◎置賜三十三観音札所巡り◎


☆置賜三十三観音札所巡り Part.01

 平成24年5月1日から10月31日まで、ここ置賜33観音札所の連合ご開帳を開催することになり、醍醐寺の伝法学院で修行した仲間たちと巡拝をすることになりました。7月の総会で実施することに決まり、みんなの意見を集約し、9月4〜5日と二日間の日程でまわることにしました。
 9月4日、朝7時30分まで第24番札所の普門寺さんに集まり、朝茶をいただき、出発しました。時計を見たら午前7時40分でした。さあ、これから置賜33観音札所のお詣りです。
 川井観音には10分程度で着きました。本堂の改築工事の作業車で駐車場が混んでいましたが、なんとか車を駐め、山門から入っていきました。その山門が左側の写真です。
 参道を歩き、左手に観音堂があります。奥の本堂は改築中で、足場などが組まれ、ネットも張られていました。
 観音堂は、案内板によると、桃源院は鬼庭良直が創建し、後に左月公がこの川井の地に桃源院を創建した際に、観音堂もともに茂庭村(現在の福島市飯坂町)から移されたものだそうです。現在のお堂は弘化2年(1845年)に再建されたもので、身代わり観音として信心を集めているとのことです。
 これらのことは「茂庭十三代記」に書いてあるそうで、現在では茂庭ダムができ、その様相も様変わりしていると思います。
 この観音堂は、後ろに小山があり、その手前にあります。そのお堂のわきには湯殿山碑やさまざまに石塔なども建ち、アジサイなども植えられていました。お堂の彫刻も精緻で、ここ米沢市内でよく見られるような龍や獅子、象などの図柄です。もしかすると、その当時の彫刻師の得意なものだったのかもしれません。
 このお堂の近くには、能化水子地蔵尊などもあり、境内地の雰囲気もいいのですが、私たちは朝にお詣りしたので静かな中でできました。でも、工事が始まれば喧噪のなかでのお詣りになるかと思います。いつ落慶するかはわかりませんが、今回の連合ご開帳が終わる10月31日までには無理のようでした。
 お詣りの際には、工事中なので、くれぐれもご注意ください。
 観音堂の斜め手前の建物のなかでご朱印をいただき、午前8時15分には出発しました。
 次は、第33番札所の浅川観音です。

 第23番札所 和江山桃源院 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ごくらくの はしよりみれば はなのもり きぬぎぬやまは のどかなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.02

 9月4日、置賜第33番札所の浅川観音への道を車で走っていると、向こうから自転車に乗った僧侶が来ました。私たちの仲間が知っていたようで、「ご住職、どっかに行かれるんですか?」と窓ガラスを開けて聞きました。すると「拝みに行くんで自分で朱印を押してください」と言われました。ということは、この方が泉養院のご住職のようです。
 駐車場に車を駐め、本堂入口の朱印所で朱印を押し、それから観音堂への石段を上りました。これが置賜第33番札所の二つ目のお詣りですが、第33番札所を先にお詣りするのもなんとなく落ち着かないものです。もちろん、順番にお詣りできればその方がすっきりしますが、ここ置賜第33番札所はほとんどがバラバラです。第1番札所は上小菅ですが、第2番札所は手ノ子にある高峰観音で、最短距離でも18キロほどあります。しかも、この高峰観音はもともと高峰、つまり白川ダムで水没したところから現在地に移築されたものですから、昔はもっと離れていたことになります。そんなことを考えていると、2日ではまわれないので、先ずはまわりやすい順番でまわっているということになります。
 石段の先に建つ観音堂は、朱塗りのお堂で、小高い丘の上に建っています。そういえば、ここは古い遺跡群のあるところで、この観音堂の向かって右手が上面が平らな平壇古墳だそうで、6世紀ごろと推定されています。近くには前方後円墳や帆立て貝式古墳などもあるそうです。
 お堂には第33番札所らしく、金剛杖などが納められていて、昔は何日もかけてお詣りして歩いたその達成感がそのすり減った金剛杖から感じられます。ご本尊は秘仏だそうで、2001年6月に開創1,200年祭が厳修されたときに100年振りにご開帳されたそうです。現在のお堂は江戸時代中期に再建されたものを1954年にここに移築されたそうで、それまでは戸塚山にあったといいます。戸塚山は362メートルですから、お詣りするのも大変だったのではないかと思いながら、石段をゆっくりと下りました。
 駐車場に戻り、時計を見ると8時37分です。次は第17番札所の芦沢観音ですから、いったん国道13号線を走り、赤湯から宮内、そして山越えをして芦沢に向かいました。

 第33番札所 戸塚山泉養院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よろづよの ねがひをここに おさめおく みづはこけより いづるあさがわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.03

 第17番札所芦沢観音に着いたのは、午前9時15分でした。いつもは、国道121号線から西大塚から伊佐沢へのルートを通るのですが、今回は運転をするのが庄内の方で、ほとんどカーナビの指示通りに運転しています。それで、まったく通ったことのない道を進んだのですが、これもまた楽しいものです。
 峠道を越え、それこそあっという間に芦沢観音に着きましたが、車を駐めようにも駐車場がありません。まわりには駐車禁止の道路標識もないので、仕方なく路上に駐車しました。ご朱印所であるマルカン農園の志釜さんに朱印をお願いし、その右わきの参道から上って行きました。
 長い参道の入口には「霊場置賜三十三諸所第十七番 観音寺」と書いた石柱があり、その右わきには昭和十九年十月吉日の日付が入っていました。その先の参道の両脇には石の常夜燈が1対あり、信仰の深さが偲ばれます。さらにその前には堂々たる杉木立があり、一目見ただけで創建の古さが感じられました。これらの杉は「芦沢観音の大杉」と呼ばれ、太いものだと幹まわり5メートル以上はありそうです。
 その石段の先に観音堂がありました。
 観音堂は、もともとはご朱印所になっている志釜さんの先祖が住んでいた下伊佐沢の屋敷内にあったそうですが、先祖がここに移転されたときに観音堂も移築されたそうで、それからも何度か火災に見舞われたそうです。現在のお堂は1723年に建てられたそうで、堂内の棟札からもわかるそうです。
 ご本尊さまは秘仏だそうで、その黒い厨子の前に真新しいような十一面観音像が安置されていて、おそらくお前立ちかと思い、両仏に手を合わせました。
 そして帰り際にもう一度参道から杉木立を望むと、そのひときわ目立つ大杉に、何ともいえない荘厳さを感じました。やはり、巨樹には霊異が籠もっているように思います。その樹が育ってきた長い年月を考え、それに引き替えこれからの自分たちの短い人生を思うと、その凄さがいっそう感じられます。そこで、再び手を合わせ、この観音堂と杉木立が永遠に人々を見守り続けていただけるようにと祈りました。
 志釜さん宅にまわり、ご朱印を受け取り、車に戻りました。
 次は第32番札所の森の観音です。時間は9時35分でした。

 第17番札所 龍寳山雲洞庵 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ちかひあれ さかゆるよよの ためしには なにわのことも よしやあしざわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.04

 第32番札所森観音は芦沢観音から約20分ほどで着きました。場所は長井市森地区で、旧国道287号線から少し入ったところにあり、ここも駐車場がなく路上駐車しました。
 石段の左手前に大きな石塔があり、「當国三拾二番霊所 観世音菩薩」と書いてあり、その石段の両脇に新しめの石製の献燈籠がありました。そして、そこを上りきったところにも大きめの石製の献燈籠があり、とてもよく管理されていると思いました。さらに、その参道の右側にきれいに並んだ小さな自然石があり、それには「庚申」などと刻まれ、ざっと数えただけでも百はありそうでした。後から聞いた話しでは、1920年の庚申の年に1軒あたり1つずつ奉納したらしいということでした。
 その参道の先に、森観音堂はありました。
 その名の通り、杉の森に囲まれたところにそっと建っていました。
 観音堂は、1722年に再建されたという記録があるそうで、遍照寺信周が入仏供養したと案内板には書かれていました。そして、明治初期にもともとの信光寺が廃寺となり、遍照寺に合併されたということです。
 さらに、昭和34年に萱葺きの屋根をトタン葺きに改修し、現在に至っているようです。
 そこで、静かにお経を読み観音さまを念じていると、自然のさまざまな音が聞こえてきました。鳥のさえずりはもちろんのこと、風のざわめきなど、まさに人里離れた聖域のような雰囲気です。
 おそらく、今年は置賜33観音札所の連合ご開帳で多くの人たちがお詣りに訪れているでしょうが、いつもはほんとうに静かな観音堂ではないかと思います。まさに独り占めできそうな感じです。これもまたいい、と思いました。
 下山して、近くの森地区の公民館わきにある朱印所でご朱印を押し、次の第31番札所の五十川観音を目指しました。もう、10時8分でした。

 第32番札所 金剛山遍照寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや おしへにまかす このみこそ ねひくわんのんの ちかひなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.05

