◎西国三十三観音札所巡り◎


☆西国三十三観音札所巡り Part.1

 『大黒さまのホームページ』100回更新記念で、西国三十三観音札所巡りをしてきました。そして、その札所巡拝の様子などを、携帯電話とモバイルパソコンを使って、毎日『大黒さまのホームページ』に掲載しました。おそらくパソコンといっしょに更新しながら巡拝した方は少ないと思いますが、考えていた以上に多くの方々に見ていただいたようで感謝しております。
 やはり、旅は楽しいものです。『フォレスト・ガンプ 一期一会』という映画の中で、”人生はチョコレートの箱みたい、食べるまで中身は分からない・・・・”って言っていましたが、旅もしてみなければ分からないことだらけです。まったく初めての場所を、地図を頼りに進むことは新鮮な感覚ですし、そうしてやっとたどり着いた札所で味わう安らぎは、格別なものです。境内の一本の木も一草の花も、もちろん本尊さんとも初めての出会いです。
 山頭火の句に『心おちつけば水の音』というのがありますが、ゆったりと旅をしているとこの水の音が聞こえてきます。上醍醐寺に上る途中の女人堂後ろの渓流、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に渡る船の波切る音、石山寺わきの瀬田川の流れなど、本当に軽やかに聞こえてきました。今回の西国三十三観音札所を平成15年と16年の2年かけてまわったのですが、ゆっくりゆったりということを心がけて心静かにお参りしてきました。
 この旅と、この旅で感じたことを、何回かに分けてここに掲載する予定です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.2

 西国三十三観音札所巡りに出発したのは、平成15年4月11日です。朝米沢を発って、京都に着いたのは午後12時46分でした。ちょっと小雨でしたが、先ず最初に巡拝すべきは十一番札所の上醍醐寺です。というのは、ちょうど30年前、醍醐寺伝法学院で修行しましたが、もちろん上醍醐寺にも何度も上っています。その当時は、急ぐと30分程度で上れたのですが、さて今ならどのぐらいかかるのかと思いながら、JR京都駅から山科駅まで、そこで地下鉄に乗り換え醍醐駅まで行きました。
 でも、あいにくの雨で傘をさしながら醍醐寺まで歩きました。そこで、今日は上醍醐寺へ上ることをあきらめ、「醍醐寺霊宝館」を拝観しました。昨年、仙台市博物館で開催された「京都醍醐寺展」に出品されたのとほとんど同じだったのですが、鎌倉時代に制作された『十一面観音立像』は素晴らしい仏さまでした。何時間見つめていても、その穏やかな表情につい引き込まれてしまいました。今回は観音札所巡りということもあり、特に観音さまに惹かれるものがあったのではないかと思います。左上の写真は、醍醐寺霊宝館わきの満開の桜です。雨で、むしろしっとりとした趣がありました。
 次に向かったのは、第12番札所の岩間山正法寺、通称岩間寺です。ここは標高445mの岩間山中腹にあり、30年ほど前、上醍醐寺の開山堂から奥の院を経て、ここ岩間寺まで歩いたことがあります。
 本尊さまは、身丈15pほどの金銅造千手観音立像で、その観音堂わきには松尾芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだと伝えられる池がありました。本当に静かな山寺で、ここなら蛙が水に飛び込んでもその音が聞こえそうでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.3

 次に向かったのは第13番札所石光山石山寺です。 すぐ近くを瀬田川が流れ、その岸に桜が植えられています。山門を入ると、桜とモミジの並木があり、さらに進むと拝観料を払い、天然記念物の硅灰石の岩塊がある場所に出ます。その左手蓮如堂わきの石段を上ると本堂があり、舞台造りになっていて、全体を撮影するのはちょっと難しそうです。石山寺と書かれた大きな提灯が目をひき、満開の桜も出迎えてくれました。ここは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』などにも登場する寺で、本尊さまの如意輪観音は33年に一度のご開扉で、次は2024年だそうです。そもそも、三十三観音札所巡りの三十三というのは、法華経普門品(観音経)の中に観世音菩薩が三十三種類の姿に身を変えて救ってくださるという記述があるところからといわれていますが、そのためかどうかは分かりませんが、33年ごとのご開扉が何か寺かありました。
 次は、第14番札所の通称三井寺で、正式には長等山園城寺といい、天台寺門宗の総本山です。札所の観音堂は、南端の高台にあり、ここの展望台からは琵琶湖や大津市内だけでなく、満開の琵琶湖疎水の桜も見渡せました。ここの本尊さまも如意輪観音で、お参りさせてもらったときは午後4時50分で、なんとかご朱印をいただくことができました。(右の写真が三井寺)
 その帰り道、小雨のなかを琵琶湖疎水の桜並木のそばを通ったので、写真を撮りました(左の写真です)。ここは有名な桜の写真スポットで、何度も写真雑誌で見慣れた風景でしたが、実際に見るのは初めてです。しっとりと小雨に煙る桜もつややかなものでした。この晩は、JR大津駅から京都駅まで行き、京都市内で宿泊しました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.4

 翌4月12日も小雨が降り、第11番札所の上醍醐寺登山をあきらめ、第10番札所明星山三室戸寺に行くことにしました。JR京都駅から乗りJR黄檗駅で下車、ここ黄檗は、3年ほど前、鉄眼さんの一切経の版木を見たくて、訪れたことがありますが、今回はまっすぐに三室戸寺に向かいました。
 高い垣根のある参道を進むと朱塗りの山門があり、「西国十番三室戸寺」と白文字で書かれていました。そこを入ると、右手はシャクナゲやツツジ、アジサイなどが植栽された大きな庭園があり、そのまま進むと階段手前に「ようおまいり」と剽軽な文字で書かれた石柱があり、そこを上ると重層入母屋造りの本堂がありました。ここの本尊さまは千手観音さまで、秘仏だとか。その本堂前には、多くの睡蓮鉢が並び、パンフレットによれば100種類ほどのハスが咲くそうです。
 その本堂わきの新しいような三重の塔をお参りすると、そのいわれに「三重の塔は江戸中期のものだが明治末に兵庫県三日月町の高蔵寺から移築されたもの」だと記されていました。しかも以前は参道左手の高台にあったものをここにさらに移築したとのことで、だから新しいように感じたのかもしれません。
 小雨の中をお参りし、タクシーも見つからないので、宇治方面に向かって歩き出しました。この平等院に続く道は、まさに『源氏物語』の宇治十帖の世界で、昨年久しぶりに再読したことなどを思い出しました。しばらく歩くとバス停があり、そこで待っていた方に伺ったら、すぐJR宇治駅経由のバスが来るとのことでした。そのバスに乗り込み、その方から60円のチケットをもらい、100円足して駅前で下りました。その優しい笑顔が雨空をすがすがしいものに変えてくれました。旅先で出会う優しさは、また格別なものです。その素敵な思いをいただいたまま、JR京都駅までもどり、昼までには日本ツツジ・シャクナゲ協会全国大会の会場に向かいました。それが、今回の旅の大きな目的でもあります。
 ここで、この西国三十三観音札所巡りも一時中断です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.5

 4月13日、午前9時に日本ツツジ・シャクナゲ協会全国大会が閉会され、その後、1931年に国の天然記念物に指定された「鎌掛谷のホンシャクナゲ群落」を滋賀支部の方に案内されて見学しました。たった一輪咲いていましたが、例年4月20日すぎが見頃だそうです。
 そして、今晩宿泊する大津市内のホテルに入ったのが、午後3時。この時間だとまだ第11番札所の上醍醐寺に上れるかもしれないと思い、すぐ身支度を整え、醍醐に向かいました。この日は、ちょうど桜会の日で、夕方にもかかわらず混雑していました(左の写真が下醍醐)。せっかくだからと思い、桜に囲まれた金堂や五重塔、大講堂などを巡拝し、女人堂を通って、上醍醐寺への参道を進みました。ここは、西国三十三観音札所巡りのなかでも最大の難所と言われているところであり、ここで修行していたときでも、上醍醐寺までの往復はきつかったものです。小さな子供さん連れの方がこれから上る方に「どのくらいかかりますか?」と声をかけられていましたが、「片道1時間30分ほどかかったみたい」と話していました。
 私は30年ほど前、30分で上ったことなどを思い出しながら、ほとんど休まず一気に上りました。そして、醍醐水のところで時計を確認したら、40分でした。そしてご朱印をいただく時間を気にしながら、すぐに観音堂に直行しました。本尊さんは聖宝理源大師が自ら刻まれたという准胝観音さまで、しばらくぶりでゆっくりとお参りしました。この観音堂は火災のために昭和43年に再建されたもので、私がいたときにはまだ木の香りが残るような真新しさを感じましたが、少し風格がついてきたようでした。准胝観音さまの准胝とは、心の清浄をあらわすと聞きましたが、まさにここまで上ってきてお参りしただけで、心が洗われるようです。(右が准胝観音堂です)
 ご朱印もいただき、後は時間を気にすることがないので、ゆっくりと五大堂や如意輪堂、開山堂などを巡り、冬の寒いときの五大力尊仁王会の前行(2月15日〜21日)修行をしたことなどを思い出しながら巡拝しました。このように、札所巡りの楽しみはたくさんあります。昔の人たちも、往路と復路を変えてみたり、その寺の縁起や史跡、伝説などを尋ねたり、また境内の季節の花を楽しんだりとしたようです。更には、門前の茶屋でお茶を飲んだり精進料理を楽しんだりもしました。そして、近くの神社仏閣にも立ち寄ったりとゆったりとした時間をもってお参りしたようです。ところが、最近は、ただご朱印を集めるだけの人が多くなったようですが、この札所巡りは、忙しい日常世界から離れたゆったりした異次元に遊ぶことでもあります。たしかに「癒し」という部分もありますが、そのような時間を持つことの有り難さを感じることが大切です。有り難いと思って札所巡りをするから、そこに素晴らしいご利益が芽生えるのです。
 そんなことを考えながら、桜の散り始めた醍醐寺を後にしました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.6

