☆ 本のたび 2019 ☆



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
 また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
 なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。



No.1639『生物学者、地球を行く』

 先月に中国雲南省のミャンマーとの国境線近くの山々を歩いてきたので、フィールドワークする人たちに興味があり、たまたまこの本を見つけ、読み始めました。責任編集は小林真さんと工藤岳さんで、北海道大学の研究者です。
 副題は「まだ知らない生きものを調べに、深海から宇宙まで」ととても幅広いフィールドですが、やはり興味があるのは自然環境の植物たちで、そこの部分はじっくりと読みました。また、ところどころにあるイラストも、リックを背負って歩く姿で、自分もリックを背に中国雲南省を歩いてきたばかりなので共感を持って見ました。
 たとえば、ミヤマリンドウについて、執筆者の工藤岳さんは、「ミヤマリンドウは、毎年数ミリずつ成長を続け、常緑葉を落とさずに蓄積させていく。ミヤマリンドウの葉は光合成の生産物を蓄える養分貯蔵器官としても機能しており、葉数がある一定数に達して資源が蓄積されると花を咲かせ、全てのエネルギーを費やして種子をつくったあとに、 一生を終える。この間5〜9年ほどで、最終的な個体の大きさはわずか5〜6センチである。ミヤマリンドウは、高山植物の中では比較的遅く花を咲かせる種なので(通常7月下旬以降)、雪解けの遅い場所では種子ができる前に夏が終わってしまうこともある。種子生産の失敗は、1回繁殖型の植物にとって致命的である。雪解けの遅い場所に生育するミヤマリンドウは、雪解け後に早く開花する性質がある。これは、短い生育環境で種子生産失敗のリスクを減らす戦略である。」と書いていて、高山の厳しい環境のなかで生きている姿を長く見続けた視点から解き明かします。
 そういえば、工藤さんの「大雪山のお花畑が語ること」京都大学学術出版会、という本を読んだことがありますが、このときは大雪山に登ったことで興味を持ち、読んだように記憶しています。
 やはり、自分が何らかのアクションを起こすから、その先に興味や関心が芽生えるようです。つまり、動かなければそれもないわけで、これからも何らかのアクションを起こせる体力だけは保ち続けたいと思いました。
 世の中には、ほんとうに珍しい生物がいて、今回の雲南省でも世界一大きなシャクナゲに出合いました。今回、いっしょに行った先生が監修された『雲南花紀行 8大名花をめぐる旅』紀伊國屋書店発行、という本には「1919年、イギリスの植物採集家ジョージ・フォレストが、高黎貢山で1株のシャクナゲの大樹を発見し、人をやとってこの樹を切りたおしたあと、幹の一部分をのこぎりで切って標本としてイギリスにもちかえった。研究により、この樹の樹齢は280年で、樹の高さは25m、直径は87cmであり、それまでに見つけた世界最大のシャクナゲだとわかった。その後、中国科学院の調査によって、騰沖県界頭郷大塘村の海抜2380mの密林でギガンテウムシャクナゲが40本発見された。そのなかの1本は樹高25m、根元の直径は3.07mに達し、地上0.2mから大きな枝と1本の小さい枝にわかれていた。大きい枝は直径が1.57m、樹冠が60uある世界最大のもので、「シヤクナゲの王」といわれている。」と書かれています。
 つまり、1919年に発見されたということは、今年でちょうど100年になり、それも何かの縁ではないかと思いました。
 このシャクナゲは、中国名を「大樹杜鵑」といい、まさに大樹という名前にふさわしい堂々とした姿で立っていました。ただ開花期が2〜3月ということで、満開の時期が過ぎてしまい、ほんの少ししか花を見ることはできなかったのですが、もし、もう少し早く行けたとしても、今度は雪で峠が閉鎖されていて、里から自力で歩かなければならず、それも困難なことです。やはりフィールドワークは、いつの時代であっても、大変なことのようです。
 下に抜き書きしたのは、奈良一秀さんの「キノコが森をつくる!?」のなかの文章で、富士山の火山荒原、それは1707年に噴火した宝永山のエリアで黒い軽石のような砂利で覆われたまさに不毛の地ですが、そのなかにもキノコなどの菌類が生え、それを這うようにして調査する姿の写真がありました。その菌類のところにその菌根ネットワークに支えられるようにしてミヤマヤナギが生えているそうです。
 まさに不毛の大地から少しずつ緑豊かな環境になっていく、その初めの姿を垣間見るような感じがしました。
(2019.4.10)

書名著者発行所発行日ISBN
生物学者、地球を行く日本生態学会 北海道地区会 編文一総合出版2018年4月30日9784829971079

☆ Extract passages ☆

すでに定着しているヤナギの成木はすべて菌根菌と共生しているため、その周りの土壌中には菌根菌の菌糸体が広がっている。こうした場所で発芽した実生は、地中の菌糸体によってすぐに菌根菌に感染する。「菌根ネットワーク」に「接続」するのだ。この火山荒原で菌根ネットワークヘ接続可能な場所は約1%しかない。残りの99%は裸地や草本植生など、菌根ネットヮークの圏外。そして、数えきれないほどのヤナギ実生がたった1%の菌根ネットワーク圏内にしか定着していないのだから面白い。
(日本生態学会 北海道地区会 編 『生物学者、地球を行く』より)




No.1638『人は、いつ旅立ってもおかしくない』

 本の題名の通り、たしかに『人は、いつ旅立ってもおかしくない』し、そもそも将来のことで確実にわかっていることは、人は必ず死ぬということです。でも、若い時には、なかなかその実感はないのですが、年を重ねてくると、いつしかときどき死ということを考えたり、つい、新聞の死亡欄に目を通すようになります。そして、自分に近い年の方がなくなったりすると、また死というのが身近に感じられるようになります。
 たまたまそのような心境のときに、図書館に行くとこの本を見つけました。読み始めると、著者の「たとえば私たちの身体が、水だったとしましょう。氷はやがて溶けてしまい、水に変わっていきます。その水さえも永遠のものではなく、いつかは水蒸気になってしまいます。水蒸気になってしまえば、そこに姿かたちを見ることはできません。しかし考えてみてください。水をつくっている成分はH2Oです。このH2Oは、氷が溶けて水になっても、変わることはありません。同じように水蒸気になって見えなくなったとしても、空気中に漂うH2Oは永遠に消え去ることはありません。肉体と魂というものも、これと同じなのですよ」という言葉に接し、こういう考え方もあると思いました。
 でも、この本は人は死ぬということをいろいろな面から考えて、それに仏教の言葉を添えて、死ぬのは当たり前というか、そんなに怖いものではないといいます。でも、生きている人は誰も体験したことがないから、いくらいろいろと言われてもどこかに不安感はあります。その不安感を少しでも和らげたいというのがこの本の狙いではないかとさえ思います。
 この本のなかで、「他人の悲しみは測り知ることなどできません。まして自分に経験のない悲しみなど、わかるはずはないのです。自分の両親が元気な人には、両親を亡くした人の悲しみはわからない。自分の子どもが元気に育っている人には、病を抱えている子をもつ親の心はわかりません。想像することはできるかもしれませんが、それもあくまでも想像にすぎない。他人の悲しみや苦しみを理解することは、それほどに難しいことなのです。」と書いてあるところがありますが、たしかにその通りです。人それぞれ、傷みすら感じかたが違います。悲しみだって、強く感じる人もいれば、ちょっと鈍感な人だっています。むしろ鈍感力だって、すごい生活力です。
 でも、だから悲しんでいたり苦しんでいたり人に何もしないというのは、やはりダメでしょう。わからないなりにも、その人の悲しみや苦しみに添うという優しさは必要だと思います。できるとかできないというよりは、そうしようとする気持ちが大切です。おそらく、このような問題には、解決する方法というのはないのかもしれません。でも、なんとかしたいという気持ちだけは失いたくないと思っています。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「愛する人が、あなたに教えてくれること」に書いてありました。
 死んでしまえばすべて終わり、という考え方もありますが、でも、しかし、見守っていてくれていると考えたほうが気持ち良く生きられます。なんとなく、安心して生きられます。それこそが日本人、いや世界の人たちの宗教心を支えている考え方かもしれません。
(2019.4.6)

書名著者発行所発行日ISBN
人は、いつ旅立ってもおかしくない(PHP文庫)枡野俊明PHP研究所2016年9月15日9784569766171

☆ Extract passages ☆

 たとえ肉体がこの世から消え去ったとしても、亡き人は、きっとどこかから自分を見守ってくれています。邪な気持ちが芽生えたときには、どこかから戒めの声が聞こえてきます。気持ちが弱っているときには、救いの言葉を授けてくれます。そうやっていつもそばにいてくれる。そう信じることです。
 亡き人の存在を信じること。それは誰の迷惑にもなりません。あえて口に出して言う必要もない。ただ自分の心の内にしっかりと留めておけばいいのです。
(枡野俊明 著 『人は、いつ旅立ってもおかしくない』より)




No.1637『昆虫は美味しい!』

 今年の3月に中国雲南省に行きましたが、今回の雲南の旅はミャンマーとの国境近くで、タイ族やリス族など、いろいろな部族が暮らしています。タイといえば、昆虫食も有名で、カブトムシやクワガタなども食べるといいます。そうそう、ゴキブリだってセミだって食べます。この本の「はじめに」のところで、昆虫料理研究会の夏のイベントが「セミ会」で、セミの成虫や暗くなってから穴から出てくる幼虫を採り、近くに借りていた調理場で、その採りたてで新鮮なセミを料理して食べるということが書いてあります。
 でも、最初にはっきりといいますが、私は昆虫を食べるのには抵抗があります。昔、子どものころによく行っていた親戚ではカイコを飼っていて、夜中にカイコが桑の葉を食べる音が気になったり、それを見るのさえイヤでした。まさに、背中に虫ずが騒ぐような感じでした。
 でも、小学校のときなどは、文房具や本などを買うために、全員で田んぼでタニシを集めたり、秋になるとイナゴ採りもあり、イナゴにはあまり抵抗感がなく、今でもイナゴの甘煮は食べられます。家の孫たちもそれを見ていて食べるようです。つまり、ある意味、慣れかもしれません。
 ということで、今回の旅では、その昆虫食の実体も見てみたいということで、写真を撮ったり、実際に食べたりしました。たとえば、この本にも出てくるカイコの幼虫やイナゴ、そしてこの本に取りあげられていない竹虫などです。もちろん、たくさん食べたというより、珍味のようにほんの少し食べただけですが、日本のイナゴの佃煮の場合はとても美味しいですが、雲南省のイナゴ料理はとても辛かったです。つまり、料理の仕方が違えば味も違うようです。
 この本では、蜂の子はウナギの味と似ているとか、カミキリムシの幼虫はマグロのトロのような味がするといっても、それだって料理次第です。その昆虫の姿がわからないような料理ならなんとか食べられますが、昔、親戚の家で炭焼きをしていて、木を割るとそのなかにまるまると太ったカミキリムシの幼虫がいて、みな脂っこくておいしいといって炭焼きカマの上で焼いて食べていましたが、私は食べられませんでした。いくら、それがマグロのトロのような味だといわれても、今だっておそらく食べられないと思います。
 そういえば、『ファーブル昆虫記』で有名なファーブルも、古代ローマ時代はカミキリムシを食べていたという記録があったので、自分も食べてみたら「羊皮紙に包まれた上等の脂肉腸詰めだ。中身はほっぺたが落ちそう」と書き残しているそうです。
 だからといって、ファーブルが食べて美味しかったからとしても、私は食べたくありません。
 じゃあ、なんでこの本を読んだのかといわれれば、やはり好奇心からと答えるしかなさそうです。本を読んだからといって、食べたいというよりは、知的好奇心が満たされればそれでいいわけです。おそらく、そのような好奇心にあふれているからこそ、旅でもいろいろなことにチャレンジしたくなります。それが今回は昆虫食だったというだけの話しです。
 そういえば、旧約聖書の『出エジプト記』に、「いなごが地の面をすべて覆ったので、地は暗くなった。いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた本の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった」と書いてあるそうです。だとすれば、山形でイナゴを食べるのも、稲をかじる害虫退治の意味合もあったわけで、一石二鳥だったといえます。
 下に抜き書きしたのは、国連食糧農業機関の発表した報告書に書かれていたそうで、昆虫食の利点のひとつです。この他にもいろいろありましたが、この人間の食べものと重ならないというのは、たしかに大きな優位点です。
 これらを読んでみると、これからの食糧危機を乗り切るには、ただ気持ち悪いからという理由で昆虫食を嫌うのではなく、いろいろとチャレンジしてみなければならないのかもしれません。
(2019.4.4)

書名著者発行所発行日ISBN
昆虫は美味しい!(新潮新書)内山昭一新潮社2019年1月20日9784106107986

☆ Extract passages ☆

例えば、カイコの幼虫なら桑の葉を食べて成長するので、人間の食べ物と競合しない。穀物を食べつつ穀物で育てた牛や豚を食べる、という現在の食糧システムでは、人間と家畜が食糧を取り合っている。
(内山昭一 著 『昆虫は美味しい!』より)




No.1636『濃霧の中の方向感覚』

 たまたま「ブックオフオンライン」に「読んだ本を忘れない!」3つの方法というのが書いてあり、1.読書ノートをつける。2.付箋を使う。3.とことん「精読」する。とありました。
 私は昔から読書カードを作っていて、とくに難しい本はしっかりと精読するようにしていますが、この本もそうとうゆっくりと読まないとなかなか理解できませんでした。そういえば、この著者の本で、『「待つ」ということ』(角川選書)を読んだことがありますが、これはすぐに頭に入ってきましたが、やはり哲学者の本は概して難しいようです。
 それでも、著者は「ホームタウンは京都、勤め先はずっと大阪、個人としての仕事はほとんど東京、という状態が33年続いた。……そして、仙台市に毎月通うようになって1年が過ぎた。」ということで、いろいろなものの見方考え方ができます。これは仕事柄当然でしょうが、この本を読んでなるほどと思うところがたくさんありました。
 ではなぜに仙台かというと、大震災以降「せんだいメディアテーク」の館長もされているそうで、そこでは「てつがくカフェ@せんだい」なども企画しているそうです。
 この多方面にわたる活動を考えると、その幅の広さに関心させられます。そして考え方の幅も、たとえば、「とりわけ第二次世界大戦後70年のあいだ、わたしたちは、安心で便利で快適な生活を公共的なシステムにぶら下がることによって得たその代償として、いのちの世話をしあう文化、そしてそれを支える一個人としての基礎能力を、ひたすら削ぎ落としてきたのではないかと思われます。」というように、たしかに便利にはなったけれど、なんとなく、これらのことがなくなったらどうしよう、と逆に不安が増すこともあります。このなんとなく、という不安感をこの本を読むことで、具体的な問題として浮かび上がります。
 最近の政治を見ていると、なぜか対話というものがないように思います。著者は、「政治という場面で言葉が機能しなくなっている。ヘイト・スピーチは、 いうまでもなく相手を斬りつける言葉の刃である。都議会でのヤジは、相手を怯ませるために投げつけられた言葉の礫である。「最後は金目でしょ」という環境相の発言は、苦境にある人への想像力を欠いた捨てぜりふである。兵庫県会議員の号泣は、釈明ができずに進退窮まった者の居直りである。そこにはそもそも言葉を交わそうとの意志はみとめられない。 いや、それを拒絶するためだけに言葉がある。」と書いていますが、たしかにそうだと思いました。
 今年は選挙の年ですが、こういうときこそ、本当に対話のできる政治家を選びたいと思います。公約はまもらなければならないでしょうが、いろいろな事情でまもれないこともありますが、なぜ守れなかったかということを丁寧に説明すれば、ある程度は納得できます。今はなんでも急ぎすぎて、話し合いすらできないようです。
 この本でおもしろいと思ったのは、デズモンド・モリスの『ふれあい』のなかに、「拍手というのは、プレイヤーを抱きしめ背中を叩いてやりたいところが、その相手、競技者や舞台俳優が遠くにいるので、左手に不在の相手の背中の役をさせ、それで叩く形をとったとき、拍手になったという。そう、「空っぽの抱擁」である。」と書いてあり、なるほどとつい拍手してしまいました。これが正しいかどうかはわかりませんが、拍手のひとつの解釈ではあります。もともと、このようなものは、いろいろな解釈があるはずで、正解というのはなさそうです。でも、拍手が相手を励ますという意味からすると、この解釈もありだと思いました。
 下に抜き書きしたのは、学ぶことの大切さということですが、そのきっかけは東日本大震災などのような大災害ではないかと思います。すでに8年経っていますが、まだまだ立ち直れない方々がたくさんいると思います。
 やはり今、新たな自分を見つけるためにも、希望の書き換えが大切だと思います。
(2019.4.1)

書名著者発行所発行日ISBN
濃霧の中の方向感覚鷲田清一晶文社2019年2月5日9784794970664

☆ Extract passages ☆

 病気、事故、被災、失職、事業の行きづまり、大事な人の死……。そういう思いがけない出来事に遭過するたび、ひとは人生の語りなおしを迫られる。それまで人生の前提となっていたものが崩れるからだ。
 人生の語りなおしとは、別の言葉でいえば、希望の書き換えでもある。じぶんが生きるうえで軸とするものを、これまでとは少し違うものに移し変えるということである。
 そのとき必要になるのが新たな学びである。これまで考えもしなかったが、世の中にはこんな問いもある、世界にはじぶんが知らない領域が想像をはるかに超えて広がっている……。それを知ることが、じぶんが生きるべき世界を拡げる。ふんづまりになっていたじぶんを助けるのである。生き延びるために、学びはそれほど大切なのである。
(鷲田清一 著 『濃霧の中の方向感覚』より)




