
☆ 本のたび 2023 ☆
学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。
No.2192『渡り鳥たちが語る科学夜話』
副題が少し長くて、「不在の月とブラックホール、魔物の心臓から最初の時までの物語」で、最初にこの本を手に取ったときには、これは何をいいたいのか、と思いました。でも、読み終わった今は、なるほどと思います。今まで、何気なくブラックホールにわかるようなわからないような現象と思っていましたが、この本を読むと、はっきりと理解できます。もちろん、理解できるとはいうものの、まだ、なぜという疑問は残っています。
「はじめに」に、「実用知識の獲得は別にして、書物の愉しみは未知の世界を旅することにある。読書とは自らの心の凍土をうち砕いて、奥底に眠る異世界を探究し魂に自由を取り戻す旅に他ならない。」と書いてあり、たしかに知ることも大切ですが、それ以上にワクワクしながら読むということもあると思いました。
そういわれれば、この本を読みながら、知らなかったことを理解できるようになり、世の中にはこんな知的冒険をしてきた方がいるのだということを知りました。
夜話は全部で20話あり、その第20夜が「インドの鶴の神秘」で、おそらくこの本の題名ではないかと思います。実はインドやネパールに何度も行ってますが、このヒマラヤを越えるアネハヅルの話しは何度か聞いたことがあります。でも、ここに出てくる話ほど詳しくはありませんでした。この奇跡の渡り鳥の生態がつまびらかになったのは20世紀になってからで、しかも、ここにはインド北西部のラジャスタン州、タール砂漠の北端にあるキーチャン村のラタンラル・マルーという青年が餌を与えたことからの話しが載っていました。それによると、「9月半ばのある日、ラタンラル青年に新しい客人が訪れた。それは8羽のアネハヅルの家族だった。……それからアネハヅルの一家は一日も欠かさず餌を食べにきた。冬がすぎ春もたけなわ3月のある日、ツルの姿は突然消えた。寂しい半年がすぎた9月半ば、再び現れたアネハヅルは52羽に増えていた。そして次の年の9月、現れたのは193羽のアネハヅルであった。ツルの世界に何らかの社会組織があって、そこで情報交換がおこなわれているのだろうか。数年が経ちアネハゾルの数が500羽に近づくと、色々と問題があらわになってきた。ツルを食べようと集まった野犬から守るため、叔父に頼んで囲いのあるテラスの餌場を作ってもらった。餌の代金も馬鹿にならなくなり、村長に頼んで村からの予算支援を仰ぐことになった。12年してアネハヅルの数が5000を超え、村の予算だけでは賄いきれなくなったとき、英国仕立ての服に身を包んだ顎髭の紳士がマルー家を訪れた。ジャイナ国際商事協会の代表と名乗った紳士は、キーチャン村に資金援助を申し出た。ジャイナ教徒の有力な職業の一つが貿易商である。インドを世界を、渡り鳥の如く飛び回る貿易商人たちにとって、ヒマラヤを越えて飛来するアネハヅルの保護活動以上に、ふさわしい資金援助先があろうはずもなかったのである。キーチャン村で冬をすごすアネハヅルの数は、今では15000羽を超えている。」と書いてあり、アネハヅルと人との交流をしのべるので、ちょっと長くなりましたが、引用させてもらいました。
そういえば、このアネハヅルのヒマラヤ越えは7千万年前に大きな島であったインドが、プレート移動によってアジア大陸にぶつかり、ヒマラヤが隆起したときも続いていたそうで、だから知らず知らずの長い年月にも続いてきたようです。私もネパールでその造山運動による巨大な岩のゆがみを見たことがあり、山中からアンモナイトの化石や、骨董屋さんでヒマラヤの奥地で見つかった赤珊瑚で作った数珠を求めたことがあります。普通に考えていてはなかなか想像もできないことですが、その造山運動の現場に立つと、地球のものすごい動きを感じます。
下に抜き書きしたのは、「第3夜 土星の環から霧雨が降る」に書いてあったものです。
このことは、たしか2021年3月に伝国の杜で企画した「138億光年宇宙の旅」の写真の解説にもあったと思うのですが、そのときは写真の迫力に感動して、これほどすっきりと理解できなかったようです。そういう意味では、この本は、数々の科学の不思議をロマンを込めて明快にしてくれるので、とても楽しめました。
もし、機会があればぜひ読んでみてください。
(2023.6.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
渡り鳥たちが語る科学夜話 | 全 卓樹 | 朝日出版社 | 2023年2月10日 | 9784255013244 |
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☆ Extract passages ☆
土星の環の特徴はその大きさと明るさである。「A環」と呼ばれる明るい環の外枠の直径は27万q、月の直径の80倍ほどである。仮に月に代えてそこに土星を置いたなら、夜は魔術的な白夜のような明るさだろう。この荘厳な仮想の月がのぼるとき、環の外周は地平線の両端まで180度の4分の1近くを覆ってしまう。想像するだけで戦慄を覚える光景ではないか。昼空ではその環はさながら銀色の虹のようであろう。
土星の環の明るさは、それが光をよく反射する大小の水の塊でできていることに由来する。大きさに比した環の薄さは驚異的で、わずか1qほどしかない。氷塊は千分の1oから10mほどの大きさで、これらの塊はお互いぶつかり合い、大きな塊を作っては壊れながら、全体として土星のまわりを周回している。
(全 卓樹 著『渡り鳥たちが語る科学夜話』より)
No.2191『伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち』
昨年の夏の甲子園で優勝した仙台育英学園高等学校硬式野球部、須江航監督の優勝インタビューで、「青春って、すごく密なので」という言葉は、今も耳のどこかに残っています。
そして、図書館に行くと、その須江航監督が書いた『伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち』という本があったので、即借りてきて読みました。
この言葉の真意は、「ありがたいことに優勝監督インタビューでの「青春って、すごく密なので」という言葉が注日を浴びましたが、新型コロナウイルスのことを聞かれるとは正直思っていなかったので、常日頃から抱えていた思いがつい口に出てしまった、というのが本当のところです。とにかく翻弄され続けました。センバツが中止になり、部活動もできなくなり、夏の甲子園もなくなった。あれもダメ、これもダメと言われ、規制、何度も発出される緊急事態宣言……。それらは収まりがつけば自由が返つてくる交換条件だろうと思っていたら、まったく果たされなかったのです。本当に大人の対応に説得力がなく疑間が残りました。」というところからの発言だったようです。
たしかに、ちょっと過剰反応ではないかと思うこともあり、孫たちも学校が休みなので、毎日、時間を決めて自宅で勉強をしたり、今まで私が収集したシャクナゲを小町山自然遊歩道に植えることにし、毎日5本ということで始めました。私が穴を掘り、孫たちがシャクナゲの苗や水を運んだり、いっしょに植えたりします。孫たちも植物を植えることに慣れ、5本以上植えることもあり、移植適期の大型連休が終わる頃まで88本も植栽できました。
そのシャクナゲたちを見ると、あのコロナ禍のなかで植えたことを思い出し、私自身も『小町山自然遊歩道の四季 2020年 不要不急の外叔自粛の1年』という冊子を出し、このようなことがなければじっくりと取り組めなかったと思います。
仙台育英の野球部の生徒たちも、「大会の中止を前提にしつつもモチベーションを保ち続ける努力を重ねていました」ということです。
やはり咲きが見えないということは不安ですし、目標を失いがちです。それでも、その範囲内で何かをするということが大切だと思います。
この本のなかで、「指導者の役割というのは、平たくいえば、モチベーションを上げることと、あとは思考の交通整理だと思うのです。選手はどうしても思考が迷子になりがちです。「うまくなるためにはどうしたらいいんだろう」という向上心が先に立ってしまい、いろいろなひとの話を取り入れようとするあまり、あちこちとっちらかって、いったいなにをやっているんだという状態になります。それだけ情報が多すぎるのです。」と書いてあり、たしかにモチベーションを上げることも大切ですが、今の情報過多の時代にはそれらを整理することも大切なことだと思いました。
そして重要なことは、その情報が本当に正しいかどうかということも確認することが必要です。たとえば、イチローさんがあるインタビューで「お腹が出てる選手は野球選手じゃない」って言ったそうですが、2021年11月29日に国学院久我山で選手指導を行ったときの質問で、実はイチロー自身が「僕はお腹が出たら引退する」って言っただけで、その質問をした高校球児に対しては、「いやいや、良いんだよ。(体形は)特徴なんだから、それぞれの特徴をいかして。」と答えたそうです。
さらにすごいのは、この質問をした球児が、その後の試合で走者一掃の逆転サヨナラタイムリーを放ったそうですから、いかに指導者が大切かがよくわかります。
下に抜き書きしたのは、「CHAPTER 3 伝える」のなかに出てくる言葉です。
たしかに、よく失敗から学ぶとはいいますが、失敗そのものを肯定するような考え方をする人は少ないと思います。さらに、「実をいうと、とにかく生徒たちに失敗をしてほしいと思っています」とまでいいます。
だからこそ、失敗をこのように肯定できるのだと私は思いました。
(2023.6.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち | 須江 航 | 集英社 | 2023年3月8日 | 9784087817348 |
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☆ Extract passages ☆
失敗があるということはなにかチャレンジをしているということです。やるべきことを積み上げていった先の挑戦は、たとえうまくいかなかったとしても、失敗の理由を検証することで学ぶことができます。そこには伸び代しかありません。人生はずっとトライ・アンド・エラーの繰り返しです。現状維持ははっきり言って衰退だと思います。
(須江 航 著『伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち』より)
No.2190『新種発見物語』
副題が「足元から深海まで11人の研究者が行く!」で、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」でも新種発見の話しがよく出てきます。牧野富太郎の時代なら新種発見もそんなに珍しくはなかったでしょうが、今の時代はある程度命名されてしまっているので大変ではないかと思ったのです。
それがこの本を読むきっかけでした。ところが、意外とそうではなく、福田宏さんの話しでは、「思えば半世紀前、私は目の前にいる種は何という名前なのか適切な答えを知りたい一心で、標本づくりに腐心し、すべての個体を完璧に同定したいと願っていました。しかし、今なおそのなかから未記載種が続々と現れる始末です。つまり、結局のところ私は、小1の夏休みの宿題を今も完成できずに続けているのです。しかも、今後残りの人生を費やしても完成できる可能性はなさそうで、むしろそのことこそが、果てしない生物多様性の豊かさを、改めて私に生々しく感じさせてくれるのです。」と書いています。ということは、小1の夏休みからずっとこのカタツムリの名前は何だろうかと思い続けてきたということです。
ある意味、私はとても幸せな生き方をしているとうらやましくなります。普通は、小1の夏休みの宿題のことなどはまったく忘れてしまい、つい、今の現実の生活に追われてしまいますから、それにつれて知りたいという好奇心もだんだんと薄らいできます。
また、植物の世界でも同じで、田金秀一郎さんの話しでは、「じつは世界では毎年約2000種、うち東南アジアでは350〜450種の植物が新種として記載され続けており、この傾向はまだまだしばらく続きそうです。私が死ぬまでにあとどれだけの種を記載し、その植物が現実世界に存在していることをみなさんに紹介できるか――次々に新種が発表される一方で、東南アジアでは急速に多くの植物が生育する森林が劣化・消失していることを考えると、時間との戦いでもあります。」と言いながらも、それを続けていることはすごいことです。
実際に東南アジアに行ってみると、都市部はもちろん、地方都市やその周辺部でも開発が進み、急速に森林や原野がなくなっています。私にもこのような経験があり、中国雲南省の大中甸に行った時に、中国科学院の先生たちがまとめた『雲南のシャクナゲ』の裏表紙に載っていたラセモーサム(R.racemosum)の大群落を見て、大興奮したことがあります。おそらく何百万株あるかどうかというもので、圧倒されました。ところが、その後に行ったときにはここが飛行場になるということでしたが、それから少し経ってから行くと、やはり「デチェン・シャングリラ空港」ができていて、あのラセモーサムの大群落はまったくなくなっていました。
たしかに、ここは真っ平らですし、町から5qほどしか離れていないので、空港を建設するには最適な場所だったかもしれません。その空港建設の流れを調べてみると、1997年に建設が始まったようですが、私が行ったのは1997年5月でしたから、その後すぐだったようです。そして1999年4月30日に正式に開港し、その後も拡張工事が進み、2009年6月16日には新空港ターミナルビルも完成し、使用開始されたようです。
そのわきの道を何度か通りましたが、その空港は一度も使ったことがなく、いつも残念な思いでなるべく見ないようにして通り過ぎていました。たしかに仕方がないことですが、これが世界の現実です。だから、植物分類学者には、日本はもとより世界的にみても「絶減」しそうになっているたくさんの植物の記載を進めてもらいたいと願っています。
下に抜き書きしたのは、田金秀一郎さんが書いている第7章「新種、また新種。いつになったら終わるのか?」のなかに出てきます。
私も東南アジアの一部、ミャンマーやインドネシア、カリマンタンなどの植物を見て歩いたことがありますが、本当に植物の多様性が高いと思います。そういえば、中国雲南省で1996年に開催された「東南アジアの植物の多様性と有用性に関する国際会議」に参加したことがありますが、それ以降、雲南省や四川省などの奥地を歩いて、それを実感したこともあります。
植物は分類するためだけでなく、歩いているといろいろな発見があります。そういえば、カリマンタンでマングローブを見るために船に乗っていると、地元のテレビ局が来て、このマングローブのことを聞かれたことがあります。そのときは話しをしなかったのですが、実はこれを伐採し炭にして日本に輸出しているそうです。また、熱帯林を伐採してアブラヤシをたくさん栽培し、日本にも輸出し、日本ではそれを植物由来の油脂として多用されています。
ちょっと話しがそれてしまいましたが、まさに世界はつながっているということを感じました。
(2023.6.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
新種発見物語(岩波ジュニア新書) | 島野智之・脇 司 編著 | 岩波書店 | 2023年3月17日 | 9784005009664 |
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☆ Extract passages ☆
東南アジアは世界でも最も植物の多様性が高い地域のひとつとして有名ですが、こうしたさまざまな環境がモザイク状に存在し、それに適したさまざまな植物が存在していることが、多様性の大きな要因だと私は考えています。熱帯のジャングルとして有名な熱帯雨林はもちろんのこと、水に頻繁に浸かるために落ち葉などの有機物が分解せずに堆積している泥炭湿地林、乾季と雨季が明瞭な乾燥季節林、乾燥が強く土壌の浅いところに発達するサバンナや草原、そして河□付近には大規模なマングローブ林も見られます。
(島野智之・脇 司 編著『新種発見物語』より)
No.2189『道をひらく言葉』
「はじめに」のところに、「さまざまな世界や生き方があることを知っていただき、人生の岐路に立ち、生き方を迷っている方、第二の人生を歩んでいる方など、それぞれにとって生きるヒントや明日への活力になれば幸いです。そのような思いを『道をひらく言葉 〜昭和・平成を生き抜いた22人』という書名に託しました。」と書いてあり、これを読んで、この本を読んでみたいと思いました。
今の時代は、まさに混沌としています。世界のどこかで戦争があり、一般市民が虐殺され、住んでいるところが破壊されています。また、政治も経済も、世界のちょっとした情報で変化し、先々のことがほとんどわかりません。
このような時だからこそ、もう一度会っていろいろなことを聞いてみたいと思うのは、当然の成り行きです。22人、みなそれぞれの時代を代表する方々ですが、最初は瀬戸内寂聴さんで、「今を切に生きてください」という言葉を残しました。
私も出家しているのでわかるのですが、一般の方々は出家すればいろいろな戒律があり大変だと思いがちです。ところが、とても自由になれます。瀬戸内師は、「それまでも人様から見たら勝手なことして、ある意味で自由ですわね。だから自由に生きてきたつもりでしたけど、出家して、あっ、こんな、もっともっと無限の自由ってものがね、あるんだなってことを与えていただきました」といいます。さらに、「いろいろな戒律があって自由でないのではと思われるのですけれど、仏様というのは、そういうことも全部見通していらっしゃるので、もう何をしたって、仏様に見られる。仏は私を許してくれている。そういう感じなんです。だからとても自由です」と答えていました。
そういえば、ある仏教学者は、戒律は破るためにある、と極端な言葉を残していますが、私はある意味、大きな仏さまの手のひらの上で遊ばせてもらっていると思っています。
この本に出てくる人たちは、それぞれに読んでいてなるほどと思いますが、そういう気持ちになるまでは長い時間というか、経験が必要だったのではないかと思います。
そういう意味では、時間をかけて、ゆっくりと味わいながら読んでみたいと思い、気がついたらいつもの読書時間よりだいぶかかってしまいました。
下に抜き書きしたのは、酒井雄哉(1926〜2013)の言葉で、39歳で得度し、叡山学院を卒業し、それから住職になるための「3年籠山行」に入るのですが、その行のときの体験だそうです。そして47歳で「3年籠山行」を終えて、それから千日回峰行に挑む決意し、しかもそれを2回達成しました。
この経験から、「人間というのは、どこで死んでもかまわないという気持ちにならなきゃいけない」といいます。
(2023.5.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
道をひらく言葉(NHK出版新書) | NHK「あの人に会いたい」制作班 | NHK出版 | 2023年2月10日 | 9784140886953 |
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☆ Extract passages ☆
ある日の明け方、酒井は不思議な体験をする。
「阿弥陀堂のところに来て、琵琶湖の方を見たら、白夜のような、なんともいえない緑というか水色の光になっていた。『いゃあ、きれいだな』と思って阿弥陀の方を見たら、こっちは(朝日で)赤くなっている。こっち(琵琶湖のほう)は青くなってて。
『なんだろうな』と思っているうちに、お薬師さん(延暦寺根本中堂の本尊、薬師如来)の前に月光菩薩と日光菩薩があるでしょ。だから太陽と月でもって『仏様ってあるんだぜ』ということを教えてくれたんだなあ、と思いながら自分なりに『ははあ、太陽と月に照らされる真ん中にいるのは自分じゃないか』と。自分の心の中に仏様があるということを仏様が教えてくれたんじやないかと思って」
(NHK「あの人に会いたい」制作班 著『道をひらく言葉』より)
No.2188『旅芸人のいた風景』
この本も、5月15日からの北陸の旅に持ち出した1冊です。
やはり、旅先で読むのは、なるべく旅つながりのある文庫本で、副題の「遍歴・流浪・渡世」という文字にもそのつながりを感じました。
もともと旅芸人は、山伏とのつながりもあり、祭文語りを調べたときに、その複雑な流れに触れたことがあります。やはり、庶民とのつながりは、わかりやすさとおもしろさがなければ聞いてはもらえず、大道芸や門付芸、見世物芸なども生まれたようです。
3月下旬に四国の高知から高松に行き、そこでレンタカーを借りて金比羅さまにも行きましたが、ここには有名な1835(天保6)年に建てられた芝居小屋があり、現存する日本最古のものだそうです。現在の「金丸座」という名称は明治33年につけられたもので、昭和45年に国の重要文化財に指定され、この時に名称が旧金毘羅大芝居となったようです。
この旧金毘羅大芝居「金丸座」で行われる歌舞伎講演は、昭和60年から開催されるようになり、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」と呼ばれ、全国から歌舞伎ファンが訪れるそうで、四国路に春を告げる風物詩となっています。しかも、舞台装置はいまでも全て人力で行うので、それも江戸時代の雰囲気そのままのようです。
また、2014年9月日には、たまたま秋田県小坂にある康楽館の近くを通ったので、中に入り向う桟敷や楽屋、人出による回り舞台「奈落」などを見学し、さすがここは鉱山で活気があったのだろうと思いました。
庶民の娯楽は、時代により変遷しますが、私の子ども時代には、上杉まつりになるとサーカスが来て、さらにいろいろな見世物小屋が並びました。全部みることはできないので、そこから選ぶのですが、ほとんどが呼び込みの話しよりはおもしろくなく、がっかりして出てきたことが多かったと思います。それでも、おまつりといえばそれらがないと盛り上がらず、最近の上杉まつりは植木市さえもこじんまりとし、もちろん見世物小屋などはまったく来ません。屋台も少しで、しかもコロナ禍のときにはそれすらも出ませんでしたから、おまつりの雰囲気はまったくありませんでした。
そういえば、海老蔵さん親子が昨年の10月に老舗の薬舗「ういろう社」を訪問したそうで、今もまだ「ういろう」を作って売っていることを知り、びっくりしました。これは、翌11月に「十三代目 市川團十郎 白猿」と「八代目 市川新之助」をそれぞれ襲名することになっていて、勸玄くんが“新之助”としての初舞台で「外郎売」を上演することになっているからだそうです。
つまり、外郎売と成田屋のご縁は約300年ほど続いているということになります。もともとこの「ういろう」は「藤八」といい、万病に効くとされる生薬だそうで、行商人が5文で売り歩きながら、「藤八、五文、奇妙」という売り声が有名だったそうです。ただ、この薬は苦い丸薬だったので、その口直しとして売られたのがお菓子の「外郎」です。
これは米の粉に黒砂糖で味付けした蒸し菓子で、今ではこちらの方が有名になり、名古屋や山口などの名産品にもなっています。でも、この本を読むまでは、「ういろう」はお菓子とばかり思っていたのですから、昔のことを知るというのはとても大切だと思います。
下に抜き書きしたのは、第4章「香具師は縁日の花形だった」の「遊芸民は来訪神」のなかに書いてあったものです。
たしかに、彼らは一般民衆と深く結び付き、露店で賑わう寺社の縁日や夜店の花形だったようです。しかも、裏街道を歩き世間の片隅で生きているので、間違っても国家が編纂する正史に登場することもありません。しかし、そんな彼らを来訪神と考えるとは、おもしろいと思いました。しかも、常日頃は賤民として扱われていたのが、初春のハレの日だけはその身分から解放され、神々の代理人として門付けをすることができたというのにも興味を持ちました。
やはり文化史には、オモテとウラがあり、その両方を考えなければならないと、この本を読んで強く思いました。
(2023.5.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅芸人のいた風景(河出文庫) | 沖浦和光 | 河出書房新社 | 2016年8月20日 | 9784309414720 |
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☆ Extract passages ☆
「乞食人(ほかいびと)」とみなされた遊芸民は、実は異界から「訪れる神」であると説いたのは折口信夫であった。物乞いと同類とみられていた漂泊の遊芸民に神の影を見るという、
その逆説的な「まれびと」論が発表されたのは、私が生まれる3年前だった。折口もこの界隈の野巫医者の家で生まれ育って、この地域を通って中学校に通っていたので、毎日のように「ほかいびと」を目撃していたのだ。
(沖浦和光 著『旅芸人のいた風景』より)
No.2187『わが植物愛の記』
NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が始まってから、牧野富太郎に関する本を読みたくなりました。というのも、ドラマで描かれたような性格が、本当なのかどうかを知りたいと思いました。
しかし、ドラマでは誇張された部分もありますが、あのような性格で一生を過ごしたと知り、奥さんは大変だったろうなと思いながらも、あの時代だからこそできたのではないかと考えました。たしかに、植物学にしても、ドラマでも表現されていましたが、たかが草や木ではないかという思いの人たちがほとんどですから、それを学問として研究するというのは困難なことです。
この本は、自身のベストエッセイ集ともいうべきもので、たくさんの著作のなかから文章を選りすぐりつくったオリジナル文庫と裏表紙に書いてありました。
だから、あちこちで読んだものもありますが、こうして最初から読んでみると、また、新たな思いが感じられます。
たとえば、どこかで読んで、未曾有の大震災であった東京大震災を研究のためにもう一度遭ってみたいというのは、いかがなものかと思いました。その文章は、「私は、大正12年9月1日の大震災のときも、これに驚くというよりは、非常な興味を感じた。私は大地の揺れ動くのを心ゆくまで味わっていた。当時、私は猿又一つで、標品の整理をしていたが、坐りながら、地震の揺れ具合を観察していた。そのうち、隣家の石垣が崩れ出したのを見て、家が潰れてはたいへんと思って、庭にでて、木に掴まっていた。妻や娘たちは、家の中に居て出てこなかった。家は、幸いにして多少瓦が落ちた程度だった。余震が恐ろしいといって、みな庭にむしろを敷いて夜を明かしたが、私だけは家の中に入って、余震の揺れるのを楽しんでいた。後に、この大地震は震幅が4寸もあったと聴き、もっと詳しく観察しておくべきだったと残念に思った。もう一度ああいう大地震に生きているうち遇ってみたいものだと思っている。」と書いています。
たしかに、学者のなかには、戦争をしていることすら知らなかったという人もいますから、このような文章を残すこともあると思いますが、やはりちょっと違和感を感じます。
私はシャクナゲ類が好きですが、それに関する話しも載っていて、「しゃくなん科(石南科)の植物は総体興味あるものが多いゆえ、園芸植物としてもはなはだ重要なる地位を占めている。ことにその中でもしゃくなんの類、つつじの類またはエリカの類(この類は日本に産せず)などにいたってはその主位を占めておってすべての園芸家をして常に嘆賞の声を放たしむるものである。かのヒマラヤ山を装飾せるしゃくなんの品種などは、だれもその雄大なるに驚かぬ人はあるまい。」と書いてます。
現在の分類では、「しゃくなん科」ではなく、「ツツジ科」としてまとめられていますが、おそらく、牧野博士はヒマラヤに行ったことはないので、イギリスのジョセフ・ダルトン・フッカーの本、『Rhododendrons of Sikkim Himalaya』を見ていたのてはないかと思います。この本は1849年から1851年にかけて出版されたもので、私は二度ほどキューガーデンで見せてもらったことがあります。たまたま、2017年に行ったときに、この復刻版で出たばかりなので、何冊か求めてきて、今も1冊手もとにあります。
私は、なんどかヒマラヤのシャクナゲを見に行きましたが、特に東ネパールの山々は、シャクナゲが花咲くと、赤く染まるほどでした。その下を歩いていると、桃源郷にいるかのような錯覚さえ覚え、今でもときどきそのときの写真を見ることがあります。
下に抜き書きしたのは、牧野博士の一家言に載っていたもので、たしかに野山を歩くということは健康によいことです。
よく、イヌを散歩に連れて歩いている人がいますが、私の場合はカメラを持って、植物の写真を撮りながら歩いています。しかも、自分で造った小町山自然遊歩道を歩くわけですから、どこにどんな植物が植えてあるのか、そろそろ咲き出すのかもわかっています。
そういえば、牧野博士がよく遊んでいたという裏山は、現在は牧野公園になっていますが、ここにもたくさんの植物が植えられていて、さらにその一角に牧野博士のお墓があります。聞くところによると、もともとのお墓は東京にあるのですが、ここには分骨をしてあるそうです。だから、自分の生まれたところに今も眠っているということになります。
もしかすると、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」で高知県が大盛り上がりをしているのを、ちょっと恥ずかしげに見ているかもしれません。
(2023.5.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
わが植物愛の記(河出文庫) | 牧野富太郎 | 河出書房新社 | 2022年7月20日 | 9784309419015 |
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☆ Extract passages ☆
健康を保つためには、適度に運動することが必要である。植物採集は健康上大変よいことであると思う。野外にでて、日光に当る、よい空気を吸うということになる。私がつねに健康であるのはそのためであると思う。私は小さい時は、弱く痩せていたが、植物を採集して野山を歩いているうちに身体が強くなった。植物採集では、ただ歩くのではなく心を楽しませながら歩くことができる。楽しい心で歩くとよい運動になる。科学を勉強しながら、健康を築く、これは一挙両得というものであろう。
(牧野富太郎 著『わが植物愛の記』より)
No.2186『草を褥に 小説牧野富太郎』
最近は牧野富太郎に関する本ばかり読んでいますが、5月15日から北陸を旅することになり、そのときも「旅芸人のいた風景」(沖浦和光著、河出文庫)なども持っていきましたが、この『草を褥に 小説牧野富太郎』もその1冊です。
今回の旅は、最初は能登地方を考えていたのですが、珠洲市で5月5日に最大震度6強の揺れを観測し、さらに余震が続いていることもあり、金沢市内を歩くことにし、行く途中に、船でしか行けない温泉宿「大牧温泉」に1泊することにしました。ここは、スマホもなかなかつながらず、もちろんパソコンもできないので、ゆっくりと本を読んで過ごしました。ときには、こういうのんびりとした時間も大切だと思いました。
この本は、小説ですから、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」と同じように真実ではありませんが、旅先でも気楽に楽しめました。でも、著者の大原富枝さんの父親は、牧野富太郎が生まれ育った佐川町に移り住んだことがあったそうで、しかも小学校で直接教えを受けたこともあったそうです。だから、著者自身も牧野富太郎のつながりのあるところを訪ね歩き、それもこの本の中に書いてあります。とくにおもしろかったのは、富太郎や妻の寿衛子さんの手紙を掲載していることで、その息づかいまで伝わるかのようです。
人の一生を1冊の本にまとめることはとても難しいことで、そのなかの一部分を書き出すしかありません。その選び方で、小説といえども違ってきます。「大牧温泉」に着いたのは午後3時で、ここを出たのは午前11時でしたから、時間だけはあり、富山県南砺市のかじわ屋の「ちまき」でお抹茶をいただき、ボン・リブライの「越中富山 甘金丹」でコーヒーを飲みながら、この本をのんびりと読みました。
