☆ 本のたび 2023 ☆



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
 また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
 なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。



No.2260『八ヶ岳南麓から』

 今でも覚えているのですが、著者が平成31年度東京大学学部入学式のときに祝辞を述べましたが、そのなかに、「あなたたちが今日「がんばったら報われる」思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」などとありました。
 このとき、東京医科大の入試における女子差別問題やMeToo運動に代表される性暴力の問題などがあり、女性であるからこそ気づけることをズバッと言ったことが印象的でした。
 そういえば、この本のなかでも、「コロナ疎開のはじめは、世界中の時間が止まったようで季節の移ろいだけが時を刻んだ。こんなに無為に刻の経つのをたのしんだことがかつてあっただろうか、と思うほどに。休業要請や自宅待機で、わたしだけでなくすべてのひとの時間が止まったのだから、ひとりだけ取り残されるような焦りを味わうこともなかった。機会がなくなってみればひとに会いたいとも思わず、美食したい気持ちも起きず、賑わいの巷に行きたいとも感じなかった。本と音楽があればそれでじゅうぶん……コロナ禍でたいへんな思いをしたひとたちにはもうしわけないが、山の家は、わたしに至福の時間をくれたのだ。この本はそんなわたしの山暮らしを綴ったものである。」と、この本を書くことのいきさつを記しています。
 おそらく、このコロナ禍のなかで、ほんとうに大変な思いをした方たちも多いと思いますが、さすが著者は、それでも自分の気持ちを素直に書き記すのですから、すごいと思いました。しかも、このようなプライベートなエッセイは初めてのことだといいますから、今年の最後に読むのもおもしろいと思いました。
 もともと、個人的なエッセイということなので、「おひとりさま」といいながら、妻や息子がいる色川大吉さんと不倫の末に結婚し、入籍までしていたというから、その理由はなぜと聞いてみたかったのです。
 しかし、この本では、「もともと色川さんもわたしもひとり暮らしが長く、「おひとりさま耐性」が高い。他人に会わなくても苦にならない。コロナ禍がもたらした静謐のもとで、四季の移ろいをじっくりと体感しながら色川さんに寄り添う日々は至福だった。好き嫌いのはげしい、あの狷介孤高の老人が、なぜだかわたしには「なついた」のだ。」と書いています。しかも、年齢差が23歳あり、結果としてこの八ヶ岳南麓で96歳の色川氏を支え、見送ったそうです。
 そうそう、色川氏といえば、今でも記憶に残っているのが小学館から出た『雲表の国 青海・チベット踏査行』です。この本は、なんどか読み、ちくま文庫の『シルクロード悠遊』もおもしろかっです。
 下に抜き書きしたのは、STORY12 の「本に囲まれて……」に書いてあったものです。
 私もこのような『本のたび』を書いているぐらいですから、昔から本は大好きでした。手もとに本があるだけで、なんとなく安心でしたし、旅に出るときには、どのような本を持って行くのか、その選定にいちばん時間がかかりました。
 でも、持っていった本がその旅に合わなかったりすると、地方の本屋さんに行くのも楽しみで、とくに古本屋さんなら、それだけでワクワクでした。だから、ここに書かれていることは、ほんとうによくわかります。
 ただ、集めた本の行く先はというと、今は難しいようです。以前なら、地方の図書館などで引き受けてくれたでしょうが、それもダメなようです。

(2023.12.31)

書名著者発行所発行日ISBN
八ヶ岳南麓から上野千鶴子山と溪谷社2023年12月10日9784635330794

☆ Extract passages ☆

そうだったのか、小さいときから「読む」と「書く」が好きだった、それさえあれば生きていける、とあらためて確認する。天井まで届く書物に囲まれて、この図書館のような空間でしんとひとりでいるのは至福の時間だ。1冊1冊の書物は、わたしをそれぞれ別の世界へ連れて行ってくれるドラえもんの「どこでもドア」のようなもの。だとしたらこの空間には、いったいどれほどの異界への人口があるだろうか。
 とはいえ、ふっと思うのがわたしが死んだらこの書物は……という問いだ。最近は大学や公共の図書館ですら、スペースの関係や管理の問題で図書の遺贈を断っている、と聞く。
(上野千鶴子 著『八ヶ岳南麓から』より)




No.2259『人生に必要なことは すべて茶席に学んだ』

 ロバート・フルガムの書いた『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本がありますが、題名だけを見ると似ていますが、中味はまったく違います。
 幼児の砂遊びと幼児期の教えはとても大切で、まさに親子の学びですが、茶席においても、人生の学びがたくさん詰まっています。ただ、茶席というのは、一般的にあまりなじみがないだけで、茶道は知れば知るほどおもしろく、いつまでやってもさらに奥があります。だから、やり甲斐があります。
 というのは、私自身が20代前半ころにお茶の先生につき習い始め、現在も独りでお抹茶を点てて楽しんでいます。私の師匠が亡くなっても、しばらくは別な師匠について習っていたのですが、なかなか最初の師匠の印象が強く、長く習うことができませんでした。私は習っていることが大切だと思っていましたが、なかなか理解してもらえず、今は自分で楽しむだけになりました。
 だから、この本の言おうとしていることはなんとなく理解できますし、「かたちをきちんとしたものにしていくと、そこへ自然に心が入ってくる結果になるのである。また、茶道の心がわかってくると、自然にかたちもきちんとしたものになってくる。かたちと心とがお互いに働きかけ合うようになると、そこに良循環が起こって徐々にグレードが高くなっていく。そのようにかたちと心が渾然一体となって発展していくのが理想である。」というのも、私も経験していることです。
 一般的にも、お茶は堅苦しいとか煩雑だとかいわれますが、けしてそんなことはなく、稽古を始めたころはそう思うかもしれませんが、点前に慣れてくるとその動きがとても理にかなっていると思うようになります。やはり、先ずはやってみないことにはわからないことがたくさんありますが、おそらく、いろいろな趣味の世界でも同じだと思います。
 著者は、「作法は人を縛るためのものではなく、物事がスムーズに進行していくためのものだ。作法に固執したために、その場が乱れたり人が困ったりしたのでは、本末転倒となってしまう。そこで、茶道では臨機応変にすることを強調する。」と書いています。私の経験でも、外国の方が入られたときに、畳の上に座れないという方がいて、陰から小さなイスを準備したことがあり、あまり時間がかからないようにしたことがあります。
 なかには、おいしそうにお菓子を食べられたので、もう1ついかがですかというと、ぜひにと言われ、別な菓子皿に陰から出したこともあります。
 ながくお茶をしているといろんなことがありますが、今ではそれらはみな良い思い出になっています。やはり、静かにお茶を楽しむときもあれば、話しが弾んでしまうこともあり、それはそれで楽しい時間です。
 下に抜き書きしたのは、最後から2番目の「お茶が身につくということ」に書いてありました。
 私もお茶をしているのでわかりますが、お手前が上手とか下手だとかは、人によっても違うし、何十年やっていてもぎこちない方もいます。でも、それはヘタとかというよりは、真摯に取り組んでいれば、むしろ好ましく感じます。
 そして、そういう方のお茶をいただくと、味わい深いものがあり、やはり長くお茶をやっていた方だということがわかります。
 私も、そう言ってもらえれば、とてもうれしいです。

(2023.12.28)

書名著者発行所発行日ISBN
人生に必要なことは すべて茶席に学んだ山崎武也講談社2009年9月28日9784062157674

☆ Extract passages ☆

 点前には技術の面もあるので、ある程度は上手だとか下手だとかいう評価もできなくはない。だが、茶道に打ち込んでいる意欲や姿勢によって、そのような評価もさらに上下する。点前は誰が見ても稚拙であっても、努力してきた過程の歴史と、茶道に対する真剣な気持ちが見て取れる場合がある。そんなときは、点前に「味がある」というのが衆目の一致するところだ。
(山崎武也 著『人生に必要なことは すべて茶席に学んだ』より)




No.2258『訂正する力』

 訂正するというと、あまりいいイメージはありませんが、かたくなに訂正しないというのも困ったものです。でも、この本を読むと、訂正することの本質が見えてくるような気がしました。むしろ、訂正しないことのほうが、多くの問題を引き起こしているようにも感じました。
 よく空気を読むといいますが、それだって良い場合と悪い場合があり、あまりにもみんなの空気に左右されると、付和雷同になり、前に進めなくなります。他の人をまったく気にしないで勝手に進んでしまうのも、これだって困ったことになります。
 この本では、日本人はいつのまにか変わることをよしとするようで、「空気が支配し、水もまたすぐ空気になる日本においては、よかれ悪しかれ、ものごとは「いつのまにか変わる」ことしかありえない。明示的に「変えましょう」と言っても、その水自体が新たな空気を生み出してしまうからです。だとすれば、その「いつのまにか」をどう演出するかが課題になる。その課題に答えるのが、この本の主題である訂正する力なのです。」とあります。
 たしかに、いつまでも同じ空気であるわけはないし、それがいつのまにかその空気が変わったのに気づかないと、また空気を読めないといわれてしまいます。そう考えると、訂正するのにも、かなりの努力が必要になるようです。
 そもそも日本の場合は、民主主義といっても、ある意味、戦後に他国から押しつけられたようなもので、自分たちで犠牲を払いながらやっと手に入れたものではありません。だから、民主主義というものも、意外と軽く扱っているように見えます。しかし、この本で著者は、「民主主義の本質は「みんなでルールをつくる」ということにあります。「正しさ」もみんなで決めるものです。だから、どんなルールをつくってもそれを悪用する人間は必ず出てくるし、既存の民主主義の常識を破る人間は必ず現れる。そういう構造になっているのです。完璧に正しい市民を育て、完璧に正しい法制度をつくり、完璧に法が守られる社会をつくろうという発想には意味がありません。むしろ、ルールが破られたとき、それにど う対処するかが民主主義の見せどころです。」と言います。
 たとえば、今年の秋の「アーバン・ベア」の問題も同じで、野生のクマと絶対に遭遇しないところにいれば、クマがかわいそうだという人も出てきます。しかし、クマがいつ出てくるかわからない山間部に住んでいれば、自分の命が危ないわけですから、そんな他人事みたいなことはいえません。でも、この広い日本に同じように暮らしているわけですから、少しは相手の気持ちを察することがあってもいいのではないかと私は思います。つまり、これこそが、私は訂正する力だと思います。
 著者は、訂正する力とは民主主義の力のことだといいますが、これは多数決で決められるようなことではありません。だから、「クマがかわいそう」という声にも耳を傾けなければならず、仕事にならないこともあります。また、自分が絶対に正しいと思っている方を、いくら説得しようとしても訂正はしないと思います。
 ということは、今のこのような時代だからこそ、訂正する力が必要だと思いながら読みました。もし興味のある方は、ぜひお読みください。
 下に抜き書きしたのは、第1章の「なぜ「訂正する力」は必要か」に書かれてあったものです。
 これを読めば、訂正したり変化したりすることは大切なことだとわかります。だって、そうしなければ、なかなか前に進めないし、年を重ねて初めて、変わってきたという実感もあります。まさに変わらなければ、今の自分がないかもしれません。

(2023.12.25)

書名著者発行所発行日ISBN
訂正する力(朝日新書)東 浩紀朝日新聞出版2023年10月30日9784022952387

☆ Extract passages ☆

 学者は専門だけやっていればいい。ミュージシャンは音楽だけやっていればいい。アイドルはアイドルだけやっていればいい。けれども、本当はそういう純粋さだけでは人間は生きていけません。そもそも年齢を重ねればだれでも変化する。「訂正」する。純粋さを諦めて、変化を肯定することが大切です。
 そういう意味では、訂正する力は「老いる力」でもあります。また「再出発する力」でもあります。
(東 浩紀 著『訂正する力』より)




No.2257『チャットGPT vs. 人類』

 今年はよくチャットGPTの話題で盛り上がりましたが、11月17日にチャットGPTを開発した米企業オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者が、取締役会で責任遂行を妨げているとして解任されました。すると、すぐにマイクロソフトに入るというニュースが流れ、さらにまた、日本時間の11月22日に、アルトマンがCEO復帰をするという発表がありました。
 今回の騒動は、AGI(汎用人工知能)実現の方向性の違いによる衝突ではないかともいわれ、やはり、チャットGPTそのものもこれからも紆余曲折がありそうです。
 よく、生成AIには幻覚があるといいますが、この本には、「生成AIが現実には存在しない事柄などを回答する現象は「幻覚」と呼ばれる。「幻覚」の原因は生成AIの仕組みにある。生成AIは学習内容から、質問に対して最も可能性の高い単語のつながりを回答として出力しており、「正しさ」「適切さ」を判断しているわけではない。人間ならば持っているはずの「常識」がないのだ。」と書いてありました。
 だとしたら、チャットGPTを使う場合には、人間と同じような常識を考えないことです。おそらく、現代の若者のなかにも、今までの常識が通じないかもしれないので、それと同じです。さらに、幻覚も大きな問題ですが、さらに最近は、チャットGPTの剽窃という問題も出てきました。もともと剽窃というのは、コピーやペーストなどで盗用することで、昔から本からそのまま抜き書きしたりすることもありました。しかし、パソコンが普及してきて、簡単にコピー&ペーストができるようになり、さらにチャットGPTが出てきてからは、ほとんど知識がなくても使えるようになったようです。これは大きな問題です。
 この本には、「まず論文が挙げるチャットGPTのメリットは、学習のパーソナル化や学生のコラボレーションの可能性だ。AIとのチャットを通じて、学生の習熟度に応じた学習が可能になり、学生のグループ作業をAIが支援していくことも可能だとしている。その一方、論文は課題として瓢窃(コピー&ペーストによる盗用)の可能性を指摘する。学生が、チャットGPTが回答した内容を、自分が作成したレポートと偽って提出する間題だ。」と書いてあり、つまり、それほどチャットGPTは、今まで考えられないような膨大な情報をもとに、的確なレポートを生成することが可能だということです。
 まさに、生成AIは頭脳の拡張のようで、使い方を間違えば、とんでもないことになりそうです。しかしまた、使わないのでは宝の持ち腐れになりかねないので、この変化をしっかりと考え、自分たちも変わり、社会も変えていかなければならないようです。
 下に抜き書きしたのは、第13章の「日本と世界、社会とAI」に書かれていたものです。
 まさにこれからのAI社会と向き合うには、先ず、AIそのものを知らなければなりません。そして使いこなすには、ここに抜き書きしたようなポイントをしっかりとつかまなければならないようで、そうしないとAIに私たちが置き換えられてしまうかもしれないのです。
 たしかに便利な世の中になりましたが、その便利さを共有するには、それなりの知識が必要です。

(2023.12.22)

書名著者発行所発行日ISBN
チャットGPT vs. 人類(文春新書)平 和博文藝春秋2023年6月20日9784166614134

☆ Extract passages ☆

 生成AIを使いこなすポイントの1つは、回答の出来上がり、すなわち成果をイメージできるかどうかだ。文章でも、画像でも、楽曲でも、一定レベル以上の回答は、それを具体的にイメージし、逆算してAIに指示を出すことでしか手にできない。
 「答え」を想定し、そのクオリティを評価できるかどうか。それが、生成AIから満足のいく「答え」を得るためのカギになる。
 クオリティの高い「答え」には専門的な知識が要求される。クオリティの高い「答え」には、クオリティの高い「問い」が必要なのだ。つまり、プロであるということだ。プロはAIを手に、さらに生産性を上げていくことができる。
(平 和博 著『チャットGPT vs. 人類』より)




No.2256『人生最後のご馳走』

 よく、人生の最後に何を食べたいかという話しがありますが、おそらくキリストの最後の晩餐の影響かな、と思います。
 でも、最後の最後に何を食べたいかというより、この本のように、死期が迫ってきたときに何を食べたいかと聞かれれば、今まで食べてきたいろいろな思い出が走馬灯のように映し出されるのではないかと思います。しかも、そのほうが、ゆっくりと味わいながら楽しめそうな気がします。
 では、あなたはと聞かれても、まだいつまで生きられるかもわからないし、これからすごい食べものに出合うかもしれないので、簡単には答えられません。
 それでも、この本のような人生最後のご馳走を食べたいと写真などを見ながら思いました。
 この本を読めば、食はとても大切なことだと実感できますが、私ももしホスピスに入るとすれば、ここの淀川キリスト教病院のホスピス・こどもホスピス病院がいいと思います。しかし、ほとんどの院内病棟型ホスピスの場合の在院期間が約3週間だそうで、このような独立病棟型ホスピスとは違うようですが、それでも、先に予約するということにはいかないようです。
 そういえば、ここで働く看護師の和田栄子さんは、ホスピスと一般病棟の違いを、「希望の食事を食べていただくリクエスト食もそうですが、ホスピスでは1つひとつのケアがすべてオーダーメイドです。ご本人にとって何が心地よくて安心なのかは、生きてこられた道が異なるように一人ひとり違います。ささいに思えるサインを見逃さないで、できるかぎりケアに戻していくときに、一般病棟では明日に回せば良いことが、ホスピスでは時間に限りがあるため後悔を生むことにもつながります。できることは必ずそのときに行う。末期なのでもう何もできないということはありません。最期まで手を尽くせることがやっぱりありますから。」と話していたことが印象に残りました。
 まさに、限りある命に日々大切に向かい合う姿が、医療従事者にとっては大切なことだと思います。
 そして、医師の池永昌之副院長さんによれば、「ホスピスでは患者さんの痛みを少しでもやわらげるために、医師は薬の処方をかなり細かく調整しています。結果、苦痛が軽減されることで、食欲が戻ることも多い。また、辛い闘病生活で失いかけた希望を、看護師たちによる手厚いケアで再び持つようになると、表情は明るさを取り戻し血色が良くなる場合もあります。気持ちが前向きになると食べることが楽しくなりますよね。食事が病状を劇的に変えることはありませんが、食を含めたケアのすべてがつながると、患者さんの心や体の痛みを少しでも軽減することができるのではないでしょうか。」と本当に謙虚です。
 しかも、大人15床のうち8床は個室料が無料だそうで、一般病棟と同じ自己負担で済むそうです。ということは、このような「リクエスト食」で超過した食材費などは病院が負担しているそうで、おそらく赤字ではないかと思います。でも、淀川キリスト教病院の系列だからこそできるのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、「はじめに」に書かれていたもので、結論めいたような言葉です。
 そして、この14人の末期のがん患者の方々の話しと、そして淀川キリスト教病院のホスピス・こどもホスピス病院のスタッフの方々の話しを聞くと、私もたしかにそうだと思いました。
 やっぱり、私も最後はこのような病院で過ごしたいと思いました。

(2023.12.20)

書名著者発行所発行日ISBN
人生最後のご馳走青山ゆみこ幻冬舎2015年9月15日9784344028265

☆ Extract passages ☆

 人は食べないと生きていけない。
 貧しさで3日に1度しか持たせてもらえなかったお弁当のおかずも、家族で賑やかに囲む豪勢なすき焼きも、味も素っ気もない病院食のお粥も、体に入れば結局は同じで、生きるために重ねてきた単なる何千分の一食でしかないのかもしれない。
 でもやっぱり違う。食べることは栄養摂取の作業ではない。また、たとえどんなに質素なおかずであってもそこに思いの込められた食事は、その人にとって大切な時間で、それは「ご馳走」なのだ。14人の末期のがん患者の方々の話に耳を傾けるうちに、私はそう感じるようになった。
(青山ゆみこ 著『人生最後のご馳走』より)




No.2255『脳を活かすスマホ術』

 副題が「スタンフォード哲学博士が教える知的活用法」で、いまやスマホは欠かせない道具のひとつであることは間違いありません。
 でも、スマホを使うと集中力が低下するとか、うつや不安症を引き起こすとか、さまざまな批判もあります。それでも、スマホを使う人は増える格別、減ったという話しはあまり聞きません。私も、以前は旅行に行くときは必ずノートパソコンを必ず持っていきましたが、今はスマホひとつで間に合います。軽いし便利だし、ネットも音楽もこれだけで十分です。自宅にいるときは、ほとんどパソコンですが、出歩くときはスマホで、最近はカメラがわりにも使っています。
 ただ、パソコンでもスマホでも同じですが、情報をそのまま鵜呑みにはしないようにしています。この本では、エコーチェンバーのことを、「自分では、自由にアクセスできるインターネットの上で、偏りのない情報を手に入れようとしているつもりでも、スマホのニュースアプリや検索エンジン、ネット広告のアルゴリズムは、自分がよく見るジャンルの情報ほど目立たせるようにできている。そうしたネット環境の中で、自分と似た思考の人々が集まってくる場に身を置くと、自分の意見や思想が肯定され続け、それらがまるで正解であるかのように勘違いしてしまう。いわば、同じ意見が部屋の中でエコーのように鳴り響き続け、そのことでその意見がより確からしく確信してしまう。」とわかりやすく説明しています。
 たしかに、同じパソコンを使い続けていると似通った情報ばかりになり、これが学習効果かと思っていましたが、このエコーチェンバーということもあるようです。
 そういえば、スマホは悪いというようなネガティブな発想は、それ以外でもそのような話しを聞きます。これは、この本では、「人間の先祖が天敵に囲まれて暮らしている大自然の中で、同じ過ちを繰り返しては命の危険に晒される。そこで、強烈なネガティブな気持ちがあることで、もう一度同じ間違いをおかさないように気をつけることができる。ゆえにネガテイブな心の働きが、進化論的にも優位な能力として、人間のDNAに刻まれてきたのです。と書いていて、このようなネガティブキャンペーンはなくならないといいます。
 いわれてみると、たしかにその通りで、なぜと思うようなことでも、このようなバッシングはあります。たとえば、今年のクマの問題もそうです。山にエサがないからとか、人を怖がらなくなったからとか、いろいろあるようですが、今まで聞いたことがなかった「アーバン・ベア」という言葉され普通に使われています。しかも、近隣にクマが出てこわくて歩けないのにもかかわらず、クマを駆除すると苦情の電話が鳴り続けるといいます。秋田県内の役所では、仕事もできないといいますから、まさに異常事態です。
 まさに、スモホと同じで、理論的な裏付けもなく、ただ感情論だけで話すわけですから、これなどもネガテイブキャンペーンではないかと私は思います。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「スマホのSNSで本物の「ウェルビーイング」を手に入れる」に書かれていました。
 そして、SNSで受信するよりも、自分から発信するほうが心のウェルビーイングが保たれているといいます。つまり、自分の意思でやっているとか、つながっている、できるなどという感覚がウェルビーイングな状態でいられるし、幸福感も味わえるということです。

(2023.12.18)

書名著者発行所発行日ISBN
脳を活かすスマホ術(朝日新書)星 友啓朝日新聞出版2023年10月30日9784022952370

☆ Extract passages ☆

・関係性:人とつながったり、つながれると思う気持ち
・有能感:何かを「できる」とか「できた」という満足感
・自律性:誰かや何かに強制されるのではなく、自分の意思でやっているという感覚
 この「心の三大欲求」は「自己決定理論」と呼ばれる心理学理論の核となるコンセプトです。
 「自己決定理論」によれば、「心の三大欲求」が満たされると、私たちの心が健全に保たれ、そうやって心を満たしてくれるような事柄に対して、私たちのやる気やモチベーショ ンが向かっていきます。
(星 友啓 著『脳を活かすスマホ術』より)




No.2254『俳句交換句ッ記』

 昨年と今年、信濃三十三観音霊場を巡っていて、いろんなところで句碑を見つけました。そこで調べてみると、信濃には、現信濃町の農家に生まれた小林一茶だけでなく、北信濃には俳人たちが多くいたそうで、句会も盛んに行われたようです。
 そのようなことを調べているうちに、この本と出合いました。表紙の裏表に似顔絵が書いてあり、いろいろな方たちが俳句交換をしていました。なかには、知っている方やまったく知らない方もいて、興味を持ちました。
 この本は、もともと「青春と読書」に2020年9月号から2023年2月号までに載ったものに、著者と又吉直樹さんの対談を加えたものです。この「青春と読書」は、集英社の月刊情報誌で、新刊情報や人気作家の連載小説、連載読物や共感を呼ぶ楽しいエッセイや対談などを載せています。また、いわば出版社のPR誌ですから無料ですが、一部に130円で有料販売しているところもあり、不思議な月刊情報誌です。良く解釈すれば、お金を払ってでも読みたいという冊子でもあります。
 それはさておき、みなそれぞれ、個性のある句と文章を載せていますが、光浦靖子さんは「誰かが言いました。「年をとるごとに心は豊かになります。だから若い頃は気づかなかった季節の変化に、とても敏感になれるんです」と。う―ん……確かに若い頃より季節に敏感です。が、私の場合、心が豊かになったというより肌で感じるようになったからじやないかなぁ?これは本当に言葉通り、季節の変わり目は肌にボツボツができる、ということです。ほっぺに湿疹ができたら「あ、春が来るな」とわかります。肌だけじゃないです。喉が痛くなります。「あ、黄砂の時期だな」と気づきます。」と書いてあり、いろんな季節の変化があるんだなと思いました。
 たしかに、季節の変わり目には、体調の変化や気分の変化もあり、それに追いつかないこともあります。でも、季節が変わり、少し時間が経つと、体調なども元に戻り、変わったことさえ気づかなくなります。この季節の変化があるから、風景もかわるわけで、四季の変化も楽しめます。
 そういえば、松浦寿輝さんの文章に、「誕生から死までの人の生涯の全体を、一冊の本を読みはじめ、読みつづけ、ついに読み終わる……ことはできず、未読部分をずいぶん残したまま、未練がましく、不請不請、嫌々ながら本を閉じるほかないわけだが、ともかくそういうひと繋がりの行為に譬えてみる。すると、「去年今年」の、行く年来る年の境で人がするのは、その長い長い本をふと読みさして、ページのあいだに栞を差し挟むという、ささやかな身振りではないかということになる。」とあり、すごくわかるな、と思いました。
 もう12月の半ばで、今年もあと半月ですが、1年間で何冊本が読めるかというと、以外に少なく、がっかりするときがあります。そのような体験から、この『本のたび』も続けていますが、2006年4月22日からはじまって、まだ2,252冊しか読んでません。もちろん、ここに掲載しなかった本もありますから、それでも3,000冊にとどきません。だからといって、本は好きで読んでいるので、何冊読んだからいいというものではありませんが、そういう意味でも、この文章には納得です。
 それと、私は本の栞が好きで、自分専用の栞を作ったりしています。おそらく、本が読めなくなるまで、栞を差し挟み続けることでしょう。
 下に抜き書きしたのは、著者の堀本直樹と又吉直樹さんの対談「才人と合気道」に書いてあったものです。
 たしかに、先ずはおもしろがらないと始まりません。おもしろいと思うから興味も湧きますし、興味を持つから、いろいろ細部まで見ようとします。見れば見るほど記憶にものこります。ということは、おもしろがるというのも本当に大切なことです。
 だから、私も、今までもこれからも、何でもおもしろがろうと思いました。

(2023.12.15)

書名著者発行所発行日ISBN
俳句交換句ッ記堀本裕樹集英社2023年10月10日9784087718461

☆ Extract passages ☆

……とりあえずおもしろいと感じた光景や出来事を目に留めて記憶にとどめることはすごく大事ですね。そのとき自分が何も感じなければ、ただ通り過ぎた風景として記憶にも残らないんだけど、おもしろがると記憶に残る。おもしろがるというのは、興趣を感じるという言い方もできるかもしれない。記憶のレベルであり続けて、俳句やエッセイにまだなっていないことが僕にもたくさんありますけど、たまたま何かのタイミングでフィクションが加わって広がることもある。そういう作業って何を創作するにも必要なんでしょうし、記憶にとどめたものが、いつかふわっと胸の奥から出てくるのを待つのも楽しいです。
(堀本裕樹 著『俳句交換句ッ記』より)




No.2253『ムツゴロウさんの最後のどうぶつ回顧録』

 ムツゴロウさんが今年の4月5日に亡くなられた。享年87歳で、この本を図書館で見つけ、すぐ読むことにしました。というのも、だいぶ昔、よくテレビ番組で観たことがあり、真剣に動物たちと触れ合っていたのが印象的でした。
 この本は、「週刊プレイボーイ」で2016年からスタートした連載コラム「ムツゴロウさんの最後のどうぶつ回顧録」で、それを加筆修正して構成したものだそうです。
 そして、その最後の原稿は、そのまま印刷されていて、このような文字を書く方だったのかと、改めて思いました。
 第1章は「ヒグマのどんべえと暮らした日々」で、飼育を始めて3年目のことだそうで、「食事は、ときにクマと一緒だった。 スキヤキなどの場合、ご飯にかけて持っていった。それなら、クマと一緒に同じ皿から食べられた。クマは、私を信頼するようになっていた。 スキヤキの肉片をつまむと、クマは首を伸ばしてくわえる。私は、指を口の中に差し込んで、引っ張る。相手の歯を利用して、肉片が半分になる。「ははは、それ、半分ずつだぞ」スイカなどは、丸ごと持っていった。クマは前脚で圧さえ、全体重をかけて割った。ゆで卵が好物だった。私は、クマの額にぶっけて卵を割る。これが嫌いだった。ぶつけると、低くうなって抗議した。でも、皮をむいてやると、相好を崩して喜んだ。」と書いてあり、まさに命がけでクマと生活をしていたようです。
 もっと大変なのは、第2章の「ゾウの孤児院で受けた衝撃」に書いてあったもので、仲良くしていたゾウではなく、違うゾウから胸に正面から直撃を受けたそうです。そして、胸がポキリと音がして、激烈な痛みが走ったといいます。
 それでも、ゾウと仲良くなるには、その痛みにも耐え、夜になって横向きに寝ようとすると脇腹に疼痛が走り、せきをしても痛むので、大変だったようです。それでも、ゾウを向かい合うときには、何ごともなかったかのように振る舞い、終いには恋人のようになったと著者はいいます。
 私は、南インドに行ったときに、ゾウに乗ったことがありますが、それは飼われているゾウで、象使いが一緒でしたから、こわくもなにもありませんでした。でも、その数日後に原野で野生ゾウの足跡を見たときには、やはりこわくなりました。というのも、その数日前に、近くの小さな村がゾウに襲われ、家が潰され、人も大けがをしたと新聞に載っていたからです。
 現地の人は、その足跡と糞の状態から、数時間前にここを通ったのではないかということでした。古い糞には、真っ白なキノコが生えていて、それを写真にも撮りましたが、ここを早く離れたかったです。
 それを考えると、ムツゴロウさんの行動は彼らしいというか、彼でないとできないと思います。だからこそ、私が昔見たテレビのような番組になったようです。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「オオカミに魅了された理由」に書いてありました。
 そういえば、私もネパールのルンビニに行ったときに、オオカミを見ました。普通なら、すぐカメラを取り出して撮るのですが、そのときは夕陽に照らし出されたその姿が、まさに神々しく、ただ、見ているだけでした。もちろん、オオカミを見るのは初めてなので、ネパールの友人のアンバブさんに「オオカミだ!」と言われたので、たしかにそうだと思いました。彼によれば、今でもここらには出てくるようで、赤ちゃんがさらわれてしまったという話しもあるそうです。
 だから、著者の魅了されたという話しも、あり得ないことではないと思いました。

(2023.12.12)

書名著者発行所発行日ISBN
ムツゴロウさんの最後のどうぶつ回顧録畑 正憲集英社2023年9月10日9784087901382

☆ Extract passages ☆

 広野をひとり生きる。風雲にさらされ、自分を失わない。しかし、心の中は、熱く煮えたぎっている。この世に孤高などという生き物はあり得ないと、その目の輝きが語っている。
 オオカミは磁石だ。見ると吸いつけられる。その場から離れられなくなる。
(畑 正憲 著『ムツゴロウさんの最後のどうぶつ回顧録』より)




No.2252『聖地巡礼』

 副題は「世界遺産からアニメの舞台まで」で、いわゆる聖地を目指す旅についてです。私も、ここ10年ぐらいは各地の三十三観音を巡っていますが、似たようなものです。
 この本に、聖母マリアの話が載っていますが、キリストより庶民には人気があるというのも、観音さまと似ているような気がします。おそらく、お釈迦さまを訪ねる旅というのはあまりなく、むしろ観音さまや御稲荷さんなどが多いようです。
 私はお釈迦さまを訪ねてインドに何回か行きましたが、生まれたルンビニや成道したブッタガヤ、初めて説法したサールナート、そして涅槃の地クシナガラが釈迦四大聖地になっています。この他に八大聖地もあり、そのほとんどをまわりましたが、新型コロナウイルス感染症が世界的に広まってからは海外にはなかなか行けません。
 それで近くの観音さまにお詣りをするようになったのですが、やはり、目的があるとやり甲斐も生まれ、達成すると喜びもあります。
 しかし、この本に書いてあるスペイン北西部にあるサンティアゴ・デ・コンポステラは、古くからあった巡礼地ですが、現在のように多くの方が歩くようになったのは21世紀になってからだそうで、カトリックの信者でもないのがほとんどのようです。そして、「本来は、最大の目的だったサンティアゴ大聖堂への到着は、信仰なき巡礼者たちにとって本質的な動機にはなりえない。とはいえ、スペイン側だけでも800キロメートル以上に渡って広がる巡礼路を各人が勝手に歩き回ってしまうと、巡礼者という肩書が無効化し、個別にトレンキングしている人々になってしまう。そこで「西へ向かう」という最低限のルールを提示しているのがサンティアゴ大聖堂だというわけである。」と書いてありました。
 つまり、ゴールが目的ではなく、そこに至るプロセスこそが大事なことで、巡礼者同士のコミュニヶーションや仲間意識などが巡礼を支えてくれているようです。そういえば、私も四国八十八お遍路をしたときに出合ったバイクの青年や、おばあちゃんと一緒にお遍路をしていた小さな娘さんなどとあちこちで会うたびごとに挨拶したことなどを思い出します。
 この本には、有名な聖地やあまり知られていない聖地なども取りあげられていますが、これは日本人独特の考え方も影響しているようです。著者は、「日本の宗教観の特徴は、人間以外の動植物をはじめ、無機物にすら霊魂が宿るとする点である。とりわけ自然の中に神や精霊のような存在を見出すことが顕著である。岩、洞窟、樹木などはもちろんのこと、雨風や雷といった自然現象も意思や霊魂を持ったものとしてとらえられてきた。」といいます。
 だから富士山などの高い山や、熊野の那智大社にある巨大な滝、さらには斎場御嶽のような巨石なども聖地となりうるといい、これはキリスト教などの文化圏では少ないといいます。それはアニミズムそのものを否定的にとらえているからで、すべてこの世界は唯一神がつくったと考えているからではないかと書いています。
 たしかに、日本は八百万の神たちの世界ですから、1個の石でも神さまになったり、それらがいくつか集まれば聖地にだってなります。
 終章の「現代社会と聖地巡礼」で、東北お遍路プロジェクトに触れていますが、これは東日本大震災の犠牲者の慰霊と鎮魂のためのもので、特に被害の大きかった福島・宮城・岩手・青物の有志によって進められていたようです。このプロジェクトのもうひとつの目的は、東日本大震災の記憶を長く伝えて行くことだそうで、長い年月のうちに忘れられていくのを少しでも防ぎたいという思いです。
 ただ、この本が出されたのは2015年ですから、その後、この東北お遍路プロジェクトがどうなっているかわかりませんが、少し調べてみたいと思ってます。そうすれば、新しい聖地というものも、その流れがわかるような気がします。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「世界遺産と聖地――選別される宗教文化」に書いてあるものです。
 たしかに、現在の聖地は恣意的につくられていると思っていましたが、これほどまでとは思いませんでした。では、なぜエルサレム修道会はこのようなことをしているのかというと、「めまぐるしい現代社会を生き、時に旅行者として教会を訪れる人々に対して祈りや信仰を考え直す機会を与えようとした」そうで、たしかにこれもひとつの宗教活動のような気がしますが、私にはできそうもありません。

(2023.12.10)

書名著者発行所発行日ISBN
聖地巡礼(中公新書)岡本亮輔中央公論新社2015年2月25日9784121023063

☆ Extract passages ☆

 エルサレム修道会のメンバーがモン・サン=ミシェルに関わるようになるのは2001年からのことである。同地を管轄する司教の求めに応じて、モン・サン=ミシェルの修道院としての風景を取り戻すために、エルサレム修道会のメンバーが移り住んだ。ただし、修道院の建物や資産はあくまで国家に属すため、フランス政府によって管理されている。つまり、エルサレム修道会のメンバーは、世界的な観光施設で各国からの観光客の視線にさらされながら暮らしているのである。
(岡本亮輔 著『聖地巡礼』より)




No.2251『ダーウィンの足跡を訪ねて』

 この本も手に入れたのはだいぶ前のことですが、今回の五能線「リゾートしらかみ」の旅が終わり、東京の小石川植物園にショクダイオオコンニャクを見に状況する車内とホテルで読み終わりました。
 この本にも出てきますが、2014年7月5日に自然史博物館の二階に上がる踊り場のところでダーウィン像を見て、そのわきで記念撮影をしたことを今も覚えています。さらに、2017年にスコットランドのエジンバラ標本館で、ダーウィンがビーグル号で世界回っていたときに採取し標本にした貴重な現物を見せていただき、感激したことは、さらによく覚えています。
 そこで、今回の旅で持っていくことにしたのがこの本です。しかも、世界で一番大きな花といわれるショクダイオオコンニャクを見るためですし、2017の9月にケンブリッジ植物園の温室で、このショクダイオオコンニャクの種子を見たこともあります。電車に揺られながら読んでいると、イギリスの旅などを思い出し、ときどき車窓を見ながら、夢見心地になりました。
 さて、本題ですが、ダーウィンがビーグル号に乗ることになったエピソードが書かれていて、艦長のロバート・フィッツロイは知識のある人がこのビーグル号に乗ってくれれば、どんなに役立つだろうと思い、「1831年の夏、彼は、誰か適切な地質学者・博物学者を探してくれるよう、海軍大佐のフランシス・ビューフォートに頼んだ。ビューフォートは、ケンブリッジ大学トリニティ・カレツジの数学者、ジョージ・ピーコックに人選を頼んだ。そこで、彼は、知り合いで、ケンブリッジ郊外のスウォッファム・バルベックの村で牧師をしているレナード・ジェニンズを誘った。しかし、ジェニンズは教区を離れるわけにはいかないと断ってきた。そこで、ピーコックは、同じくケンブリッジ大学の植物学教授であるジョン・スティーヴンズ・ヘンズローに声をかけた。彼こそ、ダーウィンが毎日いっしよに散歩しながら植物学を学んだ、あのヘンズローである。 ヘンズローは、誰か人を紹介するより、自分が行きたくてたまらなかった。しかし、病気がちの妻をおいて五年も家を空けることはできず、チヤールズ・ダーウィンを紹介した。ダーウィンの一世一代のチャンスは、こうして、まるでおこぼれのように最後の最後に回ってきたのだった。」とあります。
 これを読むと、まさに千載一遇のチャンスで、それは間違いなく運が良かったということになります。
 しかも、ダーウィンはケンブリッジ大学を卒業したばかりの22歳で、まだ進路ばかりか将来の自分の方向すら見つけられていないときです。しかし、これに乗船したことで、まったく予期せぬ道筋が見えてきたのだから、人生というのは不思議なものです。さきほど出たダーウィンの標本の記載にも、このビーグル号に乗っていたときに採取したことが記されていました。
 そして、このビーグル号の航海で、進化論という考えの芽生えがあり、その検証などに突き進んで行くきっかけにもなりました。そういう意味では、とても重要な体験でしたし、多くの収穫も得られました。
 また、おもしろいと思ったのは、1837年ごろ、子どものときからつきあいのあるいとこのエマ・ウェッジウッドと結婚を考えるよりだいぶ前に、結婚についての利点と欠点の表を作り始めたそうです。それによると、「結婚することの利点は、やすらぎ、子どもができる楽しみ、生涯の伴侶を得ること。しかし、こんな楽しみを享受し、しかも科学の研究を続けるためには、お金が十分になければならない。お金がなかったらどうしよう? 子どもにはとてもお金がかかるに違いない。科学の研究用のお金が、子どもにとられてしまうかもしれない。これは、結婚の欠点。さらに結婚の欠点は、時間の無駄としか言いようのない規戚づきあい。自由に世界を旅行できなくなること。一方、結婚しなかったとしたら、その利点は自由であること。ヨーロツパもアメリカも、見たいものは気ままにいくらでも見られる。無駄な親戚づきあいも、独身ならばしないですむ。しかし、ロンドンのむさくるしいアパートでいつまでも独居するむなしさ。年老いて、何も残らない寂しさ。と、思いつくままに、結婚するべきか、しないべきか、チャールズはノートに書き散らす。」というから、びっくりです。さすが、進化論を考えるような頭脳で結婚の尊徳も考えたというから驚きです。
 下に抜き書きしたのは、ダーウィンが『種の起原』を出版したころの話しです。
 この本には、自然淘汰による進化論を慎重に考え、何度も検証し、それでもなかなか出版しなかった状況を書いていますが、そうとう考えに考えたようです。その慎重な姿勢は、あの自然史博物館にあるダーウィン像を見ると、納得できそうです。
 その二階に上がる踊り場の反対側の回廊には、ジャイアントセコイアの巨木の輪切りが展示されていました。年輪を中央には557年と書かれていて、おそらくそれぐらいの年数はありそうです。そのときは、それを比べて見ることはありませんでしたが、今、この本を読んでみると、その極端に長い年月を感じます。
 まさにダーウィンという人は、行動してよく考える人だったような気がします。

(2023.12.8)

書名著者発行所発行日ISBN
ダーウィンの足跡を訪ねて(集英社新書ヴィジュアル版)長谷川眞理子集英社2006年8月17日9784087203554

☆ Extract passages ☆

 ダーウィンは、自然淘汰による進化の理論をながらく秘密にし、それを告白することは殺人の告白をするにも等しいと恐れていたのだが、とうとう1859年に「種の起原』として出版した。その頃、ほぼ同様の進化理論を唱える論文が、マレー群島にいた博物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスから送られていたことは、すでによく知られている。……
 ダーウィンという人は、臆病だったのだろうか? 見方によってはそうかもしれない。彼は、自分の属する上流階級の体面を保ち、それを脅かすような「下品な」論争には加わらなかった。しかし、彼は決して卑怯ではなかった。書くべき書物は書き、さまざまな証拠となる実験や観察結果を記した論文も書き、科学者として事実で勝負した。
(長谷川眞理子 著『ダーウィンの足跡を訪ねて』より)




No.2250『旅をする木』

 この本を手に入れたのはだいぶ前のことで、いつか旅をするときに持って出ようと思っていたのですが、なかなかその機会がなく、ついに今回の五能線「リゾートしらかみ」の旅で読むことができました。
 もともと星野道夫の写真は大好きで、写真集もありますが、本も何冊か持っています。ただ、旅するときは旅の本と決めてあるので、自分の部屋ではあまり読みたくはありません。それで、いつかはと思って買い込んである旅の本が何冊もあるわけです。その1冊がこれです。
 著者は1996年8月8日に、TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外!』の撮影のためにロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマに襲われて死亡しました。このニュースを聞いたときに、私はまったく信じられなかったのですが、最近の「アーバン・ベア」という言葉のように、昔のクマとは違ってきているようです。しかも、この襲ったヒグマは、地元テレビ局の社長が餌付けした個体であることが後から判明しましたが、だからまったくの野生のヒグマではなかったようです。
 この本の文章は、福音館書店の「母の友」に1993年4月号から1995年3月号までに連載されたものが中心で、それに書き下ろしたものを単行本として1995年8月に文藝春秋から出版されました。そして、この文庫本は1999年3月に発行されていますので、亡くなられてからのものです。だから、池澤夏樹氏の解説には、亡くなられてから3年の歳月が過ぎたと書いてあるわけです。
 しかし、池澤氏がいうように、「大事なのは長く生きることではなく、よく生きることだ」とすれば、星野道夫という人は、自分が描いたような生き方をしたわけで、おそらく、幸せな人生だったように思います。
 今現在、私も大人の休日倶楽部パスを使って五能線「リゾートしらかみ」などに乗り、気ままな独り旅をしていますが、したいと思うことができることが一番の幸せです。お金があるからとか、健康だからとか、幸せへの道筋はいろいろあるでしょうが、だからといってしたくもないことをしなければならないなら、幸せだとはいえないと思います。
 著者は、この本の最後の「ワスレナグサ」のなかで、「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。」と書いていますが、私も同感です。
 旅だって、行き先にたどり着くことよりも、その行く途中がいかに楽しい時間かが大切ですし、だからこそ、あまり綿密な計画を立てない独り旅がおもしろいと、私は思っています。行き当たりばったり、が最高です。
 下に抜き書きしたのは、「あとがき」に書かれていたもので、題名にもなった「旅をする木」にも通じるものがあります。
 そして、この本の「海流」のなかに、黒潮の流れが「太古の昔から、北太平洋をめぐる海流は、まるでその出口を求めるかのようにぐるぐると回り続けている。日本の東沖を北上しながら、その一部はベーリング海へ抜けるが、本流は黒潮となって南アラスカ沿いをたどり、まるで弧を描くようにブリティッシュ・コロンビアヘと南下した後、東のハワイ方向へ向かう流れは次第にその方向性を失ってゆくが、さらに赤道へと南下してゆく本流はそのままグアム、台湾へと進み、やがて北上しながら再び日本の東沖を通り過ぎてゆくのである。」とあります。
 著者もいうように、昔の人たちはこの黒潮に流されて、果てしない旅をしたり、途中で海の藻屑になったり、あるいはどっかの知らない国に漂着してそこに居着いたりしたのかもしれません。そういうことを考えれば、やはり人生は旅であり、むしろ旅そのものかもしれません。
 この本を読んでいて、6日の10時55分ごろ深浦駅でセイリングの「海彦山彦弁当」を受け取り、「リゾートしらかみ」の走る海岸線を見ながら食べました。食後、昨日、秋田駅構内の三松堂の銘「遠山の雪」で抹茶をいただきました。この上生は、こなし製でなかは粒餡でした。茶碗は渋谷泥詩さんの萩焼で、ゆっくり飲んでから、また、この『旅をする木』を読みました。いずれも、よい思い出になりそうです。
(2023.12.6)

書名著者発行所発行日ISBN
旅をする木(文春文庫)星野道夫文藝春秋1999年3月10日9784167515027

☆ Extract passages ☆

 ずっと昔、初めて行った北極海の海岸で、大きな流木の上に止まる一羽のツグミを写真に撮ろうとした日のことを覚えています。木が生えない北極圏のツンドラで、なぜ流木が海岸に打ち上げられているのだろうと不思議に思いました。それは川に流され、長い旅をへて海に出て、やがて海流に運ばれながらある日遥かな北の海岸にたどり着いた一本のトウヒの木だったのです。枝が落ち、すっかり皮も剥げ、天空に向かって突きさすように伸びるあのトウヒの姿はありません。けれども、その流木は風景の中でひとつのランドマークとなり、一羽のツグミが羽を休める場所だけでなく、ホッキョクギツネがテリトリーの匂いを残すひとつのポイントになっていたのかもしれません。また流木はゆっくりと腐敗しながらまわりの土壌に栄養を与え、いつの日かそこに花を咲かせるのかもしれません。そう考えると、その流木の生と死の境というものがぼんやりしてきて、あらゆるものが終わりのない旅を続けているような気がしてくるのです。
(星野道夫 著『旅をする木』より)




No.2249『テツ旅は独り旅から』

 ここ3年ぐらいコロナ禍のなかで鉄道の旅は控えていたのですが、感染症五類になったこともあり、大人の休日倶楽部パスを使って五能線「リゾートしらかみ」に乗りたいと思いました。ここは何年か前に切符を取ろうとしたけど、取れなかったこともあり、指定券の発売日の午前10時になんとかとることができました。
 もちろん、海側のA席ですが、秋田駅から青森駅まで乗ることにし、秋田駅が午前8時19分発なので前日までに駅近くに泊まることにしました。すると、山形新聞の11月22日の朝刊に、「JR東34路線 赤字継続」という記事が載り、2022年度の収支のなかで、奥羽本線(山形県内関係のため)新庄と湯沢間の1q当たりの1日平均乗客数が262人で、15億6千3百万円の赤字でした。しかも、赤字幅が1億1千万円増えているそうで、これからますます存廃議論が加速しそうだと書いてありました。
 そういえば、米沢駅を起点として福島駅から新庄駅までは乗ったことがありますが、その先はまだだったので、この機会に新庄駅から秋田駅まで乗ってみようと思いました。新庄駅11時22分に乗ると、秋田駅には14時11分に着くそうで、2時間49分かかります。
 それでも、その日に着けばいいし、すでに大人の休日倶楽部パスを買ってあるので、米沢駅から新庄駅までは山形新幹線つばさ123号で行って、そこから奥羽本線に乗っても、すべてパスの料金で行けます。明日12月4日の出発ですが、今から楽しみです。
 さて、この本ですが、私もテツ旅は好きでいろいろなところに行きましたが、今年の春は四国にNHKの朝の連続テレビ小説『らんまん』のロケに誘われたこともあり、いろいろとまわったのですが、最大の楽しみは、高松駅から「サンライズ瀬戸」のA個室寝台に乗ることでした。乗車1ヶ月前の午前10時から予約しようと思いスタンバイしていたのですが、すぐに満席、たった6部屋しかないので、やはり無理でした。ところが午後1時ぐらいになってさらにチャレンジするとキャンセルがあってようで、なんとか取れました。
 こんなことはざらなので、この本に書いてあることは、ほとんど当たり前のことで、おそらく独り旅をしている方なら、みなご存じのことだと思います。
 下に抜き書きしたのは、「はじめに」のところに書いてあったものです。
 実は、私もそう思っていて、独り旅こそが本当の旅ではないかとさえ思います。それ以外は旅行であって、少しぐらい冒険の心がなければ、ドキドキもワクワクもないような気がします。
 だから、私も行き先はなんとなく決めたり、その情報はほとんど集めません。しかも、旅行ガイドなどは、あまり調べてしまうとそれに縛られて、見つけ出す楽しみもなくなります。偶然見つけるからこそ楽しいわけで、誰かが見つけたものなど、あまり興味はありません。
 だから、明日から行く予定の旅だって、五能線の「リゾートしらかみ」に乗りたいだけで、その他は流れに従うしかありません。最初は秋田から青森に行って、そこで泊まろうと思っていたのですが、青森駅に13時29分に着くので、ちょっと中途半端です。そこで新青森駅で下りて、東北新幹線で盛岡駅まで行けます。ただ、それだけの理由で、今のところは盛岡駅近くに泊まろうと考えています。でも、そのままどこかへ行くこともできるので、先ずは出発してみないとわかりません。
 まさに、行き当たりばったりですが、著者も「これは独り旅だからできることです。私は人気、多数決、ランキングに則ったことでは決めません。これらで決めていること自体、石橋を叩いて渡っています。正解にこだわるより、何がしたいかで決めています。」と書いていますが、もともと旅はリスクもありますし、予定通りに行くはずもありません。
 そして、そう思っていると、気楽に出かけられますし、何があっても受け入れられます。
 今までの旅で思い出すのは、東日本大震災の後にスリランカから帰国し、いつも荷物を宅配便で出していたのができずに、その大きな荷物を持って東京駅に行き、そこからは帰れないと知り、羽田空港まで行き、出発10分前のたった1席しか空いてない飛行機に荷物を預ける余裕もなく、チェックインで荷物からナイフが出てきて、それを捨ててもらい、急いで搭乗したことがあります。飛び立ってホッとしたのもつかの間、空港が積雪のため着陸許可が下りず、旋回をしていましたが、あと数分というところでなんとか着陸できました。
 その飛行機だけで、後は空港が閉鎖されてしまい、まさに危機一髪でした。それでも、空港にこんなに雪が積もるということがないので、すべての荷物を持っていたので、カメラを取り出し、その降りしきる雪の空港の写真を撮りました。
 ここで、東日本大震災で被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

(2023.12.3)

書名著者発行所発行日ISBN
テツ旅は独り旅から鈴木 翔ミヤオビパプリッシング2020年9月10日9784801602397

☆ Extract passages ☆

 独り旅のメリットは、自分で最初から最後まで決めていくことができるところです。
 誰にも邪魔されず自由に動けます。
 自分で時間を作って出かけられます。
 煩わしいことから抜け出して、自分の時間を常に持っています。
 これが独り旅のよいところです。
(鈴木 翔 著『テツ旅は独り旅から』より)




No.2248『シン・マキノ伝』

 著者の田中純子さんは、現在、練馬区立牧野記念庭園記念館の学芸員で、牧野富太郎の生涯や研究業績などを調査していて、今まで知られていなかったことも書いてあり、すごく参考になりました。
 たとえば、今年放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、台湾へ植物調査に行ったときに、軍関係者からピストルを必ず持っていくようにといわれながら持っていかなかったのですが、この本を読むと、牧野の日記には明治30年、「10月に護身用のピストルと弾薬を購入し、同月15日に神戸をたち20日に出発、25日に基隆(キールン)に着き、27日に台湾に着すとあり、帰国は12月中旬であった。この学術調査団は、日清戦争が終結して台湾が日本の領土となった経緯から派遣されることになった。」と書いてあるそうです。
 そして、台湾の植物調査の内容に『らんまん』ではほとんどとりあげられていませんでしたが、実際にも「タカサゴユリ」ぐらいしかなかったようです。私が台湾にいったときには、台湾大学の植物研究者といっしょでしたが、日本人の名づけた植物がかなりあり、植物相もたいへん豊かだと感じました。
 この本を読んで、このコーナーに一番似合う牧野富太郎の言葉は、「書ヲ家トセズシテ友トスベシ」だと思います。これは「書物を読まなければ何も分からないが、読んだからと言って書かれたことをすべて信じて疑わないのでは何も後世にプラスとなることがない。それは本を家として安住してしまっていることである。そうではなくて書かれていることについて繰り返し深く調べ明らかにしていくことが必要で、正しいことはさらに著わし誤りは退けて、初めて書物を友として後世に役立つことができる。」というような意味です。
 たしかに、本の読みっぱなしはダメで、読んだだけではあまり残らないと思うので、私はカードに記入したり、このようなコーナーをつくり、読後感などを書いています。そうすると、自分自身の読書日記のような役目もしますし、思い出す縁にもなります。この牧野の言葉は、とてもよくわかります。
 また、スエコザサは仙台市野草園や高知県立牧野植物園などでも見ていて、今年は発見したといわれている仙台市三居沢にも行ったりしました。この本には、そのことについて、「牧野はスエコザサを昭和2年に仙台で発見した。札幌で11月23日に開催されたマキシモヴィッチ氏誕生百年会に出席した帰りに仙台に寄ってのことであった。「植物研究雑誌」第5巻第2号(1928年)に、新種としてスエコザサの学名 Sara suwekoanat と記載文を発表した。同誌は妻が亡くなって5日後の発行であった。記載には1927年11に採集したスエコザサの標本が示されるが、仙台で牧野を案内した東北帝国大学の岡田要之助の日記によれば、スエコザサを発見したのは12月1日のことであるとご子息の岡田汪氏よりご教示をいただいた。」とあり、より詳しくそのときの状況がわかります。
 また、「大日本植物志」についても、詳しくそのいきさつなどが書いてあり、私自身もその第1巻第2集から4集まで持っていることもあり、興味深く読みました。
 下に抜き書きしたのは、番外編に書かれていた『名言「雑草という草はない」を探索するB』に書いてあったものです。
 よく、昭和天皇がこのような話しをされたということが入江相政著「宮中侍従物語」(1980年)に書いてありますが、それは昭和23年に昭和天皇と牧野博士が会ったときに話されたという記述もあり、私自身も興味がありながらも、出典の存在を知りませんでした。
 ところが、この本に、木村久爾典著「周五郎に生き方を学ぶ」(実業之日本社、1995年)に書いてあるといいます。周五郎とは、もちろん山本周五郎で、著者の木村久爾典(1923〜2000年)は、朝日新聞社に入社して山本の担当記者となった方です。
 そして、その近くにいたこともあり、山本が牧野の思い出として何度も語るのを聞き、大きな教訓を得たということです。

(2023.11.30)

書名著者発行所発行日ISBN
シン・マキノ伝田中純子北隆館2023年8月1日9784832610170

☆ Extract passages ☆

 「牧野博士と対談中に、山本青年は「雑草」という言葉を回走ったらしい。博士はなじるような□調で山本に云った。「きみ、世の中に″雑草″という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という言葉がキライだ。松、杉、檜、楓、櫟――みんなそれぞれ固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが″雑草″だの″雑木林″だのと無神経な呼び方をする。もしきみが、″雑兵″と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームでキチンと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね」これにはおれも、「一発ガクンとやられたような気がしたものだった。まったく博士の云われるとおりだと思うな」
(田中純子 著『シン・マキノ伝』より)




No.2247『「よく見る人」と「よく聴く人」』

 岩波ジュニア新書は、ジュニア向けということもあり、難しい問題でもわかりやすいので、よく読みます。この本も、『「よく見る人」と「よく聴く人」』という題名も、読む前は何をいいたいのかわかりませんでしたが、読むとすぐに理解できました。
 副題は「共生のためのコミュニケーション手法」で、目が見えない広瀬浩二郎さんと、耳が聞こえない相良啓子さんの対話で、どちらも研究者ということから、さまざまな可能性を伝えてくれます。どちらも大変な苦労をしながら研究をしていると思いますが、そのつらさはほとんど感じられず、むしろ楽しんでいるようにも見えます。
 著者の相良啓子さんは、山形女子短期大学(現在の東北文教大学短期大学部)の出身で、一方の広瀬浩二郎さんは京大3回生の夏休みに羽黒山で山伏修行をしたそうで、どちらも山形県とゆかりがあり、それだけでも親しみを感じました。
 また、健常者では気づかないさまざまなことなども知ることができ、「よく見る人」と「よく聴く人」の意味が理解できました。見えるとか聞こえるということではなく、さらにそれを積極的に見ようとしたり、聴こうとしたりする姿勢が伝わってきました。
 広瀬浩二郎さんは、「僕はしばしば、障害者の暮らしを海外に住む日本人にたとえます。初めのうちは現地の風習、言葉がわからず不自由を強いられますが、1年も経てば、それなりになんとかなるものです。順応力、適応力には個人差がありますが、障害に限らず、異文化理解の基本は「習うよりも慣れよ」なのではないでしょうか。」と書いてますが、このようにポジティブに考えることも大切だと思いました。
 そういえば、広瀬さんは「琵琶を持たない琵琶法師」と自分を称していますが、今では琵琶法師も瞽女もほとんど見なくなりました。よく考えて見ると、著者は、「琵琶法師や瞽女は危険を冒してでも、待っている人の元を訪れ、村から村、家から家へ歩いていきます。当然、彼らの旅のあらゆる場面で全身の触角がフル活用されていました。触角は移動時の安全を確保するための単なるツールではありません。琵琶法師や瞽女たちは触角を介して己の芸を磨いていた。そう、まさに武満が言う「世界に遍在する歌や、声にならない嘯き」をキャッチするアンテナが触角だったのです。」といいます。
 この武満とは、武満徹(1930〜1996年)という作曲家のことで、森羅万象が発する音声、つまり震動を重要視したそうです。
 健常者は、道を歩くときは目で見て歩きますが、目が見えなければ音やにおい、さらには風の動きなど、さまざまな感覚を使っているそうです。だからこそ、琵琶法師も瞽女たちも遠くまで歩くことができたと広瀬さんはいいます。
 つまり、触角芸術というのは、「全身の触角で捕捉した外界の情報を自己の体内に取り込み、全身の触角を用いて、万物を貫く震動として表現すること」と定義できるといいます。たしかに、だいぶ前に上杉記念館で夜に開かれた琵琶の夕べで聴いたときには、その地底からうなり出すような響きにすごく感動したことがあります。
 第6章に著者二人の対談が載っていて、広瀬さんが、「今まで、僕は白い杖をセンサーとし、全身の感覚を総動員して、あちこち一人で歩いてきました。文字どおり道に迷うことも多いわけですが、身体感覚は鍛えられ、目が見えないゆえの「発見」もたくさんあったと思います。それが機械任せになると、せっかくの身体感覚が鈍くなるのではないかと懸念します。カーナビがなかった時は、地図を解読したり、「動物的な勘」を働かせたりして、目的地に到達するということがあったわけですが、今では人類全体が野生の勘、動物的な本能を失ってしまいました。昔は暗記していた親しい友人の電話番号も、今はスマホを見ないとわからない、なんてことが一般的に多くありますね。」と話すと、相良さんは、「スケジュール管理などもスマホに支配されてしまっていますね。米国留学時代は、力―ナビなしでロサンゼルスの街中なども運転していましたが、今だったら、怖くてそんなことできないです。カーナビがあるので、頭を使わなくなつてしまいました(笑)。」と話します。私は、たしかにそうだと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第1章「学校生活」に広瀬浩二郎さんが書いていたものです。
 私は、どちらかというと、本を読むときには目で追いますが、同じ読書でも、違いがあることにびっくりしました。だとすれば、読みながら、ときどき目を閉じれば今までとはちがう読書体験ができるのではないかと思いました。
 よく、写真集などでは、この方法でいろいろなことを空想しますが、もう少しいろいろな読書法を考えてみたいと思います。

(2023.11.26)

書名著者発行所発行日ISBN
「よく見る人」と「よく聴く人」(岩波ジュニア新書)広瀬浩二郎・相良啓子岩波書店2023年9月20日9784005009756

☆ Extract passages ☆

目による読書は客観的に外から、耳による読書は主観的に内から作品世界に触れるという違いは、情報入手の観点で興味深いと考えています。
 近年、電子書籍をパソコンやスマホで音声化することが容易にできるようになりました。みなさんも時に目をつぶり、気分転換を兼ねて音の読書にトライしてみるのはどうでしょうか。きっと、耳から身体に拡がる「発見」があると思いますよ。
(広瀬浩二郎・相良啓子 著『「よく見る人」と「よく聴く人」』より)




No.2246『孤独とつながりの消費論』

 副題は「推し活・レトロ・古着・移住」で、あまり関連性がなさそうな組み合わせですが、読んでみると、なるほどと思いました。
 著者は、第5の消費社会といいますが、たしかに昔の大量消費の時代は終わったようです。むしろ、昔からのいいものを大切に使い続けるのがトレンドで、物を捨てるにもお金のかかる時代です。だから、なるべく捨てないで活用するという考え方も大切です。そういう意味では、レトロも古着も結びつきます。
 たしかに、コロナ禍で人間関係も希薄になり、孤独を感じる人も多くなったようです。さらに高齢化や離婚の増加、そして結婚しない方も増加していて、物やサービスなどの趣味的な消費が増えている実態のデータをたくさん載せています。
 しかし、コロナが5類感染症扱いになったとしても、その流れはそのままで、むしろ強まっているようにも感じます。だとすれば、これからの消費社会は、著者がいうように、「5つのS」とは、つまりSlow(スロー)、Small(スモール)、ソーシャブル(Sociable)、Soft(ソフト)、サスティナブル(Sustainable)で、大切なキーワードになります。
 これが、副題の「推し活・レトロ・古着・移住」をつなぐポイントになります。
 この本のなかで、自分もそう思うと思ったのは、「同じレコードでもネットで買うよりもレコード屋で時間を掛けて探して、知らないレコードやずっと探していたレコードを見つけるという行為のほうが楽しいことも言うまでもない。知らないレコードはネットで探せばすぐに見つかるが、レコード屋で掘り出し物・探し物を「掘る」というリアルな作業自体がしあわせなのである。」と書いてありました。私も本を探すとき、やはり、リアルな本屋で探したほうが何倍も楽しいです。すぐに必要なものは、ネットで注文するときもありますが、それ以外はなるべく時間をかけて、楽しみながら本屋で探します。すると、今まで気にもしなかった本を偶然に手にして、ちょっと立ち読みしただけで、なぜ今までこの本を読まなかったのだろうと考えたりします。
 私は自動車で行くときも同じで、なるべく高速道路を使わず、その土地の風景などを楽しみながら運転し、思いがけず見つけた本屋さんや陶器店などに立ち寄ったり、おいしそうなお店を見つけることも、大きな楽しみです。そして、ダメでもともとだし、もし想像以上によければ、すごいものを発掘したような気持ちにもなれます。たとえば、高速道路のサービスエリアや道の駅などは、ほとんど規格化されていたり、その土地のものを誰かが選んで並べたもので、発掘するという喜びはあまりないと思っています。
 来月の「大人の休日倶楽部パス」で、地方のローカル線をのんびりと鉄道旅行をしようと思っています。車は荷物を持たなくてよいので便利ですが、なるべく少ないものを持って、足の向くまま気のむくままの旅も憧れます。しかも、JR東日本の路線なら、どこから乗ってもどこで下りてもいいのです。コロナ禍の前は、毎回利用していたのですが、今回は久しぶりでリックを背負っていくので、ちょっとは心配です。
 下に抜き書きしたのは、第5章「古着が消費を変え、地方を再生する」に書いてあったものです。
 そういえば、一時、スローフードという言葉が流行りましたが、むしろ、着実に浸透しているのかもしれません。私も、近くのJAの即売所で採れたての野菜などを買いますし、なるべく外食よりは手料理のほうがおいしいと感じます。考えて見れば、それは当然のことで、自分たちの舌に一番馴染んだ味になるわけで、しかも健康もしっかり考えて作っているはずです。
 やはり、これからは「5つのS」で暮らすことが自然にも優しく、みんなにも優しくできそうです。

(2023.11.23)

書名著者発行所発行日ISBN
孤独とつながりの消費論(平凡社新書)三浦 展平凡社2023年9月15日9784582860375

☆ Extract passages ☆

 新しいビルが必要な場合もあると思うが、では街中の建物をすべて建て替えれば地方が再生するかといえばそうではない。ビルは大都市にはいくらでもあるし、ビルの中で忙しく働く人々は大都市に無数にいる。地方はスローな生活が魅力なのであり、それを失っては意味がない。スローというのは、ゆっくり時間を過ごすというだけでなく、物をつくったり、料理をつくったりするときも時間をかけてゆっくりつくることも意味する。ファストフードではなく、近くの畑で取れた野菜を丁寧に手仕事で料理したものをスローフードという。余暇の時間だけでなく働き方や生活の仕方がスローであることに意味がある。
(三浦 展 著『孤独とつながりの消費論』より)




