がいました。みんな夕暮れまで、お腹がすきすぎてへとへとになるまで遊ぶ時間がありました。
 ちょっと読むには高すぎる本(定価7,500円+税)ですが、子どもたちの育成に関わっている方たちには図書館から借りてでも読んでいただきたいものです。
(2008.03.06)

書名著者発行所発行日
昭和の子ども生活史深谷昌志黎明書房2007年9月30日

☆ Extract passages ☆

 子どもが、群れを通して、どのような遊びをしたかは問題でないような気持ちがする。多様な仲間から構成される群れの中に身を置いて、集団の中での行動の仕方を身につけていく。そして、どの子どもも「町の子」「村の子」として育っていく。そうした意味では、子どもの群れは子どもの人間性を育てる場だった。なお、子どもの群れ集団には大人の影は見られない。換言するなら、家庭や学校での子どもは、大人の目を意識して行動する。しかし、遊び仲間は子どもだけで作るコミュニティーで、それだけに、他とは異なる集団としての独自の機能を果たしたと考えられる。

(深谷昌志著『昭和の子ども生活史』より)




No.216 『絵本のあたたかな森』 

 副題に「たいせつなひとに伝えたい、愛のかたち」とありますが、著者がおすすめする絵本を40冊選び出したものです。下に抜き書きした通り、新しい絵本も、いくら時代が変わっても読み継がれていく絵本もあります。
 最近、孫ができたこともあり、絵本や童話に関心が出てきました。まだ6ヶ月ですから、絵本を読み聞かせるなんてことはまだできませんが、してみたいとは思っています。絵本の持つ温かさや優しさ、そしてある種のファンタジーなどは、子どもの想像力をかき立てるものだと思います。テレビなどのメディアはすべて見せてしまうので、なかなか想像する部分はないのですが、絵本はそれなりの想像力がなければ読んでいてもおもしろくありません。いや、おもしろいように想像力をたくましくするのかもしれません。
 ここには40冊の絵本が紹介されていますが、すぐ読んでみたいと思うのが数冊ありました。この本の前作が「はじまりはじまり ー 絵本劇場へどうぞ ー」だそうですから、これらの本からあまりなじみのない絵本を探してみたいと思います。
 そういえば、先日郵便局に行ったら、お知らせコーナーに「絵本のある子育て 絵本の定期便 童話館ぶっくくらぶ」というパンフレットがありました。今は、自分で選ばなくても専門家が年齢にあわせて選んで送ってくれるみたいですが、選ぶことも楽しみの一つです。数多くの絵本のなかから、これなら読ませたいという絵本を選び出す、それも大きな愛情ではないでしょうか。
 何回でも読んで聞かせたい、角がすり切れたり少し破れたりしても大事にいつまでも持っていたい、そんな絵本を探してみたい、とこの本を読みながら思いました。
(2008.03.03)

書名著者発行所発行日
絵本のあたたかな森今江祥智淡交社2001年4月8日

☆ Extract passages ☆

 今日出たばかりの1冊も、40年前に出合った1冊も、その面白さ、愉しみようでは同格です。子供から大人にまで、それぞれの心にしみる1冊。絵本のあたたかな森に分け入って、私なりに見つけたすてきな獲物を、ほんの少しばかりお目にかけましょうか ー それが本書の意図です。

(今江祥智著『絵本のあたたかな森』より)




No.215 『文章のみがき方』 

 これは1975〜88年にかけて朝日新聞の「天声人語」を担当した辰濃和男の文章の書き方です。今はどうか知りませんが、以前はこの「天声人語」の文章が簡潔で要領を得たものでいわば文章のお手本にされていました。しかし、たしか昨年だったと思いますが、「天声人語」風に書き直すパソコンソフトというのがあることを知り、唖然としました。それに従って文章を作成すると、何でもかんでも自分の考える方向に結論を持って行ったり、どちらにでも解釈できるようなものに仕上がります。それが、このソフト作成者の「天声人語」文章の思いなのかとしばらく考えてしまいました。
 そこで、ネットで調べたら「だれでも簡単に天声人語風コラムを作成できるソフト」というもの見つけました。ソフト名は「便利な!天声人語風メーカー ver.2.2」です。興味がありましたら、自分で確かめてみてください。
 それはともかく、確かに文章を上手に書くというのは難しく、いままでも多くの方々がいわば文章読本なるものを書いてきました。たとえば、谷崎潤一郎『文章読本』、丸谷才一『文章読本』、三島由紀夫『文章読本』、水上勉。瀬戸内寂聴『文章修行』、井上ひさし他『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』など、たくさんあります。
 しかし、そのどれもがスープの作り方は教えられても、それだけの時間と手間をかけられるかという問題があります。まずは、つねに書き続ける、それが大切ではないかと、この本を読んで思いました。
 読み終えてカレンダーを見ると、今日が2月29日、閏年にしかない4年にたった1日の日、貴重な1日でした。もしかすると、思い出に残る1冊の本になるかもしれません。
(2008.02.29)

書名著者発行所発行日
文章のみがき方(岩波新書)辰濃和男岩波書店2007年10月19日

☆ Extract passages ☆

 自分の心に向き合うことが難しいように、自分の文章に向き合い、自分の文章ににじみでている邪心を見つめるのも難しい。いい文章を書くための道には、果てがありません。自分の文章の拙さ、思いの浅さにのたうちまわってくやむこともあるでしょう。しかし、幸いにも、「いい文章」を書くための道は、果てしないが、つづいているのです。そして、その道を地道に歩きつづけるものだけが、それなりの果実を手にすることができるのではないでしょうか。

(辰濃和男著『文章のみがき方』より)




