☆信達三十三観音札所巡り Part.01

 2021年の春に、近いこともあり福島の信達三十三観音をまわってみたいと考えていましたが、新型コロナウイルス感染症の影響で海外はもちろん県外にも出歩けないような状況が続きました。そこで、湯殿山が丑年ご縁年なので、何度か庄内に行ったり、月山に登ったりしましたが、県外には出かけませんでした。
 信達というのは、信夫と伊達郡のことで、今は福島市、伊達市、伊達郡となり、古くから観音信仰の篤い地域です。公式ガイドブックには、江戸時代の天明8(1788)年の『佐原村根元記』に「信達三十三観音霊場」の縁起書があったと書かれているそうで、そのあたりから盛んになったのではないかと書いてあります。おそらく、江戸時代中期になると、特に信達地方は養蚕が盛んだったこともあり、暮らしも豊かになり、観音さまをお詣りする余裕もできたのではないかと思います。
 新型コロナウイルス感染症のさまざまな規制が解除になったのは、10月1日からです。そこで、さっそく第1回目の信達三十三観音札所巡りを10月6日から始めました。ここから一番近いところは、第9番札所「鯉返り観音」ですが、調べてみると、42.7q、所要時間43分です。やはり、東北中央自動車道ができたことで近くなり、しかも福島大笹生インターまでは無料ですから、とても便利です。この札所は、インターから1.2qしか離れてなく、自宅を出たのは7時30分で、この札所に着いたのは8時15分でした。
 ここはフルーツライン沿いにあり、かや葺き屋根の観音堂はとても目立ち、以前からこの近くを通ったときには気になっていましたが札所観音さまとは知りませんでした。しかもなぜ「鯉返り観音」というのか、それも不思議でした。ご住職にうかがうと、八反田川湧水の里に飛泉があり、鯉はその水の勢いに押されて遡上できず引き返したことから「鯉返り観音」と呼ばれるようになったそうです。だから、恋愛成就や若返りのご利益もあるとか。
 先ずは観音堂にお詣りし、他の札所と同じように観音経偈と諸真言を唱えました。

 お詣りをすませ、改めて境内を見回すと、「信達札所第九番 鯉返観音霊場」と大きな白御影石に掘られた石碑があり、お堂の右脇には観音石像があり、その足元の両脇には波に乗った鯉が添えられていました。さらに境内地には七福神石像や修行大師像、そして山門の右手前には六地蔵もまつられていました。
 山門から入り、本堂わきの庫裡に行き、ご朱印を頼んで辺りを見回すと、そこにはアショーカ王の獅子柱頭があり、2012年12月6日にインドのヴァイシャリーで見た石柱を思い出しました。このときはたった一人でインドに行き、5日の夜遅くデリーに着き、翌日に最初に向かったのがここでした。ヴァイシャリーはその当時リッチヴィ族の首都で、お釈迦さまはこの地を何度も訪れ、説法をしました。ここには今もストゥーパが残っていて、アショーカ王の石柱も高々と建っています。そこに真っ赤な夕陽があたっていて、お釈迦さまの時代を彷彿とさせてくれました。しかも、ヴァイシャーリーで弟子たちに死期の予告をし、北へと最期の旅に出たのですから、仏教四大聖地ではないのですが、非常に重要なところです。
 この地で、お釈迦さまはアーナンダに「アーナンダよ、ヴァイシャーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。タフブッダ霊樹の地は楽しい。サーランダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。」(中村元博士訳)と話したそうです。一般にはこの世は苦だと常々話していたのに、ここでは美しいとか楽しいというのですから、おそらくアーナンダ、日本では阿難尊者といわれていますが、びっくりされたのではないかと思います。私は、それほどにここは素晴らしかったか、これから入滅されることから本心が吐露されたのではないかと思っています。
 私は最後の旅ではなく、ここから始まる信達三十三観音札所巡りですが、天気も良く、観音さまにも見守られて、順調に進みそうな予感さえしました。
 そういえば、観音さまの教えは『法華経』と『般若心経』に主に説かれていますが、なんといっても『法華経』の第25番目の「観世音菩薩普門品」が有名です。私も観音堂でお詣りするときには、この「観世音菩薩普門品第二十五」の偈をとなえます。そこで、今回の信達三十三観音を巡りながら、その観音経についても触れてみたいと考えています。
 大福寺の山門で一礼し、帰り道でいろいろな石像を眺めながら歩いていると、お寺の右脇に鴫原石材工業があるのを見つけ、なんとなくなるほどと思いながら車に乗り込みました。
 時計をみると、午前8時35分です。次は第10番札所「宿縁寺観音」です。ナビでは1.1qだそうで、3〜4分で着きそうです。

