◎坂東三十三観音札所巡り◎


☆坂東三十三観音札所巡り Part.01

 2006年9月4〜5日、修行仲間たちといっしょに、坂東三十三観音札所巡りをはじめました。みんなそれぞれに仕事をもっているので、おそらく3年ぐらいで全部廻りたいと思っていますが、さてどうなりますか。まずは今回がスタートです。
 そもそも坂東三十三観音札所といいますと、日本百観音としても有名ですが、西国三十三観音霊場が先にできました。そして、鎌倉時代になると、平家追討のために西国に赴いた東国武士たちは西国観音巡礼のあることを知り、なかなかそこまで出かけられないことから地元の坂東8カ国に観音霊場をつくったようです。今の県別に見ると、神奈川9カ所、東京1カ所、埼玉4カ所、千葉7カ所、群馬2カ所、栃木4カ所、茨城6カ所、の計33カ所です。回り方にもよりますが、全行程約1,300kmですから、相当な距離です。昔は歩いて約40日ほどかかったそうです。
 実際に、2005年2月20日から5月28日までの45日間で満願した方の話しでは、総歩行距は、1,148.23kmだったそうですが、当然昔とは道も違いますので単純に比較はできません。ちなみに2006年4月26日から5月29日まで、34日間かけて西国三十三観音霊場を歩いた方の記録では、遍路コースだけで総歩行距離は、1,009.35kmだったそうです。さらに四国88カ所の全行程の場合は、1,800kmにもなるということです。
 もちろん、今回は歩いてというわけにはいかず、ジャンボタクシーで行くことにしました。ここからは、参加者の都合もあるでしょうから、一人称で書き進めたいと思います。ご了承ください。

 4日の午前6時に万世の普門寺さんに集まり、ここからスタートです。栗子峠を越え、福島の飯坂インターから東北自動車道で宇都宮まで行き、そこから一般道を走り、第19番札所天開山大谷寺に9時30分に到着しました。ここは通称大谷観音と呼ばれ、大谷石にそのまま千手観世音菩薩を刻んでいます。そして、その岩屋にそのまま本堂を入り込ませたように建てられていました。
 案内によると、ここは地獄谷と呼ばれ毒蛇の多いところであったが、あるとき、出羽の湯殿山の行者3人がこの地を訪れ、毒蛇降伏の秘法を修し、岩壁に観音像を彫刻してからは毒蛇の被害がなくなったと伝えられているそうです。私たちもいわば真言の流れをくむ湯殿山の行者ですから、ここを最初にお参りすることになっていたような気がしないでもありません。
 本堂でゆっくりとお参りし、その脇堂の磨崖仏にも巡拝しました。ここには、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像の9体がまつられ、国指定の特別史跡と重要文化財になっているそうです。
 その後、入口左奥にある資料館を見て、山門を出ました。せっかくですので、大谷寺近くの平和観音にまわりました。高さは約27メートルあり、昭和31年に開眼式があったと記されていました。その観音さまのわきの階段を上り、観音さまの肘近くまで行きました。その後手下には、さきほどお参りした大谷寺が道路の向こうに見えました。そこから見ると、まさに岩壁にめり込むように建てられた観音堂が、大きな岩山に護られているかのように感じられました。

 第19番札所 天開山大谷寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 名を聞くも めぐみ大谷の 観世音 みちびきたまへ 知るも知らぬも


☆坂東三十三観音札所巡り Part.02

 大谷の平和観音を出発したのは、10時5分でした。そこから益子にある西明寺には1時間30分ほどかかるということです。そこで益子町の益子焼窯元共販センター で昼食を食べてから向かうことにしました。この共販センターは、だいぶ前に何度か来たことがありますが、久しぶりなので、食事もそこそこに限られた時間内でさーっと見て回りました。
 そして、そこから10分ほどで第20番札所の西明寺に到着です。うっそうとした椎の木に囲まれた石段を上り、茅葺きの仁王門をくぐると、その向こうに銅板葺きの本堂がありました。その仁王門の左わき(写真では本堂から撮ったので右わきに写っています)には、益子家宗の寄進した三重塔があり、参道わきに建てられていた「西明寺における文化財について」という案内板には、この仁王門も三重塔も国指定の重要文化財だそうです。その仁王門右手には閻魔堂があり、笑っている閻魔さまをまつっているそうです。獨鈷山というのは、弘法大師が来山したとき、法相宗の僧たちによって岩屋に閉じこめられたが、持っていた独鈷で難を逃れたという逸話によるそうです。
 さて、本堂でお詣りをし、その右手に大きな高野槙を見つけました。根元の石版には、栃木県指定の天然記念物ということが書かれてあり、推定樹齢750年、樹高30メートルといいますから、まさに圧倒する大きさを感じます。参道の椎の木19本も県指定の天然記念物だそうですから、まさにここは古木に囲まれた聖域でもあります。
 これらの木々と、茅葺き屋根の草とがみごとな山寺の雰囲気をかもし出していました。まだ二つめですが、今回の坂東三十三観音札所巡りも楽しみになってきました。ここを出発したのは、午後12時50分でした。

 第20番札所 獨鈷山西明寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ


☆坂東三十三観音札所巡り Part.03

 雨引観音に着いたのは、午後1時30分です。駐車場のわきの石段を上ると、長い石段の途中の仁王門から入ることができます。そこから一段をくの字の上りきると本堂です。平成10年秋に屋根瓦葺き替え及び塗り替えを行われたそうで、左の写真のように彩色されています。
 ここのご利益は、「ひとびとの病気を癒し、延命長寿を与えたまう息災延命の本願に住し玉いますので、安産子育・やくよけ延命の祈願の効験、ことにあらたかであるといわれております」と書かれてありました。また、「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」と俚謡に詠われていることから、花の寺でもあるようです。参道には桜やツツジの木がありましたし、花は終わっていましたがアジサイもありました。ここは真言宗豊山派ということですから、他にもこの宗派のアジサイ寺があり、アジサイつながりでもあるのではないか、と思ってしまいました。
 本堂の中に入ってお詣りをしてもいいということで、なかで般若心経や諸真言を唱えました。終わって外に出ると、その真横に多宝塔がありました。もともとは三重塔だったそうですが、 嘉永6年(1853に多宝塔に改めたそうです。青空をバックにスーッと建ち、むしろ本堂よりも古格を感じさせます。
 ゆっくりと、参拝し、そして、また石段を下り車に乗り込みました。そして、近くの竹細工屋さんにまわり、午後2時15分、ここを出発しました。

 第24番札所 雨引山楽法寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 延命観世音菩薩
 ご詠歌 へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺


☆坂東三十三観音札所巡り Part.04

 雨引観音境内から遠くに筑波山を望むことができましたが、その麓の大御堂には午後2時45分に着きました。
 ここは筑波山温泉のあるところで、客引きがちょっとうるさいぐらいでしたが、一歩入り込んだ大御堂はとても静かで、大きな御影石の標柱でもなければ分からないぐらいひっそりと建っていました。大御堂は、もともと知足院中禅寺というお寺でしたが、明治初めの仏毀釈の嵐のなかでさまざまな被害を受け、それでも昭和5年に護国寺持仏堂として再興され、現在のお堂は昭和36年に完成したものだそうです。ご朱印は尼様が自ら書いてくれました。
 お堂のわきに、真新しい筆塚があり、御影石に「筆」の一字を刻み、さらに下の方にこれを建立するに至った由来が書いてありました。筆塚は書で使う筆のいわば供養塔で、古く なった筆に感謝し、さらなる書の上達を祈願するためのものであるようです。現在では、あまり筆そのものは使いませんが、ボールペンや鉛筆などは使いますので、同じように感謝する心が大切だと思います。その心が、字を上手に書くことができるようになる基かもしれません。
 大御堂をお詣りした後、歩いて近くの筑波山神社に参拝しました。こここそが大御堂だと思えるほど、立派な山門と本殿が建ち並んでいました。さらに近くには筑波山ケーブルがあり、筑波山の男体山まで上ることができるそうです。時間があればそうしたいところですが、巡礼目的の旅なので、ここから次の札所、清瀧寺に向かいました。筑波山神社を出発したのは午後3時20分でした。

 第25番札所 筑波山大御堂 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき


☆坂東三十三観音札所巡り Part.05

 清滝観音に着いたのは、午後3時50分でした。ここは「坂東霊場記」では行基が聖観音像を刻んで開山したと伝えられるほどの名刹です。ここはまた、新治村大字小野というところですから、小野小町との縁もありそうで、観光案内を見ると小野小町の墓と伝えられているのも近くにありました。この新治村は、『古事記』や『日本書紀』にも記載があり、連歌の始まりとなった歴史的にも古い地名です。
 第26番札所の清瀧寺は、このような歴史ある場所に建っています。駐車場に車をとめ、脇の道を上り仁王門を通ります。そこから二つの長い石段を上ったところに本堂があります。昭和44年の不審火で焼失し、現在の本堂は昭和52年に再建されました。ご本尊さまは、昭和54年に第23番札所観世音寺住職の天津忠興住職が寄進され開眼されたものだそうです。
 聞くところによると、このお寺は地元の信徒たちが守り、お年よりたちが交替で納経をしているといいます。三十三観音巡りは、一つでも欠けると困るので、なんとか維持して欲しいと思いました。時間は、午後4時15分です。もしかすると第23番札所の観世音寺に行けるかもしれないと、先を急ぎました。
 しかし、常磐自動車道友部ジャンクションから北関東道の友部インターを下りたところで午後4時50分になり、観世音寺はあきらめました。再び、友部インターから北関東道にあがり、東水戸道路を通り、水戸大洗インターで下り、茨交大洗ホテルに宿泊しました。ここに着いたのは午後5時30分でした。ホテルの印象は、可もなく不可もなくといったところで、今回は巡礼の旅ということで納得しました。

 第26番札所 南明山清瀧寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 わが心 今より後は にごらじな 清瀧寺へ 詣る身なれば


