☆会津三十三観音札所巡り Part.01

 令和2年の船出は、今まで経験をしたことがないほどの大変な道のりでした。5月25日の夕方に、安倍首相は記者会見のなかで、新型コロナウイルス特別措置法に基づく緊急事態宣言をすべての都道府県で解除することを表明しました。初発令から49日間でした。ほんとうに長く感じました。仕事はもちろん、子どもたちの学校までも休校で、不要不急の外出は自粛せざるをえませんでした。
 解除されたからといって、すぐに以前のような生活に戻れるわけではなく、これからも感染しないように気を付けながら生活しなければならないと思っています。
 また、山形県では、社会経済の活動レベルのステップ1として、埼玉、千葉、東京、神奈川、北海道の5都道県との間の不要不急の県をまたぐ移動は慎重に、そして6月19日からはステップ2として、観光振興は県をまたぐものも含めて徐々にしていくことと危機対策本部から発表されました。このような状態なので、そろそろ観音札所巡礼をしたいと思っても、とてもできない状態でした。しかし、奥州三十三観音霊場をお詣りしてからほぼ1年が経つので、なるべく近いところということで、会津三十三観音札所を巡ることにしました。
 そもそも、この会津三十三観音は、会津松平家の藩祖、保科正之が西国巡礼などで他国へ多額の経費が流れるよりは領内にそれをとどめたいということから、始まったと伝えられています。今でも、その当時から続く伝統の会津塗や会津木綿などもあり、巡ってみても楽しいところです。
 6月10日、午前7時35分、孫たちを学校に送り出してから、自宅から一番近い第5番札所の「熱塩観音」へと向かいました。ここ示現寺までは33.3qで、朝ということもあり8時30分に駐車場へ着きました。そこから山門をくぐり、観音堂へ行こうとすると住職さんが話しておられたので、先にご朱印をお願いし、観音堂へ行きました。

 今回の会津33観音札所巡りはここから始まるので、いつものように観音経を唱え、ゆっくりとお詣りしました。奥州33観音霊場を3回目にお詣りしたのは7月9日でしたから、ちょうど11ヶ月前のことです。たしかその時も暑かったのですが、この日の会津若松は今年最高の気温で、36.4℃だったそうです。
 でも、ここは木立に囲まれた境内地で、しかも朝の涼しい風が吹いていました。ほとんど汗もかかずにお詣りし、そしてご朱印をいただき、住職さんと少し話しをしてから、車に戻りました。住職さんの話しでは、本堂も庫裡も大きな屋根で、もともとは茅葺き屋根だったのをトタンで包んだそうです。それでも、これを葺き替えるとなれば大変だそうで、なかなかできないということでした。
 でも、案内書によれば、ここの熱塩温泉の権利を示現寺が持っているそうで、各温泉施設に貸しているそうです。それでも、今の新型コロナウイルス感染症の影響で観光客は極端に減少しているので、なかなか大変なようです。
 山門をくぐり、外に出ると、その前に大きな湯殿山の石碑が立っていました。なかなか立派な彫りで、この地の湯殿山信仰の証しのように感じました。
 駐車場に戻ると、午前8時40分です。次は第6番札所「勝観音」です。ナビでは11.3qですが、急に思い立ってここまで来たので、途中のキタカタセルフSSでガソリンを入れました。48.9リットルでした。

 第5番札所 護法山 示現寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 後の世を 救(たす)け給えや 観世音 慈悲熱塩に 参る身なれば



☆会津三十三観音札所巡り Part.02

 第6番札所「勝観音」は、喜多方市関柴町三津井にあり、県道337号線沿いです。そこで、「熱塩観音」から国道121号線に戻り、喜多方市岩月の交差点を左折し県道337号線に入り、勝福寺まで進みます。その左側が勝福寺の勝観音堂です。
 その左側に駐車場があり、そこに車を駐めましたが、午前9時ちょうどでした。いったん道路側に戻ると、その右側には宗像神社があり、その向かい合わすかのように勝福寺の仁王門があります。その左手前に、新しい「重要文化財 勝福寺観音堂」と掘られた白御影石の門柱がありました。この仁王門は県道337号線のすぐわきにあり、とてもよく目立ちます。そこをくぐると、真正面に三間の観音堂があります。

 境内には鐘撞き堂もあり、そのわきに子どもたちの滑り台があるのもほほえましい雰囲気です。おそらく、ここは昔の子どもたちの遊び場だったでしょうが、今は子どもたちもすくなくなってほとんど遊んでいないようです。でも、近くでカッコウが鳴いていて、のどかな感じがしました。御堂の右脇には手水場もありましたが、水は出ていなかったようです。
 観音堂の前で、観音経などを唱え、さらに新型コロナウイルス感染症のなるべく早い収束も祈念しました。堂内は暗くてほとんど見えなかったのですが、案内書によればご本尊さまは十一面観世音菩薩で、胎内には勝御前が持っていた3寸8分の観音閻浮檀金の霊像がおさめられていると伝えられているそうです。この勝御前なる女性が奥州松島への旅の途中でこの地で病に倒れ亡くなられたのを供養するために中将某がここに観音堂を建立したので、勝観音というようになったそうです。
 現在の観音堂は永禄元(1558)年に再建され、その後も改修され、昭和59〜61年には全面的な解体修理がおこなわれたそうです。そのとき、天文8(1539)年に書かれたものが見つかったそうで、永禄元年に再建されたことが裏付けられたそうです。
 観音堂のところに、ご朱印所の地図があり、ここから100mほどの遠藤さん宅とのこと、いったん車に乗り、その近くまで行き、ご朱印をいただきました。時間をみると、午前9時25分でした。次は第7番札所の「熊倉観音」です。

 第6番札所 松島山 勝福寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 陽照るとも 山の氷は よもとけじ 里に時雨の あらんかぎりは



☆会津三十三観音札所巡り Part.03

 第7番札所「熊倉観音」へは、再び県道337号線に戻り、磐梯山の方に向かって3qほど進みます。右側に吉本屋というラーメン屋さんのところの信号を左折し、100mほど入ると、右側に「紫雲山 光明寺」という隷書で書かれた看板があります。そこが目指す観音さまです。
 その看板の先の「光明寺」と掘られた門柱のところに、「観音様お参りの方へ これより先への車の進入を禁止致します 光明寺住職」とかかれた白い看板があり、たまたま近くにいた方にうかがうと、入れないのでそのまま路駐をすればといわれ、そのようにしました。その門柱の手前両側には石仏が祀られ、着物と帽子を羽織っていました。参道を進むと、その真ん中に大きなイチョウがあり、その右側には本堂、左側には観音堂がありました。
 その観音堂の壁には、「御朱印ご希望の方へ」という張り紙があり、新型コロナウイルス感染症の流行のため、ご朱印の記帳を中止させていただきますとのこと、どうしても希望するなら、住所、氏名、返信切手、御朱印料を同封してお送りくださいと書かれていました。このようなことが、いつまで続くのかな、と思いながらも、気を取り直して観音経を唱えました。

 お詣りが終わり、断られても仕方ないと思いながら、本堂の右手にある庫裡に行くと、そこの玄関にも観音堂と同じ御朱印中止の張り紙がありました。それでも、車があったので呼び鈴を押してみました。応答がなく、もう一度押すと、今度は声がしました。そこで玄関の戸を開けて、ご朱印をいただきたいことを伝えると、坊守さんらしい方はお待ちくださいといい、ご朱印をいただけました。
 たしかに新型コロナウイルス感染症はこわいですが、いつまでも外出自粛をしてばかりでは先に進めません。誰もいないお堂で、お経を唱えてお詣りしても、感染することはほぼゼロです。100%かからないとはいえませんが、生きているだけでも数%のリスクは必ずありますから、そろそろ近くへの外出はいいと思います。
 でも、路駐なので、急いで車に戻ると午前9時45分でした。ここに着いたのが9時30分でしたから、15分ほど路駐したことになります。すぐに車の窓を開けて、さらに冷房をして、次の第8番札所の「竹屋観音」をナビに入れました。ここから6.1q、時間にして10分だそうです。

 第7番札所 紫雲山 光明寺 (浄土宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 故里を 遙るばる出でて 熊倉の 仏に参る 身こそ安けれ



☆会津三十三観音札所巡り Part.04

 第8番札所「竹屋観音」へ向かう途中の熊倉町雄国を通ったら、道路の脇のソバ畑の花が真っ盛りでした。しかもこの日は真っ青な空で、遠くにまだ残雪の残る飯豊山がくっきりと見えます。そういえば、数年前に雄国沼のニッコウキスゲを見に行ったときに、雄国沼萩平駐車場でシャトルバスに乗り換えるのですが、その手前のソバ畑から飯豊山が見えたことを思い出しました。そこで急遽、そこに向かうと、その辺りからソバ畑の向こうにくっきりと飯豊山と喜多方の街並みが見えました。おそらく、このようなことがあるかもしれないと思い、別なカメラも持ってきていたので、それに偏光フィルターをつけて写真を撮りました。ちょっと場所を違えただけでいろいろな写真が撮れます。
 時計をみると午前10時半過ぎで、「熊倉観音」を出たのが9時45分ですから、そろそろ観音詣りを続けなければと思い、「竹屋観音」を目指しました。県道337号線(通称雄国パノラマライン)を進み、一ノ沢を右折して300mほど入ると、観音寺の裏手の駐車場に着きます。本来は表から入るのですが、ちょっと狭そうなので、ここから入りました。ここまでは、写真を撮った熊倉町雄国から3.3q、6分ほどでした。時間は午前10時45分です。

 車から下りて見渡すと、駐車場のところに観音さまの石像があり、その向こうに飯豊山がはっきりと見えました。そして、その手前の田んぼでは田植えが終わり、苗が風になびいてさわやかな時を感じました。
 本堂の裏手から表に回り、先に庫裡のほうに声を掛けたら、住職がラフな服装で出てきて、「こんな格好ですみません」といいながら、本堂のなかでご朱印をいただきました。その間、本尊さまの前で般若心経を唱えながらお詣りをしました。米沢からという話しをしたら、住職も米沢にはときどき来るそうで、そろそろ行ってもいいかな、と話していました。そこで、山形県内はほぼ1ヶ月ぐらいは感染者が出てないので大丈夫ではないかと話すと、行きたいなあといいました。
 やはり、どこにお詣りしても、新型コロナウイルス感染症の話しになります。それは仕方ないことですが、あまり気にしてばかりでは気持ち良くお詣りもできません。それでも、車の中にはアルコール系の除菌テッシュを準備してあるので、ときどきはそれで手や車のハンドルなどを拭きながらお詣りを続けました。
 ここ竹屋観音は喜多方市塩川町中屋沢にあり、次の第4番札所の「高吉観音」は、同じ喜多方市でも豊川町米室にあります。ナビで確認すると、7.4qで14分ほどです。

 第8番札所 大雲山 観音寺 (曹洞宗) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 今朝の日は 遙か竹屋の 観世音 急ぎ参りて 拝め旅人



☆会津三十三観音札所巡り Part.05

 第4番札所「高吉観音」へは、国道121号線を横切り、県道21号線を進み、喜多方市豊川町米室のところを福島県立喜多方桐桜高等学校のほうへ左折し、100mほどでまた左折します。すると、60mほどで目指す「高吉観音」がありました。
 進行方向の左側ですが、そこに駐車場もあり、周りは杉の木で囲まれています。そのせいか、周りは一般の住宅があり、しかも近くに高校があっても、ひっそりとした雰囲気があります。
 この「高吉観音」ですが、読みは「たかよし」というそうで、住所は福島県喜多方市豊川町米室高吉44となっています。その住所が先か、あるいはここに「高吉観音」があるからそのような住所になったのかはわかりませんが、山号にも「吉」の一字が入っています。
 先ずは時計を確認すると、午前11時23分です。

 先ずは観音堂の鰐口を鳴らし、お賽銭をあげ、観音経を唱えてお詣りをしました。その間もほとんど人の気配もなく、風が通り抜ける音だけは感じました。
 お詣りが終わって、堂内を見てみると、昭和63年8月吉日に奉納された提灯に「高吉観音講」と手書きされていて、地区内の信仰の篤さを感じました。おそらく、このような観音講があちこちにあり、農閑期のころなどにお詣りされていたのではないかと思います。また、千羽鶴がたくさん下げられていて、大きなものには上の部分に白い布が掛けられていて、奉納した方の名前も記されていました。
 観音堂の左側の柱のところに、ご朱印所の案内が張られていて、それを確認してから車に乗り込みました。ここから70mと書いてあり、歩いても行けそうでしたが、だいぶ気温が高かったので、車で行きました。その入口には、車数台が駐車できるスペースがあり、呼び鈴を押すと、すぐに出てきてくれました。
 ご朱印帳を出すと、丁寧にご朱印をしてくれ、80歳も過ぎるとこの暑さは体に響くといいながらも、しっかりと対応してくれました。このような対応が、とても印象に残るもので、清々しい気持ちで次の札所に向かうことができました。
 次は第3番札所「綾金観音」です。場所は同じ豊川町米室ですが、ナビで確認すると1.5q、およそ4分です。

 第4番札所 吉例山 徳勝寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 掻き分けて 参りて拝む 高吉の 仏の光 道ぞ輝く



☆会津三十三観音札所巡り Part.06

 第3番札所「綾金観音」へは、いったん福島県立喜多方桐桜高等学校のところまで戻り、そこを左折し、600mほど進んでまた左折し、800mほど行った右側にあります。そこに綾金公会堂もあり、その間の少し広くなったところに車を駐めました。
 その公会堂のわきに、「奉納 会津三十三観世音 三番綾金 十一面観世音 子育薬師堂 札所」と掘られた石柱が立てられています。十一面観世音と子育薬師堂は小さく二下りに掘られていて、どちらも地元の人たちにとっては大切な仏様だと思います。高さまでは測ってみなかったのですが、すぐわきのバックミラーとほぼ同じ高さなので、この門柱は台座を含めて3mほどはありそうでした。
 観音堂は左側にあり、右側には子育薬師堂があり、観音堂の右側には、「日本遺産 会津の三十三観音めぐり」のどこの札所にも設置されている看板が立っていました。これは「極上の会津プロジェクト協議会」が建てたもののようで、統一された案内板です。たしか、会津の三十三観音めぐりのことをBS-TBS「日本遺産」で放送されたことがあったので、その前後に設置されたもののようです。