  4月14日午前8時30分、レンタカーを借りる手続きをして、9時に出発。普段はナビなど使ったことはないが、まったく初めての道なので今回はナビ付きにした。
 先ず目指すは第31番札所の長命寺、山号は姨綺野山(いきやさん)といい、仮名をふらなければちょっと読めそうもない。ここは寺名の通り、長寿健康祈願に訪れる人が多いという。もともとはバス停のある一般道路から石段で上るそうだが、これがなんと808段もあるそうです。私は、寺の道を通って長命寺庫裏の真下の駐車場まで行きました。大型バスで来ていた団体さんは、タクシーに乗り替え、ピストン輸送をしていましたが、それでも最後の100段ほどは自力で上らなければなりません。
 その石段の途中から見上げると、石組みの上に舞台のように造られた本堂は見事なもので、さらに上ると右手に大日如来を安置した三重の塔が見えてきます。それを感じてもらうために最後の100段を残したのではないかと勘ぐるほどでした。本堂前の広場から見ると、それら諸堂の屋根はほとんどが檜皮葺で、琵琶湖から立ち上る霧で苔むしていました。本尊は千手十一面観音さまで、千手、十一面、聖の三尊が一体の仏として聖徳太子が刻んだといわれていますが、秘仏なのでそう信ずるしかありません。
 次に向かったのは第32番札所の繖山観音正寺、この山号も読みにくく、これで「きぬがさやま」といいます。この寺は標高432.9 mの繖山の中腹に建ち、以前は上醍醐寺と並んで最大の難所と言われていましたが、五個荘のほうから新しい道が切られ、通行料さえ払えばすぐ近くまで行けるようになりました。私がお参りしたとき、ちょうど安土町の方から古い石段を上ってきた方がおりましたので聞きますと、50分ほどかかったといいます。たしかに時間をかけてゆっくりとお参りしたいと思うが、先を急ぐ身であれば、少しでも効率よくお参りしたいと思うのも人情です。今日からレンタカーにしましたが、ここも長命寺もバスで来るとすれば1日1寺しか巡拝できません。まあ、それでもいいとは思いますが・・・・
 ここの本尊は千手千眼観音さまで33年ごとにご開扉されてきましたが、残念なことに平成5年の本堂焼失で本尊さまも失われてしまいました。新しい本尊は、インド白檀で造られ、現在再建されている本堂に安置されることになっています。そういえば、長命寺の開基も聖徳太子でしたが、ここ観音正寺の開基もそうです。聞けば、ここ琵琶湖周辺には聖徳太子の伝説が多く残っているそうで、ここでは「聖徳太子が人魚に呼び止められ、その成仏できないでいる姿を憐れみ、観音像を刻み堂を建てて成仏させた、それが観音正寺のはじまりです」としています。
 ご朱印もいただき、再建中の本堂が1日も早く完成することを願い下山しました。時計を見ると、午前11時50分、予定では岐阜の谷汲山華厳寺に行く予定でしたが、時間がありそうなので長浜から琵琶湖に浮かぶ竹生島に行くことにしました。昼食は車の中でパンを食べて終わりです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.7

 4月14日、昼食を車の中ですませ、なんとか長浜港午後1時15分発の竹生島観光船に乗り込みました。乗船料は往復で2,980円です。いっしょに同乗したのがアメリカンスクールの子供たちで、聞くところによると遠足だとか、船に乗ること35分、そして乗船場で待っていたのが白装束に輪袈裟の巡礼姿の人たち、乗船場はちょっと不思議な雰囲気でした。
 ここ、竹生島は周囲約2kmの花崗岩からできた島だそうだが、周囲は切り立った断崖で、ここの乗船場からしか入島できない。
 先ず、みんなと同じように、まっすぐ前にある石段をそのまま上って鳥居を2つくぐり、急な石段を上りきると日本三弁才天の一つに数えられている弁財天本堂に着きます。たしか、石段は165段あったように思います。この本堂は昭和17年に建てられたもので、なかには聖武天皇の命で行基が刻んだ高さ25センチほどの弁財天がまつられています。そこから平成12年5月に再建されたばかりの三重の塔を左に見て石段を下ると、そこに第30番札所巌金山宝厳寺の観音堂があります。それにくっつくように唐門があり、これが国宝になっているそうです。そこをくぐり観音堂でおまいりをしました。本尊は、千手千眼観世音菩薩さまで、弁財天と同じように61年目ごとのご開扉だそうです。前回は1977年だそうだから、次は・・・・。
 次に観音堂から、有名な船廊下を渡り、今度は都久夫須麻(つくぶすま)神社にお参りしました。このように無理矢理分けたのは、明治時代の神仏分離令以降のことで、全国各地でこのようなおかしなことが今でも行われています。私にとっては、神さまも仏さまも同じく信仰してますから、かたちはどうであれ、気持ち的には同じことです。なお、都久夫須麻神社本殿は、国宝に指定されています。
 ここでは、長浜港でお茶券を購入してあったので、本殿右脇の小道を通って常行殿に行き、お抹茶を頂きました。聞くと、ここには飲み水がないので、すべて島外から運んでくるということで、さらに有り難く頂戴しました。さらに、この島には僧や神官以外は住むことが許されていないので民家もないそうです。まあ、この日本にも、そのようなところが一つぐらいはあった方がよいと思います。
 ここ竹生島は、あとはどこにも行けません。この石段で結ばれたところを、何度も行ったり来たりして、竹生島発午後3時15分に乗船しました。長浜には46分に到着し、車の中で地図を確認しましたが、今日はこれ以上巡拝できそうもありません。そこで、第33番札所谷汲山華厳寺を目指し、行けるところまで行くことにしました。結局、その日は、岐阜県大垣市に泊まりました。今日一日の走行距離は、169.6Kmでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.8

 4月15日(火曜日)、朝食を食べ、午前8時前に出発し、一路第33番札所谷汲山華厳寺を目指しました。8時40分に駐車場に到着し、仁王門をくぐり、境内地を進みました。今回は車で通り抜けましたが、この仁王門までの約800mほどの道の両側は、桜と楓の並木になっていて、お土産屋さんが並んでいます。まだ朝が早いせいか、店を開く準備をしていて、散った桜の花びらを掃いている方もいました。
 ここの本尊は、十一面観世音菩薩さんで、本堂までの石畳の参道にも「南無十一面観世音菩薩」と書かれた大きな奉納旗がいくつもありました。本堂は間口20mほどの立派なもので、その回廊を一巡すると本尊さまと結縁できるということでした。ここは、いつから始まったか分かりませんが、過去(笈摺堂)、現在(満願堂)、未来(本堂)にちなんだご詠歌が3首あり、納経も3印ありました。それぞれの場所でご朱印をいただけばいいのですが、同じところで同じ人が書いて朱印だけ違うというのは、ちょっと釈然としませんでした。本来は、ここが第33番札所でそれなりの感慨も生まれるかと思ったら、意外と淡々としたものでした。もちろん、順不同で道なりに巡拝しているからかもしれませんが、それなら33番目の寺院は、よほど考えて決めなければと思いました。
 ここを早々にお参りし、せっかく近くまで来たので横蔵寺に向かいました。その道の途中で、梅と桃と桜のそれぞれの花が満開に咲き乱れているところに出会いました。カメラマンらしき人が一人撮影に没頭していましたが、私もついつい何枚もシャッターを切りました。さらに巡礼の道連れのレンタカーといっしょに記念撮影もしました。後にも先にも、自分の姿を写したのはこの時の1枚だけです。
 さすが横蔵寺は名刹で、参道にかかる朱塗りの橋も情緒がありましたが、本堂も三重塔もりっぱでした。境内に植え込まれたモミジの新芽も柔らかく伸び出し、静かなひとときを満喫することができました。
 横蔵寺を出発したのは午前10時12分、ここから関ヶ原インター、そして敦賀インターまで高速道路を走り、国道27号線を舞鶴近くまで行き、第29番札所青葉山松尾寺まで車を走らせました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.9