 第31番札所五十川観音は長井市五十川にあり、ここの地区は「生僧」といいます。「五十川」(いかがわ)もなかなか読みにくいですが、この「生僧」もそのまま「しょうず」と読むそうで、もとは「正津」と書いていたそうです。ところが、ここで宥日(ゆうにち)上人さまという名僧が生まれたので、それから「生僧」となったということです。由来を聞くと、なるほどと思いますが、それを知らないと、「生憎」(あいにく)と間違えてしまいそうです。
 旧国道287号線沿いに駐車場があり、そこから歩くと、石段前に中型バスが停まっていました。そのわきをすり抜けるようにして、石段を上りました。ところが、まだ参道は続き、墓地や畑のわきを通り、そのまま進むと、またなだらかな石段があり、その左手前にその五十川観音堂がありました。
 近づくとご詠歌の声が聞こえてきて、白装束に身を整えた十数名の巡礼者がいました。広い境内地なので、その手前でお詣りの終わるのを待つことにしました。お堂から聞こえてくるご詠歌も清々しく感じられます。この下にご詠歌も掲載していますが、昔の言い回しで、なかなかストレートに伝わってきませんが、そのゆったりした音韻もいいものです。先達の先導でみんなが声を合わせているようです。目を閉じると、そのご詠歌が四方八方から聞こえてくるようで、それもまたいいと思いました。
 お詣りが終わり、石段を下りてきた巡礼者に「ご苦労さま」と声を掛けると、向こうも「ご苦労さま」と答えてくれました。そして、今度は私たちのお詣りの番です。
 観音堂創建は古く、806年だそうで、現在のお堂は1759年に再建されたものではないかといいます。ご本尊は秘仏で、ご開帳は60年に一度で、前回はちょうど2000年だったそうです。聞くところによると、その身丈は大人ほどもあるそうです。
 お堂の額には「大悲閣」と彫られた文字に金箔が貼られ、さらに数歩進むと、その上には「聖観音」と墨書きされた板が張られ、「明治百年金婚記念」とあり、村上大吉・きよのお二人の名も記されていました。なんとなくほほえましくもあり、なんとなく私らの観音さまという感じもあり、長く守られてきた歴史などを思いました。
 お詣りをすませ、また参道を下ると、来るときには気づかなかった石段のわきに、砂利を敷いた女坂がありました。たしかに、石段を上るのは大変だが、この女坂も下りは滑りそうで、恐そうでした。行きはよいよい帰りは恐い、観音さま詣りも人生も同じようなものです。
 参道から少し右奥に入った村上さん宅がご朱印所でした。
 そして、駐車場に戻ると、すぐそのわきに小さなお堂があり、穴の開いた小さな自然石を吊してあったので、いろいろと推理しながら車に戻りました。
 次は第9番札所の杉沢観音です。ここを10時42分に出発しました。

 第31番札所 桜本山正寿院 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 いかがわと おもふはひとの まよひなり せんじゅのちかひ いつもたへせぬ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.06

 第9番札所杉沢観音に着いたのは、午前10時52分、五十川観音からたったの10分でした。
 いったん国道287号線に入り、そこを少し走ると、右手に産直市場が見えてきます。その先を右手に曲がって置賜33観音札所の連合ご開帳の赤い幟旗を目印に進むと、左手の川向かいに大きなわらじが懸けられた山門が見えました。ここは白鷹町畔藤です。
 この川は「思川(おもいがわ)」というらしく、この川を渡るとすぐに山門があり、その右手に大きな白御影石の石塔があり、そこには「霊場置賜三十三所第九番 観世音」と書かれていました。山門の大きなわらじは約1メートル50センチほどで、ほぼ中央の山門の通りに一足が懸けられ、その脇にも普通の大きさのわらじがいくつも山門の格子に懸けてありました。この大きなわらじは地区民で10年に一度作られるそうで、昨年新しくされたとのことです。
 この山門を向けると、その正面に杉沢観音堂がありました。
 案内板によると、ご開創は大同年間ということで、明治39年に全焼したそうです。
 その翌年には地区民一同により再建され、現在に至っています。お堂近くに切り株があり、それらは倒木の心配から1957年に切られたもののようです。
 ご本尊さまは、明治39年の火災のときに焼け焦げたそうですが、そのまま厨子に納めてご安置してあるそうです。そこで昭和27(1952)年に、長井市出身の彫刻家、長沼孝三氏が彫られた聖観世音菩薩をお前立ちとしています。
 お堂右近くには子どもたちが遊ぶブランコやすべり台があるところをみると、このお堂が近くの子どもたちの遊び場になっています。やはり、子どもたちがいつも観音さまのわきで遊び、観音さまに見守られていることがいいことです。そうして育てば、大人になってからも、苦しいとき大変なときには、観音さまを思い出します。しかも、この観音さまの前の川は「思川」ですから、思い出さないはずはありません。
 私たちも、その思川を渡り、川向かいからもう一度思い返すかのように観音堂をお詣りしました。ここの観音さまは、とてもいいところにお立ちになっていました。
 路上に駐めてあった車に戻り、ご朱印は第22番の広野観音でもらえるとのことなので、そのまま出発しました。
 次は第29番の松岡観音です。11時を少々過ぎていました。

 第9番札所 金峯山永泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よのなかに つくりしつみは おもくとも ほとけのちかひ たのむすぎさわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.07

 第29番札所松岡観音には、杉沢観音から約10分ほどで着きました。ちょうど、川西の人たちも巡礼をしており、本堂でご法話をしていただいたそうで、ご住職もいらっしゃいました。
 そこで、ご朱印をお願いし、先に観音堂にお詣りすることにしました。
 観音堂へは松の木の間をぬうようにして上らなければならないのですが、手すりもあり、つづら折りにもなっているのでお年寄りもなんとか上れそうです。そして、少しずつお堂が見えてくると、もうそこまでという安堵感もあり、なんとか上れてしまいます。
 ここからの眺めはとてもよく、天気の良さも相まってその眺望を楽しみました。その上った先に松岡観音堂がありました。
 ここのご本尊さまは聖観世音菩薩ですが、松岡観音奉賛会が立てた案内板によると、正式には「松岡西向福徳観世音」と書いてあります。もとは宮内の熊野大社に合祀されていたそうですが、明治初期の神仏分離令によりここに移管されたとありました。大きさは約30センチで、御厨子に納められていますが秘仏ではないそうで、今回のご開帳でも厨子は開かれていました。
 やはり、ご開帳されていると、気持ちも改まり、ゆっくりとお詣りさせていただきました。お堂の板壁には「昇り龍」も描かれ、今年は辰年ということもあり、その躍動感あふれる龍にも一礼させていただきました。
 本堂に戻ると、ご朱印ができていて、招かれるままに堂内に入り、冷たい麦茶のご接待を受けました。また、冷たく冷やした胡瓜の漬物もおいしかったです。
 ご住職は先だって曹洞宗の東北地区のツアーでブータンに行かれたそうで、川西町の巡礼の方々へのご法話もそれについてのことだったそうです。私も26年前のブータンのことを思い出しながら、お話しを聞かせていただきました。まさに、先ほどお詣りした杉沢観音の思川のようで、優しい笑顔のブータンの人たちと、真っ青な空とダルシン(祈願旗)のはためきをつい昨日のことのように思い出したのです。
 そして、車に乗り込んで出発しましたが、まだご住職が立って挨拶しておられるのがとても印象に残りました。
 次は、第13番札所の関寺観音です。時計を見ると、11時40分でした。

 第29番札所 補陀山岡応寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 きのふまち けふまつをかに きてみれば あすのまよひも はるるけしきぞ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.08

 第13番札所関寺観音には、松岡観音から10分もかからずに到着しました。ここは白鷹町鮎貝で、十王地区にあります。
 国道348号線を右折し、朱塗りの関寺橋を渡るとすぐの右正面に石段がありました。その石段の左手に円光寺があり、そこをそのまままっすぐに進みます。石段わきには石製の献燈籠や外灯などもあり、今も夜にお詣りするときもあるようです。
 その石段を更に進むと、右にまた石段があり、それを上ると、そらにまた左手に長い石段があり、その先を右に折れると大きな杉の木がありました。その大杉の根元は祠のようになっていて、小さな仏像などが納められていました。聞くところによると、ここの観音堂はもともとコバ葺きでしたが、銅板葺きにするためにここのご神木を2本ほど売ってその建て替え費用に充てたそうです。つまり、それだけ太い杉だったというわけです。その杉の向こうに目指す関寺観音はありました。
 ここのご本尊さまは十一面観世音菩薩ですが、明治5年の火災で観音堂が焼けてしまい、それ以来傷みが激しいことなどから公開はされていないようです。そして、その厨子の右側には金色の三十三体の観音像があり、その火災後に安置されたそうです。
 でも、現在の観音堂は、その火災の翌年には再建されましたから、いかに多くの信仰者に尊崇されていたかがわかります。このお堂も大きく、立派なのに、現在は無住というのがいささか残念です。
 お堂の右には大きな池があり、弁天さまをおまつりしているようでした。もしかすると、もし火災が起きたときに貯水槽になるようにと、すぐわきに池を作ったのではないかなどと勝手に想像しました。
 お詣りをすませ、また長い石段を下り、道路に戻り、その円光寺の左隣の佐藤さん宅でご朱印をいただきました。その入り口に置賜第33観音札所の目印である赤い幟旗はないのに、選挙用の立て看板がありました。それを見ると、この白鷹町の町長さんのようで、この方が関寺観音の手前に陣取っている限り観音さまも安泰ではないかと思いました。
 次は第20札所の仏坂観音ですが、時計を見ると、すでに正午を少しまわって12時14分でした。

 第13番札所 鶏鳴山円光寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 のちのよを ねがふこころは かろくとも ほとけのちかひ おもきせきでら