 先ずは観音堂の前で、常の如く観音経を唱えてお詣りし、次に、隣の薬師堂のまえでもご真言を唱えお詣りしました。その間には飯豊山参道を開かれた南海上人の碑があり、今日は飯豊山もよく見えることから、何らかの縁を感じお詣りをさせてもらいました。
 この日は天気もよく、田植えも終わり、その補植をしている方も見られました。この観音堂の周りには桜の木が少しあるだけで日射しが強かったのですが、田んぼを渡る風が気持ちよく、車をそこに駐車したまま、ご朱印所に向かいました。
 公会堂の脇の道を進み、左折するとすぐの右側のお家がご朱印所のはずですが、呼び鈴をならしても誰も出てきません。もしかすると、間違っていたのかと思い、もう一度観音堂に戻り確認しましたが、この家に間違いなさそうです。何度呼び鈴を押してもだめなので、すぐ手前の家に伺うと、テレビの音が流れていたので人がいると思い、ここでも何度も呼び鈴を押しました。やっとわかったらしく、出てくるのも大変そうなので外から「ご朱印所はどこですか?」と声を掛けると、向かいの家だということでした。
 もう一度、そこに行き、何度か呼び鈴を押しましたが、とうとう誰も出てこないので、諦めて車に戻りました。おそらく、新型コロナウイルス感染症の影響で不要不急の外出が自粛され、ほとんどお詣りがなかったので、留守にされていたのではないかと思います。すこしは、そのようなことも考えましたが、ここ会津33観音は近くでもあり、もしだめなら何度か来てもいいというぐらいの考えでした。でも、実際にそのようになると、ちょっとガッカリしました。
 しかし、後日談になりますが、6月22日からの「会津三十三観音札所巡り」では、最初にここに回りました。すると、ちょうど車に乗り出かけるところでした。ここに着いたのは午前8時30分でしたから、仕事のようでしたが、それでもなんとかご朱印をいただけました。それから、ゆっくりとお堂でお詣りをしていると、そのわきをご朱印をしてくれた方が車で走り去って行きました。もし、数分でもタイミングが合わなければ、いただけなかったと思うと、とても有難かったです。
 さて、6月10日ですが、車に戻って時計を確認すると、12時を過ぎていました。次は第2番「松野観音」です。

 第3番札所 長流山 金泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 露の身の 夢幻(ゆめまぼろし)の 世の中に 身を綾金と いで 祈るらん



☆会津三十三観音札所巡り Part.07

 第2番札所「松野観音」は、喜多方市慶徳町松舞家字松野にあり、ナビで確認すると、「綾金観音」から3.3q、8分でした。
 先ずは県道16号線を進み、濁川を渡り、慶徳郵便局から100mほどで右折し、さらに100mほどで右折し進むと左側に「松野観音」があります。
 しかし、またご朱印をいただけないと困ると思い、先にご朱印所の良縁寺に行きました。ここに着いたのが12時12分です。ところが、お寺の庫裏に行くと、玄関先に「新型コロナウイルス感染拡大予防のため、当札所では当分の間、御朱印の直接対応を控えさせていただきます。」などと書いてあり、そのわきにご朱印代を入れる木箱があり、さらにその隣に透明のケースのなかにご朱印がナイロン袋に入れてありました。その中には、今回に限りだそうですが、「良縁地蔵オリジナルステッカー」が同封されていて、お守りになると添え書きがありました。
 今回の新型コロナウイルス感染症は多方面に影響を与えていますが、神社仏閣も例外ではありません。このあともお詣りして歩くと感じましたが、早く収束してもらいたいと祈るばかりです。ここでは、せっかくなので本堂と左脇の松野地蔵さまにもお詣りし、手前にあった観音堂に戻りました。

 実は、右の観音堂の写真を撮ったのは6月22日です。この日は近くを通りかかったので、再度お詣りしました。ここはご朱印所の良縁寺から400mほどしか離れていないので、少しばかり大きな声で観音経を唱えても大丈夫です。もちろん、周りに誰もいないのでマスクも外してお詣りしました。
 お堂の後ろのほうにはクリの木の花がたくさん咲いていて、やはり梅雨の季節です。お堂の中の青紫色の布の外れから、少しだけお姿が見えます。まったく見えないよりは、お詣りしていても気持ちが入ります。このご本尊さまが元禄7(1694)年に火災で焼失したときに、新たな像のなかにこの灰をおさめたと伝えられているそうです。今回も会津の観音さまをお詣りしていて、やはり、一番こわいのは火災だと思います。そういえば、柳津の圓蔵寺付近の大火ですべて焼失してしまったとき、これからはこのような災難に遭わないようにと、「あわ餅」をつくったのが名物の始まりだそうです。
 この願い通り、災難にはあわないほうがいいわけで、新型コロナウイルス感染症にもあいたくはないです。そういえば、松野観音堂に向かって右側には、庚申塔や小さな石仏を祀ったところもあり、「湯殿山百度」と彫られた大きな石塔もありました。おそらく、多くの人たちがさまざまな願いを込めてお詣りをしていることが、これらの石塔から感じられます。
 次は第1番「大木観音」です。ここからだと5qで9分ぐらいだといいます。もうお昼は過ぎていますが、もし食べるところでもあればと思いながら、進みました。

 第2番札所 物宝山 良縁寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 朝日射す 夕日輝く 大山寺 松野の里に 晴るる薄雲



☆会津三十三観音札所巡り Part.08

 第1番札所「大木観音」は、喜多方市塩川町大田木字塚田にあり、ナビで確認すると、「松野観音」から4.7q、10分でした。
 先ずは県道336号線を進み、県道61号線に入って濁川を渡り、橋から200mのところの信号機から右折し、700mほど走ると左側の案内板から左折すると150mほどで着きます。ここが会津三十三観音の第1番札所の「大木観音」です。
 本来は順番通りにここからお詣りを始めればいいのでしょうが、どこの霊場も移転されたりしてなかなかそのようにはできないようです。私の場合は、米沢から出発するので、どうしても一番近い熱塩観音から始めてしまいます。でも、さすが第1番札所ですから、立派な観音堂です。仁王門と観音堂の間に駐車場があり、そこに車を駐め、仁王門から入りました。その仁王門の道路側に、「会津三十三観音札所一番大木」と掘られた石柱が立っていました。そういえば、ここは大田木ですから、そこから「大木観音」といわれるようになったのかな、と思いました。
 札所巡りをしていて、ほとんど自分の写真は撮らないのですが、ここは第1番札所なので、記念撮影をしました。平らな所にカメラを置き、セルフタイマーで失敗すると困るので何枚か撮りました。

 仁王門は大きく、そこをくぐると真正面に観音堂が見えます。ここの観音堂は常安という長者が創設したそうで、徳一上人が開基です。しかし天正17(1589)年に伊達政宗が会津侵攻した際に消失してしまい、その後上杉景勝が再建したと伝えられています。
 ということは、米沢とも深い縁があるのではないかと思い、懇ろに観音経を唱えお詣りしました。ここに着いたのは午後12時35分ですから、ちょうどお昼の時間で、周りには人の気配が感じられません。いくら大きな声で唱えても迷惑にはならないと思い、思いっきり声を出しました。
 お詣りが終わって、堂内を見ると、正面に「南無観世音菩薩」と書かれた掛軸がかけられ、その右脇にご本尊とおぼしき十一面観世音菩薩さまがまつられていました。ほとんどが厨子におさめられて見えないのですが、ここははっきりとわかり、やはりこのほうが有り難さが何倍も感じられます。そして、ここにも、たくさんの千羽鶴が吊されていて、この辺りの風習ではないかと思いました。
 お詣りが終わって右下を見ると、ご朱印所の地図がありました。そこには、No.1、No.2、No.3と印があり、もしNo.1が留守ならNo.2へ行き、それでもいなければNo.3に行くことと書いてあり、ラミネートされた地図が数枚入っていました。そこで、車をそこに駐めたまま、先ずNo.1に行くと誰もいなくて、次のNo.2へ行くと、すぐに出てきてくれました。なるほど、これはいいかもしれないと思いました。たった1軒で対応すると、急用で出かけることもあります。これだと、まさか3軒とも誰もいないということはなさそうです。ただ、冠婚葬祭の場合はそれでもいなくなることはあるかな、と思いながら、ご朱印をいただき、観音堂に戻りました。
 時間は午後1時5分です。次は第9番「遠田観音」です。途中で食べるところでもあれば、昼食にしようと思いながら出発しました。

 第1番札所 紅梅山 常安寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 万代の 願い大木の 観世音 あの世とともに 救(たす)け給えや



☆会津三十三観音札所巡り Part.09

 第2番札所「遠田観音」は、喜多方市塩川町遠田にあり、ナビで確認すると、4.8q、10分ということでした。
 県道21号線まで戻り、そこを2qほど喜多方のほうへ進み、信号のない十字路を右折し、そこから1.6qほど言ったところで、ちょっとわかりにくいのですが、左折して進むと両側に門柱あります。そこを入ると遠田観音堂の後ろ側が見えます。その付近が駐車場になっていて、そこに車を駐めました、ここに着いたのが午後1時15分です。
 さっそく、観音堂の前にまわって、その前の道を確認すると、少し下ったところに田んぼがあり、その先には日橋川があり、阿賀川にそそいでいるそうです。つまりは、ここから昔は歩いて観音さまにお詣りしたようで、それが車道が出来て、後ろから入るようになってしまったみたいです。
 こういうところはあちこちにあり、今はほとんどが車で動くので、車道が優先されてしまいます。ここに来る途中で見えたのですが、ここはこんもりとした樹々に覆われています。だから、この日は暑かったのですが、だれも来ないので車の窓ガラスは開けっ放しにしておきました。

 観音堂のまえで、杉木立を渡る風の涼しさを感じながら観音経を唱えました。こういうおだやかな時間こそ、お詣りしてよかったと感じるときです。真昼なのに、ほとんど何も聞こえない、そんな空間がここにはありました。
 お詣りが終わって堂内を見ると、戦の陣屋を描いた大きな額が正面上に飾られていました。昭和10年旧3月24日と記されています。ここは会津若松と米沢を結ぶ米沢街道のルートにあり、その当時はとても栄えていたようで、宿場や市もたっていたそうです。その名残が阿賀川に流れる日橋川を向いて建てられている観音堂というわけです。
 ご朱印所は大光寺と書いてあったので、そこへ行くと、住職が出てこられ、ご朱印をいただけました。書いてもらっている間に庭を見ると、曲がりくねったシダレヒバがあり、その間から本堂の「福聚山」と彫られた山号額が見えます。
 帰りに、観音堂のわきを通るので、もう一度軽く会釈をして、車に戻りました。もう午後1時35分です。だいぶお腹が空いてきました。次は第10番「勝常観音」です。先ずはいったん県道127号線に入り、進むことにしました。
 すると日橋川の橋を渡った左側に、「道の駅あいづ湯川・会津坂下」を見つけました。私の車のナビには出てこないところをみると、比較的新しい施設のようです。そこの駐車場に車を駐め、中に入ると、農家レストラン「くうべぇる」がありました。でも、食べている人は誰もいなく、お店の方に営業していますか、と尋ねました。すると、やっているとのこと、お勧めを聞くと、夏メニーとして「ローストビーフ冷やしラーメン」を始めたばかりで美味しいというので、それを頼みました。これは会津坂下町の名物だそうで、ここの道の駅オリジナルだそうです。味付けは塩のみで、私にはちょっとしょっぱかったのですが、完食しました。900円でした。
 車に戻り時間を確認すると、午後2時18分です。ここから次は第10番「勝常観音」までは3.4q、6分とのことでした。

 第9番札所 福聚山 大光寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 後の世を 願う心を 照らすらん 遠田の沖に 出づる月影



☆会津三十三観音札所巡り Part.10

 第10番「勝常観音」は、河沼郡湯川村勝常代舞にあります。近くに湯川村営駐車場があると案内書に書いてあったのですが、電線工事をしていたのでその場所がわからず、入口の近くに駐めました。ここに着いたのが午後2時22分で、すぐに仁王門のところから入り、霊宝殿のところでお詣りしました。
 ここは、なぜかコンクリート造りの建物が霊宝殿と観音堂を兼ねていて、殺風景な階段を上ったところでのお詣りです。しかも、仁王門のところに、「当分の間仏像拝観休みます」とだけ書いてあり、当分というのはいつまでなんだろう、と思いました。
 ここで観音経を唱えていると、階段を上ったところに空間があるので、とても反響します。でも、お詣りが終わって見渡すと、やはり味気ないものです。おそらく、中に国の重要文化財にも指定されている十一面観世音菩薩が安置されているのでしょうが、ここからは鉄の扉でしっかりと閉じられ、大きな錠前を見せつけられると、ちょっと観音さまとの距離を感じてしまいます。格子でもなんでもいいのですが、少しすき間があれば、なんとか観音さまを感じることができますが、ここではそのようには思えませんでした。

 霊宝殿から薬師堂に向かうと、さすがこれも国の重要文化財のお堂だけに、見事な造りです。五間四方の寄せ棟の建物で、屋根のスキッとした流れに堂々たる姿が感じられます。
 ここでもお詣りしましたが、やはり気持ち的には、こちらの建物のほうが馴染みやすく、気も落ち着きます。外見より中身が大切だとは思いますが、人によっては姿形から入ることもあります。
 お詣りをすませて、いったん車に戻り、その道路をはさんだすぐ向かいの本堂のところに車を駐めました。その先が庫裡で、そこでご朱印をいただきました。
 ここでも、新型コロナウイルス感染症の影響でほとんどお詣りがないとのこと、やはり深刻な影響を考えないわけにはいかないようです。しかし、まだいつ収束するかもわからないので、当分の間はマスクをして、うがい手洗いをして、あまり人混みのなかに行かないことも大切です。しかし、今回、この会津三十三観音札所を巡ってみて、ほとんど他の方と出合うということはありませんでした。つまり三密とはほど遠いのがお詣りではないかとも思います。
 本堂前の駐車場の車に戻ると、14時40分でした。
 もう少しお詣りできると思い、次は第33番「御池観音」をナビに入力し、ここから約10分、6.2qとのことでした。

 第10番札所 瑠璃光山 勝常寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 幾度も 歩みを運ぶ 勝常寺 うまれ会津の 中の御仏(みほとけ)