 4月15日(火曜日)午後2時20分に、第29番札所青葉山松尾寺に到着しました。高速道路を使ったこともあり、意外と早く着いたようです。また、カーナビ付きのレンタカーを借りたのも良かったようです。常には使っていないのですが、やはり全然知らない土地を走る場合には、とても便利です。一回一回地図を確認する必要もないし、いわばカーナビに教えられた通りに走ればいいのですから簡単です。今回はまったく初めての場所なので、行程なども分からず、最初の計画では三日目の舞鶴辺りで車を返す予定をしていましたが、このまま順調に走れば、明日は兵庫県をまわって奈良県まで移動できそうです。そこで、途中の賤ヶ岳パーキングエリアから大津唐崎の営業所に電話をして、明日の午後5時まで奈良で返すことにしました。変更料は隣の県ということで、かかりませんでした。
 さて、松尾寺は、若狭富士と呼ばれている青葉山の中腹にありますが、どこにでも「○○富士」というのがあるところをみると、日本人は富士山にあこがれ以上のものを抱いているようです。本尊は馬頭観音さんで、西国札所でここだけですが、そのせいか本堂前には唐金製の馬像も添えられてありました。聞くと、ここの本尊さんは秘仏で、鎌倉時代初期の三面八臂の忿怒像だそうですが、その前立本尊さんと同じお姿だといいますから、ヒンドゥー教のビシュンヌ像に近いと思います。また、本堂も珍しい宝形造りで、山門からだとその屋根の部分だけが遠目に見えます。
 ちょうど桜が満開で、その山門にかかるようにして咲いていました。ここも京都ということですが、京都市内はすでに葉桜でしたが、ここではゆっくりとお花見ができました。そして、最近は交通安全を願う人も多いということなので、私もしっかりと安全を祈願して、ここを出発したのは、午後2時45分でした。
 ここから、また国道27号線に戻って、天橋立を目指します。午後4時ごろ宮津市内に到着したので、先ず今夜の宿を旅館組合の案内所で紹介してもらい、それから第28番札所成相山成相寺に向かいました。ここは国道178号線の天橋立西岸の国分から左折して山道を約4Kmほど入ったところにあります。
 本尊は聖観音さまで、秘仏でご開扉もないようですが、高さ50cmほどで橋立観音とも言われているようです。本堂は入母屋造りで、内陣には左甚五郎作と伝えられる「真向の龍」の彫刻もあり、雪国とは思えない造りです。
 この本堂から、距離にして約1Km、車で5分ほどで弁天山展望台まで行けます。ここからは、天橋立はもちろん、雄大なパノラマ風景が一望できます。すでに今晩の宿は確保してあるので、この日本三景の一つ、天橋立をゆっくりと堪能しました。そして、今日までの西国三十三観音札所巡りを思い出し、ここがその最北端に位置することを改めて思い至りました。
 今日一日の走行距離は、280.2Kmでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.10

 4月16日(水曜日)、午前5時30分ごろ天橋立の方から朝日が昇るのが見えましたので、6時には起床し、今日一日の行程を考えました。見渡すと、雲一つない晴天で、今日はとりあえず奈良まで行くことにしました。朝食を食べ、8時5分には出発、先ずは智恩寺にまわりました。智恩寺といっても分からないでしょうが、切戸の文殊といって、日本三文殊の一つになっており、ちょうど天橋立の付け根のところにあります。
 せっかく天橋立に行くのなら、ここにはまわろうと最初から考えていました。日本三文殊の一つは山形県の高畠の亀岡文殊、そしてこれから行く予定の奈良の桜井市にある安倍文殊、この機会にすべてお参りすれば、少しずつ物忘れが激しくなってきたのが救われるかもしれません。
 ということで、切戸の文殊さまにお参りして、さらに廻旋橋を渡って天橋立を歩きました。小天橋、さらに大天橋を渡り、その松並木に覆われた3Kmを越えるというほんの一部の砂州の感触を楽しみました。
 そして、車に戻り、初めてガソリンを満タンに詰め、9時にはここを出発しました。目指すは、兵庫県加東郡にある清水寺です。
 舞鶴自動車道の三田西インターで下り、ゴルフ場が多くある地域を通り、昭和50年に開通したという有料道路(3Kmほど、300円)を走ると大きな駐車場に着きます。そこに昭和55年に再建された仁王門があり、最近塗り替えられたばかりのような鮮やかな朱塗りが目にもまぶしく感じられます。そこを通ると、第25番札所御獄山清水寺で、御嶽山頂上近くの標高500mほどのところにあります。
 本尊は十一面千手観音さまで、30年に一度ご開扉されるそうです。ここは何度も山火事や落雷などの災害に遭い、ご朱印は大正時代に再建された大講堂でいただきました。それでも、ここの環境が厳しいせいか、根本中堂や薬師堂などもそれなりの時代がかって見えました。帰り道、さの参道の途中に新しく「しゃくなげ園」が造られていましたが、ただ植え込んだようなもので、管理も良くありませんでした。ここは古くから山岳仏教の霊地でしたから、その意味でも霊木たるシャクナゲを植えたいということは分かりますが、ただ植え込めば育つわけではありません。植物のなかでも、シャクナゲ栽培は難しいほうで、もう少し研究の余地はありそうです。それと無造作に日本産のシャクナゲと西洋シャクナゲを混植させるのも考えものです。
 そんなことを考えながら、次の法華山一乗寺に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.11

 西国第二十六番法華山一乗寺は、清水寺から約1時間で着きました。途中曲がりくねった山道でしたが、ところどころに山桜も咲いていて、楽しく運転ができました。
 でも、ここでは駐車料金を300円、さらに拝観料も300円かかり、ご朱印も300円とお参りもなかなか大変です。しかし、そこの方に伺うと、縁日などはそれなりのお参りがあるそうですが、それ以外は札所巡りの方々だけだそうですから、それでこれだけの堂宇を護っていくのはこれでなかなか大変なようです。そんな話しを伺うと、せめてお賽銭だけはと思い大奮発しました。
 現在、本堂は解体修理中なので仮本堂でお参りし、ご朱印をいただきました。この仮本堂は、案内書で見ると常行堂らしく、この堂は聖武天皇の勅願による建立と伝えられていますが、何回かの火災に遭遇し、現在の建物は明治元年(1868年)に建てられたものだそうです。本尊は聖観音さまで、銅製の白鳳仏ですが、秘仏なので詳しくは分かりません。ただただ堂宇護持の大変さを思いながら下山しました。
 次は、そこから40分ほどで書写山圓教寺へのロープウエイ乗り場駐車場に着きました。時間は午後1時15分でしたが、今日も昼食は車の中ですませました。すぐ1時30分発のロープウエイに乗り、約4分、瞬く間に山上駅に着きましたが、以外や以外、そこから札所までが遠く、15分ほどかかりました。この山上駅から仁王門までの参道には、西国三十三ヶ所各寺院の本尊さまの写しが安置されていて、今までお参りした本尊さまを思い出しながら歩きました。
 その突き当たりの、見上げるような石段の上に、舞台づくりの本堂(摩尼殿)が見えてきました。ここが西国第二十七番書写山圓教寺で、西国三十三ヶ所霊場のもっとも西端に位置しています。寺域も広く立派な堂宇も多く建ち並び、西の比叡山と称せらるのも納得です。
 本尊は、如意輪観音さまですが、火災にあい、昭和8年の本堂再建のときに試作仏とされてきた仏さまを本尊さまとしてまつっています。1月18日だけご開扉されるらしく、この日はお姿を拝見できませんでした。それでも、この舞台のような回廊から眺める風景はとても素晴らしく、春の桜もいいが秋の紅葉もまたいいような気がしました。
 でも、いつまでもここにいる訳にはいきません。今日の午後5時までには奈良市内でこのレンタカーを返さなければならないのです。急いで参道を下り、ロープウエイに乗り、下駅の駐車場に着いたのが午後2時25分でした。すぐ出発して、山陽自動車道の姫路西インターから入り、大阪市内を抜け、奈良に着いたのが午後4時30分でした。すぐガソリンを満タンにして、トヨタレンタリース奈良に車を返しました。今日の1日の走行距離は335.8Kmですから、3日間の総距離数は785.6Kmになりました。
 そこの社員の方にホテルまで送っていただき、ホテルでちょっと片づけて、外に出てお抹茶とお菓子を買い、部屋でゆっくりとお茶を楽しみました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.12