☆置賜三十三観音札所巡り Part.09

 第20番札所仏坂観音には、関寺橋を渡り、すぐ左折し、位置的には「ふるさと森林公園」の北側にあります。だから、車だと5分程度で到着します。
 だいぶ前にここにお詣りしたときには、長い坂道を上り、まだかまだかと思いながら息を切らせながら上ったことが思い出されます。しかも、駐車場もその入口付近にあります。
 ところが、現在はその駐車場を少し進んだところから左手に林道のようなものがあり、仏坂観音の近くまで車で行くことができます。ただ、駐車場はなく、少し道幅が広くなったところに車を駐めても大丈夫なようです。
 つまり、路駐をして、左手に下ると、すぐに観音堂でした。杉木立に護られるようにして、静かに建っていました。
 案内板によると、昭和43年の豪雪で倒壊し、その材料で再建したので、あくまでも仮のお堂だったそうです。ということは、私が以前お詣りしたのは、そのお堂でした。
 ところが、平成18年に仏坂馬頭観音改築委員会が組織され、地区内外から多くの浄財が寄せられ、平成19年8月8日に落慶式が行われたそうです。今回のお詣りの資料を見ると、馬頭観音がご本尊なのは、ここ仏坂観音と第10番札所宮ノ観音だけのようです。
 ここは、もともとは山形へ抜ける峠の入り口に当たることから、人馬の安全のためにおまつりされるようになったそうです。
 お堂の左側にご朱印所の詳しい道案内が書いてあり、それをもとに、ご朱印所に向かいました。国道348号線に戻り、それを左折し、すぐに右折し、その先の十字路になった左手前に赤い置賜第33番札所の幟旗が見えました。そこが十王院で、ご朱印をいただき、次は第27番札所の高岡観音です。
 ここは観音堂とご朱印所が離れていることもあり、思いのほか時間がかかり、12時46分を過ぎていました。

 第20番札所 宝珠山十王院 (天台宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 のをすぎて やまぢにむかふ ほとけさか みねのうすぐも はるるけしきぞ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.10

 もう少し巡拝してから昼食にしようと頑張って、次は第27番札所高岡観音に向かいました。いったん国道287号線に戻り、黒龍橋を渡り、左折してほどなくして右に上る道がありました。
 右手に赤い置賜第33観音札所の幟旗が見え、道路に駐車して、そこから参道を上りました。穏やかな石段の参道にはヒマワリなどが植えてあり、花を愛でながら歩きました。すると、杉と雑木が混ざった林の間に少し急な石段があり、その両側には夜燈と刻まれた大きな石燈籠がありました。そこからは、丸みのある自然石の石段が続き、その先もつづら折れになっていて、手すりも付いています。もし、足が不自由だったり、雨が降って足下が滑りやすかったりすれば、大変だろうなと思いました。後から聞いたら、ここの石段は160段もあるそうです。
 でも、この日は日差しがなかったのであまり暑くなく、参道の両側もきれいに掃除されていて、気持ち良く上れました。
 その右手の先に、先ほどよりはちょっと古そうな常夜燈と刻まれた石燈籠が両脇にあり、その広く空いたところに高岡観音はありました。
 もともとは南陽市宮内の三掘寺が第27番札所だったのですが、明治9年のとき、三掘寺が羽黒神社になるのを機に、地区の人たちが中心になってその札所を譲り受けたそうです。そういえば、第28番札所は宮崎観音で南陽市にあります。でも、ご詠歌にある「みいけ」というのは、どこにあるのだろうかなどと考えました。おそらく、この置賜第33観音札所の順番がバラバラなのも、おそらくこの明治時代の神仏分離の政策が大きく影響しているのかと思いました。そういえば、先にまわった松岡観世も、もとは宮内の熊野大社に合祀されていたと案内板に書かれてありました。
 今は、ここに大切におまつりされていますが、明治初期の神仏分離令の嵐は思いも寄らないところで、さまざまな影響を及ぼしています。とくにこの置賜札所をまわってみると、強く感じます。
 ご朱印所は第16番札所の近くなので、午後1時10分を過ぎていることから、先にあゆ茶屋で昼食を食べることにしました。ここからあゆ茶屋までは約5分ほどです。

 第27番札所 朝日山相応院 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや だいひのめぐみ ふかければ みいけのなみは しづかなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.11

 第27番札所高岡観音をお詣りし、あゆ茶屋で昼食を食べようと立ち寄ると、急に小雨が降りはじめ、いつの間にか豪雨のような降りかたになってきました。名物のあゆを食べながら、雨のことも心配です。まだ10ヵ所の観音さましかまわってないので、もう少し頑張らないと、明日1日ではまわりきれません。傘は私しか持っていませんでした。
 ここあゆ茶屋に着いたのは午後1時15分で、昼食を食べ、今は午後2時ですから、そうゆっくりはしていられません。
 そこで仕方なく、食事後に荒砥市内まで戻り、コンビニでビニール傘を買い、順番では深山観音をまわる予定でしたが、先にもう少し第27番高岡観音のご朱印をいただき、それから第16番札所の鮎貝観音に向かいました。巡拝してから昼食にしようと頑張って、次は第27番札所高岡観音に向かいました。
 荒砥市内からスポーツ公園を目指し、先に朱印所である「ちょうちん工房 豊邦」に行き、ご朱印をお願いし、その先300メートルほどのところに鮎貝観音はありました。
 道を挟んで反対側に駐車場があり、その石段を上ると観音堂があります。
 ここの泉蔵院の山号を調べてもわからず、聞けばもともと泉蔵院が管理してきたけれど、20数年前に道路整備で本堂が解体され、今では名前だけが残っているということでした。さらに、以前は横田尻地区の飯詰台にあったのを1696年に現在地に移転されたものだそうです。
 石段を登り切ると左手には庚申塔や金剛山などの石塔が並び、その後ろは墓地になっています。観音堂付近は静かで、今年こそは記念すべきご開帳なのでここまで上ってきますが、いつもの年はお彼岸とかお盆とか、地区内の人たちが多いのではないかと思います。私の知る限りでは、九州からここ置賜観音をお詣りされたグループがあります。これはとても有り難いことで、全国各地からお詣りが多くなれば、観音堂の維持管理も少しは楽になるかもしれません。それを期待したいものです。
 不思議と、ここ高岡観音に着くころには、あの強い雨も止んで、傘も必要なくなりました。買ったばかりの傘はほとんど使っていません。ちょっともったいないような気がしないでもありませんでした。
 ゆっくりお詣りし、石段を下り、朱印所に戻り、お願いしていたご朱印をもらい、次の第8番札所深山観音に向かいました。

 第16番札所 泉蔵院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 まつかわの はるばるなみを ながむれば きよきながれに すずしかるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.12

 第16番札所鮎貝観音午後2時40分に出発し、深山観音には約10分ほどで着きました。
 駐車場に車を駐め、参道の入り口に立つと、木の大きな鳥居があり、その先には巨杉並木の間に石段があり、それを上って行きました。その石段の途中から右折すると、ご朱印所があり、先にご朱印帳を預け、書いてもらうことにしました。でも、すぐには書けないということで、書いてあるものをいただきましたが、私はご朱印だけをいただきました。
 それから、また石段まで戻り進むと、萱葺屋根の山門が見え、山号額には「大悲閣」と書かれてありました。そこをくぐると、深山観音です。
 このお堂は、そのやや膨らんだ萱葺屋根がとても優しい雰囲気ですが、これは1981年に改修されたときのもので、それ以前は今とは違っていたといいます。そういえば、数年前にいわきの白水阿弥陀堂にお参りに行ったことがあり、そのときのお堂の姿に似ていると思いました。そこで案内板を見ると、もともとは天台宗観音寺に属し、このお堂も阿弥陀堂建築だそうです。その古風な形を残しているとのことで、文化史的価値が認められ、昭和28年に重要文化財に指定されたとのことです。
 また、昭和29〜31年の解体修理の時の調査で、唐様式虹梁や構造的貫などから、室町時代後期ではないかと推定されたと書かれていました。
 なにはともあれ、ここ深山観音は、置賜三十三観音札所のなかでは、とてもいい雰囲気のあるお堂です。ご本尊さまは火災で損傷したことなどから「菰被り観音」とも呼ばれ、秘仏となっています。その前立ちは一木造りのお姿で、とても素朴な観音さまで、格子の間から拝むことができます。
 雨で濡れた石段を気をつけながら下り、次の第7番高玉観音に向かいました。ここからだと、10分少々かかりそうです。

 第8番札所 大深山観音寺 (天台宗) 本尊さま 千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 のをわけて たのむゆくへは みやまなる つきのひかりは のどかなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.13

 第8番札所深山観音を午後3時17分に出発し、ここ高玉観音には約10分少々で着きました。
 円福寺前の駐車場に車を駐め、先に円福寺の庫裏にまわり、ご朱印をお願いし、観音堂に向かいました。庭にはボタンも植えられていて、おそらく豊山派の本山である長谷寺のボタンの苗でも植えたのだろうかと考えました。考えてみると、だいぶ前に西国三十三観音札所巡りをしたときに長谷寺にお参りしたのですが、そのときはまだボタンが咲いてなくてがっかりしました。でも、室生寺のシャクナゲを見に行ったついでに長谷寺にまわったときには、ぴったりとボタンの開花期とあい、独特な石段の回廊から眺めたことを思い出しました。
 やはり、観音堂の周りには花が似合うと思います。ここ高玉観音も、秋の花のなかにありました。
 ここのご本尊さまは、戦前までは秘仏として公開されたことのない銅造の観音菩薩像で、昭和62年3月に東京国立博物館で開催された「特別展金銅仏」に出陳され、全国に紹介されたことがあるそうです。
 ここの案内板によると、像高は29.4センチ、制作年代は7世紀末の白鳳時代と推定されていると書かれてありました。観音堂の格子の間から見ると、その写真が飾られていて、その様子がわかります。
 さらにその奥には五色の紐が結ばれた観音像があり、その紐を握りながらご法楽をささげ、お詣りをしました。
 そういえば、ご詠歌にある「みねにふく」というのは、もともと円福寺の西の山際にあったからで、そこが火災にあい、今の場所に移転されたのだそうです。
 先ほど、ここにお詣りした方々は、あの大雨にあたり、びしょ濡れだったと聞きました。私たちは、傘をわざわざ買ったのに使うこともなく、ただ持ち歩いていました。
 しかし、お詣りして1ヵ月もすると、あの雨が降って一番大変だった時のことが思い出され、それもいい思い出となっています。天気も良く、何事もないような旅はあっさり忘れてしまいそうですが、天気が悪く、なにかアクシデントに見舞われたような旅は、一生の思い出になるのかもしれません。
 次は、第22番札所の広野観音です。