☆会津三十三観音札所巡り Part.11

 第33番「御池観音」は、河沼郡会津坂下町大字御池田にあります。小字は寺ノ前ですから、いかにも近くにお寺があるとわかるような住所です。
 先ずは「勝常観音」を出発し、左折し、県道33号線まで1qほど進みます。そこから右折し、3.4qほど走り、コンビニのところの信号を右折します。そこを900mほど進むと十字路があり、そこを左折しそのまま進むと左側の田んぼの先にお寺が見えます。その付近の田んぼは、ほとんどが田植えが終わっていて、苗が風でそよいでいます。遠くからでも、2本の旗竿がはっきりと見えました。
 そして、お寺のほうに右折し、そのまま進むと門柱があり、旗竿はその両側に立っていました。その左側から入ると、駐車場になっていました。
 ここに着いたのが午後2時50分です。車を駐めてから、もう一度門柱のところまで戻り、そこから境内に入ると、真正面が本堂で、左側に観音堂がありました。

 先に庫裡のほうに行き、呼び鈴を鳴らすと、すぐに出てきてくれて、ご朱印をお願いしました。それから観音堂の前に行き、観音経を唱えました。
 ここまでで11ヶ寺ですが、ここは第33番札所ですから、今日はすでに第1番札所もお詣りしたので、だいぶ中抜きですが気分的にはお詣りした充実感はあります。しかも天気に恵まれて、ほとんど迷うこともなかったので、順調に進みました。最初の予定では、第1番札所から第10番札所までお詣りできればと考えていたのですが、このまま進めば第31番の「立木観音」までは行けそうです。
 お詣りが終わって、もう一度庫裡にまわり、ご朱印帳をいただきました。ここは、しっかりと手書きされていて、しかも、「日本遺産 会津三十三観音 第三十三番札所 御池聖観世音」と彫られた上に可愛らしい観音さまの朱印もいただけて、とても有難かったです。
 第33番といえば、いわば締めですから、こういう心づかいでお詣りが終われば、とても印象深くなります。ただ、ここ会津三十三観音は番外札所が3ヶ寺あるので、あわせて36ヶ寺をお詣りすることになります。
 門柱のところまで戻ると、その左側に六地蔵と唐金の観音像がまつられていました。もし駐車場からそのまま観音堂に行けば、おそらく気づかなかったかもしれません。やはり、お詣りをするときには、正式な入口から入らなければと改めて思いました。
 次は第32番「青津観音」です。ナビで確認すると、ここからは3.6q、8分のようです。

 第33番札所 羽黒山 西光寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 参るより 恵みも深き 御池の 池の蓮(はちす)は 我を待つらん



☆会津三十三観音札所巡り Part.12

 第32番「青津観音」は、河沼郡会津坂下町大字青津にあります。先ずはご朱印所のある浄泉寺を目指します。
 ここから狭い道を進みながらも県道21号線に入り、喜多方方面に進みます。約1.8qほど行き、信号のある交差点を左折し、400mほどで青津児童公園の方へ右折します。その脇が 浄泉寺です。
 その門前が駐車場になっていて、そこから山門をくぐると、正面に本堂があります。この右側が庫裡になっていて、そこでご朱印をお願いしました。住職が留守とのことで、書いてあったものに日にちを入れてもらいました。いただいてから、青津観音堂の場所を確認すると、ここから400mほどだということでしたが、鎮守森古墳へのところから入ったので遠回りしたようです。その入口の右側には、「会津三十二番観世音札所」と彫られた石碑があり、左側には会津坂下町教育委員会の「亀ケ森・鎮守森古墳」の説明板がありました。
 その右側の草地が駐車場のようで、そこに車を駐めて、長い参道を歩くと、その先は石段になっていて、そこを上るとその石段が2つに分かれます。左側の御影石の石段の先には石の鳥居があり、その先は稲荷神社になっていました。おそらく、明治時代の神仏分離の太政官令のころから石段も分けられたようで、その右側の石段を上ると、その先に観音堂がありました。

 ここは前方後円墳の亀ヶ森古墳の後円部の上に建っているそうで、周りの樹々に視界は少し阻まれますが、そのすき間からは高台にあることがわかります。この付近には誰もいないので、ゆっくりと大きな声で観音経を唱えました。今日はすごく暑いのですが、樹々を渡ってくる風はさわやかです。
 成田山と書かれた板札も奉納されていて、ご朱印所を示す地図も貼ってありました。でも、ご詠歌をみると、なぜか「青木に繁りつつ」とありますが、ここは青津観音です。それで気になり、案内書を読んでみると、もともとは大同年間に青木村に建てられたのですが、大地震や洪水などでお堂が崩壊し、ご本尊さまが下流の青津村に流れ着いたそうです。そこで浄泉寺で長くおまつりしていたのですが、正保3(1646)年に観音堂を建立し、寛文5(1665)年に会津藩により正式に第32番札所として認められたそうです。
 しかし、ご詠歌だけは「青木」のまま改められることなく、現在まで伝わっているそうです。たしかに、ご詠歌のなかにだけでも名が残れば、その長い歴史も伝えられることになります。すべてを新しくという時代の流れもありますが、残せるところは残すという気持ちも大切だとここでは強く感じました。
 観音さまをお詣りして歩くと、まさにいろいろな気づきがあります。これなどもそのひとつです。しかも、古墳だからその上には何もつくらせないというよりは、この高台にあるからこそ、観音堂も護られているのかもしれません。
 駐車場に戻ると午後3時40分です。まだまわれるのではないかと思い、第31番「立木観音」をナビで調べると、ここから4.7q、8分とのことです。

 第32番札所 清光山 浄泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 春は花 夏は青木に 繁りつつ 秋は紅葉(もみじ)に 染むる 露しも



☆会津三十三観音札所巡り Part.13

 第31番「立木観音」は、先ず県道21号線には入らず、旧宮川の橋を渡り、特養の会津寿楽荘のところを左折し、300mほどで左側に恵隆寺の裏の駐車場があります。ここには、3〜4台しか駐められませんが、今回はここに駐めました。青津観音からは、ちょうど10分でした。
 すぐに庫裡の方に向かうと、しばらくの間は御前10時から午後3時までの受付で、ご朱印もその時間でなければできないということでした。そして、山門のところに但し書きがあるということでしたが、私は裏から入ったのでわかりませんでした。
 ご朱印はいただけないということなので、そこから山門のところまで行き、そのことを確認すると、たしかに「感染症予防の為の執務変更」という題で時間と朱印は接触を避けるために紙朱印のみと書かれていました。また観音堂のところにも同じ張り紙がしてありました。

 でも、お詣りだけはできそうなので、弘法大師空海作と伝えられる身丈二丈八尺の千手観音を頭のなかに描きながら観音経を唱えました。
 遠くで副住職が境内地を掃いている箒の音が聞こえたり、野鳥のさえずりが聞こえたり、おそらく誰もいないからこそ聞こえてくるものがあります。そういえば、野球の無観客ゲームを見ていると、今まで聞こえてこなかったバットが球にあたった鋭い音などが聞こえてきたり、サッカーなどでも走っている様々な音が感じられるようです。それはそれなりに、新たな感覚です。
 てきないことを数え上げるよりも、できることをしてみると、また新たな楽しみが生まれてきます。ここ立木観音でもご朱印こそもらえませんでしたが、広い境内のなかで、静かにお詣りできて、とても有難かったです。駐車場に戻ると午後4時15分でした。今日のお詣りはここまでにして、喜多方の太郎庵にまわってお土産を買い、自宅へと帰りました。
 この日の車での移動距離は174.6qで、万歩計は13,337歩でした。次はいつ再開できるかわかりませんが、もし機会があれば、今回ご朱印のいただけなかった第3番札所「綾金観音」とここ第31番「立木観音」といただきたいと思いました。

 第31番札所 金塔山 恵隆寺 (真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 遙るばると 参りて拝む 恵隆寺(えりゅうでら) いつも絶えせぬ 松風の音



☆会津三十三観音札所巡り Part.14

 6月19日に全国的に不要不急の外出自粛が解除されたこともあり、6月22〜24日にかけて、会津三十三観音札所巡りを再開しました。
 先ずは自宅を午前7時35分に立ち、先に第3番札所「綾金観音」でご朱印をもらうなどして、第11番「束原観音」に向かいました。ここは河沼郡会津坂下町束原にあり、ナビで確認すると束原公民館近くということでした。ここに着いたのは午前9時43分です。
 さきにその観音堂の左手の駐車場に車を駐め、石塔や石碑、そして満蔵寺の本堂と観音堂もいっしょに写真を撮りました。観音堂の後ろに本堂があり、そこには「流古山」という山号額が掲げられていますが、おそらく今は無住ではないかと思いました。

 ここは会津三十三観音札所のなかで唯一の馬頭観音さまをまつるところで、明治時代ころまでは近くに船の渡し場などがあり、けっこう賑わっていたそうです。だから、馬なども必要で、おそらくそれでまつられるようになったのかもしれません。
 観音堂の階段の上の回廊部分で、鰐口を鳴らし、お詣りをしました。中をのぞいてみてもご本尊さまは見えず、案内書によれば、像の高さが50.8pで、三面八臂のお姿だそうです。お詣りをすませ、そのお堂の前に立ってみると、入母屋造の屋根で、きれいに管理されています。
 このお堂の近くには、消防の派出所などがあり、この地の中心部にあります。しかも、他の観音堂近くには子どもの滑り台やブランコなどの遊具があるのに、ここはいかにも境内地といった風情です。でも、石塔や石碑などいくつも立っているところを見ると、純粋な信仰の場所のようです。
 お堂のところに、ご朱印所の地図があったので、それを頼りに行きました。ところが別な稲垣さんのところに行ったらしく、そこで携帯電話の番号が書いてあったのを思いだし、そこにかけてみました。すると、すぐに出てくれ、しかも、その間違ったところに来てくれ、その車のあとをついて行きました。すぐに玄関に入り、ご朱印をしてくれました。
 彼は満蔵寺の檀徒総代だそうで、今回のように携帯電話の番号が書いてあるとすぐわかり、とても有難いと思いました。その庭にはヤクシマシャクナゲの大株があり、だいぶ花が咲いたようで、花殻もそのままでした。ついでに、それも写真におさめ、次の第18番「滝沢観音」に向かいました。
 時間は10時12分で、ここから13.1q、26分程度かかるとナビには出ていました。

 第11番札所 流古山 満蔵寺 (天台宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 昔より 誰(た)がたてそめし ふるしきの 久しかるべき 束の原かな



☆会津三十三観音札所巡り Part.15

 第18番「滝沢観音」は、会津若松市一箕町八幡滝沢にあります。第11番「束原観音」からだと、先ずは国道49号線に出て、郷ノ原の交差点を右折し県道64号線に入ります。そして、不動川橋を左折し、旧滝沢本陣のところをまた左折し進み、黒田荘という民宿のところのカーブから少しいったところの右側に「ご朱印所」という看板が見えました。
 そこで、先にそこにまわり、ご朱印をいただき、滝沢観音への道を聞きました。すると、地図には出てこないようですが、馬頭観音石碑の右手の道を進むと、両側には草が茂り車体にぶつかってきますが、それでも約500mほど進むと「会津トライアルクラブ」の駐車場がありました。ここで時計をみると、午前10時45分でした。
 ここからさらに200mほど進むと、右側に川まで下りる石段があり、その手前に「滝沢観音堂」と書かれた「日本遺産 会津の三十三観音めぐり」の極上の会津プロジェクト協議会の案内板がありました。これは、ほとんどの会津三十三観音のお堂の脇に設置されていて、とてもわかりやすいものです。
 その狭い石段の脇にはたくさんの「南無不動明王」と白く染め抜きにされた真っ赤な幟旗が立っていて、迷うことなく進むことができます。下までおりると、不動川のわきを添うように参道があり、その両脇にも真っ赤な幟旗が立ち並んでいます。そして白糸神社の鳥居をくぐり、さらに進むと、突き当たりに白糸神社があり、その後ろ側に滝がありました。

 その滝から流れ出していたのが不動川で、そこに掛かる橋を渡ると、右に不動堂、そして左に観音堂があります。この観音堂は、もともと明治の廃仏毀釈までは一箕山八幡宮の拝殿西側にあったそうですが、そこにお堂をそのまま残し、ここに新たに建てたそうです。
 ここは会津若松に近いとはいえ、まったくの山の中で、おそらく付近には人家はなさそうです。いくら大きな声で観音経を唱えても、滝の音でかき消されてしまいます。ここはほんとうにお詣りするのに適したところで、心も落ち着きます。
 観音堂でお詣りをすませ、せっかくなので不動堂や白糸神社にもお参りしました。それから、滝壺近くまで下りていき、写真を撮りました。水量はそれほどでもないのですが、水行をするにはいい場所です。だから、真っ赤な幟旗にカンマンと「南無不動明王」と白く染め抜かれたのがたくさん立ててあったのは、ここではお不動さまの信仰が多いからではないかと思います。
 ここまでの行程を調べているときには、どこまで車で行けるのか予想もできなかったのですが、たまたまご朱印所を見つけ、そこで聞いたからこそここまで導かれて来たようです。やはり、案ずるより産むが易しです。考えているよりは、先ずは行動に移すことです。行けばなんとかなります。ここ「滝沢観音」まで来て、そのように思いました。
 帰りはなんの不安もなく駐車場まで戻り、時計をみると午前11時15分です。もっと時間が経ったように思っていましたが、たった30分でした。それだけ濃密なお詣りだったようです。次は第20番「御山観音」です。ナビで確認すると8.2qでした。

 第18番札所 一箕山 滝沢寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 滝沢の 落ちて流るる 滝の水 かかる末々(すえずえ) 弥勒なるらん



☆会津三十三観音札所巡り Part.16

 第20番「御山観音」は、会津若松市門田町御山にあります。先ずは県道64号線に出てあいづ総合体育館のところまで進みます。そこから左折し、ずんずんと山のほうへ上っていくと、果樹園のなかに宝珠形の門柱が建ち、右には「神護山」、左には「照谷寺」と鮮やかな緑色に縁取られたものがあります。
 ここからさらに進むと、右手に鐘楼があり、真正面に観音堂があります。先に左手にある本堂のわきに庫裡があり、そこでご朱印を頼み、観音堂に戻りました。もともとはご詠歌にもあるように、北東の山の中にあり岩屋観音として信仰されていたそうですが、老朽化し倒壊してしまったので、平成4(1992)年にここ照谷寺境内に建て替えられたそうです。
 ここも、第32番「青津観音」と同じように、ご詠歌にその名の名残が残されていて、そこから歴史を紐解くのもいいものだと思いました。
 観音堂の前には、両側に石の観音さまがまつられていて、格子の間からは内陣も見えました。

