☆越後三十三観音札所巡り Part.01

 新型コロナウイルス感染症の世界的広がりのなかで、日本も第1波と第2波がきましたが、やはり大都会は感染者が多く、マスクや手洗い、三密を避けることなどがもとめられています。それでも東北地方は比較的感染者が少なく、なんとかこの感染症が終息するようにと祈りの旅に出かけました。
 越後三十三観音の開創にはいくつかの説があり、ひとつは1256(康元元)年に北条氏五代最明寺時頼が越後回国されたときに岩谷堂を参拝し、三十三ヶ所を定めて巡拝したのがはじまりとも言われてますが、上杉家ゆかりの寺院が多いことから、上杉謙信公が活躍されていたころ始まったのではないかとも考えられます。それらから考え合わせると、江戸時代以前には巡礼が始まっていたようです。この越後三十三観音札所は、以前から関心があり、いつかはお詣りしたいと考えていましたが、ここ数十日は新潟県内に感染者が出ていないこともあって、出かけることにしました。令和2年9月29日、この日は29日で2(フ)9(ク)の日で、天気もよく、幸先が良さそうでした。自宅を午前7時に出発し、大峠を越えて喜多方から会津坂下町に出て、そこから磐越自動車道と北陸自動車道を乗り継いで西山インターチェンジで下りました。そこから6分ほどで越後三十三観音第5番札所宝蔵寺に着きました。
 ここは刈羽郡刈羽村滝谷にあり、時計をみると9時50分でした。ほとんど休まずに運転してきたので、思ったより早く着きました。
 大きな自然石に「寳蔵寺」と彫られた石碑があり、その近くの少し広めのところに路上駐車して、そこの石段から上りました。参道を歩くと、左側の松の根元に曼珠沙華が咲いていて、その先の石段の手前の両側の石燈籠の足元にも花を生けているかのように曼珠沙華が咲いています。その石段を10段ほどを上ると山門です。
 その山門の柱には、左に「越後霊場 第五番札所 宝蔵寺」と書いた木札があり、右には「越後新四国 第十六番 宝蔵寺」と書いた木札が掛かっていました。そこをくぐると、お堂があり、左手には観音石像がまつられていました。

 お堂は閉まっていましたが、そこに鰐口などはなく、靴を脱ぐ場所があるところをみると堂内でお詣りするようになっているかもしれないと思い、静かに戸を開けると、スーッと開きました。堂内はとても広く、畳敷きの廊下の右側には、お不動さまがまつられていて、その前には護摩壇があり、以前は護摩を焚いていたようです。
 正面がご本尊の阿弥陀如来さまで、右側の奥に十一面観世音菩薩がまつられています。わかりやすいようにと、その前には第五番札所の大きな板とご詠歌が書かれた同じような板が立てかけてありました。この観音さまは、上杉謙信が川中島の戦いに際し、もし勝てたら御供料を捧げると祈願し、実際に寺領80石を寄進したと伝えられています。また、不退山という山号も珍しいので調べてみると、上杉景勝が会津に国替えのときにこの観音さまと弥陀三尊像を船に乗せて運びだそうとしたところ、動かなかったそうです。そこで、観音さまだけを下ろしたら、船が動き出したということで、それまで普光山と号していたのを不退山と改めたそうです。
 しかも、それらの寺宝は、現在は米沢市御廟の法音寺にまつられているということで、米沢から来たものにとっては、とても親近感を感じました。
 ご朱印は、お堂の左側に「御朱印受付所」と書かれた場所があり、自分で押すようになっていて、「おすがた」もありました。そこに、立てかけるようにして本堂と山門を描いた油絵が立派な額に入って飾られていましたが、ちょっと違和感がありました。
 ご朱印をいただき、外に出ると、「花供養」と彫られた大きな黒御影石があり、平成十三年十月という日付けが入っていました。私も花は大好きなので、ここにもお詣りさせてもらいました。
 そういえば、ここは越後路、越後といえば良寛さんです。せっかくの越後の旅ですから、良寛さんの言葉をひとつひとつ思い出しながら、歩きたいと思います。では、先ず、「秋風に ひとり立ちたる 姿かな」です。というのは、この越後三十三観音札所巡りは一人旅ですし、その最初から自分で戸を開けて堂内で観音経を唱え、ご朱印を押し、戸締まりをしました。でも、寂しいというよりは、これからこの秋空のもと、しっかりとお詣りして歩くぞという気持ちのほうが先立ちます。
 だから、この『越後三十三観音の旅』の扉絵も、良寛さんの生まれた橘屋跡に立っている良寛像を使わせてもらいました。この写真を撮ったときは、遠く日本海の向こうに佐渡島も見え、おそらく良寛さんも天気のよいときにはいつも見ていたのではないかと思います。
 車に戻ると、午前10時7分です。次は第6番札所「常楽寺」です。ナビでは3.3㎞だそうで、わりあい近くにあるようです。

 第5番札所 不退山 宝蔵寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 絶えせじな ここも名におふ 普陀落の みなみの山に 落つる滝つ瀬



☆越後三十三観音札所巡り Part.02

 第6番札所「常楽寺」は、刈羽郡刈羽村井岡にあり、いったん国道116号線に入り、JA柏崎刈羽基幹支店の手前から県道73号線に左折します。そして500mほど進むと、右川の田んぼの真ん中に見えるので、そこへ右折すると150mほどでその前に出ます。
 手前にりっぱな駐車場があり、そこに「福寿観音石像」があり、小さな六地蔵がその前にまつられています。みな赤い前掛けをしていて、その左わきの石には、「よいことを おもいおこない するならば かんのんさまは ちから かします としお」と彫られていました。比較的新しい石像なので、制作された年号などないかと探しましたが、ありませんでした。こんもりした向う側には、金属製のドーム型のものが見えますが、ここからではそれが何なのかはわかりません。
 駐車場に車を駐め、その先に歩いて進むと、左側に黒御影石に「越後三十三観音霊場第六番札所 玉崎山 常楽寺」と彫られていて、そのすぐ右側に上る階段の方を向いて不動明王立像が立っています。その石段を上ると門柱があり、右側には「玉崎山」、左側には「常楽寺」と彫られていますが、その門柱の上には帽子のように石が載せてあり、石の色が違うところをみると、かぶせたもののようです。
 その正面に、民家のようなお堂がありました。

 ここは無住ということなので、自分で戸を開けて中に入ると、外陣と内陣に分かれていて、内陣の正面にはご本尊さま、右にはお不動さま、左手前には御賓頭盧さまがまつられていました。
 せっかくお堂の中でお詣りできるので、ここでも観音経の偈などを唱え、ゆっくりとお詣りさせてもらいました。
 その外陣の左側の畳の上に、大きな紙に「御朱印帳 差し替え用紙 本堂 左のレターケースの中にあります」と書いてあり、その先に、ご朱印の箱と「料金口(朱印料)」と書いた青いレターケースがありました。これはとてもわかりやすく、ほとんどの参詣者がとまどうことはないと思いました。
 ここのご本尊さまは33年に1度ご開帳されるそうで、上杉謙信公もたいへん信仰されたと案内書に書いてあります。というのは、1576(天正4)年の戦のさなかに、敵陣のなかに白羽の矢が二筋下がるのを見て、敵をたちまちに滅ぼすことができたことから、この寺を祈願所として信仰したと伝えられています。やはり、ここは越後、上杉謙信公の話しが数多く伝わっています。
 お詣りをすませ、今度はお堂の右側から下りるとなだらかなスロープになっていて、福寿観音石像のところに出て、そこでもう1度お詣りをしました。子どものような六地蔵のすがたから、良寛さんの和歌に「つきてみよ 一二三四五六七八 九の十 十とをさめて また始まるを」というのを思い出しました。これは貞心尼が「これぞ此の ほとけの道にあそびつつ つくやつきせぬ みのりなるならむ」との一首に答えて詠んだそうですが、「一二三四五六七八 九の十」を「ひふみよいむなや ここのとお」と口ずさむと、その軽やかな韻が伝わってきます。たしかに、人生はいろいろなものの繰り返しかもしれません。
 車に戻り、時計をみると、10時30分でした。
 次は第七番札所摩尼珠院です。ナビで確認すると、ここ常楽寺から22分、13.4㎞だそうです。

 第6番札所 玉崎山 常楽寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 玉崎と 訪ねたずねて 来てみれば われが心の うちにこそあれ



☆越後三十三観音札所巡り Part.03

 第7番札所摩尼珠院は、柏崎市藤橋にあり、柏崎市までは国道116号を進みます。そして、それから国道8号へ入り、希望ヶ丘の交差点を左折し県道522号に入ります。北陸自動車道の下をくぐり600mほど進むと、左側にあります。
 お堂に上る石段の右手に駐車場があり、そこに車を駐めました。午前10時55分でした。
 石段の左手前には、白御影石に「越後霊場 第七番札所 摩尼珠院」と彫られた門柱が立っていて、その脇には「文句を言わない足の裏 気づけば感謝で手を合わせ」と書いた伝道句が掲示されていました。
 その句をかみしめながら11段の石段を上ると、両側に赤い観音さまの幟旗が立っていて、すぐお堂です。お堂の扁額には「医王山」という山号が金文字で書かれています。
 でも、今までの観音堂では、ほとんどお堂の中でお詣りできたのですが、ここは鍵が掛けられていたので、その前でお詣りをしました。

 いつものように観音経を唱えていると、すぐ前が道路なので、車の音が聞こえてきますが、ゆっくりと心を込めて唱えていると気に障ることもなくなります。おそらく、このようなことから、山上にまつられてきたようですが、今ではお堂も老朽化し参道も悪路ということで、ここでお詣りをするようになったと案内書には書いてありました。
 その案内書には、開創以来一時衰微したそうですが、上杉謙信の家来であった宇佐見定行によって再建され、その後も何度か繰り返されたようです。でも、これは時代の流れでもあり、ある意味、仕方のないことです。ここのご開帳は60年に1度だそうですが、その間の維持は大変だと思います。今なら100歳も珍しくはなくなりましたが、人生50年の時代には、まさに一生に1度あるかどうかですから、ほとんどの人は前のご開帳を知らないわけですから、やはり大変なことです。
 そういえば、このお寺は摩尼珠院ですが、良寛さんの句に「摩頂して ひとり立ちけり 秋の風」というのがありますが、この摩頂というのは、頭を撫でることで、良寛さんは自分の頭をなでながら、秋風のなかに立っているという意味です。でも、頭をなでながら何を考えているのか、想像するだけでも楽しいものです。もしかすると、遊ぶ子どもたちもいないので、さてどうしようかと考えているのかもしれません。
 お詣りが終わって、お堂の右側に、「第七番 摩尼珠院 納経のご案内」が貼られていて、ここのお寺には住職がいないため、右側にある玄関奥に「ご朱印」、霊場会指定の「納経帳の差替」が置かれていると書かれ、その他に墨書きの希望者やお堂に入って参拝希望者は、世話人まで連絡してくださいと書いてあり、兼務寺院の福寿院と世話人2人の電話番号が書かれていました。先にこれを読めばお願いもできるでしょうが、時間もあるので、その玄関から入って、自分でご朱印を押しました。
 ここの札所は、県道522号のすぐわきなので、まったく迷わずにここまで来れましたし、駐車場もすぐ手前なのでとても便利です。そこに戻ったのが午前11時12分でした。
 次は第8番札所不動院です。ナビで確認すると、柏崎南部の山手のところにあり、ここから8分、4.4㎞だそうです。

 第7番札所 医王山 摩尼珠院 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 紫の 雲もたなびく 藤橋に かけてぞたのむ 二世の願いを



☆越後三十三観音札所巡り Part.04

 第8番札所不動院は、柏崎市宮之窪にあり、先ずは県道522号から藤橋の交差点を右折して進み、また右折して県道73号へと入り、新道の交差点を左折し国道353号へと進みます。そして黒滝集落開発センターのところを右折し、200mほどで左折し、さらに950mほど進むと右側に案内板があります。そこを右折し進むと突き当たりが不動院です。その右側に駐車場がありました。
 ここに着いたのが午前11時20分で、車を駐めていると、その前を軽トラが石段の右川の狭い道を上って行くのが見えました。山へでも行くのかな、と思いながら、長い石段を上って行きました。石段は大きく2つに分かれていて、一つ目を上ったところに門柱があり、右には山号の「鷲尾山」、そして左には「不動院」が彫られていて、ここからさらに長い石段を上ると、上りきった右側に観音さまの石像がありました。
 すると、その近くに、その軽トラがとまっていて、お堂の回廊のところで何か作業をしていました。聞くと、蛍光灯を取り替えているそうで、時々来て、管理をしているそうです。ここは、今は無住で、兼務寺院は出雲崎のお寺だそうですが、遠いこともあり、ほとんど来てはくれないそうです。

 せっかく管理の方がいらっしゃるので、お堂の中に入れてもらい、ご本尊さまの前でお詣りをさせてもらいました。はじめは、作業をしていましたが、後ろに座ったようで、いっしょにお詣りできました。
 終わってからお聞きすると、ご本尊は12年に1度の子年ですが、今年は新型コロナウイルス感染症の影響で取りやめしたそうです。その等身大の写真がお堂の左側にあり、写真を撮られた方の子孫が奉納してくれたそうで、額を作るのが大変だったそうです。ご本尊は昭和30年に県の文化財に指定されていて、もし、管理できなくなったら、県の博物館にでも世話になろうかという話しも出ているそうです。
 たしかに、今回の札所巡りでも、まだ数ヶ寺しかまわっていませんが、無住でした。管理されている方もほとんどが高齢者で、後を継いでやってくれる方もないといいます。ここも、お堂の前にご朱印の案内がはってあり、そこでいただくようです。
 私は了解を得て、お前立ちの前まで進み、お詣りし、お堂のなかも写真を撮らせていただきました。お前立ちの前には神道の鏡があり、ここも元々は神仏混合で護られてきたところだと感じました。
 右手には庫裡があり、平成10年10月1日に発行された『越後三十三観音札所 巡礼の旅』には、ここに住んでいた住職に第9番札所広済寺の道を聞いているので、その後しばらくはこの庫裡に住んでいたのではないかと思います。
 今回は、偶然にも管理人の方がいて、電灯をつけていただき、ゆっくりお詣りでき、とても有難かったです。
 お堂を出て、もう1度全体を見渡すと、左手のほうに赤い帽子をかぶって前掛けをした六地蔵の石仏が立っていて、その向こうは竹林です。そういえば、良寛さんの歌に「わが宿の 竹の林を うち越して 吹きくる風の 音の清さよ」というのがありますが、竹の清々しさが伝わってくるようです。この歌を詠んだのは五合庵か中山の西照坊ではないかといわれていますが、「竹の子の話」もこのどちらかだと私は思っています。この不動院の竹林から吹き抜けてくる風を感じながら長い石段を下りました。
 車まで戻って時計をみると、午前11時45分でした。次は第4番札所妙智寺です。ナビで確認するとここから14分、9.7㎞です。

 第8番札所 鷲尾山 不動院 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 いつとなく 大悲の光 かがやけば ここもうえみぬ わしの尾の寺



☆越後三十三観音札所巡り Part.05

 第4番札所妙智寺は、柏崎市鯨波3丁目にあり、不動院から先ほど来た道を戻り、そのまままっすぐに進みます。そして国道8号で左折し、鯨波駅の案内板からさらに800mほど進むと右側に「妙智寺」と書かれた案内板があります。そこから右折し150mほど進むと左側に駐車場があります。そこに車を駐めます。
 山門から入るために、いったん道路まで戻ると、その右側に「不許葷酒入山門」と彫られた石碑があり、その前から山門へと向かいます。山門の手前はいくつかの丸い刈り込みがあり、左側に植えられているサルスベリにはまだ花が残っていました。
 ここの庭は刈り込みされた松の木が数本あり、良寛さんの「耳を洗ふ 巌下の水 意(こころ)に可なり 巌上の松」という五言律詩のなかの1節を思い出しました。つまり、耳を洗うというのは、栄達の誘いに耳を貸さずに志を高く保つということで、さらに岩の上の松の孤高に憧れているというような意味です。
 やはり、良寛さんは欲張らずに今を満ち足りて過ごすことを心がけていたようです。そういえば、京都の龍安寺に、「吾唯足知」の4文字が刻まれた有名な蹲踞があり、何度か見たことがありますが、有名な石庭の裏側なので気づかない方もいるようです。まさに、吾れ唯足を知る、です。
 ここの山門は簡素ながら、趣があり、そこをくぐると真正面に本堂があります。本堂の右側の柱には「越後第四番札所 妙智寺」と書かれた木札が掲げられ、そこで靴を脱いで戸を開けると、開きました。