 第9番札所「鯉返り観音」 別当寺 愛宕山 大福寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 観音寺 誓いぞ深き こひかえり 聞くもすずしき わく水のおと



☆信達三十三観音札所巡り Part.02

 第10番札所「宿縁寺観音」は、「鯉返り観音」のすぐ左脇の横道を入り1qほど進むと、左側にありました。
 山門の左側に駐車場があり、そこに車を駐めたのが午前8時37分ですから、予定通り着いたようです。先に山門をくぐり、本堂にお詣りし、それから右手にある庫裡の玄関でベルを鳴らすと、すぐに出てきてくれました。そして、ご朱印帳を預け、観音堂に向かいました。お堂は、庫裡の裏を通り、山のほうへ歩くと、その先にあります。
 参道の左側にはツバキが植えられていて、右側は畑になっていました。でも、今は耕作していないようで、少し荒れたような感じです。
 お堂の手前には石段があり、その右手前には桜の老木があり、石段のすぐ左手にはツバキの大株がありました。右側には小さな石に「第十番札所」とだけ彫られた碑があり、ここが第10番札所「宿縁寺観音」であることを示しています。お堂の手前両側には石灯籠があり、修理されたところが真新しいようでした。
 観音堂の扁額は「如意殿」とあり、どなたが書かれたものかはわかりませんでした。ここを「宿縁寺観音」というのは、昔ここに宿縁寺という寺院があったそうで、二度の大火で堂宇を焼失してしまい、廃寺になり、現在別当をしている安楽寺に引き継がれたそうです。
 先ずは観音堂にお詣りし、他の札所と同じように観音経偈と諸真言を唱えました。

 お詣りが終わり、お堂の周辺をまわると、じつはお詣りしたところは礼堂で、もともとのお堂は後ろにあり江戸時代に建立されたものだそうです。大きさは二間四方あり、宝形造りになっています。お堂のなかは見えなかったのですが、案内所によると32体の観音さまが安置されていて、ご本尊さまの如意輪観世音菩薩は安楽寺に安置されているそうです。つまり、あわせて三十三観音を巡れるようになっています。
 そこから、安楽寺まで戻ると、庫裡の右手前に大きな大王松がありました。こんなにも大きな大王松を見たことがないので、その来歴を書いた案内板を見ると、大正3(1914)年に大正天皇のご即位記念として植樹されたものだそうで、現在は福島市の天然記念物に指定されているそうです。この大王松は、もともとはアメリカ合衆国東南部に分布しており、平均的な樹高は30〜35mですが、なかには50m近くまで成長する大型のマツの仲間です。おそらく、ここの環境がよかったのか、今も元気に育っているようです。
 そういえば、だいぶ昔に読んだ『観音経講話』のなかに、出典などの説明はなかったものの「即ち古人も咏じましたやうに『柳は染む観音微妙の色、松は吹く説法度生の声』で、『山のいろ谷のひゞきもさながらに我が釈迦牟尼佛の声と姿ぞ』と達観するに至るのであります。」と書いてありました。ここ安楽寺にはこの大王松だけでなく、山門の両脇や参道にもきれいに刈り込まれた松の木があります。
 それらが秋風にざわざわと音を立てていると、それすらもお釈迦さまの説法かもしれないと思い、つい耳を傾けてしまいます。ここは、それほど静かなところで、ゆったりとお詣りできました。
 ご朱印も、あらかじめ連絡をするように案内書にあったので、スムーズにいただけました。
 車に戻り、時計をみると、午前9時でした。次は第8番札所「清水観音」です。ナビでは5.8qあり、10分以上はかかりそうです。