No.214 『サブプライム問題とは何か』 

 最近よく耳にするサブプライムって何だろう、という素朴な疑問から読み始めました。ニュースを見るにつけ、相当大きな経済的な問題だとわかりますし、これからの世界経済にも大きな陰を落としそうな気配が感じられます。でも、そもそもこのサブプライムって何なのかをくわしく紹介したニュースを見たことがありません。
 それでこの本に出会ったわけですが、ここではサブプライムが生まれたときから書き起こし、その問題点をアメリカ取材を絡めながら解説してくれます。日本では、住宅ローンを借りるときには銀行などの金融機関に直接融資を申し込むのですが、アメリカでは住宅ローン・ブローカーが複数の金融機関の住宅ローンを取り扱い、顧客に斡旋するのだそうです。そして金融機関は、住宅ローンをまとめてパッケージして、証券化して売るといいます。
 なんとなくわからなかったのは、日本とアメリカの住宅ローンの仕組みそのものが違い、さらには世界経済がそのアメリカの住宅ローンの仕組みに乗せられてしまったことのようです。最初に住宅ローンを組んだ個人も、最終的にその住宅の債権者が誰なのかわからないこともありえるようです。いわば、日本のバブル時代に土地転がしが横行したようなことが、アメリカで住宅を中心に行われたということなのかもしれません。副題にも「アメリカ帝国の終焉」とシンボリックな表現が見られました。
 もし、この問題に関心があれば、ぜひお読みいただきたいと思います。サブプライム問題とは何か、がすっきりと理解できます。
(2008.02.25)

書名著者発行所発行日
サブプライム問題とは何か(宝島社新書)春山昇華宝島社2007年11月24日

☆ Extract passages ☆

 サブプライムローンは、低所得者層でも住宅を持てるようにするという目的で、住宅ローン商品の一つとしてひっそりと生まれた。サブプライムローンが対象とするのは、中南米からの移民や、黒人、ヒスパニックなど、アメリカ社会のマイノリティと呼ばれる人々が中心である。彼らの多くは、銀行口座さえ持っておらず、普通の住宅ローンの申請基準を満たすことができない。極端に言えば、どこの誰ともわからないが、ただ家を持ちたいという夢だけは持っている人々、である。当然、信用力も担保力もない。
 そのような人々への貸付自体が悪いというわけではない。法の規制が不十分であったため、返済のために借金を繰り返すような、日本のサラ金の多重債務ソックリな状態を生んでいったことに問題がある。

(春山昇華著『サブプライム問題とは何か』より)




No.213 『こんなに使える経済学』 

 経済学というと、世代的には近経かマル経かとか、普通の感覚からすれば株価や景気の予測など、実際の経済問題を分析する学問のように思ってしまいます。しかし、この本で経済学の役割としているのは、「社会の制度を作っていく上で一番重要なのは、人々がどういう価値を重視するかを把握することだ。公平性を重視するのか、それとも効率性を重視するのか、どういう価値観をもっているのか。そのような価値観のもとで、人々が最も豊かになれるように、無駄が生じないようなシステムをどのようにして作るかということ」だとしている。
 副題も、「肥満から出世まで」と、いままで経済学であまり扱わなかったような事項にまで切り込み、その経済学の手法の必要性を説いています。この他に、「たばこ中毒のメカニズムを解く」や「セット販売商品はお買い得か」、「日本人が貯蓄をしなくなったワケ」、「相続争いはなぜ起きる」など、全6章で、27の問題を解説しています。
 なるほど、と思うものや、いや、違うんじゃないの、と思うものまで、いろいろありますが、読んでいただければそれなりに納得はすると思います。ぜひ、お勧めいたします。
(2008.02.22)

書名著者発行所発行日
こんなに使える経済学ー肥満から出世まで(ちくま新書)大竹文雄編筑摩書房2007年1月10日

☆ Extract passages ☆

経済学は、制度設計や政策を決定しなければならない時に、無視をしてはいけないポイントを教えてくれて、大きな間違いを防いでくれるという意味で役に立つ。中でも、因果関係をきちんと考えることと、人々のインセンティブを無視してはだめだということが、経済学の考え方で最も重要だ。

(大竹文雄編『こんなに使える経済学』より)




No.212 『定年バックパッカー読本』 

 最近、団塊の世代の話題が多くなってきていますが、この本も、「団塊は、世界をめざす!」という勇ましい副題がついています。
 文章のなかで、「団塊の世代のオヤジは、その青年期から、すでに数度の海外旅行を経験している人が多く、少なくとも海外旅行の基本は押さえている。しかも、この世代は前の世代のように群れない。過剰に多い世代内の競争相手との、生存競争を続けてきた結果、俺は俺、お前はお前という、個人主義的な性向を、その宿命として背負っています。」としていますが、たしかにその通りで、群れそうで群れないようです。私も、どちらかというと、一人旅派で、なによりも気楽です。下の「 Extract passages 」に抜き出したとおりです。
 ここには、自分が若いときにバックパッカーをしていて、さらに今、自分なりに体力の衰えなどを考えると、団塊の世代らしいバックパッカーがあるのではないかという提案です。そして、その実践です。
 著者は、最近、ネパールのポカラに熱を入れているそうですが、たしかにポカラはいいところです。定年にでもなったら、数ヶ月、のんびりと本を読みながら過ごしてみたいところでもあります。
 とすれば、私も団塊の世代の考え方のようです。
(2008.02.19)

書名著者発行所発行日
定年バックパッカー読本大嶋まさひろ集英社2007年8月29日

☆ Extract passages ☆

 一人旅は、自分の心にまとわりついた、こんな皮膜のような「誰か」を脱いで、生身の自分を外気に晒して生きることに似ている。突然風に晒された生身の自分は、その冷たさにピリピリと緊張して、無防備な我々の五感は鋭く研ぎ澄まされる。炬健の中でぬくぬくとしていた猫が、常に周りを警戒し、俊敏に動く野良猫に変貌するようなものだ。
 我々は、妻や、コミュニティなどに依存しなくても、自分で生きていく。そんな自立したオヤジに、一人旅を通して変貌する。

(大嶋まさひろ編『定年バックパッカー読本』より)