 お堂のなかでお詣りをさせていただきましたが、しつらえは曹洞宗らしく整えられていて、お賽銭箱の前で観音経を唱えました。
 ここの裏は、こんもりとした丘になっているので、少しばかり大きな声で唱えても大丈夫なような気がして、つい大きな声になってしまったようです。でも、気兼ねしながら小声で唱えるよりも気持ち良く、観音さまにも願いが届きそうです。
 ここの聖観世音菩薩は、上杉謙信公の伯母である小少将姫の念持仏だったそうで、行基の作と伝えられています。しかし、上杉兵庫頭定実卿に嫁いだが、早くに死別したことから小前沢というところに小庵を建て、この念持仏を拝みながら生涯を閉じたということです。戒名は慈照院光宝妙智大姉といい、この観音さまをこの寺に安置する際に、戒名の「妙智」の文字をいただき、妙智寺と名づけたといわれています。
 そういえば、この寺の近くに「鯨波駅」というのがありますが、ご詠歌にもあるように、昔は鯨があがったこともあるようです。
 本堂の右側に庫裡があり、そこがご朱印所になっているので、ここに着いたときが12時ちょうどだったので、先にご朱印をお願いしました。というのは、ここ越後三十三観音霊場会の規約として、正午12時から午後1時まではご朱印ができないということでした。だから、ギリギリ間に合ったということです。
 帰りに庫裡にまわり、ご朱印帳をいただき、車に戻りました。次は第3番札所「大泉寺」ですが、ナビで確認するとここから21分、12.5㎞だそうです。ということは、お昼時間なので、そこに向かう途中で、昼食を食べようと思いました。先ずは、出発です。

 第4番札所 普門山 妙智寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 鯨なる 波のほとりに あとたれて ふかき誓いの ほどぞしらるる



☆越後三十三観音札所巡り Part.06

 第3番札所大泉寺は、柏崎市大清水にあり、妙智寺からは国道8号をそのまま走るのですが、ちょうどお腹も空いてきたので、走り出して10分ほどのところに「日本海フィッシャーマンズケープ」を見つけ、そのなかの「キーウエスト」という食堂で「さしみ舟盛り」を食べました。やはり、新型コロナウイルス感染症の影響なのか、団体も利用できる広さがあるのにお客は数人しかいませんでした。でも、三密は避けられるし、食事も早く出るし、そして何よりもとてもおいしかったです。
 それでも入って出るまで25分しかかからず、またすぐに国道8号を走り、米山町の左側にある「どさん娘 米山8号店」の手前を左折し、北陸自動車道をくぐり、そのまま山道をしばらく走ると、突き当たりが大泉寺です。ほんとうにこの先にお寺があるのかと心配になるほどでした。
 道の途中には、山道のため、クラクション鳴らしながら走行して下さいと書いてあり、たしかにそうかもしれないと思いながら、国道8号から2Kmほど入ったところに大泉寺はありました。
 駐車場に車を駐め、時間を確認すると午後1時7分でした。「キーウエスト」から17分で来たことになります。参道の右側には「ブットレア」の紫の花が咲いていて、もともとは中国原産ですが、ブッタに近い発音をするので植えたのかとも思いました。しかし、有毒植物なので注意が必要ですが、種子でどんどん増えて困るぐらいの繁殖力があります。
 お堂のわきの庫裡が手前にあるので、先に寄ると、ここ第3番札所のご朱印だけでなく第1番札所と第2番札所は無住なので、墨書きだけしておくから、その間に観音堂をお詣りしてくださいということでした。
 そこで本堂のわきを通って、その先の観音堂に向かいました。観音堂は日本海に向かって正面があるのですが、右側の側面が参道から行くと正面になるので、そこの戸が開いていて、そこから入りました。

 観音堂に入ると、電灯をつける紐があり、そこを引くと暗いお堂がパッと明るくなりました。須弥壇の正面には、りっぱな宮殿があり、その前に千手観音のお前立ち、右には木彫りのお不動さま、左にも木彫りの忿怒像がまつられています。そして手前には護摩壇があり、その座るところには、住職が護摩を焚いている写真が飾ってありました。
 お堂のなかで観音経を唱えると、堂内に反響して、つい大きな声になってしまいますが、ここは山のなかで誰もいないので、辺りを気にすることなく、ゆっくりとお詣りできました。
 お堂を出て、正面にまわると、ここは海抜200mほどあるので、遠くに日本海や家並も見え、案内板にはその説明もありました。観音堂の正面の左側には、新潟県内では一番大きいといわれている宝篋印塔があり、左手にはその付近には飯綱神社への鳥居と石段がありました。
 そして、観音堂の左手奥には仁王門があり、そこをくぐって向う側に行って見ると、その先は石段になっていて、だいぶ道は荒れていました。昔はここまで上ってきてお詣りをしていたのでしょうが、自動車道ができれば誰も長い道のりを歩いては上ってこなくなります。それでも、その途中まで行き、そこから写真を撮りました。仁王門には、大泉寺を守護するかのように、一対の金剛力士像がまつってありました。
 ここ大泉寺の山号は「大清水」で、かつては境内に閼伽水、清浄水、功徳水という3つの泉があったそうで、そこから山号も寺名も名づけられたそうです。そういえば、良寛さんの歌に「やまかげの 岩間をつたふ 苔水の かすかにわれは すみ渡るかも」というのがありますが、澄み切った水は心まで澄ませてくれそうだというような意味です。でも歌人の吉野秀雄氏は、この歌の後半を「苔清水のように、かすかに世にかくれた生の営みを私は続けているよ」と解釈しています。
 どちらにしても、このような山奥のお寺まで来れば、その両方の意味がそのまま伝わるような気がします。
 また、全国を行脚して千体の仏像を残そうとした木喰上人も二度目の越後入りのときに彫った子育て地蔵と木額が大泉寺に残されています。さらに、お堂のすぐうしろのイチョウの木には、その生木に直接彫ろうとした跡が残っているそうですが、今回は見つけることができませんでした。
 お詣りをすませ、庫裡に戻り、お願いしていたご朱印帳をいただき、車に戻りました。次は第1番札所岩屋堂です。ナビで確認すると、大泉寺から北陸自動車道をつかうと50分、46.2㎞だそうです。

 第3番札所 大清水 大泉寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 みなかみを たずねてのぼりて 大清水 つきぬめぐみの 流れとぞ思う



☆越後三十三観音札所巡り Part.07

 第1番札所岩屋堂は、上越市名立区名立大町にあり、大泉寺からは北陸自動車道を使うと50分、46.8Kmですが、国道8号を使うと1時間6分、43.5Kmとナビに出ました。
 そういえば、『越後三十三観音札所 巡礼の旅』という案内書には、「昔は越後の観音霊場巡礼には能生白山神社へ参拝してから旅に出た」と書いてあり、ここからまっすぐに能生白山神社へ北陸自動車道を使って向かえば、56分、58.3Kmだそうです。だとすれば、たった6分多く走っただけで行けるならと思い、先にそこに行くことにしました。
 先ずは右手に上ったところの駐車場に車を駐め、一の鳥居から入り、石段を上ると二の鳥居があり、左手に社務所と蔵があり、その先にかや葺き屋根の拝殿がありました。これが本に出ていた建物で、横から入ってお参りします。その後ろに本殿があり、ここの特殊神事は「御筒粥祭」が有名だそうです。ここにまつられている木造聖観音立像は、国の重要文化財に指定されているなど、多くの宝物が宝物殿におさめられています。
 ここ能生白山神社は新潟県糸魚川市能生にありますから、ここが今回の越後三十三観音札所巡りでまわった一番遠いところになります。そして、ここから第1番札所岩屋堂までは、国道8号を通って17分、13.2Kmです。ここに着いたのは午後2時10分で、ここを出発したのは2時30分ですから、遠回りした23分とお参りをしていた20分、それだけよけいにかかったのですが、ここまで来て、ほんとうによかったと思いました。
 岩屋堂に着いたのが午後2時50分です。曲がりくねったところにある駐車場に車を駐め、山のなかを歩くとその先に石段があり、その左手に観音堂がありました。ここが越後三十三観音第1番札所です。今日、令和2年9月29日から初めて、6ヶ寺ほど先にまわりましたが、それから能生白山神社にもお参りし、今、ここに立っています。なんとなく、さあ、ここから新たに始まるという思いです。

 先ずは観音堂の前でお詣りをしました。鍵がかかっていたので、その前で観音経や諸真言も唱えました。ここは、越後三十三観音第1番札所というだけでなく、わが家からは一番遠く離れたところで280Km以上もあります。
 せっかくなので、お詣りが終わってから、観音堂の前でセルフで撮りました。何枚か撮って、確認すると、まあまあでした。それから、この辺りの風景も写真におさめました。
 そして、また石段を下り、駐車場まで行き、車に乗り込み、観音堂に書いてあったご朱印所へ向かいました。ここに来るときと違う道で、ほんとうに狭かったのですが、なんとか着き、呼び鈴を鳴らすと、すぐに出てきてくれました。しかし、現在は「岩屋堂集会所」の中にご朱印があるので、押していってくださいということでした。
 そこで、地区の一番下がったところにある集会所に行くと、玄関の左手の手すりのところに、「御朱印受付所」という越後三十三観音霊場会の板札があり、その戸を開けて中に入りました。すると、左側の机の上にご朱印と越後巡礼の案内書が置いてあり、すでに第3番札所大泉寺で墨書きをしていただいた上にご朱印を押しました。やはり、墨書きとご朱印と両方があると、いかにもお詣りしたという気持ちになります。
 そういえば良寛さんの歌に、「世の中の ほだしを何と 人問はば 尋ねきはめぬ 心と答へよ」というのがありますが、この「ほだし」というのは思いのままにならないもの」で、そう尋ねられたら、「極めつくすことのできない人の心」と答えなさいというような意味です。たしかに、人の心はなかなか思いのままにならないし、たとえばご朱印ひとつにしても、会津三十三観音札所では新型コロナウイルス感染症の影響でもらえなかったところもあります。
 この世の中には、出来ないこともあれば、頑張ればできることもあり、一筋縄ではいかないようです。でも、とりあえず第1番札所岩屋堂のご朱印をいただき、その細い道を下っていくと、県道245号に出ました。ここで時計をみると、午後3時22分です。
 次は第2番札所摩尼王寺です。ナビで確認するとここから40分、29.4㎞です。時間があれば春日山城本丸跡や春日山神社をまわってから行こうかと思っていましたが、それは無理のようなので、直行することにしました。

 第1番札所 円明庵 岩屋堂 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 補陀落や 名立の浦と きくときは 潮の音も み法なりけり



☆越後三十三観音札所巡り Part.08

 第2番札所摩尼王寺は、妙高市下十日町にあり、国道8号を通って、上越市加賀の交差点を右折し県道63号に入ります。途中、上越市本町の「竹内泰祥堂」でお抹茶を飲むための上生を買いました。そして、再び県道63号に戻り、今夜泊まる予定の「神の宮温泉 かわら亭」を右手に見ながら、乙吉北の交差点を左折します。そして国道18号を横切って進むと、右側に赤い観音さまの幟旗が見えました。そこを右折し道なりに進むと、ときどき同じような幟旗があり、迷わずに行けました。左側の細い露地に車を入れ、そこから15mほど行き左折すると20m程先にお堂がありました。
 ここにも赤い幟旗が立っていたのでわかりましたが、その他に、四角の細みの鉄柱に、「越後三十三観音霊場 第二番札所 照国山 摩尼王寺」と書いた白い板が張られていました。今までのお堂と違い、かまぼこ形ですし、民家の裏にひっそりと建っています。グーグルマップで確認すると普通のお堂のような建物がありますし、『越後三十三観音札所 巡礼の旅』という案内書には、雪景色のお堂が観音堂として掲載されていますから、ここは雪の多いところなので、最近建て替えられたようです。でも、この形だと雪にはすごく強そうですから、これからも護っていくためには、このような新たな形になっても仕方ないのかもしれません。

 戸が閉まっていたので、そこに書いてあるご朱印所に先に行くと、お堂の鍵を渡してくれたので、自分で鍵を開けて中に入りました。
 お堂のなかの正面奥には、厨子におさまった身の丈二寸八分の聖観世音菩薩がまつられていて、左手前の壁にはお釈迦様の涅槃図とその奥には仙厓義梵が描いたような洒脱な絵が掛けられていました。そして右側の壁には紺地に金文字で般若心経が書かれた軸が掛けられていました。
 正面のお詣りするところには、左に時代のありそうなリンと右に木魚があり、そこで観音経を唱えました。
 お詣りが終わったので、ご朱印帳をいただきに行こうかと思っていたら、ここの管理をしている小池さんが届けてくれました。そういえば、鍵はそのままでいいと話していたのは、こういうことだと後から気づきました。こうして巡礼者のためにしっかりと護っていてくださるところがあると、ホッとします。
 もう1度、お堂を振り返ってみると、お堂のうしろのススキが夕日に輝いていました。そういえば、良寛さんの歌に「君が宿の 一本すすき なつかしみ 穂にづる秋は 尋(と)めてわが来む」というのがあり、たった一本のススキにさえも心を通わせて、その穂が出るころにはまた尋ねてこようというような意味です。この君というのは阿部定珍(さだよし)という方だそうで、ススキは尾花ともいい秋の七草として万葉の時代から親しまれています。
 そして、帰り道、その道の両側をみると、小さな石仏や石塔が並んでいて、細いながらも参道になっていました。そして、車を道路まで移動し、もう1度、その参道の写真を撮りました。いかにも、田舎の細い道ですが、まさに信仰の道です。ここには昔は七堂伽藍があったということですが、その一部とはいえ今も残っているのですから、とても有難い話しです。
 ここを出たのは午後4時35分で、「神の宮温泉 かわら亭」にはすぐに着きました。ここの温泉はナトリウム塩化物泉で加温しているそうですが、部屋にも檜風呂があり、そこにも加温装置がついています。先ずは温泉に入り、それから先ほど「竹内泰祥堂」で買ってきた上生、菓子銘が「きんとんいが栗」と「萩の里」でお抹茶を飲みました。部屋は2階にあり、窓からは田んぼが見えます。午後6時30分に夕食ということなので、少し前に1階の広間に行きましたが、隣に誰がいるかわからないほど、衝立で囲われていて、三密を避ける工夫がされていました。夕食もおいしく、その日はもう1度風呂に入り、早めに床に就きました。

 第2番札所 照国山 摩尼王寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 蓮す葉の にごりに志まぬ 心とて まことを照らす 摩尼のしらたま



☆越後三十三観音札所巡り Part.09

 「かわら亭」ではゆっくり1泊し、朝食は7時30分にいただきました。それから準備をして、8時30分には出発しました。空は真っ青で、ほんとうに気持ちのよい天気でした。
 第9番札所広済寺は柏崎市高柳町高尾にあり、ここから国道253号を通って、約1時間20分、距離にして61.2Kmだそうで、先ずはゆっくり行くことにしました。途中、妙高山が見えるところの稲穂が残っている田んぼの畔にマンジュシャゲが咲いていたので、農道に車を駐め、写真を撮りました。そして、山間の稲刈りが終わってハセに掛けてあるところも、懐かしさもあってこれもカメラに収めました。何度か車を駐めたこともあり、広済寺の駐車場に着いたのは午前9時58分でした。
 右の門柱には、「高山堪見如来影」、そして左の門柱には「流水應聴説法教」と彫られていましたが、ここは曹洞宗の寺院なのでその関連の法語かと思われます。
 そういえば、その側面には「日本 美しい心 かけがえのない 地球を守り~」と彫られていて、それが丸文字っぽくて親しみが湧きます。漢文は格調高く威厳が感じられますが、今の人たちにはほとんど通じないようで、むしろわかりやすい言葉で語りかけたほうがいいのではないかと思いました。これだと、「守るのは私たちの大切な努め」だと子どもたちにもわかります。
 そこから参道を歩き、その先の石段を上るとその両側にも門柱があり、その先が本堂になっています。戸が閉まっていたので、その右側にある庫裡に行くと、その近くで日よけの傘をかぶって草むしりをしているおばあちゃんがいて、声を掛けるとすぐに本堂の戸を開けてくれました。