No.2245『ガンディーの真実』

 M・K・ガンディーに関する本はいろいろと読んでいますし、映画なども観て、それなりに知ってはいましたが、2018年9月にインドのケララ州に行った時に、10月2日が「ガンディー生誕記念日」で祝日ということを初めて知りました。
 私は何度かインドに行きましたが、この前後に行くのは初めてだったのですが、改めてインドのカレンダーを見て、なるほどと思いました。そもそも、インドでは、州や宗教によって祝祭日が違うことはありますが、1月26日の共和国記念日、8月15日の独立記念日、そして10月2日のガンディー生誕記念日だけは同じで、商店や食堂なども休みのところもあり、私はそれで気づいたのです。
 そこで、この本を見つけ、副題が「非暴力思想とは何か」と書いてあったので、そういえば、非暴力というものの考え方も表面的にしかとらえていなかったと思い、読むことにしました。
 そもそも、非暴力というのは、この本によれば、「私たちはあたかも、この非暴力という言葉が古今東西から普遍的に存在していたように思いがちである。だが、その語源は極めて新しく、歴史上で最初に非暴力(つまり、英語のnon-violence)という言葉を明確な意図をもって造語した人物は、イギリス人でもアメリカ人でもなく、英語を母語としないインド人のM・K・ガンディー(1869-1948)であった。ガンディーが非暴力という言葉を使い出したのは、40代後半の年齢で独立運動家としての地位を確立し、インドで反英闘争を開始した1919年からであった。」と書いています。しかも、私たちが考える「非暴力」というのとは違い、南アフリカにいたときから取り組んでいた「サッティヤーグラハ運動」に根ざしているものです。
 では、この「サッティヤーグラハ運動」というのは、ガンディー自身の言葉によると、「一般的なボイコットやストライキが非武装であるのは、単に運動者が武器を持たないからであり、物質的力に対する精神的な力(「魂の力」)の優位を自覚しているわけではない。それがゆえに、これらの運動者は武器を与えられれば、すぐに暴力に依拠するようになる。それに対して、サッティャーグラハ運動者は、仮に武器を与えられてもそれらに依拠せず、むしろ相手が振るう暴力をあえて自発的に引き受けることで、自分たちが主張しようとしている一真実」の正当性を示そうとする。もし運動者の言い分が正しいものであるならば、正しい理由のために運動者が殴られている姿は、相手の魂、良心を揺さぶる(つまり、罪悪感を発生させる)はずである。これが魂の力の重要な効果の一つである。真実にしがみつこうとする人々が暴力を被る姿が相手に引き起こす心理作用は、暴力による外面的強制よりも 遥かに強力であり、結果的に持続的な社会変容を可能にするという。」といいます。
 つまりは、もしこの運動が正しくないとしても、結果として相手を傷つけることはないといいます。
 たしかに、そうはいっても、相当な勇気がなければ非暴力で自分たちの主張を押し通すということは大変です。たとえば、映画などで1930年のインド塩税法に対する塩の行進を映像化するときには、先頭の集団を殴り倒しても、次々と大集団が押し寄せてきて、ついには道を開けてしまいました。この映像を観ていて、殴り倒す側も、たしかに良心の呵責を感じているかのようでした。
 そもそも、サッティヤーグラハというのは、個人的願望や生存欲求に振り回されないことだそうで、目指すは「本当の自分」に至る道筋のようです。そして、南アフリカでいろいろな信仰者と交流しながら、他者の痛みや苦しみに対する共感の精神である「慈悲」の大切さに気づくのです。これこそ、釈迦の教えの根幹部分です。人は不思議なもので、外から見ることによって、内なる自分に気づきます。
 しかし、あまりにも自分自身を見つめてしまうと、家族にとってはあまりにも他人行儀になってしまいます。ガンディーは、家族から離れてしまい、どうしても民衆の側に立っている存在となります。
 下に抜き書きしたのは、第6章「家族の真実」のなかにあった、ガンディーの長男ハリラールについてです。
 1948年1月30日にガンディーが暗殺され、国葬が行われたときに、彼は葬列に加わりませんでした。そして、酒に酔い、ボロボロの服を着て、デリーをうろついていたそうです。そしてその4ヶ月後に、アルコール中毒でボンベイの病院で亡くなりました。
 下の文章のなかの1909年の出来事というのは、ハリラールが南アフリカにやって来て3年ぐらいたっていましたが、メヘターという友人が費用を全額出すからガンディーの息子から1人とその他の1人の計2人をイギリスに留学させ、法廷弁護士資格をとらせるという話しがありました。そのとき、ガンディーはこの留学費用は辞退し、「平等な観点」から甥のチャガンタールに決めたそうです。たしかに、常に平等であることを自分自身に課しているからこそ大衆がついてくるわけですが、家族にとってはせっかく息子の1人をと言ってくれているのだからと思います。しかも、そのときハリラールは獄中にいて知らなかったようですが、その前後から自分の教育のことでガンディーと口論するようになったと言われています。
 親だってイギリスで教育を受けて法廷弁護士の資格をとったのに、なぜ自分はダメなのかと反問した姿が想像できます。しかも、その意思も伝えていたわけですが、ガンディーは自分の家族だからという理由で優先するわけにはいかないとはっきりと答えたようです。だからこそ、ガンディーはインドの父になれましたが、長男ハリラールにとっては父という存在ではなかったようです。
 おそらく、筋を通そうと思うと、どこかにひずみは起こります。そんなどうしようもない想いが行き来しながら、この本を読みました。機会があれば、ぜひお読みください。
(2023.11.20)

書名著者発行所発行日ISBN
ガンディーの真実(ちくま新書)間 永次郎筑摩書房2023年9月10日9784480075789

☆ Extract passages ☆

 ガンディーの生涯における重要な思想的変容期を一緒に過ごして耐性を身につけていった自分以外の家族と異なり、 ハリラールは青春時代を大都市のボンベイで自由に過ごした。南アフリカに到着してハリラールが目にしたのは、かつての英国スタイルのスーツを着た父ではなく、近代文明を放棄したヒンドゥー教の「苦行僧」だった。それでもハリラールは、1909年の出来事を契機に、溜まりにたまっていた疑念が一気に爆発するまで、父のやり方に従順に従って熱心にサッティヤーグラハ運動に従事した。
(間 永次郎 著『ガンディーの真実』より)




No.2244『本の栞にぶら下がる』

 私は本の栞が好きで、自分で撮った写真などで専用の栞を作っています。裏には印刷せず、その本で気に入ったところなどを書いたり、後からわかるようにページを記したりします。だから、この『本の栞にぶら下がる』という題名が気になったのです。
 この本は、岩波書店の『図書』に2020年から連載されたもので、著者がいうには、半年間休載したり、1回パスをしたりしたそうですが、それらをまとめたものだそうです。書き下ろしは「脱北者が読むジョージ・オーウェル」で、やはり韓国文学に造詣が深いというのがうかがえました。この『本の栞にぶら下がる』というのは、この『図書』の前振りからきているそうで、「記憶の中の書棚の上段に、いろんな本が入り乱れ、雑多に積み上がつていて、一本の栞を引っ張ると他の本もつられて動く。スピンに他の本の記憶がぞろぞろとぶら下がり、連なり、揺れている。そんな眺めについて書こうと思う」と書いてます。
 ただ、私にすれば、韓国文学が多いように感じるし、また古い本も多く、最近のものはあまりなかったようです。私のこの「本のたび」は、意外と新刊書が多く、そういえば、図書館でも真っ先に「新刊書のコーナー」に行きますが、古い本もたくさん持っていて、いつかは読もうと積み重ねています。
 そして、小説などよりは、随筆とか紀行文なども多く、旅に出るときには、それの積み重なった本の中からその旅に似合いそうな本を選び出し持っていきます。
 そういえば、この本のなかに、「アンソロジーというものは不思議なもので、それを読み通すことは一種の旅に似ているようだ。旅の途中で出会った、さまざまに違う人々の姿が一連のものとして記憶されるように、時代も設定も違うたくさんの物語が一かたまりとなって蓄積される。そうやって一度脳に入れた小説の中の人たちと、長い時間が過ぎた後に再会するこLもある。」と書いてあり、旅なかで読む本でも、似たような経験をすることがあります。
 下に抜き書きしたのは、「翻訳詩アンソロジーの楽しみ」に書いてあり、私も似たようなことをしていたことがあります。
 たしか、高校生ぐらいからだと思いますが、ノートに詩を書き写したり、自分で創った詩らしきものを書いたり、ときにはイラストを描くこともあり、だいぶ経ってからそれを見たときには、私ももしかすると文学青年だったような気がしました。
 今は、本を読んでいて、これはおもしろいという箇所や気になるところを抜き書きしますが、それもコクヨの情報カード(シカ-13)をずっと使い続けていますが、何万枚もたまりました。最初は読み返したり、パソコンを使うようになってから書き写したりもしましたが、今では日々たまっていくだけになってしまいました。
 それでも、私の宝物はと聞かれると、この書き写したカードと答えています。
 でも、他の人にとってはなんの役にも立たないこのようなカードを残されても、困ってしまうのではないかと思ったりします。でも、宝物ですから、ちゃんと鍵のかかる引出に入れて、大事にしまってあります。
(2023.11.16)

書名著者発行所発行日ISBN
本の栞にぶら下がる斎藤真理子岩波書店2023年9月14日9784000616102

☆ Extract passages ☆

 20代初めのころから、気に入った詩があるとノートに書き写してきた。今はほとんどやらなくなってしまったが、そういうノートが11冊残っている。
 ペンでノートに書いたから今まで残ったのだ。コピーの束ならとっくに散逸していただろう。また、テキストデータなら読み直さなかっただろう。ノートというものは綴じてあるので本に近く、そのために残ったのだと思う。……
そして一度書き写すと、忘れるということはほぼない。どれも、ちゃんと見覚えがある。これも手で書き写したためだと思う。
(斎藤真理子 著『本の栞にぶら下がる』より)




No.2243『喫茶おじさん』

 昔はだいぶ小説も読みましたが、最近はほとんどご無沙汰で、久しぶりに読んでみました。しかも、先月発売されたばかりで、著者の原田ひ香(ひか)さんが書いたものも初めてです。2005年に「リトルプリンセス二号」でNHK主催の創作ラジオドラマ脚本懸賞公募最優優秀作に選ばれたそうで、著者略歴をみると、著書もだいぶあるようです。
 私は、たまたま図書館で題名の『喫茶おじさん』というのに興味を持っただけで、じつは高校生のころから喫茶店に入り浸りでした。高3のころは、学校帰りは毎日通っていたと思いますし、大学に入ってからは、近くの喫茶店でモーニングコーヒーを毎回頼んでいました。そして、大学構内で友人たちと出会えないと、この喫茶店に行くと、必ず誰かはいました。
 だから、この本に出てくるモーニングコーヒーは懐かしく、厚切りトーストとゆで卵とサラダとコーヒーのセットは、今でもすぐに思い出せます。
 この本を読みながら、なぜかコーヒーを飲むときなどは自分とダブルものを感じました。もちろん、仕事や家庭などの環境は、まったく違い、そこにはほとんど興味を感じませんでしたが、コーヒーを飲んだり、甘いものを選ぶときの思いなど、似通ったところがいくつもありました。
 私個人は、今は和菓子のほうに興味があり、ほぼ毎日、自分でお抹茶を点てて、和菓子といっしょの写真を撮り、それをSNSに載せています。ときには、洋菓子をいただいたときなどは、好みのキリマンジャロの豆を挽いて、コーヒーをドリップして、そのいっしょの写真を載せることもあります。
 また、旅に出かけたときなどは、そのところの銘菓といわれる和菓子を見つけ出し、ホテルなどでお抹茶を点てて、SNSに載せます。ということは、ほぼ、毎日お抹茶やコーヒーなどを飲み、和菓子や洋菓子を食べているということになります。
 No.2240『甘いもの中毒』を読みましたが、私もその中毒のようです。このような本を読みながらも、甘いものを食べることを止めないわけですから、困ったものです。
 SNSを見ている方から、病気にならないかというご心配をいただいたことがあり、半年に1回は検査をしていますが、いまのところは何でもないようです。
 ただ、この本のなかに出てくる厚切りトーストと半熟卵を食べ、さらに次に前妻と待ち合わせた喫茶店でもまた厚切りトーストを食べ、さらにさらにその近くの喫茶店でフルーツサンド食べるところがあり、その食欲にはびっくりしました。私などは、最近は厚切りを食べたら、もうそれ以上は無理で、コーヒーだって、1回に飲むのは2杯まで。もう少し食べたり飲めるなと思うところで、止めます。
 というのは、その後が大変だと経験が教えてくれるからです。
 それと気になったのは、主人公は松尾純一郎という50代後半と思われる男性ですが、ものの扱いとか考え方とか、ちょっと女性っぽいのです。これは、おそらく著者が女性だからなのか、そういう設定なのかはわからないのですが、ちょっと気になりました。
 下に抜き書きしたのは、「九月 日曜日の朝の赤羽」のなかに出てくるシーンです。
 先ほどの次々と厚切りトーストなどを食べるところですが、早期退職をして長年の夢だった喫茶店を初め、それを潰して、さらにもう一度考えようとしている様子がありありです。本当に喫茶店が好きなんだと思いました。
(2023.11.13)

書名著者発行所発行日ISBN
喫茶おじさん原田ひ香小学館2023年10月17日9784093866965

☆ Extract passages ☆

 トーストには何か理由が必要だ、と偉そうなことを考えてしまったけど、この厚切りでこんがりきつね色に焼けたトーストにマーガリンがたっぷり。王子、コーヒー付きとなると、これでワンコインちょっとというのは、十分理由になるなあ、と思う。
 コーヒーを一口。酸味も苦みもマイルドな、淹れたてのコーヒーの味がした。
「おいしいなあ」
 トーストは厚切りだけど、よく焼いてあるからさくさくしている。マーガリンのうまみもじんわり、国の中に広がる。そこにコーヒーを一口含むと、朝の幸せを感じた。
 王子も殻を剥いて食べてみた。
 あまり期待せずに口に入れたのだが、ほどよいゆで加減の半熟だった。
 ――家ではなかなか、こうはいかない。
(原田ひ香 著『喫茶おじさん』より)




No.2242『本の庭へ』

 この本は、水声社の〈コメット・ブッククラブ〉が発行するウェブマガジン「コメット通信」に、2020年8月創刊号から2023年1月号まで連載した「裸足で散歩」に加筆訂正したものだと「あとがき」に書いてありました。
 そもそも私は水声社という出版社もウェブマガジン「コメット通信」も知らなかったので、すべてが初めて読むものばかりでした。それにしても、この本を始め、「水声文庫」というのが30数冊も出ていたのに知らなかったというのは、自分でもびっくりです。機会があれば、他の水声文庫シリーズも読んでみたいと思いました。
 ところで、私自身のこのコーナーを『本のたび』という名称をつけましたが、この本では、『本の庭へ』と題名をつけています。この庭というのは、「あとがき」のところでその思いを書いています。庭は、「西洋でも日本・東洋でも、楽園、パラダイスという意味を秘めています。筆者が向かおうとしている庭、読む方々を誘いたい庭は、楽園でも天国でもないものの、心を自由に遊ばせるところであってほしい、という願いをこのタイトルに込めました。」と書いています。
 たしかに、庭は散歩したり、思索の場であったり、ただ単にきれいな花を眺めたりもします。でも、そこにはゆったりとした時間が流れています。そのゆとりが庭にはあります。
 そういえば、私が『本のたび』という名前にしたのは、最初は『ホンの旅』で本を読むことでほんのちょっぴりでも旅した雰囲気になれればいいと思ったのです。でも、もう少し直接的な題名をと考え、本を前面に押し出しました。しかも、よく人生を旅にたとえることもあるので、そのような意味合も含めています。
 たしかに、人生にはいろいろなことがあり、まさに山あり谷ありです。いいこともたくさんありますが、大変なことやとんでもないことも時には起こります。
 ちとえば、ロシアへのウクライナ侵攻も、突然でした。しかも、このように長期化するとは、ほとんどの人が考えていなかったと思います。この本には、「チボー家の人々」を通して、戦争のことが述べられていて、「開戦当初は、多くの人々が、すぐに自国が勝利し、戦争が終わると思いこむこと、戦いが泥沼化しても、為政者が敗戦を認めるまで多くの時間がかかること、戦後に至るまで、多くの兵士や民間人が、心身に癒しがたい傷を負うこと(ジャックの兄、アントワーヌはこの大戦で初めて使われた毒ガス兵器によって命を落とします)、これらのことを最初に学んだのは、『チボー家の人々』によってでした。」とあります。
 この長編小説は、フランスのロジェ・マルタン・デュ・ガールの作品で、1922年から1940年まで18年もかけて発表されたものです。第1次世界大戦は1914年7月28日から1918年11月11日まで、さらに第2次世界大戦は1939年9月の英独戦争に始まり、さらに1941年6月の独ソ戦争、そして日本が参戦した太平洋戦争を経て、1945年8月に日本の無条件降伏で終わりました。ということは、その間に書かれた小説なので、戦争の悲惨さも色濃く反映されていると思います。
 著者は、この小説を読んで、多くの書物や映像を通して、第1次、第2次大戦などの戦争の現実を知ったといいます。たしかに、誰もが戦争に反対しますが、その原因はいたって単純なことから起こるといいます。だとすれば、多くの人たちが、それらの戦争の現実を少しでも多く知ることによって回避できるような気がします。
 そういう意味では、いろいろな言葉がわかったほうがいいと思いますが、先ずは自分たちのことをしっかりと伝えられなければならないでしょう。
 下に抜き書きしたのは、「英語から日本語へ」のなかに書いてあったものです。
 最近は、特に英語の語学力が問われる機会が多くなりましたが、やはり自分の気持ちをしっかりと伝えるには母国語です。つまり、日本人は、先ずは日本語をしっかりと覚えないと後々困ります。
 そういう意味では、この抜き書きした言葉の重みは、なるほどと思いました。
(2023.11.10)

書名著者発行所発行日ISBN
本の庭へ(水声文庫)西澤栄美子水声社2023年8月30日9784801007376

☆ Extract passages ☆

筆者のように、日本語のみを母国語として成長してきても、同じことです。「本当の気持ち」を伝えるには、どの言語であっても、一生をかけての努力が必要なのだ、と今になって思います。幼児や小学生の教育には、まず、日本語の豊かさを、文学を通して徹底的に学ぶことが、自らの自己同一性を得、世界の人々と対話するための一番の力になると考えます。(国語教育から小説を排すばかりでなく、古文・漢文を「役に立たないから」教育カリキュラムに入れる必要はない、という議論も出ています。日本語のルーツと文化を知らない口 本人の言葉は、他の国の人にとっては、中身のない単なるお喋りでしかないでしょう。)
(西澤栄美子 著『本の庭へ』より)




No.2241『福島からの手紙』

 この本は、17人が手紙に綴ったようにして、福島原発事故の12年後の姿を記しています。人それぞれの立場や生きざまなどから垣間見えるものは、みな違いますが、底辺に横たわるものは同じではないかと思いました。
 編者は、「編者あとがき」で、「そうして十二年余が過ぎた。十七通の「福島からの手紙」には、一人ひとりの生活者が、それぞれの場所で、どのような思いを抱いて原発事故後を生きてきたかが語られている。一人ひとりの声に耳を傾けたとき、ただただ、「このような災害を二度と起こしてはならない」と、強く思う。」と書いてますが、絶対にこのような災害を起こしてはならないと私も思います。
 それでも、今、ロシアがウクライナに侵攻し、サポリィージャ原発が標的にされそうになりました。もし、この施設が爆発されれば、相当な被害になるのは明かで、もし核兵器を使うことがあれば、もっともっと深刻なことになるのは間違いありません。また、イスラム組織ハマスによる突然のイスラエル攻撃をきっかけにして、ハマスが実効支配しているパレスチナ自治区ガザがイスラエルによる報復で空爆を受けています。もし、地上戦にでもなったら、両者の戦闘は泥沼化してしまいます。そういえば、イスラエルも核兵器を持っています。
 まさに世の中は、二度とこのようなといいながら、世界のどこかで起こっています。
 浪江町津島から避難され、現在は二本松市に住んでいる佐々木茂さんは、「母の遺言」のなかで、「先祖代々受け継いできたものが、草ぼうぼうになって、藪に覆われているのを良しとする人はいません。5年ほど前から、お地蔵さんの周囲の草刈りを始めました。春になると、母が植えた水仙が増えてあちこちで咲きます。山の手入れにも入るようになりました。放射能まみれになって、馬鹿にされて、笑われて、それでもいい。山であろうが田んばであろうが、田合は非経済的な活動で成り立っています。非経済的な活動をしないと維持できません。」と語っています。
 たしかに、私たちの周りにある自然というのは、人間が関わって初めて護られてきたものです。手を入れなければ、野生の動物たちの生息領域になってしまいます。今年はどんぐりなどの秋の実が夏の暑さなどの影響もあり、東北地方などではクマが人里に下りてきて、その被害がテレビなどでもニュースとして流れます。私のところの小町山自然遊歩道でも、クマ剥ぎを見つけ、それから歩くときもクマ鈴などを付けて、クマとの出会い頭に気を付けています。
 サルもそうですが、今までのように人間を見ると逃げるものだけではなく、怖がらないサルもいて、むしろ威嚇して襲いかかるものもいます。私も以前は声を出して追い出すようにしていましたが、今はなるべく目を合わせないように、刺激をしないようにしています。
 こんなことが続けば、山に入り山菜採りやキノコ採りもできなくなりそうです。
 下に抜き書きしたのは、伊達市の渡辺馨さんの『「子どもたちを護ろう」を合い言葉に』に書いてあったものです。
 たしかに、他からみていることと、自分たちのこととは、違うように見えるかもしれません。なかにいるからこそ、話題にできないし、そのことに触れられないこともあります。ほんとうは、地元の人たちが声を出さないと気づかないこともあるのですが、この本を読んで、そういうことに気づかされました。
 東日本大震災当時は、いろいろなニュースがテレビなどから流れてきましたが、今では「あれから何年」というような話題が多く、少し風化されつつあるのかと思っていましたが、地元の人たちもそう感じていたとは考えもしませんでした。
(2023.11.7)

書名著者発行所発行日ISBN
福島からの手紙関 礼子 編新泉社2023年8月31日9784787723093

☆ Extract passages ☆

 この十二年を振り返ると、「これでもか」というくらい福島が分断されていると感じます。福島が一番風化させられていると思います。福島県内では、ほかの県よりも原発のことを言えなかったり、放射能のことを言えなかったりします。「復興」はいいけれども、「放射能」は話せない。「復興に向かいましょう」に引っ張られて、いつまで昔のことを言うんだという雰囲気があります。復興圧力があって、復興事業もいろいろあるけれど、そこに県民はいないんじやないか。それを、どうやったら、変えられるのか。大きな課題だと思います。
(関 礼子 編『福島からの手紙』より)




No.2240『甘いもの中毒』

 私は甘いものが大好きで、ほぼ毎日、夕食後にお抹茶を点てて、和菓子をいただきます。さらに、3時のおやつにはコーヒーを飲み、ケーキやクッキーなどを食べます。この本でいう、「甘いもの中毒」かもしれません。
 この本の副題は、「私たちを蝕む「マイルド・ドラッグ」の正体」で、甘いものはドラッグのようなものと言い切っています。
 ただ、ここでいう甘いものとは、「私たちの健康にとって危険な糖質は、むしろ「甘くないもの」にこそ大量に潜んでいるのです。その代表は、ごはん・パン・麺です。つまり、お米・小麦といった世界中でヒトの主食とされてきた「炭水化物」(穀類)こそ、糖質過多によって血糖値を上げて深刻な現代病である肥満や糖尿病を引き起こす、いわば元凶なのです。つまり、私たち日本人は「ごはん中毒」(砂糖中毒が9割なら、ごはん中毒のほうは10割でしょう)を抜け出せない限り、このまま肥満や糖尿病に悩み続けなければならないというわけです。」といい、これを「隠れた砂糖」とこの本では呼んでいます。
 そして、この本では、「糖質制限とは「食品に含まれる糖質の摂取を控えて、タンパク質と脂質をたっぷり摂取する」ことです。糖質が多く含まれている食品の代表は、砂糖と穀類(お米や小麦、トウモロコシなど)なので、今日の日本人の食生活でいえば、砂糖入りのお菓子や飲み物、ごはんを食べないようにして、その代わりにお肉(魚介類を含む)をたっぷり食べましょうという、極めてシンプルな食事法です。」と書いています。
 たしかに言いたいことはシンプルかもしれませんが、これから新米が出てくるこの時期に、お米を食べないようにといわれれば、辛いものがあります。たまには、パスタだって食べたいです。
 人間というのは、食べることも食欲というぐらいですから、大きな欲望のひとつです。
 ただ、身体の栄養を考えて食べているわけではないのです。だとすれば、ちょっとずつ気を付けながら取り組むということもあり得ます。むしろ、そのほうがストレスがたまらず、結果的には良さそうです。もちろん、私の場合はですが。
 ただ、この本を読んで気を付けなければとは思いました。
 下に抜き書きしたのは、第1章「ヒトは、なぜ「甘い物中毒」になるのか?」に書いてあったものです。
 具体的に、砂糖と白米も麻薬と同じように、脳内のドーパミン報酬系を強く刺激するとか、本人の意志と無関係に依存症になってしまう危険性があるといわれれば、まさに中毒のようなものです。
 ただ、取り入れた分だけ運動をすればよいと今まで考えていましたが、そうでもなさそうです。
 だから、これからは、ちょっとは糖分をひかえながら、食べることを楽しみたいと思っています。
(2023.11.5)

書名著者発行所発行日ISBN
甘いもの中毒(Asahi Shinsho)吉本隆明NHK出版2004年7月25日9784140054574

☆ Extract passages ☆

 近年では、ポリフェノールなど植物の色素の持つ抗酸化作用がアンチエイジング(抗加齢)や病気予防に役立つことも、一般的に知られるようになりました。
 香水や香辛料、染料にしてもそうです。ほとんど植物由来で、動物由来はジャコウジカの生殖腺がもとになっていた香水の麝香くらいでしょうか。
 20万〜30万種といわれる植物には、それぞれに今日まで生存できた理由があるでしょう。動物を魅惑するような、しかも動物自身には決して生み出せない麻薬成分や医薬成分、香 りの成分、そして栄養素を植物が持つようになつたのは、より確実に、より広く繁茂するためなのかもしれません。
(吉本隆明 著『甘いもの中毒』より)




No.2239『自然知能』

 今年の読書週間は、第77回で10月27日から11月9日までです。その標語は、「私のペースで しおりは進む」だそうで、今でもしおりを本にはさむことが多いと知り、うれしくなりました。
 というのは、私もしおりが大好きで、自分専用のしおりを作ってますし、人にも差し上げたりもします。この読書週間に入ってから読んだのが『アフガニスタンの素顔』と『漱石の巨きな旅』とこの本で、いまだ本を読むペースが落ちていないと喜んでいますが、少しは目をいたわりながらこれからは読まなければと思っています。
 そういえば、自然知能ということですから、人工的なものとの違いも書いてあり、たとえば、「身体障害者が、ときとして健常者の遠く及ばない偉業をなしとげることがあるのも、 失った能力を埋め合わせようとする自然知能の起こすことであろう。歴史上、もっとも著明なのは塙保己一である。失明の身でありながら、昔のことで、何千冊の書籍を著わしたのである。彼は自分で本を読むことができない。ほかの人に読んでもらうのだが、一度、聞いたことは決して忘れなかったというから驚く。二度と聴くことができないと思うから、耳がよくなって、記憶もよくなったのであろうか。機械は、壊れたらそれまで、であるが、人間は、失った能力を肩代わりする能力があって、それがときには、もとの能力を上まわることもあるらしいから愉快である。」と書いています。
 そういえば、塙保己一は目が見えないにもかかわらず、34歳のときに、「各地に散らばっている貴重な書を取り集め、後の世の国学びする人のよき助けとなるように」と「群書類従」の編纂を決意したそうですが、どのようにしてそのようなことができたのか、以前から不思議でした。塙は、「学問をしたい人はだれでも、いつでも、どこででも必要な書物が 読めるようにしてあげたい。先祖から託された日本の文化を絶やすことなく、しっかりと次の世代に伝えていきたい。これこそ自分に与えられた使命だ。」という名言を残しています。
 さらにヘレン・ケラーも、心の支えとしたのがこの塙保己一だというのも、有名な話しです。
 そこで、彼のことを書いた本を調べたら、花井泰子氏の「眼聴耳視 塙保己一の生涯」という本を見つけましたが、 版元の紀伊國屋書店にも在庫はなく、絶版になっていました。現在、古本を探していますが、もしかすると、いつかは見つかるかもしれません。
 また、著者は、「よく学び、よく遊べ」の秘密として、「仕事をするのと、遊ぶのは、一見いかにも正反対のように見えるが、両者が協同して、リズムを奏でるようであれば、進歩、前進、創造の原理になりうる。そして、仕事、勉強が苦痛ではなく、おもしろい、と感じられるようになる。」と書いていて、この遊びのなかに秘密があるといいます、
 たしかに、私の知り合いのなかにも、頭がよくて、遊び上手な人がいます。いつ勉強しているのだろうかと思ったりします。
 しかし、ほんとうに頭の良い人は、遊びも仕事も、うまく時間を使いこなしているような気がします。
 下に抜き書きしたのは、「自然知能を引き出す」のところにあったものです。
 ここでの自然知能というのは、生まれながらにして持っている能力のことで、いろいろな例をここには書いてありました。そして、「三つ児の魂」といいながらも、ほとんどの人は大人の理解がなくて、自然知能の育成には失敗しているといいます。でも、昔は、食べることだけでも大変なことで、小さな子どもの教育まではなかなか手が回らなかったのではないかと思います。
 この可能性として持っているものを引き出すという考え方は、お釈迦さまは、人はそれぞれ仏性を持っていて、それを引き出すことが大切なことだといいます。なんか、似ていると思いました。
(2023.11.2)

自然知能著者発行所発行日ISBN
甘いもの中毒(Asahi Shinsho)外山滋比古扶桑社2023年8月8日9784594095376

☆ Extract passages ☆

 天才は教えて天才にするのではなく、可能性として眠っているものを"引き出す"のである。この点で、英語で教え、教育するのを、educate(元義:ひき出す)と言うのがおもしろい。外から与えるのではなく、内に持っているものを引き出してやる――それが教育だというのは、外から知識などを教え込むのを教育と考えるのと比べて、進んでいる、ということができるであろう。
(外山滋比古 著『自然知能』より)




No.2238『漱石の巨きな旅』

 あの吉本隆明が、まさかNHK出版から本を出していたと知り、ぜひ読んでみたいと思いました。しかも、それが夏目漱石についてで、その巨きな旅はイギリスと満州・韓国というから、どんな旅であったかという興味を持ちました。
 この本には、巻末に「漱石年譜ノート」があり、「漱石」というペンネームを初めて使ったのが正岡子規の『七艸集』の書評のときと書いてあり、1889(明治22)年、23歳のころだそうです。子規とは第一高等中学校のときの同級生で、上級には尾崎紅葉や石橋思案、川上眉山などもいたそうです。
 そういえば、夏目漱石の小説のおもしろさに、書生気質みたいなものがあり、この本には、「大学予備門で中村是公と一緒に、本所の江東義塾という私塾で内職の教師を務め、塾の二階に住んで一ツ橋にある予備門に通学した。漱石は英語の地理学の原書や幾何学の原書を使って教えた。二人は月給から予備門の月謝と食費と風呂銭を別にしてのこすと、余った金をふところに、ソバや汁粉や寿司を食い歩き、金が尽きると大人しく部屋に籠った。この書生風俗はすくなくとも第二次大戦の終りまで続いた。漱石の面白さは怠け書生として怠惰の味を知ったものの面白さだといえる。」と書いてありました。
 もちろん、今の時代には書生そのものもなくなり、風俗として見ることもできなくなりましたが、本などを読むと、あのバンカラや大学帽をテカテカにしてかぶっていた姿などを彷彿します。
 夏目漱石は、小説などは読んでいますが、改めて日記や随筆なども読んでみたいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、明治34年の日記に書いてあるものだそうで、このころはロンドンの街の寒さや石炭の灰や煤煙などで痰をはくと真っ黒なかたまりになっていたそうです。
 そういえば、私がロンドンに行ったときに、産業革命のころの煤煙で汚れた壁が、一部だけそのままになっていたところがありました。これは、ほとんどの壁をきれいにしたそうですが、その当時のことを歴史にとどめるために残してあるとのことでした。
 それを見たとき、ほんとうにこんなにも黒くなるのかと思いましたが、この漱石の日記をみて、なるほどと思いました。
 また、漱石のいうように、その当時は洋行帰りといい、ほとんどの人が外国の状況を知らないわけですから、少しばかり大げさに話しても、ほとんどの人たちはそのまま受け取ったようです。しかし、今の時代のように、外国に簡単に行けますし、テレビなどで生の姿を映し出すこともあり、洋行帰りという言葉さえ、死語になってしまいました。
 ここで漱石は、女子学生が講義のあとに教授にキーツやランドールの綴りをたずねているのに出会ったことや、下宿の爺さんといっしよにロビンソン・クルーソーの芝居を観に行ったときに、これは実話か小説かと聞かれたことなどを書いています。
 つまり、英国人だから文学や知識などが深いとはまったく思わなくなったといいます。それは日本でも同じことで、なかにはそれに対してすごく興味がある人とまったくない人だっています。でも、このことを明治の洋風かぶれが多いときに思っていたわけですから、さすがイギリスに留学しただけのことはあります。
(2023.10.30)

書名著者発行所発行日ISBN
漱石の巨きな旅吉本隆明NHK出版2004年7月25日9784140054574

☆ Extract passages ☆

 漱石はみだりに日本人の洋行談など信用すべきでないとおもう。じぶんの見聞など特殊な個人的な体験にすぎないのに普遍性があるかのように話す。また誇張にすぎないことを得意がってみせる者もいる。妙に体験の豊富さを誇るのもいる。こういう同胞のあいだの見栄の張り具合に気がつくと同時に、英国人にたいする思い込みも修正している。
 英国人の方が文学、知識、教養など深いにきまっていると思い込んできたが、そんな文学や文化に関心の深い人ばかりがいるわけではない。それぞれが生活に忙しいわけで、驚くほどの場面に当面することがある。
(吉本隆明 著『漱石の巨きな旅』より)




No.2237『アフガニスタンの素顔』

 副題が『「文明の十字路」の肖像』で、だいぶ前の話ですが、私はここアフガニスタンのバーミヤンの遺跡には行きたいと思っていました。ところが、2001年3月10日の前後にこの本ではターリバーンと表記していますが、一般的にはタリバンで、バーミヤーン谷にある2体の大仏が爆破されました。
 この映像をテレビで見て、自分たちの宗教とは馴染まないからといって、まさに歴史的文化財を壊していいものかと憤慨したことを覚えています。
 このターリバーンについては、この本には、1994年10月の末にパキスタンのクエッタからトルクメニスタンに生活用品を積載したトラック30台を進めたそうですが、「しかし、11月1日、トラックはアフガニスタンに入境した後に山賊に襲撃された。この事件を受けて、20人程のターリバーンが決起して山賊を撃退し、その名を轟かせることになった。その後数日以内に、ムッラー・ウマル率いるターリバーンは南部カンダハール州を制圧し、翌12月にはアフガニスタン南部を掌握するに至った。人員数も、当初の20人から、1994年11月末には2000人、12月末には2万人と膨れ上がっていった。日に日に支配領域を拡大するターリバーンは、1996年9月にはカーブルを制圧し、1997年10月にアフガニスタン・イスラーム首長国を宣言するに至った。」とあります。
 まさに、日の出の勢いでたった20人だったターリバーンがアフガニスタンのほぼ全域を制圧していったわけです。しかし、この後、バーミヤーン谷の2体の大仏を爆破しただけでなく、娯楽の禁止や女性の権利侵害など、暗黒の時代に入ったこともいなめない事実です。
 この本に、アフガニスタンの諺も紹介されていて、『「カーブルに黄金はなくてもよいが、雪はなくてはならない」は、同国で山々が天然の水のタンクの役目を果たしていることを語っている。他にも「どれだけ山が高くても、山頂にいたる道は必ずある」(どんなに難しい問題でも、解決策は必ずある)、「ハロワー(甘いお菓子)といくら言っても、口は甘くならない」(口で言うだけでは物事は成就しない、行動することが大切だ)、「一つの手でスイカを二つ持つことはできない」(二兎を追うものは一兎をも得ず)などなどがある。』といいます。
 これらの諺は、日本ととてもよく似ていて、あの不毛の大地のようなところで戦闘に明け暮れていたところとは思えません。そして、日本人にはとても親近感を抱いていて、とくに中村哲医師と国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんを知らない人はいないそうです。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「激変する社会 対談 : 安井浩美×青木健太」のなかで、著者の青木さんが話したところです。
 そして、そのすぐ前に、安井さんが現場の声として、「一番の問題は、窓口が一つではないことですね。ターリバーンが内部で一つになってくれれば、問題は解決しやすくなる。しかし、そうなっていないため、話がややこしくなる。こちらに話をして、あちらに話をしないと揉める。国際社会には一つにまとまっているように見せかけていますが、内部で意見が対立している。だから、いつまで経っても返事が出てこない。国民にとっては大迷惑です。最近は戦闘もなく、爆発も減つているため、息苦しさは少し軽減されましたが、女性の外出制限などは息がつまりますね。」と話したのが、とても印象的でした。
 今、現実問題として、アフガニスタンの情報はほとんど伝えられてこないようです。だから、今、国内ではどのようになっているのかさえわかりません。さらに、ロシアがウクライナに侵攻して以来、どうしてもそちらのニュースが多く取りあげられる傾向にあります。
 本当に世界はこれからどのような方向に進むのか、まったくわからない状況が続いているようです。
(2023.10.27)

書名著者発行所発行日ISBN
アフガニスタンの素顔(光文社新書)青木健太光文社2023年7月30日9784334046729

☆ Extract passages ☆

……日本を合め諸外国が、今後アフガニスタンとどう向き合うかについて触れておきたいと思います。
 アフガニスタンを国際テロ組織の巣窟、出撃基地にしないことが、9.11後のそもそもの介人の日的でした。ただ、現状、アル=カーイダは国内にいるといわれています。国連の報告にもそう書かれています。また、中国のウイグル人の独立運動組織であるトルキスタン・イスラーム党の動画を見ると、ターリバーンの人間が映り込んでいます。
 国際社会の関心がウクライナに向けられている今、アフガニスタン国内がテロ組織の温床になるのが非常に怖い。
 90年代の湾岸戦争時に、皆の目がそちらに向いている間に、アフガニスタン国内が混乱し、諸外国の介入と干渉があり、また、ムジャーヒディーンの非道に対しての一つの反動として、出現した経緯があります。
(青木健太 著『アフガニスタンの素顔』より)




No.2236『原爆の悲劇に国境はない』

 この本は、「被爆者・森 重昭 調査と慰霊の半生」という副題があり、本人と奥さんの森 佳代子さんが語り、朝日新聞編集委員の副島英樹氏が編集したものです。
 たまたまですが、前回読んだ『本の庭へ』と同じ日に出版されたもので、まさに新刊本です。表紙の写真は、2016年5月27日に現職のアメリカ大統領のバラク・オバマ氏に抱き寄せられた著者の姿で、世界に発信されました。その当時、森氏のことはまったく知らず、この本を読んで初めて、いろいろなことを知りました。
 この本によると、広島の原爆犠牲者は、「広島で1945年末までに亡くなった原爆犠牲者の14万人プラスマイナス1万人という数は、私の仲人、荒木武・広島市長が国連に報告なさった数字です。令和5年(2023年)6月現在、長崎と広島で原爆を受けて亡くなった人の数が約52万人(原爆死没者名簿の人数)です。」と書いてあります。
 この数字を見ると、原子爆弾というのは、一瞬にして50万を超える人々の命を奪うわけですから、とんでもない兵器です。絶対に使ってはいけない兵器です。
 それを、今、ロシアはウクライナに侵攻し、ときどき核兵器の使用をちらつかせながらおどしているわけですから、困ったものです。しかも、ロシアは2022年4月の国連総会で、賛成93、反対24、棄権58で国連人権理事会における理事国資格を停止されましたが、2023年9月28日の報道では、この人権理事会の復帰を模索しているというから大きな問題です。もし、復帰することになれば、ウクライナの人たちだけでなく、世界中の人々は、国連そのものに対しても不信感を募らせることでしょう。
 そういえば、この本を読んで思いだしたんですが、「世界で一番多く核兵器を持っているのがロシアで、2番目にたくさん持っている国はアメリ力、3番目はなんとウクライナです。ウクライナは数千発を持っていた。それを全部手放してロシアに渡しました(1994年に米英口が署名したブダペスト覚書による)。核兵器は、維持管理するのが大変で、第一お金がかかる。第二に特別な技術がいる。核は普通の兵器ではありませんから、管理するには、相当な科学的知識を持つていないと扱えないですからね。それでロシアに渡したんです。」と書いてあります。
 だから、もしかすると、あのときウクライナがロシアに核兵器を渡さなければ、今回のような侵攻は起きなかったかもしれない、と考える人がいるとすれば、やはり核兵器は抑止力として必要だという考えも生まれてきます。それでは、いつまでたっても、核兵器はなくならないと思います。
 森 重昭さんは、この話しといっしょに、南アフリカのデクラータ大統領が持っていた6発もの核兵器をすべて廃棄したという話しをし、そのことで1993年にノーベル平和賞を受賞したといいます。やはり、絶対に核兵器では平和にならないということを教えてくれます。
 下に抜き書きしたのは、付録に載っていた「バラク・オバマ米大統領による演説(2016年5月27日、広島市の平和記念公園)」の一部です。
 ここに全文は載せられないので、ほんの一部ですが、これだけでも現職の米国大統領として初めて被爆地広島を訪れたことの意義が伝わります。この17分間の演説は、ぜひ考えてほしいと思います。
 また、このときの駐日大使だったキャロライン・ケネディさんも力を尽くされたことが記されていましたが、私もキャロライン・ケネディさんが米沢市の伝国の杜でジョン・F・ケネディが上杉鷹山公を尊敬していたという話しをしたのを聞き、感激したことを思い出しました。
 たしかに、戦争を始めるのは人間ですが、その戦争を終わすのも人間だとつくづく思います。
(2023.10.24)

書名著者発行所発行日ISBN
原爆の悲劇に国境はない森 重昭・森 佳代子 語り朝日新聞出版2023年8月30日9784022519276

☆ Extract passages ☆

 科学によって、私たちは海を越えて通信を行い、雲の上を飛び、病を治し、宇宙を理解することができるようになりました。しかし、これらの同じ発見は、これまで以上に効率的な殺戮の道具に転用することができるのです。
 現代の戦争は、私たちにこの真実を教えてくれます。広島がこの真実を教えてくれます。科学技術の進歩は、人間社会に同等の進歩が伴わなければ、人類を破減させる可能性があります。原子の分裂を可能にした科学の革命には、道徳上の革命も求められます。
 だからこそ、私たちはこの場所を訪れるのです。私たちはここに、この街の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努めます。目にしたものに混乱した子どもたちの恐怖を感じようとします。私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、そしてそれ以後の戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。
(森 重昭・森 佳代子 語り『原爆の悲劇に国境はない』より)




No.2235『緑深き森へ遊学行』

 10月17日から19日まで仙台市に行き、行きも帰りも蔵王エコーラインを越えて、秋の紅葉を楽しんできました。さらに18日は、川崎町の国営みちのく杜の湖畔公園で真っ赤に色付いたコキアなどを見たり、19日は仙台市野草園で珍しいツチアケビを見て、そこは園内の奥なので人が来なかったので、そこの四阿でサンドイッチを食べました。
 その旅行中に読んだのがこの本です。著者は、登山愛好者なら知らない人はいないと思いますが、女性としては初めてのマッターホルン・アイガー・グランドジョラス北壁を制覇した方で、現在も東京女子医科大学泌尿器科医として在籍しているそうです。
 私は旅をするときも必ず本を持って行くのですが、今回は仙台市の古書店「火星の庭」で300円で買ったのですが、この古本屋さんにも寄ってみたかったのです。たまたま栗原郡瀬峰町の佐々木尚見さんの「信濃路乃道祖神」を見つけ、いっしょに買いました。旅で出会った本というのも、いいものです。
 さて、この本は、コスタ・リカでの話しですが、先ずこの国は、中南米のニカラグアとパナマにはさまれていて、国土面積は51,060平方キロで、人口は約500万人だそうです。この本では、コスタ・リカと表記していますが、一般にはコスタリカというようです。そもそも、コスタリカは1502年にコロンブスの第4次航海でリモンに着いたときから始まったといわれているそうです。また、この本にも出てきますが、安定して民主主義政治を長く維持していて、高い教育を受けた人たちも多く、著者のガイドを務めてくれたフリオもそうです。だから、ガイドとしての知識も相当なものです。
 この本のなかに、選挙制度のことも書いてあり、「国家元首かつ政府代表は大統領で、任期は4年、再選は許されません。日本で「コスタ・リカ方式」というと、小選挙区で立候補した人が次の選拳では比例区で立つといったように、選挙区を交互に変えて立候補するというちょっと別の意味になりますが、コスタ・リカの政治制度からは、この任期4年再選なしをはじめ、日本の政治に取り入れたいことがいろいろあると思います。一例をあげると、 コスタ・リカでは、大統領選のとき、投票権のない子どもたちも投票場へ行き、投票をします。これは、子どもたちによる人気投票のようなものですが、こうして子どもの頃から選挙に関心をもたせ、投票する習慣をつけておけば、大人になっても選挙に対する無関心や投票棄権が少なくてすむのではないかなという気がします。」とあり、任期4年で再選なしということであれば、日本のような世襲制もなく、諸外国にような独裁や悪政が続くこともなさそうです。
 そしてなによりいいと思ったのは、子どものころから投票するということです。それがどのように反映させるかは書いてなかったのですが、たとえ人気投票だったとしても、幼い時から馴染ませるということは大切です。
 また、神に選ばれた民族といわれているブリブリ族は、今でも先祖伝来の多種農法を行っているそうです。彼らに聞くと、「バナナやプラタノの次には、コーヒーやカカオ、マカデミアンナッツと多種類の物を植え、お互いがお互いの植物に栄養を与えたり、たとえば一つの作物にカビが生えたり、病気になっても、隣同士はそのカビや病気がうつらない作物が植わっているから、一つの畑が一気に被害を受けるなどという事態は起こらない。どの作物とどの作物の相性がよいかは、昔から先祖が何百年もかけて研究し伝承してきた。白人はまた、単一農法で、多種農法のし方を知らないから、カビを抑えるために農薬を撒き散らし、畑の土を疲弊させ河川も汚し、人々の健康をも害している。ブリブリはそんなバカなことはしない――とのことでした。」とあり、これなども、ある程度、日本の農業にも大切な考え方ではないかと思いました。
 先月だったと思いますが、あるテレビ番組で、自分で育てた野菜の種を毎年採取して、それを翌年に播くという自家採種をしているそうです。ある程度は自家採種のしやすい物としにくいものはあるでしょうが、固定種なら代々同じ形質が受け継がれていきます。たしかに、今、一般に流通しているF1種に比べると、発芽や生育の揃いが悪いかもしれませんが、環境適応能力には優れています。むしろ、家庭菜園なら、収穫時期がバラバラになりやすく、食べきれないということもある程度は防げます。そう考えれば、自家採種のメリットもいろいろありそうです。
 下に抜き書きしたのは、第2景「カリブの魚の島、太平洋の夕日」に書いてあったものです。
 私も板状根をあちこちで見たことがありますが、どちらかというと湿地に多く、根腐れを防いだり、根っこが大地に入り込めないこともあり木を支えるためだったのと思っていました。しかし、さらに多くの植物たちが生きるためのスペースを提供していることを知り、なるほどと思いました。
 まさに、生存競争のなかで生まれた工夫でありながら、他の植物たちを受け入れる工夫でもあったようです。
(2023.10.20)

書名著者発行所発行日ISBN
緑深き森へ遊学行今井通子NHK出版1997年1月30日9784140052419

☆ Extract passages ☆

板状根(板根、いたねともいう)は、熱帯雨林や多雨林で見られます。多雨によって、長い年月の間に表土が洗われ、濾過され、土壌の養分が少なくなっているため、木は土中に向かって主根も合め、深く根を張っても養分が得られないことから、地表近くの自然の堆肥(有機物)から養分をとろうと地表近くで根を水平に伸ばしていきます。また大きな木に成長するにつれ、立っている力を失っていくので、その支えとしても発達したものだといわれています。……
 とくに熱帯林の、こうした大木は一本で、コケやシダ類、ツタやラン科、パイナップル科の植物や時には灌木にいたるまで、十数種類の植物たちを着生させ、彼らの足場となっているわけですから、″母なる木″なのです。
(今井通子 著『緑深き森へ遊学行』より)




No.2234『20歳の自分に教えたい地政学のきほん』

 この本葉、「池上晃のニュースそうだったのか!!」の2020年6月6日、2022年3月19日、9月24日、12月29日、そして2023年1月14日に放送した内容の一部から構成し、編集・加筆したものだそうです。
 私はほとんどテレビを見ないので、見たことも聞いたこともないので、地政学というのはこのようなものなのかと思いました。そういう意味では、なかなか触れる機会のない地政学という学問を知る機会になりました。
 では、そもそも地政学というのは、この本には「地政学の「地」は地理のこと、「政」は政治です。地理と政治が一緒になっている。つまり、それぞれの国が置かれている地理的な環境から国際情勢や歴史的な出来事を分析する学問、これが地政学です。地政学では、その国がどういう場所にあるのか、どんな形をしているのかといった地理的な条件によって、その国の政治。歴史・性格などがある程度決まってくると考えます。」と書いてあります。
 そういえば、日本は島国だから、海外から攻めてこられないという考えや、だから島国根性でなかなか新しいことにチャレンジできないとか、いろいろといわれます。でも、考えようによっては、海に出れば、比較的簡単に外国に行けます。たとえば、貿易なども、陸路で運ぶよりも大きな船で運んだ方が効率的です。
 この本では、日本のように海で囲まれた国を「シーパワー」と呼んでいます。また、ほとんどが大陸のようなモンゴルや中国、ロシアなどのような国を「ランドパワー」と呼んでいます。この特徴は、
第1に、陸続きなので人やモノの移動がしやすいこと。
第2に、外国から攻め込まれやすいこと。
第3に、強い国は領土を拡大しようとする傾向が強いこと。
 とまとめています。たしかに、現在のロシアを考えても、強い国は弱そうな国に次々と攻め込み、領土を拡大しようとしています。そう考えると、「シーパワー」と「ランドパワー」のどちらがいいかなどということではなく、それぞれの立場から、いかに平和な世界を作っていくかということです。
 そういう意味では、ベルギーという国はとても参考になります。というのも「ベルギーにはベルギー語はありません。北側がオランダ語圏、南側がフランス語圏、東側がドイツ語圏というように分かれています。地域によって言葉が違うのでバラバラになりやすいのですが、ベルギーは連邦国家であると同時に王国です。王様がいるのでかろうじて1つにまとまっている。だから王族が北へ行くとオランダ語で挨拶し、南へ行くとフランス語、東ではドイツ語で挨拶します。そうやって何とか国をまとめているわけです。ベルギーはいろいろな言葉を話す人たちが一緒になって国を作っていることから、まるでEU(欧州連合)の象徴のようなところだということで、首都ブリュツセルにEUの本部が置かれました。」とあり、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、中東と極東についてです。
 私は東の端にあるから極東で、その真ん中付近にあるから中東だと簡単に考えていましたが、では、どこから見てという視点がありませんでした。この話しは、目からうろこでした。
(2023.10.17)

書名著者発行所発行日ISBN
20歳の自分に教えたい地政学のきほん(SB新書)池上 彰SBクリエイティブ2023年5月15日9784299046567

☆ Extract passages ☆

イギリス中心の世界地図で見ると、イギリスにとって東はインドです。アラビア半島を中心とした一帯は、それほど東ではなく中くらい東だから中東。そしてインドよりもっと遠い、極端に東は極東です。日本と日本の周辺を極東というのは、イギリスから見た言い方だということです。
(池上 彰 著『20歳の自分に教えたい地政学のきほん』より)




No.2233『世界一やさしいChatGPT入門』

 ChatGPTについては、マスコミなどの報道で聞いてはいたのですが、断片的なもので、その全体像を知りたいと思い読み始めました。
 もちろん、新しい技術には画期的なこともあれば、それなりの欠点もあります。でも、それを使うことで大幅に省力化されたり、今までできなかったことができるようになればいいと思います。ただ、今の情報化社会において、不特定多数に自分の情報が漏れることだけは避けたいと思います。
 そういえば、AIに関する話しで、誤った答えや情報があるといわれますが、これは人間でも同じことで、記憶違いとか、思い違いということだってあります。ただ、チャットGPTで問題になるのは、幻覚(ハルシネーション)の危険です。この本には、「AIに関する規制が議論される際、よく問題にされるのが、チャットGPTはしばしば誤った情報をあたかも本当のように語る、など平気で「嘘」をつく点にある。人間の幻覚のように、実在しないものをあたかも本当に存在するかのように文章を生成してしまうことから、「幻覚(ハルシネーション、hallucination)」と呼ばれる。」と書いてます。
 たとえば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』だって、間違いがないかといわれれば、当然のことながらあります。だから、ある程度の知識がなければ使いこなせないのです。だとすれば、チャットGPTだって同じです。この本では質問をすることにも、それなりの技術がいるといいます。
 だから、「チャットGPTやそのほかの生成AIは、人間が質問(プロンプト)を入力することで、文章や画像などを生成してくれる。日本ではしばしばこのプロンプトのことを「呪文」と呼ぶが、このプロンプトが適切でないと、出力される生成物も満足な水準に達しないことが多い。従来のIT系エンジエア職では、プログラマーのように、プログラミング言語を駆使して指示文を作り、コンピューターを動かすというものだった。しかし、チャットGPTがこれだけ広く普及したのは、専門性の高いプログラミング言語ではなく、日常的に用いられる自然言語による指示、操作が可能という点が最大の理由だ。」とあります。
 つまり、これから重要になるのは、「自然言語で書かれたプロンプトを調整し、望ましい出力を得られるようにするプロンプトエンジエアリング」だといいます。その人材としてプロンプトエンジニアが大切になっていくということでした。
 この本の第5章に「チャットGPTを使ってみよう」というのがあり、私もさっそくこれを参考にして使ってみました。まだ、使い始めたばかりなのですが、とてもおもしろく、使いこなせられたら、楽しいと思います。
 下に抜き書きしたのは、「おわりに」に書いてあったもので、「未来に向けて、AIと共存するために」の内容です。
 よく、AIによって私たちの仕事が奪われてしまうという話しがありますが、それでも人間にしかできない訳割りというのは確実に残ります。むしろ、人間だからこそできるというものもあります。
 この本のなかで、経営共創基盤(IGPI)の共同経営者である塩野誠は、「AIは、美味しいフレンチの店を紹介することはできるが、実際にその店に行き、料理を食べて味わうことはできない。あたかも知っているかのように語るだけなのである。「物理的な移動や五感に基づいた経験談は人間にしかできないこそこに生身の人間の価値があります」と述べています。
 このたとえ話は、なるほどと思いました。
(2023.10.14)

書名著者発行所発行日ISBN
世界一やさしいChatGPT入門(宝島社新書)ChatGPTビジネス研究会宝島社2023年8月24日9784299046567

☆ Extract passages ☆

 ある一面では、AIは私たちの競合相手であり、脅成となるかもしれない。しかし、それ以上に私たちの暮らしを豊かにしてくれる良きパートナーともなりうる存在なのである。人間と同じように言葉を理解し、情報を処理できるほどの知能を手にした汎用AIの登場は、まさに人類にとって未知の他者との遭遇である。
 私たちの祖先は、出アフリカの時代から常に未知との出会いを通じて、自らを高め、繁栄していった。AIlという未知なる他者との対話は、まだ始まったばかりなのだ。
(ChatGPTビジネス研究会 著『世界一やさしいChatGPT入門』より)




No.2232『これからはあるくのだ』

 著者の本は、ときどき読みますが、軽く読み飛ばせるので旅行のときなどはたいへん重宝します。
 じつは、この本は、9月11〜15日に信濃三十三観音札所巡りをしたときに持っていったのですが、最後の少しだけ残ったので、先日読み終わったのです。つまり、どこで読み終えても、いつでも続きを読めるので、そこが旅先での読書に最適なのです。
 たとえば、『空中庭園』や『ひそやかな花園』などは、庭や花の話しが出てくるのではないかと思ったのですが、本の題名と中味はやはり違うようです。
 それでも、旅の話しなどはおもしろく、この本でも、ドラえもんの便利なグッズで一番欲しいのは「どこでもドア」だそうです。私も、どちらかというと「どこでもドア」があれば、いちでもどこへでも行けるので、それが一番欲しいです。ちなみに孫に聞いたら、「タケコプター」がいいそうで、空が飛べるのが最高だそうです。
 私の場合は、この本を読んでいるときに長野県に行っていましたが、そこまでの距離と帰りを考えると、やはり一瞬で目的の場所まで行けるのが最大の魅力です。信濃三十三観音第一番霊場から二番札所まで、あっという間に行ければタイムロスはありません。実際のこの距離は信濃のなかでも極端に短く、たった270mしかありませんが、自宅から一番札所法善寺までは、375qもあります。東京駅までだって333qですから、それよりも遠いわけです。
 そのような夢の話しをしていても仕方ないのですが、私も本の中に出てくる異国の飛行場が好きというのは同感です。「町からバスや鉄道で飛行場に到着すると、その場所がいかに非日常なのかがわかる。町の喧騒や、猥雑さや、人いきれや、食べもののにおいと、どこまでもかけ離れている。手提げカバンを枕にして眠っている若い男や、家族親戚一同に見送られている女もいる。不安げにガイドブックを広げている旅行者も、免税品を夢中で買っている旅行者もいる。ここではないどこかへいくこと、というのが、かぎりなく非日常に近いことを感覚で知る。飛行機が、というより、飛行場がたぶん、今現在の私のどこでもドアなんだと思う。」と書いてあり、何度か体験しましたが、いつも私もそう思います。
 でも、著者は、少し浮世離れしているというか、本当にそのようなことがあったのかと思うほど、とんでもないことに巻き込まれてしまいます。だから、このような本が書けるのかもしれませんが、笑っていいのか、悲しんでいいのかさえわからないこともあります。
 それでも、「これからはあるくのだ」といい、颯爽と歩き始めるところがいいです。だから、またおもしろいことやものとぶつかるのです。
 下に抜き書きしたのは、「まなちゃんの道」に書いてあったものです。
 まなちゃんというのは、同じ美術部にいた同級生で、彼女が夏休みに描いた油絵を見打ちのめされるぐらいの衝撃をうけたそうです。
 そして、「先日、美術館である絵を見て、私は足を止めた。岸田劉生が昭和初期の原宿の道を描いた絵だった。絵の雰囲気はまったく違うが、それはまなちやんが描いた絵と、よく似た構図だった。」そうで、その雑草に縁取られた舗装されていないまっすぐな道に惹きつけられたそうです。
 やはり、こういう感覚は、歩かなければわからないものです。
 私も先の見えない道を見つけると、不思議と写真を撮りたくなります。そして、自分でその先を確かめに行きます。しかし、ずーっと続いていて、確かめようがないときなどは、むしろこの道はいいと思うんです。
(2023.10.11)

書名著者発行所発行日ISBN
これからはあるくのだ(文春文庫)角田光代文藝春秋2003年9月10日9784167672010

☆ Extract passages ☆

 おそらく人は、こうして曲がりくねったりまっすぐ伸びたりしながら、先の見えないほど続いていく道に、どうしようもなくひかれる習性があるのだろうと、その絵を見て考えていた。この道の先が見たい、でも帰らなくてはならない、それでも先へいきたい、そういう気持ちは子どものほうがむきだしで、野蛮なほど強いんだろうと思う。私はそこに立ちながら、自分がするすると小さくなって、油絵の具のにおいを嗅ぎ、理由もわからないまま恥じ入り傷ついて、それでも目を外すことができずに、一枚の、奇妙な力を持つ拙い絵を眺めている気でそこにいた。
(角田光代 著『これからはあるくのだ』より)




No.2231『ボクの故郷は戦場になった』

 副題は「樺太の戦争、そしてウクライナへ」で、この本を読んでいると、そのままウクライナの人たちに対する思いと重なりました。どんな理由を付けたとしても、やはり戦争は絶対にしてはなりません。この本の最後に著者は、「幼くして戦争を樺太で体験した少年にとって、自分のささやかな経験から知ったことは、勝者も敗者もみんな戦争の被害者だったということである。私たちは日本を迎え入れてくれた国際社会に感謝するとともに、これからは、人間に対して尊厳の心を持たない権力を絶対に生んではならないということを強く訴えたい。社会はその権力主義を否定し、未来の自由を守り続けなければならない。」と書いていますが、経験をした人だからこその重みを感じました。
 まさに、戦争には勝者も敗者もみな被害者だというのは真実だと思いますが、やはり戦争をしかけるような人を選ばないということこそ、大事なことだと思います。
 今、ウクライナで同じような悲惨な目に遭っている人たちがいるときだからこそ、このような本を岩波ジュニア新書で発行する意義があり、多くの青少年たちにも読んでほしいと思いました。とくに、7才の少女アメリア・アニソビッチがキーウ市内の防空壕のなかで『アナと雪の女王』のあの歌、「レット・イット・ゴー」を歌う姿がネットを通じて世界中に流れたことは、まさに今の時代だからこそです。いくら情報を隠蔽したとしても、今の時代はどこかで誰かが必ず見ています。
 それと、1941年4月13日に日ソ中立条約が結ばれ、まだ1年以上も有効だったのに、なぜソ連は参戦したのかと思っていました。やはり、戦争になれば、どんな約束も考えられなくなるのかと思います。
 しかし、その裏で、「なかなか日本と戦おうとしないスターリンに対し、他の連合国はソ連がもし参戦したら千島列島、南樺太をソ連の領地にするということを条件に、日本との戦いに参加するよう要求していた。脳浴血で突然死したルーズベルトに代わってアメリカ大統領になったトルーマン大統領は「ソ連の対日参戦は世界の平和と安全を維持するためであって、ソ連は国連憲章の103条に基づいた国際的な共同行動をとる義務を優先するべきだ」という解釈をスターリンに伝えた。ソ連の対日参戦には国連憲章の保障があるとして、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、南樺太への侵攻を進めることができるという。これでソ連の南樺太侵攻の条件が調った。それならばとスターリンは対日参戦の意志を示すようになった。ソ連は1945年8月8日深夜、対日宣戦を布告した。」と書かれています。
 どんなときもそうかもしれませんが、大きな戦争の後ろには大国の思惑があります。下に抜き書きしたのにも、対日参戦を促しながらも、それ以上の戦争拡大を阻止しようとしています。
 ただ、樺太でも、侵略されそこから引き揚げるときには、「すべての財産を樺太に置いていくということでもあった。家や土地だけではなく、銀行との取引は停止され、樺太での預金は預金者の請求には及ばないものとなるというのが外務省の見解だった。庶民が苦労して残した預金も取り戻せないという。敗戦には経済上の怖さもあることも知っておかなければならない。」と書いてあり、引き揚げても大変な苦労があったと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第5章「占領された豊原で生きていくために」にあったものです。
 私は、日本が無条件降伏をしたのに、ソ連はなぜさらに占領地を広げようとしたのか疑問でした。もちろん、今のウクライナを見れば、なんとなくわかります。しかし、噂では北海道まで攻め入ってくるのではないかとさえいわれていました。
 それを終戦後1週間ほどで進軍を止めたのかは不思議でした。
 この話しを聞いて、なるほどと思いました。それほど、原子爆弾は世界に大きな衝撃を与えたと思います。しかも、今現在もソ連がもしかするとウクライナで使うかもしれないという不安は残っています。
(2023.10.9)

書名著者発行所発行日ISBN
ボクの故郷は戦場になった(岩波ジュニア新書)重延 浩岩波書店2023年8月18日9784005009732

☆ Extract passages ☆

その計画をなかなか捨てないソ連に対し、トルーマン大統領はこう言って、スターリンを脅したという。
 もしそれを実行するなら、アメリカはあと1つ残している原子爆弾をモスクワに対して使用することもありうる、と。それは核兵器の攻撃を戦略として示唆した、人間の歴史上初め ての核戦争の声明でもあった。そして23日午前零時に日本に対する攻撃禁止命令が出された。
 ソ連はアメリカをはじめ、他の連合国の指摘を無視してまで北海道への侵攻を進めることは諦めざるを得ないと判断したのだろう。南樺太の領土を占有できたことで侵攻を終えた。だが、米英の強い指摘がなければ、北海道はどうなっていただろうか。
(重延 浩 著『ボクの故郷は戦場になった』より)




No.2230『支える、支えられる、支え合う』

 この本は、「岩波ジュニアスタートブックス」のなかの1冊で、新しい「学び」を楽しもうと企画されたものです。ジュニアというぐらいですから、青少年向けですが、とてもわかりやすく、今の時代にはとても大切なことだと思います。
 5人の方が書いていますが、ほとんどが自分の体験されたなので、若者たちの心に直接響くのではないかと思います。
 たとえば、編著者のサヘル・ローズさんは、「もしこの本を読んでいるみなさんの同じクラスに外国籍の子や外国ルーツの子がいたら、その子の匂いを絶対にからかわないでほしいです。その子にとってそれは安心できる家庭の匂い、大好きな料理の香りなのです。慣れない人には違和感のある匂いでもその子にとっては故郷の安らぎの香りです。匂いや香りの違いを感じたら、「変だ」と言ったり、からかったりするのではなく、どんなものを食べているんだろう、どんな生活をしているんだろうと興味をもってほしい。否定するのではなく興味をもつことで、お互いの理解が深まるきっかけになるのだと思います。みなさんの周りに、言葉や服装、食べ物、行動が違う子がいたら、「あの子は変だ」と言っていじめるのではなく、何で違うんだろう、その背景には何があるのかな、と考えてほしいです。」と書いています。
 よく、肌の色や言葉の壁などは語られる機会が多いのですが、匂いや香りについては、あまり指摘されないようです。でも、私が外国に行ったときに一番最初に感じるのは、その国特有の匂いです。初めて中国に行ったときには、その匂いになかなかなじめなくて、食欲もなくなりました。ところが何度となく行くうちに、その匂いを感じると、また来たなというふうになってきました。
 人は意外と勝手なもので、最初はあまり好きでもない匂いだったのに、あるときから好ましい匂いに変わるのですから不思議です。
 だとすれば、サヘル・ローズさんが言うように、匂いや香りだけで「変だ」とは考えないほうがいいと思います。人はすぐ慣れるし、変わっていくのですから、それをあまり問題視しないほうがいいようです。
 また、自身がネフローゼ症候群で5才から8年間も長期入院していた三好佑也さんの「病気だから何もできないのではなく、できることはたくさんある。周囲の人たちは「病気が治ってからやればいいじゃない」と声をかけることがありますが、その子にとっては「いま、やりたい」という気持ちが強いのです。」という言葉にも、なるほどと思いました。
 私たちは、どうしても病気が治ってからと思いますが、8年間も入院していたら、その間にも何かしたいと思うのは至極当たり前です。彼は、岡山大学大学院を修了後、認定NPO法人ポケットサポートを設立し、その代表理事として活躍しています。
 下に抜き書きしたのは、慎泰俊(しん・てじゅん)さんの「だれにでも平等にチャンスのある世の中にしたい」に書かれてあったものです。
 彼は、朝鮮大学校から早稲田大学大学院を修了し、モルガン・スタンレー・キャピタルなどを経て起業し、現在は「五常・アンド。カンパニー(株)の代表執行役だそうです。そして、途上国の低所得層に金融サービスを提供したり、モバイル技術を用いた金融サービスを行っています。
 すごいと思ったのは、彼には国籍がないので、パスポートもないので、ほとんどの国に簡単には行けないそうです。それでも、「国籍がなくても、やりたいことはできる」ということを世界中の人たちに見せようとしています。
 つまり、どんな国に生まれようと、「国籍や人種、生まれ育った環境、その他、経済的な環境などの違いにかかわらず、だれもが同じようにチャレンジすることができ、同じように働くことができるような社会をつくりたい」ということです。
(2023.10.5)