富太郎の生まれた年は、「彼の生れた翌文久3年2月には将軍が上京し、5月には長州藩が馬関(下関)で外国船を砲撃しているし、7月には英国艦隊が鹿児島を砲撃している。アメリカ合衆国では南北戦争が始ったばかりであった。中国では大平天国の乱が起っていた。インドではイギリスの植民地にされるという大きな不幸を迎えていた。島津久光の行列を乱したというイギリス人を一刀のもとに斬りすてた生麦事件、寺田屋の変、和宮の将軍家茂への御降嫁、これらすべてが富太郎の生れた年に起っているのだ。富太郎は、世界中が新しい近代を迎える境日に生れて来て、変化の劇しい時代を生き抜いた人である。手本とすべき先例を何一つ持たない日本の夜明けに生れて来て、すべてを自分で考えて、自分が良いと思う事を創造して生きた人なのであった。」と書いてありますが、たしかに全てが変わっていく激動の時代でした。
このことを頭に置いておくと、牧野富太郎という人の生涯が見えてくるようです。だからこそ、小学校中退でも東大の研究室に出入りすることを許されたし、不思議でもなかった時代だったと思います。さらに、「事実、豊かな岸屋の一人息子として、誰にも枝を矯められることなく、すくっと思うままに育った富太郎には、収入とか、待遇とか、出世とか、そういうものから自由になれない人たちには、理解しにくい長閑な一分囲気があった。また一方で彼の礼儀正しさも好感を持たれたにちがいない。」とも書いています。
たしかに、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」を見ていても、ちょっと不思議で無欲で温かい雰囲気があります。しかも、学歴とか年齢とか、いろいろなことも考えないおおらかさも感じられます。
下に抜き書きしたのは、「9.ユニークな牧野流研究者生活」のなかに書いてあったものです。
そういえば、3月26日に佐川町立青山文庫で開催されている牧野博士の特別展に愛用の絵の具や筆なども展示されていて、その筆先の細さにびっくりしました。おそらく、この面相筆で、細かな植物画を書いていた様子が浮かびます。
しかも使う絵の具は、最上のイギリスのものだったそうで、そのこだわりも感じることができました。今年は四国の高知県は、「らんまんの舞台・高知 牧野博士の新休日」というキャンペーンをしていて、そのガイドブックもありますので、この機会にぜひ訪ねてみてください。
(2023.5.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
草を褥に 小説牧野富太郎(河出文庫) | 大原富枝 | 河出書房新社 | 2022年11月20日 | 9784309419312 |
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☆ Extract passages ☆
絵はいつもいつも描いていないと腕がにぶる、と彼は言い、夜中の二時、三時にも時を忘れて図を描きつづけた。製版所の仕事にもよく通じていて、活版、石版の仕事すべて自ら指図した。サクユリ、チャルメルソウ、セイシカ、ボウラン、ヒガンバナ。
第四集は「ホテイラン」。これを彩色するときは「ウィンザー・ニュートン」社の絵の具でなければならなかった。殊にも彼が凝ったのは照葉樹のダークグリーンで、葉が活けるように描けなければ駄日だと言って肯かなかった。
(大原富枝 著『草を褥に 小説牧野富太郎』より)
No.2185『牧野富太郎 植物語り』
NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が決まってから、次々と牧野富太郎に関する本が出版され、植物好きにとっては有難いことです。
この本も、「草木と歩んだ94年」という副題がついていて、さらにビジュアル本ですので、とてもわかりやすく、楽しんでみたり読んだりしました。ただ、この本には、「4歳のときに父が、6歳のときに母が病死します」とありますが、前回読んだ『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』の略年表には、「3歳、父、佐平病死」、「5歳、母、久壽病死」と書いてあり、おそらく満年齢と数え歳の違いかもしれませんが、今の時代ですから満年齢に統一してほしいと思います。
なかには、亡くなられた年齢も96歳とか95歳といろいろでしたが、はっきりと94歳9ヶ月と書いてあるのもあり、はっきりとわかっていいと思いました。
というのも、77歳で東大に辞表を出してこうしを辞任し、その翌年から「牧野日本植物図鑑」を出すなど精力的に著作に取り組んでいますが、その当時の78歳という年齢のことを考えると、すごいことです。これだって、はっきりと年齢を書いてないと、そのすごさが伝わってこないような気がします。
だから、私は信頼できる年表をコピーして、わきに置いて読むことにしています。これはぜひ、お勧めです。
さて、どの牧野富太郎の本を読んでも、あの時代だからという思いと、あまりにも裕福な家に生まれた悲哀みたいなものを同時に考えます。昔から、文化のようなものは、富裕な人たちがいないと育たないといいますが、一面ではたしかにそうだと思います。あの時代に31歳になって初めて帝国大学理科大学助手となり月給15円をもらったのですから、それまでは実家やその他の人たちに食べさせてもらっていたわけです。だからこそ、好き勝手なこともできたわけです。
うらやましいとはまったく思いませんし、むしろ奥さんや家族は大変だったと思います。だからこそ、「Sasa suwekoana Makino」(スエコザサ)と学名をつけたことが話題にもなったのではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、牧野博士の長年の夢でもあった植物園を造る計画が持ち上がったときの話しです。自身は五台山を希望していたそうですが、それを実際に完成させるのは並大抵なことではありません。
しかし、牧野富太郎という人は、行き詰まると必ず助けてくれる人が現れます。これはまさに人徳です。
この牧野植物園の園長だった小山徹夫氏は、11歳で牧野富太郎氏の弟子となり、東京大学大学院生物系研究科博士課程修了後に東京大学理学部助手になり、その後カナダ農務省中央研究所研究員を経て、ニューヨーク市立大学大学院教授なども歴任した方です。彼は私の知り合いの出版社から本を出したこともあり、いろいろと話しを聞いていますが、植物学者になるきっかけは牧野博士との出会いからだそうです。
いろいろな人たちを巻き込みながら、日本の植物分類学を作り上げていったようで、これからの連続テレビ小説「らんまん」も楽しみです。
(2023.5.14)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
牧野富太郎 植物語り | 清水洋美 編著 | 世界文化社 | 2023年4月5日 | 9784418232055 |
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☆ Extract passages ☆
富太郎を顕彰する植物園の計画が持ち上がり、武井(近三郎)は中心となって計画を動かしました。武井は「昭和26(1951)年12月に上京、牧野博士にじかに提案、以後6年をかけ高齢の牧野博士とやりとりを重ね、県や市、財政を動かした」(高知新聞プラス)。……
設立資金の寄付交渉には竹林寺住職・海老塚師が自ら奉加帳を持って各銀行を回り、さらに県内各学校の生徒からも浄財を集めてもらうよう、働きかけました。そして昭和32
(1957)年1月10日、植物国の工事が着工、翌年4月1日、ついに開園の日を迎えました。
当時は温室2棟とわずかな園地のみでしたが、次第に園地面積を拡張、五台山の起伏を生かした園地の中に、富太郎ゆかりの植物など三千種類以上を見ることができます。富太郎は
工事着工の数日後に亡くなり、開園を見ることはできませんでした。
(清水洋美 編著『牧野富太郎 植物語り』より)
No.2184『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』
この『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』を見たのは、今年の3月下旬に四国の高知県に行ったときで、本当は令和4年が牧野富太郎の生誕160年だったのですが、コロナ禍ということもあり、さらに今年4月3日からNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が始まったことで、大きな弾みがついたようです。
私が行ったときも、生誕の地佐川町は牧野富太郎一色のようで、当然ながら地元の高知新聞社は、元日の特別号にカラーで10ページ以上も取りあげていて、私もそれを見せてもらいました。
だとすれば、地元の高知新聞社は牧野富太郎をどのように見ているのかを知りたいと思っていたら、たまたま米沢市立図書館にこの本があり、さっそく借りてきました。
しかも、今まで出版されたものと違い、新聞記者が牧野富太郎の植物採集などで歩いたところを歩きながら、追体験するというもので、当然ながら、時代の違いはあるでしょうが、おもしろいと思いました。たしかに、牧野博士は北は北海道の利尻島から、南は屋久島まで行っているのですが、私は礼文島に行きましたが、利尻島は眺めただけです。しかし、屋久島はヤクシマシャクナゲの満開のときに訪ねて、山小屋に1泊して縄文杉も見ることができ、大満足の旅でした。この本に出てくるウィルソン株や照葉樹林帯も見ることができました。
また、「佐川。そして今」で取りあげられている生誕の地、佐川町にも2023年3月下旬に行き、しかも「牧野日本植物図鑑」の編集者といっしょということで、いろいろなことを教えてもらいました。さらに「らんまん」の最初に取りあげられた安芸市の伊尾木洞や、毎回出てくる四国カルストの天狗高原なども案内してもらい植物を見て歩きました。これはほんとうに贅沢な旅でした。
この『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』のなかでも、いろいろな旅の思い出が書かれていましたが、やっぱり印象に残ったのは利尻と屋久島です。どちらも、やっとやっと登ったようですが、記者の大変さが記事の内容からも伝わってきます。考えて見れば、どんな旅も何ごともないような旅よりも、何度か引き返そうと思うほど大変だったものほど強く印象に残ると思います。
おそらく、私の屋久島の旅も、もう1回行きたいかと問われれば、行きたいのはやまやまだが、今の体力では無理だと思うのが先に頭を巡ります。
この本の記者の屋久島の旅は2012年のことらしいが、私が屋久島に行ったのは2005年のことでした。だから、ガイドを頼んで、1人で行ったのですが、当日は天気もよく、快晴でした。ところが翌日は雨降りで、同時に晴れと雨を体験できてよかったとさえ思いました。
下に抜き書きしたのは、牧野博士が仙台市中心部に近い三居沢で珍しいササを見つけたときのことで、それを見た牧野博士はしばらく動かなかったそうです。
そのときのことを、案内した植物学者の木村有香(1900〜1996年)は下に抜き書きしたように書いています。私は生前の木村博士とお会いしたことはないのですが、いろいろな縁から2度ほどお墓詣りをさせてもらったことがあり、特にヤナギの研究では世界でもトップクラスの研究者でした。
牧野博士はこのときに発見した新種のササに、1928年、54歳で亡くなった妻の壽衞を偲んで、「Sasa suwekoana Makino」(スエコザサ)と学名をつけました。そして、「世の中のあらん限りやスエコ笹」という句も自作したそうです。
(2023.5.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―(北隆館新書) | 高知新聞社 編 | 北隆館 | 2022年7月1日 | 9784832610132 |
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☆ Extract passages ☆
このササが一見して誰の目にも他のササと考しく異なって見えるのは葉の多くが片側が裏に向かっていくぶん巻くような特性があるからである。 (中略) また葉の上面に立った白い長毛が不規則に散生していることも人日をひく。一度見たら忘れられない特徴の数々を具えている。
(高知新聞社 編『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』より)
No.2183『アフリカではゾウが小さい 野生動物撮影記』
著者の写真集はなんどか見ていますが、文章もどのようにして撮ったのかなど、とても興味があり、つい引き込まれてしまいます。この本も、同じでした。
たとえば、「野生動物の感覚の鋭さには何度も驚かされたが、ヒトであるはずの僕自身も、アフリカで撮影をしていると身体の感覚が研ぎ澄まされていく。まず目がよくなる。勘も相まって十キロぐらい先まで見えるようになる。遠くの茂みに隠れている動物を見つけ出せるようになる。風が運んでくる様々な情報や気配にも敏感になる。そして、五感だけではなく意識にも変化が表れる.待つという概念が消えていく。決定的な瞬間を撮るため、何時間もじっとカメラを構えてなくてはいけないことが数多あるが、一切苦にならなくなる。アフリカが僕のすべてを変える。」と書いてあり、たしかにそういう感覚ってあると思いました。
実は私もネパールで経験したのですが、スマホもパソコンも使わないので、目がすっきりと見えるような気がしたのです。しかも、だんだん慣れてくると、どこにどのような花があるのかも見当がつくようになります。歩いていても、現地の人よりは先に歩いていたりして、それでも道に迷わないのです。まさに現地に溶け込んだかのような気持ちになり、時間の感覚も現地の人たちと同じようにゆったりとしたものに感じます。
私はどちらかというと動物よりは植物に興味があり、海外に行くのもほとんどが植物目当てです。たとえば、マダガスカルに行ったのもバオバブを見たいのが最優先でしたが、著者は、ほとんど興味がないようで、ツィンギからの帰り道に、「彼に花を持たせようとバオバブを撮る」という程度です。私はオーストラリアでバオバブを1種見たことで、なんとかマダガスカルで少しでも多くのバオバブを見たいと思い、ついに6種ほど見ました。そして、ある方にお願いして、バオバブの記念植樹までしてきたのですから、何に興味があるかで行動も違ってきます。
私たちは2019年9月に行ったのですが、韓国のソウルとエチオピアのアジス・アベバで乗り換え、マダガスカル島のアンタナナリボに行きました。著者は2014年9月30日に成田からバンコクを経由してマダガスカル島に行ったそうで、時間通りに到着したと現地のコーディネーターがビックリしていたということです。
私たちもほとんど定刻通りに着いたのですが、そのアンタナナリボからムルンダバへ飛行機で飛んだのですが、乗客の荷物がほとんど積み込まれなかったのです。だから、3日間、手荷物だけで過ごさざるを得なかったのですが、それでも何とかなるものです。三脚は何かを台にしたり、着がえは大きなTシャツを買い、夜はそれだけで過ごしすべて洗濯をしました。今思えば、そのときのこともかけがえのないいい思い出になりました。
今、ちょうど大型連休のさなかなので、ゆっくり本を読む時間もありません。そういう時には、このような写真集がとてもよくて、どこで読み終えてもいいので気が楽です。
下に抜き書きしたのは、マダガスカルのところに書いてあったもので、私も2019年に行ったときに同じ自然保護区でなんども見ました。
それと、この本に書いてあったワオキツネザルは大好物のアローディアの鋭いトゲが平気なのかというところも興味深く読みました。というのも、私もその写真を撮りながら、本当に痛くないのか心配したものです。
(2023.5.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
アフリカではゾウが小さい 野生動物撮影記 | 岩合光昭 | 毎日新聞出版 | 2023年2月20日 | 9784620327662 |
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☆ Extract passages ☆
ワオキツネザルは、マダガスカルだけに生息する。マダガスカルの野生動植物はおよそ25万種にも及ぶが、その約80パーセントほどが、ここにしか生息していない固有種だ。はるか大昔、ゴンドワナ大陸の分裂が進むなか、アフリカ大陸とインド亜大陸にはさまれていた部分が分離して以降、マダガスカル島は他の大陸と地続きになった歴史がないまま現在に至ったと言われている。おかげで、他の地域では見られない、独自の生態系を保てている。
彼らが棲み家としているのは、ヒトが手をつけていない自然林。木がボサボサと不揃いな、一見荒れているような森にいる。ヒトが整備した植林の森は、美しくは見えるが、そこに動物たちはいない。森ならどこでもよいわけではないのだ。森林破壊が止まらないマダカスカル、自然林は減少し続けている。
(岩合光昭 著『アフリカではゾウが小さい 野生動物撮影記』より)
No.2182『サクラが創った「日本」』
昔は、ちょうど今ごろがサクラが咲くころで、上杉まつりもサクラが満開の下での催しでした。ところが、サクラの開花がだんだんと早くなり、今年はさっさと散ってしまいました。小野川温泉の川縁のサクラも、以前は大型連休ごろから咲き始めたのですが、今年は4月22日の強い風にあおられて、翌日には葉桜になってしまいました。
今年は福島市郊外の「種播き桜」や喜多方市の「枝垂れ桜」、そして地元の松が岬公園のサクラなどを見ましたが、何れも例年よりは開花が早く、花見山へは4月6日に行ったのですが、ソメイヨシノは満開でした。桜まつりなどを予定していたところは慌てて開催時期を前倒ししたようで、主催者側は大変だったようです。
そういえば、松が岬公園の土手のサクラが根元から崩れるようにして倒れたそうで、上杉まつりが始まる前に片付けたいという報道がありましたが、先日そこを通ったらお堀に倒れていたサクラの樹が片付いていました。これもソメイヨシノのようで、やはり60〜70年ほどの樹だったようです。
桜の花見というと、今はブルーシートを敷いて、その上で飲んだり食べたりするのが多いようですが、この本によると、桜まつりのようなイベントをするようになったのは意外と新しく、昔はほとんど飲食をしない花見だったようです。
もともと、ソメイヨシノは、「品種として同定されるのは明治23年、正式な命名は明治34年まで待たなくてはならない。いいかえれば、それ以前の記録からは「この桜はソメイヨシノだ」と完全には確定できない。「古野」という商品名もソメイヨシノ出現以前からある。それがどの時点でソメイヨシノをさすものになったのか、文献から特定する術はない。そうなると錦絵のような図像に頼りたくなる。たしかに錦絵をみると、ソメイヨシノらしい姿はたくさん出てくるが、なにしろ「絵に画いたような」桜である。ソメイヨシノだからそう描いたのか、絵になるからそう描いたのか、ほとんど判別できない。ソメイヨシノの視覚的な特徴は、花だけがほぼ一色で樹全体を覆うところにある。」と書いてあります。
そういえば、桜の先祖はヒマラヤらしいと聞いたことがあり、ブータンやミャンマーに行ったときに、ヒマラヤザクラを見つけました。それらは秋咲きで、花色も濃く、葉が展開する前に咲くので、見応えはあります。最近は、小石川植物園などでも見ることができますが、私もタネをもらって育てています。おそらく、花が咲くのは数十年後になるかもしれませんが、それまでは生きていたいと思っています。
サクラは、もともと交雑しやすく、この本には、「桜の自家不和合性は1967年に渡辺光太郎によって証明されるが、二百年前にほぼ同じ発見をした人がいたのだ。この特性ゆえに、つねに新しい形質をもつ桜がうまれる。それを利用して人間は新たな品種を開発してきたし、逆に形質を固定したい場合には、接木や挿木を使ってきた。「クローン」というと新奇な感じがするが、桜を接ぐ記事は藤原定家の日記にすでにでてくる。定家は『新古今集』の選者の一人で、百人一首の編者でもある。鎌倉時代の昔から、クローン桜は咲いていたのだ。クローンで殖やすというのは、吉野山の「千本」の景観と同じくらい旧い、伝統的なあり方なのである。桜とよばれる植物たちはたえず自己を組み換えて、新しい形質の樹をつくる。」とあり、たしかにその通りだと思います。
今年の3月下旬に四国に行きましたが、ちょうどヤマザクラが開花していて、山のあちこちに咲いていました。しかも、花色も出葉の色もいろいろで、だからこそおもしろいと思い、たくさん写真を撮ってきました。
下に抜き書きしたのは、第V章『創られる桜・創られる「日本」』に書いてある文章で、なるほどと思ったところです。
たしかに、ソメイヨシノと人の一生は、似通っているように感じていました。でも、これを読んで、むしろエドヒガン系の長生きする桜を植えて、この地のシンボルになるようにしたいと思ってしまいました。
また、「近代世界では、国境線の内部はナショナリティの空間とされる。桜はそのナショナリティの表象として位置づけられ、そのなかでソメイヨシノという品種は特に大きな役割をはたした。単一の品種として列島全上を覆い、朝鮮半島や台湾島にも進出していった。「同じ春」を国家全域に広めることで、ナショナリティの空間をリアルなものに見せていった。ただ一つの桜らしさがただ一つの日本に結びついたわけだ。それはたんなる思想やイデオロギーの産物ではない。官僚組織との相性の良さ、身近な空間を美しくしたいという願い、あるいは一人一人の故郷と異郷への思いや死者の追憶が幾重にもからまりあい、積み重なってできている。」ともあり、まさにソメイヨシノは時代にそうような形でえらばれていったように思いました。
(2023.5.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
サクラが創った「日本」(岩波新書) | 佐藤俊樹 | 岩波書店 | 2005年2月18日 | 9784004309369 |
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☆ Extract passages ☆
ソメイョシノの一生は人間の一生とほぼ同じサイクルをたどる。十年余りでそれなりに見える花をつけ、二十年で花盛りを迎え、五十年をすぎた頃から衰えはじめ、七十年で枯れていく。日本の都市では、家も街路も住む人たちも五十年ぐらいしかもたない。
そのことがこの桜に独特の時間感覚をあたえたように思ぅ。ソメイョシノは個人の歴史に結びつきやすい。自分だけの想い、自分だけの出来事の記憶を託すのにちょうどよい花なのだ。それに対して、もっと寿命が長い桜は、個人をこえてつづくもの、例えば家やムラ、町の歴史に結びつきやすい。ヤマザクラは寿命がほぼ二百午ぐらい、立派な花がつくのもニ十年かかる。ヤマザクラは人間が二代かかって育てる桜なのだ。エドヒガン系になると、もっと寿命が長い。古木といわれる樹は樹齢数百年。ムラや町そのものと同じくらい長く生きる。町や村のはじまりの記憶、「故事来歴」や由緒を背負う桜になりやすい。
(佐藤俊樹 著『サクラが創った「日本」』より)
No.2181『いま、よみがえる 小林一茶』
また、小林一茶ですが、地元の人が書いたものを読みたいと思っていたら、たまたま図書館で見つけたのがこの本です。著者は、中野市役所に勤め、退職後は中野市教育長を1期4年つとめられたそうで、自宅に「まちかど図書館・坐の文庫」を開設しているそうです。
やはり地元ならではの資料も掲載されていて、さらに一茶の継母のさつはしっかり者で、弟の仙六と働いて財産を倍以上に増やしたそうです。だから、一茶の書いたものについては「一茶の自虐性」という標題で書いてるほどです。また、小林計一カ氏は、「俳人一茶のいちばんの恩人は継母だった」と書いていることを紹介しています。
ところが一茶は、『おらが春』のなかに、「貧しい農家に生まれ、勉学もままならず、弟の子守り、継母のいじめ、晴々しい日は1日もなく57歳になる、とまで書いています。おそらく、一茶が書いているのだからこれが正しいというのが当たり前かもしれませんが、私はそう思っていただけで、まわりの人たちはよくそこまで悪く言われるものだと感じていたかもしれないのです。
そういう意味では、地元の人たちが書いたものも読んでみなければと私は思います。
たとえばこの本には、「一茶は、自分のことを「北信濃の寒村の貧農の出」と言っていますが、一茶の家は本百姓で中流農家、村内では名門の家です。「下の下の下国の信濃も信濃、奥信濃の片隅なる、おのれ住める里」といいますが、柏原は、北国街道の宿場町、ご天領の置かれたところです。「信濃国乞食首領」なんて、とんでもない、血統正しき家の生まれです。しかも、一茶は小林家の跡取りです。」と書いてあり、たしかに一茶のイメージとは少し違います。
また、一茶が故郷に定住してからは、父の命日には必ずお墓詣りをしていますが、そのような時には、弟の家で一緒に食事をしていたそうですし、弟の仙六は兄の一茶を尊敬していたといいます。
下に抜き書きしたのは、『おらが春』に書いてある文章で、一茶57歳のときだそうです。
この本を全部読んでからだと、このような考え方を一茶はもっていたことがよくわかるような気がします。また、一茶の地元だからこそ、わかることがいろいろあると、改めて思いました。
(2023.4.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
いま、よみがえる 小林一茶 | 宮川洋一 | 文芸社 | 2017年8月15日 | 9784286182797 |
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☆ Extract passages ☆
答ていはく、別に小むつかしき仔細は不存候。たヾ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申ばかり也。
如斯決定しての上には、なむ阿みだ仏といふ口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘の行ひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持べからず。しかる時に、あながち作り声して念仏申に不及、ねがはずとも仏は守り給ふべし。是即当流の安心とは申也。穴かしこ。
ともかくもあなた任せのとしの暮 一茶
(宮川洋一 著『いま、よみがえる 小林一茶』より)
No.2180『小林一茶』
この文庫本は、3月下旬の四国行きのときにも持ち出しましたが、他の資料などもあり読み終わりませんでした。それから、ときどき取り出しては読み、持ち出しては読みして、なんとか読み切りました。
なぜ、今、一茶の本かというと、実は昨年から信濃三十三観音をお詣りしていて、信濃といえば、「信濃では月と仏とおらが蕎麦」の一句を思い出しました。ところが、この句は一茶が詠んだのではないという話しがあり、調べてみると一茶の書いた句文集にも、あるいは一茶の門人たちが出版した「一茶発句集」や「嘉永版一茶発句集」にもこの句は出ていないそうです。しかし、松尾芭蕉の「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」は伊賀の辺りで詠んだものですが、この句碑は長野県松本市郊外にもあり、やはり、信濃といえば蕎麦と俳句はつながっているようです。だとすれば、信濃三十三観音の旅でも、俳句の本を読みながら歩きたいと思い、だとすれば先ずは一茶だろうと思いました。
読んでみて思ったのですが、一茶の一生は山あり谷ありの大変なものだったようですが、俳句をみる限り、みじんもそれらを感じとれないから不思議です。この本の最後に、一茶の一生を簡単にまとめていますから、それを下に抜き書きしました。たとえば、1821年の正月の句に、「ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び」というのがありますが、この前の年の10月に脳卒中で倒れてしまい、生死の境をさまよったそうで、以前のように足は動かなくなったようです。しかし、そのことを一度落としかけた命なのだから、これからの人生は天から授かったようなもので、これは儲けものだったというのです。おそらく、この娑婆遊びという言葉も一茶の表現のようですが、生きているだけで丸儲けという発想は明石家さんまさんに似ているかもしれません。
しかし、このすぐ後に、次男の石太郎が亡くなり、たった96日でこの世を去ったことで、信濃の寒い冬だけを生きて、この世の暖かさを知ることもなかったというような文章を書き残しています。
私が好きな一茶の句はいろいろありますが、なかでも「目出度さもちう位也おらが春」というのは、若い時に覚えました。たしかに、大きなお目出度いことがたくさんあればいいかもしれませんが、大きなことの次には、大きな大変さもありそうです。中くらいなら、大変さも中くらいですみそうですし、大きなお目出度いことがあれば、さらに大きな目出度さを願うようになるのが人間です。だとすれば、一茶のように中くらいで喜ぶような気持ちがいいのかもしれません。
この句は、1819年57歳のときの作だそうですが、この前年に長女さとが生まれたのですが、この年の6月に亡くなり、翌1820年には次男石太郎が生まれ、その翌年の正月に亡くなるという悲しむことが続いています。それでも、この世に無常を感じながらもあるがまま、自然法爾を貫いています。
一茶というと、「名月をとってくれろと泣子哉」とか「雪とけて村一ぱいの子ども哉」とか、子どもを詠んだ句も多いのですが、今では子どもも少なくなり、地元の小学校も今年から廃校になり、孫もスクールパスで通うようになりました。だから、この「雪とけて村一ぱいの子ども哉」のような句も、そのような体験をした年代の人たちもいなくなります。そうすれば、「雪とけてスクールバスで通う子ら」になるかもしれません。
下に抜き書きしたのは、既に書きましたが、「晩年」の最後に書いてあったものです。
この本を全部読んでからだと、よく一茶の生涯がわかるような気がします。またこの土蔵は今もあるようで、次に信濃三十三観音の旅に出たときには、まわってみたいと思っています。
(2023.4.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
小林一茶(角川ソフィア文庫) | 大谷弘至 編 | KADOKAWA | 2017年9月25日 | 9784044002909 |
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☆ Extract passages ☆
一茶の人生は一貫して悲惨なものであったが、それを悲惨なものとして詠むことは少なかった。人生の悲惨を乗り越えたところに一茶の俳句があった。
この年の11月19日、一茶は不意に気分が悪くなり、寝こんでしまう。その日の申の下刻(16時半過ぎごろ)、一茶は土蔵で亡くなる。65歳であった。
「南無阿弥陀仏」とただ一声、念仏を唱えて、しずかに息を引き取ったという。
このとき妻・ヤヲのお腹には一茶の子どもが宿っていたのだが、一茶はそのことを知らぬままであった。翌年4月に女の子が誕生。やたと名づけられ、明治6年(1873)まで生きた。
(大谷弘至 編『小林一茶』より)
No.2179『牧野富太郎の植物学』
この本は、先月に発行されたばかりで、同じNHKの関連会社ですから、4月3日から始まったNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が決まってから書かれたもののようです。そういう意味では、ドラマと実像を対比的に楽しめるかなと思いました。
そもそも牧野博士の植物研究は、この本によれば、「牧野富太郎の植物研究は、日本にはどんな植物がどこにあるかを全国的な標本採集を精力的に行い、植物を採集しては標本を作製し、それを内外の文献でひたすら同定を繰り返すことにより調べるというものであった。北は北海道の利尻山から南は九州の屋久島まで踏破している。採集した標本を同定するとともにその詳細な形質を記載していった。牧野の好奇心は、終始一貫して植物の名前を調べることだった。牧野の異様なまでの名前、名称へのこだわりは、子どものころの周囲の生き物に対する「この植物はなんという名前だろう」という好奇心に強く影響されている気がする。そして、この牧野の「名称」に関する研究は生涯続くことになる。」と書いています。