 第10番札所「宿縁寺観音」 別当寺 岩松山 安楽寺(曹洞宗) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 かきわけて 登ればここに 宿縁寺 迷ひを照らす 山のはの月



☆信達三十三観音札所巡り Part.03

 第8番札所「清水観音(きよみずかんのん)」は、「宿縁寺観音」からいったん第9番札所「鯉返り観音」まで戻り、そこを右折し、すぐの信号を右折し福島西部広域農道を進みます。すると右側に「貴福茶屋」があり、その先を右折し山手に入り、150mほどで左下に、そこから300mほど進むと右側に看板がありました。ここに着いたのは9時15分です。
 駐車場は乗用車なら5〜6台は駐めておくことはできそうで、そこから観音堂の方を眺めると、石段のわきには鬱蒼とした杉並木が見えます。その右手前には福島市の天然記念物に指定されている「清水観音の大樅」があり、おそらく幹周りが8mほどはありそうです。この参道を夏にでも歩けば、さわやかな風が杉木立のなかを通り抜けてきて、一段と清々しい気持ちになりそうです。
 その長い石段を上ると、山門が見えてきて、鐘楼堂を兼ねていて、そのわきには「清水観世音 御縁日 毎月十八日」と書かれた案内板が立っていました。そこをくぐると、また石段があり、そこを上りきると両脇には石灯籠があり、その先にお堂がありました。お堂のところには、白い板に「普明照世間」と筆で書いたものが掲げられていて、そこでお詣りをするようになっていました。

 先ずは他の札所と同じように観音経偈と諸真言を唱えました。
 そういえば、二宮尊徳の伝記「報徳記」を読んだとき、二宮金次郎が世を救い人を助けようという広大な願いをおこすに至ったのは、小田原の飯泉観音(坂東三十三観音第5番札所)で旅の僧の読誦する国訳観音経を聴いたからと書いてありました。原本には「先生14歳の時、隣村飯泉村観世音に参拝し、堂下に坐して念ずることあり。こつぜんとして行脚の僧来たり、堂前に坐し読経す。その声微妙、その経、深理広大、一聞了然として意中歓喜にたえ」とあります。
 おそらくそれまでも何度も観音経を聴いたり唱えたりしていたでしょうが、漢訳ではなかなか理解できなかったと思います。それで私も、あるところでこの二宮尊徳の話しをして、皆の了解を得てから観音経を読み下しで唱えたことがありましたが、皆さんからはちょっと有難みが少ないといわれ、がっかりしたことがあります。
 でも、別の本には、二宮金次郎が14歳のときに観音経普門品を聞いて悟ったということで、そのお寺の和尚さんから「お前は普門品を一遍聞いて悟った。これからどれだけ偉くなるかも知れない。わしの寺を譲るから養子になれ」と言われたと書かれています。すると、尊徳は「私は百姓だ。百姓をしてこの観音経を実行するのだ」と言ったそうです。
 やはり、お経を読むだけではだめで、それを理解し、実践をすることが大切だということです。
 清水観音の駐車場に戻ってきたのは9時32分で、そこから別当寺の清水寺(せいすいじ)に向かいました。ここから2.4qほど離れているそうで、福島市立庭坂小学校のすぐ裏手にあります。案内書に、「別当寺においでの際、ナビを清水寺に合わせると、旧道案内で危険なため、庭坂小学校を目標においでください」と書いてあり、これはとても参考になりました。
 そういえば、だいぶ前の話ですが、西国三十三観音めぐりのときに、第28番札所成相寺から第26番札所の一乗寺に向かう途中で、たまたま1週間前に高速道路が開通したと聞いていたのに、ナビにばかり頼っていたからか、その標識を見つけられず、以前のつづら折りの山道を走ったことがあります。もちろん、ナビの新旧やくせなどもありますので、一概にはいえませんが、このようなコメントを書いていただくと本当に助かります。
 ここには9時47分に着き、広い駐車場に車を駐め、庫裡のところでご朱印をいただきました。ここを出発したのは9時52分です。
 次は第6番札所「慈徳寺観音」です。ここは案内書によると事前連絡をすることとあったので、前日に電話で確認すると、午前11時から外出の予定があるからということなので、先にまわることにしたのです。清水寺からはナビで確認すると7.8q、14分かかるそうで、ゆっくり行けそうです。