☆坂東三十三観音札所巡り Part.06

 今日は2日目、9月5日です。茨交大洗ホテルを午前8時35分に発ち、昨日の逆コースで友部インターで下り、国道355号線を通り笠間に向かいました。第23番札所観世音寺に着いたのは、午前9時20分です。これでは、昨日はいくら急いだとしても午後5時には間に合わなかったようです。
 参道を歩くと、両側にはドウダンやツツジが植え込まれ、さらに木の階段を上るとあちらこちらに西洋シャクナゲも植え込まれていました。ご住職にお聞きすると、「西洋シャクナゲではなく、洋シャクだよ」と答えてくれました。もちろん、それ以上は聞きませんでした。
 現在の本堂は昭和になってから建てられた仮本堂だそうで、入口のわきには、本堂再建の寄付受付と書かれた板が立てかけてありました。ご本尊さまは毎年4月17日のご開帳でしか仰げませんが、前立ちの観音さまも良く、本堂内で般若心経や諸真言を唱えさせていただきました。その後、お茶の接待を受け、私はご朱印をお願いし、参道をゆっくりと下りました。参道から見る限り、相当なツツジが植え込まれているようで、春の花時にはすばらしいながめだろうと想像しました。
 みんなが車に戻ったのは午前9時50分で、そこから笠間稲荷にまわりました。そこの笠間稲荷美術館では、ちょうど、「六古窯の美」を開催していたので、それも拝観することができました。
 ここ笠間稲荷を出たのは、午前10時30分です。

 第23番札所 佐白山観世音寺 (普門宗) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 夢の世に ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風


☆坂東三十三観音札所巡り Part.07

 22番札所佐竹寺には、午前11時10分に到着しました。昭和15年に再建されたという仁王門をくぐり、その正面に重厚な茅葺き屋根の本堂がありました。その前には大きなイチョウの木があり、もうすでに銀杏がこぼれ落ちていました。
 本堂は国指定の重要文化財ですが、本堂下陣にはおびただしい数の千社札が張られ、個人的には美観をそぐような気がしました。1546年に佐竹義昭によって再建された豪壮な桃山建築ですから、その辺は少し考えていただきたいと思いました。
 お詣りをすませ、もう一度仁王門に戻ると、中には素晴らしい仁王像がまつられていました。聞けば江戸時代の宝永年間のものだそうで、とても力強い作ゆきです。この仁王門の上にも上れそうですが、妙福山と書かれた扁額のさらにその上には日の丸絵紋の佐竹氏の軍扇が掲げられていました。これを見ても、この寺は佐竹氏と強いつながりがあったと見て取れます。
 この佐竹寺から車で10分程度のところに、テレビなどで有名な水戸黄門(光圀)が『大日本史』を編纂した西山荘があるということです。あのテレビの内容はあくまでもフィクションでしょうが、この『大日本史』を編纂したことは歴史的事実ですし、むしろ誰とでも気楽に話しをする学究肌の人だったのではないかと想像しています。

 第22番札所 妙福山佐竹寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ


☆坂東三十三観音札所巡り Part.08

 佐竹寺を11時30分に出発し、途中のそば屋さんで昼食を食べ、第21番札所日輪寺に着いたのは午後2時5分でした。途中、少しばかり道に迷いましたが、こんなに時間がかかるとは思いもしませんでした。
 国道118号線を北上し、山方町や大子町を通り、下野宮から県道28号線(大子那須線)をすすみ、後藤商店のところから右折し、つづら折りの八溝山への山道を上ります。せっかく上ったのに、また一端下がった8合目あたりに目指す日輪寺はありました。
 駐車場に車をとめ、石段を登るとその途中に見事な赤松があり、樹幹を四方に広げています。石段を登り切ったところにアズマシャクナゲとおぼしき大株がありました。住職とおぼしき方に聞きますと、以前はこの本堂周りにもたくさんのシャクナゲがあったそうですが、今では本堂前に1本しか残っていないといいます。おそらく本堂前なので、採りにくかったのではないかということでした。
 この本堂は昭和48年に再建されたものですが、鰐口は相当古いような印象を受けました。寺伝によると、役行者が開き、大同2年に弘法大師が十一面観音を刻んだということですから、歴史のあるお寺です。この八溝山はむかし砂金が採れたそうで、近くには日本名水百選の1つ「金性水」があります。また、『常陸国誌』には採れた砂金を遣唐使派遣の費用にしたとも書き記されているそうです。
 駐車場脇のお休みどころで、お茶の接待を受け、午後2時40分にここを出発しました。今度はここから後藤商店のところまでどのぐらい時間がかかるかを調べてみたら、ちょうど20分でした。その県道28号線を右折し、舗装ではありますが険しい山道を進み那須黒磯のほうに抜けました。この道路も、途中なんども引き返そうと思うほどでしたが、県道というその名前を信じ、人の住む家を見つけ、やっとホッとしました。
 そして、東北自動車道の那須インターから入り、飯坂インターで下り、栗子峠を越えて帰宅しました。この2日間で回ったのは8ヶ寺でしたが、とても充実した時間でした。

 第21番札所 八溝山日輪寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく


☆坂東三十三観音札所巡り Part.09

 2006年9月26日、東京出張の折に浅草の観音さまに参詣しました。ここは東京都唯一の札所ですが、おそらく現在の東京は坂東霊場選定時はまだ広々としたアシの原だったようです。唯一その当時から隆盛を極めていたのがここ浅草寺でした。寺伝では、推古天皇の時代に漁師の檜前(ひのくまの)浜成と竹成の兄弟が隅田川で漁をしていたとき、その網に高さ1寸8分の金色の観音さまがかかったので、豪族の土師中知(はじのなかとも)と相談し祀ったのだといいます。あの有名な三社祭の氏神がこの3人だということです。
 それが、平安時代に慈覚大師が柳の木で観音像を刻み、前立本尊としたことからたくさんの参詣者が訪れるようになったそうです。現在では、門前町仲見世のにぎわいは格別で、雷門などとともにときどきテレビなどでも放映されます。現在の本堂は、1958年(昭和33年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造です。ちなみに、1973年(昭和48年)に再建された五重塔も鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きで、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置しています。しかしながら、宝蔵門は修理中で、白いテントに覆われていました。
 ここは修学旅行生と思われる生徒さんたちや、言葉を聞いて初めてわかる外国の方も多く、おそらくは昔懐かしい東京下町の風情を味わいたいとやって来たのではないかと思いました。とくに雷門付近では、多くの人たちが記念写真を撮っていました。その雷門をくぐり、仲見世をのぞきながら進むと、修理中の宝蔵門があり、それを抜けると正面に本堂があります。
 大きな香炉から立ち上る煙で身を清め、本堂内で観音経偈をあげ、一人静かにお詣りしました。それから朱印所でご朱印をいただき、ふたたび宝蔵門のところで本堂を向き、廻向文などを唱えました。多くの参詣者がいるとはいえ、お詣りするときはたった一人しかいないかのように心が静かになります。
 そして、お詣りが済むと、もう心が晴れ晴れとして、またゆっくりと仲見世の通りを歩き、雷門を出ました。なんか、俗世間にまた戻ってきたかのような気になりました。そのまま、地下鉄銀座線で上野まで戻りました。

 第13番札所 金龍山浅草寺 (聖観音宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草へ まいる身なればく


☆坂東三十三観音札所巡り Part.10

 2006年10月27日に荻巣樹徳の会「千樹会」に出席するため鎌倉に行きました。そのついでに、上野の東京国立博物館で開催されている『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました。
 そこで感じたのですが、一木の場合はたった1本の木から彫ったもので、むしろ、彫るというよりは、その木に宿る仏さまの姿を彫らされたようでした。木なりといいますか、木を彫り進んでいくうちに、いつの間にか仏さまの姿になっていたような感じです。木目といい、鉈目といい、他の素材では考えられないような素朴さがあります。また金属製と違い、仏さまの温もりみたいなものも感じられました。
 その翌28日、せっかく鎌倉まで来て、第1番札所にまわらなければと思い、大蔵山杉本寺に行きました。鎌倉駅から「金沢八景行き」のバスに乗ったら、バスの中での立ち話で報国寺の竹林がすごくキレイだと聞き、急遽一つ先の浄明寺バス停で下車して報国寺に行きました。うわさに違わず、しっかりと整備された竹林は、とてもキレイでした。京都などで見るものより、その竹林のなかに入れるので、孟宗竹の葉音が聞こえ、そこに差し込む太陽の光が筋をなして見えました。ちょっとだけと思ってまわったのに、1時間以上もその竹林の中にいました。
 その報国寺を出て、再び金沢街道に出て杉本寺に向かいました。大蔵山をちょっとだけ上り、入山料200円を払い、石段を少し上ると山門があります。その山門をくぐると、擦り減った石段がまっすぐに本堂まで続いています。現在は、この石段では危ないので通行止めになっていて、左の石段(女坂)を上ります。その上りきったところに、第1番札所杉本寺はありました。
 本堂へは、入山料を払ったときにもらった本堂参拝券を箱に入れ、靴を脱いで入ることができます。ここは巡礼発願の寺ということもあり、本尊さまである十一面観世音菩薩のみ前にぬかづき、お経を1巻唱えました。それからご朱印をいただき、そこに発願の丸印も押して貰い、これでやっと坂東33観音札所巡りが始まったように思いました。
 ここは、数ある鎌倉のお寺でも古く、パンフレットにも「鎌倉最古仏地」と書かれてありました。ゆっくりとお詣りし、境内地も散策し、今度は反対側の石段を下り、もと来た山門をくぐり、下山しました。
 また金沢街道に戻り、杉本寺バス停で時刻表を確認していると、すぐに鎌倉駅行きのバスが来て、待つこともなく乗ることができました。