たしかに、連続テレビ小説「らんまん」を見始めて1ヶ月も経っていませんが、それでも植物を見るときにこの名前はなんだろう、というのがいつもの台詞です。だから、その植物を知るということは、その名前を知るということのようです。
しかし、ある植物学者の話を聞いたことがありますが、名前を知るということだけではなく、その植物をさらに突き詰めて考えていくことのようです。この本のなかにも、「専門とする植物を深く掘り下げて研究することは求められても、自然の中で広く植物の名前をすぐにわかって答えることができることは、別に研究者に課された課題ではない。専門家は、専門とするグループの植物を深く掘り下げ研究をする、あるいは現象を捉え、その原理を研究することが一般的である。何の植物でも見たらすぐに名前がわかり、答えることができるというのは、むしろ趣味家の範囲であり、植物オタク的なものである。いまでも、というよりいまではそれがもっと顕著であろうが、大学の研究者より、時間があれば四六時中野山に出かけて草木の写真撮影をしている定年後の趣味家のほうがよほど植物には詳しいはずである。こういう意味では、牧野富太郎は超一流の植物オタクだった それが必要とされる時代と社会があったのである。」とあり、ある意味、納得しました。
というのも、私の知っている方のなかにも、すごく植物の名前を知っていて、聞くとすぐに応えてくれますが、やきり肩書きは「ナチュラリスト」です。ところが、そういう方は、植物分類をしている研究者が植物を知らないといい、まさに鬼の首をとったように植物をたくさん知っていることを自慢します。この本を読んで、それは納得です。
ただし、牧野博士の時代には、日本の国の植物なのに、その学名をつけるのは外国の研究者で、たとえばマキシモビッチやフランスのサヴァチェだったのです。だとすれば、我が国の植物の学名ぐらいは日本人がつけるのは当然だというのも理解できます。
下に抜き書きしたのは、第7章「記載された学名の数」にあったもので、今まで大雑把なくくりで書かれたものが多かったようです。
たとえば標本などについても、少しは誇張された部分がありますが、この本では、牧野標本館に収蔵される牧野自身が採集した標本点数は約4万9千点だそうで、その他のものを含めても約5万5千点ではないかと書いてあります。だから、「牧野は、約5万5千点の維管束標本を採集した」ということだそうです。
どんな世界でも、偉人となれば、ある程度の誇張された部分があるのは間違いなさそうです。
(2023.4.24)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
牧野富太郎の植物学(NHK出版新書) | 田中伸幸 | NHK出版 | 2023年3月10日 | 9784140886960 |
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☆ Extract passages ☆
牧野が、『牧野日本植物図鑑』や、牧野植物混混録』、園芸雑誌「実際園芸」などに発表した学名はすべて無効な学名(裸名)である。このような学名を数えると282にもなる。したがって、実際に牧野富太郎が命各した学名は、1279となるのである。これに中池敏之と山本明が報告したシダの発表した学名90を加えると、牧野が生涯に正式発表した学名は、1369となる。つまり、「牧野富太郎は、生涯に1369(約1400)の学名を発表した」というのが最も正しいことになるだろう。
それでも、日本産の植物につけた学名の数では、日本人の分類学者の中で牧野が最も多い。
(田中伸幸 著『牧野富太郎の植物学』より)
No.2178『科学者の伝記 牧野富太郎』
この本は「はじめて読む科学者の転機」シリーズで、すでに中谷宇吉郎や池田菊苗、猿橋勝子などが出ています。この本は図書館で見つけたのですが、購入日は2020年8月20日となっていますから、4月3日から始まったNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」で、再度書庫から閲覧棚に出されたのではないかと思いました。
そういう意味では、やはりこのテレビの影響というのはすごいものです。3月25日から四国の高知市に行きましたが、いろいろなところに牧野富太郎関連のポスターが貼られ、特に生誕地の佐川町では、大盛り上がりでした。
佐川町立静山文庫では、「植物学者・牧野富太郎の歩み」展を開催していて、自筆の書が多数展示されていましたが、それに「結網」という名前が記されていました。この本にも、「結網子というのは富太郎のペンネームのようなもので、中国の古典にある話からとった名前です。「泳いでいる魚を、そのふちからながめるだけでは、魚を得ることはできない。魚を得たいなら、すぐに網を作って行動を起こすべきだ」という内容です。この時代、文章を書く人や絵を描く人は、本名とは別に自分で名乗る名前を持つ習慣がありました。富太郎は「求めるもののために、すぐに行動する」という思いをこめて、こう名乗ったのでしょう。」と書いています。
この青山文庫の入口に、牧野博士がこの町で見つけ命名した「ワカギノサクラ」が咲いていて、すぐ近くの牧野公園には、同じくこの地域で見つけたサクラ「仙台屋」も植えてありました。
この本の最初に紹介されている番頭さんの懐中時計を借りて、貸した番頭さんの心配したようにそれを分解した様子が4月12日に放送されました。その好奇心が植物に向かい、もともと弱かった富太郎が大好きな植物をたずねて野山を歩き回るうちに元気になったそうです。
たしかに書き方は、子どもたちにわかりやすいにと配慮されていて、とても読みやすく、さらに子どもたちに興味を持ってもらえるようなエピソードも取りあげられていました。牧野博士のような天真爛漫な性格の持ち主と暮らすのは、ある意味、大変なこともあるようで、亡くなられてから奥さんの壽衞さんに献ずるように「スエコザサ」というアズマザサの変種に名を残しました。その壽衞さんとの出会いも書いてあり、「お酒が飲めない体質だった富太郎は、かわりに甘いものが大好きで、菓子屋に立ちよって茶菓子を買うのが毎日の楽しみでした。その店のむすめにはどこか品があり、おっとりとした中にりんとした強さがあるように思い、富太郎はむすめに会いたい気持ちもあって、たびたびその店で菓子を買いました。思いこんだらまっしぐらの富太郎も、好きな女性とどうやって親しくなればよいのか見当もつかず、こまりはてて相談したのが、印刷所の太田でした。……菓子屋のむすめは、名前を壽衛といいました。父親は幕末の彦根藩につとめた武士で、明治以降は陸軍で働き、数年前に亡くなっていました。夫の死後、壽衛の母親は女手ひとつで子どもを育てるために菓子屋を始め、店にいたのが次女の壽衛でした。壽衛の方でも、足しげく通つてきては気前よく菓子を買っていく富太郎に、なんとなく心ひかれており、話はとんとん拍子に進みました。ふたりは根岸にある一軒家のはなれを借りて、いっしょにくらしはじめたのです。」ということでした。
植物に対しては、いつもためらうことなく突き進む牧野富太郎も、女性にはストレートに向かい合うことはできなかったようです。
下に抜き書きしたのは、第10章「草木を愛する心」に書かれていたもので、たまたま私が生まれた年だったこともあり、強く印象に残りました。
そういえば、だいぶ前ですが、死んだと告げられて後、生き返った人たちの記録を読んだことがありますが、まさに牧野富太郎もそうではないかと思いました。しかも、昭和26年には第1回文化功労者に選ばれ、さらに昭和32年まで生きることができました。生前に高知県内に牧野植物園ができることを知らされていましたが、完成するのはその翌年でした。
3月27日にこの高知県立牧野植物園にも行き、園内だけでなく、資料室なども見せていただきました。拝観者もまだ放送されていないのにもかかわらず、多くの人たちで賑わっていました。
(2023.4.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
科学者の伝記 牧野富太郎 | 文 清水洋美・絵 里見和彦 | 汐文社 | 2020年7月 | 9784811327341 |
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☆ Extract passages ☆
昭和24(1949)年の梅雨。健康に自信のあった富太郎が、とつぜんたおれました。大腸炎をおこし、そのままどんどん状態が悪くなりました。医者は手をつくしましたが、ねむり続けて意識もなく、ついに脈もふれなくなってしまったのです。
「ご臨終です」
富太郎の死を医者が告げました。
家族はみんななみだをこらえながら、順番に末期の水(死後の旅路にのどがかわかないよう、くちびるをしめらせる儀式)を口にふくませました。神戸までいっしよに標本を取りに行った石井もかけつけ、なみだながらにたくさんの水をふくませました。すると、そのときです。
ごくり。
富太郎ののどぼとけが動き、富太郎は水をぐっと飲みこんで、よみがえりました。医者もおどろく、87歳の奇跡的な「よみがえり」でした。
(文 清水洋美・絵 里見和彦『科学者の伝記 牧野富太郎』より)
No.2177『旅するモヤモヤ相談室』
旅するモヤモヤって、実際の旅ではなく、生きていることのモヤモヤで、そのような悩みに答えるという形で書かれている本です。だからそれらをカルテとしてナンバー10まであります。
カルテ2の「幸せって何か、わからなくなっちゃって……」というところに、坂本龍太さんはブータンの村で、診察や検診をしているそうです。専門はフィールド医学で、ブータンで出合った人たちとの話しのなかで、「ブータンは海がない国ですが、海を見ると罪が浄化されるという言い伝えがあるんです。日本に来ると、彼らはみんな必死に海を見ながら祈っています。それも、自分の幸せだけでなくて、「自分を中心につながったすべての人びとの罪が浄化されますように」と祈っているんです。そこにあるのは、自分を犠牲にするというよりは、「自分も幸せになって、かつ、まわりも幸せになったらいい!」という考えだと思います。人間として正直ですよね。」といいます。
たしかに、ブータンは世界一幸せな国といわれ、私も30数年前に訪ねたことがありますが、仏教に根ざした生活をしていました。たまたま、大きな木を斧で切っている方に出会い、チェンソーという木を切る道具があればと話しましたが、いや、この木は何百年と育ってきたのですから、何日かかってもそれは仕方のないことです、という答えにびっくりしましたが、なるほどとも思いました。
何ごとも急げばよいというものではなく、ゆっくりのんびりと進むことも大切なことだと感じました。ブータンでは、ダルチョという祈願旗も、風にたなびくことでそこに書かれているお経を読んでいることと同じだそうです。だから、沢沿いには水車があり、そこにもお経が書かれていて、それも四六時中読んでいます。だから、いつも仏さまに護られているということになります。
また、京都大学大学院の東長靖さんは、エジプトやトルコ、インドネシアなどでイスラームの思想研究をしてきたそうですが、「神経質で、細かいことを気にしちゃうんです……」という問いに、「ムスリムの人びとは、たとえば断食月には全員で貧しい人の生活を実体験して、恵まれない人に対する施し(喜捨)について考えますし、ヤンキーのように見える若者でも、バスに乗れば何のためらいもなく、お年寄りに席を譲ります。「正しい行ないをしていれば神様が愛してくださる」という感覚が身体に染みついているからこそ、見返りを求めずに、日常的にあたりまえのように善行を実践しているんです。」と話しをします。
日本人も、昔はお天道様が見ているからとか、因果応報でよいことをすると必ずよいことが起こると考えていましたが、今は自分さえよければとか、今さえよければと短絡的に考える人も多くなったような気がします。最近のネット詐欺や凶悪な犯罪などをニュースで知ると、おぞましさを感じます。しかも、お年寄りを狙った犯罪の増加は、特に身の危険さえ感じます。
そういうときに、ブータンの人たちやムスリムの人たちのことを考えると、ホッとします。そして、やはり宗教心の大切さを痛感します。世の中は、頼ったり頼られたり、助けたり助けられたりできないと、弱い人たちにばかりしわ寄せがきます。だから、このようなギスギスした世の中だからこそ、世界にはいろいろな人たちがいて、お互い助け合って生きていることを知ってほしいと思います。
そして、人が困っているときには、自分も無理なくできる範囲で「力貸すよ」と答えたいと思っています。
下に抜き書きしたのは、松嶋健さんの「がんばりすぎない社会を作るには?」という中に書いてあったものです。
松嶋さんはイタリアで、地域で取り組む精神疾患のケアを研究しているそうで、「何もしない」というのもなんとなくイタリアっぽいような感じがします。でも、今の日本人には、このような考え方も必要ではないかと思いました。
(2023.4.18)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅するモヤモヤ相談室 | 木谷百花 編 | 世界思想社 | 2023年3月20日 | 9784790717812 |
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☆ Extract passages ☆
人間にはもはや、今作動しているこの巨大なマシーン(無限列車)を止めることはできないように思います。ただ、人間にできることもあります。それは「何かをする」ことではなく、「何かをしない」ことです。「何」をしないかは、人によって違うでしょう。大事なのは、しなくていいと感じるものは、できるだけしないでおくことが結果的に大きな影響をもたらします。
ただし、「何もしない」というのは人間社会における見方で、とりわけ生産性の観点から「何もしていない」ように見えるだけです。本当は、人は生きているだけで実に多くのことをなしているのです。それは、自然が多くのことをなしているのと同じようにです。
(木谷百花 編『旅するモヤモヤ相談室』より)
No.2176『重森三玲 庭を見る心得』
重森三玲氏の本、『茶室茶庭事典』誠文堂新光社発行、を手に入れたのを今でもよく覚えています。というのも、高かったことと重かったことなどで、引っ張り出すたびに思い出したからです。でも、最近はネットなどで検索したほうが便利で、本棚に入れっぱなしです。改めて調べてみると、定価は9,000円、ページ数は図共に721pで、やはり大型本です。
この『重森三玲 庭を見る心得』を図書館で見つけたときには、それらの思いが渦巻いて、すぐに借りてきて読みました。すると、だいぶ前に読んだにもかかわらず、いろいろと思い出しました。
たとえば、庭は生きているというもので、「庭を見る心得」に書いてあったもので、「庭というものは、他の芸術品と異って、実は生きている生物的存在である。晴天の日と、雨の日と、雪の日と、霧の深い日とでは、その趣きが全く別である。朝と夕方と昼間とでも異る。明るい光線の強い日と、曇天の暗い日とでも異る。拝観者の多い日と尠ない日、同伴の人の相手にもよる。全く一つの庭でさえ千変万化である。それを一度見たのみで、三度見る必要がないというのは馬鹿げたことである。」といいます。考えて見れば当たり前の話しですが、池とか滝の水などには動きが見られますが、植物や石などはじっとしています。何年もの長さでみると、たしかに動いていることがあるでしょうが、なかなか気づかないものです。
それといつも不思議に思うのですが、植物は生長していますので、造ったときの庭のままでは絶対にありえません。それをどのようにして作庭しているのか、庭師に聞いてみたいものです。おそらく、その生長も考えているというかもしれませんが、今のような異常気象のときには、枝枯れを起こしたり、ときには枯れてしまうことだってありそうです。
さらに、今の時代は自分で管理できない大きな庭を造って楽しんでいる人たちは非常に少なくなってきていると思います。マツの葉先を整えたり、庭木の剪定をしたり、専門の庭師に管理を頼むのは大変です。だから、素人ができるガーデニングが盛んになってきたのではないかと思います。それだったら、お店に行って花などの苗を買ってきて、スマホでどのように植えたらいいのかを検索し、楽しみながら植えて育てることもできます。大きな木々の剪定はできなくても、プランターに植えておけば、いくらでも動かすことができます。まったくお手軽で、今の時代にぴったりです。
でも、ときには本格的な庭を見てみたくなったりするのが日本人です。
著者は、庭園は1つの小自然美だといい、「大自然は自分の思うままにはならないが、庭園と言う一つの小自然美は、思う存分に作ることが出来る。自由自在に思う存分に作り得る庭と言うものは、そんなところから生れたのだとも言える。」と書いています。もし、ちょっとした空間があるなら、そこに庭のようなものを造りたいと私も思いますが、なるべく楽しみながら造れればそれもいいとこの本を読みながら思いました。
下に抜き書きしたのは、「庭における永遠性」について書いてあったところです。
こういう文章を読むと、重森三玲氏のような作庭家に造ってもらえなくても、自分自身の工夫で楽しむ庭を考えてみるだけでも楽しそうだと思いました。
(2023.4.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
重森三玲 庭を見る心得(STANDARD BOOKS) | 重森三玲 | 平凡社 | 2020年4月15日 | 9784582531763 |
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☆ Extract passages ☆
茶庭の掃除などして、打水したその瞬間の美しさは、常に経験するところだが、この時刻を見てほしいと思うのは、私だけではないはずである。庭における瞬間の美、それはその時を得てのみ咲く花である。秘せられた花であるかもしれない。その時を得ない限り、庭の美はあり得ないともいえる。そしてその時を得ることのできる庭そのものは、実は永遠性をもっている。永遠なものの中の一瞬である。
だからこの一瞬こそは、一つの出会いである。
(重森三玲 著『重森三玲 庭を見る心得』より)
No.2175『神の木 いける・たずねる』
3月下旬にある植物分類学者に誘われて、NHKの朝の連続テレビドラマ「らんまん」の撮影に同行させていただきました。テレビなどの撮影はこんなにも大変だと知り、とても有意義な時間でした。この「らんまん」は4月3日から放映されています。
その撮影の合間に、四国の珍しい植物を見に出かけ、さらには牧野博士のつながりをたくさん知ることができました。たとえば、牧野博士の生まれた佐川町の「佐川町立静山文庫」には、「植物学者・牧野富太郎の歩み」展が開催されていて、さらにその近くに牧野公園があり、ちょうどサクラやオンツツジが満開でした。
ここには、牧野博士のお墓があり、そのわきに立つ石碑には、「草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して九十年」という自筆の言葉が彫られていました。博士は、昭和32(1957)年に94歳9か月の人生の幕を下ろされました。そして東京都谷中の天王寺墓地に埋葬されましたが、ここには分骨をされたそうです。
帰る日の前日に、彼らと別れて、高知市から高松市に「黒潮エクスプレス」で移動し、レンタカーで善通寺や金比羅宮などをお参りしましたが、どちらにもクスノキの巨木があり、その勢いのある根元の「奇しき」という言葉通りの奇っ怪な雰囲気を持っていました。この本のなかで、川瀬敏郎氏は「はじめは大枝ごとばさりとつかってみたのですが、どうやっても「樟」になりませんでした。京都では青蓮院が有名ですが、古い寺や神社で、樟の巨木に出会うことは多い。どれものたうつような姿で、まさに「奇しき」ものです。その怪異なまでの生命力が、古代の人々を畏怖させたのでしょう。」と書いています。
そういえば、善通寺の門のところにあったクスの巨木は、以前は正面からしか撮らなかったのですが、裏手に回ると五重塔が写って、とてもよい雰囲気でした。そこで、何枚も写真を撮り、さらにはPLフィルターまで使いましたが、それをスマホの待ち受け画面に使っています。
この本で知ったことですが、「五月、新しい葉をひろげおえた樟は、たくさんの古葉を落とす。ちょうど稲の種籾を蒔くころである。これを拾って土にまぜて種籾を蒔くと、ふしぎなことに稲はいっせいに芽を出すが、雑草は芽生えが抑えられる。葉には双子葉植物にかぎって、その発芽を抑制する物質が含まれているのである(佐藤洋一郎『クスノキと日本人』)。早苗に育って、無事に田植えも済めば、少量の古葉を水に浮かべて、虫が早苗に近づくことを防ぐ。除草剤、農薬などなかった時代、これは樟の神秘的な霊能であった。」とあり、昔の人々は、樟脳のことは当然知っていたと思っていましたが、雑草を抑えたり、種籾に混ぜて稲がいっせいに芽生えるということを知っていたとすれば、やはり長い間の経験かなと思いました。
この本に掲載された神木は12種で、ツバキ、クスノキ、マキ、スギ、カジ、カツラ、ヒノキ、イスノキ、マツ、ヌルデ、ヤナギ、ケヤキです。いずれも大きく育ち木々で、その大きさも神木になる要素のひとつです。
下に抜き書きしたのは、カツラに関する話しですが、この長野の善光寺にお詣りしたのは昨年の5月でした。ちょうどお前立ち本尊のご開帳の年で、朝5時前に行き、ほとんど人のいないところでゆっくりとお詣りできました。そして、そのカツラの木も見ましたが、下にあるような話しがあるとは気づきもしませんでした。
ご神木というども自然のなかに自生する木なので、適する環境というのはあります。
(2023.4.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
神の木 いける・たずねる(とんほの本) | 川瀬敏郎 光田和伸 | 新潮社 | 2010年3月25日 | 9784106022029 |
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☆ Extract passages ☆
長野市の善光寺の本尊阿弥陀如来像は、桂の本に彫られていると伝承されている。駅から苦光寺へ向かうと、寺へのゆるやかな登り道が始まるあたりから、道の両脇に桂の木が植えられているのを目にする。ところが、初めさやさやときれいな緑を見せていた桂が、坂を登るにつれて葉の数は小さく少なく、やがてはちりちりと苦しげなものに変わってゆく。道端の店で休んだおりに、そのことにふれると、「そうなのです、坂の上のほうは、なんど植え替えても枯れるのです」と店のひとが嘆いた。坂を登れば、地下水の流れるところまで桂が根を伸ばさねばならない距離は遠くなる。乾いた市街へと人の都合で連れてこられて、桂はやはり水の神木なのである。
(川瀬敏郎 光田和伸 著『神の木 いける・たずねる』より)
No.2174『鍵のいらない生活』
7〜8年前に、米沢市内にあるNECで子どもたちにパソコンなどを知ってもらう企画があり、孫といっしょに参加しました。そのときに、簡単なプログラミングや新しい試みなどもあり、音声でテレビを点けたり、カーテンを閉めたりすることもありました。
まだAIが取りあげられることもなかった時でしたが、それからたいぶ進化したようで、スマホでいろいろなことができるようになりました。
そこで、たまたまこの本を図書館で見つけたので読むことにしましたが、最初は「スマートホーム」と「スマートハウス」の区別もわかりませんでした。どちらも「スマート」が付くのですが、この本では、「スマートホーム」は「テクノロジ×暮らし」で、「スマートハウス」は「テクノロジー×省エネ」だといいます。たしかに似てはいますが、「スマートホーム」はさまざまな家電や設備をインターネットでつなぎ、AIなどの先進技術で暮らしをサポートしてくれる住宅というような位置づけになります。
だから、欠かせないものは「IoT(Interney of Things)」で、いわばモノのインターネットです。だから、家電や家庭の設備だけでなく、工場の設備や車などともつながっています。つい最近、車を替えたのですが、車にWi-Fiが付いているので、ナビでもグーグルとつながったり、自動車保険の会社ともつながっていて、事故があるとすぐに向こうからスマホに連絡が入るそうです。さらに、安全運転をすると、それが数値化され、得点が高いと保険料が安くなり、点数が低いと高くなったりします。
ただ、私の場合には、なんとなくこの年になって点数を付けられるのはちょっとイヤかなと思いますが、これが安全運転につながればいいと割り切りました。
だから、今の時代は家庭も車も「スマートホーム」化しつつあるということです。
でも、おそらくあくまでも「なりつつある」ということで、一気にということは難しいと思います。たとえば、トイレのウォシュレットのように、トイレだけを新しくすればすぐできますし、それなりの効果もあります。今では、ほとんどの家庭やホテルや旅館に入ってますし、学校などでも急速に改良されています。
ところが、この「スマートホーム」化はここだけということではなく、ある程度トータルに進めないと効果が少なく、有難みもなくなります。そういう意味では、この本の副題が、「スマートホームの教科書」とあるように、先ずは知ってもらおうという本でもあります。
私のような年代になれば、便利さも必要ですが、認知機能が低下したり、身体が思うように動かせなくなったときには、このような自動化や遠隔操作も大切だと思います。昨日までなんともなくやれたことが、今日はできなくなるかもしれないのです。そんなとき、頼りになるスマート化があれば、少しは精神的にもゆとりが生まれそうです。あるいは、息子たちにもあまり迷惑をかけないですむかもしれません。これはとても大事なことだと思います。
この本を読んで、あまりにも便利過ぎて身体を動かさないのも困りますし、ほどほどの便利さがよいのではないかと思いました。
下に抜き書きしたのは、「あとがき」に書いてあったものです。たしかに、住む家というのは、とても大切ですし、おそらく一番長い時間を過ごすところでもあります。
先月末に新しい車を購入しましたが、半導体の供給不足で車が造れないという事情がよくわかりました。ディーラーの人も、今の車は半導体のかたまりみたいなものだと話していましたが、まさに実感です。スマホで設定し、車に乗って設定し、便利な機能の多くがアプリで設定します。おそらく、デジタルに慣れていない人たちにとっては、車を動かすまでは大変だと思いました。もっと簡単に設定できればとディーラーの人に話しましたが、おそらくセキュリティのこともあるので、そう簡単には設定できないようになっているのかもしれないということでした。
どちらにしても、スマート化は次第に広がっていくように思います。
(2023.4.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
鍵のいらない生活 | 小白 悟 | クロスメディア・パブリッシング | 2023年3月1日 | 9784295408031 |
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☆ Extract passages ☆
人生が物語だとしたら、家は舞台です。お芝居では、場面によって舞台が転換しますが、スマートホームなら、住む人のライフステージに合わせて機能を追加したりすることで、簡単に転換できます。決してシステムに頼り切りになるのではなく、主役はあくまでも住む人。すべての人のQOL(暮らしの質)を高めるための舞台として、スマートホームを見てほしいと思います。
(小白 悟 著『鍵のいらない生活』より)
No.2173『ネット情報におぼれない学び方』
最近よく問題になるのは、特定の個人に対して多くの誹謗中傷の書き込みが行われる「炎上」や、社会不安をさらにあおる誹謗中傷などがインターネット(特にSNS)などを使った問題が深刻化してます。総務省からも「SNS等での誹謗ひぼう中傷」の特集が出されていますが、最近はさらに悪質な使い方もあるようで、困った問題です。
さらに、ネット情報そのものが、本当に正しい情報なのかも問題で、間違った情報が勝手に一人歩きしていることもあります。
たとえば、少年犯罪が最近増加しているという話しもありますが、最近の少年犯罪はだいぶ減少していて、先日のある研修会でもその数字がはっきりと出ていました。でも、テレビや新聞などを見ると、増加しているのではないかと思うような取りあげられ方をしていて、現実とはちょっと違います。こういうのを目の当たりにすると、ネット情報に懐疑的にならざるを得ません。しかし、ちょっと調べるときには、インターネットは本当に便利です。昔は百科事典があり、それで調べましたが、重くてかさばるし、とうとうどっかへ行ってしまいました。
この本は岩波ジュニア新書の1冊なので、とてもわかりやすく、なるべく青少年に読んでほしいと思いました。
よく情報リテラシーといいますが、世の中に溢れるさまざまな情報を、適切に活用できる基礎能力のことです。住友電工情報システムのサイトには、「情報リテラシーにまつわる具体的な能力は次のとおりです。1.情報を検索・取捨選択する力、2.得た情報が本当に正しいものか見極める力、3.情報を正しく解釈・分析・評価する力、4.情報を正しく作成・発信する力、などと書いてあります。
この本には、この情報リテラシーを身につけるポイントとして、「まずは、「@確かな情報を探し集め」、それによって「A幅広い知識体系を育てる」ことです。本書では、この2つに最も重点を置いています。そして情報リテラシーは、集めた情報をもとに考えて活用する力も含んでいます。そこで「B自分が探究したい課題(テーマ)を見つけ」、「C解決策(アイデア)を考え出し」、「D言葉や文章でアイデアを人に伝える」ための知識や技術を身につけることにもチャレンジしていきましょう。」と書いてあり、とてもわかりやすい流れになっています。
私がいいと思ったのは、サイトの利用で、国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」(https://rnavi.ndl.go.jp/)です。このサイトの説明には、「調査のポイントや参考になる資料、便利なデータベース、使えるWebサイト、関係する機関など、調べものに役立つ情報を特定のテーマ、資料群別に紹介するもの」と書いてあり、情報を収集するにはとても信頼でき、役立ちそうです。
この本の第5章の「ネット情報の海におぼれないために」に書いてあったネット情報の活用術を身につける方法ですが、Google検索ヘルプの「ウェブ検索の精度を高める」ものです。
@は絞り込み検索の引き算で、「検索したいキーワード」−「結果から除外したい語」です。Aはかたまり検索で、「」や“ダブルクォーテーション”を使って単語のかたまりにして検索するものです。Bはあいまい検索で、「*」というワイルドカードを語尾につけて、不明な文字を検索します。CはOR検索で、ある意味、足し算で少々間違っていても表示できます。Dはどっちも含む検索で、AND検索です。Eは複合的な検索で、OR検索とAND検索を組み合わせたものです。Fはサイト内検索で、「site:」を使い、特定のサイトのなかだけを検索しますから、情報の精度が高まります。Gはドメイン指定の検索で、「ac:」などのように日本の大学や研究機関などだけをターゲットにして検索するので、これも精度が高まる方法です。Hはタイムマシン検索で、古くなってしまった情報を探すのに便利なもので、たとえば、「Wayback Machine」(https//archive.org/web/)というのがあり、削除されてしまったものでも閲覧可能なものがあります。
これなどは、ある意味、いくら削除したとしても閲覧できるので、こわいこともありますが、それがネットだという認識も必要ではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、これも第5章の「ネット情報の海におぼれないために」に書いてあったネットの短所です。
これを見てもよくわかりますが、長所はマイナスにもなり得ます。また、今まで検索した情報からある程度絞られてしまいますから、次々と検索の幅が狭くなることもあります。たとえば、欲しいと思った品物も、それに近いものだけになってしまい、考えてもいないようなものははじかれてしまいます。