 第8番札所「清水観音」 別当寺 永昌山 清水寺(曹洞宗) 本尊さま 千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 祈るには 草木もなびく 庭坂の 清水寺に はこぶあゆみを



☆信達三十三観音札所巡り Part.04

 第6番札所「慈徳寺観音」は、清水寺からいったんフルーツラインまでもどり、「吾妻の駅ここら」を左に見てそのまま直進します。そして市内佐原の信号を右折し、福島県あづま総合運動公園の陸上競技場駐車場の少し手前から斜めに右折し、原の観音さまわきの鍛冶屋川を渡ると山手の方にお寺が見えてきます。近づくと福島市の天然記念物に指定されている「慈徳寺の種まき桜」が見えました。
 お寺の真下の駐車場に車を駐め、右側にある石段を上ると、真正面が本堂です。そして右側に庫裡があり、案内所に要連絡とあったので、昨日電話を入れたら、午前11時から所用で出かけるということだったので、最初の予定では第7番札所の白津山観音をまわってからと考えていたのですが、先にここにお詣りすることにしたのです。
 なので先に庫裡に寄り、ご朱印をお願いし、それから観音堂に向かいました。お堂は本堂から少し離れた左側にあり、現在の建物は江戸時代の1854年に再建されたものだそうです。ここでも、他の札所と同じように観音経偈と諸真言を唱えてお詣りしました。

 観音堂の裏手は杉林になっていて、ここからは福島市街地がよく見渡せます。ところどころにベンチがあるところをみると、季節の良いときにはここまで上ってきて、お詣りをし、ここに座ってゆっくりするのかもしれません。夏でも、杉林を通り抜けてくる風は涼しくて気持ち良いようです。
 先ずは急いで庫裡にもどり、ご朱印をいただき、そこから階段を下って車にもどりました。そして、左側の観音堂への道を上り、再度、ゆっくりとお詣りしました。ここのご本尊さまは聖観世音菩薩ですが、ときに正観音とも書く場合があります。でも、どなたに聞いてもほとんど同じ観音さまと答えられているようで、六観音の一つで地獄道に迷う人々を救うとされています。そして、千手観音や十一面観音などの六観音はさまざまな姿に身を変えて救いの手を差し伸べますが、そのような変化観音と区別するために聖観音と呼ばれるようになったようです。そして、水瓶やつぼみの蓮華を持つことが多いのですが、厳密には左手に未開敷の蓮華を胸前に持ち、同じく胸前右手をたててその花びらを開こうとする胎蔵曼荼羅中台八葉院、蓮華部院の観音の姿が正統とされています。
 ここでは、先に観音経を唱えたので、このときには般若心経を唱えたのですが、これは観音菩薩の功徳を説いたものです。
 唱え終わってから、種まき桜のところへ行き、案内板を読むと、この桜はシダレ桜で、エドヒガンからできた園芸品種だそうです。太さは根回り2.7m、目通り2.5m、樹高は12.3mで、樹齢は200〜250年と推定されるそうです。日付けは昭和45年10月3日になっているところをみると、その頃に福島市の天然記念物に指定されたようです。
 駐車場に戻ると、10時40分でした。次は第7番札所の「白津山観音」です。ここ慈徳寺からは2.9qほどもどることになりますが、来た道なのでわかっているだけにあっという間に着きそうです。