 第1番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかはらじ


☆坂東三十三観音札所巡り Part.11

 2007年9月5〜6日、第二回目の坂東三十三観音札所巡りをしました。今回は参加者5名で、ジャンボタクシーと運転手さんは同じです。早朝4時30分に普門寺さんのところに集まり、10分遅れ程度で出発しました。ここに来たときは、まだ、真っ暗でしたが、だんだんと薄明かりになって、それでも車はライトを点けて走っていました。
 飯坂インターから東北高速道に入り、安達太良サービスエリアでちょうど6時になったので軽い朝食をすませました。それもたったの20分ほどです。
 また一路、一番遠い小田原の第5番札所勝福寺を目指します。途中、佐野サービスエリアと海老名サービスエリアでトイレ休憩をし、海老名サービスエリアではガソリンも補充しました。
 酒匂川にかかる飯泉橋手前を右折し、堤防沿いから町中に入り、ほんの少しで第5番札所の飯泉山勝福寺に着きました。時計を見ると、午前10時46分でした。ということは、途中休みながらも6時間ほどかかったことになります。
 仁王門まえには駐車場があり、少し雨が降っていたので、傘を差しながら写真を撮っていると、ほどなく雨が上がったので、もう一度ゆっくりと写真を撮り直しました。仁王門をくぐり、お堂を見渡すと、その手前に形の良いサルスベリが花を付けていました。花色もありふれたもので、しっとりとした風情が感じられました。また、先ほどまでの雨の水滴がつぼみに付着し、花のつぼみと水滴がともに光って見えました。
 本堂の左手前には、太い銀杏の木がそびえ立ち、ひっそりとした木陰を作り出しています。本堂は1706(宝永3)年再建の宝形造りで、内陣に入ることはできませんでしたが、外陣からお詣りさせていただきました。ですから、なかの様子は何もわかりません。ただ、ここから今回の巡礼が始まるので、心なしかお経を読むのにも力が入ります。本堂右手前には、二宮尊徳の本尊礼拝の像が建ててありました。そこの由来板によると、尊徳がこの勝福寺で旅僧の観音経訓読を聞き、その意味するところを知り、利他に生きることの大切さを思ったということです。
 そういえば、ある観音経の解説本を読んでいたときにもこのような記述があり、ある法会で私もこの話しをしながら観音経訓読をしたことがあります。ところが、その後の話しでは、あまりありがたくないという指摘を受け、それ以来、一度もしたことがありません。その話しの起源はここの場所だったのだと知り、そんな若いときの苦い思いなどを思い出しました。
 帰りに、もう一度、サルスベリとお堂とをいっしょに写真のなかにおさめ、仁王門をくぐり車に乗り込みました。時間は、午前11時13分でした。

 第5番札所 飯泉山勝福寺 (古義真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 かなわねば たすけたまえと 祈る身の 船に宝を つむはいいづみ


☆坂東三十三観音札所巡り Part.12

 2007年9月5日、次にまわった観音霊場は、第7番札所の金目山光明寺です。ここは、平塚から秦野へ向かう途中の金目というところにあり、すぐ傍を金目川が流れています。ご本尊さまは、行基が彫ったと伝えられる観音像のその胎内に、小磯の浜に打ち上げられた木片を納めたといわれているそうです。そこから、「お腹ごもりの観音」として信仰され、今に伝わっています。
 白御影石の門柱のすぐ奥には、仁王様がまつられている仁王門があり、その正面に間口7間、奥行き8間の観音堂があり、明応年間(1,492〜1,501年)の建立で、平塚では最古の建造物だそうです。それが右の写真です。
 それでも、明治の神仏分離以降は無住に等しいほど荒廃したそうですが、現在ではきれいに寺域も整えられていました。ご朱印をいただくために朱印所に行くと、その庫裡の庭には大株の洋石楠花も植えこまれ、季節の花々も咲いていました。寒いところではなかなか栽培できないジンジャーなどもあり、この庭を拝見しただけで、相当な花好きとお見受けいたしました。やはり、壮麗な寺院建築もいいですが、その境内地の環境も大切なものです。
 町中のお寺では、十分な境内地を確保するということは難しいでしょうが、ある意味、お寺というのは緑の緩衝地でもあります。あるいは、ゆっくりと散歩もできる心の安らぎの場でもあります。いろいろな役割を持つお寺という存在は、これからもっともっと活用すべきだと思います。ある住職さんは、お寺を開放して、お堂の中でゆっくりと本を読んでもらいたいと話していましたし、また別な方は、薬草園をつくりたいと考えていると話されたことがあります。
 やはり、今の時代に必要とされているお寺のあり方を考えなければならない時が来ている、と思わずにはいられません。そんないろいろなことを頭に描きながら、ちょうど12時にここを出発しました。

 第7番札所 金目山光明寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ



☆坂東三十三観音札所巡り Part.13

 お昼を過ぎましたが、なかなか昼食をとるところが見つからず、そのまま厚木の第6番札所飯上山長谷寺に行きました。厚木市内から約6Kmほど離れているそうですが、車だとあっという間です。ちょっと小高い山に上り始めたと思ったら、すぐに飯山白山森林公園の看板があり、その駐車場のすぐ手前に仁王門が見えました。時計を見ると、12時45分でした。
 この仁王門は、源頼朝が秋田義景に命じてつくらせたという由来があるそうで、そこをくぐって石段を登ると、右側に大きな槙の木がありました。その根元には、これが天然記念物に指定されているという指標があり、改めて、ちょっと戻って写真を撮りました。さらにその付近には桜の木もたくさん植えられていて、おそらく花時には多くの人たちが訪れるのではないかと思いました。
 さらに石段を登ると、両側に並んだ数多くの石灯籠の奥に、本堂が見えました。寺伝には、行基や弘法大師にまつわる縁起が書かれてありましたが、このりっぱな本堂ですから、それなりの故事来歴があって当然です。
 ここでも、ゆっくりとお経を読み、真言を唱え、お詣りをさせていただきました。いつものように、掛け軸や朱印帳への納経印は運転手さんがやってくれるので、とても助かります。だからこそ、お詣りもゆっくりでき、写真も撮ることができます。とくに、大きな槙の木と石段を組み合わせて何枚も撮ったのですが、横位置には収まりきれませんでした。
 時計を見ると、13時03分でした。近くには、昼食のできそうなところがなさそうなので、第8番札所の星谷寺への途中で昼食の場所を探すことにして、ひとまず出発することにしました。

 第6番札所 飯上山長谷寺 (高野山真言宗)本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 飯山寺 建ちそめしより つきせぬは いりあいひびく 松風の音



☆坂東三十三観音札所巡り Part.14

 みんなで車中から昼食場所を探したにもかかわらず、とうとう第8番札所の妙法山星谷寺に着いてしまいました。時間は、13時30分です。ということは、第6番札所からここまで、約25分程度しかかからなかったということになります。小田急線座間駅からだと、徒歩で10分ほどで星谷寺に着くとありましたから、町中の寺です。
 仁王門の前に、真新しいような石像のお仁王様が左右に立っていましたが、そのさらに前に車を3〜4台止められそうな駐車場がありました。そこから歩いて仁王門をくぐり、左に大きなイチョウの木があり、その少し先に沙弥西願によって嘉禄3年(1227)に勧進鋳造された梵鐘をかけた鐘楼があります。これは、東日本最古の鐘だそうですが、見ると撞座が1つしかないようです。後から、由来書を見ると、それがとても珍しいとか、やはり稀少なものほど値打ちがあると思いました。
 本堂右手前にある手洗いで手と口をすすぎ、それから本堂に入りお詣りをしました。そのお詣りをしている間は、雨が降っていたようですが、終わって出てくる頃には雨も上がり、傘も差さずに車に戻りました。今回は台風9号が来ていたので、雨の覚悟はしてきたのですが、不思議なことに車で移動している間は雨が降ったものの、ほとんど傘の必要はありませんでした。やはり、観音さまはありがたいと思います。
 このお寺は、北条氏の篤い保護をうけたり、徳川家康から座間郷に寺領の寄進を受けたりし、以前は相当繁栄していたようですが、今はこじんまりとまとまっていて、雰囲気のよい境内地でした。季節の花が咲き、大きな木があり、なによりも静寂さがありました。
 ゆっくりしたいところですが、観音さま巡礼のたびは、これでなかなか忙しいものです。13時55分には、ここを出発しました。

 第8番札所 妙法山星谷寺 (真言宗大覚寺派)本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 障りなす 迷ひの雲を ふき払ひ 月もろともに 拝む星の谷


☆坂東三十三観音札所巡り Part.15

 13時55分に第8番札所の星谷寺を出発したのですが、まだ、昼食を食べていませんでした。なかなか食べるところが見つからないのと、早く札所を回りたいのとの板挟みです。次の予定は、横浜市南区にある第14番札所の弘明寺ですから、だいぶかかりそうです。そこで、ファミレスでもいいということになり、車のナビで探したら、すぐに見つかり、簡単な昼食をすませました。それでも、50分ほどかかりました。
 そこから、横浜まで一気に進みましたが、京浜急行線弘明寺駅前を通過し、商店街の手前で駐車場に入るところを見過ごし、一方通行だったので、また遠く迂回しながら同じ道に入って、今度は間違いなく狭いところから駐車場に入れました。この間、ロスタイムが20分ほどありました。たかが20分ですが、ほとんどのところが、ご朱印所が午後5時で閉まってしまうのです。そうすれば、また出直さなければならなくなります。昨年も、ちょっと時間が合わなく、あきらめた札所がありました。
 ここの、弘明寺駐車場に着いたのが、16時35分でした。すぐに観音堂にお詣りし、ご朱印をいただき、まずはホッとしました。ここの観音さまは、鉈彫りだそうで、平安末期のものといわれています。なお、左の写真は、本堂の左側にある絵馬堂です。
 ところが、お詣りをしている間にすごい雨が降り、傘を差しても濡れるほどの勢いです。時計を見たら、もう観音堂が閉まる、午後5時少し前の16時55分です。すると、戸を閉めはじめたその音を合図にするかのように、雨が上がり、写真を撮ることもでき、無事に車に戻りました。後は、泊まるところに行くだけですから、気をもむ必要はありません。そこに、泊まる予定の民宿から電話が入り、予定通り進んでいることを話し、ここから約1時間ほどかかるということを聞きました。
 泊まったのは、城ヶ島の民宿「ひこや」です。ここには午後6時ちょうどに着きました。今朝の午前3時30分に起きて、ここまで来たのですから、疲れないわけはありません。でも、運転手さんのほうが、私たちの何倍も疲れているはずです。今日1日で5カ寺もまわれたのは、やはり運転手さんのおかげです。
 午後6寺30分に地元の美味しいお魚を中心にした夕食をいただき、この日は静かに床につきました。

 第14番札所 瑞応山弘明寺 (高野山真言宗)本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや ちかひの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのみや



☆坂東三十三観音札所巡り Part.16

 9月6日、朝6寺30分に起床し、7寺20分に朝食、8時にはここを出発しました。民宿の前のお土産やさんで、城ヶ島公園に行くことを勧められ、そこにまわることにしました。
 ここは三浦半島の最南端で、駐車料金を払っただけで公園内に入れました。なかはとてもよく整備され、ハマオモトやイソギクなどが咲いていました。そこの展望休憩所からは、台風の影響を受けた太平洋の荒波が岩礁にぶち当たるのが見えました。しかも、展望所は何カ所かあり、それぞれに違った風景を楽しむことができます。でも、先を急ぐ身ですから、そこをそこそこにして出発しました。時間は、午前8時35分でした。
 目指すは、第2番札所の岩殿寺です。ここは逗子市久木にあり、ちょうど1時間で着きました。細い住宅地内の道をやっと通り抜け、その先に山門が見えました。駐車場も、2〜3台しか入らないようです。山門を通り、両側に植え込みのある石畳(左の写真)を歩き、途中から石段を上ります。左手には本堂や庫裏などが斜面に沿って建っています。その脇を石段を一歩一歩踏みしめながら行くと、その行き着く先に観音堂がありました。
 縁起には、「ここより、近くは相模湾に面した逗子の海を、また遠くは三浦半島はもとより伊豆、房総の半島を一望できる絶景の地であることから、山号を「海前山(現在は海雲山)」また、岩窟が自然の殿堂のようであったので寺号を「岩殿寺」としたといわれる。」とありましたが、現在では住宅が建ち並び、視界も遮られているようです。この観音堂は、江戸期に再建されたもので、逗子市の重文に指定されているそうです。周りには、立派な木々が生え、いかにも古木蒼然とした雰囲気でした。
 その観音堂の裏に、今でも岩殿寺の由来にもなった岩窟がありましたが、これはちょっと新しいようで、後から作られたような感じでした。帰りに、もう一度、その眺望を確かめるべく逗子の町並みを眺めましたが、その先にほんの少し海らしきものが見えただけでした。
 石段の途中にある庫裏でご朱印をいただいてきてくれた運転手さんと会い、そのまま車に戻りました。09時55分、ここを出発しました。

 第2番札所 海雲山岩殿寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.17

 次は、第3番札所の安養院です。逗子の岩殿寺からは距離的にはほんの少しですが、なにせ地理不案内のものばかりですので、頼りは車のナビだけです。車に乗り込むと、まずは行き先のお寺を入力し、案内開始で出発します。
 それでも、10分で着きました。先に着いたマイクロバスで巡礼をしている千葉の方々のそばに車を停め、御影石の石畳を歩き、山門をくぐると、真正面に観音堂があります。その左手前には、樹齢700年といわれる槙の木があり、寺伝では安養院を開山した尊観上人の植えた ものと言われているそうです。
 ここの観音堂は、昭和3年に建立されたもので、内陣には阿弥陀如来、そのうしろに千手観音が安置されているそうです。ここが、やはり浄土宗なのかもしれません。まずは、最初にご法楽をささげ、観音堂から出ると、左手に睡蓮の鉢植えが残り花を咲かせていました。それが少し薄暗い境内地にあって、スポットライトを浴びたように照り映え、つい写真を何枚も撮ってしまいました。花色は、ピンクと白でした。
 なぜ、ここが安養院田代寺と言われるようになったのかと由来をみると、「嘉禄元年(1225)北條政子が夫、頼朝の菩提を弔うため、笹目ヵ谷に願行上人を閉山として祇園山長楽寺を建立した。だがその年の7月に政子が死去し、この寺に祀られることになった。しかるに長楽寺は元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡の際、兵火によって焼け、同じく焼失した名越の善導寺跡に移り、2寺は合併されて安養院となった。安養院はさらに延宝8年(1680)に火災にあったが、その際に田代寺をここに移して復興されたのである。」ということだそうです。なんとも、ややこしいことです。
 でも、山門を出て、外に出ると、石垣に植え込まれたツツジの株が見事で、おそらく花時は多くの人たちが訪れるのではないかと思いながら、ここを後にしました。午前10時20分でした。

 第3番札所 祇園山安養院田代寺 (浄土宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 枯木にも 花咲く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.18

 第3番札所の安養院を出て、次は第1番札所の大蔵山杉本寺を目指しました。
 実は、この杉本寺は昨年の鎌倉での会議の折、一度お詣りをしたのですが、その時はバスで行きましたが、今回は車です。いったん、金沢街道へ出たのですが、いつの間にか通過したらしく、もう一度戻って見つけました。そんなこんなで、安養院から15分ほどかかり、なんとか到着しました。10時35分でした。
 山門前で入山料を払い、石段を進みました。この前にお詣りしたときも、この入山料にいささか疑問を持ったのですが、今回は既成事実としてすっなりと納得。まあ、少しは境内地の整備に役立ってくれればいいと思いました。山門には、ちょうど咲いていたサルスベリの花が枝を伸ばし、いい雰囲気でした。その先は、この前に来たときと同じように、通行止めになっていて、右手のほうの石段を上りました。
 すると、たった一度だけなのに、見慣れたような茅葺きの5間4面の観音堂が杉木立ちのなかに建っていました。案内には、ここが鎌倉で一番古いお寺だとあり、たしかにその通りだと思わせるものがあるようです。現在の観音堂は、延宝6年(1678)の再建だそうですが、その千社札の多いこと多いこと、これでは張り紙禁止にしたいのも頷けます。
 中に入り、座ってご法楽をささげ、さらに奥まったご本尊さまにお詣りし、外に出ると、杉木立から太陽の光がもれ、なんともすがすがしいものを感じました。やはり、お詣りはいいものです。気持ちがさっぱりし、心まで洗い流したような気になります。
 下りは、別の道を通り、また山門のところで合流し、下山しました。やはり、ここも山の斜面に建てられたところで、「下山」という言葉も、すんなりと出てきて、ここを10時55分に出発しました。足りない説明は、No.10を参考にしていただければありがたいです。

 第1番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかはらじ



☆坂東三十三観音札所巡り Part.19

 平成19年度の今回最後の巡礼地は、第4番札所の海光山長谷寺です。
 地図を見てると、そんなに離れていないようでしたが、杉本寺から25分ほどかかりました。ここも、数年前に家内と訪れたことがあり、二度目の参詣です。ここでも入山料を払い、山門の脇を抜け、池の間の道から石段を上ると、左手から大きなサルスベリが花を咲かせ、さらに上ると、今度は木立の下に小さくて優しい3体の親子にも似たお地蔵様がまつってありました。そこから、回り込むように石段を進むと、その高台に、観音堂などの伽藍が建っていました。まさに、見るからに近代的なもので、最近のものと一目でわかります。
 ここの本尊さまは、奈良の長谷寺の観音さまと同じ木から彫られたといわれ、全長三丈三寸と古記録にもあるそうです。お姿は、十一面観世音菩薩で、右手に錫杖を持っておられるのが特徴で、地蔵菩薩への信仰と重なり合わされたものではないかと思われます。
 たしかに由緒あるご本尊さまですが、長谷寺の創建年代は不明で、『吾妻鏡』にも記載はないそうです。しかし、僧忍性が極楽寺坂を切り開いた文永・弘安年間(1264〜88)の頃には、人々の信仰を集めていたようですから、それなりの格式は持っていたようです。そして、なにより、この大きな観音さまには、とくに奈良の長谷観音さまに行けない人々にとっては、ありがたい存在だったのではないかと思われます。
 ここが今回の巡礼の最後ということで、とくに念入りにご法楽をささげました。
 そして、まだ時間があるということで、付設されている宝物館にも入り、弘法大師作といわれている出世大黒天などもお詣りさせていただきました。
 下山して、時間を確認すると、11時55分でした。そこから、藤沢方面に車を進め、途中の「新中華美食 炎の龍」で昼食を食べ、鎌倉市栄区の定泉寺の田谷の洞窟にまわりました。ここは30分ほどでまわり、後はまっすぐに東京を通過して帰宅の途につきました。
 定泉寺を出発したのは13時40分、出発地の普門寺さんに着いたのが20時ちょうど、そして我が家に到着したのは、午後8時25分でした。途中で、ガソリンを詰めたり、夕食を食べたりしましたが、6時間45分かかったことになります。まずは、運転手さん、ほんとうにご苦労様でした。そして、お世話になりました。また、必ず、来年もこの坂東三十三観音札所巡りを続け、いつかはすべて達成したいと思います。

 第4番札所 海光山長谷寺 (単立) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波



☆坂東三十三観音札所巡り Part.20

 平成20年度も、坂東三十三観音札所巡りをしてきました。9月1から2日にかけてです。
 1日の早朝4時20分に自宅を出て、集合場所の万世普門寺さんのところへ4時50分に着きました。出発予定は午前5時です。
 しかし、奥様が「朝茶をどうぞ!」ということで、朝茶と茄子漬けをいただき、午前5時7分に出発しました。今回最初の巡礼地は、第28番札所の滑河山龍正院です。
 ジャンボタクシーの運転手さんにお任せの旅、しかも3年目も同じ運転手さんなので顔見知りになり、とても気楽な旅です。福島飯坂インターから東北高速に入り、郡山ジャンクションから磐越自動車道に進み、いわきジャンクションから常磐自動車道に入りました。そして、中郷サービスエリアに着いたのが午前7時10分でした。ここで朝食をとり、少しの休憩の後、出発しましたが、時計を見ると30分しか経っていませんでした。
 友部ジャンクションからそのまま常磐自動車道を進み、桜土浦インターで高速道路から一般道に下りました。目指す龍正院は香取郡下総町と案内図に書かれていましたが、今は成田市なんだそうです。しかも、新しく圏央道ができたそうで、それならつくばジャンクションから阿見東インターまで行けば良かったかな、などと運転手さんが話していました。
 それでも、予定より早く、午前9時40分に龍正院に到着しました。
 先ず、その仁王門にしめ縄がかかっていることにびっくりしました。それには由来があって、享保年間に門前で火災があったのだがここの仁王尊が観音堂の屋根から大きな扇で火焔をあおぎかえしたので下の集落は焼失をまぬがれたといいます。それで現在でも、毎年正月8日に下の集落の人々はしめ縄を奉納しているのだそうです。しかも、この仁王門は室町時代の建物で、重要文化財に指定されていました。
 そこをくぐると、正面に大きな観音堂があります。この入母屋造りのお堂は、元禄9(1696)年に建てられたもので、昭和43年に大修理をされたそうで、外陣には多くの巡礼額が掲げられていました。そこで、般若心経などを唱え、ゆっくりとお詣りしました。ここまで、自宅からだと5時間強かかったわけですが、昔ならどれほどの時間でお詣りできたのかなどと考えると気が遠くなりそうでした。
 いつものようにご朱印は運転手さんがいただいたくれるので、お詣りに専念できます。お詣りののち、境内地をゆっくりと巡拝しました。ここは下総七福神の毘沙門天を祀っているらしく、そのほこらもあり、さらには、新しくぼけ封じ道祖神などと書かれた石仏もありました。
 この龍正院から、今年の坂東三十三観音札所巡りはスタートです。