これだって、メリットとデメリットになり得ます。つまり、ネットは諸刃の剣だともいえます。だから、それを知った上で、上手に使うことが大切だと思います。そういう意味では、ぜひこれからスマホを使う若者たちにも読んでほしい1冊です。
(2023.4.8)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ネット情報におぼれない学び方(岩波ジュニア新書) | 梅澤貴典 | 岩波書店 | 2023年2月21日 | 9784005009640 |
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☆ Extract passages ☆
ネットの短所としてまず挙げられるのは、信頼性が低く、不確かな情報が含まれやすい点です。また、長所として挙けた情報のスピードの速さや双方向性も、ときにマイナス面となります。SNSでの炎上や誹謗中傷は、その最たるものです。
またキーワード検索も便利ではありますが、検索した履歴から、私たち利用者の属性や好みが情報を流す側に把握されていることを知っている人も多いでしょう。ネットが自分好みの情報をどんどん提供してくれることは、一見すると便利なように思えますが、新たな出会いの可能性を狭めているかもしれません。
(梅澤貴典 著『ネット情報におぼれない学び方』より)
No.2172『徳川家康 弱者の戦略』
私はほとんどテレビを見ないのでわかりませんが、「はじめに」のところで、「どうする家康」もおもしろいのですが、と書いてあって、これはNHK大河ドラマ「どうする家康」のことのようです。
たしかに、これはドラマですから史実と違うところもありますが、だからといって史実に忠実に書いたとしても、それは先行研究や最新研究であっても、いつひっくり返るかわからないものです。しかも、その史実を積み重ねたものでは、あまりおもしろくないというのもあります。しかも史実といいながらも、為政者によって都合のよいように書き改められることもあり、たとえば家康が寅の年の寅の日の寅の刻に生まれたというのも、実は1603(慶長8)年に家康が征夷大将軍に任じられたときの天曹地府祭という儀式のときの祭文に卯年生まれと書いてあり、しかもその原文が今でも宮内庁書陵部に残されているそうです。
おそらく、長い歴史のなかには、このようなことはたくさん紛れ込んでいるかもしれません。そもそも家康の神格化は、この本によると、「家康の神格化をはかるイメージ操作は、関ヶ原の戦いに勝ったあと、豊臣家を減ぼすころまでに激しくなっていったと考えられます。この頃には、家康も将軍や天下人になるのを強く望んでいました。松平徳川家はもともと弱者です。弱者にはイメージ戦略が必要なのです。家康死後も、徳川家を天下の家として権威づける必要があり、その仕掛けが考案されたのでしょう。逆に言えば、戦国時代とは、武将として生き抜き、天下人として君臨するためには、卯年生まれが虎の仮面をかぶらなければならないほど、厳しい時代だったともいえます。単に武力だけではない、神話的なイメージまで動員する総力戦を、家康は戦っていたのです。」と書いてあり、なるほどと思います。
だとすれば、イメージ戦略で彩られた歴史は、あくまでも脚色されていますし、不利な情報は消されてしまいます。だから、歴史家は「史実」の追求をするわけです。
ただ、そればかりだと無味乾燥の歴史書になることもあり、読んで楽しい歴史書にはなりません。さらに、「歴史は伝えられるなかで尾ひれがつきますが、その尾ひれのつきかたにこそ、歴史時代の人々の心があらわれる面もある」といいます。そしてその場合は、「史実」と「尾ひれをしっかりと区別することが大切で、この本では、語尾の表現で、つまりは「と伝えられています」とか「という伝説があります」と書いてありました。
この本を読んでみると、学術書のような歴史書ではありませんし、だからといって通俗小説のような歴史書でもありません。ある意味、その両方に足を置いて?いてあるように思いました。だから、楽しくおもしろく読むことができました。
下に抜き書きしたのは、第2章の「信長から学んだ「力の支配」とその限界」の「信用のフィードバック」に書いてあったものです。
この後に、信長、秀吉、家康を別な角度から比較したものがあり、たとえば、武田勝頼は「戦う姿勢」を示すことができなくなったのが崩壊につながったといいます。だから、その所属するメリットが大切なことで、「織田家は信長という存在自体が最大のメリットでした。それを本能寺の変で失うと、織田家中は空中分解しました。秀吉の場合、メリットは「財力」、領地。金品を与える力です。それが朝鮮半島への侵略が失敗して、これ以上領地を与えられなくなると、とたんに豊臣政権の崩壊が始まりました。実にわかりやすいものです。家康が与えた最も重要なメリットは「安心」だったのかもしれません。領地を保証してくれ、泰平を維持してくれる安心感です。それが損なわれたのが、幕末における海外の脅威でした。」と書いてあり、これもほんとうにわかりやすいと思いました。
たしかに、徳川幕府が260年も続いたのは「安心感」だったかもしれません。いつの時代もそうですが、戦うことより、平穏な生活が一番です。
(2023.4.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
徳川家康 弱者の戦略(文春新書) | 磯田道史 | 文藝春秋 | 2023年2月20日 | 9784166613892 |
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☆ Extract passages ☆
信長、秀吉、家康の二者を比較するなら、信長は価値観もふくめ一元的に服従させる権力、秀吉は全てを呑みこもうとする権力、そして家康は棲み分ける権力ということになるでしょう。このうち、信長型は求心力が強く、急速に成長可能ですが、ブラック化しやすく、メンバーが「信長疲れ」を起こします。秀吉型も強力な成長志向で拡大路線には強いが、朝鮮出兵の失敗のように、行き詰まると、やはり「秀吉疲れ」の弊害が表面化します。そのなかで、もっともサステイナブルだったのが家康の棲み分け路線だったといえます。
(磯田道史 著『徳川家康 弱者の戦略』より)
No.2171『男おひとりさま道』
著者の名前で今もはっきりと覚えているのが、2019(平成31)年度東京大学学部入学式の祝辞です。その最後に、「あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。」と結んでいます。
これを読んだときには、フェミニストという概念ではくくれない幅の広さを感じました。やはり、学問というのは、正解のない問いに満ちた世界であってほしいと思ってましたから、この考えには大賛成です。
この本のなかでも、人生のピークを過ぎたときこそ人生のうちで最も充実を感じるときかもしれないといい、その年齢に達してみると、なるほどど思います。そして上りより下りのほうがスキルがいるとして、「上り坂のときには、昨日までもっていなかった能力や資源を、今日は身につけてどんどん成長・発展することができた。下り坂とは、その反対に、昨日までもっていた能力や資源をしだいに失っていく過程である。昨日できたことが今日できなくなり、今日できたことが明日はできなくなる。問題はこれまで、人生の上り坂のノウハウはあったが、下り坂のノウハウがなかったこと。下り坂のノウハウは、学校でも教えてくれなかった。そして上りよりは、下りのほうがノウハウもスキルもいる。」と書いています。
この人生のピークにしても、著者がいうように、「実のところ、過ぎてしまわなければわからないものだ。自分が下り坂にあって、ふりかえったときにはじめて、あれが人生のピークだったのか、とわかる。」とあり、私もそうだったと思います。下り坂に気づいたときには、けっこう下がってきていて、やはりあのときが、という感覚です。
ただ、それ以降は下り坂だと意識するこが大切で、あまり無理をしないことです。車の運転だって、何時間も続けてしないようにして、いい風景のところがあったら、一休みするようにしています。今年からは、車にソケットがあるので、電気ポットを持っていって、どこでもお茶やコーヒーを飲もうと思ってます。
それと、おもしろい考え方だと思ったのは、「女は女であることを証明するために男に選ばれなければならないが、この反対は成りたたない。男は男であることを、女に選ばれることによって証明するのではなく、男同士の集団のなかで男として認められることで証明する。男が男になるために、女はいらない。男は男によって承認されることで男になる。女はあとからごほぅびとしてついてくる。」というものです。
こういうあり方を専門用語で「ホモソーシャル」と呼ぶそうですが、男は産まれながらにしてパワーゲームで争う生きものなのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、第2章の「下り坂を降りるスキル」のところに書いてあったもので、「自然は最良の友」だそうです。
たしかに、私もそう思ってますし、小町山自然遊歩道を造ったのもいつも自然に触れていたと思ったからです。とくにコロナ禍では、とこへ出かけることもできなくて、小町山自然遊歩道を毎日歩きながら、自然の営みを観ていると、ほんとうに楽しいものです。そして、自然の不思議もたくさん見つけることができました。
ここに何時間いても、まったく飽きるということはなく、毎日出かけていっても、毎日変化しているので、一日一日がまさに「日々是好日」です。
(2023.4.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
男おひとりさま道(文春文庫) | 上野千鶴子 | 文藝春秋 | 2012年12月10日 | 97841678383790 |
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☆ Extract passages ☆
「おひとり力」のあるひとには、自然のなかで子ども時代を送ったひとが少なくない。野山を歩きまわったり、一日じゅう小川で遊んだり……。疎開学童でいじめに動あったことのある世代には、自然のなかにいることが癒しで、何時間ひとりでいても飽きることがなかった、というひともいる。自然は少しもじっとしていない。陽は刻々と翳るし、風のざわめきがある。虫たちの気配があるし、鳥たちのさえずりも注意して聴けば、うるさいくらいだ。
(上野千鶴子 著『男おひとりさま道』より)
No.2170『歩く江戸の旅人たち 2』
『歩く江戸の旅人たち 2』ということは、『歩く江戸の旅人たち 1』もあるはずで、調べてみると、『歩く江戸の旅人たち』は一般庶民が主役で、彼らが道中で書いた旅日記の分析から、「名もなき旅人の歩行事情」というものでした。
この『歩く江戸の旅人たち 2』の副題は、「歴史を動かした人物はどのように歩き、旅をしたのか」で、松尾芭蕉、伊能忠敬、吉田松陰、清河八郎、勝小吉の5人を取りあげています。先の3人は知っていましたが、後の2人は知らなかったので、どのような人だったのかなど、興味がありました。
読み終わった今日は、たまたま四国から帰ってきたばかりで、昨夜は「特急サンライズ瀬戸」に乗り、今朝の7時8分に東京駅に着き、そして東京駅8時8分発の「つばさ127号」で米沢駅に10時22分に着きました。まさに前回のNo.2169『鉄道きっぷ 探究読本』に書いてあったような旅を楽しみました。
さて、この本は、旅をすることでどのように生き方が変わっていったかというようなものではなく、まさにどのぐらい歩いて、どのような日程で旅をしたかというのが、事細かに書かれています。今まで、松尾芭蕉の『おくの細道』を読んでも、歩いている様子がなかなかわからなかったのですが、これを読むと、1日に何時間歩いて、何q進んで、どこに泊まったのかがよくわかります。ここでは、『おくの細道』は文学書ではなく、あくまでも紀行文で裏付けまで書いてあります。そういう意味では、今まであまり取りあげてこなかったものが書いてあり、とてもおもしろく読みました。
たとえば、たとえば、私が住む近くの川西町の話しも出ていて、それは上小松の金子拾三郎の参宮記です。そこには、「元禄4(1691)年、上小松村(現在の山形県川西町)の金子拾三郎が伊勢参宮をした際に、「道中付」という旅日記を書いています。10名の同行者と二ヵ月間をかけて周遊した、当時としては豪華な旅です。先に示した方法で、金子拾三郎の59日間におよぶ旅のうち48日間分の歩行距離の情報を取得しました(59日間中、逗留が11日)。拾三郎の足取りは、在地出立後は東北地方を江戸に向かって歩き、途中日光に立ち寄って11日目に江戸に到着しています。概ね、芭蕉が歩いた街道を逆方向に遡ったコース取りだったと言えるでしょう。江戸出発以降は、東海道経由で伊勢参宮を果たし、さらに奈良、高野山、大坂、京都にまで足を延ばして、帰路は中山道で善行寺に参詣し、日本海沿岸を北上するルートで上小松村に帰着しました。拾三郎の総歩行距離は1800kmにおよび、1日平均の歩行距離は37.9q、最短歩行距離は7.8qでした。最長歩行歩行距離は66.3qとかなり長いことがわかります。」と書いてあり、その当時の記録としてはとても貴重です。
しかも、このような旅をした人たちが、私のすぐ近くにいたということも驚きです。また、清河八郎も山形県庄内の人で、1855(安政2)年3月19日に、母の長年の願いだった伊勢参宮に連れて行き、しかも奈良、京都、大阪だけでなく、四国の丸亀や安芸の宮島、岩国まで足を伸ばし、169日間も旅をしてきたそうで、まさに親孝行の旅です。
吉田松陰についても、この時代には旅をすることでいろいろな知識を吸収するだけでなく、「幕末動乱期を駆け抜けた松陰の思想形成は、その健脚に支えられていました。言い換えれば、松陰のような歩行能力を持っていなければ、生活圏を飛び越えて異文化世界で学び、国際社会を視野に入れた近代的な思考を身に付けることは難しかったのでしょう。吉田松陰をはじめ、幕末の志士の中には旅行家が多く見られましたが、それは偶然ではありません。諸国を歩き回って旅することは、来る近代を見据えて人びとを導けるリーダーの条件だったのではないでしょうか。」といい、たしかに旅をすることで、多くのことを自分の目で見、耳で聞いて、いろいろな体験を積み重ねていったと思います。
よく「井戸の中の蛙」といいますが、そのような人にリーダーシップをとれるわけはありません。
最後の勝小吉については、まったく知らなかったのですが、彼の長男が勝海舟だそうで、父とはまったく違う生き方をしましたが、まさに反面教師だったようです。
下に抜き書きしたのは、「おわりに」に書いてあったもので、原典は浅井了意の『東海道名所記』の冒頭に書いてあるそうです。
旅というのは、いつの時代も困難を乗り越え、新たな出会いがあり、その土地ならではの名物を味わい、貴重な体験をすることです。だから、「可愛い子には旅をさせろ」というわけです。
(2023.3.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
歩く江戸の旅人たち 2 | 谷釜尋徳 | 晃洋書房 | 2023年1月20日 | 9784771036840 |
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☆ Extract passages ☆
「『いとおしき子には旅をさせよ」といふ事あり。万事思ひしるものは、旅にまさる事なし。鄙の永路を行過るには。物うき事、うれしき事、はらのたつこと、おもしろき事、あはれなること、おそろしき事、あぶなき事、をかしき事、とりどりさまざま也。」
(谷釜尋徳 著『歩く江戸の旅人たち 2』より)
No.2169『鉄道きっぷ 探究読本』
著者はNHKの記者で、現在松山放送局に勤務しているそうで、2021(令和3)年6月のNHKテレビの「おはよう日本」で取りあげられ、硬券に関する特集で説明したそうです。
私は硬券とか軟券などの区別も知らなかったのですが、著者のきっぷに対する思いから、この本を読み始めました。
それというのも、3月25日から四国へ旅をしていて、今回は帰りは「特急サンライズ瀬戸」に乗りたいと思い、きっぷの売り出し日の午前10時にすぐポチできるように全てを整えて準備していました。ところが、電子時計の10時にすぐに押したにもかかわらず、売り切れでした。たしかにタイムラグもあるし、今、全国で走っている寝台特急はこれだけなので難しいとはわかっていました。しかも、「A寝台個室」はたった6部屋しかないのです。
何度チャレンジしてもダメだったので、帰りの飛行機を予約しましたが、されでも諦めきれずに最後と思ってポチっとすると、なぜか今度は空席があったのです。半信半疑で予約を進めると、ちゃんと最後の支払いまでいき、全て完了しました。もちろん、この時は最高に嬉しかったですよ。
その後に図書館に行ったときに見つけたのが、この『鉄道きっぷ 探究読本』です。今読まないでいつ読むのという感じで、すぐに借りてきました。
それを読んでいて、私も時々は手もとに残ったきっぷをそのまま記念に保管するときはありましたが、それを目的に旅する人がいるとは知りませんでした。「乗り鉄」や「撮り鉄」はなじみがありましたが、「きっぷ鉄」という趣味のジャンルがあることを初めて知りました。でも、読んでいるうちに、なるほど、これは収集する人がいるのは当然だと思いました。しかも、鉄道のきっぷに、これほどの種類があることも知りました。これでは、集めるのも相当な時間と経費がかかるとも思いました。
それと、一番これはと思ったのが、今回のやっと手に入れた「特急サンライズ瀬戸」のきっぷを、なんとか手もとに残したいと思っていたので、その方法が書いてあり、とても参考になります。それは、「旅行の記念、旅の思い出としてきっぷを残したい。また、会社員や公務員にとっては、出張で使ったきっぷを事後に出張記録として提出するということもあるでしょう。出張していないのに出張したことにして交通費などを不正に得る、いわゆる「カラ出張」を防ぐ目的で、使用済みのきっぷを提出するよう求める会社、団体は少なくありません。そうした事情をふまえて、JR各社やほとんどの私鉄は、使用後のきっぷの持ち帰りを認めています。ただし、自動改札にきっぷを通すと強制的に回収されてしまうので、改札日の駅員にきっぷの持ち帰りを依頼する必要があります。そして駅員から、使用後のきっぷに「無効」や「乗車記念」などと書かれたスタンプを押してもらったり、きっぷに穴を開けて磁気データを壊してもらったりして、明らかに使用済みとわかる状態にしたうえで、きっぷを持ち帰ることができます。」と書いてあり、これはとても参考になります。
この方法で、私も「特急サンライズ瀬戸」のきっぷを記念に持ち帰ろうと思います。
また、駅にも個性があるということも書いてあり、そういえば、私の場合は出発する駅や到着した駅は見ていますが、通過駅はほとんど見ていません。また、見ることもできません。ところが、きっぷを収集している方たちは、入場券も集めているので、駅の構内から出る場合もあります。さらに、駅によってきっぷも違うのだそうです。この本では、「全国各地の駅、どこできっぷを買うかという選択も、きっぷ収集のうえでは重要な要素で、楽しみのひとつです。どの駅できっぷを買っても同じではないか、と考えられがちですが、駅は無個性ではありません。きっぷの売り方、そして出てくるきつぷも駅によって個性があるのです。有人駅のなかでも、とくに個性を感じさせてくれるのが「簡易委託」駅です。簡易委託とは、きっぷの販売や集札といった駅の業務の一部に絞って、鉄道会社が第二者に委託する方法です。委託先はさまざまで、企業や自治体、地元の観光協会や商工会などの団体が主ですが、場合によっては近隣の個人商店や住民が受託者となる場合も散見されます。」と書いてあり、あらためて、駅で発売するきっぷにも個性があることを知りました。
下に抜き書きしたのは、第5章の「未来はどうなる?! 激変するきっぷ事情」のところに書いてあったものです。
たしかに、ICカードの普及やネット予約、さらにはコロナ禍できっぷそのものもそうですが、鉄道各社や旅行業者までもがこれらの影響をもろに受けてしまいました。窓口は廃止され、駅は無人化され、さらに合理化の波はとどまる気配すらありません。気がついたら、旅行会社の店舗もJRにしても「みどりの窓口」や「びゅうプラザ」もあまり見かけることもなくなり、私自身もネットできっぷを買っています。
たとえば「びゅうプラザ」、全盛期には171もの店舗があったそうですが、令和4年2月に新潟駅の店舗を最後に、全廃になったそうです。
だから、この流れはますます続きそうです。だからこそ、抜き書きしたところは、なるほどと思ったのです。昔から「顔パス」というのがありますが、これからはみんなが顔パスになるかと思うと、不思議な気がします。
(2023.3.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
鉄道きっぷ 探究読本 | 後藤茂文 | 河出書房新社 | 2022年12月30日 | 9784309292540 |
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☆ Extract passages ☆
鉄道会社も、チケツトレス化を進めて合理化、費用削減を進めたい考えはあるので、どの仕組みを使うかは会社それぞれですが、既存のきっぷ以外のものを使って乗車する機会がますます増えそうです。
さらに、きつぶの進化の先として、顔パスでの鉄道利用を模索する取り組みがあります。大阪メトロは令和元(2019)年から「顔認証改札機」の実証実験を進めています。文字どおり、顔認証でゲートを開閉する、次世代の改札機です。令和7(2025)年4月開催の大阪・関西万博の前、令和6年度中に大阪メトロの全駅に設置することを目指しています。
(後藤茂文 著『鉄道きっぷ 探究読本』より)
No.2168『いちにち、古典』
副題が「〈とき〉をめぐる日本文学誌」で、1日という時間を古典を通して、昔の人たちはいかに過ごしていたかを描いた古典入門です。
この視点はとてもおもしろく、つい、古典の世界に引き釣りこまれてしまいました。本の紹介で「時を駆ける古典入門」とありましたが、この時を駆けるとは、「物事を行うのにある程度長い時間を使う様子。すぐに完了させない、または、長い事それに携わる、といった意味で用いる表現。」だそうです。
だとすれば、1日といいながら、その1日を引き延ばして、いろいろと考察をするのかな、と思いました。読んでみるとよくわかりますが、学校で習ったよく取りあげられる古典なども多く、とても親しみやすい入門書だと思いました。
この1日というくくりは、書き出しが「鶏の鳴き声は古来おおよその時刻を知る手段であったが、鶏が鳴くと同時に、夜が明ける――、そう思っている人は多いのではなかろうか。昭和の時代、谷岡ヤスジ描くムジ鳥が朝日とともに「アサーッ」と叫ぶ漫画が一世を風靡したのを思い起こす。しかし、実は鶏が鳴くのはまだ暗い時間帯なのである。」とあり、鶏が鳴くときから始まり、最後の文章が「夜が終われば、モノは舞台から去る。そして今日もまた鶏が鳴き、 一日が始まるのだ。」なのです。
つまり、鶏が鳴くときから、再び鶏が鳴くときまでの時が、この1冊に凝縮しているということです。
また、おもしろいと思ったのは、昼から夜へと移り変わる時間帯の言葉もたくさんあると感じました。この時は、朝も早くから活動している昔の人にしてみれば、1日の疲れがどっと出てくる時であり、「判断力も鈍り、理性を感情が打ち負かす」時間帯でもあります。ある意味、ここから魑魅魍魎の時間帯に入るわけです。
「夕映え」が過ぎれば、「だんだん暗くなってゆく乏しい光のなかでは視界も狭まり、見えているはずのものが見えず、見えないはずのものが目に入ったりもする。そうしたころあいを、かつては「彼は誰そ時」と呼んだ。「かはたれどき」と言ったら、もっとわかりやすいだろうか。「あの人は誰」という意味なので、人の見分けがつきにくい時間帯だということでもある。よく似た表現に「たそがれどき」(「誰そ彼時」)もある。『万葉集』には「あかつきのかはたれどき」として、明け方のまだ薄暗いときを指す例が見える(『国歌大観』四三八四)。」と書いてあり、いろいろな表現があるということは、感じ方もいろいろだということではないかと思いました。
そういえば、この参考文献の『国歌大観』は、私が若いときに買った一番高かった本で、たしか『新編 国歌大観』角川書店で、全5巻あり、1冊の重量も相当なものでした。昔はときどき開いて参考にしていましたが、今では重すぎて、ついネット検索でごまかしています。でも、取り出しやすいところに、今も置いています。
下に抜き書きしたのは、第4章の「よる」のところの、「月の顔を見るなかれ」に書いてあったものです。
観月ということは昔からあったと思っていましたが、女性はあまり一人で見るものではないと初めて知り、それが『竹取物語』のかぐや姫の嘆きにまで遡るとあり、ちょっと驚きました。今では、孫娘が学校の授業で習ったといい、星図を参考にして月を見たり、最近ではMoon Bookというアプリで、月に関する情報をわかりやすく表示するものまであるそうです。ある意味、月がそれだけ身近に感じられるようになったからなのか、はたまた、人が月に下り立ったことから、さまざまな幻想がなくなってしまったのか、ちょっと考えさせられました。
(2023.3.24)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
いちにち、古典(岩波新書) | 田中貴子 | 岩波書店 | 2023年1月20日 | 9784004319580 |
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☆ Extract passages ☆
『小町集』は実際の小野小町の歌ではないものが多いので、これも「女」が小町に擬せられているのだろう。『源氏物語』「宿木」巻と同じように、ここでもまた、月を見る女を男が制する、という構図が見出せる。つまり、女性が一人で月を見ることが禁忌とされるのは、かぐや姫のように思い悩んでしまうから、そして、彼女を思う人物の元から離れて行ってしまう可能性を危倶するからだといえるのではなかろうか。
しかし、中世になるとそうした禁忌が語られることが次第になくなり、男女ともに、月は見ることで心を慰められるものとなってゆく。それは、明るい光が迷妄の間を照らし、煩悩から解放された人間の本性を月にたとえる「真如の月」という仏教思想の浸透と関連していると思われる。月を眺めることは、みずからの内面に目を向けることを意味するようになったのである。
(田中貴子 著『いちにち、古典』より)
No.2167『この世を生き切る醍醐味』
著者は樹木希林ですが、2018年の春に朝日新聞の連載「語る 人生の贈りもの」のインタビューをした石飛徳樹さんが本にしたものです。しかも、樹木希林の娘、也哉子さんのインタビューも最後に掲載していて、とても興味深く読みました。
じつは、この本は連れ合いが図書館から借りてきたもので、おそらく、自分では絶対に選ばないと思いますが、読んでみて、とてもすごい生き方をしたきたと思いました。私はほとんどテレビも映画も見ないので、当然ながら樹木希林のことも知らないのですが、数年前に森下典子のエッセイ「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」が映画化され、そのお茶の先生を樹木希林が演じていました。この映画は、私もお茶をしていることから興味があり、本も映画も見ましたが、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」役でした。
なぜか、私のお茶の師匠とすごく似ていて、私もその先生がいたからこそ、50年もお茶を続けて来れたと思いました。
そして、お茶を習うことによって、しあわせも感じることができましたが、それが15あるかどうかはわかりません。それでも、今も毎日お抹茶を点てて、飲んでいるところをみると、しあわせなことだと感じます。
さて、本題ですが、著者のガンが見つかったのは2004年のことで、2013年の日本アカデミー賞授賞式で全身ガンであることを公表し、それから2018年9月15日に亡くなるまで、14年間もガンと付き合ってきたことになります。一時はステージ4といわれていたし、いつ亡くなられても不思議ではないというような報道もありましたが、まさに生き切ったということになります。
そのガンについて、養老孟司さんがガン検診も受けないということを聞き、なぜと聞くと、「そうしたら「がんっていうのはね、出来てもまた消えてったりね、するんですよ」と言うの。「もう、みんな、がんがいっぱい出来てるんですよ。年を取ってくれば、それが固まってくるんです。早期発見、早期発見なんで喜んでるけど、あんなのは放っときゃあね、なくなっている可能性もあるんですよ」って。そういうことらしいの。……「だから僕はね、もう、ゆったりと楽しいことをやる。そして嫌なことはもうやめることにしました」って。それでね、「一番嫌なのが大学の先生だったってわけ。そんで『バカの壁』がヒットした時に、「もうこれで食べていける」と思って、北里大学は辞めちやったんですって。」と答えたそうです。
たしかに、養老さんらしい話しですが、お医者さんが検診を受けないというのも、なぜか紺屋の白袴みたいです。でも、少しは真実があるような気もして、まさに医師の発言だからなのかもしれません。
それに対して、著者は「仕事は出演依頼が来た順番とギャラで選んでいるんだから」と、これもらしい発言でした。
そういえば、樹木希林という名前は、とてもユニークだと思っていましたが、その由来を、「これはねえ、辞書を繰ってね、名字ゃ名前に使えそうな単語はないかなあと調べてたのよ。私は、音が重なるのが好きなのね。うちの娘は也哉子っていうんだけど、やっぱり音が重なるんです。それでふと「きききりん」っていう響きを思いついたの。いいじゃない?って。別にさ、「ちゃちゃちゃりん」でもよかったけど、「ちゃ」という漢字がなかなかないのよ。……樹木希林には「き」がたくさんあって、いいなあ、と。樹木の「樹」っていうのは、おっきい木でしょ?……で、「木」は、ちっちゃい木でしょ?ある人にこう言われたことがあってね、「樹木さんのお名前は、大きい樹やちっちゃい木が集まって、希な林となる、という意味でしょう?」って。へえ、って思ったわね。」と話していました。
私も、名前にはそれなりのエピソードがあると思っていたので、「ちゃちゃちゃりん」でもよかったと聞かされ、ちょっとびっくりしました。
下に抜き書きしたのは、娘の也哉子さんの話しです。片目が見えなくなって、「これでちょうどいいんだわ」ということもびっくりしましたが、さすが娘さんだけに、それをさらっと話し、やはり役者が天職だったと認めていることもなるほどと思いました。
(2023.3.21)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
この世を生き切る醍醐味(朝日新書) | 樹木希林 | 朝日新聞出版 | 2019年8月30日 | 9784022950376 |
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☆ Extract passages ☆
人の嫌なところを見て、「次の役にこうやって生かそう」っていうのね、そんな職業、なかなかないですもんね?本当によく見ていますから。もう自然に見えちゃうんですよね。片目が見えなくなった時、「これでちょうどいいんだわ」って言っていました。一今まで見えすぎてたから、少し楽になった」って。見えたら見えたなりに苦しいこともあったと思うけれど、役者は天職だったのではないでしょうか。
(樹木希林 著『この世を生き切る醍醐味』より)
No.2165『今昔 奈良 物語集』
この本は、Wab小説サイト「カクヨム」に掲載された作品を加筆・修正し、書き下ろしを加えたものだそうです。この本を出すきっかけになったのは、「ファンキー竹取物語」がはてなインターネット文学賞大賞を受賞したことだそうで、何も知らずに、この本のなかで一番わけがわからなかったのがこの小説でした。
この大賞を受賞したと知ってからも、やはり「ファンキー竹取物語」にはなじめませんでした。ちょっと私にとっては、ファンキー過ぎたのかもしれません。
この中で一番おもしろかったのは「三文の徳」で、これは芥川龍之介が1922年に発表した『藪の中』という小説をヒントに書いたもので、時代は平安時代から江戸時代あたりの長屋の話しになっています。ただ、検非違使が奉行になって、一人一人が奉行に語っていく形式はそのままです。