No.211 『生きるために、一句』 

 著者は、現役の聖路加国際病院副院長で小児科医で、これらの文章もエーザイ株式会社がお医者さんに配っている「CLINICIAN(クリニシアン)」という雑誌に1998年8月号から2007年6月号まで連載された俳句をネタにしたコラムだそうです。
 しかも、山形県河北町のご出身ということで、ところどころに自分が育ったころの山形の風景や生活習慣などが出てきて、同年代ということもあり愉しく、思い出しながら読ませていただきました。そして、いかにも小児科医らしい、やさしい文章のなかにもキラリと光る言葉があり、飽きさせません。
 最近、小児科や産婦人科のお医者さんになる人がいないという話しを聞きますが、収入のことだけを考えると、昔も大変だったようです。著者は、「小児科は面白いかもしれないが、食うのに困るぞ」と内科医の父に言われたそうですが、それでもなろうとする方がおられたわけです。そして、「あれから四半世紀たって五十歳になった今、病棟で両手を水平に広げて飛行機になって走ってみたり、ウルトラマンになりきっているおちびに、バルタン星人になって向かっていったりしていると、やっぱり小児科医でよかったなと思います」と言えることは、とても素晴らしいことです。
 折しも、この本を読んでいるときのニュースで、ある病院の麻酔科の医師がいなくなり、年俸3,500万円出して医師集めをすることにしたそうです。たしかに、お金も大切ですが、食うことに困っても、面白いことや喜ばれることをしたいという気持ちはより大切なような気がします。
(2008.02.17)

書名著者発行所発行日
生きるために、一句細谷亮太講談社2007年10月19日

☆ Extract passages ☆

 「水澄む」というのは秋の季語です。
 暑い夏が過ぎ、爽やかな秋がやってきました。空気もキラキラした透明感を持つようになると、水も澄んで清らかで、冷やかに見えます。このような季語に出会うと、私たちの先人の細やかな感覚に、心の底から感心してしまいます。
 春に青、夏に朱、秋に白、冬に黒を連想したり、春の「山笑ふ」、夏の「山滴る」、秋の「山粧ふ」、冬の「山眠る」という表現を思いついたり、「ことば」 への愛着が強いという点で、日本人は特別であるといえます。

(細谷亮太著『生きるために、一句』より)




No.210 『「感情の整理」が上手い人下手な人』 

 この本は、以前は『「感情コントロール」で自分を変える』という名で出ていたそうですが、それに若干の補筆をして改題したものだそうです。たしかに題名が変わると中身まで違うように見えますから、意外とこの題名は大事なものなのかもしれません。
 ちなみに、この本はとてもすらすらと読めて、気がつくと読み終わっていたのに気づくようなものです。しかし、その簡単な行間に潜む精神科医としての指摘は的確のもので、感情を自らコントロールすることの大切さが伝わってきます。
 たとえば、心の黄信号では、「最初に挙げたいのは「思い込み」です。ただの「思い込み」が「確信」になってしまい、聞く耳を持たない状態になることです。二番目は「完全主義」です。仕事でも家事でも、手抜かりなく完全にやり遂げなければ気分が収まらないといった状態です。」とありました。ということは、これらの黄信号をいくらかでも自覚できたら、良い方向に軌道修正するよう心がけなければならないようです。
 そして、精神分析のトレーニングを受ける人は原則的に、自分自身も精神分析家からカウンセリングを受けるルールがあると知り、少し驚きましたが、自分のことが一番わからないとはよく言いますが、まったくその通りだと納得しました。
(2008.02.15)

書名著者発行所発行日
「感情の整理」が上手い人下手な人和田秀樹新潮社2007年11月22日

☆ Extract passages ☆

 機嫌よく生きるというのは、自分のありのままを見つめ、背伸びしないということなのですから、特別な能力や経験が要求されることではないのです。中高年の感情生活がむずかしくなるのは、むしろ中高年なりの能力や経験が邪魔をするからだということさえあるのです。したがって、若々しい感情生活を取り戻すためには、自分の中にある「偉そうにしたい気分」をまず消し去ることです。それに代わって、「もっと成長したいな」という素直な成長願望を持つことが大切になってくるのです。

(和田秀樹著『「感情の整理」が上手い人下手な人』より)




No.209 『老春も愉し』 

 この本は、「続・晴美と寂聴のすべて」と副題が付いているように、75歳から85歳までの自分自身のことを書いたものです。ちなみに、「晴美と寂聴のすべて」では生誕から75歳までのことを自らの言葉で綴ったもので、文庫版では2冊に分かれています。この『老春も愉し』には、白黒写真ながらアルバムもついています。
 それにしても、この10年間のご活躍はすごいものです。八面六臂とでも形容するしかないようで、本職の小説以外でも多岐に亘るさまざまな活動をしているようです。おそらく、ご本人も、みずからこれを書きながら、よくもまあ、これだけやってきたものだ、と考えてしまったのではないかと想像しました。この本のなかでも、「どうにか書き終わった時は、書いている時の辛さも苦しさも一瞬にかき消えて、とうとうやり遂げた達成感だけが喜びとなって、強いエネルギーになって噴き出てくる。この瞬間の喜びの強烈さが忘れられないので、書いている間は、もうこんな仕事は二度とやれない、もう止めようと、幾度となく頭の中で繰り返したのも、たちまち忘れてしまう。」のだという。
 そして、筑紫哲也氏の手紙を紹介していますが、「世間はとかく老いると枯れるのが当然、否むしろ、それが上品で美徳のように言い習わしてきているけれど、それはもっての外のことで、人間は年をとるほど枯れてはならないのだ。」とありました。
 まだ、自分では若いと思っていますが、いずれ老人になったら、この気概は持ちたいと思いました。
 それにしても、年々親しい人との別れの話しが増えてくるのも、まあ、致し方のないことなのだと納得しました。
(2008.02.13)

書名著者発行所発行日
老春も愉し 続・晴美と寂聴のすべて瀬戸内寂聴集英社2007年10月10日

☆ Extract passages ☆

 私は好きなことを50年間、律義にしつづけているだけだ。幸い51歳の時仏縁を得たので、それ以後は仏に守られているという安心感がある。仏のみ心のままにと、自分をゆだねきってしまえば、悩みもない。心にいつでも風が吹き通っている。それが元気の素であろうか。
 肉体に迫る老いはさけ難い。しかし長く生きると、それだけこの世の想い出の数は増える。人との別れも増えるが、出逢いの記憶の方がはるかに多い。想い出をなぞるだけでも退屈しない。私は近頃、老いの愉しさが漸くわかってきたような気がする。

(瀬戸内寂聴著『老春も愉し』より)




