☆ 本のたび 2024 ☆



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
 また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
 なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。



No.2295『科博と科学』

 著者の篠田謙一氏は、2021年より国立科学博物館の館長で、「はじめに」に書いていますが、今までの20人の館長のなかで、初めて内部の研究者として館長職に就いたそうです。つまり生え抜きで、科博に勤めて他に所属したことがないということになります。
 ということは、国立科学博物館のことは良くも悪くも隅々まで知っていると思うので、とても興味深く読みました。
 それと、昨年の8月7日から始めたクラウドファンディングが、たった1日もかからずに目標金額の1億円を越え、1週間ほどで4億円を越え、3ヶ月で9億2千万円を集めて、56,000もの方々が支援してくれたそうです。金額もさることながら、これだけ多くの方々が支援してくれたということは、「地球の宝を守れ」というスローガンがみんなの心にも響いたということかもしれません。
 この本で初めて知ったのですが、「上野本館の歴史の中で、科博の管理が一度だけ他所に移ったことがあります。それは1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を機会に陸軍に接収された時です。終戦までの数ヶ月でしたが、疎開できなかつた標本類は軍によって全て破棄されてしまいました。いつの時代でも戦争の犠牲になるのは立場の弱いものですが、博物館の標本類もその例外ではありません。世界中の自然史博物館も戦争によつて多くの被害を受けた歴史を持ち、かつて日本で採取された貴重な標本が失われてしまった例もあります。」ということですから、本当に戦争だけは絶対にしてはいけません。
 現在、ウクライナでもガザ地区でも、おそらくテレビでは放送されないところでも、戦争などの暴力はあります。もちろん人命もそうですが、貴重な文化財や生活するための施設なども無残に破壊されます。何百年と大切に守られてきたものでも、一瞬にしてなくなります。
 人間というのは、なんとも不思議な生きものだと思います。たとえば、自分ではどうしようもないこともありますが、自分の行く先を自分で決められないこともあります。
 この本のなかに、おもしろい話しが載っていましたが、それは、DNAの二重らせん構造の発見者のひとりであるフランシス・クリックのことです。彼は「第二次世界大戦中はソナーの研究をする物理学者でしたが、戦争が終わった後、自らの進路を選ぶ際に、自分が1週間の間に話した内容を分析して、その中で最も頻繁に話題にした分野を選択したと言います。自分が無意識に考えていることを顕在化させたのです。それが生物学だったわけで、その選択がノーベル賞に輝く大発見につながりました。」とあり、このような進路の決め方もあると思いました。
 下に抜き書きしたのは、「PART2 博物館の役割」の「分類の専門家集団」のなかに書いてあったものです。
 国立科学博物館で収集された標本は、500万点近くだそうですが、上野の科学博物館で展示しているのは約2万点ほどです。では、なぜ、これだけの標本があるのかといいますと、標本は「科学的にものを考える」材料だからです。
 そういえば、海外の植物園や研究施設に行くと、ほとんど標本館があり、貴重な植物標本などが収蔵されています。今まで見せていただいたなかで最も印象に残っているのは、2017年9月5日にイギリスのエジンバラ植物園の標本館に行った時に見せてもらったダーウィンが自ら採取した標本です。これには、「Collected by Charles Darwin Voyage of the Beagle 1832-1836」と書いてあり、ビーグル号で世界一周をしたときに採取したものだとわかります。この標本館では、その他にキングドン・ウォードやジョージ・フォーレストなどが採取したシャクナゲの標本など、たくさん見せてもらいました。
 だから、標本というのは、「標本は「科学的にものを考える」材料です。様々な時代にいろいろな場所で収集された標本・資料を幅広く保管することで、データをより多く積み重ねることができ、調査研究に基づく仮説の精度を高めることが可能となります。例えば、生物は短期間ではごくわずかしか変化しませんから、正確にものを知るためには大量の標本が必要です。いますぐ役に立つかどうかわからなくても、将来のために残さなくてはなりません。現在の日本は、アマチュアや大学の先生が集めた標本が捨てられてしまう危機に瀕しています。地方の博物館を含めて、引き取ってほしいという話がたくさんあるのですが、それに応えることができなくなっているという現実があります。まさに瀬戸際の段階になっている……」ということで、とても切実な問題だということがよくわかります。だから、「地球の宝を守れ」というスローガンも心に響きました。
 現在の国立科学博物館の研究者は、60人ほどだそうですが、イギリスの大英自然史博物館は300人ですから、単純に比較すれば5倍もいるわけです。ここには私も何度か行きましたが、圧倒されるような展示で、見るだけでも何日もかかるようです。

(2024.4.24)

書名著者発行所発行日ISBN
科博と科学(ハヤカワ新書)篠田謙一早川書房2024年2月25日9784153400207

☆ Extract passages ☆

 こう考えると、博物館は過去と未来をつなぐ存在であることも分かります。過去の研究者が集めたものを保管し、自分たちの代で新たな標本を付け加え、それを未来の研究者に託しているのです。残念なことに今の日本は、過去や未来にお金を使うことを嫌います。日本では、いかにして今お金を稼ぐか、ということを最優先にして国の多くの政策が決定されるので、過去や未来に関わる博物館は運営に苦労することになります。日本よりも経済規模も人口も少ないイギリスで、大英自然史博物館(ロンドン自然史博物館)は300名の研究者を擁しています。
(篠田謙一 著『科博と科学』より)




No.2294『酒場詩人の美学』

 酒場詩人の吉田類さんを知ったのは、NHKの「にっぽん百低山」を見てからですが、山は標高1500m以下の低山でも魅力的な山はあり、今の自分の体力なら登れるかもしれないと思わせる番組です。
 調べてみると、2020年から続いている番組だそうで、語りは池田伸子さんで、日本各地の低山ならではの魅力を伝えてくれます。
 そして、たまたま図書館に行くと、この本を見つけ、もともとは俳人だそうですから、おもしろそうだと読み始めました。ところが、若い時は絵描きになりたかったそうで、今ではイラストレーターの肩書きもあるそうです。そういえば、焼物にも絵付けをして個展を開いていることがこの本にもあり、山登りの姿しか浮かんでこなかったのですが、本もイラストも見てみたいと思いました。
 そういえば、今年の元旦に能登半島で大きな地震があり、たいへんな被害が出ましたが、この本に珠洲市の酒蔵の話しが出ていました。そこを抜き書きすると、「能登空港へ降り、その足で珠洲市 の「櫻田酒造」、能登町の「松波酒造」と2軒の酒蔵へお邪魔した。珠洲市周辺が能登杜氏の発祥地とされ、奥能登だけでも11軒の酒蔵がある。それだけ優秀な酒の造り手たちが多いのだろう。2軒の酒蔵で体験した櫂入れが独特だった。櫂を圧し込んでは引き上げてモロミを攪拌させる。櫂をかき回さず、上下に動かして混ぜるのだ。この後に、それぞれの蔵のお薦めを試飲させてもらった。単に蔵の酒を居酒屋で頂くのとは違う親しみやすさが加わる。双方の蔵とも母屋の玄関からモロミ入りの木桶まで何の気兼ねもなく通される。至って明け透けな雰囲気、蔵人も大らかだ。」とあり、豊かな自然のなかで酒造りがされていた情景が浮かびました。
 それと同時に、今現在、11件の酒蔵は酒造りを再開できているのだろうかと心配にもなりました。
 このように本のなかに描写されていると、いろいろな情景が浮かび、楽しいこともあれば苦しいこともあることがよくわかります。まさに人生そのものが凝縮されているように感じました。
 ここは水がよいと聞いたことがありますが、たしかに酒は米と水がなければできませんが、その他に酵母や杜氏の技量などもあり、この本のなかにも「金比羅酒の一度まわれば」のところに「楠神」という特別純米酒の話しが出てきます。これは酒蔵の中庭にある樹齢900年ぐらいのクスノキに棲みついている天然酵母菌をもとに造ったものだそうで、まさにクスノキとともに悠久の時を生き続けてきた底知れぬ力強さを感じます。
 また、おもしろいと思ったのは、京都府亀岡市にある穴太寺(あなおじ)の本堂に安置されている釈迦涅槃像で、これに布団がかけてあり、参拝者は自由になでることができるそうで、「なで仏さん」として親しまれているそうです。このような釈迦涅槃像はあちこちで見ていますが、布団がかけているのは珍しく、著者は「ありがたい仏さまが風邪を引いては大変というわけだ。釈迦は入滅後なので風邪の引きようもないが、なんとも素朴な信仰心が微笑ましい。」と書いています。そして、さらに「もし、釈迦涅槃像がガラスケースに納まって安置されていたなら、これほどのリアリティーは感じられないかもしれない。お釈迦さまでありながら、ともすれば添い寝できそうな布団に包まれている。庶民に人気なのもそんな親しみやすさからだろう。老いには、枯れていく美学が必要だと決め込んでいた。釈迦涅槃像に初恋のようなときめきを覚えてしまうとは、我ながら困惑した。それでも、枯れてしまっていた恋心に光が差したようで生きる悦びが湧く。我がライフワークの一つである酒場めぐり。それにかこつけて遠くまで来た甲斐があったというもの。」と続けて書いてあり、なんとも著者らしいと思いました。
 そして、テレビで見る吉田類さんとは違った面がわかって、この本を読んでよかったと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「月夜にぽんと弾けたる」に出てくる多摩川にあった渡し場「菅の渡し」の近くで83年も営まれていた茶店「たぬきや」の話しです。
 多摩川には私も行ったことがありますが、このような風景には出会ったことがなく、想像すらできません。でも、もし、このようなところがあったなら、私は下戸なのでお酒とは縁もないのですが、お抹茶でも点てて自服で飲んでみたいと思います。そういえば、昨年に車を買い替えたときに、100Vの電源も使えると聞き、さっそくその車で素晴らしい風景のところまで行き、お抹茶をいただきたいと思い、電気ポットと木のテーブル、長いコードなどを買い込みましたが、とうとうその機会が訪れませんでした。
 いつかはと思いながら、車のトランクにいつも入れておいたのですが、冬になり雪掃きなどを入れるのに邪魔になり、部屋に持ち帰りました。
 この描写を読み、今ではこの「たぬきや」もまわりの風景もまったくなくなったそうで、そうならないうちに今年こそは実現したいと思いました。

(2024.4.20)

書名著者発行所発行日ISBN
酒場詩人の美学吉田 類中央公論新社2020年8月25日9784120053283

☆ Extract passages ☆

 この茶店を知ったのが14〜15年前。店の前には小島のような中洲が広がっていた。菜の花が覆い尽くす春は格別。茶店を包む風景は″菜の花浄土″と化す。外来種の草花が原色を露わに咲き競う初夏。オニグルミやニセアカシアの木立の奥で、カワラナデシコ(河原撫子)は密やかに勢力を温存する。夏草が生い茂れば茶店の半分を隠してしまう。月見草が揺れて僕らを催眠する。ふと顔を上げれば茶店はすっかり迷彩に埋もれ、輪郭さえも分からない。昼酒に心地よくほろ酔うて帰路につくも、もう茶店の記憶は朦朧の中。
(吉田 類 著『酒場詩人の美学』より)




No.2293『そこにある山』

 この本の著者の角幡唯介氏は、『空白の五マイル』を読み、たまたまミャンマーとの国境線に近い片馬から怒江大峡谷の近くまで行ったことがあり、今でもその情景が浮かびます。しかも、その翌年にはそのさらに奥の高黎貢山保護区まで入れる許可をもらっていたのですが、新型コロナウイルス感染症の影響で、予約していた航空券もキャンセルになってしまい、今でもパソコンの片隅にそのときの航空予約券が残っています。
 いつ消去しようかと思っているのですが、まだ心のどこかにその辺境の地の残像があり、できないでいます。
 さて、この本の副題は「結婚と冒険について」で、著者が言うまでもなく、冒険と結婚とはまったく相容れないと思っていましたが、「結婚を意志による選択だとみなし、合理性を優先してしまえば、結婚は偶然性に身をさらすことそのもの、リスクそのものと切りすてられ、結婚しないという選択肢をとらぎるをえなくなる。でも、それでは他者との関係をつうじてえられる実存の確かさを経験することはできなくなり、河童になってしまうのである。」と書いてあるのを読み、なるほどと思いました。
 それと、私は犬橇に乗ったことがないのでまったくわからなかったのですが、気楽に犬に引っ張ってもらいながら雪原を走るというようなものではないそうで、とても危険を伴うようです。著者は、「犬橇の危険は外側の自然にではなく、その内側にある。具体的に何が危険なのかというと、犬が混乱して瞬間的に暴走してしまうことだ。犬たちがひとたび暴走をはじめると、人間にはコントロール不能となる。そればかりか、たぶん、犬たち自身も自分の行動をコントロールできなくなるようだ。……暴走は、全頭が同時に駆けだしてはじまるわけではないし、犬たちに走ろうという明確な 意志があって起きることでもない。往々にしてそれは一頭の何気ないふるまいからはじまる。…… つまりどの大にも暴走しようという意図などないのだが、最初の一頭の前に行こうとする小さな一歩が引き金になり、それが一頭一頭の思惑を超えて制御不能な雪崩と化し、全体が一塊の複雑系のカオスとなって大たちは暴走するのである。」ということだそうです。
 これは、やはり経験してみないことにはわからないことで、映画などで雪原を犬橇に乗って雪煙を上げながら進んでいるところを見て、いいな、と思うのと現実は違うということです。著者は、終章の「人生の固有度と自由」のなかで、「事態にのみこまれることで、理性により事前にイメージしていた生き方と現実の人生はズレをきたしていく。そのズレこそが、その人生にのみ生じるズレであり、年々、ズレが累積していくことでそれぞれの人生は特有の方向性をしめし、結果、固有的なものとなっていく。事態を直視し、思いつきに忠実に生きることで、人生はその人だけのものになる。」と書いていますが、まさにその通りのようです。
 しかも、それは後から感じるもので、無我夢中で走り続けているときには、なかなか気づかないことです。だとすれば、意識的にでも、事態をときどき見つめ直し、考えなければならないと思います。
 下に抜き書きしたのは、第5章の「人はなぜ山に登るのか」に書いてあったものです。
 この年齢にたいする焦りというのは、私にもよくわかります。この文章の前に、植村直己がテレビ朝日の大谷映芳ディレクターにインタビューされたときのことが載っていましたが、これからマッキンリーに登ろうとするときになぜか南極に行きたいという話しをするのです。考えて見ると、その前の1982年についにアルゼンチンの軍部から協力を取り付け、南極半島にある基地から南極点を往復する犬橇旅行と、南極大陸最高峰のウィルソン・マシフの登山許可を取得したにもかかわらず、出発前にフォークランド紛争が勃発し、基地から出られないまま越冬して終わりだったそうです。
 その翌年2月のマッキンリーですから、南極に植村の気持ちが向いていたと考えても不思議ではありません。著者は、その熱烈な思いが年齢にたいする焦りではないかというのです。
 この言葉の後の方に、「死が動かしがたいことは私が母胎よりこの世界に生まれ出たときから決まっていた宿命であるが、しかしその宿命は山頂にむかって登り一辺倒だった四十二歳までは不覚にも見えていなかった。全然気にならなかった。迂闊なことにすっかり忘れていたのだ。ところが人生の山頂に達した途端、この避けられない死は嫌でも目に入る。」と書いています。
 たしかに、もっと早く気づけばいいものですが、意外と過ぎ去ってから気づくことの方が多く、冒険をしようなどという想いも、そのようなものではないかと思いました。

(2024.4.17)

書名著者発行所発行日ISBN
そこにある山角幡唯介中央公論新社2020年10月25日9784120053498

☆ Extract passages ☆

植村が、彼にとってまったく本質的ではない冬のデナリにむかったのは、おそらく年齢にたいする焦りが強まっていたからだ。植村はまもなく四十三歳になろうとしていた。私もこの原稿執筆時点で四十三歳だ。四十歳をすぎると、人間、いやでも肉体の衰えを自覚する。体力の低下は避けられないし、それよりも実感されるのが気力の衰えだ。三十代までなら、どんなに厳しい活動でも、事態にのみこまれて次にやるべきことを思いつきさえすれば、その瞬間にはっと旅立つことができる。しかし加齢とともに腰は重くなり、厳しいことをやるのが億劫になる。いろいろ言い訳を見つけて先延ばしにする。肉体の内側から噴き出す炎、すなわち生命力が低下してくるのである。
(角幡唯介 著『そこにある山』より)




No.2292『日本の暮らしの豆知識』

 仙台駅のエスパル仙台東館の3階に「中川政七商店」というお店があり、まったく偶然に、前から欲しいと思っていた麻布があり、買ったことがあります。
 この本の「はじめに」に、 中川政七商店のバイヤーの細萱久美さんが「創業以来300年にわたり、手績み手織りの麻織物を作り続けている中川政七商店は、伝統をしっかり継承し、また新しい時代の文化も積極的に取り入れていきたいと考えます。作る人の想いや暮らしを垣問見ることで、読者のみなさまにより一層、愛着をもって暮らしの道具を使っていただけたら、こんなにうれしいことはありません。」と書いてあり、もともとは300年もの間、麻織物を作り続けてきたところと知り、読んでみたいと思いました。
 ちなみに、私の買ったものは「花ふきん」といい、たしか「本麻 御茶巾 厚手」と書かれた袋に入っていたと記憶していますが、もう一つ、御茶巾には緯糸に手績みの麻糸を使った「薄手」というのがあるそうです。しかもこの花ふきんは、端かがりは一つひとつ手縫いで仕上げているそうで、本当に味があります。
 そういえば、千利休は、茶巾は白く新しいものがよいと語り、茶巾を吊すやり方にも決まりがあります。奈良は昔から「奈良晒」という麻織物の産地でしたから、まさにこの御茶巾は中川政七商店の原点ともいえるものです。
 この本葉、1月睦月から12月師走まで、12ヶ月に分けて書いていて、最初は正月の飾りです。そのなかに鏡餅については、「鏡餅は、旧年を越せたことに感謝し、年神様を迎えて新年の幸せを願うため、家族の集まるリビングや和室の床の間、台所など、家の大切な場所にお供えするといいそうです。また、鏡餅の名称は、神様が宿るという円形の鏡や「望月」とも呼ばれる満月が由来といわれ、九い形は円満の象徴として尊ばれてきました。そして、 1月11日(4日や20日などの地域も)に鏡開きをします。包丁などで切ることは縁起が悪く、木槌で叩いて「開く」ことが本来の風習です。」と書いてあります。
 卯月のところには、「卯月八日」の話しが載っていて、「旧暦の4月8日は、「卯月八日」と呼ばれ、五穀豊穣を祈願する大切な休日だったそうです。この日は野山へ出かけて宴を開き、料理や酒で山の神様をもてなしました。この行事が花見の起源ともいわれています。また、戦国時代の大名たちも、春になると野遊びや狩などに出かけ、茶会を楽しんでいました。茶道の秘伝書「南方録』には、千利体が豊臣秀吉のために松林でお茶を点てたことが記されています。」とあり、お寺ではこの日はお釈迦さまの誕生日なので、灌仏会を行います。
 私の住んでいるところでは、「高い山」と称し、近くの小高いところまで料理や飲み物などを持って上り、お花見のようなことをしましたが、現在はそのような風習を知らない若い人たちも増えています。また、場所によっては、この日から農作業をするというところもあります。
 この本では、「卯月八日は野点ピクニック」と書いていて、たしかにこの時期は外は気持ちがよいので、野点もいいかもしれません。お点前はあまり道具にこだわらず、お抹茶と茶碗と茶筅さえあればできます。茶杓などはプリンに付いてくる茶さじのようなものでも代用できますから、後はおいしいお菓子があればそれだけで十分です。
 12ヶ月の後には、「工房を訪ねて」には「堀田カーペット」「漆琳堂」「三宅松三郎商店」の3ヵ所が載っていて、最後の「三宅松三郎商店」だけは名前からではどのような物を作っているのかわかりませんが、花ムシロだそうです。そういえば、岡山県南部はい草栽培の盛んなところで、この工房は倉敷市にあります。倉敷といえば民芸運動とも関わりがあり、染色家の芹沢_介氏がデザイン図案にかかわった工房だそうです。今でも三宅家には、芹沢_介直筆の図案帳「花むしろ図案集写」があるそうです。
 下に抜き書きしたのは、この「三宅松三郎商店」のところに書いてあったものです。
 昭和19年11月号の日本民藝協会発行の『民藝』は、この花むしろの特集で、この本にもその表紙が花むしろの上に乗っています。そして先代の創業者三宅松三郎さんにこれらの花むしろのデザインを提案したようです。
 これらのデザインは、今でもモダンな雰囲気を持っていますから、生活に密着した美というのは、ほとんど色褪せないものだと思いました。

(2024.4.13)

書名著者発行所発行日ISBN
日本の暮らしの豆知識中川政七商店 編著PHP研究所2016年6月29日9784569833750

☆ Extract passages ☆

 現在は、隆さんと奥様の操さんのふたりで工房を切り盛りしているため、多くは作れません。また国産の良質ない草も年々減少しています。けれど、「作り続けてほしいとの言葉をいただくからには、体が続く限りは作りますよ」といいます。
 芹沢氏のデザインは、図案を描き起こした当時の織り機に対応したもので、熟練の職人の手を加える必要があります。手仕事の道具にこそ美は宿るという民芸の思想が、三宅さん夫婦の花むしろにもしっかり息づいています。
(中川政七商店 編著『日本の暮らしの豆知識』より)