 ここは、果樹園に囲まれたようなところで、観音堂のすぐ近くでは、草刈りをしている農家の方もおられました。そこで鰐口を鳴らし、ゆっくりと観音経を唱え、お詣りをしました。ときどき、草刈り機の音に負けそうになりましたが、それ以上の声を出し、お詣りを続けました。
 内陣には、立派な太鼓があり、ご本尊さまは宮殿形の厨子におさめられているようで、その上には黒塗りの額に金文字でご詠歌が書かれていました。おそらく、すべてが建て替えられたときに整えられたもののようです。
 お詣りをすませ、ご朱印帳をいただきに庫裡に行くと、すでに記入を済ませ、さらにのどを潤してくださいと缶のお茶をいただきました。そして、ぜひ梵鐘を鳴らしてお帰りくださいと言われました。おそらく、普通は鳴らしたいと思っても、出来ないときのときのほうが多いのに、ここは町中から遠く離れているからなのかとも思いました。
 せっかくの申し出なので鐘楼に行くと、左側の黒御影石に寄進者の名前が彫られていて、ここを建立したのは平成13年4月とありました。また、右側の案内板には、「鐘をついて今日の幸福を祈りましょう」と書いてあり、そのわきに「今日も 鐘がなるなり 照谷寺」と書き添えてありました。
 そこで、6段の石段を上り、京都の醍醐寺で鐘をついたときのように、後ろ向きになって、少しずつスイングをしながら、最後は思いっきり鐘をつきました。自分でもびっくりするほど大きく鳴りました。おそらく、住職にもこの音がしっかり届いたと思って、車に乗り込みました。
 次は第23番「高倉観音」です。ナビで確認すると、ここから7qということです。

 第20番札所 神護山 照谷寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 遙るばると 登りて拝む 岩屋山 いちも絶えせぬ 松風の音



☆会津三十三観音札所巡り Part.17

 第23番「高倉観音」は、大沼郡会津美里町字丸山にあります。先ずは県道64号線に出て、あいづ総合体育館の右側を通り、そのまままっすぐに県道128号線を進みます。ナビでみると、ご朱印所の圓通寺はその途中にあるようなので、先にそこにまわるようナビに入力をし直しました。
 圓通寺は、大沼郡会津美里町字本郷にあり、すぐにわかりました。ここは浄土宗の寺院で、本堂の右の柱には「白鳳山 喜福院」、そして左には「浄土宗 圓通寺」と書かれたものが掛けられていました。先ずは本堂でお詣りし、右手にある庫裡でご朱印をいただきました。そこで、いちおう観音堂の場所を確認し、それから出発しました。
 ナビではここから1.1qとあり、県道128号線と県道72号線の交差点のところから、左に入る狭い道を進むと300mほどで「高倉観音」です。右側に少し広場がありますが、やっと車1台が駐められるぐらいです。そこに着いたのが12時15分です。

 ここは右側に熊野神社があり、左側が「高倉観音」に上る石段があります。その間には数基の石碑が建ち、石段の左手前には会津美里町教育委員会の名前で高倉観音についての案内板が立っていて、右側には「鳳皇地蔵尊(地蔵一尊浮彫板碑)」が昭和63年2月10日に会津美里町指定重要文化財に指定されたことを示す看板があり、その間の石段を上ります。この丘のような場所が丸山という字名になっていました。
 石段は200段ほどあり、その途中の左側にこの地に観音堂を移したという僧道栄の墓があり、「元文五年庚申年閏七月十九日」と彫られていました。さらにそこを上りきると真正面に観音堂が見えてきます。正面には、鰐口が小さいわりには太い麻縄が下がっていて、それを鳴らしてお詣りをしました。
 周りは樹々に覆われていて、見晴らしはありませんが、吹き渡る風はさわやかです。ほとんど人や車の音も聞こえません。おそらく、道栄さんはこの場所がとても気に入り、移したのではないかと思いました。
 駐車場でもないところに、やっと入れて車を駐めてきたので、それも心配でそうそうに下りました。入口の全体を撮るために、いったん車を道路に出してから、撮り直しました。それでも、ほとんど車の通行のない細道なので、気分的にも楽です。そして時間を確認すると12時35分でした。
 次は第22番「相川観音」です。ここから2.1qだそうですから、4〜5分で着きます。

 第23番札所 高倉山 観音堂 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 高倉は 宝を積みし 山なれば 人の願いも 満つる高倉



☆会津三十三観音札所巡り Part.18

 第22番「相川観音」は、大沼郡会津美里町氷玉字相川にあります。先ずは県道72号線に出て、そこを右折し、そのまま進むと右手に「相川観音」の案内板があり、そこを左折して500mほど進むと丘のようなところに突き当たり、そこに観音堂があります。
 その上り口の石段の右側に、駐車場(乗用車)の矢印があるので、そちらのほうに進みました。そこから50mほどの古い建物のわきに空き地があり、そこのようでした。ここでは、たしかに乗用車しか駐められそうもありません。
 そこに車を駐め戻ると、その石段の右側上には高倉観音と同じような会津美里町教育委員会の名前で相川観音についての案内板が立っいて、その後ろには石塔もありました。左側にも案内板があり、その間の石段を上って行きました。石段は訳1m50pほどありますが、右側がコンクリートの擁壁になっているので、ちょっと狭い感じです。

 石段を上りきると、その左側にアジサイが咲いていて、正面奥に観音堂が見えます。その前の境内地は広く、街灯もあるので、ここで地区の催しものなどもできそうです。右手には、害虫退治なのか、木を切った株に透明のビニールがかけられていました。ここは小高い丘のようなところなので、樹々もあり、管理も大変そうです。
 観音堂の正面には、水道の蛇口もあり、そこにはだいぶ摩耗した石仏がまつられていました。
 先ずは観音堂の回廊に上り、鰐口を鳴らし、お賽銭を入れ、数珠をすって観音経を唱えました。いつもの動作なので、ほとんど水の流れのようです。ここにも誰もいないので、腹の底から絞り出すように唱えることができました。今回は新型コロナウイルス感染症のこともあり、移動中はほとんどマスクをしていますが、観音堂の付近では、誰もいなければマスクを外し、ゆっくりとお詣りします。マスクで新型コロナウイルス感染症を予防することは難しいでしょうが、あくまでもエチケットとして有効です。ただ、お経を唱えるときにはないほうが声を出しやすいので、周りの様子を見ながら対処します。
 お詣りが終わって、観音堂などの写真を撮り、長い石段を下ると、道路をはさんだ左手側に「ご朱印所」と書かれたのを見つけ、玄関に行ってみました。ところが、その戸のところに、勤めに出ているので、ご用の方は朝か夜にお願いしますと書いた張り紙がありました。仕方ないので、近くの方にお聞きすると、一人暮しなので勤めに出かけると誰もいないということで、そこのおばあちゃんは住所を書いてくれると届けておくから、そうすれば送ってくれるかもしれないといいました。せっかくなので、そのようにしましたが、いまだそのままです。
 ただ、ご朱印をいただくのが目的ではなく、お詣りすることが大切なので、それだけで満足して次に行くことにしました。
 駐車場に行って時計をみると12時50分でした。次は第25番「領家観音」です。この近くに蕎麦屋さんがあるとネットで調べておいたので、先にそこに行くことにしました。ここから4.3qです。

 第22番札所 空窪山 自福寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 朝日射す 夕日輝く 相川の 月諸共(もろとも)に 出(い)づる御手洗(みたらし)



☆会津三十三観音札所巡り Part.19

 第25番「領家観音」は大沼郡会津美里町藤家舘字領家にあります。その隣に、民家のようなたたずまいの蕎麦屋さんがあるので、先に底に向かいました。ところが、定休日だったようで、閉まっていたので観音堂に行きました。
 観音堂の右側に駐車場があり、そこに駐めました。時間は13時で、お昼を食べるにはちょうどいい時間ですが、仕方ありません。どうも、観音詣りをすると、先に先にと進みたがるので、昼食を抜いたり、コンビニでおにぎりを買って車のなかで食べたりと、不規則です。本当は、せっかくの観音詣りなので、その地の名物料理などを食べたいと思っているのですが、いまだにできずにいます。
 でも、もう少し時間がとれたら、1日に3〜5ヵ所の観音堂をまわって、ゆっくり食事の時間もとり、温泉にも浸かってみたいと考えていますが、さて、いつできるのかといつも思います。

 車を駐めた左側がすぐに観音堂ですが、先ずはいったん駐車場から正面にまわると、道路のすぐそばに「会津札所 第二十五番 領家」と彫られた石碑が右側にあり、左側には「日本遺産 会津の三十三観音めぐり」の極上の会津プロジェクト協議会の案内板がありました。現在の観音堂は天保2(1831)年に再建されたものだそうで、曹洞宗らしい火灯窓が両側にあります。お堂に上ってお詣りしました。内陣を見ると、3〜4尺ほどの金色の観音像が安置されていますが、そのお顔のあたりに白い布が垂れ下がっています。ただ、頭部には十一面観世音菩薩像とわかり、下の部分を見ると坐像だということがわかります。
 ただ、これだけでも、観音さまに近づいてお詣りしたような気になれます。心なしか、いつもより声も大きく出ていたようです。
 ところが、その道路をはさんだ向かいのご朱印所には誰もいなくて、何度も声をかけましたが、留守のようでした。第22番「相川観音」もそうでしたが、2ヵ所続けてご朱印をいただけないと、少しは凹みます。仕方ないと思いながらも、気分は落ち込みます。
 そのような気持ちであらためてご詠歌を詠んでみると、なぜか第22番「相川観音」の「朝日射す 夕日輝く 相川の」の「相川」が「領池」に替わっただけです。えっ、と思ったのですが、ではなぜ領家ではなく領池なのかと思い、調べてみると、むかしはこの辺りに隣村までつながるような大きな池があり、この池を両村で使っていたので「りょうけ」が領池となり、そして領家になったそうです。
 ところが縁とは不思議なもので、翌23日にこの近くを通りかかったのでここのご朱印所にまわったら、呼び鈴を押すとすぐに声が聞こえてきました。今日はいたようで、すぐにご朱印がいただけました。なんか、それだけで、得したような気分になりました。
 次の第26番「富岡観音」までは、450mほどです。あっという間に着きそうです。

 第25番札所 延命山 常楽寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 朝日射す 夕日輝く 領池の 大悲の光 有明の月



☆会津三十三観音札所巡り Part.20

 第26番「冨岡観音」は大沼郡会津美里町冨川字冨岡にあります。ナビ通り、本当にあっという間に着きました。ここも観音堂の右側に駐車場がそこに駐めて、正面の仁王門のところから入りました。
 仁王門の両側には、アジサイが咲いていて、その内側には幟旗を立てるアルミの枠組みがありました。その右手奥には「福生寺観音堂」と彫られた石碑が立っています。
 また仁王門は立派で、昭和7年に建立されたそうで、その両側の軒下には大きな草鞋が掛けられ、その下の連子窓のところにも使えるような大きさの草鞋がかけられ、おそらくは足腰が丈夫になるようにとの願いが込められているようです。
 そこをくぐると、真正面に観音堂があり、その参道の両側には真っ赤なサルビアが植えられていて、観音堂手前の両側には少し意匠の違う遠州灯篭が建っていて、台座には「奉納」とだけ彫られています。奉納された方々の名前が所狭しと彫られているよりも、このほうがスッキリとして好ましく思いました。

 観音堂は、仁王門よりは古そうで、いつ建てられたかはわかりませんが、修理されたときに見つかった巡礼札には「文安3(1446)年」と記され打ち付けてあったそうですから、少なくてもそれ以前に建てられたことだけは間違いなさそうです。ご本尊さまは、室町時代の作だそうで、大きさは2m25pあり、この地が冨岡と呼ぶぐらい栄えていたそうです。そういえば、第25番「領家観音」とは450mほどしか離れていないところにこれだけの観音堂があるわけですから、それなりの豊かさがなければ建立できません。
 ここでも、回廊まで上がり、鰐口を鳴らし、お賽銭を入れ、観音経を唱えました。よく見ると、板戸には太陽と月を表すかのようにその形にくりぬかれていて、さきほどの遠州灯篭でも感じたのですが、とても凝っています。ここの観音堂は、土台もしっかりしていて、屋根も補修されていて、まわりの境内地も花などが植えられていて、日常の管理がしっかりされていることがわかります。
 内陣を見ると、ときどきお詣りしているようで、ロウソクや線香などもあり、畳もしっかり掃き清められています。ここなら、どうぞと言われれば、白足袋を履いていてもすぐに中でお詣りさせてもらえそうです。お堂の右側には「ご朱印ご希望の方は龍興寺(本寺の兼務寺)にてお受けください」と書かれていて、その下には住所と電話番号、そして詳しい地図も載せていて、それもスマホで撮って、後からまわろうと思いました。
 観音堂の右側手前には、五輪の塔や供養塔、庚申塔などがあり、観音堂の後ろは、墓地になっているようです。駐車場に戻ると、先ほど「領家観音」でも合った方がお詣りされていたようで、今回の観音詣りで初めての出会いでした。
 次は第24番「関山観音」です。ナビで確認するとここから7.1qで、蕎麦屋さんで昼食を食べようと考えなければ、相川観音からすぐに向かえば近かったのです。でも、そこまでは10分程度ですから、戻ったとしてもたいしたことはありません。

 第26番札所 日用山 福生寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 朝ぼらけ 賑わう里に 立つ煙 誠の人を とむる冨岡