No.208 『シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉』 

 シーボルトの『日本植物誌』は植物好きには有名な本ですが、なかなか読む機会がなく、必要な箇所だけ拾い読みをしていました。でも、この本文の覚書は初めて翻訳されたもので、シーボルトの植物に対する造詣の深さを読み取ることができます。なかには、何度も読んだアジサイの項もありますし、ツクシシャクナゲなどは今では少し訂正せざるを得ないところもありますが、その当時の見方や植物の取り扱いなどがわかり、とても参考になりました。
 そもそもこの『シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉』は、「わが国におけるシーボルトの植物学についての、基礎的資料の不足を補う目的で、シーボルトとツッカリーニ共著『日本植物誌』に収載された、シーボルト自身の手で記されたと考えられる「覚書き」の部分を翻訳したもの」です。
 全部で151の植物が載っていますが、127のネズまではシーボルトが書き、128のイブキから151のサワグルミまではシーボルトのノートを引用するかたちでミクェルが覚え書きを書いています。全体を通してこれを読むと、「シーボルト自身の観察ならびに後述するようにさまざまな機会をとらえて、シーボルトが収集した見聞や文献によって書かれており、江戸時代の化政年間を中心とした民俗植物学、植物資源学の重要な資料であるだけでなく、シーボルトがこうした覚書きをものすることを可能にさせた、当時の日本人が有していた植物についての知的水準と日本人学者の資質の高さを示すものとしてたいへん興味深い。単に多様性の保護のためだけに植物をみるのではなく、それを資源として利用することを通じ、当時の人々はいかに野生植物と身近に接していたことか。」という大場先生のご指摘通りのことが分かります。
 もし、機会があれば、ぜひお読みいただきたい植物文献の1つです。
(2008.02.10)

書名著者発行所発行日
シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉大場秀章監修・解説/瀬倉正克訳八坂書房2007年10月15日

☆ Extract passages ☆

 古代の大和(日本の古名)原住民が持っていた、自国の驚異的な産物に対する嗜好、驚くべき被造物への崇敬の念は、植物界に関して言えば、宗教家の園芸から始まったことである。そういった園芸によって、小さな庭園と境内に可愛らしい植物や斑入りの植物、あるいは八重咲きの花、奇形の葉や人工的に切り込みを入れられた葉をもたらしたのである。つまりそれは、神官や僧侶がはるか昔から続けてきた手慰み、世事から身を引いた隠遁生活の日々の営みであり、百年の太平が生み出した楽しみ事なのであって、そこから地上でもっとも豊穣で美しい植物相に無数の変種植物が作り出され、園芸の汲めども尽きぬ源泉が我々にもたらされることになったのである。

(大場秀章監修・解説/瀬倉正克訳『シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉』より)




No.207 『お坊さんだって悩んでる』 

 芥川賞作家の玄侑宗久氏が書いたもので、もともとは月刊誌の『寺門興隆』に連載されたものだそうです。それに、大幅に加筆・修正したものですが、もともとお坊さんしか読まない月刊誌ですから、お坊さん向きの本でもあります。
 しかし、同じような悩みを抱えている一般の人たちもいるわけで、27の問に答える形で話しがすすんでいきます。それを大きく6章に分け、第1章お葬式とお墓、第2章お布施の値段、第3章現代社会の生と死、第4章お寺の本当の役割、第5章伝統と習慣を見直す、第6章お寺の後継者と檀家、となっています。
 それぞれに今を生きる人たちの悩みでもあり、それを単純明快に答えるわけで、なかにはいくつもの答えがあるわけでしょうが、それでも自分ならこう考えるというのが見え隠れして、とてもおもしろく読みました。悩みをおもしろくというのも不謹慎ですが、岡目八目ではないのですが、悩んでい当人より、周りの人のほうが見えている場合も多く、そのおもしろさです。
 「めでたさ」でも書いていますが、「めでたい」の「たい」は願望の助動詞ですから、「愛でる」という行為をしたいという人にだけやってくる「めでたさ」なのです。ということは、良いことがあっても自分の意志で愛でようと思わなければめでたくないということになります。
 つまり、めでたさも自分の気持ち次第というわけです。いつもめでたいと思うことが大切だということになります。そう、雪が降っても、雨が降っても、晴れたとしても、それはそれでめでたいことです。その愛でる自分がここにいるということですから・・・・・。
(2008.02.06)

書名著者発行所発行日
お坊さんだって悩んでる(文春新書)玄侑宗久文藝春秋2007年8月25日第4刷

☆ Extract passages ☆

 正坐というのは、世界のなかで日本人だけがとるスタイルです。そのため、足腰の丈夫さ、腹式呼吸人の多さなど、日本人の特徴の多くもそれに依って培われたものと思われます。
 ちなみに、和式トイレも最近では少なくなってきましたが、あのときの蹲踞に近い姿勢をとれる人も外国には殆んどいません。それがどうした、とおっしゃるかもしれませんが、あのスタイルは自然に腸が刺激され、力まなくてもお出ましいただける優れた姿勢なのです。あれが辛いといって洋式トイレに変えるお宅が多いですが、それによってトイレでの脳血管障害などは却って増えていると思います。

(玄侑宗久著『お坊さんだって悩んでる』より)




No.206 『「うるさい日本」を哲学する』 

 この本は、「偏食哲学者と美食哲学者の対話」という副題が付いていますが、中島義道と加賀野井秀一のお二人が手紙をやりとりするという形を取っての対話集です。それも、街頭の音がうるさいという一点に絞って、それを哲学するわけです。とてもユニークでおもしろい題材です。
 この街頭の音とは、具体的に、「日本国中、人が集まる所にかならず撒き散らされる注意・勧告、お願い・依頼等々の野しい放送なのです。初詣ででも、お花見でも、花火大会でも、海水浴場でも、遊園地でも、「押さないでください! 押さないでください!」とマイク片手で警察官や警備会社員ががなりたてている。そして 「〇〇〇〇をお願いします! ××××をしないでください!」という放送もまた絶え間なく放出される。」などのうるさい音です。
 このお二人は25年に及ぶお付き合いだそうですが、同じ哲学者でもこれだけものの見方や考え方が違うということがわかります。むしろ、その違いを明確にすることで、問題点が浮かび上がるのかもしれませんが、対談だと、少しずつなれ合いになるのですが、手紙という一方的な書き方なので、その個性も際だちます。
 最初は、うるさいと思っていた音さえも、これだけで哲学できると知り、最後まで一気に読んでしまいました。日本人は、いかに日本人なのかを突きつけられたようです。知るとか知らないとかいうより、そうあることを哲学することのおもしろさを感じました。
(2008.02.03)