No.2291『諜報国家ロシア』

 今年のロシアの大統領選挙も、投票の妨害や票の積み増しとか、いろいろとささやかれているので、たまたまこの本を図書館で見つけ、読みたくなりました。
 2024年03月14日のニュースでは、ロシア石油大手ルクオイルのビタリー・ロベルトゥス副社長(53)が急逝したと発表しましたが、死因は公表されてません。しかし、同社の幹部経験者はウクライナ侵攻開始以来、今回で4人目だそうで、2022年9月には当時の会長が病院の窓から転落死し、さらに10月に現職の会長が「急性心不全」で死亡しています。このように続くと、やはり不思議です。
 また、3月29日の米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、30日でロシアで同紙の米国人記者エバン・ゲルシコビッチ氏の拘束が発表されて1年となることから、1面トップを空白にして発行したそうです。これはまったくの異例なことで、この空白の部分には、本来は彼の記事が載るべきだという強いメッセージが込められているそうです。そして、最終面には、「われわれは決然と踏みとどまっている」と表明する家族のメッセージと本人の写真を大きく掲載しました。
 このような記事を見ると、なぜと思うのは私だけではないと思います。この本の副題は、「ソ連KGBからプーチンのFSB体制まで」となっていて、KGBの始祖といわれている「チェーカー(Cheka:反革命・サポタージュ取締全ロシア非常委員会)というソ連の秘密警察から書き起こしています。
 このKGBというのは、「創設時の正式名称は「ソ連閣僚会議附属国家保安委員会」であった。この名称からはあたかも閣僚会議(政府)に属すような印象を与えるが、実際にはKGBは政府には報告義務がなく、ソ連共産党の最高意思決定機関である政治局の指示に従う「政治機関」であった。」とこの本には書いてあります。それでも、国境警備兵をのぞく職員数はソ連末期には50万人前後で、予算も人員も秘密だそうですから、詳しくはほとんどわからないようです。
 ほとんどの国のクーデターが軍部が動いて起きているようですが、今回のウクライナ侵攻の際も、一番被害が大きかったのは軍関係だと思うのですが、まったくそのような気配もなさそうです。何度か外国のニュースでは、それらしい話しも出てきますが、ロシア国内からは出てきません。そのことについて、この本のなかに、「革命を成功させたボリシェヴィキは自らの軍隊を労働者農民赤軍と命名した。しかし、労働者と農民だけで軍が編成できるはずはない。実際の部隊の指導は、元帝政ロシア軍将校に委ねざるを得なかった。しかし、これらの者は、いつ白軍に寝返るとも分からない。そこで、軍人を監視するために設けられたのが、チェーカーの「特別部」である。その規模は、チェーカー全予算の三分の一が充てられるほどで、軍人に対する逮捕権だけでなく、戒厳令の下では裁判なしで処刑する権限も与えられていた。第二次大戦の独ソ戦の最中は、特別部はスターリン直属とされ、「スパイに死を!」を意味する「スメルシ」に改称された。スメルシは、軍内部のスパイ摘発、脱走兵の取り締まり、帰還兵の監視まで行い、味方からも恐れられた。」と書いてあり、これでは軍内部もいつも監視されているわけですから、謀反を起こすような人は先に潰されてしまいます。
 それが、ソ連がつくられた当時からあったといいますから、おそらく軍人もそのことはしっかりとわかっていることだと思います。
 それと、もともとあったKGBが、ソ連崩壊後は新たなFSBという組織に編成されますが、その性格はほとんど同じだそうです。たとえばKGBの第一局防諜作戦部は、そのまま存続しているそうですが、KGBの第二総局は、FSB第一局全体としては違ってきているといい、「ひとつは、暗殺である。ウクライナ保安庁(SBU)は、2017年に同庁やウクライナ国防省情報総局(GUR)の複数の職員が暗殺された事件は、FSB第一局による犯行であるとの見方を示している。もうひとつの違いは、ハッカーの活用である。FSB第一局の編制下には、IT犯罪やハッカーの取り締まりにあたる情報セキュリティセンターが入る。同センターは、検挙したハッカーを国内の権力闘争や西側諸国へのサイバー攻撃の協力者として利用する。」と書いてありました。
 たしかに、時代が変われば変わることもあり、たとえばハッカーの活用などもそうですが、暗殺はとんでもないことです。これでは、国外に逃亡したとしても一度狙われたら必ず殺されてしまうということです。たとえば、ロシア石油大手ルクオイルの場合は、ロシアによるウクライナ侵攻直後の2022年3月の取締役会で早期停戦などを呼びかける異例の声明を公表してから会長など幹部経験者が相次いで亡くなっています。しかも、そのほとんどが死因不明です。
 この本を読みながら、ここまで書いてもいいのか、もしも似たようなことが起きないのかと心配もしましたが、著者は、「本書が売れたら筆者もコンプロマントの標的になるかもしれない」と書いていました。このKGBの使うコンプロマットというのは、「西側の政府、政治家、社会活動家や反ソ亡命組織に倫理的・政治的ダメージを与えるため、予め用意された情報(誹謗中傷)を西側の記者を通して拡散するもの」だそうです。
 まあ、それだけなら、それほど心配でもないのでしょうが、私ならちょっとはビビってしまいそうです。そして、この本を最後まで読んで、このような世界はスパイ映画にあることとほとんど同じだと感じました。
 下に抜き書きしたのは、第3章「戦術・手法――変わらない伝統」に書いてあったものです。
 ここを読んで思ったのは、だいぶ前に北朝鮮を訪ねた方の話しで、案内するところは全部前もって決まっていて、その途中の道路も写真を撮れないほどスピードを出していて、いつも監視されているように感じたといいます。
 おそらく、このようなところも、同じような社会主義の国ですから、習い覚えたのかもしれません。
 ちなみに、露土戦争というのは、18〜19世紀の間にロシア帝国とオスマン帝国の間の一連の戦争のことで、ロシアが不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざしたことで起こったと言われています。また、ついでですが、「過去500年の歴史を振り返れば、ウクライナは、帝政ロシア、ソビエト・ロシア、現代ロシアから計11回侵略されている」そうで、これでウクライナの人々にロシアを信用しろといわれても無理だと思います。

(2024.4.10)

書名著者発行所発行日ISBN
諜報国家ロシア(中公新書)保坂三四郎中央公論新社2023年6月25日9784121027603

☆ Extract passages ☆

 18世紀後半の露土戦争でロシアは黒海北岸を獲得したが、この戦争を指揮した軍人ゴリー・ポチョムキンは、クリミアに行幸するエカテリーナ2世に獲得地が豊かで繁栄しているように見せるため、張りぼての村を作ったとされる。このように、訪間者に対し実態とは異なる現実を見せることを俗に「ポチョムキン村」と言う。ソ連を訪問する外国人に対し、社会主義の「偉業」を見せるために選ばれた特定の工場、農場、研究所、文化施設をKGB内部では「陳列用施設」と呼んだが、これも一種のポチョムキン村である。外国人に何を見せるかは党幹部が決定したが、KGBは「陳列用施設」の選定や案内ルートの決定、「ソ連の現実について誤解を与えるような欠陥」を取り除く役目を担った。
 別の言い方をすれば、ソ連を訪問する外国人が「見たいものを自由に見た」、「自ら結論を引き出した」という幻想を作るのがKGBの非公然の活動である。
(保坂三四郎 著『諜報国家ロシア』より)




No.2290『涙にも国籍はあるのでしょうか』

 東日本大震災の死者行方不明者は、平成24年1月12日現在で、死者は15,844名、行方不明者は3,394名だそうで、いかにすさまじい大震災だったのかと思います。しかし、この数字に外国人は含まれているのか含まれていないのかはわかりません。
 著者は、「東日本大震災では、日本は発生直後から世界各国の救援隊などの活動によって支えられ、その後も日本赤十字社などを通じて3700億円を超える多額の義援金を海外から受け取っている。日本政府は国際会議に出席する度にそれらの支援に対する感謝の気持ちを海外に表明しているが、その一方で、大震災によって外国人の大切な命が失われているのにもかかわらず、それらを正確に把握しようともせず、結果、弔ってもいない。その不作為は今後、多民族国家へと突き進んで行かざるを得ない日本において、あまりにも不平等であり、何より不正義であるように思われた。死者を生者以上に敬い、弔う。それがこの国が古来脈々と培い、引き継いできた美徳であり、文化ではなかったか――。」という思いから、このような調査を始めたそうです。
 著者も書いていますが、どうも日本人は欧米人には優しいし親切だとは思いますが、東南アジアやインド人、アフリカ人などにはけっこう冷たいと思います。おそらく、それは日本人にあまりにも似てたり、まつたく違っていたりするので、警戒してしまうところもあります。
 たまたま、私がネパールの友人を連れて米沢市内のレストランに入ったとき、近くのテーブルに座っていた方がうさんくさそうに見ていたのが気になったことがあります。
 でも、私がネパールに行ったときには、向こうの人たちは歓迎してくれたし、となりの人が「ナマステ!」と挨拶してくれたこともあります。しかも、お金を払おうとしたら、「友だちだから安くしてとくよ!」と言い、メニューに書いてあった金額より値引きしてくれたこともあります。
 やはり、日本人は島国根性なのか、疑り深いのかはわかりませんが、これからのインバウンドの時代には、そろそろ改めたほうがいいのではないかと思います。
 それはさておき、第2章の「職人たちが中国人青年に伝えていること」に、とても感動的なことが書いてありました。
 彼は郭偉励さんという方で、現在は千葉市に住んでいますが、大震災前は岩手県大槌町に住んでいたそうです。もともとは中国の黒竜江省で育ち、日本人男性と再婚した母親を頼って16歳のときに日本に来ました。彼は来日後、義父の親族が経営する建築用の足場設営の会社で働き、言葉がわからないこともあり、半年ほどで見よう見まねで仕事を続け、少しずつ職人たちの話しの輪に加わることができたといいます。そして、2年も経たない2011年3月11日の大震災で母を失い、日本での滞在許可も取り消されてしまったそうです。しかも、その間に中国にいる実父と実兄も事故死してしまい、天涯孤独の身になってしまいました。
 彼の上司が弁護士を雇って交渉してくれ、いろいろな人たちが日本にいられるようにと働きかけてくれたそうです。ついには、父兄の死によって中国に帰っても身寄りがないことが確認され、日本にいることができました。
 それから12年、それでもなかなか日本語はうまくならず、婚約者の通訳で話しをしてくれたそうです。そのなかで出てきた話しですが、『今でも時々、大槌町の職場の上司や職人たちからスマートフォンに連絡が来る/「元気か?」「どうしている?」/そんなたわいのないやりとりに/時々涙がこばれそうになる……/「どぅして、涙がこばれそうになるのですか?」かみ締めるように話す郭に向かって、私はあえて愚間を挟んだ。その質問に郭が涙ぐみながら答えると、隣で通訳していた若い婚約者がワッと細い指で顔を覆った。「だって……」婚約者は郭の台詞を必死に日本語に通訳した。
「あの日からずっと、彼らは僕に『お前は一人じゃないんだぞ』って伝え続けてくれているんですよ。』と。
 ここは、何度も読み返し、日本人も捨てたものではないな、と感じました。
 下に抜き書きしたのは、第7章「それでも神父は教会に戻った」に出てくる話しです。
 私には「てんでんこ」という言葉はすぐに理解できますが、それぞれにとかばらばらにとかいう言葉です。私のところの方言では、「てんで」といい、たとえばそれぞれにするということを「てんでにする」などといいます。
 このことは、東日本大震災でもよく聞かれたことで、集団行動で大きな被害がでたことが教訓になったと思います。しかし、これは地元の古老によると、「家」を残すための教えだと知り、びっくりしました。つまり、家族が全滅すると一家を継ぐ人がいなくなるから、誰でも1人でも助かれば「家」は存続するという考えです。
 私にしてみれば、1人だけ助かればかえって不幸ではないかとも考えますが、昔の家督ということからすれば、それでも仕方のないことと考えたようです。
 この本を読んで、改めて大震災の怖さを思い起こしました。

(2024.4.07)

書名著者発行所発行日ISBN
涙にも国籍はあるのでしょうか三浦英之新潮社2024年2月20日9784103555612

☆ Extract passages ☆

 東日本大震災の取材を続けていると、震災発生直後は安全な場所に避難していた人物がその後、身内を助けに自宅に戻ったり、貴重品や携帯電話を取りに職場に向かったりして、命を落としている事例があまりにも多いことに驚かされる。
 我が子はもちろん、両親や親類が自宅に残っていると知らされたとき、人はたとえ自分の身が危険にさらされることがわかっていても、津波が及ぶ場所へと戻ってしまう。
 その本能的な行動を戒めるために、東北地方の沿岸部では古くから「てんでんこ」の教訓が引き継がれてきた。
 〈大地震が起きたら、津波が来る前に「てんでんこ」(ばらばらになって)で逃げろ〉
(三浦英之 著『涙にも国籍はあるのでしょうか』より)




No.2289『京都食堂探究』

 副題は『「麺類・丼物」文化の美味なる世界』で、私も麺類も丼物も好きですし、京都に1年ほどいたこともあり、また行ってみたいと思っていたこともあり、読んでみたいと思いました。
 そして、読み進めるにしたがって、やはり京都と私の住むところではいろいろなことが違うと感じました。これは京都食堂について書いてある本ですが、たとえば、京都のかつ丼はどんぶり飯の上にとんかつをのせるのだそうで、それにも2種類あり、ソースかつ丼はそれにソースを掛けるかソースにくぐらせたとんかつをのせるのだそうです。もう1種は「玉子とじかつ丼」で、とんかつとタマネギなどを甘辛い汁で煮て、玉子でとじてそれをどんぶり飯の上にのせます。
 そういえば、会津で広く食べられているソースカツ丼は、大正時代から親しまれてきた会津庶民の味だそうで、これはどんぶり飯の上に千切りキャベツを敷いて、その上にソースを浸したとんかつをのせたものです。
 しかし、近くの「とん八」で食べたときには、「とんかつ丼」は煮込んで玉子でとじたもので、メニューには「本格かつ丼」と書いてありました。さらに、この他に「ひれかつ丼」や「上ロースかつ丼」もあり、さすが山形県内の平牧三元豚を揚げたもので、とてもおいしかったです。
 この本では、「ソースと「とじ」とに大別される「かつ井」のうち、京都食堂で供されているのは、いっけんすると後者の「玉子とじかつ丼」のように思われる。井がはこばれてきたら、がっつく前にじっくりと目でも味わいながら、ゆっくりと箸を入れてみてほしい。見た日はふつうの「王子とじかつ丼」であるが、玉ねぎだけでなく九条ねぎも使われていて色あざやかだ。玉ねぎの入らない店も多い。王子とじの下からあらわれる五、六切れにカットされたとんかつを箸でひっばりだし、 一口食べてみる。すると、おもいのほか出汁がしみこんでいないことに気づかされるだろう。それどころか、よくみると、とんかつが王子でとじられていないこともわかる。」と京都食堂のかつ丼の特徴が書かれています。
 ところが、京都には中華かつ丼というものがあり、それは器に飯を盛り、とんかつをのせ、そこにご飯が見えなくなるほどたっぷりとあんをかけるのだそうです。まさに天津飯のかつ丼版のようなもので、京都では中華そばにもあんかけがあるそうで、「あんかけ中華」というそうです。そういえば、米沢南駅の近くでレストランをしていた方が、ラーメン好きが高じて、この「あんかけ中華」みたいなものを食べたことがありますが、名前は忘れましたが、冬の寒いときにはとても身体があたたまりました。
 思い出すと、たかが「麺類・丼物」でも、時代によっても地域によっても変化があります。
 そういえば、今はほとんどの人が「ラーメン」といいますが、私の小さいときには「支那ソバ」といいましたが、それから「中華そば」になり、中学生のころには小ぶりな「学中華」もあり、安く食べられました。そこには馬肉とメンマと渦巻きのナルトが入っていましたが、今では馬肉はチャーシューに変わり、ナルトはほとんど見られなくなりました。
 そういえば、この「支那そば」や「中華そば」は、もともとは「中国の「面条(ミェンティアオ)」に類する「蕎麦」を名称に取り込んだのが「支那そば」で、いまやそれは「中華そば」としてすっかり定着している」といい、その流れもよくわかります。
 下に抜き書きしたのは、第4章「食堂と町中華の不思議」の最後に書いてあったもので、この京都食堂の典型的なお店も時代の流れから少しずつ閉店しているそうです。
 その原因はいろいろあるでしょうが、やはり食生活の変化もあります。和食の店が少なくなり、イタリアンや郊外型の何でも屋の店が増えたり、ファーストフードも増えているので、選択肢は多くなっていますが、逆に幅は狭まっているようです。また、後継者の問題もあり、「あとがき」に書いてあったのは、ほとんどが後継者がいなくて高齢のためにお店を閉めるというのが多かったようです。
 でも、お店も味も均質化して、特徴がなくなってしまうような気がします。そういう意味では、こういう本が出て、記録にとどめておくということは意義があると思います。

(2024.4.4)

書名著者発行所発行日ISBN
京都食堂探究(ちくま文庫)加藤政洋・〈味覚地図〉研究会筑摩書房2023年11月10日9784480439208

☆ Extract passages ☆

 食堂は、だれもが気軽に入ることのできる食事処である。だが、ひとたび店に入ると、客はだれしも食べたい物を食べることに妥協がない。抜いたり足したり、あれこれ組み合わせながら、限られたメニゥから最良の選択をすることに余念がないのだ。
 そして、どれだけ難儀な注文にも寛容に寄り添い、たんたんと料理を提供する店には粋さえ感じられる。わたしたちは今日も食堂を愛してやまない。
(加藤政洋・〈味覚地図〉研究会 著『京都食堂探究』より)




No.2288『大作家でも口はすべる』

 4月1日は「エイプリルフール」ですが、もともとはイギリスやフランスなどで互いに悪ふざけして楽しもうとする伝統のようなものです。
 だから、副題の「文豪の本音・失言・暴言集」というのは、この季節柄、これはおもしろそうだと思い読み始めました。先ずは太宰治で、第1章の「口がすべって大目玉をくらう」の最初にも出てきますが、第3章「原稿をめぐるいざこざ」でも取りあげられていて、これは原稿を転売し編集者に侘びたときの誓言手記で、「盗人ナラヌ三分ノ理、七月末日マデ、家郷ノ兄ヨメアテ、五十円、返送スレバ、二百円マタ、アラタメテ、拝借可能ノ黙契有之、ワレ、日頃ノ安逸、五、六ノ友人、先輩、師ヨリ、少カラザル、借銭アリ、読書、思索、執筆、モシクハ、 一家談笑ノ、ユトリ、失イ、古キ、知己、一人去り、二人去り、針ノ山、火ノ川、血ノ池、サカサニ吊リサゲラレテ居ル思イニテ、寝夕間モ地獄、五十円、ノドカラ手ノ出ルホドニ、枯渇、アサマシナド、忘却、狂乱ノ二十八歳、」と長々と新潮社の編集者に書いて送っています。
 この内容を読むと、まったく勝手な言い分で、最後に太宰治と署名し、印鑑まで押しています。
 しかし、これを読むと、昔の文士の生活は大変だったようで、もともとは津軽の大地主の息子ですから、お金にも頓着なく使っていたようです。
 また、坂口安吾の破天荒な飲みっぷりは有名で、毎日のように「ウインゾア」というバーに飲みに行きケンカをしたりするので、この店には誰も寄りつかなくなり潰れてしまったそうです。しかも自分でそれを書いているのですからやはり作家です。
 これは「私は誰?」に書いてあるそうですが、「私は文壇というところへ仲間入りをして、私の二十七の時だったか「文科」という雑誌をだした。発行は春陽堂、親分格のが牧野信一で、同人は小林秀雄、河上徹太郎、中島健蔵、嘉村磯多、それに私などだったが、このとき私は、牧野、河上、中島と最も飲んだが、文学は酔っ払って語るもの、特にヤッツケ合うものというのが当時流行の風潮で、私にそういう飲み方を強要したのは河上で、私もいつからか、文学者とはそういうものかと考えた。小林秀雄が一番うるさい議論家で、次に河上、中島となると好々爺、好々青年か、牧野信一だけは議論はだめで、酔っ払うともっぱら自惚れ専門で、尤も調子のかげんで酔えないことの方が多い気分家だから、そういう時は沈んでいる。彼の酔った時はすぐ分る。まず自分を「牧野さん」とさんづけでよんで、自分の小説の自慢をはじめるからである。」と書いています。
 さらに酒に酔っぱらって、「からんだり、からまれたり、酒をのめば、からむもの、からまれるもの、さもなければ文学者にあらず」とあり、今なら間違いなくひんしゅく者だといわれ、店から追い出されること間違いなさそうです。
 また、別のところで、「文学などというものは大いに俗悪な仕事である。人間自体が俗悪だからで、その人間を専一に扱い狙うのだから、俗悪にきまっている。」と書き、いかにもその当時のデカダン的な雰囲気が感じられました。
 下に抜き書きしたのは、第4章「愚痴や文句が喧嘩に発展」に書いてあったもので、夏目漱石が大学教師を辞めて朝日新聞社に入社したときのことを「入社の辞」のなかにあります。
 さすがというか、大学にいるときには周囲から博士になることを当然視しされていたようですが、入社後に当時の文部省から博士号を授与する話しがあったときに、それを辞退しています。たしかに、この文章を読むと、大学の仕事にだいぶ嫌気がさしていたようです。
 漱石には、いろいろな逸話が多く、漱石が帝大講師だったときに授業中に懐手を組んで、右腕しか出さない学生に、「腕を出せ」と叱りつけたところ、彼は事故で腕を失っていたと知り、それでも「ぼくも、ない知恵をしぼってこうして講義をしているんだ。君も無い手を出したまえ」と言ったそうです。
 さすがに申し訳ないと思いながらも、つい負けん気からこのような言葉が出てきたようですが、これは『漱石と隻腕の父』魚住速人、に書いてあるそうです。
 この他にも、教科書にも出てくるような文豪も掲載されていて、本音でものを言ったり、ときには暴言といえるようなことまで書いているわけで、このような本もおもしろいものです。先ずは、自分で読んでみると、その時代の文士の生き様などが見えてくるかもしれません。