ただ、『藪の中』では登場人物どうしの矛盾があり、結局は真相はわからず、「真相は藪の中」という言葉の語源になったほどです。
でも、この「三文の徳」では、最後に菩提院の上ム(じょうぼう)という僧侶が鐘を撞きながら見ていたことで、その真相がはっきりします。しかも、『藪の中』の登場人物は7人ですが、この「三文の徳」では上ムを含め5人ですから、かなりすっきりとした構成になっています。
また、興味を持ったのは、「三文の徳」ではお互いに罪をなすりつけ合い、なんとか逃れようとしますが、『藪の中』では各々の登場人物が自分を良く見せようとするあまり、そこに話しの矛盾が出てきたのではないかと思います。
つまり、罪から逃れようとするのも、自分をより良く見せようとするのも、人間の性です。そんなことを考えながら、これらの物語を読みました。
小説ですから、抜き書きするようなところはあまりないのですが、たまたま印象に残った文章を抜き書きします。
これは「若草山月記」という小説のなかに出てくるもので、主人公が鹿になったお話しです。この本に出てくる小説は、『今昔 奈良 物語集』というぐらいですから、奈良の鹿があちこちに出てきます。表紙の絵にも、鹿の姿をした人間が描かれ、やはり奈良と鹿はいにしえよりつながっているようです。
(2023.3.18)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
今昔 奈良 物語集 | あをにまる | KADOKAWA | 2022年12月21日 | 9784041131121 |
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☆ Extract passages ☆
これが己を損ない、両親を音しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えていったのだ。今思えば、全く、俺は、俺のもっていた僅かばかりの才能を空費しておった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが俺のすべてだったのだ。こんな事ならば、君のように真っ当な人生を歩み、人並みに恋愛をして、家族を持ちたかった。そして、世話になった父母へ孫の顔の一つでも見せてやりたかった。だが、最早それが叶う事は永久にない。
(あをにまる 著『今昔 奈良 物語集』より)
No.2164『死ぬまでに知っておきたい日本美術』
もともと美術には興味があり、サラッとページをめくったら、現在クリスティーズジャパン代表取締役社長だそうで、19年間、ニューヨークなどで海外勤務をした日本・東洋美術のスペシャリストです。
特に日本や東洋の美術は、日本人特有の美意識がなければ理解できないと思っていますが、さらに外国人の美術に対する眼も備われば、理解がさらに深まるのではないかと思い、読もうというより、読みたいと思いました。そして、読んでみて、この複眼的な美意識のおもしろさを感じました。
この本のなかで、経年変化と味について書いていますが、「実際、これは美術品の経年による変化(劣化)と直に関係していて、仏像やお寺も、完成当時は極彩色であったはずのものが多いが、今、我々がその極彩色の状態を見ることができたとして、同じようによさを感じるだろうか?むしろ色や漆が剥げて素地が見えたりするように劣化したことで味が出てくる……そうした「味」の感覚は日本の美意識の特徴のひとつだと考えられる。これは……器の金継ぎによる新たな美や、根来塗の下漆が見えてくることの味わい深さ、道具が美術になったという話にもつながる部分であると思う。」とあり、たしかに極彩色ならそれほどいいものとは思えないかもしれません。
たとえば、修復されたばかりの日光の陽明門を見たときも、なんかケバケバして、歴史的な深みも感じませんでした。ところが、十数年前に根来寺の管長を訪ねて行ったときに見た、管長の部屋の根来塗りの文机は、とてもしっとりしていて、いい雰囲気を醸し出していました。それ依頼、根来塗りの古い時代の茶入れを探しているのですが、なかなか見つかりません。ネットのオークションもたまには見るのですが、なかなかその質感まではわからず、二の足を踏んでいます。
この本の第5章「死ぬまでに見ておきたい日本美術100選」のなかで取りあげられたものは、著者がいうように、最近は美術館や博物館の公式ウェーブサイトでも公開されています。ところが、検索してもなかなか出てこないものもあり、そのひとつが川喜多半泥子『志野茶碗、銘 不動』でした。その説明には、「そもそも陶芸という物は、人間の力だけでなく、火という自然の力によって完成する、「偶然」の力をも必要とする芸術だが、この「不動」ほどその名に恥じない作品はないだろう。この茶碗は半泥子の長女の嫁ぎ先で戦災に遭い、火災という偶然の出来事によって再度焼き締められ、焦げや釉カセなどができて、より趣が生まれた。銘もそのことをふまえて紅蓮の炎の中から出現する「不動明王」から付けられているのもたいへん好ましい。」と書いてあり、ますます見てみたいと思いましたが、今までの所ではまったく検索にひっかかってもきません。
唯一、出てきたのは『赤不動』で、2010年2月11日から3月22日にかけて、横浜のそごう美術館で開催された「川喜多半泥子のすべて」のなかに、「志野茶碗 銘「赤不動」1949(昭和24)年 東京国立近代美術館蔵」というのがありました。
川喜多半泥子は、百五銀行の頭取を務めた三重県財界の重鎮で、陶芸はあくまで趣味でしたが、50歳を過ぎてから自宅に窯を開き、本格的に作陶したそうで、主に抹茶碗をつくり、ほとんど売ることもなく友人知人に分け与えたそうです。
でも、いつかは見てみたいものだと思い、この説明もここに書き記しました。
下に抜き書きしたのは、第2章「日本美術の妙なる仕掛け」に書いてあったもので、縄文土器と弥生土器の比較から、日本美の面白さを説いています。
これらの土器は、東京国立博物館などで実際に見たこともありますが、たしかにその違いが歴然としています。弥生土器の場合は、農耕が始まっているので、米を貯蔵するのに使うとか、実用的な要素はありますが、縄文土器は祭祀用以外には考えられない複雑な形をしています。
このように、あまり考えてこないような切り口で、日本美術を評価しているので、とても楽しく読みました。
(2023.3.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
死ぬまでに知っておきたい日本美術(集英社新書) | 山口 桂 | 集英社 | 2022年11月22日 | 9784087212426 |
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☆ Extract passages ☆
縄文土器と弥生土器は、一方がデコラティブな美、他方が余計なものを削ぎ落としたミニマルな美しさ、という両極端の魅力を代表しているようなところがあって、これは日本美術を語る上で、ある種根源的な「両輪」を示しているのではないかと思う。例えば琳派の絵画に見る、画面を草花で覆い尽くすような華やかで装飾的な美と、水墨画が追求した余計なものを徹底的に削ぎ落としたミニマルな美もしかり。こうした対極的とも言える大きな両輪が古くから受け継がれ、愛でられてきた歴史は、海外からも驚かれる特徴だろうと思う。
(山口 桂 著『死ぬまでに知っておきたい日本美術』より)
No.2163『だめなら逃げてみる』
この本は、図書館に行ったとき、東北地方の各県出身の紹介展示があり、秋田県のコーナーにこの本が1冊だけ残っていました。昨年は秋田三十三観音霊場をお詣りしたこともあり、今、ちょうど、その旅の記録を書いているので、気になり読むことにしました。
著者の小池一夫さんのことはまったく知らなかったのですが、1936年に秋田県大曲町、現在は大仙市ですがに生まれ、職業は漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家など、とても書き切れないほどです。だからこそ、このような「自分を休める225の言葉」が書けるのかもしれません。
1ページに1つのことについて書き、しかもとてもわかりやすく、納得しやすいのですんなりと入ってきます。
たとえば、第1章「不安と悩みについて」のところに、「悩み事を抱えながら、楽しく」とあり、「悩みごとの解決方法は、もちろんその原因がなくなることですが、その悩み事は悩み事として存在するけれど、他の楽しいことを充実させることでその悩みを薄れさせるのです。自分の全部がその悩み事に支配されるのではなく、一部なのだと考えるのです。さて、今日も、悩み事を抱えながら楽しくやりましょうか!」と書いてあります。
たしかに、まったく悩み事がないという人はまれだと思いますし、悩んだから解決するかというとそうでもないようです。だとしたら、この本の題名のように、だめなら逃げてみるというか、いったんそれを棚上げにして楽しむということも大切だと思います。
棚上げといえば、最近のSNSなども自分のことをまったく顧みず、人に恥をかかせようという魂胆が見え見えです。もちろん、それで非常に悩んだり、落ち込んだりすることもありますが、この本には、「人に恥をかかせようという風潮が酷すぎる。ネットでも、テレビでも、雑誌でも、あらゆる媒体で、とにかく人に恥をかかせたい。「人に恥をかかせない」「人に恥をかかせるものから離れる」と決めて生きるだけでも、自分の生活が美しくなる。人に恥をかかせるほど自分は偉くないからね。」と書いてあり、なるほどと思いました。
そんなことをしても、何にもならないと私は思うのですが、普通の人にはまったくわからない感情です。だとすれば、そういう人から離れるしか方法はなさそうです。
また、この本に書かれている「アクセル、ブレーキ、車間距離。周りを見渡して、自分がどこを走っているのか状況を知る。急ぎすぎず、のんびりしすぎず。車の運転の話みたいだけど、人の心の話でもある。」というのも納得でした。
これは第5章の「生きることについて」に書いてあったもので、たしかに車の運転のようではありますが、人の心もそれと同じで、急ぎすぎず、のんびりしすぎず、生きていきたいと思います。
また、「これでいい、じゃなくて、これがいい。あなたでいい、じゃなくて、あなたがいい。明日でいい、じゃなくて、今日がいい。妥協ではなく、自分で選び取る。今日も、そんな一日を。」というのも、確かに大切なことです。これは第7章の「幸せについて」のところに書いてあったものですが、そのあとに書いてあった文章もなるほどと思い、下に抜き書きしました。
私も家内といっしょに旅行したりしていると、私の見落としたところをさり気なく教えてくれたり、まだ戻れそうなときには、あそこの花、きれいだったよとつぶやいてくれたり、やはり一人の目より二人の目のほうがいいと思うことをいつも感じます。
だから、帰ってきてからも、写真を見ながら、あのわきに咲いていた花もよかったよねと言われて、悔しいときもありますが、そこに新たなコミュニケーションが生まれます。これって、本当に大切なことだと思います。
(2023.3.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
だめなら逃げてみる | 小池一夫 | ポプラ社 | 2018年10月10日 | 9784591160060 |
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☆ Extract passages ☆
伴侶や恋人って、同じ道を歩きながらも、
自分と違うことを見てくれていて、
自分が空を見ている時は
地面に咲く花を教えてくれたりする人がいい。
あくまでも同じ道を歩きながら、
自分とは違うところを見ていてくれる人。
その人がいてくれるおかげで、
人生により多くの目を持つことができる。
(小池一夫 著『だめなら逃げてみる』より)
No.2162『あなたの牛を追いなさい』
この本は、枡野俊明さんと松重豊さんとの対談で、枡野さんは知っていたのですが、松重さんは思い出せず、一番最後のページに白黒写真が載っていて、すぐわかりました。
私はほとんどテレビなどを見ないので俳優さんはほとんどわからないのですが、松重さんはどのようなドラマなのかはわかりませんが、たしかに見たことはあります。それにしても、還暦には見えません。
そういえば、対談のなかで、年齢に関する話しがあり、松重さんは俳優ですから、その年齢に合わせた雰囲気とか身の熟しとかは必要で、パブリックイメージは確かにあるといいます。でも、「実生活においては、年齢のパブリックイメージに自分を完全に当てはめる必要はないと思うんです。たとえば97歳になった時、「いやあ、97歳にはとても見えないくらいお元気ですね」という人になれたら、理想じゃないですか。朝ドラの『カムカムエヴリバディ』で深津絵里さんは、実年齢よりも30歳近く年下の役も軽々と演じられていて、なんの違和感もありませんでした。本当に素晴らしい俳優さんです。だから、「年齢っていったいなんなんだろう?」と思います。自分の年齢に対して恥じることもないし、いきがることもない。年齢というものは単なる記号で、その境界が分からないというスタンスでいられることのほうが僕はいいなと思うんです。」と話していて、なるほどと思いました。
たしかに、同級会などに参加すると、意外と若々しい人もいれば、老け込んでしまったような人もいます。もちろん、同級会ですから、ほとんど同じ年齢に間違いはないのですが、その見た目の違いはどこからくるのかと考えさせられます。
また、この本のなかで、自分の生き方を見つけるというところで、仕事について枡野さんは、ひと昔前までは家業を継ぐという人生がほとんどでしたが、それはそれであまり悩むことも少なく、生きていくことができたといいます。そして、松重さんは「僕らの世代の「見跡」の頃は、会社に勤めればそれで上がりという時代でした。けれども現代は会社がいつ潰れてもおかしくない。僕の孫は、22世紀を生きる世代です。きっとその時代は日本という国ではなく、世界のなかでどう生き抜いていくかを考えなければいけなくなっていると思うんです。自分が生まれて育った「町内」で仕事を探せばよかったのが、それが「地方」になり、そして「日本中」になって、今や「世界」というふうにどんどん広がってきている。グローバルになってきている時代だからこそ、より「十牛図」にあるような「本当の自分」探しの意味が重要になってきますよね。」といいます。
たしかに、選択肢が増えたのはいいことですが、悪いことだってあります。ある本に書いてあったのですが、デパートなどで出張販売するとき、たくさんの種類を並べるより、売れ筋の商品を少しだけ並べるほうがよく売れるということでした。つまり、あまりたくさんあると選ぶのに大変で、ついには選べず次に行ってしまうということでした。
また、インドに行ったときに、今でもカースト制のようなものがあるのは不思議だと言うと、実はこれは身分制度というよりは、職能制みたいなもので、自分の生まれた家の仕事を継げば、食いっぱぐれはないからということでした。だから、クリーニング屋はクリーニング屋さんになる、車屋とんは車屋さんになるということで、誰でも食べていけるというのです。つまり、他の人たちは、その仕事に新たに参入はできないということでもあります。
ただ、IT関係の仕事は、昔はなかったので、だれでも仕事ができるということで人気があるという話しでした。
枡野さんが言うように、誰でも同じことを10年も続けていれば、その仕事がすっかり板に付くというか、いわゆるプロになるわけです。そういう意味では、何をすべきかというよりは、して初めてわかることもたくさんあり、先ずはチャレンジしてみないことにはわからないということです。
下に抜き書きしたのは、第1章の「牛を探す、その前に」というところに書いてあったもので、枡野俊明の言葉です。
前回のNo.2161『沼にはまる人々』のなかに出てくる「ミニマリスト沼」に通じるものがありますが、目の周りの見えるものは気づきやすいのですが、自分自身のなかにあるものについては、なかなか気づけないようです。
つまり、その気づきが禅の修行でもあり、とても大切なことだということです。
(2023.3.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
あなたの牛を追いなさい | 枡野俊明・松重豊 | 毎日新聞出版 | 2023年1月20日 | 9784620327631 |
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☆ Extract passages ☆
身体のメタボリック症候群はお医者さんに行って処方箋を書いてもらって、運動するなり治療するなりして改善していきますよね。ですが、心の体脂肪は、自分で気づく以外に落とす方法はありません。自分で気がついて、落として、もともと自分の内にある本来の自分に立ち戻りましょうというのが、禅の世界であり、その体脂肪を落とすための行動が、禅の修行と言えます。心に張りっいた余分な体脂肪を少しずつ修行を通して薄くしていく。ゼロにはできないですが、できるだけ薄く、軽やかにしていって、本当の自分を見失わないようにするのです。
(枡野俊明・松重豊 著『あなたの牛を追いなさい』より)
No.2161『沼にはまる人々』
副題は「誰もがはまる! 危うくも至福の世界」で、さらに「200人以上を取材してわかった「沼」の正体」です。
そういえば、昔から底なし沼にはまる、とかいいましたが、はまればなかなか抜け出せないもののようですが、他の人に迷惑を掛けなければ、はまったからこそわかることや楽しさもあるかもしれないと思い、読むことにしました。
では、「沼にはまる」ということは何かといえば、2016年ごろからSNSなどのネットスラングで使われるようになったそうで、「ゲームやアイドルなど、何かにはまってしまい抜け出せない状態になることを指している」そうです。つまり、それ以前は「オタク」といういささかネガティブなイメージだった流れが、その暗いイメージを明るく何かに偏愛していることで、あまり隠すこともなく使われるようになったみたいです。
でも、何かに夢中になることは、ある意味、依存症と似たところもありそうですが、この本では、「何かの対象に夢中になり、深めることが「カツコいい」ことであり、それが人生の充足であり幸福になったのだ。ここが依存症とは大きく違う。依存症は精神医学上の病気だ。物質依存のアルコールや薬物、行為依存のギャンブルやセックスの依存状態になった人の多くは、自らを「カッコいい」とは思っておらず「幸福で充足している」とは思っていない。「やってはダメだ」と思いながらも、深みにはまり続け、気づけば社会に適合できなくなっている。」とあり、たしかに依存症というのは、専門医もいるし、その多くが健康保険の範囲内での治療も受けられます。さらに、行政のサポート、医療体制、復帰施設、自助サークルなどもあり、病気であり疾患となります。
でも、沼に深くはまってしまうと、読んでいるだけではわからないかもしれませんが、深い部分では接するところもあるように思いました。たとえば、睡眠薬沼にはまった30歳のアルバイトさんは、18歳のころから睡眠薬を手放せないそうで、ある種の薬物依存になっているようです。
私の場合は、枕に頭を付けるとすぐに眠ってしまうので、一度も睡眠薬を使ったことはないのですが、眠れないということは、とても苦しいことだという話しを聞いたことがあります。でも、どこの段階で医者に相談するかというのは、とても大事だと思います。
この本を読んでみて、では自分が沼にはまるなら何がいいかというと、「ミニマリスト沼」ならいいかもしれないと思いました。これは、この本に書いてあった43歳の会社員女性は、「モノって念がこもってぃる。捨てられなかったモノたちを、迷ぅことなくゴミ袋に入れていく。夢中になっていたので、ドーパミンが出ていたと思う。モノを捨てるって気持ちいいんですよ。心にこびりついた未練や、モノに託した希望という執着を捨てることでもあるから。私、ミシンを持っていたんですが、これはいつか生まれる子供のために持ち続けていたものですから」といいます。
そうしてモノを捨てた結果、部屋の空間は広くなり、快適になったそうで、この「ミニマリスト沼」は、これ以上の深みにはまることもないわけです。つまり、捨ててしまえば、それで終わりです。私がいいと思ったのは、自分には全てのモノを捨てることはできないだろうな、と思ったからです。
この女性は、「3ヵ月くらいは快適だったのですが、だんだんさみしくなってきて、観葉植物やルームライトを購入しました。あれから1年以上、ミニマリストは維持できています」と話していて、なるほどと思いました。
下に抜き書きしたのは、美容整形沼にはまった人たちの話しを読んでいたときに、厚生労働省の発表によると、令和5年3月13日より野外季節を問わずマスクの着用は原則不要になるそうです。もちろん、ある程度は個人の判断に任せるそうですが、学校におけるマスクの着用については令和5年4月1日から適用されるようです。
だとすれば、下に抜き書きしたようなことで困る方もいるようで、どうもみんな一緒を喜ぶ日本国民としては、これからどうなるか、いささか心配なこともあります。
(2023.3.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
沼にはまる人々 | 沢木 文 | ポプラ社 | 2022年11月7日 | 9784591175408 |
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☆ Extract passages ☆
2年以上にわたり、顔の一部をマスクで覆い続ける生活を続けていると、「素顔を見られるのが嫌だ」と考える人も多い。
人は見えていない部分を、好意的に考えてしまう傾向があるという。「マスクイケメン」「マスク美人」などの言葉が日常的に語られるようになるのは、目の印象だけで全体像を美化しつつ想像しているからだろう。
それに、「容姿のコンブレックスは顔の下半身に集約される」とも言われている。例えば、鼻の穴、歯並び、唇の形、あどの形や向き、輪郭など。
また、加齢もコンブレックスになる。見た目の印象を左右する「ほうれい線」と呼ばれる小鼻から目の横にかけて刻まれるしわも『顔の下半身』にあるのだ。
マスクをしていれば、これらのコンプレックスを丸ごと隠すことができる。
(沢木 文 著『沼にはまる人々』より)
No.2160『こりずに わるい食べもの』
この本の前編、『しつこく わるい食べもの』を読んでおもしろかったので読み始めましたが、今回は山形編などもあり、ついつい読んでしまいました。
この食エッセイは、離婚して東京で一人暮らしを始めたときから1年ほどで書いたそうで、ホーム社文芸図書WEBサイト「HB」の2021年6月から2022年7月まで掲載したものなどをまとめたそうです。なかには、NHKテキストに掲載したものもあり、多方面の活躍をしているのがわかります。また、「山形編(前編/後編)」は書き下ろしで、私が行ったことのあるところも出ていて、思い出しながら読みました。
思い出すといえば、「ブラックランチボックス」という題名のなかで、著者は週に2、3回ほど、作りたいときに弁当を作っているそうです。ただ、一人暮らしなので、誰かのために作るのではなく、あくまでも自分のためなのですが、弁当というのは不思議なものです。
というのも、私が子どものころに、「弁当づかい」といって、休みの日などの天気が良いときに、弁当を作ってもらい、屋根などに上って弁当を食べました。そんなにおかずが入っているわけでもないのに、とてもおいしかったことだけは記憶しています。ある意味、非日常のことだったからかもしれませんが、弁当そのものの味わいかもしれません。
この本では、「出勤しているわけではないので、朝に作った弁当は家で食べている。家で昼食を食べられるなら弁当の形式にしなくてもいいのではないか、と思われそうだが、背後にまるまるとふくらんだ風呂敷包みが鎮座していれば、「おし! 弁当が待っている、がんばるぞ」と仕事に集中できるし問食も減る。仕事しながら「昼ごはん、なにを食べよう」「外にランチに行くなら混まない時間にしなきゃ」などと気を散らさなくてもいい。弁当というイベント感を取り込むことで午前と午後のめりはりがでる。」と書いてあり、私の場合もイベント感だったのかもしれないと思いました。
そういえば、昨年の夏に北海道にフェリーで行ったときに、船内の夕食をどうしようかと悩んで、結局は仙台三越のイベント会場で豊橋の壺屋の「うなぎまぶし」を見つけ、それにしました。丸い弁当のなかに、愛知県産鰻と鰻ナンプラーが入って、ご飯はちょっとバターの味がしました。それをフェリーに揺られて食べながら、食後は賣茶翁で買ってきた銘「清流」でお抹茶をいただきました。
茶碗は、お気に入りの荒川武夫さんの唐津風茶碗で、もう一碗は古瀬戸鉄釉茶碗で翌朝にもお抹茶を点て銘「すずかぜ」を食べながら朝の眠気を吹き飛ばしました。
考えて見ると、私もそうとう食べることにはこだわっているようで、どこへ行くにもその土地のおいしそうな食事やお菓子をたずね歩きます。だから、この本を読んでいても、楽しくなります。
下に抜き書きしたのは、「パーフェクトワールド」というところに書いてあったもので、よくカニを食べると寡黙になるといいますが、カニに限らず美味しいものを食べるときには人は食べることに集中するようです。
実は私もそうで、若いときは一緒に食べている人に「おいしいね」と相づちを促しながら食べていましたが、最近は自分のペースでゆっくりと一人頷きながら食べることが多くなりました。
おそらく、それも新型コロナウイルス感染症の拡がりからそうなってしまったような気もしますが、この感染症の影響はすべての生活に大きな影響を及ぼしていると、今さらながら思っています。
(2023.3.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
こりずに わるい食べもの | 千早 茜 | ホーム社 | 2022年11月30日 | 9784834253658 |
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☆ Extract passages ☆
新型コロナウイルスが蔓延る世界になってから、初対面の人と食事をする機会が激減した。知人や友人でもそうそう気軽に誘えない。よほど気心の知れている友か、長い付き合いの編集者としか外食をしていない。とはいえ、ひとりの食事でも美味しいものは充分に美味しいのでそんなに気にしていなかった。もともと一緒にいる人よりも日の前の皿に集中したいタイプだ。……
「おいしいね」と言い合う幸せもあるけれど、いい大人がなにかに没頭する姿もやはり素晴らしい。これからも自分のパーフェクトワールドを恥じずに生きよう。
(千早 茜 著『こりずに わるい食べもの』より)
No.2159『まなの本棚』
この本は、偶然、返却本のコーナーのところにあったもので、そういえば芦田愛菜って本が好きだというテレビでの発言があったことを思い出し、読むことにしました。
読めば読むほど、本当に本が好きだということが伝わってきます。たとえば、林真理子さんの『本を読む女』集英社文庫のところでは、林さんの母親がこの本の主人公の万亀さんがモデルだと知り、さらに実家が本屋さんだとわかり、とてもうらやましいといいます。そして、愛菜さんも「図書館にお布団を敷いてそこで寝たい!」というんです。
実は私も昔からそう思っていて、川西町の遅筆堂文庫で図書館に泊まるという企画があることを知りすぐに申し込んだことがあります。たしか2016年7月と2018年9月でしたが、たった2回だけで、その2回とも図書館宿泊の体験をしました。そのときは、せっかく遅筆堂文庫に泊まるなら井上ひさしさんのすぐ近くでと思い、紹介するコーナーの真下に寝袋を広げ、消灯時間まで本を読み続けました。しかも、その後は懐中電灯の灯りで読みましたが、いつの間にか寝込んでしまいました。翌朝も、いつもは起こされないと起きないのですが、自分で起き出し、夜明けのまだ薄暗い図書館のなかを歩いたり、窓辺の少し明るくなったところで本棚から本を取り出して読みました。
そのとき、寝袋の中でご満悦な姿を係の方に撮ってもらった写真を、今でもときどき一人で眺めていることがあります。
だから、本が好きだという人とは相性も良く、だからこのような『本のたび』も書き続けているのだと思います。
そういえば、孫が愛菜さんのことを小さいときから好きで、いっしょに見てたので、よく覚えているのですが、その小さいころの写真もモノクロで少し載っていたのもとても懐かしかったです。やはり、私の愛菜さんの印象は俳優というイメージですが、この本のなかで、「私一人の人生だけでは経験できないことや、自分では考えもつかないような発想が本の中には詰まっています。だから本を読むたびに、「こんなふうに考える人もいるんだな」「こういう世界もあるんだな」と、発見があるんです! 私は小さい頃からお芝居のお仕事をしていて毎回いろんな作品に出演させていただいているのですが、自分とは違う誰かの人生を知って感じることができるのは、大きな喜びです。もしかしたら、お芝居で誰かの人生を演じることと、本を読むということは、自分以外の誰かの考え方や人生を知る「疑似体験」という意味で、とても近いものなんじゃないでしょうか。だから、私は本を読むことが好きだし、お芝居することが好きなのかもしれません。」と書いてあり、なるほどと思いました。
愛菜さんのいうように、本のなかに没頭することと、役者として演ずる人のなかに没頭することは、ある意味、似たようなものがあるかもしれません。そうしないと、本は読んで理解できないし、役者は内面から出てくる雰囲気が出せないと思います。
それとおもしろいと思ったのは、図鑑の読み方です。この本には、「図鑑がいいのは、最初の1ページ目から順番に読まなくてもいいってところ。だから気軽に手に取って、ページをパラパラめくって、気になるところを拾い読みするだけでも楽しいと思います。ちなみに私がよくやるのは、本棚から図鑑を取り出したら適当にパッと開いて、そのページを読むんです。「何が出るかな?」とワクワクするし、思いがけない知識が飛び込んでくる楽しみがあります。私の場合は、人体や生物、天体や鉱石、花火などに強い興味をひかれましたが、花が好きな人だったら植物の図鑑をめくってみたり、車が好きなら乗り物の図鑑を選んでみたりすると、そこから深まってもっともっと広がつていくのではないでしょうか。「本を読むのは苦手……」という人も、図鑑なら、気が向いた時にページをめくるだけでも楽しい世界が待っているはずですよ!」とあり、なんか私と似ていると思いました。
下に抜き書きしたのは、京都大学iPS細胞研究所の所長さんの山中伸弥教授との対談に出てくるものです。
そういえば、山中教授は、研究所開所から12年間にわたり所長を務められましたが、2022年4月から橋 淳教授が就任されました。それでも、山中教授は主任研究者として在職してますし、知名度も抜群ですが、第一線で活動するというのは大変なことと思います。現在、研究所は、「iPS細胞の医療応用」という使命のもとに活動しているそうで、早く医療現場で活用できるようにしていただきたいと思います。
この対談をしたのは愛菜さんが中学生のときですが、山中教授に「どんな本が好きですか?」とか「便利になった世の中で、今後科学はどこまで進歩していいと思いますか?」と尋ねているのですから、やはり読書量が半端じゃないと思いました。
(2023.3.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
まなの本棚 | 芦田愛菜 | 小学館 | 2019年7月23日 | 9784093887007 |
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☆ Extract passages ☆
山中先生 : いちばん自分ではどうしようもなくて、決められないことは「この世の中に生まれてきたこと」なんですよ。こればかりは、完全には自分ではどうしようもありません。僕たちはこの世に生をいただいたわけで選択肢はないんです。生が尽きるまで生きるしかなくて、それだったら楽しく生きようということだと思うんです。でも、この楽しいというのが難しくて決して楽ではない。どうしたら自分が楽しいと思えるのかを探すしかないんですよね。愛菜ちゃんは、何をしている時がいちばん楽しいですか?