 第7番札所 御法山円福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みねにふく あらしはのりの しるべにて むじょうのゆめを さますなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.14

 第22番札所広野観音には高玉観音から約5分で着きました。
 ここ広野観音は、最上川にかかる睦橋を渡り、ほどなくして右手の杉木立のなかにありました。そのすぐ手前がご朱印所になっている広翔会館で、そこの駐車場に車を止めました。
 境内地には、新野和泉の墓があり、その立て看板の説明では新野和泉(いずみ)は、諏訪堰の開削で功績のあった人だそうです。さらにその看板には、広野観音堂のことが書いてあり、観音堂は宝永2年(1705)の造立で、本尊は正観音、ここは廃寺になった真言宗長楽寺の境内であったと書かれてありました。
 ここは杉木立に囲まれたところで、その木立の下にはたくさんの石塔がたり、ここが特別なところであることを示しているようです。
 ここのポッカリと空いた空間に、広野観音はありました。
 ここのご本尊さまは、1628年に米沢市内の法音寺から寄進された聖観世音菩薩像で、高さが約45センチ、木造だそうです。
 でも、境内地にある立て看板には正観音とあるのに、由来書には聖観音とあるのは、ちょっと解せません。ちなみに山形新聞社から出ている『置賜三十三観音 巡礼ガイドブック』には、本尊は聖観音と書かれてあり、その写真も掲載されています。また、置賜三十三観音の公式サイトにも、ご本尊は聖観世音菩薩とありますから、おそらくは聖観世音菩薩ではないかと思います。
 ここ広野観音のご朱印所では、第9番札所杉沢観音のご朱印もいただきました。ここには広い駐車場があるので、安心して車を駐めることができます。いくつかの札所では、路上駐車せざるを得ないところもありますが、ここではゆっくり車を駐め、車中でペットボトルのお茶などを飲みました。
 次は第10番札所の宮の観音です。時間もちょうど午後4時ですので、少し急がないと明日が忙しくなりそうです。

 第22番札所 山王山真言院 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 まゐりきて あほげばたかし まつかぜの つきせぬこゑぞ ちかひなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.15

 第10番札所宮の観音は、長井市宮横町にあり、すぐわきには総宮神社もあり、比較的わかりやすいところでした。別当寺でご朱印所でもある遍照寺の駐車場に車を駐めました。広野観音からは15分ほどで着きました。
 鐘楼堂には、大きな看板が掲げられ、そこには「山形県有形指定文化財 馬頭観世音菩薩 置賜三十三観音10番札所 普門坊」と書かれてあり、すぐにわかります。
 そのすぐわきには直江杉と呼ばれる杉の巨木があり、案内板によると、「1598年、上杉景勝が越後から会津120万石に移封され、直江山城守兼続が米沢城に入った際、下長井一ノ宮に参拝し、杉を植え(直江杉)、刀剣を奉納した」と書かれてありました。
 この総宮神社の右側に宮の観音はありました。
 大きな看板に書いてあるように、ここのご本尊さまは馬頭観世音菩薩です。木造で高さが2メートルほど、鎌倉時代に羽黒の運慶という僧が謹刻したと伝えられています。
 普門坊というのは、すでに平安時代には建立されていたそうで、東北地方でも由緒のある寺院だったそうですが、現在は遍照寺が事実上の別当を勤めておられます。ご朱印もここでいただきましたが、庭には白花ハスが咲いていて、ひときわ目立っていました。
 また参道わきには細身ですっきりした宝篋印塔があり、ツタの葉に覆われかけていました。そこには、中央地区文化振興会と中央史談会の連名の立て看板があり、1745年に建てたと書かれていました。
 時計を見ると、もう午後4寺半を過ぎています。
 いちおう、御朱印の受付時間は、置賜三十三観音のパンフレットには午後5時ころまでとなっていますので、次の第5番札所の九野元観音へと急ぎました。

 第10番札所 大悲山普門坊 (真言宗豊山派) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 よもすがら つきをみあげて おがむなり おきのかはせに たつはしらなみ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.16

 第5番札所九野本観音は、同じ長井市の九野本にあり、宮の観音から6〜7分で着きました。
 ここは墓地の左手奥にあり、その右手わきには観音寺本堂がありました。しかし、現在は無住で、管理は長井市今泉の曹洞宗の稲荷山長泉寺がしているそうです。
 さて、お詣りしようとしてお堂の左側を見ると、そこには大きなアカザの杖用と思われるものが奉納されていました。それには、白い布に奉納者の名前が書かれ、十分に乾かしてから杖にするのではないかと思います。
 昔から、このアカザの杖は軽くて丈夫で使いやすいと言われていますが、中風の予防になるともいわれます。これは、アカザ科アカザ属の1年草です。もともとはインド原産で、相当古い時代に中国経由で我が国に食用として渡来したと伝えられています。
 そういえば、数年前に小石川植物園長のすすめで小野蘭山没後二百年記念事業会に入っていましたが、その小野蘭山の『本草綱目啓蒙』に杖としての利用法が書かれています。「肥地に栽ゆれば甚長大にして杖となすべし 然れども葉間に枝を生ずれば形ゆがみて宜しからず 故に務めて嫩枝を摘み去るべし」とあり、杖作りの留意点が記されています。
 ここ、九野元観音でも、ゆっくりとお詣りをさせていただきました。
 ここのお堂は、手前が墓地だが、後ろは杉木立に囲まれていて、いわば屋敷林のようになっています。さらにそのまわりは田んぼで、ちょうど稲穂が黄色くなりかけていました。その真ん中に観音堂があります。何度か建て替えられたそうですが、現在のお堂は1854年に再建されたもので、40年ほど前に屋根の改修が行われたそうです。
 ご本尊さまは伝教大師が謹作されたと伝えられる十一面観世音菩薩で、格子からお詣りさせてもらうと、高さが35〜6センチほどのお姿とお見受けしました。まだ金箔も残り、五色の紐がみ手に結ばれ、今年が特別なご開帳の年だと感じられました。
 ご朱印はお堂の左手側にあり、自分で押し、ご奉納金を箱に入れるようになっていました。また、ご朱印帳の墨書きができないので、それは第21番札所の小野川観音ですることになっています。
 時計を見ると、まだ午後5時前です。ダメ元で次の第4番札所の中村観音に行きました。

 第5番札所 普門山観音寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 くのもとを すくふちかひの ふかければ たのみをかけて あんらくのよに



☆置賜三十三観音札所巡り Part.17

 第4番札所中村観音のご朱印所には、九野元観音から近いこともあり、午後5時ちょうどに着きました。
 中型バスが停まっていましたが、タッチの差で私たちのほうが早かったようで、すぐ御朱印をお願いしました。ここは長岡さんの個人宅の玄関先で押すので、何人も入ってはご迷惑だと思い、私は道路脇に今を盛りと花が咲いているソバ畑を見ていました。このソバ畑の先はずーっと田んぼで、その先の山並みには雨上がりのような霧が湧いていました。
 このご朱印所から1キロほど一般道を走り、そこから右の山手に向かって進むと中村観音がありました。ここは飯豊町中地区にあり、この近くには「どんでん平ゆり園」もあり、トイレはそこを利用するということでした。
 天養寺の本堂は1947年の火災で焼けてしまったが、この観音堂は本堂より高い場所にあったので類焼を免れたそうです。そして1980年に全面解体修理がされ、ご本尊の桂一木造りの聖観世音菩薩も補修されたとのことです。でも、観音堂内の格子には一面に納め札が貼られ、さらにはスナップ写真などもあるので、ご本尊さまは拝顔できませんでした。おそらく、厨子のなかにおさまっているのかもしれません。
 外に出て、観音堂の写真を撮ろうとすると、自動でフラッシュが光りました。自分の眼ではまだまだ明るいとは思っていても、少しずつ夕闇が迫っていたのではないかと思います。
 観音堂の前の石段を下り、第6番札所の時庭観音に向かう途中で、御朱印所の正法寺に電話でお聞きしたところ、まだご朱印は大丈夫とのことでした。
 そこで、今日の最後にもう1ヶ所、観音さまをお詣りすることにしました。

 第4番札所 松尾山天養寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ゆめのよに ふきおどろかす まつかぜを よくよくきけば みのりなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.18