(2024.4.1)

書名著者発行所発行日ISBN
大作家でも口はすべる彩図社文芸部 編彩図社2024年1月22日9784801307018

☆ Extract passages ☆

 大学では講師として年俸八百円を頂戴していた。子供が多くて、家賃が高くて八百円では到底暮せない。仕方がないから他に二、三軒の学校を馳あるいて、漸くその日を送って居た。いかな漱石もこう奔命につかれては神経衰弱になる。その上多少の述作はやらなければならない。酔興に述作をするからだと云うなら云わせておくが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。それだけではない。教えるため、または修養のため書物も読まなければ世間へ対して面目がない。漱石は以上の事情によって神経衰弱に陥ったのである。……
食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるなと云ってもやめて仕舞う。休めた翌日から急に脊中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量な空気が這入って来た。
(彩図社文芸部 編『大作家でも口はすべる』より)




No.2287『耳は悩んでいる』

 意外と人は何でもないときには意識しないのに、いざ耳が聞こえにくいと思うと、やけに気になるものです。
 私の場合も、なるべく音楽を聴くときにはイヤホンなどは使わないようにしているのですが、ある時、耳が何かでふさがれたようになり、耳鼻科に行きました。というのも、私の知り合いが急性難聴になり、いつか治るだろうと思い、そのままにしていたら、ほとんど聞こえなくなり、いまも不自由だといいます。彼によると、早くさえ耳鼻科にかかると治ることもあるそうで、3割ぐらいは完治するそうです。
 そんなことをだいぶ前に聞いたことがあり、耳って知っているようでほとんど知らないし、意識すらしなかったと思い、この本を図書館で見つけ、読むことにしました。
 音が脳に伝わって聞こえたり理解できるわけで、この本には、「音やことばは目には見えないが、空気の振動(音波)として空気中を伝搬し、耳に入る。耳に入った音波は、外耳道というトンネルのような道を通り、鼓膜へと伝わる。続いて、音は鼓膜から耳小骨という小さな二つの骨へと伝わる。耳小骨のある空間は、中耳と呼ばれる。中耳の奥は内耳と呼ばれ、蝸牛とぃうカタツムリのような形をしており、音波を電気信号に変換する。その後、電気信号は脳へ到達し、処理されるという。音やことばが空気の振動であるということは、空気がない真空の中では音は伝わらないということだ。真空管の中で音を鳴らしても、私たちはその音を聞くことはできないのである。」とあり、そういえば、宇宙空間は沈黙の世界だという話しを聞いたことがありますが、たしかにこの話しを聞くと、音が伝わらないからだと納得しました。
 声が聞こえるというのは、このような複雑な伝わり方をして、最後は脳に到達し処理されて理解できるわけで、すべては脳が働いて聞こえたということになるわけです。No.2285『まちがえる脳』で読んだのですが、ニューロン間の信号伝達が固定されていないということで、構造と機能ともに柔軟だということも、人間の身体というのは微妙なバランスの上に成り立っていると思いました。
 最後の「「おわりにかえて」まで読んで、この『耳は悩んでいる』という題名に、納得しました。おそらく、監修者の「ただでさえ孤独になりがちであった高齢で独居の方はコロナ禍の外出制限により、より社会から隔絶され、直接他人と会話をする少ない機会でさえもコミュニケーションに不自由を生じてしまうことになってしまったわけである。そのような方が耳鼻咽喉科の外来へ久しぶりに受診すると、長い問他人と会話をする機会がなかったために会話の聞きとりの力がガクッと落ちてしまっている。あらためて、対面で聞き、会話をすることが人間にとってとても大切なことなのだと思い知らされた。耳の重要な機能の一つである聞こえの具合が悪くなると、周囲とのコミュニケーションから隔絶されたような大変な孤独感と、必要な情報を得ることができない不安など、不使という言葉で済ますことはできないことが起きるのだが、足の骨折などのように他人から一目でわかる症状とは異なり、自分から伝えなければ誰にも気づいてもらえない。そのため、耳に悩みをもつ患者さんは人知れずつらさを抱えていることが多い。」と書いてあり、つまり耳に悩みをもつ患者さんが多いということのようです。
 考えて見ると、もし、私も聞こえにくくなると、つい話しをするのが億劫になったり、話しかけられても聞こえないと思えば会話も少なくなりそうです。つまり、人との触れ合いがなくなれば、1人でいる時間が増えてきます。
 この少し前にに書いてあったのですが、コロナ禍のなかで、みんなマスクをしたりアクリル板の設置などが進み、耳の間こえにくい人たちは非常に不自由になったといいます。なぜかというと、「耳が聞こえにくい方は、相手の表情や口元を自然に見ていて、音声だけでなく、表情や口元からの視覚情報をプラスして会話の内容を理解している」からだそうで、たしかに手話ニュースを見ていたとき、なぜかマスクではなく透明なものを着けてしたのが印象的でしたが、それもこの話から理解できます。
 下に抜き書きしたのは、「V耳のはたらき」に書いてあったもので、前から不思議には思っていたのですが「カクテルパーティー効果」という名前は初めて知りました。
 たしかに耳が2つあるから効果があるということですが、目だって2つあるから距離感がつかめるのだし、肺などは2つあるから片方が使えなくなったとしても大丈夫のようです。そう考えると、人間の身体というのは、とてもよくできていると思います。
 もし、片耳だけ難聴になると、騒音下での会話が聞きとりにくいなどの問題が生じるだけでなく、方向感もわかりにくくなるというから大変です。
 この本を読んで、私自身も耳をもっと大事に長く使いたいと思いました。

(2024.3.28)

書名著者発行所発行日ISBN
耳は悩んでいる(岩波新書)小島博己 編岩波書店2023年12月20日9784004320005

☆ Extract passages ☆

 騒がしいパーティーや会合で、なぜ自分の間きたい人の声がきちんと聞こえるのか不思議に思ったことはないだろうか。カクテルパーティー効果とは、名前の通リパーティーなど騒がしい場所でも、たとえば自分の会話している相手の声に注意を向け、会話の内容を聴きとることができる現象のことである。この現象は、耳が二つあることでより効果を発揮できる。
(小島博己 編『耳は悩んでいる』より)




No.2286『アメリカのイスラーム観』

 イスラエルとハマスの戦争は、ガザ地区に住む多くのパレスチナ人にとっては、人的被害はもちろん、その閉塞感はとても想像すらできない状況ではないかと思います。
 この本の著者は、現代イスラム研究センター理事長だそうで、初めて聞く名前で、律と書いて「おさむ」と読むそうです。私の場合は、あまり著者のプロフィールなどは読まないのですが、最後まで読んでから、このようなイスラムの見方というのもあるのだと思い、現代イスラム研究センターという法人をネットで調べると、「この法人は、イスラム地域に関心をもつ者、あるいは世界事情を知ろうとする者等に対して、現代イスラム地域の調査・研究に関する事業を行い、日本のイスラム地域研究の深化・発展に寄与することを目的とする。」と書いてありました。
 たしかに、中東の話しのほとんどは欧米からの流れてくるのが多く、しかもテロなどのこわい話しが中心なので、どうしても構えてしまいます。だいぶ昔の話しになりますが、海外旅行もまだしたことがなかったのに、花の桃源郷といわれるフンザには行きたいと思ってました。また、パキスタンのラホール博物館の「菩薩苦行像」は一度でいいから拝んでみたいと思ってました。これはシクリ(カイバル・パクトゥンクワ州)の伽藍跡から出土した2〜3世紀ごろの像で、インドのブッタガヤの近くの洞窟にこもって6年間ほど苦行をしたときのお姿です。その洞窟を見たくて、2012年12月5日から13日まで、インド仏跡の旅をしたこともあります。
 ある意味、その付近には憧れのようなものがあったようです。しかし、いつの間にか、いつでも紛争が絶えないとか、自爆テロがあるとか、ちょっとこわいような印象ばかりになってきました。それでも、アフガニスタンで中村哲医師のような方がボランティアをされていることを知りましたが、2019年12月4日に武装勢力の銃撃を受け亡くなられました。
 この本には、「中村医師はアフガニスタンの人々にとって「自由」とは、信仰心の篤さとともに、自らの伝統や文化に対する誇りであると述べ、そのマドラサやモスクがタリバンの活動の温床になるという理由で爆撃されるなど活動が制限されることにアフガニスタンの人々は自由が奪われていると感じていた、と語っている。中村医師は、こうした宗教施設の建設に支援の手を差し伸べてくれたのはサウジアラビアの他には日本しかなかったという現地の人の声を紹介し、冒頭の日本に対する称賛の言葉を喜んでいる。アフガニスタンに侵攻したアメリカはアフガンの人々に本当の自由をもたらすことがなく、アメリカによる破壊と殺戮がアフガン人の記憶に強く刻まれることになった。」と書いています。
 ただ、それほどアフガン国民に敬愛されていた中村医師が武装勢力によって銃撃されなければならなかったのか、ちょっと理解できません。
 それと、今現在も、イスラエルとハマスがガザ地区で端から見ると一方的な戦争状態ですが、この本のなかで、政治哲学者のハンナ・アーレントさんの話しが載っていて、「ユダヤ人が自分たちを排除した国民国家の原理で国家を建設すれば、今度は自分たちが他民族を排除する側に回ってしまうと説いた。彼女はユダヤ人がパレスチナに自らの国家を建設するならば、アラブ難民というかつての自分たちと同じ故郷喪失者を生み出すことになることを見通していた。また、イスラエルのユダヤ人たちが隣人であるアラブ人を敵視することになったら、敵対する民族に取り囲まれて暮らし、少数民族や他国の国民に対して抑圧的・排他的になっていくだろうと予見していた。そうなれば、イスラエル人は古代スパルタ人のように、兵士種族になるしかないし、世界中のほかのユダヤ人からも孤立することになるだろうと警鐘を鳴らした。」とあり、まさに今のような状況になることをはっきりとわかっていたように思います。
 あまり情報もなく、知らないことが多い私でさえも、国もなく世界中をさまよっていたユダヤ人も大変だったと思いますが、その人たちがパレスチナに入り込んで今まで住んでいた人々を追い出してしまったら、結局は今までの自分たちと同じような境遇にしてしまうだけでなく、大きな反感を生み、争えば争うほど泥沼化してくるのは見に見えてわかります。まさに、ハンナ・アーレントさんが言うように、「イスラエル人は古代スパルタ人のように、兵士種族になるしかない」と危惧します。
 戦争というのは、いつの時代も憎悪を生み出します。だから、どのような宗教も憎んだり暴力を振るったすることを禁じています。ところが、その宗教のなかから聖戦などという勝手な解釈をして争いごとを起こす人が出てきます。本当に困ったことです。
 下に抜き書きしたのは、「おわりに」の「アメリカのイスラーム観」を振り返る、に書いてあったものです。
 現在、アメリカのムスリム人口は増加しているそうで、キリスト教に次いで2番目に宗教人口が多くなると予想しているそうです。だとすれば、そろそろ争ったり反目したりするよりも融和する方向に舵を取らなければならないと思います。
 でも、著者が1990年代にアメリカ国防省を訪ねたときに、そこの官僚たちは「テロリスト」の主張を理解しようともしないし、テロ対策として中東イスラーム世界の福利の向上なとも考えていなかったといいます。しかし、これからはこの下に抜き書きしたようなことを考えなければならないと私は思います。

(2024.3.24)

書名著者発行所発行日ISBN
アメリカのイスラーム観(平凡社新書)宮田 律平凡社2024年1月15日9784582860481

☆ Extract passages ☆

 アメリカなど欧米諸国がテロを爆弾で封じ込めようとすればするほど、テロで報復を考える勢力は現れ、その形態もますます過激になり、生物・化学兵器など大量破壊兵器を用いる可能性すらある。……
彼らがテロ対策として優先していたのは、テロリストに関する情報の蒐集や軍事的制圧だった。日本はJICA(国際協力機構)やアフガニスタンで活動した中村哲医師のように、様々なNGO(非政府組織)が教育や医療などの生活支援を中東イスラーム世界に対して行ってきた。アメリカの対テロ対策に求められているのは日本のような民生支援だが、アメリカの政府指導者たちがそれに気づく様子がいっこうに見られないのは、兵器で利益を得ようとする軍需産業の意向や、第一次、第二次世界大戦やベトナム戦争など力で敵をねじ伏せてきたアメリカの政治的伝統やメンタリティーがあるに違いない。
(宮田 律 著『アメリカのイスラーム観』より)




No.2285『まちがえる脳』

 この本は、第77回毎日出版文化賞自然科学部門で受賞したそうで、その当時の新聞を読むと、2023年11月3日の文化の日に発表され、贈呈式は12月18日午後2時から東京都文京区のホテル椿山荘東京で開催されたそうです。このときの特別賞は、いつか読みたいと思っている「杉浦康平と写植の時代 光学技術と日本語のデザイン」阿部卓也著(慶応義塾大学出版会)です。
 読み始めると、そのいい加減な信号伝達といわれても、どのように動いているのかとか、どのようにしてそれを調べているのかという基本的なことがなかなか理解できず、ちょっと諦めかけましたが、第2章の「まちがえるから役に立つ」あたりから、だんだんとおもしろくなり、なんとか読み終えました。今は、本当におもしろかったと思います。
 たとえば、「脳の神経回路の構造と機能は共にいいかげんである。しかし見方を変えてみると、神経回路の構造と機能は固定されておらず、柔軟であるともいえる。これは電子回路にはない脳の特性である。そしてこの脳の柔軟性が、動物が生存する上できわめて有益であることもわかってきた。それが、脳がもつ独特の冗長性、つまり部分的な損傷を受けても影響を受けなかったり、大きな損傷でも回復するという特性である。すなわち、特定のニューロンだけが信号を伝達するのではなく、多数のニューロンが協力して伝達するということが、また、記憶をつくるときと同じように、経験により信号伝達の確率や経路が変わるということが、損傷に対する脳の頑健さと回復力を生み出しているのである。」といい、だから記憶も変容しやすく、脳が損傷を受けても回復するのだそうです。
 私は、脳というのはとても大切なもので、そこが損傷を受けてしまうと身体全体に影響を及ぼすと考えていました。しかし、小さいときに水頭症になり、そのままほとんど普段の生活に支障がなかったのに、たまたま何かの検査で水頭症だとわかることもあるそうです。つまり、頭蓋骨のなかのほとんどが脳脊髄液で満たされていたとしても、数学者になった人さえいるそうです。この本に、脳画像の写真が載っていましたが、ほとんどが黒くなっていて、一般の人の10〜20%しかなくても生活する上にはほとんど何の不自由もなかったといいます。
 ということは、いかに脳というのは構造と機能ともに柔軟で、ニューロン間の信号伝達が固定されていないということでもあります。
 つまり、脳には機能代償の働きがあり、もし事故などで脳に損傷を受けたとしても、しばらくするとそれに近い動きをするようになるそうです。これはとても大切なことで、そういえば、私の友人も脳梗塞で右手がまったく使えなくなりましたが、その後のリハビリで少しずつ動くようになり、今ではほとんどわからないほどまでに回復しました。
 もちろん、皆がみな、回復するわけではないでしょうが、こういう本を読むと、希望が湧いてきます。
 また、記憶力についても書いてあり、記憶が良すぎても大変なのだそうです。ある1920年代のソビエト連邦時代にロシアで見つかった「シィー」と呼ばれた青年は、本当にいつまでも忘れなかったそうです。たとえば、15年まえに1度覚えただけの系列をそのとおりに再現したそうで、彼は忘れるためにいろいろと工夫したといいます。その1つが忘れるために書いたものを燃やして、その燃えていく光景を像として残すことで忘れようとしました。しかし、どのような努力をしても、忘れることはできなかったそうで、他の人からみれば奇妙な努力としかいいようがありません。
 下に抜き書きしたのは、第2章「まちがえるから役に立つ」に書いてあったものです。
 まさに失敗したりまちがったりするからこそ、そこからアイディアが生まれてくるといわれれば、なんとも心強いものがあります。しかも、脳そのものの仕組みから考えてもそうだとすれば、あまりエラーにこだわっていることはなさそうです。
 さらに、このあとに、「このような脳が創造を生むプロセスは、生物の進化のプロセスと似ているかもしれない。」といい、遺伝子の突然変異などもコピーミスであり、そこからまれに環境への適応力がより優れている個体が現れることがあり、人としての個体がさらに子孫を増やしていくところに進化もあるといいます。ということは、コピーミスこそが人間が今まで生存できた由縁かもしれません。

(2024.3.20)

書名著者発行所発行日ISBN
まちがえる脳(岩波新書)櫻井芳雄岩波書店2023年4月20日9784004319726

☆ Extract passages ☆

要するに、多くの失敗、つまリエラーの中から発明が生まれるということらしい。このことは、「失敗は成功のもと」や「失敗は成功の母」という有名な格言もあることから、わたしたちの社会では、きわめて当然のこととして広く受け入れられているが、脳の信号伝達の実態から見ても、きわめて当然といえる。脳の信号伝達は不確定で確率的であるため、必ずまちがいも起こるが、多くのまちがいの中から、斬新なアイデアつまり創造も生まれるということである。
(櫻井芳雄 著『まちがえる脳』より)




No.2284『豆腐の文化史』

 私も豆腐が好きですが、その豆腐だけで1冊の文化史を書けることに驚きました。しかし、考えて見ると、そもそも豆腐はいつから、どのようにして日本に来て、それからどのように広まっていったのかなど、ほとんどわからないことに気づきました。それで、この本を読むことにしました。
 この本には、豆腐の伝来は、「豆腐はすでに平安末期に中国から僧侶たちによってもたらされ、鎌倉期には地方へと伝わり、室町・戦国期になると、地方の村々に豆腐屋が存在していたことに間違いはない」そうで、まさに古くから日本人に馴染んできた食べものです。この本の「はじめに」の一番最初に松平治郷(はるさと)の掛軸から話しを始めています。それは、「豆腐は不思議な食べ物である。出雲松江藩7代藩主松平治郷(1751〜1818)は、もともと茶の湯を好み、藩政改革にも尽力したが、とくに引退後は不昧と号して、茶と禅に明け暮れて悠々自適の生活を送った。その不昧に、「世の中は まめで四角で丸らかで とうふのようにあきられもせず」という「豆腐自画賛」の一幅がある。この歌意は、世の中(人生)というものは、豆(働き者)でかつ四角(実直)で、和かつまり適応力があり、豆腐のようにあきられないのが一番よい、ということだろう。この一首とまったく同じ表現が、二重県東部の山間地帯の人々の間にも伝承されている。ほかにも隠元禅師に同様の歌があるというから、豆腐礼賛の定型句として広く知られていたようである。」と書いています。
 そういえば、隠元禅師といえば「インゲン豆」を日本に持ち込んだというだけでなく、中国の堅豆腐の製法を日本にもたらしたことでも有名で、「黄檗豆腐」とも呼ばれています。「味国記」という本には、「京に三豆腐あり」といい、1つは嵯峨と南禅寺の湯豆腐、2つ目は祇園の田楽豆腐、そして3つ目は宇治の黄檗山万福寺に近い松本平四郎の豆腐羹だと書いています。この豆腐羹こそが、隠元禅師のもたらした「黄檗豆腐」です。
 そういえば、昔の本を図書館で見ていたときに、『豆腐百珍』という名前を知り覚えていたのですが、「つまり『豆腐百珍』を読めば、二百三十数種の豆腐料理のみならず、豆腐に関する知識を手にすることが可能となる。これは『豆腐百珍』が、豆腐料理を舌で味わうというよりも、知識を駆使して頭つまり観念の上で料理を楽しむという性格の料理本であったことを意味している。」と書いてあり、まさに豆腐の百科事典のような存在です。
 この続編の『豆腐百珍続編』には、京都六条の「六条豆腐」の記述があり、「高野豆腐」の作り方と違うと書いてあるそうですが、山形県西川町、昔の岩根沢で「六浄豆腐」を作っていましたが、それと似ているそうです。私も小さいときに祖父のお土産で食べたことがありますが、これが豆腐かと意外だった印象しかありません。そのときに、これは京都六条から出羽三山に来た旅の修験者が作り方を伝授したという話しでした。この本を読んで、そのことも思い出しました。
 まさに、豆腐はその土地ならではの創意工夫で、いろいろに変化したことは間違いなさそうです。
 この本でも、「自ら作るといっても、その工程は単純ではなく手間がかかる。その上、どうしても欲しい時期は、盆や正月、年中行事や人生儀礼の物口などに集中する。しかも大量に必要となるため、数軒が集まって組となったりして豆腐作りが行われる。あるいは一軒の場合でも、作る時はそれなりの量を作るが、余った豆腐はなるべく保存させたいと考える。また作った豆腐は、冷や奴などのようなその場限りの食べ方ではなく、しっかりと味の付いたご馳走でなければならず、食料の乏しい地域では増量も一つの課題となる。こうした豆腐だけに、全国的にみれば、地域ごとにさまざまな種類があり、そこには風土に応じた生活の知恵が働いている。」と書いています。
 ある意味、だからこそ『豆腐百珍』のような本が生まれたわけで、地方を旅する楽しみでもあります。そういえば、京都に行ったときに、たまたま乗ったタクシーの運転手さんに、「京都のお土産で一番は何ですか?」と尋ねると、すぐに豆腐ですかね、という返事でした。そのときは、まさかいくらおいしいとはいえ、山形まで持ち帰ることは考えもしませんでしたが、今なら、そのおいしさがわかるようになり、持ち帰るかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、第1章「大豆から豆腐へ」のなかにあったニホンコウジカビ菌についてです。
 つまり、この菌こそが日本の味を生み出すもとであり、日本でのみ繁殖し生きている大切なものです。今までは、なんとなく感じていたのですが、初めて「ニホンコウジカビ菌」という名前を知りました。