 本堂の中に入ると、いかにも曹洞宗らしい須弥壇があり、経文台には観音経があり、その前でお詣りをしました。本堂のなかなので、声が響き、こだまするようでした。
 お詣りが終わると、近くで待っていてくれたのか、すぐにご朱印帳をいただき、本堂を出ました。
 すると、その前の庭の苔が青々としてとてもきれいなので、つい、写真を撮りました。今までお詣りした越後の札所の観音堂は、青々とした苔がどこも生えていて、清々しい雰囲気でした。ここはおそらく、ご詠歌にもあるように雪がたくさん降りそうです。だからなのか、水が豊富なようで、苔も生き生きとしています。
 そういえば、良寛さんの歌に「雪解けて み坂を越さば 心して つとに越してよ その山坂を」というのがあり、弟の由之が与板と和島を結ぶ塩入峠を越えるときに詠んだといわれており、その優しい気配りはさすがだと思います。
 その苔の庭に、観音様の石像が立っていて、その手前にはイチョウの木もあり、その葉が黄葉して、この青々とした苔の上に落ちたら、さぞきれいではないかと想像しました。でも、一方では、その掃除はなかなかたいへんではないかとも思い、どんなものでもきれいに保つのには苦労があると感じました。
 駐車場に戻って時計をみると、午前10時20分でした。
 次は第10番札所「長徳寺」です。ナビで確認すると、ここ広済寺から23分、15.7㎞です。
 ここまでもゆっくり運転してきましたが、ここからも安全運転で行きました。

 第9番札所 円通山 広済寺 (曹洞宗) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 としごとに 雪はふれども 黒姫の 山の端袖の 色はかわらず



☆越後三十三観音札所巡り Part.10

 第10番札所長徳寺は十日町友重にあり、ここから国道252号に入っと十日町まで進み、上野の交差点を右折し県道49号を通って、右側に小さな白い案内板に千手観音まで800mと書いてありました。この辺りでは、寺名より千手観音という呼称のほうが通りがいいようです。
 そこの伊勢平治の交差点を左折しまっすぐに進むと丁字路を左手に進むと200mほどで着きます。ところが長徳寺の裏から月見ヶ原公園の池の周りを通って行ったので、庫裡の前に出ました。そこで、先にご朱印をお願いして、そこに車を駐めたまま、観音堂の方へ歩いて行きました。すると、50mほどで左側に仁王門が見え、その正面から見渡すとその付近にも駐車できそうでした。
 その仁王門の手前に手水場があり、石をくりぬいて作った水場には「水舟」と彫られ、その正面にはお不動さまがまつられていました。もともと、水舟というのは、かつて谷や川から取水した水を利用するための貯水槽のことだそうです。そこで手をすすぎ、仁王門の前に立つと、その中央に浅草観音の雷門のような大きな赤い提灯が下がっていて、その真ん中に仁王門と墨書きされていました。その仁王門を抜けると、両側に石灯籠がいくつか並び、その先に観音堂がありました。

 観音堂は新しいようで鉄筋コンクリート造りのようです。でも、車いすでも上がれるように配慮されていて、とても便利ですが、やはり新型コロナウイルス感染症の影響もあり参詣者はいませんでした。
 お堂の中に入ると、正面の扁額に「千手観音」と金文字で書かれていて、そこには鰐口ではなく鈴が下がっていました。そしてその両側にはたくさんの千羽鶴が下がっていて、そこで観音経を唱えてお詣りしました。
 ここは801(延暦20)年に坂上田村麻呂が東夷東征のときに立ち寄り、千手観音像を守り本尊として安置したと伝えられるほど古い創建です。その当初の観音像は、京都清水寺の本尊と同じ木で作られた姉妹仏ともいわれています。
 そういえば、ここは十日町ですが、良寛さんの歌に、「十日あまり 早くありせば あしひきの 山のもみぢを 見せましものを」というのがあります。この歌は、もう十日ほど早く来てくれれば、山の美しい紅葉を見せることができただろうにというほどの意味です。たしかに、紅葉というのはちょうどいいところまでは少しずつ進みますが、その後は一気に葉を落としてしまいます。もう、そうなればわびしさが残るだけで、すぐに雪が降ってきます。
 ここ十日町は豪雪地帯ですから、紅葉のきれいな秋が過ぎてしまえば、冬の厳しさがやって来ます。
 そんなことを考えながら戻ると、参道のわきにたくさんの石仏があり、仁王門の近くにはカエルのような大きな石がありました。しかも、そのわきに、石に彫ったカエルが置かれていて、それと比べてみると、たしかにカエルに見えてくるから不思議なものです。これで無事に帰れるかな、と思いました。
 仁王門から出て、庫裡に行き、ご朱印帳をいただき、車に乗り込みました。午前11時3分でした。
 次は第12番札所「天昌寺」です。ナビで確認すると、ここ長徳寺から38分、23.5㎞だそうです。

 第10番札所 白雲山 長徳寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 枯木にも 花咲くべしと 聞くからに 心ある身の たのもしきかな



☆越後三十三観音札所巡り Part.11

 第12番札所「天昌寺」は南魚沼市思川にあり、先ずは県道49号を進み、浅河原の交差点を左折し国道253号に入ります。そして、思川近くの丁字路から右折し、飯綱山古墳群大塚辺りからまた右折し県道124号を進むと、行き止まり手前の右側に天昌寺があります。
 その山門のわきを通って、庫裡の前が駐車場です。ここに着いたのが午前11時35分でした。
 車を駐めてから、もう1度入口のところまで戻ると、道路の右側に「曹洞宗 飯盛山 天昌寺」と彫られた門チュがあり、その後ろに「越後札所十二番 上田札所 廿七番 霊場」の石碑があり、さらに山門の手前の右側に「禁葷酒」とだけ彫られた石碑も立っていました。その他にもいろいろな石碑が立っていて、風化して読みにくいものもありました。
 これらを見てみると、昔は真言宗だったようで、1490(延徳2)年に雲洞庵七世禅実和尚を請し、曹洞宗寺院としたと寺伝には記されています。
 その山門から歩くと、正面が本堂です。そこから左折し墓地の中を歩くと、右手の山のほうに観音堂が見えました。そこまではかなりの石段で、途中に遊び場もないので、一気に上ります。すると正面が観音堂です。
 その手前に香炉台があり、観音堂の扁額には、「施無畏」と緑文字で彫られていました。これは、もともとは仏さまや菩薩さまが私たち衆生の恐れの心を取り去って救うことの意味で、ここでは観音さまを指しているようです。

 観音堂には、ここも鰐口ではなく鈴が下がっていて、すく近くには諏訪社があるところをみると、もともとは神仏混淆のままだったようです。
 観音堂の鍵を借りてきたので、自分で戸を開けて、堂内に入りました。正面には、大きなカツラの寄木造りの聖観世音菩薩が安置されていて、向拝が厨子に隠れて見えないほどです。左右には多聞天と持国天が脇侍としてまつられていて、その前に座ってゆっくりとお詣りしました。
 やはり、ご本尊さまが間近に拝めると観音経を唱えるにも力が入ります。さらに諸真言も唱え、それからお堂を出ました。
 ここは高台なので、遠くまで見渡すことができます。そういえば、良寛さんの歌に、「秋の日の 光りかがやく 薄の穂 これの高屋に のぼりてみれば」というのがありますが、齊藤茂吉は、この歌を「第三句までは如何にも単純で直接で印象的表現法である。そして第三句で一寸切れたものである。それから第四句第五句でどんな大袈裟な事を言ふかと思へば単に、ここの高屋にのぼりて見れば、といふのである。この辻褄の合はない様な子供らしい言ひ振りが此の歌を偉大ならしめた所以である」と「私鈔」に書いています。
 たしかに、言われてみればその通りで、その子どもらしい物言いが良寛さんらしさでもあります。
 その石段を下り、本堂の前でお詣りをし、庫裡でご朱印帳をいただき、車に戻りました。聞くところによると、ここ天昌寺は、鈴木牧之の『北越雪譜』にも出てくるお寺で、「寺のなだれ」の舞台になっているそうです。そういえば、彼の生まれた南魚沼市塩沢には「鈴木牧之記念館」もあるそうです。
 時計をみると12時5分です。次は第11番札所「大福寺」ですが、ナビで確認すると、ここ天昌寺から13分、7.1㎞のようです。
 ちょうどお昼時間帯なので、ご朱印がいただけるかどうか心配ですが、朝食をしっかり食べてきたのでお腹はまだ空いたような感じがしません。

 第12番札所 飯盛山 天昌寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 君かえる 山のこなたの 思川 ふかき誓いを 渡りりてぞしる



☆越後三十三観音札所巡り Part.12

 第11番札所「大福寺」は南魚沼市長崎にあり、先ずは県道124号を進み、鈴木牧之記念館の近くを通り、右折して国道291号へ入り、長崎まで行きます。そのまま進むと右側に「越後札所拾壱番」と彫られた門柱が見えます。そこから右折し、(株)魚沼ライスの筋向かいにこんもりとした杉林があり、そこが大福寺です。その入口の手前が広い駐車場です。
 駐車場には「金城薬師如来座像」がまつられていて、そこの左側を通って入ります。山門の手前には石垣が積まれていて、その両側には大きなカラマツがあり、その先の山門のわきの両側には杉の木が植えてありました。そして山門の右の柱には「真言宗豊山派 金精山大福寺」と書かれた板札が掛けられ、左の柱には「越後札所第拾壱番」と書いてありました。
 山門をくぐると、正面が本堂で、右手に観音堂があり、本堂の左手が庫裡です。ここに着いたのが12時32分なので、ちょうどお昼時間です。越後三十三観音霊場会では、納経受付時間を午前8時~正午と午後1時~午後5時までと決めています。つまり、お昼の1時間は受け付けてもらえないこともあります。
 そこで、先に庫裡のご朱印受付所に行くと、ご住職が出てきて、すぐにしてくれました。ここは真言宗豊山派の寺院で、もしかすると四国88ヵ所のお遍路をしてきたご利益かもしれないと思いました。

 ご朱印をいただいてから、観音堂に行くと、観音堂の石段の前に「ハチに注意!」という紙が貼ってあり、通行止めになっていました。そこで、仕方なく、その脇から観音堂の回廊に上り、自分で戸を開けて、お堂のなかに入りお詣りをしました。
 中にはローソク立てもありましたが、私は原則としてローソクや線香を使わず、ただ心を込めて観音経とご真言をとなえます。というのも、火を使うと、絶対に安全だとはいえないからです。少しでも不安な気持ちでお詣りするよりも、心を込めてお詣りすればいいと思っています。そういえば、良寛さんの逸話のなかに、五合庵に住んでいたときに、トイレのなかにタケノコが生えてきて、それが天上までとどいてしまったので、ローソクの火でその天上に穴を開けようとして火事を起こしてしまったというのがあります。
 その心情が伝わる漢詩に「余家有竹林 冷冷数千竿 笋迸全遮路 梢高斜払天 経霜陪精神 隔烟転幽間 宜在松柏列 何比桃李妍 竿直節弥高 心虚根愈堅 愛爾清貞質 千秋希莫遷」というのがあります。簡単に意訳すると、わが家の竹林がいく千本のにょきにょきと伸びて小道をふさぎ、霜にも堪えて、霞がたなびいて静かです。その姿は松柏と肩を並べ、桃やスモモよりも気品があります。まっすぐな幹は心清々しく、根も強い。その清らかさが私は好きなんです。だからずっと一緒にいてくだされ、というような感じです。
 漢詩は難しそうだけれど、内容は良寛さんらしい優しさが感じられます。そうそう、もし火事にでもなったら、本当に大変です。
 観音堂でお詣りをして戻ろうとすると、その右脇に池がありました。そして、境内の真ん中に、大きなイチョウの木がありました。ここのお寺は、木の種類も多く、また手入れもされています。
 駐車場に戻ると、12時55分でした。この近くには食堂もなさそうなので、いったん国道291号までもどり、セブン・イレブンの南魚沼早川店でサンドイッチを買い、車の中で食べました。飲み物も含めて529円でした。
 次は第13番札所「弘誓寺」です。ナビで確認すると、ここ大福寺から48分、33.2㎞だそうです。

 第11番札所 金精山 大福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 世を救う 誓いもいくせ 長崎の 大悲の恵み つきせざりけり



☆越後三十三観音札所巡り Part.13

 第13番札所「弘誓寺」は魚沼市田川にあり、昼食を食べたセブン・イレブンの南魚沼早川店から国道291号を通って国道17号で右折します。田川の交差点を左折し県道416号に入ると500mほどで上越線のすぐ手前が駐車場になっています。
 ここの駐車場は広く、しかも車が1台もなかったので、なるべく奥の方に駐めました。時計をみると、午後1時55分でした。ほとんど渋滞もなく、スムーズにここまで来ました。
 辺りを見回すと、すぐわきが上越線の線路があり、車だとその下をくぐるのですが、弘誓寺に行くには、専用の陸橋を渡ります。その上のところで、線路と弘誓寺の観音堂を入れて写真を撮りました。そして思い出したのですが、最上33観音札所の中にも仙山線の線路を渡って石段を上って行く第2番山寺観音がありますが、ここは簡単な踏切があるだけで線路をそのまま渡って行きます。でも、ここは陸橋があるだけ安心ですが、上り下りは大変です。それと、本数が多いと、その騒音も意外とありそうです。
 たまたま調べてみると、日本で一番本数の少ないのが、2020年5月7日付で廃止されましたが、北海道医療大学~新十津川間47.6kmで、医療大学~新十津川間47.6kmで、新十津川駅を10時に発車する1本だけだそうで、これが日本で最も早い最終列車になるそうです。多すぎると、今度は開かずの踏切になって、通るだけでも大変な時間がかかります。
 ここはお詣りをしている間に1本通っただけでした。
 この陸橋を渡って正面が本堂(客殿)で、昭和46年10月24日に落慶されたそうで、鉄筋コンクリート造りになっています。その右側にご朱印所の案内板があったので、先にお願いをしてから観音堂に向かいました。

 観音堂は、10段ほどの石段を上るのですが、その右手前に観音さまの水瓶から水が出るようになっていて、手をすすぎます。左側には越後観音霊場十三番札所と子安観音と彫られた石碑が立っていました。
 この観音堂も、昭和43年にこのお堂脇の鎮守の間より出火し本堂なども焼失したそうで、この観音堂は平成16年9月4日に再建されたそうです。
 戸を開けて入ると、すっきりとしたお堂で、御前立ちもあり、その外陣のところでお詣りをしました。
 お詣りをすませ、出てくると、線路の手前に鐘楼堂がありました。そういえば、良寛さんの歌に「尊しや 祇園精舎の 鐘の声 諸行無常の 夢ぞさめけり」というのがあります。これは平家物語の「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」からとったもののようですが、もともと諸行無常というのはつねに変化して、ほんの少しもとどまることはないという仏教の根本的な教えです。
 この祇園精舎にネパールの友人と行ったことがありますが、ここには最初から鐘はなかったそうです。ところが、日本人はあって当たり前と考えたのでしょうが、1981年に「日本国祇園精舎の鐘の会」が梵鐘と鐘楼を寄贈したことにより、今ではあります。
 でも、そのときに泊めていただいたスリランカのお寺の方は、日本人はなぜ祇園精舎と鐘を結びつけたがるのか不思議だと話していました。でも、ここに泊めていただいたのはまったくの偶然で、道に迷って、夜になり真っ暗ななかでやっと探り当てたのがここだったのです。翌朝、本堂でお詣りをしてご住職に「ほんとうは祇園精舎に来たんです」というと、黙ってそのお寺の前に連れて行ってくれ、ここがそこだと言われたときには本当にビックリしました。
 鐘にはいろいろな思い出がありますが、次は第14番札所「真福寺」です。ナビで確認すると、ここ弘誓寺から30分、22.1㎞だそうです。
 ここを出発したのは午後2時20分です。

 第13番札所 大悲山 弘誓寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると 弘誓の寺に きてみれば 法のみ舟に 乗るここちする