No.1635『花みちくさ』

 著者の『定本 インド花綴り』などを読んだことがあり、たまたま図書館でこの本を見つけたので読んでみました。
 この本は、平凡社のPR誌『月刊百科』に「花みちくさ」として2002年11月号から2011年6月号まで連載していたそうで、さらにスギナとヤマザクラを書き下し、210話としてまとめたそうです。
 副題は「身近な植物をめぐる210話」で、ほとんど知られているありふれた植物だけで、とても読みやすかったです。なかには野菜などもあって、たとえばカラシナは、「インドではカラシナはもっばら搾油用に栽培されている。種子は香辛料としてもカレー料理に欠かせない。その種子を擂り潰したのがマスタード(洋がらし)。カラシナの中国語名は芥菜。小さいものの例えにもちだされる芥子粒は、ケシの種子ではなく、このカラシナの種子のことである。インドでもカラシナの種子は小さいものの代表で、小粒でもぴりりと辛いその種子は、憑物落としにも使われる。ベンガルの友人の弟が出勤拒否症になったとき、祈祷師が来て、呪文を唱えながら彼の背中にカラシナの種子を投げつけていた。治ってどうにか出勤しだした後に、庭のあちこちでカラシナの花が祝福するように咲いていた。」とあり、著者だからこそインドの憑き物落としの話しまで書いてあると思いました。
 そういえば、他のところでも、日本だけでなくインドのことにも触れていて、たとえば、スベリヒユについて、「日本でもおひたしなどにして食べるというが、インドのベンガル地方やバングラデシュでは、あまり裕福でない村人たちが、これを摘んでカレー料理の具にしていた。」と書いてあり、このスベリヒユを食べるこの辺りの人にしてみれば、いささか気になる書き方ではあります。ここではスベリヒユをそのまま食べるよりは、一度天日に干してから保存食のようにして食べることのほうが多いようです。
 しかも、最近では、山菜料理も高級化していて、高級な料理屋さんでしか食べられないとか。
 また、おもしろいと思ったのは、映画『植物図鑑 運命の恋、ひろいました』のなかで取りあげられたヘクソカズラも、「インドにはナンヨウヘクソカズラとかインドヤイトバナと呼ばれる Paederia foetida という同属の植物がある。ガンダリ・パタ(臭い葉)と呼ばれて、葉やつるをちぎるとやはり同じような匂いがするのだが、食べると精がつくというので、村の人たちはよく食べていた。つくねにして揚げると臭みもなく、なかなかおいしい。」と書いてあり、おそらく日本のヘクソカズラと違うのではないかと思います。もし日本のものだったら、絶対に食べたくないような臭いですから。
 下に抜き書きしたのは、タラヨウについてです。このタラヨウは私のところにもあり、持ってきてくれた人の話しでは、宮城県の塩竈神社からのものだそうです。
 この大木は東京の小石川植物園にもあり、たまたま園長さんがこの葉にクギで書いてみて、このように後から字が浮き出てくるという話しをしてくれたこともあります。しかも、この園長さんたちとは、だいぶ前にスリランカへ行き、下の話にも出てくるオウギヤシの葉に今でも書いている方がいる寺院で、自分たちの名前を書いてもらったりしたことを思い出しました。
(2019.3.29)

書名著者発行所発行日ISBN
花みちくさ西岡直樹 著、西岡由利子 画平凡社2012年2月24日9784582835601

☆ Extract passages ☆

タラヨウという名前も、葉に字が書けることから、古代インドで経文を書くのに使われたターラ樹(多羅樹)に由来している。サンスクリット名をターラ、ヒンディー語ではタールと呼ばれるその植物は、ヤシ科のオウギヤシ Borassus flabellifer で、村人はその葉で屋根を葺いたり団扇や敷物をつくる。また樹液から砂糖を、果実からは菓子をつくる。むかしはその葉を短冊形に切って、その表面に鉄筆で経文や絵を書き、顔料をすり込んで保存した。
(西岡直樹 著 『花みちくさ』より)




No.1634『植物のたくらみ 香りと色の植物学』

 植物をたずねて歩く度には、植物の話しがいいし、しかも、小さなサイズで軽い方が持って行くにいいわけで、これを選びました。
 たしかに、植物たちは、花色とか香りとか、さまざまな方法を使って昆虫などを誘うわけです。それはあくまでも自分たちの子孫を残そうとする戦略であって、人間に見てもらおうという意図はほとんどないようです。でも、人間は、植物たちの花や香りに大きな癒やしを感じます。その謎を解こうというのがこの本です。
 「はじめに」のところで、花の色についてこの本では、「人の手でつくり出された、園芸種と呼ばれるきれいな花が売られていますが、自然界では植物は、それぞれ独自の色の花を咲かせており、このことは送粉者を呼び寄せるのに一役買っています。例えば、熱帯地方に赤い色の花が多いのは、鳥に見つけられやすくするためです。また、花には昆虫にしか見えない、ネクターガイドと呼ばれる、花蜜のありかを知らせる印がありますが、これも植物が色素を利用して、模様を巧みにつくれるように進化したのです。植物の色素には他の効果もあります。高山植物には青紫色の花が多い印象があります。これは、高山帯では紫外線が強いために、それから体を守るポリフェノールと呼ばれる物質を多く蓄えているためと考えられています。」と書いています。
 つまり、動かない植物たちが、自分たち子孫を残そうとするだけではなく、自分たちの身を守るためにも使っているということです。そういわれると、高い山に登ると、たしかに濃い青紫色の花が多いように感じます。
 しかし、この花色と香りは、私たちにとっては、まったく別ものです。花色は見ることができても、嗅ぐことはできませんし、香りは嗅ぐことでしかわかりません。ところが、この色と香りは、植物にとってはとてもよく似ていて、しかも同じ場所でつくられているそうです。つまり「色素と香り物質は同じ場所(代謝経路)でつくられています。それらの中で、ある化合物は特定の波長の光を吸収し、余った波長の光を反射させます。例えば、植物の葉が緑に見えるのは、クロロフイルが赤や青色の光を吸収し、緑色の光を反射するからです。秋になリクロロフィルがなくなると、隠れていたカロテノイドの黄色が見えるようになります。赤い紅葉はフラボノイドの一種であるアントシアニンによるものです。これら色素化合物といわれるものが光を反射したり吸収したりすることで、我々の目に緑や黄などの色として認識されるのです。」とあり、秋の紅葉などもこれでよくわかります。
 植物というのは、まったく不思議な存在ですが、そのたくらみを考えると、なるほどと思えるところがいくつもあります。旅の途中で読むと、移動時間などもあり、何度も同じところを読み返すことができ、いっそう理解が深まります。
 そういえば、今年の世界らん展日本大賞では、光る花を展示していました。でも、ピカッと光るわけではなく、うっすらと光っているようにみえるだけです。トレニアという植物に、2008年にノーベル化学賞を受賞した下村博士が発見したオワンクラゲの緑色蛍光タンパク質GFPを用いているそうです。会場で私も写真を撮ってきましたが、それを見ると、真っ暗ななかなのであまりよくは撮れませんでした。もし、仮にもう少し明るく光るようなら、常夜灯のように植物を使うことができるようになるかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、ボケやウメなどにある咲き分けの現象についての説明です。
 このように明快に答えがわかると、すっきりします。今までは、接ぎ木などをしていたのではないかと思っていましたが、植物には最初からそのような性質があったというわけで、納得しました。
(2019.3.25)

書名著者発行所発行日ISBN
植物のたくらみ 香りと色の植物学有村源一郎・西原昌宏ベレ出版2018年4月25日9784860645441

☆ Extract passages ☆

咲き分けにはキメラ(2種類の細胞が混じっている)による場合や、ランスポゾン(動く遺伝子)によって生じる場合などがあります。また、エピジェネィック変異といい、遺伝子事態は変わりませんが、DNAの修飾が変化して生じる例も知られています。
(有村源一郎・西原昌宏 著 『植物のたくらみ 香りと色の植物学』より)




No.1633『植物はなぜクスリを作るのか』

 この本のなかでも、過去30年に開発された新薬の6割は天然から得られた成分や、クスリの化学構造の主要部分が天然由来であるといいます。それほど、植物などのものが大切な役割を果たしています。では、なぜ、それら植物がクスリを作るのかというのが、この本の主題です。
 この本を旅に持ち出したのは、同行者に薬学系の研究者がいて、もしわからないところがあればすぐに聞けるからでもあります。しかも、漢方薬にも精通していて、植物との関わりもあり、話題も豊富です。山野を歩いていても、たちどころに植物名や効能なども教えてもらえます。もし植物名が不明なら、もう一人の同行者は植物分類学者なので、すぐに教えてもらえます。
 まさに、大学のゼミで勉強しているかのような旅でした。
 今回出合った植物の一つに「カラタチ」があります。これは、もともと長江上流域が自生地といわれ、日本に伝わってきたのは8世紀頃といいます。このカラタチという名は、唐橘(からたちばな)が詰まったものだそうです。今もウンシュウミカンなどの柑橘類の台木として使われていますが、生薬では、この未成熟の果実を乾燥させたものを枳実(きじつ) といい、健胃作用、利尿作用、去痰作用があるとされています。この歌に出てくる「カラタチ」も実はクスリなのです。
 そういえば、今回の旅は中国雲南省とミャンマーとの国境線付近ですが、この辺りは「ゴールデントライアングル」の近くですから、今はないでしょうが昔はケシの栽培が行われていたようです。このケシから強力な鎮静作用があるモルヒネが作られますが、この作用もこの本では詳しく説明されていました。また、解熱鎮痛薬の「アスピリン」は有名ですが、この開発の元になったのはヤナギの木で、それに含まれる「サリシン」という物質です。だから、日本で昔から爪楊枝にヤナギの枝を使いますが、これもヤナギの枝に歯痛を予防する効果があるからです。また、京都の三十三間堂は「頭痛封じの寺」として知られていますが、このお堂の棟木にヤナギの木が使われているそうです。
 そう考えれば、毎日飲んでいるお茶にも「茶カテキン」が多く含まれていて、高い抗酸化活性があるといいます。だから、昔から、その科学的理由はわからなくても身体に良い植物を使っていたといえます。
 この旅では、毎日山野を歩いて、夕食後には私が点てて、みんなでお抹茶を飲みました。これだって、もともとはタンニンによって捕食者による食害から身を守ることが目的だったのを、人間がうまく利用しているわけです。
 旅行中なので、読み終えるのに時間がかかりましたが、それでも現実の植物たちとふれ合いながらなので、理解度は深まったのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、植物の化学防御戦略について書いてあるところです。まさに植物たちは、動けないからこそさまざまな工夫をして生きぬいてきたということで、されらを人間がクスリとしてうまく利用しているということです。
(2019.3.20)

書名著者発行所発行日ISBN
植物はなぜクスリを作るのか(文春新書)斉藤和季文藝春秋2017年2月20日9784166611195

☆ Extract passages ☆

 第一に、捕食者から食べられないように、植物は動物に対して苦い味や渋い味、あるいは神経を麻痺させるなどの有毒な化学成分を作るように進化しました。……もし、植物の葉や茎、種が苦かったり渋かったりすれば、捕食者の動物も一度はかじってみても次からは口にしたくはないでしょぅ。食べてから少し時間がたって神経麻痺や意識障害などの有毒な作用を引き起こすものならば、その作用を覚えていて、やはり二度と口にはしないでしょう。……
 第二に、病原菌に対してもその増殖を抑える抗菌性のある化学成分を作り、病原菌に打ち勝つように進化しました。病原菌に対して抗菌作用のある化学成分を作る植物は、他の植物よりも病原菌に対して抵抗性が強くなり、生き残るチャンスが大きくなります。
 さらに、第三に、光合成に必要な日光や、無機栄養塩など、生長のために必要な資源を競う他の植物との闘いに勝つためにも、他の植物の生長を抑えこむ化学成分の生産をするようになりました。他の競合植物に対して、生長を阻害するような成分を作ることによって、自らの生長が優位になります。
(斉藤和季 著 『植物はなぜクスリを作るのか』より)




No.1632『であいの旅』

 この本もなかなか読む機会がなく、積んでおいたものですが、一番最初の「失うこと、与えられること」のなかに、前回読んだ俵万智さんの「今日までに私がついた嘘なんてどうでも良いよと言うような海」という短歌が引用されていて、なんか知らず知らずのうちに引き合わせられたかのような感じがしました。
 著者は、女性初のNHKアナウンス室長をつとめたあと、現在はフリーアナウンサーだそうですが、この本を毎日新聞社から1988年に単行本として出す前には、1984年から1986年の3月まで「小さな旅」のアナウンサーもしていました。
 だから、この本のなかにも、その「小さな旅」の出来事などもいろいろと書かれていました。でも、だいぶ前のことなので、少し忘れてしまったこともありますが、懐かしく思い出されたこともあります。では、なぜこのような古い本を持って行ったのかというと、邪魔になったら向こうで捨ててもよいと思ったのです。ところが、本はなかなか捨てられず、やはり持ち帰ってきました。本というのは単なるものではなく、ものとは割り切れない何かがありそうです。
 この本を読んでおもしろいと思ったのは、やはり普通の人にはなかなかわからないアナウンサーとしてのことです。たとえば、「人の心を通り過ぎていく話と、人の心の中に何かを植えていく話と。よくよく考えてみた結論は、月並みだが、やはり話し手の思いの深さとかかわっているのだろうということだ。話す人がそのことをどれだけ本気で思っているか、どれだけ深い思いをこめて話しているかが、人の心への届き方を決めるのではないだろうか。話し手の思いの深さと、聞き手の心への届き方の深さは比例するのかもしれない。」と書いてあったところです。たしかに、話しを聞いても、すごく心に残ることもあれば、後から思い出せないこともありますが、これは聞く人だけの問題ではなく、話し手も関わってくるのかもしれません。
 そういえば、知らない世界のことですが、照明の大切さについて書いたところがあり、自分も写真を撮るときにこのようなことを感じていました。その部分は、「古株の照明さんの中には「賢い女優さんはまず俺たちの所に差し入れするもんね」とうそぶく人もいる。女優さんを美しくするのもしないのも、食べものを美味しそうにするのもしないのも、そのものをそのものらしく映すのも映さないのも、みな照明次第。照明はそれだけ腕の要る仕事。それだけに古い照明さんには、職人気質で個性的な面白い人物も多いのである。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 たしかに、目にキャッチライトが当たっただけで、生き生きとしますし、食べものだって、明るく撮れるとおいしく感じられます。おそらく、大きなスタジオなどであれば、なおさらそうかもしれません。
 旅の途中で読んでも、話しに引き込まれてしまい、時間を忘れてしまいそうになりました。
 下に抜き書きしたのは、みかん作り60年の大津祐男さんの言葉です。しかもみかんの品種改良を手がけ、これまでに十余りの新しい品種を開発したそうで、今も改良を重ねているそうです。
 その思いをたずねたときの言葉で、その言葉に感動した著者が、覚えられるようにと教えてもらったそうです。
(2019.3.16)

書名著者発行所発行日ISBN
であいの旅(文春文庫)山根基世文藝春秋1991年10月10日9784167160036

☆ Extract passages ☆

 そうだねえ、好きっていうのはこういうものなのかねえ。また今年もやったんだからね。今年喜寿を迎える私が、今、品種改良の樹を植えても結果が出るまでには六、七年かかって、それまで私の寿命はもたないでしょう。それでも、やっばり植えずにいられないんですね。私はね、若い頃からこういうことを頭に置いて勉強してきたんですよ。青にして学べば、壮にして成すところあり、壮にして学べば、老にして衰えることなし、老にして学べば、死して後、朽ちることなし。私はね、七十七の今も一生懸命勉強して、良い品種を残したいと思っているんですよ。
(山根基世 著 『であいの旅』より)




No.1631『旬のスケッチブック』

 この本はだいぶ前に求めてはいたものの、なかなか読む機会がなく、積んでおいたものです。でも、旅に持ち出すのは、文庫本で何度も読み直せるものと思っているので、今回の旅に持ち出しました。
 もともとは、『月刊カドカワ』平成2年1月号から12月号に掲載されたものに加筆訂正したものだそうで、1年間の旬をテーマに書いています。旬といっても野菜などばかりではなく、2月のチョコレートや12月のケーキなどもあり、多彩です。
 おもしろいと思ったのは7月の「トマト」で、ある大学の先生が『サラダ記念日』に出てくる野菜のなかで、ダントツだったのが「トマト」ですという手紙をいただいたことがあるぐらい、トマト好きです。そのところで、自分の「小さめの恋してみたき秋の夜 パセリわずかに黄ばむベランダ」という短歌を紹介して、「こうして振り返ってみると、なにか嬉しかったのも、少し枯れかかっていたのも、セロリではなく、パセリでもない、その時その時の、自分の心だったんだなあと思う。……短歌とは、結局のところそういうものかもしれない。いろんな野菜を歌にしながら、いろんな野菜を通して、自分の心をのぞいている。」と書いています。
 また、5月のいちごも、もともとの旬でしたが、最近は12月のクリスマスケーキに使うことが多いせいか、だんだんと早まってきているようです。日本を出る前にもいちごを食べたのですが、なんか、もう最盛期を過ぎたかのような感じでした。ここ米沢辺りでは、南原の粕平でいちごを栽培していて、それが出回るのがやはり4〜5月でした。今から考えるとほんとうに小粒で、コンデンスミルクをかけて食べていました。ところが最近のいちごは、ほとんどそのまま食べても甘くて、おそらく、今ではあの独特のかたちをしたイチゴスプーンもほとんど見かけなくなりました。
 でも、この本によると、あの『枕草子』にも「あてなるもの。(中略)いみじううつくしきちごの、いちごなどくひたる」と出てくるそうで、それを考えれば、そうとう古くから食べられていたことになります。
 下に抜き書きしたのは、山村暮鳥の詩『風景』に出合ったときの著者の心情です。
 たしかに、この詩は「風景 純銀もざいく」とあるように、単純でありながら、いろいろな想いが伝わってきます。
(2019.3.12)

書名著者発行所発行日ISBN
旬のスケッチブック(角川文庫)俵 万智角川書店1993年1月25日9784041754038

☆ Extract passages ☆

 山村暮鳥のこの詩に出会ったのは、高校生のころだったかと思う。ことばの力の不思議をつくづく感じた。
 日本語を知らない人の目には、白い紙に似たような黒いシミがある、としか映らない1ページ。それが私にとっては、無限の広がりを持つ菜の花畑なのだ。
 ことばの力を信じるところから、詩人の第一歩は始まる。自分を無にして、ほんとうに素直な気持ちで、その力に身をまかせることのできた人だけが、このような詩を書けるのだ、と思った。簡単なようでいてそれはなかなかむずかしいこと。ことばを使って表現することに慣れてしまうと、ことばではなくて、自分に力があるような錯覚を持ってしまう。そういう傲慢な人間には、ことばは力を貸してくれない。私自身、短歌がうまく作れない時を反省してみると、どうやってことばを使おうかということばかり考えている場合が多い。どうやってことばに使われるか、ということのほうが、ずっとずっと大切なはずなのに。
(俵 万智 著 『旬のスケッチブック』より)