 第6番札所時庭観音には、午後5時35分に着きました。
 ここは一面の田んぼのなかで、なにも目印になるようなものがなく、こんもりとした杉木立があったので車を停めると、その田んぼの真ん中にありました。近くまで農道をそろそろと走り、その農道に駐車し、お堂へと向かいました。
 参道には赤い置賜第33観音札所の幟旗が何本もたち、それが目印にもなっています。参道は約2メートルほどの幅で、両端を丸い川原石で縁取り、歩くところは細い砂利を敷いてあり、とても歩きやすかったです。一部はその丸い川原石が敷き詰められているところがあり、参道が狭められ、それが何を意味するのか、ちょっと不思議でした。
 そこを進むと杉木立の中に入り、その空いたところに時庭観音はありました。
 現在の観音堂は、1768年に再建されたもので、ご本尊さまは痛みが激しいということで厨子におさめられ、そのこともあって1982年に新たに聖観世音菩薩が造られたそうです。でも、それは正法寺に安置されているそうで、ここにはないそうです。
 ここが置賜第33観音札所の第6番に選ばれたのは、上杉景勝の時代だそうです。ということは、この置賜札所をつくられたのは直江兼続公の後室、お船の方というのも頷けます。そういえば、あの大河ドラマの『天地人』でも、お船の方が桑を育てながら糸を紡ぐ庶民といっしょに作業している姿が映っていましたが、それが本当だとすれば、なおさら真実みがあります。
 堂内に白黒の写真が額に入って飾ってありましたが、それを見ると、観音講らしく、70〜80人ほどの人が写っていました。ということは、以前は盛んに観音講が催されていたことがわかります。
 しかし、今は人も少なくなり、いつでも何処へでも手軽に出かけることができるので、楽しみも多くあります。昔は、それこそ観音詣りが数少ない楽しみの1つだったようです。今日1日、観音さまをお詣りして歩きながら、巡礼だからこその楽しみがあると思いました。そして、修行仲間と歩いているのですが、さらに観音さまもいっしょに付いていてくださるのではないかとさえ感じました。杉の木や松の木の梢を渡る風の音にも、そっと耳を寄せました。その時、私たちはこの大きな自然のなかで生かされていると強く思いました。
 いくらご朱印所に連絡をしてあるからといって、あまり遅くなっては迷惑です。ここを午後5時45分に発って、正法寺でご朱印をいただき、今晩の宿である赤湯温泉の瀧波に向けて車を走らせました。

 第6番札所 大雄山正法寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 にはをたて つちをたたへて ときにわの まへのこぼくも じやうどなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.19

 赤湯温泉の瀧波に1泊し、翌日は午前7時に朝食をいただき、8時少し過ぎに出発しました。せっかく赤湯泊まりなので、すぐ近くにある第12番札所赤湯観音に行きました。
 車だと烏帽子山公園の駐車場に駐車し、そこから公園の東側にある観音堂まで歩きます。ここ烏帽子山は桜でも有名で、春は桜、秋は菊ですが、ちょうど今年の南陽の菊人形は100回目を迎えるそうで、10月20日から11月11日までの日程で南陽市民体育館敷地内にある「南陽市中央花公園特設会場」で開催されるそうです。
 その烏帽子山公園を抜け、観音堂まで歩くと、そのすぐ手前に「弘法大師石像」があり、たしかここ東正寺は曹洞宗なのにと思いながら、石に刻まれた「赤湯温泉の由来記」を読むと、赤湯温泉の由来についての諸説の1つに、二色根薬師寺と弘法大師説というのがあるそうで、それで納得しました。また、赤湯の「赤」は仏前に供える「閼伽」(水のこと)からきたともいわれるとか、だから昨日泊まった瀧波の旅館でも温泉を飲む場所があったのかと、改めて思い返しました。
 赤湯観音には、白装束の巡礼者がすでにお詣りしていて、次の巡礼者が待っていました。
 そこで、先にご朱印所である東正寺に行くと、ここにも添乗員の方がご朱印をいただいていて、すぐにはご朱印をいただけないようです。そこで、境内地をぶらぶらしていると、紅白のサルスベリが対で植えられていました。このサルスベリは、ミソハギ科サルスベリ属で、漢字で書くと「百日紅」です。これは百日ほども花を咲かせ、楽しませてくれるところからこのように書かれるようになったということです。原産地は中国南部で、日本には江戸時代に渡来したといわれていますが、ある説では更に古く、鎌倉時代ではないかともいわれています。よくお寺に植えられるのは、すべすべした幹肌がシャラノキに似ているので、仏縁の花として考えられたからではないかと思われます。
 何気なく本堂を見ると、丸い円盤のようなものがちょこまかちょこまかと床の上を動いています。それがお掃除ロボットでした。器用に経机の下もしっかり掃除をしているようです。このお掃除ロボットで大まかなところを掃除し、後は人が丁寧にすれば効率的だと思いました。やはり、何でも使い方次第のようです。
 ご朱印をいただき、観音堂に戻ると、まだご詠歌を唱えていました。そこで、お堂の下からいっしょにお詣りさせていただき、次の第28番札所の宮崎観音に行くことにしました。というのは、おそらく、この二組の団体は長谷観音に行くと聞いたからです。
 ここ赤湯観音を出たのは午前8時45分でした。

 第12番札所 新湯山東正寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みなかみは いづくなるらん わかまつと きけばこころも さかりなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.20

 第28番札所宮崎観音には午前9時ちょっと前に着きました。考えていたように、お詣りは私たちだけのようです。
 さっそく参道手前の駐車場に車を駐め、石の鳥居のあるところから石畳の参道を歩くと、とてもきれいに整備され、いくつも新しい石の常夜灯がありました。その間には小さなお地蔵さまがところどころにまつられ、さらにその付近にはアジサイも植えられていました。長い参道ですが、ほんとうに気持ち良く歩くことができました。
 観音堂近くには、さらに小さなお地蔵さまがまつられていて、その赤い前掛けがひときわ目立ちます。その参道を右に折れると、その先に宮崎観音がありました。
 観音堂の左手内側に釣り鐘があり、ちょっと不思議に思いましたが、そういえばご詠歌に「みやざきてらの かねのこゑ」とあるのがこの釣り鐘ではないかと思い至りました。聞くところによると、1804年に奉納された釣り鐘は、先の大戦で供出され、現在のこの鐘は1985年に地元の方々のご寄進で復元されたとのこと、やはりここには鐘が似合うのでしょう。
 ご本尊さまは、木造の聖観世音菩薩で、50年に一度のご開帳で、最近では1976年の聖観音鎮座300年祭のときだったそうです。
 静かにお詣りをし、また長い参道を歩き、ご朱印所である綱正寺でご朱印をいただきました。ご朱印をいただく間、本堂でお勤めをさせていだき、さらには子ども図書館にも案内してもらい、地元の人たちの心の支えになっていることを実感しました。まさに、信仰が生きていると思いました。
 とくに、ここのように子どもたちが気軽にお寺に来れるようにすることは、とてもいいことです。子どものときから、仏さまとふれ合えば、絶対にいじめなどという問題は起こらないでしょう。
 いろいろな思いを懐きながら、次の第30番札所の長谷観音に向かいました。時間はちょうど午前9時30分でした。

 第28番札所 日祥山綱正寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なみのおと みやざきてらの かねのこゑ にせあんらくと ひびくなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.21

 第30番札所長谷観音のご朱印所は、南陽市宮内市内の宝積坊です。熊野大社の石畳参道の左手にあり、先ずそこに寄り、ご朱印を頼んで長谷観音まで行くことにしました。
 いつもは、左手に熊野大社参道の石段を見て、そのまま細い道をほぼ直進するのですが、あいにく道路工事中でした。このことは宝積坊のご住職に聞いていたので、その右側の細い道を入り、住宅地を進み左手に折れると、いつもの道に出ました。そこでそれを右に曲がり、そのまま進みます。道の両側は草が伸び、車に擦るかと心配でした。さらに進むと、今度は道のわきの枝が垂れていて、これまた車の屋根にすれすれでした。その道の右側に小さな駐車場がありました。
 さらに進むと左側に大きな石灯籠があり、そこに石段がありました。少し上ると、左側に「長谷観世音」とご詠歌の書かれた石塔が立っていて、その先には石の鳥居がありました。
 滑るから注意と書かれたものがあるところをみると、雨の時などは滑りやすいようです。でも、アルミ製の手すりがあり、それをつかみながら上れば安心です。さらに上ると、山門があり、懸額には「二王門」と書かれていました。そこをくぐり、右手を見ると、参道の両側に狛犬がいて、その先に長谷観音がありました。
 現在の観音堂は1827年に再建されたもので、上杉家が秘蔵していた行基作の聖観音を新たな本尊として祀ったそうです。お堂の中には、以前許可をいただき入堂させてもらいましたが、絵柄の格天井で、内陣も金箔貼りのりっぱなものでした。このあたり一帯は、熊野権現の霊域であったことを感じされるに十分な雰囲気を持っているお堂でした。それは、お堂のまわりの木の切り株を見てもわかります。
 静かにそっと手を合わせてお詣りし、もともとのご本尊さまが慈覚大師自らが刻まれた観音さまだったことなどを思い出しました。それが火災で焼失したのは致し方ないでしょうが、この山の中でなぜ火災が起きたのだろうかと考えました。
 そして、石段を下りながら、何かを考えながら足を滑らせてもと思い、余計なことは考えないことにしました。
 また、車に乗り、宝積坊でご朱印をいただき、寺域内にある観音さまにもお詣りし、次の第18番札所の新山観音に向かいました。時刻はちょうど午前10時でした。

 第30番札所 珠宮山宝積坊 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いつみても かわらぬ色は はせでらの こけもひかりて なほもますなり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.22