 今日(4月17日)は、長年の念願だった吉野の桜を見に行きました。吉野には二度ほど上っていますが、どちらも桜の季節ではなく、あの西行が「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」と詠んだその季節にその場所に立ちその桜を見てみたいと思い続けてきました。その想いがやっと叶う日です。
 朝6時15分起床、ゆっくりと準備をし、朝食を食べ、ホテルを出発したのは8時15分、近鉄奈良駅を8時28分に出発、大和西大寺駅で乗り替え、橿原神宮で再度乗り替え、吉野駅に着いたのが10時25分でした。電車の中では、昨日までのレンタカーと違い、ゆっくりと本を読んだり、削りかけの茶杓を磨いたり、この原稿のメモを執ったりしました。確かに車は便利ですが、電車の良さもあります。2時間は長いですが、何かをしていると瞬く間に過ぎてしまいます。
 吉野駅を下りると、駅前に上千本までの臨時バスが運行(350円)されていて、たった10分で到着しました。すると、それを待っていたかのように奥千本までのマイクロバスがあり(400円)、それに乗って奥千本の金峯神社前の参道入り口まで行きました。ここまでくれば、西行庵まで約10ほど歩くだけです。
 西行庵は、金峯神社からちょっと上り、南西の谷へ下ったところにありました。西行はここに文治年間(1185〜90)に住んでいましたが、現在の庵は後世のもので、世捨て人を象徴しようとしてわざと粗末に作ったような作為が見て取れました。でも、その庵から少し上ったところにある岩間の苔清水は、現在も涸れることなく湧き続け、ここで西行は、「とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなき住居かな」と詠んでいます。
 このあたりの桜は、まだ2分咲きほどで、しばらく西行に思いをはせていましたが、下山しました。奥千本から少し下がったところがちょうど満開で、高城山展望台からは遠く蔵王堂も見え、桜に染められた吉野山が一望できました。以前調べた本によると、修験道の霊木は桜と石楠花だと書いてありました。ここは修験道のメッカですから、桜が大事にされ、他の木は切っても絶対に桜と石楠花だけは切らなかった、だからこのように全山桜に埋もれるようになったのかもしれません。また、ここで、山桜にこのように多くの変化があることに初めて気づきました。芽だしが赤いのだけでなく、緑色のものもあり、それがまた微妙に変化し、ちょっと大げさかもしれませんが、一本一本違うような気がしました。現在では、桜というとソメイヨシノを指すような気風がありますが、これはたった一本の木から生まれた、まったく同じ遺伝子を持った桜です。いっせいに咲き、いっせいに散る桜です。でも、ここ吉野山の山桜は、一本一本ちゃんとした個性を持ち、他との違いを際だたせています。それで、山全体が桜色に染まるのです。この微妙な花の色の変化が吉野の桜のすばらしさだと思います。だとすれば、その吉野山にはなかなか行けないけれど、染井で生まれたこの桜、すなわちソメイヨシノもそれに近い美しさを持ってますよ、ということで名付けられたような気がしてきました。
 そんな桜をゆっくりと堪能しながら、奥千本から上千本と下り、蔵王堂にお参りし、吉野山ロープウェイで下千本の吉野千本口まで下りました。電車は午後2時38分発でしたが、今日も昼食も食べずに桜の下を歩いたことになります。いや、桜吹雪の中で、食べることさえも忘れてしまったようです。
 近鉄吉野線で壺阪山駅に着いたのが3時25分、それから西国第六番札所、壷阪山南法華寺(通称壺阪寺)に向かいました。本尊は、十一面千手観音菩薩さまで、とくに眼病に霊験あらたかと聞くが、ここが有名になったのが明治時代の世話物浄瑠璃である『壺坂霊験記』のお里沢市の話しからで、そんなに古いことではないらしい。しかも、境内には大きな石造レリーフや大観音石像、大石堂などが造られ、ちょっとやりすぎという感じがしないでもありません。まあ、いろいろな寺院があってもいいのでしょうが、私には石の硬さより木の柔らかさが良いと思いました。でも、本堂の中に自由に入ることができ、本尊さんに近寄って間近でお参りできることはとても良かったと思います。
 そして、次は時間的にちょっと無理かとも考えましたが、岡寺に行きました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.13

 4月17日、午後4時30分に西国第七番札所東光山竜蓋寺(通称岡寺)に着きました。行けるかどうかと考えたのは、距離的な問題より時間的な問題、すなわちご朱印がいただけるかどうかの心配でした。でも、なんとか間に合いました。
 ここは飛鳥の里を見下ろす高台にあり、天智天皇の岡宮旧跡に建立されたことから「岡寺」と呼ばれるようになり、竜蓋寺という名は、むかし農民を苦しめていた竜をこの寺の僧が法力で池に封じ込め、大きな石で蓋をしたという伝説に由来するのだそうです。朱塗りの山門をくぐり、石段を上ると入母屋造りの本堂があります。本尊は如意輪観音さんで、奈良時代の作で、丈六といいますから今の単位で4.6mほどあり、現存する塑像では日本最大級です。そう思って見るせいか何となく天平ののびのびとしたおおらかさが伝わってくるようです。しかも、平安後期からの六臂の如意輪観音さんと違い、二臂で右手には施無畏印(不安を取り除く)、左手には与願印(願いを叶える)と分かりやすいお姿をしています。
 その本堂手前右手の高台には、昭和62年に500年の歳月を経て再建された三重の塔が再建されていました。ここはシャクナゲも名物の一つですが、たった一輪、ほんの申し訳程度に咲いていました。もし、満開に咲いたならば、相当見応えがありそうです。その時期をねらって、もう一度来てみたいところでした。
 この岡寺の近くに教科書などでも有名な石舞台古墳があると聞いて、そこにも寄り道しました。ここは公園のようになっていて、その中央に石舞台があります。正確には、石舞台というより周囲に堀をめぐらした方形墳で、上を覆っていた土が流され、石室がむき出しの状態になったのではないかといわれています。巨石は30数個あり、これをどのように運び、しつらえたのか不思議です。ちょうど夕日がこの巨石を照らし、古代への感傷を引き出してくれました。
 でも、ここまで来たら、もう一カ所回らなければなりません。それは桜井市安倍の文殊院(通称安倍文殊)です。先日参拝した天橋立の切戸文殊とここの安倍文殊と、山形県高畠町にある亀岡文殊で、一般的には日本三文殊といいますが、今日お参りできれば、三文殊すべてにお参りしたことになります。そこでタクシーに急いでもらいました。
 時計を気にしながらも、なんとか間に合いました。この文殊院は、孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)で、鎌倉時代に現在の場所に移されてきたのだそうです。もちろん本尊は文殊さまで、獅子に乗った高さ7mほどの大きなお姿で、快慶作です。そして、本堂近くの文殊池には、安倍倉梯麻呂をまつる金閣浮御堂があり、その東岸には陰陽師安倍晴明をまつる晴明堂が建っていました。東岸高台には展望台があるとのことでしたが、そこをあきらめ、JR桜井駅に向かいました。
 ここ斑鳩の里は、もう一度ゆっくりと目的を持たずに歩きたいところでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.14