愛菜 : う―ん。友達と話をしたり、たわいもない時間を一緒に過ごしたりするのが楽しいなと思うことが多いですね。
(芦田愛菜 著『まなの本棚』より)
No.2158『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』
この本の題名を見て、たしかに日本人は科学的な考えより感情で動いてしまうと思い、ではなぜなのかと考え、読んでみたくなりました。
副題は、「世界を確率で理解する サイエンスコミュニケーション入門」で、以前から確率というのも意外と不確実だと思っていたので、ますます興味を持ちました。
先ず、題名から受ける印象ですが、おそらく日本人だけでなく、アメリカ人などもマスコミなどの報道では感情で動くのが多い印象を持っています。よく言われることですが、未だに地動説を信じている人が相当数いるとか、UFOを本気で信じて研究をしている人もいるとか、などです。UFOはある意味、夢がありますが、地動説はまさに自分たちの地球が中心ですから温暖化などの関心は少ないようです。
特に、最近はなんでもネットで検索しますが、それだって片寄ってしまいます。というのも、ネットというのは、自分が過去に検索したものが上位にきますから、つい、そこの部分だけを見てわかったような気分になりがちです。これを「フィルターバブル」というそうですが、まさにバブル越しに見ているわけですから、正確に伝わっていない可能性もあります。
もともと、この本を読むと、エビデンスというのは確率だそうです。どんなに優秀な薬でも、薬である以上は毒ですし、なかにはまったく効かないという人や、それで体調を崩したり、最悪の場合は死に到ることもあります。だからといって、その薬は絶対に使わないようにしようとは考えないはずです。いささかのリスクはあっても、多くの人たちが救われれば仕方ないと考えると思います。
つまり、客観的リスクと主観的リスクがあり、「米国科学アカデミーが、「どれだけ安全性に注意を払っていても、あらゆる食品は潜在的にリスクを有する」と言っています。どんなものでも食べすぎたら毒になりますよ、ということです。その通りです。生物すべてに必要な塩ですら、大量摂取すれば毒になります。本当は、「食べて大文夫だったらそれでいいんじゃないの」くらいのつもりで生活すればいいのです。」と書いています。
そのすぐ後で、「重要なことは、専門家と一般市民の考え方は違うという点です。専門家というのは科学的なリスクだけを強調しますが、一般市民はそうではありません。昔からこれを食べていたので安全とか、宗教的あるいは教育的な観点から、昔のままが良いなど情緒的なものを非常に大事にします。だから、科学的な客観的リスクと一般市民の考える主観的なリスクは違うのです。そのため、いくら専門家が科学的な説明をしても、それが通じないといぅことになります。結果的には価値判断の問題なのです。」といい、いわれてみれば、まさにその通りです。
下に抜き書きしたのは、第4章「放射線はどれくらい怖いのか?」のなかに書かれていたものです。
このような論理で話しをされれば、間違いなく結論がでないだけでなく、時間だけがかかってしまいます。だからといって、このような意見を無視すると、それもまた問題です。そこが難しいところで、やはり、専門家の方が大所高所からしっかりと話し、現在わからないところはここから先のことですと真摯に伝えることではないかと思います。
そう、わからないことはわからないということが大切だと思いますが、この本の後の方で、わからないことを怖がる「危険来襲論理」というのがあるので、これもやっかいです。「いや、今は危険がないかもしれない。だけど先はわからないではないか」と言われれば、その通りです。誰だって、数十年後や数百年後のことまでわからないのは当たり前で、もしかすると、明日のことだって不透明なのが人生です。
(2023.2.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
日本人はなぜ科学より感情で動くのか | 石浦章一 | 朝日新聞出版 | 2022年11月30日 | 9784023322707 |
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☆ Extract passages ☆
「いつかは悪影響が出てくるかもしれない」という論理は、どこにでも発生する論理で、ある意味、非常に都合のいいものになつていて、誰も反論できないのです。でも、これが正しいかどぅかはわかりません。これは、自称「専門家」や「活動家」が必ず用いる論理です。
(石浦章一 著『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』より)
No.2157『親は選べないが人生は選べる』
たしかに、「親は選べないが人生は選べる」と思いながら、読み始めると、親の影響が将来にわたって及ぼすとあり、読みたくなりました。
考えてみると、最近は不登校とか引きこもりなども多いようで、こんな田舎でも普通にあるようです。その原因はと聞くと、やはり親の育て方が強く影響しているようで、昔のように子どもが多く、親がそんなに面倒を見ることができないときの方がこのような問題もあまりなかったようです。
たとえば、最近は自分の居場所がないということを聞きますが、子どもたちもそのようなことがあり、「学校社会の中で主張する自分の価値は、その子がもっている人生観といえるものです。それを持てないと、教室に自分の机はあっても、心の居場所がなくなってしまうことでしょう。自分の人生観を主張して自分の居場所を作れるか、否か。それが、子どもが学校社会にうまく溶け込めるかどうかを決めます。自分を主張できれば、子どもは学童期の10年を明るく、元気に安心して送ることができるでしょう。少数ですが、自己主張ができずに学校社会に溶け込めない子もいます。みんなから認められずに浮いてしまったり、いじめられてしまったりします。ひどくなると不登校、引きこもりになって学校に行けなくなります。」と書かれています。
また、反抗をしない子どもの問題もありますが、親子がケンカをできるということは、その根っこの部分に共通の土台があるからです。よく、仲が良いほどケンカするといいますが、ぶつかり合いを何度か繰り返していると、さらに関係性が深まります。逆に、親が無関心だったり、虐待を受けたりすれば、反抗期そのものはありません。そう考えて見ると、反抗期は、今まで同じように生きてきた子が親から離れて対等な関係になることですから、ある意味、子どもたちにとってはとても大切なものです。
もちろん、子どもだけではなく、大人になってからも、仕事を選んだり、結婚相手を選んだりと、いろいろな生き方をしていきます。そのときも、子ども時代の生き方を引きずっている場合もあります。たとえば、母親と同じような性格の女性を探したり、あるいはまったく違う性格の女性を探すこともあり、これだって、ある意味、引きずられていることになります。
この本では、成人を3つに分けて考えていますが、先ず「成人T期」は社会に出て自己責任を確立するときです。また「成人U期」は結婚して子育てをする時期で、父母性の確立のときだといいます。そして、「成人V期」は、いわば成熟期で、最後は死を受容するときです。
死というのは、おそらく誰でも怖いことですが、それは今までつながっていた全ての人たちと離れてひとりぼっちになるからです。
生まれてきたときから、いつも誰かが側にいてくれたのに、誰もいなくなりまったくの孤独です。しかも誰も経験したことのないことなので、知りようもありません。でも、私は、死のときにこれから先のことを考えるから空しいわけで、死の直前までの人生を思い出す時間だとすればそんなにも空虚感は感じなくてもいいかと想像しています。ある先達は、死の一瞬間に今まで人生が走馬灯のように現れるといいました。私も、この走馬灯を見ることができるように生きたいと思っています。
下に抜き書きしたのは、第1章「DNAで決められた最初の必然「愛憎形成」」のなかに出ていた文章です。
著者は、人生は選べるといいながらも、この赤ちゃんの心の傷はずーっと残り、引きずっているといいます。ということは、この赤ちゃんのときというのは、その人が一生生きていくための一番大切なときであり、いくら男女同権だといっても、母親の大切さは第一番です。父親というのは、この本によれば、母親を通して父親を見ているという表現をしていますが、母親から十分な愛着をもらっていれば、ダメな父親でも心の傷は少ないといいます。
もし、これから子育てをするのであれば、ぜひこの本をおすすめしたいと思います。
(2023.2.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
親は選べないが人生は選べる(ちくま新書) | 高橋和巳 | 筑摩書房 | 2022年12月10日 | 9784480075253 |
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☆ Extract passages ☆
では、いったい心の傷とは何でしょう。
心の傷のおおもとは一つです。
それは、持って生まれてきた「愛着を求める気持ち」を十分に受け入れてもらえなかった結果、そんなものを求めている自分がいけないのだと自分を否定してしまうことです。
被虐待児の場合、小さい頃に愛着を求めて親に近づきましたが、裏切られたので、もう人に頼りません、人に助けを求めません。「そんなことはあまり期待しないことにしよう」と、愛着を求める気持ちを自分で制限します。それが続くと「どうせ私は愛されないんだ」と、自分自身を否定してしまいます。それでも愛されたいと思ってしまう自分がいると、自分を恨むようになります。それが大きな心の傷として固定します。
これを、「愛着の否認」と言います。
心の傷とは「愛着の否認」です。その結果、自分を嫌うこと、「自分を否定すること」です。人の苦しみの中で自己否定が一番の苦しみです。
(高橋和巳 著『親は選べないが人生は選べる』より)
No.2156『立川志らく まくらコレクション』
落語はたまに聴くことはあっても、落語関係の本はほとんど読んだことはありません。
ところが、三遊亭円楽の代わりに立川志らくさんが「笑点」に出たら、とてもおもしろかったので、図書館でたまたまこの本を見つけ読むことにしました。でも、2016年11月24日に発行された本なのに、図書館で2022年12月8日に購入したのはなぜなのかと考えたら、ちょっと不思議です。もしかしたら、熱烈な立川志らく支持者がいて、リクエストしたのかもしれません。
ただ、読んでみると、実際に見るのとは違い、流れがほとんどわからず、(笑)とか(爆笑)、(爆笑・拍手)とか書かれていても、その雰囲気はまったくわからないわけです。やはり、どの程度の笑いがあったのか、拍手の拡がりとか、やはり落語は実際に聴いてみないことにはわからないということがわかりました。
それでも、立川談志師匠が亡くなる少し前に、入院している日本医大に著者がお見舞いに行くことになり、何かお見舞いの品を持っていかないとと考え、「師匠はステーキが好きだから、米沢牛のステーキを持って行けば、これは嫌味になっちゃいますから、「何かねえかな」って思いついたのが、ビン・ラディンがプリントされているトイレットペーパー、わたしが持っているので(笑)。」というあたりは、やはり落語の師弟関係のような気がしました。
談志師匠は、まさに生き方そのものが落語みたいだったような気がしますから、弟子の著者も似たような人柄のような気がします。
でも、米沢牛のステーキは、ここでは最上級の品のように扱われていて、地元の人間としてはうれしいものです。そういえば、1月18日から2月28日まで「よねざわ食旅 キャンペーン」でコース料理が半額で食べられるという企画があり、米沢牛サーロインステーキセットが5千円のところ、2千5百円で食べてきました。これがおいしいのかどうかは、他のブランド牛と食べ比べてみないことには判定はできませんし、米沢牛の他の部位も食べてみないことには判断もできないと思い、別なコースを申し込もうとしましたが、1月末でほとんどのコースが閉め切られていました。
下に抜き書きしたのは、2007年1月11日の内幸町ホールで演じた『湯屋番』のまくらです。
落語は、流れにのってやっているのかと思ったら、そうではなく、役者とも違うらしいです。そういえば、このまくらなどは、あくまでも即興のような芸ですから、相当な話力がなければできないと思います。
そういう意味では、とても楽しく読ませていただきました。
(2023.2.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
立川志らく まくらコレクション(竹書房文庫) | 立川志らく | 竹書房 | 2016年11月24日 | 9784801909151 |
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☆ Extract passages ☆
まぁ、芝居というのは入り込みますね。もう、その役に成りきっちゃう。それは未だわたしが、アマチュアの役者だからなんでしょうけど、本当にいい役者は、上手く切り替えることが出来るンでしようけどね。切り替えられないですね。
「普段落語を演っているのと、志らくさん、同じでしよう?」
って言うけど、全然違うンです。落語の場合は、成りきってませんから。もの凄く客観的に見てますからね。もう、そろそろ終るかなとか、今日終ったら何を食おうかなとか、ああ、今ぁ、客がしらけてるなとか(笑)、いろいろ思いながら演ってます。これ、成りきったら出来ませんからね。あの、ご隠居さんに成りきって、「わたしは今年で65歳」って成りきって、
「いやいや、八っつぁん、こっちへお上がり」
「なんですか?」
って、もうもう、切り替えなくちゃいけない(笑)。
(立川志らく 著『立川志らく まくらコレクション』より)
No.2155『弱い力でも使いやすい 頼もしい文具たち』
私も文具が大好きで、どこかへ出かけると、文具屋さんにまわります。今は新型コロナウイルス感染症でなかなか東京へも行けませんが、以前は東急ハンズや伊東屋、ロフトなどにはよくまわりました。そこで、ほとんど使わない絵はがきやスタンプなどを買い、ノートの変形版などがあるとそれも買い、今も抽斗にうずたかく詰まっています。
また、紙専用の桐の紙箪笥には、使い切れないほどの和紙や便箋などが収まっていますが、新しいものを見つけるとまた買ってきてしまいます。
今でも、毎日、万年筆を使いますが、以前はいろいろなインクを使っていましたが、ここ10年以上はセーラーの「極黒」だけにしましたが、万年筆だけは30本以上あるので、そのときの気分で使い分けています。その中でもお気に入りは、パイロットの「ジャスタス95」で、ペン先の弾力をコントロールすることができるのがいいです。
この本の著者は、脊柱側湾症、先天性ミオパチーのために2006年には杖歩行になり、2012年からは車椅子、さらに2014年12月から簡易型電動車椅子を使っているそうです。そして、少しずつ筋力も低下して、もともと好きだった文具なども、力が必要なものは使いにくくなってきたので、それでも使える文房具を探してここに掲載しています。
私が使っている万年筆も、筆圧がみな微妙に違い、自分の体調に合わせて自然と選んでいるようで、そういう意味では、この本もおもしろそうだと思いました。
最近、とくに感じるのは、蝋燭を点けるときに使うチャッカマンがだいぶ力を入れないとつかなかったり、ジャムの蓋を開けようとしてもなかなか開けられなかったりすると、力がなくなっていることに気づきます。だから、今から、そのときのために少しずつ文具も変えていこうと思いました。
この本のなかで、便利そうだと思ったのは、レターオープナーです。今まではカッターを使っていたのですが、ときには斜めに切ったり、なかの大事な書類まで傷つけたりすることもあり、この「コロレッタ」なら持ちやすいし、封筒を差し入れる部分が大きく開いているので、とても使い易そうです。しかも机の片隅に置いておいても、あまり邪魔にならないみたいです。
そういえば、万年筆の代わりにと思って買ったことのある「トラディオ・プラマン」も紹介されていて、もし万年筆が使いにくくなったあなたにというので、これも機会があれば使ってみたいと思います。これはプラスチック万年筆といわれるぐらいペン先が薄い板のような筆記具で、今はいろいろな色があるそうなので、いずれ見てみたいと思いました。
それと、今すぐにでも欲しいのは、簡単にパンチ穴を補強できる「ワンパッチスタンプ」です。私は自分専用の本にはさむシオリを作っているのですが、パンチで穴をあけて、リボンで結んでいるのですが、長く使っているとそのパンチ穴から破れてくることもあります。そのときに、これがあれば、パンチ穴を簡単に補強するシールが貼れそうです。しかも、この本によれば剥離紙がないので、ゴミもでないといいます。今度、文具屋さんに行ったら、見てこようと思います。
下に抜き書きしたのは、後ろのページにあった著者と文具王の高畑正幸さんと古川耕さんの対談に出ていたもので、高畑さんの発言です。
この発言のあとに、古川さんが、「道具として一度捉え直すという視点は、本当に必要だなと思います」とあり、私も、もともとは道具だったのだと再認識しました。
つい、今までは便利に使っていましたが、もし、筋力が衰えて今まで使っていた文具が使えなくなったらと考えると、これからは衰えても使えるような文具も考えておかなければと思いました。
(2023.2.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
弱い力でも使いやすい 頼もしい文具たち | 波子 | 小学館クリエイティブ | 2022年10月30日 | 9784778035860 |
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☆ Extract passages ☆
波子さんの話と文章には「文具に対する切実さ」があります。見た目や機能が洗練された文具を否定するわけではないですが、本来の文具には自分の身体を拡張してくれるツールとしての役割があります。最近は道具として文具を捉える機会が減っていますが、波子さんの文章を読むと文具ってこんな風に人と関わっているんだなということを再認識させられます。
(波子 著『弱い力でも使いやすい 頼もしい文具たち』より)
No.2154『旅の図鑑シリーズ 世界の魅力的な奇岩と巨石139選』
No.2151『旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木』を読んで、次に図書館に行くと、この本を見つけました。これもおもしろそうと借りてきてみると、世界にはたくさんの奇岩や巨石があると思いました。
この本に出てくるなかで、私が行ったことのあるのは4ヵ所で、特に中国雲南省にある石林風景名勝区は、3回も行きました。最初はその石の林立にただただびっくりし、2回目は時間があったのでずーっと歩いて回り、3回目は印象に残ったところだけピックアップして、時間をかけて写真を撮りました。
たしかにこのように何度か行くと、その素晴らしさや新たな発見があり、昔から「何ごと三遍」という意味が納得できました。
また、マダガスカルのツィンギー・ド・ベマラハ国立公園は、バオバブ樹を見るのが目的だったこともあり、プチ・ツィンギー(小ツィンギー)しか回れなかったのですが、それでも針が突き出したような針山を見ることができました。もし、ここで原猿のディッケンズシファカでも見つけることができれば最高でしたが、これは他で何度か合いました。
同じようにスリランカのシーギリア・ロックも、目的はキャンディとアヌラーダプラなどで、そこに向かう途中でここも見ただけです。ここは5世紀ごろに巨岩の上に王宮を建て、たった11年間住んだだけで、その存在そのものも19世紀後半に発見されるまで忘れ去られていたようです。でも、今はドローンがあり、上空から撮影もできるので、生活できるということもわかりますが、下から見上げただけではまったく想像もできません。
そういえば、ミャンマーのポッパ山(タウン・カラッ)は、下から上ったのでその全体像がわかります。途中に休むところもありますが、靴を下で脱がなければならず、足元がなんとなく落ち着かなくて、さらにサルがわが物顔に飛び出すので、油断できません。インドやネパールなどもそうですが、ハヌマーンの影響なのかサルが神聖視されていて、サル寺院などもあり、あちこちに群れで食べたり遊んだりしています。そこを通り抜けるのは、いささか気持ちのよいものではありません。それでも、わが家の近くにも野生のサルが出没するので慣れてはいるのですが、海外のサルですからその性質がわからず、知らない顔をしてそっと通ります。
そのポッパ山の頂上には、黄金色のパゴダが建っていて、その周りが寺院になっています。ここまでの高さが737mで、この本によると石段が777段だそうで、「天空の寺院」とも呼ばれているそうです。あるアニメ好きに聞くと、ここは1986年8月2日に公開されたスタジオジブリ初の長編アニメーションの「天空の城ラピュタ」のモデルになったといわれているそうで、たしかに孫といっしょにテレビで見ましたが、そうかもしれません。
そういえば、この本には取りあげられていませんが、元謀土林風景区も素晴らしいものでした。これは石ではなく土のようでしたが、この本のなかに出てくるアンゴラのミラドゥーロ・ダ・ルーアのような準堆積岩のような赤茶けたもので、そのスケールは勝るとも劣らない風景でした。
下に抜き書きしたのは、最初のページにあった「誘い」で、たしかに奇岩と巨石には人を引きつける何かがあると思います。
もし、行けるなら、イースター島のモアイ像もいつかは見てみたいと思っています。
(2023.2.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅の図鑑シリーズ 世界の魅力的な奇岩と巨石139選 | 地球の歩き方編集室 編 | Gakken | 2021年3月30日 | 9784058015933 |
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☆ Extract passages ☆
地球誕生から46億年の説きのなか、大陸移動や地殻隆起、気候変動、風雨の浸食……、さまざまな力が働き、その奇岩や巨石は存在している。
地球のパワーが生み出した存在――それが私たちを惹きつける。
太古の人々は、巨大で偉容を誇る岩に畏敬の念を抱き、不思議な形の岩に伝説を見た。今を生きる私たちもそうだ。……
1枚の写真を見るだけで、岩にまつわる話を知るだけで、「絶対に見に行きたい」と旅心をくすぐられる。
(地球の歩き方編集室 編『旅の図鑑シリーズ 世界の魅力的な奇岩と巨石139選』より)
No.2153『世界食味紀行』
副題が「美味、珍味から民族料理まで」なので、あちこち旅行をしてきたこともあり、なかには懐かしい味があるかもしれないと思い、読むことにしました。
第1章はヨーロッパ、ロシア、第2章はアメリカ、オセアニア、第3章は中国、アジア、第4章は中東、アフリカです。なぜかインドがないと思っていたら、最後のケニアのところに、「一般的に旅好きはアフリカ派か、インド派のどちらかに分かれるという。両方とも自然と人間模様、異文化(カルチャーギャップ)が魅力で究極のディスティネーションとなるようである。そのどちらにも通う、という人は私の旅仲間でもいない。私はアフリカ派でインドには一度も行っていない。」と書いてあり、なるほどと思いました。
でも、私はインドも好きで5〜6回ほど通っていましたし、アフリカも1回しか行ってないけど、とてもおもしろいと思いました。やはり、日本との違いがあればあるほど、興味が湧くことは間違いなさそうです。
また、その直前に「辺境にこそ食の原点がある。都会ではエスニック料理といえども洗練されて形は進化してゆくが、辺境は頑固にその原形を保っている。辺境では調理(技)よりも素材だ。素材こそ料理の原点であり、辺境の「カ」である。」とあり、これはたしかにそうだと思います。今でも、ネパールの奥地で食べたニワトリのワイルドな味が忘れられませんし、中国雲南省の大理で食べたマツタケも、これでもかこれでもかと鍋に放り込んだことにもびっくりしました。このときばかりは、日本で食べるマツタケの一生分を食べたような気がしました。
また、中国四川省の奥地では、食堂の前にたくさんの食材が並び、それを選びながら調理をしてもらうのですが、慣れないうちはどのように注文していいのかわからず戸惑いましたが、つい珍しい食材を頼み、食べられなかったこともあります。それでも、外国人だからなのか、笑って引っ込めてくれたこともありますが、タイ族の食堂で昆虫食を出されたときには少しだけ食べ、ほとんど残してしまったこともあります。
そういえば、韓国にお茶で使うような骨董品を探しに行ったことがありますが、ある朝に食べたサムゲタン(参鶏湯)がとてもおいしかったことを今でも思い出します。これは鶏肉の中に餅米や高麗人参、松の実などを詰めて煮込んだ料理で、一種の薬膳料理に近いものだそうです。鶏肉も柔らかく、しかもそんなに脂っこくもなく、完食しました。
今は、肉だけを食べると身体によくないといい、野菜もしっかり食べるようにといいますが、「世界で一番野菜を食べる国といわれる韓国の食卓では、ニンニク、カボチャの葉、大豆の葉、水菜、高菜、サンチュ(レタスの1種)、タマネギ、青唐辛子など野菜類は必ず出される。肉料理は肉をサンチュやサニーレクス、エゴマの葉で包んでいただく。肉を食べるなら、同時に野菜を、と言いはじめたのは世界の流行だが、韓国ではその昔から野菜をたっぷり食べることが伝統だった。」といいます。
下に抜き書きしたのは、第2章「アメリカ、オセアニア」のなかのニュージーランドの話しです。
私はニュージーランドやオーストラリアにも行ったことがありますが、肉より魚がおいしかった記憶があります。とくに、ニュージーランドのモータリストホテルに泊まり、自分たちで料理をして食べましたが、そこの炊事場に炊飯器があり、近くのスーパーで米や魚などを買い込み、料理しました。そのヒラメが特においしく、残ったご飯は、翌日の山行きの昼食のおにぎりにしたことも懐かしい思い出です。
そういえば、ニュージーランドでは肉の一番高いのが鶏肉で、次は豚肉、そして牛肉は一番安かったのですが、脂肪があまりのっていないせいか、ステーキにしてもおいしくはなかったです。でも、レストランで食べたティーボーンステーキはとてもおいしくて、おそらく日本のように手間暇掛けて育てた牛だったのかもしれません。
(2023.2.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
世界食味紀行(平凡社新書) | 芦原 伸 | 平凡社 | 2022年12月15日 | 9784582860184 |
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☆ Extract passages ☆
ニュージーランドで牛は和牛のように牛合に囲って飼育せず、ほとんどが牧草地に放牧だから飼料、牛舎はあまり要らない。豚は小屋と餌が必要で、鶏は飼料とともに大がかりな鶏舎が必要だ。つまり世話をやく手間と小屋、餌代のかかる順に肉は高くなってゆく。
野に放たれて、牧草だけを食べている牛は手間と餌代がかからない。だから肉は安いが、ほとんどの牛たちは痩せており脂肪がのっていない。だからステーキにしても硬くて脂身が少ないのだ。……
サカナについては、日本では鮮魚は高いが、ニュージーランドでは鮮魚は牛肉よりも安い。タイやアワビは、地元では安くしか売れないから高く売れる日本へと輸出している。
(芦原 伸 著『世界食味紀行』より)
No.2152『四万十の流れのように生きて死ぬ』
知り合いの方が血圧が高いということで病院に行ってましたが、昨年の秋、大学病院から派遣されていた担当医が変わった途端に、この位の血圧なら薬は必要ないと言われたそうですが、心配だからと言っても、毎日朝晩に血圧を測って次の検診のときに見せて下さいといわれたそうです。それでも、薬局に行ったら、今まで飲んでいたのだから飲み続けたほうがいいのではと心配されたそうですが、担当医のいうままに帰宅しました。
そして、2ヶ月後に行くと、やはり血圧を下げる薬は必要ないし、また朝晩に血圧を測るようにいわれ、薬局にまわらず帰宅しました。そして、今月も行きましたが、血圧も安定しているし、その他も心配ないと診断され、喜んで帰ってきたそうです。
たしかに自分で血圧を測っているので、その変化はわかりますし、今ではなぜ前回の担当医が降下剤を処方したのかわからないと話していました。
この『四万十の流れのように生きて死ぬ』を読んで、この話しを思い出しました。著者も、「在宅医療には、医療行為をしないで見守る場面が多くあります。何もしないほうが何かをするよりもエネルギーがいります。「いのちとの距離」が、ずっと近くなるような気持ちになります。超高齢者の在宅医療は、話をしながら、細かく観察しながら、医療行為を抑えることが一番だと思います。……直接的な医療行為を何もしないほうが、患者さんには楽な場面があります。医療行為をしないで看取りに入る場面では、できるだけ電話を入れるか、訪問する回数を多くするようにしています。患者さんの診察をして、家族に説明をして少しでも患者さんのそばにいるようにします。家族の不安が少しでも少ないようにと工夫をします。」と書いてあるので、なるほどと思いました。
でも、本当はこのなにもしないで見守るという医療行為にも、それ相当な治療費が付与されればいいのでしょうが、この本にはそこのところが一言も触れてはいません。だから、これで病院経営がどのようになっているのか、ちょっと心配になりますが、薬をたくさん出さなければ経営できないというのが本来はおかしな話しです。
よく治療にもユーモアが大切だといいますが、著者は、「ユーモアは生きる力です。診察室でも、ユーモアのある人はこころがぺしゃんこにはなりません。ぼくはユーモアのある川柳の句は得意ではありませんが、こころが重たくなると意識してユーモアを大切にしています。……笑ぅと、こころがふわっと綿菓子のようになります。肩の力が抜けます。こだわっていたことが、大笑いのあと、飛んで行きます。」と書いてあり、これを読んで、「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」という映画を思い出しました。
下に抜き書きしたのは、第3章「介護と家族」に書いてあったものです。
著者は、どうしようもないときには施設や病院に入るのもいいけど、一番好ましいのは在宅介護だといいます。でも、それは家族の負担がどこまで絶えられるかであって、簡単にはいかないようです。
それを見据えての話しですから、とても参考になると思います。
そして、胃瘻とかいろいろな問題もありますが、一番いいのは口から食べるのがいいといいます。著者は「水分と、栄養補助食品を摂っていたら、人間は死にません。口から食べるのが、やっぱり一番です。「口を捨てない人は強い」そうよく聞きますが、その通りです。あの手この手、時間に縛られないで食べていただくこと、なんでもいいです。むせたら、とろみをつけるとか頭の角度を変えてみたりします。」と書いています。
私も、毎日自分の口でおいしいものを食べたいと思いますから、特別の場合を除いて、人工呼吸器をつけないでほしいと思っています。
(2023.2.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
四万十の流れのように生きて死ぬ | 小笠原 望 | 清流出版 | 2021年6月18日 | 9784860295066 |
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☆ Extract passages ☆
農業などの一次産業に携わってきた人のする介護は、工夫が多く、繰り返しの行為でも疲れが少ないように思います。適度な手抜きも自然にできているように思います。意外と難しいのが、学校関係の方たちです。知識は十分ですが、手の出にくい人が多いように感じます。本人は気がついていないのですが、指示的な言葉が学校関係者に多いのも特徴です。ぼくは介護する人の性格や関係性よりも、介護者のそれまでの社会体験が大きいように感じています。
介護も子育てと同じように思い通りにいかない世界です。それをありのまま受け取れたらいいのですが、自分のなかに「こうあるべきだ」の気持ちが強いと疲れます。ぼくは、介護は「切なさを知る」人がいいといつも思います。
(小笠原 望 著『四万十の流れのように生きて死ぬ』より)
No.2151『旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木』