書名著者発行所発行日ISBN
支える、支えられる、支え合う(岩波ジュニアスタートブックス)サヘル・ローズ 編著岩波書店2021年11月26日9784000272421

☆ Extract passages ☆

 私が通っていた高校には、当時いろんな悪習がありました。たとえば、先輩が後輩からお金を取り上げるといったこともできたのです。そんな悪習はどこかで断ち切らなければいけないと思い、高3の時に生徒会長になり「これをやめる」と宣言しました。
 先輩からずっとひどい仕打ちを受けてきて、自分が上級生になったら今度は下級生をいじめてやろうと思っていたような同級生たちは反発しましたが、最後にはみんなで協力してこの悪習を変えることができました。
 自分が動くことで社会が変わるんだということを実感したのはこの時です。何かおかしい、変えなくてはいけないと思うことがあったら、声を上げる、行動を起こすということは大事だと思います。
(サヘル・ローズ 編著『支える、支えられる、支え合う』より)




No.2229『沖縄の海風そよぐやさしい暮らし 365日』

 日にちごとに写真が載っていて、楽しそうなので、読み始めました。副題が「島の人たちが守ってきたかけがえのない日々」で、沖縄に昔から住んでいた人ではなかなか気づかないこともありますが、移住した人だからこそ違いがわかることもあります。
 この本を読んで、沖縄の生活もいいなあ、と思いました。しかも、観光などで行くのではなく、数ヶ月ぐらいは住んでみたいと思いました。でも、数ヶ月では何もわからないよといわれそうで、そんなら観光で訪れるのも仕方ないかと思います。
 この本で初めて知ったことですが、この日本で南十字星と北極星が同時に見ることができるそうです。南十字星は、「石垣島や波照間島、竹富島などが観測場所として有名です。観測しやすいのは4月初旬〜6月初旬。水平線が見える場所や高台がオススメです。南の空に浮かぶ「からす座」を目印に、ぜひ探してみてください。……北斗七星の「ひしゃく」の先端2つの星を、開いた方向に5つ分のばすと北極星を見つけることができます。」と書いてありました。
 それと、ボリビアのウユニ塩湖のような空や雲が水面に映し出されるような風景に出合うこともあるそうです。場所は東海岸だと朝陽の時間帯で、西海岸では夕日の時間帯には空と雲が真っ赤に染まることもあるそうです。もちろん、遠浅の海で、しかも晴れていて風がまったくない、もちろん波もないなどの気象条件が必要です。
 もし、沖縄に行く機会があれば、ぜひお目にかかりたいものです。
 そういえば、最近は近くのスーパーでもドラゴンフルーツを見かけるときはありますが、初めてこれを見たときにこれがサボテンの仲間とは思いもしませんでした。しかし、その栽培しているところに行くと、クジャクサボテンのような葉をしていました。そのジュースを飲みましたが、さっぱりとしておいしかった記憶があります。この本にも、「ドラゴンフルーツには赤色と白色、時にビンク色の果実があり、色によって味わいが違うのです。私は、白色よりも甘みが強い赤色が好き。旬の夏時期になると、朝食のフルーツはいつもドラゴンフルーツ。白色が入ると、見た日もカラフルで豪華になるため、お客様がお越しの時は、2色のドラゴンフルーツを用意します。一度見たら絶対に忘れないその外見は、龍のウロコにも見えることから、ドラゴンフルーツという名がついたそうです。ビタミン各種、葉酸、鉄分、マグネシウムなど栄養満点。解毒作用も強く、使秘予防にも絶大な効果があります。翌日の便の色が赤くなることがありますが、病気じゃないので大丈夫!」とあり、私も食べることがあったら、ぜひ赤と白とを食べ比べてみたいと思います。
 今年もそうですが、沖縄などは毎年台風が来て大変だと思っていましたが、ときには台風も来ないと困るとあったので、なるほどと思いました。それは、「サンゴに適した水温は25〜28度ほど。海水温が30度を超える日が長期間続くと、サンゴの白化現象が起こります。環境が回復すれば、元に戻りますが、白化が続くとサンゴは死んでしまいます。夏場は、 定期的に台風が来ることで、海の中がかき混ぜられ、水温が適温に戻ります。」とありました。
 もちろん、台風は大きな被害をもたらすこともありますが、自然というのは、素晴らしいバランスの上に成り立っていると改めて思いました。
 下に抜き書きしたのは、2月12日の「旅とは、他の日と火」に書いてあったものです。
 民俗学者の柳田國男氏は、「旅」の語源は、「たまえ(賜る)」という言葉が変化したもので、いろいろな食べ物などをもらいながら移動していったのが旅の原点だといいます。しかし、それは今でもチベットなどではあるかもしれませんが、漢字学者は「旅」という漢字は象形文字で、「旗がゆらめいているようす」を表現し、そのあとに人々が従っていくというつくりになっているといいます。たしかに、日本でも以前はツアコンが旗を持ってその後を多くの人たちがついていく団体旅行がありましたが、今では下火です。
 だとすれば、この抜き書きした旅の語源のほうが旅の本質をついているような気がします。
 どちらにしても、この本を読んで、沖縄を旅してみたくなりました。
(2023.10.2)

書名著者発行所発行日ISBN
沖縄の海風そよぐやさしい暮らし 365日ながもと みち自由国民社2023年7月7日9784426128883

☆ Extract passages ☆

諸説ありますが、旅は、「他の日々」を過ごすことから「他日」、または、「他の土地や家の火で調理したもの」を食べることから「他火」と言われているそうです。旅先でその地域で暮らす人の生活を垣間見ることで、自分が暮らす日常の当たり前や常識が崩され、別の上地で暮らす人も、自分と同じように悩んだり笑ったりして生きていることを知ります。
(ながもと みち 著『沖縄の海風そよぐやさしい暮らし 365日』より)




No.2228『三昧力』

 この本は、2007年4月に海竜社から出版された『玄侑和尚と禅を暮らす』を改題し、加筆して刊行されたものだそうで、本の題名はいかに大事なのかと考えさせられました。良いとか悪いとかという話しではなく、中味が想像できない方が興味を引きそうです。
 私も玄侑宗久師の話しを会津若松市の福島県立博物館で聞いたことがありますが、話しが多岐にわたり、とても有意義な時間でした。この本も、あちこちに書いた原稿を寄せ集めたからでしょうが、ちょっとばかり時間を開けても、どこからでも読み始められました。しかも文庫本でページ数もないので、持ち運びにも便利でした。
 そういえば、孫の送り迎えの待ち時間に読んだところもあり、今日がすべて読み終わった日なのです。
 第1章「思いどおりにならないことを楽しむ」の最初が「自律と他律」で、ここに書いてあった「決まりや計画が綿密であることを、けっして自律神経は喜びはしない。もっとザ ックリいい加減なほうが、変化に応ずる彼等の見せ場も多く、張り切って元気になれるのである。」と書いていますが、初出は野村総合研究所の広報誌「未来創発」の2006年11月25日だそうです。
 これは、ある意味、当然のことで、ある程度の目標は必要かもしれませんが、旅行に行っても計画通りに進むと、逆におもしろくありません。思わぬことが起きるから、旅行は楽しくなるし、思い出としても残ります。だから、仕事だってそのような自律と他律を組み合わせたところに新しいことが起こってくるような気がします。
 そういえば、来年は辰年なので、この本のなかの龍の話しをおもしろかったです。龍はもちろん架空のものではありますが、この本に、7つの生き物を組み合わせて創られたらしいとありました。
 「まず胴体は「蛇」。これは西欧的なイメージではなく、地に足をつけた現実性を意味する。ヒゲは「鯉」。逆流を遡る強い生命力である。また角は「鹿」で、あの角は攻撃のためでなく、専守防衛に用いられる点が気に入られた。そのプライドも象徴しているのだろう。足というか手は、「鷲」で、鷲づかみの強い意志。耳は「コウモリ」だというから、コウモリの不思議な聴覚のことは、昔から知られていたのだろう。顔の形は、ワニだという説もあるようだが、「ラクダ」という説のほうが説得される。どんな過酷な環境でも、わりと暢気そうに見える点が美徳とされたのである。最後に入れる眼は、「仏さま」ということになるのだが、実際に描く際は、「牛」の眼を参考にしたらしい。牛は純朴で落ちついているからだろう、仏の慈悲と智慧が、それによって点晴されたのである。」としています。
 そして、「強い生命力と意志をもって現実的に事にあたり、しかもプライドは失わず、情報はいち早く収集しながらも暢気そうに、仏の慈悲と智慧で対処せよ、ということになるだろうか。」とまとめています。
 これは初めて聞いたことで、なにを典拠したのかもありませんが、なるほどと思いました。そういえば、龍は西欧では悪魔の使いのような扱いをしていますが、アジアでは天候などの自然現象の変化を起こすと考えられています。だから、ブータン王国の国旗には龍が描かれていますし、仏法を護るという意味合のほうが強いようです。とくに、著者は臨済宗のお寺の住職ですし、天井などに龍の絵を描いているところも多いようです。また、つい先日に信濃33観音詣りをしてきましたが、小布施には葛飾北斎が85歳になっても筆の力が衰えず、東町祭屋台天井絵『龍』と『鳳凰』が残っていて、ここの北斎館は興味津々でした。
 下に抜き書きしたのは、第2章「自分を楽しむ」のなかの「個性病から立ち直って」にあったものです。
 今どきの子どもは、みんなと同じでないと安心できなかったり、個性がないとだめと思ったり、両極端のなかで生きているようです。ある程度の真似も必要で、最初から独創的な人は、ほとんどいません。
 これは、朝日新聞の2004年12月5日の朝刊に掲載されたそうですが、この語り口からすると、若者向けのようです。でも個性などというのは結果であって、今を生きているうちに、後からついてくると私は思っています。
(2023.9.29)

書名著者発行所発行日ISBN
三昧力(PHP文芸文庫)玄侑宗久PHP研究所2010年11月29日9784569675695

☆ Extract passages ☆

 だいたい君たちは、小さいころから「個性」を求められすぎてきた。アイデンティティーがあると信じ込まされてきた。少しばかりできる教科や技能を個性だと思い込み、ひたすらそれを伸ばしてはみたが、就職しようにも募集がない。もしかすると、あらためて総合性を目指す君たちの様子が、大人たちには病気に見えるのかもしれない。
 どうかできるだけ早く「個性病」から立ち直り、本来のゆらぎつづける自己をそのまま肯定してほしい。八百万の神という並列する価値観は、じつは君たちの中の無数の自己のことだ。無理なアイデンティティーを求めて解離するのは国家だけに任せ、君たちはもっと自由に変化を楽しんだらいい。
(玄侑宗久 著『三昧力』より)




No.2227『人は、老いない』

 人は老いたくはないが、それは絶対に避けることはできないし、確実に死に向かっていることも間違いはない。しかし、考え方次第で、老いにもたくさんの楽しみはありそうだし、自分も老いたからこそできるようになったこともあります。
 だとすれば、老いるということも、まんざら捨てたものではないと思っています。そして、この本と出合い、著者ならどのように老いをとらえているか気になりました。だから読むことにしました。
 しかし、考えてみれば、人生50年だったころには、ほとんど老後などということは考えることもなかったはずです。しかも、ほとんど医者にもかからないとすれば、まさに老衰が多かったのではないかと思います。また、それはそれで幸せだったかもしれません。
 この本には、「長生きが前提になってしまうことで、かなり早い段階から老後を意識しなければならなくなり、それでさまざまなことを思い悩まなければならなくなっている。寿命が短ければ、老後が長く続くことを前提にする必要はない。それこそ、ただ死ぬまで生きればいいのだ。日本人だって、これまでずっと、死ぬまで生きればいいと思ってきた。平均寿命が延びたのは、1950年代半ばからだ。それはちょうど、高度経済成長のはじまりと重なっている。」と書いています。
 やはり、昔の日本人は、「死ぬまで生きればいい」と思っていたし、「死ぬまで生きるしかない」と考えていたのかもしれません。長生きして、これからの人生をいかに過ごせばいいかなんて、考える余裕もなさそうです。たとえば、この本にも出てきますが、伊能忠敬は隠居後50才で江戸に出て、高橋至時(よしとき)に弟子入りし、74才で亡くなるまで測量を続けたそうです。しかも、少しは江戸幕府から資金は出たようですが、自腹も多く、ある程度裕福な老後でなけければできなかったと思います。
 これは今の時代も同じで、老後をいかに有意義に過ごすかと考えるなら、それなりの資金のゆとりも大切です。
 また、いくら平均寿命が延びても、健康でなければ困りますし、若くして亡くなる人だっています。これは、この可能性は誰にとってもあります。そういう意味では、つねに死を考えるということは、生を考えることでもあります。
 この本に書いてあったのですが、曽野綾子さんは、「墓参、お寺まいり、お坊さんの講話を聞きに行くこと、などに時間を費やす老人を見ていると、私は若い時から美しいと思った」と言い、「宗教的なものに関心がないことそれ自体は一向にかまわないが、そういう人たちは、どこか、なげやりで、自己顕示欲が強く、不満がいっぱいというふうに見えるのが不思議である」と述べているそうです。
 私も信仰心を持つということは、謙虚で感謝を忘れないと思っています。やはり、ある程度、時分を律することは大切なことで、そこに信仰心の大切さがあるのではないかと思います。そして、それが老いるとか老いないというよりは、大事な心構えのような気がします。
 下に抜き書きしたのは、第7章「子どものこころを失わない」に書いてあったものです。
 この章の扉に、ウォルト・ディズニーの「われわれの一番大きい資源は、子どもの心である」と書いてあり、今でも子どもだけでなく大人になってまでもディズニーランドに惹きつけているのは、子どものこころかもしれません。
 ここに出てくる「時分の花」と「まことの花」という言葉は、もともと能の世界からきたものだそうで、これより後ろのほうに若い方が若い演技をするのはなかなか難しいといいます。たしかに、英語圏で育った人がみんながみんな英語を教えられるかというとそうではないようです。やはり、教える技術が必要で、それが「まことの心」に通じるのかもしれません。
(2023.9.27)

書名著者発行所発行日ISBN
人は、老いない(朝日新聞新書)島田裕巳朝日新聞出版2017年6月30日9784022737236

☆ Extract passages ☆

 この時分の花とは、能の世界からきたことばで、対比されるのが「まことの花」である。まことの花が、舞台を重ねた役者の自由白在な演じようを示すのに対して、時分の花は、いっときの若さゆえの輝きを意味する。
 まことの花には稽古と経験という裏づけがあるわけだが、時分の花にはまだそれがない。若さだけが取り柄とも言えるが、そのなかに、やがてまことの花を咲かせる可能性が見出 されるようなとき、観客はその役者の将来の姿を夢見て、身震いさえ感じる。
(島田裕巳 著『人は、老いない』より)




No.2226『たちどまって考える』

 新型コロナウイルス感染症が世界的に拡がり、各地でパニックが起こり、パンデミックになりました。そのときの、日本と世界との違いが描かれていました。
 これらは、毎日、ニュースでも流れましたが、著者は家族がイタリアにいたこともあり、ヨーロッパの生の情報にも触れられることができ、その違いがよりリアルに感じられました。
 たとえば、マスクにしても、日本人はほとんどの人がマスクをしているのに欧米人はしていないというニュースを見て疑問に思っていたのですが、著者のイタリアに住んでいる主人は、「マスクは病気に屈服している感じがするから、つけたくないんだ」と言っていたそうです。実は私もちょっとした経験があり、ここで外国の人と日本人が結婚式を挙げることになり、その法話をしなければならず、新郎新婦ともお医者さんなので、日本の「一病息災」という考え方について話しました。どうしても西欧人は病気は治すもの、山は征服するものという意識が強く感じていたので、あえてその話しをしたのです。
 今回の新型コロナウイルス感染症に対する取り組みも、そう思いました。著者は、「やはり言語によるコミュニケーションが生活に根付いている彼らにとって、表情を遮るマスクは苛立ちの大きな要因にもなっているのでしょう。口を尖らせたり、ニャリと笑うことも言語表現には欠かせないツールになっていますから、それがマスクで見えなくされてしまっては、うまく相手に言いたいことを伝えられない、というもどかしさをもたらしているはずです。ただそう考えると、やはり彼らにとつて日常の言語の重要度は我々よりもはるかに大きく、それが感染拡大とは全くの無関係だった、と言い切れないとも感じています。」と書いています。
 それでも、マスクの効果が海外でも取りあげられるようになり、少しずつマスクをかける方が多くなったようですが、今年になって感染者が減少したら、すぐマスクを外したようです。しかし、日本人は、マスクを外してもいいといわれながらも、未だにお店に入るときなどはする人が多いようです。
 この本を読んでいて、諸外国の老人に対する思いの違いも感じました。日本でも昔はお年寄りは知恵袋だったり、わからないことが合ったら近くのお年寄りに聞けといいましたが、そのような言葉も死語になってしまったようです。著者は、テクノロジーの進化や外来文化が浸透していく勢いにお年寄りはついていけなくなったからではないかと書いていますが、私はそれも一理はあるが、戦後の教育ではないかと考えています。核家族化や極端な個性化を推し進めていったからではないかとも思います。
 著者は、「様々な感情による経験値や想像力によって構成された自らの"辞書"の情報量が少ないということは、先の見通しが立たないパンデミックのような問題が起きたときに、ぼんやりとした不安を自力で処理したり、巷に飛び交う情報を適切に疑ったり、ということができなくなるでしょう。つまり、流言飛語や第三者の言葉にたやすく右往左往させられてしまう。自分の頭で物事を考えられない人が大半になったときに、社会に発生する不穏な現象がどのようなものかは、ナチズムやファシズムを振り返れば容易に想像がつくでしょう。」と書いていて、これはとても大切なことだと思いました。
 自分でしっかりと考え、さらにお年寄りの話しも聞くということをしなければ、独りよがりになってしまうかもしれません。
 最近、若い人たちのなかでも信仰心の芽生えがあるといいますが、この新型コロナウイルス感染症をきっかけとして大きな不安感があるのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「パンデミックとイタリアの事情」のなかに書いてあったものです。
 この少し前に、歴史学者の磯田道史さんは「日本の場合、形で見える崩壊でなければ史実として残らない」ということをコロナ関連のテレビ番組で話したそうです。この抜き書きは、磯田さんの師である経済学者の速水融さんの言葉です。
 やはり、巷の話しだけでは残らないのは当然かな、と思いました。言葉で書き残す、というのはとても大切なことで、そういえば、昔の人たちの日記でさえも資料になると思い当たりました。
(2023.9.25)

書名著者発行所発行日ISBN
たちどまって考える(中公新書ラクレ)ヤマザキ マリ中央公論新社2020年9月10日9784121506993

☆ Extract passages ☆

1918年に始まったスペイン風邪の流行について、当時の文献にはあまり記述らしいものが見当たらないのだそうです。自分の子どもや家族への感染を懸念した歌人の与謝野晶子が、「人が密集する場所は早くに休業するべきだったのでは」と、感染抑制の必要性を書き残していたぐらいでした。
 戦争や震災の災禍は明確な形で見えますが、疫病のような目に見えないものは言葉として残らない性質が、日本の歴史にはある。しかし言葉で書き記されなければ、その記憶は風化しやすくなる。辛い経験で得た教訓も、人々のなかに留まりにくくなってしまいます。
(ヤマザキ マリ 著『たちどまって考える』より)




No.2225『扉をひらく哲学』

 岩波ジュニア新書のシリーズは、とても読みやすく、難しいことでもわかりやすく解説をしてくれます。この本も、とっつきにくい哲学を、その扉へと案内してくれます。
 とくに、現代の価値観多様化の時代には、生きるための哲学がとても大切で、副題は「人生の鍵は古典のなかにある」です。でも、一口に古典といってもたくさんあるし、何を読んでいいかもわかりません。そのために、この本では古典の案内や参考文献なども載せています。
 では、そもそも古典とはなにかといいますと、この本のなかで芦名定道さんは、「古典」とは、「人と人とを相互に繋ぐ接続点・境界面、つまリインターフェイスと捉えることができます。同じ「古典」に触れている人は、その「古典」を介して民族や世代を超えて、相互に意見を交わし、思いを伝え合う場に居合わせているのです。たとえば、江戸時代に武家の親子間で、父親が息子に『論語』を使って武士の精神を伝えようとした際に、『論語』は親と子を繋ぐインターフェイスとしての役割を果たしていたのではないでしょうか。」といいます。
 たしかに、同じ土俵に上らなければ、相撲は取れません。つまり、話しが合わないことと同じです。
 もし、世代間で異なっていたら、共通認識はなくなり、バラバラになってしまいます。たとえば、人はなんのために生きるかと問われても、答えようがありません。そのようなときに、同じ本を読んでいれば、どこかでつながります。
 佐藤弘夫さんは、「自身より価値あるものの探求と発見こそが、何のために生きるのかという問いに対する一つの答えではないかと思っています。古典には、それを示唆するようなたくさんの工ピソードが綴られています。」と書いています。そして、佐野洋子著『100万回生きたねこ』や日本の古典の『今昔物語集』を薦めています。
 また、若い人たちに「勉強するのはなんのためでしょうか?」と聞かれたときに、梶原三恵子さんは「昔から、知識は力であると考える文化はたくさんありました。安全な場所を見極め、資材と寸法を吟味して住まいを確保し、危険な獣や毒を避けながら食料を得て生き延びるためには、さまざまな知識が必要でした。いまでいう地理、物理、数学、気象、医学、生物学などです。また、いずれ必ず死が訪れることを知りつつも絶望せずに生きていくために、哲学、宗教、文学などの知識が求められました。」と書き、自分の専門分野のインドの『リグヴェーダ』に出てくる古代インドのバラモンの話しをしています。
 いずれも、古典といわれているなかから、答えを引き出そうとしていて、第3部で「10代にすすめる1冊」を編著それぞれが書いています。
 下に抜き書きしたのは、第2部5の「本当の自分を見つけたいのですが、どうすればよいでしょうか?」のなかで、中島隆博さんが書いたものです。
 たしかに心身を習慣化するというのは、私もいいことだと思います。というのも、私自身の修行体験でも、よけいなことを考えることもなくただひたすらにやることも長い人生のなかで必要だと思います。
 また、若いときから茶道を習いましたが、同じことを繰り返しやっていると、自然と身につき、考えることもなく手足が動きます。そうすればお茶もおいしく点てられますが、少し変化をつけたいときなどは、違うことをやると、やはり違和感を感じます。400年も続いてきた伝統ですから、それが一番いいような気がしますが、若いときにはそれに対する反発もあり、崩してみたくなります。それもよくわかります。
 でも、せめて基礎だけは、繰り返しながらでも覚えなければならないと思っています。
(2023.9.21)

書名著者発行所発行日ISBN
扉をひらく哲学(岩波ジュニア新書)中島隆博・梶原三恵子・納富信留・吉水千鶴子 編著岩波書店2023年5月19日9784005009688

☆ Extract passages ☆

禅寺の修行を思い浮かべてみましょう。衣食住すべてにわたって事細かに規則が定められていて、それを身につけるだけでも大変そうです。修行のために入山したはいいものの、早々と逃げ出してしまう若いお坊さんも少なくないそうです。それでもそこをこらえて一年も過ぎれば、お坊さんに必要な習慣を心身ともに身につけることになります。いちいち意識化せずとも、自然に規則に則った振る舞いができるようになるのです。規則に従うことで、かえって心身ともにより自由になる。これが習慣化のよいところです。
(中島隆博・梶原三恵子・納富信留・吉水千鶴子 編著『扉をひらく哲学』より)




No.2224『ロバのスーコと旅をする』

 9月15日に信濃33観音札所の旅から帰ってきましたが、この本はその途中から読み始め、連休の間に読み終えました。ロバといっしょにイラン、トルコ、モロッコと旅をするのですが、モロッコでは9月8日にマグニチュード6.8の地震が発生し、特に震源地の3,000〜4,000mほどのアトラス山脈が走るモロッコ中部の内陸部は大きな被害を受けたそうです。テレビでみると、この辺りは土壁の家が多く、多数倒壊したみたいです。モロッコ内務省の発表では、11日午前10時時点では、死者2,497人、負傷者2,476人だそうで、心よりお見舞いいたします。
 もちろん、被災者はさらに増える可能性もあり、各国の支援も始まっているようです。このロバとの旅も、モロッコのアトラス山脈を越えるもので、この本には、「P151-2」と書いてありました。
 さて、この本葉、第1部がイランて、第2部がトルコ、そして第3部がモロッコです。第1部のイランでともに歩いたロバはイスファハーンで別かれ、第2部のトルコではソロツベという名前をつけたロバと歩き、そして第3部のモロッコでともに歩いたロバの名が本の名前にもなった「スーコ」です。
 ロバをつれて旅をするということは、ロバにとっても大変だとは思うが、著者は毎日大好物の麦を与えられ、道端のみずみずしい草をたらふく食べて、さらにスイカやトウモロコシなどのご馳走も食べられるから、むしろよかったのではないかと書いています。そして、「一方で、私にとっても、ソロツベがいることで得をしたことが多かったように思う。あの東洋人は、なぜだかよく分からないが、ロバを連れて歩いて旅をしている。なんだか大変そうなので、協力してあげよう……と、出会う人々が考えてくれていた気がする。ソロツベがいなければ、この旅はずいぶん違うものになっていただろう。そう考えると、私はソロツベを歩かせているのではなく、むしろ私が歩かせてもらっているのではないか、という気がしてくる。ソロツベはこの旅で一番大切な贈り物をくれた。歩き続けたいという気持ちにさせてくれたのだ。」といいます。
 読者にとっては、ロバはマヌケなやつというイメージがありますが、むしろ、この本を読むととても愛嬌があり、自分の気持ちに正直だということが伝わってきます。
 そもそも、人類の歴史において、馬よりも早くロバを飼い始めたようで、この本には「約7000年前にアフリカ東部で飼いならされたのが始まりとされる。しかし、頑固で融通が利かないところから、西洋と同じくイランでも「愚か者」の象徴とされてきた。」そうです。しかし、このロバのミルクは、人間の母乳に近い栄養素を持っているらしく、体に備わっている免疫機能を高めるということで、特にコロナが流行してから注目されるようになってきたと書いてありました。
 下に抜き書きしたのは、第2部のトルコに書いてあったものです。
 喜捨や布施というとすぐ仏教のことを考えますが、ほとんどの宗教が困っている人がいれば助けることをよしとしています。インドなどでは、布施をすることは自分のためだとして、感謝を求めません。むしろ、いただいてくれて有り難うという気持ちです。
 ここでも、そのような気持ちのことが書いてあり、イスラム教も同じだと思いました。
(2023.9.18)

書名著者発行所発行日ISBN
ロバのスーコと旅をする高田晃太郎河出書房新社2023年7月30日9784309031200

☆ Extract passages ☆

 イスラム教では貧しい人々への喜捨は信徒の義務とされる。私に金を渡す行為が喜捨の精神に基づくものなのかは分からないが、私は最初面食らい、断っていた。こちらは別に金に困っているわけではないのに金を受け取るのは、相手をだましているようで悪い気がしたからだ。一方で、相手は厚意で金をくれようとしているのに、それを断るのも、何となく後ろめたさを感じていた。旅人を助けることで徳を積もうとしているのかもしれず、それを断るのは、単に厚意を傷つける以上のことをしているような気がした。
 もらった金はウェィターヘのチップにしたり、別の必要としている人に渡したりすればいい。要は、私はバトンを受け取っただけに過ぎない。何度も断るうちにそうした考えが芽生え、私は素直に受け取れるようになっていった。
(高田晃太郎 編『ロバのスーコと旅をする』より)




No.2223『世界のへんな肉』

 この本も信濃33観音札所の旅の途中で読もうと、だいぶ前に買っておいたのを持ってきた1冊です。
 この題名の「へんな」というのは、普段ほとんど食べないとか食べるものではないというものという意味ですが、実はこのなかに出てくるへんな肉を私も食べたことがあります。たとえば、表紙絵に出ているワニやウサギ、カエルなども食べたことがありますし、特にウサギは子どものころに飼っていて、12月ごろになるとウサギの毛皮を買いに来る人がいて、皮をはいでなかの肉だけを置いていくのを何度も見ました。
 また、鉄線を炭火で焦がして、罠を作り、ノウサギの動くようなところに設置したこともあります。最近食べたのは、イギリスの片田舎で、たまたまメニューに載っていたので、懐かしくて食べてみました。
 ワニはオーストラリアに行ったときに食べましたし、そのときはカンガルーやワラビーなどの肉も食べました。それでも、中国でレストランの前にカエルがたらいのなかに入れてあったのにはびっくりしましたが、それが串焼きになって出てきたときにもびっくりし、なかなか食べられなかったこともあります。
 世界中を旅して歩いていると、たしかにいろいろな肉があります。
 この本には、インドに牛カレーの店があると聞き、行ってみると、牛は牛でも水牛だったそうです。つまり、コブ牛は食べていけないけど、水牛は牛ではないし、「悪魔の使い」だから食べていいという論理なのだそうです。著者は、「同じ牛だろうに、コブ牛は仕事もせずにぶらぶらしていても大切にされ、水牛は働かされた挙句、食べられてしまうなんて、なんだかやるせない気持ちになった。同じ牛に生まれるなら、私は白いコブ牛になりたい。」と書いていますが、なんか割り切れない話しです。
 そういえば、ネパールの友人宅にホームスティしていたときに、モモ、これは日本のシュウマイのようなものですが、水牛の肉の入ったものをいっしょに作って食べたことがあります。彼はヒンドウ教徒なので、神聖な牛は食べないと思っていましたが、今思えば、水牛は牛ではないということかな、と思います。
 また、スウェーデンでトナカイにひかれたソリに乗りたいと冬に行ったそうですが、トナカイは予約が一杯でダメだったので、その代替えとして犬ゾリにしたそうです。その犬ゾリマスターのヒゲ面のオジサンは、「犬ぞりっていうのは、先頭の2頭がリーダー犬で、力はないけど頭がよくて後ろの犬に指示を出すんだ。後方の犬は、頭は悪いけど力が強い。真ん中は、頭も悪いし力もいまいち。文句ばっかり言って働かないけど、いないよりはマシかなあ。ハハハ。」と言ったそうです。
 もちろん、私は犬ゾリに乗ったこともないし、見たこともないので、そのような話しは初めて聞きました。でも、ありそうな話しではあります。
 著者は、「真ん中の犬のやる気のなさといったら! 隣の犬とケンカしたり、途中でおしっこをしたり。そのたびに、先頭のリーダー犬が眉間にシワを寄せて「ガウッー」と怒っている。後ろの犬たちも、「もっと引っ張れ」とばかりに、真ん中の犬のおしりにガブッ!」、まるで「人間社会の縮図のようで、自分も叱られているかのような切ない気持ちになっていくのだった。」と書いていますが、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「中南米篇」のアマゾンの市場で出合った魚、ヨロイナマズ、現地では「タマタ」というそうで、古代魚だそうです。
 私は見たことがないのですが、著者いわく、「世の中の怨念をすべて吸い込んだような週案な顔」の魚だそうです。なんともおどろおどろしいような魚ですが、店で料理をしてもらうと、濃厚なダシが出ているようで、とてもおいしかったと書いています。
(2023.9.15)

書名著者発行所発行日ISBN
世界のへんな肉(新潮文庫)白石あづさ新潮社2016年5月1日9784101013619

☆ Extract passages ☆

 アマゾンの豪快な食材と繊細な和食の見事なコラボレーション。「おいしい!」と喜んで食べていたら、おじさん、ぼそっと「ヨロイナマズは環境に強い魚。我々日系人も、強くないとアマゾンで生きていけなかったから、ちょっと似てるんだ」。
 ベレンには、たくさんの日系人が住んでいる。日本と全く違う環境でイチから人生を切り開くのは大変だったらしい。おじさんも、レストランを始める前は苦労して牧場を開いたものの金融ショックで売り払ったり、何度も泥棒に入られたりしたそうだ。
 ヨロイナマズの味噌汁には、日系人の苦労や工夫がつまっている気がする。
(白石あづさ 編『世界のへんな肉』より)




No.2222『アジア道楽紀行』

 9月11日から、昨年5月の続きの信濃33観音札所の旅に出ましたが、やはり旅には旅の本を読みたいと思い、だいぶ前に買っておいたこの本など、数冊を持ち出しました。
 この本は文庫オリジナルだそうで、カラーのページもあり、それなりに楽しめました。
 この旅は、道楽紀行とあるように、ちょっと贅沢な旅を集めたもので、マレーシアを走るオリエント急行に乗ったり、台北の極上料理に舌鼓を打ったりするもので、私にはこのような旅もあるとは思いながら、あまり魅力は感じませんでした。
 とくに、お酒に関しては、まったく飲めないので、高級なワインの話しをされても猫に小判です。ある意味、自分ではしないような旅なので、世の中にはこのような旅をしている人もいるのかな、という程度の反応です。たとえば、豪華な船旅にしても、この本には「それにしても、暇をみつけて眺める海は格別だった。見渡す限りの水平線のどこにも陸がない眺め。あるいは徐々に睦地が見えてくる時の感慨。そして、船の横を併走するインド洋のイルカの群やら、船に驚いて飛び立つ大平洋の飛び魚。あるいは鯨まで。そして、水平線から登り、落ちていく朝日とタ日。それも、一日として同じ表情ということがない。単調で見飽きるかと思っていた海には、いくら見続けていても見飽きない表情があった。少々大げさかもしれないが、人生観を変えさせるような雄大にして何物にも代え難い美しさがあった。アジアの大陸、そして島々の変わりゆく表情も、日頃見慣れたものとは違って、新鮮な驚き、楽しさがあった。」とありました。
 私もコロナ禍で県外には行けず、庄内を旅したことがあります。このときは「全国旅行支援〜やまがた旅割キャンペーン〜」があり、だいぶ割引きになった上に地域クーポンが1泊につき2千円分がついたので、それで由良温泉八乙女に連泊し、お昼はクーポンを使って移転したばかりの「アル・ケッチァーノ」で食べました。たまたま奥田シェフがいて、お話しを伺いました。夕方には由良海岸から見える夕陽が2晩とも違う雰囲気でしばらく見つめていました。
 だから、日本にいても、あるいは近場であっても、いいところはたくさんあります。
 あまり無理をせず、お金をかけなくても、楽しいところはたくさんあります。要は、楽しむという気持ちがあればそれだけでいいとも思います。
 下に抜き書きしたのは、「ジャングルを歩く贅沢な施策の旅」に書いてあったものです。
 これはブルネイの首都バンダル・スリ・ブドワンから高速艇で1時間ほどのところにある熱帯雨林のなかにあるようです。これはアトラクションの一部ですが、私が同じボルネオのカリマンタンで経験した高所の吊橋は、高いところから熱帯雨林を観察するだけではなく、このような同じ高さの樹々で暮らすオランウータンのことを知るための施設でした。
 しかも金属製ではなく、ロープで作った吊橋のようなもので、揺れるたびにこわかったことを今でも覚えています。
(2023.9.13)

書名著者発行所発行日ISBN
アジア道楽紀行(ちくま文庫)森枝卓士筑摩書房1999年2月1日9784480034571

☆ Extract passages ☆

 30メートルはあるだろう、木林の本の、そのてっぺんよりも上に登ってしまう櫓である。もともと、熱帯雨林の植生であるとか、動物がどのくらいの高度のところに、どのように して暮らしているのかを研究するために作られたものだという。そんなことは、この際、どうでもいいのだけど、人一人やっと登っていけるくらいの幅の、金属製の櫓が2、30メートル離れて2本、建てられていて、その間を様々な高さで、やはり金属製のパイブで作った橋(これも一人歩ける程度の幅の)が結んでいる。橋の足場は金網。
 どんなに高く登っていっても、下が見えるのだ。一応、ワイヤーで幾重にも固定されているとはいっても、人が歩くと揺れる。風が吹けば揺れる。要するに、断崖絶壁に作られた、人一人歩ける幅の品り橋が、幾重にも重なっているようなもの、である。
(森枝卓士 編『アジア道楽紀行』より)




No.2221『写真の世紀』

 副題が「世界の見方を変えたナショナル ジオグラフィックの写真100」とあり、手に取っただけで読みたくなりました。というよりは、見たくなったというのが正しいかもしれません。
 不思議だったのは、ナショナル ジオグラフィックは最初からこのような写真をメインにしていたのではなく、「この雑誌の創刊号には、写真は1枚も使われていなかった。創刊号 は1888年に出版されたが、記事のメインに初めて写真が据えられたのは、1905年になってからだ。当時の編集長ギルバート・H・グロブナーが大胆にも、計11ページをチベツトの写真で埋め尽くしたのだ。これを見た理事の2人が、まるで「絵本」のようだとあきれて辞任したものの、世間にはこの新たな試みが熱狂をもって迎えられ、会員数は6倍に増加した。」そうです。
 たしかに、文字情報よりは写真の方がインパクトがあり、訴求力もありますが、今なら当然でしょうが、その当時は革新的だったようです。
 この本の中で、とても印象的だったのは、英領サウスサンドウィッチ諸島で2006年にマリア・ステンセルが撮った写真で、最初は波間に浮かぶペンギンかとも思ったのですが、それにしても巨大な波の上でのんびりと遊んでいるとは思えません。じつは、この付近に浮かぶ削れた氷山で休息するヒゲペンギンでした。ここには、0990年代に南極を熟知したジェームズ・ボンセ船長がこの島には300万羽ほど生息していることを確認していたそうです。それにしても、高波にもまれた氷山が丸みを帯びてその上に乗っている姿はちょっとびっくりです。
 それともう1枚を選ぶとすれば、マダガスカルのツィンギを登る写真で、2009年にスティーブン・アルバレスが島の西部にあるツィンギ・デ・ベマラ国立公園で撮ったそうです。このツィンギというのは石灰岩の岩山で、先がとがっていて、マダガスカル語でツィンギというのは「裸足では歩けない土地」という意味だそうです。
 そこを移動しているのは登山家のジョン・ベンソンです。ところが、NHKの放送で見たことがありますが、ここをキツネザルの仲間「デッケンシファカ」がいとも簡単に上り下りしていました。
 私も2019年10月にここに行ったことがありますが、とても急峻なところで、その近くまでも行けませんでした。ベレンティー保護区では、トゲだらけのアルオウディアに上りながらワオキツネザルがその葉を食べていました。おそらく、このキツネザルの仲間は、手足を守る何かがあるのではないかと思いました。
 下に抜き書きしたのは、ドローンでエベレストを360度の連続パノラマ写真を撮ったレオン・オズタークについてです。
 この写真は、中国側から2019年に撮ったそうですが、ドローンをこのような上空からしかもパノラマで撮るというのは至難のわざです。おそらく、このようなエベレストから俯瞰するように見るのは、登らなければできないことですから、まさに快挙です。この写真は、26枚の写真をパズルのようにつなぎ合わせて1枚にしたそうです。
 私もネパール側から飛行機でエベレストを見たことがありますが、それを思い出しました。
(2023.9.10)

書名著者発行所発行日ISBN
写真の世紀(ナショナル ジオグラフィック 別冊)川端麻里子 編日経BPマーケティング2023年8月11日9784863135833

☆ Extract passages ☆

 2019年5月、レナン・オズタークはエベレスとの北面、頂上まで約1500メートルの場所に立っていた。誰も試したことのない方法でエベレストを撮影するためだ。この8ヵ月間は準備に捧げた。気圧を調節できる施設でドローンをテストし、許可を取り付け、通常は飛行が禁止されている高度でドローンを飛ばせるよう、機体の改造も行った。すべてはこの日のためだった。日標は、ドローンを1800m上空に飛ばし、1分間のホバリング中に360度のショットを撮影し、バッテリーが切れる前に帰還させること。テスト飛行では一度も成功しなかったし、今日も不測の事態が起きるかもしれない。フォトエディターのアン・ファラーは、実際の写真を確認するまでのオズタークがいかに緊張していたかを振り返る。彼は撮影された写真を見た途端に興奮し、これまで大半の人が直接見られなかったような景色を手に入れたことに感動していたという。
(川端麻里子 編『写真の世紀』より)




No.2220『宮本常一』

 この本の副題は「歴史は庶民がつくる」で、今を生きる思想として宮本常一を取りあげています。
 たしかに、宮本常一は民俗学者としては異色で、私も『忘れられた日本人』や『民俗学の旅』などを読み、またNo.2188『旅芸人のいた風景』では宮本常一のような目線で書いていいるのを感じました。やはり、「ふるさと」という起点に立つことが大切で、「ふるさと」というのは、「宮本に物の見方、考え方、そして行動の仕方を教えてくれた。自分を育てた、自分の深くかかわりあっている世界を、きめこまかに見ることにより、さまざまな未解決の問題を見つけ、それを拡大して考えることもできるようになる。ふるさとをもった ことにより、自分のような人間も育ってきたのだという。宮本にとってふるさとは、アイデンティティの根拠であり、学問、方法、実践の起点でもあるのだ。」と書いています。
 この「ふるさと」を意識するということは、民俗学者としては大切ですし、ある意味、一般の人たちにも大切なアイデンティティ、つまり自分が自分であること、そしてそうした自分が、他の人たちや社会からどのように認められているかという感覚です。
 まさに、民俗学というのは、昔の古い話をほじくり出すものではなく、自分が依って立つところを明確にすることでもあります。
 宮本常一を支えた渋沢敬三は、宮本に「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ」と話したと「民俗学の旅」に出ているそうです。
 たしかに、このことは、宮本の思想のある性格を如実に表わすもので、これをしっかりと守ったからこそ民俗学者として大成したのかもしれません。
 私も植物を訪ねて辺境の地に行くことがありますが、本や資料を見ただけではその真の姿はわからず、やはり自分の目で見てみないことにはわからないことだらけです。そして、こんなところで育っているなら、このような栽培をすればいいのかもしれないと、いろいろとわかってきます。だから、フィールドワークというのは大切ですが、今の時代はすぐに結果を出さないと認めてもらえないから、時間をかけてフィールドワークができないと聞きます。それでは、本当のことが見えてきません。
 下に抜き書きしたのは、第4章「民俗社会の叡智」のなかに書いてあったものです。
 私が住む地区にも、中学校が閉校になり、その理科室を残し、地区の民具館として活用してきました。それらを見ると、昔の生活が偲ばれ、どのようにして使ってきたのかという生活まで考えさせられます。
 さらに、最近になって、小野川温泉で長く食堂だったところが使われなくなり、地区の有志が集まり、民具を集めて展示するスペースとして活用し初めました。
 これらの活動をみると、民具そのものだけでなく、それを誰が作りどのように使われ、改良されていったかなど、関心が次々と広がっていきます。
(2023.9.8)

書名著者発行所発行日ISBN
宮本常一(講談社現代新書)畑中章宏講談社2023年5月20日9784065317839

☆ Extract passages ☆

 民具を研究対象とすることにより、民俗学がなおざりにしてきた民衆の日常生活や民具の製作技術とともに、その民具の使用法も技術の問題になってくる。人が民具とどうかかわりあったか、新しい民具が生活をどう変えていったかを見なければならない。
 民具の形体や質の変化、製作法の変化を隣接する地域ごとに比較することで、根幹の技術がどういうものであるか、それがどう変わっていつたか、なぜ変わらなければならなかったかをも明らかにしていくことができる。
(畑中章宏 著『宮本常一』より)




No.2219『「利他」の生物学』

 たまたまですが、前回の『キーウの遠い空』も中央公論新社で、しかも同じ日に発行された本です。この本の副題は「適者生存を超える進化のドラマ」で、利他だからこそ生き残れるとしたら、まさに進化のドラマです。
 このような利他についての本は、植物でも動物関連でも読んだことがあり、とても興味深いものです。自分以外の為になるとはいえ、自分にとっても益するものがあるから成り立つものかもしれないと思いながら読みました。
 この利他に関するものとして、「利他性に関わるオキシトシンは、授乳だけでなく、子供やほかの動物の世話をすることによっても分泌されます。「育てる行為」は面倒を見る側にも幸福感をもたらすのです。さらに、見ず知らずの相手に対する親切行為でもオキシトシンが分泌されることが分かってきました。親切行為によってオキシトシンが分泌され、ストレスや鬱・不安を克服することができるといいます。間接的な親切行為である寄付行為にも同様な効果があるようです。」と書いてあり、ちょっと身も蓋もないようですが、それが真実のようです。
 だから、親切をしたり、されたりすることはオキシトシンが分泌され、気持ちがよくなります。あるいは、親切な行為をすることによってオキシトシンというお駄賃があるのかもしれません。そして、大事なことは、その親切な行為は「それを見たり、されたりすることによって他の人にも伝染」することです。この共感することによって、より良い人間関係が築かれ仲間意識が高まり、そして強い絆が生まれます。
 おそらく、ヒトにとっての利他の行為は、とても大切ですし、他の生きものたちにとっても有益な関係ではないかと思います。
 たとえば、アリとアブラムシとの関係は少しは知っていましたが、アブラムシがアリの助けで身を守っていることのお返しに甘露を与えているという単純なことではなさそうです。実は、「一見すると、相利共生のようにみえますが、産生される甘露がアリにとって必要量以上になれば、アリは余分なアブラムシを捕食してしまいます。たとえば、トビイロケアリは、甘露を採取すると何らかの痕跡をアブラムシに残します。トビイロケアリは、自分たちがつけた痕跡のないアブラムシを捕食することによって、アブラムシ集団の適正サイズを決めています。まるで、牧牛に焼印を押すようなことをしているのです。これらのことから、アリとアブラムシの関係は単なる共生ではなく、アリがアブラムシを放牧しているように見えます。」と書いてあり、すごい話しだと思いました。
 それでも、マツタケが松の木に一方的に寄生して養分を奪っているのではなく、マツタケを取り除くと宿主の松の木の生長が阻害されるといいます。おそらく、外生菌根菌として共生しているのではないかといいます。だから、利他の関係も、深く考察をすると、なかなか難しいようです。
 下に抜き書きしたのは、第1章「生命の特徴とは?」のなかに書いてあったものです。
 今回の新型コロナウイルス感染症もそうですが、このようなウイルスとの闘いはヒトが生まれたときからあり、まさに進化史そのものです。この話しを聞き、ヒトは進化に必要なものは何でも使うようです。それがたとえ残骸となったウイルスのDNA配列であっても、それが残っていることに何か意味があるのかもしれません。
 たとえば、ヒトの祖先である哺乳類は、2億年前までは子を卵で産んでいのだそうです。それが、大型爬虫類が絶滅したあとに胎生になり、胎盤が形成されるようになったそうですが、そのときもウイルス由来の遺伝子が利用されたとこの本には書いてありました。だとすれば、新型コロナウイルスも、いずれはなんらかの形で人間の生存に必要なものになるかもしれないのです。
(2023.9.5)

書名著者発行所発行日ISBN
「利他」の生物学(中公新書)鈴木正彦・末光隆志中央公論新社2023年7月25日9784121027634

☆ Extract passages ☆

ゲノム情報を調べてみると、過去に挿入されたウイルスの残骸ともいうべきDNA配列が、ヒトのゲノムDNAのなかに残されていることが明らかになっているのです。それもなんと、ゲノムの9パーセントにも及ぶ量です。ヒトゲノムのわずか1.5パーセントがタンパク質を作る遺伝情報ですが、それよりもはるかに多いことになります。ただ、この残骸のDNAからはもはやゥィルスは形成されないので、人間に悪さをすることはありません。
(鈴木正彦・末光隆志 著『「利他」の生物学』より)




No.2218『キーウの遠い空』

 この本を見たとき、あの戦禍のなかでウクライナの人たちは何を考えているのか、と思いました。副題は「戦争の中のウクライナ人」ですから、なおさらです。
 そこで、立ち読みをすると、日本のメディアからの取材でも、「今の状況についてどう思いますか?」などという質問ばかりで、心のなかにもう一度傷を負うような感じだったといいます。たしかに、マスコミ等の取材で、台風で大きな被害を受けた方たちに対しても、「今の状況についてどう思いますか?」というような質問をしているのをみると、なぜかいたたまれない気持ちになります。ある意味、多くの方々に知ってほしいと思いながら、何度も思い出させてしまいごめんなさい、という気持ちにもなります。
 これらを「はじめに」のなかで読み、読むことにしました。しかも、ウクライナ人が自ら書いているわけですから、何をさておいても読みたいと思いました。
 なぜ、2022年2月24日に突然ロシアがウクライナに侵攻をしたのかと不思議に思っていたのですが、ウクライナの人たちも一部のヨーロッパの人たちもロシアが国境を越えてくると以前から心配をしていたようです。この本のなかで、著者のロシアの友人にブチャの虐殺の出来事を1年後に話したそうですが、そのロシアの友人は、「あなたが言っていることに疑いはない。戦争とはこんなものでしょう。人間の文化的な外面が剥がれて、動物的な内面を見せる。あなたと私みたいなインテリとは違って、どちらの国でも田舎者はより動物的な面を出しやすい。そのような人がマシンガンを手にすればこのようなことが起きる。野蛮人はずっと我々のそばにいるので、自分の人間性を保つのが大事だ。残念だが今のところ他にできることはない。気をつけてね」。」と言われたそうです。
 この話しを聞いて、私はただただビックリしました。もし、人間というのは動物的な内面を見せるとすれば、だからこそ、そこを理性がしっかりとフォローすべきだし、だからこそ戦争という非人道的なことは絶対にしてはならないのです。今、ロシアがやっていることを、ロシア人がそのまま認めてしまうから、何度も同じようなことが起きてしまうのです。
 この話しを聞いて、私の近くにも第二次世界大戦後にロシアの捕虜になった方がいて、何度か話しを聞いたことがありますが、まさにそれと同じことを今もやっているわけです。著者は、「正直に言って四月初めのこの時期、偉そうな哲学的議論ではなく、ただ謝罪してほしかったし、また慰めてほしかったが、叶わなかった。」といいます。これでは、友人とはいえないし、友人に戻ることもあり得ないでしょう。
 だから、戦争は絶対にしてはならないし、ほとんどの国民がそう思っているはずですが、ほんの一握りの人が今でも覇権主義に陥るのは、まさに動物的な性格だからなのかもしれません。
 そういえば、ウクライナの国旗の意味は知らなかったのですが、「ウクライナが独立した1991年以降、黄色い麦畑と青空の二色旗が国旗となった。実はそれ以前から使われていたのだけれど、ソ連時代には持っているだけで当局から危険視されていた。黄色い麦畑と青空はウクライナの田舎で夏によく日にする風景を表現したもので、心を込めて手入れをする農地への思いを表しているのだが、「民族主義者」の象徴と見なされたからだ。」と書いています。
 その広大な心を込めて手入れされてきた麦畑が侵略されて砲弾であちこち穴があいている風景をテレビなどでよく見ますが、本当に残酷なことです。しかも、それらを海外に運び出せないのですから、ますますもって非情なことです。
 下に抜き書きしたのは、第4章「失われたもの、得られたもの」のなかに書いてあった言葉です。
 もちろん、戦争中だからといって仕事をしないわけにもいかず、停電や空襲警報が鳴り響くなかでも生きていかなければなりません。それが、いかに過酷な環境なのかとわかりますが、ウクライナの人たちは生活の質を少しでも変えないようなさまざまな工夫をしています。
 この本を読んでみて、ウクライナ国民の大変さとしぶとさを同時に感じました。もし、機会があれば、多くの人たちに読んでもらいたいと思います。
(2023.9.1)

書名著者発行所発行日ISBN
キーウの遠い空オリガ・ホメンコ中央公論新社2023年7月25日9784120056758

☆ Extract passages ☆

 戦争中に笑ってはならない、休んではならない、また旅行などを楽しんではならないと思っても、それは誰にもプラスにならないし、戦争にも勝てないと最近よく言われている。まずは自分の心身をしっかリメンテナンスする必要がある。戦争という日常だからこそ、日々の生活を充実させるべきなのだ。
 もしも罪悪感が消えない場合は、自分よりも大変な状況に置かれている人に対して寄付をするのがよいだろう。ウクライナでは周囲にそのような人がたくさんいる。軍隊に志願した同僚、友人の息子、知り合いの夫など。また一人暮らしの高齢者、障害を抱えている人も楽な状況ではないだろう。
 戦争という日常を忘れるために、場所や空間を少しでも変えることも必要だ。
(オリガ・ホメンコ 著『キーウの遠い空』より)




No.2217『教養としての教養』

 題名の『教養としての教養』というのが気になり、読むことにしました。教養のために読むというのではなく、バラエティプロデューサーの仕事をしている著者なら、教養というのをどのようにとらえているのかというのが気になったのです。
 副題は「広くて、そこそこ深い」というのも、どこまで広くて深いのかを見てみたいと思いました。もともと教養というのは、人それぞれで、私はあまり重きを置いていません。あればそれに越したことはありませんが、なければないでそれほど不自由しないと思っています。
 おそらく、つい最近読んだ牧野富太郎や南方熊楠などは、教養人かといわれれば、そうではないと私は思います。教養というよりは、自分の知りたいことを突き詰めていった人という印象のほうが強いようです。そういう意味では、著者が50代の所信表明で、「選ばないという心地よさ」というのも、流れに逆らわないということのようです。
 この本に出てくるなかで、びっくりしたのは、「軍人と民間人の戦死割合」です。どこから引用したものかは書いてありませんでしたが、今のウクライナとロシアの戦争を見ても、納得する数字でした。ここに書き出しますと、
・第一次世界大戦=軍95%民5%
・第二次世界大戦=軍52%民48%
・朝鮮戦争=軍16%民84%
・ベトナム戦争=軍5%民95%
・イラク戦争=軍3%民97%
 つまり、近代戦で新しい兵器を使えば使うほど、民間人の犠牲者は増えるということです。さらに、AIを使った無人兵器、たとえばドローンなどを使えば、まさにさらに民間人の犠牲者は増えそうで、この数字を見れば、やはり戦争は絶対にしてはならないと思います。
 そういえば、このAIと人間の関係を、この本のなかで的確に指摘しています。それは、「AIは好きも嫌いもなく、快も不快もない世界で動いています。ですから、指示された作業をただ愚直に(誠実に?)正確に、処理していくだけです。AIが「〇○がしたい」という動機を持つこともないし、自発的に行動することもありません。言い換えれば、目的のないことや効率につながらないような「無駄なこと」はしません。この「無駄なこと」とは「遊び」と言い換えてもいいと思います。AIには感情がないからこそ「遊び」がないのです。ところが人間には好き嫌いの「感情」があり、自分が好きなことなら目的がなくても、非効率的で非合理的なことでもやってしまいます。人間は遊ぶ生き物であ,、好きならそれが非効率的だろうと無駄なことだろうと、あえてやってしまいます。それがAIには真似のできない領域なんです。」と書いてありました。
 つまり、AIはあらかじめフレームで囲い、範囲を指定しないと先には進めないということです。これは大きな足かせです。でも、使いようによっては、AIに取って代わられる仕事もありますから、上手に棲み分けすることが大切になりそうです。
 下に抜き書きしたのは、第1章「教養としての歴史」に書いてありました。
 私などは、どうもアプリを更新しないとなんとなく落ち着かないほうですが、プリンターの更新などを良く読むと、「今現在、順調に動いているなら更新しなくてもいいです」と書いてあります。だとすれば、無理してバージョンアップしなくてもよさそうです。
 でも、更新したほうが快適に動きそうな気がするのは、私だけではなさそうです。
(2023.8.29)

書名著者発行所発行日ISBN
教養としての教養角田陽一郎クロスメディア・パブリッシング2023年5月21日9784295408338

☆ Extract passages ☆

 一方で自分というアプリを旧態依然で頑なにずーっと維持していれば、世の中の今のOSでは動かなくなるかもしれないけれど、やがてビンテージという価値になって、むしろ世の 中のOSの方がそのアプリを動せるように合わせてくるかもしれない。エミュレーターがつくられるかもしれない。そんな感じで激変の時代だからこそ、むしろ確固たる"自分アプリ"としてそのままでいるって選択もあるのかもしれません。
 自分も若い時分は、バージョンアツプを常日頃心がけていたし、バラエティプロデユーサーとしては、そのバージョンアップが生きるための必須の条件でした。
 でもこのコロナ篭りにより、自分の中でさらに自分の考えも変わって、自分は自分のままのそのままのバージョンでいってみようとかとも考えています。……
 まあ、自分アプリが必要とされなくなったらそれまでのことですし、そこをジタバタ抗っている方が、世界OSに無理くり合わせるよりもむしろ楽しいかな、と思っているのですが。
(角田陽一郎 著『教養としての教養』より)




No.2216『未完の天才 南方熊楠』

 今年になってから牧野富太郎の本をいろいろと読んでいますが、南方熊楠のことも気になり、たまたまこの本を見つけ読むことにしました。
 2018年2月21日に上野の科博で「南方熊楠展」を見て、そのときに「ネイチャー」誌に掲載された最初の論文や 十二支考「鼠」の原稿、さらには「和漢三才図会」の抜書など、そして粘菌標本などもあり、すごく印象に残っています。特に「南方二書」は神社合祀や社寺林の大切さなど、文字の細かさだけでなく、とても興味を引きました。
 この「南方二書」については、この本でも触れ、「熊楠が自身のエコロジー思想を展開した文章として有名で、もともと東大の植物学者の松村任三に宛てて書かれたものの、熊楠が松村と面識がなく、柳田国男に仲介を頼んだところ、柳田が独断で小冊子として出版し、各方面の有力者に配布したものであった。熊楠の手による原本は長らく所在不明だったが、柳田の秘書的な役割を務めた鎌田久子によって2004年に発見され、南方熊楠邸保存顕彰会(現在の南方熊楠顕彰館)に寄贈された。冒頭部には、柳田からの印刷所への指示書が貼り付けられ、つづいて熊楠の直筆部分となる。柳田がいなければ、この文章が広く知られることもなかったわけで、『南方二書』は熊楠と柳田の「合作」と呼べるかもしれない。」と書いています。
 また、科博の「南方熊楠展」には、牧野富太郎と同じような胴乱なども展示されていて、山野に入り込んで採取していた様子が感じられ、この年の4月には中国雲南省、そして9月20日から10月3日まではインドケララ州へと植物を訪ね歩いたことなども思い出しました。
 しかし、熊楠から牧野に植物標本を送ったこともあり、友好的なつき合いがあったようですが、熊楠が亡くなった翌年の文藝春秋2月号に「南方熊楠翁の事ども」のなかに、「実は同君は大なる文学者でこそあったが、決して大なる植物学者ではなかった」と述べていた。なぜかといえば、「植物ことに粘菌については、それはかなり研究せられた事はあったようだが、しからばそれについて刊行せられた一の成書かあるいは論文があるかと言うと、私は全くそれが存在しているかを知らない」、また新種をいくつか発見していたようだが、「それを堂々と正式に欧文をもって公刊発表したかと言うと、 一向にそんな事はなかったようだ」という。すなわち、研究成果を論文として発表しておらず、新種を発見しても報告を怠っていたから、植物学者として認めるわけにいかないというのである。」と、ちょっと厳しい論調で書いているそうです。
 これを読むと、NHKの連続テレビ小説「らんまん」のなかで、槙野万太郎と東大の田邉教授との確執などが思い出され、牧野富太郎とドラマの主人公をいっしょにはできないでしょうが、つい考えてしまいました。
 よく、南方熊楠はとても記憶力がよかったという話しも残っていますが、娘の文枝さんによると、「父はいつも私どもに、『本を五度読み返すならば代りに三度写筆せよ、そして毎日必ず日記を怠るな』と教えてくれました。父は幼少の頃からすべて写筆と日記をつけることにより記憶力を養ったようです」と話しています。たしかに、昔から書いて覚えるとはいいますが、それを実践していたのが南方熊楠です。
 下に抜き書きしたのは、第5章「神社合祀反対運動と「エコロジーの先駆者」」に書いてあったものです。
 今でこそ、エコロジーという考え方はほとんどの人が知ってはいますが、その当時はなかなか浸透せず、熊楠自身はわずか数年でエコロジーから手を引いてしまいます。その理由を、著者は、「父祖の地の産土神である大山神社(現在の日高川町)を守れなかった挫折が、熊楠を社会運動から遠ざけたのであった」と書いています。もしエコロジー、つまり生態学がもっと早く広まっていれば、日本の自然環境も今よりはだいぶ良かったのではないかと思います。
(2023.8.25)

書名著者発行所発行日ISBN
未完の天才 南方熊楠(講談社現代新書)志村真幸講談社2023年6月20日9784065326367

☆ Extract passages ☆

 近年、熊楠は「エコロジーの先駆者」として有名になっている。本章で扱う神社合祀反対運動を通して神社や「鎮守の森」を守り、巨樹の伐採を防ぎ、紀南や熊野の自然を現在まで保存するのに貢献した。その際に木々、花々、シダ植物、キノコ、動物、昆虫、土壌などを総合的に守らなければならないと訴えたため、エコロジー、すなわち生態学を日本にもちこみ、実践した最初の人物と位置づけられるのである。
(志村真幸 著『未完の天才 南方熊楠』より)




No.2215『雑種』

 この本も「世界のショートセレクション」の1冊で、前回のアーネスト・トンプソン・シートン 著『森の物語』がおもしろかったので、こちらも読みました。
 ただ、雑種というのが先に目に入り、勝手に植物の雑種の話しだと勘違いし、読み始めてから作家名を見たら、フランツ・カフカでした。でも、勘違いでもしないと、カフカを読むことはなかったと思います。
 カフカは「変身」を読みましたが、安部公房の「砂の女」が出てからそれを読みたくなり、今も「孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである」とか、「負けたと思ったときから、敗北がはじまるのだ」というフレーズを覚えています。
 でも、カフカはあまり好きではなく、あえて読みたいとは思いませんが、この『雑種』のなかの文章では、「断食芸人」はおもしろかったです。このほかに、「出発」、「夢」、「判決 ある物語」、「皇帝の使者」、「田舎医者」、「独楽」、「家長の気がかり」、「流刑地にて」、「館を防衛する光景」、「橋」、「雑種」、「断食芸人」、「ハゲタカ」、「掟の前」など15編です。もともとカフカは短編や中編が多く、亡くなるまでに7冊の本を出しています。
 この本に収録されている「流刑地にて」と 「田舎医者」、そして「断食芸人」は本の題名にもなっていますから、読み応えはありました。でも、おもしろいかといわれればちょっと複雑な気持ちで、奇妙で寓話的な物語ではないかと感じました。
 では、なぜ「断食芸人」がおもしろいと感じたのかというと、この本はベルリンのディ・シュミーデ社より192年に出版されたそうですが、断食そのものが芸になるのだろうかと思ったからです。でも、考えようによっては、今でも反対運動で断食が報道されることもあるので、ある程度の大衆受けはするかもしれません。だだ、それを芸として生活の糧にできるのかといえば、また違います。アピールはできても、エンターテイメントではないと思います。その当時でさえ、「断食芸人」の初版は3千部だったそうですが、その大部分が売れ残ったといわれています。
 私は「興行主は、断食期間を最長四十日とさだめていた。たとえ世界的な大都市での興行でも、それ以上断食させることはなかった。それには歴としたわけがあった。四十日くらいなら、都会人の関心を宣伝であおることができる。これは経験則だ。ところが、それをすぎると人気に陰りが見えはじめ、客足がみるみる遠のく。もちろん都会と田舎では多少のちがいがあったが、基本的に四十日がやめる潮時だった。」と書いてあるところが、いかにも芸人のように思いました。しかも、その40日目には、「花で飾られた檻の扉がひらかれる。熱狂した観衆が円形劇場をうめつくし、軍楽隊が演奏をする。医者がふたり檻の身体検査をすると、その結果をメガホンで会場に知らせる。つづいて抽選でえらばれた若い女性がふたり、嬉々として登場し、断食芸人を檻からだして、二、三段ほどの階段を下りる。そこには小さな食卓があり、えらびぬかれた病人食がならべられている。」などと書いてあり、これなどはやはりエンターテイメントです。
 下に抜き書きしたのは、「訳者あとがき」に書いてあったものです。
 カフカは、どちらかというと生前より死後に多くの影響を残したようで、特にその夢と現実が入り混じったような表現をシュルレアリスムの先駆者と見なす作家もいるほどです。
 さらにその後、実存主義文学の先駆者として評価されたり、読み方によってはいかようにも読み取れるような気がします。私も久しぶりに読んでみて、機会があればある程度の代表作だけでも読んでみたいと思いました。
(2023.8.22)

書名著者発行所発行日ISBN
雑種フランツ・カフカ 著、酒寄進一 訳理論社2018年8月9784652202470

☆ Extract passages ☆

 生きている間に発表したのは作品集や短編・中編が七冊だけ。長編も知られていますが、すべて未完です。それでも読みつがれている不思議な作家です。その魅力はなんでしょう。カフカの作品は不条理な文学として知られています。不条理というのは、日頃規範にしている道理が通らないことを意味します。生きづらい不条理のその先には「絶望」という言葉がちらつきますが、あまりに絶学的だと笑うしかなくなるときがありませんか。カフカはそういうつきぬけ方をした作家といえます。
(フランツ・カフカ 著『雑種』より)