☆会津三十三観音札所巡り Part.21

 第24番「関山観音」は大沼郡会津美里町氷玉字関山にあり、相川観音から直行すれば3.6qです。ここ「冨岡観音」からは、先ず県道23号線まで戻り、そこから氷玉川の橋を渡って丁字路で右折します。そして、氷玉古屋敷あたりから県道131号線に進み、関山地区から旧道に入ります。すると、右側に入口があります。
 ところが近くに駐車場が見当たらず、仕方なく県道131号線から入り込んだ丁字路の少し広くなったところに駐めました。時間は午後1時45分です。
 その道路のすぐわきに案内があり、その鉄の支柱のところに大般若の祈祷札が貼られていました。そして、入口の右側には、大きな石に「南無阿彌陀佛」と彫られた石碑があり、左側には、これも大きな石に「湯殿山」と深く彫られた石碑が建ち、その間に参道があります。そこを進むと、会津美里町教育委員会の「会津札所24番 関山観音」の案内板があり、その先には「日本遺産 会津の三十三観音めぐり」の極上の会津プロジェクト協議会の案内板もありました。
 そして、その先に60段ほどの石段があり、その手前右に祠があり、両脇には石塔が建っていました。石段には手すりがあり、そこを上りきると、真正面に観音堂がありました。

 観音堂は、創建当時は集落から少し離れたところにあったそうですが、ここに移ったのは寛政2(1790)年のことで、ご本尊さまは上小松村にあった十一面観世音菩薩を合併した際にここに安置されたということです。
 内陣にはロウソクや線香などが供えられていて、いつでもお詣りできるようになっていますが、この日は閉まっていて、中に入ることはできませんでした。それで、外の回廊のところで、いつものように鰐口を鳴らし、お賽銭を入れ、観音経を唱えました。
 お堂の右端には、「御参拝御苦労様です。納経 押印 お札の係はこの宅です」という案内板が掲げられていて、それをスマホで撮って、ご朱印所に向かいました。この案内板には、ほぼすべての家が書いてあり、そこにグリーンの丸印が係の家だそうです。印のあったのは栃沢の方に向かって左側で、声をかけても誰も出てきませんでした。そこで、その近くの方に聞くと、今は、さらに先の右側のお店だといいます。でも、そのお店もやっていないそうで、自宅の玄関に行くといいと教えてもらいました。
 そこで呼び鈴を押すと、娘さんが出てきて、すぐに対応してくれて、ご朱印をいただけました。そして、車に戻るときに家並を眺めると、昔はここは会津西街道の宿場町として栄えたそうで、その当時の風情が感じられます。今では、ほとんどが国道121号線を通るので、ほんとうに寂れてしまいましたが、この県道131号線を進むと大内ダムの脇を通り、大内宿にいたるそうです。
 ところがそんな余韻に浸っていると、雨がポツポツと降ってきたので、急いで車に戻りました。まだ午後2時15分ですが、今回の会津33観音めぐりはだいぶ余裕があるし、まだ昼食を食べていないこともあり、会津若松市内に戻ることにしました。その途中で、本降りになってきたので、フルーツピークス&フルーツショップaoki会津店でパスタのテイクアウトを頼み、その間に太郎庵のお菓子を買い、また戻ってついでなのでケーキなども買いました。それを持って、今夜泊まる予約をしている「中町フジグランドホテル」に向かいました。ここは15時からチェックインできるし、駐車場もすぐわきなのでとても便利です。
 部屋に落ち着いてから、コーヒーを入れパスタを食べ、まだ夕方まで時間があるので、野口英世青春通りを歩いて「野口英世青春館」に行きました。ここは、野口英世が手の手術を受けた旧会陽医院を利用した資料館で、英世の若いときのさまざまな資料が展示されていました。ここの1階は「會津一番館」という喫茶店ですが、次の機会にでもコーヒーを飲んでみたいと思いました。

 第24番札所 日當山 日輪寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 散る花を 止むる氷玉の 関の山 雲降り登る 道は一筋



☆会津三十三観音札所巡り Part.22

 今日は6月23日、ホテルで朝食を食べ、午前8時に出発しました。今日は第19番「石塚観音」から始めますが、このホテルの近くにご朱印所の金剛寺があるので、先ずはそこに行くことにしました。ナビで確認すると、ここから800mほどで、ほんとうにあっという間に着きました。
 狭い道を入ると、その左側が駐車場になっていて、そこに車を駐め、山門から入ると、正面が「寳珠山」と彫られた山号額の掛かる本堂があり、右手が庫裡です。呼び鈴を押すとすぐに出てきてくれて、ご朱印をいただけました。
 車に戻り、そこから県道59号線に入り、会津美里町の方へ進み、県道211号線のところから右折し、西若松駅近くの陸橋手前からその道路の下をくぐるようにして右折し、すぐに左折すると左側が駐車場です。ちょっとわかりにくいですが、陸橋があるのでこのような道順になります。
 入口の左側には、城西界隈まちづくり協議会のサポート事業として平成31年に立てられた「石塚山蓮台寺(石塚観音)」の案内板があり、その右側には「定」という時代劇にでも出てきそうな立て看板が立てられていて、そこには「1.境内ニ乗馬ヲ乗入レルコト、1.土石ニ改変ヲ加フルコト、1.焚火喫煙スルコト、1.草木ヲ伐採スルコト、1.鳥虫ヲ捕獲スルコト、右條々ヲ禁ス 石塚山 蓮臺寺 録事」と書いてありました。これも会津若松らしいな、と思いました。

 観音堂に向かう参道の手前には、右には「百度石」、左には「御寳前」と彫られた石碑が立てられていて、その間を進むと正面が観音堂です。
 この間は木立になっていて、夏などは清々しい風が吹き渡るのではないかと思われますが、昨夜の雨で濡れた参道も水をまいて清めたような感じでした。ほとんどそれらの樹々が邪魔をして、観音堂がはっきりとは見えませんでした。
 朝一番目のお詣りなので、ゆっくりと静かに観音経を唱えました。ここは通行量の多い道路のわきですが、陸橋の下にあることもあり、意外と静かです。近くには、会津鉄道の「西若松駅」がありますが、ここから特急電車で東京の浅草駅まで行けるそうで、片道料金が6,880円だそうです。ただ、9時38分の電車に乗ると、浅草駅に着くのは14時15分ですから、時間はちょっとかかりそうですが、乗ってみたいうな気がします。
 お詣りが終わってから、観音堂の横から裏手にまわってみると、そこからだと樹々に邪魔されずに見えますが、やはりお堂は正面からが一番すっきりと見えます。お堂の前には石燈籠があり、そこには「無垢清浄光慧日破諸闇」と彫られていて、その右側には絵馬をかけるところと、ご朱印所の案内があり、そこには「遠路からのご参詣、ご苦労様でした。ご朱印をご希望の方は、ご足労ながら、金剛寺へおいで下さい」と書いてあり、地図も添えてありました。
 私は先にご朱印をいただいてあるので、車に戻り、次の第21番「左下り観音」へ行くことにしました。ここは案内書によると、駐車場から勾配のきつい山道を1qほど歩くと書いてあり、なるべくなら体力のある午前中に行きたいと思っていました。ナビで確認すると、ここからそこの駐車場まで11.5qです。

 第19番札所 石塚山 蓮台寺 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 後の世を 願う心は 軽(かろ)くとも 仏の誓い 重き石塚



☆会津三十三観音札所巡り Part.23

 第21番「左下り観音」は、左下りと書いて「さくだり」と読みます。ここは案内書を読みながら、まさに京都の清水寺のようなつくりなので、楽しみにしていました。先ず、国道121号線に戻り、そこから会津美里町の方へ進みます。そして県道128号線に入り、阿賀川の橋を渡り、思堀の信号を左折し道なりに進むと、右側に案内板があり、駐車場があります。ここに着いたのが午前9時でした。
 そこに駐めて辺りを見回すと、入口の左側に「左下観世音」と彫られた石碑があり、右側に「會津二十一」と彫られた石碑があり、さらにその前の白い四角の標識に「これより600メートル左下山中腹にある」と書いてあり、その側面に「第二駐車場へ400m」と書かれた板が結ばれていました。ということは、ここから更に車で行けるのではないかと考え、また車に乗り、そこをさらに進みました。
 すると、だいぶ急な山道でしたが、第二駐車場があり、そこには案内処まであり、そのすぐ脇に「夫婦杉」もありました。そこには杖が準備されていて、「新型コロナウイルス感染症のため朱印の受付を一時中止します 地区区長より」と書かれた張り紙がありました。
 そこから車止めのわきを通り、黒御影石に「未来を背負う青少年の守り観音 若櫻観世音菩薩像」と彫られた石碑のわきの山道を歩きます。その先は石段があったり、ところどころに古い石碑が立っていて、さらに進むと左側に観音堂が見えてきました。

 ここの観音堂は、案内書を見て、一番楽しみにしていたところです。それを実際に見ても、なぜこんなところに、こんなにもすごい観音堂が建っているのだろうというのが正直な気持ちです。下から見上げると、三層懸け造りのお堂は、西国三十三観音第16番札所の清水寺や、坂東三十三観音第31番札所の笠森観音堂のようです。ただ、笠森観音堂は四層懸け造りで国の重要文化財に指定されています。
 ここでお詣りするために、山形からサクランボを持ってきたので、先ずはそれを供え、観音経を唱えました。ここまで上ってきて、汗をかいたのですが、ここに立つと、スーッと引いていくのがわかります。そういえば、ご詠歌のなかにも、「いつも絶えせぬ 峯の松風」とあり、なるほどと思いました。
 お詣りが終わって、そのサクランボをおべっとうしながら、ゆったりと流れる雲を見ていました。誰もいない、まさに時間が止まったかのような時を過ごしました。すると、今、新型コロナウイルス感染症で大変なことも、何もかも、消えてしまうかのようです。
 実際に、ここのご朱印はいただけなかったのですが、そのことすらも些細なことのように感じられました。自分がしっかりお詣りできた、それだけで心は十分に満たされました。
 ここの観音堂のことをいくら詳細に書いたとしても、なかなか伝わらないと思います。まさに百聞は一見に如かず、です。ぜひ機会があったらお詣りしていただきたいと思いながら、下山しました。
 駐車場に着いて時計をみると、午前10時でした。ここに滞在したのは、たった1時間ですが、すごく長い時間が経ったかのような錯覚を覚えます。そして、不思議なことに、次の第27番「大岩観音」を目指して進んでいるときに、第25番「領家観音」の近くを通ったので、ダメ元でまわってみたのですが、たまたま戻ったところに出会い、ご朱印をいただけました。ご朱印はいただけなくてもしっかりお詣りできたからいいと思ったばかりなのに、いただけるとやはり嬉しいものです。

 第21番札所 左下山 観音寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 左下りは 岩に聳えて懸造り いつも絶えせぬ 峯の松風



☆会津三十三観音札所巡り Part.24

 第27番「大岩観音」は、第21番「左下り観音」から13.8q、時間にして26分ほどです。先ずは県道28号線を戻り、氷玉川の橋を渡り、第25番「領家観音」の近くを通って、その先の県道128号線を左折し、宮川の橋を渡ってからまた左折します。ご朱印所の仁王寺のわきを通って西本簡易郵便局のところを右折し、そこからときどき見える案内板をたよりに進みます。すると、丁字路にぶつかるので、そこから山道に入ります。左への道はすぐに通行止めで、右への道も「この先行き止まり」と書かれています。つまり、ここは袋小路のようになっています。途中で道を聞いた農作業中の方は、どこに車を駐めてもいいといいましたが、たしかに道のどちらかに寄せれば駐車は可能です。ここに着いたのは午前10時30分でした。
 案内書によると、ここは熊が出ることがあるので、熊鈴は必携ということで、私も持って行ったので、それを身につけ、鳴らしながら上って行きました。おそらく、ここが会津三十三観音札所のなかでも、本当の山道です。ここに間違いはないのですが、途中で少し不安になります。それでも上って行くと、「会津三十三観音 第二十七番札所 大岩観音堂」と書かれた赤い幟旗が見えたので、やっと安心できました。そこから左折すると、右手に黒っぽい小さな観音堂が見えてきました。その先は、見上げるような大きな岩で、観音堂の由来のようにも見えます。
 進むに従って、両側には石塔などがあり、霊場らしい雰囲気が感じられました。もし、観音詣りでもなければ、熊も怖いし、近づく人はほとんどいないのではないかと思いました。

 苔むした20段ほどの石段を上ると、2本の杉の間の先に観音堂がありました。もし、赤い幟旗と納札でも貼られていないと、観音堂とは思えません。というのも、ここは豪雪地帯で、二度ほど雪害で壊されたそうで、現在のお堂はトタンなどで再建されたということです。
 それでも、ここはやはり霊域で、その堂前にサクランボを供え、観音経を唱えました。お堂の中はまったく見えませんが、案内書によれば徳一上人が明神嶽で発見したカツラの大木から彫ったという聖観世音菩薩が秘仏としてまつられているそうです。
 左手の大岩の下には、祠があり、せっかくなのでそこもお詣りしました。そこには「甲子塔」などの石塔も並んでいて、祠のわきの2本の杉の木は、先端が大岩で遮られているためか、その部分が大きく曲がっています。それでも成長し続けているのですから、その生命力はすごいものです。
 ここには、大岩集落があったそうですが、今では集団移転により無人となりましたが、現在も大岩集落から移転した人々によって管理されているそうです。でも、今では、この辺りに集落があったことさえわからなくなっています。
 道路に車を駐めっぱなしにしてきたので、そんなにもゆっくりできずに、戻りました。いや、なんとなく、熊が出てきてもおかしくない状況に怖くなったのかもしれません。
 道路に出て、時間を確認すると午前10時55分でした。すぐに、ご朱印をいただくために仁王寺へと向かいました。ここから3.2q、約13分だそうです。人っ子一人いない山道ですが、気を付けて運転して、仁王寺でご朱印をいただき、次の第28番「高田観音」へと向かいました

 第27番札所 牛伏山 仁王寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 山深み 池に流れの 音添えて 浮世の夢を 洗う松風



☆会津三十三観音札所巡り Part.25

 第28番「高田観音」は、第27番「大岩観音」からだと国道401号線を通って8.5qです。先に仁王寺でご朱印をいただき、さらに401号線に戻って進むと、ちょっと手前の右側に伊佐須美神社を見つけました。ここはだいぶ前にお参りしたことがあったのですが、ちょうどアヤメも見頃ではないかと思い、寄り道をしました。
 ここは2008年10月29日に本殿や神楽殿、神饌所の3棟を火災で焼失しましたが、不審火とのうわさもありいまだに出火原因は不明です。その後、轡田宮司が2015年に亡くなったこともあり、なかなか再建は進まず、現在も仮社殿のままでした。そこにお参りし、それから外苑の「あやめ苑」に行きましたが、今年は新型コロナウイルス感染症の影響もあり、ほとんど人はいませんでした。何枚か写真を撮り、次の「高田観音」へ向かいました。国道401号線から高田道上の信号機から高田厚生病院の方に左折し、その先からまた左折し細い道を入るのですが、それが本当に狭く、やっと右側に駐車場を見つけました。
 途中、ご朱印をいただいたり、伊佐須美神社にまわったりしたので、ここに着いたのが午前11時39分でした。
 先ずは観音堂にお詣りをしてから、お堂の左側にある庫裡でご朱印をいただくことにしました。