☆越後三十三観音札所巡り Part.14

 第14番札所「真福寺」は小千谷市片貝町にあり、国道17号を走り、小千谷市立和泉小学校のところを左折し国道351号に入り、次に県道211号へと左折します。そして池津の交差点を斜め左方向に入ると真福寺の案内板があります。山門の右側から駐車場に入る道があり、そこに車を駐めました。午後2時47分でした。
 そして山門まで戻ると、その右側に「真言宗豊山派 池景山 真福寺」彫られた門柱があり、左側には「越後札所第十四番 正観世音菩薩」の門柱が立っていました。その間は狭いのですが、その先に大きな仁王門があり、「施無畏」の金文字の額が掲げられていました。
 そこをくぐり進むと、正面が観音堂です。左側に手をすすぐ手水場があり、その後ろに真っ赤なマンジュシャゲがたくさん咲いていました。ちょうど見頃で、それを前景にして観音堂の写真を撮りました。
 特に、観音堂の龍の彫り物が見事で、ここのご本尊は龍神さまのお告げで池のなかからすくい上げたと伝えられていることもあり、宜なるかなと思いました。

 観音堂が開いていたので、なかに入ると、ご本尊の両側は水辺を表すかのような色合いの彫刻があり、小さな仏さまがあちこちに安置されていました。まさに山号の池景山のようにも見えました。
 そこで観音経を唱え、お詣りをすませて、その観音堂の右手にある本堂にもお詣りし、その右側にある庫裡に行き、ご朱印をいただきました。この近くにもマンジュシャゲの花が咲いていました。
 そういえば、良寛さんの歌に、「わが宿の 垣根に植ゑし 百草の 花咲く秋は 近づきにけり」というのがありますが、ここのお寺も花がいっぱいです。良寛さんは花が好きで、自分でもいろいろな草花を育てていたそうですが、それらの花が咲くのも秋が多かったようです。また、「秋の野に 咲きたる花を 数へつつ 君が家べに 来たりぬるかも」という歌もあり、托鉢に行くときも、その道すがら、秋の野原に咲いている花を数えながら歩いていたようです。
 この歌からも、友だちの家を訪ねるときに、それらの花を1本2本と数えながら歩いている姿が目に浮かぶようです。そして、子どもたちと会うと、それらの花の名前を教えたりしていっしょに遊んでいたのではないかと想像すると、なんともほほえましく感じられます。
 ちょうど車に戻ろうとすると、軽トラックで来た方が境内の掃除をしていました。ご苦労さまというと、観音堂で観音経を唱えてお詣りをしていたことをみていたからか、手を合わせてくれました。このような気持ちで手入れをしているからこそ、花たちもきれいに咲いてくれるのだと思います。
 時計をみると午後3時5分です。次は第15番札所「千蔵院」です。ナビで確認すると、ここ真福寺から21分、10.9㎞だそうです。

 第14番札所 池景山 真福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 風かおる 池津の寺に 来てみれば みてのはちすの 花も咲きけり



☆越後三十三観音札所巡り Part.15

 第15番札所「千蔵院」は長岡市柏町にあり、先ずは県道236号を長岡方面に進み、信濃川にかかる596メートルの越路橋を渡り、県道499号を左折します。そして前島町の交差点を右折し、ほぼ道なりに進むと、右側に千蔵院があり、その右手が駐車場になっています。ここに着いたのが午後3時30分です。
 ここは長岡駅からも近く、長岡藩主牧野公の祈願寺で、しかも庶民信仰の寺としても有名で、この辺りは千手町や千手村とも呼ばれ、門前町として栄えたところのようです。
 しかも、ご本尊は明治時代の戊辰戦争や昭和20年8月1日の長岡空襲にも奇跡的に残ったそうで、現在の観音堂は昭和57年に建立されたものです。
 駐車場からいったん歩道まで出て、正面の石段の前に立つと、右側に「本尊子年観世音菩薩」、左側に「普門山観音寺千蔵院」と彫られた門柱があり、その左側の門柱のとなりに「桶の水より 親切な言葉をかける方が火はよく消える」という言葉と絵が描かれた看板があり、なるほどと思いました。その手前にはトクサが列に植えられていました。
 境内地はきれいに管理されていて、あちこちに植木や草花も植えられています。その間を通って庫裡に行き、ご朱印をお願いしてから観音堂に行きました。

 観音堂に上る石段の両側には蓮鉢があり、今は葉だけしかありませんが、花時にはきれいだと思います。その石段を上ると、お賽銭箱の左側に、「堂内に入っておまいりください」という案内板があり、そこで靴を脱いで中に入りました。
 正面には御前立ちが安置され、その右側にはお不動さま、左側には毘沙門さま、さらにその両側には両界曼荼羅の額装が提げられていました。
 ここで、観音経を唱えましたが、お不動さまや毘沙門さまのご真言も唱えさせてもらいました。
 お堂を出て、ご朱印帳をいただき、駐車場に戻ろうとすると、塀の手前に「北斗七星 星車」があり、マニ車のように自分でその当り星を回すようです。その案内板には、北斗七星だけでなく、生れ年やそのご真言、さらには回し方なども書いてあり、自由にお詣りできるようになっていました。
 そういえば、良寛さんの詩歌には、月を詠んだのはたくさんありますが、星を読んだのはあまりなく、私が思い出すのは「久方の 棚機つ女(め)は 今もかも 天の河原に 出で立たすらし」ぐらいです。この歌は、織姫は今も彦星を待って、天の川の河原に出て立っているようだ、と解釈され、七夕のときでも織姫彦星の伝説をふまえてつくられたものかもしれません。おそらく、その当時は今のような恋愛はなく、想いを遂げられないことも多かったのではないかと思うと、この歌の意味もわかるような気がします。
 駐車場に下りる石段のわきにサルスベリの花がたくさん咲いていて、それを見上げながら車に戻りました。午後3時45分でした。この時間だともう1ヵ所ぐらいはお詣りできそうだと思い、次の第18番札所「根立寺」に向かいました。ナビで確認すると、ここ千蔵院から22分、10㎞だそうです。

 第15番札所 普門山 千蔵院 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 くりかえし たのみ頼めば 玉の緒の ちかいの糸も ながおかの寺



☆越後三十三観音札所巡り Part.16

 第18番札所「根立寺」は長岡市上岩井にありますが、以前寄り道した「越乃雪本舗」が休みなので、「紅屋重正」で名物の「大手饅頭」と、宿でお抹茶を飲むために上生「秋桜」と「雁来紅」を買ってちょうど777円でした。しかも、後からネットで見たのですが、今年の3月19日に新潟県小千谷市の阿部幸製菓によって買収されたようで、1805(文化2)年創業といえども、最近の和菓子の低迷と新型コロナウイルス感染症の影響は避けられなかったようです。
 そこから国道351号を進み、古正寺町の交差点を右折し県道69号に入ります。福道町の信号の次の広い五叉路から県道263号に入り、七日市コミセンの先の丁字路を右折し300mほど進むと左側に駐車場があります。その左側に「越後観音霊場第十八番札所 正観世音菩薩 大悲山根立寺」と彫られた門柱があり、すぐにわかります。
 そのわきに、カラー版の「上岩井 ふる里散策マップ」があり、そのなかにも根立寺の説明が書かれてありました。ここに着いたのが午後4時10分で、ここから歩きました。
 山裾から石段があり、そこを上って右折すると本堂があります。そこで声をかけるとおばあさんが出てきて、今帰ったばかりで、ちょうど良かったと言われました。もし早く着いたら、誰もいなかったそうです。
 そこでご朱印帳を預け、お堂の鍵を預かり、本堂の左側を歩いてその先の石段を上ると観音堂がありました。石段を上りきった両側には石灯籠があり、ツバキも植えてありました。

 板戸は開いていたのですが、障子戸の鍵を開けて入り、教えられたところの電灯のスイッチをつけると、急に内陣まで明るくなりました。
 お詣りする前に内陣を見ると、正面にお前立ち、右に弘法大師像、左には上杉謙信像がまつられ、手前には護摩壇がありました。内陣と外陣の間は格子になっていて、その手前に座り、観音経を唱えました。
 終わって、左上を見ると、額に納められた「第壱号 三島町文化財指定書 観音堂」と書かれた三島町教育委員会の指定書があり、右側には高さ2m位の木製の五重塔があり、奉納されたようです。
 このお堂は140年ほど前に再建されたそうで、寺のおばあさんの話しでは、ぜひ濡縁の袖と桁上の彫刻を見てくるようにとのことなので、今日はここで終わりなので、ゆっくり見せてもらいました。特に桁上の十二支の彫刻はすばらしく、少し暗くなってきたのでフラッシュをつけて1ヵ所ずつ写真を撮りました。
 戻ろうとすると、杖の忘れものが目に入りましたが、そういえば、良寛さんの歌のなかに、「老が身の あはれを 誰に語らまし 杖を忘れて 帰る夕暮」というのがありました。おそらく、杖がなければこの石段を下るのも大変ではないかと思いながら、良寛さんの逸話に忘れものの話しも多く、あるときは忘れないようにとしたためたメモ帳も忘れてしまったということもあったそうです。
 でも、その辺りが親しまれる要因かもしれないし、ひとつに集中すると他のことが目に入らないタイプだったのかもしれません。
 本堂に戻ってご朱印帳をいただくと、そこに越後三十三観音霊場の御影の掛軸が下がっていました。それをきっかけにして、最上三十三観音霊場などの話しになり、寺名の入った茶巾までいただきました。
 車に戻ると午後4時45分でした。ということは、ここに35分もいたことになります。今日はここで打ち止めです。後は今夜泊まる予定の「ホテル リバーイン」にナビを設定すると、11分5.8㎞と出ました。途中で車のガソリンを入れてから、辺りを見渡すと、その筋向かいにそのホテルはありました。フロントで会計をすると、GoToトラベルキャンペーンを利用して朝食付きで税込み3,705円でした。
 夕食は、すぐ近くの「原信 宮関店」でお弁当を買ってきて食べましたが、食後に買ってあった上生でお抹茶をいただきました。

 第18番札所 大悲山 根立寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 たらちねの 根だちの寺と きくからは このゆくすえも みすてたまわじ



☆越後三十三観音札所巡り Part.17

 今日は10月1日で、快晴です。最初に目指すのは第16番札所「椿沢寺」で、見附市椿沢町にあります。
 先ずは駐車場を右折し、県道352号を右折し信濃川を渡ります。そして浦瀬町の交差点を左折し国道8号に入り椿沢町の三叉路を右折し、そのまま進むと案内板があり、そこを右折すると、その先にも案内板がありそこを左折すると仁王門があり、そこを回り込むようにして車道があります。ひとまずそこに車をとめ、仁王門を見ると、その右側に「光明真言塔」が立っていました。これで、このお寺が真言宗だとわかります。そこから50mほど先の左側が椿沢寺です。
 その右角に「越後観音霊場第十六番札所 真言宗智山派 秘密山正音院椿澤寺」と彫られた門柱があり、その左側には「上杉謙信公祈願寺」とも彫られていました。
 そこから上って行くと突き当たりが本堂で、その手前に車を駐めました。この日はホテルを午前8時30分に出発し、ここに着いたのは9時ですから、ちょうど30分かかったことになります。そこで、さっそくご朱印をお願いし、その間に本堂でお詣りをさせていただき、それを受け取ってから観音堂に向かいました。案内書によれば、先ほどの道をそのまま200mほど進むとあるそうで、そこを進むとY字路があり、左側の道を行くと、なんとか車1台をやっと駐められそうなところを見つけました。
 その石段は白山神社への道で、石の鳥居の手前から右に入ると観音堂があります。その入り口に比べると境内地は広々としていて、すぐにわかります。

 観音堂の前に立つと、外に灯はついているのですが、戸は閉まっていました。仕方なく回廊のところからお詣りしました。中は暗く、ほとんど見えないので、「巡礼の旅」という越後三十三観音札所の本に載っていたおっとりとしたお前立ちの姿を思い浮かべながら観音経を唱えました。
 ここの観音さまの縁起に、「昔、この村に椿の霊木が流れついた。丁度その頃、北越巡錫中の行基菩薩が、この霊木を一刀三礼して彫刻したのが御丈三尺五寸の本尊千手観世音である」と書いてあります。また、それより昔のこと、ここの場所にツバキの木があり、それが凶の木だということでそれを切って川に流そうとしたそうです。しかし、木はそれほど大きくはないのに重くて動かせなかったそうです。しかたなく村人たちはそれに近づかないようにしていたのですが、行基菩薩がこの木を使って彫刻したという話しにつながっています。つまり、凶木から霊木になったというわけです。
 その由縁もあって、この観音さまをお詣りすると、現世では諸難を転じて福智にし、来世では有縁の浄地に導いてくれるといいます。おそらく、このツバキの縁もあって寺号も生まれたようです。
 そういえば、良寛さんにもツバキの歌があり、「松の尾の 葉ひろのつばき 椿見に いつか行かなむ その椿みに」です。この「松野尾」とは親交があり、そこの岩崎治右衛門の庭のツバキを詠んだそうで、それを見に行きたいと思っての歌のようです。この歌碑は仙城院にあるそうで、私もその時期に行ってみたいものです。ちなみに、この歌碑には漢詩の「吾来此地九月初 長天雁啼菊花開 老少相率散歩去 松林数里無塵埃」も並べて載っているそうです。
 ここを離れる前にもう一度観音堂を眺めながら、ここは椿沢寺から少し離れているので、管理は大変だと思いました。そして、門柱に「上杉謙信公祈願寺」と彫られていて、その後ろ盾になっていた上杉家も会津から米沢へと移封され、その庇護を失ったことも寺門の維持の大変さにつながったのではないかと思いました。
 次は第17番札所「不動院」です。ナビで確認すると、ここ椿沢寺観音堂から16分、9.1㎞だそうです。

 第16番札所 秘密山 椿沢寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 椿沢 八千代にかけて 祈るから こころの花も さかりひさしき



☆越後三十三観音札所巡り Part.18

 第17番札所「不動院」は見附市小栗山にあり、Googleで調べると「不動院」だけでは検索できず、「小栗山 不動院」だと検索できました。第16番札所「椿沢寺」の観音堂から県道8号で右折し、新潟東町までそのまま進みます。そのY字路から右折し小栗山町の目的地まで300mほどで、小栗山コミセンの前にあります。
 そこに行き着くまえに、1台の車が通り過ぎ、そのなかにお坊さんらしき方が運転していたのでもしかすると留守かもしれないと思いながら、道路脇の駐車場に車を駐めました。時間は午前9時36分です。
 駐車場を出るとすぐ右手に、六地蔵が立っていて、その隣が水場になっていました。そして、参道の両側に門柱があり、左手側だけに「真言宗豊山派 小栗山 不動院」と彫られていて、その先の両側にも石燈籠があり、その向こうに仁王門がありました。
 仁王門には「小栗山」と書かれた扁額が掲げられ、その通路の中央に青銅製の香炉が置かれてありました。そこをまっすぐに進むと20数段のなだらかな石段があり、そこに観音堂が建っていました。なぜか観音堂の唐様の破風は新しいようで、補修でもしたのかなと思いました。おそらく、ここは最近こそ積雪が少なくなってきたでしょうが、以前は1mを越す積雪量があったそうです。しかも、雪が屋根に積もっていたところに雨が降れば、重みはさらに増します。でも、そうでなければいいがと思いながら、戸が開いていたので堂内に入りました。

 外陣に入り、お詣りをして堂内を見回すと、経机の右脇に桐の木で作られた納め札箱があり、その右手にはおみくじがあり、自分で振って出すようで、小さな引き出しが100個もありました。そしてそのタンスの上に100円と書かれた箱があり、そこにおみくじ代を入れるようです。
 外陣と内陣は格子戸で仕切られ、お前立ちもよくは拝めませんでした。
 外に出て、もう1度観音堂を眺めると、お堂は入母屋造りで間口は4間ほどあり、外壁は板張りになっていて、「大悲閣」と金文字で彫られた扁額が掲げられていました。その下には、鰐口と鈴がいくつかあり、どちらでお詣りしてもよさそうでした。
 ここも第16番札所椿沢寺と同じように、上杉謙信公が深く帰依し供養したところで、上杉家国替えのあとは無住になったときもあるようで、お寺といえども世の流れには逆らえないようです。このお寺で有名なのは、不動院を中興した朝宣法印が伝えた「獅子舞」があり、今でも毎年8月9~10日に奉納されるそうで、1972(昭和47)年に見附市無形民俗文化財に指定されています。
 そういえば、良寛さんの歌に栗が出てくる「月よみの 光をまちて かへりませ 山路は栗の いがの多きに」というのがあります。これは、お月さまが出て明るくなってから帰ったほうがいいですよ、山路は栗のいがが多くてあぶないですから、というほどの意味です。今のように街灯もなければ、貧乏寺には提灯もなく、つい話し込んでいたら暗くなってしまったような情景が目に浮かびそうです。
 この歌碑は、国上寺から国上山頂上へ登る五合目の「あか谷見晴所」のところに道標のように立っていて、その歌の上に「国上寺 五合目 頂上」と矢印が彫ってあります。その歌碑の向こうに弥彦山が見えますし、その反対側からは大河津分水路も見え、いかにも良寛さんつながりが感じられる場所です。
 観音堂の石段を下りて、左側に本堂と庫裡があり、その庫裡への通路に石の七福神が立っていて、布袋さまだけがちょっとだけ離れてあり、その後ろ側がご朱印受付所でした。でも、案の定というか、住職は不在で、書き置きのご朱印をいただいて車に戻りました。
 次は第33番札所「最明寺」です。ナビで確認すると、ここ不動院から34分、25.2㎞ほどで、時間は午前9時56分です。