(2024.3.16)

書名著者発行所発行日ISBN
豆腐の文化史(岩波新書)原田信男岩波書店2023年12月20日9784004319993

☆ Extract passages ☆

……すでに18世紀後半には、日本の醤油が大量にヨーロッパに輸出されている旨を述べている。
 これはアミノ酸発酵などを引き起こすコウジカビ菌の優秀性に由来するもので、とくにタンパク質やデンプン質類に対して高い分解能力を有するニホンコウジカビ菌(アスペルギルス・オリゼー)を利用しているため、美味しい味噌・醤油・日本酒・酢が製造されている。この種の菌は、日本の国菌として認定されており、わが国独自のコウジカビ菌で、日本でのみ繁殖している。これは長年にわたり選抜育種の成果であり、先人の努力によって創り出された独自のコウジカビ菌ということになる。こうしたすぐれた醸造技術によって、大豆を原料とした味噌や醤油などの重要な発酵調味料が生み出されたのである。
(原田信男 著『豆腐の文化史』より)




No.2283『親切で世界を救えるか』

 この本の題名は『親切で世界を救えるか』ですが、私の第一印象は、親切で世界を救えるようにしたいと思いました。というのも、今現在もロシアとウクライナ、そしてイスラエルとハマスで戦争が起こっていますが、おそらくマスコミで報道されないだけで、各地でも争いは起こっているかもしれないのです。だとすれば、人々を思いやったりケアしたりという気持ちがあれば、争いごとは少なくなるような気がします。
 副題は「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」ですが、毎日をキリキリと過ごしていてはケアの気持ちも生まれてこないかもしれません。
 この本のなかに、ケアの倫理として、「下は上に常に従属すべきであるという儒教道徳が抜けきらないまま自由にふるまおうとすると、それはハラスメントになってしまう。子供の欲望をケアしない学校道徳にも、女や目下の人間を欲望のはけ口にすることが反体制的でかっこいい行動だと信じる中高年にも、ケアの倫理は不在だ。常に自らの欲求よりも他者・社会・国家を優先することが正解とされる学校道徳と異なり、ケアの倫理においては自分も含めた個々の感情や欲求もケアの対象となる。勤労、正直、愛国心など過度に一般化されたルールや義務を刷り込む道徳の授業に納得していない人にも、ケアの倫理は開かれた概念になるのではないだろうか。」といいます。
 これを読んだとき、岐阜県岐南町の町長さんも、女性職員に対する時代的な錯誤があったのではないか、だから調査した弁護士3人の第三者調査委員会の報告書でも少なくても99件の言動をセクハラやパワハラ行為と認定したのではないかと思いました。しかも、町職員の8割以上がこのような行為を受けていると感じたと調査に答えているので、これからは上に立つ立場の人たちは相手に対する「ケア」を常に心がけなければならないと感じました。
 そういう意味でも、この本はとても参考になりました。同じことをしても、今と昔ではとらえられ方が違いますし、今の若い人たちと接するときも、大切な心構えです。
 だから、この本のなかに冷笑文化という言葉があり、「冷笑文化で才能を発揮できるのは、ケアをしない人々だ。若くて権力を持たないうちは、人を人とも思わない不遜さがかっこよく見えることもあるだろう。だがそんな彼らが加齢で権力を握れば、苦しむ人々が増える。現代において社会を牛耳っているのは、まさにケアすることを知らずに育った層である。そんな社会の事情も、嘲笑・いじめ的ではないお笑いや、ケア要素のあるカルチャーが若者たちの人気を集める原因のひとつとなっているのかもしれない。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 今、今までのお笑いで先頭を走っていたのに、裁判を起こされているのも、このような問題かもしれません。もちろん、どちらがどうということはわかりませんが、そのような時代は終わったと思います。
 これからはケアもできない人たちは、今まで問題にされてこなかったようなことでも責任を背負わされるようになります。これはぜひ注意してほしいことでもありますし、相手をケアしようとすることで、新しい生き方が見えてくるような気さえします。
 下に抜き書きしたのは、「あとがきにかえて――こねこのぴっちが家出をした日」に書いてありました。
 こねこのぴっちというのは、著者の次女がとても大事にしていたぬいぐるみで、唯一話が通じる、たった1人の相棒だそうです。ところが、小学2年生のある日、バスのなかにこのぴっちを置き忘れてしまったそうです。Twitterなどでも呼びかけたりしていろいろ手を尽くし、1ヶ月後にそのバスの運転手さんから直接連絡をいただき、無事に戻ってきたそうです。
 この文章のなかにある「この事件」というのは、このことであり、このことがこの本を書くきっかけにもなったようです。

(2024.3.13)

書名著者発行所発行日ISBN
親切で世界を救えるか堀越英美太田出版2023年12月25日9784778319021

☆ Extract passages ☆

 この事件以来、私は少し変わった。障害児の親は毎日が戦いだとよく言われる。支援は黙っていても与えられるものではないので、自分で調べ、関係各所に出向き、主張し続けなくてはいけない。送迎義務があって家に一人で置いておけない小学生がいたら勤めは退職せざるをえない。さらに母親に自己犠牲させたがる宗教右派と関係が深いPTAが個々の母親の事情を汲んでくれるはずもなく、障害児を家に一人で置いて役員となって奉仕活動をせよ、特別扱いは認めないとごり押ししてくる。家族以外の周囲が敵ばかりに見えていたあの時期に、縁もゆかりもないのに個人として我が子をケアしてくれる人々をまのあたりにしたことで、自分も世界にやさしくしてみようかなと素直に思えたのである。本書で「ケア」という不得意分野を深掘りしたくなったのは、このできごとも関係していたのかもしれない。
(堀越英美 著『親切で世界を救えるか』より)




No.2282『どうしてそうなった!? いきものの名前』

 名前って、なんか奥が深くて、特に植物の名前などはなぜそのような名前なのか、とても興味があります。この本の副題は、「奥深い和名と学名の意味・仕組み・由来」とあり、それをみただけで、読みたくなりました。
 よく、くさっても鯛などといい、まさに鯛は縁起ものですし、何とか鯛というのも多そうですが、日本周辺の海にいるといわれる魚、およそ3,700種といわれていますが、その1割が「タイ」とか「ダイ」が種名の語尾につくそうです。この本には、「そのうち、真のタイといえるタイ科のものは、マダイ、クロダイ、チダイ、ヘダイなど13種しかいません。そのため、アマダイ、イシダイ、コブイ、スズメダイ、キンメダイなどほとんどのタイは、ニセモノのタイだといえます。とはいっても、もともと垂直方向に「平たい」魚をタイと呼んでいたようなので、分類など関係なく「○○ダイ」という名前の魚が多いのは仕方がありません。」と書いてありました。
 やはり、生きものの名前というのは、おもしろいと思いました。ちなみに、植物名で一番長いのは「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」で、漢字で書くと「龍宮の乙姫の元結の切り外し」で、乙姫さまが髪を束ねていた紐を切ったもの」ということで、海に生えている細長い草ということだそうです。
 もちろん、一番短いのは「イ」で、イグサのイですが、あまりにも短いので、普通は「イグサ」と読んでいます。
 この本のなかに出てくる名前でおもしろいのは、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」で、正式な和名ではなく俗称ですが、国立科学博物館の特別展「昆虫」に展示され、「この和名は『俗称』です。定まった種にあてられているものではありません。」と註釈が付けられていたそうです。これは、もともとは「トゲナシトゲトゲ」なのに、後から鞘翅の後方にわずかなトゲを持つものが見つかり、それを「トゲナシトゲトゲ」なのに「トゲ」があるということで、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」というそうです。
 そういえば、植物の世界にも、「クロユリ」というのがありますが、その花が黄色いので「キバナクロユリ」というのがあります。私も何年か栽培したことがありますが、ちょっと珍しかったようです。
 よく、植物などは標本を作って保存しますが、新種に名前を付けるときに使った標本は、「タイプ標本」と呼ばれます。これは、この本によると、「記載論文で学名が指し示すものは、「その生物の基準」となるタイプ標本です。そのため、学名を担うという意味で、ホロタイプを「担名タイプ」といいます。担名タイプは「その生物の基準」ですから、新たに近似種を記載する際にも比較対象となる重要なものです。そのため、「担名タィプ」は公開可能な状態で管理する必要があり、個人所有のものであっても、博物館などに寄贈あるいは寄託するのが慣例となっています。」と書いています。
 私も海外などで標本館があると見せてもらうのですが、「タイプ標本」は赤い枠がついています。今まで一番印象に残っているのは、イギリスのエジンバラ植物園のなかにある標本館で、ダーウィンがビーグル号に乗って海外で採取した標本です。その日付けやビーグル号に乗ってなどという書き付けがあり、ワクワクしながら見せてもらいました。
 下に抜き書きしたのは、第2章「学名を知ろう」に出てくるものです。
 これを読むとわかりますが、素人が新しい生きものをみつけたから自分で名前を付けようと思ってもできません。先ずは新種を発見するのにも相当な知識がないとできませんし、さらにそれが世界のどこかですでに発見されているのかどうかを調べなければなりません。
 そして、それを新種たる由縁を論文にまとめ、発表しなければならず、しかも学術的なものを英語で書くのですから、大変です。
 でも、もし、新種を発見し、自分の好きな生きものの名前に自分の名前が残るとすれば、これはロマンです。

(2024.3.9)

書名著者発行所発行日ISBN
どうしてそうなった!? いきものの名前丸山貴史 著、岡西政典 監修緑書房2023年12月30日9784895319409

☆ Extract passages ☆

新種を発見し、命名規約の形式に則り命名したとしても、それはまだ学名ではありません。新しい種である証拠とともに論文に記載し、それが公開されて初めて学名となるのです。
 論文が掲載されるメディァは、「学術雑誌(ジャーナル)」が望ましいとされます。それは、「査読」があるからです。査読とぃぅのは、投稿された論文を該当分野の専門家たちが読み、それが掲載されるにふさわしいものか判断する作業のこと。この掲載基準は、有名な学術雑誌ほどハードルが高く、それだけ信頼性も高いといえます。
 また、こぅした論文は、英語で書かれるのが一般的です。せっかく論文を発表するのであれば、日本人以外にも読んでもらいたいですからね。ただし2012年までは、植物やキノコの記載論文を執筆する場合、記載文をラテン語で書くことが求められていました。
(丸山貴史 著『どうしてそうなった!? いきものの名前』より)




No.2281『生活はクラシック音楽でできている』

 指揮者の小澤征爾氏が2024年2月6日に88歳で亡くなられたそうで、追悼番組も各局でありました。
 それを聴きながら、指揮者によってこんなにも違ってきこえるのかと改めて思いました。それとそれらを聴きながら、どこかで聴いたことがあると思い出すことも多く、この本は、今年の1月5日に発行され、米沢市立図書館に入ったのが1月18日なので、さっそく借りてきました。
 第2章の「家電とクラシック音楽」のところに出てくるノーリツ社のお湯張り完了を知らせる「人形の夢と目覚め」のメロディの音源製作についての話しで、「当初は他の家電製品の大部分がそうであるように、楽譜をパソコンに読み込ませて、電子音でメロデイを作っていたとのことですが、改良の際には人の演奏をベースにした音源に変更されたそうです。いったんシンセサイザーの生演奏をコンピユーターに保存し、その演奏音を鉄琴の音に変換したものが現在製品から聴こぇている音楽です。これについて、開発者は「人が弾くものをそのままデータにしたほうが耳馴染みがよかった」からだと説明しています。」ということです。
 そういえば、アンドロイドの話す言葉がどこかぎこちないのと同じではないでしょうが、それに近いものがあるのではないかと思います。だから、楽譜があったとしても、指揮者によって演奏されたものが違ってくるというのもわかります。
 自分の経験からいっても、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のベートーヴェンの交響曲でも、小澤征爾氏とヘルベルト・フォン・カラヤン氏が指揮したのとは違います。むしろ、だから聴く楽しみがあると思います。
 それとこの本には、音楽家のさまざまなエピソードもふんだんに取りあげられていて、とても興味深く読むことができました。たとえば、ジョアキーノ・ロッシーニは、オペラ〈ウイリアム・テル〉序曲・第4部「スイス軍隊の行進」が有名ですが、彼は37歳で作曲をしなくなり、美食家としてサロンを運営したそうです。そして、「作曲をやめる際にも、「トリュフを探す豚を飼育したいから」と周囲に言っていたのだとか。その食に対する好奇心と熱心さが垣問見えます。こうした美食サロン活動ができるのも、 ロッシーニ自身が、作った楽曲やオペラが演奏されるたびに自分に著作権の使用料が入るように興行主と交渉し、楽譜に対しても作家に印税が入るようにビジネス上も強かに生きていたからでもあります。」とあり、音楽家も一生それに従事した人だけではなく、いろいろな生き方があったと知りました。
 それと、作曲した交響曲などにも、さまざまなエピソードがあり、グスタフ・マーラーは自分の恋人アルマに交響曲第5番を贈っているそうで、「アルマと出会って激しい恋が芽生え、その想いによ って作りかけていた交響曲に楽章を増やしたのです。作曲家として、また指揮者、ウィーン宮廷歌劇場の総監督として、クラシック音楽界の頂点に若臨する40歳を越えたマーラーは、ある日社交界の花であった20歳を過ぎたばかりの美しいアルマの虜になります。出会ってすぐ、熱く思いを伝えてくるマーラーをアルマも受け入れます。マーラーはその時制作中だった交響曲第5番に、アルマのため に作ったこのアダージェットを組み込んだのです。」とあり、さすが音楽家は情熱的だと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第8章「アレンジされたクラシック音楽」に書いてあったものです。
 これが第8章の最後の部分ですから、おそらく著者が言いたかったことをまとめたのではないかと思いました。たしかに、この本を読んでみると、順風満帆で人生を生きた音楽家より、多くの苦悩を抱えながら作曲した方のほうが多いようです。自分が経験したからこそ、それを表現できるわけで、生きるための大きな支えになることは間違いなさそうです。
 それと、この本は、これって聞いたことがないと思うような曲でも、すぐ聞けるようにQRコードが付いていて、スマホですぐに聞くことができます。だから、聞いたことがないと思った曲でも、意外と聞いていたことがあったりして、とても便利な仕掛けだと思いました。

(2024.3.6)

書名著者発行所発行日ISBN
生活はクラシック音楽でできている渋谷ゆう子笠間書院2024年1月5日9784305710031

☆ Extract passages ☆

 クラシック音楽の作曲家はそれぞれに人生の苦悩を抱えながら作由してきました。その辛さを超えた先に生まれた音楽は時を超え、多くの人たちに愛されて今に残っています。そのメロディはいつまでも私たちの心に温かく残っています。そしてそれが音楽のジャンルを超え形を変えても、本質は決して変わらずに、今も人々にそっと寄り添い、勇気を与え、そして心を静かに動かしていく力を持っているのです。
 生活の中にそっと馴染んでいるクラシック音楽に気がつけば、きっとその曲の美しさ、変わらない人間の想いにまたひとつ心が豊かになることでしょう。クラシック音楽は遠い存在で、自分には関係がないと思っていた人でも、実はこうして数多くの曲に囲まれているのです。
(渋谷ゆう子 著『生活はクラシック音楽でできている』より)




No.2280『ブッダという男』

 この本の題名の「ブッダという男」って、たしかにブッダは男かもしれないが、ちょっと失礼な言い方ではないかと思いました。私は仏陀とかお釈迦さまとかいいますが、何かほかの意図でもあるのかと考えました。副題は「初期仏典を読みとく」ですから、尊師と呼ばれる前の話しかもしれないと思い、読むことにしました。
 著者のプロフィールをみると、「2013年、佛教大学大学院博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などをつとめる。著書に、『阿毘達磨仏教における業論の研究――説一切有部と上座部を中心に』『上座部仏教における聖典論の研究』(ともに大蔵出版)がある。」とあり、生年月日はないので詳しくはわからないのですが、若い研究者のようです。
 そして、神話のブッダではなく、歴史のブッダを追い求めるとして、「ブッダは平和主義者でもなければ万人の平等を唱えたわけでもなかった」として、これらは人々の期待が生んだ神話に過ぎないというとかもしれないとして初期仏典を読みといていきます。たしかにそれは大切なことですが、やはり「男」という言葉に最後まで引っかかったというのが本音です。
 たとえば、今の現実世界でも起こっている戦争についても、この本には、「初期仏典において、戦争の無益さが説かれることはあっても、戦争そのものが否定されることはない。起こるべき定めの戦争は避けられないものとして理解されている。この背景には、インドにおいて、@武士階級が征服戦争を起こすことは彼らに課せられた神聖な生き方であると認められていたこと、A業報輪廻の世界において戦争の惨禍は避けられないものと信じられていたこと、の二点があると考えられる。以上の記述を素直に受け取るならば、ブッダが、現代的な意味で「暴力や戦争を否定した」わけではないことは明白である。」とあります。
 たしかに、それは文字通りの解釈かもしれませんが、戦争の無益さを説くということが大切で、もし、今の時代にお釈迦さまが生きていれば、必ず平和の大切さや全ての人が平等だと説いたと思います。
 この本を読んで、だいぶ昔に読んだことを思い出しましたが、それは「紀元前四世紀末ごろにインドヘ派遣されたギリシャ人外交官メガステネースが残した断片から確認できる。つまり、当時のインドは厳格な階級社会であり、異なる階級間での結婚はもちろん、生まれ持った階級(仕事)を変更することも許されていないが、どんな階級に生まれても「哲学者」になることはできたという。ここでの「哲学者」とは、仏教ゃジャイナ教などの沙門宗教に出家した修行者が合意されている。また、仏教教団内の序列は、出家前の階級に基づくのではなく、出家してからの年月に応じて決まる。よって、出家1年目の元司祭よりも、出家10年目の元隷民のほうが上座となる。」と書いてありました。
 それは今でも同じで、先に出家した僧はあくまでも先輩で、座るときも上臈年寄り順です。この上臈というのは、昔の江戸時代の幕府や大名に仕える奥女中の呼び名からきているそうですが、最上位のものを「大上臈」というそうです。
 つまり、世俗社会ではカースト制度による差別があったとしても、出家教団内部では「生まれ」による差別はなかったということになります。インドでは、1947年にイギリスからの独立し、1950年に制定した憲法には、カーストに基づく差別の禁止と、不可触民制の廃止が規定されています。しかしながら、今現在もカースト制が習慣化され、いろいろなところに残っています。それを2500年前の釈迦の時代に出家集団だけでもそれがなかったというのはすごいことだと思います。
 下に抜き書きしたのは、終章「ブッダという男」に書いてあったものです。
 このなかの、「煩悩こそが業を活性化させる燃料になっている」という言葉に、なるほどと思いました。つまりは、この後に出てくる「瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、 一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は国果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる目己原理に相当するものはない)と認識すること」、これが悟りの知恵であり、これによって「煩悩が断たれて輪廻が終極する」のだといいます。
 それでも、最後の最後まで、「男」という言葉が気になりました。

(2024.3.2)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダという男(ちくま新書)清水俊史筑摩書房2023年12月10日9784480075949

☆ Extract passages ☆

 ブッダは、個体存在を分析しそれが五要素(五蘊)から成り立つこと、しかもその要素すべてが無常であり苦であるから、バラモン教やジャイナ教が想定するよぅな恒常不変の自己原理など存在しないことを主張した。これが無我説である。その無我なる個体存在は、原因と結果の連鎖によって過去から未来に生死輪廻し続けているのであり、この連鎖が続く根本的原因は無知である。したがって、悟りの知恵によって無知を打ち払い、すべての煩悩を断てば、輪廻も終極する。ブッダは、輪廻を引き起こす主要因が業であることを認めながらも、煩悩こそが業を活性化させる燃料になっていることを突き止めた。
(清水俊史 著『ブッダという男』より)