No.1630『我的日本 台湾作家が旅した日本』

 今日から中国の雲南省に旅立ちますが、午後からの山形新幹線で出るので、午前中に読み終えました。そしてすぐに、旅に持って行く文庫本を選びましたが、それが意外と楽しい作業です。もちろん、たくさん持って行ければいいのですが、それでは文庫本といえども重くなりすぎるし、その選択が難しいのです。
 その数冊の本を手にして出発します。
 ところでこの本は、台湾の作家たちが日本を旅したときのエッセイで、18編が載っています。たしかに、私の行ったことのあるところもありますが、やはり、同じところに立ったとしても感じるものは違います。それは個人差もありますが、国民性なども影響しているようです。だから、この本は、台湾の作家たちの目を通して自分たちの知られざる日本を知るということのようです。
 たとえば、私も高野山には何度か行ってますが、『寺院の日常』に書かれているように、「沿道はきれいに保たれていて紙切れ一つ落ちておらず、崩れ落ちているように見える石碑の青苔や野草は、常に誰かが吊り下げ式の蚊取り線香をつけて手入れをし、保護しているのだった。森林全体がちょっとずつ剪定されているが、荒れ果てた雰囲気はほどよく残されている。もしほんとうに荒廃しているなら、こんな詩趣はないだろうし、便利さを追求してでたらめに除虫剤をまいていたら、新緑がこんなに隅々まで満ち流れているはずがない。そこで私は「精進」の意味が少しばかりわかった気がした。修行とは頭を空っぱにしたり浮世を捨てたりすることではなく、必ず日常の謹厳な労働の中でしっかりと追求されるものであり、苦悩と清浄はみな日常にあるのだと。だからこそ供養があり、隠遁したようなわびさびの美がある。恭しく勉め励み、草一本は一枚の世話をして、人と自然が互いを圧倒したり超越したりしない。これこそが共生であり、こうしてこの地の山林を1200年もの間守ってきたのだ。」と、高野山奥の院への参道を書いています。
 私の家のお墓もこの参道沿いにあり、いつもきれいになっていることに感謝していますが、それだって、相当な人の手がかかっていることがわかります。でも、改めてこのように書かれると、むしろ日本人の方が忘れていることもあると思いました。
 忘れているといえば、『飛騨国分寺で新年の祈り』というエッセイに、台湾のサルの伝説が載っていました。私の近くでも庚申講といって、60日に1回ある庚申の夜に、人の体内にいる三尸(さんし)という虫が,その体内を抜け出して天帝にその人の罪過を告げると信じられていて、その夜は地区民が集まって一晩寝ないで飲み食いをして三尸が抜けてないようにしました。この時の本尊が猿田彦神です。台湾では、「「灯猿」は竹の灯を司る小さな神で、年越しの時に一年間の苦労をねぎらうためのお供えを忘れると、灯猿は怒って天上界へ行って神に人間の過ちを報告し、言われなき懲罰を人々にもたらすそうだ。と書かれています。
 つまり、天に上って神さまに伝えるということは同じなので、少しの違いはあっても、伝説というか言い伝えというのは、意外と似通っていると思いました。おそらく、この庚申講は仏教というよりは道教などの影響が強く、そう考えれば中国から台湾に伝えられたことは間違いなさそうです。
 下に抜き書きしたのは、『門外漢の見た京都』に書かれてあるもので、日本人にはあまりにも見慣れた稲田の風景についてです。これなども、改めて指摘されると、なるほどと思います。
 それにしても、これほどじっくりと台湾の人たちが京都を見ているとは思いませんでした。
(2019.3.10)

書名著者発行所発行日ISBN
我的日本 台湾作家が旅した日本呉佩珍・白水紀子・山口 守 編訳白水社2019年1月10日9784560096680

☆ Extract passages ☆

 私が京都へ行くのは田舎の稲田のためだ。全世界の大都市の中で、いまだに稲田があるのは京都だけではないだろうか。旅行者が古寺旧庵の参観に夢中になっても、ふと見れば立ち並ぶ田舎家の向こうに稲田が広がる。見渡せば稲田に風が吹き渡り、新緑の苗が生気を発している情景に興奮せずにいられようか。京都府立植物園から北山通を越え、北へ数分も行けば稲田がある。嵯峨野の清涼寺と大覚寺の間にもたくさんの稲田がある。奈良の唐招提寺では、塀のすぐ近くに稲田がある。大原の稲田は山の上の平地に連なっている。耕作にどれだけ骨が折れようが、維持に努めている。稲田と都市環境の共存はこの都市の清潔さと良質性を証明している。またこの町が利に走らないことを表している。
(呉佩珍・白水紀子・山口 守 編訳 『我的日本 台湾作家が旅した日本』より)




No.1629『医師が教える! 健康あんしん旅』

 今月10日から旅に出るので、一番気がかりなのが体調です。それと、もしかして旅の途中で病気になったりケガをしたりすれば、それこそ大変です。そのときに、目に付いたのがこの本です。
 副題が「シニア世代へ25のアドバイス」とあり、さらに「旅行を楽しむために知っておきたい「からだのこと」」という囲み文字も表紙に書いてありました。
 前編が「旅先での急なトラブル対策」、後編が「持病がある場合の心がけ対策」です。
 そういえば、下の抜書きにあるように、シニア世代でも安心して旅に出かけるには、それなりにかんがえておくことが必要です。たとえ、自分は大丈夫だと思っていても、一人旅ならいいかもしれませんが、一緒の人がもし病気やケガをする場合だって考えられます。
 たとえば、私の場合はぎっくり腰になることもあり、そのときにはすぐ安静にしてシップを貼ったりします。この本には、「ぎっくり腰では多くの場合、痛みは一時的で長期的には心配はありません。痛みが強い場合には、まず痛み止めを飲んだり湿布を貼ります。痛み止めは薬局でも購入できます。飲み薬では、アセトアミノフェンやロキソプロフェンなどが使いやすいでしょう。通常のぎっくり腰では、痛みがあっても絶対安静にする必要はなく、痛みの範囲内で動いてもかまいません。」と書いてあり、ムリをしなければ旅を続けることができそうです。
 でも、レッドフラッグといわれる腰痛の場合もあり、このときには腰痛だけでなく足にしびれがあったり、力が入らない、全身の熱も出るといった場合などだそうですから、やはり専門医で見てもらったほうがいいようです。
 いわば、自分の身体のことは自分で知っておくことが最も大切ですから、この旅を続けるかどうかの判断も、同行者に迷惑をかけるからとかいわないで、正直に伝えたほうがよいと書かれていました。
 そして、私の腰痛のように、ほとんどの方が身体に弱いところがあるなら、その予防もしておくべきです。この本にも、車酔いとか船酔い、さらにはエコノミークラス症候群などについても詳しく書いています。つまり、予防こそが一番の対策です。
 下に抜き書きしたのは、最初にも書きましたが、この本を書こうとしたきっかけのようなところです。
 おそらく、これからはますますシニア世代だけではなく、高齢者といわれる人たちも旅行する機会が多くなると思います。さらに、バリアフリー化で今まであまり旅行をしたくてもできなかった人たちも、車いす対応やトイレなどの普及で出かけやすくなりそうです。
 私も、人に迷惑をかけてまで旅行をしたいとは思いませんが、これからもできるだけ旅を楽しみたいと思っています。
(2019.3.8)

書名著者発行所発行日ISBN
医師が教える! 健康あんしん旅JR東京総合病院 著・監修交通新聞社2018年12月14日9784330937182

☆ Extract passages ☆

 若いときだったら、体力にまかせてちょっと無理した旅行ができたものです。しかし年を重ねて旅に出かけるとなると、自分では大丈夫だと思っていても同行者に何かあるかもしれず、また気づかないうちに自分も弱くなっているところがあるかもしれません。
 旅は非日常です。だからこそ楽しいことがある一方で、不安もあります。本書はトラブルが起きたときの対処法について多く書かれていますが、その万が一のときにどうしたらいいかを知っておくことで、安心を得ることができます。
(JR東京総合病院 著・監修 『医師が教える! 健康あんしん旅』より)




No.1628『いのちを守る気象情報』

 昨年は特に自然災害が多かったように思いますが、もし起こると、一番気になるのが気象情報です。たとえば、自信が起きると津波などの心配や、それが高潮かどうかによっても、被害は大きく変わります。そのようなことを考えていたら、たしかにここ山形県は意外と自然災害は少ないほうですが、昨年は戸沢村などで集中豪雨などで洪水被害がありました。今までなかったから、これからもないとはいえないようで、むしろ増えてくるような気さえします。
 だとしたら、このような本を読んでおいて、自分の身は自分で守ることも必要だと思います。
 しかも、気象の用語というのは、なかなか定義が難しいようで、たとえば大雨災害の種類は、大きく「洪水」「浸水」「土砂災害」の3つに分けられるそうです。この本から抜き出すと、
「洪水」は、大雨や融雪などによつて、堤防の決壊や河川の水が堤防を越えたりすることで起こります。
「浸水」は、大雨によつて排水が追いつかず、下水道があふれることで起こります。河川の増水や高潮によつて排水が阻まれたときにも発生し、「内水氾濫」とも呼ばれます。
 そして、「土砂災害」はさらに4つに分類するそうです。それも抜き出しますと、
「山崩れ」は、大雨や融雪によつて山の斜面が急激に崩れ落ちる現象です。
「がけ崩れ」は、自然の急傾斜のがけや、人工的な急な斜面が崩壊する現象です。
「土石流」は、土砂や岩石が多量の水分を伴って流れ下る現象です。山津波、鉄砲水とも呼ばれます。
「地滑り」は、斜面の上壌が比較的ゆっくりと滑り落ちる現象です。地質や地下水などの影響が大きく、降雨や融雪によって発生することがあります。
 とこの本には書かれています。
 もちろん、これらの言葉は知っていますが、「山崩れ」と「がけくずれ」の違いはと聞かれても、意外と曖昧です。これらの用語を知っていると、これからテレビなどで聞いても、少しは理解が深まりそうです。
 そういえば、昨年の6月と12月に特急「いなほ」に乗りましたが、2005年12月25日午後7時過ぎころ、その特急電車が突風により脱線し、先頭車両に乗っていた5人が死亡し、32人が重軽傷という大きな事故があったことを思い出しました。この本にも書かれていましたが、「F1」クラスの日本では比較的発生数が多い突風だったそうです。たまたま、そこを通過するときにゆっくりとしたスピードだったので、そのときの様子を思い出すことができました。
 やはり、災害というのは、突然にやってくるので、考えているヒマもなにもありません。ということは、常日頃から、それに対応できるように考えておいて、さらに気象情報をみることが大切なようです。そういう意味では、このような本もとても役立ちます。
 昨年の9月にインドに行ったとき、ムンバイのカンヘーリー石窟群で熱中症のような症状が出ました。そのときに、薬学部の先生から、暑さを避けることと水分をしっかり補給することだと教えられました。そこで、下に抜き書きしたのは、熱中症のことに書いてあるところです。
 おそらく、今年の長期予報でも、夏は暑くなりそうなので、熱中症についての予報が出ると思います。お互い、気を付けるに越したことはありません。
(2019.3.6)

書名著者発行所発行日ISBN
いのちを守る気象情報(NHK出版新書)斉田季実治NHK出版2013年5月10日9784140884041

☆ Extract passages ☆

 体内の血液の流れが変化し、汗によって体から水分や塩分(ナトリウムなど)が失われるなどして、体が適切に機能しなくなった状態が「熱中症」です。具体的な症状は、体温の上昇、大量の汗が止まらない(逆に汗が出なくなる)、めまい、筋肉痛、頭痛、吐き気などで、重症化すると意識障害を起こして死に到ることがあります。
(斉田季実治 著 『いのちを守る気象情報』より)




No.1627『世界の雪景色』

 前回は『最高の1枚を写し出す写真術』を読んだので、今回もそのつながりで選んだのがこの本です。しかも、今年のように雪国に住んでいても雪が少ないと雪をそんなに毛嫌いすることもないようで、雪もきれいなものだと思える心のゆとりがあります。
 この本の最初に、「雪はなぜ白いのか。それは雪がほとんどの光を反射させてしまうからだそうだ。雪は光をはねかえし、光と戯れる。だから雪が降ると、雪におおわれたものは、それまでとはちがった光景を見せるのだ。街に雪が降る。すると見なれた、ちょっとくすんだ街も新しい光の中で輝きはじめる。〈雪景色〉とは、そのような雪による風景の変化をとらえたことばだ。」と書いてありました。
 この本は、写真集なので、早く見たければあっというまに最後のページへ着きますが、ゆっくりと見れば、いつまででも見ていることができます。私の場合は、その写真1枚1枚でスピードが違い、この本の中にはなんども見かえした写真もありました。
 たとえば、トルコのカッパドキアの雪景色ですが、トルコに雪が降るとは考えたこともありませんでした。でも、写真は現実の風景を撮っているのでしょうから、雪は降ったことがあるのでしょう。でも、その雪道をラクダが歩いているのをみると、やはり違和感はあります。それでも、寒いからなのか、そのラクダの背にはペルシャ風のじゅうたんが掛けられていて、そのラクダをひく人も大きなブランケットを身につけています。一番異様なのは、山肌がまだら模様で、著者は「恐竜の肋骨のような山ひだ」と書いています。
 そういえば、この写真集のなかで、行ったことのあるところがイギリスのスコットランドです。ここはとてもよくシャクナゲが育つ環境で、日本では栽培が難しいシャクナゲたちが大きく育っていました。エジンバラ植物園の研究者に聞くと、ここは雪も降るということでしたが、シャクナゲたちは大きく枝を広げていました。この写真集で見たのはスコットランドのトロサックスというところの牧場で、ヒツジたちが雪の上に立ちすくんでいました。遠くに見える山にも雪はありますが、積もるというよりはサラッと降ったかのようです。これだと、木々の枝折れなどはなさそうです。
 コラム3の「雪のおとぎ話」には、雪に関するおとぎ話を書いていて、なるほどと思いました。それは、「雪は、子どもたちを喜ばせる。雪だるまをつくったり、ソリですべったりする。兎から熊にいたる動物たちにとっても雪は珍しい風景であり、雪の中を駆けまわって足跡をつける。雪は子どもと動物の遊び場なのだ。そのことは、雪の世界を舞台とした子どもと動物のお話を数多く生み出している。その一方、雪はこわい自然でもある。その冷たさや大雪、雪崩などは人間をおびやかす。アンデルセンの「雪の女王」は美しく冷たい雪の、人間を魅惑しつつ破滅させるミステリアスな力を語っている。」とあります。
 たしかに、子どもの時には、雪が降ると楽しいことがたくさんありますが、雪国の子どもたちは、その怖さも知っています。だからこそ、そこにおとぎ話が生まれてくるのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、この本の最初に書いてあるところの、最後の部分です。〈雪景色〉は、雪が降ることで、見なれた世界を一変させるし、そのことで私たちがこれまで見ていたものについて考えさせることもあるといいます。
 たしかに、雪は、いろいろなものを隠してしまいますが、風景すらも限定されると今まで見えなかったものに気づかせてくれることもあります。
(2019.3.4)

書名著者発行所発行日ISBN
世界の雪景色海野 弘パイ インターナショナル2014年11月7日9784756245809

☆ Extract passages ☆

 〈雪景色〉は見なれた風景を変化させ、私たちの想像力をかきたてる。それはカメラがとらえた現実の風景であるとともに、現実をこえた、もう一一つの、夢の中の風景を幻想させるのだ。私たちの知っている街、人、自然がある。でもそれらは、不動の、固定された、唯―の姿なのだろうか。雪のヴェールをかけることで、別の姿があらわれ、あらためて雪を通して、その下に隠されているものについて考えさせられる。
(海野 弘 著 『世界の雪景色』より)




No.1626『最高の1枚を写し出す写真術』

 この本の副題は「物語と画作りで人を魅了する」とあり、そしてこの本の最初に、「この本の「物語」とは、写真家がある写真を撮ったとき、その写真に至ったさまざまな軌跡を東ねた、1本の太い芯のようなものです。ときに「一貫性」とか、「テーマ」と呼ばれます。そんな風に考えるのは、僕が文学研究をしてきた人間だからです。文学研究者が皆そうだとは言いませんが、概ね僕が知っている文学研究の人々は、世界を「物語の東」で捉えようとする人が多く、僕もまたその典型です。つまりこの本は、文字ばかりの世界を生きてきた写真家が、写真を物語的に捉えてみようという試みです。こうしたものの見方が、全ての写真を撮る人にとって、自分の写真の「芯」を見つける一助となればと思います。」と書いてあり、単なるストーリーとは違うと感じました。
 しかも、今日から3月、そろそろ春ですから、今年もたくさん写真を撮る予定なので、このような本も読んでみたいと思ったのです。ページを順に繰ると、どうして撮ったのかと思うような写真が掲載されています。とくに、自分が何度も撮ったことのあるようなホタルの写真などは、こうして撮ったのかとすぐに理解できます。
 たとえば、「ホタル撮影で大切なのは、明るい時間帯に現地に到着して、すべてのセッティングを終えてしまうことです。その理由は、ホタルの生息環境を脅かさないことの他に、このタイミングで1枚「後景」を撮るのです。どれだけ高感度にしても、ホタルが飛ぶような場所は真っ暗な場合が多く、周囲の風景まで取り込んで写真として成立させたい場合 は、ホタルが飛ぶ舞台になる「後景」の写真を明るいうちに1枚撮っておくことが必要になります。……なお、1枚撮りの場合は月明かりだったり地明りを利用しますが、それもない真っ暗闇の場合は、やはり前撮りが必要になってきます。」とあり、私の場合はここでいう1枚撮りがほとんどなので、なるほどと思いました。
 でも、今のデジカメは、けっこう暗くても撮れるので、私の場合は後景を撮る必要はあまり感じませんが、これも時には必要なテクニックかなと思いました。というのも、私の場合はホタルの生息地近くに住んでいるので、今日撮れなければ明日にもまた行くことができますが、遠くに生息域があるのなら、そんなことはできません。もしかすると、1年に数回も撮る機会はないのが普通です。だとすれば、最善の対策をとるというのがベストです。  それと、リフレクション、つまり湖や水たまりなどに反射させてその写り込みを生かす技術も、この著者はとてもうまいです。それを、写真上部の現実の風景を「永続」と考え、下の水に写る風景などを「瞬間」と考えることなど、言葉遣いも巧みです。やはり、日本人はサクラの花が散る姿に季節感をとらえるように、この水に写るものに壊れやすいいっときのドラマを感じるのかもしれません。
 たしかに、この本を見ていると、写真というのは撮るものではなく、作るものだという気持ちにさえなってきます。
 下に抜き書きしたのは、「あとがきにかえて」に書いてありますが、写真とは何か、とか、物語とはなにかとか、最後に写真を撮ることにいろいろな思いを述べています。これもそのひとつで、たしかに自分が出合った風景と写真が同じということはありえないと思います。これを読むと、そのことがわかるような気がしました。
(2019.3.2)

書名著者発行所発行日ISBN
最高の1枚を写し出す写真術別所隆弘インプレス2019年1月11日9784295005483

☆ Extract passages ☆

カメラに入った光は、いくつもの過程を経て我々の元に届きます。カメラのフィルムやセンサーは暗闇の中央で光を待ち続けていますが、そこに来る前にレンズを通り、ミラーで反射され、ようやく目的地へと至達します。その度ごとに少しずつ光は拡散します。それはつまり、各過程ごとに偏りや歪みが生じるということです。完全に保たれた「真実の光」など、一切センサーにも、それを見る人間にも届きません。原理的には真実の世界など、写真は一切写さないのです。
(別所隆弘 著 『最高の1枚を写し出す写真術』より)