書名著者発行所発行日
「うるさい日本」を哲学する中島義道・加賀野井秀一講談社2007年8月15日

☆ Extract passages ☆

 われわれは、「みんな」 が規則を守れば規則を守り、「みんな」 が規則を破れば規則を破るのです。規則それ自体より、「みんな」 のほうが数段重要なわけですから、「みんな」 が規則を破っている限り、自分も規則を破ることには、ほとんど後ろめたさを感じない。むしろ、「みんな」 が規則を破っ ているのに、自分だけ規則を守ることのほうが、よっぽど後ろめたく居心地が悪い。もしかしたら、自分は 「みんな」 に迷惑をかけているのではないかとすら思い悩んでしまう。わが国の傷つきやすい人々は、規則を破ったから傷つくのではなく、「みんな」 に迷惑をかけたから傷つくのであり、つまり、規則を破ることより「みんな」 に迷惑をかけることのほうが数段悪いと思って、傷つくのです。

(中島義道・加賀野井秀一著『「うるさい日本」を哲学する』より)




No.205 『山を読む』 

 この本は、初版が出版されて15年ほどたつそうですが、新装ワイド版として再発行されたものです。この「自然景観の読み方」シリーズには、「森を読む」(大場秀章著)、「雲と風を読む」(中村和郎著)、「日本列島の生い立ちを読む」(斎藤靖二著)、「地図を読む」(五百沢智也著)があり、最後にあげた「地図を読む」だけ読んだことがあります。
 このシリーズは図解が多く、活字も大きく読みやすく、数々の風景からのメッセージがわかりやすく解説されています。この『山を読む』も、写真(残念ながら白黒写真です)や図解が多く、とてもわかりやすく書かれています。
 たしかに、日本の風景は、山があっての広がりです。この本に書かれていましたが、日本の国立公園28のなかで、山が含まれていないのは釧路湿原国立公園だけだそうです。しかし、この湿原の彼方には阿寒の山々が連なり、景観を引き立てています。ということは、日本の風景は、山が基本だと言っても言い過ぎではなさそうです。
 山を知らずに、日本の風景を論じることはできません。その山がどのようにしてできたのか、そのメカニズムや成り立ちの歴史を知ることは、その前提になるはずです。
(2008.02.01)

書名著者発行所発行日
山を読む小疇尚岩波書店2007年7月5日

☆ Extract passages ☆

 山地の環境はさまざまな要素の複雑かつ微妙なバランスの上に成り立っていて、私たちはそれをトータルな姿、すなわち景観としてとらえています。したがって山の環境変化は景観の変化として目に映ります。川の源である山地の環境の悪化は水資源の枯渇や、水質汚濁、洪水の頻発などを招きかねず、大勢の人が住む下流域に影響をあたえることが危倶されます。美しい山の景観を末永く楽しむためにも、自然の均衡を乱さないように心がけたいものです。

(小疇尚著『山を読む』より)




No.204 『キュウリのトゲはなぜ消えたのか』 

 副題が、サプライズな「野菜学」とあるように、野菜は自然からの贈りものであるだけでなく、品種改良や流通、そして生産者の立場など、多方面から解き明かすもので、楽しみながら読むことができます。普段何気なく食べている野菜にも、いろいろなエピソードがあることがわかります。
 著者は、恵泉女学園大学で教鞭をとっていますが、講演やテレビなどの解説、さらには家庭菜園の指導などもされており、まさに理論と実践を兼ね備えていることから、お話をかがっているかのような錯覚に陥ってしまうようです。書き方も、そういえば、話しをされるような文体です。
 今、食品の安全性が揺らぎ始めています。だから、家庭菜園が注目されています。自分で野菜を作っている人たちは、
 ・収穫の喜びを自分で味わえる
 ・旬の野菜を栽培しながら、季節の移り変わりを感じられる
 ・安心・安全で、新鮮なとれたて野菜が食べられる
 と話されているそうです。
 まさに家庭菜園は、これからのスローライフにぴったりの魅力に満ちています。
(2008.01.28)

書名著者発行所発行日
キュウリのトゲはなぜ消えたのか(学研新書)藤田智学習研究社2007年11月15日

☆ Extract passages ☆

 コロンブスは新大陸の「発見」で知られています。しかし、コロンブスの本当の功績はそうした冒険とか発見とかいったものではなく、実はヨーロッパをはじめとした世界へ、さまざまな野菜が広まるきっかけをつくったという点にあると、私は思っています。コロンブスが西インド諸島へ到達したのは、1492年です。それから約10年はどの間に、アメリカ大陸を原産とする次のような野菜が、ヨーロッパへもたらされています。
 トマト、ジャガイモ、ピーマン、トウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、インゲンなど
 コロンブスがいなかったら、コロンブスが新大陸を「発見」していなければ、これらの野菜が広まるのはずっと遅れたことでしょう。それだけ品種改良も遅れた。だから、おいしい野菜を今食べられるのはコロンブスのおかげです。

(藤田智著『キュウリのトゲはなぜ消えたのか』より)




No.203 『ニッポンを繁盛させる方法』 

 東国原英夫さんが宮崎県知事になり、ちょうど1年が過ぎましたが、その人気はいまだ衰えを見せません。また、マスコミへの露出度も当選当時とほとんど変わっていないような気がします。ある広告代理店が試算したところによると、この1年間の経済効果は約1,000億円だそうです。しかし、その宮崎県に9,000億円以上の借金があるそうですから、その舵取りはやはり大変なようです。
 一方の島田紳助さんは、もちろんタレントとして活躍していますが、その他にも大坂や東京で飲食店を経営しているそうなので、商売人としての側面もあります。
 その旬の二人が『ニッポンを繁盛させる方法』と題して話したことをまとめたのが、この本です。短いのですが、それぞれコメントのようなものも書いています。
 でも、彼らの話すことですから、まさに一気に読むことができました。それと、そのものの考え方の違いもおもしろいと思いました。たとえば、よく東京などで見られるラーメン店の行列なども紳助流に解釈すると下の (☆Extract passages☆) のようになります。
 さて、これを読んで、皆さまならどのように考えますか?
 このようないろいろな考え方があり、それらをすくい上げられる柔軟性が今求められているような気がします。1日でゆっくり読めると思いますので、機会があればぜひどうぞ!
(2008.01.25)