 ここは、戸を開けると観音堂に入ることができたので、中で観音経を唱えてお詣りしました。すると、そのお賽銭箱のところに、ここのご朱印が置いてあり、そこに300円を置いて、いただきました。こうすれば、たとえ新型コロナウイルス感染症の影響があったとしても、参詣者はいつでもご朱印をいただけます。
 それから、観音堂を出て、いったん天王寺の正面に出ると、そこは高田厚生病院の駐車場でした。もし可能なら、狭い道を入らずとも、ここの駐車場を利用させてもらえば、ゆっくりお詣りもできそうです。でも、それができないので、独自の駐車場を準備しているのでしょうが、せめてもう少し広い入道路があればと思います。
 ただ、その正面には、大きな白御影石の門碑が立てられていて、右には「会津観音霊場二十八番札所 高田 厄除身がわり 観音」と彫られ、「厄除身がわり」だけは金文字になっていました。そして左には同じ大きさで「高田山観音院 天王寺」と彫ってありました。
 そして境内の植込みのなかを進むと、古い門碑があり、そこには注連縄が張られ、御幣が下がっていました。やはり、ここは天台宗で、修験の影響もあるのではないかと思いました。そのときには気づかなかったのですが、その植込みの右側には、広い墓地があり、多くの檀家に支えられて観音堂も護られているんだと思いました。左の門碑には、「お墓参りの方へ まず最初に本堂、観音堂御本尊さまに参拝してから、お墓に、お参りしましょう 天王寺」と書かれたものが掲示されていました。
 また、ここに来たときには見つけなかったのですが、観音堂の左の柱には、「参拝者の皆様へ」と書かれた掲示板があり、そのなかに「御堂内にて参拝願います」とか、「御朱印、朱印帳は御堂内にあります」と書いてあり、改めてもう一度堂内に入ると、朱印帳だけでなくお札やお守りなどもあり、自由に拝受できました。
 このように、堂内に受付の人がいなくても宗教施設の場合は大丈夫なような気がします。ただいつの世も不届き者はいるようで、だからだんだんと不便になってきてしまうのかもしれません。
 車に戻ると、11時52分でした。次は番外1番「浮身観音」です。ナビで確認すると、ここからはたった500mほどのようです。

 第28番札所 高田山 天王寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 昔より たつとも知らぬ 天王寺 奥の細道 轟きの橋



☆会津三十三観音札所巡り Part.26

 番外1番「浮身観音」は、会津美里町字龍興寺北にあり、第28番「高田観音」からは、目と鼻の先です。
 ナビの案内に従って細道を進むと、いったん国道401号線に入り、すぐに右折し、さらにまた右折すると、ほどなくして着きました。ここは天台宗のお寺で、境内地のなかが駐車場です。
 そこに車を駐め、いったん入口まで戻ると、その左側に「日本遺産 会津の三十三観音めぐり」の極上の会津プロジェクト協議会の案内板があり、その後ろに「玉泉院 座芳坊」と彫られた門柱が立っていました。さらにその後方には小さな石仏が赤いちゃんちゃんこと帽子をかぶって、並んでいました。その境内の正面が浮身観音堂で、左が本堂、そして右に三面大黒天とお不動さまをまつる蔵造りのお堂があります。この浮身観音堂は、ここから南方に約500mほど離れた境内の飛び地から移されてきて、昭和48年に建立されたものだそうです。よく見ると、なんとなく法隆寺の夢殿のようなお堂で、八角形で、中には浮身十一面観世音菩薩と子育千体観音もまつられているそうです。

 この観音堂で、観音経を唱えてお詣りをしました。それから本堂に行き、声を掛けましたが返答がないので、外で草むしりなどをしている方に聞くと、庫裡のほうから入って下さいとのこと、そこで呼び鈴を押すと、すぐに出てきてくれました。
 ここでは、第26番「冨岡観音」のご朱印もいただくので、しばらく待っていたのですが、だいぶ時間がかかり、しかも26番目にここの番外1番「浮身観音」のご朱印、そして番外1番のところに第26番「冨岡観音」のご朱印を書き入れてしまったと丁重に謝ってくれました。私としては、なんのこだわりもないのですが、とても恐縮していたので、こちらも恐縮してしまいました。
 そして、その庫裡の玄関先に掲げてあったポスターをみると、なんと「天海大僧正 御生誕の地 会津美里町」と書いてあり、ここ龍興寺で出家されたのだそうです。だから、この辺りは天台宗が多いのだ、と改めて気づきました。
 また、玄関を出ると、その近くにインド菩提樹の鉢植えがありました。本堂の縁側でお見送りをしてくれていたので、改めてこの植物の話しをすると、30年ほど育てているいるが、この菩提樹に関心を示した方はいなく、初めてのことだと驚いていました。でも、この植物は非常に寒さに弱いので、育てるには大変ではないかといいますと、たしかに弱いので、毎年家のなかに取り込むけど、なんども枯れかかっていまだに大きくなれないということでした。そういえば、根元こそ太いが、高さは1mほどで、その大変さが植物の姿にも現れていました。ここのお寺の山号は、道樹山といいますが、菩提樹が道を説いているようにも思え、ふさわしい植物を植えていると思いました。
 このお寺には、「一字蓮台法華経開結共」という国宝も所蔵していて、やはり慈覚大師円仁が開創した古刹でした。
 次は、第29番「雀林観音」です。ナビで確認すると、先にご朱印所の福泉寺にまわってから行ったほうが良さそうなので、そのようにしました。

 番外1番札所 道樹山 龍興寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 浮身をば 助け給へや 観世音 みちびき給え 弥陀の浄土へ



☆会津三十三観音札所巡り Part.27

 第29番「雀林観音」は会津美里町雀林字三番山下にありますが、ここから4.3q、10分もかからないところにあります。先ずは県道53号線を会津高田のほうに進み、それから県道53号線のほうに右折します。さらに県道365号線のところを右折し進むと、ご朱印所の福泉寺のすぐ近くを通ります。せっかくなので、ここで先にご朱印をいただきました。
 この福泉寺も天台宗のお寺で、門柱のところに、黒御影石に「一隅を照らす」と彫られた石碑があり、この言葉は、天台宗を開かれた伝教大師最澄の書かれた『山家学生式』のなかにあります。(さんげがくしょうしき)の冒頭にあります。そして、「一隅を照らす運動」は今年で51年目を迎えたそうで、天台宗の社会啓発運動となっているようです。
 ここ福泉寺から雀林観音までは、2.8q、6分ほどです。道もわかりやすく、県道365号線をそのまま進むと、左側に案内板がありました。そこから入ると、すぐに右側に大きな駐車場がありました。
 なるべくなら仁王門から入ろうと、少し戻り「法用寺観音堂」と染め抜きされた赤い幟旗の間の石段を上ると、右に「重要文化財」と彫られた石碑があり、左には「古峯神社 講中安全と彫られた燈籠の火袋のところに、その古峯神社の新しいお札が入っていて小さな注連縄も懸かっていました。その石段を上り、少し参道を進むと、仁王門があります。その本来は仁王さまがいらっしゃるところに、 金剛力士像の写真が掲げられていました。そこには、観音堂のなかに安置してあると書いてあり、ご本尊とともに国の重要文化財に指定されているそうです。
 その先の石段を上り、さらに境内地を進むと右手に鐘楼があり、その先の石段の上に観音堂がありました。その右手前には、有名な「虎の尾桜」があり、聞くところによると花は八重で薄紅色ということで、一度は見てみたいと思いました。

 法用寺は、養老4(720)年に得道上人によって開創された古刹で、観音堂の前に下がっている鰐口には、文明6(1474)年の銘が刻まれていて、福島県の重要文化財に指定されているそうです。
 現在のお堂はいつ再建されたのかは不明ですが、「雷電山」と彫られた山号額や、「圓通閣」の額などを見ても、お堂そのものにも幾年月もの風雪に耐えてきた風格が感じられます。お堂の前には狛犬が対で建っていて、修験道の影響なども感じられます。
 その前で、観音経を唱え、静かにお詣りすると、時間や世代を超越したかのような錯覚に陥ります。ここには、長い年月の積み重ねが感じられ、縁起書によれば、「虎の尾桜」は徳溢大師が植えたといわれていて、藩政時代には藩主と姫君がよく観桜に来山されていたそうです。
 お詣りをすませ、左手に見える三重塔に行こうとすると、その間に池があり、水ぎわにはアジサイが咲いていました。そういえば、ご詠歌に「古方の沼」とあるのは、もしかしてこれかな、などと思いました。三重塔は、現存する唯一のものだそうで、高さは23mあり、一層部分の扁額には、「文殊菩薩」と書かれていました。そのさらに左手には地蔵堂があり、この法用寺の境内は、タイムスリップ、いや、通常の時間の流れから超越してしまい、過去や未来の世界へも簡単に移動できてしまうような雰囲気がありました。
 おそらく、この広さからすると、新型コロナウイルス感染症の影響でもなければ、地元の人たちだけでなく、田の地区からも多くの人たちが訪れるようです。案内書によれば、虎の尾桜の野点茶会や秋の菊花展などの行事もあるとのこと、ほんとうにいいところだと思いました。
 すでに午後1時15分なので、駐車場に戻り、次の第30番「中田観音」に向かうことにしました。ナビでは、ここから2.1q、5分程度です。

 第29番札所 雷電山 法用寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 巡り来て 西に遥かに 眺むれば 雨露繁き 古方の沼



☆会津三十三観音札所巡り Part.28

 第30番「中田観音」は会津美里町米田字堂ノ後にあり、第29番「雀林観音」からは、いったん県道365号線に戻って会津坂下の方に進み、1.2qほどしてから案内板があるので、そこを右折すると着きます。
 お堂の左側に駐車場があり、さらに道路をはさんだ向い側にも中田観音観光トイレがあり、そこにも駐めることができます。車を駐めてから、すぐにお堂にも行けるのですが、いったん道路を下がって仁王門のところから入りました。
 ここ中田観音は、野口英世のお母さん、シカが深く信仰していたお寺で、毎月17日におこもりをして息子の無事と立身出世を願ったということです。その話しを聞いたことがあり、せっかくならぜひ本堂内でお詣りしたいと思い、数日前に電話をしました。というのは、ある方から個人の堂内参拝は事前予約が必要だと聞いたので電話で確認したのですが、即座に新型コロナウイルス感染症の影響で本堂内の参拝はできないということでした。でも、心のどこかにもしかするとできるかもと思う気持ちがあり、お堂に行く前に庫裡の方でお願いしましたが、やはりダメでした。
 たしかに、感染症を心配なことはわかりますが、誰もいないお堂で、静かにお詣りするのは新型コロナウイルス感染症を拡げることにはならないと思います。むしろ、野口英世のために祈ったお寺ですから、せめてそれが収束するようにお詣りすることぐらい認めてほしかったし、闘わずして白旗を揚げてしまったかのような印象を持ちました。
 しかたなく、気を取り直して観音堂に向かいました。

 お堂の前には、燈籠が参道の両脇にあり、右の燈籠の台座には「出征軍人」と彫られ、左の燈籠には「武運長久」と彫られ、その先には一対の狛犬がにらみを利かせていました。その左の台座には「奉」の1字が彫られ、右の台座には「納」の1字が彫られ、この狛犬は対で奉納されたということがわかります。このような書き方は、ちょっと珍しいと思いました。
 そしてお堂の回廊のところで観音経を唱えお詣りしました。正面に「他の方の迷惑にならないように静かにお参り下さい」と張り紙があったのですが、まわりに誰もいなかったので、お堂の奥の観音さまにお経が届くようにと少し大きな声を出してお詣りしたようです。すると、やっとお堂の右手わきにあるご朱印所にお坊さんが来たので、そこでご朱印をいただきました。しかも、一言も話しをせずに、書き終わると、すぐにまたいなくなったので、今度は声を出さずにゆっくりとお詣りしました。
 それから、その右手にまわると「だきつき柱」があり、そこにも「観音様の代わりにだきつく柱ですので静かにお参り下さい」と書かれた案内板があり、さらに「撮影禁止」と朱墨で書いた紙が数枚貼ってありました。
 瀧修行をしていたときに、できるだけ大きな声で祈っていたこともあり、お詣りするときには自然と大きな声になるようです。ここは仕方ないので、さっとお詣りし、なるべく早く車に戻りました。
 そして時計をみると午後1時40分です。この分では、今日も昼食は無理かなと思いながら、第13番「舘観音」のナビを入力しました。ここから5.4q、おおよそ10分だそうです。

 第30番札所 普門山 弘安寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 巡り来て 四方(よも)の千里を 眺むれば これぞ会津の 中田なるらん



☆会津三十三観音札所巡り Part.29

 第13番「舘観音」は会津若松市北会津町舘にあり、第30番「中田観音」からは、いったん県道59号線に入って1qほど進み、そこから左折し県道22号線を1.8qほど進みます。さらに1.9qほどで右折するころには、右手のほうにお堂が見えてきます。
 県道72号線に入って100mほどで右折するとすぐに観音堂です。ほとんど迷わずにここまで進んできました。
 観音堂の左側には、福聚山観音寺の由来と会津三十三札所巡礼の由来が詳しく書いてある大きな看板が立っていて、右手前には「御朱印所は右側の建物にあります」と書かれた案内板があります。
 先ずは、正面の観音堂に行き、正面に立ちました。お堂の後ろは田んぼで、苗が風で揺れていました。