 4月18日(金曜日)午前5時40分起床、湯を沸かしお茶を飲み、奈良公園に散歩に出ました。今日で西国三十三観音霊場巡りも一時中断し、夜には東京まで戻らなければなりません。ホテルから猿沢池、興福寺の五重塔と東金堂の間を抜け、奈良国立博物館から東大寺南大門まで歩きました。そして東大寺前の鏡池のところで写真を撮っていると、東大寺受付の戸が開いたのです。聞くと午前7時30分から入れるということで、ちょっと待って中に入りました。この広い東大寺大仏殿で、参拝していたのは私一人だけです。修学旅行の子どもたちの話し声も、甲高い声で話す人たちも誰もいません。世界最大の木造古建築の大仏殿の中で、752年に開眼された大仏さまにたった一人でご法楽を捧げ、このとてつもなく大きな大仏さまと一対一でお話しができるのです。そのゆったりとした経の声が、確かに大仏さまの耳に届いたような気がしました。それからゆっくりと大仏さまの周りを回り、もう一度正面でお経を捧げました。奈良に来て本当に良かった、と思いました。8時ちょっと過ぎ、大仏殿前の金銅八角灯籠のところまで来ると、修学旅行と思われる中学生がドヤドヤと入ってきました。これでまた、いつもの喧噪のお寺になるのでしょう。
 それから、二月堂や三月堂をまわり、西国第9番札所興福寺南円堂に着いたのは、午前8時40分でした。ここには一昨日もお参りしましたが、夕方でご朱印をいただけなかったので、このときいただきました。納経所の前には大きな藤棚があり、さぞ花時はきれいだろうし、夏の強い日差しの時には良い日除けになると思いました。この南円堂はきれいな八角形のお堂ですが、平成8年に解体修理されたと聞き納得です。南円堂があるのだから、北円堂もあるのだろうかと調べましたらこれがありまして、しかもこの北円堂は興福寺の建物の中でもっとも古く、1210年に再建されたと書かれてありました。南円堂の本尊は不空羂索観世さまで、西国ではここだけおまつりされています。毎年10月17日の大般若会のときだけご開扉されるそうです。
 そして長い朝の散歩からホテルに戻ったのが午前9時頃で、すぐ朝食をいただきました。すでに多くの方々は朝食が終わり、チェックアウトをされていましたので、一人でゆっくりと今日のこれからの予定を考えながら食べました。そして、ホテルを出たのが10時ちょっと前でした。
 10時14分発の桜井行きの電車に乗り、桜井駅で近鉄線に乗り換え、長谷寺駅に着いたのが10時55分でした。長谷寺駅でタクシーに乗ろうとしたら、ここはタクシーが少ないので乗り合いで行こうということになり、ある方と一緒に長谷寺まで行きました。その車の中で、少し話しをしたらぜひ長谷寺の中まで案内したいということになり、入山パスがあるというのでそのまま受付をフリーパスで通過しました。長い回廊を上り、本堂の受付でなにやら話していたと思ったら、いま許可をもらったので本尊さまの真下でお参りできるということでした。何がなにやら分からぬままに案内され、階段を下りたら、そこに左手に宝瓶、右手には錫杖を持った大きな十一面観音さまが立っていらっしゃいました。そのうっすらと浮かぶような金色のお姿に圧倒されながらも、その足下にぬかずきながら、不思議な縁を感じ、観音経を読誦させていただきました。そして外に出て本堂の拝所に立ちましたら、なかで山内の僧侶が出仕して法要が開かれていました。ということは、その法要の真っ最中に私が観音さまのお膝元で祈っていたのです。まったく不思議な縁としかいいようがありません。考えてみれば、ここの本尊は十一面観世音菩薩さまで、10mを超す日本最大の木像仏ですが、ほぼ同じお姿が鎌倉の長谷寺にもおまつりしていて、今年の2月にお参りしたばかりです。何か導かれるようにしてここまで来たかのような思いがしました。写真を撮ることも忘れ、ご朱印をもらうことも忘れ、回廊を下ろうとしたとき、ふと我に返りました。すぐ引き返し、西国第八番豊山長谷寺のご朱印をいただき、本堂や五重塔などの写真を撮り、たった一輪咲いていたボタンに見送られながら長谷寺を後にしました。西国三十三観音巡りの最後に、このような不思議なご縁をいただき、早く残りの札所を巡らなければと思いました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.15

 長谷寺の山門を抜け、門前町を眺めながら下ると、ちょっと右に曲がったところに「西国三十三所開基 徳道上人御廟所 番外 法起院」と書かれた石碑を見つけました。ここが番外札所の法起院です。この寺は、長谷寺を開いた徳道上人が晩年隠棲した寺で、天平7年(735年)に創建されたと案内板に書かれていました。それによると、「養老2年(718年)に徳道上人は突然の病気により、仮死状態になったとき、冥土で閻魔大王に会った。その閻魔大王から、悩める人々を救うために三十三ヶ所の観音霊場をひろめるように言われ、宝印を授けられ、この世に戻されたという。徳道上人は霊場を定め巡拝するよう勧めたが思うにまかせず、しかたなく宝印を中山寺に埋めたという。その宝印は約270年後、花山法皇によって掘り出され、西国三十三観音霊場巡りも再興され盛んになった。」ということです。
 これが西国三十三観音霊場の開基逸話になっていますが、それはそれとして単純に計算してもすごい年月がたっていることになります。その長い信仰の礎をつくられた徳道上人を本尊とする寺なので、今日まで18カ寺巡拝してきたことなどを思い出しながらお参りしました。しかもここは門前町の中にありながら、その喧噪もあまり気にならない静かな環境でした。
 法起院を出て、また長谷寺駅を目指し歩き出し、駅に着いたのが12時ちょうどでした。さあ、これからどうしようかと考えましたが、今日の夜まで東京に戻ればいいので、高校の修学旅行に一度行ったっきりの法隆寺に行くことにしました。長谷寺駅12時13分に乗り込み、12時23分八木駅に着き、乗り替えて12時28分発筒井駅12時50分着でした。そこからタクシーで法隆寺に到着したのが午後1時5分で、寺前のそばやさんで「柿ざるうどん」を食べました。この柿は、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の柿だと思いますが、ただ柿色をしたうどんでした。一杯650円ですから、あまり文句も言えません。
 午後1時20分に法隆寺境内に入り、南大門、回廊、金堂、五重塔、大講堂などを順に見て回りましたが、修学旅行生も多く、やはり気分は文化財見学の雰囲気でした。世界最古の木造建築といわれれば、「ホホーッ」と思いますし、これが教科書にも出ていた仏像ですといわれれば、やはり「スゴイナー」と思います。平成10年に建立された大宝蔵院には、日本の仏教美術を代表する飛鳥時代の百済観音立像が展示されていましたが、ガラス越しでは参拝しようという気にはならず、仏さまも気のせいかかさついていました。2時間前に拝んだ長谷寺の観音さまはつやつやとしてすばらしいほほえみをしていたのに、ここの観音さまは目が沈んで生き生きとしていないのです。確かにすばらしい仏像なのですが、信仰されているとは感じられないのです。ちょっと寂しい気がしました。
 それでも夢殿は端正な八角堂で私の好きな形ですし、お堂の中に安置されている救世観音立像はいかにも飛鳥仏らしい瀟洒な仏さまでした。しかも、年二回、4月11日から5月5日まで、秋は10月22日から11月3日までしかご開扉しないそうです。だからお参りできたのですが、やはりありがたいと思いました。
 一通り拝観し、時計を見たら午後2時20分、急いでJR法隆寺駅に向かい、奈良駅からみやこ路快速に乗り換え、京都発午後4時21分の東京行き東海道新幹線に乗りました。これで西国三十三観音札所巡りの前段は終わりです。指折り数えると18カ寺お参りしたことになります。さて、この続きはいつ頃できそうかなあ、と考えながら新幹線で眠りこけてしまいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.16

 また連載を再開します。
 平成16年2月12日から西国三十三観音札所巡りを再開しましたが、12日は午前7時42分に米沢を出て、東京、名古屋で乗り替え、紀伊勝浦に到着したのが午後4時42分でした。ですから、9時間かかってここ勝浦に着いたことになります。勝浦は漁港としても有名で、聞きましたらマグロ料理が美味しいということなので、夕食はマグロ丼を食べました。
 実質的な札所巡りは、翌13日からはじまりました。午前8時30分にレンタカーを予約していたので、その時間まで営業所に行き、手続きを済ませすぐ出発しました。目指すは、西国三十三観音1番札所那智山青岸渡寺です(写真右)。約20分で那智の滝周辺の駐車場に着きました。そこから歩いて先ず青岸渡寺本堂にお参りし、ご朱印をいただきました。ここ熊野は、いにしえから信仰のメッカであり、「熊野詣で」という言葉が残っているほどです。さらにここは第1番札所ですから、特別な感慨もあります。ゆっくりと観音経をあげ、これからの札所巡礼の無事満願も祈念しました。ここの本尊さまは、如意輪観音で、宗派は天台宗だそうです。でも那智の滝、飛滝権現の本地仏は千手観音ですから、なかなか分かりにくいところもあります。
 少しゆとりが出て、あたりを見渡すと、すぐ隣り合ったところに那智大社がありました。案内板を見ますと、ここ那智大社と速玉大社、本宮大社で熊野三山というとあります。出羽三山などは、本当の三つの山があるのですが、ここは信仰の社が三山という形に表れているようです。この那智大社を参り、ここのシンボルでもある那智の滝を拝むべく歩き出しました。もちろん、ここまでは音も聞こえず、案内図が頼りです。もう一度青岸渡寺の前を過ぎ、斜面の道を歩くと朱塗りの三重の塔が見えました。その遙か後ろに、絵に描かれているかのように那智の滝が見えました。この三重の塔と那智の滝を組み合わせ、写真を何枚も撮りました。そして、この三重の塔に上り、那智の滝を眺めましたが、水量も少なく、日本一の実感がわきませんでした。でも、心の中では、遙か昔、ここを目指して歩いてきた人たちの思いがしのばれ、豊かな時間を過ごすことができました。
 そこで、この機会を生かして熊野三山を順に参拝することにしました。ここ那智大社をお参りしたのが午前9時30分、そしてレンタカーで速玉大社に着いたのが10時20分、さらに本宮大社(写真左)でお参りしたのがちょうど12時でした。
 昔は、それこそつづら折れの道をひたすら歩いて、一社一社時間をかけてお参りしたのでしょうが、今はたったの2時間30分ですべて回ることができます。それが良いか悪いかは分かりませんが、私はむしろ不幸なことだと思います。お参りは、いわば心の整理でもあるわけだから、十分な時間をかけてお参りできる方がはるかに有意義です。それで、熊野本宮大社までの熊野古道を少しだけ歩いてみましたが、ここが霊場として全盛期を誇った平安末期の人々の信仰心がほんのひとかけらですが分かるような気がしました。もちろん、今から800年ほども前のことですから、ただそのような気分になれたということに過ぎないと思いますが・・・・・。