書名著者発行所発行日
ニッポンを繁盛させる方法(角川oneテーマ21)島田紳助・東国原英夫角川書店2007年11月10日

☆ Extract passages ☆

 「東京のラーメン屋には人が並ぶけど、なぜ大阪のラーメン屋には並ばないのか」
 大阪人には「ラーメン1杯にわざわざ並んでられるかい」という気持ちがあり、わざわざ並ばなくても、他に楽しい遊びがいっぱいあるし、面白い友だち、面白いおかんがいる、というような感覚がある。大阪人は楽しみをいっぱい持っているからわざわざラーメン屋に並んでムダな時間を過ごすようなことはしないんだ。
 ところが東京ではお金がないと楽しめない。
 カップルが、「明日の日曜日どうする?」という話をして、「どこどこのお店の醤油ラーメンがおいしいらしいよ」と電車に乗って出かけていく。1時間、2時間も並んで待たされて、食べる。
 2時間も並んだらおいしいに決まっている。その間に腹が減るからね。「おいしかったねえ」と話しながら帰るんだけれども、それで半日が過ぎてしまう。ラーメンが2人で2千円だとしても、電車賃を入れればたった3千円で半日を遊ぶ。
 ラーメン1杯をイベントにしないと遊べないのが東京という街や。
 だから、東京のラーメン屋とか行列のできる店というのは、俺は、「小さなディズニーランド」だと思っている。

(島田紳助・東国原英夫著『ニッポンを繁盛させる方法』より)




No.202 『世界の地図を旅しよう』 

 地図は好きで、旅に出るとほとんどその場所の地図を買います。なるべく、そこでしか売っていないような地域限定の地図を選びます。
 この本にも書いてありましたが、「地図はその作成目的によって省略や取捨選択の作法を異にするわけだが、これは目的に従ってある地域の姿を描き出す作業で」すから、何を入れ何を外すかはその地域の価値観に関わってきます。それがおもしろいのです。
 それと、そこを歩いていて、その地図にないいいところを見つけたりすると、なぜかうれしいのです。もしかすると、そこに住む人たちにすればあまりいいとは思わないのかもしれませんが、それでも、なぜかうきうきするのです。
 その地図を見ながら、世界の旅をするのがこの本ですから、地図にないいいところを見つける楽しみはありません。なぜか、生徒のときの地理の時間に戻ったような気分でした。地図の記号にも歴史があるしお国柄もあるとわかりましたが、読んでいてなんかうきうき感がありませんでした。
 この本は、地図だけで行った気持ちになれるような想像力が必要かもしれません。
(2008.01.23)

書名著者発行所発行日
世界の地図を旅しよう今尾恵介白水社2007年11月21日

☆ Extract passages ☆

 地図の場合は「常に客観的である」という捉え方がまだまだ一般的ではないでしょうか。実際には、作り手の機関や会社の置かれた立場、歴史・文化的、または思想的な背景、そこまで大袈裟でなくても、想定される使用目的や表現しようとする内容、どこをどのように強調したいのか、などによってその著作物たる地図は大きく形を変えていくことが理解いただけたと思います。客観的でないのがケシカランというわけではなく、「完全に客観的な地図」など存在しないことを認識して地図と接することが重要なのです。地図は生まれたときから取捨選択の集成であり、その取捨選択の基準はあくまで各々の作り手がその作製目的によって異なる基準で決めているのですから。

(今尾恵介著『世界の地図を旅しよう』より)




No.201 『会社員の父から息子へ』 

 私は「会社員」になったことがないからわからないが、まず会社員だったらどのように考えるのか、何を息子や娘に伝えたいのか、それを知りたいと思いました。どちらかといえば、会社員であれば毎月一定額を給料としてもらい、時間から時間まで働き、ちゃんと休日もあり、それなりの計画を立てた生活ができる、そのような程度しか考えつかないのですが、この本を読むと、そうでもなさそうです。仕事の大変さは、会社員でも自営業でも同じことで、その差はまったくなさそうです。隣の芝生は青いと思いがちですが、そうでもないのが現実のようです。
 だとすれば、会社員や自営業などの差異を考えず、一般的な父から息子や娘に伝えたいことは何かということに絞られますが、それが一般的などという不確定なことではなく、著者の勢古浩爾自身の伝えたいものがここに書かれています。ということは、それぞれの父親が、それぞれの伝えたい思いがあるということかもしれません。だとすれば、私なら何を伝えたいかを考えながら、読ませていただきました。
 考えてみれば、本を読むということは著者の考えや意見を読むことではありますが、あわせて自分なりの考えと照らし合わせながらページをめくることでもあります。あるいは、自分の考えをまとめたり、検証することでもあります。
 もちろん、いろいろな本の読み方があるでしょうが、そんなことを考えながら、読み進めました。ちょっと昔気質の父ではありますが、時代にとらわれない一本気な気質を感じました。
(2008.01.20)

書名著者発行所発行日
会社員の父から息子へ(ちくま新書)勢古浩爾筑摩書房2007年10月10日

☆ Extract passages ☆

 「自分」という存在は、じつに逆説的な存在である、といわなければならない。自分の利益だけを得ようとすると、その自分が腐敗していく。自分の快楽だけを求めようとすると、その自分が腐臭を放つようになる。しかも、それで心がほんとうに満足するかといえば、そんなことはない。そんな自分が嫌になるのだ。だからウソや言い訳や開き直りで、自分(や他人)を抑えつけるようになる。
 自利利他といわれるように、「自分」をほんとうに生きるためには、他人のために生きなければならない。それが自分という存在の逆説である。そうでなければ人間に信頼はない。責任も発生しない。正しい務めとしての義務もない。自分よりも、他人のために生きるのが愛情である。