『地球の歩き方』といえば、海外に一人で出かける場合のバイブルのようなもので、私もたいへんお世話になっていました。ところが、新型コロナウイルス感染症の拡がりで、なかなか海外に行けなくなり、さらに国内でもワクチンを接種するとか感染対策をしっかりしないと出かけられなくなり、このような本も売れないだろうなと思っていました。
すると、この編集部を学研が引き受けることになり、この「旅の図鑑シリーズ」も22冊も出ているそうで、一著者として、良かったと思いながら、この本を開きました。
副題は、「全都道府県250柱のヌシとそれを守る人に会いに行く」ということで、とても興味のある内容になっています。
ここに出てくる神木のなかで、私が見て凄いと思ったのは、大日坊の旧境内地にある「皇壇の杉」です。これは2021年7月19日に庄内に行ったときに大日坊にお詣りし、ここにも行ったのですが、いかにも日本海側の多雪特有のウラスギで、太い枝があっちこっちに伸びて垂れ下がっていました。ほとんど訪ねる人もいないようで、案内板も壊れかけていました。いろいろな伝説もありますが、それ以上に存在感が圧倒的でした。
この他にもいろいろと見ていますが、新潟県阿賀町の「将軍杉」もその1つで、ここは何度か訪ねていますが、残念ながら主幹が1961年の台風で折れたそうで、それがあれば、もっともっと大樹のイメージがあります。それでも、2001年に環境省のフォローアップ調査で幹回り19.31mと計測され、日本一になったそうです。ここは近くの平等寺の境内で、たまたまこの平等寺薬師堂の茅屋根修復のときに行き、その維持保存が大変なことを知った場所でもあります。
この本で、神宿る巨樹としているキーワードを、「◆魂を抜かれるほどの巨樹(巨)、◆神社・寺院境内の御神木(聖)、◆神様、仏様になった御神木(神)、◆御利益をいただける、願いを託す神木(願)、◆山の王、森のヌシと出会う(主)、◆伝説が語られる奇跡の一本(奇)、◆この世のものならぎる怪樹(怪)」として上げています。もちろん、「これはあくまで便宜的なもので、実際はそれぞれ上記複数のワードにまたがっている場合がほとんどである」と書いています。
たしかに、人によって巨樹から受ける印象はそれぞれですが、その圧倒的な存在感はあります。ただ、そこに立っただけで、凄いパワーがあるのではないかと感じます。
そのパワーの源の1つは、ウラスギと呼ばれる大雪にも負けずにそびえ立つ杉を見たときにも感じます。このウラスギというのは、「日本海側に多く分布する天然スギのことで、太平洋側などに広く分布するオモテスギと対比的に用いられている呼称である。ウラスギは冬に低温多湿で降雪量が多い気候に適応した変異種といわれ、その特色は、(オモテに比べて)耐陰性が強く、下枝が枯れずに降雪で垂れ下がり、地面につくと発根するのが特徴といわれる(これを伏条更新という)。生物学的にはオモテとウラの二元論に否定的な向きもあるようだが、国立研究開発法人・森林総合研究所によれば、「全国に点在して分布するスギ天然林をDNA塩基配列情報に基づき詳細に解析したところ、ウラスギとォモテスギは遺伝的に明瞭に分化しており、ふたつの遺伝子に大きな違いがある」ことがわかったという。その遺伝子の分化は何によってもたらされたのかといえば、やはり「積雪量のような環境条件などによる自然淘汰を受けた結果生じた可能性」(同研究所)が考えられるとのことだ。」と書いてあります。
そして、ウラスギ系は、天然秋田杉、立山杉、北山杉などで、オモテスギ系は飫肥杉、吉野杉、屋久杉などが例としてあげられていました。これら日本の杉は、どちらにしても日本の固有種です。これからも大切に護っていかなければならないと思います。
下に抜き書きしたのは、最初の「御神木とは何か」に書いてあったものです。
たしかに巨樹の前に立つと、言葉にならない叫きのようなものしか出なくなります。そういえば、2014年2月から3月にかけて行ったニュージーランドで見たカウリの森の「TeMatuaNgahere」の巨大さは、屋久島で見た「縄文杉」と比較にならないほどの驚きでした。
そう、絶句するしかなかったのです。
この本を読んで、まだまだ見てみたい巨樹があることを知り、ますます楽しみになってきました。
(2023.2.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木 | 地球の歩き方編集室 編 | Gakken | 2022年11月8日 | 9784058018330 |
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☆ Extract passages ☆
出会ってきたのは、とてつもない大きさの木であったり、はかりしれない樹齢を重ねた木であったりした。目の前にあるのは、いわば圧倒的な「いのち」そのものてある。たいてには、言葉にならない声を漏らしながら絶句する。言葉が出てこないのは、その存在が安直な言葉を許さないからであり、そのときに抱く感情をうまく言語化できないからだ。
(地球の歩き方編集室 編『旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木』より)
No.2150『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』
立春を迎え、さて、今年はどこへ行こうかな、と思って図書館で書架をみていたら、この本を見つけました。
たしかに、修学旅行には行きましたが、だいぶ昔のことで、そのときのことは断片的にしか覚えていません。さらに、この本のなかで、奈良を旅しているときに、「P27」と書いていて、年齢によっても旅の印象はだいぶ違うのではないかと思い、この本を読むことにしました。
この本にも、奈良の旅で、「考えてみれば、唐招提寺の小径ではしゃいだり、何もない平城京跡で感銘を受けたりすること自体、若い頃では考えられないことである。高佼生はもちろん、数年前までの自分なら退屈でしょうがなかっただろう。だが、いまはそこに味わいを感し、安らぎさえ覚えるようになった。ズボンのベルトがきつくなり、内臓脂肪が気になるくらいに"中高年力"がアップして、初めて良さがわかるのが奈良なのかもしれない。」と書いてあり、たしかにそういう面はあるよな、と思いました。
ただ、「何年後かに思い出すとき、まず蘇るのは散策の気持ちよさであり、歩きながら眺めた風景、石造物を見た驚きへと記憶がつながっていく」と書いてありましたが、私も同じ法隆寺界隈をあるいたときに感じましたが、だんだんと歩くこと自体が少なくなり、そしてなるべくなら歩かなくてもよい旅を考えるようになりそうです。私の場合は、まだ大丈夫だと思いますが、あと数年か数十年後にはどうなるかわかりません。
ということは、歩けるうちに、歩かないとわからないような旅をするしかないと思っています。
ただ、食べることならお任せで、たとえば、箱根の「富士屋ホテル」で懐石コースを食べながら、「料理界では″椀刺し″といって、お椀と刺身のうまいところは何でもうまいと言われるんだよ。刺身は包丁使いの腕が出るし素材のレベルがわかる。椀はダシの良し悪し。ここは刺身が抜群で、料理も味がケンカしないようにしっかり考えられているから、間違いなく椀もうまいはずだ」と書いていて、なるほどと思いました。
年を重ねると、旅の楽しみの一番は食べることで、なるべくならそこでしか食べられないようなものを食べたくなります。ただ、私はお酒が飲めないので、ちょっとソンだとおもうときがありますが、これは家系だから仕方がないと思うしかありません。
では、今年はどこへ行ってみたいかというと、この本の北海道などは一押しですが、この本では清水原原生花園を取りあげていて、そこに「自然のまま咲き乱れる花と背景の海が見事で、絵のような風景に溶け込めない我々も、乙女のようにはしゃいでしまう。美しいものは美しいのだ。端から見れば怪しい連中だが、誰がそばにいるわけでなし、自分の気持ちに素直に行動するのが一番である。ドライブ中は広大な牧場の風景を拝み、美幌峠で、今度は眼下に屈斜路湖を望む山の景色に目を奪われた。」と書いていて、今年はぜひ北海道に行きたいと思いました。
下に抜き書きしたのは、京都パート2で大原を旅したときに、来迎院の住職と話したときのことです。
この仕事をしたい、と最初から思う人もいますが、この仕事だけはイヤと思う人だっています。でも、それだって、いつかは納得できたり、経験を重ねることでそのおもしろみがわかるようになることもあります。
この住職の話しは、50歳を過ぎてからやっとわかるようになってきた、というのはとてもよく理解できます。
そうそう、人生は50歳を過ぎてから、いや70歳を過ぎてからかなぁ(笑)。
(2023.2.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ | 北尾トロ 著、中川カンゴロー 写真 | 小学館 | 2008年4月21日 | 9784093797849 |
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☆ Extract passages ☆
「まあ私もこうして住職やってますが、20代の頃は住職なんて絶対イヤだと思ってたもんです。本尊ですら、ただの仏像にしか見えなかった。どこに値打ちがあるんやと。それは当たり前のことでね、人間、いろいろ経験を積まないと、ものの価値なんてわかりっこないんです」
本堂の畳に座ったまま住職の話に耳を傾ける3人。最初はどうしてそんなことを言うんだろうと思っていたが、いまは真剣だ。
そんな気持ちを見透かすように、住職の力強い言葉が飛んでくる。
「ものの価値なんて、50歳過ぎてからやっとわかってくる。私だってそうでしたわ。あなたたちもそろそろそういう年代やと思うけど、これからですよ。これからがいいんですよ」
これは、励まされるなあ。
人生これから、なのである。
(北尾トロ 著、中川カンゴロー 写真『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』より)
No.2149『日本の伸びしろ』
この本の著者の書いてものを何冊か読んだことがありますが、2021年1月に脳卒中を発症したとは知りませんでした。私の友人も同じような病気でリハビリに励んだことがあり現役に復帰しましたが、著者も約1年の休職で校務に復帰されたことは、相当なリハビリだったのではないかと思いました。
それにしても、脳卒中で復帰したとしても電動車椅子を使っての移動ですから大変だと思いますが、だからこそわかることがあるといい、車椅子で動けないところの問題を浮彫にします。やはり、自分が体験しないことにはわからないことですが、それを本に書いてまとめるというのはすごいことです。そして、自分が復帰することと日本が成長することはプロセスと原理原則は同じだから、必ず活気を取り戻すことができるといいます。その伸びしろを1つ1つとりあげていったのが、この本です。
たとえば観光にしても、昨年までは新型コロナウイルス感染症の影響でどこの観光地も静かでしたが、最近は、その客足が戻りつつあります。だから、今こそ、求められる観光地のあり方を考えてみる必要があります。この本のなかに、「グローバルのニーズに応えながらも、独自の価値や魅力を打ち出して満足度を高める。この大原則は、観光地そのもののサスティナビリティも高めます。外部からたくさんのお客さまを招き入れて楽しんでもらうことは地域独自の魅力をさらに高め、地元の人たちは自分たちの文化に誇りをもち、ずっと維持していこうと頑張る。それが、僕のイメージするサスティナビリティであり、要するにサスティナビリティがなければ観光ではないのです。ここに、日本がグローバル社会で生き残つていくうえで重要なヒントがあるように思います。つまり、グローバルに通用する価値と、ローカルな独自性を両立させること。これこそ明治維新以来の日本の得意技ではないでしょうか。ここにも″日本の伸びしろ″はあります。」と書いてあり、意外と日本の良さを海外から来てくれた人たちから教えられたりします。
やはり、毎日をそこで暮らしていると、なかなか気づかないことかもしれません。
たとえば、今の経済の低迷は、戦後のバブルまでの経済成長のときの工業社会モデルから、なかなか脱却できないでいるからではないかというのも、同じです。成長期によい思いをした人たちが管理職だったりすると、昔はよかったという話しも同じ根っこです。だとすれば、そのようなところでは、なかなか今の時代のことがわからず、80年代にGDPの5割に満たなかったサービス業が今は7割を超えていることを気づきもしません。この本のなかで、デパートの1階の一番いいところを女性向きの商品が並んでいるという話しを書いていますが、考えて見れば、デパートの一番のお得意さまは女性です。だとすれば、女性のほうがその好みなどがわかるはずで、店員も女性のほうが向いているのではないかといいます。たしかに、その通りです。
おもしろかったのは、第8章「最大の伸びしろは「選挙」にあり」のなかで、「まともではない人たちのなかで、相対的にちょっとはマシな人物を選ぶ忍耐のことを選挙と呼ぶ」とイギリスのウィンストン・チャーチルが言ったと書いてありました。参議院選挙で当選しながら一度も出席しない人や、職務を全うできないから辞職するという人の属する政党では次の選挙までは毎年辞職をして毎年人を変えるらしいのですが、これで政治ができるのでしょうか。
政治家を知っているわけではないのですが、「目立ちたがり屋であったり、モテたいと思っていたり、私腹を肥やそうとたくらんでいたり、ろくでもない人間ばかり。そんな連中ばかりが立候補しているのだから……」というのは、なんか、当たらずとも遠からずと思っています。だからこそ、選挙を棄権しないで、しっかりと投票して選ぼうという姿勢が求められるのではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、第1章「日本の伸びしろはどこにある?」のなかに書いてあったもので、「石油は30年で枯渇する」ウソだったといい、このような悲観論についての話しです。
たしかに、子どものときにそう習ったような記憶がありますが、大人になってからもいずれ枯渇するに変わりましたが、それだって、誰にもわからないことです。むしろ、そのようなことばかり考えていたとしても、新たな展望は開けません。
下の抜き書きは、そういう意味では、とても参考になると思いました。もし、機会があれば、読んでみてください。
(2023.2.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
日本の伸びしろ(文春新書) | 出口治明 | 文藝春秋 | 2022年10月20日 | 9784166613809 |
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☆ Extract passages ☆
心理学では「ネガティブ・バイアス」といって、ポジティブな情報よリネガティブな情報のほうが注意を引き、記憶に残りやすいと説明されています。
このネガティブ・バイアスがあるから、人類は危険を回避して生き延びてきました。人間は天の邪鬼な生き物なので、平穏な日々を望んでいながら「みんな幸せに暮らしています」ではおもしろくないようです。「実は、こんな不幸がありました」のほうが興味を引きますし、「他人の不幸は蜜の味」なのです。人間は「大変や、大変や」と叫ぶオオカミ少年に弱い、と心得ておくほうがよさそうです。
(出口治明 著『日本の伸びしろ』より)
No.2148『お守りを読む』
前回読んだ新井俊邦著『神主はつらいよ』のつながりではないのですが、その本にもお守りのことが書いてあって、「お守りに宿る、神様のお力の効力は、せいぜい1年です。1年もの間、穢れを吸い続けることで、お守りの吸引力は弱まっていくものなのです。」として、通常は1年で交換するのが習慣です、とありました。
それを読んで、もしこの本の著者鳥居本幸代さんはどのように考えているのかな、と思いましたが、この本の最後の「あとがき」のところに、「最後になりましたが、私はお守りについて、このように考えています。人は時として、自分ではどうにもならない不安や悩みをかかえてしまうことがあります。そんなとき、お守りは元気をくれたり、癒してくれたり、戒めにもなったり、目にみえない力を与えてくれる「頼もしい存在」「心の拠りどころ」であると。」と書いてありました。
おそらく、昔の人たちは、お守りの種類に応じて、1年と考えたり、一生ものと考えていたような気がします。というのも、手作りだったり、有職仕様だったり、中だけを代えたりする場合もあるので、いろいろとありそうです。この本には、数ページのカラー版があり、そこにいろいろなお守りが載っていますが、京都の泉涌寺の「楊貴妃観音」のお守りがあり、そこに美人祈願とあり、たしかに女性にはうけるかもしれないと思いました。また、同じく京都の白峯神宮には「叶う輪」というお守りがあり、ここは蹴鞠の守護神「精大明神」を祀っていることからこのようなブレスレットの形をしているそうです。そのブレスレットにはボールが付いていて、サッカー、野球、バスケットボール、卓球などの球技の工場をお願いするそうで、もしかすると昨年の「2022 FIFAワールドカップ」のときには大勢のサッカーファンがお参りしたのではないかと思いました。
この本の副題は、「日本人は何を願ってきたのか」ですから、その使用期限みたいなものには触れていません。むしろ、現在の新型コロナウイルス感染症などの疫病とお守りのつながりなどについてで、原因不明の感染症を疫病といい、恐れおののいてきたと書いています。
疫病が記録に残るのは、崇神天皇5(紀元前93)年のことで、『日本書紀』によると「国中に疫病が蔓延し、人国の半分が失われた」と記されているそうです。
また、欽明天皇13(552)年には、瘡(できもの)ができ、激しい苦痛と高熱に苦しむ疫病が流行り、若くして命を落とす者が続出したそうです。この本によると、「この瘡こそ天然痘と解される疱瘡(痘瘡とも書く。碗豆瘡ともいい、「わんずかさ」とも読む)で、この記述が日本における天然痘の初見であるといわれている。」そうです。
ということは、日本人は原因不明の感染症を疫病と呼んだといいますが、それは天然痘だったそうです。そういえば、京都の夏の風物詩である祇園祭もこれら疫病を退散させるための御霊会が起源で、「『祇園社本縁起』によれば、貞観5年の御霊会にならい、神泉苑の南端(現・八坂神社三条御供社)において修された。疫神の依代として66本の鉾(当時の国の数)を立てて御霊会を修し、祗園感神院から出した神輿に疫病を封じ込めて神泉苑に送ったという。翌年からは「祗園御霊会」と称して恒例行事となり、今日の祗園祭へと継承されていくのであった。」とありますから、いつの時代も感染症の恐怖はあったようです。
下に抜き書きしたのは、麻疹(はしか)にかかったり予防のためのまじないです。
それにタラヨウを使うそうですが、私のところにもあり、持ってきてくれた人は塩竈神社にあったものだという話しでした。そういえば、小石川植物園にもあり、そこの研究者たちとその葉に釘で文字を書いて、ここから葉書という言葉が生まれたのだという話しでした。
昨年の三沢東部小学校の児童たちと野外観察会をしたときに、このタラヨウの葉を持っていき、実際に釘などで書いてもらいましたが、やはり百聞は一見に如かずでした。この小学校は今年の3月で閉校になるので、いい思い出になるのではないかと思っています。
(2023.1.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
お守りを読む | 鳥居本幸代 | 春秋社 | 2022年11月25日 | 9784393482292 |
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☆ Extract passages ☆
麻疹の予防や重症化させないまじないとして多羅葉の葉の裏面に「麦殿のまじない歌」を書くことが行われた。多羅葉はモチノキ科の常緑高木で、裏面を傷つけると黒く変色して、長期にわたって消えないことから、平安時代には経典を書写するのに利用された。「麦殿のまじない歌」とは、麻疹絵「はしかまじないおしえ宝」によると「麦殿は生まれぬ先に麻疹して かせたる後は我身なりけり」というもので、麦殿(麦殿大明神)は麻疹を退散させる神といわれていた。
(鳥居本幸代 著『お守りを読む』より)
No.2147『神主はつらいよ』
どんな仕事も新型コロナウイルス感染症の影響を受けて大変だろうな、と思っていたら、この本を見つけ、そういえば神社だって参拝者の激減で大変かもしれないと思いました。それだけでなく、大きな神社もそれなりに大変かもしれませんが、小さな神社ならなおさらもろに影響を受けているかもしれません。
しかも、立ち読みをしたら、親である前宮司が病で倒れ、急きょ呼び戻されたということで、それからのさまざまな顛末が書かれていて、読むことにしました。
副題が「とある小さな神社のあまから業務日誌」で、ここまで業務内容を公開して先輩の宮司さんたちから何か言われないだろうか、と心配になりました。たとえば、宮司さんの家族が亡くなったら、自分でお祓い(自祓い)をして忌中の期間を2週間にするとか、あるいは天然の榊を使わずに人工榊を使うとか、などです。たしかに雪国では榊が育たないこともあり、昔からユキツバキを代用に使ったりはしますが、それは自然のものだからある程度は許されます。でも、私だったら、ホンコンフラワーの榊なら、ちょっと考えてしまいます。
でも、考えようによっては、これだけあからさまに書いてしまえば、神主さんも大変だな、とか、定年退職して年金をもらいながら神主をするのもいいかな、と思う人もいるかもしれません。さらに、神社にとって総代さんは大変大事な役職だそうですが、この本には、「祈年祭などが行われる際は、その準備はすべて総代さんが行います。準備が整った段階で、私は神社に赴き、祝詞を詠めばいいのです。日々のお賽銭の管理も総代さんです。掃除もです。」と書いてあり、日々の管理のほとんどを無償でやっておられるようです。もちろん、信仰心があるからこそ引き受けてくださっているのでしょうが、今の時代は定年も延び、自分の生活だけで手一杯のときに、なかなか引き受け手が見つからないというのはわかります。だからといって、神社にお供えされたお供物を差し上げているそうですが、そのお下がりの「撤下神饌」を有難いと思ってもらえればいいと思います。
というのは、昔からこの「撤下神饌」を食べると、邪気を払うといわれていて、健康にもよいといいます。
この本を読んでみて、おそらく神社だけでなく寺院なども維持していくのはますます大変な時代になるのではないかと思います。だとすれば、このような発信をすることは、とても大切なことではないかと思いました。あまり難しいことを述べるのではなく、簡単な言葉でわかりやすく多くの人たちに伝えること、神主もつらいんだよ、と先ずわかってもらうことも必要だと思いました。
下に抜き書きしたのは、著者が中堅神職研修会で「禊ぎ」をしたときの体験を載せています。
時期は2月下旬ですから寒いときですが、たった4日間ですが、清々しい気持ちになることは間違いありません。私も8ヶ月ほど滝修行をしたことがありますが、雨の日も雪の日も休むことはできません。滝に大きな氷柱ができたその下で滝修行をするのは怖かったですが、始めるとすべての恐怖心はなくなり、約15分の間、無心に大声を張り上げます。
終わって滝から出てくると、厳冬期にもかかわらず、身体から湯気が出て、ポカポカしてきます。
今でもそのときのことを思い出しますが、どんなに寒くても、あのときに比べればと思うと、どんなことも平気で過ごせます。おそらく、修行というのは、厳しければ厳しいほど、その後は何ごとにも負けない精神力が備わるのではないかと思います。
(2023.1.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
神主はつらいよ | 新井俊邦 | 自由国民社 | 2022年11月1日 | 9784426128456 |
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☆ Extract passages ☆
禊ぎに先立ち、受講生の当番がお祓いをします。いよいよ揮姿になり、禊ぎが始まります。
道彦という先導役の掛け声に合わせて、鳥船行事、雄建(おたけび)行事、雄詰(おころび)行事、気吹(いぶき)行事といわれる所作を行いました。
たとえば鳥船行事は、道彦の先導により、大声を出しながら船を漕ぐ所作をします。これら一連の行事は、アスリートが試合前にウォーミング・アップをするのと同じです。「心」と「体」を冷水に備えて準備をしていきます。
楔ぎ前の行事が済むと、いよいよ冷水を被ります。冷水に負けないよう、体の中から「気」を出すために、腹の底から声を出します。時間はおよそ3分です。
お祓いを受けてから楔ぎが済むまでの約30分はあっという間に過ぎ去りました。
(新井俊邦 著『神主はつらいよ』より)
No.2146『芭蕉のあそび』
芭蕉というと俳聖というイメージがありますが、俳諧というのはもともとは「笑いの文学」であるととらえ、俳諧師である芭蕉も仲間たちや読者を「笑い」でもてなそうとしていた、ということを例を出して確認をしています。
そういう意味では、新たな芭蕉像をさぐる試みだと思いました。読んでみると、謡いの記号であるゴマ点や声点などの譜点などが記された発句懐紙などがあり、これらを見ると、なるほど、そうとう謡曲などの影響を受けたのではないかと思いました。昔は古典文学に造詣のある人たちも多く、和歌や文学、謡いなどとそれらを土台にして本歌取などにも親しんできたようです。だとすれば、芭蕉やその他の俳諧師もそのようにして古典に親しんだことは間違いないと思います。
たとえば、芭蕉の「からさきの松は小町が身の朧」などは、典拠が謡曲の「鸚鵡小町」であることは明白で、新大納言行家が「雲の上は有し昔にかはらねど見し玉だれのうちやゆかしき」と歌を詠んだのに対し、百歳の小野小町は「雲の上は有し昔にかはらねど見し玉だれのうちぞゆかしき」とたった一文字を変えただけで返歌をしたことから鸚鵡返しの歌といわれています。この琵琶湖西岸の松は唐崎にあり、ここは唐崎夜雨でも有名で、ぼんやりと朧に見えることも多いそうです。
つまり、今の時代はこのような解説書がなければ、なかなかそのつながりはわからないので、つい芭蕉といえばわびさびの世界で考えてしまいそうです。
そういえば、1つの句を何度も推敲し、つくり変えていることもあります。私は「奥の細道」を読んだり、その解説書なども何冊か読んでいますが、旅の途中でその体験から詠んだ句だけでなく、後から何度も推敲し、書き改めているものもたくさんあります。だから、むしろ文学作品として読まなければならないと思っています。よく聞くのは、平成20年7月31日に発行された大類孝子さんの朗読「奥の細道」が好きで、車のオーディオにも収録してあります。それを耳で聞くと、さらに熟考されたあとが感じられます。
この本を読んで思ったのは、句を書き換えるだけでなく、その書き換えたところを訂正する文を送っていることです。たとえば、有名な「古池や蛙飛こむ水のおと」というのは、最初は「山吹や蛙とびこむ水の音」だったそうで、尾張滞在中に懐紙にも書き残したといいます。ところが、このときの尾張の下里勘兵衛(知足)宛てに、「せんだっての「山吹」の句の上五文字を、このたび句の発想を変えまして(「古池」に改め)、別の懐紙にしたためてお送りしました。初めの懐紙は反古になさってください。(このように詠み変えましたのは)このたび其角が上方を行脚いたしました(からなのです)。これまたお世話をお頼み申します。芭蕉/知足様」と書いてあります。
もちろん、本文は読みやすいように現代文にしましたが、この本には原文も載っていて、芭蕉の息づかいが聞こえてきそうです。
このような俳句の変更は他にも載っていて、その関係者ひとりひとりにこのような文を送っていますが、今のように便利な通信手段がないときですから、なおさらびっくりしました。
そういえば、だいぶ前に西国三十三観音第12番札所の正法寺、通称岩間寺にお詣りに行ったときに、そこの境内の小さな池に「古池や蛙飛こむ水のおと」を詠むきっかけになった池であるという案内板がありましたが、この本では、山城国の歌枕「井堤の玉川」には2つの名物があり「山吹」と「蛙」を組み合わせるそうです。そう考えれば、山吹から蛙に変更しても、それはしっかりと根っこでつながっていると考えられます。だとすれば、山吹の咲く頃に、井堤の玉川まで出かけていって蛙をつかまえようと追い回したら、蛙たちはポッチャンポッチャンと水のなかに逃げてしまったという現実的な解釈もできそうです。
この本を読んで一番興味を引いたのは、井原西鶴の「好色一代女」巻1の第1話「老女のかくれ家」の書き出しのところに、「美女は命を断つ斧と古人もいへり」とあるそうで、これは「昔の人の物言いで、美女は命を断つ斧のようなものだ」ということです。私が住んでいる小野川温泉にも小町伝説がありますが、昔の絵図を見ると「斧川」と書いてあります。つまり小野小町と斧とはどこかでつながっているかもしれないと思い、新しい発見でした。
下に抜き書きしたのは、第3章の最初にある「教養としての謡曲」のなかに書いてあったものです。
つまり、このような謡曲の基礎教養がなければ、理解できないだけでなく、おもしろさもひねりもまったくわかりません。だからといって今から謡曲などの古典を学びなおすこともできないので、このような解説本を読むしかなさそうです。
でも、この本を読んだことで、松尾芭蕉の新たな側面がわかったような気がします。
(2023.1.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
芭蕉のあそび(岩波新書) | 深沢眞二 | 岩波書店 | 2022年11月18日 | 9784004319498 |
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☆ Extract passages ☆
……漱石や子規の語彙のひきだしには、謡曲の小道具がふんだんに入っていた。つい120年ほど前の青年たちのはなしである。現代のわれわれのほとんどにはそれがないから、悲しい哉、彼らの謡曲ネタの冗談にもピンとこないのだった。
芭蕉も、俳諧のネタとして謡曲を使いこなした。その点で芭蕉と漱石は地続きである(そういえば漱石は俳人でもあった)。だが、われわれと芭蕉・漱石のあいだには深い谷がある。
(深沢眞二 著『芭蕉のあそび』より)
No.2145『インド文化読本』
2023年は、おそらく中国を抜いてインドが世界一の人口になるというニュースを見て、改めて今のインドを知りたいと思いました。たしか、インドには5回ほど行ったことがありますが、2018年9月にインドのケララ州に行ったのが最後です。しかも、2022年1月にGoogleがインド通信最大手のBharti Airtelに最大10億ドルの投資をするというニュースが流れたことで、人口増加のメリットを先物買いしたのではないかと思いました。
今はコロナ禍でなかなか海外には行けませんが、だいぶ変わったのかなという気持ちと、インドってそんなには変わらないのではないかという気持ちが交差しています。それで、本からだけの情報でもと思っていたら、この本と出合いました。
本の「まえがき」に、「人口も2023年には中国を抜き、14億人を超える見込み」と書いてあり、しかも最近はIT大国としても知られているので、まさにこれからの国でもあります。よくインドはカースト制の国だと思われていますが、この本によると、「インドのカーストは、結婚、職業、食事などに関してさまざまな規制をもつ排他的な人口集団である。そもそも「カースト(caste)」という言葉はインドにはなく、かつてホルトガルの航海者がインドで目にした社会慣行に対して与えた「カスタ(casta)」に由来する。その「カスタ」は、16世紀にボルトガルからやって来た宣教師たちによってもたらされたラテン語での「カストゥス(castus)」の「混ざってはならないもの、純血」から派生し、「血筋、人種、種」を意味する。しばしば「カースト制」、「カースト制度」とよばれるが、カーストは国が定めた制度ではなく、社会的な身分制である。長い年月をかけて根付いていった。」と説明されています。
ちなみに、私がインド人に聞いたときには、ある意味必要悪で、自分たちの仕事に第三者が入り込めないようにするものだといいました。たとえば、日本ならクリーニングが儲かると思うと、他の人たちもクリーニングを始めますが、インドではクリーニングはもともとそれを職業としてきた人しかできないそうです。つまり、新規参入者はないということです。ただ、そこから抜け出ることもなかなか大変なようです。だから、ITのように今までなかった職業は縛りがないので誰でもできるそうで、収入も多いことから人気があるということでした。