 第18番札所新山観音は南陽市漆山にあり、あの「鶴の恩返し」の民話の故郷でもあります。ここには午前10時15分に着きました。
 駐車場に車を駐め、石段を上ると右手に大きな山門と珍蔵寺の本堂が見えます。その庫裏にまわり、ご朱印をお願いし、新山観音へと向かいました。
 ここは珍蔵寺本堂と反対側のちょっと狭い石段を上ると、さらに右に折れ、その先に石の鳥居があり、そこをくぐり、さらに進むと右手に石段と山門があります。
 その山門の懸額には「寳新山」と書かれていて、その両側には大きなわらじが掛けられ、さらに小さなわらじもたくさん掛けられています。ここまで上ってこられるだけの足の丈夫さを願っているのかもしれません。
 ここ南陽市にある置賜三十三観音札所の参道には石の鳥居があり、明治以前の神仏混交の歴史が偲ばれます。昔は神も仏も同じところでいっしょにまつられていました。それが当たり前だったのです。いや、むしろ神も仏も人も生けとし生けるものすべてがいっしょに仲良く一つの土地にいたのです。それが今の共生の考え方に近いと思います。
 そのようなことを考えながら、その石段を上り、山門をくぐると新山観音がありました。
 観音堂は置賜地方に多い造りで、鰐口も立派でした。その鰐口の上の彫刻が観音さまの飛天のようで、彩色され、きれいに残っていました。その下には波間に飛び立つ龍が彫られ、これにも彩色が残っていました。
 観音堂には、巡礼札がたくさん貼られ、ほとんど内陣が見えませんでした。それでも一カ所からなんとか拝むことができ、宮殿造りの厨子の前に金色の観音さまが鎮座され、その右手に五色の紐が結ばれていました。
 それで改めて堂前に出ている五色の紐を握り直し、深く観音さまとの縁を結びました。
 これこそが、ご開帳の良いところです。お姿をいただき、この五色の紐で縁を結ぶことができ、しっかり三十三観音を巡ることができ、いつも観音さまが護ってくださるようにお願いをする、それが連合ご開帳だと思います。ここ置賜観音札所は秘仏も多いのですが、それを無理にご開帳するのではなく、そこにいらっしゃる観音さまと五色の紐を通して縁を結べることが素晴らしいことです。
 ここでもゆっくりとお詣りさせてもらい、ご朱印をいただき、次の第3番札所の黒沢観音に向かいました。時計を見ると午前10時40分でした。

 第18番札所 鶴布山珍蔵寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なにごとも おもふこころは まるかれと むかしもいまも ここはにゐやま



☆置賜三十三観音札所巡り Part.23

 第3番札所黒沢観音は飯豊町黒沢にあり、新山観音から約20分ほどで着きました。
 昨日はこの近くの第6番札所の時庭観音で午後6時を過ぎたので、今日にまわしたのですが、地図で確認すると数分しかかからない距離のようです。ここのご住職は置賜三十三観音札所会の会長さんをつとめられていて、山形新聞社から出版された『置賜三十三観音 巡礼マップ』の「ごあいさつ」のなかで、「開創より約350年の歴史の中で初めてのご開帳です。置賜三十三観音は地域の人々の手により大切に守られてきた、素朴でありながらも厳かな観音霊場です」と書いておられます。
 約350年の歴史のなかで最初のご開帳ですから、そこをこのようにして巡礼できることも、奇遇といえるかもしれません。ほんとうに有り難いことです。
 駐車場に車を駐め、山門をくぐると、正面に本堂があり、その手前に白御影石の六地蔵菩薩がまつられ、その左側が観音堂への参道になっています。その参道の両側には置賜三十三観音の幟旗が8本ずつ等間隔に立てられていました。
 その先に黒沢観音はありました。
 観音堂の懸額は「圓通堂」とあり、現在の観音堂は1916(大正5)年に建立され、1931(昭和6)年には米坂線の鉄道敷設工事でやむなく現在の地に移転されたとのことです。その距離は1500メートルほどで、冬の雪の多いときに移動したそうです。そういえば、昔はクレーン車などの重機がないので、重いものを冬場にソリなどで運んだと聞きます。冬場のこととて、その作業は大変だったと思いますが、篤き信仰の心がそれを可能にしたのだと思います。
 ご本尊さまは、木造の聖観世音菩薩で、きれいに金箔が残っています。なかを拝むと、身丈は約30センチほど、とてもきりっとしたお姿です。その右手にはご開帳記念の五色の紐が結ばれ、外まで伸びています。
   その五色の紐をしっかりと握り、祈願を込めました。
 堂内には今年に94歳の方から奉納された千羽鶴もあり、今も信仰者の息づかいが聞こえてくるようです。まさに350年前にお詣りした方たちと現代の私たちにも同じような信仰の灯火がともっていると感じることができました。
   お詣りし、そしてご朱印をいただき、車に戻り、次の第11番札所の萩生観音へ向かいました。
 次は第11番札所萩生観音です。時計を見ると、午前11時16分でした。

 第3番札所 曹伯山高伝寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 まゐるより たのみをかけて くろさはの はなのうてなに むらさきのくも



☆置賜三十三観音札所巡り Part.24

 第11番札所萩生観音は黒沢観音と同じ飯豊町にありますが、ここは萩生です。しかも寺分という集落だそうで、近くには「どんでん平ゆり園」もあります。
 黒沢から15〜6分でご朱印所に着きましたが、あいにくご住職はいないようです。墨書きはできないとあきらめかけたとき、ジムニーに乗った方が来て、ご住職ということで、ご朱印をお願いし、観音堂に行くことにしました。
 狭い道を抜け、田んぼのなかを走り、右手に進むとその先に石段があります。石段の両脇には置賜三十三観音の幟旗がたてられていて、その石段の上には新しいような大きな石灯籠が一対、奉納されていました。
 その先に萩生観音はありました。
 観音堂の懸額には「長手拾壱面観音堂」とあり、そこを上ると座ってお詣りできるようになっていました。鰐口をならすにはちょっと窮屈ですが、ゆっくりお詣りするにはいいようです。おそらく、近くの方などは、ここに座り、時間も忘れて静かに手を合わせているのかもしれません。ほんとうは、時間に追われながらご朱印をいただき、すぐ次の観音さまに向かう巡礼もいいのですが、ここに座り、ゆっくりとお詣りするのもまたいいことではないかと思います。
 おそらく、今年はご開帳だから多くの参詣者が訪れると思いますが、いつもの年なら1時間手を合わせていても、誰にも邪魔されないかもしれません。
 もともとはご詠歌にもあるように、長手山の山頂に建てられていたそうですが、いろいろな理由から、1712年に現在の地に移転され、文政年間に改築されたそうです。
 ここのご縁日は7月10日で、毎年祭礼を開いているそうで、ここの人たちの心のよりどころになっているようです。
 ただ、お堂とご朱印所が離れていることもあり、ちょっと不便なところもありますが、信号があるわけでも、駐車禁止のサインがあるわけでもないので、気楽にゆっくりお詣りすればいい、と思いました。どこの道を曲がろうとも、少しばかり遠回りしたとしても、必ず観音堂に行けます。
 観音堂から、再びご朱印所に寄り、ご朱印をいただき、次の第2番札所の高峰観音へと向かいました。

 第11番札所 大光院瑞雲寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ちちははの めくみもふかき なかてなる ほとけのちかひ たのむなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.25

 第2番札所高峰観音は萩生観音と同じ飯豊町にありますが、ここは手ノ子です。
 萩生観音のご朱印所を出たのは午前11時50分で、ここに着いたのはちょうど12時ですから、10分しかかからなかったことになります。国道113号線から手ノ子橋を渡って少し進んでから左折し、その新しい道路を少し走ると右手に手ノ子幼稚園があり、そのすぐ隣です。
 先にお詣りしていた方たちがいるので、先ずはご朱印所にまわり、ご朱印をお願いいたしました。どこでもすぐに朱印と墨書きができるわけでもないので、このときばかりはちょっと気がかりです。
 庭にはハギが盛りで、白花ハギもあり、風に揺れてとてもいい風情でした。まだキキョウが咲いていて、ヤマユリの種子とヒオウギスイセンの種子もだいぶ膨らんでいました。アズマシャクナゲの大きな株もあり、そういえば、この先の飯豊山に自生地があることを思い出しました。
 その庭を取り囲むように源居寺本堂と庫裡があり、その左手側に高峰観音はありました。
 もともとこの観音堂は高峰にあり、ご詠歌にあるようにはるばる行くような遠い道のりの先だったのですが、1971(昭和46)年に白川ダムが作られることになり、移転されたものです。もし、移転されなければ、水没することになったそうです。
 ご本尊さまは、伊達家から賜った十一面観音菩薩で、約4センチほどのお姿だそうですが、お堂のなかに伸びた五色の紐が小さな金色の厨子に納められたお姿に結ばれていました。そのご本尊さまの上の壇には50センチほどもある観音さまが安置され、その両脇にも小さな観音さまがたくさんまつられていました。
 ここのように、格子の間からでもご本尊さまや内陣の仏さまが拝顔できるのは、とてもありがたいものです。これこそ、ご開帳です。
 ここは、とても雪が多いところだといいますから、観音堂の管理も大変だろうと思います。でも、今年のご開帳のように、県外からも多くの参詣者が訪れれば、護り甲斐もあろうと感じました。先の参詣者のご詠歌を聴きながら、しばし、高峰にあったであろうときのことを想像していました。
 次は第14番札所の置霊観音ですが、時計を見ると、すでに12時を過ぎています。そこで、そこへの途中にある「道の駅いいで めざみの里」で昼食にすることにしました。
 ここに到着したのは12時25分で、ここを出発したのは午後1時5分でしたから、40分のしばしの休憩と食事でした。

 第2番札所 珠淋山源居寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ふるさとを はるばるここに きてみれば のりのしるしは あらたなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.26