No.2214『森の物語』

 アーネスト・トンプソン・シートンといえば、おそらく知らない人はいないと思いますが、彼の「シートン動物記」は「ファーブル昆虫記」と並んで小学校の図書室には必ず収まっているはずです。しかし、どちらも児童書というよりは、大人が読んでも楽しい本だと私は思います。
 この本は、「世界のショートセレクション」の1冊で、子どもたちも読めるように漢字にはルビがふってありました。
 アーネスト・トンプソン・シートンは、動物学者というよりは博物学者で、自然界の動物を徹底的に調査し記録し、そこを学びの場にしていたと思います。
 有名な 「シートン動物記」は、『Wild Animals I have Known(わたしが知っている野生動物)』を始めとする動物物語の55編をまとめたもので、1930年代に日本語に翻訳して出版したときに「シートン動物記」と名づけたものです。ということは、シートンも海外の人たちもそれぞれの短編で読んでいます。
 この本には、「母さんコガモと陸路の旅」、「森の物語」、「開拓者の生活」、「飼われた動物の野生」、「ロボ クルンパのオオカミ王」の5編ですが、2番の「森の物語」が本の題名に選ばれています。
 でも、この話しの主役は植物が多く、後ろに出てくるウサギだけが動物で、少なくとも動物記という題名はつけられず、やはり「森の生活」です。それでも、おもしろい話しが載っていて、たのしく読めます。
 この本を読んでいる途中で孫娘が部屋に来て、表紙の絵を見て、ヨシタケシンスケさんのイラストっていいよね、といいました。たしかに、よく見ると、ほのぼのとしていて絵本の絵みたいです。しかもこの本は、図書館で借りてきたものですが、背表紙に「ティーンズ」と書かれたシールが貼ってあり、夏休みなので本棚に並べていたみたいです。だから、孫娘にも、この本はおもしろいから読んでみたらと薦めました。
 「森の物語」のなかの「すっぱい七姉妹」に、カタバミの話しが載っていました。日本では、なかなかここまでの話しはないので、ちょっと長いのですが、ここに引用しました。「カタバミは「すっばい七姉妹」ともよばれる。古くからの医者の考え方によると、花開いた七人のうちの五人は黄色い目、ひとりは紫色の目、そしてひとりは赤いすじのある白い目なのだ。もっとも、目の色は種のちがいではなく、あくまでもひとつの家族の個性のちがいというべきだろう。「すっばい七姉妹」のラテン語名は「酢」という意味の言葉だ。ギリシャ語名もまた、酸の意味だ。英名の「Sorrel」も「ちょっぴりすっぱい草」という意味だ。この植物をよぶどの名前も、カタバミに共通したすっぱい性質に関係している、とわかる。あなたも、葉を一枚つまんで口にしてみれば、これらの命名がよくカタバミの性質をとらえている、ぴったりの名前と思うにちがいない。実際、すっぱさの主成分はシュウ酸で、化学者がカタバミから発見した酸である。薬剤師がカタバミの仲間の植物から、すっぱい「レモンの結晶」をつくる理由もそこにある。フランス人は「すっぱい七姉妹」を使って、すっぱいスープをつくる。このように、人はカタバミの味のよさをじょうずに活用している。そして、七姉妹はあまくはなくても、森の飛びぬけて美しい花である。」と書いています。
 カタバミの特徴をうまくとらえて、生活習慣とも結びつけ、子どもたちが興味を引くような文章です。
 下に抜き書きしたのは、「ロボ クルンパのオオカミ王」の最後の言葉です。
 日本にも、昔はニホンオオカミがいましたが、今は絶滅してしまいました。だから、オオカミの怖さはわかりませんが、だいぶ前にネパールのルンビニに行った時に、ネパールの友人からオオカミがいると教えられたことがありました。たしかに、太陽が沈む西の方角に動くものが見えました。ただ、遠くて、はっきりとは認識できませんでしたが、今でもまちがいなくオオカミだったと思っています。
 この「ロボ クルンパのオオカミ王」の話しを読んで、思い出しました。
(2023.8.19)

書名著者発行所発行日ISBN
森の物語アーネスト・トンプソン・シートン 著、今泉吉晴 訳理論社2020年1月9784652203361

☆ Extract passages ☆

 力を失ったライオン、自由をうばわれたワシ、愛するものをなくしたハトは、かならず死ぬ、といわれている。失意と絶望のゆえに心がやぶれるからだ。
 そうであるなら、それら三つの苦難を一度にしょいこんだ悲劇に、この残酷な急襲者、ロボにしても、なお生きつづけるとだれにいえるだろうか。
 わたしが知っているのは、しらじらとあけはじめた朝に、ロボはあいかわらず静かに、冷徹に、胸を地面に接してふせっていたものの、ただ彼の魂が体をぬけでていた、という事実である――。
 わが敬愛する真の支配者、王たるオールド・ロボは死んでいた。
(アーネスト・トンプソン・シートン 著『森の物語』より)




No.2213『自分がおじいさんになるということ』

 たしかに、自分もおじいさんになるとはわかっていましたが、なかなか実感は湧きませんでした。しかし、孫たちに「じいちゃん」と呼ばれているうちに、自然とじいちゃんになったような気がします。つまり、自分でじいちゃんになったわけではなく、まわりからじいちゃんにされてしまったかのようです。
 だからといって、じいちゃんがイヤだというわけではなく、ちょっと疲れると、疲れたから休むといえるし、急にどこかへ行きたいといえば、行くことができるし、ある意味、自分の時間が増えたような感じがします。それと、あまり遠慮することがなくなり、自分の素のままで過ごせるようになったとも思います。著者は、読書が好きだと書いていますが、「昔に比べると、読み方がまったく自由になった気がする。あれは読まねばいけないなといった余計な動機がなくなり、ほんとうに読みたい本だけ読むようになったのである。そんなこと、あたりまえではないか、といわれるだろうが、以前は義務としての読書みたいな意識もあったのである。大していろんなことをやってきたわけではないが、いくつかのことはしてきたし、やってみようと思ってやれなかつたことや、途中でやめてしまったものや、あれはもう一回やってみてもいいなと思うものなどがあるが、この五十年間、一貫してつづいいるのは読書だけである。この先もこのままいきそうである。」というのが、よくわかります。
 私の場合は中学生のころから本を読み始め、今も読書量はあまり落ちていないようですが、著者と同じように、昔はこの本は仕事に役立ちそうだとか、将来のためになりそうだとか、純粋な気持ちで本を選んではいなかったと思います。
 でも今は、誰に憚ることもなく気ままに本を選んでいると、図書館から借りてきた本などは、途中でおもしろくないと読まなくなったりもいます。だって、楽しみで読んでいるわけですから、楽しくなければやめてもいいわけです。おそらく、この気持ちはこの本の著者とほとんど同じではないかと思います。
 また、ひとり旅はいいとも書いてますが、「ひとり旅がいいのは、なにを決めるにも揉めることがないことである。なにしろひとりだ。だれに気兼ねをすることもない。どういう計画を立て、どこに行き、なにを食べ、いつ休息をとるか、即断即決。どこに泊まって、何時に起き、何時に寝るかも、自分の自由である。ひとり旅は、コロナ禍にあっても、最も相応しい旅のかたちである。だれと話すことも、騒ぐこともない。ばか笑いもなく、新幹線の席を回すこともしない。」なども、まさにその通りです。
 この新型コロナウイルス感染症の拡がりのなかで、今までひとり旅では泊まれなかった旅館やレストランなどでも、まさに「お一人様」でも気楽に利用できます。だって、出歩く人がいないわけですから、一人は効率が悪いとかいえない状況が続きました。しかも、旅館やホテル、さらには電車などでも、全国旅行支援のGoToトラベルなどがあり、とても安く旅行もできました。私の場合は、秋田三十三観音を巡ったとき、1泊6千円のホテルでは半額の3千円で泊まれたし、その他に2千円の地域クーポンがもらえ、実質1千円で泊まってきたようなものです。たしか5泊でしたから、すごい割引きになるだけでなく、ホテル内もガラガラでゆっくりとできました。
 下に抜き書きしたのは、この本の「まえがき」に書いてあったものですが、たしかに「生きているだけで楽しい」というのはよくわかります。
 著者は、もともと花鳥風月に興味はなかったといいますが、歳を重ねてくるとそのようなことに意識を向けるようになります。私はもともと自然志向が強かったこともあり、自然の微妙な変化を楽しんできましたし、今でも自然の草花を撮るのが好きで、ほぼ毎日、カメラを持って散歩に出かけます。出歩くと足腰は丈夫になりますし、お腹が空いて、何を食べてもおいしく感じられます。
(2023.8.16)

書名著者発行所発行日ISBN
自分がおじいさんになるということP古浩爾草思社2021年12月23日9784794225542

☆ Extract passages ☆

……たとえば、心地いい風や木漏れ日、真っ赤な夕日や虫の音に「生きていることの楽しさ」を感じるという感覚になる。流れる小川、咲き乱れる花、あるいはひっそうと咲く花や、しとしとと降る小雨などに感覚が活き活きと対応することができれば、ごく自然に「生きていることはいいことだ」と実感することができる。
 このように感じることができるなら、年寄りにとってはこの上もなくいいことである。もはや、なにか楽しいことはないか、やりがいのあることはないか、どうやって生きたらいいか、などと考えたり、焦ったりすることは一切必要なくなるからである。
(P古浩爾 著『自分がおじいさんになるということ』より)




No.2212『持続可能な発展の話』

 SDGsもそうですが、持続可能な発展というのはあるのか、と思っています。どこかで折り合いを付けないとゴミ問題も、温暖化も水資源も差し迫ってからでは遅すぎます。
 常々、そう思っているので、この本を見つけるとすぐに読みたくなりました。
 たしかに水は大切な資源ですが、今年のように豪雨による災害が増えれば、大変です。一瞬にして生命や財産を奪い、生活や産業基盤さえ破壊してしまいます。とくに日本の場合は、昔から治水が政治の大切な役目でした。
 環境と経済を考える場合に、経済は国内総生産(GDP)という指標を使いますが、その例としてこの本では、「例えばマイカー用のガソリンを購入すればGDP上プラスにカウントされます。しかし、そのガソリンの消費によって引き起こされる地球温暖化のマイナス影響分は、GDP上ではカウントされません。GDPとはそもそもそういう指標なのだから仕方ない、と言ってしまえばそれまでですが、そんなGDPを追い求めた先に待っているのは環境破壊の未来です。」と書いてあり、とてもわかりやすいと思いました。
 たしかに、GDPという指標だけでは、富裕層と貧困層の格差の問題とか、どの程度の社会的平等が確保されているかという問題は見えてきません。また、今回の新型コロナウイルス感染症もそうですが、人間と自然の関わりの中から感染し広がってきたようです。このように「動物由来感染症」を「ズーノーシス」というそうですが、このことに関して「ズーノーシスの発生リスク・感染リスクを高める要因が、自然の側というより、むしろ人間社会の側にあるという点です。ズーノーシスの発生リスクを高めている要因は、熱帯林を中心とする自然生態系の開発と破壊、それに発展途上国の人口急増にともなう開発圧の高まりです。開発の柱である農地開発や鉱物資源開発が拡大し、人間と野生生物の接触の機会も増えた結果、ウイルスが偶発的に人間社会に持ち込まれるリスクが増大しているのです。加えて家畜生産の拡大にともない、ウイルスの媒介役となる家畜・家禽が急増していることも見逃せません。」と書いてあります。
 また、新型コロナウイルス感染症が世界的なパンデミックになったのは、経済のグローバル化や各国の都市化の進展も大きな要因です。たとえば、第一次世界大戦の時のようなスペイン風邪のときでさえ広まったのですから、今の時代はあっという間に世界中に広まってしまいます。これは大きな問題で、昔と比べれば感染リスクも爆発的に広まっていくのは間違いありません。
 また、環境ガバナンスというのは、「企業、政府、NPO・NGOといった各主体が連携・協力して環境問題の解決に取り組み、持続可能な発展の実現を目指すガバナンスの仕組み」と定義していますが、これからは、「環境ガバナンスをアンブレラターム、つまり傘のような存在ととらえ、その傘の下にある諸要素に注目するわけです。それは、「ガバメントとガバナンス」、「非政府主体」、「主体間の水平的相互作用」、「資源管理」、「環境保全」、「持続可能な発展」といった」ことが大切だといいます。
 下に抜き書きしたのは、第1章「人間が死ぬ理由は環境破壊? 経済の停滞?」の第1項に書いてあったものです。
 たしかに、環境問題も経済問題もとても大切なことですが、どちらがより大切かなどといえるものではありません。だとすれば、環境問題を考える出発点となるのは、人間と環境との関係で、その環境を守るのは何のためかという問いが必要です。
(2023.8.13)

書名著者発行所発行日ISBN
持続可能な発展の話(岩波新書)宮永健太郎岩波書店2023年5月19日9784004319740

☆ Extract passages ☆

 環境は、人間や社会にさまざまな便益をもたらしてくれる存在であり、日本人はしばしばそれを「自然の恵み」と呼んだりします。本書冒頭の例えで言えば、水・空気・土からの恵みです。自然の恵みなくして人間は生きられませんし、社会は存立できません。このように環境とは人間の生存基盤であり、なおかっ社会経済活動基盤であるというのが、環境と人間の関係を考える一つ目のポイントです。
 ただ「自然の恵み」という表現は、美しい日本語ではありますが、そのまま英語に直訳しても日本人以外にはおそらく意味が通じません。それに対して、世界的に通用するのが生態系サービスという言い方です。……企業が私たちにサービスを提供するかの如く、環境も私たちに自然の恵みというサービスを提供している、と見なすのです。
(宮永健太郎 著『持続可能な発展の話』より)




No.2211『牧野富太郎の植物図鑑』

 NHKの連続テレビ小説「らんまん」が始まり、それを待っていたかのように牧野富太郎関連の本が次々と出版され、まさにブームとなっています。もちろん、植物愛好家にとっては大歓迎で、今まで読みたくても読めなかった絶版の本や図鑑までもが出版されています。
 この本もその1冊で、しかも、牧野富太郎の植物図鑑にスポットを当てたもので、写真集のような変形本です。これだけの写真を集めるためには、高知県立牧野植物園の協力も必要ですが、同じく植物監修者として保谷彰彦(たんぽぽ工房)の名が載っていました。
 今年の3月26日に、牧野富太郎の生誕の地高知県須川町に行きましたが、そこの佐川町立静山文庫で牧野博士の愛用していた描画道具を見てきました。この本にも「丁寧で綿密な図の描写のため、描画道具にもこだわった富太郎。イギリスのロンドンにある画材メーカー、ウィンザー・ニュートン社の高級絵の具を愛し、鉛筆もドイツのババリア製、植物の解剖に使用する安全剃刀も外国製のものを集めた。特にこだわりが深かったのは、図を描くうえで最も大切な筆だった。牧野が使用していたのは蒔絵に使われる根朱筆と呼ばれるネズミの毛の特注品である。あらゆるものに徹底したこだわりを持ったからこそ、神業と評される精密図が誕生したのである。」と書いてあり、たしかにこだわりを感じさせる遺品だということを思い出しました。
 そういえば、だいぶ前ですが、ある方から牧野富太郎の代表作の『大日本植物志』の第1巻第2集から第4集までの3冊をいただいたことがあります。この本にも解説が載っていて、「日本の学術水準を世界に示し、アッと驚かせる誇りあるものを作るという心意気で取り組んだというこの著作は、出版後には海外にも送られ、高い評価を得ている。10年の歳月をかけて4冊を出版し、描いた植物はわずか9種類、図版は15図であった。」とあり、このわずか9種類というのにもびっくりしましたが、それでも「牧野式植物図」の完成形が見えたと評価されています。
 その貴重の本がせっかく手もとにあるので、久しぶりに開いて見ると、まさに連続テレビ小説「らんまん」でも放映されたような石版刷りの精緻なもので、改めて感動しました。
 そして、第1巻第4集の第16図版は「ホテイラン」で、これだけが多色刷になっています。私も以前から、この石版の多色刷が欲しくて、ヨーロッパで刊行された本の抜粋などを集めていましたが、それらも久しぶりに開いてみました。やはり、ほとんど光を当てないので、手に入れたときとほとんど同じで、100年以上の前のものとは思えません。この本に出てくる牧野博士の自ら書いた植物画も、多くが高知県立牧野植物園収蔵が多く、現地で見せてもらったものもそうですが、きれいに保存されています。
 下に抜き書きしたのは、「月棒十五円の大学助手」というコラムに書いてあったものです。
 この十五円という金額は、単純に比較はできませんが、明治30年頃と今の物価を比べてみると、約3,800倍ぐらいになるといいます。つまりこの当時の1円は、今の3,800円ぐらいに相当するということです。だから、15円は、57,000円になります。この当時の小学校の教員やお巡りさんの初任給は、月に8〜9円ぐらいだそうで、一人前の大工さんなどは月20円ぐらいだったよう、これらを考えれば、助手の15円という金額はそれほど安くはなかったと思います。
 ただ、そこから研究のための書籍や植物採集のための旅費を出すとすれば、たいへんです。だから壽衞さんの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと思いますが、三菱創業者の岩崎彌太郎や神戸の池長孟などに多額の援助をしてもらったのですから、どこか憎めない性格だったようです。
 この話しは、もともと、自身の『牧野富太郎自叙伝』に書いてあったものです。
(2023.8.9)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎の植物図鑑高知県立牧野植物園 監修・写真提供三才ブックス2023年4月1日9784866733401

☆ Extract passages ☆

 その時、法科の教授をしていた同郷の土方寧君は、私を時の大学総長・浜尾新先生に紹介してくれ、私の窮状を伝え助力方を願った。浜尾先生は大学に助手は大勢いるのだから牧野だけ給料をあげてやるわけにはいかんが、何か別の仕事を与え、特別に給料を出すようにしようといわれ、大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。
 『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。
(高知県立牧野植物園 監修・写真提供『牧野富太郎の植物図鑑』より)




No.2210『本屋で待つ』

 初めて聞く出版社から出た本で、この題名の『本屋で待つ』につられて読みました。本屋でなにを待つのか、あるいは誰を待つのか、いろいろと考えているうちに、読んだ方が早いと思いました。
 ただ、表紙に本屋さんの絵が載っていて、おそらく本屋さんの話しだと思いました。でも、1章の最初の部分を読んで、これがなぜ本屋さんと結びつくのか不思議でした。ところが、家業の本屋さんを継ぐことになり、その辺りから予想したような展開になってきました。そして、地域の核になるような、あるいは地域の助けになるような本屋さんを目指すことになり、もしかすると将来の本屋さんはこのようになっていくのではないかと想像しながら読みました。
 この本のなかで、不登校や引きこもりなどの人たちをアルバイトとして使う話しが出てきますが、7月20日のある研修会で、「生きづらさ抱えた子ども(若者)たち」という題名の講演があり、2021年度の統計によると全国の不登校は245,000人もいるそうで、山形県内だけでも小学生428人、中学生1,126人もいます。ここで不登校というのは、年間30日以上学校に行かない子どもたちで、この他に学校にちょっとだけ行き帰ってきたり、保健室にだけ行くという子どももいるそうです。ただ、そのような子どもたちは不登校にはならないので、その実態はなかなかつかめないということでした。
 さらにその原因は1つではなく、きっかけはあるのですが、それが原因ではないといいます。
 著者は、この本のなかで、「社会にある、たくさんの基準。それは、異性と結婚したほうがいいということであり、その生活は長く続いたほうがいいということであり、結婚したからには子どもはいたほうがいいということであり、その子どもは学校へ体まずちゃんと通ったほうがいいということである。そういう目に見えない基準、あるいは締め付けのようなものは、もしかしたら都会よりも東城のような田舎のほうがきびしいのかもしれない。親や祖父母だけでなく、親戚やご近所さんたちも、暗黙のうちに若者たちにそれを求める。」といいます。だから、そのような基準からはみ出ると、生きづらくなります。だから著者は、『ぼくは彼ら、彼女たちにいつもこんなふうにいう。「よくその決断をしたね」』と言うそうです。
 おそらく、その生きづらさをわかってもらうだけでも、楽になります。だから、そのような子どもや若者たちも、ここでアルバイトをし、それから正社員にもなっていくのではないかと思います。
 著者は、「ぼくのなかにはいまも弱さがあって、その弱さのおかげで、そういう性質を持った人のことを少しは理解できます。いまも高校生が2人、うちにアルバイトに来ているんですが、なかなか来られなかったりとかするんで、どういう言葉をかけようかなって毎日考えています。稼ぐために働くのではなくて、少しでも自分が幸せになるように働いてくれたらいいな。そんなふうに思っています。」と書いていますから、そのような共感が大切のようです。
 下に抜き書きしたのは、2章の「みんなでパリへ」に書いてあったものです。
 たしかに、言葉は便利ですが、誤解を招くことも、なかなか理解してもらえないもどかしさもあったりします。また外国人と話す場合などは外国語を理解できないとコミュニケーションすらできないこともあります。
 でも、ある程度のことは、身振り手振りでわかることもあるし、流れから類推して考えることもできます。ということは、一生懸命に聞こうとする態度が相手に伝わればなんとなくわかることだってあります。
 ただ、私の経験から、ホテルの予約とかレンタカーを借りるなどの場合は、的確な会話が必要です。そうでないと、とんでもないことに巻き込まれてしまうこともありそうです。
(2023.8.6)

書名著者発行所発行日ISBN
本屋で待つ佐藤友則・島田潤一郎夏葉社2022年12月25日9784904816431

☆ Extract passages ☆

 人間関係がうまくいかないとき、そこにはたいてい、言葉が介在している。余計な一言。ほんとうはいうつもりではなかった話。聞く人の状況、気分によって、いくつもの意味をもつ言葉。
 日々接客をしていると、そうした言葉の不自由さに気づかざるをえない(かといって、丁寧な言葉づかいだけに終始しても、それがお客さんとのコミュニケーションになるどころか、「ディスコミュニケーション」になることも痛感している)。
 コミュニヶlションとは言葉だけではない。より正確にいえば、言葉の「意味」だけではない。話している人の声の大きさや抑揚、顔の表情や身体の動き、沈黙の長さなど、あらゆるものを瞬時に総合して、相手のいいたいことを理解する。
(佐藤友則・島田潤一郎 著『本屋で待つ』より)




No.2209『マイ遍路』

 新聞の書評記事に、この本のことが書いてあり、札所の僧侶が歩き遍路をするということに興味を持ちました。私も車ででしたが、2017年2月28日から3月15日にかけて四国88ヵ所をまわったことがあります。それで、図書館にあったので、読むことにしました。
 そういえば、以前も同じように図書館で「ボクは坊さん」を読んだことがあり、とても気楽に読めたことを思い出しました。これが、後に映画にもなったそうで、この本でそのことを知りました。
 副題は「札所住職が歩いた四国八十八ヵ所」で、そのままずばりの表現でした。著者は、第57番札所・栄福寺の住職で、愛媛県今治市に住んでいます。当然、そこから出発すると思っていたら、第1番札所・霊山寺まで電車などで行き、そこから歩き出しました。
 著者が歩いたときは2019年4月18日から月に数日ずつ、合計68日間歩いたそうで、結願は2020年12月11日で、前回お詣りを終えた場所まで電車やバスで向かい、同じ方法で自坊の栄福寺に帰るということを8回繰り返したそうです。こういうお詣りを区切り詣りといいますが、私の場合は車でまわったので、一気に八十八ヵ所を全部をお詣りし、一番札所の霊山寺に戻り、徳島から和歌山までフェリーに乗り、高野山をお詣りしました。
 著者の場合は、あいだに新型コロナウイルス感染症のパンデミックなどがあり、大変だったと思いますが、初めて日本人の感染者が出たことを「ロッジ・カメリア」で知ったそうです。そのときのことを、「昨日、コロナウイルスの日本人初の国内感染が確認されたとニユースが報じる。コンビニで昼食のおにぎり弁当と一緒に、感染対策として消毒用のアルコールジェルとウエットティッシュ、そして塩分補給のために、最近気に入っている梅干しを買った。」と淡々と書いていますが、おそらく、お詣りの途中のことなのでほとんどテレビや新聞などを読まないからではないかと思いました。ほとんどの人は、おそらくテレビや新聞などを必死に見て、これから起こる感染症の不安を強く感じていたのではないかと思います。まさに、知らぬが仏です。
 著者も、お遍路しながらいろいろな人たちと出会っていますが、私も似たような体験があり、どこかでお遍路さんと会うとまた何度かいっしょにお詣りすることになり、知らず知らずに挨拶までするようになります。今でも、バイクでお詣りしていた若者やおばあちゃんと孫娘さんのお詣りの方たちなどを思い出します。
 そういえば、橋の上では金剛杖を突かないということは他の方たちを見ていてわかったのですが、それは、「十夜ヵ橋」の言い伝えからきているそうで、愛媛県大州市付近でお大師さんが泊まるところがなく、橋の下で野宿をしているときに、「苦しむ衆生を思い一夜が十夜にも感じられた」そうで、それからこの橋を十夜ヵ橋と呼び、その話しが広まっていくことで、もしかすると橋の下でお大師さんが休んでいるかもしれないとなり、橋の上では金剛杖を突かないということになったようです。
 私の場合、お詣りをしていて雨にあたることはほとんどないのですが、一度だけ屋久島の宮之浦岳に登ったときの下山で雨が降ったことがあります。よく屋久島は1ヶ月に35日雨が降るといわれますが、このときはリックに専用のレインカバーをつけていたのですが、リックのなかまでびっしょり濡れてしまいました。著者も、23番札所の薬王寺でリックまで濡れてしまい、「納経所に向かおうとリュックから納経帳を取り出すと、雨よけにビニール袋に入れておいた納経帳が、なんとびしょびしょに濡れてしまっている。道中、想像以上の雨でリュックにかなり浸水したようだった。今後の寺で続きを書くことは、とてもできない状態だ。しばらく呆然と立ち尽くした。雨に濡れた納経帳を手に、今までの人生における様々な後悔も思い浮かぶ。途方にくれていると、「むしろここから人生、やっていこうじゃないか」と、これをきっかけに前を向きたいという強い気持ちが込みあげてきた。この使えなくなってしまった納経帳は、「いつだつてやり直せばいい」というお大師さんからの教えと受け止めたい。」と書いています。
 たしかに、生きていればとんでもないことがいろいろとありますが、それでもやり直しはできます。おそらく、私だったら、その濡れた納経帳と、新たに買い求めた納経帳をつなぎ合わせて、良い思い出として残すかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、「第4章 四万十川!四万十川!四万十川!」に書いてあったもので、幡多郡黒潮町の「土佐佐賀温泉 こぶしのさと」に泊まっていたときのことです。
 私の場合は四国88ヵ所は家内といっしょでしたが、ほとんどの三十三観音詣りなどは一人です。というのは、一人だと自分に合わせたお詣りができるので、ここはゆっくりしたいというところでは、時計を気にしません。だから予定通りにはいかないのですが、それがまた楽しいんです。気に入った風景にであえば、そこでカメラを取り出し、三脚をかまえてから撮ります。つまり、お詣りとはいいながら、自分と向き合う楽しい時間でもあります。
(2023.8.3)

書名著者発行所発行日ISBN
マイ遍路(新潮新書)白川密成新潮社2023年3月20日9784106109874

☆ Extract passages ☆

 朝、宿で7時からの朝食を食べる。そこでまた遍路での「ひとり」について考えていた。僕が遍路でのひとりを心地よく感じるのは、たぶん帰ることのできる「ホーム」があるからだと思う。普段ひとりで住んでいるお遍路さんが、何人かで食べる食事を本当に楽しそうにしている様子からも、なんとなくそんなことを想像していた。人は、孤独も集団生活も、好きでもあり嫌いでもあるから、なかなか複雑だ。都市と田舎もそうだが二者択一ではなく、四国遍路のような場所で、バランスをとるために両方を味わうことが大事なのだろう。
(白川密成 著『マイ遍路』より)




No.2208『ポテトチップスと日本人』

 私もポテトチップスは好きですが、まさかこのような本があるとは思いもしませんでした。
 でも、この本をポテトチップスを食べながら読んでみたいと思いましたが、食べながらだと手の汚れが本を汚すことになり、しませんでした。それでも、何枚かを箸でつまり、食べましたが、箸を使うとあまり美味しくは感じないということがわかりました。手で直接つかむからおいしいのかもしれません。
 また、No.2200で取りあげた『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)大場秀章著も、同日に発行されたという縁もあり、探せばいくらでもそのようなつながりを探せそうです。おそらく、著者もそのようなつながりをたぐり寄せながらこの本を書き進めたのではないかと勝手に想像しました。
 それにしても、この本の「序章」の書き出しに、「ジャガイモを薄切りにして油で揚げ、塩をはじめとした各種調味料をまぶしたもの。それがポテトチップスだ。つまんで口に入れると、表面に付着した調味料がまず舌を刺激する。続いてパリッとした小気味良い咀嚼音が脳に響き、イモのうまみが調味料と絶妙なマリアージュを奏でる。咀嚼を続けると、唾液中の消化酵素であるアミラーゼによってジャガイモのデンプンが麦芽糖に変わり、口中を甘みで満たす。ごくんと嚥下して胃が満たされる。間髪入れず、次のチップスに手が伸びる。至福のエンドレスループだ。」と書いてあり、いかに著者自身もポテトチップスが好きなのかが、よくわかります。
 この本の副題は「人生に寄り添う国民食の誕生」で、たしかに私が子どものときよりは、孫たちが食べる姿を見ていると国民食と呼ばれても不思議ではないようです。しかも、本当においしくなりました。昔は、袋を開けた途端に油臭いニオイがしたのもありましたが、今はほとんどがパリパリです。カルビーの食感バリエーションをみると、咀嚼時の食感も細分化された擬音で表現され、『「ザクッ」と「サクッ」、「カリカリ」と「バリバリ」といった微細な違い、あるいは「サクッ→ホロッ」「カリッ→ザク→ホクホク」といった、口中での食感の変化まで克明に記載されている点には感心する。消費者の多様な嗜好を食感のレベルで把握し、それらを漏れなく網羅すべくラインナップを策定しているわけだ。』と記載されています。
 これは2023年2月末現在のものだそうで、10種類に別けていますが、やはりポテトチップスの食感って、とても大切なものだというのがこれをみるとよくわかります。
 そういえば、一番最初に至福のエンドレスループと書いていましたが、これにも秘密があって、「ポテトチップスのフレーバーは、その多くがしょっぱい。つまり口に入れた最初の瞬間は舌で「しょっぱい」と感じる。それを咀嚼していくにつれ、今度はジャガイモから甘みが滲み出てくる。米を噛めば噛むほど甘みを感じるのと同じく、唾液でデンプンが麦芽糖に変化するからだ。つまり、徐々に「しょっぽい」より「甘い」が口の中で勝ってくる。その「しょっぱい」→「甘い」の味覚変化を経たうえで嚥下する。「甘い」で終わった状態の口は、次に何を求めるか。「しょっぱい」だ。口の前には「頬張った瞬間にしょっぱさを感じるチップス」がある。だから手が出る。これが繰り返される。」というわけです。
 ということは、まさにカルビーの「かっぱえびせん」の「やめられない、とまらない」というキャッチコピーと同じです。
 下に抜き書きしたのは、「第2章 団塊ジュニアの胃袋を狙う――大衆化するポテチ」に書いてあったものです。
 今、思い出すと、たしかにポテトチップスが売ってなかったときがあり、それほど意識はしていなかったのですが、今はいつでも買えます。それって、すごい企業努力のたまものと知り、単純にすごいと思いました。
 ただ、私の場合は、最近は胃袋が小さくなったのか油ものに弱くなったのか、1袋を食べきることはできなくなりました。この本を読んで、いろいろと食べ比べをしてみたいと考え、孫に手助けしてもらいながらチャレンジしようと思っています。
(2023.7.31)

書名著者発行所発行日ISBN
ポテトチップスと日本人(朝日新書)稲田豊史朝日新聞出版2023年4月30日9784022952110

☆ Extract passages ☆

 現在、我々が1年中ポテトチップスを食べられるのは、収穫時期の異なるさまざまな地域で収穫されるジャガイモを、貯蔵を交えながら計画的に原料使用しているからだ。
 たとえば、鹿児島など九州南部では5月に収穫され、その後「ジャガイモ収穫前線」は北上し、北海道では概ね8月から10月に収穫される。よつて、10月から12月は北海道産の直送イモを使用し、1月から6月頃までは貯蔵された北海道産のイモを少しずつ出しながら使う。6月以降9月頃までは鹿児島・長崎・あるいは四国・本州南部産の直送イモを使用することで、供給を途切れさせない。カルビーの場合、アメリカ産のジャガイモもここに混ざる。
(稲田豊史 著『ポテトチップスと日本人』より)




No.2207『あの日、僕は旅に出た』

 7月18日は浄土平に行き、それから仙台市に泊まり、翌19日はお昼過ぎに仙台から蔵王エコーラインを通り「御田ノ神園地」を歩いてきました。
 この本はそのときに持って行った1冊で、ほとんどその間に読み終わりました。いつも旅に出るときは、旅の本を持っていくのですが、今回も積んで置いたなかから選び出したものです。だからいつ買ったのかもわかりませんが、2016年に初版発行されていますから、それ以降であることだけは間違いありません。
 この本を読んで、先ず読みたくなったものは旅行人編集部の「チベット―全チベット文化圏完全ガイド (旅行人ノート)」です。実は私もチベットに行きたくて中国の知り合いと計画していたのですが、たまたま天安門で騒動があり、頓挫してしまいました。また、チベットのラサまで鉄道が走っていると聞き、それに乗りたいと何度かチャレンジしたのですが、ツアーそのものが集まらなくて結局は取りやめになりました。
 それでも、1996年7月に中国雲南省の中甸に入ったときは、ここは間違いなくチベット文化圏だと思いました。そして、その翌年の5月にも行ったのですが、少しずつ変化していくのを感じました。そこに行きたいと思ったときは、すぐ実行すべきで、この本の著者もそのようにして世界を旅していたようです。
 この本は、北上次郎氏が「解説」で、「一人の出版陣の生き方を克明に、ディテール豊かに描いた個人史でもある」と書いているように、出版に関する浮き沈みもしっかりと書いてあり、本作りのおもしろさと大変さがストレートに伝わってきて、読んでいてワクワクしました。世の中には、したいことが仕事とになるというのは意外と少なく、ある意味でとても幸せな方だと感じました。
 そういえば、著者は、「誰から聞いたか忘れたが、「よかったところは二度と行くな、悪かったところはもう一度行け」という言葉があるそうだ。確かにその通り。いや、よかったところは三度も三度も行くが、一度行っただけでその国のことを悪かったと決めつけるわけにはいかない。」と書いていて、たしかに第一印象だけですべてを判断するのは困ります。だからといって、海外ということを考えれば、二度と行きたくないところもありますが、時間が許せばまた訪ねてみたいというところはあります。
 だいぶ昔、日本テレビ系列で放送された猿岩石のユーラシアを横断するという番組があり、とても人気がありました。私もときどき見てましたが、ホントかなと思うところもあり、ある方から3回ほど飛行機を使ったみたいという話しも聞きました。この本でも、「今さらどうでもいい話だが、「猿岩石」のユーラシア横断は、すべて陸路で行なわれたということになっていた。アジアを旅する旅行者なら誰でも知っていることだが、もちろんそんなことは不可能だ。ミャンマー(旧ビルマ)の陸路国境は旅行者には開かれていないのである(2013年から通れるようになった)。」と書いてあり、私もミャンマーからインドに抜けたいと思ったことがあり、なるほどと思いました。ただ、私の場合はミャンマーのビクトリア山まで登りましたが、このときは政府や軍、さらには州や通る部落などの許可も必要で、大変でした。この辺りは、簡単に思いつきで通れるようなところではないようです。むしろ、現在の軍政権下ではさらに厳しくなったのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、「第2章 アジアへ」に書いてあったものです。
 私には1年以上の旅はとても考えられないのですが、かつて、ネパールに3週間ほどいたことがあります。帰りの航空券を予約しないで、自宅からそろそろ帰ってきてと言われるまで旅をしました。このときは、どこにいても自由で、まさにネパールを満喫していました。
 ところが、連れ合いから、父が入院することになったので至急帰国してほしいと言われ、アンナプルナの近くにいたのですが、ネパールの友人が翌日の帰国便の手配してくれました。やはり、身近な人が病気だといわれてしまうと帰らないわけにはいかなくなります。このときは入院し手術をし、無事退院したのですが、この文章を読んで、このことを思い出しました。
 そして、息子に仕事を譲って、さあ、1ヶ月以上の旅をしようと思ったら、新型コロナウイルス感染症が拡がり始めたのです。この本にも感染症でピンチになるという話しが載っていましたが、やはりこれは疫病です。
(2023.7.27)

書名著者発行所発行日ISBN
あの日、僕は旅に出た(幻冬舎文庫)蔵前仁一幻冬舎2016年6月10日9784344424777

☆ Extract passages ☆

 僕はのちに、そのときどきの都合で長い旅も短い旅もいろいろやってきた。そして、長くても短くても旅は旅と、いったり書いたりした。それは嘘ではないが、しかし、長い旅と短ぃ旅は根本的に異なったものだ。
 一年以上の旅は帰国することを考えなくていい、感覚としては無期限の旅である。行きたいと思ったときに好きな場所へ行ける。好きな場所に好きなだけいられる。それが一か月ぐらいだと、最初の空港に降り立った途端に、帰国の日程を考えて旅程を組み立てなければならない。この差はかなり大きい。
(蔵前仁一 著『あの日、僕は旅に出た』より)




No.2206『土の塔に木が生えて』

 私がシロアリの塚を見たのは、インドやミャンマー、そして約5m以上の巨大なものはオーストラリアで見たことがあります。
 その不思議な光景にびっくりしましたが、あちこちにあるので、次第に気がつかないようになりました。それほど多いのです。この本にも、「P23」と書いてあるように、本当にどこにでもあるというような感じです。
 副題は、「シロアリ塚からはじまる小さな森の話」で、これは「新・動物記」の1冊で、シリーズ編集は黒田末壽と西江仁徳です。すでにこの本を含めて8冊既刊されているそうで、そのうち、他のシリーズも読んでみたいと思っています。
 では、著者はなぜアフリカに行きたかったのかという問いに答えて、たまたま水野一晴京大教授の集中講義を受け、「私の大学院に来ればアフリカに行けますよ」の一言で大学院進学を決めたそうです。その流れのまま、アフリカに行ったのです。しかし、「おわりに」のところで、アフリカに通い続けた理由として、「村の家族と円む焚火は、体だけでなく、心もじんわりと温かくしてくれる。大自然の圧倒的なパワーが満ち溢れ、そこに身を委ねて生きる人たちの姿はとても美しく逞しい。雲を見て明日の天気を知り、家族や友人たちと語らい笑い合い、井戸から数キロも離れた何もない場所に根を下ろし、家畜や作物を自分たちの手で大切に育て、一日一日を生きる。とてもシンプルだが、しっかりと自分たちの力で生きている。15年近くアフリカに通う生活を続けながら、未だになぜアフリカだったのかの問いに答えは出ない。だが、どんなに苦しく辛い思いをしてもなお、アフリカに通い 続けている理由は、このアフリカの地に温れる生命力だと思う。そんなところに放り出されたらひとたまりもない私でも、人びとの「生きる力」を見せつけられると、勇気が湧いてくるのだ。」と書いています。
 たしかに、アフリカはインパクトがあるし、「生きる力」のようなものを感じることができそうですが、私はエチオピアのアディスアベバ国際空港「カブリ・ダル空港」でトランジットしただけですが、なんとしても行きたいという気持ちにはなれそうもありません。しかも一人で研究をするわけですから、先ずは言葉を覚えなければ先には進めません。
 著者は、「はじめは言葉一つわからず、今でも村では子どもでもできる仕事一つできない私だが、村の人たちは驚くほど当たり前に私を受け入れてくれた。言葉が通じなくても、何かの作業中でも、寝ていても、構わず話しかけてくる。たまにはそっとしておいてほしいと思うが、村の人たちは常にこちらを気にかけ、決して放っておかず、私は四六時中、彼らの中に取り込まれ続ける。そのおかげで、私は何とかゼンバ語で日常生活を送れるくらいまでに上達した。」とあり、初めて行った当時は、おそろしく寂しかったと思うのですが、意外となれるのも早かったようです。
 そういえば、私も初めて一人でネパールに行ったときは、言葉より何よりあのヒマラヤから一人で帰ってこれるかどうかが心配でした。しかし、シェルパの人たちはとても親切で、近くからも遠くからも、何気なく見ていてくれと、ちょっと心配なことがあるとすぐ駆けつけてくれました。まさに案ずるより産むが易しです。
 ただ、著者は女性ですし、やはり何かと心配なのはわかります。
 この本はシロアリ塚の話しなので、少しばかりシロアリの話しも抜き書きしますと、「セルロースの分解能力を持たないシロアリは、体内に共生する共生細菌または外部の共生菌の力を借りて植物体を分解し、自身が吸収できる形に変換している。体内に共生細菌を持つものを下等シロアリ、外部の共生菌(例えばキノコ)の力を借りているものを高等シロアリと呼んでいる。下等シロアリの多くが木を食べるのに対して、高等シロアリは木のほかに、落葉・落枝、草本、地衣類、腐葉土、上の中の有機物を食べるものまでさまざまだ。」そうです。
 もちろん、シロアリは日本にもいて、分布の北限で、32種が生息しているそうです。そのなかでも代表的なのは、下等シロアリに属するミソガラシロアリ科の「ヤマトシロアリ」と「イエシロアリ」で、下等シロアリですから、家の中の木材を食べるので、当然害虫として扱われています。
 下に抜き書きしたのは、いつもそばで遊んでいたラビキィという子どもに、1粒の飴をあげたときのことです。
 実は、私にも似たような経験があり、ミャンマーの知らないところの家を借りて食事をしたときに、たまたまバザールでスイカを買ってきたのを持っていて、その一切れをその家の子どもにあげたら、それを外に持っていって、みんなで分けたのです。一人あたりにすれば、本当にスイカだとわかるかわからない程度の切れ端にしかなりませんが、それでもみんなでおいしそうに食べたのです。
 そのとき、「みんなで食べたほうがおいしい」という言葉を思い出しましたが、それ以上に1個まるごと差し上げたほうがよかったのではないかと思いました。何度かこのような経験をすると、ものの豊かさが必ずしも幸せにしてくれるとは限らないと思うようになりました。
(2023.7.24)

書名著者発行所発行日ISBN
土の塔に木が生えて山科千里京都大学学術出版会2023年4月20日9784814004621

☆ Extract passages ☆

すると、すぐにラビキィはその飴を握りしめて小屋の外に飛び出し、兄弟姉妹・甥姪とその一粒の飴を分けた。数十人の子どもたちに分けられた一粒の飴玉は、砂粒かと思うほどの小ささだ。てっきり 人で食べてしまうものと思っていた私は「何この子! すごくいい子!」と、はじめは思った。だが後々、ラビキィが飴をみんなに分けるのも、私の持ち物をみんなが勝手に使ったり自分のものにしたりするのも、同じことだと気がついた。自分が持っていればあげるし、持っていなけにばもらう。こう書くと、特別不思議なことではない、当たり前のことのようにも思える。
(山科千里 著『土の塔に木が生えて』より)




No.2205『朔太郎とおだまきの花』

 この本は、たまたま市立図書館の返却コーナーにあったもので、だいぶ前に読んだ萩原朔太郎の詩集などを思い出し、読むことにしました。
 ところが、娘さんの書いた本だから、あまり脚色はないと思いますが、それでも強い衝撃を受けました。というのも、今なら育児放棄と思われかねないような家庭環境のなかで育ち、実母は不倫で離婚し、実父の家で暮らすようになったとはいえ、そこでも居候とか、要らない迷惑な子と言われ続け、食事も満足に食べられなかったことが書いてあり、つい、涙が出るほどでした。
 まさか、食べ残した残飯から食べられるところを探して食べなければならないとは、育児虐待そのものです。たしかにいい時代ではなかったかも知れませんが、それなりに知られた詩人ですし、実家は裕福な医師の家庭ですから、どこかで歯車が狂ってしまったとしかいいようがありません。
 たとえば、その食事風景を抜いてみると、「あおずけの大が「よし!!」と言われて、茶の間へ入るのを許されたのは、柱時計がまたポッポ、ポッポと鳴った時だった。ここに残っているものを二人でお食べ」と、祖母が言った。配膳台は、ぐじゃぐじゃに食べ散らかし、卓袱台の上には枝豆のカラが散らかっている。小さい茶碗に軽くご飯の入ったのを持って来て、「お代わりは、なしだよ」と、言った。私は、枝豆の殻の山の中から、実の入ったのを一つ一つさがして、見つかると明子に食べさせた。」と書いています。
 さらに、「明子は、オシャブリをくわえていたが、一粒の枝豆にむしゃぶりついて、かまないでのみ込むさまは、見ていられない恰好だった。お魚の骨の間に残っている身のところを、探すのも大変だった。見つかっても骨がついているので、ていねいに取って口の中へ入れてやるよりない。」とあり、これが本当の祖母の話だから、あきれかえります。
 明子というのは、葉子の妹で、結局は食べものも満足に食べられず、医者にもかからなかったので病気が悪化して、脳膜炎の後遺症が出たようです。
 もう、読んでいるだけで切なくなり、途中で読むのをやめようかとも思ったのですが、最後まで読んでしまいました。でも、捨てられたはずの実母を最後は引き取り、自由気ままに暮らさせたようで、それは「第2部 父上へ」に書いてありました。
 その最初に、「人生は過失である」という朔太郎の詩を抜き書きしていますが、まさに詩人はその詩の通りの人生を生きたようです。でも、その家族はたまったものではなく、もっとまともな人生を歩くことはできなかったのかと思います。
 しかし、考えて見ると、それらのことを書き記すことによって文筆家になったわけで、作家というのは大変な生き様をさらさなければならないようです。
 下に抜き書きしたのは、「第2部 父上へ」に書いてあったもので、実母の話を聞きながら、思っていたことのようです。
 そして、その実母は、自分の身体のことだけが最大の関心事で、その次は食べることだけだったそうです。もちろん、捨てたはずの娘に引き取られても、なんの後ろめたさも感じないかのように、毎度の食事のほかに出前を頼み、甘いものを箱買いし戸棚を一杯にしているなど、やはり生まれながらの性格だと著者は思うのです。
 私は、他山の石のように、反省材料して読むしかないと思いました。
(2023.7.20)

書名著者発行所発行日ISBN
朔太郎とおだまきの花萩原葉子新潮社2005年8月20日9784103168072

☆ Extract passages ☆

 私も、現実を考えて心配しないタチで、なるようになると、楽観的に今日迄来たのは、子供の時から母に見離され、祖母には「要らない子」として虐待され、死ねと言われて来たからでしょうか。
(萩原葉子 著『朔太郎とおだまきの花』より)




No.2204『落語に学ぶ老いのヒント』

 今回は牧野富太郎から少し離れて、落語の世界に遊ぶのもいいかなと思いました。副題は「長い老後をいかに生きるか」で、たしかに人生100年というと、とても長く感じます。
 落語に登場する老人は、おそらく人生50年から60年ぐらいではないかと思いますが、先ずは読んで読んでみなければわかりません。「はじめに」のところに、「P9」と書いてありましたが、昔のご隠居さんも、それなりに忙しかったようです。
 でも、当てにされるのも有難いことで、マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみではない。無関心だ。」と言いましたが、年をとって人々から無視されるより、関心を持たれたほうが何十倍も有難いことです。さらに、それが人助けなら、あまり助けにならなくても、生きがいになるのではないかと思います。
 そういう意味では、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」に登場する牧野万太郎夫婦の暮らす「十徳長屋」も、陽も余りあたらないとはいえ、皆生き生きとして楽しそうです。まさに、このような長屋にこそ、十徳があるようです。
 またまた、牧野富太郎を引きずっていますが、それはさておき、落語の世界では、困ったときには「隠居に聞け」ということで、世間一般のことはいろいろと教えてもらっています。しかし、隠居だって間違うこともありますが、長屋の人たちにとってはちょっとばかり違ってても、それを笑ってやり過ごすし、それほど大事にもなりそうにありません。この本のなかに、「コミュニティのなかに隠居がいると、何かと役に立つし、面白いことに出会える。隠居の経験のなかには、ネットにはない裏話もゴロゴロしている。それを聞くだけでも面白い。世代ごとのコミュニティのほうが話が合っていいというが、ものごとが多様化していれば同世代でも話が合わないことはままある。いろんな世代がいて、受け継いでいくものも必ずある。世代の共存というのが重要で、だから、横丁には隠居に住んでいて欲しいのだ。」とあり、私ももし横丁に住むなら、話し相手になってくれるご隠居さんが住んでいてほしいと思います。
 しかも、この本にも書いてありますが、ウィキペディアでもよく間違いはありますが、ご隠居の間違いなどは、誰もほとんど傷つかないし、数日もすると忘れてしまいそうです。そこがまたいいのかもしれません。
 しかし、この本には隠居後に活躍した人たちの話しもだいぶ載っていて、誰でも知っているのが地図を作った伊能忠敬などがいますが、私が初めて知ったのは、歌川広重の本名は安藤重右衛門のことです。もちろん浮世絵師としては有名ですが、生まれは定火消し配下の同心の家だそうで、親が亡くなったので13歳で家督を継ぎました。もともと絵描きになりたかったのですが、その間、団扇に絵を描くなどして家計を助け、34歳で隠居します。これでやっと絵の道に進めると思ったのに、定火消しの任にある旗本からの依頼で京へ上るお伴をしなければならなくなったそうです。直属の殿様に頼まれては断れず、東海道を旅したときに描いたのが「東海道五十三次」というから驚きです。しかも、それが大ヒットして、絵師として順調に進むことができました。しかし、「江戸名所百景」の製作中にコレラで亡くなったそうです。
 やはり、いつの世もこわいのは感染症です。それでも、隠居後にたまたま声がかかり、京に上ったことがきっかけで、名作を数多くの残したわけですから、いつの世も最後の最後まで何があるかわからないものです。
 下に抜き書きしたのは、第4章「人生の終焉」に書いてあったものです。
 たしかに落語の話しのなかに地獄のことや悩み苦しみはたくさんありますが、天国で楽しくのんびりとという話しはあまり聞いたことがありません。人間は、必ずいつかは死ななければならないことは間違いないのですから、何だかんだ言いながらも生きているうちに楽しむ工夫をしなければならないと思います。
(2023.7.17)

書名著者発行所発行日ISBN
落語に学ぶ老いのヒント(平凡社新書)稲田和浩平凡社2023年4月14日9784582860269

☆ Extract passages ☆

 極楽が舞台の落語はたぶんない。極楽っていうところは、皆が心穏やかに、にこやかに幕らしている。極楽に行った人たちは終始笑顔だが、それを見て面白いかといわれたら、面白くはないよな。「苦」のないところには、「笑い」は起こらないものなのかもしれない。じたばたするから、物語になる。
(稲田和浩 著『落語に学ぶ老いのヒント』より)




No.2203『牧野富太郎選集 4 随筆草木志』

 今回も『牧野富太郎選集』ですが、これも1970年に東京書籍から刊行された復刻版で、発行日も同じでした。この選集は全5巻だそうで、機会があれば全巻を読んでみたいと思っています。
 これは「植物随想 T」で、いろいろな植物の話しが載っていて、興味のあるものやあまり関心のなかったものなどもあり、それなりに楽しく読みました。
 さすが牧野先生と思ったのは、「タイサンボクは大盞木である」という中の文章で、含笑花について書いてあるところです。タイサンボクに含笑花という文字を使うのは間違いだと指摘しています。それを抜き書きすると、「しからばすなわちその合笑花とぃうのは元来なんであるのかという問題になるのだが、これはカラタネオガタマ、一名トウオガタマ、すなわち Michelia fuscata Blume の漢名で支那の諸書に出ている常緑灌木である。そしてその花は小形で黄花を帝び、開いても半含状を呈しているのでそれで含笑花といったものである。花にはメロンの香気が強烈に鼻をうち、洋人は俗にこれを Banana-shrub と呼んでいる。」とありました。
 おそらく、この含笑花の実際のものを見たことがなく、書物だけで書いたと思いますが、私は2019年3月12日に雲南省の昆明植物園で実際にこの花を見てすごく感動しました。それで帰国する前日の22日にもう一度見ました。そのラベルには「雲南含笑 Michelia yunnanensis」とありましたが、牧野先生の指摘通りでした。
 私もその香りに惹かれてかいでみたのですが、メロンというか、本当に甘い香りに包まれていました。何枚も写真を撮ってきたので、今もときどき見ていますが、何よりも「含笑」という名前がいいと思っています。やはり、マグノリアよりは小さい花で、形はオガタマの花のようです。
 そういえば、この本のなかに福島県の花「ネモトシャクナゲ」のことも書いてあり、「この品はあまり東京などに植えてあるを見ない。山中にあっては、ときにはその雄蕋が弁化して一つの合弁状を呈し、その花はここに二重の観をなすものがある。これは園芸品としてすこぶる面白い品であるが、しかしはなはだ乏しい。予はこの変品を、ゆえありて根本莞爾氏の姓を採りてこれをねもとしゃくなげと称し、その学名を Rhododendron brachycarpum Don. var.Nemotoi Makino と定めたが、その発見者は中原源治氏である。」とあります。
 ここに「ゆえありて」とありますが、私が聞いたところによると、中原氏の恩師である根本莞爾氏の名前をつかってほしいとお願いしたそうで、古き良き恩師をうやまう姿勢がうかがえると思っています。今は、全てが自分を押し出す風潮がありますが、ぜひ見習ってほしいものです。
 下に抜き書きしたのは、「わが植物園の植物」のなかに書いてあったものです。
 最初は「わが植物園」というのは、現在の高知県立牧野植物園かな、と思ったのですが、しかし、「予は生まれて何に感じたでもなく、また親よりの遺伝でもなく、自然に草木が好きであった。野や山に種々の草木を閲するうちに、これらの草本を栽え付けたる一つの植物園ができた。年を経るにしたがいて先祖代々よりの財産もこの国の経営のために入れあげてしまい、家も倉も人手に渡し、身はきのうまでの旦那様にひきかえて着のみ着のままの素寒貧になってもいっこうにそんなことに頓着なく、また世人の嘲笑をもあまんじて、ひたするらこの植物園の経営につくした。」とあり、相当広いものかとも考えたのですが、今まで読んだ本のなかには記憶に残っているものはなく、後ろのほうでやっと自宅の庭だと気づきました。
 たしかに、植物学者にとって標本はとても大切ですが、生の植物も貴重な資料ですし、とくに私のような素人には毎日の楽しみでもあります。私も昭和58年から小町山に遊歩道を造り、たくさんのシャクナゲや山野草を植えてきました。このコロナ禍のときには、ここに行くのが本当に楽しみで、毎日カメラを持って行きました。そして、2020年の1年間で撮した草木花を「小町山自然遊歩道の四季」という小冊子にまとめ、米沢山野草会の会員にも配りました。
 それもこれも、自分の育てた植物たちを植えてあるところがあるからこそできたものです。これからも、生涯をかけて、小町山自然遊歩道を造り続けていきたいと思っています。ということは、私も変人なのかもしれません。
(2023.7.14)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎選集 4 随筆草木志牧野富太郎東京書籍2023年4月24日9784808712747

☆ Extract passages ☆

 この植物園ははじめ上佐の国の一隅に建設せられたるが、とっくに移して今は東京にあり、国の広さは方わずか2、3寸の間に横たわりおるが、不思議にも幾千の草本がその構内に栽え付けられて繁茂し、まだいくらでも栽えられる地を存している。今その中よりいくつかの草木を選出して「そんな不思議な植物園がどこにあるものか」と疑わるるお方にその品種を告げまいらせんと言うは、その国主なる牧野富太郎という変人である。
(牧野富太郎 著『牧野富太郎選集 4 随筆草木志』より)




No.2202『牧野富太郎選集 2 春の草木と万葉の草木』

 なぜ今、『牧野富太郎選集』がと思っていたら、この本は1970年に東京書籍から刊行されたもので、いわば復刻版だそうです。やはり、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の影響はすごいものです。
 でも、このような選集があることさえ知らなかったので、なにかをきっかけにして復刻されることは有難いものです。
 別な本で何度か読んだものもあり、また思い出しながら読むというのも楽しいものです。そういえば、山形新聞2023年6月28日の記事に、「放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」を契機に、植物分類学に注目が集まっている。その国内分類学の基礎を築いたのは、米沢市林泉寺出身の小泉源一博士(1883〜1953年)。日本植物分類学会を設立した人物だ。同番組の主人公のモデルとなった牧野富太郎博士(1862〜1957年)と共に研究に励み、植物を愛する姿には共通点が見える。命名した本県ゆかりの植物も多く、小泉博士を知る人は植物への愛の大きさを懐かしんでいる。」というのがあり、そのなかに、元米沢生物愛好会長だった石栗正人さんが、「むやみに採集せず、最低限にとどめていたのも印象的だった」という話しが紹介されていました。
 そういう意味では、牧野博士は手当たり次第に採集するので、嫌がる人もいたと話しが伝わっていて、同じ植物分類学者でも個性があると思いました。
 この本のなかに、「京都帝国大学植物学教室の小泉源一博士がヒガンザクラのことを既刊の「植物分類地理」に書いているところを見ると、私がヒガンザクラについて大変にその名を混乱させ「この変名は実に甚しく混雑を来す無用のものであり」と攻撃的な言辞を弄していれど、この非難こそアベコベにすべからく小泉氏が甘受すべきもので、それ氏自らかえってその名称を混雑させているのである。畢竟それは小泉氏が真正のヒガンザクラであるべき正統品をヨー認識せずして、前にはこれをコヒガンザクラと称えてみたり、後には初めて大本があると知ってさらにこれにチモトヒガンザクラなる名称を付けてみたりしているのをみれば分かる。すなゎち「この変名は実に甚しく混雑を来す無用のもので」あるよりほかに何ものもない。」という話しが載っていて、これをそのまま信ずれば、先の新聞の「共に研究に励み」という話しも、いかがかと思います。たしかに論争は学会のなかではいろいろとありますが、牧野博士の言い方は、ちょっと大人げないところもあり、もい少し相手を尊重する姿勢があってもいいのではないかとさえ思います。
 それでも読み続けると、寄生植物やっこそうの記述があり、そこには、「植物学上で最も珍しきわが邦産の一つはやっこそうである。これはしいのきの根に寄生する寄生植物で四国の南部および九州の南部に生ずる。高さは二、三寸しかなく葉がなくて大なる鱗片があり茎に生ずる。その頂に一つの花が咲くがその花はただ一枚の萼と帽状をなせる雄蕋と一雌蕋があるばかりである。全体の色は薄茶色で緑色は少しもない。このやっこそうはかの有名なるラフレシアを含めるラフレシア科に入りそうでまったく別の科であるから、私はさきにやっこそう科と称する一新科を建てたのである。顕花植物中で新科をわが日本に建てたのはこれが始めてである。学術上の名称も無論新しく名づけたので、それは Mitrastemon Yamamotoi Makino というのである。」と書いてありました。
 私はインドネシアでこのラフレシアの仲間を見たことがありますが、牧野博士は文献だけでしか知らないはずなのにそれとは違うと書いています。現在も「ヤッコソウ」は、ヤッコソウ科ヤッコソウ属で、牧野博士が高知県で発見し、大名行列の奴に見立てての命名だといいます。このロケは小石川植物園で行われたそうで、いつ放送されるか今から楽しみです。
 また、牧野博士は、漢学の素養があるので、中国の植物にも詳しく、日本で「藤」と書くのはカズラのことでただツルという意味でしかないといいます。そして、「日本にはフジが二種あって、一つはノダフジ(Wistaria floribunda DC.)、一つはヤマフジ(Wistaria brachybotrys Sieb. et Zucc.)で、この二つの品の総称がフジである。そしてこの二種は日本の特産で支那にはないから、したがって支那の名すなわち漢名はない。」と書いています。
 たしかにフジというたけでは総称にすぎず、たとえばツツジというだけではどのようなツツジを指すのか不明なのと同じです。この下の抜き書きにありますが、よく「サツキ」とといますが、正式には「サツキツツジ」というようなものかもしれません。
 そういえば、この本の題名のなかに「春の草木と万葉の草木」とありますが、2022年11月25日に『牧野万葉植物図鑑』(北隆館)が出版され、編集者として邑田仁、田中純子、牧野かずおきの各氏があたられています。この本は、もともと牧野博士が企画していた『万葉植物図譜』の再現を目指したそうで、とても貴重な本です。機会があれば、ぜひお読みいただければと思います。
 下に抜き書きしたのは、「世界に誇るに足るわが日本の植物」のなかに書いてあったものです。
 ここでいう「おおしゃくなげ」というのは、「ツクシシャクナゲ」のことではないかと思いますが、今なら「ヤクシマシャクナゲ」はもっとも世界で知られたシャクナゲの逸品です。
 やはり、時代により、花の好みは変わってくるのはある意味当然かもしれません。
(2023.7.10)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎選集 2 春の草木と万葉の草木牧野富太郎東京書籍2023年4月24日9784808712723

☆ Extract passages ☆

つつじ並びにしゃくなげの類でも外国に誇るに足るものが少なくない。きりしま、れんげつつじ、りゅうきゅうつつじ、むらさきりゅうきゅう、やまつつじ、さつきつつじ、ほんつつじ、みつばつつじ、けらまつつじ等、算えくればたくさんある。またしゃくなげ、おおしゃくなげ、ほそばしゃくなげ、はくさんしゃくなげも外国にない品種で、外国には好かるる花木である。
(牧野富太郎 著『牧野富太郎選集 2 春の草木と万葉の草木』より)




No.2201『海の向こうでニッポンは』

 日本では当たり前のものでも、いざ海の向こうではまったく異質なものとして取りあげられそうです。そう、思っていたときに、この本を見つけ、読むことにしました。
 たとえば和食だが、海外で食べる和食は、なんとなく違うし、まったく違う場合もあります。これは、中華料理でも同じで、中国本土で食べるものと日本やそれ以外の国で食べる中華料理とは似て非なるものです。私が四川省の成都で本場の麻婆豆腐を食べようと陳麻婆豆腐店に行くと、なぜか隣のテーブルのものと赤みが違ってました。つまり、日本人はこんなにも辛いものは食べられないと気を遣ってくれたようで、味もやんわりとしていました。
 私の知り合いで、海外に行くと必ず北京ダックを食べる人がいて、各国で違うとその体験談を話してくれたことがあります。たしかに海外にも自分たちの食文化があるわけで、それと何らかの折り合いをつけないと、その国では生き残れないのかもしれません。だから、日本の中華料理は、少しずつ日本人向けの味になってしまいます。
 そういえば、スパゲッティだって、日本には明太子スパゲッティや海苔たらこスパゲッティなどがありますが、おそらく、イタリアにはそれらはないと思います。そう考えたら照り焼きだって、もともとは魚の照り焼きぐらいしかなかったのに、それがアメリカに渡り、肉料理と組み合わされて「テリヤキ」となっています。今では、日本でもハンバーガーなどではテリヤキチキンとして、若者に受けているようです。
 インドに行くと、本当に道路を牛がわが物顔に歩いています。これはヒンドゥー教では牛が聖なる生きものだからだと知っているから不思議にでもなんでもありません。しかし、インドでも足を食べる人がいるとこの本に書いてあり、ビックリしました。それはインドのゴアで、以前はヒッピーが多いことで有名でしたが、それよりはるか前にフランシスコ・ザビエルが布教した場所で、それから日本にやって来ました。
 ところがこのザビエルは、布教の手立てとして、とんでもないことを考え出しました。「まず、ないしょで、ヒンドゥーの信者に牛の肉を食べさせる。そして、たいらげた人びとにつげる。おまえが、今食べたのは牛だ、と。聞かされ、地獄におちると覚悟したヒンドゥー教徒に、ザビエルはつげるのだ。いっしょに、イエス・キリストを信仰しよう。そうすれば、おまえもすくわれる、と。」とこの本に書いてありました。
 これが本当なら、ちょっとあくどすぎる手口です。今なら、不当勧誘に当たるだけでなく、人権を無視したことにもなり、処罰の対象にもなりかねません。私はこの近くのケララ州コーチンに行ったことがありますが、カレーといえば、ほとんどがココナッツを使ったもので、ここにはゴアのようなビーフカレーはありませんでした。
 同じインド人の話しでも、著者の知り合いで1970年代の後半に、日本へきたあるインド人男性と出合ったそうで、彼は京大理学部の留学生で京都の家に下宿していた時の話しなら楽しくなります。この本には、「母と娘だけがいる家で、男はいなかったらしい。自分は用心棒がわりに部屋をあてがわれたのかもしれないと、当人は言っていた。家での話し相手は、もちろんその母と娘だけ。おかげで、彼はすっかり京都風の女言葉にそまっていた。「ひや、うちら、そんなん、かなんえ」といった調子で、私にも語りかけてくる。自分は用心棒だと言うくせに。」とあり、私にもインド人の友人がいるので、その風貌と京都弁はなかなかミスマッチ過ぎると思いました。
 本人にとっては、後から気づいたらと思うとかわいそうですが、ザビエルの布教のやり口から考えると、こちらの方が笑いを誘います。
 そういえば、食といえばまずはフランス料理を思い出しますが、これもその源流を訪ねるとイタリア料理だそうですが、この本に書いてあったものを下に抜き書きしました。
 各国それぞれの食文化とはいいながらも、全世界、それなりにどこかでつながっているような気がします。日本も、海の向こうのニッポンも、行ったり来たりしているうちに、同質化してしまうのかもしれませんが、その差異を考えて見るのも楽しい時間でした。
(2023.7.6)

書名著者発行所発行日ISBN
海の向こうでニッポンは(平凡社新書)井上章一小学館2023年5月15日9784582860290

☆ Extract passages ☆

 16世紀に、メディチ家のカテリーナ姫が、フランス王アンリ2世の后となった。その時、カテリーナはフィレンツェの料理人を、フランスまでつれていく。野蛮なフランスに、自分がたべられる食事はないと、おびえたためである。そして、この時もちこまれたフィレンツェ風が、フランス料理の礎となった。
(井上章一 著『海の向こうでニッポンは』より)




No.2200『牧野富太郎の植物愛』

 4月3日からNHKで連続テレビ小説「らんまん」が始まったこともあり、牧野富太郎関連の本が次々と出版され、まさにブームとなっています。たまたま、3月25日に四国の高知に行き、その「らんまん」の撮影を見てきましたが、高知県では昨年あたりからその流れがあったようです。
 さて、この本ですが、著者とは何度かお会いしたことがあり、あるときなどは小野川温泉に泊まったことがあるということで盛り上がったことがあります。また、雲南省の昆明で開催された学会でお会いしたときには東アジアの植物についての含蓄のある話しをうかがいました。著者は、東京大学理学博士号をとり、 東京大学の講師や助教授、そして東京大学総合研究博物館教授になられました。そして2006年に定年退官され、現在は東京大学名誉教授と東京大学総合研究博物館特任研究員としてたくさんの著書があります。
 ただ、小石川植物園に在籍したことはなく、牧野富太郎と植物分類学でつながっています。そして、「明治45(1912)年には東京大学の講師を嘱されだが、牧野の舞台は、象牙の塔から国内に遍在する同好者へと拡大したといってよい。大学の研究室で外国語で書かれた論文を精読し、また自らも外国語で論文を書くのは昔労の連続だった。そのような地道な探究法より、直接植物に自ら接し、特徴を知り、類似種からの区別点を見出すやり方が性に合っていた。この牧野の性分は、植物を愛好する一般の人々との相性も良かった。野外では愛好者を前にして、自らが捉えた植物の特徴を伝え、類似種との区別点を教えた。それらは愛好者の日常にその日から役に立つ、応用可能な情報だった。加えて、牧野の巧みな話術は多くの人たちを惹きつけた。」と書いてあり、たしかに「らんまん」を見ていると、もちろんテレビ小説ではありますが、まわりの人たちを明るくする人だったようです。だから、著者がいうように、何十年か後に回想録で他人を誹謗中傷したとしても、関係者のほとんどが亡くなっているとはいえ、その内容についてとがめだてすることもなかったようです。
 そういう意味では、大店の若旦那特有のマイペースを一生涯貫いたようで、まわりの人たちの苦労が、テレビを見ているだけでも伝わってきます。
 そういえば、私も今年の3月に入ってから、牧野関連の本を何冊も読みましたが、はたして、このようなことが本当にあったのだろうかと疑問に持つところが多々ありました。それをマイペースというだけで割り切れるものでもなく、多くの人たちを巻き込んでいるわけですから、困ったという人たちも多かったと思います。
 著者は、終章でこれだけは言いたいというようなところがあり、「牧野富太郎著『牧野日本植物図鑑』(北隆館)は、皇紀2600(1940)年を期して出版されることが早くから決まっていたようだ。今日においても評価の高い図鑑である。しかしながら当初、牧野はなかなか原稿を書かず、出版社をやきもきさせた。本書の発刊に尽力していた三宅驥一、向坂道治の両氏が大いに心をくだいたこともあり、東京大学植物学教室の教授である中井猛之進が中心となって原稿の準備を進めた。つまり、同教室の分類学研究室の人たちらが下原稿を書くことになった。後年、当時の協力者の一人たった木村陽二郎は次のように記している。「中井先生としては一方で牧野先生を助け、一方で若い人たちに勉強させると同時に出版社から金を出させて弟子たちにアルバイトをさせるという計画だったと今は推測する」(以下、「牧野先生と私」/同前)。引用を続けよう。「われわれはこれを中井先生の命令と受けとり本田正次、佐竹義輔、伊藤洋、前川文夫、原寛、津山尚の諸先輩の驥尾に付して大学院生の私も筆をとり、時には学名までも検討した。もちろんこれら私たちの書いたものはすべて牧野先生が朱筆を入れて書き直されたのである。序文に先生は私たちの名を列記して感謝の念を示された」と書いてます。
 それでも、すべては牧野富太郎が朱筆を入れて書き直されたと書いてあり、内実はこのようなものであったと知り、納得もしました。
 下に抜き書きしたのは、「第5章 植物愛が結実した出会い」のなかに書いてあります。
 私は木村有里教授と原寛教授と直接の出会いはありませんでしたが、その方たちの次の世代の方とはいろいろなつながりがあり、話しをうかがったことがあります。やはり、牧野富太郎という方は、植物関係の方だけでなく、多くの人たちから好かれたということだけは間違いなさそうです。
(2023.7.3)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎の植物愛(朝日新書)大場秀章朝日新聞出版2023年4月30日9784022952141