 第17番札所 小栗山 不動院 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ただ頼め たのむ心は 三栗の なかなか法の 真実(まこと)なりけり



☆越後三十三観音札所巡り Part.19

 第33番札所「最明寺」は三条市院内にあり、不動院から県道8号に戻り、元町2丁目の交差点を左折し県道19号へと進みます。しばらく走り、楡原公園近くで県道442号を左折し道なりに進みます。荒沢うるおい公園のところを右折し、県道289号でまた右折し500mほど進み左折し五十嵐川を渡り、また左折すると案内板がありました。そこを上ると最明寺で本堂の前に駐車場がありました。午前10時32分です。
 最初は、三条市近くから五十嵐川沿いに通るルートが最短距離だったのでそこを予定していたのですが、次の第32番札所「宝塔院」に行く時にも同じルートになるので、今回は少し遠回りの山沿いの道を通ったのです。いつもそうですが、なるべく同じ道を通るよりは違う道を通ったほうがいろいろ楽しい発見がありそうなので、そうしてますが、今回も県道9号を通っていたときに、「八木ヶ鼻」の絶景が見えました。すごい断崖絶壁で、昔は会津街道の道しるべとしてみていたようで、東へ行くと只見に行き、三觜に向かうと越後の北国街道へと旅をしたようです。
 本堂の右手に庫裡があり、先にそこにまわってご朱印をお願いし、それから本堂の手前を通って杉林の観音堂に向かいました。

 ここからだと、長い参道の途中から入るようで、いくつかの石段を上って観音堂へ行きました。観音堂への最後の石段の手前には、小さな石仏がたくさんまつられていて、みな赤い布をさげています。何枚も重ねているところをみると、その多くが奉納し赤い帽子もかぶせていくようです。
 最後の石段は30段近くあり、ずーっと下から歩くとけっこうきつそうです。その正面に観音堂がありました。周りは杉林になっていて、石段の上の両側には石燈籠があり、その先の右側にはご本尊の「千手観世音坐像」の説明がカラー写真で掲載されていました。ところが、観音堂の戸は閉まっていて、中をうかがい見ることもかなわず、小さな「お賽銭口」があるだけでした。その前で観音経を唱え、お詣りをしました。
 このお寺は、700年ほど前に北条時頼が諸国行脚のときに立ち寄ったとあり、その由縁から寺号を許され、千手院から最明寺と改めて、真言宗に改宗したそうです。この観音堂は明治27年の火災後に本堂とともに再建されたそうで、道路脇の仁王門はさらに古い明治3年だそうです。それを知ったら、ご朱印をいただいた後で、その門をくぐってもう1度入ってお詣りしたいと思いました。
 庫裡で預けておいたご朱印帳をいただき、車に戻り、先ほど上ってきた道まで引き返し、そのまま進むと、すぐに仁王門が見えました。
 仁王門の右手前には、自然石に「越後観音霊場 第卅三番札所 最明寺」と彫られていて、その右側に宝篋印塔もありました。そして左側には梵字が彫られた石柱が建っていて、その台座は蓮の花の形でした。
 その間を10mほどで仁王門があり、扁額には「福聚海無量」と観音経の一節が掲げられ、その下は珍しく欄間になっていて、その下をくぐります。そこから眺めると、両側が杉の並木で、参道の両側には小さな水路があり、きれいに掃かれていました。おそらく、参道は100m以上はありますが、その先にいくつかの石段もあり、さきほどはその途中からこの参道に入ってきたようです。
 ここを歩くと、苔むしていたこともあり、いにしえを感じさせられます。そういえば、良寛さんが岡山の円通寺で修行をして帰る途中で、高野山にお詣りし、金剛峯寺で亡くなった父親の菩提を弔ったときに詠んだといわれる歌があります。それは「紀の国の 高野のおくの 古寺に 杉のしづくを 聞きあかしつつ」で、杉の木の梢からしたたり落ちるしずくを聞きながら夜を明かしているというような意味ですが、この杉木立の参道も杉の木そのものは太くはないのですが、静まりかえった雰囲気は奥の院参道に似ているように感じました。私も、ここに墓所があるので、2017年3月にここと同じように参道の途中から二の橋に入り、お詣りしたことを思い出しました。
 次は第32番札所「宝塔院」です。ナビで確認すると、ここ最明寺から31分、19.2㎞だそうです。

 第33番札所 明白山 最明寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 降りつもる 氷もとけて 五十嵐の 清き流れに やどる月かげ



☆越後三十三観音札所巡り Part.20

 第32番札所「宝塔院」は三条市東裏町にあり、この仁王門の前の道を三条市方面に進み、途中から県道281号に入り、下大浦の丁字路を右折し県道289号に入ります。そして五十嵐川を渡り、篭場の交差点を左折し県道331号に入ります。
 そして、信越線の陸橋を越えて、県道121号のほうに進むと、1.2㎞ほどの信号機の手前から左折すると狭い道ですがなんとか通れます。そこに宝塔院はありました。もし、わからなければ、「宝塔院幼稚園」と聞けば、そのほうがわかりやすいかもしれません。
 ここに着いたのが午前11時23分で、車を駐めて宝塔院のほうへある歩いていくと、幼稚園の遊具があり、そして墓地もあります。その正面に立つと、右に「真言宗」、左に「寳塔院」と彫られた門柱があり、柵止めなどもわきにありました。園児たちが外で遊ぶときには、これで急に飛び出すことのないようにしているようです。
 先に左側の庫裡にまわり、ご朱印をお願いしてから本堂に行きました。庫裡は幼稚園の仕事もしているからか、鉄筋コンクリートのビルのような建物でした。庫裡とお堂を結ぶ間の空き地にサルスベリが咲いていて、その他にも草木が植えてありました。

 ここのお堂は、自分で戸を開けるようになっていたので、堂内に入ることができました。外陣と内陣は格子戸で区切られていましたが、内陣は燈籠に電灯が入っているいるので明るく、お前立ちのお姿もわかります。畳の上には椅子も並べられています。
 やはり、今の時代は畳の上で正座するのが苦手の方も多く、ある意味しかたのないことかもしれませんが、仏さまは座ってよく拝めるような配置になっています。そこで観音経を唱え、ゆっくりとお詣りしました。
 ここは城主の三条定明公の祈願所で、その奥方の千坂姫の菩提寺でもあります。定明公没後はここで観音さまを拝みながら生涯を閉じられたそうで、本堂手前の左側に千坂姫の宝篋印塔とその子をまつる千坂地蔵尊もありました。だからなのか、8月10日には三条市の三大祭りの1つがここの「子安観音祭」で、多くの市民が参詣するそうです。
 庫裡に戻ってご朱印帳をいただき、帰ろうとすると、遊具の近くに「良寛ゆかりの宝塔院」と書かれた案内板があり、読むと、その当時の宝塔院住職の隆全和上ととても親しく、ときには数ヶ月も滞在されたとあります。そして、隆全和上が1冊にまとめた「良寛法師歌集」には良寛さんの歌127首がおさめられていて、分水町牧ケ花の解良家に保存されているそうです。
 そういえば、1828(文政11)年11月12日朝に発生した三条大地震は、マグニチュード6.9の直下型地震で、全壊が12,859軒、半壊8,275軒、死者1,559人、けが人2,666人という記録が残っています。そこで良寛さんはすでに住職を隠居されていた隆全和上に霜月21日付けのお見舞い状を出し、さらにその後、すでに71歳の老躯をおして足を運び、「かにかくに 止まらぬものは 涙なり 人の見る目も 忍ぶばかりに」という歌を詠んでいます。
 そして隆全と住職や弟子の覚明は、この地震で不慮の死を遂げた無縁仏のお骨を拾い集め、翌12年8月に宝塔院境内に地震亡霊塔を建てて供養したそうです。それが今、三条市指定文化財となって今も残っています。
 車に戻ると、午前11時35分でした。今の時間だとまだ昼食を食べるところは空いているのではないかと思い、以前食べたことのあるここから近いまわる寿司「花時計」に行きました。そこで待っている間に、「巡礼の旅」という越後三十三観音札所の本を見てると、番外が5ヶ寺も載っていて、そのひとつ「井栗観音来迎寺」がすぐ近くにあることがわかりました。せっかくここまで来たので、先ずそこにまわってから次の「巡礼の旅」という越後三十三観音札所の本に、番外としてが載っていたのでまわることにしました。
 井栗観音は、ここから11分、3.8㎞だそうで、道に迷うこともなく、その時間で着きました。ご住職もいて、すぐにご朱印を書いていただき、観音堂でお詣りし、次の第25番札所「真城院」に向かいました。ナビで確認すると、ここ井栗観音から一般道を走って59分、41㎞だそうです。北陸自動車道を通ると54分ですが、距離は44.3㎞になり、たった5分程度の時間短縮で高速道路通行料を払うこともないと思いました。

 第32番札所 多宝山 宝塔院 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 南無大悲 あまねきかどの ひろければ あらゆる罪も さわらざらまし



☆越後三十三観音札所巡り Part.21

 第25番札所「真城院」は新潟市中央区西堀通りにあり、先ずは井栗観音から県道1号に進み、保明新田の交差点を左折し信濃川を渡り、県道141号を右折します。しばらく走って、大郷交差点を右折し県道46号に入り、再び信濃川を渡ります。そして、また県道1号に左折して入り、車場交差点を左折し国道403号に入ります。そして紫竹山インターチェンジで下りて柳都大橋を渡り、西堀通り8番地まで行きます。
 ところが、その近くまで来ているのに、その入口がわからず、何度か「真城院」と聞くのですが、この辺りは寺町でたくさんお寺があるからわからないといいます。それでも何度目かの人が「花金」という花屋さんの脇から入ると教えていただき、やっとその狭い露地を見つけました。そこは西堀通りから入る道で、その道路の右側には「真言宗智山派 真城院」、そして左側には「弘法大師 越後21ヵ所 4番霊場 真城院」と彫られた門柱が立っていました。でも、当然でしょうが、入り込んだところにあるので、まったく気づきませんでした。そして、その道のわきに、「参道・境内 無断駐車を禁ず」という立て札もあり、また参道らしく六地蔵も立っていました。
 そこを進むと、さらに塀に囲まれた先に本堂があり、その塀の両脇に、門柱もありました。その中が駐車場です。時計をみると午後1時35分でしたので、1時間5分ほどかかったことになります。おそらく、ここを探すのに時間がかかったらしく、それでもここに到着できてよかったです。
 先に本堂わきの庫裡に行き、ご朱印をお願いすると、本堂にまわりなさいということで、本堂の玄関から入りました。

 このお寺は、新潟城主寄居土佐守の祈願所となったこともあり、その当時は本堂、観音堂、地蔵堂、金毘羅堂などもあったそうですが、1880(明治13)年の大火で堂宇のほとんどが焼失してしまったそうです。現在の本堂は1910(明治43)年に再建されたもので、宝形造の桟瓦葺で、正面は唐破風向拝付となっています。ちなみに、ここは弘法大師越後21ヵ所霊場第4番札所になっていて、ご本尊は同じ千手観世音菩薩です。御詠歌は「潮なる めぐみ尽きせぬ 大日の 如来の城に かぎりなければ」です。
 このご本尊は1978(昭和53)年につくられ、その頭部には弘法大師がつくられたという1寸8分の千手観音がおさめられているそうで、たしかに正面左側の護摩壇のところには新しい5尺8寸の檜製の観音さまが安置されていて、別な案内書には胎内におさめられたとも書いてありました。そこには弘法大師のお姿もありましたが、せっかくの機会なので正面で観音経を唱えさせてもらいました。
 お詣りが終わって、住職からご朱印帳をいただき、朱印料は指定の場所におさめて、車に戻る手前に、お不動さまの石像があり、そのわきに「満願」と彫られた黒御影石に小さな鐘があり、それを鳴らすようになっていました。しかし、今は新型コロナウイルス感染症も心配でご朱印料さえも直接いただかないので、私も鳴らさないで車に乗り込みました。
 時計をみると午後1時50分です。自宅まで戻ることを考えると、今回の越後三十三観音札所巡りもここまでのようです。そういえば、良寛さんの歌に「法の道 まこと分かたむ 西東 行くも帰るも 浪にまかせて」というのがありますが、仏の説く道などというものはどれが真理かにより、西にも東にも分かれるのではないだろうか、だとすれば進むにしろ、退くにしろ、大海に漂うようなものだ、というような意味だと思います。
 そのような歌を思い出しながら、自宅に帰ることにしました。帰り道は、国道7号で坂町の十文字交差点まで行き、そこから右折して国道113号で小国を越え、これも一般道を走ることにしました。自宅に着いたのは午後5時7分で、夕食は自分の家で食べました。ちなみに、9月29日は362.7㎞、30日は194.2㎞、10月1日は250.7㎞を走破したことになります。
 10月1日から首都圏からのGoToトラベルが解禁されたので、今後の予定は、その動向を見てから決めたいと思っています。先ずは、今回の資料や撮った写真などを整理することにしました。

 第25番札所 金潮山 真城院 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 まえりつつ さとりの花も 開くれば ここもまことの 都なるらん



☆越後三十三観音札所巡り Part.22

 越後三十三観音札所巡りは、新型コロナウイルス感染症の影響などを考慮しながら日程を詰めていましたが、ここ3週間程度は観音詣りに行くところの感染がないことが確認されたので、2020年10月19日から再開しました。
 自宅を出発したのは前回と同じ午前7時で、途中の川西町大舟で藍染めに使うアイの花が朝露で光って見えたのでそれを撮って、川西町の諏訪峠を越えて国道113号へと進みました。先ずは第27番札所「光浄寺」ですが、ここは村上市有明にあるので、関川村の小見橋で荒川を渡り、県道273号へと入ります。そして藤沢川を渡って県道290号へそのまま直進し途中から県道142号へ左折し、山幸酒店のところを右折し、さらに八王子神社のところを右折すると100mほどで光浄寺に着きます。
 入口の右手前に駐車場があり、そこに車を駐めました。午前8寺50分でしたから、途中で写真を撮ったりしたので1時間50分かかり、距離は84.8㎞でした。
 道のわきには、右に「當國廿七番 観音霊場」、左には「曹洞宗 光浄寺」と書かれた門柱があり、そのすぐ内側には「サル被害防止!」のサルの似顔絵付きで掲げられていました。参道を歩くと、右に石仏があり、左には宝篋印塔があり、さらに右側には六地蔵が建物のなかにまつられていました。
 そこを進むと山門があり、その両側に仁王像が安置され、そこから入りました。その正面が本堂で、「遍照山」の扁額が掲げられ、その下の板戸を開けて堂内に入りました。