No.1625『寝る前に読む一句、二句。』

 副題が「クスリと笑える、17音の物語」とあり、それが読むきっかけになりました。
 著者の夏井いつきさんとローゼン千津さんは、本当の姉妹だそうで、かなり個性が違うように思っていましたが、読み進めるにしたがい、似ているところもあると思いました。たとえば、鈴木真砂女の「笑ひ茸食べて笑ってみたきかな」という句は、お互いにそれなりの解釈をしてますが、高浜虚子の「笑ひ茸食べて笑ってみたきかな」との作者によってその意味も微妙に違うことなど、なるほどと思いました。そして、千津さんがこの笑い茸のことを「神経毒シロシビンを持ち、食べて30分から1時間ほどで色とりどりの幻覚症状が現れ、意味もなく大笑いしたり、衣服を脱いで裸踊りをしたりという逸脱した行為を引き起こし、そのうちに症状が消えてゆく」っていうと、夏井さんが笑い茸を食べなくても酔って裸踊りをする人だっているよね、とたたみかける、その間合いがとても楽しそうです。
 そういえば、夏井いつきさんは、テレビの「プレバト」で人気ですが、もともと俳人になろうとしたのは、『俳句とエッセイ』という俳句雑誌の黒田杏子さんの選句欄に投句していただけだったそうですが、いきなりというか、俳人になりますと勝手に決めたのだそうです。ここの部分もとてもおもしろく、夏井さんが「犬かきでも何とかゴールには泳ざ着ける。遅いし、かっこ悪いけど、到達はできる。けど犬かきしてたら沈む、溺れる、となった時、いきなり習った事もないクロールをやり出す、ってあるやろ。」というと、千津さんは「あるある。ニックなんか、コンサートの度にやってる。自分の実力を超えた音は自分を追い込んで初めて出せる音なんだよってニックの口癖が、今は理解できる。」とうなずくあたり、絶妙なコンビです。そして、さらに夏井さんは、「人それぞれの「無理」がある。ニックみたいな無理は誰にもできないし、しちゃいけない場合もあると思う。苦しくても どこかに楽しめる部分があるかどうか、自分で見極める事が大切やね。もし苦しさが勝っていたら、さっさと逃げる。」といいます。
 この本を読んで、俳人というのはもう少し情緒のある方かと思っていたら、意外とそうでもなく、副題通りに「クスリと笑え」ます。読んでいても、考えさせるところはありますが、どちらかというと、「クスリと笑え」る部分がたくさんあって、つい読まされてしまうような感覚でした。
 下に抜き書きしたのは、夏井さんの「大家族の効用」に書いてありますが、今も息子夫婦と娘夫婦、義妹とその娘と孫たちがスープも冷めようもないほど近くに住んでいるそうで、だからこそのこの言葉です。
 今では少なくなってきた大家族でしたが、だからこその「思いやり」があったと思い出しました。そして、私の家も6人ですから、まあまあの大家族の良さを味わっています。
(2019.2.28)

書名著者発行所発行日ISBN
寝る前に読む一句、二句。夏井いつき・ローゼン千津ワニブックス2017年11月20日9784847096174

☆ Extract passages ☆

大家族はありがたい。孫が熱を出しても急ぎの人手が必要になっても、誰かが動いてくれる。
 大家族が心地よく暮らす秘訣は、日頃から大皿でものを食べる習慣をつける事ではないか。義妹・さっちゃんが作ってくれた大皿料理を囲む人数、豚の角煮の個数、おひたしゃ酢の物の量を「思いやり」で割れば、自ずと自分の皿に取るべき量が決まる。そんな日々の習慣こそが、大家族の心の基盤を作っていく。
(夏井いつき・ローゼン千津 著 『寝る前に読む一句、二句。』より)




No.1624『続・仏教なんでも相談室』

 著者紹介をみると、高校2年生のときに一般家庭から曹洞宗で出家得度したとあり、やはり書き方がとてもわかりやすいと思いました。どうしても、寺の家に生まれてそのまま出家してしまうと、普通の人たちがわからないことに気づかなかったりします。知っていて当たり前だと思うのかもしれませんが、普通の人にとっては合掌することひとつとっても、なぜと思います。
 実は私もほとんど知らないまま修行に行ったので、最初はとまどうことばかりでしたが、結果的にはそれがむしろ良かったと思っています。この本にも「所知障」に触れていますが、これは知識が禍することで、度が過ぎると修行の妨げにもなります。
 この本は、もともとは月刊誌『大法輪』で連載されている「仏教なんでも相談室」に掲載されたものだそうで、現在も連載中のようです。おそらく、一般の人たちにとって仏教はわからないことがいっぱいあるでしょうし、このような平易な解説でなるほどと思うこともあります。人は生きているあいだは悩んだり迷ったりしますが、このような相談窓口があるということは、とてもよいことです。
 そういえば今年はいのしし年ですが、お正月のときには、イノシシというと猪突猛進とよく言うけど、実は人間が怖いから人間を見ると勢いよく逃げるだけで、いつもはゆったりと生きているという話しをしました。そのつながりでいうと、この本には、「五見」ということが書いてありました。この五見というのは、5つの誤ったものの見方のことです。
・身見(しんけん)=自分の立場・境遇などを全てに優先させて扱う。
・辺見(へんけん)=一方的。一面的に物を見、判断してしまう。
・邪見(じゃけん)=因果の道理に暗く、 邪な考えに走る。
・見取見(けんじゅけん)=自分の思い込みを肯定し、決めたことに執着する。
・戒(禁)取見(かい(きん)じゅけん)=正しくない制度でも、それを鵜呑みにして譲らない。
 ということです。
 仏教では、普通に使っている漢字でも、いろいろな意味を持たせていますが、この「見」というのも、ただ「見る働き」ということと、もうひとつは「偏ったモノの見方」という意味でも使います。
 ですから、今年は一方的とか一面的なものの見方とかをせずに、じっくりと多面的なものの見方をして、十二支の最後のいのしし年を過ごしていただきたいと思います。
 下に抜き書きしたのは、この本の最初の第1章の「老いと死の悩み」に書いてあることです。
 よく平均寿命より健康寿命のほうが大切だといいますが、なかには長寿であることを悔やんでいる人もいるそうです。それがこの本の最初に取りあげられたというのも、今の時代らしいところかもしれません。
(2019.2.26)

書名著者発行所発行日ISBN
続・仏教なんでも相談室鈴木永城大法輪閣2018年11月10日9784804614106

☆ Extract passages ☆

 最近、「健康寿命」について、テクテク(運動)、カミカミ(食事)、ニコニコ(笑顔・明朗)、そしてドキドキ・ワクヮク(感動)が大切だといわれます。心の転換をはかってみてはどうでしょう。
 禅の言葉に「天上の月を貪り見て掌中の珠を失脚す」とあります。視点を変えれば、尊ぶべきは何かが、身近に見えてきます。
 そして、私の尊敬するある老師様は、
「生涯修行 臨終定年」 と示され、その通り生ききりました。
(鈴木永城 著 『続・仏教なんでも相談室』より)




No.1623『老いと記憶』

 年を重ねてくると、やはり記憶力は衰えてくるようです。すぐそこまでわかっているのですが、なかなか名前や地名などが出てこないとか、いろいろと経験します。この本の副題も「加齢で得るもの、失うもの」とあり、失うものだけではなく、得るものがあると書いて会ったので、読んでみることにしました。
 たとえば、知識は少しずつ忘れていきますが、智恵はあまり加齢の影響がないのだそうです。この本には、「知恵には、教育によって育成される学問知、経験によって培われる経験知、判断力、問題解決能力、対人スキルなどさまざまな要素が含まれます。」として、このような知恵は加齢の影響がみられない、あるいは、影響があってもほとんど低下しない記憶機能を解説しています。
 この本を読んでいて興味を持ったのは、意外と人の記憶は当てにならないということです。たとえば、辛いことがあったとしても、ある程度の月日が経つと、それがあったからこそ今の幸せがあると考えたり、その辛いそのものが記憶から抜け落ちてしまうこともあるそうです。いつまでも、辛いことを思い出してばかりいては大変ですから、ある意味、だからこそ、人は生きられるのかもしれません。
 著者は、これらのことを研究したことがあり、「以前、私の研究室では65歳以上の41名の高齢者に「これまでに経験した人生の重要な出来事」を、良いことも悪いことも含めて書き出してもらいました。人生の重要な出来事であるため、たとえ研究目的とはいえ、実験者に知られたくなく、書き出すことを躊躇することは十分に考えられます。そのようなことを避けるために、知られたくない出来事は自分が後でみてわかるような書き方で書き出すように伝えました。そして1年後、再度研究室に来ていただき、「これまでに経験した人生の重要な出来事」をもう一度書き出してもらいました。……しかし、実験の結果は予想とはまったく異なりました。人生の重要な出来事の63%が、1年経過しただけで、他の出来事と入れ替わっていたのです。」と書いてありました。
 人生の重要な出来事ですから、生きるか死ぬかの大病とか、人生を狂わせるような天災とか、おそらく65年も生きていればいろいろあるはずですが、それがたった1年で違うことと入れ替わるということは、人生そのものも書き換わる可能性があるということになります。
 著者は、高齢者の記憶力が低下しているからではなく、大学生に対しても同じような書き出しをしてもらっても、人生の重要な出来事が入れ替わらない学生はいなかったそうです。このような実験の話しを聞くと、脳というのは、本当に不思議だと思います。
 下に抜き書きしたのは、楽しいとかおもしろくないという気分が記憶にも影響すると書いてありました。
 だとすれば、少しでもポジティブな気分でいたほうが記憶にもいいということです。上智大学のアルフォンス・デーケン教授は、生きている限りもっとほほえんで楽しく生きるべきで、そのためにもユーモアの大切さを説いているそうです。そしてユーモアの根底には、思いやりがあり、「にもかかわらず笑うこと」だといいます。
 まさに、「笑う門には福来る」です。
(2019.2.24)

書名著者発行所発行日ISBN
老いと記憶(中公新書)増本康平中央公論新社2018年12月25日9784121025210

☆ Extract passages ☆

楽しい、嬉しい、幸福といったポジティブな気分、抑うつ、不安といったネガティブな気分は認知機能のパフォーマンスと密接に関連しています。私たちはその時の気分に応じた情報を思い出す傾向があります。気分が落ち込んでいる時は、普段よりも嫌なことを思い出しやすく、そのため否定的な思考にとらわれます。時には、否定的な思考が気分をさらに落ち込ませ、また別の嫌なことを思い出す、というように負のループに陥ることもあります。一方で、気分が落ち込んでいる時は物事の判断に慎重になる、という研究結果もあり、状況によっては気分の落ち込みがプラスに働く場合もあります。
 良い気分の時は、普段よりも良い出来事を思い出しやすく、思考は拡散し、さまざまな情報に注意が向けられます。
(増本康平 著 『老いと記憶』より)




No.1622『運命はこうして変えなさい』

 副題は「賢女の極意120」で、この文庫本になる前の単行本は「賢女の極意」だったそうです。どちらがインパクトがあるかというと、やはりこの文庫本の方が目に付きやすいようです。でも、私はこの賢女というのを、間違って「瞽女(ごぜ)」と読んでしまい、読もうとしたのです。というのも、置賜民俗学会の会誌第25号の特集が、「瞽女様の米沢歩き」だったので、その関連で読もうと思ったのです。
 でも、おそらく間違わなければ読むこともなかったし、もともと図書館から借りてきた本なので、さわりだけでもと思ったのが、ついつい最後まで読んでしまったということです。
 でも、なんか、女性の本音みたいなものが垣間見えて、おもしろかったです。たとえば、「音の同級生と会うのは、女にとってあたかも鏡を見るようなところがある。自分の顔は見慣れているから、小ジワや肌の衰えもそうは気にならない。なにより身びいきというところがある。ところが、突然つき出される変化した友の顔は、内心ギョッとする時が多いのだ。」というのは、なるほどと思うし、男性はそれほど思わないようです。
 また、「ブ男ほど、人の悪口を言う時にすぐに容姿をあげつらう。無教養の人ほど、人の学歴にこだわる。」というのは、男性でも女性でも同じかもしれないと思いました。
 そういえば、この「キャビアって、だけど、本当においしいものなのかなあ。確かにそうなのだ。トリュフを食べた時もそう感じたのであるが、キャビアやトリュフという名に、私たちはまず眩惑される。名前に負けてしまう。それを食しているという歓びで、味のことなどどうでもよくなってくるのだ。」と書いていて、たしかにそうかもしれないと思いました。さらに、こんなにおいしいものがわからないの、って思われたくなくて、つい、みんなに同調してしまうこともありえると思います。あるいは、食べたことがないなんて、恥ずかしくて言えなくて、つい、いつも食べてるけどみたいな顔をしてしまうことだってありえるわけです。
 おそらく、自分自身に自信がないからかもしれません。その裏返しの重いが、このような形で現れるような気がします。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「生きることについて」に書いてあることで、これなどもよくいわれることですが、なかなかやれないのが現実です。いわば、日記をつけるときの三日坊主みたいなものです。
 そう考えれば、″やる"ということは、あるいは"やり続ける"ということは、大きな才能のひとつかもしれません。
(2019.2.21)

書名著者発行所発行日ISBN
運命はこうして変えなさい(文春文庫)林 真理子文藝春秋2018年1月10日9784167910006

☆ Extract passages ☆

 小さな努力をひとつひとつ重ねていくことが、大きな成果を生むことを知っている人は、いろんなことを苦にしない。
 英語の単語をひとつひとつ暗記する。日本史の年代をゴロ合わせにし、空で言えるようにする。毎日、あるいは週にいっペんレツスンを重ねていくことを、こういう人はさらりとやってのけるのである。……しかし、この″やる"ということが重要なのだ。"やる"ことが才能であり、すべてなのだということが、この年になってやっとわかってきた。
(林 真理子 著 『運命はこうして変えなさい』より)




No.1621『大人のためのホテルの使い方』

 著者はすごい経歴を持っていますが、北海道のザ・ウィンザー・ホテル洞爺リゾート&スパの再建に取り組み、洞爺湖サミットを開催するところまでこぎつけた方だそうです。ちょうど、17日から上京し都内のホテルに泊まっているので、この本を読んでいます。
 もともとほとんどはビジネス系のホテルにしか泊まらないので、あまり参考にならないと思いながら読んでいたのですが、意外に使えると思いました。というのは、独断で駅前近くのホテルは高いのではないかと思っていたのですが、駅前の好位置にあるホテルは価格競争もあり、サービスなどの競い合いもあるのでお得感があるといいます。これはたしかにありそうです。また、団体客の少ないホテルを選ぶというのも大きなポイントですが、これはなんとなくわかっていました。3つめは、口コミ評価の高いホテルを選ぶというのは、あまり気にしてはいませんでした。むしろ、どちらにしようかと迷ったときに参考程度に見るだけです。またホテルのホームページをみるとそのホテルが何を売りにしているかがわかるというのは、むしろ今までもこれで選んでいました。
 私の場合は、ほとんどがインターネットで予約をするので、むしろこれが選ぶときの最大のキーポイントです。今、泊まっているホテルは、世界らん展日本大賞の会場が間近だという理由で選びましたが、昨年の夏にも孫たちとここに泊まり快適だったということもその理由の一つです。でも、この近くには他のホテルもあるわけで、そこから選んだというのは、たとえばチェックインの時間が午後2時からだとか、朝食に和食の有名店が選べるとか、いろいろありました。
 この本を読んで始めて知ったのは、当日でも予約はなるべくなら電話で入れるということです。今まで、当日なら、あるいは近くにいるなら、直接フロンドに行けば手っ取り早いと思っていましたが、実はそうではなく、チェックインもスムーズだしいろいろと便宜を図ってもらえるそうです。しかも、当日だからこその特別割引き料金もあり、電話だと言いにくいことも言えるというメリットもあると書いてありました。
 では、そもそも宿泊料金が高いだけで高級ホテルかというとそうではなく、この本では、「高級ホテルとして成立させるためには、「魅力的な建築物(ハードウェア)」「優れたお もてなし(ソフトウェア)」そして「優れた人材(ヒューマンウェア)」の3点セットの充実が欠かせませんが、大切なことは、たとえ素晴らしいハードウェアを用意しても、それだけでは顧客満足は創れないということです。そこにそのホテルの個性的で創造性のあるホスピタリティとスタッフの洗練されたサービス技術、スタッフの人間性そのものの魅力が揃ってはじめて、顧客にとって「大好きなホテル」の仲間入りが許されるのです。」と、最後の「おわりに」に書いてありました。
 たしかに、ただ高いだけでは何度も泊まりたいとは思いませんし、その高さに見合うだけのものが必要です。でも、この「伝説のホテルマン」に教えてもらっても、私はホテルの室内で、ゆっくりと本を読めるスペースが確保されれば、それ以上のことを望まないので、安いビジネスホテルでもいいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「ザ・リッツ・カールトン」が掲げているモットーですが、いくらサービス業だからといって、お客のほうがわがままを言いすぎるのも考えものです。お互いに気持ち良く接することによって、さらにホテルライフは楽しいものになると思います。
 私もぜひ心したいと思いました。
(2019.2.19)

書名著者発行所発行日ISBN
大人のためのホテルの使い方(SB新書)窪山哲雄SBクリエイティブ2016年7月15日9784797385182

☆ Extract passages ☆

「We are Ladies and Gentlemen Serving Ladies and Gentlemen.(真摯淑女をおもてなす私たちもまた、紳士淑女です)」というフレーズを聞いたことがあるでしょうか。これは世界でも屈指のサービスを誇る高級ホテル「ザ・リッツ・カールトン」が掲げているモットーです。
 この言葉は、私がホテルスタッフを指導するときには、「お客様の要望をしっかりととらえ、ときに先回りをして接遇できるよう、様々な分野の勉強をして、教養を高めなさい」となりますし、ホテルを利用する客の立場にあるときは「ホテルの従業員が気持ちよく仕事ができるよう心がけよう」となります。
 どのようなクラスのホテルであつても、お客様とホテルのスタッフの関係は、このリッツ・カールトンのモットーが理想です。サービスをする側はプロとして最高のおもてなしに徹し、宿泊客側も最低限のマナーを守った上で自由に寛ぐ関係こそ、ホテルのサービスを最大限に受けることができる賢いあり方です。
(窪山哲雄 著 『大人のためのホテルの使い方』より)