☆ Extract passages ☆

 分類学実験及び野外実習の一部を担当するようになったのは、59歳になった大正10(1921)年頃からである。幸いにして、大正11(1922)年に入学した木村有香(のちに東北大学教授となる)以降、分類学を専攻する学生が続いた。昭和6(1931)年入学の原寛東京大学名誉教授が、
「牧野先生はいつも時間割上の時刻をとっくに過ぎた夕刻に教場にやってきて、授業そのものもさることながら、まず学生にコーヒーを振る舞い、雑談風に始まった講義の光景を、何度も楽しく思い出す」
 と、植物学を学ぶ親しい知人に話されていたのを筆者も覚えている。植物分類学を専攻したほとんどの学生に富太郎は尊敬されていたといえるだろう。
(大場秀章 著『牧野富太郎の植物愛』より)




No.2199『ケンミン食のなぜ』

 この本の題名の前に、「大胆推理!」と書いてあるので、著者が自分の推理を働かせて書いた本ということらしく、考えて見れば、テレビの「秘密のケンミンSHOW極」を見ても、それってホントかな、と思うところが多々ありますが、こういうことはおそらく大胆に推理しなければ書けないことのようです。
 だとすれば、その大胆推理を楽しみながら読めばいいわけで、食のヒントがたくさん見えてきました。そのひとつに、「04 山形の食文化は、なぜ特別なのか?」というところに、置賜のことが書いてありました。最近は山形の食というと庄内の奥田シェフがらみのことが多く取りあげられていますが、たしかに昨年も奥田シェフの「アル・ケッチャーノ」で食べましたが、たまたまシェフ自身がいて、お話しをうかがうことができました。最近は、米沢市内にある六十里鯉屋さんとのコラボで置賜にも行くということでしたが、この本には「昭和初期の暮らしを取材した『日本の食生活全集E聞き童[ 山形の食事」(農文協)を開いてみる。すると、存在が目立つのは、庄内よりも山間部の置賜地方だった。ここは江戸時代、名君で知られた上杉鷹山の管理下にあった。飢饉を乗り越えた知恵を、周辺地域は置賜地方から学んだのである。しかし近代化に乗り遅れ、江戸時代からの知恵が受け継がれてきたことが、山形を特別な食の都にした。ある意味で、周回遅れのトップランナーだったのである。」と書いてありました。
 たしかに上杉鷹山時代に書かれた「かてもの」には、飢饉のときに食べられるというだけでなく、山菜としても有用な食材が多数取りあげられていて、今でも復刻版が手に入ります。
 ということは、今でもそのときの知恵が生かされているということで、頼もしいことです。遠くからいらっしゃる方たちに昔からの調理法で山菜などをお出しすると、とても喜ばれます。しかも山が近くなので、まさに山菜などは採り立てのもので、奥田シェフがコラボしている米沢鯉なども、地元産ですから、鯉のアライなども新鮮です。
 やはり、美味しいというのには、ワケがあります。
 下に抜き書きしたのは、「19 カステラはなぜ、江戸時代の日本に根づいたのか?」に書いてあったものです。
 というのも、カステラは和菓子なのか洋菓子なのかとずっと気になっていたこともあり、私的にはどちらともいえないと思っていました。よくいただくのは福砂屋さんのもので、以前は文明堂のカステラも東京の方のお土産に多くありました。
 この本では、福砂屋と松翁軒、そして長崎菓寮匠寛堂のカステラを食べ比べしてましたが、私は長崎へは行ったことがないし、匠寛堂のカステラも食べたことがないのですが、福砂屋のものが好きで、あのザラメの敷いたところの部分の食感がいいです。もちろん、お菓子などは個人の好きずきですからどうでもいいでしょうが、よく和菓子のサイトに東光するときに今までは悩んでいました。
 これからは、堂々と投稿したいと思います。
(2023.6.30)

書名著者発行所発行日ISBN
ケンミン食のなぜ阿古真理亜紀書房2023年4月28日9784750517834

☆ Extract passages ☆

 カステラは、スポンジケーキなど一般的な洋菓子と風味が異なり、しっとりしているところに特徴がある。一番の違いはバターを使っていないところだ。スポンジ生地の主な原料は、小麦粉・卵・砂糖・バター。一方、カステラの主材料は小麦粉・砂精・卵。バターを使っていないからこそ、16、17世紀の日本でも定着できた。卵は南蛮人たちが好んで食べているのにつられ、日本人も食べるようになった食材である。……
 和菓子屋でつくられているのも、このお菓子が江戸時代に定着したことが影響したのだろう。その意味で言えば、カステラは和菓子である。
(阿古真理 著『ケンミン食のなぜ』より)




No.2198『忘れないでおくこと 随筆集「あなたの暮らしを教えてください 2』

 この本を読み始めたのは、今月14日から仙台市に行ったときからで、宿泊したホテルメトロポリタン仙台イーストの窓際の明るいところです。
 しかもコーヒーを飲みながらで、おやつはエスパルのカズノリイケダで買ったケーキ「ポリニャック」です。マスカルポーネチーズのクリームのわきにカシスのコンフィチュールがたくさん付いていて、落とすと困るなと思いながらゆっくりと食べました。
 さて、この本ですが、なぜ「忘れないでおくこと」なのかと思っていましたが、最後の中島京子さんの「忘れないでおくこと」ヒントとがありました。そこには、イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノの「コロナの時代の僕ら』(早川書房)のあとがきに、「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」と書いてあったのが胸に重く響いているといいます。そして、「著者は、新型コロナが襲い掛かってきたときに、人々がいかに無防備だったか、それに無知だったか、あるいはひそかにデマかもしれないような噂にすがったか等々、公式の記録には残らないだろういろいろなことを、「忘れたくない」と書いた。おそらくは、それは簡単に忘れられてしまう可能性があり、そして忘れてしまえばもう一度同じように人を無防備にしてしまうものだからだろう。」とあり、この新型コロナウイルスだけでなく、忘れたくないことがいろいろとあるだろうと思いました。
 たしかに、忘れてはならないものもあるはずで、このように記録しておくことは、とても大切だと思います。
 そういえば、青木奈緒さんの「形あるもの」のなかに、金継ぎの話しが出てきます。お茶をしていると、たまにお茶会の道具のなかにも金継ぎのものが出てきますが、とても大切にされてきたものではないかと思ってしまいます。この本の中に、「形あるものはいずれは壊れる。この道理があるから、歳月を経て伝えられたものに感謝の念も湧くし、儚さと美しさは同義でもある。うっかり手を滑らせる瞬間は誰にもあり、取り返しのつかない事実に直面すると、しょんぼりとうなだれる思いがする。金継ぎはそんな心の痛手までやさしくいたわってくれる伝統の技術だ。もしもの時に助けてくれる人がいると思うと心底有り難い。けれど、だからこそ指先には神経を使ってぞんざいな扱いはすまいと、見事に修復された器を手に思っている。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 あの東日本大震災のとき、原発神話が脆くも崩れましたが、原発という最高度の設備でさえも、壊れるときは壊れます。しかも、人の間違いが多いそうで、そのためにいくつかの安全装置が備わっているといいます。それでも、自然災害には脆く、今でもとんでもない危険を起こすかもしれない状況が続いています。
 茶道具の器も同じで、たまたま私が目にしたのは、席から戻ってきた楽茶碗を洗っているときに、「あっ!」という声が聞こえました。軽く洗っていたようですが、その楽茶碗が割れてしまったのです。たしか何代前かの楽茶碗でしたから、脆くもなっていたかもしれません。席主は、いいよとは言いましたが、みんな気まずくなり、お茶会が終わってから、その茶碗を洗っていた方はやめてしまったということでした。これも金継ぎをすれば使えるようになると思いますが、知っている人にとってはあまりにも生々しい話しですから、お茶会の話題にもなりません。
 下に抜き書きしたのは、今田春夫さんの「お気軽極楽?」のなかに書いてあったものです。
 たしかに、笑顔なんて教えて教えられるものではないと思っていましたから、これは目からうろこでした。たしかに、今の時代は無差別殺人があったり、たまたま通りがかっただけの理由でとかいわれると、どうしようもないないことがあります。
 そういう時代だからこそ、なるべく人との摩擦を起こしたくないと思う気持ちも理解できます。でも、そう考えると、笑顔も不気味です。
(2023.6.28)

書名著者発行所発行日ISBN
忘れないでおくこと 随筆集「あなたの暮らしを教えてください 2暮しの手帖編集部 編暮しの手帖社2023年3月19日9784766002300

☆ Extract passages ☆

……アレは防御というか自分には敵意がないことを知らせるのが目的であり(つまり、相手を喜ばせるのではない)、一昔前の営業スマイルとは似て非なる、教わらないと出来ない、きわめて今日的なスキルなのだと説明してくれた。
 ホントかね? とも思ったが、そう言われれば最近、買い物をしているとよく、「袋にお人れしてよろしかったでしようか?」とか訊かれる。病院に行けば「患者さま」だ。あれも一緒か。どこに行っても必要以上のへりくだった対応には、うんざりさせられるが、それもこれも客とのトラブルから身を守るてだてというのならば仕方ない。
 実際、些細なことであっさり人が殺されてしまうケースも増えている。
(暮しの手帖編集部 編『忘れないでおくこと 随筆集「あなたの暮らしを教えてください 2』より)




No.2197『「良かったこと探し」から始めるアクセシブル社会』

 著者は、現在、公益財団法人 共用品推進機構の専務理事で、もともと1999年にこの機構を設立した方だそうです。しかし、こういう機構そのものがあることすら私は知りませんでした。
 この「アクセシブル」というのは、英語の「ACCESSIBILITY」で、利用しやすいとかアクセスしやすいという意味のようです。それに近い言葉は、日本ではバリア(障害や障壁)フリーという言葉もよく使います。また、誰もが使いやすいデザインという意味で「ユニバーサルデザイン」ともいうようです。
 たしかに、障がい者が使いやすければ他の人たちも使いやすようだし、今の高齢化社会にはとても大切なことだと思います。私自身も以前は簡単にジャムの蓋を開けられたのに、今はなかなか開けられないこともあります。また、昔の簡単なライターはすぐ着いたのに、今は強い力を入れないと着火しなくなりました。これは、子どもたちが不用意に使えなくしたようですが、世の中には、ある人にはとても使いやすいのに、ある人たちにとってはとても使いにくいものもありそうです。ただ、そうなってみないとわからないのでは困ります。
 それで、「良かったこと探し」が始まったようです。
 そういえば、柏餅の葉が表が出ていたり裏が出ていたりするのは、なかのアンが小豆か味噌味かがわかるようにではないか、と思っていました。この本には、「江戸時代の風俗研究家であった喜田川守貞が書いた『守貞設稿』の中に、かしわ餅に関して、「江戸には味噌餡(砂糖入味噌)もあり、小豆餡は葉の表、味噌餡は葉の裏を出した由」とあります。これは、味噌餡と小豆餡のかしわ餅を、葉の裏表の違いを見て区別することができるだけでなく、日の不自由な人が触って区別ができるのです。つまり、日本には江戸時代から障害の有無にかかわらず便利な共用品(アクセシブルデザイン)があったのです。」と書いてありましたが、逆に今のウイルス対策からいえば触らないことも大事ですから、別な工夫が必要になりそうです。
 ということは、それまでは良かったことでも、時代の変遷によっては悪いということにもなりかねません。つまり、誰もが使いやすいというためには、絶え間のない工夫も必要だということです。
 それで、なるほどと思ったのは、歩道と横断歩道の段差についてです。この本には、「現在、歩道と横断歩道の手前の段差は2センチと、国土交通省関連のバリアフリーに関する法律に基づくガイドラインでは定められています。「バリアフリーは段差をなくすことでは?」との疑間を持つ方もいるかもしれません。確かに車椅子使用者にとっては、段差がなくスロープになっていれば横断歩道へもアクセスがしやすいです。しかし、段差がないと、白杖を使い一人で移動している視覚障害者には、どこまでが歩道で、どこからが横断歩道かがわからず、間違って車道でもある横断歩道に入ってしまい命の危険にもつながってしまいます。そのような状況で、車椅子使用者と視覚障害者が相手の状況を理解せず自分の主張をし続けると、日本全国、バラバラな状況のままとなってしまいます。そうならないため、両者は議論と検証を重ね、2センチという結論を導き出したのです。2センチであれば、車椅子使用者も移動が可能であり、視覚障害者が白杖の先で段差を確認できる貴重な数値なのです。」と書いてあり、納得しました。
 ある人にとっては大切なことでも、別な人にとっては不便になるということも、たくさんあると思います。そういうときは、この2pの段差の話しを思い出し、多くの人たちの知恵を集めて解決しなければならないと思いました。
 下に抜き書きしたのは、『第3章 原点は、「不便さ調査」』に書いてあったものです。
 これなどは、ほとんどの日とが何気なく使っているかもしれませんが、目の不自由な方にしたら、大きな問題です。そして、それを課題を解決しただけではなく、業界の基準になり、さらに国際規格にもなったということです。
 日本の世界貢献は、お金を出すだけでなく、知恵を出して、もっともっと多くの人たちに喜んでもらうことだと思いました。
(2023.6.25)

書名著者発行所発行日ISBN
「良かったこと探し」から始めるアクセシブル社会星川安之小学館2023年4月3日9784093891103

☆ Extract passages ☆

 以前の洗濯機は、ボタンを押すとそこが凹み、何が作動しているかが触ってもわかったのですが、技術の進歩によって平らなスイッチ(シートスイッチ)になってしまったことで、日の不自由な人の操作が困難になってしまったのです。
 彼は、次の勉強会の時、他のメンバーに、「目から鱗が落ちました」と話してくれました。その後、その課題は彼の会社で検討され、スイッチのON側には小さな凸点を付け、その他のスイッチには点字表示を行うことを決めました。そのルールは一般財団法人家電製品協会の業界基準となり、次に日本産業規格(JIS)となり、2010年には何と、日本からの提案で国際規格(IS)にもなりました。
(星川安之 著『「良かったこと探し」から始めるアクセシブル社会』より)




No.2196『あの常識、全部ウソでした』

 常識を英語にすると、コモンセンス(Common sense)、つまり共通の感じ方です。ちょっと直訳っぽいのですが、いわゆる共通認識のことです。
 だとすれば、最大公約数が社会の常識となるわけで、それに従っているだけではあまりにも芸がないと私は思ってます。ということで、常識だって、多くの間違いやウソがあると思いながら、この本を読みました。
 すると、あるわあるわ、やはり常識すらも疑ってかからないと間違ってしまいます。たとえば、年をとってくると筋肉痛は少し時間が経ってからやって来るとよくいいますが、実は筋肉痛が起きるまでの時間は年齢ではなく運動の種類で決まるそうです。この本には、「研究者らによると、筋肉痛が発生するまでの時間を決めるのは、年齢ではなく「どんな運動をしたか」であるとされている。短時間のうちに高負荷の運動をするほど筋肉痛が起こるのは遅くなり、逆に軽めの運動をじっくりすると、筋肉痛が起こるのは早くなるのだ。」そうです。
 しかし、筋肉痛が発生する仕組みそのものの解明は、いくつかの説があり、はっきりとはわからないそうです。
 この本の副題は「信じてはいけない雑学」とあり、たしかにケガや病気に関する間違いは、ときには命取りになることもあるので、むやみに信じてはいけません。よく、長生きをしたければ粗食がいいといいますが、元気で長生きして活動的な人に聞くと、肉を食べているといいます。私の知り合いのお茶の先生などは、80歳過ぎてもステーキをレアで食べる方で、90歳になってもお稽古をしていました。また、記憶力もよかったと思います。
 そういえば、私の場合は果物が好きで、それだけで食事ができれば楽しいとさえ思っていますが、この本には、「いくらフルーツであっても、体に入ってしまえば糖分は糖分。砂糖やケーキの糖分と同じである。したがって、必要以上に摂りすぎてしまえば、消費されずに体内に蓄積されてしまう。また、食事の際にフルーツを食べると、脂肪分や油分と結合して、体により吸収されやすくなってしまう。フルーツも食べすぎれば太る原因になるのである。」とあり、やはりなんでも過食は慎むべきのようです。
 でも、果糖は消化が早いので、よくスポーツ選手が試合前にバナナを食べたりするのは、短時間でエネルギーに変わるからいいそうです。また、フルーツは、朝食に食べるのがおすすめだそうです。
 下に抜き書きしたのは、「第2章 健康にまつわるウソ」に書いてあったものです。
 これは、認知症予防財団の「ボケ予防10ヵ条」で、もしかすると、これを守れば、ボケないかもしれません。
(2023.6.22)

書名著者発行所発行日ISBN
あの常識、全部ウソでした(アスペクト文庫)高比良公成 編アスペクト2012年9月24日9784757221529

☆ Extract passages ☆

1 塩分と動物性脂肪を控えたバランスのよい食事を
2 適度に運動を行い足腰を丈夫に
3 深酒とタバコはやめて規則正しい生活を
4 生活習慣病の予防。早期発見・治療を
5 転倒に気をつけよう。頭の打撲はぼけを招く
6 興味と好奇心をもつように
7 考えをまとめて表現する習慣を
8 こまやかな気配りをしたよい付き合いを
9 いつも若々しくおしゃれ心を忘れずに
10 くよくよしないで明るい気分で生活を
(高比良公成 編『あの常識、全部ウソでした』より)




No.2195『生活骨董。』

 私も、もともと骨董品が好きで、若い時からお茶を習っていたこともあり、お茶会のためにお茶道具もそろえたりしました。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響でお茶会もできなくなり、それでもお抹茶を毎日飲んでいるので、茶碗だけは増えました。
 つまり、集めるというよりは、毎日使うので、目前を変えるためにもネットオークションなどで落札してしまいます。この本の副題は「蒐集ではなく、使う、育む、和のアンティーク」ですから、まさに毎日の生活で使うための古い道具です。
 そういう意味から、ちょっと読んでみたくなりました。
 この本のなかで著者は、「骨董というのは、集める楽しさと、使う楽しさ」があるといいます。たしかに、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」をみていると、いかに集めて楽しんでいるかというのがよくわかります。しかし、なかなか家族に理解されないというか、1人でコソッと買ってきたり、ネットオークションで落札したりしているようです。だから、なるべくみんなにわからないように押し入れにしまったり、箱に入れっぱなしにしたりしています。
 これでは、楽しんでいるということにはなりません。私は、集めて楽しむということが、ワンセットだと思っています。ちなみに、季節毎に抹茶碗を棚の上に並べて、今夜はどの茶碗でお茶を点てようかと悩みながら楽しんでいます。もちろん、菓子皿も選びますし、その菓子によく映える茶碗を選びます。
 第4章の「本物を使うことの意味」で、ものを大切にする心は親が教えることだと書いてますが、「うるわし屋」の堀内さんは、著者の質問に「大人と同じもので、少し小ぶりのものを使わせるようにしてきたんですね。プラスチックとかを与えると、これは落としても割れないとか、割れてもいいとか親がそういう気持ちになりますよね。だから子どもが何をしても怒らない。これが悪循環になっていくと思うんですね。ちゃんとしたものを使わせてると、親も扱い方を教えるし、子どものほうでも、落として、大きな音をたてて割れたら、いけないことをしたと思うでしょう。そうすると無茶なことはしなくなるんですね。」と話します。すると、著者は、「壊れない食器を与えてると、子どもが壊れちゃうかもしれない。そもそも、生まれたときから、ものは大切にしなきゃいけない、なんてことをわかってる子なんか、いないですからね。」といいます。
 そういえば、ある人間国宝の陶芸家が、子どもにこそ良い茶碗でご飯を食べさせないとダメという話しをしていましたが、おそらく、それも同じようなことだと思います。
 下に抜き書きしたのは、「第2章 生活骨董から見えてくる、心の置きどころ」に書いてあったものです。
 よく、骨董の目利きになるには本当に間違いのな良いものを見なければといいますが、たしかにそれはあると思います。私が学生のころ訪ねた骨董屋さんに、なるべくなら博物館や美術館などの本物をたくさん見たほうがいいよと言われたことがあります。そういうところで見ることが好きなこともあり、興味のある企画展があるとよく見て歩きましたが、それらを手に入れて楽しむということは金銭的にも私にはできません。
 それがよくわかってから、なるべく自分にも買えそうなほどほどのものを見つけ、それを手に入れて楽しむようにしました。
 だから、この抜き書きしたところは、よく、わかります。
(2023.6.19)

書名著者発行所発行日ISBN
生活骨董。(PHPエル新書)麻生圭子PHP研究所2002年4月19日9784569620404

☆ Extract passages ☆

 ならば、日を養うのは、適当なところで切りあげて、センスを養うことに、心もお金も使ったほうがいいと思うんです。センスになると、美術館や骨童屋さんめぐりは、役には立ちません。だって、だったら、日がな、いいものを見ている学芸員や古美術商さんたち、みんなセンスがよくなるはずです。ね、うーん、でしょう?
(麻生圭子 著『生活骨董。』より)




No.2194『79歳、食べて飲んで笑って』

 青山「PAROLE」店主、桜井莞子さんて何もの、という印象しかありませんでしたが、いざ読んでみるととてもおもしろく、気づかされることも多々ありました。
 各チャプチャーごとに料理の写真と材料や作り方が書いてあり、おそらく料理好きならすぐに作ってみたくなるようなものばかりです。しかも、その写真が素敵で、私もほぼ毎日、夜に抹茶を点てて飲んでいますが、そのときに食べる和菓子をSNSに載せて楽しんでいるので、とても参考にもなります。
 そういえば、この本のなかで「ケータリング」との出会いが書かれていましたが、その行動力に驚かされます。
 ある時、マガジンハウスの現会長の本滑良久さんから、「NYで流行しているケータリングが面白いぞ。これから日本でもヒットするかもしれないね」という話をきいたそうです。さらに、アートディレクターの渡邊かをるさんからも、「アメリカでは砂漠での撮影現場にケータリングカーがやってきて、車からボーイさんが降りて、食器をセットしてワインを注いでくれ、ランチタイムは1時間半かけてみんなで食事するという話も聞きました。例え何もない場所でもちゃんと食事しましょうという心意気、その方が気持ちよく仕事ができるじゃない?そういう提案が、日本でもできたらいいな、と思いました。」と書いてありました。すると、「どうしても現地を見てみたいという好奇心が勝り、私はニューヨークに飛び、ケイタリング会社を訪ねていくことにしました。」ということです。
 このことは、いろいろな方々との出会い、それといい付き合い方をしなければそのような情報すら入らないのではないかと思いました。
 出会いといえば、黒田泰蔵さんの白磁の器もそうですが、「白という色には、ちょっと気取った印象もあり、冷たさもある。けれど見る側からするとさっぱりと潔い気持ちの良さがある、強く、美しい色だと桜井さんは思うのだそうです。「白ってね、 いくらでも染められる色じやない?どうにでもなるはずなのに、一方では純粋であるがゆえにある種の怖さも併せ持ってる。白いものって、泰蔵さんのお皿にしてもそうだけれど、こちらを遊ばせてくれる。その強さに負けずに、よし、この″白"を自分のものにしてやろうって挑戦していくプロセスみたいなものがまた楽しいのよ」っていい、だからお店のスタッフも白いシャツと白いエプロンなんだそうです。
 よく、黒い色はいろいろな色を飲み込んだもの、白い色はすべてを排除した色といいますが、白い色というのは複雑で、安っぽいのから高貴なものまでいろいろです。だいぶ昔に聞いた話しですが、私たちが「白」と簡単に片付けてしまう色を、イヌイット語では17種類もの単語があるそうです。つまり、白色だけでもカラフルに見えているわけです。
 この本でたくさんの気づきをいただきましたが、私もおいしいものを食べて、毎日お抹茶を飲んでお菓子を食べ、「おいしいね、おいしいね」と言いながら生きていこうと思いました。
 著者も、「だって先のことを心配したって、何が起きるかなんて誰にも分からないでしょう。起きてもいないことを心配したり、過ぎたことにとらわれて身動き取れなかったりしてるのでは時間が勿体ない。目の前にいる人、目の前にあることを大事にして生きていくことが、今、私にできることなんですもの。」と書いています。
 下に抜き書きしたのは、「chapter10 70歳、新しい旅がまた始まる」に載っていたものです。
 まさに、この本の題名そのままで、私もそうですが、20年前と同じようには動けません。それに気づいてから、毎日万歩計をポケットに入れてますが、小町山自然遊歩道を歩くとそれなりに歩数は稼げますが、家でじっとしていると2千歩も歩かないときもあります。
 だから、小町山自然遊歩道を歩くときにはカメラを持って出て写真を撮りながら、もっと先にきれいな花が咲いているかもしれないと思っているとけっこう歩けたりします。今では、それが日課のようなものです。
(2023.6.16)

書名著者発行所発行日ISBN
79歳、食べて飲んで笑って桜井莞子産業編集センター2022年11月15日9784863113473

☆ Extract passages ☆

 お店に立つようになってまず気づいたことは、20年前と同じようにはもう動けないという厳しい現実でしたね。物忘れもするし、老眼鏡がないと何もできないし、すぐに腰痛にもなる。若い頃、当たり前にできていたことがどんどん難しくなるんです。完璧主義で、潔癖症だった私は、最初のうちはそういう自分を受け入れられなかったんだと思います。
 けれどそんな時にあみちゃんが「えみちゃん、前と同じようにはできないけど、それはそれでいいじゃない」と言ってくれて、少しずつ現実を受け入れ、前と同じようにはできなくても、これはこれでいいんだって思えるようになっていきました。失敗を責め合うのではなくて、笑い飛ばす方がよっぽどいいものね。そう思えるようになってからずいぶん楽になって、これまで通り仕事を楽しめるようになりました。
(桜井莞子 著『79歳、食べて飲んで笑って』より)




No.2193『リトアニアが夢見た明治日本』

 さて、リトアニアって、たしかバルト三国のひとつだというぐらいの認識で、はっきりと地図でどこと指し示すこともできませんでした。
 しかし、ロシアがウクライナに侵攻したことで、改めて地図を見たことがあります。すると、バルト三国の南はポーランドで東にはベラルーシ、さらにカリーニングラードというロシアの飛び地もありました。しかも、このリトアニアも何度もロシアに攻め込まれた歴史があり、日露戦争のときには、リトアニア人はロシアの兵隊として日本と戦ったそうです。
 まさか今の時代に、ロシアがウクライナに侵攻するとは思ってもいませんでしたが、「バルト三国の人々は、昔からロシアの脅威と対峙しながら、時刻のアイデンティティーや文化、国民国家の存在を必死で守り抜いてきた」と書いてありました。歴史を紐解けば、帝政ロシアの時代から併合されたり再建したり、またソビエト連邦に組み込まれたりナチスドイツに攻め込まれたり、正式に独立したのはソ連が独立を承認した1991年9月6日です。そしてその月の9月17日にバルト三国はそろって国際連合に加盟しました。
 このリトアニアの国土面積は約65,300平方キロメートルで、東北六県を合わせたぐらいだそうです。そして、日本人ととても似通ったところがあり、元国家元首のヴィータウタス・ランズベルギスはインタビューで、「日本とリトアニアの共通点はなんといっても自然に対する心情です。自然を大切にするのが日本文化の特徴ですね。どんなせまい小さな場所でも自然を取り入れて坪庭をつくる。リトアニア人も同じですよ。どんなに小さな庭にも花畑をつくるのです。そういう自然への思いに大きな共通点があると思います。」と話し、さらにキリスト教が広まる前のリトアニアの独自の宗教の話しがあり、「自然を崇拝する多神教、ロムヴァです。リトアニアは、ヨーロッパの中で最も遅くまでキリスト教を取り入れなかった国なのです。リトアニアの十字架を見ても、おわかりでしょう?」と言います。
 著者は、「キリスト教の十字架とは違って、太陽や蛇やイカヅチなどのシンボルがついている。はるか昔から自然の精霊を神としてあがめてきたリトアニア人と神道という独自のアニミズムを持つ日本人は、自然に対して似通った気持ちを持っているんだなと、納得します。」と答えています。  おもしろいと思ったのは、著者が養蜂家のヴィータウタス・マルケヴィキチュスさんを訪ねたとき、「ハチと仲良く作業をするためには、巣箱を開ける前に神さまに祈りをささげるのが習わしなのです」といい、祈りの最後に「ナマステ」と言ったそうです。このナマステというのは、インドでもネパールでも挨拶に使いますが、リトアニア語はインドヨーロツパ語の中で最も古い歴史をもっているそうで、サンスクリット語に由来する言葉も生きていると感じたそうです。
 そういえば、杉原千畝氏がリトアニアでポーランド系ユダヤ人の難民に日本の通過ヴィザを発給し苦境から救ったということは知っていましたが、ではなぜヴィザが発給できたかというと、「カウナスでオランダの名誉総領事を務めていたヤン・ツヴァルティンディーク(1896〜1976)が、日本を通過した後にユダヤ人たちが渡る目的地としてオランダ領キュラソーのヴィザを発給して、彼らの行く先を保証したからだ。このツヴァルティンディークとの連携プレイによって、1939年9月にナテス・ドィッが攻め込んだポーランドから中立国のリトアニアヘ避難してきた多くのユダヤ人の命が救われた。」と書いてありました。また本人の回想でも、「1940年7月のある朝早く、領事館に疲労困憊したポーランド系ユダヤ人が大勢押しかけてきた。口々にヴィザの発給を求めて領事館を取り囲み、騒ぎは何日も続いた。」そうで、杉原氏はポーランドとのパイプも太く、ドイツのユダヤ人に対する非人道的な処遇なども知っていたからこその英断だったようです。
 いつの時代も、大国のそばの小国は、理不尽な脅しや嫌がらせを常に受けています。今のウクライナもそうですが、このバルト三国も帝政ロシアから旧ソ連、さらには今のロシアにも大きな圧力を受けています。また、すぐ近くの台湾の人々も、同じように大国の圧力を感じながら日々の生活を営んでいます。今さら、軍事で解決する時代ではないのでしょうが、現にウクライナに侵攻したことを考えれば、明らかな脅威です。
 こういうときこそ、国連の果たすべき役割で大きいと思いますが、その大国が常任理事国を牛耳っているかぎり、解決はできないと思います。そういう意味では、この本を読んで小国の悲哀やその虐げられた国々のアイデンティティーや人権を守る努力を忘れない姿勢に感動しました。
 下に抜き書きしたのは、「第5章 近代日本を観察する」に書いてあった、福沢諭吉の言葉です。
 もともとはカイリースが執筆にとりかかる8年前に『時事新報』に発表されたもので、「宗教は茶の如し」という冒頭に出てくるそうです。そして、「宗教は社会の安寧維持のため」に必要なものとしていますが、この文章を読むと、宗教家に対する批判もあり、今の時代でもこのような考え方が大切ではないかと思いました。
(2023.6.14)

書名著者発行所発行日ISBN
リトアニアが夢見た明治日本(産経NF文庫)平野久美子潮書房光人新社2023年4月22日9784769870586

☆ Extract passages ☆

「私にとってキリスト教、神道、仏教と名づけられた信仰の間には、緑茶か紅茶か程度の差しかない。人がどんなお茶を飲むかはまつたく重要ではない。重要なのは、その価値を知るまで心ゆくまで飲み、そのお茶を飲んだことのない人にも語ることができるようにすることだ。信仰についても同様で、司祭はお茶の売り手のようなもの。しかし、彼らは間違ったことをしていると思う。自分の商品が自分に多くの利益をもたらすからという理由だけで他の商品を非難している。彼らがしなければならない唯一のことは、商品の質を維持し、それをできるだけ安い値段で売りさばくことだ」
(平野久美子 著『リトアニアが夢見た明治日本』より)




No.2192『渡り鳥たちが語る科学夜話』

 副題が少し長くて、「不在の月とブラックホール、魔物の心臓から最初の時までの物語」で、最初にこの本を手に取ったときには、これは何をいいたいのか、と思いました。でも、読み終わった今は、なるほどと思います。今まで、何気なくブラックホールにわかるようなわからないような現象と思っていましたが、この本を読むと、はっきりと理解できます。もちろん、理解できるとはいうものの、まだ、なぜという疑問は残っています。
 「はじめに」に、「実用知識の獲得は別にして、書物の愉しみは未知の世界を旅することにある。読書とは自らの心の凍土をうち砕いて、奥底に眠る異世界を探究し魂に自由を取り戻す旅に他ならない。」と書いてあり、たしかに知ることも大切ですが、それ以上にワクワクしながら読むということもあると思いました。
 そういわれれば、この本を読みながら、知らなかったことを理解できるようになり、世の中にはこんな知的冒険をしてきた方がいるのだということを知りました。
 夜話は全部で20話あり、その第20夜が「インドの鶴の神秘」で、おそらくこの本の題名ではないかと思います。実はインドやネパールに何度も行ってますが、このヒマラヤを越えるアネハヅルの話しは何度か聞いたことがあります。でも、ここに出てくる話ほど詳しくはありませんでした。この奇跡の渡り鳥の生態がつまびらかになったのは20世紀になってからで、しかも、ここにはインド北西部のラジャスタン州、タール砂漠の北端にあるキーチャン村のラタンラル・マルーという青年が餌を与えたことからの話しが載っていました。それによると、「9月半ばのある日、ラタンラル青年に新しい客人が訪れた。それは8羽のアネハヅルの家族だった。……それからアネハヅルの一家は一日も欠かさず餌を食べにきた。冬がすぎ春もたけなわ3月のある日、ツルの姿は突然消えた。寂しい半年がすぎた9月半ば、再び現れたアネハヅルは52羽に増えていた。そして次の年の9月、現れたのは193羽のアネハヅルであった。ツルの世界に何らかの社会組織があって、そこで情報交換がおこなわれているのだろうか。数年が経ちアネハゾルの数が500羽に近づくと、色々と問題があらわになってきた。ツルを食べようと集まった野犬から守るため、叔父に頼んで囲いのあるテラスの餌場を作ってもらった。餌の代金も馬鹿にならなくなり、村長に頼んで村からの予算支援を仰ぐことになった。12年してアネハヅルの数が5000を超え、村の予算だけでは賄いきれなくなったとき、英国仕立ての服に身を包んだ顎髭の紳士がマルー家を訪れた。ジャイナ国際商事協会の代表と名乗った紳士は、キーチャン村に資金援助を申し出た。ジャイナ教徒の有力な職業の一つが貿易商である。インドを世界を、渡り鳥の如く飛び回る貿易商人たちにとって、ヒマラヤを越えて飛来するアネハヅルの保護活動以上に、ふさわしい資金援助先があろうはずもなかったのである。キーチャン村で冬をすごすアネハヅルの数は、今では15000羽を超えている。」と書いてあり、アネハヅルと人との交流をしのべるので、ちょっと長くなりましたが、引用させてもらいました。
 そういえば、このアネハヅルのヒマラヤ越えは7千万年前に大きな島であったインドが、プレート移動によってアジア大陸にぶつかり、ヒマラヤが隆起したときも続いていたそうで、だから知らず知らずの長い年月にも続いてきたようです。私もネパールでその造山運動による巨大な岩のゆがみを見たことがあり、山中からアンモナイトの化石や、骨董屋さんでヒマラヤの奥地で見つかった赤珊瑚で作った数珠を求めたことがあります。普通に考えていてはなかなか想像もできないことですが、その造山運動の現場に立つと、地球のものすごい動きを感じます。
 下に抜き書きしたのは、「第3夜 土星の環から霧雨が降る」に書いてあったものです。
 このことは、たしか2021年3月に伝国の杜で企画した「138億光年宇宙の旅」の写真の解説にもあったと思うのですが、そのときは写真の迫力に感動して、これほどすっきりと理解できなかったようです。そういう意味では、この本は、数々の科学の不思議をロマンを込めて明快にしてくれるので、とても楽しめました。
 もし、機会があればぜひ読んでみてください。
(2023.6.10)

書名著者発行所発行日ISBN
渡り鳥たちが語る科学夜話全 卓樹朝日出版社2023年2月10日9784255013244

☆ Extract passages ☆

 土星の環の特徴はその大きさと明るさである。「A環」と呼ばれる明るい環の外枠の直径は27万q、月の直径の80倍ほどである。仮に月に代えてそこに土星を置いたなら、夜は魔術的な白夜のような明るさだろう。この荘厳な仮想の月がのぼるとき、環の外周は地平線の両端まで180度の4分の1近くを覆ってしまう。想像するだけで戦慄を覚える光景ではないか。昼空ではその環はさながら銀色の虹のようであろう。
 土星の環の明るさは、それが光をよく反射する大小の水の塊でできていることに由来する。大きさに比した環の薄さは驚異的で、わずか1qほどしかない。氷塊は千分の1oから10mほどの大きさで、これらの塊はお互いぶつかり合い、大きな塊を作っては壊れながら、全体として土星のまわりを周回している。
(全 卓樹 著『渡り鳥たちが語る科学夜話』より)




No.2191『伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち』

 昨年の夏の甲子園で優勝した仙台育英学園高等学校硬式野球部、須江航監督の優勝インタビューで、「青春って、すごく密なので」という言葉は、今も耳のどこかに残っています。
 そして、図書館に行くと、その須江航監督が書いた『伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち』という本があったので、即借りてきて読みました。
 この言葉の真意は、「ありがたいことに優勝監督インタビューでの「青春って、すごく密なので」という言葉が注日を浴びましたが、新型コロナウイルスのことを聞かれるとは正直思っていなかったので、常日頃から抱えていた思いがつい口に出てしまった、というのが本当のところです。とにかく翻弄され続けました。センバツが中止になり、部活動もできなくなり、夏の甲子園もなくなった。あれもダメ、これもダメと言われ、規制、何度も発出される緊急事態宣言……。それらは収まりがつけば自由が返つてくる交換条件だろうと思っていたら、まったく果たされなかったのです。本当に大人の対応に説得力がなく疑間が残りました。」というところからの発言だったようです。
 たしかに、ちょっと過剰反応ではないかと思うこともあり、孫たちも学校が休みなので、毎日、時間を決めて自宅で勉強をしたり、今まで私が収集したシャクナゲを小町山自然遊歩道に植えることにし、毎日5本ということで始めました。私が穴を掘り、孫たちがシャクナゲの苗や水を運んだり、いっしょに植えたりします。孫たちも植物を植えることに慣れ、5本以上植えることもあり、移植適期の大型連休が終わる頃まで88本も植栽できました。
 そのシャクナゲたちを見ると、あのコロナ禍のなかで植えたことを思い出し、私自身も『小町山自然遊歩道の四季 2020年 不要不急の外叔自粛の1年』という冊子を出し、このようなことがなければじっくりと取り組めなかったと思います。
 仙台育英の野球部の生徒たちも、「大会の中止を前提にしつつもモチベーションを保ち続ける努力を重ねていました」ということです。
 やはり咲きが見えないということは不安ですし、目標を失いがちです。それでも、その範囲内で何かをするということが大切だと思います。
 この本のなかで、「指導者の役割というのは、平たくいえば、モチベーションを上げることと、あとは思考の交通整理だと思うのです。選手はどうしても思考が迷子になりがちです。「うまくなるためにはどうしたらいいんだろう」という向上心が先に立ってしまい、いろいろなひとの話を取り入れようとするあまり、あちこちとっちらかって、いったいなにをやっているんだという状態になります。それだけ情報が多すぎるのです。」と書いてあり、たしかにモチベーションを上げることも大切ですが、今の情報過多の時代にはそれらを整理することも大切なことだと思いました。
 そして重要なことは、その情報が本当に正しいかどうかということも確認することが必要です。たとえば、イチローさんがあるインタビューで「お腹が出てる選手は野球選手じゃない」って言ったそうですが、2021年11月29日に国学院久我山で選手指導を行ったときの質問で、実はイチロー自身が「僕はお腹が出たら引退する」って言っただけで、その質問をした高校球児に対しては、「いやいや、良いんだよ。(体形は)特徴なんだから、それぞれの特徴をいかして。」と答えたそうです。
 さらにすごいのは、この質問をした球児が、その後の試合で走者一掃の逆転サヨナラタイムリーを放ったそうですから、いかに指導者が大切かがよくわかります。
 下に抜き書きしたのは、「CHAPTER 3 伝える」のなかに出てくる言葉です。
 たしかに、よく失敗から学ぶとはいいますが、失敗そのものを肯定するような考え方をする人は少ないと思います。さらに、「実をいうと、とにかく生徒たちに失敗をしてほしいと思っています」とまでいいます。
 だからこそ、失敗をこのように肯定できるのだと私は思いました。
(2023.6.6)

書名著者発行所発行日ISBN
伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち須江 航集英社2023年3月8日9784087817348

☆ Extract passages ☆

 失敗があるということはなにかチャレンジをしているということです。やるべきことを積み上げていった先の挑戦は、たとえうまくいかなかったとしても、失敗の理由を検証することで学ぶことができます。そこには伸び代しかありません。人生はずっとトライ・アンド・エラーの繰り返しです。現状維持ははっきり言って衰退だと思います。
(須江 航 著『伝わる言葉。失敗から学んだ言葉たち』より)




No.2190『新種発見物語』

 副題が「足元から深海まで11人の研究者が行く!」で、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」でも新種発見の話しがよく出てきます。牧野富太郎の時代なら新種発見もそんなに珍しくはなかったでしょうが、今の時代はある程度命名されてしまっているので大変ではないかと思ったのです。
 それがこの本を読むきっかけでした。ところが、意外とそうではなく、福田宏さんの話しでは、「思えば半世紀前、私は目の前にいる種は何という名前なのか適切な答えを知りたい一心で、標本づくりに腐心し、すべての個体を完璧に同定したいと願っていました。しかし、今なおそのなかから未記載種が続々と現れる始末です。つまり、結局のところ私は、小1の夏休みの宿題を今も完成できずに続けているのです。しかも、今後残りの人生を費やしても完成できる可能性はなさそうで、むしろそのことこそが、果てしない生物多様性の豊かさを、改めて私に生々しく感じさせてくれるのです。」と書いています。ということは、小1の夏休みからずっとこのカタツムリの名前は何だろうかと思い続けてきたということです。
 ある意味、私はとても幸せな生き方をしているとうらやましくなります。普通は、小1の夏休みの宿題のことなどはまったく忘れてしまい、つい、今の現実の生活に追われてしまいますから、それにつれて知りたいという好奇心もだんだんと薄らいできます。
 また、植物の世界でも同じで、田金秀一郎さんの話しでは、「じつは世界では毎年約2000種、うち東南アジアでは350〜450種の植物が新種として記載され続けており、この傾向はまだまだしばらく続きそうです。私が死ぬまでにあとどれだけの種を記載し、その植物が現実世界に存在していることをみなさんに紹介できるか――次々に新種が発表される一方で、東南アジアでは急速に多くの植物が生育する森林が劣化・消失していることを考えると、時間との戦いでもあります。」と言いながらも、それを続けていることはすごいことです。
 実際に東南アジアに行ってみると、都市部はもちろん、地方都市やその周辺部でも開発が進み、急速に森林や原野がなくなっています。私にもこのような経験があり、中国雲南省の大中甸に行った時に、中国科学院の先生たちがまとめた『雲南のシャクナゲ』の裏表紙に載っていたラセモーサム(R.racemosum)の大群落を見て、大興奮したことがあります。おそらく何百万株あるかどうかというもので、圧倒されました。ところが、その後に行ったときにはここが飛行場になるということでしたが、それから少し経ってから行くと、やはり「デチェン・シャングリラ空港」ができていて、あのラセモーサムの大群落はまったくなくなっていました。
 たしかに、ここは真っ平らですし、町から5qほどしか離れていないので、空港を建設するには最適な場所だったかもしれません。その空港建設の流れを調べてみると、1997年に建設が始まったようですが、私が行ったのは1997年5月でしたから、その後すぐだったようです。そして1999年4月30日に正式に開港し、その後も拡張工事が進み、2009年6月16日には新空港ターミナルビルも完成し、使用開始されたようです。
 そのわきの道を何度か通りましたが、その空港は一度も使ったことがなく、いつも残念な思いでなるべく見ないようにして通り過ぎていました。たしかに仕方がないことですが、これが世界の現実です。だから、植物分類学者には、日本はもとより世界的にみても「絶減」しそうになっているたくさんの植物の記載を進めてもらいたいと願っています。
 下に抜き書きしたのは、田金秀一郎さんが書いている第7章「新種、また新種。いつになったら終わるのか?」のなかに出てきます。
 私も東南アジアの一部、ミャンマーやインドネシア、カリマンタンなどの植物を見て歩いたことがありますが、本当に植物の多様性が高いと思います。そういえば、中国雲南省で1996年に開催された「東南アジアの植物の多様性と有用性に関する国際会議」に参加したことがありますが、それ以降、雲南省や四川省などの奥地を歩いて、それを実感したこともあります。
 植物は分類するためだけでなく、歩いているといろいろな発見があります。そういえば、カリマンタンでマングローブを見るために船に乗っていると、地元のテレビ局が来て、このマングローブのことを聞かれたことがあります。そのときは話しをしなかったのですが、実はこれを伐採し炭にして日本に輸出しているそうです。また、熱帯林を伐採してアブラヤシをたくさん栽培し、日本にも輸出し、日本ではそれを植物由来の油脂として多用されています。
 ちょっと話しがそれてしまいましたが、まさに世界はつながっているということを感じました。
(2023.6.3)

書名著者発行所発行日ISBN
新種発見物語(岩波ジュニア新書)島野智之・脇 司 編著岩波書店2023年3月17日9784005009664

☆ Extract passages ☆

 東南アジアは世界でも最も植物の多様性が高い地域のひとつとして有名ですが、こうしたさまざまな環境がモザイク状に存在し、それに適したさまざまな植物が存在していることが、多様性の大きな要因だと私は考えています。熱帯のジャングルとして有名な熱帯雨林はもちろんのこと、水に頻繁に浸かるために落ち葉などの有機物が分解せずに堆積している泥炭湿地林、乾季と雨季が明瞭な乾燥季節林、乾燥が強く土壌の浅いところに発達するサバンナや草原、そして河□付近には大規模なマングローブ林も見られます。
(島野智之・脇 司 編著『新種発見物語』より)




No.2189『道をひらく言葉』

 「はじめに」のところに、「さまざまな世界や生き方があることを知っていただき、人生の岐路に立ち、生き方を迷っている方、第二の人生を歩んでいる方など、それぞれにとって生きるヒントや明日への活力になれば幸いです。そのような思いを『道をひらく言葉 〜昭和・平成を生き抜いた22人』という書名に託しました。」と書いてあり、これを読んで、この本を読んでみたいと思いました。
 今の時代は、まさに混沌としています。世界のどこかで戦争があり、一般市民が虐殺され、住んでいるところが破壊されています。また、政治も経済も、世界のちょっとした情報で変化し、先々のことがほとんどわかりません。
 このような時だからこそ、もう一度会っていろいろなことを聞いてみたいと思うのは、当然の成り行きです。22人、みなそれぞれの時代を代表する方々ですが、最初は瀬戸内寂聴さんで、「今を切に生きてください」という言葉を残しました。
 私も出家しているのでわかるのですが、一般の方々は出家すればいろいろな戒律があり大変だと思いがちです。ところが、とても自由になれます。瀬戸内師は、「それまでも人様から見たら勝手なことして、ある意味で自由ですわね。だから自由に生きてきたつもりでしたけど、出家して、あっ、こんな、もっともっと無限の自由ってものがね、あるんだなってことを与えていただきました」といいます。さらに、「いろいろな戒律があって自由でないのではと思われるのですけれど、仏様というのは、そういうことも全部見通していらっしゃるので、もう何をしたって、仏様に見られる。仏は私を許してくれている。そういう感じなんです。だからとても自由です」と答えていました。
 そういえば、ある仏教学者は、戒律は破るためにある、と極端な言葉を残していますが、私はある意味、大きな仏さまの手のひらの上で遊ばせてもらっていると思っています。
 この本に出てくる人たちは、それぞれに読んでいてなるほどと思いますが、そういう気持ちになるまでは長い時間というか、経験が必要だったのではないかと思います。
 そういう意味では、時間をかけて、ゆっくりと味わいながら読んでみたいと思い、気がついたらいつもの読書時間よりだいぶかかってしまいました。
 下に抜き書きしたのは、酒井雄哉(1926〜2013)の言葉で、39歳で得度し、叡山学院を卒業し、それから住職になるための「3年籠山行」に入るのですが、その行のときの体験だそうです。そして47歳で「3年籠山行」を終えて、それから千日回峰行に挑む決意し、しかもそれを2回達成しました。
 この経験から、「人間というのは、どこで死んでもかまわないという気持ちにならなきゃいけない」といいます。
(2023.5.30)

書名著者発行所発行日ISBN
道をひらく言葉(NHK出版新書)NHK「あの人に会いたい」制作班NHK出版2023年2月10日9784140886953

☆ Extract passages ☆

 ある日の明け方、酒井は不思議な体験をする。
「阿弥陀堂のところに来て、琵琶湖の方を見たら、白夜のような、なんともいえない緑というか水色の光になっていた。『いゃあ、きれいだな』と思って阿弥陀の方を見たら、こっちは(朝日で)赤くなっている。こっち(琵琶湖のほう)は青くなってて。
『なんだろうな』と思っているうちに、お薬師さん(延暦寺根本中堂の本尊、薬師如来)の前に月光菩薩と日光菩薩があるでしょ。だから太陽と月でもって『仏様ってあるんだぜ』ということを教えてくれたんだなあ、と思いながら自分なりに『ははあ、太陽と月に照らされる真ん中にいるのは自分じゃないか』と。自分の心の中に仏様があるということを仏様が教えてくれたんじやないかと思って」
(NHK「あの人に会いたい」制作班 著『道をひらく言葉』より)




No.2188『旅芸人のいた風景』

 この本も、5月15日からの北陸の旅に持ち出した1冊です。
 やはり、旅先で読むのは、なるべく旅つながりのある文庫本で、副題の「遍歴・流浪・渡世」という文字にもそのつながりを感じました。
 もともと旅芸人は、山伏とのつながりもあり、祭文語りを調べたときに、その複雑な流れに触れたことがあります。やはり、庶民とのつながりは、わかりやすさとおもしろさがなければ聞いてはもらえず、大道芸や門付芸、見世物芸なども生まれたようです。
 3月下旬に四国の高知から高松に行き、そこでレンタカーを借りて金比羅さまにも行きましたが、ここには有名な1835(天保6)年に建てられた芝居小屋があり、現存する日本最古のものだそうです。現在の「金丸座」という名称は明治33年につけられたもので、昭和45年に国の重要文化財に指定され、この時に名称が旧金毘羅大芝居となったようです。
この旧金毘羅大芝居「金丸座」で行われる歌舞伎講演は、昭和60年から開催されるようになり、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」と呼ばれ、全国から歌舞伎ファンが訪れるそうで、四国路に春を告げる風物詩となっています。しかも、舞台装置はいまでも全て人力で行うので、それも江戸時代の雰囲気そのままのようです。
 また、2014年9月日には、たまたま秋田県小坂にある康楽館の近くを通ったので、中に入り向う桟敷や楽屋、人出による回り舞台「奈落」などを見学し、さすがここは鉱山で活気があったのだろうと思いました。
 庶民の娯楽は、時代により変遷しますが、私の子ども時代には、上杉まつりになるとサーカスが来て、さらにいろいろな見世物小屋が並びました。全部みることはできないので、そこから選ぶのですが、ほとんどが呼び込みの話しよりはおもしろくなく、がっかりして出てきたことが多かったと思います。それでも、おまつりといえばそれらがないと盛り上がらず、最近の上杉まつりは植木市さえもこじんまりとし、もちろん見世物小屋などはまったく来ません。屋台も少しで、しかもコロナ禍のときにはそれすらも出ませんでしたから、おまつりの雰囲気はまったくありませんでした。
 そういえば、海老蔵さん親子が昨年の10月に老舗の薬舗「ういろう社」を訪問したそうで、今もまだ「ういろう」を作って売っていることを知り、びっくりしました。これは、翌11月に「十三代目 市川團十郎 白猿」と「八代目 市川新之助」をそれぞれ襲名することになっていて、勸玄くんが“新之助”としての初舞台で「外郎売」を上演することになっているからだそうです。
 つまり、外郎売と成田屋のご縁は約300年ほど続いているということになります。もともとこの「ういろう」は「藤八」といい、万病に効くとされる生薬だそうで、行商人が5文で売り歩きながら、「藤八、五文、奇妙」という売り声が有名だったそうです。ただ、この薬は苦い丸薬だったので、その口直しとして売られたのがお菓子の「外郎」です。
 これは米の粉に黒砂糖で味付けした蒸し菓子で、今ではこちらの方が有名になり、名古屋や山口などの名産品にもなっています。でも、この本を読むまでは、「ういろう」はお菓子とばかり思っていたのですから、昔のことを知るというのはとても大切だと思います。
 下に抜き書きしたのは、第4章「香具師は縁日の花形だった」の「遊芸民は来訪神」のなかに書いてあったものです。
 たしかに、彼らは一般民衆と深く結び付き、露店で賑わう寺社の縁日や夜店の花形だったようです。しかも、裏街道を歩き世間の片隅で生きているので、間違っても国家が編纂する正史に登場することもありません。しかし、そんな彼らを来訪神と考えるとは、おもしろいと思いました。しかも、常日頃は賤民として扱われていたのが、初春のハレの日だけはその身分から解放され、神々の代理人として門付けをすることができたというのにも興味を持ちました。
 やはり文化史には、オモテとウラがあり、その両方を考えなければならないと、この本を読んで強く思いました。
(2023.5.25)

書名著者発行所発行日ISBN
旅芸人のいた風景(河出文庫)沖浦和光河出書房新社2016年8月20日9784309414720

☆ Extract passages ☆

「乞食人(ほかいびと)」とみなされた遊芸民は、実は異界から「訪れる神」であると説いたのは折口信夫であった。物乞いと同類とみられていた漂泊の遊芸民に神の影を見るという、 その逆説的な「まれびと」論が発表されたのは、私が生まれる3年前だった。折口もこの界隈の野巫医者の家で生まれ育って、この地域を通って中学校に通っていたので、毎日のように「ほかいびと」を目撃していたのだ。
(沖浦和光 著『旅芸人のいた風景』より)




No.2187『わが植物愛の記』

 NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が始まってから、牧野富太郎に関する本を読みたくなりました。というのも、ドラマで描かれたような性格が、本当なのかどうかを知りたいと思いました。
 しかし、ドラマでは誇張された部分もありますが、あのような性格で一生を過ごしたと知り、奥さんは大変だったろうなと思いながらも、あの時代だからこそできたのではないかと考えました。たしかに、植物学にしても、ドラマでも表現されていましたが、たかが草や木ではないかという思いの人たちがほとんどですから、それを学問として研究するというのは困難なことです。
 この本は、自身のベストエッセイ集ともいうべきもので、たくさんの著作のなかから文章を選りすぐりつくったオリジナル文庫と裏表紙に書いてありました。
 だから、あちこちで読んだものもありますが、こうして最初から読んでみると、また、新たな思いが感じられます。
 たとえば、どこかで読んで、未曾有の大震災であった東京大震災を研究のためにもう一度遭ってみたいというのは、いかがなものかと思いました。その文章は、「私は、大正12年9月1日の大震災のときも、これに驚くというよりは、非常な興味を感じた。私は大地の揺れ動くのを心ゆくまで味わっていた。当時、私は猿又一つで、標品の整理をしていたが、坐りながら、地震の揺れ具合を観察していた。そのうち、隣家の石垣が崩れ出したのを見て、家が潰れてはたいへんと思って、庭にでて、木に掴まっていた。妻や娘たちは、家の中に居て出てこなかった。家は、幸いにして多少瓦が落ちた程度だった。余震が恐ろしいといって、みな庭にむしろを敷いて夜を明かしたが、私だけは家の中に入って、余震の揺れるのを楽しんでいた。後に、この大地震は震幅が4寸もあったと聴き、もっと詳しく観察しておくべきだったと残念に思った。もう一度ああいう大地震に生きているうち遇ってみたいものだと思っている。」と書いています。
 たしかに、学者のなかには、戦争をしていることすら知らなかったという人もいますから、このような文章を残すこともあると思いますが、やはりちょっと違和感を感じます。
 私はシャクナゲ類が好きですが、それに関する話しも載っていて、「しゃくなん科(石南科)の植物は総体興味あるものが多いゆえ、園芸植物としてもはなはだ重要なる地位を占めている。ことにその中でもしゃくなんの類、つつじの類またはエリカの類(この類は日本に産せず)などにいたってはその主位を占めておってすべての園芸家をして常に嘆賞の声を放たしむるものである。かのヒマラヤ山を装飾せるしゃくなんの品種などは、だれもその雄大なるに驚かぬ人はあるまい。」と書いてます。
 現在の分類では、「しゃくなん科」ではなく、「ツツジ科」としてまとめられていますが、おそらく、牧野博士はヒマラヤに行ったことはないので、イギリスのジョセフ・ダルトン・フッカーの本、『Rhododendrons of Sikkim Himalaya』を見ていたのてはないかと思います。この本は1849年から1851年にかけて出版されたもので、私は二度ほどキューガーデンで見せてもらったことがあります。たまたま、2017年に行ったときに、この復刻版で出たばかりなので、何冊か求めてきて、今も1冊手もとにあります。
 私は、なんどかヒマラヤのシャクナゲを見に行きましたが、特に東ネパールの山々は、シャクナゲが花咲くと、赤く染まるほどでした。その下を歩いていると、桃源郷にいるかのような錯覚さえ覚え、今でもときどきそのときの写真を見ることがあります。
 下に抜き書きしたのは、牧野博士の一家言に載っていたもので、たしかに野山を歩くということは健康によいことです。
 よく、イヌを散歩に連れて歩いている人がいますが、私の場合はカメラを持って、植物の写真を撮りながら歩いています。しかも、自分で造った小町山自然遊歩道を歩くわけですから、どこにどんな植物が植えてあるのか、そろそろ咲き出すのかもわかっています。
 そういえば、牧野博士がよく遊んでいたという裏山は、現在は牧野公園になっていますが、ここにもたくさんの植物が植えられていて、さらにその一角に牧野博士のお墓があります。聞くところによると、もともとのお墓は東京にあるのですが、ここには分骨をしてあるそうです。だから、自分の生まれたところに今も眠っているということになります。
 もしかすると、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」で高知県が大盛り上がりをしているのを、ちょっと恥ずかしげに見ているかもしれません。
(2023.5.20)

書名著者発行所発行日ISBN
わが植物愛の記(河出文庫)牧野富太郎河出書房新社2022年7月20日9784309419015

☆ Extract passages ☆

 健康を保つためには、適度に運動することが必要である。植物採集は健康上大変よいことであると思う。野外にでて、日光に当る、よい空気を吸うということになる。私がつねに健康であるのはそのためであると思う。私は小さい時は、弱く痩せていたが、植物を採集して野山を歩いているうちに身体が強くなった。植物採集では、ただ歩くのではなく心を楽しませながら歩くことができる。楽しい心で歩くとよい運動になる。科学を勉強しながら、健康を築く、これは一挙両得というものであろう。
(牧野富太郎 著『わが植物愛の記』より)




No.2186『草を褥に 小説牧野富太郎』

 最近は牧野富太郎に関する本ばかり読んでいますが、5月15日から北陸を旅することになり、そのときも「旅芸人のいた風景」(沖浦和光著、河出文庫)なども持っていきましたが、この『草を褥に 小説牧野富太郎』もその1冊です。
 今回の旅は、最初は能登地方を考えていたのですが、珠洲市で5月5日に最大震度6強の揺れを観測し、さらに余震が続いていることもあり、金沢市内を歩くことにし、行く途中に、船でしか行けない温泉宿「大牧温泉」に1泊することにしました。ここは、スマホもなかなかつながらず、もちろんパソコンもできないので、ゆっくりと本を読んで過ごしました。ときには、こういうのんびりとした時間も大切だと思いました。
 この本は、小説ですから、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」と同じように真実ではありませんが、旅先でも気楽に楽しめました。でも、著者の大原富枝さんの父親は、牧野富太郎が生まれ育った佐川町に移り住んだことがあったそうで、しかも小学校で直接教えを受けたこともあったそうです。だから、著者自身も牧野富太郎のつながりのあるところを訪ね歩き、それもこの本の中に書いてあります。とくにおもしろかったのは、富太郎や妻の寿衛子さんの手紙を掲載していることで、その息づかいまで伝わるかのようです。
 人の一生を1冊の本にまとめることはとても難しいことで、そのなかの一部分を書き出すしかありません。その選び方で、小説といえども違ってきます。「大牧温泉」に着いたのは午後3時で、ここを出たのは午前11時でしたから、時間だけはあり、富山県南砺市のかじわ屋の「ちまき」でお抹茶をいただき、ボン・リブライの「越中富山 甘金丹」でコーヒーを飲みながら、この本をのんびりと読みました。
 富太郎の生まれた年は、「彼の生れた翌文久3年2月には将軍が上京し、5月には長州藩が馬関(下関)で外国船を砲撃しているし、7月には英国艦隊が鹿児島を砲撃している。アメリカ合衆国では南北戦争が始ったばかりであった。中国では大平天国の乱が起っていた。インドではイギリスの植民地にされるという大きな不幸を迎えていた。島津久光の行列を乱したというイギリス人を一刀のもとに斬りすてた生麦事件、寺田屋の変、和宮の将軍家茂への御降嫁、これらすべてが富太郎の生れた年に起っているのだ。富太郎は、世界中が新しい近代を迎える境日に生れて来て、変化の劇しい時代を生き抜いた人である。手本とすべき先例を何一つ持たない日本の夜明けに生れて来て、すべてを自分で考えて、自分が良いと思う事を創造して生きた人なのであった。」と書いてありますが、たしかに全てが変わっていく激動の時代でした。
 このことを頭に置いておくと、牧野富太郎という人の生涯が見えてくるようです。だからこそ、小学校中退でも東大の研究室に出入りすることを許されたし、不思議でもなかった時代だったと思います。さらに、「事実、豊かな岸屋の一人息子として、誰にも枝を矯められることなく、すくっと思うままに育った富太郎には、収入とか、待遇とか、出世とか、そういうものから自由になれない人たちには、理解しにくい長閑な一分囲気があった。また一方で彼の礼儀正しさも好感を持たれたにちがいない。」とも書いています。
 たしかに、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」を見ていても、ちょっと不思議で無欲で温かい雰囲気があります。しかも、学歴とか年齢とか、いろいろなことも考えないおおらかさも感じられます。
 下に抜き書きしたのは、「9.ユニークな牧野流研究者生活」のなかに書いてあったものです。
 そういえば、3月26日に佐川町立青山文庫で開催されている牧野博士の特別展に愛用の絵の具や筆なども展示されていて、その筆先の細さにびっくりしました。おそらく、この面相筆で、細かな植物画を書いていた様子が浮かびます。
 しかも使う絵の具は、最上のイギリスのものだったそうで、そのこだわりも感じることができました。今年は四国の高知県は、「らんまんの舞台・高知 牧野博士の新休日」というキャンペーンをしていて、そのガイドブックもありますので、この機会にぜひ訪ねてみてください。
(2023.5.17)

書名著者発行所発行日ISBN
草を褥に 小説牧野富太郎(河出文庫)大原富枝河出書房新社2022年11月20日9784309419312

☆ Extract passages ☆

 絵はいつもいつも描いていないと腕がにぶる、と彼は言い、夜中の二時、三時にも時を忘れて図を描きつづけた。製版所の仕事にもよく通じていて、活版、石版の仕事すべて自ら指図した。サクユリ、チャルメルソウ、セイシカ、ボウラン、ヒガンバナ。
 第四集は「ホテイラン」。これを彩色するときは「ウィンザー・ニュートン」社の絵の具でなければならなかった。殊にも彼が凝ったのは照葉樹のダークグリーンで、葉が活けるように描けなければ駄日だと言って肯かなかった。
(大原富枝 著『草を褥に 小説牧野富太郎』より)




No.2185『牧野富太郎 植物語り』

 NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が決まってから、次々と牧野富太郎に関する本が出版され、植物好きにとっては有難いことです。
 この本も、「草木と歩んだ94年」という副題がついていて、さらにビジュアル本ですので、とてもわかりやすく、楽しんでみたり読んだりしました。ただ、この本には、「4歳のときに父が、6歳のときに母が病死します」とありますが、前回読んだ『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』の略年表には、「3歳、父、佐平病死」、「5歳、母、久壽病死」と書いてあり、おそらく満年齢と数え歳の違いかもしれませんが、今の時代ですから満年齢に統一してほしいと思います。
 なかには、亡くなられた年齢も96歳とか95歳といろいろでしたが、はっきりと94歳9ヶ月と書いてあるのもあり、はっきりとわかっていいと思いました。
 というのも、77歳で東大に辞表を出してこうしを辞任し、その翌年から「牧野日本植物図鑑」を出すなど精力的に著作に取り組んでいますが、その当時の78歳という年齢のことを考えると、すごいことです。これだって、はっきりと年齢を書いてないと、そのすごさが伝わってこないような気がします。
 だから、私は信頼できる年表をコピーして、わきに置いて読むことにしています。これはぜひ、お勧めです。
 さて、どの牧野富太郎の本を読んでも、あの時代だからという思いと、あまりにも裕福な家に生まれた悲哀みたいなものを同時に考えます。昔から、文化のようなものは、富裕な人たちがいないと育たないといいますが、一面ではたしかにそうだと思います。あの時代に31歳になって初めて帝国大学理科大学助手となり月給15円をもらったのですから、それまでは実家やその他の人たちに食べさせてもらっていたわけです。だからこそ、好き勝手なこともできたわけです。
 うらやましいとはまったく思いませんし、むしろ奥さんや家族は大変だったと思います。だからこそ、「Sasa suwekoana Makino」(スエコザサ)と学名をつけたことが話題にもなったのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、牧野博士の長年の夢でもあった植物園を造る計画が持ち上がったときの話しです。自身は五台山を希望していたそうですが、それを実際に完成させるのは並大抵なことではありません。
 しかし、牧野富太郎という人は、行き詰まると必ず助けてくれる人が現れます。これはまさに人徳です。
 この牧野植物園の園長だった小山徹夫氏は、11歳で牧野富太郎氏の弟子となり、東京大学大学院生物系研究科博士課程修了後に東京大学理学部助手になり、その後カナダ農務省中央研究所研究員を経て、ニューヨーク市立大学大学院教授なども歴任した方です。彼は私の知り合いの出版社から本を出したこともあり、いろいろと話しを聞いていますが、植物学者になるきっかけは牧野博士との出会いからだそうです。
 いろいろな人たちを巻き込みながら、日本の植物分類学を作り上げていったようで、これからの連続テレビ小説「らんまん」も楽しみです。
(2023.5.14)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎 植物語り清水洋美 編著世界文化社2023年4月5日9784418232055