 お堂に入ると、また大きな扁額が掲げられ、金文字で「光浄寺」と彫られていて、その真下でお詣りできるように金と香炉が置かれていました。そして、その左脇には新型コロナウイルス感染症対策の除菌スプレーがあり、そこに子どもがお願いするような絵が描いてあり、「てゆびのしょうどくをおねがいいたします。」と書いてありました。私は車のなかで除菌ティッシュですませてきたのですが、ここでさらに除菌スプレーを使ってからお詣りをしました。やはり、今年は先ずは除菌除菌の生活で、移動する度ごとにしなければなんとも落ち着かなくなっています。
 お詣りをして、右の部屋をなんとなく見ると、掛軸が下がっていて、左端には越後三十三観音のご朱印の軸、これは平成15年に奉納されたもので、中央は四国八十八ヵ所の軸、そして右端は越後三十三観音の御影の軸でした。
 そして本堂の左の部屋の奥には、龍に乗った十一面観音石像があり、この前にも木魚と金があったので、ここでもお詣りさせていただきました。ここは二段になっていて、上段には達磨大師のようなお姿で、やはりここは曹洞宗のお寺だと思いました。本堂のなかに書かれたご朱印もあったので、ここでいただきました。
 ここのご詠歌の一節に「有明の月」というのがあり、良寛さんの歌にも「幾むれか 鷺のときれる 宮の森 有明の月 雲隠れつつ」というのがあります。
 もともと良寛さんの詩歌にはサギを詠んだものがあまりないのですが、この和歌はよく子どもたちと手毬をついて遊んでいた旧和島村の宇奈具志神社で詠まれたもののようです。しかも晩年の作で、この由縁もあって、島崎の宇奈具志神社には良寛詩歌碑があります。その歌碑の案内板和歌にこれが刻まれています。
 ここ光浄寺付近にも森があり、だから野生のサルが出てくるようですが、いくつかのサギの群れがとどまっているその森の上空を明け方の月が雲にゆっくりと隠れる様子がとても印象深い和歌です。
 そのようなことを考えながら、車に戻ると、午前9時10分でした。次は第26番札所「乙宝寺」です。ナビで確認すると、ここ光浄寺から20分、13.9㎞のようです。

 第27番札所 遍照山 光浄寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや 迷いの闇を 照らすとて 今このしゃばに ありあけの月



☆越後三十三観音札所巡り Part.23

 第26番札所「乙宝寺」は胎内市乙にあり、先ほどの県道142号を進み、羽越本線の高架橋を越え、県道146号から国道345号で左折します。そして桃崎浜の交差点を左折し、次の信号機のところから右に入り、丁字路のところを右折すると200mほどで乙宝寺に着きます。この「乙宝寺」というのは「おっぽじ」と読むそうで、この辺りの字名は「乙」です。
 駐車場の道路の左側にあり、そこに着いたのが午前9時28分でした。
 道路を横切ったところが参道入口で、車止めがあり、ここから歩いて進みました。両側に大きな石灯籠があり、その先の右側に「國寳大日如来」と刻まれた門柱があり、その先に小さな水路があり、石橋を渡りました。その正面に大きな二層の仁王門があり、扁額には「如意山」という山号が金文字で書かれていました。二層のところには手すりがあるので、上れるようになっているみたいです。
 その門の右側には「越後新四国 第三十八番 乙宝寺」書かれた板が掛かっていて、左には「越後薬師霊場 第二十二番札所」とあり、ここはいろいろな霊場の札所のようです。
 その仁王門をくぐって進むと、右側に手水場があり、その脇から右側には三重塔があり、これは村上城主村上忠勝が寄進したもので、1614(慶長19)年に7年の歳月をかけて完成したそうです。先ほどくぐってきた仁王門は西条村丹呉家が寄進改築したもので延亨年間に完成したと書かれていました。そして、また参道に戻ると左手に鐘楼があり、参道を進むと、なだらかな石段があり、その先に大きな香炉と、本堂がありました。
 先に本堂でお詣りし、そこでご朱印をお願いし、待っていると、堂内に幼稚園児が法話を聞いていました。ある園児が、「なぜ池のコイはいるんですか?」と質問され、住職はちょっと困ったような顔をしていました。それから、観音堂へ行きました。

 観音堂は本堂から少し離れた右側にあり、こんもりとした杉林のなかにあります。そこに上る石段の手前の左側には、芭蕉がここを訪ねたときに詠んだ「うらやまし 浮世の北の 山桜」と刻まれた句碑があり、奥の細道の旅でここまできたことがわかります。
 石段を上ると両側に観音さまの赤い幟旗があり、これがあるとすぐに観音さまとのつながりがわかりとても有難いものです。
 観音堂はこじんまりとしていて、土足厳禁と書かれていたところで靴を脱ぎ、堂内に入ると、白木造りの厨子のなかにおさめられていて、「観音像は大変痛んで破損箇所もありますので、絶対にお手を触れない様お願い致します。」と書いた紙が貼られており、「傷んで」ではなく「痛んで」と書かれたいたことでとても痛々しく感じました。でも、この厨子を開けてまで拝む人がいるとはびっくりです。
 世の中、自分の基準では考えられないこともあると思いました。そして、この前で観音経を唱え、ゆっくりとお詣りをしました。
 そして、お堂を出ると樹々を渡る風がさわやかに感じました。そういえば、良寛さんの句に「焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな」というのがあります。
 これはとても有名な句で、句碑も国上の「五合庵」や弥彦の「法圓寺」、そして三条の「日吉神社」などにもあるそうです。小林一茶の句に「 焚くほどは 風がくれたる 落ち葉かな」というのがあり、これを参考にしたのではないかともいわれますが、この句の逸話に、良寛さんが乙子神社の草庵に住んでいたころ、長岡藩主牧野忠精が城下に招こうとして庵まで訪ねたときにこの句を無言のまま差し出し誘いを断ったそうですから、たまたま同じような句になっただけのことだと私は思っています。
 石段を下ると、その前の坪に宝篋印塔が立っていて、シダレザクラなども植え込まれていました。おそらく、芭蕉の時代のようなヤマザクラは見られないかもしれませんが、もう1度、春にでも来てみたいと思いながら、車に戻りました。
 次は第29番札所「宝積院」です。ナビで確認するとここ乙宝寺より、31分、20.9㎞のようです。

 第26番札所 如意山 乙宝寺 (真言宗智山派) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 唐土(もろこし)の 人も訪ねし 乙寺(このとでら) 今に絶えせぬ 法の灯



☆越後三十三観音札所巡り Part.24

 第29番札所「宝積院」は、北蒲原郡聖籠町諏訪山にあり、先ずは県道3号を新潟市の方に進み、ローソン聖籠山倉店のところの信号を左折し800mぐらい走ったところの諏訪山地区の交差点を右折し、100mほどでまた右折すると、側溝の橋の先に門柱があります。
 右の門柱には「観音霊場」、左には「聖籠山」と彫られていて、道端には石仏や石塔などがあり、地区民の信仰の篤さが感じられます。
 その道の突き当たりが観音堂にいたる仁王門ですが、その手前に駐車場と宝積院の本堂と庫裡があるので、先にご朱印をいただこうと声をかけました。しかし、返事がないので、そこから歩いて仁王門のところへ行くと、車が2台ほど駐まっていて、その近くに公衆トイレもあったので、その利用かとも考えました。
 仁王門の手前に「卅三度石」と彫られた石塔に同じ石の摩尼車がついていて、回せるようになっていて、左には聖籠町教育委員会の名前で、仁王門と仁王尊、そして観音堂と十一面観音菩薩が聖籠町文化財として指定していることを示す立て看板がありました。
 仁王門をくぐって先を見ると、石段が何層にも続いているようで、5段上って歩くと、また7段の石段があり、そこを歩くと右側にお堂などがあり、その先の長い石段を上がると大きな観音堂です。
 戸は開けてあり、さらにロウソクも点いていたので、中に誰かいることはまちがいないのですが、正面の経机の前にはいないようです。おそるおそる靴を脱いでお堂に入ると、左端のところでお茶を飲んでいました。その人たちもびっくりしたのか、「お詣りですか?」と聞くので、越後三十三観音札所巡りでまわっていますと答えました。すると、今日は観音堂のおこもりの日で、特別にご本尊さまもご開帳してるから、ゆっくりお詣りしてくださいと言われました。

 せっかくですので、本尊さまの前で観音経を唱え、新型コロナウイルス感染症の1日も早い収束も願って諸真言もあげました。3人ほどいましたが、みんな座り直して、一緒にお詣りしてくださいました。
 お詣りが終わると、お茶を勧められ、このような日にお詣りできたことに感謝して、いただきました。お菓子も勧められたけど、それは遠慮すると、どこかで食べてくださいと袋に詰めてくれました。このような日に遠来の参拝者はほとんどないそうで、なぜ知ったのかと聞いてきましたが、まったく偶然のことだとわかり、お互いにその奇遇に不思議な縁を感じました。そのなかの一人は、10年ほどこの観音堂の掃除の奉仕をさせていただいたそうで、だから今もこうして何かあるとお詣りしているといいます。
 そういえば、観音霊場をお詣りしていて、いくつか、不思議なこともありました。ここも偶然にも地元の信仰者たちと会い、ご本尊さまを間近に拝みながらお詣りができ、しかも観音堂の中でお茶を飲むこともできました。そのときに聞いたのですが、毎月19日と20日にはこうして観音堂の戸を開けて、地元の人たちが来てお詣りしているそうです。良寛さんの和歌に、「いにしへの 人の踏みけむ 古道は 荒れにけるかも 行く人なしに」というのがありますが、昔の人たちが踏み固めた古い道は、通る人もいなくて荒れ果ててしまった、というような意味です。つまり、古道とは昔からの教えでもあり、それらが忘れ去られてしまい残念だ、という気持ちも込められているような気がします。
 しかし、ここの観音堂は、今もこうして地元の人たちが集ってくるということは、ある意味、信仰が生きているともいえます。帰るときに、そこにいた方たちに、堂内で写真を撮らせてもらい外に出ました。
 そして、もう一度庫裡に行き、声をかけると今度は返事があり、ご朱印をいただくことができました。
 その隣の駐車場に戻り、時計をみると午前11時でした。次は第28番札所「白蓮寺」です。ナビで確認すると、ここ宝積院から20分、7.6㎞だそうです。

 第29番札所 聖籠山 宝積院 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 くもきりの かかる越路の はてまでも たずねる法の みちはありける



☆越後三十三観音札所巡り Part.25

 第28番札所「白蓮寺」は、新発田市五十公野にあり、宝積院から県道203号へ進み、新発田駅の方へ向かいます。本町の交差点を右折し新発田駅の右側の陸橋を越えて県道14号の方へ進みます。1.2㎞ほど進み、左折するとマルホンカウボーイ新発田店があり、そこを左折すると100mほどで着きます。
 お寺の前の駐車場に3~4台の車があり、仕方なく入口のギリギリのところに車を駐めました。午前11時15分でした。
 もしかしてすぐ車を移動しなければならないと思い、すぐ庫裡のところでご朱印をお願いすると、住職さんが出てこられて、本堂の方へおまわりくださいということなので、車を駐めたことを話すと、大丈夫とのことでした。
 そこで、本堂の戸を開けたとたん、ご詠歌の声が聞こえてきて、その節回しからすると梅花講のようでした。なるほど、これがあるから車がいっぱいで、終わるまで大丈夫なんだと思い、むしろ、ご詠歌を聞きながら、お堂のなかで観音経を静かに唱えるのもいいかもしれないと思いました。
 本堂と庫裡の間の部屋を見ると、一心にご詠歌をあげているのが見えました。私は、静かに、外陣のお詣りするところに座りました。

 ここ白蓮寺は、古い歴史がありますが、戦国時代のときを経て境内が荒廃してしまいましたが、1649(慶安2)年に瑞雄演州禅師により再興されたそうで、このころより岩井山観音や岩井堂権現、馬頭観音などの信仰を広めたそうです。そして、明治時代初期に発令された神仏分離令により、もともと石井神社とともにあったのですが分離され、現在地に移転されたそうです。
 たしかに、どこも神仏分離の太政官令は大きな影響を与えたようで、その前の歴史がわからなくなってしまったところもありますし、貴重なものを失ったり、極端な例では海外に売られた仏像などもあります。今、私の本棚に「明治維新 神仏分離資料 全5巻」があり、ときどき引っ張り出して読んでいますが、ほんとうにびっくりするような記録があります。もし、これから時間があれば、それらのことを調べてみたいと思っていますが、資料そのものがだいぶ失われてしまっているようです。
 そういえば、良寛さんは曹洞宗のお坊さんでしたが、「われながら 嬉しくもあるか 御ほとけの います御国に 行くと思へば」という道歌のような歌も詠んでいます。この歌意は、私も仏さまのいらっしゃる極楽浄土に行けると思えば嬉しいなあ、です。つまり阿弥陀さまも信じているとすれば浄土真宗ですが、良寛さまはあまり細かいことに拘ってはいなかったようです。また、「み仏の み法の道に 仮だにも 契る心は うれしからまし」というような歌も詠んでいて、心から阿弥陀さまを信じていたことは間違いないようです。
 お堂のなかでは、まだご詠歌が聞こえてきて、それに送られるかのようにして車に戻りました。そして、入口に駐めた車を移動してから、そこの写真を撮りました。すると門柱の前に「札所 越後第二十八番 蒲原第二十四番 観音霊場 白蓮寺」と白御影石に彫られた石碑があり、門柱の右には「曹洞宗」、左には「白蓮寺」とだけ彫られていて、その両側には小さな石仏が並んでいました。ここから見ると、本堂の右手前には、観音石像が立ち、花が供えられていました。ご詠歌は、ここまでもかすかに聞こえてきました。
 次は第30番札所「普談寺」です。ナビで確認すると、ここ白蓮寺54分、32.4㎞だそうです。

 第28番札所 岩井山 白蓮寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 岩井堂 ふかき恵を 頼まずば 浅き罪すら 逃れざらまし



☆越後三十三観音札所巡り Part.26

 第30番札所「普談寺」は、新潟市秋葉区朝日にあり、白蓮寺を出るときに時計をみると11時30分でした。この時間ならあまり混まないうちに昼食ができるのではないかと思い、瓢湖のわきの「湖四季」にまわりました。着いたのがちょうど12時でしたが、店内には誰もいなくて、やはり新型コロナウイルス感染症の影響が深刻だと思いながら、一番早くできるものを聞いて、それを頼みました。食べ終わってから、せっかく瓢湖まで来たので白鳥などを見てから車に戻ると、12時35分でした。
 ここから普談寺までは、先ず国道460号まで戻り左折し、信濃川を越えて、県道5号のほうへ左折します。そして県道7号から本町4丁目交差点で左折し県道320号に入ります。しばらく走ると、朝日交差点から左折するところに第30番札所「普談寺」の案内板があるので、そこを進むと東大通川沿いに走り、左側にまた案内板があるのでそこを右折し、そこからは案内板に従って進みます。
 すると東大通川を渡った先が普談寺です。入って左側に駐車場があり、そこに車を駐めました。午後1時5分でした。
 そこから外に出て、参道を眺めると、右側に新潟市指定文化財の大杉があり、その参道をはさんだ左側に「椿の里」と彫られた石碑があり、1974年から1989年までの4期新潟県知事を務められた君 健男氏が書かれたものでした。ユキツバキは新潟県の木として新潟県のシンボルとなっていて、豪雪にも耐えて越冬し雪解けとともに花を咲かせるところがなんとも健気な美しさがあります。そして、平成14年にはふるさと切手に「越後の花」として日本郵政から発行されています。ちなみに、ここの裏山は「つばき山公園」で、1万5千本ものツバキやサザンカが植えてあるということでした。たった1輪でしたが、入口付近に出迎えるかのように咲いたのが印象的でした。
 その間の参道を進むと、右手に本堂と庫裡があり、そこでご朱印をお願いしました。
 そして、もとの参道に戻ると、真っ正面に仁王門があり、そこにはちょっとユーモラスな仁王さまがまつられていました。聞くと、この仁王さまは仏師が彫刻したのではなく、大工さんが作ったもののようです。しかも、白い布を脚絆のように巻き、腹にも巻いていたのが他とは違います。その仁王門をくぐると、長い石段があり、その石段の両脇には石灯籠がたくさん立てられていて、石段の遊び場の先にも石段があり、あわせると100段ぐらいにはなりそうです。その石段の脇の側溝石には青々として苔が生えていて、いかにも深山幽谷の雰囲気があります。
 そこを上りきって右手に進むと観音堂がありました。