(勢古浩爾著『会社員の父から息子へ』より)




No.200 『生き物たちの情報戦略』 

 副題として「生存をかけた静かなる戦い」とありますが、旅行記を交えたような読み物でありながら、生物学とは何かというものまで取り上げながら、自らの研究者としての視点なども書いています。おそらく、私はなかなか理解できなかったのですが、これを読むと生物学とはどのような学問なのかがわかるかと思います。
 しかし、生き物たちの生きるための戦いというのは、すさまじいものです。いや、すさまじいほど戦略的なものだと思います。それが生得的なものか習得的なものかにも興味はありますが、けっこう知らないことが多いと感じました。たかがハエでも、雄と雌では複眼の位置が違うとは思ってもみませんでした。ぜひ、ハエの雄と雌を捕まえて、虫眼鏡でみてください。その不思議さがわかります。なぜ、そのようになったのかは、ぜひこの本を読んでみてください。
 とくに、第10章の挨拶行動のところが興味を引きました。たかが挨拶、されど挨拶です。その挨拶に生きるための戦略が隠されていたとは驚きです。これは目から鱗です。
 たまたまですが、この本が『ホンの旅』を書き始めて No.200 となりました。その意味では、とても印象深い本になるかもしれません。
(2008.01.17)

書名著者発行所発行日
生き物たちの情報戦略(DOJIN選書)針山孝彦化学同人2007年9月20日

☆ Extract passages ☆

 最近の日本の社会は似非平等主義、似非人権保護が蔓延してしまっており、若輩者が年長者などに挨拶をしないで偉そうにしていても、そのまま生きられる社会になってしまいました。これは、前述の社会性動物の行動が進化してきた過程を愚弄するものであり、個体の情報処理系の中に形成されている「敵であるか敵ではないのかを判断する手段」を奪ってしまいます。挨拶をしないですれ違ったときに、わたしたちはお互い危険を感じるように設計されているので、挨拶が消えた社会の個体のすべての者たちは、不安定な気持ちになります。現代日本のイライラした社会が誕生した背景の一つとして、「挨拶行動を失ったことが一つの原因である」といっても過言ではないでしょう。ヒトが生物であり、社会性動物として進化してきたことを忘れないようにしたいものです。

(針山孝彦著『生き物たちの情報戦略』より)




No.199 『甘党流れ旅』 

 北海道から九州、そして沖縄まで甘味を求めて旅したことを記した本です。東京都などは4カ所取り上げていますが、おおむね都道府県もれなく1カ所程度選ばれ、全部で59カ所となっています。ちなみに、山形は「峠の力餅」で、奥羽本線の峠駅で下車して食べた様子が描かれています。
 意外なところでは、箱根の甘酒や館林のかき氷、京都左京区の白味噌雑煮なども取り上げられ、いわゆる上生のような茶道で使うようなお菓子はあまりないようです。それが特徴といえばそうで、本人も「その手の高尚なお菓子については、茶人の方々に任せる・・・・・」と書いています。
 しかし、その甘味だけを求めて日本中を歩いたわけですから、すごいことです。あとがきの最後を見ると、初出として『オズマガジン』とありますから、そこに連載されたもののようです。
 私も旅をすると必ずその地方の銘菓といわれるものを食べるのを愉しみにしているのですが、お菓子の多さには驚かされます。おそらく著者も、59カ所に絞ることのほうが大変だったのではないかと思います。
 もし、甘いものが好きでしたら、楽しく読めます。
(2008.01.13)

書名著者発行所発行日
甘党流れ旅酒井順子角川書店2007年7月20日

☆ Extract passages ☆

 菓子屋横丁は、さほど広くないからこそ、興奮が高まります。狭い道にたくさんの店があって人がごちゃごちゃいて、店の中には多様な商品があまり整然とではなく、並んでいる。その雑然感は、子供の頃に駄菓子屋さんで覚えた雑然感と全く同じで、ワクワク感を呼ぶ。
 そういえば 「ドン・キホーテ」 の社長がテレビで、
「うちでは、様々な品物を整理しないで隙間なく並べる圧縮展示という方法をとっている。これだと人は目うつりして、色々なものを欲しくなる」
 といっていました。が、圧縮展示とはそもそも、駄菓子屋さんが得意とする手法だったのでした。所狭しとたくさんの商品が並び、奥の方はホコリも積もっていかねない駄菓子屋さんだったからこそ子供達にとってはアメイジングで、あれもこれもと欲しくなってしまった。

(酒井順子著『甘党流れ旅』より)




No.198 『照葉樹林文化とは何か』 

 この照葉樹林文化論は、中尾佐助さんが『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)のなかで提唱したものですが、20数年前に初めて外国に行く、しかも雲南省ということでこの本を読みました。その翌年にブータン王国に行くことになり、さらに『秘境ブータン』(現代教養文庫)や『花と木の文化史』(岩波新書)なども読みました。さらにこの本の著者の『照葉樹林文化の道ーブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス)なども読み、自分が出会った人やものなどを考える指標などにしました。
 実際に、校倉造りの小屋を見つけてびっくりしたり、お茶の文化に日本に似たものを感じたり、コンニャクや納豆、そして餅のような粘っこいものを食べて、妙に納得したりしました。だから、この照葉樹林文化論にほとんど無条件に賛同していました。
 しかし、その後、これに類する本を読まなかったのですが、久しぶりに読んでみて、それなりの変化があることを知りました。特におもしろかったのは、第3部の討論「照葉樹林文化と稲作文化をめぐって」です。以前の照葉樹林文化論では、稲作の起源が東亜半月弧の地域だと記憶しているのですが、現在の研究では長江中・下流地域へと変わっているそうです。その稲作の起源もまだ確定するに至っていないそうで、2つの仮説が有力なんだそうです。これは重要なことだと思いますので、下記の「Extract passages」にも取り上げました。
 もし、機会があれば読んでみてください。
(2008.01.10)