☆ Extract passages ☆

富太郎を顕彰する植物園の計画が持ち上がり、武井(近三郎)は中心となって計画を動かしました。武井は「昭和26(1951)年12月に上京、牧野博士にじかに提案、以後6年をかけ高齢の牧野博士とやりとりを重ね、県や市、財政を動かした」(高知新聞プラス)。……
 設立資金の寄付交渉には竹林寺住職・海老塚師が自ら奉加帳を持って各銀行を回り、さらに県内各学校の生徒からも浄財を集めてもらうよう、働きかけました。そして昭和32 (1957)年1月10日、植物国の工事が着工、翌年4月1日、ついに開園の日を迎えました。
 当時は温室2棟とわずかな園地のみでしたが、次第に園地面積を拡張、五台山の起伏を生かした園地の中に、富太郎ゆかりの植物など三千種類以上を見ることができます。富太郎は 工事着工の数日後に亡くなり、開園を見ることはできませんでした。
(清水洋美 編著『牧野富太郎 植物語り』より)




No.2184『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』

 この『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』を見たのは、今年の3月下旬に四国の高知県に行ったときで、本当は令和4年が牧野富太郎の生誕160年だったのですが、コロナ禍ということもあり、さらに今年4月3日からNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が始まったことで、大きな弾みがついたようです。
 私が行ったときも、生誕の地佐川町は牧野富太郎一色のようで、当然ながら地元の高知新聞社は、元日の特別号にカラーで10ページ以上も取りあげていて、私もそれを見せてもらいました。
 だとすれば、地元の高知新聞社は牧野富太郎をどのように見ているのかを知りたいと思っていたら、たまたま米沢市立図書館にこの本があり、さっそく借りてきました。
 しかも、今まで出版されたものと違い、新聞記者が牧野富太郎の植物採集などで歩いたところを歩きながら、追体験するというもので、当然ながら、時代の違いはあるでしょうが、おもしろいと思いました。たしかに、牧野博士は北は北海道の利尻島から、南は屋久島まで行っているのですが、私は礼文島に行きましたが、利尻島は眺めただけです。しかし、屋久島はヤクシマシャクナゲの満開のときに訪ねて、山小屋に1泊して縄文杉も見ることができ、大満足の旅でした。この本に出てくるウィルソン株や照葉樹林帯も見ることができました。
 また、「佐川。そして今」で取りあげられている生誕の地、佐川町にも2023年3月下旬に行き、しかも「牧野日本植物図鑑」の編集者といっしょということで、いろいろなことを教えてもらいました。さらに「らんまん」の最初に取りあげられた安芸市の伊尾木洞や、毎回出てくる四国カルストの天狗高原なども案内してもらい植物を見て歩きました。これはほんとうに贅沢な旅でした。
 この『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』のなかでも、いろいろな旅の思い出が書かれていましたが、やっぱり印象に残ったのは利尻と屋久島です。どちらも、やっとやっと登ったようですが、記者の大変さが記事の内容からも伝わってきます。考えて見れば、どんな旅も何ごともないような旅よりも、何度か引き返そうと思うほど大変だったものほど強く印象に残ると思います。
 おそらく、私の屋久島の旅も、もう1回行きたいかと問われれば、行きたいのはやまやまだが、今の体力では無理だと思うのが先に頭を巡ります。
 この本の記者の屋久島の旅は2012年のことらしいが、私が屋久島に行ったのは2005年のことでした。だから、ガイドを頼んで、1人で行ったのですが、当日は天気もよく、快晴でした。ところが翌日は雨降りで、同時に晴れと雨を体験できてよかったとさえ思いました。
 下に抜き書きしたのは、牧野博士が仙台市中心部に近い三居沢で珍しいササを見つけたときのことで、それを見た牧野博士はしばらく動かなかったそうです。
 そのときのことを、案内した植物学者の木村有香(1900〜1996年)は下に抜き書きしたように書いています。私は生前の木村博士とお会いしたことはないのですが、いろいろな縁から2度ほどお墓詣りをさせてもらったことがあり、特にヤナギの研究では世界でもトップクラスの研究者でした。
 牧野博士はこのときに発見した新種のササに、1928年、54歳で亡くなった妻の壽衞を偲んで、「Sasa suwekoana Makino」(スエコザサ)と学名をつけました。そして、「世の中のあらん限りやスエコ笹」という句も自作したそうです。
(2023.5.10)

書名著者発行所発行日ISBN
MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―(北隆館新書)高知新聞社 編北隆館2022年7月1日9784832610132

☆ Extract passages ☆

 このササが一見して誰の目にも他のササと考しく異なって見えるのは葉の多くが片側が裏に向かっていくぶん巻くような特性があるからである。 (中略) また葉の上面に立った白い長毛が不規則に散生していることも人日をひく。一度見たら忘れられない特徴の数々を具えている。
(高知新聞社 編『MAKINO ―生誕160年 牧野富太郎を旅する―』より)




No.2183『アフリカではゾウが小さい 野生動物撮影記』

 著者の写真集はなんどか見ていますが、文章もどのようにして撮ったのかなど、とても興味があり、つい引き込まれてしまいます。この本も、同じでした。
 たとえば、「野生動物の感覚の鋭さには何度も驚かされたが、ヒトであるはずの僕自身も、アフリカで撮影をしていると身体の感覚が研ぎ澄まされていく。まず目がよくなる。勘も相まって十キロぐらい先まで見えるようになる。遠くの茂みに隠れている動物を見つけ出せるようになる。風が運んでくる様々な情報や気配にも敏感になる。そして、五感だけではなく意識にも変化が表れる.待つという概念が消えていく。決定的な瞬間を撮るため、何時間もじっとカメラを構えてなくてはいけないことが数多あるが、一切苦にならなくなる。アフリカが僕のすべてを変える。」と書いてあり、たしかにそういう感覚ってあると思いました。
 実は私もネパールで経験したのですが、スマホもパソコンも使わないので、目がすっきりと見えるような気がしたのです。しかも、だんだん慣れてくると、どこにどのような花があるのかも見当がつくようになります。歩いていても、現地の人よりは先に歩いていたりして、それでも道に迷わないのです。まさに現地に溶け込んだかのような気持ちになり、時間の感覚も現地の人たちと同じようにゆったりとしたものに感じます。
 私はどちらかというと動物よりは植物に興味があり、海外に行くのもほとんどが植物目当てです。たとえば、マダガスカルに行ったのもバオバブを見たいのが最優先でしたが、著者は、ほとんど興味がないようで、ツィンギからの帰り道に、「彼に花を持たせようとバオバブを撮る」という程度です。私はオーストラリアでバオバブを1種見たことで、なんとかマダガスカルで少しでも多くのバオバブを見たいと思い、ついに6種ほど見ました。そして、ある方にお願いして、バオバブの記念植樹までしてきたのですから、何に興味があるかで行動も違ってきます。
 私たちは2019年9月に行ったのですが、韓国のソウルとエチオピアのアジス・アベバで乗り換え、マダガスカル島のアンタナナリボに行きました。著者は2014年9月30日に成田からバンコクを経由してマダガスカル島に行ったそうで、時間通りに到着したと現地のコーディネーターがビックリしていたということです。
 私たちもほとんど定刻通りに着いたのですが、そのアンタナナリボからムルンダバへ飛行機で飛んだのですが、乗客の荷物がほとんど積み込まれなかったのです。だから、3日間、手荷物だけで過ごさざるを得なかったのですが、それでも何とかなるものです。三脚は何かを台にしたり、着がえは大きなTシャツを買い、夜はそれだけで過ごしすべて洗濯をしました。今思えば、そのときのこともかけがえのないいい思い出になりました。
 今、ちょうど大型連休のさなかなので、ゆっくり本を読む時間もありません。そういう時には、このような写真集がとてもよくて、どこで読み終えてもいいので気が楽です。
 下に抜き書きしたのは、マダガスカルのところに書いてあったもので、私も2019年に行ったときに同じ自然保護区でなんども見ました。
 それと、この本に書いてあったワオキツネザルは大好物のアローディアの鋭いトゲが平気なのかというところも興味深く読みました。というのも、私もその写真を撮りながら、本当に痛くないのか心配したものです。
(2023.5.5)

書名著者発行所発行日ISBN
アフリカではゾウが小さい 野生動物撮影記岩合光昭毎日新聞出版2023年2月20日9784620327662

☆ Extract passages ☆

 ワオキツネザルは、マダガスカルだけに生息する。マダガスカルの野生動植物はおよそ25万種にも及ぶが、その約80パーセントほどが、ここにしか生息していない固有種だ。はるか大昔、ゴンドワナ大陸の分裂が進むなか、アフリカ大陸とインド亜大陸にはさまれていた部分が分離して以降、マダガスカル島は他の大陸と地続きになった歴史がないまま現在に至ったと言われている。おかげで、他の地域では見られない、独自の生態系を保てている。
 彼らが棲み家としているのは、ヒトが手をつけていない自然林。木がボサボサと不揃いな、一見荒れているような森にいる。ヒトが整備した植林の森は、美しくは見えるが、そこに動物たちはいない。森ならどこでもよいわけではないのだ。森林破壊が止まらないマダカスカル、自然林は減少し続けている。
(岩合光昭 著『アフリカではゾウが小さい 野生動物撮影記』より)




No.2182『サクラが創った「日本」』

 昔は、ちょうど今ごろがサクラが咲くころで、上杉まつりもサクラが満開の下での催しでした。ところが、サクラの開花がだんだんと早くなり、今年はさっさと散ってしまいました。小野川温泉の川縁のサクラも、以前は大型連休ごろから咲き始めたのですが、今年は4月22日の強い風にあおられて、翌日には葉桜になってしまいました。
 今年は福島市郊外の「種播き桜」や喜多方市の「枝垂れ桜」、そして地元の松が岬公園のサクラなどを見ましたが、何れも例年よりは開花が早く、花見山へは4月6日に行ったのですが、ソメイヨシノは満開でした。桜まつりなどを予定していたところは慌てて開催時期を前倒ししたようで、主催者側は大変だったようです。
 そういえば、松が岬公園の土手のサクラが根元から崩れるようにして倒れたそうで、上杉まつりが始まる前に片付けたいという報道がありましたが、先日そこを通ったらお堀に倒れていたサクラの樹が片付いていました。これもソメイヨシノのようで、やはり60〜70年ほどの樹だったようです。
 桜の花見というと、今はブルーシートを敷いて、その上で飲んだり食べたりするのが多いようですが、この本によると、桜まつりのようなイベントをするようになったのは意外と新しく、昔はほとんど飲食をしない花見だったようです。
 もともと、ソメイヨシノは、「品種として同定されるのは明治23年、正式な命名は明治34年まで待たなくてはならない。いいかえれば、それ以前の記録からは「この桜はソメイヨシノだ」と完全には確定できない。「古野」という商品名もソメイヨシノ出現以前からある。それがどの時点でソメイヨシノをさすものになったのか、文献から特定する術はない。そうなると錦絵のような図像に頼りたくなる。たしかに錦絵をみると、ソメイヨシノらしい姿はたくさん出てくるが、なにしろ「絵に画いたような」桜である。ソメイヨシノだからそう描いたのか、絵になるからそう描いたのか、ほとんど判別できない。ソメイヨシノの視覚的な特徴は、花だけがほぼ一色で樹全体を覆うところにある。」と書いてあります。
 そういえば、桜の先祖はヒマラヤらしいと聞いたことがあり、ブータンやミャンマーに行ったときに、ヒマラヤザクラを見つけました。それらは秋咲きで、花色も濃く、葉が展開する前に咲くので、見応えはあります。最近は、小石川植物園などでも見ることができますが、私もタネをもらって育てています。おそらく、花が咲くのは数十年後になるかもしれませんが、それまでは生きていたいと思っています。
 サクラは、もともと交雑しやすく、この本には、「桜の自家不和合性は1967年に渡辺光太郎によって証明されるが、二百年前にほぼ同じ発見をした人がいたのだ。この特性ゆえに、つねに新しい形質をもつ桜がうまれる。それを利用して人間は新たな品種を開発してきたし、逆に形質を固定したい場合には、接木や挿木を使ってきた。「クローン」というと新奇な感じがするが、桜を接ぐ記事は藤原定家の日記にすでにでてくる。定家は『新古今集』の選者の一人で、百人一首の編者でもある。鎌倉時代の昔から、クローン桜は咲いていたのだ。クローンで殖やすというのは、吉野山の「千本」の景観と同じくらい旧い、伝統的なあり方なのである。桜とよばれる植物たちはたえず自己を組み換えて、新しい形質の樹をつくる。」とあり、たしかにその通りだと思います。
 今年の3月下旬に四国に行きましたが、ちょうどヤマザクラが開花していて、山のあちこちに咲いていました。しかも、花色も出葉の色もいろいろで、だからこそおもしろいと思い、たくさん写真を撮ってきました。
 下に抜き書きしたのは、第V章『創られる桜・創られる「日本」』に書いてある文章で、なるほどと思ったところです。
 たしかに、ソメイヨシノと人の一生は、似通っているように感じていました。でも、これを読んで、むしろエドヒガン系の長生きする桜を植えて、この地のシンボルになるようにしたいと思ってしまいました。
 また、「近代世界では、国境線の内部はナショナリティの空間とされる。桜はそのナショナリティの表象として位置づけられ、そのなかでソメイヨシノという品種は特に大きな役割をはたした。単一の品種として列島全上を覆い、朝鮮半島や台湾島にも進出していった。「同じ春」を国家全域に広めることで、ナショナリティの空間をリアルなものに見せていった。ただ一つの桜らしさがただ一つの日本に結びついたわけだ。それはたんなる思想やイデオロギーの産物ではない。官僚組織との相性の良さ、身近な空間を美しくしたいという願い、あるいは一人一人の故郷と異郷への思いや死者の追憶が幾重にもからまりあい、積み重なってできている。」ともあり、まさにソメイヨシノは時代にそうような形でえらばれていったように思いました。
(2023.5.3)

書名著者発行所発行日ISBN
サクラが創った「日本」(岩波新書)佐藤俊樹岩波書店2005年2月18日9784004309369

☆ Extract passages ☆

ソメイョシノの一生は人間の一生とほぼ同じサイクルをたどる。十年余りでそれなりに見える花をつけ、二十年で花盛りを迎え、五十年をすぎた頃から衰えはじめ、七十年で枯れていく。日本の都市では、家も街路も住む人たちも五十年ぐらいしかもたない。
 そのことがこの桜に独特の時間感覚をあたえたように思ぅ。ソメイョシノは個人の歴史に結びつきやすい。自分だけの想い、自分だけの出来事の記憶を託すのにちょうどよい花なのだ。それに対して、もっと寿命が長い桜は、個人をこえてつづくもの、例えば家やムラ、町の歴史に結びつきやすい。ヤマザクラは寿命がほぼ二百午ぐらい、立派な花がつくのもニ十年かかる。ヤマザクラは人間が二代かかって育てる桜なのだ。エドヒガン系になると、もっと寿命が長い。古木といわれる樹は樹齢数百年。ムラや町そのものと同じくらい長く生きる。町や村のはじまりの記憶、「故事来歴」や由緒を背負う桜になりやすい。
(佐藤俊樹 著『サクラが創った「日本」』より)




No.2181『いま、よみがえる 小林一茶』

 また、小林一茶ですが、地元の人が書いたものを読みたいと思っていたら、たまたま図書館で見つけたのがこの本です。著者は、中野市役所に勤め、退職後は中野市教育長を1期4年つとめられたそうで、自宅に「まちかど図書館・坐の文庫」を開設しているそうです。
 やはり地元ならではの資料も掲載されていて、さらに一茶の継母のさつはしっかり者で、弟の仙六と働いて財産を倍以上に増やしたそうです。だから、一茶の書いたものについては「一茶の自虐性」という標題で書いてるほどです。また、小林計一カ氏は、「俳人一茶のいちばんの恩人は継母だった」と書いていることを紹介しています。
 ところが一茶は、『おらが春』のなかに、「貧しい農家に生まれ、勉学もままならず、弟の子守り、継母のいじめ、晴々しい日は1日もなく57歳になる、とまで書いています。おそらく、一茶が書いているのだからこれが正しいというのが当たり前かもしれませんが、私はそう思っていただけで、まわりの人たちはよくそこまで悪く言われるものだと感じていたかもしれないのです。
 そういう意味では、地元の人たちが書いたものも読んでみなければと私は思います。
 たとえばこの本には、「一茶は、自分のことを「北信濃の寒村の貧農の出」と言っていますが、一茶の家は本百姓で中流農家、村内では名門の家です。「下の下の下国の信濃も信濃、奥信濃の片隅なる、おのれ住める里」といいますが、柏原は、北国街道の宿場町、ご天領の置かれたところです。「信濃国乞食首領」なんて、とんでもない、血統正しき家の生まれです。しかも、一茶は小林家の跡取りです。」と書いてあり、たしかに一茶のイメージとは少し違います。
 また、一茶が故郷に定住してからは、父の命日には必ずお墓詣りをしていますが、そのような時には、弟の家で一緒に食事をしていたそうですし、弟の仙六は兄の一茶を尊敬していたといいます。
 下に抜き書きしたのは、『おらが春』に書いてある文章で、一茶57歳のときだそうです。
 この本を全部読んでからだと、このような考え方を一茶はもっていたことがよくわかるような気がします。また、一茶の地元だからこそ、わかることがいろいろあると、改めて思いました。
(2023.4.30)

書名著者発行所発行日ISBN
いま、よみがえる 小林一茶宮川洋一文芸社2017年8月15日9784286182797

☆ Extract passages ☆

答ていはく、別に小むつかしき仔細は不存候。たヾ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申ばかり也。
如斯決定しての上には、なむ阿みだ仏といふ口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘の行ひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持べからず。しかる時に、あながち作り声して念仏申に不及、ねがはずとも仏は守り給ふべし。是即当流の安心とは申也。穴かしこ。
 ともかくもあなた任せのとしの暮 一茶
(宮川洋一 著『いま、よみがえる 小林一茶』より)




No.2180『小林一茶』

 この文庫本は、3月下旬の四国行きのときにも持ち出しましたが、他の資料などもあり読み終わりませんでした。それから、ときどき取り出しては読み、持ち出しては読みして、なんとか読み切りました。
 なぜ、今、一茶の本かというと、実は昨年から信濃三十三観音をお詣りしていて、信濃といえば、「信濃では月と仏とおらが蕎麦」の一句を思い出しました。ところが、この句は一茶が詠んだのではないという話しがあり、調べてみると一茶の書いた句文集にも、あるいは一茶の門人たちが出版した「一茶発句集」や「嘉永版一茶発句集」にもこの句は出ていないそうです。しかし、松尾芭蕉の「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」は伊賀の辺りで詠んだものですが、この句碑は長野県松本市郊外にもあり、やはり、信濃といえば蕎麦と俳句はつながっているようです。だとすれば、信濃三十三観音の旅でも、俳句の本を読みながら歩きたいと思い、だとすれば先ずは一茶だろうと思いました。
 読んでみて思ったのですが、一茶の一生は山あり谷ありの大変なものだったようですが、俳句をみる限り、みじんもそれらを感じとれないから不思議です。この本の最後に、一茶の一生を簡単にまとめていますから、それを下に抜き書きしました。たとえば、1821年の正月の句に、「ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び」というのがありますが、この前の年の10月に脳卒中で倒れてしまい、生死の境をさまよったそうで、以前のように足は動かなくなったようです。しかし、そのことを一度落としかけた命なのだから、これからの人生は天から授かったようなもので、これは儲けものだったというのです。おそらく、この娑婆遊びという言葉も一茶の表現のようですが、生きているだけで丸儲けという発想は明石家さんまさんに似ているかもしれません。
 しかし、このすぐ後に、次男の石太郎が亡くなり、たった96日でこの世を去ったことで、信濃の寒い冬だけを生きて、この世の暖かさを知ることもなかったというような文章を書き残しています。
 私が好きな一茶の句はいろいろありますが、なかでも「目出度さもちう位也おらが春」というのは、若い時に覚えました。たしかに、大きなお目出度いことがたくさんあればいいかもしれませんが、大きなことの次には、大きな大変さもありそうです。中くらいなら、大変さも中くらいですみそうですし、大きなお目出度いことがあれば、さらに大きな目出度さを願うようになるのが人間です。だとすれば、一茶のように中くらいで喜ぶような気持ちがいいのかもしれません。
 この句は、1819年57歳のときの作だそうですが、この前年に長女さとが生まれたのですが、この年の6月に亡くなり、翌1820年には次男石太郎が生まれ、その翌年の正月に亡くなるという悲しむことが続いています。それでも、この世に無常を感じながらもあるがまま、自然法爾を貫いています。
 一茶というと、「名月をとってくれろと泣子哉」とか「雪とけて村一ぱいの子ども哉」とか、子どもを詠んだ句も多いのですが、今では子どもも少なくなり、地元の小学校も今年から廃校になり、孫もスクールパスで通うようになりました。だから、この「雪とけて村一ぱいの子ども哉」のような句も、そのような体験をした年代の人たちもいなくなります。そうすれば、「雪とけてスクールバスで通う子ら」になるかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、既に書きましたが、「晩年」の最後に書いてあったものです。
 この本を全部読んでからだと、よく一茶の生涯がわかるような気がします。またこの土蔵は今もあるようで、次に信濃三十三観音の旅に出たときには、まわってみたいと思っています。
(2023.4.27)

書名著者発行所発行日ISBN
小林一茶(角川ソフィア文庫)大谷弘至 編KADOKAWA2017年9月25日9784044002909

☆ Extract passages ☆

 一茶の人生は一貫して悲惨なものであったが、それを悲惨なものとして詠むことは少なかった。人生の悲惨を乗り越えたところに一茶の俳句があった。
 この年の11月19日、一茶は不意に気分が悪くなり、寝こんでしまう。その日の申の下刻(16時半過ぎごろ)、一茶は土蔵で亡くなる。65歳であった。
「南無阿弥陀仏」とただ一声、念仏を唱えて、しずかに息を引き取ったという。
 このとき妻・ヤヲのお腹には一茶の子どもが宿っていたのだが、一茶はそのことを知らぬままであった。翌年4月に女の子が誕生。やたと名づけられ、明治6年(1873)まで生きた。
(大谷弘至 編『小林一茶』より)




No.2179『牧野富太郎の植物学』

 この本は、先月に発行されたばかりで、同じNHKの関連会社ですから、4月3日から始まったNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」の放送が決まってから書かれたもののようです。そういう意味では、ドラマと実像を対比的に楽しめるかなと思いました。
 そもそも牧野博士の植物研究は、この本によれば、「牧野富太郎の植物研究は、日本にはどんな植物がどこにあるかを全国的な標本採集を精力的に行い、植物を採集しては標本を作製し、それを内外の文献でひたすら同定を繰り返すことにより調べるというものであった。北は北海道の利尻山から南は九州の屋久島まで踏破している。採集した標本を同定するとともにその詳細な形質を記載していった。牧野の好奇心は、終始一貫して植物の名前を調べることだった。牧野の異様なまでの名前、名称へのこだわりは、子どものころの周囲の生き物に対する「この植物はなんという名前だろう」という好奇心に強く影響されている気がする。そして、この牧野の「名称」に関する研究は生涯続くことになる。」と書いています。
 たしかに、連続テレビ小説「らんまん」を見始めて1ヶ月も経っていませんが、それでも植物を見るときにこの名前はなんだろう、というのがいつもの台詞です。だから、その植物を知るということは、その名前を知るということのようです。
 しかし、ある植物学者の話を聞いたことがありますが、名前を知るということだけではなく、その植物をさらに突き詰めて考えていくことのようです。この本のなかにも、「専門とする植物を深く掘り下げて研究することは求められても、自然の中で広く植物の名前をすぐにわかって答えることができることは、別に研究者に課された課題ではない。専門家は、専門とするグループの植物を深く掘り下げ研究をする、あるいは現象を捉え、その原理を研究することが一般的である。何の植物でも見たらすぐに名前がわかり、答えることができるというのは、むしろ趣味家の範囲であり、植物オタク的なものである。いまでも、というよりいまではそれがもっと顕著であろうが、大学の研究者より、時間があれば四六時中野山に出かけて草木の写真撮影をしている定年後の趣味家のほうがよほど植物には詳しいはずである。こういう意味では、牧野富太郎は超一流の植物オタクだった それが必要とされる時代と社会があったのである。」とあり、ある意味、納得しました。
 というのも、私の知っている方のなかにも、すごく植物の名前を知っていて、聞くとすぐに応えてくれますが、やきり肩書きは「ナチュラリスト」です。ところが、そういう方は、植物分類をしている研究者が植物を知らないといい、まさに鬼の首をとったように植物をたくさん知っていることを自慢します。この本を読んで、それは納得です。
 ただし、牧野博士の時代には、日本の国の植物なのに、その学名をつけるのは外国の研究者で、たとえばマキシモビッチやフランスのサヴァチェだったのです。だとすれば、我が国の植物の学名ぐらいは日本人がつけるのは当然だというのも理解できます。
 下に抜き書きしたのは、第7章「記載された学名の数」にあったもので、今まで大雑把なくくりで書かれたものが多かったようです。
 たとえば標本などについても、少しは誇張された部分がありますが、この本では、牧野標本館に収蔵される牧野自身が採集した標本点数は約4万9千点だそうで、その他のものを含めても約5万5千点ではないかと書いてあります。だから、「牧野は、約5万5千点の維管束標本を採集した」ということだそうです。
 どんな世界でも、偉人となれば、ある程度の誇張された部分があるのは間違いなさそうです。
(2023.4.24)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎の植物学(NHK出版新書)田中伸幸NHK出版2023年3月10日9784140886960

☆ Extract passages ☆

 牧野が、『牧野日本植物図鑑』や、牧野植物混混録』、園芸雑誌「実際園芸」などに発表した学名はすべて無効な学名(裸名)である。このような学名を数えると282にもなる。したがって、実際に牧野富太郎が命各した学名は、1279となるのである。これに中池敏之と山本明が報告したシダの発表した学名90を加えると、牧野が生涯に正式発表した学名は、1369となる。つまり、「牧野富太郎は、生涯に1369(約1400)の学名を発表した」というのが最も正しいことになるだろう。
 それでも、日本産の植物につけた学名の数では、日本人の分類学者の中で牧野が最も多い。
(田中伸幸 著『牧野富太郎の植物学』より)




No.2178『科学者の伝記 牧野富太郎』

 この本は「はじめて読む科学者の転機」シリーズで、すでに中谷宇吉郎や池田菊苗、猿橋勝子などが出ています。この本は図書館で見つけたのですが、購入日は2020年8月20日となっていますから、4月3日から始まったNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」で、再度書庫から閲覧棚に出されたのではないかと思いました。
 そういう意味では、やはりこのテレビの影響というのはすごいものです。3月25日から四国の高知市に行きましたが、いろいろなところに牧野富太郎関連のポスターが貼られ、特に生誕地の佐川町では、大盛り上がりでした。
 佐川町立静山文庫では、「植物学者・牧野富太郎の歩み」展を開催していて、自筆の書が多数展示されていましたが、それに「結網」という名前が記されていました。この本にも、「結網子というのは富太郎のペンネームのようなもので、中国の古典にある話からとった名前です。「泳いでいる魚を、そのふちからながめるだけでは、魚を得ることはできない。魚を得たいなら、すぐに網を作って行動を起こすべきだ」という内容です。この時代、文章を書く人や絵を描く人は、本名とは別に自分で名乗る名前を持つ習慣がありました。富太郎は「求めるもののために、すぐに行動する」という思いをこめて、こう名乗ったのでしょう。」と書いています。
 この青山文庫の入口に、牧野博士がこの町で見つけ命名した「ワカギノサクラ」が咲いていて、すぐ近くの牧野公園には、同じくこの地域で見つけたサクラ「仙台屋」も植えてありました。
 この本の最初に紹介されている番頭さんの懐中時計を借りて、貸した番頭さんの心配したようにそれを分解した様子が4月12日に放送されました。その好奇心が植物に向かい、もともと弱かった富太郎が大好きな植物をたずねて野山を歩き回るうちに元気になったそうです。
 たしかに書き方は、子どもたちにわかりやすいにと配慮されていて、とても読みやすく、さらに子どもたちに興味を持ってもらえるようなエピソードも取りあげられていました。牧野博士のような天真爛漫な性格の持ち主と暮らすのは、ある意味、大変なこともあるようで、亡くなられてから奥さんの壽衞さんに献ずるように「スエコザサ」というアズマザサの変種に名を残しました。その壽衞さんとの出会いも書いてあり、「お酒が飲めない体質だった富太郎は、かわりに甘いものが大好きで、菓子屋に立ちよって茶菓子を買うのが毎日の楽しみでした。その店のむすめにはどこか品があり、おっとりとした中にりんとした強さがあるように思い、富太郎はむすめに会いたい気持ちもあって、たびたびその店で菓子を買いました。思いこんだらまっしぐらの富太郎も、好きな女性とどうやって親しくなればよいのか見当もつかず、こまりはてて相談したのが、印刷所の太田でした。……菓子屋のむすめは、名前を壽衛といいました。父親は幕末の彦根藩につとめた武士で、明治以降は陸軍で働き、数年前に亡くなっていました。夫の死後、壽衛の母親は女手ひとつで子どもを育てるために菓子屋を始め、店にいたのが次女の壽衛でした。壽衛の方でも、足しげく通つてきては気前よく菓子を買っていく富太郎に、なんとなく心ひかれており、話はとんとん拍子に進みました。ふたりは根岸にある一軒家のはなれを借りて、いっしょにくらしはじめたのです。」ということでした。
 植物に対しては、いつもためらうことなく突き進む牧野富太郎も、女性にはストレートに向かい合うことはできなかったようです。
 下に抜き書きしたのは、第10章「草木を愛する心」に書かれていたもので、たまたま私が生まれた年だったこともあり、強く印象に残りました。
 そういえば、だいぶ前ですが、死んだと告げられて後、生き返った人たちの記録を読んだことがありますが、まさに牧野富太郎もそうではないかと思いました。しかも、昭和26年には第1回文化功労者に選ばれ、さらに昭和32年まで生きることができました。生前に高知県内に牧野植物園ができることを知らされていましたが、完成するのはその翌年でした。
 3月27日にこの高知県立牧野植物園にも行き、園内だけでなく、資料室なども見せていただきました。拝観者もまだ放送されていないのにもかかわらず、多くの人たちで賑わっていました。
(2023.4.20)

書名著者発行所発行日ISBN
科学者の伝記 牧野富太郎文 清水洋美・絵 里見和彦汐文社2020年7月9784811327341

☆ Extract passages ☆

 昭和24(1949)年の梅雨。健康に自信のあった富太郎が、とつぜんたおれました。大腸炎をおこし、そのままどんどん状態が悪くなりました。医者は手をつくしましたが、ねむり続けて意識もなく、ついに脈もふれなくなってしまったのです。
「ご臨終です」
 富太郎の死を医者が告げました。
 家族はみんななみだをこらえながら、順番に末期の水(死後の旅路にのどがかわかないよう、くちびるをしめらせる儀式)を口にふくませました。神戸までいっしよに標本を取りに行った石井もかけつけ、なみだながらにたくさんの水をふくませました。すると、そのときです。
 ごくり。
 富太郎ののどぼとけが動き、富太郎は水をぐっと飲みこんで、よみがえりました。医者もおどろく、87歳の奇跡的な「よみがえり」でした。
(文 清水洋美・絵 里見和彦『科学者の伝記 牧野富太郎』より)




No.2177『旅するモヤモヤ相談室』

 旅するモヤモヤって、実際の旅ではなく、生きていることのモヤモヤで、そのような悩みに答えるという形で書かれている本です。だからそれらをカルテとしてナンバー10まであります。
 カルテ2の「幸せって何か、わからなくなっちゃって……」というところに、坂本龍太さんはブータンの村で、診察や検診をしているそうです。専門はフィールド医学で、ブータンで出合った人たちとの話しのなかで、「ブータンは海がない国ですが、海を見ると罪が浄化されるという言い伝えがあるんです。日本に来ると、彼らはみんな必死に海を見ながら祈っています。それも、自分の幸せだけでなくて、「自分を中心につながったすべての人びとの罪が浄化されますように」と祈っているんです。そこにあるのは、自分を犠牲にするというよりは、「自分も幸せになって、かつ、まわりも幸せになったらいい!」という考えだと思います。人間として正直ですよね。」といいます。
 たしかに、ブータンは世界一幸せな国といわれ、私も30数年前に訪ねたことがありますが、仏教に根ざした生活をしていました。たまたま、大きな木を斧で切っている方に出会い、チェンソーという木を切る道具があればと話しましたが、いや、この木は何百年と育ってきたのですから、何日かかってもそれは仕方のないことです、という答えにびっくりしましたが、なるほどとも思いました。
 何ごとも急げばよいというものではなく、ゆっくりのんびりと進むことも大切なことだと感じました。ブータンでは、ダルチョという祈願旗も、風にたなびくことでそこに書かれているお経を読んでいることと同じだそうです。だから、沢沿いには水車があり、そこにもお経が書かれていて、それも四六時中読んでいます。だから、いつも仏さまに護られているということになります。
 また、京都大学大学院の東長靖さんは、エジプトやトルコ、インドネシアなどでイスラームの思想研究をしてきたそうですが、「神経質で、細かいことを気にしちゃうんです……」という問いに、「ムスリムの人びとは、たとえば断食月には全員で貧しい人の生活を実体験して、恵まれない人に対する施し(喜捨)について考えますし、ヤンキーのように見える若者でも、バスに乗れば何のためらいもなく、お年寄りに席を譲ります。「正しい行ないをしていれば神様が愛してくださる」という感覚が身体に染みついているからこそ、見返りを求めずに、日常的にあたりまえのように善行を実践しているんです。」と話しをします。
 日本人も、昔はお天道様が見ているからとか、因果応報でよいことをすると必ずよいことが起こると考えていましたが、今は自分さえよければとか、今さえよければと短絡的に考える人も多くなったような気がします。最近のネット詐欺や凶悪な犯罪などをニュースで知ると、おぞましさを感じます。しかも、お年寄りを狙った犯罪の増加は、特に身の危険さえ感じます。
 そういうときに、ブータンの人たちやムスリムの人たちのことを考えると、ホッとします。そして、やはり宗教心の大切さを痛感します。世の中は、頼ったり頼られたり、助けたり助けられたりできないと、弱い人たちにばかりしわ寄せがきます。だから、このようなギスギスした世の中だからこそ、世界にはいろいろな人たちがいて、お互い助け合って生きていることを知ってほしいと思います。
 そして、人が困っているときには、自分も無理なくできる範囲で「力貸すよ」と答えたいと思っています。
 下に抜き書きしたのは、松嶋健さんの「がんばりすぎない社会を作るには?」という中に書いてあったものです。
 松嶋さんはイタリアで、地域で取り組む精神疾患のケアを研究しているそうで、「何もしない」というのもなんとなくイタリアっぽいような感じがします。でも、今の日本人には、このような考え方も必要ではないかと思いました。
(2023.4.18)

書名著者発行所発行日ISBN
旅するモヤモヤ相談室木谷百花 編世界思想社2023年3月20日9784790717812

☆ Extract passages ☆

 人間にはもはや、今作動しているこの巨大なマシーン(無限列車)を止めることはできないように思います。ただ、人間にできることもあります。それは「何かをする」ことではなく、「何かをしない」ことです。「何」をしないかは、人によって違うでしょう。大事なのは、しなくていいと感じるものは、できるだけしないでおくことが結果的に大きな影響をもたらします。
 ただし、「何もしない」というのは人間社会における見方で、とりわけ生産性の観点から「何もしていない」ように見えるだけです。本当は、人は生きているだけで実に多くのことをなしているのです。それは、自然が多くのことをなしているのと同じようにです。
(木谷百花 編『旅するモヤモヤ相談室』より)




No.2176『重森三玲 庭を見る心得』

 重森三玲氏の本、『茶室茶庭事典』誠文堂新光社発行、を手に入れたのを今でもよく覚えています。というのも、高かったことと重かったことなどで、引っ張り出すたびに思い出したからです。でも、最近はネットなどで検索したほうが便利で、本棚に入れっぱなしです。改めて調べてみると、定価は9,000円、ページ数は図共に721pで、やはり大型本です。
 この『重森三玲 庭を見る心得』を図書館で見つけたときには、それらの思いが渦巻いて、すぐに借りてきて読みました。すると、だいぶ前に読んだにもかかわらず、いろいろと思い出しました。
 たとえば、庭は生きているというもので、「庭を見る心得」に書いてあったもので、「庭というものは、他の芸術品と異って、実は生きている生物的存在である。晴天の日と、雨の日と、雪の日と、霧の深い日とでは、その趣きが全く別である。朝と夕方と昼間とでも異る。明るい光線の強い日と、曇天の暗い日とでも異る。拝観者の多い日と尠ない日、同伴の人の相手にもよる。全く一つの庭でさえ千変万化である。それを一度見たのみで、三度見る必要がないというのは馬鹿げたことである。」といいます。考えて見れば当たり前の話しですが、池とか滝の水などには動きが見られますが、植物や石などはじっとしています。何年もの長さでみると、たしかに動いていることがあるでしょうが、なかなか気づかないものです。
 それといつも不思議に思うのですが、植物は生長していますので、造ったときの庭のままでは絶対にありえません。それをどのようにして作庭しているのか、庭師に聞いてみたいものです。おそらく、その生長も考えているというかもしれませんが、今のような異常気象のときには、枝枯れを起こしたり、ときには枯れてしまうことだってありそうです。
 さらに、今の時代は自分で管理できない大きな庭を造って楽しんでいる人たちは非常に少なくなってきていると思います。マツの葉先を整えたり、庭木の剪定をしたり、専門の庭師に管理を頼むのは大変です。だから、素人ができるガーデニングが盛んになってきたのではないかと思います。それだったら、お店に行って花などの苗を買ってきて、スマホでどのように植えたらいいのかを検索し、楽しみながら植えて育てることもできます。大きな木々の剪定はできなくても、プランターに植えておけば、いくらでも動かすことができます。まったくお手軽で、今の時代にぴったりです。
 でも、ときには本格的な庭を見てみたくなったりするのが日本人です。
 著者は、庭園は1つの小自然美だといい、「大自然は自分の思うままにはならないが、庭園と言う一つの小自然美は、思う存分に作ることが出来る。自由自在に思う存分に作り得る庭と言うものは、そんなところから生れたのだとも言える。」と書いています。もし、ちょっとした空間があるなら、そこに庭のようなものを造りたいと私も思いますが、なるべく楽しみながら造れればそれもいいとこの本を読みながら思いました。
 下に抜き書きしたのは、「庭における永遠性」について書いてあったところです。
 こういう文章を読むと、重森三玲氏のような作庭家に造ってもらえなくても、自分自身の工夫で楽しむ庭を考えてみるだけでも楽しそうだと思いました。
(2023.4.15)

書名著者発行所発行日ISBN
重森三玲 庭を見る心得(STANDARD BOOKS)重森三玲平凡社2020年4月15日9784582531763

☆ Extract passages ☆

 茶庭の掃除などして、打水したその瞬間の美しさは、常に経験するところだが、この時刻を見てほしいと思うのは、私だけではないはずである。庭における瞬間の美、それはその時を得てのみ咲く花である。秘せられた花であるかもしれない。その時を得ない限り、庭の美はあり得ないともいえる。そしてその時を得ることのできる庭そのものは、実は永遠性をもっている。永遠なものの中の一瞬である。
 だからこの一瞬こそは、一つの出会いである。
(重森三玲 著『重森三玲 庭を見る心得』より)




No.2175『神の木 いける・たずねる』

 3月下旬にある植物分類学者に誘われて、NHKの朝の連続テレビドラマ「らんまん」の撮影に同行させていただきました。テレビなどの撮影はこんなにも大変だと知り、とても有意義な時間でした。この「らんまん」は4月3日から放映されています。
 その撮影の合間に、四国の珍しい植物を見に出かけ、さらには牧野博士のつながりをたくさん知ることができました。たとえば、牧野博士の生まれた佐川町の「佐川町立静山文庫」には、「植物学者・牧野富太郎の歩み」展が開催されていて、さらにその近くに牧野公園があり、ちょうどサクラやオンツツジが満開でした。
 ここには、牧野博士のお墓があり、そのわきに立つ石碑には、「草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して九十年」という自筆の言葉が彫られていました。博士は、昭和32(1957)年に94歳9か月の人生の幕を下ろされました。そして東京都谷中の天王寺墓地に埋葬されましたが、ここには分骨をされたそうです。
 帰る日の前日に、彼らと別れて、高知市から高松市に「黒潮エクスプレス」で移動し、レンタカーで善通寺や金比羅宮などをお参りしましたが、どちらにもクスノキの巨木があり、その勢いのある根元の「奇しき」という言葉通りの奇っ怪な雰囲気を持っていました。この本のなかで、川瀬敏郎氏は「はじめは大枝ごとばさりとつかってみたのですが、どうやっても「樟」になりませんでした。京都では青蓮院が有名ですが、古い寺や神社で、樟の巨木に出会うことは多い。どれものたうつような姿で、まさに「奇しき」ものです。その怪異なまでの生命力が、古代の人々を畏怖させたのでしょう。」と書いています。
 そういえば、善通寺の門のところにあったクスの巨木は、以前は正面からしか撮らなかったのですが、裏手に回ると五重塔が写って、とてもよい雰囲気でした。そこで、何枚も写真を撮り、さらにはPLフィルターまで使いましたが、それをスマホの待ち受け画面に使っています。
 この本で知ったことですが、「五月、新しい葉をひろげおえた樟は、たくさんの古葉を落とす。ちょうど稲の種籾を蒔くころである。これを拾って土にまぜて種籾を蒔くと、ふしぎなことに稲はいっせいに芽を出すが、雑草は芽生えが抑えられる。葉には双子葉植物にかぎって、その発芽を抑制する物質が含まれているのである(佐藤洋一郎『クスノキと日本人』)。早苗に育って、無事に田植えも済めば、少量の古葉を水に浮かべて、虫が早苗に近づくことを防ぐ。除草剤、農薬などなかった時代、これは樟の神秘的な霊能であった。」とあり、昔の人々は、樟脳のことは当然知っていたと思っていましたが、雑草を抑えたり、種籾に混ぜて稲がいっせいに芽生えるということを知っていたとすれば、やはり長い間の経験かなと思いました。
 この本に掲載された神木は12種で、ツバキ、クスノキ、マキ、スギ、カジ、カツラ、ヒノキ、イスノキ、マツ、ヌルデ、ヤナギ、ケヤキです。いずれも大きく育ち木々で、その大きさも神木になる要素のひとつです。
 下に抜き書きしたのは、カツラに関する話しですが、この長野の善光寺にお詣りしたのは昨年の5月でした。ちょうどお前立ち本尊のご開帳の年で、朝5時前に行き、ほとんど人のいないところでゆっくりとお詣りできました。そして、そのカツラの木も見ましたが、下にあるような話しがあるとは気づきもしませんでした。
 ご神木というども自然のなかに自生する木なので、適する環境というのはあります。
(2023.4.12)

書名著者発行所発行日ISBN
神の木 いける・たずねる(とんほの本)川瀬敏郎 光田和伸新潮社2010年3月25日9784106022029

☆ Extract passages ☆

 長野市の善光寺の本尊阿弥陀如来像は、桂の本に彫られていると伝承されている。駅から苦光寺へ向かうと、寺へのゆるやかな登り道が始まるあたりから、道の両脇に桂の木が植えられているのを目にする。ところが、初めさやさやときれいな緑を見せていた桂が、坂を登るにつれて葉の数は小さく少なく、やがてはちりちりと苦しげなものに変わってゆく。道端の店で休んだおりに、そのことにふれると、「そうなのです、坂の上のほうは、なんど植え替えても枯れるのです」と店のひとが嘆いた。坂を登れば、地下水の流れるところまで桂が根を伸ばさねばならない距離は遠くなる。乾いた市街へと人の都合で連れてこられて、桂はやはり水の神木なのである。
(川瀬敏郎 光田和伸 著『神の木 いける・たずねる』より)




No.2174『鍵のいらない生活』

 7〜8年前に、米沢市内にあるNECで子どもたちにパソコンなどを知ってもらう企画があり、孫といっしょに参加しました。そのときに、簡単なプログラミングや新しい試みなどもあり、音声でテレビを点けたり、カーテンを閉めたりすることもありました。
 まだAIが取りあげられることもなかった時でしたが、それからたいぶ進化したようで、スマホでいろいろなことができるようになりました。
 そこで、たまたまこの本を図書館で見つけたので読むことにしましたが、最初は「スマートホーム」と「スマートハウス」の区別もわかりませんでした。どちらも「スマート」が付くのですが、この本では、「スマートホーム」は「テクノロジ×暮らし」で、「スマートハウス」は「テクノロジー×省エネ」だといいます。たしかに似てはいますが、「スマートホーム」はさまざまな家電や設備をインターネットでつなぎ、AIなどの先進技術で暮らしをサポートしてくれる住宅というような位置づけになります。
 だから、欠かせないものは「IoT(Interney of Things)」で、いわばモノのインターネットです。だから、家電や家庭の設備だけでなく、工場の設備や車などともつながっています。つい最近、車を替えたのですが、車にWi-Fiが付いているので、ナビでもグーグルとつながったり、自動車保険の会社ともつながっていて、事故があるとすぐに向こうからスマホに連絡が入るそうです。さらに、安全運転をすると、それが数値化され、得点が高いと保険料が安くなり、点数が低いと高くなったりします。
 ただ、私の場合には、なんとなくこの年になって点数を付けられるのはちょっとイヤかなと思いますが、これが安全運転につながればいいと割り切りました。
 だから、今の時代は家庭も車も「スマートホーム」化しつつあるということです。
 でも、おそらくあくまでも「なりつつある」ということで、一気にということは難しいと思います。たとえば、トイレのウォシュレットのように、トイレだけを新しくすればすぐできますし、それなりの効果もあります。今では、ほとんどの家庭やホテルや旅館に入ってますし、学校などでも急速に改良されています。
 ところが、この「スマートホーム」化はここだけということではなく、ある程度トータルに進めないと効果が少なく、有難みもなくなります。そういう意味では、この本の副題が、「スマートホームの教科書」とあるように、先ずは知ってもらおうという本でもあります。
 私のような年代になれば、便利さも必要ですが、認知機能が低下したり、身体が思うように動かせなくなったときには、このような自動化や遠隔操作も大切だと思います。昨日までなんともなくやれたことが、今日はできなくなるかもしれないのです。そんなとき、頼りになるスマート化があれば、少しは精神的にもゆとりが生まれそうです。あるいは、息子たちにもあまり迷惑をかけないですむかもしれません。これはとても大事なことだと思います。
 この本を読んで、あまりにも便利過ぎて身体を動かさないのも困りますし、ほどほどの便利さがよいのではないかと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「あとがき」に書いてあったものです。たしかに、住む家というのは、とても大切ですし、おそらく一番長い時間を過ごすところでもあります。
 先月末に新しい車を購入しましたが、半導体の供給不足で車が造れないという事情がよくわかりました。ディーラーの人も、今の車は半導体のかたまりみたいなものだと話していましたが、まさに実感です。スマホで設定し、車に乗って設定し、便利な機能の多くがアプリで設定します。おそらく、デジタルに慣れていない人たちにとっては、車を動かすまでは大変だと思いました。もっと簡単に設定できればとディーラーの人に話しましたが、おそらくセキュリティのこともあるので、そう簡単には設定できないようになっているのかもしれないということでした。
 どちらにしても、スマート化は次第に広がっていくように思います。
(2023.4.10)

書名著者発行所発行日ISBN
鍵のいらない生活小白 悟クロスメディア・パブリッシング2023年3月1日9784295408031

☆ Extract passages ☆

 人生が物語だとしたら、家は舞台です。お芝居では、場面によって舞台が転換しますが、スマートホームなら、住む人のライフステージに合わせて機能を追加したりすることで、簡単に転換できます。決してシステムに頼り切りになるのではなく、主役はあくまでも住む人。すべての人のQOL(暮らしの質)を高めるための舞台として、スマートホームを見てほしいと思います。
(小白 悟 著『鍵のいらない生活』より)




No.2173『ネット情報におぼれない学び方』

 最近よく問題になるのは、特定の個人に対して多くの誹謗中傷の書き込みが行われる「炎上」や、社会不安をさらにあおる誹謗中傷などがインターネット(特にSNS)などを使った問題が深刻化してます。総務省からも「SNS等での誹謗ひぼう中傷」の特集が出されていますが、最近はさらに悪質な使い方もあるようで、困った問題です。
 さらに、ネット情報そのものが、本当に正しい情報なのかも問題で、間違った情報が勝手に一人歩きしていることもあります。
 たとえば、少年犯罪が最近増加しているという話しもありますが、最近の少年犯罪はだいぶ減少していて、先日のある研修会でもその数字がはっきりと出ていました。でも、テレビや新聞などを見ると、増加しているのではないかと思うような取りあげられ方をしていて、現実とはちょっと違います。こういうのを目の当たりにすると、ネット情報に懐疑的にならざるを得ません。しかし、ちょっと調べるときには、インターネットは本当に便利です。昔は百科事典があり、それで調べましたが、重くてかさばるし、とうとうどっかへ行ってしまいました。
 この本は岩波ジュニア新書の1冊なので、とてもわかりやすく、なるべく青少年に読んでほしいと思いました。
 よく情報リテラシーといいますが、世の中に溢れるさまざまな情報を、適切に活用できる基礎能力のことです。住友電工情報システムのサイトには、「情報リテラシーにまつわる具体的な能力は次のとおりです。1.情報を検索・取捨選択する力、2.得た情報が本当に正しいものか見極める力、3.情報を正しく解釈・分析・評価する力、4.情報を正しく作成・発信する力、などと書いてあります。  この本には、この情報リテラシーを身につけるポイントとして、「まずは、「@確かな情報を探し集め」、それによって「A幅広い知識体系を育てる」ことです。本書では、この2つに最も重点を置いています。そして情報リテラシーは、集めた情報をもとに考えて活用する力も含んでいます。そこで「B自分が探究したい課題(テーマ)を見つけ」、「C解決策(アイデア)を考え出し」、「D言葉や文章でアイデアを人に伝える」ための知識や技術を身につけることにもチャレンジしていきましょう。」と書いてあり、とてもわかりやすい流れになっています。
 私がいいと思ったのは、サイトの利用で、国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」(https://rnavi.ndl.go.jp/)です。このサイトの説明には、「調査のポイントや参考になる資料、便利なデータベース、使えるWebサイト、関係する機関など、調べものに役立つ情報を特定のテーマ、資料群別に紹介するもの」と書いてあり、情報を収集するにはとても信頼でき、役立ちそうです。
 この本の第5章の「ネット情報の海におぼれないために」に書いてあったネット情報の活用術を身につける方法ですが、Google検索ヘルプの「ウェブ検索の精度を高める」ものです。
 @は絞り込み検索の引き算で、「検索したいキーワード」−「結果から除外したい語」です。Aはかたまり検索で、「」や“ダブルクォーテーション”を使って単語のかたまりにして検索するものです。Bはあいまい検索で、「*」というワイルドカードを語尾につけて、不明な文字を検索します。CはOR検索で、ある意味、足し算で少々間違っていても表示できます。Dはどっちも含む検索で、AND検索です。Eは複合的な検索で、OR検索とAND検索を組み合わせたものです。Fはサイト内検索で、「site:」を使い、特定のサイトのなかだけを検索しますから、情報の精度が高まります。Gはドメイン指定の検索で、「ac:」などのように日本の大学や研究機関などだけをターゲットにして検索するので、これも精度が高まる方法です。Hはタイムマシン検索で、古くなってしまった情報を探すのに便利なもので、たとえば、「Wayback Machine」(https//archive.org/web/)というのがあり、削除されてしまったものでも閲覧可能なものがあります。
 これなどは、ある意味、いくら削除したとしても閲覧できるので、こわいこともありますが、それがネットだという認識も必要ではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、これも第5章の「ネット情報の海におぼれないために」に書いてあったネットの短所です。
 これを見てもよくわかりますが、長所はマイナスにもなり得ます。また、今まで検索した情報からある程度絞られてしまいますから、次々と検索の幅が狭くなることもあります。たとえば、欲しいと思った品物も、それに近いものだけになってしまい、考えてもいないようなものははじかれてしまいます。
 これだって、メリットとデメリットになり得ます。つまり、ネットは諸刃の剣だともいえます。だから、それを知った上で、上手に使うことが大切だと思います。そういう意味では、ぜひこれからスマホを使う若者たちにも読んでほしい1冊です。
(2023.4.8)

書名著者発行所発行日ISBN
ネット情報におぼれない学び方(岩波ジュニア新書)梅澤貴典岩波書店2023年2月21日9784005009640

☆ Extract passages ☆

 ネットの短所としてまず挙げられるのは、信頼性が低く、不確かな情報が含まれやすい点です。また、長所として挙けた情報のスピードの速さや双方向性も、ときにマイナス面となります。SNSでの炎上や誹謗中傷は、その最たるものです。
 またキーワード検索も便利ではありますが、検索した履歴から、私たち利用者の属性や好みが情報を流す側に把握されていることを知っている人も多いでしょう。ネットが自分好みの情報をどんどん提供してくれることは、一見すると便利なように思えますが、新たな出会いの可能性を狭めているかもしれません。
(梅澤貴典 著『ネット情報におぼれない学び方』より)




No.2172『徳川家康 弱者の戦略』

 私はほとんどテレビを見ないのでわかりませんが、「はじめに」のところで、「どうする家康」もおもしろいのですが、と書いてあって、これはNHK大河ドラマ「どうする家康」のことのようです。
 たしかに、これはドラマですから史実と違うところもありますが、だからといって史実に忠実に書いたとしても、それは先行研究や最新研究であっても、いつひっくり返るかわからないものです。しかも、その史実を積み重ねたものでは、あまりおもしろくないというのもあります。しかも史実といいながらも、為政者によって都合のよいように書き改められることもあり、たとえば家康が寅の年の寅の日の寅の刻に生まれたというのも、実は1603(慶長8)年に家康が征夷大将軍に任じられたときの天曹地府祭という儀式のときの祭文に卯年生まれと書いてあり、しかもその原文が今でも宮内庁書陵部に残されているそうです。
 おそらく、長い歴史のなかには、このようなことはたくさん紛れ込んでいるかもしれません。そもそも家康の神格化は、この本によると、「家康の神格化をはかるイメージ操作は、関ヶ原の戦いに勝ったあと、豊臣家を減ぼすころまでに激しくなっていったと考えられます。この頃には、家康も将軍や天下人になるのを強く望んでいました。松平徳川家はもともと弱者です。弱者にはイメージ戦略が必要なのです。家康死後も、徳川家を天下の家として権威づける必要があり、その仕掛けが考案されたのでしょう。逆に言えば、戦国時代とは、武将として生き抜き、天下人として君臨するためには、卯年生まれが虎の仮面をかぶらなければならないほど、厳しい時代だったともいえます。単に武力だけではない、神話的なイメージまで動員する総力戦を、家康は戦っていたのです。」と書いてあり、なるほどと思います。
 だとすれば、イメージ戦略で彩られた歴史は、あくまでも脚色されていますし、不利な情報は消されてしまいます。だから、歴史家は「史実」の追求をするわけです。
 ただ、そればかりだと無味乾燥の歴史書になることもあり、読んで楽しい歴史書にはなりません。さらに、「歴史は伝えられるなかで尾ひれがつきますが、その尾ひれのつきかたにこそ、歴史時代の人々の心があらわれる面もある」といいます。そしてその場合は、「史実」と「尾ひれをしっかりと区別することが大切で、この本では、語尾の表現で、つまりは「と伝えられています」とか「という伝説があります」と書いてありました。
 この本を読んでみると、学術書のような歴史書ではありませんし、だからといって通俗小説のような歴史書でもありません。ある意味、その両方に足を置いて?いてあるように思いました。だから、楽しくおもしろく読むことができました。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「信長から学んだ「力の支配」とその限界」の「信用のフィードバック」に書いてあったものです。
 この後に、信長、秀吉、家康を別な角度から比較したものがあり、たとえば、武田勝頼は「戦う姿勢」を示すことができなくなったのが崩壊につながったといいます。だから、その所属するメリットが大切なことで、「織田家は信長という存在自体が最大のメリットでした。それを本能寺の変で失うと、織田家中は空中分解しました。秀吉の場合、メリットは「財力」、領地。金品を与える力です。それが朝鮮半島への侵略が失敗して、これ以上領地を与えられなくなると、とたんに豊臣政権の崩壊が始まりました。実にわかりやすいものです。家康が与えた最も重要なメリットは「安心」だったのかもしれません。領地を保証してくれ、泰平を維持してくれる安心感です。それが損なわれたのが、幕末における海外の脅威でした。」と書いてあり、これもほんとうにわかりやすいと思いました。
 たしかに、徳川幕府が260年も続いたのは「安心感」だったかもしれません。いつの時代もそうですが、戦うことより、平穏な生活が一番です。
(2023.4.5)

書名著者発行所発行日ISBN
徳川家康 弱者の戦略(文春新書)磯田道史文藝春秋2023年2月20日9784166613892

☆ Extract passages ☆

 信長、秀吉、家康の二者を比較するなら、信長は価値観もふくめ一元的に服従させる権力、秀吉は全てを呑みこもうとする権力、そして家康は棲み分ける権力ということになるでしょう。このうち、信長型は求心力が強く、急速に成長可能ですが、ブラック化しやすく、メンバーが「信長疲れ」を起こします。秀吉型も強力な成長志向で拡大路線には強いが、朝鮮出兵の失敗のように、行き詰まると、やはり「秀吉疲れ」の弊害が表面化します。そのなかで、もっともサステイナブルだったのが家康の棲み分け路線だったといえます。
(磯田道史 著『徳川家康 弱者の戦略』より)




No.2171『男おひとりさま道』

 著者の名前で今もはっきりと覚えているのが、2019(平成31)年度東京大学学部入学式の祝辞です。その最後に、「あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。」と結んでいます。
 これを読んだときには、フェミニストという概念ではくくれない幅の広さを感じました。やはり、学問というのは、正解のない問いに満ちた世界であってほしいと思ってましたから、この考えには大賛成です。
 この本のなかでも、人生のピークを過ぎたときこそ人生のうちで最も充実を感じるときかもしれないといい、その年齢に達してみると、なるほどど思います。そして上りより下りのほうがスキルがいるとして、「上り坂のときには、昨日までもっていなかった能力や資源を、今日は身につけてどんどん成長・発展することができた。下り坂とは、その反対に、昨日までもっていた能力や資源をしだいに失っていく過程である。昨日できたことが今日できなくなり、今日できたことが明日はできなくなる。問題はこれまで、人生の上り坂のノウハウはあったが、下り坂のノウハウがなかったこと。下り坂のノウハウは、学校でも教えてくれなかった。そして上りよりは、下りのほうがノウハウもスキルもいる。」と書いています。
 この人生のピークにしても、著者がいうように、「実のところ、過ぎてしまわなければわからないものだ。自分が下り坂にあって、ふりかえったときにはじめて、あれが人生のピークだったのか、とわかる。」とあり、私もそうだったと思います。下り坂に気づいたときには、けっこう下がってきていて、やはりあのときが、という感覚です。
 ただ、それ以降は下り坂だと意識するこが大切で、あまり無理をしないことです。車の運転だって、何時間も続けてしないようにして、いい風景のところがあったら、一休みするようにしています。今年からは、車にソケットがあるので、電気ポットを持っていって、どこでもお茶やコーヒーを飲もうと思ってます。
 それと、おもしろい考え方だと思ったのは、「女は女であることを証明するために男に選ばれなければならないが、この反対は成りたたない。男は男であることを、女に選ばれることによって証明するのではなく、男同士の集団のなかで男として認められることで証明する。男が男になるために、女はいらない。男は男によって承認されることで男になる。女はあとからごほぅびとしてついてくる。」というものです。
 こういうあり方を専門用語で「ホモソーシャル」と呼ぶそうですが、男は産まれながらにしてパワーゲームで争う生きものなのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「下り坂を降りるスキル」のところに書いてあったもので、「自然は最良の友」だそうです。
 たしかに、私もそう思ってますし、小町山自然遊歩道を造ったのもいつも自然に触れていたと思ったからです。とくにコロナ禍では、とこへ出かけることもできなくて、小町山自然遊歩道を毎日歩きながら、自然の営みを観ていると、ほんとうに楽しいものです。そして、自然の不思議もたくさん見つけることができました。
 ここに何時間いても、まったく飽きるということはなく、毎日出かけていっても、毎日変化しているので、一日一日がまさに「日々是好日」です。
(2023.4.2)

書名著者発行所発行日ISBN
男おひとりさま道(文春文庫)上野千鶴子文藝春秋2012年12月10日97841678383790

☆ Extract passages ☆

「おひとり力」のあるひとには、自然のなかで子ども時代を送ったひとが少なくない。野山を歩きまわったり、一日じゅう小川で遊んだり……。疎開学童でいじめに動あったことのある世代には、自然のなかにいることが癒しで、何時間ひとりでいても飽きることがなかった、というひともいる。自然は少しもじっとしていない。陽は刻々と翳るし、風のざわめきがある。虫たちの気配があるし、鳥たちのさえずりも注意して聴けば、うるさいくらいだ。
(上野千鶴子 著『男おひとりさま道』より)




No.2170『歩く江戸の旅人たち 2』

 『歩く江戸の旅人たち 2』ということは、『歩く江戸の旅人たち 1』もあるはずで、調べてみると、『歩く江戸の旅人たち』は一般庶民が主役で、彼らが道中で書いた旅日記の分析から、「名もなき旅人の歩行事情」というものでした。
 この『歩く江戸の旅人たち 2』の副題は、「歴史を動かした人物はどのように歩き、旅をしたのか」で、松尾芭蕉、伊能忠敬、吉田松陰、清河八郎、勝小吉の5人を取りあげています。先の3人は知っていましたが、後の2人は知らなかったので、どのような人だったのかなど、興味がありました。
 読み終わった今日は、たまたま四国から帰ってきたばかりで、昨夜は「特急サンライズ瀬戸」に乗り、今朝の7時8分に東京駅に着き、そして東京駅8時8分発の「つばさ127号」で米沢駅に10時22分に着きました。まさに前回のNo.2169『鉄道きっぷ 探究読本』に書いてあったような旅を楽しみました。
 さて、この本は、旅をすることでどのように生き方が変わっていったかというようなものではなく、まさにどのぐらい歩いて、どのような日程で旅をしたかというのが、事細かに書かれています。今まで、松尾芭蕉の『おくの細道』を読んでも、歩いている様子がなかなかわからなかったのですが、これを読むと、1日に何時間歩いて、何q進んで、どこに泊まったのかがよくわかります。ここでは、『おくの細道』は文学書ではなく、あくまでも紀行文で裏付けまで書いてあります。そういう意味では、今まであまり取りあげてこなかったものが書いてあり、とてもおもしろく読みました。
 たとえば、たとえば、私が住む近くの川西町の話しも出ていて、それは上小松の金子拾三郎の参宮記です。そこには、「元禄4(1691)年、上小松村(現在の山形県川西町)の金子拾三郎が伊勢参宮をした際に、「道中付」という旅日記を書いています。10名の同行者と二ヵ月間をかけて周遊した、当時としては豪華な旅です。先に示した方法で、金子拾三郎の59日間におよぶ旅のうち48日間分の歩行距離の情報を取得しました(59日間中、逗留が11日)。拾三郎の足取りは、在地出立後は東北地方を江戸に向かって歩き、途中日光に立ち寄って11日目に江戸に到着しています。概ね、芭蕉が歩いた街道を逆方向に遡ったコース取りだったと言えるでしょう。江戸出発以降は、東海道経由で伊勢参宮を果たし、さらに奈良、高野山、大坂、京都にまで足を延ばして、帰路は中山道で善行寺に参詣し、日本海沿岸を北上するルートで上小松村に帰着しました。拾三郎の総歩行距離は1800kmにおよび、1日平均の歩行距離は37.9q、最短歩行距離は7.8qでした。最長歩行歩行距離は66.3qとかなり長いことがわかります。」と書いてあり、その当時の記録としてはとても貴重です。
 しかも、このような旅をした人たちが、私のすぐ近くにいたということも驚きです。また、清河八郎も山形県庄内の人で、1855(安政2)年3月19日に、母の長年の願いだった伊勢参宮に連れて行き、しかも奈良、京都、大阪だけでなく、四国の丸亀や安芸の宮島、岩国まで足を伸ばし、169日間も旅をしてきたそうで、まさに親孝行の旅です。
 吉田松陰についても、この時代には旅をすることでいろいろな知識を吸収するだけでなく、「幕末動乱期を駆け抜けた松陰の思想形成は、その健脚に支えられていました。言い換えれば、松陰のような歩行能力を持っていなければ、生活圏を飛び越えて異文化世界で学び、国際社会を視野に入れた近代的な思考を身に付けることは難しかったのでしょう。吉田松陰をはじめ、幕末の志士の中には旅行家が多く見られましたが、それは偶然ではありません。諸国を歩き回って旅することは、来る近代を見据えて人びとを導けるリーダーの条件だったのではないでしょうか。」といい、たしかに旅をすることで、多くのことを自分の目で見、耳で聞いて、いろいろな体験を積み重ねていったと思います。
 よく「井戸の中の蛙」といいますが、そのような人にリーダーシップをとれるわけはありません。
 最後の勝小吉については、まったく知らなかったのですが、彼の長男が勝海舟だそうで、父とはまったく違う生き方をしましたが、まさに反面教師だったようです。
 下に抜き書きしたのは、「おわりに」に書いてあったもので、原典は浅井了意の『東海道名所記』の冒頭に書いてあるそうです。
 旅というのは、いつの時代も困難を乗り越え、新たな出会いがあり、その土地ならではの名物を味わい、貴重な体験をすることです。だから、「可愛い子には旅をさせろ」というわけです。
(2023.3.30)