 観音堂には土足禁止と書かれていたので、そこで靴を脱ぎ板戸を開けてなかに入ると、外陣と内陣の間に格子戸があり、そこから内陣には入れないようになっていました。外陣のところには、金や香炉があり、そこでお詣りしました。
 お詣りが終わって、内陣をみると、護摩壇があって、その先に立派な宮殿型の厨子があり、その前にお前立ちがありました。そして、その両側には同じ大きさの黒塗りの厨子があり、閉じられていました。その後ろの壁には、壁に添って狭い棚があり、その上に30体近くの仏像がまつられていました。おそらく、倒れないようにしてあると思いますが、もし大きな地震が起こればちょっと心配です。
 そして、外陣の左側にはおみくじがあり、自分で引いていただくようです。ここにお守りもあり、御影もありました。ストーブもあるところを見ると、ときどきはここに集まってお詣りするのではないかと思います。
 このお堂は以前はもっと山の上にあったそうで、それが野火で焼失してしまったのです。その時の逸話のなかに、その野火のときに尊像自らが光りを放って飛んで行き、南の山に遷座したということです。その由縁からそこを光明山、あるいは五明山と名づけたそうです。この地は、上杉謙信公の時代には家臣の本庄重長がここの郷の守となり、この尊像を篤く信仰したということです。
 観音堂の右奥には「天徳稲荷」の社があり、そこなどを見て歩き、それから石段を下りました。そして、ご朱印をいただこうと庫裡の方に行くと、その左側に仏像が並んでいて、軽くお詣りしながらご朱印をいただいて車に戻りました。
 その途中の墓地のところには、青銅製の修行大師像があり、さらにその左手前には良寛さんの「天上大風」と彫られた薄い石碑が建っていました。その上が折れたのか、わざとそのようなデザインなのかはわかりませんが、ちょっと痛々しそうでした。
 この良寛さんの「天上大風」は有名で、子どもたちにせがまれて凧の書として書いてあげたようです。つまり、空の上では強い風が吹いているから、凧もよく上がるようにとの思いです。しかし、そこには子どもを使って良寛さんに書をねだった大人の姿が見え隠れします。でも、良寛さんは子どもたちの姿ばかり見ていて、気づかないふりをしていたのではないかと私は想像しています。
 駐車場に戻り、時計をみると午後1時30分でした。次は第31番札所「正円寺」です。ナビで確認すると、ここ普談寺から27分、16.1㎞だそうです。

 第30番札所 岩井山 普談寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 祈るから 今は残らず 身の罪を 朝日の里の 下にたとえて



☆越後三十三観音札所巡り Part.27

 第31番札所「正円寺」は五泉市村松甲にあり、普談寺からは先ほどの朝日交差点から左折するところの第30番札所「普談寺」の案内板のあるところから左折し、道なりに進みます。そして県道41号のところから左折し、五泉市森林公園キャンプ場のわきを通って、五泉市泉町の交差点を右折します。そして坂下の信号機を左折し、第四銀行村松支店の前を右折し、100mほどで左折し県道571号を進むと、右側にあります。
 駐車場は道路のすぐわきにあり、すぐにわかりました。ここに着いたのが午後2時ちょうどで、さっそく山門のところから入りました。その山門の右側には、白塗りの柱に黒文字で「越後霊場 第三十一番札所 正円寺」とはっきりと書いてあり、むしろこのほうが読みやすくていいと思いました。山門の扁額は「龍形山」と青文字で彫られていて、金色の縁がとくに目立ちました。本堂の右手にある庫裡に行きました。
 先に本堂の右手奥にある庫裡に行くと、住職さんがいて、本堂でご朱印をしてくれるそうで、その間、先に観音堂へお詣りをしてくるようにとのことでした。
 そこで少し戻って観音堂のほうへ行くと、その右側のこんもりしたところに大きな宝形印塔があり、その手前に石灯籠が据えられていて、その左手前に「光明神咒供養塔」がありました。この供養塔は、「光明真言読誦供養塔」ということもあり、大日如来の智彗と慈悲で一切の罪障が除かれることを祈願しながら何百万回も唱えたことを記念して建てたものです。今回の越後三十三観音札所巡りでは、初めてみたような気がします。
 観音堂はそこの左側を通って行くのですが、その左側にも、りっぱな巡拝満願祈念碑がいくつか建っていて、なかには四国八十八ヵ所や西国三十三ヵ所、坂東や秩父霊場なども刻まれていました。やはり、いつの時代にも信仰心のある方はいるものです。

 観音堂は開いていたので、その中に入ると、お堂は小さいのですがとてもきれいでした。その経机のところに座り、観音経を唱え、お詣りをしました。
 経机の上には香炉や金などあり、さらに智山勤行次第と書かれた小さな経本もおいてあり、厨子の手前の扉には見事な飛天が描かれ、その奥に本尊様の厨子とお前立ちがありました。また、天井の龍の絵も迫力があり、真に迫ってくるようでした。
 この観音堂は、前のお堂が1951(昭和26)年の火災で焼失したので、1954(昭和29)年に再建されたもので、宝形造りで正面の向拝は1間ほどあり、すっきりとしたお堂です。
 さらに、1984(昭和59)年9月に、土台の改造や屋根の改修などが行われたそうで、だからこのようにしっかりした形で護持できているのだと思いました。
 お詣りが終わり、外に出ると、お堂の左側に11基の五輪線刻塔婆がありました。これらは、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた石塔で、五泉市の有形文化財に指定されているそうです。その説明板もかたわらに立っていました。
 そして本堂にまわると、すでにご朱印ができていて、すぐにいただきました。とても丁寧な対応で、気持ちよく車に戻りました。時間は午後2時15分です。
 予定では、このまま宿泊予定のホテルまで行くのですが、時間もあるので、三条市西本成寺1丁目にある「総本山 本成寺」にまわることにしました。ナビで確認すると、ここから37分、27.1㎞です。先ずは県道67号から県道1号を経由して向かいました。その県道1号を通っているとき、すぐ側の信濃川河川敷にたくさんのススキが見えました。そのとき、良寛さんの「秋の日に 光り輝く 薄の穂 これの高屋に のぼりて見れば」を思い出し、運転に気を付けながら、夕日に輝くそのススキを眺めました。
 着いたのは午後2時50分で、駐車場に車を駐め、水門わきの受付でご朱印をお願いし、先にお詣りしてきてくださいとのことなので、本堂へと行きました。ここ本成寺は法華宗の総本山で、法華宗とは、日蓮大聖人を宗祖と仰ぎ、日陣尊聖人を中興の祖とする宗門だそうです。令和3年が宗祖日蓮上人のご降誕800年だそうで、白い門のようなしつらえもありました。本堂は明治時代に建てられたものだそうで、十六間四面もある壮大なものです。平成12年には立教開宗750年の記念事業として、本堂の銅板屋根のふき替えが完工したということでした。
 順にお詣りして、ご朱印を受け取り、車に戻ると午後3時8分でした。次は今夜の宿、燕三条ワシントンホテルです。ここから3.9㎞ということなので、急がずにゆっくりと行き、午後3時25分には着きました。
 このホテルは、「イオン 県央店」の中に入っていて、駐車場もここを使います。1階のフロントに行き、1泊朝食付き3,608円(税込み)、しかも地域共通クーポン券1,000円が付いてきました。しかも、ここのイオンでも使えるということなので、夕食はここで弁当を買い、部屋でゆっくりと食べました。今日は比較的ゆっくりの行程なので、それらをぜんぶ記録をしてから、就寝しました。今日の自宅からここまでの走行距離は、217㎞でした。

 第31番札所 龍形山 正円寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ひとむらの 松にやどれる ひなづるも ともにみ法(のり)の こえたてつべし



☆越後三十三観音札所巡り Part.28

 燕三条ワシントンホテルを出たのは午前8時13分で、ここに連泊するので荷物は部屋に置いたままのもあり、身軽に出かけました。
 先ずは第24番札所「景清寺」に向かいます。ここは新潟市西蒲区平沢にあり、ナビで確認すると35分、21.5㎞だそうです。先ずは国道285号で彌彦神社のほうに向かい、県道29号へと進み、彌彦神社の大鳥居の先を右折します。そして県道223号に入り、新潟県環境衛生研究所 先端技術センターのところから右折し、県道460号のところで左折して入り、峰岡郵便局の手前を右折し狭い道を進みながら、新潟ゴルフ倶楽部のわきを通ると、300mほどで左側にあります。
 参道の左側には、「当國札所第廿四番 大悲山 景清寺」と彫られた門柱があり、右側には割烹旅館と書かれた看板があり、風呂・駐車場ありと添え書きがありますが、とても営業しているようには見えませんでした。その間を上っていくと、山門があり、真正面が本堂で、右が庫裡のようです。
 そこをくぐり、本堂に行くと、玄関のところに「御朱印受付所」が掲げられていて、その下に墨書きされたご朱印とご奉納金を入れる箱が置いてありました。そして、その上にインターホンがあったので何度か押してみたのですが応答がないので、正面の戸を開けて、そこからお詣りをしました。

 玄関先からではお堂の奥の様子はわからないのですが、左側の観音像の掛軸の前にお釈迦さまの誕生仏がまつられているのが目につきました。そういえば、お釈迦さまの誕生されたルンビニに行ったとき、近くの骨董屋さんで小さな金剛仏をもとめ、何年かして一人でインドのブッタガヤーに行ったときには、白檀に彫られた誕生仏を見つけました。どちらも天地を指さしていますが、いつでも見えるところに安置してあります。
 その縁もあり、孫の名前に「唯」の一字を入れて名づけました。つまり、「天上天下唯我独尊」の「唯」です。これはこの世の中にたった一人の尊い存在があなたですよ、という意味が込められています。
 ここの寺名の「景清寺」というのは、昔、景清という人がいたそうで、源氏の家に生れたのに、訳あって平家の一族となったそうです。しかし、後に源平の戦いが起き、平家は亡びたのですが、景清はつねに観世音を念じていたこともあり助かったそうです。景清は九州の宮崎で48歳で亡くなったそうですが、彼の忠臣景門は奥州飯田山の麓平沢村の出身であったこともあり、この観音さまを持って故郷に帰る途中、同じ名前のこの村に安置して生涯を閉じたと伝えられています。
 ここに来る途中に「平沢清水」があり、その案内板には「縄文時代頃から人間がこの清水を利用していたものと思われる」と書いてあり、もしかすると景門も飲んだのではないかと想像しました。
 このとき、良寛さんの和歌に、「水や汲まむ 薪や伐(こ)らむ 菜や摘まむ 秋の時雨の 降らぬその間に」というのを思い出しました。このような山里では、時雨が降り出すとじきに厳しい冬がやって来ます。秋は忙しいのです。その忙しさがこの歌によく現れていて、一人暮しの良寛さんもいつもはノンビリと暮らしているのにと想いながら、つい、その情景などを考えました。
 ここ景清寺に着いたのは午前8時57分で、車に戻ったのが9時10分でしたから、たった13分しかいなかったことになります。次は第23番札所「観音寺」です。ナビで確認すると、ここから21分、13.2㎞だそうです。

 第24番札所 大悲山 景清寺 (浄土真宗 大谷派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 平等の 利益にもれぬ しるしをば くむ人ぞ知る 平沢の水



☆越後三十三観音札所巡り Part.29

 第23番札所「観音寺」は、西蒲原郡弥彦村観音寺にあり、先ずは先ほど来た県道2号まで戻り、そこを右折し、岩室温泉の近くを通り、彌彦神社の前を通り過ぎ、そのまま道なりに進みます。そして、弥彦スカイライン入口へ右折し、300mほどで右側に金色の大きな観音さまが見えます。そこが観音寺です。駐車場の脇には、「越後三十三観音霊場 第二十三番札所 観音寺」と書かれた大きな案内板がありました。
 駐車場も広く、ここに着いたのは午前9時26分です。大きな観音さまも気になりますが、先ずは本堂へ行こうとすると、その前に大きな石製の回向柱が立っていました。普通は空、風、火、水、地などを意味する梵字が書かれているところには、「妙観察智」とあり、その下には「髙顕江湖会念山門鎮静弁道安穏」とあり、平成16年9月吉日の年号が入っていました。
 このお堂は2003(平成15)年に再建されたそうなので、その後に記念としてこの大きな回向柱が建てられたのではないかと思います。
 本堂のところで靴を脱いで階段を上ると、そこに賽銭箱があり、「土足厳禁」という立て札が立てかけてありました。戸を開けようとしましたが、開けられないので、その賽銭箱のところでお詣りをしました。

 誰もいなかったので、大きな声で観音経や諸真言を唱えてから本堂を下ると、住職さんらしい方が庭掃除をしていました。来るときには気づかなかっただけなのか、それとも後から出てきたのかはわかりませんが、せっかくなので、ご朱印をいただけないかと尋ねました。というのは、案内書にはここのご朱印は第22番札所「国上寺」でもらうと書いてあったのです。でも、ご朱印は国上寺さんにお願いしてあるからということでした。たしかに、預けてあっては押すことはできないでしょうが、おそらくたまたま居ただけと思い、諦めました。
 ここのご本尊は聖観世音で、聖徳太子作と伝えられています。国上山のご本尊の千手観世音菩薩も、聖徳太子が北陸に巡行されたときの作と伝えられていて、なぜかこの辺りは聖徳太子の信仰があるようです。
 このご本尊は、もともとは北畠中納言時定公の守り本尊だったそうで、戦いの途中で亡くなってしまったのでこの地に庵を建て、安置したのが始まりと案内には書いてありました。この観音さまは別名「このめ沢の観世音」ともいい、ご詠歌にも「このめさわ」とあります。この地名ははっきりとはわからないそうですが、昔はこの観音堂は七曲りにあったといわれており、この七曲りを、むかしは「このめ沢」と言ったことからきているらしいとも書いてありました。
 そういえば、ここ観音寺に来る途中で、岩室温泉の近くを通ってきましたが、良寛さんの和歌に「岩室の 田中の松を 今日見れば しぐれの雨に 濡れつつ立てり」というのがあります。この田中という地名もはっきりとはわからないそうですが、この意味は「岩室村の田中の松を今日みたら、時雨の雨に濡れながら立っていたよ」というようなことで、ほとんどひねりがありません。いかにも良寛さんらしいというか、万葉調であるというか、ただ詠むとなんとも心地よい響きが伝わってくる歌です。
 やはり、あまり字句の細かい解釈よりは、全体の雰囲気から伝わってくる余韻というものを大切にしたほうがいい、とこの和歌を思い出しながら感じました。
 そして、帰りに金色の観音さまをお詣りし、車に戻りました。次は第22番札所「国上寺」です。まだ、一度も弥彦スカイラインを通ったことがないので、少し遠回りですが、山を越えてみることにしました。このルートで、ナビで確認すると、ここから21分、14㎞だそうです。

 第23番札所 龍岡山 観音寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 春雨の 恵に燃ゆる このめさわ たれもあまねき 誓いたのまん



☆越後三十三観音札所巡り Part.30

 第22番札所「国上寺」は、燕市国上にあり、観音寺から県道2号を通ってくれば12分、7.6㎞でくるのですが、せっかくの機会なので弥彦スカイラインを通って山越えをしてきたので、20分ほどかかりました。でも、弥彦山の途中から日本海が見え、国道402号(シーサイドライン)に入ると海岸沿いを走るので気分も爽快でした。
 大河津分水路を渡らず、県道159号を直進し、渡部橋を過ぎてすぐから左折し県道405号を上ります。約5分、2.2㎞で国上寺の駐車場に着きました。ここには、何度も来ているのですが、今回は越後三十三観音札所巡りで来たので、先ずは観音堂を目指しました。
 ここの境内は広く、参道の坂を上って右手の石垣の上に本堂があり、その右側が大師堂、そして左側に三角堂があります。そこには後からお詣りすることにして、先ずは山門を目指すし、その右手前に大きな「越後一之寺 國上寺」と彫られた門柱がありました。そして、山門の両側には風神雷神の石像がまつられていて、山門の中央には大黒さまが鎮座されています。そういえば、六角堂に大黒天像が本尊として安置されているはずです。
 そして山門をくぐると、右手に観音堂があります。先に左側にある受付で、ここのご朱印と第23番札所「観音寺」の両方をお願いし、観音堂に向かいました。その参道の中央に大きな香炉があり、線香を点けやすいように七輪が置かれていました。そして靴を脱ぎ、堂内に入り、お詣りをしました。