☆西国三十三観音札所巡り Part.17

 熊野三山、すなわち那智大社・速玉大社・本宮大社を順に参拝し、そのまま第2番札所紀三井山金剛宝寺(通称紀三井寺)に向かいました。本宮大社をちょうど12時に参拝し、すぐ車で出発し、紀三井寺に着いたのが2時間45分ですから、ここまで2時間45分かかったことになります。
 ここの寺名は、正式には金剛宝寺護国院といい、救世観音宗に属し、本尊さまは十一面観音です。ご開扉は50年に一度、1ヶ月だけだそうです。ここに至る231段の石段は有名で、かの紀伊国屋文左衛門が母を背負いお参りに来たとき、その石段の途中で草履の鼻緒が切れ、困っているところを玉津島神社の宮司さんの娘さんが直してくれ、それが縁で二人は結ばれ、その宮司さんが資金を出してくれたみかん船で大儲けしたという縁起が残っています。その紀三井寺の名は、石段途中にある「清浄水」と、同じく境内地にある「吉祥水」と「揚柳水」をあわせた三つの井戸から起こったとあります。
 境内地にはサクラの木がたくさん植えられていて、花時は見事だと思うが、まだ春浅い2月中旬、常緑樹だけが青々としているだけでした。でも、だからこそ遠くに和歌の浦がよく見渡され、万葉の世界に遊ぶような心地がしました。
 時計を見たら、まだ午後3時20分。予定ではこのあたりに宿泊するつもりでしたが、この時間ではまだ3番札所の粉河寺まで行けそうです。急いで車に戻り、粉河寺を目指しました。
 第3番札所風猛山粉河寺に着いたのは、4時15分でした。茶店も片づけようとしていましたが、声をかけ、このあたりで泊まれるところはないですかと聞きました。すると、自分の自宅の前が旅館だから聞いてあげるといい、すぐ電話をしてくれました。こうして、今日泊まるところを確保してから、ゆっくりとお参りしました。
 本堂は、桃山時代に作られたという粉河寺庭園に囲まれ、その豪快な石組みとサツキの刈り込みのまとめ方はさぞやと思わせる風格です。宗派は、粉河観音宗といいますから、独立した一派かもしれません。本尊さまは千手観音で、お参りをしながら見ましたが厨子の中でした。
 この寺の近くに真言宗の根来寺がありますが、一昨年お参りしたので今回は遠慮しました。参詣をすませ、先ほどの茶店で聞いた山門前の旅館「丸浅」に向かいました。夕食はできないと言われていたので、途中で弁当を買いました。昔の商人宿のような雰囲気でしたが、ここまで足を伸ばすことができたことに感謝しました。しかも、レンタカーはまだ428Kmしか走っていない新車同様の車で、快適に乗ることができました。走行距離224Km、西国三十三観音札所巡りも順調な滑り出しです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.18

 2月14日、朝7時30分に丸浅旅館を出発し、第4番札所槇尾山施福寺に向かいました。ここは標高530mの槇尾山中腹にあるということなので、それなりの覚悟をして行ったつもりでしたが、山道に入ったにもかかわらず、小さな案内板すら見あたりません。とうとう砂利道になり、車もすれ違えない細い道になり、峠を越えてしまいました。その近くで施福寺への道を聞いたら、もう一度戻らなければならないと聞き、その通り進んだのですが、車のナビすら「目的地周辺です。案内を終了します」といいだす始末です。しかたなく、車で入れるところまで入ったら、車が1台とまっていました。その隙間になんとかとめ、その道を歩き出しました。誰一人通らない山道を途中何度も不思議な気持ちになりながら歩くと、その檜の林の山道に小さな石仏が祀られ、シキビが添えられていました。それに心を強くし、さらに20分ほど歩くと、やっと施福寺の本堂が見えてきました。
 そこで初めて気がついたのですが、そこは裏道で、通行止めになっていました。だから誰一人通らなかったのです。その訳が分かると安心し、今度はゆつくりとお参りできました。本尊さまは十一面千手千眼観世音菩薩で、一年に一度、5月15日にご開扉されるそうです。宗派は、天台宗ですが、案内板によると、若き空海がここに住持していた勤操大徳を慕い来て、剃髪得度をしたということでした。その跡も現在は愛染堂として残っています。ということは、もしかして、あの人っ子一人通らないような山道を空海も上ってきたのではないかと想像がふくらみ、導かれるようにあの裏道を歩かざるを得なくなったのではないかとさえ思えました。さらに、ここで剃髪得度をしたということは、ここが仏道修行の初めだとすれば、その終着点は高野山ではないのか、だとすれば高野山にもお参りしたいと考えました。
 そこで、すぐにあの裏道を戻り、車を山道から一般道まで下げ、ナビでこれからの予定を立てました。今の時間は午前9時50分だから、今朝から予定していた第5番札所の紫雲山葛井寺までは約1時間で行けそうです。そこから高野山までは、距離にして55Kmほどだからこれも何とか昼過ぎには着きそうです。それなら、やっぱり高野山には行きたい、ということで、先ずは藤井寺を目指しました。仲哀天皇陵のわきを通り、藤井寺商店街のアーケードの手前で車を駐車し、葛井寺にお参りしました。ここの本尊さまは、天平時代に作られた十一面千手千眼観世音菩薩で、中が空洞の脱活乾漆造りです。もちろん国宝に指定されていて、しかも秘仏ではなく、毎月18日にご開扉されるのだそうです。絵はがきで見ると、ぜひ次の機会には18日に来て、ゆっくりお参りしたいと思わせる優しさをしていました。
 そして、きびすを返すように、今来た国道170号線を戻り、富田林、河内長野、そして橋本を通過し、高野山を目指しました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.19

 2月14日、午後1時ころ高野山の大門に到着しました。ほぼ予定した時間です。途中でコンビニにまわり、パンとお茶を買い、車の中で昼食をすませました。
 すぐ、一の橋の近くに車を停め、奥の院への参道を歩きました。道の両側には雪があり、ひんやりとした空気がほほに冷たく感じました。一の橋と中の橋の途中にあるわが家のお墓に詣り、突然思い出したように来山した理由などを報告しました。そして、奥の院まで行き、今度は宗祖弘法大師に今回の西国三十三観音札所巡りのいきさつなどを話し、ご法楽を捧げました。ここは、いつ来ても心が引き締まる思いです。いまでも弘法大師はここに入定し、いらっしゃるということが当たり前のように感じられます。多くの人たちも、何度も般若心経を読み、その声が奥の院にこだましていました。
 その参道を戻るとき、御廟橋のところで修行僧とすれ違いました。その真剣なまなざしを見たとき、やはりここに来て良かったと思いました。なんでもそうですが、初心に戻るということは大切なことです。生きていて、知らず知らずのうちに垢やほこりにまみれ、それにすら気づかない忙しい日常を過ごしています。この知らず知らずが怖いことで、もう後戻りできないほど自分が変わってしまっていることに気づいてがっくりすることもあります。そんなとき、本当の自分を取り戻すには、もう一度自分の原点に立ち返ることです。私がこの高野山の奥の院に立ったのは、昭和49年3月末のことでした。それからちょうど30年。あのときここで感じたこと思ったことのいくつかを思い出しました。これをしたい、こんなことをやってみたい、ということなども輪郭だけですが思い出します。その思い出したことなどを考えながら、参道を下りました。できたこと、できなかったこともありますし、そのときは考えもしなかったことをしていることもあります。やはり30年の時間の隔たりは、相当なものです。
 一の橋を渡り、一般道に戻り、かさ國というお菓子屋さんで名物の「みろく石」を買い、それから高野山真言宗の総本山である金剛峯寺に行きました。この宗派は全国に3,600ケ寺あり、この高野山の中心でもあります。聞けば、地理的にもこの山上のほぼ中心にあるそうです。
 そこから壇上伽藍に行き、金堂、根本大塔、御影堂などを巡拝しました。この根本大塔は、弘法大師が高野山を開創されたとき、一番最初に手がけられた建物です。ただし現在の根本大塔は、昭和12年に再建されたもので、高さ約49m、四方約24mの建物です。内部は、中央に胎蔵界大日如来、四方に金剛界四仏、周囲16本の柱には堂本印象画伯の十六大菩薩などが描かれ、それ自体立体曼荼羅を表していますから、いわば真言密教のシンボルでもあります。
 ここまでゆっくりとお参りをして歩いていたら、もうすでに午後3時15分です。上ってくる途中の道の両側には残雪があり、下りの道が凍り始めるかもしれないし、さらには午後6時までには和歌山市内の営業所にレンタカーを返さなければなりません。初めてのところですし、夕方になれば道も渋滞するかもしれず、少し早めに下りることにしました。車に乗り込み、大門を通過するころには午後3時30分を少し過ぎていました。
 そして和歌山駅近くの営業所に着いたのが午後5時ころで、予定通りの行程でした。車のメーターを確認したら、今日2月14日の走行距離は、196Kmでした。二日間で420Km走ったことになりますが、これでこの新車「ist」ともお別れです。そして、何よりも無事故で過ごせたことに感謝です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.20