No.1620『カフェのある美術館』

 副題は「感動の余韻を味わう」で、美術館でたくさんの美術と触れ合ったあとに、それを思い出しながらそのなかでゆったりとした時間を過ごすことも大切です。
 そういう意味では、今どきの美術館や博物館には、いろいろな付帯設備があり、そのひとつにカフェやレストランもあります。
 この流れから考えると、今まで行った美術館のなかで思い出すのは、国立新美術館の「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」で、巨大な円錐形を逆さにしたような空間で食べるランチも、正統なフランス料理を手軽に味わうことができ、とても感動的でした。ただ、いつ行っても混んでいるのが唯一の難点です。
 また、世田谷美術館のなかにある「ル・ジャルダン」も砧公園を眺めながらいただくランチもとてもよかったです。また、どちらも企画展とのコラボメニューなどもあり、鑑賞した後ならではの楽しみです。
 そんなことを思い出しながら、この本を読みました。
 この本の中で断然行ってみたいところは、静岡県長泉町東野にある「クレマチスの丘」です。ここの「クレマチスガーデン」の一角にある「ガーデナーズハウス」は隠れ家のようなティーハウスだそうです。その他に「リストランテ プリマヴェーラ」「ピッツェリア&トラットリア チャオチャオ」や「日本料理 テッセン」などもあり、クレマチスの花を楽しみながら食べられるとは、とても贅沢です。もちろん美術館ですから、富士山麓の広い敷地には4つのミュージアムがあり、「ヴァンジ彫刻庭園美術館」や「ベルナール・ビュフェ美術館」などはぜひ見てみたいし、「井上靖文学館」も興味はあります。
 ちなみにクレマチスガーデンは、「ヴァンジ彫刻庭園美術館」に併設されているそうで、入場料は大人1,200円だそうです。また3館共通券もあるそうで、時間があればぜんぶまわってみたと思います。
 次に行ってみたいのは茨城県北茨木市大津町にある「茨城県天心記念五浦美術館」です。もちろん、五浦といえば岡倉天心で、晩年をこの地で過ごしたそうです。この美術館にある「カフェテリア・カメリア」は、ひたちなか市でパスタ専門店をプロデュースするお店が営んでいるので、カフェだけでなくスパゲッティなどの食事のメニューも豊富だそうです。
 もちろんここまで行けば、天心が読書や思索にふけった「六角堂」へはぜひまわりたいものです。そういえば、天心の英文著『茶の本』の構想はここで練られたそうで、この六角堂の手前には、晩年住んだ「天心邸」が建っているといいます。
 この本を読んでいると、次から次へと行ってみたい美術館がありますが、どうも、行けそうなところをピックアップしているようです。そういえば、林真理子の本のなかで、「人間の心理というのは、無駄玉を打たないようになっている。どうせあの人たちは私のお得意先ではないと思ったときから、関心や興味は消えてしまう。」と書かれていましたが、その通りみたいです。
 下に抜き書きしたのは、宇都宮美術館のページに載っているものです。
 そういえば、これも日帰りで行けそうなところで、ぜひ行ってみたいと思います。
(2019.2.17)

書名著者発行所発行日ISBN
カフェのある美術館青い日記帳 監修世界文化社2018年12月25日9784418182572

☆ Extract passages ☆

 宇都宮美術館がある「うつのみや文化の森」は、宇都宮郊外の緑豊かな約26%ヘクタールの丘陵地。店の外には森が一面に広がり、おとぎ話の森の中にいるかのような気分が味わえる。
 「白いキャンバスに、天地間の恵みを、文化的で自由に彩る現代創作料理」をコンセプトとするだけに、料理もスイーツも彩り鮮やかで絵画的。もちろん視覚的に美しいだけでなく、そのおいしさにも大満足。和洋中のジャンルにとらわれず、地産地消・全国の地場産素材にこだわった料理は、日本人の繊細な五感に訴えかけてくる。定番メニューのほか、企画展のイメージでつくられる限定のランチセットとスイーツもあり、企画展鑑賞の余韻にひたるのもよい。
(青い日記帳 監修 『カフェのある美術館』より)




No.1619『大人の流儀8 誰かを幸せにするために』

 このシリーズは何冊かは読んでいますが、この「誰かを幸せにするために」という題名ほど、興味を誘ったのはありません。あの著者が、このような言葉を吐くとはなぜ、と思ったこともその一つです。でも、読んでいるうちに、やはり「誰かを幸せにするために」こそ生きて大人の流儀だと思いました。特に男子たるもの、そのような気概がなくてはダメだとさえ思いました。
 たとえば、著者が松井秀喜さんから直接話しをうかがったそうですが、中学3年の最後の試合が終わって、夏休みに入って数日間は野球チームも数日間だけ休みになるそうです。そのときに、グラウンドでコーチが一人で整備をしていたそうで、「何でもないことです。グラウンドを整備しながら、新チームはどんなふうにしたいとか思うんです。それに石コロひとつで選手に怪我をさせたくありませんから」とコーチは言ったそうです。それを聞いて著者は、「世の中は、目に映らない場所で、誰かが誰かのためにひたむきに何かをしているものだ。目を少し大きく見開けば、そんなことであふれている。今は目に見えずとも、のちにそれを知り、感謝することもあるのだろう。己のしあわせだけのために生きるのは卑しいと私は思う。己以外の誰か、何かをゆたかにしたいと願うのが大人の生き方ではないか。」と書いていて、やはり大人というのは誰かを幸せにしたいと思いながら生きるべきだと感じました。
 それにしても、最近気になることは、子どもたちをほめて育てることだけが主流になっていることです。たしかに、ほめられて気分が悪いという人はいないでしょうが、ただほめるだけでしつけができるとは思えません。ときには、叱ることも大切なことではないかと思います。
 そういえば、学校でほめられたことはほとんど覚えていませんが、この歳になってもまだ、怒られたことはときどき思い出します。あの硬いスリッパで頭を殴られたこともあります。なぜか、自分を叱ってくれた先生の方が思い出されるのです。やさしい先生は、あまり思い出す機会もありません。
 著者は、「私の想像では、叱ることが面倒だからではないかと思う。さらに言えば、叱ることで、相手から嫌われたくないからではないか。叱ることが面倒なのは、最初からわかっていることだ。叱ることには責任がともなうからである。」と書いていて、本当は叱ることこそ大切なことではないかと暗に示しています。
 よくマスコミなどでは、暴力はよくないといいますが、もちろん私もよくないとは思いますが、ときにはしっかりと叱ることは大切な教育の一環です。ただ、甘やかすだけでは、善悪の判断ができなくなります。そういえば、ニュースでSNSでとんでもない映像を流したことが放映されていますが、これだってそうではないかと思います。何が良くて、何が悪いことかの判断すらできていないということです。
 下に抜き書きしたのは、自分の弟を海の事故でなくしたという体験などを通して、書いてあるところです。
 そういえば、私も福島県の湖で溺れてなくなった高校生の葬式に出たことがありますが、まともに遺族席を見ることはできませんでした。ズーッとすすり泣きが聞こえていました。今、ご両親はどのように暮らしているかわかりませんが、少しでもこの"時間がクスリ"で癒やされていることを願っています。
(2019.2.16)

書名著者発行所発行日ISBN
大人の流儀8 誰かを幸せにするために伊集院 静講談社2018年11月5日9784065141168

☆ Extract passages ☆

 哀しみをやわらげてくれるのは、 一番は時間である。"時間がクスリ"とはよく言ったものだ。
 とてもではないが、こんな苦しみ、痛みからはどうやつても逃れられないと思っていたことでさえ、 一年、三年、十年と歳月が過ぎれば、笑うことも、空にむかって伸びをして、さあ今日もガンバルゾ、とできるようになる。しかしそれは哀しみを忘れたことではない。起こってしまったことは、その人の身体のどこかに残っている。
 歳月が、時間が、生きる術を身に付けさせたのである。
(伊集院 静 著 『大人の流儀8 誰かを幸せにするために』より)




No.1618『忘れるが勝ち!』

 昨年12月に出版されたばかりの本ですが、だいぶ前から著者の外山滋比古さんの本は読んでいると思い、著者紹介を見たら、なんと1923年の生まれでした。ということは95歳ということです。なんか、『忘れるが勝ち!』というのは、おそらく体験されていることからの着想ではないかと思いました。
 副題が「前向きに生きるためのヒント」とあり、イヤなことや煩わしいことを忘れられれば、必然的に前向きに生きられるというのは当たり前のような気がします。
 実際に読んでみると、サラッと書いてあるので読みやすく、そのなかになるほどと思うところもあり、何枚かカードをつくりました。
 たとえば、「人のはなしを聞いて、ただ、聞き流していては、忘れる心配がある。メモをとるのは用心がいい。そう考えるのが常識かもしれないが、間違っている。メモなどとっていれば、肝心なはなしは頭に入らない。メモに気をとられているから、しっかり聞きとどけることができない。メモをとらない方がいい、ではなく、とってはいけないのである。……忘れるのがコワイからノートをとり、メモをとるのだが、文字を書いているうちに、大事なはなしが素通りしてしまう。忘れるのではない。はじめから頭に入らないのである。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 そういえば、文字を書いていると、字が間違っていないかとか、無意識のうちに余計なことを考えるから、意外と内容が分かっていないときがあります。でも、自分で書いたメモがあると、それを後から見直して、そういうことだったのか、と思い出したりします。さらに、細かい数字や年号などは忘れてしまうことも多く、やはりメモをとってよかったという場合もあります。
 つまりは、その時どきの判断しかなさそうです。でも、メモをとる効用のひとつは、講演を聞いていて眠くならないことです。
 この本の題名の由来は、「人間、すこしにぶい方がいいのではないか。すこしくらいおもしろくないことがあっても、感じないのは、才能である。そのうちに嵐も去っていくかもしれない。いつまでもへばりつく災難もあるが、つとめて忘れる。おもしろいことを見つけて夢中になっていると、嵐というのは、ずっとすくなくなる。そうかんたんに忘れることはできない。そういう人は頭がよすぎるのである。デリケートすぎるのである。ボンヤリして、たいていのことをやりすごしていれば、この世は楽園に近づく。」というあたりから、忘れたほうが勝ちという考え方が生まれてきたのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、レム睡眠で頭の掃除をすると書いてあるところです。
 これもこの本の題名に通じるところで、ただ記憶だけしておくのはパソコンでもできるけれど、ただ覚えておくだけではなんにも役立たないわけです。その役に立たない記憶をきれいに掃除してくれるのがこのレム睡眠で、これを応用したのが睡眠学習というわけです。
 つまり、寝るということはとても大事なことで、ある意味、命にかかわることでもあります。
(2019.2.14)

書名著者発行所発行日ISBN
忘れるが勝ち!外山滋比古春陽堂書店2018年12月20日9784394903451

☆ Extract passages ☆

 人は、夜、眠っている時に、レム睡眠を行い、頭の中の不要なモノ、知識、刺激などを処分、つまり、忘れるらしい。頭の掃除のようなもので、 一度だけでなく、一晩に何度もおこっているらしい。
 レム睡眠は、頭の掃除である。順当にレム睡眠がはたらけば、頭の中に入っているゴミ、ガラクタのようなものがすてられる。頭はきれいに清々しくなる。
 朝、目をさまして、頭がすっきりしていれば、レム睡眠のおかげであると考えてよい。
(外山滋比古 著 『忘れるが勝ち!』より)




No.1617『霊長類図鑑』

 昨年、南インドで見たサルを調べてみようと思って、この本を読み始めました。
 もともと人間も霊長類の仲間ですし、世界にはおよそ450種もいるそうです。そのお仲間として、やはり知っておく必要があるのではと、この本を読みながら思いました。
 ちなみに、地球上には、100万から150万種の動物がいるといわれていますが、その内訳は、鳥類9,000種、魚類23,000種、両生類2,000種、は虫類5,000種、哺乳類5,000種などで、この哺乳類のなかに霊長類も含まれています。
 この本でおもしろいと思ったのは、ニホンザルの場合はメスは生まれた群れで一生過ごしますが、オスはその群れから出ていきます。いわばニホンザルの場合は母系社会です。ところがチンパンジーの場合は、オスが生まれた集団に残り、メスは別の集団に移籍する父系社会だそうです。ではヒトはというと、現在では父系社会と母系社会と簡単に決められない社会で、それが進化なのかもしれません。
 そういえば、南インドで見たサルは、「ボンネットモンキー」というオナガザルの仲間で、ニホンザルもこの仲間です。ということは、たしかに似ていましたが、頭の毛が左右に分かれたように見え、それがボンネットという婦人用の帽子に似ているからだそうです。生育域は、インド南部と書かれていました。
 また、以前にカリマンタンで見たテングザルは、ほんとうに天狗のような長い鼻をしていて、ちょっとユーモラスでした。なぜ、このような長い鼻をもっているのか、最近までわからなかったそうですが、おそらくこのオスの長い鼻を使って、「メスを魅了するような音に鳴き声を調整している」可能性があるそうです。そして、この長い鼻を持ったオスは、体格の立派で、睾丸も大きいそうです。つまり、それだけメスにアピールできるということです。
 同じカリマンタンで見たオランウータンも、オスはフランジという顔の横に膨らみがあり、貫禄もありますが、メスや子どもたちにはそれがありません。ところが、この本によると、オスの大人でもフランジがなく、ひょうひょうと生きているのがいて、どこかユーモラスの雰囲気を漂わせているそうです。まあ、ヒトにもそのような大人がいますから、それだけオランウータンはヒトに近いのかもしれません。
 ただ、残念なことに「森の賢人」と呼ばれているオランウータンの生息地がだんだんと狭められつつあることです。しかも、2017年にインドネシアのスマトラでオランウータンの新種が報告されているそうですが、まだ、もしかすると、分からないことがたくさんあるのに絶滅してしまうかもしれないのです。
 この本では、「保全の取り組み」なども紹介していますから、もし機会があれば読んで見てください。写真もたくさんあるので、子どもたちといっしょに見てもらうだけでもいいと思います。
 下に抜き書きしたのは、公益財団法人 日本モンキーセンター所長の松沢哲郎氏の「はじめに」に書いてある文章です。
 たしかに、ニホンザルは外国でもスノーモンキーと呼ばれていて、寒いところに住む唯一のサルですが、たとえば中国にもインドにもサルはたくさんいますが、インドサルとかチュウゴクサルというのはいませんから、その1種類だけを取り出して国名を冠するというのは、やはり珍しいからなんでしょうね。
(2019.2.12)

書名著者発行所発行日ISBN
霊長類図鑑公益財団法人 日本モンキーセンター 編京都通信社2018年11月28日9784903473611

☆ Extract passages ☆

日本は「生物多様性のホットスポット」です。国際的な自然保護団体であるコンサベーション・インターナショナルによって世界36地域が指定されており、マダガスカルや、ボルネオ・スマトラ島と同格です。多様な生物がいて、そこにしかいない「固有種」、「固有亜種」が多い。ライチョウやカモシカと同様に、ニホンザルはそのひとつです。
 複数の大陸プレートがせめぎ合う日本は、火山があって地震があり、台風や、梅雨の長雨や、日照りがあります。四方を海に囲まれた土地に、四季の織り成す多様な自然があって、ニホンザルのように世界中でそこにしかいない動物がすむ国、それが日本なのです。
(公益財団法人 日本モンキーセンター 編 『霊長類図鑑』より)




No.1616『「風の電話」とグリーフケア』

 表紙には、電話ボックスのなかに古い黒電話と1冊のノートが置かれている写真があり、副題が「こころに寄り添うケアについて」とありました。
 それだけでは、どのようなことが書いてあるのか想像もつかず、読んで見ることにしました。この「風の電話」というのは、岩手県大槌町の波板の丘に立つ電話ボックスのなかにあるものです。この電話は、外とはつながっていないのですが、想いがつながっているといいます。
 そういえば、この黒い電話は、昨年の12月に上野の科博で見た「3号自動式卓上電話機」にとてもよく似ていますが、これは1933(昭和8)年製造だそうで、この機種がその後の卓上電話のひな形になったので、それ以降の黒電話かもしれません。
 この電話を設置した佐々木格さんによると、「グリーフを抱えた方が亡くなった相手に黒電話で話しかけ、自分の心との対話により自責の念や混乱して思考を停止させている壁を取り払い、考えを整理することにより自分自身を納得させるのです。「風の電話」はその際、周囲の自然環境の力も借り、精神の安定と癒し感覚を全身で感じ取る「場」なのだと考えています。その結果、人々は自らの力で自然治癒力を呼び覚まし、喪失後のグリーフ状態から将来へ向け、″生きる"という意識の向け換えが出来たと実感できるのではないでしようか。」と、「まえがき」に書いています。
 このグリーフという言葉は、悼みや悲嘆のことで、それをケア(世話)するのがグリーフケアということです。この「風の電話」が知られるようになったのは、2011年3月11日の東日本大震災のときに未曾有の大被害の後で、多くの人たちは、まさにグリーフ状態にあったわけです。そのなかで、なんとかそこから抜け出るきっかけにして欲しいといろいろな活動がありましたが、これもそのひとつです。
 そもそも精神的な傷みは、なかなか人にはわかりにくく、そのままにしておくと、ますます立ち上がれなくなるほどだそうです。精神科医の浜垣氏は、この本のなかで、軽い傷なら自分で絆創膏なとを貼って治すこともできるが、重傷のケガや骨が折れたりしたら医者に行くのは当たり前なんだから、重度の心的外傷も自分でいつかは治るだろうということではなく、専門医にかかる必要があると書いていました。こういうときには、自己治癒力もうまく働いてくれないそうです。
 この「風の電話」の場について、終章のまとめのところで、著者の一人矢永由里子さんは、「電話を通し死者と語らうことは、個人の内的な体験であり、自分のこころのなかに深く人っていく過程でもある。その意味で、自分の世界で祈りを捧げることと似ている。それは個別の体験であり、その人独自の世界である。 一方で、ノートを通し、人は他の人の経験を知り、その人の想いにこころを寄せる機会を持つ.他の人の体験に自身の体験を重なり合わせ、その人の状況に考えを巡らすことで、自分だけと思っていた体験の意味に少し広がりが生まれてくるようである。「風の電話」の場とは、私たちに、電話という媒体を通し大切な死者との関係の再構築を、そしてノートという媒体で他者との喪失体験の共有と繋がりを誘うものなのであろう。」と書いています。
 下に抜き書きしたのは、「待つ」ということの大切さというか、相手のペースに合わせるというか、人それぞれの気持ちに添うことの大切さです。
 これは心理臨床の場でも同じで、クライアントのペースに添うことによって、自分のペースを取り戻したり、見つめたりすると、そこに内省のためのゆとりが徐々に生まれ、その結果、落ち着いて自分の気持ちと向かい合うことができるようになるそうです。
(2019.2.10)