書名著者発行所発行日
照葉樹林文化とは何か(中公新書)佐々木高明中央公論新社2007年11月25日

☆ Extract passages ☆

 稲作の起源には二つの仮説があると思います。
 そのひとつは、15.000年ぐらい前に、急激に気候が温暖化して、それで熱帯や亜熱帯地域にあった野生のオリザ・ルフィポゴンが爆発的に拡散し、拡散する過程で種子繁殖性をより強くとることによって新たな北方の環境に適応していった。一方、氷期から後氷期の急激な気候温暖化と生態系の激変の中で食料危機に直面した人類が、その草原を目にした。そこでその種子繁殖性を身につけた野生種の中から、突然変異で出現した脱粒性をもたないものを人間が選択し、手を加えながら農耕を開始していったという仮説。
 それから、もうひとつがオリザ・ルフィポゴンがヤンガー・ドリアスの寒冷期に直面して、これはまだ実証の余地が残されているけれども、イネ自身が栄養繁殖から種子繁殖に転化して、目の前に脱粒性をもたない籾をいっぱい付けたイネがパッと出てきた。それを人間が栽培化して取り込んだという仮説。しかしこの仮説はまだ論証しなければならない点が多い。ヤンガー・ドリアスの気候のインパクトのあり方、さらには栄養繁殖から種子繁殖への移行もそうだが、それによってなぜ突然、脱粒性のないイネが誕生するのかなど、環境考古学的には実証すべき課題が多いと思います。 (安田喜憲)

(佐々木高明著『照葉樹林文化とは何か』より)




No.197 『生態系ってなに?』 

 正月早々から読み始めましたが、なぜこの本を選んだかといいますと、今年は子年なので、いわば12年の最初の年です。これからの12年を考えたとき、最も切実な問題はおそらくこの地球のことではないでしょうか。地球温暖化やエコロジーのことなど、なるべく早く取り組まなければ取り返しが付かないような状況になっています。
 では、エコロジーってなに?、と言われると生態系じゃないの?って言えるけど、じゃあ生態系ってなに?って言われると、なかなかすっきりとは答えられない、それで読み始めました。
 生態系は英語のエコシステムの訳語だそうですが、じゃあなぜ「システムなの?」って考えるとそれがわからないのです。この本には、「生態系という言葉は、英語のエコシステムの訳語ですが、生態系はなぜシステムというのでしょうか?まず、システムとは『複数の要素が相互作用をおこないながら機能している全体』とでも定義できるでしょう。この意味で人間社会は明らかにひとつのシステムです。」と書いてありました。
 この本の特徴は、著者が小さいときから生きものたちが好きで、副題にも「生きものたちの意外な連鎖」とあり、琵琶湖の魚たちや鳥たち取り上げられ、それらが具体的に共生している姿を描いています。自分の最も関心のあるところから生態系を考え、それが共生関係にあるということ、すなわち「地域の生物群集は、相互作用のネットワークのなかで生きている」ことを導き出しています。
 そういえば、1月4日のテレビ番組『地球危機2008』で古館伊知郎が本気で伝えますというキャッチフレーズで放映されましたが、それを見ると、もうその危機的状況はすぐ目前に迫っているかのようです。東大名誉教授の月尾嘉男さんが、日本は世界から環境にあまり関心がないと思われていると話されていましたが、それはエコノミックアニマルという言葉と同じように不名誉なことと思いました。
 ぜひ、年始めに推薦したい1冊です。
(2008.01.05)

書名著者発行所発行日
生態系ってなに?(中公新書)江崎保男中央公論新社2007年11月25日

☆ Extract passages ☆

 生態系のなかに多様な生物がいることは大切です。私たち人が、適切な食料を手に入れることができ、廃棄物を処理できるのは、生態系が多様な生物で構成されているからだと考えられます。いなくなっても私たちの生活に影響がない生物もいることでしょう。しかし、私たちには、それがどれで、どの生物がいなくなったら困るのか、正確に答えることはできません。うるさい虫、気持ち悪い虫、これらがいなくなったら困ってしまうことだってあるのです。

(江崎保男著『生態系ってなに?』より)




No.196 『写真を愉しむ』 

 年末年始は忙しく、本を読む時間もなかなかとれず、新書1冊を読むのに1週間もかかってしまいました。
 その1冊がこの『写真を愉しむ』です。これはおもしろいだけでなく、常日頃考えもせずにパチパチとシャッターを押していたことに、それなりの意味があることを考えさせられました。また、今までのフィルム写真とデジタル写真の違いやあまり違いのないことなども、それなりの具体的例を上げられると、納得できました。
 巻末には、必見写真集や参考図書一覧、さらには代表的な写真ギャラリーや美術館のガイドも掲載され、これからどのように写真を愉しんだらいいのか、そのきっかけになることなども書いてあります。
 また、おもしろいと思ったのは、1940年に丹平写真倶楽部の会報に発表された「写真家四十八宜」は、現在でも十分に通用するものが多く、今だとどのような表現が良いかとまで考えさせられました。これは安井仲治と写真仲間の手塚粲(ゆたか)とが仕事の行き帰りに電車のなかで考えたもので、この手塚粲はあの漫画家の手塚治虫の父で、その当時は住友金属に勤めていたそうです。
 もし、機会があれば、この「写真家四十八宜」だけでもお読みいただければ、少しは写真のおもしろさも味わえるような気がします。なにせ、いろは四十八文字に当てはめた写真家心得で、下の「ホンの旅Column」に抜き書きするにも行数が多いので、ぜひご自分でお読みいただければと思います。
 私も、すべて読み終えた後も「写真家四十八宜」だけを何度も読み、今日1月1日もそれを読み返して終わりました。
(2008.01.01)

書名著者発行所発行日
写真を愉しむ(岩波新書)飯沢耕太郎岩波書店2007年11月20日

☆ Extract passages ☆

 写真は撮影する人がいて初めて成立する。シャッターを切る時に、その人がいつ、どこに、どんなふうにいたのかが決定的な条件になるのはいうまでもない。さらに撮影者がどんなカメラを選んだのか、フィルムを使ったのか、デジタルなのか、さらにシャッタースピードや絞りはどれくらいで、光の状態はどうなのか、その一つ一つの違いが最終的な結果に大きな影響を及ぼす。写真はよく「選択の芸術」と呼ばれるが、たしかに一枚の写真には写真家が「何をどんなふうに選んだのか」というプロセスが刻みつけられているはずだ。

(飯沢耕太郎著『写真を愉しむ』より)




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