 第28番札所 滑河山龍正院 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 音にきく 滑河寺の 朝日ケ渕 あみ衣にて すくふなりけり



☆坂東三十三観音札所巡り Part.21

 次は第29番札所の海上山千葉寺です。千葉寺と書いて「せんようじ」と読みます。龍正院を出たのが午前10時、成田山付近を通りがかったのが10時20分ごろで、再び東関東自動車道路の成田インターから入り、宮野木ジャンクションから館山自動車道へ、そして松ヶ丘北インターでおりました。ほどなくして千葉寺の前に着きましたが、ちょうど1時間かかったことになります。
 ここ千葉寺は、大網街道沿いにあり、山門前はひっきりなしに車の往来があり、横切るのが大変でした。しかも山門付近には電線や案内板なども多く、写真も撮りにくい状態でした。でも、この山門は単層入母屋造りで、ここにもしめ縄が張ってありました。
 この山門をくぐると、先ず目に入るのが大きなイチョウの木で、ここを開創されたときに植えられたと伝えられているそうです。私は気がつかなかったのですが、案内板にあの鎌倉八幡宮の大イチョウよりも大きいと書かれてあったそうで、まことに見事でした。何枚も写真を撮りましたが、大きさもさることながら木の木陰で薄暗く、難しそうでした。
 そのイチョウの木を右に見て、そのまま進むと観音堂です。昭和20年の戦火で失われたそうですが、その後しばらくたって落成されたもので、朱塗りの鉄筋コンクリート造りです。その扉に付けられた図柄もおもしろく、ちょっとやぶにらみのようです。相当大きな観音堂ですが、その手前のイチョウが大きいこともあり、遠くから見るとそんなには大きく感じなかったのですが、鰐口の下でお詣りするときには、相当な威圧感がありました。
 ここのご詠歌を読みながら、もしかすると昔はこの近くまで海が広がっていて、波の音なども聞こえたり、船の姿なども見えたのではないかと想像してしまいました。しかも、ここが千葉の郊外とはいえ、静かな環境で、朝晩の散歩に最適ではないかとさえ思えました。
 ここを出たのは、午前11時25分でした。

 第29番札所 海上山千葉寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや 岸うつ波に 船ぞうかぶる



☆坂東三十三観音札所巡り Part.22

 次は第31番札所の大悲山笠森寺です。千葉寺を午前11時25分に出発し、館山自動車道の蘇我南インターから入り、市原インターでおり、笠森寺に着いたのはお昼ちょっと過ぎの12時5分でした。
 参道手前の売店の駐車場に車を止めていただき、参道を上ります。ここは「女人坂」とあり、杉や楠などの鬱蒼とした木々に囲まれた深閑とした雰囲気のなかを110段の石段を登っていきます。おそらく夏でもヒヤッとするようなところで、笠森寺自然林として天然記念物として指定されているそうです。
 登り切ると、二天門があり、そこをくぐり抜けると、二代目広重の「諸国名所百景」にも描かれたという観音堂が見えます。このお堂は、岩山の上に建ち、それぞれ高さの違う61本の柱に支えられているそうで、とても珍しい四方懸崖造りです。この日は青空でまぶしく、見上げると空に浮かぶような感覚でした。
 さっそく急な「く」の字に折れ曲がった階段を上ると、左手のほうが正面で、そこから外陣に入ります。大きな声で経文を唱えると、そのまま空の彼方までこだましそうでした。
 また、ここから見る景色もすばらしく、まさに自然林に囲まれているのが実感できます。また外国人の多いのにもおどろきました。パンフレットを見ると、英語の案内もあり、なるほどと思いました。ここで、記念撮影をしましたが、バックが空なのでほとんど何も写らなく、後から整理しているとどこで撮ったのかさえわからないほどでした。
 帰り道、参道わきに大きな楠の木があり、そこの根本にある穴をくぐると、子が授かるという「子授け楠」だそうですが、いっしょに行った一人がくぐりましたが男ですから、おそらくお孫さんでも授かるのでしょう。この参道には他に、松尾芭蕉の「五月雨にこの笠森をさしもぐさ」の句碑や1本の杉の根っこから生えている三本杉の巨木などがあり、それらを眺めながら帰ると、あっという間にもとの駐車場に着きました。
 売店の駐車場にただ車を止めてもらって帰ってはということで、そこでソフトクリームを食べることにしました。そろそろお昼を食べなくてはならない時間でしたが、ちょうど一汗かいたということもあり、とても美味しかったです。ここを出発したのは、午後1時5分でした。

 第31番札所 大悲山笠森寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 日はくるる 雨はふる野の 道すがら かかる旅路を たのむかさもり



☆坂東三十三観音札所巡り Part.23

 第30番札所の平野山高蔵寺に向かいましたが、時間的にそろそろ昼食です。私たちはお詣りが目的ですから、少々時間がずれてもいいのですが、車の運転手はそうはいきません。車の中からいろいろと食べるところを探すのですが見つからず、運転手さんにお願いして、ナビで探してもらうことにしました。近くに和風ドライブインがあるということで行ってみると、そこは普通のラーメン屋でした。おそらく、自分でそのように表示するように依頼したのでしょうが、かえって印象を悪くしてしまうような気がしました。せっかく入ったお店ですから、文句も言わずラーメンなどを頼み、昼食をすませました。
 高蔵寺はここから5分ほどのところにありました。到着時間は、14時15分でした。
 駐車場の前に14段ほどの石段があり、山門をくぐると、そこは高床式のような重層入母屋造りの観音堂です。パンフレットによると、木更津市指定文化財になっているそうで、床柱数88本、床の高さは2.3mで、床下を人が立って歩けるそうです。
 だからというわけでもないのでしょうが、観音堂の床下を「観音浄土巡り」として利用していました。もともとは秘仏とされてきた本尊正観世音菩薩を床下から常に拝めるとあったので、拝観料一人300円を払い、入ってみました。地獄界と極楽界、そして観音浄土界を体験できるとありましたが、ちょっと猥雑な展示で、少々がっかりしました。何が地獄で、なにが極楽かもわかりませんし、中国の品が飾ってあるかと思えば、エジプトのものもあり、果てはヨーロッパのものまで乱雑に展示されています。
 私的には、ご本尊さまを直接間近でお詣りできればそれだけでよい、と思いました。もちろん、人それぞれの好みもあるでしょうが、床下のあの空間はちょっともったいないと思いました。
 外に出ると、真っ青な空が見えました。そのとき、今経験したのはむしろ胎内くぐりで、やはりこの自然あふれる外の世界が一番いいと思わずにはいられませんでした。

 第30番札所 平野山高蔵寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろう 阿娑婆なるらん



☆坂東三十三観音札所巡り Part.24

 高蔵寺を14時45分に出発し、途中の富津中央インターから館山自動車道に入り、館山自動車道路の終点富浦でおりると、ほどなくして第33番札所の補陀洛山那古寺に到着しました。ちょうど1時間かかってここに着きました。
 先に急な石段の参道前に行ったのですが、駐車場はその手前にあるというので、そこに移動しました。その駐車場の奥に本坊があり、そこでご朱印をいただけるようです。私たちは、裏坂と呼ばれているなだらかな参道を上り、仁王門前で写真を撮り、そこをくぐると伽藍が立ち並ぶ境内地です。
 先ず左手にあったのは鐘楼堂で、右手には阿弥陀堂がありました。その阿弥陀堂の左手に見事な多宝塔があり、宝暦11(1761)年に建てられたとあります。ちょっと珍しい造りで、地元の大工さんたちが造ったのだそうです。
 その奥に朱塗りの本瓦葺きの観音堂がありました。案内図では、これが本堂でもあるようです。
 数段の石段を上り、左にまわると、そこが観音堂の正面です。老中松平定信の揮毫による「円通閣」の大きな額が掲げられ、観音堂からは館山の海が見渡せます。さっそく経を唱え、まだ坂東33観音全部を巡拝したわけではないのですが、ここが第33番の観音さまということもあり、一心に念じました。額にもあるように、「円通」とは仏さまだけでなく、修行者までもが智恵をあまねく行き渡っていることで、その智恵をいただくからこそ真実が見えてくるわけです。
 一心にお詣りし、それからまた海の方を振り返ってみると、はるか遠くまで見渡せるように感じました。なぜか、自分が多くの人たちと慈悲の心で接することができるようにと願ったことが、観音さままで届いたかのようです。やはり、お詣りすることは気持ちのいいことです。お詣りしなければ、このようなおおらかな気持ちにはなかなかなれません。毎日の細々した日常世界からちょっとはみ出し、大いなる観音さまの膝前で一心に祈ると、ほんとうに気持ちが晴れ晴れします。
 観音堂の左手には、大黒堂もあり、諸堂をゆっくりとお詣りしながら帰りました。本坊前には、大きな蘇鉄が植えてあり、誰か一人が写真を撮ると、なぜかみんなが撮り始めました。これが日本人の性格かな、と思いながらジャンボタクシーに乗り込みました。
 時計を見ると午後4時20分です。今日の巡拝はこれまでとし、宿泊予定の小湊鯛ノ浦温泉のホテル三日月を目指して進みました。ホテルに到着したのは午後5時30分で、海ぎわの道路は、山国育ちの人にとっては心はしゃぐ時間でした。夕食を19時からにしてもらい、21時40分にはみんな寝てしまいました。
 運転手さんはホテル内では別行動でしたが、ほんとうにご苦労様でした。明日もよろしくお願いいたします。