書名著者発行所発行日ISBN
歩く江戸の旅人たち 2谷釜尋徳晃洋書房2023年1月20日9784771036840

☆ Extract passages ☆

「『いとおしき子には旅をさせよ」といふ事あり。万事思ひしるものは、旅にまさる事なし。鄙の永路を行過るには。物うき事、うれしき事、はらのたつこと、おもしろき事、あはれなること、おそろしき事、あぶなき事、をかしき事、とりどりさまざま也。」
(谷釜尋徳 著『歩く江戸の旅人たち 2』より)




No.2169『鉄道きっぷ 探究読本』

 著者はNHKの記者で、現在松山放送局に勤務しているそうで、2021(令和3)年6月のNHKテレビの「おはよう日本」で取りあげられ、硬券に関する特集で説明したそうです。
 私は硬券とか軟券などの区別も知らなかったのですが、著者のきっぷに対する思いから、この本を読み始めました。
 それというのも、3月25日から四国へ旅をしていて、今回は帰りは「特急サンライズ瀬戸」に乗りたいと思い、きっぷの売り出し日の午前10時にすぐポチできるように全てを整えて準備していました。ところが、電子時計の10時にすぐに押したにもかかわらず、売り切れでした。たしかにタイムラグもあるし、今、全国で走っている寝台特急はこれだけなので難しいとはわかっていました。しかも、「A寝台個室」はたった6部屋しかないのです。
 何度チャレンジしてもダメだったので、帰りの飛行機を予約しましたが、されでも諦めきれずに最後と思ってポチっとすると、なぜか今度は空席があったのです。半信半疑で予約を進めると、ちゃんと最後の支払いまでいき、全て完了しました。もちろん、この時は最高に嬉しかったですよ。
 その後に図書館に行ったときに見つけたのが、この『鉄道きっぷ 探究読本』です。今読まないでいつ読むのという感じで、すぐに借りてきました。
 それを読んでいて、私も時々は手もとに残ったきっぷをそのまま記念に保管するときはありましたが、それを目的に旅する人がいるとは知りませんでした。「乗り鉄」や「撮り鉄」はなじみがありましたが、「きっぷ鉄」という趣味のジャンルがあることを初めて知りました。でも、読んでいるうちに、なるほど、これは収集する人がいるのは当然だと思いました。しかも、鉄道のきっぷに、これほどの種類があることも知りました。これでは、集めるのも相当な時間と経費がかかるとも思いました。
 それと、一番これはと思ったのが、今回のやっと手に入れた「特急サンライズ瀬戸」のきっぷを、なんとか手もとに残したいと思っていたので、その方法が書いてあり、とても参考になります。それは、「旅行の記念、旅の思い出としてきっぷを残したい。また、会社員や公務員にとっては、出張で使ったきっぷを事後に出張記録として提出するということもあるでしょう。出張していないのに出張したことにして交通費などを不正に得る、いわゆる「カラ出張」を防ぐ目的で、使用済みのきっぷを提出するよう求める会社、団体は少なくありません。そうした事情をふまえて、JR各社やほとんどの私鉄は、使用後のきっぷの持ち帰りを認めています。ただし、自動改札にきっぷを通すと強制的に回収されてしまうので、改札日の駅員にきっぷの持ち帰りを依頼する必要があります。そして駅員から、使用後のきっぷに「無効」や「乗車記念」などと書かれたスタンプを押してもらったり、きっぷに穴を開けて磁気データを壊してもらったりして、明らかに使用済みとわかる状態にしたうえで、きっぷを持ち帰ることができます。」と書いてあり、これはとても参考になります。
 この方法で、私も「特急サンライズ瀬戸」のきっぷを記念に持ち帰ろうと思います。
 また、駅にも個性があるということも書いてあり、そういえば、私の場合は出発する駅や到着した駅は見ていますが、通過駅はほとんど見ていません。また、見ることもできません。ところが、きっぷを収集している方たちは、入場券も集めているので、駅の構内から出る場合もあります。さらに、駅によってきっぷも違うのだそうです。この本では、「全国各地の駅、どこできっぷを買うかという選択も、きっぷ収集のうえでは重要な要素で、楽しみのひとつです。どの駅できっぷを買っても同じではないか、と考えられがちですが、駅は無個性ではありません。きっぷの売り方、そして出てくるきつぷも駅によって個性があるのです。有人駅のなかでも、とくに個性を感じさせてくれるのが「簡易委託」駅です。簡易委託とは、きっぷの販売や集札といった駅の業務の一部に絞って、鉄道会社が第二者に委託する方法です。委託先はさまざまで、企業や自治体、地元の観光協会や商工会などの団体が主ですが、場合によっては近隣の個人商店や住民が受託者となる場合も散見されます。」と書いてあり、あらためて、駅で発売するきっぷにも個性があることを知りました。
 下に抜き書きしたのは、第5章の「未来はどうなる?! 激変するきっぷ事情」のところに書いてあったものです。
 たしかに、ICカードの普及やネット予約、さらにはコロナ禍できっぷそのものもそうですが、鉄道各社や旅行業者までもがこれらの影響をもろに受けてしまいました。窓口は廃止され、駅は無人化され、さらに合理化の波はとどまる気配すらありません。気がついたら、旅行会社の店舗もJRにしても「みどりの窓口」や「びゅうプラザ」もあまり見かけることもなくなり、私自身もネットできっぷを買っています。
 たとえば「びゅうプラザ」、全盛期には171もの店舗があったそうですが、令和4年2月に新潟駅の店舗を最後に、全廃になったそうです。
 だから、この流れはますます続きそうです。だからこそ、抜き書きしたところは、なるほどと思ったのです。昔から「顔パス」というのがありますが、これからはみんなが顔パスになるかと思うと、不思議な気がします。
(2023.3.27)

書名著者発行所発行日ISBN
鉄道きっぷ 探究読本後藤茂文河出書房新社2022年12月30日9784309292540

☆ Extract passages ☆

 鉄道会社も、チケツトレス化を進めて合理化、費用削減を進めたい考えはあるので、どの仕組みを使うかは会社それぞれですが、既存のきっぷ以外のものを使って乗車する機会がますます増えそうです。
 さらに、きつぶの進化の先として、顔パスでの鉄道利用を模索する取り組みがあります。大阪メトロは令和元(2019)年から「顔認証改札機」の実証実験を進めています。文字どおり、顔認証でゲートを開閉する、次世代の改札機です。令和7(2025)年4月開催の大阪・関西万博の前、令和6年度中に大阪メトロの全駅に設置することを目指しています。
(後藤茂文 著『鉄道きっぷ 探究読本』より)




No.2168『いちにち、古典』

 副題が「〈とき〉をめぐる日本文学誌」で、1日という時間を古典を通して、昔の人たちはいかに過ごしていたかを描いた古典入門です。
 この視点はとてもおもしろく、つい、古典の世界に引き釣りこまれてしまいました。本の紹介で「時を駆ける古典入門」とありましたが、この時を駆けるとは、「物事を行うのにある程度長い時間を使う様子。すぐに完了させない、または、長い事それに携わる、といった意味で用いる表現。」だそうです。
 だとすれば、1日といいながら、その1日を引き延ばして、いろいろと考察をするのかな、と思いました。読んでみるとよくわかりますが、学校で習ったよく取りあげられる古典なども多く、とても親しみやすい入門書だと思いました。
 この1日というくくりは、書き出しが「鶏の鳴き声は古来おおよその時刻を知る手段であったが、鶏が鳴くと同時に、夜が明ける――、そう思っている人は多いのではなかろうか。昭和の時代、谷岡ヤスジ描くムジ鳥が朝日とともに「アサーッ」と叫ぶ漫画が一世を風靡したのを思い起こす。しかし、実は鶏が鳴くのはまだ暗い時間帯なのである。」とあり、鶏が鳴くときから始まり、最後の文章が「夜が終われば、モノは舞台から去る。そして今日もまた鶏が鳴き、 一日が始まるのだ。」なのです。
 つまり、鶏が鳴くときから、再び鶏が鳴くときまでの時が、この1冊に凝縮しているということです。
 また、おもしろいと思ったのは、昼から夜へと移り変わる時間帯の言葉もたくさんあると感じました。この時は、朝も早くから活動している昔の人にしてみれば、1日の疲れがどっと出てくる時であり、「判断力も鈍り、理性を感情が打ち負かす」時間帯でもあります。ある意味、ここから魑魅魍魎の時間帯に入るわけです。
 「夕映え」が過ぎれば、「だんだん暗くなってゆく乏しい光のなかでは視界も狭まり、見えているはずのものが見えず、見えないはずのものが目に入ったりもする。そうしたころあいを、かつては「彼は誰そ時」と呼んだ。「かはたれどき」と言ったら、もっとわかりやすいだろうか。「あの人は誰」という意味なので、人の見分けがつきにくい時間帯だということでもある。よく似た表現に「たそがれどき」(「誰そ彼時」)もある。『万葉集』には「あかつきのかはたれどき」として、明け方のまだ薄暗いときを指す例が見える(『国歌大観』四三八四)。」と書いてあり、いろいろな表現があるということは、感じ方もいろいろだということではないかと思いました。
 そういえば、この参考文献の『国歌大観』は、私が若いときに買った一番高かった本で、たしか『新編 国歌大観』角川書店で、全5巻あり、1冊の重量も相当なものでした。昔はときどき開いて参考にしていましたが、今では重すぎて、ついネット検索でごまかしています。でも、取り出しやすいところに、今も置いています。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「よる」のところの、「月の顔を見るなかれ」に書いてあったものです。
 観月ということは昔からあったと思っていましたが、女性はあまり一人で見るものではないと初めて知り、それが『竹取物語』のかぐや姫の嘆きにまで遡るとあり、ちょっと驚きました。今では、孫娘が学校の授業で習ったといい、星図を参考にして月を見たり、最近ではMoon Bookというアプリで、月に関する情報をわかりやすく表示するものまであるそうです。ある意味、月がそれだけ身近に感じられるようになったからなのか、はたまた、人が月に下り立ったことから、さまざまな幻想がなくなってしまったのか、ちょっと考えさせられました。
(2023.3.24)

書名著者発行所発行日ISBN
いちにち、古典(岩波新書)田中貴子岩波書店2023年1月20日9784004319580

☆ Extract passages ☆

 『小町集』は実際の小野小町の歌ではないものが多いので、これも「女」が小町に擬せられているのだろう。『源氏物語』「宿木」巻と同じように、ここでもまた、月を見る女を男が制する、という構図が見出せる。つまり、女性が一人で月を見ることが禁忌とされるのは、かぐや姫のように思い悩んでしまうから、そして、彼女を思う人物の元から離れて行ってしまう可能性を危倶するからだといえるのではなかろうか。
 しかし、中世になるとそうした禁忌が語られることが次第になくなり、男女ともに、月は見ることで心を慰められるものとなってゆく。それは、明るい光が迷妄の間を照らし、煩悩から解放された人間の本性を月にたとえる「真如の月」という仏教思想の浸透と関連していると思われる。月を眺めることは、みずからの内面に目を向けることを意味するようになったのである。
(田中貴子 著『いちにち、古典』より)




No.2167『この世を生き切る醍醐味』

 著者は樹木希林ですが、2018年の春に朝日新聞の連載「語る 人生の贈りもの」のインタビューをした石飛徳樹さんが本にしたものです。しかも、樹木希林の娘、也哉子さんのインタビューも最後に掲載していて、とても興味深く読みました。
 じつは、この本は連れ合いが図書館から借りてきたもので、おそらく、自分では絶対に選ばないと思いますが、読んでみて、とてもすごい生き方をしたきたと思いました。私はほとんどテレビも映画も見ないので、当然ながら樹木希林のことも知らないのですが、数年前に森下典子のエッセイ「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」が映画化され、そのお茶の先生を樹木希林が演じていました。この映画は、私もお茶をしていることから興味があり、本も映画も見ましたが、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」役でした。
 なぜか、私のお茶の師匠とすごく似ていて、私もその先生がいたからこそ、50年もお茶を続けて来れたと思いました。
 そして、お茶を習うことによって、しあわせも感じることができましたが、それが15あるかどうかはわかりません。それでも、今も毎日お抹茶を点てて、飲んでいるところをみると、しあわせなことだと感じます。
 さて、本題ですが、著者のガンが見つかったのは2004年のことで、2013年の日本アカデミー賞授賞式で全身ガンであることを公表し、それから2018年9月15日に亡くなるまで、14年間もガンと付き合ってきたことになります。一時はステージ4といわれていたし、いつ亡くなられても不思議ではないというような報道もありましたが、まさに生き切ったということになります。
 そのガンについて、養老孟司さんがガン検診も受けないということを聞き、なぜと聞くと、「そうしたら「がんっていうのはね、出来てもまた消えてったりね、するんですよ」と言うの。「もう、みんな、がんがいっぱい出来てるんですよ。年を取ってくれば、それが固まってくるんです。早期発見、早期発見なんで喜んでるけど、あんなのは放っときゃあね、なくなっている可能性もあるんですよ」って。そういうことらしいの。……「だから僕はね、もう、ゆったりと楽しいことをやる。そして嫌なことはもうやめることにしました」って。それでね、「一番嫌なのが大学の先生だったってわけ。そんで『バカの壁』がヒットした時に、「もうこれで食べていける」と思って、北里大学は辞めちやったんですって。」と答えたそうです。
 たしかに、養老さんらしい話しですが、お医者さんが検診を受けないというのも、なぜか紺屋の白袴みたいです。でも、少しは真実があるような気もして、まさに医師の発言だからなのかもしれません。
 それに対して、著者は「仕事は出演依頼が来た順番とギャラで選んでいるんだから」と、これもらしい発言でした。
 そういえば、樹木希林という名前は、とてもユニークだと思っていましたが、その由来を、「これはねえ、辞書を繰ってね、名字ゃ名前に使えそうな単語はないかなあと調べてたのよ。私は、音が重なるのが好きなのね。うちの娘は也哉子っていうんだけど、やっぱり音が重なるんです。それでふと「きききりん」っていう響きを思いついたの。いいじゃない?って。別にさ、「ちゃちゃちゃりん」でもよかったけど、「ちゃ」という漢字がなかなかないのよ。……樹木希林には「き」がたくさんあって、いいなあ、と。樹木の「樹」っていうのは、おっきい木でしょ?……で、「木」は、ちっちゃい木でしょ?ある人にこう言われたことがあってね、「樹木さんのお名前は、大きい樹やちっちゃい木が集まって、希な林となる、という意味でしょう?」って。へえ、って思ったわね。」と話していました。
 私も、名前にはそれなりのエピソードがあると思っていたので、「ちゃちゃちゃりん」でもよかったと聞かされ、ちょっとびっくりしました。
 下に抜き書きしたのは、娘の也哉子さんの話しです。片目が見えなくなって、「これでちょうどいいんだわ」ということもびっくりしましたが、さすが娘さんだけに、それをさらっと話し、やはり役者が天職だったと認めていることもなるほどと思いました。
(2023.3.21)

書名著者発行所発行日ISBN
この世を生き切る醍醐味(朝日新書)樹木希林朝日新聞出版2019年8月30日9784022950376

☆ Extract passages ☆

人の嫌なところを見て、「次の役にこうやって生かそう」っていうのね、そんな職業、なかなかないですもんね?本当によく見ていますから。もう自然に見えちゃうんですよね。片目が見えなくなった時、「これでちょうどいいんだわ」って言っていました。一今まで見えすぎてたから、少し楽になった」って。見えたら見えたなりに苦しいこともあったと思うけれど、役者は天職だったのではないでしょうか。
(樹木希林 著『この世を生き切る醍醐味』より)




No.2165『今昔 奈良 物語集』

 この本は、Wab小説サイト「カクヨム」に掲載された作品を加筆・修正し、書き下ろしを加えたものだそうです。この本を出すきっかけになったのは、「ファンキー竹取物語」がはてなインターネット文学賞大賞を受賞したことだそうで、何も知らずに、この本のなかで一番わけがわからなかったのがこの小説でした。
 この大賞を受賞したと知ってからも、やはり「ファンキー竹取物語」にはなじめませんでした。ちょっと私にとっては、ファンキー過ぎたのかもしれません。
 この中で一番おもしろかったのは「三文の徳」で、これは芥川龍之介が1922年に発表した『藪の中』という小説をヒントに書いたもので、時代は平安時代から江戸時代あたりの長屋の話しになっています。ただ、検非違使が奉行になって、一人一人が奉行に語っていく形式はそのままです。
 ただ、『藪の中』では登場人物どうしの矛盾があり、結局は真相はわからず、「真相は藪の中」という言葉の語源になったほどです。
 でも、この「三文の徳」では、最後に菩提院の上ム(じょうぼう)という僧侶が鐘を撞きながら見ていたことで、その真相がはっきりします。しかも、『藪の中』の登場人物は7人ですが、この「三文の徳」では上ムを含め5人ですから、かなりすっきりとした構成になっています。
 また、興味を持ったのは、「三文の徳」ではお互いに罪をなすりつけ合い、なんとか逃れようとしますが、『藪の中』では各々の登場人物が自分を良く見せようとするあまり、そこに話しの矛盾が出てきたのではないかと思います。
 つまり、罪から逃れようとするのも、自分をより良く見せようとするのも、人間の性です。そんなことを考えながら、これらの物語を読みました。  小説ですから、抜き書きするようなところはあまりないのですが、たまたま印象に残った文章を抜き書きします。
 これは「若草山月記」という小説のなかに出てくるもので、主人公が鹿になったお話しです。この本に出てくる小説は、『今昔 奈良 物語集』というぐらいですから、奈良の鹿があちこちに出てきます。表紙の絵にも、鹿の姿をした人間が描かれ、やはり奈良と鹿はいにしえよりつながっているようです。
(2023.3.18)

書名著者発行所発行日ISBN
今昔 奈良 物語集あをにまるKADOKAWA2022年12月21日9784041131121

☆ Extract passages ☆

 これが己を損ない、両親を音しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えていったのだ。今思えば、全く、俺は、俺のもっていた僅かばかりの才能を空費しておった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが俺のすべてだったのだ。こんな事ならば、君のように真っ当な人生を歩み、人並みに恋愛をして、家族を持ちたかった。そして、世話になった父母へ孫の顔の一つでも見せてやりたかった。だが、最早それが叶う事は永久にない。
(あをにまる 著『今昔 奈良 物語集』より)




No.2164『死ぬまでに知っておきたい日本美術』

 もともと美術には興味があり、サラッとページをめくったら、現在クリスティーズジャパン代表取締役社長だそうで、19年間、ニューヨークなどで海外勤務をした日本・東洋美術のスペシャリストです。
 特に日本や東洋の美術は、日本人特有の美意識がなければ理解できないと思っていますが、さらに外国人の美術に対する眼も備われば、理解がさらに深まるのではないかと思い、読もうというより、読みたいと思いました。そして、読んでみて、この複眼的な美意識のおもしろさを感じました。
 この本のなかで、経年変化と味について書いていますが、「実際、これは美術品の経年による変化(劣化)と直に関係していて、仏像やお寺も、完成当時は極彩色であったはずのものが多いが、今、我々がその極彩色の状態を見ることができたとして、同じようによさを感じるだろうか?むしろ色や漆が剥げて素地が見えたりするように劣化したことで味が出てくる……そうした「味」の感覚は日本の美意識の特徴のひとつだと考えられる。これは……器の金継ぎによる新たな美や、根来塗の下漆が見えてくることの味わい深さ、道具が美術になったという話にもつながる部分であると思う。」とあり、たしかに極彩色ならそれほどいいものとは思えないかもしれません。
 たとえば、修復されたばかりの日光の陽明門を見たときも、なんかケバケバして、歴史的な深みも感じませんでした。ところが、十数年前に根来寺の管長を訪ねて行ったときに見た、管長の部屋の根来塗りの文机は、とてもしっとりしていて、いい雰囲気を醸し出していました。それ依頼、根来塗りの古い時代の茶入れを探しているのですが、なかなか見つかりません。ネットのオークションもたまには見るのですが、なかなかその質感まではわからず、二の足を踏んでいます。
 この本の第5章「死ぬまでに見ておきたい日本美術100選」のなかで取りあげられたものは、著者がいうように、最近は美術館や博物館の公式ウェーブサイトでも公開されています。ところが、検索してもなかなか出てこないものもあり、そのひとつが川喜多半泥子『志野茶碗、銘 不動』でした。その説明には、「そもそも陶芸という物は、人間の力だけでなく、火という自然の力によって完成する、「偶然」の力をも必要とする芸術だが、この「不動」ほどその名に恥じない作品はないだろう。この茶碗は半泥子の長女の嫁ぎ先で戦災に遭い、火災という偶然の出来事によって再度焼き締められ、焦げや釉カセなどができて、より趣が生まれた。銘もそのことをふまえて紅蓮の炎の中から出現する「不動明王」から付けられているのもたいへん好ましい。」と書いてあり、ますます見てみたいと思いましたが、今までの所ではまったく検索にひっかかってもきません。
 唯一、出てきたのは『赤不動』で、2010年2月11日から3月22日にかけて、横浜のそごう美術館で開催された「川喜多半泥子のすべて」のなかに、「志野茶碗 銘「赤不動」1949(昭和24)年 東京国立近代美術館蔵」というのがありました。
 川喜多半泥子は、百五銀行の頭取を務めた三重県財界の重鎮で、陶芸はあくまで趣味でしたが、50歳を過ぎてから自宅に窯を開き、本格的に作陶したそうで、主に抹茶碗をつくり、ほとんど売ることもなく友人知人に分け与えたそうです。
 でも、いつかは見てみたいものだと思い、この説明もここに書き記しました。
 下に抜き書きしたのは、第2章「日本美術の妙なる仕掛け」に書いてあったもので、縄文土器と弥生土器の比較から、日本美の面白さを説いています。
 これらの土器は、東京国立博物館などで実際に見たこともありますが、たしかにその違いが歴然としています。弥生土器の場合は、農耕が始まっているので、米を貯蔵するのに使うとか、実用的な要素はありますが、縄文土器は祭祀用以外には考えられない複雑な形をしています。
 このように、あまり考えてこないような切り口で、日本美術を評価しているので、とても楽しく読みました。
(2023.3.15)

書名著者発行所発行日ISBN
死ぬまでに知っておきたい日本美術(集英社新書)山口 桂集英社2022年11月22日9784087212426

☆ Extract passages ☆

 縄文土器と弥生土器は、一方がデコラティブな美、他方が余計なものを削ぎ落としたミニマルな美しさ、という両極端の魅力を代表しているようなところがあって、これは日本美術を語る上で、ある種根源的な「両輪」を示しているのではないかと思う。例えば琳派の絵画に見る、画面を草花で覆い尽くすような華やかで装飾的な美と、水墨画が追求した余計なものを徹底的に削ぎ落としたミニマルな美もしかり。こうした対極的とも言える大きな両輪が古くから受け継がれ、愛でられてきた歴史は、海外からも驚かれる特徴だろうと思う。
(山口 桂 著『死ぬまでに知っておきたい日本美術』より)




No.2163『だめなら逃げてみる』

 この本は、図書館に行ったとき、東北地方の各県出身の紹介展示があり、秋田県のコーナーにこの本が1冊だけ残っていました。昨年は秋田三十三観音霊場をお詣りしたこともあり、今、ちょうど、その旅の記録を書いているので、気になり読むことにしました。
 著者の小池一夫さんのことはまったく知らなかったのですが、1936年に秋田県大曲町、現在は大仙市ですがに生まれ、職業は漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家など、とても書き切れないほどです。だからこそ、このような「自分を休める225の言葉」が書けるのかもしれません。
 1ページに1つのことについて書き、しかもとてもわかりやすく、納得しやすいのですんなりと入ってきます。
 たとえば、第1章「不安と悩みについて」のところに、「悩み事を抱えながら、楽しく」とあり、「悩みごとの解決方法は、もちろんその原因がなくなることですが、その悩み事は悩み事として存在するけれど、他の楽しいことを充実させることでその悩みを薄れさせるのです。自分の全部がその悩み事に支配されるのではなく、一部なのだと考えるのです。さて、今日も、悩み事を抱えながら楽しくやりましょうか!」と書いてあります。
 たしかに、まったく悩み事がないという人はまれだと思いますし、悩んだから解決するかというとそうでもないようです。だとしたら、この本の題名のように、だめなら逃げてみるというか、いったんそれを棚上げにして楽しむということも大切だと思います。
 棚上げといえば、最近のSNSなども自分のことをまったく顧みず、人に恥をかかせようという魂胆が見え見えです。もちろん、それで非常に悩んだり、落ち込んだりすることもありますが、この本には、「人に恥をかかせようという風潮が酷すぎる。ネットでも、テレビでも、雑誌でも、あらゆる媒体で、とにかく人に恥をかかせたい。「人に恥をかかせない」「人に恥をかかせるものから離れる」と決めて生きるだけでも、自分の生活が美しくなる。人に恥をかかせるほど自分は偉くないからね。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 そんなことをしても、何にもならないと私は思うのですが、普通の人にはまったくわからない感情です。だとすれば、そういう人から離れるしか方法はなさそうです。
 また、この本に書かれている「アクセル、ブレーキ、車間距離。周りを見渡して、自分がどこを走っているのか状況を知る。急ぎすぎず、のんびりしすぎず。車の運転の話みたいだけど、人の心の話でもある。」というのも納得でした。
 これは第5章の「生きることについて」に書いてあったもので、たしかに車の運転のようではありますが、人の心もそれと同じで、急ぎすぎず、のんびりしすぎず、生きていきたいと思います。
 また、「これでいい、じゃなくて、これがいい。あなたでいい、じゃなくて、あなたがいい。明日でいい、じゃなくて、今日がいい。妥協ではなく、自分で選び取る。今日も、そんな一日を。」というのも、確かに大切なことです。これは第7章の「幸せについて」のところに書いてあったものですが、そのあとに書いてあった文章もなるほどと思い、下に抜き書きしました。
 私も家内といっしょに旅行したりしていると、私の見落としたところをさり気なく教えてくれたり、まだ戻れそうなときには、あそこの花、きれいだったよとつぶやいてくれたり、やはり一人の目より二人の目のほうがいいと思うことをいつも感じます。
 だから、帰ってきてからも、写真を見ながら、あのわきに咲いていた花もよかったよねと言われて、悔しいときもありますが、そこに新たなコミュニケーションが生まれます。これって、本当に大切なことだと思います。
(2023.3.12)

書名著者発行所発行日ISBN
だめなら逃げてみる小池一夫ポプラ社2018年10月10日9784591160060

☆ Extract passages ☆

伴侶や恋人って、同じ道を歩きながらも、
自分と違うことを見てくれていて、
自分が空を見ている時は
地面に咲く花を教えてくれたりする人がいい。
あくまでも同じ道を歩きながら、
自分とは違うところを見ていてくれる人。
その人がいてくれるおかげで、
人生により多くの目を持つことができる。
(小池一夫 著『だめなら逃げてみる』より)




No.2162『あなたの牛を追いなさい』

 この本は、枡野俊明さんと松重豊さんとの対談で、枡野さんは知っていたのですが、松重さんは思い出せず、一番最後のページに白黒写真が載っていて、すぐわかりました。
 私はほとんどテレビなどを見ないので俳優さんはほとんどわからないのですが、松重さんはどのようなドラマなのかはわかりませんが、たしかに見たことはあります。それにしても、還暦には見えません。
 そういえば、対談のなかで、年齢に関する話しがあり、松重さんは俳優ですから、その年齢に合わせた雰囲気とか身の熟しとかは必要で、パブリックイメージは確かにあるといいます。でも、「実生活においては、年齢のパブリックイメージに自分を完全に当てはめる必要はないと思うんです。たとえば97歳になった時、「いやあ、97歳にはとても見えないくらいお元気ですね」という人になれたら、理想じゃないですか。朝ドラの『カムカムエヴリバディ』で深津絵里さんは、実年齢よりも30歳近く年下の役も軽々と演じられていて、なんの違和感もありませんでした。本当に素晴らしい俳優さんです。だから、「年齢っていったいなんなんだろう?」と思います。自分の年齢に対して恥じることもないし、いきがることもない。年齢というものは単なる記号で、その境界が分からないというスタンスでいられることのほうが僕はいいなと思うんです。」と話していて、なるほどと思いました。
 たしかに、同級会などに参加すると、意外と若々しい人もいれば、老け込んでしまったような人もいます。もちろん、同級会ですから、ほとんど同じ年齢に間違いはないのですが、その見た目の違いはどこからくるのかと考えさせられます。
 また、この本のなかで、自分の生き方を見つけるというところで、仕事について枡野さんは、ひと昔前までは家業を継ぐという人生がほとんどでしたが、それはそれであまり悩むことも少なく、生きていくことができたといいます。そして、松重さんは「僕らの世代の「見跡」の頃は、会社に勤めればそれで上がりという時代でした。けれども現代は会社がいつ潰れてもおかしくない。僕の孫は、22世紀を生きる世代です。きっとその時代は日本という国ではなく、世界のなかでどう生き抜いていくかを考えなければいけなくなっていると思うんです。自分が生まれて育った「町内」で仕事を探せばよかったのが、それが「地方」になり、そして「日本中」になって、今や「世界」というふうにどんどん広がってきている。グローバルになってきている時代だからこそ、より「十牛図」にあるような「本当の自分」探しの意味が重要になってきますよね。」といいます。
 たしかに、選択肢が増えたのはいいことですが、悪いことだってあります。ある本に書いてあったのですが、デパートなどで出張販売するとき、たくさんの種類を並べるより、売れ筋の商品を少しだけ並べるほうがよく売れるということでした。つまり、あまりたくさんあると選ぶのに大変で、ついには選べず次に行ってしまうということでした。
 また、インドに行ったときに、今でもカースト制のようなものがあるのは不思議だと言うと、実はこれは身分制度というよりは、職能制みたいなもので、自分の生まれた家の仕事を継げば、食いっぱぐれはないからということでした。だから、クリーニング屋はクリーニング屋さんになる、車屋とんは車屋さんになるということで、誰でも食べていけるというのです。つまり、他の人たちは、その仕事に新たに参入はできないということでもあります。
 ただ、IT関係の仕事は、昔はなかったので、だれでも仕事ができるということで人気があるという話しでした。
 枡野さんが言うように、誰でも同じことを10年も続けていれば、その仕事がすっかり板に付くというか、いわゆるプロになるわけです。そういう意味では、何をすべきかというよりは、して初めてわかることもたくさんあり、先ずはチャレンジしてみないことにはわからないということです。
 下に抜き書きしたのは、第1章の「牛を探す、その前に」というところに書いてあったもので、枡野俊明の言葉です。
 前回のNo.2161『沼にはまる人々』のなかに出てくる「ミニマリスト沼」に通じるものがありますが、目の周りの見えるものは気づきやすいのですが、自分自身のなかにあるものについては、なかなか気づけないようです。
 つまり、その気づきが禅の修行でもあり、とても大切なことだということです。
(2023.3.10)

書名著者発行所発行日ISBN
あなたの牛を追いなさい枡野俊明・松重豊毎日新聞出版2023年1月20日9784620327631

☆ Extract passages ☆

 身体のメタボリック症候群はお医者さんに行って処方箋を書いてもらって、運動するなり治療するなりして改善していきますよね。ですが、心の体脂肪は、自分で気づく以外に落とす方法はありません。自分で気がついて、落として、もともと自分の内にある本来の自分に立ち戻りましょうというのが、禅の世界であり、その体脂肪を落とすための行動が、禅の修行と言えます。心に張りっいた余分な体脂肪を少しずつ修行を通して薄くしていく。ゼロにはできないですが、できるだけ薄く、軽やかにしていって、本当の自分を見失わないようにするのです。
(枡野俊明・松重豊 著『あなたの牛を追いなさい』より)




No.2161『沼にはまる人々』

 副題は「誰もがはまる! 危うくも至福の世界」で、さらに「200人以上を取材してわかった「沼」の正体」です。
 そういえば、昔から底なし沼にはまる、とかいいましたが、はまればなかなか抜け出せないもののようですが、他の人に迷惑を掛けなければ、はまったからこそわかることや楽しさもあるかもしれないと思い、読むことにしました。
 では、「沼にはまる」ということは何かといえば、2016年ごろからSNSなどのネットスラングで使われるようになったそうで、「ゲームやアイドルなど、何かにはまってしまい抜け出せない状態になることを指している」そうです。つまり、それ以前は「オタク」といういささかネガティブなイメージだった流れが、その暗いイメージを明るく何かに偏愛していることで、あまり隠すこともなく使われるようになったみたいです。
 でも、何かに夢中になることは、ある意味、依存症と似たところもありそうですが、この本では、「何かの対象に夢中になり、深めることが「カツコいい」ことであり、それが人生の充足であり幸福になったのだ。ここが依存症とは大きく違う。依存症は精神医学上の病気だ。物質依存のアルコールや薬物、行為依存のギャンブルやセックスの依存状態になった人の多くは、自らを「カッコいい」とは思っておらず「幸福で充足している」とは思っていない。「やってはダメだ」と思いながらも、深みにはまり続け、気づけば社会に適合できなくなっている。」とあり、たしかに依存症というのは、専門医もいるし、その多くが健康保険の範囲内での治療も受けられます。さらに、行政のサポート、医療体制、復帰施設、自助サークルなどもあり、病気であり疾患となります。
 でも、沼に深くはまってしまうと、読んでいるだけではわからないかもしれませんが、深い部分では接するところもあるように思いました。たとえば、睡眠薬沼にはまった30歳のアルバイトさんは、18歳のころから睡眠薬を手放せないそうで、ある種の薬物依存になっているようです。
 私の場合は、枕に頭を付けるとすぐに眠ってしまうので、一度も睡眠薬を使ったことはないのですが、眠れないということは、とても苦しいことだという話しを聞いたことがあります。でも、どこの段階で医者に相談するかというのは、とても大事だと思います。
 この本を読んでみて、では自分が沼にはまるなら何がいいかというと、「ミニマリスト沼」ならいいかもしれないと思いました。これは、この本に書いてあった43歳の会社員女性は、「モノって念がこもってぃる。捨てられなかったモノたちを、迷ぅことなくゴミ袋に入れていく。夢中になっていたので、ドーパミンが出ていたと思う。モノを捨てるって気持ちいいんですよ。心にこびりついた未練や、モノに託した希望という執着を捨てることでもあるから。私、ミシンを持っていたんですが、これはいつか生まれる子供のために持ち続けていたものですから」といいます。
 そうしてモノを捨てた結果、部屋の空間は広くなり、快適になったそうで、この「ミニマリスト沼」は、これ以上の深みにはまることもないわけです。つまり、捨ててしまえば、それで終わりです。私がいいと思ったのは、自分には全てのモノを捨てることはできないだろうな、と思ったからです。
 この女性は、「3ヵ月くらいは快適だったのですが、だんだんさみしくなってきて、観葉植物やルームライトを購入しました。あれから1年以上、ミニマリストは維持できています」と話していて、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、美容整形沼にはまった人たちの話しを読んでいたときに、厚生労働省の発表によると、令和5年3月13日より野外季節を問わずマスクの着用は原則不要になるそうです。もちろん、ある程度は個人の判断に任せるそうですが、学校におけるマスクの着用については令和5年4月1日から適用されるようです。
 だとすれば、下に抜き書きしたようなことで困る方もいるようで、どうもみんな一緒を喜ぶ日本国民としては、これからどうなるか、いささか心配なこともあります。
(2023.3.7)

書名著者発行所発行日ISBN
沼にはまる人々沢木 文ポプラ社2022年11月7日9784591175408

☆ Extract passages ☆

 2年以上にわたり、顔の一部をマスクで覆い続ける生活を続けていると、「素顔を見られるのが嫌だ」と考える人も多い。
 人は見えていない部分を、好意的に考えてしまう傾向があるという。「マスクイケメン」「マスク美人」などの言葉が日常的に語られるようになるのは、目の印象だけで全体像を美化しつつ想像しているからだろう。
 それに、「容姿のコンブレックスは顔の下半身に集約される」とも言われている。例えば、鼻の穴、歯並び、唇の形、あどの形や向き、輪郭など。
 また、加齢もコンブレックスになる。見た目の印象を左右する「ほうれい線」と呼ばれる小鼻から目の横にかけて刻まれるしわも『顔の下半身』にあるのだ。
 マスクをしていれば、これらのコンプレックスを丸ごと隠すことができる。
(沢木 文 著『沼にはまる人々』より)




No.2160『こりずに わるい食べもの』

 この本の前編、『しつこく わるい食べもの』を読んでおもしろかったので読み始めましたが、今回は山形編などもあり、ついつい読んでしまいました。
 この食エッセイは、離婚して東京で一人暮らしを始めたときから1年ほどで書いたそうで、ホーム社文芸図書WEBサイト「HB」の2021年6月から2022年7月まで掲載したものなどをまとめたそうです。なかには、NHKテキストに掲載したものもあり、多方面の活躍をしているのがわかります。また、「山形編(前編/後編)」は書き下ろしで、私が行ったことのあるところも出ていて、思い出しながら読みました。
 思い出すといえば、「ブラックランチボックス」という題名のなかで、著者は週に2、3回ほど、作りたいときに弁当を作っているそうです。ただ、一人暮らしなので、誰かのために作るのではなく、あくまでも自分のためなのですが、弁当というのは不思議なものです。
 というのも、私が子どものころに、「弁当づかい」といって、休みの日などの天気が良いときに、弁当を作ってもらい、屋根などに上って弁当を食べました。そんなにおかずが入っているわけでもないのに、とてもおいしかったことだけは記憶しています。ある意味、非日常のことだったからかもしれませんが、弁当そのものの味わいかもしれません。
 この本では、「出勤しているわけではないので、朝に作った弁当は家で食べている。家で昼食を食べられるなら弁当の形式にしなくてもいいのではないか、と思われそうだが、背後にまるまるとふくらんだ風呂敷包みが鎮座していれば、「おし! 弁当が待っている、がんばるぞ」と仕事に集中できるし問食も減る。仕事しながら「昼ごはん、なにを食べよう」「外にランチに行くなら混まない時間にしなきゃ」などと気を散らさなくてもいい。弁当というイベント感を取り込むことで午前と午後のめりはりがでる。」と書いてあり、私の場合もイベント感だったのかもしれないと思いました。
 そういえば、昨年の夏に北海道にフェリーで行ったときに、船内の夕食をどうしようかと悩んで、結局は仙台三越のイベント会場で豊橋の壺屋の「うなぎまぶし」を見つけ、それにしました。丸い弁当のなかに、愛知県産鰻と鰻ナンプラーが入って、ご飯はちょっとバターの味がしました。それをフェリーに揺られて食べながら、食後は賣茶翁で買ってきた銘「清流」でお抹茶をいただきました。
 茶碗は、お気に入りの荒川武夫さんの唐津風茶碗で、もう一碗は古瀬戸鉄釉茶碗で翌朝にもお抹茶を点て銘「すずかぜ」を食べながら朝の眠気を吹き飛ばしました。
 考えて見ると、私もそうとう食べることにはこだわっているようで、どこへ行くにもその土地のおいしそうな食事やお菓子をたずね歩きます。だから、この本を読んでいても、楽しくなります。
 下に抜き書きしたのは、「パーフェクトワールド」というところに書いてあったもので、よくカニを食べると寡黙になるといいますが、カニに限らず美味しいものを食べるときには人は食べることに集中するようです。
 実は私もそうで、若いときは一緒に食べている人に「おいしいね」と相づちを促しながら食べていましたが、最近は自分のペースでゆっくりと一人頷きながら食べることが多くなりました。
 おそらく、それも新型コロナウイルス感染症の拡がりからそうなってしまったような気もしますが、この感染症の影響はすべての生活に大きな影響を及ぼしていると、今さらながら思っています。
(2023.3.5)

書名著者発行所発行日ISBN
こりずに わるい食べもの千早 茜ホーム社2022年11月30日9784834253658

☆ Extract passages ☆

 新型コロナウイルスが蔓延る世界になってから、初対面の人と食事をする機会が激減した。知人や友人でもそうそう気軽に誘えない。よほど気心の知れている友か、長い付き合いの編集者としか外食をしていない。とはいえ、ひとりの食事でも美味しいものは充分に美味しいのでそんなに気にしていなかった。もともと一緒にいる人よりも日の前の皿に集中したいタイプだ。……
「おいしいね」と言い合う幸せもあるけれど、いい大人がなにかに没頭する姿もやはり素晴らしい。これからも自分のパーフェクトワールドを恥じずに生きよう。
(千早 茜 著『こりずに わるい食べもの』より)




No.2159『まなの本棚』

 この本は、偶然、返却本のコーナーのところにあったもので、そういえば芦田愛菜って本が好きだというテレビでの発言があったことを思い出し、読むことにしました。
 読めば読むほど、本当に本が好きだということが伝わってきます。たとえば、林真理子さんの『本を読む女』集英社文庫のところでは、林さんの母親がこの本の主人公の万亀さんがモデルだと知り、さらに実家が本屋さんだとわかり、とてもうらやましいといいます。そして、愛菜さんも「図書館にお布団を敷いてそこで寝たい!」というんです。
 実は私も昔からそう思っていて、川西町の遅筆堂文庫で図書館に泊まるという企画があることを知りすぐに申し込んだことがあります。たしか2016年7月と2018年9月でしたが、たった2回だけで、その2回とも図書館宿泊の体験をしました。そのときは、せっかく遅筆堂文庫に泊まるなら井上ひさしさんのすぐ近くでと思い、紹介するコーナーの真下に寝袋を広げ、消灯時間まで本を読み続けました。しかも、その後は懐中電灯の灯りで読みましたが、いつの間にか寝込んでしまいました。翌朝も、いつもは起こされないと起きないのですが、自分で起き出し、夜明けのまだ薄暗い図書館のなかを歩いたり、窓辺の少し明るくなったところで本棚から本を取り出して読みました。
 そのとき、寝袋の中でご満悦な姿を係の方に撮ってもらった写真を、今でもときどき一人で眺めていることがあります。
 だから、本が好きだという人とは相性も良く、だからこのような『本のたび』も書き続けているのだと思います。
 そういえば、孫が愛菜さんのことを小さいときから好きで、いっしょに見てたので、よく覚えているのですが、その小さいころの写真もモノクロで少し載っていたのもとても懐かしかったです。やはり、私の愛菜さんの印象は俳優というイメージですが、この本のなかで、「私一人の人生だけでは経験できないことや、自分では考えもつかないような発想が本の中には詰まっています。だから本を読むたびに、「こんなふうに考える人もいるんだな」「こういう世界もあるんだな」と、発見があるんです! 私は小さい頃からお芝居のお仕事をしていて毎回いろんな作品に出演させていただいているのですが、自分とは違う誰かの人生を知って感じることができるのは、大きな喜びです。もしかしたら、お芝居で誰かの人生を演じることと、本を読むということは、自分以外の誰かの考え方や人生を知る「疑似体験」という意味で、とても近いものなんじゃないでしょうか。だから、私は本を読むことが好きだし、お芝居することが好きなのかもしれません。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 愛菜さんのいうように、本のなかに没頭することと、役者として演ずる人のなかに没頭することは、ある意味、似たようなものがあるかもしれません。そうしないと、本は読んで理解できないし、役者は内面から出てくる雰囲気が出せないと思います。
 それとおもしろいと思ったのは、図鑑の読み方です。この本には、「図鑑がいいのは、最初の1ページ目から順番に読まなくてもいいってところ。だから気軽に手に取って、ページをパラパラめくって、気になるところを拾い読みするだけでも楽しいと思います。ちなみに私がよくやるのは、本棚から図鑑を取り出したら適当にパッと開いて、そのページを読むんです。「何が出るかな?」とワクワクするし、思いがけない知識が飛び込んでくる楽しみがあります。私の場合は、人体や生物、天体や鉱石、花火などに強い興味をひかれましたが、花が好きな人だったら植物の図鑑をめくってみたり、車が好きなら乗り物の図鑑を選んでみたりすると、そこから深まってもっともっと広がつていくのではないでしょうか。「本を読むのは苦手……」という人も、図鑑なら、気が向いた時にページをめくるだけでも楽しい世界が待っているはずですよ!」とあり、なんか私と似ていると思いました。
 下に抜き書きしたのは、京都大学iPS細胞研究所の所長さんの山中伸弥教授との対談に出てくるものです。
 そういえば、山中教授は、研究所開所から12年間にわたり所長を務められましたが、2022年4月から橋 淳教授が就任されました。それでも、山中教授は主任研究者として在職してますし、知名度も抜群ですが、第一線で活動するというのは大変なことと思います。現在、研究所は、「iPS細胞の医療応用」という使命のもとに活動しているそうで、早く医療現場で活用できるようにしていただきたいと思います。
 この対談をしたのは愛菜さんが中学生のときですが、山中教授に「どんな本が好きですか?」とか「便利になった世の中で、今後科学はどこまで進歩していいと思いますか?」と尋ねているのですから、やはり読書量が半端じゃないと思いました。
(2023.3.2)

書名著者発行所発行日ISBN
まなの本棚芦田愛菜小学館2019年7月23日9784093887007

☆ Extract passages ☆

山中先生 : いちばん自分ではどうしようもなくて、決められないことは「この世の中に生まれてきたこと」なんですよ。こればかりは、完全には自分ではどうしようもありません。僕たちはこの世に生をいただいたわけで選択肢はないんです。生が尽きるまで生きるしかなくて、それだったら楽しく生きようということだと思うんです。でも、この楽しいというのが難しくて決して楽ではない。どうしたら自分が楽しいと思えるのかを探すしかないんですよね。愛菜ちゃんは、何をしている時がいちばん楽しいですか?
愛菜 : う―ん。友達と話をしたり、たわいもない時間を一緒に過ごしたりするのが楽しいなと思うことが多いですね。
(芦田愛菜 著『まなの本棚』より)




No.2158『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』

 この本の題名を見て、たしかに日本人は科学的な考えより感情で動いてしまうと思い、ではなぜなのかと考え、読んでみたくなりました。
 副題は、「世界を確率で理解する サイエンスコミュニケーション入門」で、以前から確率というのも意外と不確実だと思っていたので、ますます興味を持ちました。
 先ず、題名から受ける印象ですが、おそらく日本人だけでなく、アメリカ人などもマスコミなどの報道では感情で動くのが多い印象を持っています。よく言われることですが、未だに地動説を信じている人が相当数いるとか、UFOを本気で信じて研究をしている人もいるとか、などです。UFOはある意味、夢がありますが、地動説はまさに自分たちの地球が中心ですから温暖化などの関心は少ないようです。
 特に、最近はなんでもネットで検索しますが、それだって片寄ってしまいます。というのも、ネットというのは、自分が過去に検索したものが上位にきますから、つい、そこの部分だけを見てわかったような気分になりがちです。これを「フィルターバブル」というそうですが、まさにバブル越しに見ているわけですから、正確に伝わっていない可能性もあります。
 もともと、この本を読むと、エビデンスというのは確率だそうです。どんなに優秀な薬でも、薬である以上は毒ですし、なかにはまったく効かないという人や、それで体調を崩したり、最悪の場合は死に到ることもあります。だからといって、その薬は絶対に使わないようにしようとは考えないはずです。いささかのリスクはあっても、多くの人たちが救われれば仕方ないと考えると思います。
 つまり、客観的リスクと主観的リスクがあり、「米国科学アカデミーが、「どれだけ安全性に注意を払っていても、あらゆる食品は潜在的にリスクを有する」と言っています。どんなものでも食べすぎたら毒になりますよ、ということです。その通りです。生物すべてに必要な塩ですら、大量摂取すれば毒になります。本当は、「食べて大文夫だったらそれでいいんじゃないの」くらいのつもりで生活すればいいのです。」と書いています。
 そのすぐ後で、「重要なことは、専門家と一般市民の考え方は違うという点です。専門家というのは科学的なリスクだけを強調しますが、一般市民はそうではありません。昔からこれを食べていたので安全とか、宗教的あるいは教育的な観点から、昔のままが良いなど情緒的なものを非常に大事にします。だから、科学的な客観的リスクと一般市民の考える主観的なリスクは違うのです。そのため、いくら専門家が科学的な説明をしても、それが通じないといぅことになります。結果的には価値判断の問題なのです。」といい、いわれてみれば、まさにその通りです。
 下に抜き書きしたのは、第4章「放射線はどれくらい怖いのか?」のなかに書かれていたものです。
 このような論理で話しをされれば、間違いなく結論がでないだけでなく、時間だけがかかってしまいます。だからといって、このような意見を無視すると、それもまた問題です。そこが難しいところで、やはり、専門家の方が大所高所からしっかりと話し、現在わからないところはここから先のことですと真摯に伝えることではないかと思います。
 そう、わからないことはわからないということが大切だと思いますが、この本の後の方で、わからないことを怖がる「危険来襲論理」というのがあるので、これもやっかいです。「いや、今は危険がないかもしれない。だけど先はわからないではないか」と言われれば、その通りです。誰だって、数十年後や数百年後のことまでわからないのは当たり前で、もしかすると、明日のことだって不透明なのが人生です。
(2023.2.28)

書名著者発行所発行日ISBN
日本人はなぜ科学より感情で動くのか石浦章一朝日新聞出版2022年11月30日9784023322707

☆ Extract passages ☆

「いつかは悪影響が出てくるかもしれない」という論理は、どこにでも発生する論理で、ある意味、非常に都合のいいものになつていて、誰も反論できないのです。でも、これが正しいかどぅかはわかりません。これは、自称「専門家」や「活動家」が必ず用いる論理です。
(石浦章一 著『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』より)




No.2157『親は選べないが人生は選べる』

 たしかに、「親は選べないが人生は選べる」と思いながら、読み始めると、親の影響が将来にわたって及ぼすとあり、読みたくなりました。
 考えてみると、最近は不登校とか引きこもりなども多いようで、こんな田舎でも普通にあるようです。その原因はと聞くと、やはり親の育て方が強く影響しているようで、昔のように子どもが多く、親がそんなに面倒を見ることができないときの方がこのような問題もあまりなかったようです。
 たとえば、最近は自分の居場所がないということを聞きますが、子どもたちもそのようなことがあり、「学校社会の中で主張する自分の価値は、その子がもっている人生観といえるものです。それを持てないと、教室に自分の机はあっても、心の居場所がなくなってしまうことでしょう。自分の人生観を主張して自分の居場所を作れるか、否か。それが、子どもが学校社会にうまく溶け込めるかどうかを決めます。自分を主張できれば、子どもは学童期の10年を明るく、元気に安心して送ることができるでしょう。少数ですが、自己主張ができずに学校社会に溶け込めない子もいます。みんなから認められずに浮いてしまったり、いじめられてしまったりします。ひどくなると不登校、引きこもりになって学校に行けなくなります。」と書かれています。
 また、反抗をしない子どもの問題もありますが、親子がケンカをできるということは、その根っこの部分に共通の土台があるからです。よく、仲が良いほどケンカするといいますが、ぶつかり合いを何度か繰り返していると、さらに関係性が深まります。逆に、親が無関心だったり、虐待を受けたりすれば、反抗期そのものはありません。そう考えて見ると、反抗期は、今まで同じように生きてきた子が親から離れて対等な関係になることですから、ある意味、子どもたちにとってはとても大切なものです。
 もちろん、子どもだけではなく、大人になってからも、仕事を選んだり、結婚相手を選んだりと、いろいろな生き方をしていきます。そのときも、子ども時代の生き方を引きずっている場合もあります。たとえば、母親と同じような性格の女性を探したり、あるいはまったく違う性格の女性を探すこともあり、これだって、ある意味、引きずられていることになります。
 この本では、成人を3つに分けて考えていますが、先ず「成人T期」は社会に出て自己責任を確立するときです。また「成人U期」は結婚して子育てをする時期で、父母性の確立のときだといいます。そして、「成人V期」は、いわば成熟期で、最後は死を受容するときです。
 死というのは、おそらく誰でも怖いことですが、それは今までつながっていた全ての人たちと離れてひとりぼっちになるからです。
 生まれてきたときから、いつも誰かが側にいてくれたのに、誰もいなくなりまったくの孤独です。しかも誰も経験したことのないことなので、知りようもありません。でも、私は、死のときにこれから先のことを考えるから空しいわけで、死の直前までの人生を思い出す時間だとすればそんなにも空虚感は感じなくてもいいかと想像しています。ある先達は、死の一瞬間に今まで人生が走馬灯のように現れるといいました。私も、この走馬灯を見ることができるように生きたいと思っています。
 下に抜き書きしたのは、第1章「DNAで決められた最初の必然「愛憎形成」」のなかに出ていた文章です。
 著者は、人生は選べるといいながらも、この赤ちゃんの心の傷はずーっと残り、引きずっているといいます。ということは、この赤ちゃんのときというのは、その人が一生生きていくための一番大切なときであり、いくら男女同権だといっても、母親の大切さは第一番です。父親というのは、この本によれば、母親を通して父親を見ているという表現をしていますが、母親から十分な愛着をもらっていれば、ダメな父親でも心の傷は少ないといいます。
 もし、これから子育てをするのであれば、ぜひこの本をおすすめしたいと思います。
(2023.2.25)

書名著者発行所発行日ISBN
親は選べないが人生は選べる(ちくま新書)高橋和巳筑摩書房2022年12月10日9784480075253

☆ Extract passages ☆

 では、いったい心の傷とは何でしょう。
 心の傷のおおもとは一つです。
 それは、持って生まれてきた「愛着を求める気持ち」を十分に受け入れてもらえなかった結果、そんなものを求めている自分がいけないのだと自分を否定してしまうことです。
 被虐待児の場合、小さい頃に愛着を求めて親に近づきましたが、裏切られたので、もう人に頼りません、人に助けを求めません。「そんなことはあまり期待しないことにしよう」と、愛着を求める気持ちを自分で制限します。それが続くと「どうせ私は愛されないんだ」と、自分自身を否定してしまいます。それでも愛されたいと思ってしまう自分がいると、自分を恨むようになります。それが大きな心の傷として固定します。
 これを、「愛着の否認」と言います。
 心の傷とは「愛着の否認」です。その結果、自分を嫌うこと、「自分を否定すること」です。人の苦しみの中で自己否定が一番の苦しみです。
(高橋和巳 著『親は選べないが人生は選べる』より)




No.2156『立川志らく まくらコレクション』

 落語はたまに聴くことはあっても、落語関係の本はほとんど読んだことはありません。
 ところが、三遊亭円楽の代わりに立川志らくさんが「笑点」に出たら、とてもおもしろかったので、図書館でたまたまこの本を見つけ読むことにしました。でも、2016年11月24日に発行された本なのに、図書館で2022年12月8日に購入したのはなぜなのかと考えたら、ちょっと不思議です。もしかしたら、熱烈な立川志らく支持者がいて、リクエストしたのかもしれません。
 ただ、読んでみると、実際に見るのとは違い、流れがほとんどわからず、(笑)とか(爆笑)、(爆笑・拍手)とか書かれていても、その雰囲気はまったくわからないわけです。やはり、どの程度の笑いがあったのか、拍手の拡がりとか、やはり落語は実際に聴いてみないことにはわからないということがわかりました。
 それでも、立川談志師匠が亡くなる少し前に、入院している日本医大に著者がお見舞いに行くことになり、何かお見舞いの品を持っていかないとと考え、「師匠はステーキが好きだから、米沢牛のステーキを持って行けば、これは嫌味になっちゃいますから、「何かねえかな」って思いついたのが、ビン・ラディンがプリントされているトイレットペーパー、わたしが持っているので(笑)。」というあたりは、やはり落語の師弟関係のような気がしました。
 談志師匠は、まさに生き方そのものが落語みたいだったような気がしますから、弟子の著者も似たような人柄のような気がします。
 でも、米沢牛のステーキは、ここでは最上級の品のように扱われていて、地元の人間としてはうれしいものです。そういえば、1月18日から2月28日まで「よねざわ食旅 キャンペーン」でコース料理が半額で食べられるという企画があり、米沢牛サーロインステーキセットが5千円のところ、2千5百円で食べてきました。これがおいしいのかどうかは、他のブランド牛と食べ比べてみないことには判定はできませんし、米沢牛の他の部位も食べてみないことには判断もできないと思い、別なコースを申し込もうとしましたが、1月末でほとんどのコースが閉め切られていました。
 下に抜き書きしたのは、2007年1月11日の内幸町ホールで演じた『湯屋番』のまくらです。
 落語は、流れにのってやっているのかと思ったら、そうではなく、役者とも違うらしいです。そういえば、このまくらなどは、あくまでも即興のような芸ですから、相当な話力がなければできないと思います。
 そういう意味では、とても楽しく読ませていただきました。
(2023.2.22)

書名著者発行所発行日ISBN
立川志らく まくらコレクション(竹書房文庫)立川志らく竹書房2016年11月24日9784801909151

☆ Extract passages ☆

まぁ、芝居というのは入り込みますね。もう、その役に成りきっちゃう。それは未だわたしが、アマチュアの役者だからなんでしょうけど、本当にいい役者は、上手く切り替えることが出来るンでしようけどね。切り替えられないですね。
「普段落語を演っているのと、志らくさん、同じでしよう?」
 って言うけど、全然違うンです。落語の場合は、成りきってませんから。もの凄く客観的に見てますからね。もう、そろそろ終るかなとか、今日終ったら何を食おうかなとか、ああ、今ぁ、客がしらけてるなとか(笑)、いろいろ思いながら演ってます。これ、成りきったら出来ませんからね。あの、ご隠居さんに成りきって、「わたしは今年で65歳」って成りきって、
「いやいや、八っつぁん、こっちへお上がり」
「なんですか?」
 って、もうもう、切り替えなくちゃいけない(笑)。
(立川志らく 著『立川志らく まくらコレクション』より)




No.2155『弱い力でも使いやすい 頼もしい文具たち』

 私も文具が大好きで、どこかへ出かけると、文具屋さんにまわります。今は新型コロナウイルス感染症でなかなか東京へも行けませんが、以前は東急ハンズや伊東屋、ロフトなどにはよくまわりました。そこで、ほとんど使わない絵はがきやスタンプなどを買い、ノートの変形版などがあるとそれも買い、今も抽斗にうずたかく詰まっています。
 また、紙専用の桐の紙箪笥には、使い切れないほどの和紙や便箋などが収まっていますが、新しいものを見つけるとまた買ってきてしまいます。
 今でも、毎日、万年筆を使いますが、以前はいろいろなインクを使っていましたが、ここ10年以上はセーラーの「極黒」だけにしましたが、万年筆だけは30本以上あるので、そのときの気分で使い分けています。その中でもお気に入りは、パイロットの「ジャスタス95」で、ペン先の弾力をコントロールすることができるのがいいです。
 この本の著者は、脊柱側湾症、先天性ミオパチーのために2006年には杖歩行になり、2012年からは車椅子、さらに2014年12月から簡易型電動車椅子を使っているそうです。そして、少しずつ筋力も低下して、もともと好きだった文具なども、力が必要なものは使いにくくなってきたので、それでも使える文房具を探してここに掲載しています。
 私が使っている万年筆も、筆圧がみな微妙に違い、自分の体調に合わせて自然と選んでいるようで、そういう意味では、この本もおもしろそうだと思いました。
 最近、とくに感じるのは、蝋燭を点けるときに使うチャッカマンがだいぶ力を入れないとつかなかったり、ジャムの蓋を開けようとしてもなかなか開けられなかったりすると、力がなくなっていることに気づきます。だから、今から、そのときのために少しずつ文具も変えていこうと思いました。
 この本のなかで、便利そうだと思ったのは、レターオープナーです。今まではカッターを使っていたのですが、ときには斜めに切ったり、なかの大事な書類まで傷つけたりすることもあり、この「コロレッタ」なら持ちやすいし、封筒を差し入れる部分が大きく開いているので、とても使い易そうです。しかも机の片隅に置いておいても、あまり邪魔にならないみたいです。
 そういえば、万年筆の代わりにと思って買ったことのある「トラディオ・プラマン」も紹介されていて、もし万年筆が使いにくくなったあなたにというので、これも機会があれば使ってみたいと思います。これはプラスチック万年筆といわれるぐらいペン先が薄い板のような筆記具で、今はいろいろな色があるそうなので、いずれ見てみたいと思いました。
 それと、今すぐにでも欲しいのは、簡単にパンチ穴を補強できる「ワンパッチスタンプ」です。私は自分専用の本にはさむシオリを作っているのですが、パンチで穴をあけて、リボンで結んでいるのですが、長く使っているとそのパンチ穴から破れてくることもあります。そのときに、これがあれば、パンチ穴を簡単に補強するシールが貼れそうです。しかも、この本によれば剥離紙がないので、ゴミもでないといいます。今度、文具屋さんに行ったら、見てこようと思います。
 下に抜き書きしたのは、後ろのページにあった著者と文具王の高畑正幸さんと古川耕さんの対談に出ていたもので、高畑さんの発言です。
 この発言のあとに、古川さんが、「道具として一度捉え直すという視点は、本当に必要だなと思います」とあり、私も、もともとは道具だったのだと再認識しました。
 つい、今までは便利に使っていましたが、もし、筋力が衰えて今まで使っていた文具が使えなくなったらと考えると、これからは衰えても使えるような文具も考えておかなければと思いました。
(2023.2.19)

書名著者発行所発行日ISBN
弱い力でも使いやすい 頼もしい文具たち波子小学館クリエイティブ2022年10月30日9784778035860

☆ Extract passages ☆

 波子さんの話と文章には「文具に対する切実さ」があります。見た目や機能が洗練された文具を否定するわけではないですが、本来の文具には自分の身体を拡張してくれるツールとしての役割があります。最近は道具として文具を捉える機会が減っていますが、波子さんの文章を読むと文具ってこんな風に人と関わっているんだなということを再認識させられます。
(波子 著『弱い力でも使いやすい 頼もしい文具たち』より)




No.2154『旅の図鑑シリーズ 世界の魅力的な奇岩と巨石139選』

 No.2151『旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木』を読んで、次に図書館に行くと、この本を見つけました。これもおもしろそうと借りてきてみると、世界にはたくさんの奇岩や巨石があると思いました。
 この本に出てくるなかで、私が行ったことのあるのは4ヵ所で、特に中国雲南省にある石林風景名勝区は、3回も行きました。最初はその石の林立にただただびっくりし、2回目は時間があったのでずーっと歩いて回り、3回目は印象に残ったところだけピックアップして、時間をかけて写真を撮りました。
 たしかにこのように何度か行くと、その素晴らしさや新たな発見があり、昔から「何ごと三遍」という意味が納得できました。
 また、マダガスカルのツィンギー・ド・ベマラハ国立公園は、バオバブ樹を見るのが目的だったこともあり、プチ・ツィンギー(小ツィンギー)しか回れなかったのですが、それでも針が突き出したような針山を見ることができました。もし、ここで原猿のディッケンズシファカでも見つけることができれば最高でしたが、これは他で何度か合いました。
 同じようにスリランカのシーギリア・ロックも、目的はキャンディとアヌラーダプラなどで、そこに向かう途中でここも見ただけです。ここは5世紀ごろに巨岩の上に王宮を建て、たった11年間住んだだけで、その存在そのものも19世紀後半に発見されるまで忘れ去られていたようです。でも、今はドローンがあり、上空から撮影もできるので、生活できるということもわかりますが、下から見上げただけではまったく想像もできません。
 そういえば、ミャンマーのポッパ山(タウン・カラッ)は、下から上ったのでその全体像がわかります。途中に休むところもありますが、靴を下で脱がなければならず、足元がなんとなく落ち着かなくて、さらにサルがわが物顔に飛び出すので、油断できません。インドやネパールなどもそうですが、ハヌマーンの影響なのかサルが神聖視されていて、サル寺院などもあり、あちこちに群れで食べたり遊んだりしています。そこを通り抜けるのは、いささか気持ちのよいものではありません。それでも、わが家の近くにも野生のサルが出没するので慣れてはいるのですが、海外のサルですからその性質がわからず、知らない顔をしてそっと通ります。
 そのポッパ山の頂上には、黄金色のパゴダが建っていて、その周りが寺院になっています。ここまでの高さが737mで、この本によると石段が777段だそうで、「天空の寺院」とも呼ばれているそうです。あるアニメ好きに聞くと、ここは1986年8月2日に公開されたスタジオジブリ初の長編アニメーションの「天空の城ラピュタ」のモデルになったといわれているそうで、たしかに孫といっしょにテレビで見ましたが、そうかもしれません。
 そういえば、この本には取りあげられていませんが、元謀土林風景区も素晴らしいものでした。これは石ではなく土のようでしたが、この本のなかに出てくるアンゴラのミラドゥーロ・ダ・ルーアのような準堆積岩のような赤茶けたもので、そのスケールは勝るとも劣らない風景でした。
 下に抜き書きしたのは、最初のページにあった「誘い」で、たしかに奇岩と巨石には人を引きつける何かがあると思います。
 もし、行けるなら、イースター島のモアイ像もいつかは見てみたいと思っています。
(2023.2.17)

書名著者発行所発行日ISBN
旅の図鑑シリーズ 世界の魅力的な奇岩と巨石139選地球の歩き方編集室 編Gakken2021年3月30日9784058015933

☆ Extract passages ☆

 地球誕生から46億年の説きのなか、大陸移動や地殻隆起、気候変動、風雨の浸食……、さまざまな力が働き、その奇岩や巨石は存在している。
 地球のパワーが生み出した存在――それが私たちを惹きつける。
 太古の人々は、巨大で偉容を誇る岩に畏敬の念を抱き、不思議な形の岩に伝説を見た。今を生きる私たちもそうだ。……
 1枚の写真を見るだけで、岩にまつわる話を知るだけで、「絶対に見に行きたい」と旅心をくすぐられる。
(地球の歩き方編集室 編『旅の図鑑シリーズ 世界の魅力的な奇岩と巨石139選』より)