 2月15日は名古屋市内のホテルで会議でしたが、その晩に京都まで移動しました。翌16日は、朝に京都市内の営業所で新たにレンタカーを借り、出発しました。今日の車は、走行距離数18,826Kmの濃紺の「bB」です。
 初めに向かったのが、第21番札所菩提山穴太寺です。ここは京都府亀岡市にあり、約1時間ほどで到着しました。途中、新しい道などもあり、少し迷いましたが、着いてみるとのどかで少し寂れたような雰囲気の漂うところにありました。ちょっとはげかかった土壁もとてもすてきでした。ここは天台宗に属し、本尊さまは聖観音ですが、昭和43年に盗まれたまま、現在も行方知らずだそうです。現在の本尊さまは、佐川定慶仏師作だそうですが、以前と同じように33年ごとにご開扉されるのだそうです。
 私が感心したのはむしろ庫裡とおぼしき建物で、飾らない質素な感じにとても好感が持てました。今は、少し余裕があると、とんでもない庫裡を建て、下手すると本堂より豪華な建物に住んでいる宗教者もいます。それでは本末転倒です。それにひき替え、ここは古い建物をとても大切に使い、生活も質素にしているという感じが伝わってきます。もちろん現実は分かりませんし、後から知ったことですが、この建物は日光輪王寺から贈られたもので、江戸時代中期の陣屋造りだそうです。それでも、私はここを今回の一押しにします。ぜひ機会があれば訪ねてみてください。
 ここを出発したのは、午前10時37分で、兵庫県宝塚市にある中山寺を目指しました。国道423号線を兵庫県に向かって走っていると、まったく偶然に「勝尾寺」の標識を見つけました。ナビにばかり頼っていては見つからなかったかもしれません。そこで、少し戻り、その標識の示す方向に向かいました。山道を上り、午前11時20分には勝尾寺に着きました。ここは大阪府箕面市にありますが、箕面川治ダムよりもっと先の方です。
 第23番札所応頂山勝尾寺は、明治の森箕面国定公園の一角にありました。境内はきれいに整備され、とくに多宝塔を望む石段の両脇には大株の西洋シャクナゲが植えられてありました。花時には、素晴らしい景観になることと思います。そこを右に曲がり、さらに左に曲がり、ちょっと下ったところに本堂がありました。ここは高野山真言宗に属し、本尊さまは十一面千手観音です。でも、本堂を塗り直したのかどうかですが、あまりにも朱の色が強すぎます。山内の自然景観に浮き上がっているように見えます。もちろん、この見え方には個人差はあるでしょうが、私にはそのように見えました。
 約1時間ほど参詣し、出発したのは午後12時10分でした。途中、箕面ビジターセンターがあり、箕面滝は「日本の滝100選」にも選ばれているそうですから、季節の良いときにもう一度来てみたいと思いました。そして、国道171号線を中山寺に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.21

 2月16日午後1時、第24番札所紫雲山中山寺に到着しました。ここは兵庫県宝塚市にあり、阪急宝塚線の中山駅からすぐのところにあります。この日は縁日に当たっていたのかどうか分かりませんが、お参りの方が多くいました。石段のわきにエスカレーターが完備されていて、お年寄りにはとてもやさしい設備です。これには賛否両論があるかもしれませんが、足腰の都合により選べることはありがたいと思います。
 中山寺は真言宗中山寺派の大本山で、本尊さまは十一面観音で、毎月18日にご開扉されるそうです。ここは、長谷寺の徳道上人が石棺に宝印を納めたのを花山天皇が掘り起こし、それをきっかけとして西国三十三観音霊場を再興したといういわれのある寺でもあります。そのような縁で、ここが西国三十三観音札所の第1番だったこともあるそうです。
 この本堂の裏手には、大師堂があり、そこからは市街地を一望できます。さらに上ると中山観音公園があり、ハイキングコースもあります。参拝者を見ると、ここが市民の憩いの広場になっているような感じです。また、ここは安産祈願の寺としても有名で、若い夫婦や赤ちゃんを抱いてお礼参りをする姿も多く見かけました。
 ここから次に第22番札所補陀洛山総持寺に向かいました。いったん国道171号線に戻り、東海道本線の摂津富田駅近くで細道に入り、茨木市の総持寺に着いたのが午後2時25分でした。すぐ駐車場に車を停め、立派な山門をくぐり、本堂にお参りしました。本尊さまは千手観音で、織田信長の茨木合戦の際、ほとんどの堂宇を焼き尽くされたが、本尊さまだけが下半身は黒こげになったものの上半身は焼けなかったといいます。ご開扉は4月の1週間だけですが、火伏せ観音とも呼ばれ、参詣者も多いそうです。また4月18日には、テレビなどで見たことがありますが、食材にはいっさい手を触れずに調理する「山陰流(四条流)包丁式」があるということでした。
 ここから、さらに第20番札西山善峰寺に向かいました。ここは京都市西京区にありますが、まったくの山の中の寺でした。国道171号線の長岡あたりから一般道に入り、細い山道を15分ほど入ったところにありました。総持寺を出発したのが午後2時55分で、善峰寺に到着したのが午後4時ですから、1時間少々かかったことになります。すでに参詣の方は一人もなく、静かにゆったりと、しかもお寺の人の勧めで本堂の中に入ってお参りできました。本尊さまは千手観音で、天台宗に属しているということでした。
 お参りをすませ、さらに石段を上ると、枝を長く伸ばした松がありました。これが「遊龍の松」で、樹齢約600年で枝の長さが北に11m、西に28mということでした。高さは、3mもなさそうですから、まさに横に龍が広がったような形をしています。そのわきから、京都市内を眺めると、ここがいかに山寺かということがよく分かります。
 時計を見たらまだ午後4時35分です。もしかすると、もう一カ所今熊野観音寺まで行けるかもしれないと考え、出発しました。しかし、国道171号線に入る手前で渋滞に巻き込まれ、171号線に入ったのは午後5時12分を過ぎていました。もうまっすぐレンタカーの営業所に向かうしかありません。途中の東寺付近のガソリンスタンドで満タンにし、河原町営業所に着いたのが午後5時46分でした。返す予定は午後6時ですから、なんとか間に合いました。メーターを確認したら、18,979Kmですから、今日の走行距離は、153Kmでした。京都河原町を出発し、京都府亀岡市、大阪府箕面市、兵庫県宝塚市、大阪府茨木市、そして京都市西京区と153Kmの札所巡りでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.22

 2月17日、おそらく今日で西国三十三観音霊場巡りも満願を迎えるという気持ちで起き出しました。昨夜の予定では、今熊野観音寺から初めて革堂で終わるようにするつもりでしたが、急遽、ホテルの近くの革堂からお参りをすることにしました。
 第19番札所霊ゆう山行願寺(通称革堂)は、中京区の寺町通りにあります。山号の「ゆう」という字は、パソコンのフォントになく、鹿の字の下に七という字を書き入れたものです。通称の革堂は、「こうどう」と読ませ、開基の行円上人は元狩人でつねに鹿皮の衣を身につけていたことによるのだそうです。その狩人だったとき、射止めた鹿の腹に子が入っていてまだ生きているのを見て、殺生の罪の深さを知り比叡山の横川で修行したといいます。鹿はお釈迦さまが初めて説法したところが鹿野苑ですし、そこにも鹿はいましたから、仏教と縁があるのかもしれません。
 本尊さまは千手観音で、宗派は天台宗です。比叡山の横川で修行した行円上人が開基ですから、当然といえば当然ですが、この当然がそうではないのがお寺の歴史の不思議さです。この西国三十三観音霊場を巡ってみても、ここは真言宗だろうと思っていたら、まったく違っていたということが何度もありました。それが悪いということではないのですが、なんとなく割り切れない思いはありました。ほかの世界ならいざ知らず、お寺だけは一貫したものがあってもいいのではないかと思います。
 ここから歩いて次に向かったのは、第18番札所紫雲山頂法寺(通称六角堂)です。ここは同じ中京区ですが、御池通からちょっと入ったところで、あの華道の池坊家元が住職を務めるお寺です。寺伝によりますと開基は聖徳太子だそうで、本尊さまは如意輪観音で秘仏になっています。そのかわり、同じお姿をされた前立仏が祀られ、また重要文化財に指定されている毘沙門天像も安置されています。池坊というぐらいですから、大きな池でもあるのかと想像していたのですが、作りがけの小さな池があるだけでした。正面から見ると六角堂には見えないのですが、わきから見ると六角形の端正なお堂が見えます。なにぶん境内地が狭いので、見渡すということまではできないのですが、なんとか山門のぎりぎりの所からお堂の写真も撮れました。先ほどの革堂もここの六角堂もそうですが、いわば町衆の信仰で護られてきたお堂で、集会場の役目もしていたようです。だからかもしれませんが、人を威圧するような建造物もなく、ただ本堂だけがひっそりと建っているように見えました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.23