No.2279『文化財の未来図』

 副題が「――〈ものつくり文化〉をつなぐ」で、おもしろそうだと思いました。
 私も学生時代から古い陶磁器に魅せられ、その縁から茶道を習い始め、現在も毎日お茶を点てて飲んでいます。もちろん、茶碗は、ほぼ毎日あるだけのものでとっかえひっかえしながら使っています。やはり、茶碗はお茶を点て、飲んでみると、その口当りから伝わってくるものや手に取ってみたときの肌触りなどが感じられ、とても楽しみです。
 その流れから考えると、茶碗も情報の基本である5W1Hが大切で、どのような材料で、どのように、いつ、どこで、誰が、何のために、の情報が必要です。さらに、茶碗の場合は故事来歴が大切で、たとえば利休や織部が所持していたとか、秀吉があるお茶会で使ったとなれば、それだけで価値が上がります。また、その箱にいろいろな情報、つまり箱書きがあればこれも同じです。
 だから、この本では「文化財は、生まれた時の制作に関わる「ものつくり」の歴史と、文化財がその後に生きてきた歴史の双方の情報を秘めていることになる。文化財の価値は、この両者の相関によって決まるといっていいだろう。オリジナルな「ものつくり」の観点からは特別な存在でなくても、それがどう利用されてきたか、例えば、歴史的な人物の遺愛品であったのかというようなことから、特別な付加価値が付いていることもよくあることである。文化財が秘めているオリジナル情報と経年情報の双方は、文化財が「もの」としての耐用年数を超えて、その存在を「保存」し、「活用」していくために維持しなければいけないのである。」と書いてあり、お茶会などの茶席では、その来歴を伺うと、その価値が何倍にも上がるような気がします。
 もちろん、気がするだけではなく、それも文化財のひとつの価値だと思います。
 この本をどのように書いたのかという話しが「あとがき」にあり、「本書は、「文化財」という言葉へのこだわりから始まり、文化財保護の歴史を探るとともに、修理の重要性を説き、複製の効用と可能性にも言及した。そして、私が、特に拘っているのが、未指定文化財の将来であることも強調した。文化財保護は「保存」と「活用」が両輪であるが、日本の未来を考えると、水、そして空気と同様にその保全を必要とするのが文化財であると強い思いに駆られるのである。文化財は日本人の「心のインフラ」である。」とあり、インフラとはこの本の初めに、「交通、通信、電力、上下水道、公共施設など、社会や産業の基盤」であることは間違いないし、能登半島地震のニュースを見ていても、先ずは生活のインフラをどうにかしないことには再建などできません。つまり一番大切なことですが、それと同じように文化財も「心のインフラ」だという主張はなるほどと思いました。
 もちろん、生活のためのインフラの整備が第一に優先すべきですが、心のインフラも忘れてはいけないと思います。
 下に抜き書きしたのは、第2章『「文化財保護法」と日本文化』の『「災害頻発時代の文化財』に書いてあったものです。
 たしかに、今年の1月1日に起きた能登半島地震もそうですし、世界に目を向けてもウクライナでの戦争も同じです。そういえば、第二次世界大戦下で日本の奈良や京都が大きな戦争被害を受けなかったと聞いたことがありますが、それだってもっと戦争が長引けばどうなったかわかりません。
 今まさに災害がどこで起こってもおかしくないような状況なので、早めに未来に向けた取り組みをしなければならないと感じました。

(2024.2.28)

書名著者発行所発行日ISBN
文化財の未来図(岩波新書)村上 隆岩波書店2023年12月20日9784004319986

☆ Extract passages ☆

 建造物や、さまざまな美術・工芸品としての文化財はもとより、生活雑器に至るまで、日常の営みの中で劣化して自然に消えていくことは当然であるが、必然性が無いのに突然消失してしまう要因としてまず挙げられるのが、地震、風水害などの自然災害である。
 さらに、自然災害だけではなく、人為的な災害も文化財消失の大きな原因である。過去の歴史を振り返ると、戦争による被害は枚挙にいとまがない。奈良東大寺の大仏殿は戦火で二度も焼失し、現在の京都の寺社の多くも応仁の乱などで焼失後、再建されたものである。また、第二次世界大戦末期には日本列島の多くの都市でアメリカ軍による空爆を受け、廃城令を乗り越えて生き残った名古屋城、広島城などの城郭や、二〇六棟にのぼる国宝建造物が焼失した。戦争被害ではないが、鹿苑寺金閣が放火によって消失したことも人為的な災害の事例である。
 戦争ではない人為的な文化財破壊行為としてとりあげなくてはいけないのが、明治維新に伴う「廃仏毀釈」のムーブメントである。
(村上 隆 著『文化財の未来図』より)




No.2278『免疫学夜話』

 前書きは「遺伝子が語る」で、副題が「事故を攻撃する体はなぜ生まれたか?」です。
 今年の初めまで猛威を振るっていた新型コロナウイルス感染症のこともあり、興味を持って読みましたが、予想以上におもしろいことが書いてあり、あっという間に読み、それから何度か引き返しながらも読みました。最近では珍しく、抜き書きカードも10枚近くなりました。
 著者は、自己免疫疾患を専門とする医師で、ではなぜ自己免疫が起こるとやっかいなのかについて、「感染微生物に対して免疫が攻撃するときは、その微生物がいなくなれば戦いは終わります。ところが、「自己」を相手に免疫が戦いを始めた場合は、その戦いは「自己」の臓器を破壊しつくすまで終わらない、という点です。そしてその結果、生体にとって大切な臓器の機能が失われてしまうのです。例えば1型糖尿病では、膵臓が自己免疫によって攻撃、破壊されるため、膵臓が分泌しているインスリンという物質を全く作れなくなって、糖尿病になってしまいます。そのため、この病気になった人は一生、インスリンを打ち続けなければなりません。あるいは関節リウマチでは、関節が免疫の主たる攻撃対象になって壊されますので、患者さんの身体機能が大きく障害されます。」と書いてあり、知り合いに糖尿病なのでインスリン注射を打っている方がいますが、これで納得です。つまり一生し続けなければならないということは、大変なことです。
 日本に初めて天然痘が入ったときの話しは、とてもインパクトがあります。この前の新型コロナウイルス感染症のときもそうでしたが、世界中が大きなパニックに襲われ、今までの生活が一変してしまいました。孫たちも学校に行けなくなり、不要不急の外出はできず、買いもの難民も生まれました。何もかも初めての体験でした。
 しかし、同じようなことが昔にもあったわけで、津波と同じように何百年も経てば忘れてしまいます。そこで、これを抜き書きしますと、「日本でも、奈良時代の天平9年(西暦737年)に天然痘が初めて入ってきたときは、当時の日本の人口の約30%に当たる100万〜150万人が死亡する大惨事となりました。続日本紀の天平9年是年条には、「是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて、 夏を経て秋に渉る。公卿以下、天下の百姓、相継ぎて没死ぬること、勝げて計うべからず。近き代より以来、未だこれ有らざる也」と書かれています。当時権力の絶頂期にあった藤原四兄弟もこの天然痘で死にました。この未曾有の大疫禍を受け、聖武天皇が仏教の力でこれを退散させることを願い、巨大な毘盧遮那仏の建立を詔勅したことはよく知られています。」  おそらく、今までこのような未曾有の大疫禍は何度か繰り返されてきたと思いますが、徳川時代の初期にはあまりなかったそうです。考えて見れば、鎖国をしていたこともあり、海外との交流はほとんどなく、新型コロナウイルス感染症の流れをみていても、外国から入ってくることが多いので、今のように公共交通機関が世界中に張り巡らされていればあっという間にまん延してしまいます。
 だからといって、今さら、海外にも行かず、なるべく動かないというのも現実的ではありません。だとすれば、この本に書いてあるような知識を身につけて、気をつけなければならないのですが、ある意味、いつ誰が自己免疫疾患になるか、あるいはガンになるかはわかりません。だからといって、ときどき人間ドックに行って調べるとしても、むしろ不安になったりします。
 このような病気に関しては、なってから考えるという選択肢もあってもいいのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第7章「清潔」という病に書いてあったものです。
 そういえば、私の小さいころには寄生虫を体外に出すということで虫下しを飲ませられ、太陽が黄色く見えるなどと話していましたし、青洟を垂らして袖口をベタベタにしている子どももいました。今では考えられないような環境でしたが、笹で作った鉄砲に杉の実をなめてから詰め込み、パチッとはじいては楽しんでいました。
 この本を読んで、だから私たちの時代には花粉症がなかったのだと納得しました。
 下の1989年のベルリンの壁の話しは、すごく納得できました。そして、今の子どもたちに、私たちが育ったときのような生活をしてほしいとは思いませんが、あまり清潔にこだわり過ぎないことも大切だと話したいと思います。

(2024.2.25)

書名著者発行所発行日ISBN
免疫学夜話橋本 求晶文社2023年12月20日9784794973993

☆ Extract passages ☆

 1989年のベルリンの壁の崩壊によっても、興味深いことがわかりました。壁の崩壊前、西ドイツは東ドイツよりも経済状況がよく、西ドイツ市民は東ドイツ市民に比べて衛生的な環境に住んでいました。また、東ドイツでは石炭などによる大気汚染も西ドイツよりもはるかにひどい状態だったのです。ところが、東ドイツと西ドイツの住民を比べると、西ドイツに住んでいる人たちのほうが、気管支喘息などのアレルギー疾患の発症が多かったのです。
 そして、ベルリンの壁の崩壊の翌年に東西ドイツが統一され、東ドイツの衛生環境も大幅に改善しました。ところが、この壁の崩壊後に、東ドイツでアトピー性皮膚炎や気管支喘息などのアンルギー疾患が多発したのです。そしてアレルギーの発症は、その人たちが生まれた年によって大きな違いがありました。壁が崩壊したときに、すでに3歳以上であった人たちの間ではアレルギーは増加せず、それ以降に東ドイツで生まれた人たちの間で、アレルギーが多発していたのです。
(橋本 求 著『免疫学夜話』より)




No.2277『ブッダに学ぶ 老いと死』

 著者の本は何冊かは読んでいますが、この本は昨年末に出版されたので、92歳になるそうです。
 だとすれば、宗教学者としてよりは、今まで生きてきてこれから迎える「老いと死」の話しになるかもしれないと思い、読むことにしました。お釈迦さまもそうですが、あの当時に80歳まで生きるということは、今の100歳より何倍もすごいことだと思います。
 しかも、最近は西洋の「ゆりかごから墓場まで」という福祉施策が拡がり、たしかにいいこともありますが、老人も赤ちゃんと同じように公的に面倒を見なければならない存在になってしまいました。しかし、東洋の考え方としては、敬老思想があります。これは介護しなければならないというよりは、いわば落語の世界でいえば、ご隠居さんです。落語を聴くと、熊さんや八っつあんにいろいろ教えてやったり、夫婦喧嘩の仲裁をしたり、町内の世話役をしていました。まさに、いなければならない存在だったわけです。
 特に日本の翁崇拝は、著者も書いてあるように「たとえば、日本の仏教の中にはお浄土は山の中にあるという山中浄土観がありますが、それはこの伝統に列するものと言えます。死んだ人の魂は山に登る。それが供養を受けると、やがて氏神になる、山の神になる。いわゆる山岳信仰です。要するに日本では、伝統的に神は人間がなるものなんですね。翁は人が年を取った姿だから、人と同じように神さまも無数に存在するわけです。これが日本の宗教的土壌です。さて、人の一生の中で一番死に近い、つまり神に近いライフステージはどこか。それは老人の段階です。年を取り、老いていくことはそれだけ神に近づいている。老人であればあるほど神への最短距離にある。これが日本の翁崇拝の基本です。」と書いています。
 そういえば、だいぶ昔に読んだ本に、熱帯のある部族人々は、老人が亡くなると高い山に葬るそうですが、娘たちはその山に赤い花を摘みに行くと身ごもるそうです。おそらく、亡くなられた人がまた娘さんの子となって再生するという思想ではないかと思ったことがありますが、いかにもアジア的です。こういう輪廻転生もあるのかなと思いました。
 この本でおもしろいと思ったのは、インドのヒンドゥー教の考え方で、四住期というのがあります。それは第1が「学生期」で学びの期間、第2が「家住期」で家に住み仕事をして家庭を営み活動する期間です。第3は「林住期」で家督を譲り家を出て自由な生活を送る期間です。そして第4が「遊行期」で死ぬための準備をします。とくにこの「林住期」的な生き方として、中国では仙人などにそれに近い生き方がありますが、日本の場合は、「林住期という人生観の特徴は、世俗的な生き方と聖的な生き方が入り混じっているところがあることです。欲望の世俗的世界に徹底するわけでもなく、禁欲の聖的世界に徹底するわけでもない。中途半端に俗と聖を出たり入ったり、行ったり来たりする。その意味では、自由気ままで遊戯的な生き方です。この点、日本には古来、「半僧半俗」「非僧非俗」という仏教者たちの生き方があります。それは平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』に「遊びをせんとや生まれけむ」とあるような人生観です。これが日本に継承されている林住期的生き方です。」と書いています。
 私もそのような生き方ができればと思います。あまりにも禁欲の世界に徹底するのでもなく、だからといって自分が欲するままに生きるというのでもなく、いわば中道を歩くようなものです。そして老いながらも、死を迎えるまではそのように生きたいと願っています。
 そういえば、一世を風靡した100歳のきんさんは、息子さんの成田幸男氏によると、「きんさんの大往生は2000年、107歳だった。自宅でいったん起床したが「眠てえで、もうちょっと寝てるわあ」と言って再び目を閉じた。30分後、そのまま息を引き取った。」そうで、まさにこれこそ生ききったといえるのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第1章「ブッダの教えを体感する」の最初に書いてあったものです。
 実は、私もなんどかインドの仏跡を歩いたことがあり、この本を読みながらそれらを思い出しましたが、今は簡単にクルまで移動できますが、お釈迦さまはほとんど歩いて移動していました。すると、歩きながら考えたりできます。
 そういえば、私自身も山に登ったり、野原を散歩したりすると、いろいろと考えます。つまり、歩くということは、考えることだとあらためて思いました。

(2024.2.21)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダに学ぶ 老いと死(朝日新書)山折哲雄朝日新聞出版2023年12月30日9784022952455

☆ Extract passages ☆

 旅の道中では、インド古来のバラモン教(ヒンドゥー教)の経典をはじめ、さまざまな書物を読んでいたことでしょう。何に向かって生きたらよいのかというような人生問題について、先人たちが何を主張し、何を考えていたのか。勉強する中で一つひとつ吟味しながら自分の考えを深めていったはずです。
 歩いては読み、読んでは考え、考えてはまた歩き出す。釈迦は家出後、そんな生活をずっと繰り返していたと想像できます。
 私が特に注日するのは、私たち現代人と異なり、釈迦にとって歩くことが日常生活の上で重要な役割を占めていたという点です。
(山折哲雄 著『ブッダに学ぶ 老いと死』より)




No.2276『井上ひさしの読書眼鏡』

 この本の最初に、「その日に届いた書物を、書庫から仕事部屋へ運んで、「すぐ読む」「そのうちに読む」「いつか読む」の三つの山に分ける。読み終えた書物は、これもまた、「机の近くに置く」「後日のために書架に並べる」「郷里の図書館、遅筆堂文庫に送る」の三種に分ける。これがわたしのもとへ届いた書物の、おおよその動きです。」と書いてあり、私はその遅筆堂文庫に泊まるという企画があり、井上ひさしの作品が並んでいるスペースの下に寝袋を広げて寝たことがあります。
 もちろん、夜遅くまで手当たり次第に持って来て読み、朝もまだ明けきらない時間が図書館のなかを歩き回ったことを思い出します。過去に2回、同じような企画があり、2回とも参加しました。
 これほどの本に囲まれて眠るということは至福の時間で、まさに本の海にうたた寝をしてしまったような感覚でした。もし、これからもこのような企画があれば、ぜひ参加してみたいと思っています。
 この『井上ひさしの読書眼鏡』は、解説の松山巌氏によると、読売新聞の書評欄に2001年から2004年にかけ断続的に書いたものを集めたものだそうです。ですから、今では手に入らない本もありますが、これは読んでみたいと思う本もあり、さっさく注文しました。
 そのなかで、経済学者の金子勝氏と社会学者の大澤真幸氏の『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)に書いてあるという「〈沖縄県が基地を引き受ける代わりに公共事業の増分を求める思考法は、危険=リスクの発生源である原子力発電所を引き受ける代わりに、補助金の増額を受けるケースに似ている。要するに、危険を引き受ける代わりに多くの公共事業を割り当ててもらうという発想である。……問題は、「危険物」を引き受ける代わりに、多くの公共事業と補助金を受けるという「論理」は、永久にその「危険物」を必要とするようになるという点にある。〉」と書いてあり、このときに思い出したのが、ある原発近くのお年寄りがテレビの取材で聞かれて、「このお弁当が補助金で100円で買えるんです」と話していたことです。
 もちろん、どこの弁当屋さんに行っても買えるような弁当ではなく、しかも各家に配達してくれるというから、ほとんどが補助金暮らしです。
 人は、見たくないものは見たくないから、自分に都合のよいところだけを見るようになります。だから、将来に禍根を残すということであっても、なるべみ触れないようにしたがるのです。
 それと似たようなことですが、「軍事裁判に三つの意義」というところに、アメリカの歴史家、ジョゼフ・パーシコの『ニュルンベルク軍事裁判』(原書房)があり、このなかにヘルマン・ゲーリング(航空相・国家元帥)が、つぎのような話しをしたといいます。「〈もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。 一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるように仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと場り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ。〉」と書いてありました。
 まさに、今現在も行われている戦争も、まったく同じような図式です。今でも一般国民は絶対に戦争を望んではいません。それでもなぜ戦争が起こるのか、その思考法は今も昔もまったく同じような気がしました。
 下に抜き書きしたのは、「未来見据える知者の英知」に書いてあったものです。
 その根拠となる本は、山崎正和氏の『二十一世紀の遠景』で、それを読むとたんなる物知りか英知を創り出すことのできる真の知者かがわかるといいます。そして、そのような人は思いのほか少ないと井上ひさしはがっかりしてしまいます。
 たしかに、その通りです。昨年、NHKの『らんまん』で牧野富太郎博士の人生がモデルになったのですが、彼は東大では助手でした。つまり、研究者というよりは、昔の本草学者のような植物をたくさん知っている方です。そのとき、知り合いの植物研究者に彼との違いを聞いたときに、今の植物の研究は、ある植物に着目して、それを徹底的に研究しその生態系や生き方を調べ、全容解明を目指すということでした。
 この話しを聞き、「未来見据える知者の英知」とクロス部分があり、なんとなく納得できました。

(2024.2.19)

書名著者発行所発行日ISBN
井上ひさしの読書眼鏡(中公文庫)井上ひさし中央公論新社2015年10月25日9784122061804

☆ Extract passages ☆

自分の知っていること、学んだこと、考えたことを、揉んで叩いて鍛えて編集し直して、もう一つも二つも上の「英知」を創り出すことのできる真の知者が、思いのほか少ないのでがっかりしてしまうのです。
(井上ひさし 著『井上ひさしの読書眼鏡』より)




No.2275『庭仕事の神髄』

 2023年12月16日に朝日新聞の書評に載っていたり、その前にもタイムズ紙に「今年読むべき1冊」として紹介されたり、何かと話題になった本です。
 しかし、実際に手に取ってみるとずっしりと重く、368ページもあり、原書柱や引用文献も30ページあり、よほど根気よく読まないと続かないと思いました。以前なら、そんなことを考えずに読み続けられたのですが、最近はそうもいかず、つい、諦めてしまいます。
 ところが、この副題が「老・病・トラウマ・孤独を癒やす庭」で、私自身もだんだんと直面する話題なので、節分が終わってから、腰を落ち着けて読むことにしました。
 イメージとしては、私自身も植物を育てたり、土に触れたりしていると楽しいし、自然と触れ合っているという気持ちにもなります。著者は、イギリスの精神科医で心理療法士です。また夫は世界的に有名なガーデン・デザイナーだそうで、庭仕事に人間の深層的な癒やしがあるのではないかと思いました。
 第1章「始まり」のところで、「庭はしっかり守られた物理的な空間であり、精神的な空間のありかを教えてくれる。そして静寂の中で自分自身の考えに耳を澄ませることができる。手を使う作業に没頭すればするほど、自分の内面で自由に感情をより分け、それを処理することができるのだ。最近私は、心を静め、心にのしかかる圧力から自由になるために、庭仕事に向かう。どういうわけか、バケツが雑草でいっぱいになるにつれて、私の頭の中でジャングルのようにからみ合いせめぎ合っていた考えはすっきりと片付いていくのだ。眠っていた考えが浮かび上がってきたり、ほとんど形を取ることのなかった思いが、結合し合って、予想に反して具体化することもある。このような時、ありとあらゆる身体的な活動と並んで、私は自分自身の心のガーデニングをしているように感じる。」と書いてあり、「心のガーデニング」という言葉はいいなあ、と思いました。
 私の経験からも、修行から帰ってきてから小町山自然遊歩道を作り始めましたが、時間を見つけては外に出ていました。今のようにスマホもなかったので、何度山まで呼びに来られたかわかりません。それでも冬の夕方に誰も来なくなってから、林業用の一本はしごで杉の木に上り、下枝を落としましたが、そのお陰もあって、木々のすき間もでき、下草も元気に育っています。やはり、今も元気に育っているのを見ると、うれしくなります。
 この本のなかで、特に印象的だったのは、戦争で深い傷を負ったり、人間性を破壊するような衝撃を受けた軍人たちの話しです。今も世界のどこかで戦争が行われていますが、どこでも殺戮と破壊の連鎖が起きています。戦争の救護所に所属していた司祭ジョン・スタンホープ・ウォーカーは、「これほどまで破壊された人間性を見つめながら働くことで、ウォーカーは断続的にひどい無力感に襲われた。回復期の患者のほんのわずかしか彼の礼拝に出席しようとせず落胆した。ウォーカーの説教は傷病兵たちの興味をひかなかったが、彼のつくった庭には関心が集まった。七月半ば、彼はこう書いている。「庭は花々で本当に輝く明るさだ。エンドウマメの最初の一列はもう食べられる。血まみれの兵士たちが皆、大きな豆の鞘を大いに褒めてくれる。緑のトマトは形になってきたし、それに小さなカボチャ、ニンジンはとてもいいものができた」。彼の庭への称賛は他の宿舎からも届いた。」とあります。
 いかに戦争というのは人間性に深刻なダメージを与えることか、でもそれを癒やすのに自然や植物たちの新鮮な輝きが大切で、しかもそれが口に入る野菜たちだと直感的に興味を引きます。人間、いかに植物たちの存在が大切かがわかるエピソードです。
 下に抜き書きしたのは、第2章「病院からの眺め」に書いてあったものです。
 そういえば、だいぶ昔に、心臓病の患者の手術に際し、1日も早く治るように祈願をするという実験を聴いたことがありますが、この場合も同じように手術から回復するときに花や緑の植物たちが手助けになるという話しです。
 これはカンザス大学の研究チームが最近行った研究結果ですから、それなりの信頼性はありますし、私も長年植物たちと接してみて、そうだと思いました。