書名著者発行所発行日ISBN
「風の電話」とグリーフケア矢永由里子・佐々木 格 編著風間書房2018年10月31日9784759922394

☆ Extract passages ☆

「待つ」ということは、相手のペースを尊重するということと表裏一体である。
 自分の気持ちと向き合うには、人それぞれのペースがある。「風の電話」では、気持ちと向き合うことにかける時間、想いを伝えるタイミングは、すべて個人に委ねられている。「自分のペースでいい」という安心感の中で、自分の気持ちと向き合い、大切な人を失くした悲しみや寂しさに浸ることができる。そして、訪れた人の心を徐々にほぐし、「ここでなら伝えられるかもしれない」という気持ちにさせるのである。
(矢永由里子・佐々木 格 編著 『「風の電話」とグリーフケア』より)




No.1615『神谷美恵子の言葉 人生は生きがいを探す旅』

 神谷美恵子さんといえば、美智子妃殿下の相談役とか話し相手とかいわれているそうですが、この本の「まえがき」には、約7年間ほど東宮御所に参内したことは事実と書いてありました。ただ、自分が精神科医なので、無用な誤解をあたえないようにと一般に自分から口外したことはないそうです。
 でも、本書を読むと、その経歴から考えても、なるほどと思いました。『こころの旅』だと思いますが、それ以外にも『生きがいについて』や『人間をみつめて』などの啓蒙書や、『精神医学研究』などの専門書、さらには翻訳まで、いろいろと書いています。でも、書くこと以上にすごいことは、ハンセン病医療施設の国立療養所長島愛生園で精神科医として実践していたことです。
 この本は、神谷さんの言葉を抜き書きしたものに、昭和人物研究会が編著したもので、監修は聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんで、2017年7月18日に満105歳で亡くなっていますから、その直前に出版されています。そういう意味では、最後のところに、「監修者あとがき」があり、『「生きがい」は人間を解放する』という題名で書いていて、直接お目にかかったことはないそうですが、学んだことは多かったといいます。そして、神谷さんが亡くなる直前に書かれた「残る日々」という詩を紹介して、「この詩には、神谷さんが最期を迎えるその瞬間まで、与えられた命に感謝しよう、とする思いが詰まっています。病室にいながらも、日々を感謝して生きようとされた。自分は不幸だと嘆くのではなく、残されているわずかな日々の中に、神様に与えられた恵みを喜ぶ気持ちがあったから、神谷さんは死へ向かう不安や恐怖に耐えられたのではないかと思います。感謝の心とは、 一つの積極的な生き方の形なのです。」と書いています。
 そういえば、本文の中でも、ときどき感謝という言葉が出てきますが、まさにその感謝の心は1つの積極的な生き方だったと思います。
 よく、精神的な苦痛といいますが、それがどのくらいの苦痛なのか、なかなか痛みが伝わらないので表現の仕様がないのですが、著者がハンセン病国立療養所長島愛生園で体験したときのことを書いています。それは、30歳のある患者さんがときどき心臓発作を起こし苦しんでいたそうですが、たまたま膀胱炎と腎盂炎にかかったときのことです。著者は、「身体病の治療という、はっきりした生活目標ができ、それにむかって日々歩むことができたから、それで心の統一とおちつきがうまれたのではないだろうか。現に彼は毎日の熱の具合や折々の尿検査の結果に積極的な興味を示し、快癒への道程にいきいきと充実感を味わっていたようである。」と書いています。ところが病気が全快すると、また「生きがい喪失」の状態に戻ってしまい、同時に心臓発作にも見舞われるようになったというのです。このことから、著者は、「肉体的苦悩よりもはるかに深刻なのは精神的苦悩である」と言います。そして、精神的苦痛を和らげる1つとして、精神的苦悩を他人に打ち明けることがいいと勧めています。
 つまり、他人に打ち明けることにより、その悩みを客体化することができるからだといいます。やはり、精神的な悩みというのは、そうとう身体にもダメージを与えるもののようです。
 下に抜き書きしたのは、「目標への道程」に書かれていたもので、目標を達成できればそれはそれで素晴らしいことですが、もしできなくても、その目標に向かって進んだということそのものが素晴らしいことだといいます。
 これは、とても大事なことだと思います。そして、さらには「苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす」といい、無限の彼方の目標に突き進むことこそが素晴らしいことだと考えていたのではないかと思います。
(2019.2.7)

書名著者発行所発行日ISBN
神谷美恵子の言葉 人生は生きがいを探す旅昭和人物研究会 編著三笠書房2017年5月25日9784422701165

☆ Extract passages ☆

 人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろ目標を立てるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。
 ただそういう生の構造の中で歩いていることそのことが必要なのではないだろうか。
(昭和人物研究会 編著 『神谷美恵子の言葉 人生は生きがいを探す旅』より)




No.1614『書物のある風景』

 副題は「美術で辿る本と人との物語」で、元々の題名は、『Reading Art: Art for Book Lovers』だから、この副題のほうが題名に近いようです。
 それにしても、とても重い本で、近くのはかりで計ったら、すっと600グラムのところで止まってしまいました。これは軽量はかりなので、それ以上は計れないようで、手で持った感覚からすると、1.5キロぐらいはありそうです。
 この本は、「はじめに」のところに書いてありますが、「本書はどこにでもある身近なもの、しかしときに社会や思想に大きな変革をもたらす「本」への礼讃である。世界各地の美術館やコンクションから古今東西の作品を300点ほど選び、なかには現在のような本がまだなかった時代に、巻物や写本を読む姿が描かれたものもある。過去の絵画や彫刻をながめていると、人びとの暮らし(衣服や調度など)の移り変わりがよくわかる一方で、歳月が流れてもなお変わらないものがあることに気づかされるだろう。そこに書物が、読んでいる人びとが描かれていると、時も文化も超えた、人間としてのつながりがもてたように思える。」とあり、絵画などに描かれた作品から、書物のある風景だけを選んで紹介してあります。
 それと、よく洋書にはその本にあう名言のようなものを区切りのところに書き入れますが、この本でも、そのような名言が随所に抜き書きされています。
 たとえば、キャスリーン・ノリスの「長い1日の終わりに良い本が待ち受けているとわかっているだけで、人はその日をより幸せに過ごすことができる。」というようにです。この言葉は、そのままでも通じますが、たとえば良い本のところに、食事でも雲堂でも、子どもの笑顔でも、なんでもいいわけです。つまり、人が幸せだと感じるときには、その脳のなかに報酬系物質が放出されています。たとえばマラソン選手などがいう「ランナーズハイ」の状態です。それはベータエンドルフィンなどが出ているといいますし、気分が安らいでいるときにはセロトニンが出ていますし、快楽を覚えているときにはドーパミンが放出されています。
 本を読んで、そのような状態になれるなんて、これはとても幸せなことです。
 300点ほどの絵画のなかにも、いかにも幸せだという雰囲気のものがあります。たとえば、ジョージ・ダンロップ・レスリーの「不思議の国のアリス」は、1879年頃の油彩でイギリスのブライトン・アンド・ホヴ美術館に所蔵されているそうですが、子どもをあやしながら夢中で本を読んでいるお母さんの姿がとてもよく表現されています。
 また、エル・グリコの「聖ルカ」の絵には、描かれた本の挿絵が、まさに大原美術館で見たエル・グリコの絵そのもののようでした。
 下に抜き書きしたのは、「はじめに」に書かれていたもので、この本のなかで言いたいことをまとめたところです。
 たしかにこの本を読むというか、見てみると、その時代の雰囲気が伝わってきます。たとえばアリシア・マーティンの「現代」という作品は、隣との白い壁の一面が壊れて、たくさんの本がはみ出しているように見えます。おそらく、これは今の情報化社会のなかで、洪水のように押し寄せる災害として表現しているようです。これは、マドリードのオリバ・アラウナ・ギャラリーに作品があるそうですが、おそらく本に印刷された以上の迫力があるのではないかと思いました。
(2019.2.4)

書名著者発行所発行日ISBN
書物のある風景ディヴィット・トリッグ 著、赤尾秀子 訳創元社2018年10月20日9784422701165

☆ Extract passages ☆

 書物は人間の歴史に大きな影響を与えてきた。その位置づけが時代とともに変化したことは、西洋美術を見ればよくわかる。中世の絵画では、一部の者しか手にできない高貴なものとして描かれ、現代ではどこにでもある大量生産品の面が強調されるようなった。たとえば、キリスト教の聖人の肖像画にある書物はその人物の知性を示し、見る者に死の必然性や怠惰への警告を伝えたりする。いずれにしても、絵画、彫刻、インスタレーションを問わず、時代の文化が書物とそれを読む人をどのように見ていたかがわかるだろう。
(ディヴィット・トリッグ 著 『書物のある風景』より)




No.1613『森には森の風が吹く』

 森博嗣の作品はいくつか読んでいますが、ストレートな物言いが小気味よく感じるときと、だから大学の教官を辞めたのではないかと思うときがあります。でも、読んでいて楽しいので、つい目がつくと買ったり図書館から借りてきて読みます。この本は借りてきて読みました。
 自作小説のあとがきを集めた「森語り」や、作品解説の「森人脈」などは、まったく興味がないので、ほとんど飛ばしました。でも、趣味に関するエッセィの「森好み」や考え方やスタンスに関するエッセィの「森思考」などはとても興味があり、そこのところはゆっくりと読みました。こういう贅沢な読み方をすると最初からわかる本は、図書館から借りて読みます。だとすると、どこを飛ばしても、あまりもったいないと思うこともないわけです。ちょっと貧乏くさい話しですが、現実にそうなので、それを否定はしません。
 さて、先ずなるほどと思ったのは、「僕たちが昔の優れた製品を見て、「ああ、良い形だな」と感じるのは、その未来ヘ向かった「志の高さ」が今でも感じられるからだ、と分析できる。そういった大志の籠もった製品だけが、時を越えて人々に使い続けられ、歴史に残るのである。……だから、たとえ古いものが大好きであっても、もし自分でデザインするならば、今までにない新しいものを作ってやろう、という野心的な精神を持つことがデザイナとしての必要条件である。新しい技術が、果敢なチヤレンジヘのスピリットに応え、革新的な発想を生む。僕たちがレトロなものに感じるのは、人間のその飽くなきスピリットにはかならない。」と書いています。
 つまり、最初からレトロなデザインを作るのは、たんなるモノマネであり、おそらくは復古趣味みたいなものです。たとえば、アップルのスケルトンのiMacなどは、今でも欲しいと思います。でも、もちろんデザインはそのままで、内部は最新のパソコンであってほしいと思います。
 というのは、昔は流行った古い曲でも、今の新しい音響機器で聞くと、別ものみたいにクリアーに聞こえます。それだけ機器が進歩したということでしょう。もちろん、スピーカーの性能も上がっただけでなく、デジタル技術の影響もあると思います。しかも、昔では考えられなかったような小さな再生機でも、ほとんど同じように聞こえるから不思議なものです。電池の持ちもよくなり、ほぼ1日聞きっぱなしでも平気です。まさに夢のような世界です。
 そのようなことを考えれば、本当の知識というのは、「知っていることを応用でき、展開できる、ということです。それを知ることによつて、新しい疑間が生まれる、なにかを作ることができる、というように、次の行動の起点になるものが本当の知識です。」と著者はいいます。
 そして、「固有名詞を覚えてお終いというのではなく、ものの道理を学んで、それを活かせるよう、自分の中に知識のネツトワークを築いてほしいのです。」といい、このことは言葉を覚えるよりももっと大切なことだといいます。
 やはり、知るということは、そこから次々と問い続けるネットワークみたいなものです。
 下に抜き書きしたのは、ジャイロモノレールを試行錯誤しながらついに完成したときのことです。このジャイロモノレールというのは、100年ほど前の古い記録に残っていたものを現実に作ったもので、完成までに3年ほどかかったそうです。そして、その理屈や作り方を模型雑誌に発表もし、今では何台も存在しているそうです。
 でも、それを作って完成させるところまでが楽しい作業で、理論がかなり難しく、機構的にもやや面倒な部分があるため、理論と技術の両方に通じていないと作れないそうです。
(2019.2.2)

書名著者発行所発行日ISBN
森には森の風が吹く森 博嗣講談社2018年11月13日9784065136546

☆ Extract passages ☆

理論を正しく見通すことができれば、それを実現するために努力できるし、もしその証明にミスがなければ、いつかは必ず実現できる。
 僕の場合も、理論を理解していなかったら途中で諦めていただろう。実験は失敗の連続だった。作っては試し、失敗しては作り直す。「もしかして、できないのではないか」と疑ってしまったら、もう進まない。「必ずできる」という確信があるからこそ、続けられるのである。
「技術」あるいは「工学」、そして「科学」というのは、基本的に人類が共有できるノウハウのことである。一人がなにかを見つければ、すぐに発表し、大勢に確認をしてもらう。科学には「秘伝」はない。他者に言葉で伝えられないようなものは「テクノロジィ」ではない。誰かが手に入れれば、それがみんなのものになる、ということが科学の最も素晴らしい特徴である。
(森 博嗣 著 『森には森の風が吹く』より)




No.1612『世にも驚異な植物たち』

 この文庫本は、去年に旅行するときに買ったのですが、旅行先で別な本を買ってしまい、それを読んだので、そのまま本棚に置いたままにしてました。それをたまたま見つけて、読み出したら、とてもおもしろくて、あっという間に読み終えました。こんなことなら、もっと早く気づいて、読みたかったな、と思いました。
 でも、中に書いてあることの半分ぐらいは、すでに知っていたことですが、知らなかったこともあり、たとえば、ソテツの受粉はニオイを調節して受粉を誘うというのは始めて知りました。それは、「ソテツの雄花は昼間のある特定の時間帯に、揮発成分を大量に放出させる。その主成分であるミルセンは、ローリエやバーベナ、フェンネルなどにも含まれる香気成分で、少量ならアザミウマが好んで寄ってくるニオイとなる。しかし、その量が増えると逆にアザミウマの嫌うニオイヘと変化するのだ。ソテツの雄花は、このミルセンを昼間の一定の時間帯に大量に放出することで、花粉に夢中になって離れようとしないアザミウマを追い出しにかかるのである。いっぽう雌花はというと、同じ時間帯になってもミルセンを大量に放出することはなく、いつでもアザミウマの好きな香りを漂わせている。雄花に追い出されたアザミウマが、その香りに誘われてやってきて、花粉はないかと探しているうちに、受粉が完了する。特定の時間がすぎれば、雄花の放出するミルセンの量は正常に戻り、ふたたびアザミウマが花粉を食べにくるという仕組みだ。」といいます。
 よく、蜜や花粉などで昆虫たちを呼び寄せるといいますが、この場合はいつまでも離れずにいるアザミウマという昆虫を嫌いなニオイで追い出し、花粉のない雌花に飛んでいき、花粉を探しているうちに受粉完了というわけです。そしてある程度時間がたつと、また雄花はミルセンの量を少なくして、おびき寄せるというから、その巧妙な仕掛けにビックリです。
 また、人間などに悪影響を及ぼす重金属などの有害物質に汚染された土地でも生きられる植物がいて、それらを「ハイパー・アキュムレーター植物」と呼んでいるそうです。たとえば、北海道から九州まで自生する「ヘビノネゴザ」などで、これはカドミウムや鉛など、毒性の高い重金属で汚染された土地でも生きられるそうです。その植物の体内にはそれらの物質をため込んでいるといいますから、不思議なものです。でも、それは昔から知られていたようで、鉱山で働く坑夫たちは、「鉱石の出るところには必ずこの草が生えている」と言っていたり、鉱床を探り出すための目印にしていたともいいます。
 もしかして、核廃棄物のなかでも平気で育つ植物が見つかれば、その仕組みから核廃棄物をなくしてしまう妙案が生まれるかもしれません。ほんとうに、植物の力は、偉大だと思います。
 下に抜き書きしたのは、ソメイヨシノの葉は蜜を出しているのはなぜかというところです。普通、蜜は花粉を運んでくれる昆虫を誘うためにオシベやメシベの近くにありますが、花以外のところにも蜜腺があり、それを「花外蜜腺」というそうです。
 なるほど、植物の蜜もいろいろな使い方があるもんですね。
(2019.1.30)

書名著者発行所発行日ISBN
世にも驚異な植物たち(KAWADE夢文庫)博学こだわり倶楽部 編河出書房新社2017年3月1日9784309499635

☆ Extract passages ☆

 サクラの蜜腺にはよくアリがたかっているが、このアリたちは、蜜をもらうと同時に、葉に付いている小さな昆虫を退治したり、昆虫の卵を巣に持ち帰ったりする。アリはサクラの"ボディーガード"をしてくれているのである。
 花外蜜腺は、イタドリやホウセンカ、フヨウ、オクラなど、サクラ以外の多くの植物にもみられるが、これらの植物の被食防衛に、アリたちがどれだけ貢献してくれているのかは、まだ明らかになっていない。
(博学こだわり倶楽部 編 『世にも驚異な植物たち』より)




No.1611『NEW POWER』

 本の題名より、副題の「これからの世界の「新しい力」を手に入れろ」のほうが目を引き、なんのことだろうと思いながら読み始めました。
 読んでいるうちに、たしかに時代は変わり、このような新しい力が大きな力となり、世界を動かし始めたと思いました。このときのオールドパワーは、「オールドパワーの働きは「貨幣」に似ている。少数の人間がパワーを掌握し、油断なく守り抜こうとする。権力者は強大なパワーを蓄えており、行使できる。閉鎖的で近づきがたく、リーダー主導型。オールドパワーはダウンロードして取り込み、獲得するもの。」であるといいます。また、このニューパワーとは、「潮流」のように広まるといい、「それは多数の人間によって生み出される。オープンで一般参加型であり、対等な仲間によって運営される。ニューパワーはアツプロードして分配するもの。水や電気のように、大量にどっと流れるときに最大の力を発揮する。ニューパワーを手にする者たちの目的は、溜め込むことでなく提供すること。」だといいます。
 そういえば、まさかドナルド・トランプがアメリカの大統領になるとは、とくに日本人の場合はほとんどそうは思っていなかったようです。しかし、あれよあれよというまもなく、流れを作り出しました。この本では、「大統領選に突入したドナルド・トランプが真っ先にしたのは、群衆を"買う"ことだった。報道によれば、トランプはタレントエージェントを雇い、俳優1名につき50ドルを支払った。俳優たちはトランプ支持のプラカードを用意し、彼がトランプタワーのエレベーターから出てきたところを歓声で迎えた。トランプは大勢の人が集まっているのを見て驚いたふりをしてから、アメリカの惨憺たるありさまをこれでもかと嘆き、自分だけがこの状況を立て直せると豪語した。」と書いています。そして、今までやって来たすべてのことを否定し、自分なら昔のアメリカを取り戻せると何度も何度も言いました。おそらく、ほとんどのアメリカ人は、あんまり相手にしなかったとここには書いてありましたが、それでも少しの人たちは、もしかするとと思ったはずです。そのサクラがやがてホンモノの群衆になり、さらにツイートすることによってその輪がひろがり、結果は大統領になったのです。まさに、これはニューパワーの力です。
 でも、威勢の良い極端な政策や挑発的な言動が、今のアメリカのどうにもならない状況を生んでいるような気がします。つまり、ニューパワーとオールドパワーの両方をうまく組み合わせたやり方が必要かもしれないと、この本ではいくつかの例を提示しています。
 この本は436ページもあるので、それをすべてここで取りあげることはできないので、ぜひ読んでもらいたいと思います。そうすれば、今の世の中の動きが少しは見えてくるような気がします。SNSを使うとか使わないということではなく、そのなかに組み込まれてしまっているわけですから、それらを理解できなければ、これからの世の中の動きもわからないのではないかと思いました。
 下に抜き書きしたのは、それでは「公益アルゴリズム」というのは、どのようにプラットフォームをつくればいいのか、その3つの特徴を書いています。
 これは、いままでのプラットフォームがオーナーや広告主や投資家の利益を第一に考えていたのを、これからは参加者や社会全般の利益に役立つように設計すべきだといいます。つまり、下に抜き書きした3つの特徴が必要だとしています。
(2019.1.28)