No.2153『世界食味紀行』

 副題が「美味、珍味から民族料理まで」なので、あちこち旅行をしてきたこともあり、なかには懐かしい味があるかもしれないと思い、読むことにしました。
 第1章はヨーロッパ、ロシア、第2章はアメリカ、オセアニア、第3章は中国、アジア、第4章は中東、アフリカです。なぜかインドがないと思っていたら、最後のケニアのところに、「一般的に旅好きはアフリカ派か、インド派のどちらかに分かれるという。両方とも自然と人間模様、異文化(カルチャーギャップ)が魅力で究極のディスティネーションとなるようである。そのどちらにも通う、という人は私の旅仲間でもいない。私はアフリカ派でインドには一度も行っていない。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 でも、私はインドも好きで5〜6回ほど通っていましたし、アフリカも1回しか行ってないけど、とてもおもしろいと思いました。やはり、日本との違いがあればあるほど、興味が湧くことは間違いなさそうです。
 また、その直前に「辺境にこそ食の原点がある。都会ではエスニック料理といえども洗練されて形は進化してゆくが、辺境は頑固にその原形を保っている。辺境では調理(技)よりも素材だ。素材こそ料理の原点であり、辺境の「カ」である。」とあり、これはたしかにそうだと思います。今でも、ネパールの奥地で食べたニワトリのワイルドな味が忘れられませんし、中国雲南省の大理で食べたマツタケも、これでもかこれでもかと鍋に放り込んだことにもびっくりしました。このときばかりは、日本で食べるマツタケの一生分を食べたような気がしました。
 また、中国四川省の奥地では、食堂の前にたくさんの食材が並び、それを選びながら調理をしてもらうのですが、慣れないうちはどのように注文していいのかわからず戸惑いましたが、つい珍しい食材を頼み、食べられなかったこともあります。それでも、外国人だからなのか、笑って引っ込めてくれたこともありますが、タイ族の食堂で昆虫食を出されたときには少しだけ食べ、ほとんど残してしまったこともあります。
 そういえば、韓国にお茶で使うような骨董品を探しに行ったことがありますが、ある朝に食べたサムゲタン(参鶏湯)がとてもおいしかったことを今でも思い出します。これは鶏肉の中に餅米や高麗人参、松の実などを詰めて煮込んだ料理で、一種の薬膳料理に近いものだそうです。鶏肉も柔らかく、しかもそんなに脂っこくもなく、完食しました。
 今は、肉だけを食べると身体によくないといい、野菜もしっかり食べるようにといいますが、「世界で一番野菜を食べる国といわれる韓国の食卓では、ニンニク、カボチャの葉、大豆の葉、水菜、高菜、サンチュ(レタスの1種)、タマネギ、青唐辛子など野菜類は必ず出される。肉料理は肉をサンチュやサニーレクス、エゴマの葉で包んでいただく。肉を食べるなら、同時に野菜を、と言いはじめたのは世界の流行だが、韓国ではその昔から野菜をたっぷり食べることが伝統だった。」といいます。
 下に抜き書きしたのは、第2章「アメリカ、オセアニア」のなかのニュージーランドの話しです。
 私はニュージーランドやオーストラリアにも行ったことがありますが、肉より魚がおいしかった記憶があります。とくに、ニュージーランドのモータリストホテルに泊まり、自分たちで料理をして食べましたが、そこの炊事場に炊飯器があり、近くのスーパーで米や魚などを買い込み、料理しました。そのヒラメが特においしく、残ったご飯は、翌日の山行きの昼食のおにぎりにしたことも懐かしい思い出です。
 そういえば、ニュージーランドでは肉の一番高いのが鶏肉で、次は豚肉、そして牛肉は一番安かったのですが、脂肪があまりのっていないせいか、ステーキにしてもおいしくはなかったです。でも、レストランで食べたティーボーンステーキはとてもおいしくて、おそらく日本のように手間暇掛けて育てた牛だったのかもしれません。
(2023.2.15)

書名著者発行所発行日ISBN
世界食味紀行(平凡社新書)芦原 伸平凡社2022年12月15日9784582860184

☆ Extract passages ☆

ニュージーランドで牛は和牛のように牛合に囲って飼育せず、ほとんどが牧草地に放牧だから飼料、牛舎はあまり要らない。豚は小屋と餌が必要で、鶏は飼料とともに大がかりな鶏舎が必要だ。つまり世話をやく手間と小屋、餌代のかかる順に肉は高くなってゆく。
 野に放たれて、牧草だけを食べている牛は手間と餌代がかからない。だから肉は安いが、ほとんどの牛たちは痩せており脂肪がのっていない。だからステーキにしても硬くて脂身が少ないのだ。……
 サカナについては、日本では鮮魚は高いが、ニュージーランドでは鮮魚は牛肉よりも安い。タイやアワビは、地元では安くしか売れないから高く売れる日本へと輸出している。
(芦原 伸 著『世界食味紀行』より)




No.2152『四万十の流れのように生きて死ぬ』

 知り合いの方が血圧が高いということで病院に行ってましたが、昨年の秋、大学病院から派遣されていた担当医が変わった途端に、この位の血圧なら薬は必要ないと言われたそうですが、心配だからと言っても、毎日朝晩に血圧を測って次の検診のときに見せて下さいといわれたそうです。それでも、薬局に行ったら、今まで飲んでいたのだから飲み続けたほうがいいのではと心配されたそうですが、担当医のいうままに帰宅しました。
 そして、2ヶ月後に行くと、やはり血圧を下げる薬は必要ないし、また朝晩に血圧を測るようにいわれ、薬局にまわらず帰宅しました。そして、今月も行きましたが、血圧も安定しているし、その他も心配ないと診断され、喜んで帰ってきたそうです。
 たしかに自分で血圧を測っているので、その変化はわかりますし、今ではなぜ前回の担当医が降下剤を処方したのかわからないと話していました。
 この『四万十の流れのように生きて死ぬ』を読んで、この話しを思い出しました。著者も、「在宅医療には、医療行為をしないで見守る場面が多くあります。何もしないほうが何かをするよりもエネルギーがいります。「いのちとの距離」が、ずっと近くなるような気持ちになります。超高齢者の在宅医療は、話をしながら、細かく観察しながら、医療行為を抑えることが一番だと思います。……直接的な医療行為を何もしないほうが、患者さんには楽な場面があります。医療行為をしないで看取りに入る場面では、できるだけ電話を入れるか、訪問する回数を多くするようにしています。患者さんの診察をして、家族に説明をして少しでも患者さんのそばにいるようにします。家族の不安が少しでも少ないようにと工夫をします。」と書いてあるので、なるほどと思いました。
 でも、本当はこのなにもしないで見守るという医療行為にも、それ相当な治療費が付与されればいいのでしょうが、この本にはそこのところが一言も触れてはいません。だから、これで病院経営がどのようになっているのか、ちょっと心配になりますが、薬をたくさん出さなければ経営できないというのが本来はおかしな話しです。
 よく治療にもユーモアが大切だといいますが、著者は、「ユーモアは生きる力です。診察室でも、ユーモアのある人はこころがぺしゃんこにはなりません。ぼくはユーモアのある川柳の句は得意ではありませんが、こころが重たくなると意識してユーモアを大切にしています。……笑ぅと、こころがふわっと綿菓子のようになります。肩の力が抜けます。こだわっていたことが、大笑いのあと、飛んで行きます。」と書いてあり、これを読んで、「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」という映画を思い出しました。
 下に抜き書きしたのは、第3章「介護と家族」に書いてあったものです。
 著者は、どうしようもないときには施設や病院に入るのもいいけど、一番好ましいのは在宅介護だといいます。でも、それは家族の負担がどこまで絶えられるかであって、簡単にはいかないようです。
 それを見据えての話しですから、とても参考になると思います。
 そして、胃瘻とかいろいろな問題もありますが、一番いいのは口から食べるのがいいといいます。著者は「水分と、栄養補助食品を摂っていたら、人間は死にません。口から食べるのが、やっぱり一番です。「口を捨てない人は強い」そうよく聞きますが、その通りです。あの手この手、時間に縛られないで食べていただくこと、なんでもいいです。むせたら、とろみをつけるとか頭の角度を変えてみたりします。」と書いています。
 私も、毎日自分の口でおいしいものを食べたいと思いますから、特別の場合を除いて、人工呼吸器をつけないでほしいと思っています。
(2023.2.12)

書名著者発行所発行日ISBN
四万十の流れのように生きて死ぬ小笠原 望清流出版2021年6月18日9784860295066

☆ Extract passages ☆

 農業などの一次産業に携わってきた人のする介護は、工夫が多く、繰り返しの行為でも疲れが少ないように思います。適度な手抜きも自然にできているように思います。意外と難しいのが、学校関係の方たちです。知識は十分ですが、手の出にくい人が多いように感じます。本人は気がついていないのですが、指示的な言葉が学校関係者に多いのも特徴です。ぼくは介護する人の性格や関係性よりも、介護者のそれまでの社会体験が大きいように感じています。
 介護も子育てと同じように思い通りにいかない世界です。それをありのまま受け取れたらいいのですが、自分のなかに「こうあるべきだ」の気持ちが強いと疲れます。ぼくは、介護は「切なさを知る」人がいいといつも思います。
(小笠原 望 著『四万十の流れのように生きて死ぬ』より)




No.2151『旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木』

 『地球の歩き方』といえば、海外に一人で出かける場合のバイブルのようなもので、私もたいへんお世話になっていました。ところが、新型コロナウイルス感染症の拡がりで、なかなか海外に行けなくなり、さらに国内でもワクチンを接種するとか感染対策をしっかりしないと出かけられなくなり、このような本も売れないだろうなと思っていました。
 すると、この編集部を学研が引き受けることになり、この「旅の図鑑シリーズ」も22冊も出ているそうで、一著者として、良かったと思いながら、この本を開きました。
 副題は、「全都道府県250柱のヌシとそれを守る人に会いに行く」ということで、とても興味のある内容になっています。
 ここに出てくる神木のなかで、私が見て凄いと思ったのは、大日坊の旧境内地にある「皇壇の杉」です。これは2021年7月19日に庄内に行ったときに大日坊にお詣りし、ここにも行ったのですが、いかにも日本海側の多雪特有のウラスギで、太い枝があっちこっちに伸びて垂れ下がっていました。ほとんど訪ねる人もいないようで、案内板も壊れかけていました。いろいろな伝説もありますが、それ以上に存在感が圧倒的でした。
 この他にもいろいろと見ていますが、新潟県阿賀町の「将軍杉」もその1つで、ここは何度か訪ねていますが、残念ながら主幹が1961年の台風で折れたそうで、それがあれば、もっともっと大樹のイメージがあります。それでも、2001年に環境省のフォローアップ調査で幹回り19.31mと計測され、日本一になったそうです。ここは近くの平等寺の境内で、たまたまこの平等寺薬師堂の茅屋根修復のときに行き、その維持保存が大変なことを知った場所でもあります。
 この本で、神宿る巨樹としているキーワードを、「◆魂を抜かれるほどの巨樹(巨)、◆神社・寺院境内の御神木(聖)、◆神様、仏様になった御神木(神)、◆御利益をいただける、願いを託す神木(願)、◆山の王、森のヌシと出会う(主)、◆伝説が語られる奇跡の一本(奇)、◆この世のものならぎる怪樹(怪)」として上げています。もちろん、「これはあくまで便宜的なもので、実際はそれぞれ上記複数のワードにまたがっている場合がほとんどである」と書いています。
 たしかに、人によって巨樹から受ける印象はそれぞれですが、その圧倒的な存在感はあります。ただ、そこに立っただけで、凄いパワーがあるのではないかと感じます。
 そのパワーの源の1つは、ウラスギと呼ばれる大雪にも負けずにそびえ立つ杉を見たときにも感じます。このウラスギというのは、「日本海側に多く分布する天然スギのことで、太平洋側などに広く分布するオモテスギと対比的に用いられている呼称である。ウラスギは冬に低温多湿で降雪量が多い気候に適応した変異種といわれ、その特色は、(オモテに比べて)耐陰性が強く、下枝が枯れずに降雪で垂れ下がり、地面につくと発根するのが特徴といわれる(これを伏条更新という)。生物学的にはオモテとウラの二元論に否定的な向きもあるようだが、国立研究開発法人・森林総合研究所によれば、「全国に点在して分布するスギ天然林をDNA塩基配列情報に基づき詳細に解析したところ、ウラスギとォモテスギは遺伝的に明瞭に分化しており、ふたつの遺伝子に大きな違いがある」ことがわかったという。その遺伝子の分化は何によってもたらされたのかといえば、やはり「積雪量のような環境条件などによる自然淘汰を受けた結果生じた可能性」(同研究所)が考えられるとのことだ。」と書いてあります。
 そして、ウラスギ系は、天然秋田杉、立山杉、北山杉などで、オモテスギ系は飫肥杉、吉野杉、屋久杉などが例としてあげられていました。これら日本の杉は、どちらにしても日本の固有種です。これからも大切に護っていかなければならないと思います。
 下に抜き書きしたのは、最初の「御神木とは何か」に書いてあったものです。
 たしかに巨樹の前に立つと、言葉にならない叫きのようなものしか出なくなります。そういえば、2014年2月から3月にかけて行ったニュージーランドで見たカウリの森の「TeMatuaNgahere」の巨大さは、屋久島で見た「縄文杉」と比較にならないほどの驚きでした。
 そう、絶句するしかなかったのです。
 この本を読んで、まだまだ見てみたい巨樹があることを知り、ますます楽しみになってきました。
(2023.2.9)

書名著者発行所発行日ISBN
旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木地球の歩き方編集室 編Gakken2022年11月8日9784058018330

☆ Extract passages ☆

 出会ってきたのは、とてつもない大きさの木であったり、はかりしれない樹齢を重ねた木であったりした。目の前にあるのは、いわば圧倒的な「いのち」そのものてある。たいてには、言葉にならない声を漏らしながら絶句する。言葉が出てこないのは、その存在が安直な言葉を許さないからであり、そのときに抱く感情をうまく言語化できないからだ。
(地球の歩き方編集室 編『旅の図鑑シリーズ 日本の凄い神木』より)




No.2150『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』

 立春を迎え、さて、今年はどこへ行こうかな、と思って図書館で書架をみていたら、この本を見つけました。
 たしかに、修学旅行には行きましたが、だいぶ昔のことで、そのときのことは断片的にしか覚えていません。さらに、この本のなかで、奈良を旅しているときに、「P27」と書いていて、年齢によっても旅の印象はだいぶ違うのではないかと思い、この本を読むことにしました。
 この本にも、奈良の旅で、「考えてみれば、唐招提寺の小径ではしゃいだり、何もない平城京跡で感銘を受けたりすること自体、若い頃では考えられないことである。高佼生はもちろん、数年前までの自分なら退屈でしょうがなかっただろう。だが、いまはそこに味わいを感し、安らぎさえ覚えるようになった。ズボンのベルトがきつくなり、内臓脂肪が気になるくらいに"中高年力"がアップして、初めて良さがわかるのが奈良なのかもしれない。」と書いてあり、たしかにそういう面はあるよな、と思いました。
 ただ、「何年後かに思い出すとき、まず蘇るのは散策の気持ちよさであり、歩きながら眺めた風景、石造物を見た驚きへと記憶がつながっていく」と書いてありましたが、私も同じ法隆寺界隈をあるいたときに感じましたが、だんだんと歩くこと自体が少なくなり、そしてなるべくなら歩かなくてもよい旅を考えるようになりそうです。私の場合は、まだ大丈夫だと思いますが、あと数年か数十年後にはどうなるかわかりません。
 ということは、歩けるうちに、歩かないとわからないような旅をするしかないと思っています。
 ただ、食べることならお任せで、たとえば、箱根の「富士屋ホテル」で懐石コースを食べながら、「料理界では″椀刺し″といって、お椀と刺身のうまいところは何でもうまいと言われるんだよ。刺身は包丁使いの腕が出るし素材のレベルがわかる。椀はダシの良し悪し。ここは刺身が抜群で、料理も味がケンカしないようにしっかり考えられているから、間違いなく椀もうまいはずだ」と書いていて、なるほどと思いました。
 年を重ねると、旅の楽しみの一番は食べることで、なるべくならそこでしか食べられないようなものを食べたくなります。ただ、私はお酒が飲めないので、ちょっとソンだとおもうときがありますが、これは家系だから仕方がないと思うしかありません。
 では、今年はどこへ行ってみたいかというと、この本の北海道などは一押しですが、この本では清水原原生花園を取りあげていて、そこに「自然のまま咲き乱れる花と背景の海が見事で、絵のような風景に溶け込めない我々も、乙女のようにはしゃいでしまう。美しいものは美しいのだ。端から見れば怪しい連中だが、誰がそばにいるわけでなし、自分の気持ちに素直に行動するのが一番である。ドライブ中は広大な牧場の風景を拝み、美幌峠で、今度は眼下に屈斜路湖を望む山の景色に目を奪われた。」と書いていて、今年はぜひ北海道に行きたいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、京都パート2で大原を旅したときに、来迎院の住職と話したときのことです。
 この仕事をしたい、と最初から思う人もいますが、この仕事だけはイヤと思う人だっています。でも、それだって、いつかは納得できたり、経験を重ねることでそのおもしろみがわかるようになることもあります。
 この住職の話しは、50歳を過ぎてからやっとわかるようになってきた、というのはとてもよく理解できます。
 そうそう、人生は50歳を過ぎてから、いや70歳を過ぎてからかなぁ(笑)。
(2023.2.6)

書名著者発行所発行日ISBN
もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ北尾トロ 著、中川カンゴロー 写真小学館2008年4月21日9784093797849

☆ Extract passages ☆

「まあ私もこうして住職やってますが、20代の頃は住職なんて絶対イヤだと思ってたもんです。本尊ですら、ただの仏像にしか見えなかった。どこに値打ちがあるんやと。それは当たり前のことでね、人間、いろいろ経験を積まないと、ものの価値なんてわかりっこないんです」
 本堂の畳に座ったまま住職の話に耳を傾ける3人。最初はどうしてそんなことを言うんだろうと思っていたが、いまは真剣だ。
 そんな気持ちを見透かすように、住職の力強い言葉が飛んでくる。
「ものの価値なんて、50歳過ぎてからやっとわかってくる。私だってそうでしたわ。あなたたちもそろそろそういう年代やと思うけど、これからですよ。これからがいいんですよ」
 これは、励まされるなあ。
 人生これから、なのである。
(北尾トロ 著、中川カンゴロー 写真『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』より)




No.2149『日本の伸びしろ』

 この本の著者の書いてものを何冊か読んだことがありますが、2021年1月に脳卒中を発症したとは知りませんでした。私の友人も同じような病気でリハビリに励んだことがあり現役に復帰しましたが、著者も約1年の休職で校務に復帰されたことは、相当なリハビリだったのではないかと思いました。
 それにしても、脳卒中で復帰したとしても電動車椅子を使っての移動ですから大変だと思いますが、だからこそわかることがあるといい、車椅子で動けないところの問題を浮彫にします。やはり、自分が体験しないことにはわからないことですが、それを本に書いてまとめるというのはすごいことです。そして、自分が復帰することと日本が成長することはプロセスと原理原則は同じだから、必ず活気を取り戻すことができるといいます。その伸びしろを1つ1つとりあげていったのが、この本です。
 たとえば観光にしても、昨年までは新型コロナウイルス感染症の影響でどこの観光地も静かでしたが、最近は、その客足が戻りつつあります。だから、今こそ、求められる観光地のあり方を考えてみる必要があります。この本のなかに、「グローバルのニーズに応えながらも、独自の価値や魅力を打ち出して満足度を高める。この大原則は、観光地そのもののサスティナビリティも高めます。外部からたくさんのお客さまを招き入れて楽しんでもらうことは地域独自の魅力をさらに高め、地元の人たちは自分たちの文化に誇りをもち、ずっと維持していこうと頑張る。それが、僕のイメージするサスティナビリティであり、要するにサスティナビリティがなければ観光ではないのです。ここに、日本がグローバル社会で生き残つていくうえで重要なヒントがあるように思います。つまり、グローバルに通用する価値と、ローカルな独自性を両立させること。これこそ明治維新以来の日本の得意技ではないでしょうか。ここにも″日本の伸びしろ″はあります。」と書いてあり、意外と日本の良さを海外から来てくれた人たちから教えられたりします。
 やはり、毎日をそこで暮らしていると、なかなか気づかないことかもしれません。
 たとえば、今の経済の低迷は、戦後のバブルまでの経済成長のときの工業社会モデルから、なかなか脱却できないでいるからではないかというのも、同じです。成長期によい思いをした人たちが管理職だったりすると、昔はよかったという話しも同じ根っこです。だとすれば、そのようなところでは、なかなか今の時代のことがわからず、80年代にGDPの5割に満たなかったサービス業が今は7割を超えていることを気づきもしません。この本のなかで、デパートの1階の一番いいところを女性向きの商品が並んでいるという話しを書いていますが、考えて見れば、デパートの一番のお得意さまは女性です。だとすれば、女性のほうがその好みなどがわかるはずで、店員も女性のほうが向いているのではないかといいます。たしかに、その通りです。
 おもしろかったのは、第8章「最大の伸びしろは「選挙」にあり」のなかで、「まともではない人たちのなかで、相対的にちょっとはマシな人物を選ぶ忍耐のことを選挙と呼ぶ」とイギリスのウィンストン・チャーチルが言ったと書いてありました。参議院選挙で当選しながら一度も出席しない人や、職務を全うできないから辞職するという人の属する政党では次の選挙までは毎年辞職をして毎年人を変えるらしいのですが、これで政治ができるのでしょうか。
 政治家を知っているわけではないのですが、「目立ちたがり屋であったり、モテたいと思っていたり、私腹を肥やそうとたくらんでいたり、ろくでもない人間ばかり。そんな連中ばかりが立候補しているのだから……」というのは、なんか、当たらずとも遠からずと思っています。だからこそ、選挙を棄権しないで、しっかりと投票して選ぼうという姿勢が求められるのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第1章「日本の伸びしろはどこにある?」のなかに書いてあったもので、「石油は30年で枯渇する」ウソだったといい、このような悲観論についての話しです。
 たしかに、子どものときにそう習ったような記憶がありますが、大人になってからもいずれ枯渇するに変わりましたが、それだって、誰にもわからないことです。むしろ、そのようなことばかり考えていたとしても、新たな展望は開けません。
 下の抜き書きは、そういう意味では、とても参考になると思いました。もし、機会があれば、読んでみてください。
(2023.2.3)

書名著者発行所発行日ISBN
日本の伸びしろ(文春新書)出口治明文藝春秋2022年10月20日9784166613809

☆ Extract passages ☆

心理学では「ネガティブ・バイアス」といって、ポジティブな情報よリネガティブな情報のほうが注意を引き、記憶に残りやすいと説明されています。
 このネガティブ・バイアスがあるから、人類は危険を回避して生き延びてきました。人間は天の邪鬼な生き物なので、平穏な日々を望んでいながら「みんな幸せに暮らしています」ではおもしろくないようです。「実は、こんな不幸がありました」のほうが興味を引きますし、「他人の不幸は蜜の味」なのです。人間は「大変や、大変や」と叫ぶオオカミ少年に弱い、と心得ておくほうがよさそうです。
(出口治明 著『日本の伸びしろ』より)




No.2148『お守りを読む』

 前回読んだ新井俊邦著『神主はつらいよ』のつながりではないのですが、その本にもお守りのことが書いてあって、「お守りに宿る、神様のお力の効力は、せいぜい1年です。1年もの間、穢れを吸い続けることで、お守りの吸引力は弱まっていくものなのです。」として、通常は1年で交換するのが習慣です、とありました。
 それを読んで、もしこの本の著者鳥居本幸代さんはどのように考えているのかな、と思いましたが、この本の最後の「あとがき」のところに、「最後になりましたが、私はお守りについて、このように考えています。人は時として、自分ではどうにもならない不安や悩みをかかえてしまうことがあります。そんなとき、お守りは元気をくれたり、癒してくれたり、戒めにもなったり、目にみえない力を与えてくれる「頼もしい存在」「心の拠りどころ」であると。」と書いてありました。
 おそらく、昔の人たちは、お守りの種類に応じて、1年と考えたり、一生ものと考えていたような気がします。というのも、手作りだったり、有職仕様だったり、中だけを代えたりする場合もあるので、いろいろとありそうです。この本には、数ページのカラー版があり、そこにいろいろなお守りが載っていますが、京都の泉涌寺の「楊貴妃観音」のお守りがあり、そこに美人祈願とあり、たしかに女性にはうけるかもしれないと思いました。また、同じく京都の白峯神宮には「叶う輪」というお守りがあり、ここは蹴鞠の守護神「精大明神」を祀っていることからこのようなブレスレットの形をしているそうです。そのブレスレットにはボールが付いていて、サッカー、野球、バスケットボール、卓球などの球技の工場をお願いするそうで、もしかすると昨年の「2022 FIFAワールドカップ」のときには大勢のサッカーファンがお参りしたのではないかと思いました。
   この本の副題は、「日本人は何を願ってきたのか」ですから、その使用期限みたいなものには触れていません。むしろ、現在の新型コロナウイルス感染症などの疫病とお守りのつながりなどについてで、原因不明の感染症を疫病といい、恐れおののいてきたと書いています。
 疫病が記録に残るのは、崇神天皇5(紀元前93)年のことで、『日本書紀』によると「国中に疫病が蔓延し、人国の半分が失われた」と記されているそうです。
 また、欽明天皇13(552)年には、瘡(できもの)ができ、激しい苦痛と高熱に苦しむ疫病が流行り、若くして命を落とす者が続出したそうです。この本によると、「この瘡こそ天然痘と解される疱瘡(痘瘡とも書く。碗豆瘡ともいい、「わんずかさ」とも読む)で、この記述が日本における天然痘の初見であるといわれている。」そうです。
 ということは、日本人は原因不明の感染症を疫病と呼んだといいますが、それは天然痘だったそうです。そういえば、京都の夏の風物詩である祇園祭もこれら疫病を退散させるための御霊会が起源で、「『祇園社本縁起』によれば、貞観5年の御霊会にならい、神泉苑の南端(現・八坂神社三条御供社)において修された。疫神の依代として66本の鉾(当時の国の数)を立てて御霊会を修し、祗園感神院から出した神輿に疫病を封じ込めて神泉苑に送ったという。翌年からは「祗園御霊会」と称して恒例行事となり、今日の祗園祭へと継承されていくのであった。」とありますから、いつの時代も感染症の恐怖はあったようです。
 下に抜き書きしたのは、麻疹(はしか)にかかったり予防のためのまじないです。
 それにタラヨウを使うそうですが、私のところにもあり、持ってきてくれた人は塩竈神社にあったものだという話しでした。そういえば、小石川植物園にもあり、そこの研究者たちとその葉に釘で文字を書いて、ここから葉書という言葉が生まれたのだという話しでした。
 昨年の三沢東部小学校の児童たちと野外観察会をしたときに、このタラヨウの葉を持っていき、実際に釘などで書いてもらいましたが、やはり百聞は一見に如かずでした。この小学校は今年の3月で閉校になるので、いい思い出になるのではないかと思っています。
(2023.1.30)

書名著者発行所発行日ISBN
お守りを読む鳥居本幸代春秋社2022年11月25日9784393482292

☆ Extract passages ☆

麻疹の予防や重症化させないまじないとして多羅葉の葉の裏面に「麦殿のまじない歌」を書くことが行われた。多羅葉はモチノキ科の常緑高木で、裏面を傷つけると黒く変色して、長期にわたって消えないことから、平安時代には経典を書写するのに利用された。「麦殿のまじない歌」とは、麻疹絵「はしかまじないおしえ宝」によると「麦殿は生まれぬ先に麻疹して かせたる後は我身なりけり」というもので、麦殿(麦殿大明神)は麻疹を退散させる神といわれていた。
(鳥居本幸代 著『お守りを読む』より)




No.2147『神主はつらいよ』

 どんな仕事も新型コロナウイルス感染症の影響を受けて大変だろうな、と思っていたら、この本を見つけ、そういえば神社だって参拝者の激減で大変かもしれないと思いました。それだけでなく、大きな神社もそれなりに大変かもしれませんが、小さな神社ならなおさらもろに影響を受けているかもしれません。
 しかも、立ち読みをしたら、親である前宮司が病で倒れ、急きょ呼び戻されたということで、それからのさまざまな顛末が書かれていて、読むことにしました。
 副題が「とある小さな神社のあまから業務日誌」で、ここまで業務内容を公開して先輩の宮司さんたちから何か言われないだろうか、と心配になりました。たとえば、宮司さんの家族が亡くなったら、自分でお祓い(自祓い)をして忌中の期間を2週間にするとか、あるいは天然の榊を使わずに人工榊を使うとか、などです。たしかに雪国では榊が育たないこともあり、昔からユキツバキを代用に使ったりはしますが、それは自然のものだからある程度は許されます。でも、私だったら、ホンコンフラワーの榊なら、ちょっと考えてしまいます。
 でも、考えようによっては、これだけあからさまに書いてしまえば、神主さんも大変だな、とか、定年退職して年金をもらいながら神主をするのもいいかな、と思う人もいるかもしれません。さらに、神社にとって総代さんは大変大事な役職だそうですが、この本には、「祈年祭などが行われる際は、その準備はすべて総代さんが行います。準備が整った段階で、私は神社に赴き、祝詞を詠めばいいのです。日々のお賽銭の管理も総代さんです。掃除もです。」と書いてあり、日々の管理のほとんどを無償でやっておられるようです。もちろん、信仰心があるからこそ引き受けてくださっているのでしょうが、今の時代は定年も延び、自分の生活だけで手一杯のときに、なかなか引き受け手が見つからないというのはわかります。だからといって、神社にお供えされたお供物を差し上げているそうですが、そのお下がりの「撤下神饌」を有難いと思ってもらえればいいと思います。
 というのは、昔からこの「撤下神饌」を食べると、邪気を払うといわれていて、健康にもよいといいます。
 この本を読んでみて、おそらく神社だけでなく寺院なども維持していくのはますます大変な時代になるのではないかと思います。だとすれば、このような発信をすることは、とても大切なことではないかと思いました。あまり難しいことを述べるのではなく、簡単な言葉でわかりやすく多くの人たちに伝えること、神主もつらいんだよ、と先ずわかってもらうことも必要だと思いました。
 下に抜き書きしたのは、著者が中堅神職研修会で「禊ぎ」をしたときの体験を載せています。
 時期は2月下旬ですから寒いときですが、たった4日間ですが、清々しい気持ちになることは間違いありません。私も8ヶ月ほど滝修行をしたことがありますが、雨の日も雪の日も休むことはできません。滝に大きな氷柱ができたその下で滝修行をするのは怖かったですが、始めるとすべての恐怖心はなくなり、約15分の間、無心に大声を張り上げます。
 終わって滝から出てくると、厳冬期にもかかわらず、身体から湯気が出て、ポカポカしてきます。
 今でもそのときのことを思い出しますが、どんなに寒くても、あのときに比べればと思うと、どんなことも平気で過ごせます。おそらく、修行というのは、厳しければ厳しいほど、その後は何ごとにも負けない精神力が備わるのではないかと思います。
(2023.1.27)

書名著者発行所発行日ISBN
神主はつらいよ新井俊邦自由国民社2022年11月1日9784426128456

☆ Extract passages ☆

 禊ぎに先立ち、受講生の当番がお祓いをします。いよいよ揮姿になり、禊ぎが始まります。
 道彦という先導役の掛け声に合わせて、鳥船行事、雄建(おたけび)行事、雄詰(おころび)行事、気吹(いぶき)行事といわれる所作を行いました。
 たとえば鳥船行事は、道彦の先導により、大声を出しながら船を漕ぐ所作をします。これら一連の行事は、アスリートが試合前にウォーミング・アップをするのと同じです。「心」と「体」を冷水に備えて準備をしていきます。
 楔ぎ前の行事が済むと、いよいよ冷水を被ります。冷水に負けないよう、体の中から「気」を出すために、腹の底から声を出します。時間はおよそ3分です。
 お祓いを受けてから楔ぎが済むまでの約30分はあっという間に過ぎ去りました。
(新井俊邦 著『神主はつらいよ』より)




No.2146『芭蕉のあそび』

 芭蕉というと俳聖というイメージがありますが、俳諧というのはもともとは「笑いの文学」であるととらえ、俳諧師である芭蕉も仲間たちや読者を「笑い」でもてなそうとしていた、ということを例を出して確認をしています。
 そういう意味では、新たな芭蕉像をさぐる試みだと思いました。読んでみると、謡いの記号であるゴマ点や声点などの譜点などが記された発句懐紙などがあり、これらを見ると、なるほど、そうとう謡曲などの影響を受けたのではないかと思いました。昔は古典文学に造詣のある人たちも多く、和歌や文学、謡いなどとそれらを土台にして本歌取などにも親しんできたようです。だとすれば、芭蕉やその他の俳諧師もそのようにして古典に親しんだことは間違いないと思います。
 たとえば、芭蕉の「からさきの松は小町が身の朧」などは、典拠が謡曲の「鸚鵡小町」であることは明白で、新大納言行家が「雲の上は有し昔にかはらねど見し玉だれのうちやゆかしき」と歌を詠んだのに対し、百歳の小野小町は「雲の上は有し昔にかはらねど見し玉だれのうちぞゆかしき」とたった一文字を変えただけで返歌をしたことから鸚鵡返しの歌といわれています。この琵琶湖西岸の松は唐崎にあり、ここは唐崎夜雨でも有名で、ぼんやりと朧に見えることも多いそうです。
 つまり、今の時代はこのような解説書がなければ、なかなかそのつながりはわからないので、つい芭蕉といえばわびさびの世界で考えてしまいそうです。
 そういえば、1つの句を何度も推敲し、つくり変えていることもあります。私は「奥の細道」を読んだり、その解説書なども何冊か読んでいますが、旅の途中でその体験から詠んだ句だけでなく、後から何度も推敲し、書き改めているものもたくさんあります。だから、むしろ文学作品として読まなければならないと思っています。よく聞くのは、平成20年7月31日に発行された大類孝子さんの朗読「奥の細道」が好きで、車のオーディオにも収録してあります。それを耳で聞くと、さらに熟考されたあとが感じられます。
 この本を読んで思ったのは、句を書き換えるだけでなく、その書き換えたところを訂正する文を送っていることです。たとえば、有名な「古池や蛙飛こむ水のおと」というのは、最初は「山吹や蛙とびこむ水の音」だったそうで、尾張滞在中に懐紙にも書き残したといいます。ところが、このときの尾張の下里勘兵衛(知足)宛てに、「せんだっての「山吹」の句の上五文字を、このたび句の発想を変えまして(「古池」に改め)、別の懐紙にしたためてお送りしました。初めの懐紙は反古になさってください。(このように詠み変えましたのは)このたび其角が上方を行脚いたしました(からなのです)。これまたお世話をお頼み申します。芭蕉/知足様」と書いてあります。
 もちろん、本文は読みやすいように現代文にしましたが、この本には原文も載っていて、芭蕉の息づかいが聞こえてきそうです。
 このような俳句の変更は他にも載っていて、その関係者ひとりひとりにこのような文を送っていますが、今のように便利な通信手段がないときですから、なおさらびっくりしました。
 そういえば、だいぶ前に西国三十三観音第12番札所の正法寺、通称岩間寺にお詣りに行ったときに、そこの境内の小さな池に「古池や蛙飛こむ水のおと」を詠むきっかけになった池であるという案内板がありましたが、この本では、山城国の歌枕「井堤の玉川」には2つの名物があり「山吹」と「蛙」を組み合わせるそうです。そう考えれば、山吹から蛙に変更しても、それはしっかりと根っこでつながっていると考えられます。だとすれば、山吹の咲く頃に、井堤の玉川まで出かけていって蛙をつかまえようと追い回したら、蛙たちはポッチャンポッチャンと水のなかに逃げてしまったという現実的な解釈もできそうです。
 この本を読んで一番興味を引いたのは、井原西鶴の「好色一代女」巻1の第1話「老女のかくれ家」の書き出しのところに、「美女は命を断つ斧と古人もいへり」とあるそうで、これは「昔の人の物言いで、美女は命を断つ斧のようなものだ」ということです。私が住んでいる小野川温泉にも小町伝説がありますが、昔の絵図を見ると「斧川」と書いてあります。つまり小野小町と斧とはどこかでつながっているかもしれないと思い、新しい発見でした。
 下に抜き書きしたのは、第3章の最初にある「教養としての謡曲」のなかに書いてあったものです。
 つまり、このような謡曲の基礎教養がなければ、理解できないだけでなく、おもしろさもひねりもまったくわかりません。だからといって今から謡曲などの古典を学びなおすこともできないので、このような解説本を読むしかなさそうです。
 でも、この本を読んだことで、松尾芭蕉の新たな側面がわかったような気がします。
(2023.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
芭蕉のあそび(岩波新書)深沢眞二岩波書店2022年11月18日9784004319498

☆ Extract passages ☆

……漱石や子規の語彙のひきだしには、謡曲の小道具がふんだんに入っていた。つい120年ほど前の青年たちのはなしである。現代のわれわれのほとんどにはそれがないから、悲しい哉、彼らの謡曲ネタの冗談にもピンとこないのだった。
 芭蕉も、俳諧のネタとして謡曲を使いこなした。その点で芭蕉と漱石は地続きである(そういえば漱石は俳人でもあった)。だが、われわれと芭蕉・漱石のあいだには深い谷がある。
(深沢眞二 著『芭蕉のあそび』より)




No.2145『インド文化読本』

 2023年は、おそらく中国を抜いてインドが世界一の人口になるというニュースを見て、改めて今のインドを知りたいと思いました。たしか、インドには5回ほど行ったことがありますが、2018年9月にインドのケララ州に行ったのが最後です。しかも、2022年1月にGoogleがインド通信最大手のBharti Airtelに最大10億ドルの投資をするというニュースが流れたことで、人口増加のメリットを先物買いしたのではないかと思いました。
 今はコロナ禍でなかなか海外には行けませんが、だいぶ変わったのかなという気持ちと、インドってそんなには変わらないのではないかという気持ちが交差しています。それで、本からだけの情報でもと思っていたら、この本と出合いました。
 本の「まえがき」に、「人口も2023年には中国を抜き、14億人を超える見込み」と書いてあり、しかも最近はIT大国としても知られているので、まさにこれからの国でもあります。よくインドはカースト制の国だと思われていますが、この本によると、「インドのカーストは、結婚、職業、食事などに関してさまざまな規制をもつ排他的な人口集団である。そもそも「カースト(caste)」という言葉はインドにはなく、かつてホルトガルの航海者がインドで目にした社会慣行に対して与えた「カスタ(casta)」に由来する。その「カスタ」は、16世紀にボルトガルからやって来た宣教師たちによってもたらされたラテン語での「カストゥス(castus)」の「混ざってはならないもの、純血」から派生し、「血筋、人種、種」を意味する。しばしば「カースト制」、「カースト制度」とよばれるが、カーストは国が定めた制度ではなく、社会的な身分制である。長い年月をかけて根付いていった。」と説明されています。
 ちなみに、私がインド人に聞いたときには、ある意味必要悪で、自分たちの仕事に第三者が入り込めないようにするものだといいました。たとえば、日本ならクリーニングが儲かると思うと、他の人たちもクリーニングを始めますが、インドではクリーニングはもともとそれを職業としてきた人しかできないそうです。つまり、新規参入者はないということです。ただ、そこから抜け出ることもなかなか大変なようです。だから、ITのように今までなかった職業は縛りがないので誰でもできるそうで、収入も多いことから人気があるということでした。
 また、知らなかったのですが、今では世界の薬局といわれるぐらい、世界のジェネリック医薬品の約20%を供給しているそうです。さらに「インドは世界最大のワクチン製造国で、世界のワクチン需要の50%以上を満たしており、最近では、新型コロナウイルス感染症のワクチン製造拠点としても大きな注目を集め、新型コロナウイルス感染症のワクチンを複数国で共同購入し、公平に分配するための国際的枠組みである「COVAX(コバックス) ファシリティ」にもワクチンを供給している。世界の薬局として、新型コロナウイルス感染症との戦いにおいて、インドは大きな役割を果たしている。」ということです。
 最近は、ロシアに近いといわれたり、どちらにも組みしないといわれたり、世界の中でも独自の外交をしていますが、これからは国際的にはとても重要な国になることは間違いないと思います。そのためにも、インドという国をしっかりと知っておきたいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、インドの宗教についての話しです。
 仏教はインドで起こった宗教ですが、現在は人口の0.7%ぐらいで、2011年の国勢調査では、ヒンドゥー教が79.8%、イスラム教が14.23%、キリスト教が2.3%、シク教が1.72%、その次が仏教です。だから、今では仏教はインドではほんの少ししかいないということです。
 でも、その教えは、意外と生活に根ざしていて、布施の心とか生き物を大切にすることとかはおそらくお釈迦さまの教えではないかと思います。
 もし、機会があれば、読んでいただきたい1冊です。
(2023.1.22)

書名著者発行所発行日ISBN
インド文化読本小磯千尋・小松久恵丸善出版2022年11月30日9784621307571

☆ Extract passages ☆

 ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教と加えてシク教は、輪廻の慨念を共有する。これらの宗教は死をもって魂が肉体を脱すると考え、基本的に遺体を火葬する。一方、イスラームとキリスト教とユダヤ教(わずかながらユダヤ教徒もいる)の、いわゆる「アブラハムの宗教」は、人間はただ一度この世に生まれて死に、その後終末の到来にあたって復活し「最後の審判」を受けると考えるため、その日に備えて遺体をそのまま埋葬することを求めてきた。また、ゾロアスター教も明確な終末論をもっており輪廻の概念はない。ただし、アブラハムの宗教とは違い土葬をせず、また火葬も水葬もせず、沈黙の塔という施設で鳥葬・風葬して遺体を消減させる。これは本来清浄であるべき土や水や火を死という悪の要素で汚さないためとされる。
(小磯千尋・小松久恵 編『インド文化読本』より)




No.2144『旅から 全国聞き歩き民俗誌』

 著者の斎藤たまさんは、山形県山辺市の出身で、東京で書店員として働きながら民俗収集の旅にでていたそうで、この本は2017年1月26日に亡くなられてから出版されたものです。生前に校正作業をしていたそうですが、それ以降は遺族が協力してくれたそうで、こうして1冊にまとまると、読み応えがあります。
 とくに興味の引いたのは、なじみのある「正月にヒョウを食べること」で、地元紙の山形新聞に1990年12月27日に掲載されたもので、最近はあまり食べないのですがヒョウ干しについての話しです。それでも家内が好きで、以前はよく干して食べていましたが、孫たちはまったく食べないので、干さなくなりました。このヒョウは、スベリヒユのことで、まさに畑の雑草で、むしり取ってそのまま近くにまとめて置いておくと、また根っこが出てきて増えていきます。
 この本のなかに、「沖縄を歩いている時、道端の畑で、大きく茂ったスベリヒユを背負い籠に集めている婦人がいたので、食べるのかと尋ねたら、どこに置いても根つくので、海に投げ入れるのだといっていた。さて、子どもの遊びは別として、入口に吊るして何かをよけることと、殺しても殺しても死なない強い草であることと、そして、一年の始めにあたってこれを食べるという、これらのことがらは、何かしら縁続きなように思われる。」と書いてあり、なるほどと思いました。
   また、「秩父だより」では、自分自身のことが述べられていて、よほど前の話かと思いながら読んでいましたが、よくよく考えてみると、昭和11年の生まれで38歳のときに秩父に住むようになったのですから、昭和49年ということになります。この年は私が故郷に戻ったときで、ありありとその当時のことを思い出すことができるので、そんなに昔の話しではありません。でも、この本を読むかぎり、相当な昔の話しのように思えるから不思議です。
 まさに、民話の世界にどっぷりと浸かってしまったかのようです。
 下に抜き書きしたのは、ヒカゲノカズラの話しです。紀伊半島の十津川あたりでは、これを「ヤマンバノタスキ」というそうで、「悪病入らんといって家の入り口に吊ってある家があった」といいます。
 そういえば、初めてネパールに行ったときに、東ネパールの奥地の村の祠に、同じように鳥居のような形のところにこのヒカゲノカズラが巻かれていました。そこで、地元の方に伺うと、昔からこのようにするというだけで、その理由はわからないということでした。
 でも、おそらく日本と同じように結界とか、厄除けのような意味があるのではないかと思います。また、伝説では、天岩戸の前で天鈿女命が踊ったときに素肌にまとったといわれていますし、『古事記』には「天香山の日影蔓を手襁に懸け」とあり、この「日影蔓」がヒカゲノカズラだといいます。また『万葉集』にもこの名を詠んだ歌があります。
 また、2019年12月3日に、大嘗宮の儀が行われたところを見に行きましたが、天皇が通る雨儀御廊下の天井からヒカゲノカズラが吊り下げられていましたし、テレビで見ると、衛門(衛士)は、冠にヒカゲノカズラを飾っていました。
 そういうことなどを考えると、そうとう昔からこのヒカゲノカズラをいろいろな意味で使ってきたのではないかと思います。
 この本のような、民間伝承の話しを読むと、何気なく見ているものですら考えさせられてしまいますので、これからもいろいろな方が書いたものを読んでみたいと思いました。
(2023.1.19)

書名著者発行所発行日ISBN
旅から 全国聞き歩き民俗誌斎藤たま論創社2022年11月10日9784846015954

☆ Extract passages ☆

前に九州五木村でも、病気がはやった折家の入口に張った話を聞いた。それ以来、私にはこの草が気にかかるものの一つになっていたのだが、この度も熊野に入って新しい事例に出合った。
 このあたりではオニノクチヒゲなどという、これも楽しい名で呼び、節分にイワシ頭やらヒイラギ枝やらとともに家の出入口に掲げ置くのであった。じっさい、ここに至る前に通った三重県側の紀和町板屋とか、和歌山に入っての熊野川町請川などでは、ほとんど軒並みといっていいほどにこれが吊るしあつたものだ。
(斎藤たま 著『旅から 全国聞き歩き民俗誌』より)




No.2143『世はすべて美しい織物』

 なるべく小説を読まないようにしていましたが、たまたま図書館からこの本の題名に惹かれて借りてきてしまいました。なぜ読まないかというと、読み始めると止まられなくなり、つい読み終わるまで、他のことが手に着かなくなるからです。
 この本の主人公も、織物を織り始めると没頭しすぎて、何も見えなくなるといいますから、ある意味、似たようなことなのかもしれません。
 ただ小説だからなのか、桐生から吾妻山が見えると書いてあり、それって本当なのかなと思いました。ただ、米沢も昔は機織りの町で、近くには蚕の神様を祀ってあるところもあり、すごく似たような雰囲気を感じました。
 そういえば、この本のなかで、新田家の先祖の方が若いころに諸国を巡ったとき、ブータンという国に行って織物の図案を白黒写真で撮ってきたそうで、しかも、その実際の布もあり、兄嫁と弟嫁が身を乗り出して見ているところがありました。そして、その布を復元したそうで、そのブータンがどこにある国かもわからないのに、その布に対する憧れが描かれています。その様子を「ブータン織りの図案や布の実物を、上から下から、それこそ砥めるように眺めて、芳乃なりに試作したものだ。おそらく使われている織機の構造自体も違うのだが、それでも細いヘラを自作し、経糸の一部に隙間を開けて模様糸を織り込むというやり方で進めた。」とあり、試し織りなのに、すごい力の入れようです。
 じつは、私も30数年前にそのブータン王国に行き、植物や文化を調べるなかで、ブータン独特の布とも出会いました。龍の国ともいわれるぐらいなので、龍をデザインした模様もあり、なぜか日本人にもしっくりくるような図案が多かったようです。帰国に際して、とくに気に入った数点の布地を母屋偈に買ってきたことを思い出しました。
 この本のクライマックスのところで、新田家の代々の女性が護ってきたという山奥の石造りの古びた祠が蚕神様ですが、その周りに天蚕がありました。その様子を、「細い茎や葉裏にぶらさがるように、あるいは包まれるようにして、淡い緑の繭がたわわに在った。天然の蚕から紡がれた糸は、森の息吹を存分に蓄え、艶やかな蛍光の緑色となる。木漏れ日の中で羽化を待つ繭の群れは、全き山の子だった。」とあり、家蚕と違い飛ぶこともでき、つがいを見つけて、命をつないでいくといいます。
 なるほど、だからこそ、女性が代々護ってきたのか、と妙に納得できました。この本では、「商売の裏方に徹して家を切り盛りし、子を産み、代をつないできた新田の女達の、ここは祈りの場でもあり、拠り所でもあったのだろう」と書いています。
 そういえば、私もこの天蚕を小町山自然遊歩道で見たことがあり、色も薄緑色で、形も家蚕と違い、一目ですぐにわかりました。でも、自然のなかの天蚕をたくさん集めて糸にして織ることなどできるだろうかと思いました。
 下に抜き書きしたのは、詩織と従妹の沙羅と初めて会い、その沙羅もADHDなのに、さらっと言った言葉です。
 最近は、不自由なことでも、それがその人の特性だといいますが、ここでは神様からのギフトだというのですから、すごいです。さらに、その前に連兄が自分も創作のためにはADHDだったら良かったのにと言っているのを、「ないものねだり」してもダメだよね、と言うんです。
 たしかに、人はいろいろなものを背負って生きていかなければならないのですが、だとすれば、全てを神様からのギフトだと考えられればいいな、と思いました。
(2023.1.16)

書名著者発行所発行日ISBN
世はすべて美しい織物成田名璃子新潮社2022年11月15日9784103548416

☆ Extract passages ☆

「これでも一応ね、思春期の頃なんて失敗するたびに悩んで、お婆ちやんに泣きついてたんだ。でも、今はこのやりすぎなくらい集中しちゃうところとか、閃き即行動の衝動性とか、神様からのギフトだって思えるようになったん。どうあがいたって、この自分と生きていくしかないんだしね」
(成田名璃子 著『世はすべて美しい織物』より)




No.2142『旅行鞄のガラクタ』

 伊集院 静氏は1997年に仙台市に移住し、2020年にくも膜下出血で緊急搬送され、翌日に手術をして治られたようで、後遺症もないと聞いていますが、現在はどうなされているかはわかりません。でも、新刊を出されるわけですから、元気だと思います。
 さて、この本は、全日空機内誌『翼の王国』に2017年6月から2020年3月まで連載された「旅行鞄のガラクタ」に加筆、再編集したものです。要するに、もともとお土産など買わない著者が、飼い始めた犬のために小さなぬいぐるみなどを旅行鞄の隅に入れて帰ったものを写真にして、そこから旅行の物語を紡いでいったものです。
 たしか、私も何度か機内で読んだことがありますが、内容までは思い出せません。でも、2019年までは何度も全日空を利用したことがあり、マイルもたまっているので、思い出せないだけのようです。
 そういえば、「ハビエル城の白い石」というところに載っていた丸いジャガイモみたいな石は、私も海外で拾ってきたことがあり、今、改めて見なおしてもどこだったのか思い出せません。著者のように、「ザビエル」とだけでも書いてあればいいのですが、たしかミャンマーだったかもしれないと不確かな記憶では、まさにただの石でしかないようです。そのうち、思い出したら、書いておこうと思います。
 著者は、「この文字で、二十数年前、スベインのナバラ州にあるハビエル城の前に転がっていた石を拾い上げ、ポケットに入れた記憶がよみがえる」と書いています。このハビエル城こそ、フランシスコ・ザビエルが生まれ育ったところなんだそうです。つまり、ザビエルはここの王様の三男として誕生し、幼いころから勉学にはげんだそうで、ザビエル少年がつねに座っていた椅子があり、その中央部分がへこんでいて、しかも偶然でしょうが、その小さな窓が東方を向いていたと著者は語ります。
 さらに、この石だけでは信憑性がないということで、同伴した家人が「XAVIER」と書いてあるロザリオを買い求めたそうです。これは、中世スペイン語で「ザビエル」のことだそうです。私の場合は、石だけを拾ってきたので、それを裏付けるものが何もなく、ただの石ころになってしまったのです。
 このように見てくると、旅行鞄の片隅に入るものであっても、旅のお土産になると思います。そして、そのようなモノから旅の思い出につながれば、それはそれで楽しいと思います。
 下に抜き書きしたのは、若い人たちに旅をしなさいと勧めるところです。
 そして、自分自身も城山三郎氏にせっかく遠い国まで出かけるなら、無所属の時間を持ちなさいと言われたそうです。著者は、無所属の時間というのは何かと考え、「簡単に言えば、私は作家であるから、歩いていても、酒を飲んでいても、小説のことを考えてしまう。そういう発想をどこかに仕舞って、作家以前の自分、作家以外の自分になって歩いてみることなのである。やってみるとこれがなかなか難しい。気が付けば、小説のことを考えている。」とあり、たしかにせっかくの一人旅なのに、それができないというのはわかるような気がします。
 私自身も、若い時は、せっかくここまで来たのだからあそこまでは行こうとか考えたのですが、今では、無理してそこまで行かなくてもいつかは行けるかもしれないと考えるようになりました。日程も、2泊のときは3泊にし、1週間のときは10日にしたりして、なるべくゆっくりと旅をするようになりました。
 そうすると、思わぬ出会いがあったり、偶然にもガイドブックにも載らないような絶景を見つけたりします。
 でも、よくよく考えて見ると、年をとってきたからこそ、時間が生まれ、余裕ができて、旅ができるようになったのかもしれません。今年も、ゆとりのある旅をしたいと、この本を読みながら思いました。
(2023.1.13)

書名著者発行所発行日ISBN
旅行鞄のガラクタ伊集院 静小学館2022年12月3日9784093888837

☆ Extract passages ☆

……私が若い人に、自由になる時間があれば、一番安いチケットを買って、君の知らない国を旅しなさい、と常に言うのは、旅というものが人間に与える力が、他にたとえるものがないほど、さまざまなことを身に付けさせてくれるからだ。何を具体的に授かるか? とその答えを一言で申せぬほど、十人の旅人は、十色の貴石を手に入れる。
(伊集院 静 著『旅行鞄のガラクタ』より)




No.2141『「食」の図書館 イチジクの歴史』

 この「食」の図書館シリーズは、写真やイラストが多く、とてもおもしろいので、10冊程度は読んでいます。とくに、果物が好きなので、それに関連したのが多いのですが、このイチジクも、その流れで読み始めました。
 イチジクで一番印象に残っているのは、ミャンマーに行ったときに、ある大学の先生が以前植物調査をしたときに食べたイチジクのジャムがとても美味しかったという話しをしたので、今度はぜひそれを作っているところにまわろうということになり、ポパの町に行きました。たしか2013年2月だったと思います。
 小さなお店で、そのポパジャムの作り方を見せていただき、さらにそのイチジクが生えている山を教えてもらい、そこへも行きました。とんでもない大木で、幹や枝先まで、たくさんの小さなイチジクが鈴なりになっていました。そのときの印象が強く、このイチジクの本もとても楽しく読みました。
 もともと、このイチジクは生で食べるのが一番美味しいそうですが、この本には「イチジクは木から摘み取ったばかりのものを生で食べるのが一番おいしいが、入手できる機会は限られている。食物の風味のヶミストリー(相性)や味覚について誰よりも詳しいハロルド・マクギーは、完熟したイチジクには独特のアロマがあり、これは主にスパイシーなフェノール化合物と花のような香りのテルペン(リナロール)によるものだという。このアロマは、本で熟した新鮮なイチジク特有の風味のひとつである。しかし、イチジクほど傷みやすい果物はない。収穫が1日でも遅れると、柔らかくなってぐちゃぐちゃにつぶれてしまう。……人類が古くからイチジクを乾燥させて保存しようとしてきたのは、こうした理由からだ。」と書いてあります。
 では、このイチジクの原産地はとこかというと、はっきりしたことはわからないそうですが、考古学や古植物額の研究などから、「カプリイチジクは1万1000年以上前から存在していたことが示されている一方で、イチジク栽培の起源は約6000年前のアラビアやメソポタミアにある可能性が最も高い」そうです。
 そして、イチジクが注目されるようになったもうひとつのきっかけは、トルコのアソスで2008年に発見された約2400年前のアソスの墓のひとつに、食用のイチジクが埋められていたことです。そのアンス遺跡発掘の責任者ヌレッティン・アルスランは、「このイチジクは、熟す前の状態で墓に入れられたおかげで、腐ることなく今日まで残ったのだろう」と話しているそうです。
 でも、熟す前の状態だからといっても、腐ることがなかったというのは、ちょっと不思議ですが、それが自然のドライフルーツになってしまっていたからかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、序章の「イチジクとは」に書いてあったものです。
 そもそも、日本ではあまりメジャーな果物ではないので、世界、特に中東地域では盛んに栽培されているようですが、たしかにドライフルーツという印象の方が多いようです。
 ただ、それすらもあまり食べる機会がなく、この本を読んで、今度見つけたら食べて見たいと思いました。
(2023.1.10)

書名著者発行所発行日ISBN
「食」の図書館 イチジクの歴史デイヴィット・C・サットン 著、目時能理子 訳原書房2022年10月31日9784562072149

☆ Extract passages ☆

生のイチジクは贅沢な果物として扱われ、栽培がさかんな国でもときには最高級の果物と称される。乾燥イチジクは生に比べると目立たない存在だが、地中海沿岸の国々では古くから主食とされてきた。古代ローマでも、進軍中の兵十たちにパンの代用品として乾燥イチジクを食べさせたと言われている。世界で収穫されるイチジクのうち、85パーセント以上がドライフルーツに加工され、10パーセント以上が缶詰または瓶詰にされる。生で食べられるイチジクは約3パーセントにすぎない。
(デイヴィット・C・サットン 著『「食」の図書館 イチジクの歴史』より)




No.2140『After Steve』

 おそらくスティーブ・ジョブズを知らない人はいないと思うが、自分のガレージで、友人のエンジニアであったスティーブ・ウォズニアックと2人でアップルを創業し、そこから追い出され、業績不信に陥ったアップルに自分が創業したNeXTを売却するという形で復帰し、そしてアップルを世界的企業に育て上げました。このときの給料は年1ドルだったという話しがありますが、この本でも、本人の弁として載っています。しかし、2011年10月5日、56歳で膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により亡くなられましたが、この本はその後のアップルについて書いた本です。
 まさに、スティーブ・ジョブズ亡き後の「3兆ドル企業を支えた不揃いの林檎たち」の物語です。このアップルという社名は、スティーブ・ジョブズが好きだったビートルズとそのレコード会社、アップル・レコードにちなんでつけられたそうです。
 この本のなかに、スティーブが亡くなる2年も前からほとんど仕事はしていなかったようですが、いかにも自分が全てを統括しているかのような印象を与えていました。だから、亡くなられても、アップルの仕事はそのまま続けられたのでしょうが、世間はスティーブがいないアップルに魅力を感じなくなるのではないかという危惧は多くの社員も思っていました。
 このときの様子を、「熱烈なアップルファンはカルト信者のように熱狂し、同社を擁護した。手首にアップルのロゴや宣伝文句のクトゥーを入れる人までいた。CEOジョブズは救世主のように崇め奉られ、黒いタートルネックに、リーバイス501のジーンズ、ニューバランスのスニーカーというカジユアルな服装が、聖職者のようなたたずまいを際立たせた。彼は現実を歪曲できた。自分の着想の妨げになる「工学や製造の限界」を受け入れず、不可能と思われることでも実現は可能であるとデザイナーとエンジニアを説きつけた。その説得力から、この男なら死をも克服できると信じる人たちもいた。」というから、まさにカリスマです。
 そのジョブズがいなくなけば、アップルそのものの存在も危ういと考えるのは当然ですし、株式市場もそのように考えていたのではないかと思います。
 しかし、ティム・クックとジョニー・アイブ等は、なんとかそれを乗り越え、さらにジョブズのときよりもさらに大きな会社にしていったのです。そのことが、この本の大きな流れです。これを読めば、といっても493ページもあるのですが、アップルという会社のことがわかるような気がします。
 「21 機能不全」に書いてあったのですが、ジョブズの遺志を継ぎ、アップルが推定50億ドルをかけて本社ビル「アップル・パーク」を建設しました。その建設に主に関わったのがアイブで、ジョブズは彼を「魂のパートナー」だと語ったこともあります。
 しかし、不思議なことに、大きな建設をするとそこから下降期に入りこむようです。この本には「資本主義の聖堂はこれまで、企業の幸運が反転する前触れだった。好景気中に潤沢な現金を持つ企業が虚勢を張って大きな建物を造るのはよくあることだが、絶頂期に浮かれていただけのこととあとから気づくのがオチだった。1970年、製缶大手アメリカン・キャンはコネティカット州グリニッジの約63万平方メートルの広大な敷地へ移転後、一連の人員削減と売却に手をつけるはめになった。エネルギー大手エンロンは50階建て本社ビルの建設途上で破産申請した。破壊的な勝利と迅速な衰退が繰り返されるシリコンバレーという事業環境で、この傾向は顕著だった。アップルが購入した70万平方メートルの土地は、パソコン市場の低迷後にヒューレット・パッカードが手放した土地にあとからさらに買い足したものだ。サン・マイクロシステムズの化石化した本社ビル(2000年完成)をフェイスブックは引き継いだが、それはドットコムバブルの崩壊でサンの事業が壊滅的打撃を被ったときだった。マーク・ザッカーバーグは2011年、この敷地を引き継ぐにあたり、成功に安住する危険を社員が忘れないようサンの看板をそのままにした。」と書いてあります。
 たしかに、企業には波があり、よい時もあれば悪いときもありますが、その波にうまく乗るのが経営のトップの責任です。だから、「アップルの宮殿もいつか、愚かだったとわかる日が来るのだろうか?」と書いていました。
 それにしても、もともとアップルは秘密主義で有名なのに、これだけのことを書くには、相当な情報源がなければ書けません。それで、この本の最後に、「情報源について」という1項目を付け足していますが、そこに「成功は秘密主義にかかっているという信念が共有されている。メディアに話を漏らす人間は会社に不利益をもたらすと、みんなが信じている。アップルを辞めたあとでも、記者に話した者は仲間はずれに遭う。解雇された者や、訴えられた者もいる。こういう文化があるおかげで、アップルにまつわる報道は非常に難しい。社員どうしでもたがいに固く口を開ざしてしまうことがある。夫婦であっても異なる部署にいれば、何年も仕事の話をしない。ある夫婦は退職して長い時間が経ってようやく、自分がどんなことをしていたかを打ち明けたという。それだけ勇気が必要なことなのだ。」と書いていて、そのような環境のなかでこれだけの話しを導き出すということはすごいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「エピローグ」の最初に書かれていたものです。
 たしかに、アップルは「二人組」に支えられてきたと思います。この本を読んだあとも、たしかにそうだと思いました。おそらく、すごい革新性をもった人と、それを現実に商品化する人、あるいはホンダのように、本田宗一郎がバイクにのめり込み、藤沢武夫が販売や財務に集中するというように、また井深大と盛田昭夫との関係のように、二人組の強さはあります。
 でも、この本を読むと、その強さがうまく調和しているのはアップルかもしれないと思いました。
(2023.1.8)

書名著者発行所発行日ISBN
After Steveトリップ・ミックル 著、棚橋志行 訳ハーバーコリンズ・ジャパン2022年10月21日9784596754134

☆ Extract passages ☆

 アップルの錬金術は長らく、先見性を備えた「二人組」に支えられてきた。それはスティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズによって誕生し、ジョブズとジョニー.アイブによって復活し、アイブとティム・クックによって維持されてきた。
 ジョブズの死後何年か、シリコンバレーはアップルの事業の行き詰まりを予想した。ウォール街もその前途に不安を抱いた。忠実な顧客たちは愛する製品イノベーター、アップルの未来を心配した。
 10年後、アップルの株価は過去最高を記録した。時価総額は8倍以上の3兆ドル近くまで上がり、世界のスマートフォン市場を支配する勢いに衰えは見えない。破壊的イノベーターとしての輝きは失われつつも、ウォール街の寵児となった。
(トリップ・ミックル 著『After Steve』より)




No.2139『世界の紙と日本の和紙』

 今年最初に読む本を探していたら、この本に出合いました。題名の前に「紙の温度」が出会ったとあり、私も偶然ですが、いい本と出合いました。
 この「紙の温度」という名前は、紙のぬくもりを伝えたいという思いが込められているそうですが、私自身も紙は大好きで、海外でもその国の紙を探したり、偶然出会ったりしています。たとえば、韓国に陶磁器を見に行ったときに韓紙を見つけたり、ネパールで日本で紙漉きを習ってきて漉いている工房を訪ねたり、中国雲南省でおもしろい紙に出会ったりもしています。おそらく、好きだからこそ、自然と足が向くのかもしれませんが、本屋さんにも行くので、そこで紙を扱っていることも多いようです。
 今では、紙箪笥にしっかりとたくさん保管しているので、そこから選んで手紙を出すときなどに使っています。
 さて、この本は、「紙の温度」を創業して30年の花岡成治さんと創業時からそれを支えるスタッフである店長の城ゆう子さんの話しを鈴木里子さんが文章にまとめ、紙の写真は井上佐由紀さんが担当したようです。2014年に「和紙 日本の手漉和紙技術」がユネスコの無形文化遺産に登録されましたが、これはすでに遺産ですから、斜陽化はだいぶ進んでいます。今年の夏に会津若松の武藤紙店に行きましたが、紙そのものより他の商品が多かったようで、紙だけで商売ができる時代ではなさそうです。そこで、珍しい紙を探そうと思いましたが、自分で見ることはできず、この本には、「たとえロスが出てもいいからとにかく触ってもらおう」というのはとても有難いと思います。和紙は触ってみないとわからないところがありますが、そこが売る側にとっては神経を使うわけです。
 たしかに、洋紙と和紙の風合いは違いますが、大きな違いは「洋紙はすべて目的があって生まれてきます。目的が明確でない紙はなかなか売りにくいのですが、でもうちにあることで新たな用途が見つかるのではないかという期待を抱いて置いています」と書いてあり、なるほどと思いました。
 というのも、私も何に使うかわからないで求めてきた紙も多く、そのまま紙箪笥のなかに入れてあり、何か必要なものがあるときに開いては中から引っ張り出すことがあります。紙は、必要だからその都度買うだけでなく、ある程度のストックがあると、もしかするとこれに使えるかもかもしれないというときもあります。毛筆に適した紙が必要だったり、万年筆に書くときもあり、あるいは何も書かずにラッピングに使うときもあります。
 この本を読んですごいと思ったのは、もともと名古屋に和紙を作っているところはなかったそうですが、自分たちで名古屋オリジナルの紙を作ろうと、1998年から呉服の「名古屋友禅」と「有松絞り」を和紙に染めてもらうことにチャレンジしていることで、ほしいものがなければ自分たちで作ってしまおうというところがいいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、この本の一番最初に書いてあったネパールの「ロクタ紙」についてです。
 私もネパールには6回ほど行っていますが、ここに出てくるような紙の工房にも行ったことがあります。ネパールの友人に頼んで、シャクナゲのパターン柄の紙を探し出してもらい、だいぶ買ってきましたが、それは木版で押したもので、今ではなかなか手に入らないかもしれません。他にも、手帳とか便箋とか、いろいろと買ってきましたが、この本によると、「ミシンで縫うこともできます。近年はその丈夫さを活かしたバッグやペンケース、小物入れなども人気です。「紙の温度」でも、巻いた紙を持ち連びできるオリジナルの肩掛けエコバッグをつくっています。素朴で強くて、しかも安価。……内装材としても人気があり、和紙にはないラフな質感がかえっていいという建築家やインテリアデザイナーの方も多いです。」とあり、いろいろな用途にネパールの「ロクタ紙」を使っているようです。
 私も自分で買ってきたさまざまな紙製品を見て、ネパールの旅を思い出しながら、何かに使ってみようと思いました。
 今年もたくさんの本と出会って、本との一期一会を楽しみたいと年の初めに考えました。
(2023.1.4)

書名著者発行所発行日ISBN
世界の紙と日本の和紙紙の温度差株式会社グラフィック社2022年11月20日9784766136715

☆ Extract passages ☆

 ネパールの紙は生成りや染め紙以外に、プリントもあります。以前は手彫りの木版でバターン柄を押す「ブロックプリント」が主流でした。彫り師に会いに行ったりもしましたが、最近はスクリーン印刷がブロックプリントに取って代わるようになりました。少し残念な気もします。モダンな柄が増えてきていて、これはヨーロッパのデザイナーが現地に滞在して指導に当たっているからです。ネパールは、ゆっくりと変化のときを迎えています。
(紙の温度差株式会社 著『世界の紙と日本の和紙』より)




◎紹介したい本やおもしろかった本の感想をコラムに掲載します!

 (匿名やペンネームご希望の場合は、その旨をお知らせください。また、お知らせいただいた個人情報は、ここ以外には使用いたしません。)
お名前

メールアドレス

紹介したい本や感想など

すべての項目を入力して、送信ボタンをクリックしてください




タイトル画面へ戻る