(2024.2.16)

書名著者発行所発行日ISBN
庭仕事の神髄スー・スチュアート・スミス 著、和田佐規子 訳築地書館2021年11月10日9784806716266

☆ Extract passages ☆

患者は全員テレビを持っていて、半分の患者はさらにベッドの近くに花の咲いている植物があった。合計で90人の患者が虫垂を切除されたあと、ランダムにどちらかのタイプの病室に割り当てられた。手術からの回復期に、花が部屋にある患者のほうが、機嫌がよく、不安も少ないし、血圧も、心拍数の測定値も他方のグループよりも低いと報告された。また、鎮痛剤の投与も明らかに少なかった。この調査から、花の咲いている植物は「手術からの回復期の患者のための廉価で効果的な薬」であると結論づけられた。他にも、実験参加者たちは植物の存在を、病院はいたわってくれる場所だという印なのだと解釈していたという報告もあった。言い換えると、緑の植物や花の存在は信頼感や安心感を強めてくれるということなのだ。
(スー・スチュアート・スミス 著『庭仕事の神髄』より)




No.2274『ぼくは猟師になった』

 忘れもしないのですが、2023年11月13日に会議があって田沢に行くので中山峠を通ろうとしていたのですが、その手前の簗沢の作業場で、でクマの解体作業をしていました。もちろん初めて見たので、つい声を掛けると、写真を撮ってもいいということでした。そこで、何枚もスマホで撮りましたが、帰り際にその解体したばかりのクマのヒレ肉を持っていって食べてみろといわれ、だいぶ断ったのですが、それでもナイロン袋に入れて手渡されました。
 そういえば、この本でも、「野生動物というだけで、イノシシやシカの肉が「臭い」「硬い」と思われ、敬遠されるのは残念なことだと思います。それぞれの動物の肉には、それぞれの特徴があって味も異るのが当然です。こういった誤解をなくすには、たくさんの人においしい野生動物の肉を食べてもらうのが一番です。そのためにも、狩猟で獲った肉の処理施設や受け入れ態勢の整備が望まれます。そうやって多くの人がその肉のおいしさに気づき需要が増えれば、猟師もよろこんでより多くの獲物を獲るでしょう。その結果増えすぎた野生動物による農業被害なども減り、すべてがうまく回っていくはずです。」と書いてあり、食べたこともないのに敬遠ばかりしていては誤解も生じます。
 この本には、主にイノシシやシカなどの話しは出てきますが、クマは著者のテリトリーにはあまりいないのか、まったく出てきません。昨年の秋には、野生のクマが人里に下りてきて、多くの人たちがケガをしたり命を落としたりしたので、ある程度の頭数制限や人間はこわいということを教えることも必要ではないかと思います。
 この本は、いろいろな野生動物たちの話しが出てきて、とてもおもしろかったのですが、スズメを無双網で獲るときにおとりのスズメやカラスの剥製を使うとは知りませんでした。「カラスは賢い鳥のため、スズメはカラスがいる場所を本能的に安全な場所だと察知するらしく、カラスと一緒にいることが多いです。その習性を利用します。ただ、カラスのすぐそばは怖がって近寄らないので、設置場所には注意が必要です。スズメが下りて欲しくない藪などが近くにあれば、そこに設置することもあります。風向きなどでカラスを置く向きなども気をつけないとスズメに不自然だと思われてしまいます。カラスは風上を向いていなくてはなりません。」と書いてあり、やはりカラスは賢いとスズメたちも思っていることを知り、鳥の世界にも弱肉強食だけでない世界もあると思いました。
 そういえば、小学生のころ、ケガをしたカラスを見つけ、駐在所に届けたら、しばらく手当てをしたみたらといわれ、飼ったことがあります。私が学校から帰ってくるとわかるらしく、ガァーガァーと鳴きました。傷も治り、戸を開けっぱなしにしていてもなかなか外に出ないので、そのままにして学校へ行くと、いつの間にかいなくなりました。しかし、帰ってくると、近くの木に止まっていたカラスが何日か鳴いていましたが、いつのまにかそれもなくなりちょっと寂しかったことを思い出しました。もちろん、カラスの識別はできないのですが、おそらく、その傷の手当てをしたカラスに違いないと思っていました。
 下に抜き書きしたのは、「あとがき」に書いてあったものです。
 そういえば、魚を釣っては逃がすという釣りがあるそうですが、別な釣り人は釣った魚を調理して食べなければダメだともいいます。これはとても難しい問題ですが、私は人間というのは動物でも魚でも野菜でも、その命をいただいて生きていますから、きれいことだけではすまされないと思っています。だから、食事のたびごとに「いただきます」と言うわけだし、著者のいうこともよくわかります。
 私は、近くの農家の方たちが野生のサルやイノシシなどに農作物を荒らされていることを知っていますから、野生動物が増えすぎると困ることもわかります。しかも最近はそれら動物たちが人をおそれず、かえって襲ってくることもあり、子どもたちの登下校も不安です。この本を読んで、若い人たちにも猟師になる人が少しでも増えてくれればいいのではと思いました。

(2024.2.10)

書名著者発行所発行日ISBN
ぼくは猟師になった(新潮文庫)千松信也新潮社2012年12月1日9784101368412

☆ Extract passages ☆

 七度目の猟期を迎えて思ったのは、やはり狩猟というのは非常に原始的なレベルでの動物との対峙であるが故に、自分自身の存在自体が常に問われる行為であるということです。地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに関して自分に責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、そのひとつひとつの命の大切さもわかるのが猟師だと思います。
(千松信也 著『ぼくは猟師になった』より)




No.2273『歴史は予言する』

 この本は、もともと週刊新潮に連載された「夏裘冬扇」(2019年5月2日号から2023年5月4日号)に連載されたものだそうです。
 この「夏裘冬扇」というのは、「はじめに」のところに解説があり、これは万葉集にある柿本人麻呂の「とこしへに夏冬行けや裘(かわごろも)扇放たぬ山に住む人」からとったそうです。そして「仙人は夏にも冬にも獣の厚い皮のコートと扇子の両方を持っている。そういう意味だろう。夏にも暖房、冬にも冷房の用意を欠かさない。さすが仙人!浮世離れした行動だ。調子っ外れもなんのその。斜め目線で妄言を述べるコラムの題名に相応しい。だが歌のままでは長い。そこで漢字だけに縮めて「夏裘冬扇」はどうだろう。」と書いています。
 ちょっとテレもあるのでしょうが、令和という年号も出典は万葉集だから、という話しもおもしろいと思います。
 また、この本には、意外と知られていることでも、その由来は聞かれるとわからないことが多いのですが、たとえば、日本サッカー協会のシンボルマークの八咫烏もそうです。この本には、「烏のキックカは並人抵でない。しかも八咫烏となると神話に登場するこの世ならぬ烏だ。脚が3本もある。きっと蹴転がしの天才だ。そのうえ八咫烏は導きの神でもある。日向の国から大和の国への神武天皇の東征を成功させるべく、高天原から遣わされた烏なのだ。蹴るだけではない。ゴールヘの道筋も機敏に見つけられる。これぞ攻撃力の権化。」とあり、八咫烏のことは知っていても、ゴールへの道筋も機敏に見つけるというのは、初耳でした。
 たしかに、サッカーはボールを蹴るだけではだめで、それをネットに押し込まなければ得点になりません。またおもしろいと思ったのは、サッカー上達のための祈願所が京都の白峯神官で、日本サッカー協会もボールを奉納しているそうです。
 もともと、この神社は崇徳上皇を祀っていて、常光の側近に公卿の難波頼輔おり、彼が蹴鞠に優れていたので、保元の乱の際の罪も赦されたそうです。そして、子孫に蹴鞠の技を伝え、頼輔の孫の雅経が飛鳥井家を開き、その屋敷跡に白峯神宮を建て代々精大明神と呼ばれる蹴鞠の精を祀ったことによります。
 このような話しは聞かないとまったくわからず、初めて知りました。
 この本のなかで、政治向きの話しは、いろいろと予言のような話しは書いてありましたが、もともと政治家というのは時の流れによって紆余曲折するのは常の話しで、ほとんど政治評論家の話もあたらないことが多いようです。だからあまり興味を持って読みませんでしたが、新型コロナウイルス感染症流行の話しはつい最近までのことなので、よくわかります。
 たとえば、平安時代の物忌みの話しですが、あのコロナ禍のときの不要不急の外出自粛の話しとよく似ています。著者は、「要するに物忌とは、外来との接触を一切断つ生活様式だ。平安期の約100年のあいだに疫病は、どうやら100回以上、大流行している。新型インフルエンザか新型コロナか、しゃくりあげるような咳に苦しめられた挙句の果てに多くが死に至る病の長期流行だけで、最低7回もある。細菌やウイルスが発見されていなくても、邪気とは伝染するものだという観念は共有されていた。元気がなければ、もののけに負ける。そこで不調時には物忌する習慣も生まれる。しかし物忌は退屈だ。そこで詩歌づくりに楽器の稽古にと励み、碁や双六に耽る。平安期に文芸や雅楽やゲームが発達したのは、巣ごもり生活が多かったせいなのだろう。」と書いてあり、私も外出できずに自宅で本を読んだり音楽を聴いたりしたことを思い出しました。
 下に抜き書きしたのは、コロナ禍についての話しで、「コロナ禍は人間不要の鬨の声」に書いてありました。
 たしかに、あのときの不要不急の外出を遠慮するように政府からの話しがあり、買いものさえためらうこともありました。また、お店によっては、一家から一人だけ代表してきてほしいというのもあったりして、あるお店では、一人ずつの来店をお願いしますというのもありました。
 いままでの、ワイワイと品定めするような買いものではなく、レジでさえ黙って黙々と買いものをする風景が当たり前になってきました。そのうちに、セルフレジになり、さらに普通のお店でも、合計した金額を自分で機械に入れ、おつりもそこから出てくるというようなシステムになったりしました。
 つまり、この「3つの不要」は、全てに通じるもので、いったん入らないとわかれば、すべて省力化されていまう性質のものです。たとえば、結婚式だって、今まで多くの人たちを招待して、盛大にやっていたものでも、簡単に身内だけでやっても同じだと思えば、多くの人たちがそのようになっていまいます。こうなれば、「非常時が去っても、元には戻れまい」と思います。

(2024.2.7)

書名著者発行所発行日ISBN
歴史は予言する(新潮新書)片山杜秀新潮社2023年12月20日9784106110214

☆ Extract passages ☆

第一に人が要らない。技術革新で、仕事によっては従来の7割も8割も減らせる。第二に場所が要らない。役所や会社で一堂に会して働くのは、そうしなければ連携が難しく、効率が上がらぬとされてきたからで、事情が変われば、場所代を節約するのが資本主義だ。第三に移動が要らない。リニア新幹線的な大量高速移動の発想は時代遅れになる。……
 もちろん「三つの不要」は、疫病禍という非常時への緊急対応の中で顕在化した。が、無理やりに、ではない。条件は整っていた。既にそうできて当たり前だった。疫病禍はきっかけに過ぎない。一度みなが気づいてしまえば、非常時が去っても、元には戻れまい。
(片山杜秀 著『歴史は予言する』より)




No.2272『わたし、世界を走っています』

 副題は「20代で43ヵ国のマラソンを走って見えてきたこと」で、最初にこの本を見たときには、だからなんなの、と思いました。
 でも、読んでみると、そのマラソンがすべて42.195qだというから、驚きました。しかもほとんどすべて自分でお金を工面して、エントリーして、そのマラソンの会場まで行くわけですから、度胸もあります。読んでいるうちに、もしかすると、あまり深く考えないからできたのかとも思いましたが、そうではないようです。
 もし、それを自分に置き換えてみると、そもそもフルマラソンだけではなく、走ることすらできないし、コロナ禍もあったこともあり、海外に一人で行くことも億劫になってしまいました。以前は、一人で海外にも行ったし、仲間たちを連れて、ネパールにも行ったことがありますが、だんだん体力がなくなってくると、自分の荷物を持つだけでも大変になってきます。
 だから、一人で海外に出かけて、フルマラソンを走るというのは、単純にすごいと思うようになりました。
 この本のなかで、ビクトリアの滝マラソンに参加したとき出会ったサンフランシスコ在住の中国人のアナリストの話しが載っていますが、「お湯が使える、きれいなベッドで寝るよりも、知らない人と過ごす共同生活のほうが価値があるのだろうか。そのときのわたしは、「お湯が使えるほうが絶対にいいと思うなあ」と返答したんだけど、そこから5年以上が過ぎた今、彼の言わんとすることもちょっとわかるようになった。普段出会わない人と会うためには、自分が動かないといけない。しかも、本来なら出会わないはずの人と会うと、知らなかったことを知ることができて、自分の生きている世界が少しずつ広がっていく。」ということも、さまざまな経験から少しずつ分かってくるのではないかと思いました。
 この本には、コロナ禍でどこへも行けなくなったことも書いてあり、「海外のレースはもちろん軒並み中止で、エントリー済みだったウィーン、プラハ、ルクセンブルクマラソンからはキャンセルのメールが届いた。状況を加味したら仕方のないことだけど、あらためてメールの文面に目を這わせると、やっぱりつらい。なんだか自分を取り巻く環境が、いい方向に流れ始めた途端のこれだから、いかんせん悔しくなった。」と書いてます。
 私だってそうで、仕事を息子に譲って、これから自由に海外に行けると思った矢先に、新型コロナウイルス感染症が流行り始めました。実は、2020年3月2日から中国雲南省に行く予定で、航空券も予約していました。しかし、受け入れ先の中国科学院の先生からも延期したほうがいいというメールがあり、乗る予定だった中国東方航空からもキャンセルの連絡があり、それでも全額を払い戻してもらったからいいものの、それから先は海外に行くことは難しくなりました。今でも、そのときの「eチケットお客様控え」を持っています。
 これは誰もが同じですから、ある意味、仕方のないことですが、なかなか納得できませんでした。
 この本の著者は、「どうあがいても変えられないけれど、ここから何かを生み出すことによって"未来"を明るいものにすることくらいはできる。大きなことはできなくても、日常に花を添えることで、日々の彩りを多少なりとも鮮やかにすることができると信じた。」そうで、先が見えないというつらさはみんな同じだと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「エピローグ」に書いてあったものです。
 よくマラソンは目標達成や自己実現のツールだとかいいますが、著者は、楽しいから走っただけで、いわば、「フェスのような雰囲気、イケてる音楽、そして陽気な人々に囲まれて走るレースは、わたしの魂を躍動させた」と書いています。
 おそらく、長続きするのは楽しいからで、そうでなければ、どこかで止めてしまうかもしれません。そういう意味では、楽しむための秘訣みたいなものがありそうで、ついつい最後まで読み通しました。

(2024.2.3)

書名著者発行所発行日ISBN
わたし、世界を走っています鈴木ゆうり徳間書店2023年12月31日9784198657536

☆ Extract passages ☆

 わたしにとってマラソンは、人間が同じであることを教えてくれる大切なツールだ。
 世界を変えるのは難しい。わたしが寝ている間にも、戦争や貧困、さまざまな理由で人は亡くなつていく。
 それでも、わたしなりに、世界が少しでもよくなるために、できることをしていきたい。
(鈴木ゆうり 著『わたし、世界を走っています』より)




No.2271『昭和の青春』

 私もいわば団塊の世代ですが、著者も昭和25年生まれですから、この世代の1歳したということになります。でも、ほとんど同じ世代なので、考え方やものの見方なども似通っているようです。
 副題は、「日本を動かした世代の原動力」で、良くも悪くも同年代が多いので、動かす力もあります。ちなみに私の生まれた年代が、2,696,638で出生率が最高で、2022年は770,759人ですから、その差は歴然です。何をするにも人が多いので、受験も生活も大変でしたが、ボリュームのメリットもありました。
 おそらく、このような本が出版されるのは、私達のような団塊の世代が高齢化を迎え、若き日の想い出が蘇ってくるからかもしれません。昔はやった音楽を聞いたり、昔読んだ本をまた読みたくなったり、昔旅行したところを訪ねてみたり、いわば想い出に浸りたいのです。そういう私も、時々そのような想いに駆られます。
 たとえば、「トマト。私が子供の頃はトマトに塩をかけて食べていました。その頃のトマトはとても酸っぱかったので、少しでも甘みを引き出すためです。ご馳走だったのはマクワウリですが、若い人は見たことがないかもしれません。あっさりした甘さの小さいメロンのようなものです。その後、メロンが店に並ぶようになると、その濃厚な甘さにびっくりしたものでした。現在は安い値段で購入できるバナナは高級品で、特別な贈答品に使われていました。輸入制限が設けられていたためで、63年に輸入が解禁されて一般に普及していきました。」と書いてあり、そうそう、とつい頷いてしまいました。
 トマトは、栽培している畑の近くへ行くと、その匂いだけでわかりますし、マクワウリはお盆のときに仏さまにお供えするので、そのときだけ食べられました。またバナナは、病気をしたときとか誰かからいただいたときだけ食べられる高級な果物で、今のように安売りされるようなものではありませんでした。
 もう、思い出すだけで頷くばかりですが、学校帰りの道草で、クワゴやグミなどを食べたことがあり、それは載っていませんでした。おそらく、どこにでもあるものではないのでしょうが、私は今でもよく覚えています。ただ、今食べても、マクワウリと同じようにあまりおいしくはないと思いますが、少しばかり酸っぱくても苦くても、お腹に入ればいいと思っていました。それほど、お腹が空いていたのかもしれません。
 そういえば、高度経済成長の基でも、男女平等ではなかったようです。私は勤めたことがなかったので知らないのですが、「月刊誌『文藝春秋』の最後には、「社中日記」という編集部内の出来事を面白おかしく書くページがあります。当時、個人の名前が出ているのはすべて男性の編集部員で、女性は「女性社員」としか表記されませんでした。それが変わって女性の名前が登場するようになるのは男女雇用機会均等法ができて、女性も編集部員として採用されるようになってからのことです。」とあり、そんなに後までそのようなことが残っていたと知り、びっくりしました。
 おそらく、今では、あの「文春砲」で一撃にされることは間違いありません。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「青春の昭和文化・社会風俗」のなかに書いてあったものです。
 著者は1973年にNHKに報道記者として入局していますから、ある程度は放送の現場のことも知っていると思います。この新しくておもしろいものをつくるのは「はぐれ者」というのは、私もその通りだと感じています。
 あまりにも順風満帆に来た人とかよりは、少し屈折した生き方をしてきた者のほうがむちゃなこともできます。
 もし、他の時代の生き方なども、機会があれば読んでみたいと思いました。

(2024.1.31)

書名著者発行所発行日ISBN
昭和の青春(講談社現代新書)池上 彰講談社2023年11月20日9784065331064

☆ Extract passages ☆

 テレビ放送が始まったばかりの頃、放送局の本流はラジオでした。ですからまだ海の物とも山の物ともつかないテレビ制作に送り込まれたのは、放送局のはぐれ者たちでした。
 本流のラジオ放送を担うエリートとは異なる、扱いに困るような連中を押し付けて始まったテレビ放送は、はぐれ者たちがめちゃくちゃな番組をつくってヒットを生み出していきました。
 これはインターネットの草創期と同じ構図です。エリートは本流であるテレビを担当し、可能性が不明なインターネットにははぐれ者が送り込まれ、ユニークなことを始めて面白がられる、という具合です。世の中で新しいものができるときは、だいたいそんなものなのでしょう。
(池上 彰 著『昭和の青春』より)