書名著者発行所発行日ISBN
NEW POWERジェレミー・ハイマンズ、ヘンリー・ティムズ 著、神崎朗子 訳ダイヤモンド社2018年12月5日9784478067604

☆ Extract passages ☆

 第1に、ユーザーにどんなコンテンツを見せ、なにを優先するかを決定するアルゴリズムヘのインプットは、ユーザーに対して完全な透明性を持たなければならない。それは、不快なコンテンツやヘイトスピーチなどの抑制に関しても例外ではない。
 第2に、各ユーザーが自由に変更できる設定やオプションを設けること。異なる意見のコンテンツにも、もっと接することが可能となるようにする。自分を囲む泡の外側の視点や見解を"フィルター"のなかに通すのだ。これによりセンセーショナリズムを抑制することもできる。
 第3に、アルゴリズムのデフォルト設定には公益テストを実施し、どうすればプラットフォームがより広い「サークル」に貢献できるかを検討する。
(ジェレミー・ハイマンズ、ヘンリー・ティムズ 著 『NEW POWER』より)




No.1610『園芸の達人 本草学者・岩崎灌園』

 江戸時代は園芸が盛んだったとか、図譜類もいろいろと出版されたとか聞くのですが、あまりわかりませんでした。
 ところが、知人が『伊藤圭介日記』や『小石川植物園草木図説』などの論文を書いたのをいただいたり、渡しも直接、イギリスのキューガーデンの資料室でイギリス人と伊藤圭介氏の手紙のやりとりを見たりすると、少しずつ興味が湧いてきました。
 さらに、鳥海書房から「古書目録」が送られてきたりすると、そのなかに古い図譜類も載っていて、とてもきれいでした。そのような状況のなかで、この本を見つけ、読むことにしたのです。
 このような古い書物は、「こうした数ある書物は、刊本と写本に分かれている。筆で記された写本の希少価値は一般に認識されるが、板木(版木)によって刷られた刊本は、「どれを見ても同じ」という常識で扱われている。しかし、岩崎灌園の刊本には異板が多く、同じ刊本でも複数の種類がある点も見逃してはならない。そのうえ、完成前の稿本も存在するので、思考回路を探る上でもこれら複数の書物の内容の検討は重要である。」といいます。
 私たちは、つい写本ということを忘れてしまいがちですが、仏教教典などもたいへん多く、また書き間違いもあるようです。しかし、いくつかの経典を参照すると、その間違いなどもある程度はわかるそうです。そういえば、玄奘三蔵なども、大般若経典を3部持ち帰ったそうですが、それもその間違いなどを訂正する必要からだといいます。
 また、このような『本草図譜』は、植物学や美術的資料として価値があるだけでなく、その植物がどこにあったかという地域資料としての価値もあります。もともと江戸時代は勝手に移動できないので、日本全国を網羅したような図譜をつくることはできなかったとしても、いくつか参照にすれば、それらの植物の場所を特定できることもあります。最近注目されている伝統野菜などのことも、これらから類推することもできます。
 また、『草木育種』などに取りあげられた栽培法や増殖法などは、今でもそのまま通用することもあり、たとえば、根接ぎや身接ぎ、塔接ぎ、これは台木と穂木を斜めに削ぎ落とし切り口を合わせる接ぎ方で、私はシャクナゲの接ぎ木に使っています。これだと、接いだところがこぶにならず、後々目立たなくなるので好都合です。この書物には「圧條」と載っていますが、これは取り木のことで、枝を土などで覆うことから「圧」という言葉を用いたようで、なるほどと思いました。
 それと、岩崎灌園は1824年3月に発刊された『茶席挿花集』の絵の部分を担当されていたそうで、しかも費用のかかる色刷りの本だそうで、現存するのもたいへん少ないそうです。
 下に抜き書きしたのは、岩崎灌園の『種藝(うえもの)年中行事』という一枚刷に関して書かれたところで、救荒植物を取りあげているのは何度か飢饉に見舞われていたからであり、それを無償で配布していたそうです。
 そういえば、ここの米沢でも、『かてもの』という救荒植物について書いた本がありますが、それも同じ流れではないかと思います。
 つまり、昔の園芸書は、きれいとか希少価値のある植物だけをとりあげるのではなく、多くの人たちに役立つものでもあったわけで、その点を見落としてはならないと思いました。
(2019.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
園芸の達人 本草学者・岩崎灌園(ブックレット)平野 恵平凡社2017年7月21日9784582364484

☆ Extract passages ☆

 救荒書は、本草学者やその周辺の人々が執筆した。そのほとんどは、金銭を受け取らない配布本が多い。無償の自費出版である。貧農に対する啓蒙書が高価なものであってはいけない。この理念は、甘藷(サツマイモ)や朝鮮人参の国産を奨励した八代将軍徳川吉宗や、民が先に楽しんだ後に君主が楽しむという意の「後楽園」と名づけさせた水戸藩主徳川光圀などに通じ、為政者の民生利用の思想にゆきつく。本草学が、江戸時代を通じて学問として成り立っていたのは、この思想に支えられていたからである。
(平野 恵 著 『園芸の達人 本草学者・岩崎灌園』より)




No.1609『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 この題名に惹かれて、そういえばどのように見ているのか、とても興味がありました。読む前には、見えないものをどのように感じるのかとか、いろいろと想像はしましたが、なかなか理解はできませんでした。
 読んでみると、なるほどと思うところが多く、久しぶりに何枚もカードに書き込みました。
 たとえば、私たちは見えるから、さまざまなものに心が躍らされてしまいます。ファミレスに行けば、季節限定とか本日限りなどと書いてあれば、つい頼んでしまいますし、クーポンで何割引きといわれると、つい、それをダウンロードしたり、いろいろな情報に踊らされてしまいます。ところが39歳でバイク事故で失明してしまった難波創太さんは、「最初はとまどいがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。(……)そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには2、3年かかりました。これくらいの情報量でも何とか過ごせるな、と。自分がたどり着ける限界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものにはこだわる必要がない、と考えるようになりました。さっきのコンビニの話でいえば、キャンペーンの情報などは僕の意識には届かないものなので、特に欲しいとも思わない。認識しないものは欲しがらない。だから最初の頃、携帯を持つまでは、心が安定していましたね。見えていた頃はテレビだの携帯だのずっと頭の中に情報を流していたわけですが、それが途絶えたとき、情報に対する飢餓感もあったけど、落ち着いていました。」と話してくれたそうです。
 なるほど、見えるから欲しくなったりするわけで、情報誌などを見なければ欲しいという気持ちすらないわけです。これは納得です。
 また、難波さんは、自宅でよくスパゲティを食べるのでレトルトのソースをまとめ買いしているそうです。でも、そのソースはミートソースやクリームソースなどいろいろな味があるのですが、それらのパックは同じ形状をしているので、中味がわからないそうです。たしかに、私もスーパーに行きますが、この手のものは、メーカーが違えば形も違いますが、同一メーカーなら、ほとんど形状は同じです。もし、今日はミートソースを食べようと思っていたときに、クリームソースのパックを開いてしまったりすると少しガッカリします。ところが彼は、もし食べたい味が出れば当たり、そうでなければハズレというように、まさにくじ引きや運試しのようにして楽しむといいます。この考え方は、ほんとうにポジティブです。この本には、べつな視覚障害者の例で、回転寿司を選ぶのをロシアンルーレットと同じ感覚で楽しむというから驚きです。もちろん、今どきの回転寿司は頼んで握ってもらうこともできますから、べつにまわっている皿をとらなくてもいいのですが、それすら楽しもうというのですから、ある意味ゲームのようです。
 下に抜き書きしたのは、「障害と無関係な人はいない」という言葉に、なるほどと思ったところです。
 たしかに、これからはますます高齢者社会になりますし、さらに医療器具などの発達により、障害というのにも多様化してくると思います。だとすれば、今から考えておくことはとても大事だと思い、ここに掲載しました。
 そして、障害がもしあったとしても、難波さんのようにその障害をも楽しみに変える智恵があれば、すごいことだと思いました。
(2019.1.22)

書名著者発行所発行日ISBN
目の見えない人は世界をどう見ているのか(光文社新書)伊藤亜紗光文社2015年4月20日9784334038540

☆ Extract passages ☆

 障害と無関係な人はいません。誰しも必ず年をとります。年をとれば、視力が落ちる、耳が遠くなる、膝が痛む……等々、多かれ少なかれ障害を抱えた身体になるからです。日本はこれから、どの国も経験したことのないような超高齢化社会に突入します。社会に高齢者が増えるということは、障害者が増えるということでもあります。さまざまな障害を持った人が、さまざまな体を駆使してひとつの社会をつくりあげていく時代。つまり高齢化社会になるとは、身体多様化の時代を迎えるということでもあります。……
 そうなると、人と人が理解しあうために、相手の体のあり方を知ることが不可欠になってくるでしょう。異なる民族の人がコミュニケーションをとるのに、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、これからは、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくるのです。多様な身体を記述し、そこに生じる問題に寄り添う。そうした視点が求められているように思います。
(伊藤亜紗 著 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』より)




No.1608『辞書編集、三十七年』

 『井上ひさしの読書眼鏡』を読んでいて、辞書っておもしろいなと思っていたときに、図書館でこの本を見つけました。しかも出たばかりで、図書館で購入したのは12月20日の日付だったので、しおりの紐もきれいにはさまれたままでした。もちろん、すぐに借りてきて読みました。
 著者は、もともと出版社の編集志望で、なんとか尚学図書に入社し、そこで辞書編集部に配属され14年ほど仕事をしていたそうですが、その編集部だけ、そのまま小学館に吸収されたそうです。そういえば、この名前からして小学館の子会社的ですが、いちおう関連会社扱いだったそうです。
 そして、その小学館でも辞書の編集に関わり、37年間もその職にあったわけで、それらのことをこの1冊にまとめたと書いてありました。
 興味を持ったのは、この本を読むまで別な語源だと思っていたですが、たとえば、「ムショ」ということですが、刑務所を略したものと思っていました。ところが、この本には1922年にそれまでの「監獄」から「刑務所」に改称されたのに、その前から盗人仲間の隠語として「監獄」を「むしょ」と呼んでいたといいます。だとすれば、その語源はというと、1892年の『日本隠語集』の解説に、「牢。牢屋。牢が虫籠のようであるところからいうか。一説に、盗人仲間の隠語とし、『六四』の字を当てて、牢の食事は、麦と米が六対四の割合だったところからいうとも」とあり、それらのことから、「おそらくこの「虫」が「むしょ」の語源で、たまたま「けいむしょ(刑務所)」の「むしょ」と重なる部分があったため、「刑務所」語源説が生じたのであろう。」と結論づけています。
 やはり、言葉というのは、なかなか難しいものだと思いました。
 また、昨年読んだNo.1593『くらべる日本 東西南北』でも取りあげられていましたが、「スコップ」と「シャベル」の関係です。つまり、「スコップ」と「シャベル」は、西日本と東日本とでは指すものが違うそうです。それを、「『日本国語大辞典』で「スコップ」を引くと、「小型のシャベル」とある。つまり、シャベル>スコップというわけだ。だが、千葉県出身の私は、スコップ>シャベルなのである。これは決して私だけがおかしいわけではない。東日本では大型のものを「スコップ」、小型のものを「シャベル」と言うことが多いのに対して、西日本では大型のものを「シャベル」、小型のものをスコップと言うことが多いのである。」と説明しています。
 私もスコップ>シャベル派ですが、ではなぜ、そのような違いが生まれたのかという理由については、この本でもわからないと書いていました。
 下に抜き書きしたのは、著者が駆け出しの辞書編集者だったときに上司に言われたことだそうです。
 このことは、辞書編集に限らず、いろいろなところでもそうではないかと思います。なので、ここに掲載することにしました。そういえば、ここのなかに、「ゲラ」という言葉が出てきますが、普通にも「ゲラ刷り」とか使ったりします。でも、このゲラは「印刷所で組み終わった活字の版を入れておく、底の浅い木製の盆のことをかつてそう呼んでいたからである。ゲラは英語の galley に由来する。galley などとは耳慣れないことばかもしれないが、ガレー船のガレーと語源が同じなのである。ガレー船は古代から中世に地中海で用いられた多数のオールを持つ軍用船のことである。」と説明があり、さらにこのガレー船の漕ぎ手は奴隷や刑罰だったこともあり、辞書編集という仕事ももしかすると刑罰と深い関係があるかもしれないといいます。これには、井上ひさしさんが、かつて小学館を訪ねたときに辞書編集はイギリスなどでは刑罰の一種だったと話したことがその下敷きにあります。
(2019.1.19)

書名著者発行所発行日ISBN
辞書編集、三十七年神永 曉草思社2018年12月10日9784794223708

☆ Extract passages ☆

 駆け出しの辞書編集者だったとき、上司に言われて深く印象に残っていることばがある。「辞書は発刊と同時に改訂作業がスタートする」というものである。多くの辞書は改訂版を刊行することが前提となっているが、次の改訂に向けた作業は発刊と同時に始まるので気を許すなという意味だ。だが、長年辞書編集にかかわつてみると、発刊よりもさらに前、ゲラを校了にしたときから改訂作業は始まるという方が実情に近い気がする。
 本文を五十音の順に校了にしている最中にも、すでに校了してしまった前の部分に、ああすれば良かったこうすれば良かったという点が、次から次へと見つかつてしまう。
(神永 曉 著 『辞書編集、三十七年』より)




No.1607『井上ひさしの読書眼鏡』

 この本は著者の遺稿となった書評集ですが、文庫本で読みやすいこともあり、お正月のあいた時間に引っ張り出し読んだものです。だから、いつから読み出したのかははっきりしませんが、読み終わったのは1月16日でした。そうそう、昨日は小正月でした。
 この本は、読売新聞の書評欄に2001年から2004年にかけ断続的に書いたものだそうで、本の選び方も井上さんらしいものです。特に最初のほうでは、辞書や事典等が多く、それを読んでいて、辞書などに興味がわき、今現在は神永曉著『辞書編集、37年』草思社、を読んでいます。普通は辞書などはわからない言葉などがあると調べるために使いますが、それを見ているうちに他の言葉にも興味が湧き、いつの間にか辞書を読んでいたりします。だから、分からないからひくというよりは、分からないことを探し出すときもあり、何時間でも読み続けることもあります。よく、無人島にたった1冊持って行くとすれば、どのような本を持って行きますかという質問がありますが、私は辞書か事典のようなものを持って行くと思います。
 たとえば、事典についてのところで、「わたしは系統立てた勉強を、何一つ、してこなかった。そのくせ、年をとるごとに、さまざまな知識を取り込んでしまう。当然、アタマの中はつぎつぎに放り込まれる知識の切れっ端が山をなして、物置同然です。知識をもっているだけでは、単なる物知り。これらの知識をうまく組み合わせて、なにかもっとましな知恵を産み出したい。そこで、この種の事典が必要になる。まず、概説的説明で、アタマの中の知識をきちんと区分けして文脈をつくり、つぎに事典的説明で、区分けした知識の一つ一つを丁寧に磨き上げようというわけです。」と、単なる物知りではなく、そこから智恵を生み出したというわけです。
 それが下に抜き書きしたところにつながるわけです。
 下に抜き書きしたのは、世の中にはただの物知りと真の知者とがいるという話しのところです。
 たしかに、ただ知っていたからとしても、それを如何に生かすかということが大切です。よく歩く辞書などというと褒め言葉のようですが、辞書も使い方次第ですから、あるだけでいいわけではないようです。
 ここで紹介したのが、フランスの哲学者ドミニク・フォルシェー著『年表で読む哲学・思想小辞典』白水社、と藤野保編集代表『日本史事典』朝倉書店、です。
 私も読んだことはないのですが、さすが井上さんらしい選択だと思いました。
 また、山崎正和さんの『「たとえ明日世界が滅びるとしても、それでも今日、1本のリンゴの木を植える」という、賭のような楽観主義を持つことのほかにはありえないでしょう。』という言葉は、強く印象に残りました。
(2019.1.16)

書名著者発行所発行日ISBN
井上ひさしの読書眼鏡(中公文庫)井上ひさし中央公論新社2015年10月25日9784122061804

☆ Extract passages ☆

 世の中には、恐ろしくなるほどよくモノを知っている人たちがいます。途方もない情報通や歩く情報タンクとしか言いようのない人やとんでもない物知り博士がごまんといる。そこでわたしたちは彼らの話にできるだけ耳を傾けるようにするのですが、しかしたちまち飽きてしまう。なぜでしょうか?
 答えは明らか。彼らがただの物知りにすぎないのでも失望してしまうのです。自分の知っていること、学んだこと、考えたことを、揉んで叩いて鍛えて編集し直して、もう一つも二つも上の「英知」を創り出すことのできる真の知者が、思いのほか少ないのでがっかりしてしまうのです。
(井上ひさし 著 『井上ひさしの読書眼鏡』より)