 第33番札所 補陀洛山那古寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても



☆坂東三十三観音札所巡り Part.25

 巡拝者仲間は、みんな早起きです。5時前後から動き出し、早々にお風呂に行き、朝食の7時15分からが待ちきれない様子でした。ちょっと早めに行くと、何とか入れてくれ、ゆっくりと食べることができました。
 予定どおり、ここのホテルを午前8時に出発しました。近くに日蓮聖人の誕生された誕生寺があるというので、今日最初の参拝をそこにしました。ほんとうにあっという間に着き、朝の気持ちのいい時間に祖師堂をお詣りし、またゆっくりと参道を歩いて総門から車に乗りました。おそらく付近の信者さんと思える人たちが竹箒で境内地を清掃していましたが、その姿はとてもいいものでした。おそらく、自分自身の心まで掃き清めることができるのではないかと思いました。ここ誕生寺を出発したのは、午前8時30分です。
 まずは第32番札所の音羽山清水寺に向かいます。運転手さんに伺うと、ナビでは約1時間ぐらいという話でしたが、9時15分には着きました。清水寺だから音羽山なのかな、と京都の清水寺を思い出しながら石段の上に建つ仁王門をくぐり、するとその先にまた石段があり、その奥まったところに観音堂があります。
 観音堂は八間四面の入母屋造りのお堂で、外陣の壁には多くの巡礼額が納められていました。おそらく、地元坂東33観音霊場さえ巡拝するのは難しかった時代に、西国や秩父、さらには日光など、なかなかお詣りするのは夢のようなことだったのかもしれません。その中で、遙か遠い山形から車に乗り高速道路でやってきた人たちが経や真言を唱えているわけです。もし、この額に名前の載った人たちが聞けば、おそらくビックリすることでしょう。あるいは、ここまで何日、いや何週間かかったのかと聞かれるかもしれません。まったく時代は変わってしまったのでしょうが、変わらないのはこの霊場の寺々です。
 この坂東観音霊場ができたのは、おそらく鎌倉時代のことでしょうから、約800年ほどになります。それぞれに栄枯盛衰はあるにしても、今現在もこのようにしてお詣りできることがすばらしいことです。800年前の人たちと同じように、ここ坂東の地を今も巡拝できることがすごいことだと思います。その悠久の時に思いをはせながら、ゆっくりとお詣りさせていただきました。
 お詣りが終わり、石段を下がると、運転手さんもご朱印がすんだようで待っていました。すぐ車に戻り、9時45分に次の霊場に向けて出発しました。

 第32番札所 音羽山清水寺 (天台宗) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 濁るとも 千尋の底は 澄みにけり 清水寺に 結ぶ閼伽桶



☆坂東三十三観音札所巡り Part.26

 次は、今回巡礼の最後になる第27番札所の飯沼山円福寺です。ここは銚子市内にあるので、九十九里浜をずーっと走らなければなりません。前の清水寺を出たのが午前9時45分ですから、予定では2時間はかかるということでした。途中、千葉県道路公社の九十九里道路を走り、海辺を眺めながらのドライブです。海風が気持ちよく、青い空が目にまぶしいほどです。九十九里浜とは、九十九里も浜辺が続くということで名付けられたのでしょうが、ほんとうに行けども行けども砂浜が続いています。もちろん、道路は海ぎわばかり走っていませんから確実なことはわからないのですが、そのような印象でした。
 そうしているうちに、円福寺に着きました。11時30分でした。
 最初は本坊に行ったのですが、観音堂は道路を隔てたところにあるということで、車で移動しました。仁王門を入るとその奥に修理中の観音堂が見えました。その左手に大きな五重塔を建築中で、本坊からもらってきた大判の趣意書によると、総工費は7億5千万だそうです。竣工は今年となっていて、地盤より相輪上端までの高さが33.55mで、立柱式は5月18日にされたそうです。
 まずは観音さまにお詣りをするべく観音堂に入ると、特別に内陣でおつとめをしてもいいとのこと、有り難く中に入らせていただき、太鼓を打ちながら勤行いたしました。今年の坂東巡礼はここで打ち止めということもあり、念入りに経を唱えました。そして、内陣を出ようとしたとき、ふと、天井を見上げると見事な観音様と蓮の花が描かれているのに気づきました。おそらく、一こま一こまをご奉納いただいたものでしょうが、それらがまとまると、大きな存在感になると思いました。
 修理中で観音堂の全体はわからなかったのですが、外陣の大きな提灯はまるで浅草観音さまの雷門のような大きさで、造りも似ていました。その観音堂手前の大香炉わきに大仏さまが安置されており、正徳4(1714)年に鋳造されたとありました。境内地を歩きながら見ていると、運転手さんがご朱印をいただき戻られたので、また、車に乗り込みました。12時5分でしたが、そのまま近くの満願寺にもお詣りすることにしました。ここでも、縁があり、内陣でおつとめができ、いい思い出になりました。
 満願寺を出たのが12時50分で、そこで紹介された「一山いけす」という活魚大衆料理のお店で昼食にしました。大きなお店で、ちょうどお昼ということもあり、たいへん混んでいましたが、帰られる方もおられたようで、すぐに席に着き、海鮮ちらし寿司を食べました。そこで、帰る道筋だから、ぜひ鹿島神宮にまわってお参りしたいと話すと、みんな賛成してくれ、ここを1時30分に出発しました。
 鹿島神宮に着いたのは2時40分でしたが、ちょうど1〜2日は「鹿嶋のご神幸」というお祭りで、付近一帯は駐車禁止だったので民間駐車場に車を止め、歩いてお参りしました。その途中で多くの人たちが引く山車や還幸祭という行列にもあい、思わぬ祭事に出会うことができました。
 仲間の一人が何度かここにお参りしたことがあるということで、その案内で本殿だけでなく奥宮や要石まで行ってきました。予定ではあまり時間をかけずにということでしたが、15時25分までここ鹿島神宮にいました。
 あとは、一路、帰宅するだけです。16時25分に水戸大洗インターから入り、北関東自動車道路を友部ジャンクションで常磐自動車道に進み、前日に朝食を食べた中郷サービスエリアで一時休憩し、安達太良サービスエリアでは夕食を食べました。考えてみたら、昨年の坂東巡拝の帰りもここで夕食を食べたようで、人ってあまり変わりのないことをしているんだなあと感じました。
 東北自動車道を福島飯坂インターでおり、時計を見ると午後7時29分でした。そして、みんなが集まった万世の普門寺さんに着いたのが午後8時5分でした。予定は8時30分でしたから、まずまずの時間で帰ることができたようです。
 こうして、今年の坂東三十三観音札所巡りも無事に終了しました。おそらく、次の機会には三十三ヵ所すべて巡拝できることと思います。まずは、その満願できることを願い、おのおのの自坊に帰りました。

 第27番札所 飯沼山円福寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 このほどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな



☆坂東三十三観音札所巡り Part.27

 今年の坂東三十三観音札所巡りは、2009年9月2〜3日となり、今回で三十三ヵ所すべて巡拝し満願を果たしたいと思いました。
 9月2日早朝午前5時30分に米沢市万世の普門寺さんに集まりました。私は4時50分に自宅を出発しましたが、鶴岡から参加したのはおそらく2時過ぎには出発したのではないかと思います。全員そろったところにジャンボタクシーも着き、出発しました。運転手さんは坂東巡拝4回とも同じ方で、もうすっかり顔なじみになった洲アさんです。
 福島飯坂インターから東北自動車道に入り、安達太良サービスエリアでしばし休憩し、栃木インターで下りました。時計を見ると午前8時20分、そこから25分ほど走ると第17番札所出流山満願寺です。
 今回最初の巡礼地、満願寺は、栃木県栃木市出流町にあります。この地名をとって地元の人たちは出流観音と呼んでいます。真言宗智山派の別格本山で、開基は勝道上人で山伏の修行地でもあったそうです。
 まず、石段の参道を上り、左手にご朱印受所があり、やや広い境内地に出て、そこには小さなお宮や弁財天像などがお祀りされています。その中央の石段を上ったところが観音堂です。現在のお堂は明和元年(1764)に再建されたもので、8間4面の唐破風のある大きなお堂です。
 このお堂の右手から奥の院への道が続いていて、聞くところによるとそこまでは往復40分はかかるとのこと、今回はすべて巡拝するのが最大の目的なのであきらめました。案内板によると、奥の院は舞台造りで、その前には落下6メートルほどの大悲の滝もあり、行者はここで垢離を行ったそうです。
 観音堂でゆっくりとお詣りし、戻ってくると、ちょうどご朱印もいただけたとのこと、さっそく車に乗り込みました。
 少し下がると、そこに雄壮な山門があり、車を止めてもらい、もう1度ここからお詣りをしました。左手には、「坂東第十七番札所 出流山満願寺」と書かれた石碑が立ち、山門の両側には朱塗りの仁王様がおまつりされていました。
 そういえば、境内地の鐘楼堂の4本の柱も朱塗りでした。それが小雨の中でしっとりとして、近くにたくさん生えていたシュウカイドウの花色といい対比をなしていました。あのシュウカイドウの葉の不均衡さと鐘楼堂の造りが似ていて、それもおもしろいと思いました。
 すべてのお詣りが終わり、再び車に乗り込み、次の札所へと向かいました。すでに9時20分を過ぎていました。

 第17番札所 出流山満願寺 (真言宗智山派別格本山) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ふるさとを はるばるここに たちいづる わがゆくすえは いづくなるらんく