 堂内には大きなストーブが置かれ、通常はここでさまざまな祈願がされているようです。表には「各種御祈祷承ります」や「交通安全祈願」などの幟旗がたくさん立てられていました。
 お堂の左側には「聖観世音菩薩像」があり、その手前左側には浄火所があり、古い人形やお札、お守り、仏壇などもお焚上げするそうです。また右側には、小さな水子地蔵がたくさんまつられていて、風車がカラカラと寂しそうにまわっていました。
 お詣りをし、ご朱印をいただき、それから庫裡の前を通って、五合庵への山門をくぐり抜けました。そこから先は山道で、途中に石段もあり、とても風情があります。ここを歩くのは5~6回ほどですが、今回は誰とも出会うことがなく、おそらく新型コロナウイルス感染症の影響ではないかと思いました。
 だからなのか、ちょっと道を外れただけで蜘蛛の巣があったりして、取り払おうとしたのですが、良寛さんの「わが宿の 草木にかくる 蜘蛛の糸 払はんとして かつはやめける」という和歌を思い出して苦笑しました。ここに降りてきて、この歌を思い出し優しくなれただけでも来てよかったと思いました。
 この前に訪ねたのは2018年3月7日で、五合庵のかや葺き屋根に雪が残っているところを見たかったのですが、すでに雪はなく、ここに来る途中に少しだけあるだけでした。でもそのときは、良寛さんの「いづくより 春は来ぬらむ 柴の戸に いざ立ち出でて あくるまで見む」という和歌を思い出し、そわそわと春を待つ姿を想像して楽しみました。
 でも今回は真っ青な空で、汗をかきながら下り、五合庵のところまで行きました。ここはいつ来ても、ここに良寛さんがいたのだと思うだけで、なんとも懐かしい想いになります。あちこちから何枚も写真を撮り、また、来たときの道を上って国上寺まで戻り、先ほど通過した本堂などをお詣りしてから車に戻りました。
 ここに着いたのは午前10時1分で、今は10時52分ですから、50分以上いたことになります。次は第21番札所「吉田寺」です。ナビで確認すると、ここ吉田寺から8分、3.6㎞ということです。

 第22番札所 雲高山 国上寺 (真言宗 豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 くがみやま 生死のうみを よそにみて のぼればすずし 極楽の風



☆越後三十三観音札所巡り Part.31

 第21番札所「吉田寺」は燕市渡部にありますが、ここに向かう途中で、乙子神社にもお参りしたくなり、まわることにしました。ここにも何度か来ていますが、良寛さんは、ここで「いざここに わが世は経なむ 国上のや 乙子の宮の 森の下庵」と詠み、最初は五合庵に住んでいたのですが、年を取って山での生活が大変となりここの社務所に居を移したようです。ここはとても住みやすく、書や詩歌も充実した時期にあたり、10年ほどここで生活していたといいます。
 この和歌の意味も「さあここに、私は住み続けよう。国上山の乙子神社のある森の中の庵に」ということで、その気持ちが端的に表れているようです。今回は、その参道を車で行くことができそうなので進むと、その鳥居の前に昨年から焼き物の工房ができたようで、一人で作業をしていました。この次に訪ねたときに作品を見せてもらうことにして、次の吉田寺に向かいました。
 ここ乙子神社からは6分、2.8㎞ですから、あっという間に着きました。ただ、県道2号から右折してからの100mはとても狭く、気を付けながら進みました。駐車場はお堂の先の左側にあり、駐めやすかったです。ここに着いたのは11時10分ですから、乙子神社に寄り道したのは10分程度でした。
 本堂の右側に庫裡があり、そこを通って行くので、先にご朱印をお願いして、それから一端お堂の前の石段まで下りてみました。すると、2本の杉の木の間に10数段の石段があり、その中間の遊び場に六地蔵がまつってありました。石段を上りきると、そのお地蔵さまの頭の部分だけが見え、正面には本堂があります。その右手には、お堂に入り込むように鐘楼堂があり、ここの欄干だけは朱塗りで目立ちます。そして、その前に唐金製の観音さまが石の上にのっていました。

 本堂には、山号額のかわりにここのご詠歌が金文字で書かれていて、その下の板戸は開かれていて、障子戸を開けて中に入りました。
 お堂の中はいかにも曹洞宗らしいつくりで、外陣のところでお詣りをしました。ここの観音さまは、黒滝城の守り本尊としてまつられていた聖観世音で、その落城のときに数名でここ砦のあったところに寺を移した建てたのだそうです。その後何度か火災にあい、とくに大正14年11月の火災では伽藍をことごとく焼失してしまい、現在のお堂は昭和3年の再建ということでした。
 お詣りをすませ、外に出ると、本堂の右手前に「本堂屋根改修祈念碑」があり、そこには昭和60年12月15日と記されていました。やはり、お寺を護っていくというのは、たいへんなことです。多くの人たちの支えによって護られていくというのを実感します。ただ、僧侶たるもの、良寛さんの道歌にあるように、「僧はただ 万事はいらず 常不軽(じょうふぎょう) 菩薩の行ぞ 殊勝なりける」、つまりは常不軽菩薩が一切の衆生はやがてみな成仏できることを尊び礼拝したように、その行にこそ学ぶべきものがあるということです。いわば、あまりいろいろなことを考えずに、やるべきことを淡々とし続けるという意味でもあります。
 これがなかなかできないことで、今年のように新型コロナウイルス感染症が拡がってくると、つい心配になり、様々な対策をとらなければと思います。でも、相手は目にも見えないコロナウイルスですから、できることは限られています。今回の越後三十三観音札所巡りでも、車のなかにたくさんの除菌ティッシュなどを入れてあり、ときどき手を拭いたり、車のハンドルなどをぬぐったりしていました。また、泊まったところでは、おそらく宿泊所でも除菌対策はとられているでしょうが、自分でも触れるところは除菌をするように心がけました。
 後は、しっかりと各札所で観音さまに祈るしかありません。それが良寛さんの生き方にもつながっていくものではないかと思います。
 次は第20番札所「照明寺」です。ここを出発したのは午前11時25分で、ナビによればここから11分、5.5㎞だそうです。

 第21番札所 聖福山 吉田寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 彼の岸へ 渡部の舟の 渡し守 ふかきめぐみを さして頼まむ



☆越後三十三観音札所巡り Part.32

 第20番札所「照明寺」は長岡市寺泊片町にあり、県道2号まで戻り、そこを寺泊のほうに右折します。そして、寺泊白岩の交差点を左折し国道402号を進みます。寺泊観光協会のところを左折し、80mほどで丁字路を右折します。そのまま進むと、和菓子屋の「久乃屋」のすぐ隣が照明寺の駐車場になっています。
 参道の両側には門柱が立っていて、右側には山号の「如意山」、右側には寺号の「照明寺」と彫られていて、その左に地蔵講の案内板が掲げられ、10月24日午前11時より法要や法話があると書いてあります。その後に「おとき」もあるらしく、新型コロナウイルス感染症の影響も少しはありそうです。
 その間を上って行くと、左手に鐘楼があり、右に庫裡があり、そこがご朱印所です。声をかけたら、すぐに出てきて、ここに着いたのが午前11時36分なのでお昼時間前ですぐにいただけました。次の第19番札所「光照寺」は、なるべく午後1時過ぎに行かれたほうがいいと教えてもらい、ゆっくりとお詣りすることにしました。
 また、参道に戻り、真正面を見ると、45段ほどの石段があり、その両側には松の木や刈り込まれたツツジなどあり、他にもいろいろな植物が植え込まれていました。そういえば、参道のところに、「寺泊 つわぶき祭」と染め抜かれた幟旗が掲げられていましたが、この辺りは植物に関心のある方が多いようです。
 石段を上りきったところの左側には大きなイチョウがあり、その下には良寛さんの石像がありました。杖をついて鉄鉢を持っている姿ですが、お顔が丸くて優しそうでした。これは平成10年に建立したものだそうで、いろいろな本などに出ている細面のお顔でないのがちょっと気になりました。

 観音堂は、その石段を上った正面にあり、その左には良寛さんがこの観音堂の堂守としてしばらく住んでいたという密蔵院があります。新潟県のホームページには、良寛さんは生涯のうち3度(45、70、72歳)のときに仮住まいしたと書いています。この照明寺の最盛期には密蔵院を含めて6ヶ寺もあったそうですが、天保12年の火災で焼失し、照明寺は早くに再建されたそうですが、密蔵院は昭和33年に茶室風様式で復興され、その他の寺院はなくなったそうです。
 その縁もあり、境内には昭和59年に寺泊良寛会が建てた歌碑があり、「終日に 夜もすがらなす 法の道 うき世の民に 回して向かわむ」とあります。つまり、仏の道は日々の生活そのものが法にのっとっていることが大事なことで、さらに回向のために読経をすることだといいます。ということで、私も堂内で観音経や諸真言を読誦しました。
 お堂は何度か建て替えられたそうですが、現在のお堂は大正15年に再建されたもので、お詣りが終わってからゆっくりと堂内を見渡すと、風神雷神像がまつられ、漁業という天候に左右されやすい土地柄だからではないかと思いました。また、お前立ちもはっきりと見えました。
 お堂を出て、辺りを見渡すと、昭和57年に寺泊良寛会が建てた歌碑に、「寺泊にをりし時よめる」という次に「大殿の 林のもとを 清めつつ きのうも今日も くらしつるかも」とあり、何気ない日常の暮らしを詠んでいるように思いました。ここ照明寺には、この他にも歌碑がありそうでしたが、今回は越後三十三観音札所巡りで、しかもあと1ヵ所を巡ると満願です。つい、思いは次へと向かってしまいます。
 次は第19番札所「光照寺」で、ここ照明寺からは20分、14.9㎞だそうです。ここを出発したのは11時55分で、ちょうどお昼時間にあたります。そこで、良寛さんが生まれたところに建つ良寛堂にまわりました。この日は真っ青な空で、良寛堂からは遠く佐渡島が見えました。おそらく、ここで詠んだと思われる良寛さんの歌に、「いにしへに 変はらぬものは 荒磯海(ありそみ)と 向かひに見ゆる 佐渡の島なり」というのがあります。簡単にいえば、昔から変わらないものは、この目の前の出雲崎の海と向かいに見える佐渡島である、と解釈できます。そういえば、逸話のなかに「鰈になる話」がありますが、良寛さんは子どものころから海を眺めることが好きだったようです。この歌は、良寛堂の中の多宝塔に刻まれているそうです。ちなみに、このホームページの表題の写真は、このときに撮ったもので、良寛さんが佐渡のほうを眺めている坐像と日本海です。
 ここには何度も来ていますが、こんなにも晴れ渡ったことは珍しいので、あちこちから写真を撮り、そしてすぐ近くの「道の駅 越後出雲崎 天領の里」の駐車場に車を駐めました。時計をみると12時55分です。ここから歩いて行くと、ちょうど午後1時過ぎだと思い、第19番札所「光照寺」に向かいました。

 第20番札所 如意山 照明寺 (真言宗 智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 こしのうら 浪のよるひる 世を照らす 仏の誓い 頼まぬはなし



☆越後三十三観音札所巡り Part.33

 第19番札所「光照寺」は三島郡出雲崎町尼瀬にあり、「道の駅 越後出雲崎 天領の里」からほんの数分です。すぐ近くに駐車場もありましたが、出雲崎尼瀬の街並みを歩くのもいいものです。途中には、「良寛さまお菓子本舗 大黒屋」もあり、美容室の右側に光照寺の駐車場もありました。その左隣の細い路地を入っていくと、その途中にも駐車場があり、以前に来たときよりも駐車場が増えているようです。
 その突き当たりが光照寺で、石段があります。一つ目の石段を上った左側には、「越後札所 第十九番 観世音菩薩 光照寺」と刻まれた石碑があり、右側には相馬御風の筆による「良寛禅師剃髪之寺」が刻まれていて、良寛さんが18才の年にこの寺で剃髪し、岡山県の玉島円通寺に修業に行くまでの4年間をここで過ごしたそうです。この碑の裏には、相馬御風の「良寛禅師をしぬびまつりてももとせの昔は昔、今の世にまさは如何にと思ほゆるかも」という自作の歌が彫られていると案内板には書いてありました。
 そして二つ目の石段を上る途中には、ホトトギスがたくさん咲いていて、そこを上りきると左側に桜の大木がありました。そこを右手に入ると庫裡で、先にご朱印をお願いしてから、左手の本堂に行きました。本堂へ上がるには靴を脱ぎますが、そこには腰を下ろす椅子が置いてあり、さらに手すりも設置されていて、お詣りをする方には優しい配慮です。
 お堂の板戸は開いていて、すぐに入ってお詣りできました。

 お堂の中は曹洞宗の造りそのもので、その手前の外陣のところでお詣りしました。ここが私の今回の越後三十三観音札所巡りの最後のお寺なので、さらにゆっくりと観音経や諸真言を唱え、お詣りを無事に終えたことを報告しました。最初から計画をしていたわけではないのですが、結果的には良寛さんの剃髪されたところだったので、なおさら想いがこもります。
 良寛さんはこのお寺の12世玄乗破了和尚について、1774(安永4)年18歳のときに出家得度したと書いてありました。
 お詣りが終わって、右側の座敷の床の間に良寛像が台座にのって安置されていました。それも墨染めの衣姿で、細面のいかにも良寛さんらしいお姿です。断ってから見せていただこうと思ったのですが、ひとりでにその前に進み出て、般若心経を読誦しました。おそらく、お詣りしていて断られることもないと思ったのです。
 そしてその脇には、第章さまざまな手毬が供えられていて、お茶もあげられていました。その声が聞こえたのか、住職さんがご朱印帳を持ってこられたので、改めてお願いすると、どうぞということだったので、厚かましくも写真まで撮らせてもらいました。最後の最後に、ほんとうにいいお詣りができ、有り難さが胸に迫ってきました。良寛さんの歌で有名なのは、「この里に 手鞠つきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」ですが、子供たちにもこれからあらゆる苦難の道があるだろうから、今のこの時だけでも、楽しく幸せなときを過ごしてほしいという気持ちが切々と伝わってくるようです。
 お礼をいい、お堂を出ると、その玄関の上に、扁額がかかっていたのに気づき、そこには「海岳禅林」と彫られていました。
 光照寺から、歩いて「道の駅 越後出雲崎 天領の里」まで戻ると午後1時20分でした。そこで、そのなかにある「陣や」で「海鮮丼」を頼み、海の見えるところに陣取り、ゆっくりといただきました。2,040円(税込み)でした。
 とはいえ、ここを出たのは30分後で、もう一度「良寛堂」にお詣りし、その辺りや、今度は海岸まで下りて写真を撮りました。そしてその後も海岸線でなんどか写真を撮り、予定していた分水良寛史料館に向かいました。
 これは今回の旅で楽しみにしていたひとつで、10月13日から11月8日までの期間で「良寛没後190年 良寛墨宝展」を開催していたのです。見始めてから見終わるまで、誰も来観者はなく、心置きなく拝観できました。その中でも、1つはここの資料館所蔵の『三森九木画・良寛賛「良寛打毬の図」』の掛軸です。この説明には「五合庵時代の文化10年頃の毬つきの図で秋田県仁賀保出身の画家三森(増田)九木が描き、良寛が毬の詩を賛したものです。」とあり、良寛さんと同時期の方で、しかも賛までしているのですから、良寛さんもこのようなお顔をされていたことは間違いなさそうです。ところがそのお顔は丸顔で、いつも見慣れた細面ではないのです。そういえば、第20番札所「照明寺」の良寛さんの石像は、この絵に似たようなお顔をされていたことを思い出しました。
 もう1つは、実際に良寛さんが使っていた手毬が展示されていて、「【良寛遺愛の飾りまり】 地蔵堂町中村家に遺されたもの。 良寛はいつも手毬を持ち歩き、子供たちと毬つきをして楽しんだと伝えられています。また、毬つきの詩や和歌も詠んでいます。」と説明されていました。
 もうこれで思い残すことは何ひとつありません。ここを出たのは午後3時10分ごろで、燕三条ワシントンホテルに着いたのは3時35分でした。この日はこの宿で過ごし、翌日には自宅に戻りました。これで、今年の予定していた観音詣りはすべて終わりです。この新型コロナウイルス感染症の拡がりのなかで、1ヶ月近く感染者で出ていないことなどを調べて、旅先でもなんども除菌したりマスクを取り替えたりしながら、33ヵ所の観音さまのお詣りし、移動距離は492.2㎞でした。今年は遠くへは出かけられませんでしたが、隣接する県だけでも貴重な観音堂がたくさんあることを知りました。無事にお詣りできたことに感謝をして、来年以降も元気でお詣りを続けられるよう願っております。

 第19番札所 海嶽山 光照寺 (曹洞宗) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 ここもまた 八重垣作る 出雲崎 大慈大悲の かげをとどめて