 そのお堂の回廊まで上り、先ずはお賽銭を入れ、鰐口を鳴らし、それからゆっくりと観音経を唱えました。まわりから聞こえてくるのは、田んぼを吹き渡る風の音だけです。ここなら、少々声が高くても気にはなりません。
 ここの由来は、1575(天正13)年に修復したということはわかっているそうですが、それ以前のことは不明だそうです。
 お詣りをすませ、案内にある右手のご朱印所に行こうとすると、その左側に「大聖不動明王」と書かれたお堂があったので、ここでもお詣りをさせていただきました。
 それから右手の建物の下屋部分に「観音寺御朱印所」と書かれた板が掛かっていて、その戸を開けると、なかにご朱印などが置かれた台があり、ここでは自分で押印することになっていました。
 このように自分で押したほうが、ご朱印所を探すより早いような気がします。もちろん、丁寧にしっかりと押してくれるところもありますが、慣れていなくてスタンプがぶれてしまうこともあります。それを考えれば、このような方法も、これからはあっていいのではないかと思いました。あるいは、確実にいる他のご朱印所にご朱印を預かってもらい、押してもらうのも1つの方法です。そうすれば、仕事で昼はネスにします、などと張り紙をしなくてもすむわけです。
 これから、ますます過疎化が進めば、観音詣りもいろいろと考えなければならないと思います。その1つがご朱印所です。今回の会津三十三観音札所巡りでも、2ヵ所でご朱印がもらえないところがありました。私はお詣りをしたそのことが大事だと思っていますが、ご朱印をいただかないとお詣りした気になれないという方もいます。だから、そのような人たちには何らかの方法で、すべての札所でご朱印をいただけるようにしなければと思っています。
 車に戻り、次の代12番札所「田村山観音」をナビで確認すると、距離にして400mほど、まさに目と鼻の先のようです。

 第13番札所 福聚山 観音寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 遙るばると 参りて拝む よしみ寺(でら) 仏の誓い 新たなるらん



☆会津三十三観音札所巡り Part.30

 第12番「田村山観音」は会津若松市北会津町和合字堂ノ下にあり、第13番「舘観音」からは400mほどですから、あっという間に着きました。しかも、舘観音のお堂からも見えていました。
 ここは田んぼの真ん中にこんもりとした杉林があり、そのなかに田村山観音堂と田村山稲荷神社があります。正面から入ると、先ず右側に「十二番札所 正観世音」と刻まれた石塔が立っていて、その先は参道が二又に分かれていて、その間には「住吉神社」と彫られた古い石塔があります。その右脇には、会津若松市の「自然景観指定緑地」と書かれた案内板があり、そこから右に進むとその奥に田村山観音があります。
 近づいて見ると、杉だけではなく桜の木もあり、なかには松の木も混じっていました。やはり、ここは緑地として指定されるだけの樹々があります。
 観音堂の左側には、納め札などを貼る白い板が掲げられていて、右側にはご朱印所の案内がありました。お堂の右の柱には「福聚山 養泉院」と書かれた板が掲げられていました。ふと、そういえば第13番「舘観音」の山号も同じ「福聚山」で、すぐ近くですから何らかの関連があるのかもしれないと思いました。
 ここも舘観音堂と同じように後ろが田んぼで、しかも参道の右側も田んぼという環境で、気温はだいぶ高そうですが、この中にいるとさわやかな風が通り抜けていきます。

 お堂には3段の石段があり、そこを上って回廊のところでお詣りをしました。ここは、まるで時間が止まったかのような静かな雰囲気でゆっくりと観音経を唱えることができました 。
 そしてお堂の前に戻ると、左側に田村山史跡保存会の「景勝清水の由来」という案内板が立っていました。そこには、「慶長4年頃、時の若松城主、上杉景勝公がこの地に於て鷹狩りを催せし折り、この清水を味わい、美味なりと大いにこれを賞せられた。その後この清水を里人は景勝清水と呼ぶようになった。」と書いてありました。
 ぜひそれを見たいと思い、お堂の左奥のその清水に行くと、その正面に昭和30年1月の日付の「参宮記念」と彫られた石碑が立っていて、ここはなんでもありの地区の憩いの場所ではないのかと思いました。でも、今も清水は湧いて出るようで、使っているカネの柄杓が2つぶら下がっていました。私も飲んでみようかと思ったのですが、明日も会津三十三観音札所巡りが続くので、ためらいながらもやめました。
 そして、もう1度観音堂のところに戻り、ご朱印所のところが2ヵ所あることを確認して車に戻りました。
 先ずは近くの渡部さんのところにうかがうと、留守だったので、次の五十嵐さんのところに行きました。道が狭く、消防ポンプ小屋の近くに路駐して行くと、今度はご朱印をいただけたので、すぐに車まで引き返し、少し広いところまで進んでから、次の番外2番柳津観音のナビを入力しました。ここから、国道49号線を通って18.8q、28分です。今の時間は午後2時35分です。

 第12番札所 福聚山 養泉院 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 千早振る 神ぞまことの 住吉の 重ねがさねの 杜の注連(しめなわ)



☆会津三十三観音札所巡り Part.31

 番外2番柳津観音は、私も数え13歳のときに団体で柳津の虚空蔵尊にお詣りしたことがあり、その後も息子の13歳のときなど数回はお詣りしたところです。場所は河沼郡柳津町で、只見川の山手のところに建っています。
 そこを目指して国道49号線を通って塔寺バイパスの手前で、この前に第31番「立木観音」にお詣りしたときに、現在は午前10時〜午後3時までの受付で、ご朱印もその時間までと聞き、がっかりしたことを思い出しました。車の時計をみると、午後2時50分です。まだ10分もあるので、すぐに旧道に入り、駐車場の一番近いところに駐めて、急ぎ足で受け付けに行きました。そしてすでに書いてあったご朱印をいただき、時計をみると、午後2時58分でした。受付の方は、私がお詣りしている間に、すでに片付けを始め、いつの間にかいなくなりました。
 車に戻ると、午後3時15分頃で、あとはまっすぐに柳津を目指して進みました。ここからは9.4q、12分程度に着くそうです。
 でも、ここも時間制限があるかもしれないと思い、裏手の宝物殿近くの駐車場に車を駐め、本堂に向かいました。すると、お堂の右奥にご朱印所があると教えられ、そこに行き書いてもらいました。ここもなんとか大丈夫でした。それから、お堂でゆっくりとお詣りし、境内地も時間をかけて歩きました。やはり、正面の石段を上ってお詣りするのと違い、裏からのお詣りなので、時間があれば明日にでも正面からお詣りしたいと思いながら、途中で名物のあわ饅頭を買い、今夜泊まる「瀞流の宿 かわち」に向かいました。
 着いたのは午後4時10分で、部屋に案内されてから、今お詣りしてきた圓蔵寺を望みながら、お抹茶を点て、あわ饅頭をいただきました。この名物あわ饅頭の由来は、あるパンフレットに、「今からおよそ190年ほど前、柳津を様々な災害が襲いました。そこで災いに「あわ」ないようにとの願いを込めて虚空蔵菩薩に奉納された」のがはじまりと書いてありました。これを読み、今も新型コロナウイルス感染症という大きな災害のまっただ中にいると思い、さらにもう1個食べました。
 今夜は2組のお客さんと聞いていたのですが、もう1組も1人だったので、この大きな旅館にたった2人の客です。そういえば、いままで何度か柳津まで来ていますが、いつも日帰りなので、今日は泊まってゆっくりできます。

 夜中の12時30分ごろ、いつもは夜中に起きることはないのですが、ふと目覚め、窓から外の景色を眺めると、瑞光寺橋が夜霧でかすんで見えました。それはとても幻想的な雰囲気で、その後も何度か目が醒めてしまい、そのたびごとに写真を撮りました。5時40分ごろにも目が覚め、朝茶を飲みながら、せっかくの機会なので圓蔵寺へ朝詣りすることにして宿を6時15分に出ました。この時期は、新型コロナウイルス感染症の影響で、宿もどこのお寺も人がいなくて、一人でゆっくりとお詣りすることができました。
 中の橋を渡り、内田屋旅館わきの石段を上り、仁王門を抜け、さらに石段を上って右に行くとお堂の右手に出ます。その付近にはホタルブクロが咲いていて、左手には鐘楼があり、その先には「良寛禅師行脚之地」という石碑が建っていて、ここに越後の良寛さんが来ていたことを初めて知りました。
 そこから本堂の方へ行き、改めてお詣りし、回廊のところから泊まっている「瀞流の宿 かわち」も見えました。そして、左の階段から下りていくと北山門のところから境内地を出ました。そして一般道を歩くと、本堂の下の崖に大日如来堂があり、祭礼は7月8日と幟旗に書いてありました。
 そこから元来た道を戻り、中の橋を渡ると、山手のほうに「良寛和尚の像」があると案内板にありました。そこで、その石段を上って行くと、「つきみが丘町民センター」のところに、その銅像が建っていて、その銅像と大きな黒御影石に彫った「良寛詩」という石碑の間から少しだけ圓蔵寺が見えました。
 そこから、只見川沿いの遊歩道を歩いて旅館に戻りました。万歩計を見ると4,200歩で、ちょうど1時間ほどの散歩でした。部屋に入り、だいぶ汗をかいたので朝風呂を浴び、それから朝食をいただきました。そして、今日2回目の朝茶を飲み、8時45分にここを出発しました。
 今日、6月24日の最初の目的地は、番外3番「鳥追観音」でナビで確認するとここから18.5q、22分だそうです。

 番外2番柳津観音 霊巌山 圓蔵寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 柳津は 岩に聳えて 懸造り 前には只見の 舟の浮きはし



☆会津三十三観音札所巡り Part.32

 番外3番「鳥追観音」は、耶麻郡西会津町野沢字如法寺にあり、会津坂下町まで戻り、そこから国道49号線を新潟方面に走り、野沢の大久保入口の信号から左折し県道399号線を進むと、3.5qほどで着きます。左側に大きな案内板があり、そこが駐車場です。午前9時5分に着きました。
 仁王門の前に大きなモミジがあり、そこを両側から回り込むようにして仁王門をくぐります。仁王門には「金剛山」という扁額が掲げられ、その両側には大きな草鞋が下げられています。そして仁王門の両側には千羽鶴が盛り上がるようにさがっていました。
 参道の右側には子どもの石像が3体あり、赤い帽子と前掛けがしてあり、腕には腕念珠をたくさん着けていました。そしてそのまま進むと、アルコールの消毒液が準備されていて、その先に大きな香炉があります。そして、その正面が観音堂です。右手にあるお土産屋さんが、お堂のなかのベルを押すとご朱印がいただけますよ、と声を掛けてくれました。
 そして階段の両側に、「鳥追観音」と書かれた提灯が掲げられ、回廊のところには五色の幕がかけられていました。そして、お堂のなかに入ると、その右側が内陣になっていて、ご本尊さまも拝めるようになっていました。そして左側には拝受品が並べられていて、そこのベルを押すとすぐに出てきてくれました。
 お詣りする前にご朱印を頼むと、内陣に入ってお詣りできますからといわれ、なかでゆっくりとお詣りさせてもらいました。

 ご本尊さまの両脇には、四天王がまつられ、左下には子安観音が鎮座し、いつでも目の前でお詣りできるようになっていました。また、内陣の左奥には厄除けの身代わりなで仏があり、そこに抱きついてお詣りしている方がいました。ここは、ほんとうに庶民的なお寺で、仁王門だけでなく、お堂のあちこちにも千羽鶴が掛けられていました。
 そういえば、ご朱印帳を渡すときも、それぞれに一言を添えて渡していたので、お詣りしてよかったと思う方が多そうです。そういえば、法施というのは、三施の1つで、仏法を説いて聞かせることですが、何も難しい仏法を説いて聞かせることだけではなく、何気ない一言で救われる方も多いのではないかと思います。たった一言、「ご苦労さまでした」だけでもいいと思っています。
 特に、新型コロナウイルス感染症の影響で、人と接することを嫌うことが多くなっていますが、このような時だからこそ、お詣りの人たちに接する一言は大切だ、とここ会津三十三観音札所巡りをして感じました。
 ご朱印を書いてくれた方に聞くと、ここのお堂は「東西向拝口」、つまり東から入り、極楽浄土のある西へ出るようになっているとのこと、だから西の方から出てお堂を巡って駐車場に戻りました。
 せっかくここまで来たので、大山祇神社にもお参りしようとナビで確認すると、鳥追観音から3q、4分ほどだそうです。この距離なら、またこの次にと考えることもないと思い、駐車場から左折し県道399号線を大山祇神社に向けて進みました。ここは、パンフレットにも「3年続けてお詣りすれば、一生に1度はなじょな願いも聞きなさる山の神様」と書いてあり、たしか、これで3度目のお詣りかもしれないなどと考えたりしました。
 入口より先の駐車場に車を駐め、少し戻って参道を歩くと、新型コロナウイルス感染症の影響なのか、ほんとうに参拝者が少なく、静かにお詣りできました。そして、ここでもご朱印をいただくと、感染症予防のために書き置きのご朱印しかないということで、それを貼ることにしました。でも、何人か神主さまもいるようですし、この遠い山道をお詣りするためにきたわけですから、直接ご朱印帳に書いてくれてもいいのではないかというのが本音です。
 でも、神社それぞれに考えも違いますから、それをさらりと忘れて、次の第14番「下荒井観音」を目指しました。ナビでは31.1q、38分と出ていました。磐越自動車道を使えば、もう少し早く着くかもしれませんが、せっかくの観音詣りなので急がず慌てずゆっくりと走って行きました。ここを出発したのは9時40分です。

 番外3番鳥追観音 金剛山 如法寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 金剛(かねこわ)き 山の如きの 法(のり)の寺 まこと大悲の 浄土なるらん



☆会津三十三観音札所巡り Part.33

 第14番「下荒井観音」は、会津若松市北会津町下荒井にあり、先ずは国道49号線まで戻り、そこから会津若松方面に進みます。そして大久保入口の交差点を右折し県道22号線に入り、県道221号線で左折します。そして、宮川の橋を渡ってから右折し、さらに県道59号線から左折し、とうふ屋「豆の子」まで行きます。
 ここまでは迷わずに来たのですが、この辺りで、たまたま若い方が歩いていたので聞くと、今進んできた道の方角にお堂があると教えてくれました。そこでそこから引き返すと、右手のほうの杉木立のなかにお堂が見えます。しかし、その手前で交通止めになっていて、しかたなく右から迂回して、もと来た宮川の橋を渡って、それから左折してそのお堂のところまで行きました。ところが、そこには「村社菅原神社」とあり、「下荒井観音」ではありませんでした。
 そこから、また引き返し、とうふ屋「豆の子」のところから右折し300mほど進むと、右側に「第14番札所 下荒井 聖観世音菩薩 元松命山蓮花寺」と書かれた白い案内板を見つけました。そして、その細い道の両側には門塔が立ち、右には「飯豊山神社」、左には「十四番 正観世音」と彫られていて、今度こそ間違いないと思い、そのなかに入っていきました。
 車を駐めたところには「キミガヨラン」が咲いていて、真っ赤なツツジも咲いていました。右側の建物は集会所のようで、左側のお堂は、下荒井虚空蔵堂で、平成15年に再建されたばかりだそうです。ここには、注連縄をまるめたものが下げられていて、このような形のものを初めて見ました。正面が観音堂で、新しい白御影石の灯篭が一対その前にありました。