☆坂東三十三観音札所巡り Part.28

 次に目指したのが、第12番札所の華林山慈恩寺です。
 第17番札所出流山満願寺を出たのが9時20分で、先ほどの道を東北自動車道の栃木インターまで戻り、そこから岩槻インターまで進みました。10時25分に岩槻インターで下りると、だいぶ前に来たときには東北自動車道はここまでしかなく、ここから東京までは一般道を走ったことなどを思い出しました。
 そんなことを思い出しているうちに、第12番札所華林山慈恩寺に10時40分に着きました。ここは新しい住所がさいたま市岩槻区となりましたが、その岩槻市内から5キロほど北の郊外にあります。
 すぐ近くには駐車場があり、そこに車を止め、参道を進むと、境内地にはサルスベリが満開に咲いていました。この時期のお詣りで気づくのはほとんどのお寺でサルスベリが咲いていることです。それも古木あり苗木ありで、見ていても楽しいものです。しかも、苗木はほとんどが新しい品種で、これらが大きく育ったときのことを考えるとこれまた楽しみです。そして、境内には慈恩寺文書の案内板があり、それを読むとそうとう由緒のある寺格を誇っていたようです。
 納経所は観音堂の右手前にあり、お詣りをする前にお願いできるのでとても便利です。観音堂は天保14年(1843)に再建され、さらに昭和の大改修がされたそうで、13間4面の大きな本堂です。山号の由来は、慈覚大師が日光山の頂からスモモの実を投げるとこの地に落ちて華を咲かせたので、ここに千手観音のご尊像を自刻し、一宇を建立しおまつりしたことに始まるといいます。そのような由来があるからなのか、いろいろな植物が大切に育てられていて、とてもやすらぎます。
 ただ残念だったのが、近くにある玄奘塔に行けなかったことです。ここに玄奘三蔵のご霊骨をまつられるようになったきっかけは、「昭和17年、南京駐留の日本軍がたまたま土木作業中に玄笑三蔵法師のご霊骨を発掘し、南京政府に届け出た。そこで、その分骨が日本仏教会に贈られ、現在、ここの石造十三重の塔に納められているのである。」とあり、高さは15mほどあるそうです。
 ぜひ機会をつくって、お詣りしたいと思います。
 ここ慈恩寺を出たのが午前11時5分、そこから再び岩槻インターに戻り、東北自動車道で東京都台東区の浅草寺に向かいました。自分で都内を運転するのは大変ですが、今回はまったくの運転手さんまかせ、東京の移り変わりを車窓から眺めながら進みました。

 第12番札所 華林山慈恩寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても


☆坂東三十三観音札所巡り Part.29

 第13番札所の金龍山浅草寺に着いたのがちょうど12時でした。ここは駐車場がないので、一般の有料駐車場を利用するしかないのですが、たまたま運転手さんが境内地に近いところを知っていて、そこに止めました。駐車料金は、35分ほどでしたが800円です。
 浅草寺の左手から入り、すぐ気づいたのが、本堂が大きく覆いがされていて、まったく見えません。聞けば、平成本堂大営繕で屋根瓦をすべて葺き替え、併せて本堂外壁塗装等をしているとのことでした。期間は、今年平成21年2月から平成22年11月までを予定しているそうで、ご寄進受付所も新たに設けられていました。この浅草寺は2006年9月26日にお詣りしたときには、りっぱなお堂がしっかりと見えたので、今回は永く荘厳を護持するためには仕方ないと思いました。
 地下鉄のような通路を通り、本堂外陣に入り、多くの方がお詣りしているなかをいつものように読経し、ご法楽を捧げました。すると、大きなお堂も多くの人たちも見えなくなり、じかに観音さまと向かっているような気持ちになりました。
 運転手さんがご朱印をいただいたというので、せっかく、浅草にいるのだからここで昼食にしようと話しをしていると宝蔵門あたりで相談していると、じつはこれからが道のり的には大変だということでした。そういえば、今日はあと3カ寺まわらなければならず、次の第11番札所安楽寺までは2時間以上もかかるそうです。もし、ここで昼食をすれば、時間もちょうどお昼なので混雑し、もしかすると待たなければならず、1時間では終わらないかもしれません。観音参りのご朱印は、ほとんどが午後5時で終わり、あとは押印してもらえなくなります。
 そういえば、最初の坂東三十三観音札所巡りのとき、第23番観世音寺に向かいながらその時間まで行けそうもないということで、常磐自動車道の友部インターを出てすぐにまた高速道路に入って戻ったことなどが思い出されます。そして翌日にまわったのですが、その分、帰宅はずいぶん遅れました。今では、それもよき思い出ですが、今回はまずは満願を果たさなければなりません。それを第1の目的に考え、お昼はどこかの高速道路のサービスエリアで食べることにしました。
 車に戻る途中、薬師堂や淡島堂、そして銭塚地蔵尊などをお詣りしました。すぐに車に乗り込み出発です。午後12時35分でした。

 第13番札所 金龍山浅草寺 (聖観音宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身なれば



☆坂東三十三観音札所巡り Part.30

 浅草寺を午後12時35分に出発し、首都高速から関越自動車道に入り、高坂サービスエリアに着いたのが午後1時30分です。ここだと食事が出るのも早いのではないかと思い、ここで昼食になりました。そそくさと食事を終わし、2時10分にはここを出ました。
 東松山インターで下り、第11番札所岩殿山安楽寺に着いたのは2時33分でした。ここは埼玉県比企郡吉見町にあるので、通称「吉見観音」ともいいます。開基は坂上田村麻呂で、奥州征伐の戦勝を祈願して建てられたと案内板にありました。
 山門をくぐると、ちょうど自主消防の放水をしていたところで、参道が水に濡れていました。ところが参拝者がいてもやめる様子はなく、観音堂で読経を初めると、今度は観音堂の屋根にも放水があり、正面でお詣りしていると水しぶきがかかってきます。それで仕方なく、わきにずれながらも読経を続けました。
 観音堂は7間4面で、寛文元年(1661)に完成したそうで、外陣には観音巡拝をされたときの「奉納額」がいくつも掲げられています。その額を見ると、はるか昔には、観音さまを巡礼するというのは人生のなかでも大きな出来事であり、それを達成できたという強い想いが感じられました。今でこそ坂東三十三観音霊場を巡るのに1週間程度であればできますが、その当時は数ヶ月とそれに見合う相当な金子が必要だったと思います。しかも、やっとやっとの生活からひねり出すわけですから、今の巡礼者の数百倍以上もの強い意志がなければできません。そうして満願を迎えれば、それこそ一生の宝ものになります。
 時代が違っても、その強い想いで巡拝したいと念じながら読経をしました。
 そして内陣に目を移すと、左甚五郎作の「野あらしの虎」と呼ばれている欄間があり、薄暗いなかにそれらしい彫り物も見えました。
 その観音堂の右手にはすっきりした三重塔があり、昭和35年に解体修理をし、現在は県指定の文化財になっているそうです。また、観音堂への石段の右手前に寛政2年(1790)に鋳造された露座の阿弥陀さまが安置されており、地元では「吉見の大仏」として親しまれているそうです。
 山門に戻ると、すでに放水は終わっていて、ホースも片付けられていました。ここ山門から改めて境内地を見回すと、水のかかったところとかからないところがまだらになっていていました。車に乗ると、午後2時53分でした。

 第11番札所  岩殿山安楽寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 吉見よと 天の岩戸を 押し開き 大慈大悲の 誓いたのもし



☆坂東三十三観音札所巡り Part.31

 第10番巌殿山正法寺は東松山市岩殿にあり、物見山(標高135m)の中腹にあります。岩殿にあるから山号も「巌殿山」(いわどのさん)ですが、さきほどお詣りした第11番安楽寺も山号も「岩殿山」(いわどのさん)です。ただ旧字体の違いはありますが、坂上田村麻呂とのつながりもあり、さらに同じく真言宗智山派に属しているので、なんとなく似通った雰囲気が感じられます。
 ここ正法寺に着いたのは午後3時18分です。駐車場から見える仁王門には、「施無畏」の扁額がかけられ、それをくぐるとまた石段が続き、岩壁に囲まれるようにして境内地があります。そこから向かって左手には鐘楼があり、その右手奥に観音堂があります。
 地元の人は「岩殿観音」と読んでいるように、観音堂の北側と裏側は切り立った岩崖になっています。おそらく、山号もこの様子から名付けられたもののようで、落石注意の看板もありました。見るからにもろそうな岩石で、いつ崩れてもおかしくないようですが、ここにこうして観音堂が建っているところをみると、大丈夫なような気もしてきます。
 この観音堂は明治10年に失火し、明治12年に高麗村から移築したものだそうです。それにしては小さなお堂ですが古色を帯びて、風格すら感じられます。おそらく、昔は、この境内地にはいくつも堂宇が並んでいたと思われますが、それら盛衰を思うと、吹き抜けてくる風にも寂しさが感じられます。
 いつの世にも、変化や変遷はつきものです。良くなることもあれば、悪くなることもあるのが世の常です。その変化に耐えて生き抜いてきたのが先人たちです。やはり、続いてきたことが素晴らしいことで、そこで消失してしまっては跡形もありません。何かが残っているからこそ、そこでいろいろなことを考え、思うことができます。
 おそらく、坂東の各札所も同じで、お詣りする人たちも多くなったり少なくなったりしたはずです。それでも残って今があるわけですから、その歴史を考えただけでも有り難いと思いました。
 今日の予定では、もう1カ寺まわらなければなりません。急いで車に戻り、3時36分に出発しました。

 第10番札所  巌殿山正法寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 後の世の 道を比企見の 観世音 この世を共に 助け給へや