 第14番札所置霊観音は川西町上小松にあり、「道の駅いいで めざみの里」からすぐに右折して飯豊山麓育成牧場のわきを通り、諏訪峠を越えて川西町に入ります。
 大光院は川西町ダリヤ公園の東側にあり、由緒のある寺院です。置賜三十三観音霊場の名前の「置賜」という地名も、この「置霊」からきているのではないかとさえ言われています。この置霊という名称は、集めた小さな石にお経を書き、それで塚を築き、亡くなった方たちの追善供養のためにそこに卒塔婆を立てたことに由来するそうです。現在でも、ここのすぐ近くに火葬場がありますから、まさに仏さまの場所ということになります。
 ここでも、先着の参詣者がご詠歌を唱えておられたので、先にご朱印所に行き、ご朱印をお願いしました。折良く、ご住職がおられ、すぐに朱印と墨書きをしていただきました。
 この大光院の裏手は広い墓地になっていて、その手前に置霊観音はありました。
 観音堂は数年前に銅板葺きに改修され、さらにその翌年にはお堂の前の石段が新しくなり、その石段の左側手前には「置賜観世音」、そして右側には「十四番札所」と刻まれ、真ん中には手すりが設けられ、とても上りやすくなっていました。
 堂内の宮殿造りの厨子のなかには三体の仏さまがおさまり、その真ん中奥にご本尊さまの聖観世音菩薩が安置され、その右手に五色の紐が結ばれていました。その厨子のわきには、六観音がまつられています。
 さらに新しいような仏さまもあり、その手前に「納札 納経」の紙箱がありました。おそらく、お堂のまわりに張られた納め札などは、このなかに一時納められるのではないかと思います。このように、お堂がすっきりと見えるので、きれいに掃除されているのがわかります。
 先の参詣者のお詣りが終わって、すぐに私たちもご法楽を捧げました。
 もし、時間でもあれば、近くの川西ダリヤ園にもまわりたいのですが、意外と巡礼の旅は忙しいものです。昔の人たちの巡礼のように、何日もかけてまわるのであれば1ヵ所でゆっくりできるのですが、1泊2日で33観音すべてをまわるのですから、それなりに慌ただしく感じられます。本当は、慌ただしい毎日の生活から離れて心の旅をするのが巡礼でしょうが、そう建前ばかり考えていてはなかなかできなくなってしまいます。先ず、行ってみよう、と考えると実行もできます。
 さあ、次は第1番札所の上小菅観音です。時間も午後1時35分です。

 第14番札所 松光山大光院 (新義真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いついろの くものうちなる つきをみて こころはここに おいためのやま



☆置賜三十三観音札所巡り Part.27

 第1番札所上小菅観音は、置霊観音から約5分ほどですが、ここはその名の通り米沢市広幡町上小菅にあります。
 ちょうど広幡小学校のわきにあり、長い参道はその小学校の建物沿いに通って行きます。入口にはたくさんの置賜三十三観音の幟旗が立ててあり、すぐにわかります。
 ただ、駐車場がないので、道路の広くなったようなところに路上駐車したのですが、ここは旧道で、近くを国道287号線が通っているので、比較的車の往来は少ないようでした。先にお詣りしていた参詣者の中型バスも路駐なので、仕方なく右習いをした格好です。
 長い参道の先に、樹齢450年ともいわれる米沢市指定天然記念物の大ケヤキがあり、それを迂回するかのように石畳があり、その正面からは石段になっていました。その石段の両脇に石灯籠があり、その先に上小菅観音はありました。
 観音堂には、やはり参詣者がご詠歌を唱えていて、なんどもお詣りが重なったので、そのわきでお詣りさせてもらいました。そのご詠歌を聴きながら、もともとはこの奥の観音山の中腹に建っていたそうで、江戸時代中期に現在地に移されてきたことなどを思いました。おそらく、山深いとお詣りも大変ですし、管理をするのも難儀です。「あらし」があれば、なおさらのことです。
 ご本尊さまは千手観音さまですが、クスノキで造られたそうで、秘仏になっています。ここは置賜第1番札所、やはり他の札所とはなんとなく違います。何事も最初が肝心、だと思います。おそらく、そのような気持ちは私だけではなく、他の人たちもそう思うはずです。
 そういえば、ここの観音堂の裏手の山には、置賜三十三観音すべての石仏がまつられています。時間的な余裕はないので、ここから遙拝させていただき、また時間のあるときにゆっくりお詣りさせていただきたいと思いました。
 先にお詣りをすませ、そこから300メートルほど離れたご朱印所に行きました。何台かの車があり、一般宅の玄関先なので狭く、ご朱印所も大変だと感じました。ここでは墨書きができないということで、他の札所のご住職がいらっしゃるところにお願いするそうです。
 ここでご朱印をいただき、次の第25番札所の赤芝観音へ向かいました。車が混まなければ、ここから15分程度で行けると思います。

 第1番札所 萬嶺山金松寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ふだらくや あらしをきけば のりのこゑ いわまのしみづ ひびくおほさわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.28

 第25番札所赤芝観音は、私の自宅から車だと3分ぐらいです。学区も同じですし、私の在学中のPTA会長さんはここ竜性院の前ご住職さんでした。上小菅観音からは15分ほどで着きました。
 ここは小野川に行く道沿いで、ご朱印所の竜性院の左手先にあります。以前は本堂のすぐわきにあったのですが、本堂建て替えのときに少しだけ移転され、お堂の手前に駐車場もつくられ、広くなっています。
 その駐車場に車を駐め、先にご朱印所にまわりました。というのは、ご本尊さまが本堂に安置され、いつでも直接お姿を拝見できると聞いていたからです。そこで、本堂に上がり、ご法楽を捧げ、それから観音さまの厨子の前でお詣りしました。すると、ご住職は、直接お手で触れてもいいですよ、と言われました。ここ置賜三十三観音札所のなかで、ご本尊さまに直接お手を触れられるところは他にありません。そこで、せっかくのことですので、ほんのちょっとだけ触れてみました。なんか、穏やかに話しかけてきそうな雰囲気です。そんなこともあって、ここだけはご本尊さまの写真を載せました。
 ご本堂でゆっくりお詣りし、ご朱印もいただき、それから観音堂に行きました。
 このお堂はいつ建てられたのかなどの詳しい資料は、別当の竜性院が1913(大正2)年に火災にあったので焼失したということでした。ですから、本堂でお詣りさせてもらったご本尊さまも、誰がつくり、ここにどのような経緯でおまつりされるようになったのかなど、なにもわからないというお話しでした。
 このお堂は北向きで、ちょうど西日が斜めから射してきます。なかなか写真を撮ろうにも難しく、何枚も撮りました。昔のフィルムカメラなら、カメラ屋さんで現像をしてもらわなければ出来具合はわからなかったのですが、今はほとんどがデジタルカメラです。撮ったその場で、ある程度のことはわかります。しかも、後からいくらでも画像の補正はできるので、撮るのも気楽です。でも、気楽に撮ったものは、やはりあまり良い出来でないことも多く、しっかりとそんなことを考えながらシャッターを切ったつもりです。
 次は第21番札所の小野川観音です。もう、ここからはすぐのところです。

 第25番札所 羽黒山竜性院 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あはれみの たのむほとけは あかしばの ふもんのみかげ なをもあらたに



☆置賜三十三観音札所巡り Part.29

 第21番札所小野川観音は、その名の通り小野川温泉にあります。
 その温泉地から右に折れ、塔の原橋を渡ると、甲子大黒天本山の案内板があります。そこを左手に上ると駐車場があり、そこに車を駐め、観音堂まで歩きます。
 ちょうど参道右手のブロック壁のところに、西洋アサガオの「ヘブンリーブルー」などが植えられていました。ここはブロックだけの殺風景なところなので、今流行のネットを張ってツルを絡ませたのです。それを眺めながら、甲子大黒天本山の大きな唐金製の大黒さまを拝み、さらに上ると、右手に観音堂が見えてきます。まわりには、たくさんのシャクナゲが植えられていて、まさにシャクナゲの中に建っているという感じです。この先は小町山自然遊歩道になっていて、日本のシャクナゲだけでなく、ヒマラヤや中国などのシャクナゲも植えられています。そして、この小町山には1845(弘化2)年と刻まれた「草木供養塔」があります。今年の3月29日に米沢市の有形民俗文化財に指定されました。
 ここに小野川観音はありました。
 観音堂は、甲子大黒天本山の神殿が改築された1983(昭和59)年の甲子歳の前年にすぐわきから移転されました。その前はあまりわからないようですが、ご詠歌にも「おのがわのさと」とありますから、明治時代にはここにあったようです。もしかすると、明治初期の神仏分離令や廃仏毀釈の影響もあるのかもしれません。
 お詣りした方はわかるかと思いますが、ここの置賜三十三観音札所のお堂の造りはほとんど同じで、大きいか小さいかだけの違いしかないように見えます。ここ小野川観音のお堂はとても小さいので、正面は格子になっていて、そこからお詣りするようになっています。今回の特別ご開帳で、側面の板戸をあけていますが、期間中はそこから入ってお詣りできるようになっています。
 小さなお堂から出ると、隣の甲子大黒天本山の神殿がとても大きく感じられます。
 また、ここからだと小野川温泉が一望できますし、天気がよければ吾妻山もよく見えます。この日はとてもすっきりと吾妻の峰々が見えました。
 お詣りが終わってからご朱印をいただき、次の第26番札所の遠山観音へと車を走らせました。小野川観音の駐車場で時計を見ると午後3時ちょうどでした。
 先ほどまわった赤芝観音を過ぎ、米坂線の踏切のすぐ手前を右に入りました。

 第21番札所 小町山宝珠寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや だいひおふこの のりのみち ちかひもふかき おのがわのさと