No.1606『日本の美術館めぐり』

 副題が「企画展だけじゃもったいない」とあり、常設展の良さをアピールしています。1つは「常設展ならマイペースで観られる」ことです。最近の企画展は宣伝することもあり、期間が短いのでとても混雑します。常設展なら、それがないということです。2つめは「好きな作品を何度でも楽しむ」ことができるといいます。もちろん、常設ですから、期間がないのでいつでも観ることができます。また3つめは「作品以外にも見ところ満載」で、美術館そのものの建築物や庭園、さらにはカフェレストランなども併設されているところもあり、これも楽しみのひとつです。
 そして4つめは、「自分の好きな作家や作品を見つける」ことも楽しみです。企画展などは、非常に有名なものが多く、一生に何度も観られないのですが、常設展なら何度でも観ることができるので、だんだんと好きなものが絞られてきます。それもやはり、楽しいものです。
 つまり、この本は、美術館は企画展がないときでも楽しいですよ、ということを伝えようとしているわけです。
 それと、たとえば、せっかく収蔵品を観に行ったのに展示がなかったりしますが、その理由などもしっかりと説明しています。1つは、収蔵している作品がたくさんあるので、その展示スペースに限りがあることです。2つめは、企画展などのために他から借りてきたりするので、自分も貸すことがあるからです。3つめは、もちろんのことですが、それら収蔵品を後世に伝えるために年間の展示日数を制限していることです。ほとんどの美術館などでは、原則として年間2回以内の公開日数で、のべ60日以内だそうです。もちろん、特に貴重なものなどは、さらに限定されることもあります。
 だから、もし、お目当ての作品があれば、必ず展示期間などの確認は必要です。
 それと、美術館といえば、ほとんどの施設が撮影禁止でしたが、最近は撮影してもよいスペースをつくったり、作品それぞれに撮影可能のサインをしていますが、この本でも、撮影可能な作品はそのマークがあります。もちろん、フラッシュをつけたり三脚や一脚を使ったりしてはいけませんが、おそらくSNSで拡散してもらいたいという気持ちの現れのような気がします。
 それにしても、全国にはたくさんの美術館があるものだと、改めて思いました。それと、美術館などはその施設の建物も美術的価値のあるものもあるし、外の庭園なども見所になっています。また、施設内のカフェやレストラン、さらにはミュージアムショップでもそこ限定の商品もありますから、それも楽しみの1つです。そういえば、この本にも取りあげられていますが世田谷美術館に行ったときに、少し並ばざるを得なかったのですが、ここで昼食を食べましたが、とても安く美味しかったことなどを思い出しました。
 また、美術館でも、富士山麓にある「クレマチスの丘」は、美術館だけではなく、井上靖文学館や季節ごとの花が咲く庭園も含んでいるそうです。
 下に抜き書きしたのは、この「クレマチスの丘」で、いつかは私も行って見たいと思って載せました。クレマチスは種類も多いので興味もありますが、1年中クレマチスが楽しめるとは、どのようにして咲かせているのか、それにも関心があります。
(2019.1.14)

書名著者発行所発行日ISBN
日本の美術館めぐり浦島茂世G.B.2018年1月30日9784906993482

☆ Extract passages ☆

 富士山麓の丘陵地に位置するクレマチスの丘はアートと花、食をテーマにした複合文化施設です。2つのエリアに分かれた広大な敷地内に、3つの美術館と井上靖文学館、カフェやレストラン、そして季節ごとの花が咲く庭園が点在しています。
 クレマチスガーデン・エリアはその名の通り、 一年中クレマチスなどの花々が咲き誇る「クレマチスガーデン」のあるエリア。現代イタリアを代表する彫刻家、ジュリアーノ・ヴァンジの作品を展示する「ヴァンジ彫刻庭園美術館」や、写真・映像の専門美術館「IZU PHOTO MUSEUM」があります。後者は現代美術家の杉本博司が設計に携わっています。
 また、地元の食材をふんだんに取り入れた料理店が複数あり、鑑賞の合間に食事を楽しむことができます。クレマチスガーデン内にはハーブティーも楽しめるガーデナーずハウスもあり、ちょっとした休憩はこちらもおすすめです。
(浦島茂世 著 『日本の美術館めぐり』より)




No.1605『本と虫は家の邪魔』

 この本の著者は奥本大三郎と書かれていますが、著者がいろいろな方々と対談されたものをまとめたもので、副題は「奥本大三郎対談集」となっています。
 対談は意外と読みやすく、おそらく話し言葉で書かれていることもあるでしょうが、お互いの個性と個性のぶつかり合いみたいなところもあり、とても興味深い内容になっているところがいいのではないかと思います。
 この本の題名、『本と虫は家の邪魔』っていうのは、どういうことかな、と思いながら読んでいると、行動生態学の長谷川眞理子さんとの対談の中に、最近の学生はほとんど本を買わないという話しがあり、そこで奥本さんが「本なんて、親の仇みたいなものなんですね。新しい今どきのマンションは、きれいに片付いているでしょう。本はないし、虫なんかいたら大騒ぎでしょう。そういう時代になったんですよ。虫が出たらマンションの値段が下がります。本と虫とは家の邪魔(笑)。」という発言があり、おそらくここから題名が生まれてきたようです。
 でも、この前後に、本当に子どもの時に自然のなかで遊んだことのない人は、大人になっても、人間と動物も昆虫も同じ生きものだという認識がないという話しになります。だとすれば、自然を守ろうなんていくらいったとしても、実感はないわけです。もしかすると、自分たち人間だけが別で、その他の生きものはたんなる生きているだけという認識かもしれません。
 この本を読んで、昆虫とつき合うことによって、いろいろなことがわかると思いました。そういえば、昨年の9月に12年に1度咲く花を見にインドのケララ州に行きましたが、蝉の仲間にも13年セミとか17年セミなどがいます。そのことに関して霊長類学の山際寿一さんとの対談で、奥本さんが「17年または13年で成虫になり大量発生する周期ゼミも、繁殖の智恵なんでしょうね。」と問いかけると、山際さんは「そうですね。他の年数ゼミとの交雑を避けるためと言われていますね。でも不思議なのは、数というものをどうやって導き出したのか。たかが1つひとつの首の生物の生存戦略なんですが、それがこう有機的に相関があると、非常に調和のとれたある数式モデルに表せるような系ができあがるということだと思うんですよね。」と答えています。私がある方にお聞きしたときには、おそらくセミは氷河期以前から生存していたので、その氷河期と関係があるのではないかと話していました。
 ということは、未だ、そのなぜははっきりしていないようですが、植物にしても、なぜ12年に1度しか咲かないか、とても不思議です。
 世の中には、このような不思議がまだまだたくさんありそうです。それに関心を持つか持たないかでも、邪魔にしていまう可能性があります。本だって、読まない人にとっては邪魔ですから、虫だってそうです。
 下に抜き書きしたのも、インタビュアというかエッセイストというか阿川佐和子さんとの対談のなかに出てくるものです。
 このなかで、日本人の目は接写レンズだけど、西洋人の目は広角レンズだという表現があり、なるほどと思いました。しかし、それには良いことと悪いことがありますから、そのことを分かっているということが大事だと思いました。
(2019.1.12)

書名著者発行所発行日ISBN
本と虫は家の邪魔奥本大三郎青土社2018年11月15日9784791771127

☆ Extract passages ☆

阿川 日本人は何でこんなに虫が好きなんでしょうか。
奥本 いい虫がたくさんいたから自然と好きになったんだろうと思いますね。それから、日本人の目は接写レンズ的なんですよ。日本の根付けとか印籠なんかの工芸品とか、現代では半導体って非常に精巧なつくりですよね。それは手先が器用なんじゃなくて、養老孟司さん式に言えば目を通して脳が細かいものを認識するからつくれる。
阿川 ほお。
奥本 元を辿れば、子どものときにカブトムシ採りとかトンボ採りとかをして、虫と遊びながら細かく観察する目が養われているからできるんだと思うんです。西洋人はトンボが飛んでても全然見てないですもん。
(奥本大三郎 著 『本と虫は家の邪魔』より)




No.1604『科学以前の心』

 この本は河出文庫のオリジナル編集だそうですが、著者の中谷宇吉郎は1900年の生まれで、1962年になくなっています。この本の最初に取りあげられている「雪の話」は、昭和10年2月に発表されていますから、戦前のことです。今でも、あまり色褪せないということは、おそらくそれを一番感じている編者の福岡伸一さんではないかと思います。
 彼は、現在、上野の森美術館でフェルメール展が開催されていますが、その作品に強く魅せられて、自らもフェルメールの美術展を企画したこともある生物学者です。その生物学者としての福岡伸一さんが編集をされているのですから、読んでみようと思ったのです。
 この本は、河出文庫のオリジナル編集だそうで、最後に編集された福岡伸一「解説 科学という詩」と、次女の中谷芙二子「父の言葉」の2編が載っています。それ以外はすべて中谷宇吉郎氏の文章を集めたもので、25編あります。何れもおもしろく、今の時代でも十二分に楽しめます。
 たとえば、人間の神経系統とトランジスター、あるいはその前の真空管の話しなど、今でも考え方は同じです。それは「人間の神経系統にも、おなじ作用があって、指さきを針つつくと、頭脳が痛いと感ずる。これは神経に与えられた刺戦が、脳までつたわるからであるが、この場合、刺戦は電気的刺戟となって、神経をつたわるのである。刺戦が与えられると、人間の身体のなかにごく微弱な電気が生じて、この電気的刺戦が、脳までつたわってゆく。ところが神経細胞にも、トランジスターと同じような作用があることがわかっている。すなわち、刺戦がある一定の強さに達するまでは、これがつたわらず、 一定強度を越すと、はじめてそれが、つぎの導体につたわるのである。この点、作用だけを見るれば、トランジスターと全くおなじである。」と書いてあり、今のパソコンの仕組みとほとんど変わらないようです。
 これを読むと、仕組みがどうのこうのというよりは、その仕組みの原理がしっかりとわかれば、いろいろな方面に応用が利くということです。ところが、最近は細かいところにこだわりすぎて、なかなか大枠が見えてこないような気がします。そういう意味では、科学も原理原則を理解するということがとても大事ではないかと思います。
 でも、その科学にも、科学的な見方というか、ある種の多面的な見方が必要だとこの本を読んで思いました。たとえば、「室鰺」のなかに出てくる文章で、「ここへきて新しい干物を喰べてみて、初めて干物というものは美味いものだと分かった。今まで魚を干すということは貯蔵の一つの方法だと簡単に考えていたのであるが、本当の新しい干物というのは一つの料理法だということに初めて気が付いた。朝、水から揚ったばかりの室鯵を魚屋が持ってくる時は、青銀色の肌にエメラルドの緑の斑点がまだ燦爛と輝いている。それをすぐ開いてもらって、自分の家で干して、夕食の膳に供えるとちょうど良いくらいの喰べ頃になるのである。初めは蠅の上まることを気にしたのであるが、その心配は全くいらぬことがすぐ分かった。魚もこれくらい新鮮なものになると、全く臭いがないと見えて、外にさらして置いてもほとんど蠅が寄り付かないのであった。」と書いていて、この見方がやはり科学者だと感じました。そして、自分もこのように見たり感じたりしたいと思いました。
 下に抜き書きしたのも、「鼠の湯治」のなかに出てくるもので、北大のY教授の研究室で実際に行われたそうです。
 そういえば、私の子ども時代には、旅館でも旅籠と湯治と分かれていて、温泉に入ることを目的にしていた人たちは、1週間前後もいるので、ほとんどが湯治客でした。人間も温泉に入ると気持ちいいわけですから、鼠たちもそうだというのは納得できます。
(2019.1.9)

書名著者発行所発行日ISBN
科学以前の心(河出文庫)中谷宇吉郎 著、福岡伸一 編河出書房新社2013年4月20日9784309412122

☆ Extract passages ☆

 鼠は温泉が好きだということが真先に分かった。金網の籠に入れたまま、温泉に入れてやるのであるが、温泉の温度がちょうど良い加減だと、鼠達はひどくのんびりした顔付で、金網につかまって首だけ出して静かにしていたととう話であった。中にはそのまま居眠りなんかして、手を離して湯に潜り落ちて、慌てて馳け上るような奴もいたそうである。
 傷の治り方も大変早かったということである。もっとも温泉の温度が高過ぎると、鼠が苦しがり、そんな時には治り方も悪かった。それである組は温度をいろいろ変えた湯に浸し、他の組は入湯の時間と度数とをいろいろ変えてみるという風に、たくさんの実験が繰り返された。そして最も有効な入浴の方法および条件が見出されたわけである。
(中谷宇吉郎 著、福岡伸一 編 『科学以前の心』より)




No.1603『愛×数学×短歌』

 おもしろい短歌の本だなあ、というのが第一印象です。
 でも、数学に関係する言葉が多く、そういえば、だいぶ前に、虚数「i(アイ)」というのがあることを知り、数学っておもしろいと思ったことがあります。つまり、この虚数「i(アイ)」は2乗すると-1になる数字です。ちょっとわかりにくいのですが、この虚数iを導入することで方程式や複素解析などの分野が発展していったといいます。ある意味、「0」の発見のようなもので、これにより数の概念が広がっていったそうです。
 そこで、短歌ですが、「アイという見えないものを認めると世界は少し美しくなった」(水宮うみ)、というのがありました。なるほど、この虚数iという存在しないような数を受け入れることにより、いろいろなところに広がりが生まれたということです。それを美しいと表現したところが、短歌です。
 つまり、この本は、愛と数学を結びつけて、とらわれのない短歌をつくってきたのをここに掲載したようです。
 しかも、若者の恋愛感情を織り込んでいるので、なんとなく自分の若いときの感情を思い出したりして、楽しく読むことができました。でも、この高校生の登場人物に特定のモデルはいないそうです。ただ、数学が好きな男の子と短歌の好きな女の子が出会って仲良くなったら、このような数学短歌ができるのではないか、と考えたそうです。
 そして、ここに掲載された短歌は、2016年からTwitter上で「愛と数学の短歌コンテスト」を実施し、これまでに2000首以上の数学短歌が寄せられ、そこからこの本に収録されたということです。
 たとえば、「素数とは孤独な数字ではなくて5つ並べて和歌という愛」(安西大樹)は、考えてみれば、5、7,5,7,7,すべてが素数ですし、これらを足しても31ですから、素数です。つまり、素数でも短歌の世界では、すべてつながっているということになります。
 また、「13の次の素数は17と19の頃の恋のあとさき」(四ッ谷龍)なども、素数を扱っていますが、素数は小さい順に、2、3,5,7,11、13、17、19、23と続いていきます。この素数ですが、まだまだわからないことがあるそうで、数学者にとっては非常に魅力的な研究材料だそうです。
 下に抜き書きしたのも、この本に載っていた数学短歌です。
 このままでは、あまり数学に関心のない方には何を意味しているのかわからないかもしれませんが、ゼロはマイナスではないもっとも小さな数字で、足しても引いてもその値には変化はありません。
 しかし、ゼロを掛けると、すべての数字はゼロになってしまいます。ゼロになれば、恋愛などは終わってしまいます。ちょっと空しいゼロですが、それでもマイナスよりはいいかもしれません。
(2019.1.6)

書名著者発行所発行日ISBN
愛×数学×短歌横山明日希 編著河出書房新社2018年8月30日9784309027227

☆ Extract passages ☆

恋愛は掛け算だよねどちらかの想いがゼロになったら終わり (汐月夜空)
(横山明日希 編著 『愛×数学×短歌』より)




No.1602『花と子どもの画家 ちひろ』

 昨年の12月、大人の休日倶楽部パスで、長野市から松本市へと行き、お昼頃に着いたので、ホテルに荷物だけを預かってもらい、松本城などを見に出かけました。その帰り道、信濃毎日メディアガーデンでいわさきちひろの絵画展をしているのを見つけました。でも、午後2時のチェックインなので、開運堂本店でお菓子を買い、ホテルに落ち着きました。そして湯を沸かし、買ってきたばかりの菓子を食べ、お抹茶を飲みました。
 すると、なぜかその絵画展のことが気にかかり、行って見ることにしました。正式には、「いわさきちひろ生誕100年記念 ピエゾグラフ展『ちひろからの贈りもの』」で、開催は12月1日から28日まででした。すぐにチケット600円で入場し、ゆっくりと見てまわりました。年譜には、1918年12月15日に生まれたとあり、昨年でちょうど生誕100年ということでした。おそらく、この本もそれに合わせて、企画されたものだと思います。
 この本は、息子さんの松本猛さんの文章で、母との思い出が随所に書かれていて、絵とともにその在りし日が忍ばれました。近くにいたからこそわかることもあり、たとえば、嵐の日に外に出たいというと、いっしょに出てくれたことなど、「今になって思えば、嵐の中に息子を一人だけで出すわけにはいかなかったからに違いないが、たぶん母も楽しんでいたのではないかと想像する。子どもの感覚を持ち続けていた人だったということもあるが、子どもが幸せでいることを何よりも喜びに感じる人だった。だからこそ、子どもが不幸になることには耐えられなかった。平和のための活動を熱心にやったのは、戦争が何の罪もない子どもの命を奪うからだ。命が助かったとしても、家族や友だちを失った子どもの悲しみはかぎりない。『戦火のなかの子どもたち』は子どもの心を描いた絵本でもあった。いわさきちひろはぼくをモデルにたくさんの子どもを描いた。自分の息子の姿を借りたかもしれないけれど、そこには世界中の子どもの喜びや悲しみが詰まっている。」と書いています。
 そういえば、今回の展示会の中央部分に、遊び道具にちひろの描いた絵の展示もありました。なぜか、そこだけは写真撮影が可能だったので、何枚かスマホで撮りました。木のトンネルがあったり、板で囲われた空間があったり、その木の部分に絵が描かれていたのです。それを撮っていると、いかにもそこで子どもたちが遊んでいるかのようでした。
 そして見終わったあとに、何枚かの絵ハガキを買ってきました。今、それを見ながらこれを書いているのですが、同じ絵はありませんでした。今現在、残っている作品は9,500点を越えるそうですが、そうであれば、やはり同じ絵はなさそうです。
 下に抜き書きしたのは、子どもを描き続けた画家としての、子どもに対する見方です。私も子どもの手首のぽっちゃりしたくびれなどは好きで、孫のその部分だけの写真を撮ったことがあります。
 そして、この次のページに、この本の締めくくりとして、「生誕100年、没後44年という時間のなかで、ちひろの絵は歴史になりつつある。歴史の中に生きるということは、絵自 体の美術的価値もさることながら、画家が絵に込めた思想や感性が多くの人々の共感を呼び、社会に定着するということにほかならない。ちひろが描き続けた子どもの姿は「命」の 象徴だった。子どもへの愛と平和を願う心が絵のなかに生き続けている。」と書いていますが、たまたま立ち寄った松本市で私が出会えたことも、なんか不思議な縁のような気がしました。
(2019.1.3)

書名著者発行所発行日ISBN
花と子どもの画家 ちひろ松本 猛・文、いわさきちひろ・絵新日本出版社2018年10月15日9784406062800

☆ Extract passages ☆

「小さい子どもがきゅっとさわるでしょ、あの握力の強さはとてもうれしいですね。あんなぽちゃぽちゃの手からあの強さが出てくるんですから。そういう動きは、ただ観察してス ヶッチしていてもかけない」。
 この言葉は、ちひろが視覚だけでなく触覚も合めて子どもを観察していたことを示している。ちひろは、デツサンが上手い人はたくさんいるけれど、自分のような子どもを描く人 は、あまりいないと語っていた。子育てをしながら絵を描き続けた画家だからこそ言えたことだろう。
(松本 猛・文、いわさきちひろ・絵 『花と子どもの画家 ちひろ』より)




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