 ここに着いたのは10時50分ですから、予定よりだいぶかかりましたが、ここでもしっかりと時間をかけてお詣りしました。そして、私の守り本尊が虚空蔵菩薩なので、左隣のお堂にもお詣りし、これからの人生を健康で過ごせることを祈念しました。
 観音堂の左手前には、ご朱印所が「都合により当分の間御朱印は宝寿院(寺)さんでおねがいします 遠藤」と書かれた張り紙がしてあり、地図も書いてありました。
 車に戻ろうとしたら、観音堂の左手前に枯れかかった松の木を見つけました。よく見ると、それが三鈷の松で、しかもご詠歌にも詠まれています。ここは真言宗ですので、おそらく高野山の三鈷の松をなんらかの伝で手に入れ、ここに植えたのではないかと思いました。
 そういえば、私も三葉の松、しかも白松を欲しくて、ある薬学部の先生にお願いして、手に入れたことがあります。それを、置賜三十三観音第21番札所のお堂の手前に植えています。でも、まだ小さな樹なので、ここの三鈷の松ぐらい大きくなるのには100年ほどかかるかもしれません。
 車でご朱印所に行くと、ここも狭い参道なので入ることはできず、路駐にしました。門柱には、右に「護命山」、左には「寳壽院」と彫られていて、すぐにわかりました。本堂は真新しく、その左側が庫裡になっていて、呼び鈴を押すとすぐに出てきてご朱印をいただけました。帰るときに気づいたのですが、本堂の左側には白御影石に「興教大師850年御遠忌記念」の石塔と弘法大師修行石像が建っていました。
 でも、路駐なのでゆっくりお詣りもできずに、車に戻りました。そして、次の第15番「高瀬観音」にナビを入れると、それでは住所も確認できず、しかたなくその近くのコンビニの会津高瀬店を目的地とすると、5.7q、13分と出ました。先ずはそこまで行き、探すことにしました。

 第14番下荒井観音 松命山 蓮花寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 高野山(たかのやま) よそに在らじの 下荒井 三鈷の松の 法(のり)の朝風



☆会津三十三観音札所巡り Part.34

 第15番「高瀬観音」は、会津若松市神指町高瀬にあります。先ずはとうふ屋「豆の子」まで戻り、そこから県道59号線と152号線を走り、阿賀野川の大きな橋を渡ってすぐの信号を左折し、そのまま152号線を行きます。そして国道252号線で左折し進むと、右手にそのコンビニがありました。しかし、そのコンビニは道路の向い側にあり、混んでいたのでそこを右折し、広いところでさらにナビを見ました。ところがその古いナビではわからず、高瀬の大ケヤキが目印と書いてあったので、それを探しました。
 しばらく、車であっちこっち探していると、ナビには出てこない道路があり、進行方向の反対側に大きなケヤキが見えました。そこで次の十字路まで走りユーターンしてそこへの細い道を入っていくと、その大ケヤキの右側に観音堂がありました。時計をみると11時40分です。ということは30分かかったということで、ナビさえ新しければ13分で来れたような気がします。
 観音堂の入口には、石の鳥居があり、上の横のところには「吉高山」という山号が刻まれ、みぎの柱の部分には「曹洞宗 吉高山福昌寺」、そして左には「会津三十三観音 十五番高瀬」と彫られていました。そこを入ると左側には「三界萬霊」の大きな供養碑と六地蔵、そして右川の大きな建物が本堂ですが、今は無住のようです。
 そして、その先に観音堂がありました。参道を進み、右にまがると正面がお堂です。その両側には石灯籠が対で置かれ、その右に狛犬もありました。

 ちょっと道に迷いましたが、今日は時間が十分あるので、ゆっくりとお詣りしました。この辺りは田んぼで、ほとんど人がいないので、気にすることもないようです。だからここではマスクも外しました。
 お詣りが終わって、せっかくなので左側にある高瀬の大ケヤキを見に行きました。その間には水路があったので、いったん道路に出てからその大ケヤキを見上げると、ほんとうに大木でした。案内板によると、この小高くなったところが上杉景勝が神指城の土塁を築いたもので、その上に推定樹齢500年のケヤキがのびのびと育っています。おそらく、このケヤキは上杉景勝が米沢に移藩されたことも、鶴ヶ城が官軍に攻め落とされたことも、新型コロナウイルス感染症で大変なこともすべて見ているのではないか、だとすればまさにこの辺りの生き証人です。
 大木のすごさは、そこだと私は思っています。その木の根元のところに、石の祠があり、木の扉が付いているところをみると、なかにお札がおまつりされているようです。やはり、この大ケヤキも信仰の対象になっているからこそ大切に護られているようです。
 そして、観音堂に戻ると、その近くに「金売吉次・吉内・吉六・三兄弟御堂」と書かれたところに、小さなお堂がありました。案内によると、かつて京都と奥州平泉を行き来して商売をしていた金売吉次と吉内、吉六の3兄弟が、この近くの応湖川を舟で渡ろうとしたときに急な増水で舟が転覆し、吉六が川に投げ出されてしまったそうです。そこで金売吉次と吉内兄弟がここに観音堂を建て供養したといいます。
 この話しを聞くと、ここのご詠歌の意味がわかります。
 それから、ご朱印所に行く細い道をゆっくりと進んでいると、急に自転車で飛び出してきたご夫人がいて、聞くと、そこがそのご朱印所でした。それで、謝りながらすぐ家人を呼んでくれて、すぐにご朱印をいただけました。ほんとうに、何があるかわかりません。
 時計をみると12寺5分でした。次は第16番「平沢観音」です。ナビで確認するとここから1.5q、4分だそうです。

 第15番高瀬観音 吉高山 福昌寺 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 乗り得ても 心許すな 天小舟(あまおぶね) 高瀬の波は 時を嫌わず



☆会津三十三観音札所巡り Part.35

 第16番「平沢観音」は、会津若松市北町中沢字平沢にあります。先ず国道118号で鋭角に左折し、中澤交差点をそのまま進み、平沢の交差点から左折します。すると、その地区の突き当たり近くの右手にあります。
 最初は裏手の田んぼのあぜ道に車を入れて、そこに駐めて歩いたのですが、あとから気づくと、観音堂の前の広場にも車を入れることができそうでした。でも、駐車しなかったおかげで、観音堂を真正面から撮ることができ、それはそれでよかったと思います。
 両側の入口の門柱には何も彫られていなかったのですが、左の門柱の前には、お墓のような形に石碑があり、「會津札所十六番 正観世音」と彫られ、その右側には「昭和二年十月二六日」と浅く彫られていました。
 参道を進むと、右側にお地蔵さまをまつる小さな祠があり、そのわきにブランコがあります。そういえば、ここ会津三十三観音のお堂のわきには、子どもたちの遊具があり、おそらく昔から子どもたちの遊び場だったのではないかと思います。そして、今でも動くことをみると、ある程度は利用することもありそうで、なんとなくほのぼのとした雰囲気が感じられました。
 そのまま参道を進むと、両側に石燈籠があり、その先に狛犬が置かれ、その間の先に観音堂があります。

 ここまで迷わずに来ることができ、先ず、それを感謝しながら、お堂の回廊のところでお詣りをしました。お堂のうしろは、今、歩いてきた田んぼのあぜ道で、その先は国道118号線のところまでずーっと田んぼです。その上を渡ってくる風はとても気持ちよく、ほとんど汗をかくこともありませんでした。しかも、付近には誰もいないようなので、マスクを外し、観音経をゆっくりと唱えました。
 お堂の「拾六番札所 平澤 聖観世音堂」と書かれた扁額の後ろには、大きな草履が掲げられ、おそらく足腰のおもわしくない方々のお詣りもあるようです。
 回廊の右側には、木箱があり、そこの手前を開けるとなかにご朱印とスタンプ台が入れてありました。その木箱の上で押せるようになっていたのです。そしてご朱印代は矢印のところから入れてくださいと書いてあり、迷うことなく、とてもよい方法だと思いました。なかには、大事なご朱印を持って行かれると困るという話しを聞いたことがありますが、観音詣りをする人に、そのような不届きか方はいないと思います。むしろ、ご朱印をいただくために、右往左往することの方が大変です。
 今回、会津三十三観音札所を巡って、いろいろなご朱印をお授けする方法があると感じました。たしかに、新型コロナウイルス感染症の影響もあり、普段とは違うかもしれませんが、なるべくならお詣りする人たちがご朱印をいただけるようにすることが大事なことだと思います。そして、さらに、ご朱印所に受け付けの方がいれば、「ご苦労さまでした」の一言も添えてもらいたいと思いました。まさに、ご朱印は、観音さまをお詣りして歩いた記念碑的存在なのです。
 次は、今回の会津三十三観音巡りの最後の札所、第17番「中ノ明(なかのみょう)観音」です。ナビで確認すると、1.4q、4分です。

 第16番平沢観音 広沢山 国姓寺 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 参り来て 浮世を此処に 忘れ置く 心及ばぬ 平沢の月



☆会津三十三観音札所巡り Part.37

 第17番「中ノ明(なかのみょう)観音」は、会津若松市北町始字中ノ明にあります。平沢観音からは、先ずは国道49号線を左折し、会津若松市内のほうに進み、中の明信号のところを右折します。すると160mほどで右側にあります。
 駐車場は仁王門の脇から入った境内地で、そこに車を駐めました。時間は12時35分でした。
 先ずは仁王門のところへ行くと、その右前には「会津札所 十七番」と彫られた石塔が立ち、左には同じ大きさで「正観世音」と彫られた石塔が立っていました。その手前には、形ばかりの小さな橋形があり、ここから先は聖域だという意味らしいと思いました。ここの仁王門にも草履がたくさんつり下げられていて、昔から足腰の弱くなった方々のお詣りが多かったようです。そういえば、この「中ノ明」というのは、「中の心を明らかにする」ということから名づけられたようで、仏の心を感じさせます。ここを会津三十三観音札所巡りの最後になったのも、偶然とはいえ、何らかの意味があったのではないかと思いました。
 そこから見ると、真正面に大きなイチョウがあり、左手にはおもいろい形のブランコと、右にも普通のブランコが2台下がっていました。おそらく、ここも地域の子どもたちのたまり場だったのではないかと思います。そして、イチョウの根元にも、六角の供養塔らしきものがありました。
 さらにその先には、両側に石燈籠があり、その左先には、黒御影石にここのご詠歌を彫ったのが奉納されていました。それを見ると、「参る」が「詣る」になっていて、「浮ぶ水鳥」が「うかぶみつ鳥」と書き改められていて、このほうがご詠歌らしく感じました。というのは、昔のことですが、北の沼で不思議に光ったので村人たちが沼さらいをしてみると、大木のなかに1尺8寸ほどの聖観世音が現れたそうです。そのお姿を祀ったのがこの観音堂だそうです。つまり、ご詠歌そのものにここの観音堂の由来が語られていたということです。

 その右側には詳しい由来が書いてあり、その間を観音堂へと進みました。観音堂の左手には墓地があり、後ろは青々とした田んぼが広がっています。回廊まで上がり、お賽銭をあげ、鰐口を鳴らし、ここで会津三十三観音札所巡りも無事に勤めることができたことなども報告し、静かに観音経を唱えました。最初は6月10日に日帰りでまわり、そして6月22日から24日までの2泊3日ですべてお詣りをすることができました。この新型コロナウイルス感染症の影響のなかで、なんとかまわることができたのも観音さまのおかげです。ある意味、今までの観音霊場のお詣りとは違って、どこも感染症防止のための方策がとられていました。なかには、まったくご朱印をしないところもあれば、時間を制限してするところや、別の紙にご朱印を押して準備をして、それをお上げするところなど、いろいろでした。私自身の車のなかにもアルコール系の除菌ウエットティシュを準備しておいて、必要に応じて何枚も使いました。本当にこれほどまで気をつかってお詣りすることも初めての経験でした。
 おそらく、これから数年はこのような生活が続くかもしれません。なんとか、これ以上に拡散しないことを願っています。
 そのような気持ちでお詣りし、それからお堂の中をみると、中ノ明屋敷村中という名前で弁慶と牛若丸の大きな絵馬が奉納され、正面上に掲げられていて、日付けを見ると昭和34年4月とありました。お堂のなかで、ほとんど日にも当たらないので、きれいに保存されていて、生き生きとした様子がそのままでした。
 お詣りをすませ、観音堂の右手の本堂のわきにある庫裡に行くと、すぐに出てきて、ご朱印をいただくことができました。本堂は閉まったままでしたが、庫裡のほうには植木鉢などもあり、花も咲いていました。その方に聞くと、今回の新型コロナウイルス感染症が心配で孫たちも訪ねてこられないと心配していました。たしかに、いろいろなところで、大きな影響があると実感した霊場巡りでした。
 ここから、いったん国道49号線で右折し、会津若松方面に80mほど進むと、すぐに観音前の信号機から左折すると国道121号線で、ここから先は何度か通ったことのある道です。時計をみると、お昼をだいぶ過ぎていたので、「太郎庵喜多方店」でお土産を買い、そこで聞いた喜多方ラーメンのおいしいというお店にまわりました。さすが、地元の人ご推薦のラーメン屋さんでとても美味しかっです。
 そして自宅に戻ったのが午後2時50分で、今回の走行距離は353qでした。
 そして、帰り道、次はどこの観音さまをお詣りして歩こうかと考えながら運転していました。

 第17番中ノ明観音 妙吉山 密蔵院 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 参るより 頼みをかけし 観世音 沼木の沼に 浮ぶ水鳥