☆坂東三十三観音札所巡り Part.32

 第10番正法寺から、約35分ほどで着きました。これでなんとかご朱印はいただけそうです。あとはいくらでもゆっくりとお詣りできます。
 この第9番都幾山慈光寺は、埼玉県比企郡ときがわ町にあり、以前は幾川村でした。都幾川に沿って進むと、標高300mほどの都幾山があり、その中腹に位置します。前の札所で「高い山の上だから・・・・・」と教えられましたが、たしかに細長い石段のずーっと先に観音堂はありました。
 創立は白鳳2年(673)といい、役の行者の修行場ともいわれ、平安時代に作られた蔵王権現をまつっていました。しかし、昭和60年11月の放火でそれら仏像が消失したそうで、とても残念なことです。最近、仏像などの盗難が相次ぎ、テレビなどでも放映されましたが、火事は一時で全てを失ってしまいます。しかも、それが放火とあっては、何をか況んやです。放火はまったく人災ですが、各寺院が火事などの災難に対する対策を施すことも大切だと思いました。そういえば、先ほどの第11番安楽寺では、自主消防の放水がありましたが、これも何かの縁、少し水はかけられましたが、常の訓練は大切なことです。
 そういえば、庫裏の近くにりっぱなコンクリート造りの宝物館がありましたが、それも火災の教訓からつくられたものかもしれません。
 広いアスファルトの道路の脇から急な細長い石段を上ると、その上に観音堂があります。この石段は緑に覆われ、日当たりも悪いので、少し滑りやすく、気をつけてゆっくりと上りました。後から気づいたのですが、別な楽な参道があって、こちらから上ると比較的楽なようです。
 観音堂に入ると、天井は格天井になっていて、かすかに絵らしきものが残っていました。そこにぶら下がるように白馬の像があり、何に使われたものかと想像しましたが、思い当たりません。白い像ならわかるのですが・・・・・・。
 先ずは、今日最後のお詣りですので、ゆっくりと読経し、今日一日の無事を感謝しました。そして、明日以降の良きことを念じました。
 そして、観音堂を出ると、案内板に気づきました。そこに、「世荒らしの名馬」のことが書いてあり、左甚五郎作と伝えられるといいます。そういえば、第11番岩殿山安楽寺に左甚五郎作の「野あらしの虎」と呼ばれている欄間がありましたが、それに似通っています。
 その観音堂から楽な方の道を下ってくると、新しく建立されたらしい「般若心経堂」がありました。ここには、いろいろな方々が書かれた般若心経を収めてあるそうです。でも、時間が時間なので、早々に車に乗り込み、午後4時45分に出発しました。
 今夜の泊まりは、群馬県の伊香保温泉の「いかほ秀水園」です。運転手さんも今日の予定がすんなりといったので、ゆっくりと運転しているようでした。
 宿に到着し、チェックインをしていると、もう午後6時を過ぎていました。先ずは少し休んでから湯に入り、夕食を食べ、早めにふとんに入りました。

 第9番札所  都幾山慈光寺 (天台宗) 本尊さま 十一面千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 聞くからに 大慈大悲の 慈光寺 誓いも共に 深きいわどの



☆坂東三十三観音札所巡り Part.33

 今日は9月3日、朝からいい天気で、予定通り7時30分に朝食を食べ、8時30分に宿を出発しました。
 仲間の一人が、たしかここ伊香保温泉には石段で有名なところがあると言いだし、先ずはそれを見ることにしました。車で数分のところに、その石段街はあり、伊香保の関所があったところです。石段も新しく、あまり温泉情緒もなく、写真を数枚撮っただけで、第16番札所の五徳山水澤寺に向かいました。
 水澤寺は伊香保温泉街から約10分ほどで到着し、さっそく本堂の観音堂にお詣りしました。以前1度お詣りをしたことがありますが、そのときは通りがかった縁でのお詣りです。しかし、今回はお詣りが目的ですから、いわば一心詣りです。お詣りのなかで、一心詣りほど念の入ったお詣りはなく、はっきりした信念がうちに秘められたものです。やはり、なるべくなら、一心詣りを心懸けたいと思っています。
 観音堂で、今日一日もおだやかにお詣りできることを念じながら読経しました。お堂は方形造銅板葺で、正面に唐破風の向拝があり、その向拝には透かし彫りや丸彫りなどの見事な彫刻があります。天明七年(1787)の竣工だそうで、すぐわきの内部が回転するようになっている六角堂も同じときにできたものだそうで、ここには六地蔵尊が安置されています。
 観音堂から出て、その前で写真を撮ろうと思い、後ろに下がると、そこに石段があり、山門のような建物が下に見えました。そこで、その石段を下ると仁王門があり、仁王尊とさらには風神・雷神が祀られていました。間口は三間で奥行きが二間、そして平板銅板葺き重層入り母屋造りの立派なものです。ここから入らずに観音堂にお詣りするとはおかしな話しです。そこで、いったん下まで石段を下り、そこから仁王門をくぐり、また石段を上って観音堂に進み、もう1度お詣りをしました。すると、この自然の動きがとても気持ち良く、1日の始まりとしてはいい流れをつくってくれそうでした。
 さらに、六角堂や龍王辨財天、十二支守り本尊さまなどをお詣りし、駐車場わきの釈迦堂を見せていただきました。ここは平成13年7月に落慶したそうで、寺内のさまざまな仏さまなどを安置してお祀りしているところです。さらに坂東三十三観世音菩薩像を祀りお砂踏みもできるようになっているので、自分たちが回ってきたときのことなどを思い出してしまいました。
 ここ水澤寺を出発したのが、午前9時35分でした。次の第15番札所白岩山長谷寺まではそんなに時間がかからないそうです。

 第16番札所  五徳山水澤寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのみくる 心も清き 水沢の 深き願いを うるぞうれしき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.34

 第15番札所白岩山長谷寺には午前10時に到着しました。ここは役ノ行者が開基されたそうで、金峯山修験本宗に属しています。長谷寺は「ちょうこくじ」と読み、奈良初瀬の長谷寺とは、一人の旅僧に一夜の宿を供した縁で初瀬の十一面観音像を模して造り与えてくれたという言い伝えに関連がありそうです。町村合併後は住所も群馬郡榛名町白岩から高崎市白岩町と変わったようです。
 駐車所に車を駐め、道路を横切って室町時代に建立されたという仁王門を入ると、唐破風の向拝のある本堂が見えます。このお堂は昭和63年5月16日に市指定重要文化財になっていて、天正8年(1580)に再建させたものだそうです。明治の神仏分離のとき、修験とのかかわりも強く、本尊さまは祖師堂に移されたそうですが、36代山主の妻が「十一面観音さまを観音堂へ返して欲しい」と当時の高崎郡役所に日参し嘆願したそうで、それで戻ることになったと解説書には書かれています。
 いつものように、お堂で読経し、ご法楽をささげ、しっかりとお詣りしました。それからゆっくりと向拝部分を見ると、彩色をほどこした彫刻があり、回廊には大黒さまも祀られていました。中には入れませんでしたが、外回りを見せていただき、それから朱印所に行きました。するとご住職がいて、金峯山修験本宗に属していることなど、いろいろなお話しをしてくださいました。
 境内を見渡すと、平成6年5月9日に建立された石のお不動さまがあり、説明板には高さ5メートル、重量47トンと書かれてあり、中国福建省で造られたとあります。さらに左手上のほうにお堂がありましたが、現在は参道が土砂崩れで上れないとのこと、少しでも早く直していただきたいものです。
 駐車場に戻り、車に乗り込むと、時間は午前10時27分でした。
 そこから、関越自動車道の前橋インターから入り、沼田インターで出て、一路、金精峠を目指しました。その途中で、吹割の滝の案内板を見つけ、これは東洋のナイアガラとも呼ばれているぐらいだから見て老いたほうがいいという方のすすめがあり、みんなで見ることにしました。たしかに国の天然記念物に指定されている滝だけのことはあり、水量がもう少し多ければすごいだろうな、と思いました。
 ここで30分ほど時間がかかりましたが、おそらくいつまた来れるかわからないところなので、見ることができて良かったと思いました。後は、最後の巡礼地、日光の中禅寺を目指して進みました。

 第15番札所  白岩山長谷寺 (金峯山修験本宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 誰も皆な 祈る心は 白岩の 初瀬の誓ひ 頼もしきかな



☆坂東三十三観音札所巡り Part.35

 金精峠を越え、湯ノ湖で少し休憩をし、中禅寺湖畔の第18番札所日光山中禅寺に着いたのは午後2時でした。ほぼ、予定通りの時間です。
 山門前の駐車場に車を駐め、拝観料500円を払い山門をくぐりました。ここ坂東三十三観音札所のなかでお詣りするのに拝観料を出すのは珍しいこともあり、運転手さんもびっくりしていました。
 ここは天台宗に属し、輪王寺の別院になっていますが、784年に勝道上人によって創建されたといいます。観音さまは、勝道上人みずから桂の立木に彫られたということで、別名「立木観音」とも呼ばれています。
 昔は女人禁制だったようで、いろは坂の途中にあった女人堂で遙拝していたそうです。しかし、明治の神仏分離令によって大きく様変わりし、さらに明治35年の山津波により観音堂が湖畔に押し流されましたが、ご本尊さまは少しの損傷もなく、現在では歌ヶ浜観音堂に奉安されているそうです。
 まずは大悲閣でお詣りし、そこの廊下伝いに五大堂へと上がり、そこでもお不動さまのご真言を唱えました。ここで、坂東三十三観音札所をすべて巡拝したことになります。そして、五大堂の回廊に出てそこから男体山や中禅寺湖を見ると、達成感からなのかある種の充実した想いが胸に迫ってきました。たしかに4年もかかりましたが、いま思えばあっという間でした。
 考えてみれば、これからの1年を思えば、ずーっと先のことのようにしか感じません。しかし、それが過ぎてしまうと、ほんとうにあっという間です。これをほぼ80年ほど繰り替えと一生が終わります。まさにあっという間の人生です。
 今回の巡拝では、目標を達成する一番の近道は焦ることなく、一歩一歩進むことだと知りました。将来に対する不安が消えるわけでもありませんが、その一番の近道を歩いているという気持ちがその不安を楽にしてくれるようです。まずは行動を起こさなければ何事もはじまりませんし、途中であきらめてしまっては、さらに不安だけが増幅していきます。
 もう一度大悲閣の前に出て、みんなで満願の記念写真を撮りました。
 ここ中禅寺を出発したのは午後2時37分です。そこからいろは坂を下り、日光市内の「綿半本店」で水羊羹を買いましたが、「ひしや」の前を通ったら、まだ売り切れの札が下がっていませんでした。もしかすると、と思い聞いてみると、まだあるとのことでそれを買い求めました。1本1,500円でした。
 もう3時を過ぎていましたが、昼食を食べることにし、元祖湯葉寿司の「寿司秀」に入りました。ちらし寿司の上に生湯葉ものって美味しくいただきました。ここを4時15分に出て、途中安達太良サービスエリアで休憩しただけで、まっすぐ米沢の普門寺さんへと車を走らせました。
 普門寺到着が午後7時10分、自宅到着が7時40分でした。
 それぞれの想いで続けた坂東三十三観音札所巡りが、終わりました。

 第18番札所  日光山中禅寺 (天台宗) 本尊さま 十一面千手観音菩薩
 ご詠歌 中禅寺 のぼりて拝む みずうみの うたの浜路に たつは白波



「観音さまを巡礼する」の最初に戻る