No.2270『成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!』

 この本の監修は三橋健氏で、神道学者だそうです。著者は渋谷申博(のぶひろ)氏で、日本宗教史研究者だそうです。
 どちらの方も知らなかったのですが、この題名の『成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!』というのに惹かれ、おみくじに裏も表のないと思っていたので、読むことにしました。
 「はじめに」のところで、おみくじは、「自分の状況や何を願って引いたかをよく考えた上で、お告げ文を正しく読み解く必要があります。吉凶や願意(何を占いたいのか)別の運勢などは、そのための参考意見にしかすぎません。そのお告げ文を使って神様はあなたに何を伝えようとされているのか、あなた自身が読み取らなければならないのです。神様はお告げ文という形で、現状をどう理解し何をなすべきかを伝えています。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 たしかに、人それぞれの願いや思いは違いますので、この読み取るということはとても大切です。この文の前に、もし「雨が降る」というお告げがあったとして、もし明日が遠足という子どもにとっては凶かもしれませんが、日照りで困っている農家の人にとっては大吉です。このように人それぞれにとって、凶にも吉にもなるわけで、ただそれだけで判断することはできません。
 この本では、お告げ文のほとんどは和歌の形式で、その一例としてあげると、万葉集に載っている有名な志貴皇子の「石走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも」という和歌があります。それをおみくじの解釈で考えると、「この場面は志貴皇子が住んでおられた館の近くではないでしょう。山の中の風景に違いありません。ワラビ採りのために出かけた時の思い出なのかもしれません。つまり、山道を登るという努力を経て、この光景を目にしているのです。このことは、あなたが今甘受しようとしている「春」は、あなたの努力の結果だということを示しています。そのご褒美がワラビなのですが、ワラビは毒があって生では食べられません。成果から実利を得るには、もう一段上の努力が必要だと告げているのです。」と解釈しています。
 この歌を春がきたことを寿ぐものと思っていたのですが、このような解釈もできるとはおもしろいものです。つまり、ある意味、どのような解釈をしてもいいということになります。
 おみくじについて、監修者の三橋健氏は、「監修者あとがき」のところで、おみくじは、「「お」「み」「くじ」からなる大和言葉で、 これに漢字をあてると「御御籤」「御神籤」となる。「御(お)」も「神(み)」も、神さまに関するものにつく接頭語で、ここでは「籤(くじ)」を尊敬または美称している。たとえば、「おみこし(御御輿。御神輿)」「おみき(御御酒・御神酒)」なども同じである。……「籤」という漢字には、さまざまな意味がある。そのなかで興味を引かれるのは「ものを数えるときの竹の棒」「物をさし通す竹串」との説明である。さらに伝間であるが、「くじ」を古くは「孔子(くじ)」と表記し、その意味は「子どもが生まれ出ようとしている穴」の意という。」と書いてあり、そういえば、おみくじを引くときに箱を振って小さな穴から出てくる竹串の番号であてるということと似ています。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「なりわいの言葉」のなかの「山深みなお影寒し春の月 空かき曇り雪は降りつつ」という新古今和歌集に載っていて嘉陽門院越前の和歌について書いてあったものです。
 たしかにあまりよいお神籤ではありませんが、どうにもできないときはじっとやり過ごすしかありません。そういうときでも、ちょっとしたゆとりがあれば、次によいことがきっときます。

(2024.1.28)

書名著者発行所発行日ISBN
成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!渋谷申博かんき出版2019年12月2日9784761274559

☆ Extract passages ☆

 古代中国の思想家荘子は「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ」と言いました。すなわち、窮地に至った時もその状況を楽しみ、うまくいっている時もその状況を楽しむのです(正確には「窮」は貧乏なことをいうそうですが)。……
 でも、苦しさをアピールしても自分のダメさを宣伝するようなものです。やせ我慢でも窮地を楽しんでいるように装えば、人はあなたに余裕があると思います。新たに仕事を頼むとしたらどちらか、言うまでもないことです。
(渋谷申博 著『成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!』より)




No.2269『「逆張り」の研究』

 この本の題名の『「逆張り」の研究』の「逆」の文字が逆に印刷されていて、最初は何と読むのかわかりませんでした。そこで中を少しだけ読むと、「逆」だとわかり、次はこの「逆張り」って何と思いました。
 この本に、その説明が載っていて、「逆張りは相場の流れに逆らって売買する手法のことだ。株価が下落したときに買って、上昇したときに売る(その反対に、株価が上昇したときに買い、下落したときに売ることは「順張り」である)。たとえば、「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェットは逆張りで知られている。2009年のリーマンショックでは、経営危機に陥った資産運用会社ゴールドマン・サックスに巨額の投資をして、莫大な利益をあげた。」と書いています。
 ということは、人と同じことをしたり考えたりしていてはダメということで、そこに「逆張り」も大切だということになります。
 そういえば、「いじめ」問題もこれと同じように、流れに乗ってしまうという一面がありそうです。この本では3つの認知バイアスというのを第6章で取りあげていますが、それは道徳的な非難を回避するための「思考のクセ」だとか、「行為者と行為のあいだに距離を置く」ことだとしていますが、いわば責任逃れでもあります。この3つのバイアスというのは、「不作為バイアス」(人は何かをするよりも何もしないほうを選ぶ)、「副作用バイアス」(主要な目標が害をもたらさないようにする)、「非接触バイアス」(危害をくわえられている人に触れるのを避ける行動をとる)、の3つですが、行動を起こしてそれに巻き込まれたり大変な結果になるよりは傍観者になってしまうということです。
 この本では、「何も行動しなければ、「気づかなかった」「わからなかった」「知らなかった」「何もしていない」といくらでも言い訳できる」と書いてあり、まさに傍観者そのものです。
 ということは、逆張りの立場で流れに乗らないということも、大切です。3つの認知バイアスが傍観者の立場をつくるなら、そのような認知ではなく、逆張りも大切な役割です。そして、自分が逆張りに立っているという自己認識も必要ではないかと思います。
 これはいじめだけの問題ではなく、政治でも同じです。自分一人がどうのこうのといっても何もかわらないと言ってしまえば、先に言ってしまったほうに流れてしまいます。
 これはポピュリズムでも同じで、訳すると「大衆迎合主義」ともいい、民主主義にはあまり好ましいものではないといわれます。しかし、あのアラブの春だって、ラテンアメリカの人民解放だって、その大きな力になったことは間違いありません。
 しかし、この本には、「ポピュリズムは、ぼくたちの部族主義的な本能を利用している。ぼくたちの脳は「われわれ」(味方)なのか、「あいつら」(敵)なのかを自動的に判別する。そして「われわれ」(味方)をひいきして、「あいつら」(敵)を蹴落とすような傾向がある。敵か味方かを判別する目印には、性別、年齢、人種、民族などがなりやすい。とはいえ、Tシャツの色でグループを分けただけでも、同じ色のTシャツを着た人には「われわれ」という仲間意識を持ち、ちがう色のTシャツを考た人には「あいつら」と敵意を向けるようになる。ポピュリズムはぼくたちのこのような本能を利用して、敵への憎しみをかきたてるわけだ。」と書いていて、どちらかというと、色分けして考える傾向が強いようです。
 ただ、多くの人たちにわかりやすくするには、これも必要なことですが、現実には民族主義的な方向に片寄りつつあります。たとえばデンマークやオランダなどでは、福祉や環境をめぐって先駆的政策を実現する傍ら、移民・難民の規制が厳格化しているようです。
 だから、この逆張りということも、この本を読んで思いました。
 下に抜き書きしたのは、第9章の「逆張りは多数派の敵でありつつ、友でなければならない」のなかにあったものです。
 私も、こうして『本のたび』を書いたり、別のホームページに各地の三十三観音霊場巡りを書いたりしているのでわかるのですが、時間があれば少しそのままにしておいて、しばらくしてから読み直すようにしています。そうすると、そのときに気づかなかったことや、別な表現にしたりしると、なんとなく文章が締まって見えます。
 おそらく、「原稿が育つ」というのも、同じようなことなのかもしれない、と思いました。

(2024.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
「逆張り」の研究綿野恵太筑摩書房2023年6月30日9784480823830

☆ Extract passages ☆

言葉がある一定の量を超えるとコントロールが効かなくなる。ぼくの意思ではどうもできない、自立した「もの」になる。もちろん、実際に書いているのは自分だ。しかし、こっちが絶対に主導権を握れない。植物が成長したり、食べ物が発酵するのと同じように、あっちのスピードに合わせるしかない。ぼくにできるのは手入れをしたり、寝かせたりするぐらいで、基本的には文章が育ってくれるのを待つしかない。
 もしかしたら、たくさんの言葉を前にして脳が処理できる情報量をオーバーするために生まれる錯覚なのかもしれない。しかし、そんな錯覚に付き合うのも楽しいものである。
(綿野恵太 著『「逆張り」の研究』より)




No.2268『あまカラ食い道楽』

 初出雑誌は、いずれも月刊誌『あまカラ』で、1953年から1964年までの間の執筆で、よく知られた方々ばかりです。
 ある意味、昔の文人は、どのようなものを食べて飲んでいたかを知りたいという気持ちもあり、なぜ今ごろになって出版するのだろうかと興味を持ちました。
 今は、食べものも飲みものもかなり洋風になり、その当時にはまったくなかったものもありますし、同じ麺類でも鰻などでも、その味などはかなり変わってきたのではないかと思います。
 たとえば、酒についても、今は日本酒や洋酒などという区別よりも、麦酒やウイスキー、それも銘柄などによる嗜好もあり、好みが多岐にわたっています。吉野秀雄の「凡人の酒」には、彼の父親が酒について話したことが載っていました。それは、「一つは、酒をうまく飲みたければまめに手足を動かして腹を空かせろという平凡な感想だが、今も時折思い出してはうなずく。も一つは、酒の銘柄にばかり気をとられるのは酒道の初歩で、どんな酒にしろ、うまいまずいはむろんあるにしろ、それぞれの個性を見てやれば結局はうまからぬ筈はないというのであったが、これも七割まで同感できる。」と書いています。
 味覚というのは、人それぞれに違うのが当たり前で、うまいとかまずいというのも、みな違うように思います。だから、旅番組や料理番組などで、「うまい〜」と連発するのはどうかと思います。でも、そう言ってしまうと、番組をつくれないので、仕方の無いことかもしれません。
 そういえば、名取洋之助の「筋の通ったはなし」のなかに、「旅先などでは、知らないこともあり、気軽にやたらな店に飛びこむこともできるのですが、東京は自分のホーム・グランドだと考え、慎重になり、食でもまずい物を食べては損と思って冒険をせず、結局、いつも行きつけのところへ行ってしまうことになります。」と書いてあり、これには納得しました。
 私も同じで、旅先ではほとんど情報がないので、行き当たりばったりで食べるものを選んでしまいますが、それでも和菓子などは、その土地の銘菓などを検索して、そのお店を探し出して買います。そして、ホテルなどに着いて、さっそくお抹茶を点てて、その和菓子を食べます。それが旅先での習慣です。
 だから、茶碗と茶筅と抹茶は必ず持っていきます。海外に出かけるときも同じです。また、移動する列車のなかでも抹茶を飲むことがあり、そのときには水筒にお湯を詰めて行きます。
 下に抜き書きしたのは、窪田空穂の「京阪と和菓子」のなかに出てくるものです。私も和菓子が大好きで、ほぼ毎日お抹茶を点てて飲んでいるので、実感としてもよくかわります。
 たしかに、煎茶の場合はお菓子がなくてもいいかもしれませんが、抹茶の場合は菓子がないとその味も変わってしまいそうです。
   このなかの表現で、「眼も口もほしくなる」というのは、まさにその通りだと合点しました。

(2024.1.22)

書名著者発行所発行日ISBN
あまカラ食い道楽谷崎潤一郎ほか河出書房新社2023年11月30日9784309031521

☆ Extract passages ☆

 私は菓子という物を尊重している人間の一人である。菓子はいわゆる茶菓子で、茶とは離れられない物である。私は煎茶好きで、日に幾度も滝れかえて飲んでいるものであり、茶が実用品であると共に、菓子も実用品である。実を言うと、茶は菓子が無くても飲めるのであるが、無いとさみしくほしくなる。ほしがるのは、菓子は実用品だけではなく芸術品であり、その芸術味を、眼も口もほしくなるからのことである。
(谷崎潤一郎ほか 著『あまカラ食い道楽』より)




No.2267『わたくしが旅から学んだこと』

 この本は、ちょっと出かけたときとか、待ち時間のあるときとか、時間のすき間に読んだもので、いつから読み始めていつ読み終わったのかもさだかではありません。
 考えて見れば、『兼高かおる 世界の旅』というテレビ番組も、小さいときに見た記憶はあるのですが、いつごろなのかどこの国だったのか、まったく記憶がありません。でも、あの独特の語り口と見たことのない国の風景は覚えています。私が外国に行ったのは1985年5月20日から30日まで中国雲南省でした。そのときは、シャクナゲ愛好者訪中団の一行に参加し、空路にて香港から広州を経由して昆明に入り、そこを起点に車で楚雄、大理、麗江へと車で移動しました。
 麗江は、この年に初めて外国人に開放され、世界の花好きがほぼ同時に行ったようで、泊まるところも麗江県第一招待所という政府の役人の宿舎でした。トイレも離れたところにあり、ほとんど仕切りもないところで、暗くなってから、懐中電灯を持って行ったことを思い出します。そのときの玉龍雪山や蒼山の風景は今でもしっかりと覚えていますし、その後、何度かここを訪ねただけでなく、さらにその奥地へまでも足を運びましたが、やはり最初の第一印象は強烈でした。
 ですから、この『兼高かおる 世界の旅』は、1959年から1990年まで続いたそうですから、旅を続けることの大変さは、私が経験した以上に困難の連続だったかもしれません。だからこそ、テレビを見ている人たちに感動を届けられたようです。たとえば、「ロケの現場ではハプニングはつきもの。でも、何が起きても落ち着いて対処することが肝心です。慌てると事態は収拾せずに、さらに悪化していきます。わたくしは子どものころから独立心が旺盛で、何が起こるかわからないスリルを心から楽しめましたし、とっさの事態には機転が利きました。そういう意味では、「世界の旅」の仕事はとても自分に向いていたと思います。それまでのわたくしは、あまり物事に熱中するほうではなかったので、母は「世界の旅」の仕事もすぐ飽きるだろうと思っていたようでしたが、結局、当時のわたくしには飽きる暇さえなかったのです。」と書いていますが、旅には向き不向きがあるようです。
 そういえば、何度目かの中国雲南省に行ったとき、外事弁公室の方が通訳や行く先ざきの手配などをしてくれたのですが、自然といろいろなことを話すようになり、個人でも彼のところに行くことがありました。彼の本職は、外国との調整や交渉、出入国管理などをするようですが、それ意外の話しをするときは小声になりました。でも、日本語ができることもあり、日本に興味もあり、いろいろなことを聞いてきます。
 この本のなかでも、「外国人の皆さんは、そういう日本の文化について興味を持って話を聞いてくださいますし、また、おもしろい質問も飛び出します。まずは母国の歴史、文化を知る。それを基礎として相手の国について質問し、日本と比較して互いの国の違いと共通点を学ぶのです。外国の方から自国の文化にっいてお聞きする。相手が自分の国に興味を持ってくれているとわかれば、気持ちよく教えてくれるものです。これこそ、お互いがお互いの国について知る、国際交流の第一歩です。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「旅をしながら見えてきた世界、そして、日本」のなかに書いてあったものです。
 私も、若い時に行ったところを訪ねると、懐かしさだけでなく、また違った味わいを感じることがあります。そういえば、自分の子どもたちの修学旅行に行くときの挨拶で、旅行というのは行く前の計画段階から始まっていて、旅行そのものはもちろん、帰ってきてからお土産を渡したり、写真を整理したり、友だちと旅の思い出話しをすることも楽しいものだから、そのためにはたくさん楽しんできてください、と話したことがあります。
   さらに、同じようなところに行くことができれは、さらに旅のおもしろさに深みを増すと思います。

(2024.1.19)

書名著者発行所発行日ISBN
わたくしが旅から学んだこと(小学館文庫)兼高かおる小学館2013年3月11日9784094088069

☆ Extract passages ☆

 日本も世界も変われば、自分自身の考え方や見方も変わります。
 若いときに旅した地をもう一度訪ねてみる。懐かしさを味わうとともに、新しい感動があるでしよう。
 わたくしもアメリカやイギリスには何度も何度も訪れて、そのときどき、年齢なりの味わいを楽しんできました。そして、これからも。
 こんなふうに旅の楽しさは尽きることがないのです。
(兼高かおる 著『わたくしが旅から学んだこと』より)




No.2266『異邦人のロンドン』

 私は、イギリスにまだ二度しか行ったことがなく、ロンドンのヒースロー空港に下り立つので、ロンドンにも二度ということになります。それでも、イギリスのスコットランドに行ってもまたロンドンに戻ってくるので、そのたびごとに市内を歩き回りました。
 しかし、著者はロンドンに住んでいるので、そこに住んでみないとわからないことも多く、最後までイギリス人ってわからないな、と思いながら読みました。
 たとえば、イギリス人は犬を大切に飼うというのは知っていましたが、それは「その昔、犬を飼うことがステータス・シンボルだったから。ヴィクトリア朝に確立した良き家庭のイメージに犬が欠かせなかったから。イギリス人は誰かを従属させるのが好きだから。散歩が好きな国民なので連れ合いとして。核家族化が進んだイギリス社会において絆の役目として、等々。最近聞いた説明に次のようなものがあった。なかなか説得力のある説だ。イギリス人は恥ずかしがり屋だがいつも誰かとの会話を求めている。空模様を会話のきっかけに使うのはよくある手だが、天気は自然現象にすぎず、話者の感情が乗らない。だが犬に関することがらだとイギリス人はガードをはずすことができ、感情をちょっと出しても恥にはならない。イギリス人にしてみたら稀な機会である。つまり、イギリス人にとって、大はよそよそしくない会話を始めるための便利な小道具なのである。」だそうで、なるほどと思いました。やはり、そこに長く住んでみてわかることです。
 最近は、日本でもただ歩いているだけではサマにならないという理由で、犬を連れて散歩する人がいると聞きました。おそらく、犬の散歩にかこつけて、歩くのも楽しんでいるようで、意外と人間の考えることは同じだなと思いました。
 また、イギリスは階級社会が今でも残っているといいますが、それは旅行者にはイマイチわかりません。聞くところによると、英語の発音も違うといいますが、もともと英語がよくわからないので、発音の微妙な違いがわかるはずもありません。イギリスの個人宅にお邪魔したことがありますが、それだって相手はお客さんと思って接してくれるので、そういうものかとしか考えません。
 ところが、長年ロンドンに暮らしている著者でさえ気づかないことが、彼の娘さんは気づいているようで、イギリスの南北の違いを尋ねると、「娘は「まずは言葉」と言い、「次に食べ物かな」と言った。北部出身の学生はヘビーな朝食を好む。いわゆるフル・イングリッシユュ・ブレックファストで、ロンドンっ子はポリッジとかコーンフレーク、シリアルなどの軽い朝食を好むらしい。蛇足ながら、すでに述べたディナー問題についていうと、北部の人は昼食をディナーと言い、夕食をティーと言う場合が多い。」とありました。
 ということは、私がウイズレーガーデンに行ったときに、そこの研究者の家で午後のティーに誘われたとき、3時のおやつにしてはこんなにも出るのかなと思ったのですが、それが夕方までゆっくりと食べるのです。これが、もしかすると「夕食をティーと言う場合が多い」にあたるのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、「日本を憎んだ人たち」のなかに出てくるもので、ちょっとショックを受けました。これは、シャーウィン裕子さんが話したことで、彼女は日本を離れて60年以上もイギリスのウィルトシャー州に住んでいる作家だそうです。
 日本人は、意外と忘れっぽいと思うこともありますが、イギリス人のなかにはこんなにも古いことにこだわる人たちもいるということがわかりました。そういえば、韓国の人たちのなかにも徴用工問題を今でも考えるのと同じで、昔のことにいつまでも心にとどめているようです。
 私は、世の中には忘れるということも大切なことだと、あらためて思いました。そういえば、エジンバラである男の老人からどつかれたことがありますが、もしかすると、彼も日本の捕虜になった経験があったのかもしれません。
 
(2024.1.17)

書名著者発行所発行日ISBN
異邦人のロンドン園部 哲集英社インターナショナル2023年9月30日9784797674354

☆ Extract passages ☆

「捕虜になった英連邦の兵士たちの体験記、どれくらいあるかご存じ?」
「どうでしょう、三十冊……四十冊?」
「ゆうに百冊は超えるでしょう。日本人として読むのがつらいのはわたしも同じですよ。でもなかには日本人の悪口をひとことも語らず、逆境のなかで前向きな精神を維持した人もいる。そういうのを読むと、気分が高揚してきます」
 ある学者によると、英国で書かれた日本関連本としては、経済や文化などよりも、日本軍捕虜収容所での体験を書いたものが一番多いらしい。僕がVJデイに無知だったのと同時に英国人たちが「根に持っている」ように感じたという非対称的認識を裏から照射するような情報だ。
(園部 哲 著『異邦人のロンドン』より)