☆置賜三十三観音札所巡り Part.30

 第26番札所遠山観音は、第19番札所の笹野観音に向かう道筋を右折し、少し上ると駐車場があります。そこに車を駐め、すぐわきの石段を上ります。
 上りきったところをさらに進むと米沢藩主上杉綱勝が手植えしたと伝えられる樹齢300年ほどのトラノオモミがあります。これは山形県の指定天然記念物で、樹高は26メートルほどあります。
 その手前を左折すると、すぐに観音堂が見えます。その手前にも、さらには墓地周辺にもオミナエシが真っ盛りで、まさに秋の風情が感じられます。このオミナエシは秋の七草に選ばれていますが、今は絶滅危惧種に指定されるほど、野生種が減少しています。地方によっては盆花とも呼ばれ、切り花を仏前に供えるところもあり、そういう意味では、お寺にふさわしい花かもしれません。
 そのなかに、遠山観音はありました。
 観音堂の右手には米沢市指定文化財であることを示す市教育委員会の案内板があり、それには「西明寺木造十一面観音座像、昭和63年1月26日指定」とあり、製作年代は天正16年と確認されていると書かれてあります。また像高は87.8センチとあり、寄せ木造りだそうです。
 このような案内板があると、とてもわかりやすく、とても参考になります。お堂の左手前にはロウソク立てがあり、ロウソクに火を灯すとガラス戸を閉めることができ、安心してお詣りできます。これはいいと思いました。
 また、お堂の左柱には、外灯もあり、少しばかり薄暗くなってもお詣りできそうです。格子にはたくさんの納め札が張られ、今年のように多くの方々がお詣りされるとすぐに貼るところがなくなってしまうので、納め札の箱も用意されているといいのにと思いました。
 遠くからオミナエシの独特な匂いがしてきます。ご朱印所にまわると、その庫裡の手前に弘法大師像が建立されていました。そのわきの石柱には、弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念と書かれてあり、それから考えると1984(昭和59)年だと思われます。
 車をここの庫裡の前まで横付けしてもらい、帰りは楽に下りました。そして、次は第19番札所の笹野観音に向けて走らせました。

 第26番札所 恵日山西明寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 とふやまに いそげばちかし みほとけの おしへにまかす ちかひなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.31

 第19番札所笹野観音には、遠山観音から約5分ほどで到着しました。ここは米沢市の笹野本町で、まさに笹野観音のお膝元です。
 200mほど手前から右折すると、その先に駐車場があります。そこに車を駐め、アジサイの道を進みます。ここはアジサイ寺としても有名で、6月下旬から7月中旬ころまでは、とくに賑わいます。
 もともとは、前住職の弟さんが植えていたのを見てこれはいいと植えはじめたもので、私もだいぶ前にここの場所を借りて、「あじさい茶会」をしたことがあります。その当時はちょうどよい大きさで、花数も多く見事で、雨上がりのしっとりした雰囲気を今でも覚えています。やはり、アジサイには露が似合います。
 改めて山門まで下り、そこから歩くと、参道の両脇はアジサイが大きく育ち、左手には手洗い場があります。右の小道を進むと小さな石仏がたくさん祀られています。
 そのまままっすぐ進むと、その正面に大きな萱葺き屋根の笹野観音のお堂がありました。
 案内板には、806(大同元)年に本堂が建立され、その4年後の弘仁元年に入仏供養が行われたとあります。もちろん、お堂は何回か再建されていて、現在の建物は13代上杉斉憲が藩内から多くの喜捨を集めて再建されたものだそうです。
 ちょうど、この日で今年の萱屋根の修繕が終わったようで、職人が足場の撤去作業をしていました。これだけの堂宇を維持管理するのは大変だろうと思います。聞くと、萱葺き職人さんも県外からやって来ているそうで、そのカヤを集めるだけでも大仕事です。
 ご開帳ということで、堂内に入ってお詣りさせてもらい、ご本尊さまの千手千眼観世音菩薩に念入りにお経を上げさせてもらいました。左側には毘沙門天、右側には地蔵菩薩がまつられ、いずれも木彫のようでした。このお堂のように大きなところなら、このように中に入ってお詣りもできますが、ここ置賜三十三観音札所の多くはこじんまりとしたところが多いように思いました。それは、冬の雪が多いということや少ない地区の方々によって守られてきたという土地柄などもあり、もともとは外からお詣りするようにできています。
 今回、三十三観音札所全てを巡拝し、それぞれにお堂を守っていく大変さは同じだと感じました。大きいところは大きいなりに、小さなところは小さなところなりに、いろいろの大変さがあります。それでも、350年ほどの歴史があり、このように守られてきたからこそ、今回の特別ご開帳ができたのです。これは、とても有り難いことだと改めて思い至りました。
 おそらく、今回が最後ということではなく、これからもお堂を守り、そしてまた、ご開帳があるのではないかと思います。その時は、何歳になっているかわかりませんが、今回歩いた仲間とまたいっしょにまわりたいと、ここ笹野観音で祈念してきました。
 帰り際にご朱印所にまわり、それから駐車場に戻り、次の第15番札所の火の目観音に向かいました。

 第19番札所 長命山幸徳院 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 まいりきて いまはのぞみの ささのやま にわのきぐさも るりのひかりぞ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.32

 第15番札所火の目観音は、米沢市内の本町にあり、南米沢駅に行く角のところにあります。第19番札所笹野観音からは5分程度のところです。
 乗用車なら、石塔の間を入って車を駐めることがてきます。昔は大きな境内地で、そこにこれまた大きな池があり、そこにアヤメが咲くころには大勢の参拝者が訪れたといいます。20年ほど前に一時廃寺になってしまったのを第14番札所の大光院が現在は別当を兼務しています。
 車を駐めたすぐ前に、火の目観音はありました。
 ご本尊さまは普段は秘仏で、もともとは「檜(ひ)の目観音」といわれていたそうですが、お堂が火災にあったときに檀家の山田三左衛門という方がその中に入り、観音堂から運び出したことから焼失を免れたそうです。それ以来、「火の目観音」といわれるようになり、とくに火事には霊験あらたかということです。
 今回はご開帳ということで、お堂の右側から中に入り、檜の一木造りの十一面観世音菩薩を拝ませていただきました。高さは1m60pほどで、しっかりと金色の色が残っています。その合わせた手に五色の紐がしっかりと結ばれ、外まで伸びています。これを手に取っただけで、秘仏として護られてきたご本尊さまと大きな縁が結ばれます。
 ここのすぐ近くに東光酒造があり、やはりここにもそこでつくられたお酒が両側に供えられていました。今でも、地元の人たちがここをしっかりと守っている、と思いました。
 すぐわきのご朱印所で、ご朱印をいただき、時計を見ると午後4時10分です。次の第24番札所の桑山観音で、今回の巡礼も終わりです。
 急いで車に乗り込み、最後の桑山観音に向かいました。

 第15番札所 米徳山弥勒院 (新義真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ひのめより わたらせたもふ ほとけにて たいひのひかり あらたなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.33

 第24番札所の桑山観音は、米沢市万世町桑山にあります。第15番札所火の目観音からは15分ほどで着きました。
 国道13号線の工事で、入る道がいくぶんわかりにくいのですが、たくさん置賜三十三観音の幟旗が立ててあり、それを道しるべとして進みました。駐車場は広く、ここに昨日から自分たちの車を駐めさせてもらいましたが、まだまだ駐車スペースがあります。
 ここ普門寺の本堂は、高速道路建設により移転せざるを得なくなり、平成18年に新築され、寺域が一新されました。以前は、本堂の横から観音堂に進んだのですが、今は駐車場から左手にある山門に行き、そこをくぐり参道を進むと、その両側には石燈籠がいくつも立っています。
 また、今回の置賜三十三観音特別ご開帳の幟旗も、等間隔に並んでいます。
 その中を歩くと、その先に桑山観音はありました。ここが、今回の置賜三十三観音巡礼の最後の観音さまです。
 ご本尊さまは聖観世音菩薩で、室町時代に造られ、高さ81pの木像で秘仏だそうです。この普門寺は、上杉重定公が60人ほどの家臣とともに病気平癒の祈願に訪れた記録が残るほどの祈祷寺院です。それが今も受け継がれ、11月3日の「柴燈大護摩火渡り」などは他県からの参拝者も多く、賑わいます。
 この観音堂への参道の右手にある「まにあわせ地蔵尊」も有名で、初めてここにお詣りしたときも、いっしょになった人たちは、地蔵さまのご利益の話しをしていました。いわば、ここは多くの悩みある方たちの駆け込み寺のようでもあります。
 昨年、この境内地に、米沢市内から移転された三宝荒神堂が加わりました。縁につながることもあり、せっかくの機会なので今回の参加者全員でご法楽を捧げ、末代までのご安寧を祈りました。
 ここ桑山観音で、今年の「置賜三十三観音札所会設立記念 出羽の国建国1300年記念 置賜三十三観音ご開帳」の千載一遇の巡拝を結願しました。いっしょにまわった方々とは、坂東三十三観音や庄内三十三観音など、いくつかの観音霊場をまわった仲間たちです。1人ではなかなかまわれなかったのですが、何人かでまわると、なぜかすんなりとお詣りできました。道に迷っても、必ずすぐにその迷いに気づかされます。今回なども、お昼を食べようと立ち寄ったところで大雨に降られ、傘を買ったにもかかわらず、その後は晴れて傘を使うこともありませんでした。
 そのような不思議なことを数えれば、たくさんあります。だから、何事もなくお詣りできたのかもしれません。まずは、結願できたことを普門寺の本堂で感謝し、お茶をいただき、昨日今日とまわってきた巡礼などの思い出話しなどをして解散しました。
 こうして、とても有意義なご開帳記念の巡礼が終わりました。各札所の関係者の皆様に、深く感謝いたします。ありがとうございました。

 第24番札所 蓮華山普門寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 のをすぎて さとをもこゑて くわやまの おがむほとけは にせのためなり



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