また、知らなかったのですが、今では世界の薬局といわれるぐらい、世界のジェネリック医薬品の約20%を供給しているそうです。さらに「インドは世界最大のワクチン製造国で、世界のワクチン需要の50%以上を満たしており、最近では、新型コロナウイルス感染症のワクチン製造拠点としても大きな注目を集め、新型コロナウイルス感染症のワクチンを複数国で共同購入し、公平に分配するための国際的枠組みである「COVAX(コバックス) ファシリティ」にもワクチンを供給している。世界の薬局として、新型コロナウイルス感染症との戦いにおいて、インドは大きな役割を果たしている。」ということです。
最近は、ロシアに近いといわれたり、どちらにも組みしないといわれたり、世界の中でも独自の外交をしていますが、これからは国際的にはとても重要な国になることは間違いないと思います。そのためにも、インドという国をしっかりと知っておきたいと思いました。
下に抜き書きしたのは、インドの宗教についての話しです。
仏教はインドで起こった宗教ですが、現在は人口の0.7%ぐらいで、2011年の国勢調査では、ヒンドゥー教が79.8%、イスラム教が14.23%、キリスト教が2.3%、シク教が1.72%、その次が仏教です。だから、今では仏教はインドではほんの少ししかいないということです。
でも、その教えは、意外と生活に根ざしていて、布施の心とか生き物を大切にすることとかはおそらくお釈迦さまの教えではないかと思います。
もし、機会があれば、読んでいただきたい1冊です。
(2023.1.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
インド文化読本 | 小磯千尋・小松久恵 | 丸善出版 | 2022年11月30日 | 9784621307571 |
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☆ Extract passages ☆
ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教と加えてシク教は、輪廻の慨念を共有する。これらの宗教は死をもって魂が肉体を脱すると考え、基本的に遺体を火葬する。一方、イスラームとキリスト教とユダヤ教(わずかながらユダヤ教徒もいる)の、いわゆる「アブラハムの宗教」は、人間はただ一度この世に生まれて死に、その後終末の到来にあたって復活し「最後の審判」を受けると考えるため、その日に備えて遺体をそのまま埋葬することを求めてきた。また、ゾロアスター教も明確な終末論をもっており輪廻の概念はない。ただし、アブラハムの宗教とは違い土葬をせず、また火葬も水葬もせず、沈黙の塔という施設で鳥葬・風葬して遺体を消減させる。これは本来清浄であるべき土や水や火を死という悪の要素で汚さないためとされる。
(小磯千尋・小松久恵 編『インド文化読本』より)
No.2144『旅から 全国聞き歩き民俗誌』
著者の斎藤たまさんは、山形県山辺市の出身で、東京で書店員として働きながら民俗収集の旅にでていたそうで、この本は2017年1月26日に亡くなられてから出版されたものです。生前に校正作業をしていたそうですが、それ以降は遺族が協力してくれたそうで、こうして1冊にまとまると、読み応えがあります。
とくに興味の引いたのは、なじみのある「正月にヒョウを食べること」で、地元紙の山形新聞に1990年12月27日に掲載されたもので、最近はあまり食べないのですがヒョウ干しについての話しです。それでも家内が好きで、以前はよく干して食べていましたが、孫たちはまったく食べないので、干さなくなりました。このヒョウは、スベリヒユのことで、まさに畑の雑草で、むしり取ってそのまま近くにまとめて置いておくと、また根っこが出てきて増えていきます。
この本のなかに、「沖縄を歩いている時、道端の畑で、大きく茂ったスベリヒユを背負い籠に集めている婦人がいたので、食べるのかと尋ねたら、どこに置いても根つくので、海に投げ入れるのだといっていた。さて、子どもの遊びは別として、入口に吊るして何かをよけることと、殺しても殺しても死なない強い草であることと、そして、一年の始めにあたってこれを食べるという、これらのことがらは、何かしら縁続きなように思われる。」と書いてあり、なるほどと思いました。
また、「秩父だより」では、自分自身のことが述べられていて、よほど前の話かと思いながら読んでいましたが、よくよく考えてみると、昭和11年の生まれで38歳のときに秩父に住むようになったのですから、昭和49年ということになります。この年は私が故郷に戻ったときで、ありありとその当時のことを思い出すことができるので、そんなに昔の話しではありません。でも、この本を読むかぎり、相当な昔の話しのように思えるから不思議です。
まさに、民話の世界にどっぷりと浸かってしまったかのようです。
下に抜き書きしたのは、ヒカゲノカズラの話しです。紀伊半島の十津川あたりでは、これを「ヤマンバノタスキ」というそうで、「悪病入らんといって家の入り口に吊ってある家があった」といいます。
そういえば、初めてネパールに行ったときに、東ネパールの奥地の村の祠に、同じように鳥居のような形のところにこのヒカゲノカズラが巻かれていました。そこで、地元の方に伺うと、昔からこのようにするというだけで、その理由はわからないということでした。
でも、おそらく日本と同じように結界とか、厄除けのような意味があるのではないかと思います。また、伝説では、天岩戸の前で天鈿女命が踊ったときに素肌にまとったといわれていますし、『古事記』には「天香山の日影蔓を手襁に懸け」とあり、この「日影蔓」がヒカゲノカズラだといいます。また『万葉集』にもこの名を詠んだ歌があります。
また、2019年12月3日に、大嘗宮の儀が行われたところを見に行きましたが、天皇が通る雨儀御廊下の天井からヒカゲノカズラが吊り下げられていましたし、テレビで見ると、衛門(衛士)は、冠にヒカゲノカズラを飾っていました。
そういうことなどを考えると、そうとう昔からこのヒカゲノカズラをいろいろな意味で使ってきたのではないかと思います。
この本のような、民間伝承の話しを読むと、何気なく見ているものですら考えさせられてしまいますので、これからもいろいろな方が書いたものを読んでみたいと思いました。
(2023.1.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅から 全国聞き歩き民俗誌 | 斎藤たま | 論創社 | 2022年11月10日 | 9784846015954 |
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☆ Extract passages ☆
前に九州五木村でも、病気がはやった折家の入口に張った話を聞いた。それ以来、私にはこの草が気にかかるものの一つになっていたのだが、この度も熊野に入って新しい事例に出合った。
このあたりではオニノクチヒゲなどという、これも楽しい名で呼び、節分にイワシ頭やらヒイラギ枝やらとともに家の出入口に掲げ置くのであった。じっさい、ここに至る前に通った三重県側の紀和町板屋とか、和歌山に入っての熊野川町請川などでは、ほとんど軒並みといっていいほどにこれが吊るしあつたものだ。
(斎藤たま 著『旅から 全国聞き歩き民俗誌』より)
No.2143『世はすべて美しい織物』
なるべく小説を読まないようにしていましたが、たまたま図書館からこの本の題名に惹かれて借りてきてしまいました。なぜ読まないかというと、読み始めると止まられなくなり、つい読み終わるまで、他のことが手に着かなくなるからです。
この本の主人公も、織物を織り始めると没頭しすぎて、何も見えなくなるといいますから、ある意味、似たようなことなのかもしれません。
ただ小説だからなのか、桐生から吾妻山が見えると書いてあり、それって本当なのかなと思いました。ただ、米沢も昔は機織りの町で、近くには蚕の神様を祀ってあるところもあり、すごく似たような雰囲気を感じました。
そういえば、この本のなかで、新田家の先祖の方が若いころに諸国を巡ったとき、ブータンという国に行って織物の図案を白黒写真で撮ってきたそうで、しかも、その実際の布もあり、兄嫁と弟嫁が身を乗り出して見ているところがありました。そして、その布を復元したそうで、そのブータンがどこにある国かもわからないのに、その布に対する憧れが描かれています。その様子を「ブータン織りの図案や布の実物を、上から下から、それこそ砥めるように眺めて、芳乃なりに試作したものだ。おそらく使われている織機の構造自体も違うのだが、それでも細いヘラを自作し、経糸の一部に隙間を開けて模様糸を織り込むというやり方で進めた。」とあり、試し織りなのに、すごい力の入れようです。
じつは、私も30数年前にそのブータン王国に行き、植物や文化を調べるなかで、ブータン独特の布とも出会いました。龍の国ともいわれるぐらいなので、龍をデザインした模様もあり、なぜか日本人にもしっくりくるような図案が多かったようです。帰国に際して、とくに気に入った数点の布地を母屋偈に買ってきたことを思い出しました。
この本のクライマックスのところで、新田家の代々の女性が護ってきたという山奥の石造りの古びた祠が蚕神様ですが、その周りに天蚕がありました。その様子を、「細い茎や葉裏にぶらさがるように、あるいは包まれるようにして、淡い緑の繭がたわわに在った。天然の蚕から紡がれた糸は、森の息吹を存分に蓄え、艶やかな蛍光の緑色となる。木漏れ日の中で羽化を待つ繭の群れは、全き山の子だった。」とあり、家蚕と違い飛ぶこともでき、つがいを見つけて、命をつないでいくといいます。
なるほど、だからこそ、女性が代々護ってきたのか、と妙に納得できました。この本では、「商売の裏方に徹して家を切り盛りし、子を産み、代をつないできた新田の女達の、ここは祈りの場でもあり、拠り所でもあったのだろう」と書いています。
そういえば、私もこの天蚕を小町山自然遊歩道で見たことがあり、色も薄緑色で、形も家蚕と違い、一目ですぐにわかりました。でも、自然のなかの天蚕をたくさん集めて糸にして織ることなどできるだろうかと思いました。
下に抜き書きしたのは、詩織と従妹の沙羅と初めて会い、その沙羅もADHDなのに、さらっと言った言葉です。
最近は、不自由なことでも、それがその人の特性だといいますが、ここでは神様からのギフトだというのですから、すごいです。さらに、その前に連兄が自分も創作のためにはADHDだったら良かったのにと言っているのを、「ないものねだり」してもダメだよね、と言うんです。
たしかに、人はいろいろなものを背負って生きていかなければならないのですが、だとすれば、全てを神様からのギフトだと考えられればいいな、と思いました。
(2023.1.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
世はすべて美しい織物 | 成田名璃子 | 新潮社 | 2022年11月15日 | 9784103548416 |
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☆ Extract passages ☆
「これでも一応ね、思春期の頃なんて失敗するたびに悩んで、お婆ちやんに泣きついてたんだ。でも、今はこのやりすぎなくらい集中しちゃうところとか、閃き即行動の衝動性とか、神様からのギフトだって思えるようになったん。どうあがいたって、この自分と生きていくしかないんだしね」
(成田名璃子 著『世はすべて美しい織物』より)
No.2142『旅行鞄のガラクタ』
伊集院 静氏は1997年に仙台市に移住し、2020年にくも膜下出血で緊急搬送され、翌日に手術をして治られたようで、後遺症もないと聞いていますが、現在はどうなされているかはわかりません。でも、新刊を出されるわけですから、元気だと思います。
さて、この本は、全日空機内誌『翼の王国』に2017年6月から2020年3月まで連載された「旅行鞄のガラクタ」に加筆、再編集したものです。要するに、もともとお土産など買わない著者が、飼い始めた犬のために小さなぬいぐるみなどを旅行鞄の隅に入れて帰ったものを写真にして、そこから旅行の物語を紡いでいったものです。
たしか、私も何度か機内で読んだことがありますが、内容までは思い出せません。でも、2019年までは何度も全日空を利用したことがあり、マイルもたまっているので、思い出せないだけのようです。
そういえば、「ハビエル城の白い石」というところに載っていた丸いジャガイモみたいな石は、私も海外で拾ってきたことがあり、今、改めて見なおしてもどこだったのか思い出せません。著者のように、「ザビエル」とだけでも書いてあればいいのですが、たしかミャンマーだったかもしれないと不確かな記憶では、まさにただの石でしかないようです。そのうち、思い出したら、書いておこうと思います。
著者は、「この文字で、二十数年前、スベインのナバラ州にあるハビエル城の前に転がっていた石を拾い上げ、ポケットに入れた記憶がよみがえる」と書いています。このハビエル城こそ、フランシスコ・ザビエルが生まれ育ったところなんだそうです。つまり、ザビエルはここの王様の三男として誕生し、幼いころから勉学にはげんだそうで、ザビエル少年がつねに座っていた椅子があり、その中央部分がへこんでいて、しかも偶然でしょうが、その小さな窓が東方を向いていたと著者は語ります。
さらに、この石だけでは信憑性がないということで、同伴した家人が「XAVIER」と書いてあるロザリオを買い求めたそうです。これは、中世スペイン語で「ザビエル」のことだそうです。私の場合は、石だけを拾ってきたので、それを裏付けるものが何もなく、ただの石ころになってしまったのです。
このように見てくると、旅行鞄の片隅に入るものであっても、旅のお土産になると思います。そして、そのようなモノから旅の思い出につながれば、それはそれで楽しいと思います。
下に抜き書きしたのは、若い人たちに旅をしなさいと勧めるところです。
そして、自分自身も城山三郎氏にせっかく遠い国まで出かけるなら、無所属の時間を持ちなさいと言われたそうです。著者は、無所属の時間というのは何かと考え、「簡単に言えば、私は作家であるから、歩いていても、酒を飲んでいても、小説のことを考えてしまう。そういう発想をどこかに仕舞って、作家以前の自分、作家以外の自分になって歩いてみることなのである。やってみるとこれがなかなか難しい。気が付けば、小説のことを考えている。」とあり、たしかにせっかくの一人旅なのに、それができないというのはわかるような気がします。
私自身も、若い時は、せっかくここまで来たのだからあそこまでは行こうとか考えたのですが、今では、無理してそこまで行かなくてもいつかは行けるかもしれないと考えるようになりました。日程も、2泊のときは3泊にし、1週間のときは10日にしたりして、なるべくゆっくりと旅をするようになりました。
そうすると、思わぬ出会いがあったり、偶然にもガイドブックにも載らないような絶景を見つけたりします。
でも、よくよく考えて見ると、年をとってきたからこそ、時間が生まれ、余裕ができて、旅ができるようになったのかもしれません。今年も、ゆとりのある旅をしたいと、この本を読みながら思いました。
(2023.1.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅行鞄のガラクタ | 伊集院 静 | 小学館 | 2022年12月3日 | 9784093888837 |
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☆ Extract passages ☆
……私が若い人に、自由になる時間があれば、一番安いチケットを買って、君の知らない国を旅しなさい、と常に言うのは、旅というものが人間に与える力が、他にたとえるものがないほど、さまざまなことを身に付けさせてくれるからだ。何を具体的に授かるか? とその答えを一言で申せぬほど、十人の旅人は、十色の貴石を手に入れる。
(伊集院 静 著『旅行鞄のガラクタ』より)
No.2141『「食」の図書館 イチジクの歴史』
この「食」の図書館シリーズは、写真やイラストが多く、とてもおもしろいので、10冊程度は読んでいます。とくに、果物が好きなので、それに関連したのが多いのですが、このイチジクも、その流れで読み始めました。
イチジクで一番印象に残っているのは、ミャンマーに行ったときに、ある大学の先生が以前植物調査をしたときに食べたイチジクのジャムがとても美味しかったという話しをしたので、今度はぜひそれを作っているところにまわろうということになり、ポパの町に行きました。たしか2013年2月だったと思います。
小さなお店で、そのポパジャムの作り方を見せていただき、さらにそのイチジクが生えている山を教えてもらい、そこへも行きました。とんでもない大木で、幹や枝先まで、たくさんの小さなイチジクが鈴なりになっていました。そのときの印象が強く、このイチジクの本もとても楽しく読みました。
もともと、このイチジクは生で食べるのが一番美味しいそうですが、この本には「イチジクは木から摘み取ったばかりのものを生で食べるのが一番おいしいが、入手できる機会は限られている。食物の風味のヶミストリー(相性)や味覚について誰よりも詳しいハロルド・マクギーは、完熟したイチジクには独特のアロマがあり、これは主にスパイシーなフェノール化合物と花のような香りのテルペン(リナロール)によるものだという。このアロマは、本で熟した新鮮なイチジク特有の風味のひとつである。しかし、イチジクほど傷みやすい果物はない。収穫が1日でも遅れると、柔らかくなってぐちゃぐちゃにつぶれてしまう。……人類が古くからイチジクを乾燥させて保存しようとしてきたのは、こうした理由からだ。」と書いてあります。
では、このイチジクの原産地はとこかというと、はっきりしたことはわからないそうですが、考古学や古植物額の研究などから、「カプリイチジクは1万1000年以上前から存在していたことが示されている一方で、イチジク栽培の起源は約6000年前のアラビアやメソポタミアにある可能性が最も高い」そうです。
そして、イチジクが注目されるようになったもうひとつのきっかけは、トルコのアソスで2008年に発見された約2400年前のアソスの墓のひとつに、食用のイチジクが埋められていたことです。そのアンス遺跡発掘の責任者ヌレッティン・アルスランは、「このイチジクは、熟す前の状態で墓に入れられたおかげで、腐ることなく今日まで残ったのだろう」と話しているそうです。
でも、熟す前の状態だからといっても、腐ることがなかったというのは、ちょっと不思議ですが、それが自然のドライフルーツになってしまっていたからかもしれません。
下に抜き書きしたのは、序章の「イチジクとは」に書いてあったものです。
そもそも、日本ではあまりメジャーな果物ではないので、世界、特に中東地域では盛んに栽培されているようですが、たしかにドライフルーツという印象の方が多いようです。
ただ、それすらもあまり食べる機会がなく、この本を読んで、今度見つけたら食べて見たいと思いました。
(2023.1.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「食」の図書館 イチジクの歴史 | デイヴィット・C・サットン 著、目時能理子 訳 | 原書房 | 2022年10月31日 | 9784562072149 |
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☆ Extract passages ☆
生のイチジクは贅沢な果物として扱われ、栽培がさかんな国でもときには最高級の果物と称される。乾燥イチジクは生に比べると目立たない存在だが、地中海沿岸の国々では古くから主食とされてきた。古代ローマでも、進軍中の兵十たちにパンの代用品として乾燥イチジクを食べさせたと言われている。世界で収穫されるイチジクのうち、85パーセント以上がドライフルーツに加工され、10パーセント以上が缶詰または瓶詰にされる。生で食べられるイチジクは約3パーセントにすぎない。
(デイヴィット・C・サットン 著『「食」の図書館 イチジクの歴史』より)
No.2140『After Steve』
おそらくスティーブ・ジョブズを知らない人はいないと思うが、自分のガレージで、友人のエンジニアであったスティーブ・ウォズニアックと2人でアップルを創業し、そこから追い出され、業績不信に陥ったアップルに自分が創業したNeXTを売却するという形で復帰し、そしてアップルを世界的企業に育て上げました。このときの給料は年1ドルだったという話しがありますが、この本でも、本人の弁として載っています。しかし、2011年10月5日、56歳で膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により亡くなられましたが、この本はその後のアップルについて書いた本です。
まさに、スティーブ・ジョブズ亡き後の「3兆ドル企業を支えた不揃いの林檎たち」の物語です。このアップルという社名は、スティーブ・ジョブズが好きだったビートルズとそのレコード会社、アップル・レコードにちなんでつけられたそうです。
この本のなかに、スティーブが亡くなる2年も前からほとんど仕事はしていなかったようですが、いかにも自分が全てを統括しているかのような印象を与えていました。だから、亡くなられても、アップルの仕事はそのまま続けられたのでしょうが、世間はスティーブがいないアップルに魅力を感じなくなるのではないかという危惧は多くの社員も思っていました。
このときの様子を、「熱烈なアップルファンはカルト信者のように熱狂し、同社を擁護した。手首にアップルのロゴや宣伝文句のクトゥーを入れる人までいた。CEOジョブズは救世主のように崇め奉られ、黒いタートルネックに、リーバイス501のジーンズ、ニューバランスのスニーカーというカジユアルな服装が、聖職者のようなたたずまいを際立たせた。彼は現実を歪曲できた。自分の着想の妨げになる「工学や製造の限界」を受け入れず、不可能と思われることでも実現は可能であるとデザイナーとエンジニアを説きつけた。その説得力から、この男なら死をも克服できると信じる人たちもいた。」というから、まさにカリスマです。
そのジョブズがいなくなけば、アップルそのものの存在も危ういと考えるのは当然ですし、株式市場もそのように考えていたのではないかと思います。
しかし、ティム・クックとジョニー・アイブ等は、なんとかそれを乗り越え、さらにジョブズのときよりもさらに大きな会社にしていったのです。そのことが、この本の大きな流れです。これを読めば、といっても493ページもあるのですが、アップルという会社のことがわかるような気がします。
「21 機能不全」に書いてあったのですが、ジョブズの遺志を継ぎ、アップルが推定50億ドルをかけて本社ビル「アップル・パーク」を建設しました。その建設に主に関わったのがアイブで、ジョブズは彼を「魂のパートナー」だと語ったこともあります。
しかし、不思議なことに、大きな建設をするとそこから下降期に入りこむようです。この本には「資本主義の聖堂はこれまで、企業の幸運が反転する前触れだった。好景気中に潤沢な現金を持つ企業が虚勢を張って大きな建物を造るのはよくあることだが、絶頂期に浮かれていただけのこととあとから気づくのがオチだった。1970年、製缶大手アメリカン・キャンはコネティカット州グリニッジの約63万平方メートルの広大な敷地へ移転後、一連の人員削減と売却に手をつけるはめになった。エネルギー大手エンロンは50階建て本社ビルの建設途上で破産申請した。破壊的な勝利と迅速な衰退が繰り返されるシリコンバレーという事業環境で、この傾向は顕著だった。アップルが購入した70万平方メートルの土地は、パソコン市場の低迷後にヒューレット・パッカードが手放した土地にあとからさらに買い足したものだ。サン・マイクロシステムズの化石化した本社ビル(2000年完成)をフェイスブックは引き継いだが、それはドットコムバブルの崩壊でサンの事業が壊滅的打撃を被ったときだった。マーク・ザッカーバーグは2011年、この敷地を引き継ぐにあたり、成功に安住する危険を社員が忘れないようサンの看板をそのままにした。」と書いてあります。
たしかに、企業には波があり、よい時もあれば悪いときもありますが、その波にうまく乗るのが経営のトップの責任です。だから、「アップルの宮殿もいつか、愚かだったとわかる日が来るのだろうか?」と書いていました。
それにしても、もともとアップルは秘密主義で有名なのに、これだけのことを書くには、相当な情報源がなければ書けません。それで、この本の最後に、「情報源について」という1項目を付け足していますが、そこに「成功は秘密主義にかかっているという信念が共有されている。メディアに話を漏らす人間は会社に不利益をもたらすと、みんなが信じている。アップルを辞めたあとでも、記者に話した者は仲間はずれに遭う。解雇された者や、訴えられた者もいる。こういう文化があるおかげで、アップルにまつわる報道は非常に難しい。社員どうしでもたがいに固く口を開ざしてしまうことがある。夫婦であっても異なる部署にいれば、何年も仕事の話をしない。ある夫婦は退職して長い時間が経ってようやく、自分がどんなことをしていたかを打ち明けたという。それだけ勇気が必要なことなのだ。」と書いていて、そのような環境のなかでこれだけの話しを導き出すということはすごいと思いました。
下に抜き書きしたのは、「エピローグ」の最初に書かれていたものです。
たしかに、アップルは「二人組」に支えられてきたと思います。この本を読んだあとも、たしかにそうだと思いました。おそらく、すごい革新性をもった人と、それを現実に商品化する人、あるいはホンダのように、本田宗一郎がバイクにのめり込み、藤沢武夫が販売や財務に集中するというように、また井深大と盛田昭夫との関係のように、二人組の強さはあります。
でも、この本を読むと、その強さがうまく調和しているのはアップルかもしれないと思いました。
(2023.1.8)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
After Steve | トリップ・ミックル 著、棚橋志行 訳 | ハーバーコリンズ・ジャパン | 2022年10月21日 | 9784596754134 |
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☆ Extract passages ☆
アップルの錬金術は長らく、先見性を備えた「二人組」に支えられてきた。それはスティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズによって誕生し、ジョブズとジョニー.アイブによって復活し、アイブとティム・クックによって維持されてきた。
ジョブズの死後何年か、シリコンバレーはアップルの事業の行き詰まりを予想した。ウォール街もその前途に不安を抱いた。忠実な顧客たちは愛する製品イノベーター、アップルの未来を心配した。
10年後、アップルの株価は過去最高を記録した。時価総額は8倍以上の3兆ドル近くまで上がり、世界のスマートフォン市場を支配する勢いに衰えは見えない。破壊的イノベーターとしての輝きは失われつつも、ウォール街の寵児となった。
(トリップ・ミックル 著『After Steve』より)
No.2139『世界の紙と日本の和紙』
今年最初に読む本を探していたら、この本に出合いました。題名の前に「紙の温度」が出会ったとあり、私も偶然ですが、いい本と出合いました。
この「紙の温度」という名前は、紙のぬくもりを伝えたいという思いが込められているそうですが、私自身も紙は大好きで、海外でもその国の紙を探したり、偶然出会ったりしています。たとえば、韓国に陶磁器を見に行ったときに韓紙を見つけたり、ネパールで日本で紙漉きを習ってきて漉いている工房を訪ねたり、中国雲南省でおもしろい紙に出会ったりもしています。おそらく、好きだからこそ、自然と足が向くのかもしれませんが、本屋さんにも行くので、そこで紙を扱っていることも多いようです。
今では、紙箪笥にしっかりとたくさん保管しているので、そこから選んで手紙を出すときなどに使っています。
さて、この本は、「紙の温度」を創業して30年の花岡成治さんと創業時からそれを支えるスタッフである店長の城ゆう子さんの話しを鈴木里子さんが文章にまとめ、紙の写真は井上佐由紀さんが担当したようです。2014年に「和紙 日本の手漉和紙技術」がユネスコの無形文化遺産に登録されましたが、これはすでに遺産ですから、斜陽化はだいぶ進んでいます。今年の夏に会津若松の武藤紙店に行きましたが、紙そのものより他の商品が多かったようで、紙だけで商売ができる時代ではなさそうです。そこで、珍しい紙を探そうと思いましたが、自分で見ることはできず、この本には、「たとえロスが出てもいいからとにかく触ってもらおう」というのはとても有難いと思います。和紙は触ってみないとわからないところがありますが、そこが売る側にとっては神経を使うわけです。
たしかに、洋紙と和紙の風合いは違いますが、大きな違いは「洋紙はすべて目的があって生まれてきます。目的が明確でない紙はなかなか売りにくいのですが、でもうちにあることで新たな用途が見つかるのではないかという期待を抱いて置いています」と書いてあり、なるほどと思いました。
というのも、私も何に使うかわからないで求めてきた紙も多く、そのまま紙箪笥のなかに入れてあり、何か必要なものがあるときに開いては中から引っ張り出すことがあります。紙は、必要だからその都度買うだけでなく、ある程度のストックがあると、もしかするとこれに使えるかもかもしれないというときもあります。毛筆に適した紙が必要だったり、万年筆に書くときもあり、あるいは何も書かずにラッピングに使うときもあります。
この本を読んですごいと思ったのは、もともと名古屋に和紙を作っているところはなかったそうですが、自分たちで名古屋オリジナルの紙を作ろうと、1998年から呉服の「名古屋友禅」と「有松絞り」を和紙に染めてもらうことにチャレンジしていることで、ほしいものがなければ自分たちで作ってしまおうというところがいいと思いました。
下に抜き書きしたのは、この本の一番最初に書いてあったネパールの「ロクタ紙」についてです。
私もネパールには6回ほど行っていますが、ここに出てくるような紙の工房にも行ったことがあります。ネパールの友人に頼んで、シャクナゲのパターン柄の紙を探し出してもらい、だいぶ買ってきましたが、それは木版で押したもので、今ではなかなか手に入らないかもしれません。他にも、手帳とか便箋とか、いろいろと買ってきましたが、この本によると、「ミシンで縫うこともできます。近年はその丈夫さを活かしたバッグやペンケース、小物入れなども人気です。「紙の温度」でも、巻いた紙を持ち連びできるオリジナルの肩掛けエコバッグをつくっています。素朴で強くて、しかも安価。……内装材としても人気があり、和紙にはないラフな質感がかえっていいという建築家やインテリアデザイナーの方も多いです。」とあり、いろいろな用途にネパールの「ロクタ紙」を使っているようです。
私も自分で買ってきたさまざまな紙製品を見て、ネパールの旅を思い出しながら、何かに使ってみようと思いました。
今年もたくさんの本と出会って、本との一期一会を楽しみたいと年の初めに考えました。
(2023.1.4)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
世界の紙と日本の和紙 | 紙の温度差株式会社 | グラフィック社 | 2022年11月20日 | 9784766136715 |
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☆ Extract passages ☆
ネパールの紙は生成りや染め紙以外に、プリントもあります。以前は手彫りの木版でバターン柄を押す「ブロックプリント」が主流でした。彫り師に会いに行ったりもしましたが、最近はスクリーン印刷がブロックプリントに取って代わるようになりました。少し残念な気もします。モダンな柄が増えてきていて、これはヨーロッパのデザイナーが現地に滞在して指導に当たっているからです。ネパールは、ゆっくりと変化のときを迎えています。
(紙の温度差株式会社 著『世界の紙と日本の和紙』より)
◎紹介したい本やおもしろかった本の感想をコラムに掲載します!
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