  第18番と第19番は歩いて回ったのですが、第15番札所新那智山観音寺(今熊野観音寺)は東山区の泉涌寺の近くにあるので、車を利用しました。市バス泉涌寺道から入り、10分ほど歩き朱塗りの鳥居橋を渡ると観音寺に着きます。ここは泉涌寺の塔頭寺院でもあり、四国八十八カ所お砂踏みでも有名なところです。
 石段の途中に子まもり大師像がまつられ、本堂わきの石段の上には大師堂もあり、ここは真言宗のお寺だということが分かります。本尊さまは十一面観音で、寺伝によると、空海がこの地を訪れたとき、熊野権現と名乗る老人が1寸8分の十一面観音を託し祀るように言い残したといいます。そこでその話しを聞いた嵯峨天皇の命により空海がお堂を建て、新たに1尺8寸の十一面観音像を造り、その胎内にその老人から託された観音像を納めたということです。現在は、その前立本尊がありお参りできるようになっています。
 本堂の右奥の小高いところに見える多宝塔は日本唯一の医聖堂で、日本の医学の発展に寄与した人たちを祀るのだそうです。これは昭和59年に完成しましたが、現在も本堂の一部を手直しをしていました。
 次に向かったのは、第17番札所補陀洛山六波羅蜜寺です。バス停の泉涌寺道まで戻り、市バスで清水道まで行き、そこから京阪五条駅のほうに進みました。何度か道行く人に尋ねながら細い路地を歩き、たどり着きました。ここは真言宗智山派ですが、市の聖として有名な空也上人の開基されたお寺です。ですから、ここにはあの教科書にも掲載されている口から化仏を吹き出している空也上人像があります。私には、意外なところで懐かしい像に出会ったような感じでした。それに、ここはあの六波羅探題があったところだというし、お寺の北側には六原小学校があるということで、寺名にも納得してしまいました。
 本堂は真新しく感じましたが、昭和44年に解体修理されたのだそうで、重要文化財です。そのとき発掘調査なども行われ、泥塔なども出土したそうです。本尊さまは十一面観音で、空也上人が市中を引き回したときの像だとありました。その本堂南角には、新しそうなブロンズの縁結び観音像が立っていて、修学旅行の女生徒たち、しかも今時珍しいセーラー服を着て真剣に手を合わせていました。
 ここで時計を見ると、もう午前11時45分。そういえば、これまで昼食は、ほとんどが車の中でパンやおにぎりを食べる程度でしたので、今日ぐらいは食堂で食べようと思いました。東大路通に出て、その通りに面した「甚六」というお蕎麦屋さんに入り、ノートをまとめながらお蕎麦をいただきました。やはり、ゆっくりといただくと、食べたような気がします。車の中で食べると、いかにも腹が減ったから食べるというだけです。ここで少しゆとりを持って最後の札所に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.24

 さあ、これで最後の第16番札所音羽山清水寺です。
 五条坂からちゃわん坂の方に向かい、いかにもかって知ったかのように歩きました。考えてみれば、この清水寺には少なくても5〜6度は来ているはずです。この前訪ねたときも京都陶磁器会館や朝日堂を見て歩きましたが、今日は一心参りです。寄り道をせず、そのままちゃわん坂を上り、清水寺の山門前に立ちました。
 この山門は、色鮮やかな朱塗りになっていて、ちょっと浮いたようにも見えますが、そのまま三重の塔のわきを抜け、拝観券を求め、本堂に向かいました。この舞台造りは、西国三十三観音札所のなかにもいくつかの寺院で見かけましたが、やはり一番大がかりで、見事なものです。ちょっと人が多いのが難点ですが、先ず本堂西側に祀られている大黒天に参拝し、それから本尊さまの十一面千手千眼観世音菩薩にお参りしました。しかし厨子の中に祀られていると思ったのですが、現在は保存のため宝蔵殿に移されていると聞き、ちょっとガッカリしました。確かに文化財といえばそうかもしれませんが、信仰者の立場からいえばお参りをする対象であり、保存云々の問題ではありません。そこにいらっしゃると思ってお参りをしたのに、別なところに保存されていると聞けば、いささか肩すかしを食らったようなものです。もちろん、本堂などの建物もそうですが、お参りをする場所であって、鑑賞するものではないはずです。この舞台の端でしばらく眺めていると、お参りをするというよりは、ただ見回している方々のほうが断然多いことに気づきました。それも本尊さまがいらっしゃらないのだから当然というば当然なのかとも思いました。
 それから釈迦堂や阿弥陀堂、奥の院などをお参りし、そのまま三重の塔のほうに向かって歩きました。そして、ふと、本堂の方を眺めてみると、その檜皮葺きの屋根の少しふくらみを持たせた優美な姿に目が釘付けになりました。今まで、何度も来て気づかなかった美しさです。この本堂は1633年に徳川家光の寄進で再建されたそうですが、屋根だけはその後も何度か補修されているはずです。それでもこのふくらみを残してきたことに、感動すら覚えました。山門や経堂、開山堂などにはない日本独特の丸みです。これを見つけただけで、ここを西国三十三観音札所の最後にして良かったと思いました。
 日本の宗教建築物の良さは、反り返った鋭さや、人を威圧するような大きさではないように思います。いわば優しいなで肩のようなもので、いつでも人を受け入れてくれるような寛容さです。宗教というのは、本来は、今生きて悩み苦しんでいる人たちを救うものでなければなりません。人を拒絶したり、寄せ付けないようなものでは困ります。誰でも気軽に訪ね、好きなだけ時間を過ごせるところが必要だと思います。

 この西国三十三観音札所をすべて巡り終え考えてみると、観音さまのご慈悲、優しさに触れた旅だったように思います。そして、その観音さまのご慈悲をそのまま他の人に差し向けなさいということだと感じました。観音さまの放つ慈悲の光りを、自分だけでなく、多くの人たちと共に、全身で受け入れることこそ有り難いものです。共に生き、共に楽しめる、その共にという姿に、人としての優しさ、柔らかさがあると思いました。最後に、今、私の床の間に掲げている元清水寺住職大西良慶師が書かれた『清風座中起』を紹介してこの連載を終わりにしたいと思います。
 よくお茶席で見かけるのは、『歩々起清風』ですが、これは一歩一歩あゆむごとに涼しい風が吹いてくるという非常に爽やかな情景を表しています。そして、さらに日々努力し続けた人の一挙手一投足がとても美しく感じられるという意味でもあります。では、『清風座中起』の清風も同じかというと少し違いまして、この清風は爽やかさだけではなく、なごやかな雰囲気にいつも包まれ、円満なさまをも表しているのだそうです。そういえば、大西良慶師が92歳のとき、ノーベル賞作家であるパールバックさんが清水寺を訪ねられたことがあります。そのとき、パール・バックさんが、大西良慶師に、自分の一生を振り返っていつの頃が一番よかったでしょうかと質問されたそうです。すると師は、即座に「そやなあ、今が一番ええなあ」とお答えになりました。  「今が一番ええなあ」・・・・・。この何気ない言葉ではありますが、92歳になって言えるということは素晴らしいと思います。その歳になれば、身体は思うように動かない、耳もよく聞こえないし、目もよく見えなくなる、いくらでも愚痴はでてきますが、「今が一番ええなあ」と思って暮らせれば、それぐらい幸せなことはありません。
 ぜひ、この連載をお読みいただいた皆さまがたも、この共に生き、共に楽しみ、さらには「今が一番ええなあ」と思いながら生きていただきたいものです。
 長い間の連載におつきあいいただき、本当に有り難うございました。心から感謝いたします。



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