No.2265『文庫旅館で待つ本は』

 久しぶりに小説を読みましたが、何より、この『文庫旅館で待つ本は』という題名に興味を持ちました。文庫旅館って、なに、と思いました。
 私も旅行へ行くときには、必ず文庫本を持っていきますが、その文庫のある旅館というのは、図書館でも併設されているのだろうかとも思いました。でも、文庫と限るのは、なぜ、と思います。やはり、読んでみないことにはわからないということです。
 久しぶりの小説ということで、一気に読みました。文庫旅館というのは、主人公の凧屋旅館の若女将、丹家円さんの曾祖父の丹家清さんの戦友の海老澤呉一が集めた文庫本を一括購入して「海老澤文庫」として旅館の一角に設置してあるからで、誰もなぜこの文庫がここにあるのかわからないといいます。そして、最後になり、そのいきさつが明らかになるわけです。
 これは書き下ろしだそうで、文庫本は、川端康成の「むすめごころ」、横光利一の「春は馬車に乗って」、芥川龍之介の「藪の中」、志賀直哉の「小僧の神様」、夏目漱石の「こころ」の5冊です。それぞれが1つの物語で、最初の1冊目と5冊目がつながっているというのが後からわかります。
 ただ、この手の本は、種明かしをすると読んでもおもしろくないので、興味のある方は読んでもらうしかありません。
 私にとっては、とてもおもしろくて、5冊目のどんでん返しというか、されなりのつながりがわかって、推理小説を読むより、あらすじだけでなく興味を持ちました。そしてなにより、文庫旅館という不思議な設定も、また主人公の丹家円さんが本を開くとなぜか「鼻がツーンとして目がチカチカして涙が出て、読めない」というのはとても理解できませんでした。
 しかし、5冊目の最後のところで、それがなぜなのかがわかり、そして普通に本を開いて読めるようになったところなど、なるほど、そういう設定だったのかとわかりました。
 人というのは不思議な存在で、まさに、いろいろなことに左右されながら生きているということがわかります。彼女も、直接にはなんの関係もないのに、そういうことになったようで、人というのは先祖からの様々な思いで生きているのかもしれないと思いました。
 下に抜き書きしたのは、5冊目のところに出てくる海老澤呉朗さんの台詞です。そして、ここには2冊目の芦原の奥さんも出てきて、なんとなくつながっている気配もします。
 それにしても、痴呆症も含めて、忘れるということは、とても大切なことだと思いました。

(2024.1.14)

書名著者発行所発行日ISBN
文庫旅館で待つ本は名取佐和子筑摩書房2023年12月15日9784480805133

☆ Extract passages ☆

「海老澤の血も丹家の血も混じり合った今、私達はもうお互いに償いを終え、赦し、赦されている。私達の人生は誰かの懺悔や復讐のために存在するのではない。私達の人生は私達のものだ。わかったな?」
(名取佐和子 著『文庫旅館で待つ本は』より)




No.2264『旅の人、島の人』

 著者の「サラダ記念日」や「チョコレート革命」などを読んでいますが、東日本大震災のときに仙台市から沖縄に移住したと聞き、たしかにいろいろな問題があったとは思うけど、なんとなく、逃げたという印象が拭いきれませんでした。
 それでしばらくは遠ざかっていたのですが、たまたま図書館でこの本を見つけ、久しぶりに読んでみることにしました。
 やはり、女性はわが子を守るというのは本能のようで、なんとなく納得し、この本のなかに出てくる短歌にも共感するところがありました。そういえば、この本に、東日本大震災のときに仙台市から沖縄の那覇に行き、それから知り合いを頼って石垣島に移住したことが書いてありました。それによると、「東日本大震災のあと、余震と原発が落ち着くまでと思い、息子と私は、住んでいた仙台をひとまず離れた。那覇に2週間ほど滞在していたのだが、不安定な私の精神状態が影響したのだろう。息子には指しゃぶりや赤ちゃんがえりの症状が出はじめた。これはまずいと思い、石垣に移住していた友人を頼って、島に来たのだった。こころよく迎えてくれた友人夫婦が連れていってくれた近くの海。そこでモズク採りをした。海に足を浸し、夢中になってモズクを探す 密集しているところを、息子は「モズクの森!」と呼んで、 おおはじゃぎ。食べられると聞いて、海水で洗ったモズクをおそるおそる日にしたときの、「うめえ!」の顔が忘れられない。同じ浜辺に来ていた近所の子どもたちと、鬼ごっこや砂のかけあい。ほんとうにその一日で、息子は劇的に蘇った。」と書いてありました。
 たしかに、あの東日本大震災は多くの人たちの人生を狂わせてしまったようです。NHKが2023年3月に発表した資料によると、これまでに確認された死者と行方不明者は、避難生活などで亡くなった「震災関連死」も含めると、22,212人だそうです。さらに、慣れない避難生活をせざるをえない方なども含めると、ものすごく多くの方々が直接的な影響を受けたことになります。
 だとすれば、それ以外の間接的な影響まで含めると、まさに未曾有の大震災だったと思います。そのなかで、いろいろな苦悩や葛藤があったのは間違いないことで、著者もその1人でした。
 そういう意味では、いいとか悪いとかという問題ではなく、そうせざるを得ないことだったと思いますし、ある意味、できるからこそだとも思いました。経営コンサルタントの神田昌典さんは、「安定とは、焼け野原でも紙とペンがあれば、翌日から稼げる能力である。」といいましたが、まさに著者にとってはその通りです。しかも、今の時代だからこそ、どこに居ても原稿をメールに添付して送ることができます。
 それにしても、著者の感覚はおもしろいと思いました。その一つは、「人間、誰しも優しい面と意地悪な面を持っている。そして美人に遭遇した場合、多くの人は優しい面を彼女に向ける。みんなに優しくされれば、みんなにも優しくなれるのが人というものだろう。結果、私の仮説にたどりつくというわけだ。もちろん、逆は必ずしも真ならず。美人じゃなくても性格のいい人はたくさんいる。美人じゃないほうの立場を代表して言わせてもらえば、人に優しくされる前に、こちらから優しくすればいいのだ。ほうっておいても好かれるわけではないが、こちらから好きになっていけば、たいていの人は、やはり優しい面をこちらに向けてくれる。そうなれば、あとは、美人と同じ仕組みと展開が待っている(と信じたい)。」と書いてます。
 でも、ある人に聞くと、美人はいつも優しくされることになれてしまい、それが当たり前になってしまい、感謝の心を忘れがちだといいます。
 つまり、どっちもどっちだというわけで、人それぞれのような気がします。
 下に抜き書きしたのは、「カヤック体験」のなかに書いてあったもので、著者の息子さんが石垣島の自然について書いた作文が観光協会章をもらったその副賞で、親子でカヤック体験をさせてもらったそうです。
 20年も前に釧路湿原の取材でカヌーに乗ったことがあり、そのときには、「蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと」という短歌を詠んだそうです。
 そして親子でのカヤック体験では、短歌は載っていなかったのですが、「いずれは彼も、この舟を降りる日がくるのだろう」と子育ての楽しさと一抹の寂しさが感じられました。

(2024.1.12)

書名著者発行所発行日ISBN
旅の人、島の人俵 万智ハモニカブックス2014年8月30日9784309920269

☆ Extract passages ☆

 カヤックは二人乗りで、息子と気持ちを合わせて漕がなくてはならない。
「おかあさん、右、右! あっ行きすぎだよ、少し左にもどして」など、前方の息子が指示を出し、主に私は方向の調節係ということになった。まっすぐのところでは、息子が精を出して漕いでくれる。
 釧路では、川の蛇行に人生を感じたが、二人乗りのカヤックは、それそのものが人生の小舟という、まあ陳腐ではあるけれど、どうしてもその比喩が思い浮かんでしまう。今はこうして、二人で力を合わせて進んでいるが、いずれは彼も、この舟を降りる日がくるのだろう。
(俵 万智 著『旅の人、島の人』より)




No.2263『ようこそ! 富士山測候所へ』

 副題は「日本のてっぺんで化学の最前線に挑む」で、富士山の頂上に観測所があるということだけは知っていましたが、そこで誰がどのようなことをしているのかはわかりませんでした。もともと気象庁の観測所なので、おそらく気象観測はしていると思っていましたが、2004年10月1日に職員は山を下り、無人になったそうです。というのも、職員が山頂にいなくても、自動観測機器があれば観測が可能になったからです。この有人観測は、1932年に林寺富士山頂観測所が開設されてから72年の年月が経ち、さらに野中至・千代子夫妻が冬の富士山頂で観測を試みたときから109年も経っていたことになります。
 しかし、日本一高い富士山だからできることは、気象観測だけではありません。この本では、地球温暖化や大気汚染など、さまざまなデータもここでしか集められないとして、「NPO法人富士山測候所を活用する会」が2006年に発足し、現在も活動しているそうです。
 そのときの様子を、この本には、「ただし、富士山測候所から気象庁の職員は去りましたが、今ではこの建物を活用する人がまったくいなくなったかというと、そんなことはありません。夏の2か月間だけ滞在して、地球温暖化や大気汚染、雷、高山病などについて研究している科学者や学生たちのグループが気象庁から建物を借りて、ここでさまざまな観測に取り組んでいるからです。かれらは「気象庁が富士山測候所を無人化することを決めた」というニュースを聞いた直後から、「このまま富士山測候所を閉鎖させるわけにはいかない」と動き出しました。「気象庁にとって、富士山測候所は重要ではなくなったかもしれないけれども、自分たちには必要な存在だ。なぜなら富士山頂でしかできない研究があるからだ」と考えたからです。そこで国に一生懸命働きかけて、測候所を借りられるようにしたのです。」と書いてありました。
 なくすのは簡単ですが、それを維持するのはとても大変なことで、それでも、「富士山頂でしかできない研究がある」という思いがみんなを動かしたに違いありません。
 富士山といえば、夏になれば20〜30万人ほどの人々が登るといわれていますが、なかには軽装でサンダル履きという外国人もいるようです。登山家でもある山本正嘉さんは、登山家の死亡率や事故率を減らしたいという思いから、富士山でいろいろな実験をしているそうです。それによると、深呼吸や腹式呼吸を心がけると酸素不足になりにくいことや、1時間に300メートル以下のペースで歩くと、心臓への負担が小さくなるそうです。もちろん、これらには個人差もあり、私などはブータンの4千メートルを越える峠で走り回ったこともあり、ある程度高山病には強いと思ってますが、友人などは2,700メートルを越えると急に頭が痛くなったり、吐き気がしたりするそうです。
 ですから、富士山は3,776メートルありますから、そこで長時間仕事をするというのはかなりの負担になります。この本のなかで、富士山測候所で働く職員のなかに南極に行きたいという希望者がいるといいますが、この本には、富士山測候所の元所長の佐藤政博さんの話しとして、「……実際に希望が通った人を見てみると、協調性が高い人が多かったそうです。南極も富士山測候所と同じく、集団で長期間生活することになるので、協調性が重視されていたのです。ちなみに佐藤さんが、南極観測隊から帰ってきた何人かにたずねたところ、多くの人が「富士山頂と南極とでは、富士山頂の勤務のほうが大変だった」と答えたそうです。寒さは南極のほうがきびしいですが、気圧が低く、空気が少ない富士山頂のほうがつらかつたというのです。」とあり、たしかにそうだと思います。
 富士山頂に登ってちょっとだけいて、すぐ下るのとは訳が違います。そこで観測業務をこなしながら生活もするのですから、かなりの身体的負担になります。
 下に抜き書きしたのは、富士山で最初に気象観測をした野中至と千代子夫妻の話しです。もちろん、この前に富士山でひと冬を越した人はいませんし、そのようなことを考える人さえもありませんでした。それなのに、野中至は1895年10月1日にどの組織にも属さない28歳の青年が、いちおう中央気象台から富士山頂の観測機器を借りることで、あとは全て自費だったそうです。しかも、その12日後に妻の千代子が小さな子を実家に預けて富士山に登ってきたのですから驚きです。
 それでも、心配した中央気象台の和田雄治たちが富士山頂まで来て、下山するよう強く説得して担ぎ下ろしたそうです。それは12月22日のことで、その観測期間は82日間ということになりました。

(2024.1.9)

書名著者発行所発行日ISBN
ようこそ! 富士山測候所へ長谷川 敦旬報社2023年10月10日9784845118403

☆ Extract passages ☆

気象台から借りていた温度計や風力計などの器械が、富士山の過酷な自然環境に耐えられず、動かなくなったりこわれたりしたのです。また富士山頂は予想以上に気圧が低かったため、持ってきた気圧計では正確な気圧が測れないといったことも起きました。
 さらにふたりをおそったのが、体の不調でした。11月はじめに、まず千代子がのどの痛みや熱などがでる扁桃腺炎になり、お湯や水を飲むのもつらい状態になりました。ようやく治ったと思ったら、今度は全身がむくみ出し、歩くのもむずかしくなりました。そして次には至にもむくみが生じます。むくみは野菜不足が原因でした。
 結局富士山での観測活動は、82日間で終えることになります。至たちのことを心配した中央気象台の和田雄治たちが富士山頂にまでやってきて、下山するように強く説得して担ぎ下ろしたのです。
(長谷川 敦 著『ようこそ! 富士山測候所へ』より)




No.2262『農はいのちをつなぐ』

 著者は「はじめに」のところで、「百姓」という呼び名のことと、生きものの名前の表記について説明をしています。
 この「百姓」というのは、以前はマスコミなどで差別用語ではないかということで、あまり使わなくなりました。ところが、若いときに山形大学の中国から留学している学生に中国語を習い、その実践も兼ねて中国旅行をしたことがあります。そして、蘇州から杭州まで運河を船で航行中に、ある乗り合わせた中国の人に、「われわれ百姓は‥‥」という話しになり、農家の方かと思ったのですが、お茶の仲買人でした。つまり、われわれ国民はという意味のようで、もともと姓名の数が少ないから、百の姓名であればほぼ国民の多数になるという話しでした。
 だとすれば、著者がいうように、百姓は差別用語でもなんでもなく、むしろ誇りを持って使うべきだと思います。
 また、生きものの名前は、1946年に政府の内閣告示により漢字制限と「当用漢字表」のまえがきで「動植物名はかな書きにする」と指示ことがはじまりで、それが今も定着しているようです。でも、漢字で書くと、その名前の由来やおもしろさが伝わってきて、よくわかることも多いようです。
 そういえば、前回のNo.2262『種をあやす』で在来種のタネを採る話しでしたが、この本には稲のタネを採る話しが載っていました。それは「私は翌年に播く稲のタネを、わが家の田んぼから採っています。タネ採りの時に目立った変異を見つけると「これもタネ採りをして、増やしてみよう」と思います。そうやってヒノヒカリという品種から、長・宇根ヒノヒカリと短・宇根ヒノヒカリを選抜して、もう25年も栽培しています。以前は、私が発見した新品種だと自慢することもありました。しかし、よくよく考えてみると、稲とミツバチが力を合わせて生み出した新品種であって、私はただ気づいたにすぎません。あらためて、稲とミッバチにお礼を言いました。」とあり、なるほどと思いました。
 昨年、NHKの朝の連続テレビ小説『らんまん』で主人公が植物の新種を発見するところがありましたが、考えてみるとあれだって、以前からあったのに人が気づかなかったに過ぎない話しです。
 では、これからの農業はどうすればいいのかというと、この本ではドイツの農業政策を紹介しています。『「農」は、市場では評価できないもの、つまり市場価値(経済価値)がないので「取引できないもの=めぐみ」を生み出しています。このことの大切さにドイツの人たちは気づいただけでなく、それを評価する新しい行動を始めたところがすごいと思いました。「農」は他の産業とは決定的に異なる本質・原理を持っているからこそ、このように人を動かすのです。』といいます。そして、ドイツの人たちは農業を守るために税金から「環境支払い」が始まったといいます。日本でも、水が不足しないのは水田があるからだとか、田んぼこそが日本の原風景だといいますが、それらは自然に備わっているかのように考えています。昔は水と空気はタダと考えていましたが、今ではお金を出して水を買っています。ということは、日本の原風景はタダではなく、守っていかなければならないものです。だとすれば、ドイツのように、その環境を守っていくためにそれなりの負担は必要ではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「いのちといのちをつなぐ田んぼ」に書いてあったものです。
 たしかに、「かえる」という言葉は不思議です。インドでは、お釈迦さまが雨安居をするようになったのは、雨季の期間は外出するのが大変だということもありますが、もともとは雨季に動植物が生き生きとするそのときに歩いて踏みつけたり、殺したりするのを防ぐためだと聞いたことがあります。そして、お盆は『仏説盂蘭盆経』に基づく行事ですが、この雨安居を終えたときにあたり、仏弟子の目連尊者が餓鬼道に落ちて苦しむ母親を救うために、お釈迦さまに教えられた通りに雨安居後の僧たちに供養し、その功徳でもって母親を救ったという話しから自分たちの先祖も供養するようになったものです。
 また、インドにはジャイナ教という仏教と同時代に開かれた宗教があり、徹底して不殺生の実践を重視することから、口に入れる食材に対しても非常に気をつかいます。だから、農業に従事することはなく、多くは商業、とくに宝石や貴金属を扱う仕事に十字しているようです。
 この抜き書きを読みながら、インドのことなどを思い出しました。

(2024.1.6)

書名著者発行所発行日ISBN
農はいのちをつなぐ(岩波ジュニア新書)宇根 豊岩波書店2023年11月17日9784005009787

☆ Extract passages ☆

いのちを奪われた生きものたちは、土に「かえる」のですが、時間を経て次の世代が生まれてきます。すると、百姓たちは「また今年も生まれてきたね」「また今年も会えたね」と出会いを喜ぶことができるからです。「かえって」きた生きものの姿を見ることで、自分が奪ってしまったいのちが、またいのちをつないでかえってきた喜びに出会えるからです。その一方で去年のことをすっかり忘れてしまえるからです。このことで私たちはどれほど救われているかしれません。
「かえる」という言葉は実に不思議な言葉です。死んでいく時だけでなく、生まれてくる時にも使われます。鳥の雛や、虫たちが、卵から孵化するのも「かえる」と言います。
(宇根 豊 著『農はいのちをつなぐ』より)




No.2261『種をあやす』

 著者のことを知ったのは、10月2日の夜に放送されたNHKのEテレ「タネの箱舟」を見てからです。世の中には、すごいことを淡々とこなしている方がいるというのが第一印象です。
 この本の副題が「在来種野菜と暮らした40年のことば」で、ひとつのことをやり続けることの大切さを知りました。今年は辰年ですが、辰という字は手偏をつけると「振」になり、まずは動かすことにつながります。つまり、小槌などを振り上げて行動することです。
 著者は、有明海を望む長崎の雲仙に住み、在来種野菜のタネを採ろうとした最初のきっかけは「黒田五寸ニンジン」だそうです。現在は50種類ほどの在来種野菜のタネを護っていますが、私もシャクナゲのタネを採ったことがあるのでわかりますが、品種改良とかではないので50種類を守り続けるというのは大変なことです。まさに、野菜の命を未来につなぐ「箱船」です。
 ほとんどの農家で使っているのはF1の種子で、それを翌年に播いてもほとんど収穫はできません。この種子は、形や味がよくそろい、収穫時期も予測がつきます。これは、よく学校で習うメンデルの法則のなかで、優性の法則である「顕性の法則」と「分離の法則」が関係しています。つまり、雑種、ハイブリッドですから、毎年新しくF1種のタネを購入しなければならないということになります。
 しかし、固定種である在来種は自家採種が可能で、地域のブランド伝統野菜などとしてつながっていきます。ただ、農家が自分たちで種取りして繰り返し栽培しなければならず、その野菜を自分たちで売っていかなければならないのです。それでも、最近は、農家のお店、ここらはJA米沢直売所『愛菜館』などがあり、地元特産の野菜なども売っています。
 しかし、タネを採取し育てていくというのは大変で、著者は、「農法のなかでも種はとても地味で、当時、誰からも見向きもされていませんでした。だからこそやってみたいと思ったのです。毎年欠かさず採ることで、種は年々よくなっていく。それは自分の目で確かめることもできますし、できあがった野菜の質でちゃんと答えを出してくれる。そうやってコツコツと地道に取り組むことも、自分の性格に合っているように思いました。少しずっ変化しながらも、種をつないでいくことにはけっして終わりがありませんでした。種には限界がないのです。そしてもうひとつ、種は品種の多様性にもあふれていました。各地域に、それこそ日本全国、いや世界じゅうで固有の、伝統的な種が存在する。」といいます。
 たしかに、そう考えれば、たくさんのタネがあり、そのタネを守り伝えていくのが大切になります。著者は、「守るということにはふたつあって、ひとつは種をつなげて守ること。そしてもうひとつは種を外に出さず、地域のなかできちんと流通させながら守ること。どちらも同じくらい大切で、そうやっていかないと種を維持していくことは難しい気がしています。」といい、タネを外に出さずに地域で守っていくことも大切だといいます。つまり、自分たちの宝物だから守っていかなければという強い気持ちです。
 おそらく、この両方のことがなければ、せっかく守ってきたタネも農家の一代限りで消えてしまうのかもしれません。だからこそ、地域の文化として伝えて行くような気持ちが必要なのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「野菜の一生」に書いてあったものです。
 たしかに、人のことを考えれば個性というのは当たり前ですが、それが長崎地方に伝わる黒田五寸人参にも当てはまるというから驚きです。この考え方というのは、とてもよくわかります。そして、とても大切なことだと思います。
 今年は、どんなものにも個性があり、それを大切にしなければならないと思いながらこの1年を過ごしたいものです。

(2024.1.3)

書名著者発行所発行日ISBN
種をあやす岩ア政利亜紀書房2023年5月4日9784750517636

☆ Extract passages ☆

 でも、厳しくやればやるほど、だんだんと毎年、種の採れる量が減ってきてしまったのです。なぜなのか、その理由を考えました。もしかすると、純粋ないいものばかりを選んでいたために、ニンジンそのものの生命力が弱くなってしまったのではないか。
 これではいけないと、それからは選ぶ母本の姿に少し幅をもたせるようにしてみました。たとえば、少し大めのエンジンなども取り混ぜて、母本を選ぶことにしたのです。そうした種を蒔くようになると、しだいに元気なニンジンヘと戻っていきました。
 そこでやっと、ニンジンにはニンジンの世界における多様性があるということに気がついたのです。
(岩ア政利 著『種をあやす』より)




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