 第6番札所「慈徳寺観音」 別当寺 宝珠山 慈徳寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ゆきむかふ 佐原をすぎて 慈徳寺の 山よりおくに はるる夕だち



☆信達三十三観音札所巡り Part.05

 第7番札所「白津山観音」へは、福島西部広域農道を戻り、杉林のなかの祠群のところから左折し、県道126号線を微温湯温泉のほうに850mほど走ると、右側にあります。
 そこの少し入ったところに車1台分ほどの駐車場があり、そこに駐めました。時間は10時45分ですから、慈徳寺観音から5分ほどで来たことになります。そこから少し上ったところに対になった門碑があり、右側には「信達札所 七番 白津山」と彫られていて、左側には「微温湯道路改修記念」と彫られ、石の形と状態からすると、ほぼ同じときに対で建てられたようです。
 そこから車の通る山道は、ゆるく右に曲がるのですが、観音堂はそこをまっすぐに進みます。すると石段があり、その先に小さな石橋がかかっていて、そのとき、ご詠歌に出てくる「池にかけはし」ではないかと思いながら渡りました。その石橋の左には、白く染められた角材に、「白津山観音(信達三十三観音第七番札所)」と書かれていて、間違いなくここは 白津山観音だと思いました。
 観音堂はさらにその奥にあり、一段高くなったところに建てられていて、その両側には同じ石灯籠が並んでいました。案内板によると、お堂は何度か野火にあい、現在のお堂は明治11年に12月に再建されたそうです。そのときの仏堂「明細帳」には、本尊聖観音と登録してあるそうです。

 その一段高くなった観音堂に3段の石段を上り、その前に立ち、いつものように観音経偈を唱え、聖観音のご真言などもあげました。お堂の周りは杉林ですが、樹齢20年ほどの木なので、鬱蒼とした雰囲気はなく、どこからともなく吹く風は、とてもさわやかでした。
 そういえば、観音経偈のなかに、「無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間」というのがあり、これを訓読すると「無垢清浄の光ありて、慧日は諸の闇を破り、能く災いの風火を伏して、普く明らかに世間を照らす」となります。つまり、慧日とは「智慧の太陽」のことで、無垢で清らかな光をもって、もろもろも苦しみの闇を破り、災いの風火を消し去り、すべての世界を照らすだろう、というような意味です。このなかに「風」という言葉がありますが、この風さえも台風などを思い起こせば、大きな災害になることもわかります。また、東日本大震災での風評被害なども、このなかに入りますし、最近のインターネットによる誹謗中傷やいじめなどの問題ばかりでなく、自分に対するうわさや評価などを気にして、他人を恨んだり嫉んだり、さらにはそれが原因で体調を崩してしまう人もいます。
 風というのは、目に見えないからこそ、その被害もわかりにくいところもあり、お互いに気を付けなければならないのです。
 ここ白津山観音のご朱印所は福島市上名倉の東源寺で、ここから5.5qほどです。ここを出発したのは10時50分で、東源寺に着いたのは11時2分でした。
 お寺の前に駐車場があり、そこに駐めて門柱のところから入ると、まっすぐが本堂で、その右手に松があり、その先には車椅子でも上れるようなスロープがあり、そこからも庫裡に行けるようです。私はその手前から入り、ご朱印をお願いし、その間にお詣りをしました。「白津山観音」では、観音経を唱えたので、ここでは般若心経を唱え、それからご朱印帳をいただき、車にもどりました。
 門柱の左手には掲示板があり、そのなかに「心ひとつに南無大悲観世音 みちのく信達三十三観音霊場」と書かれたポスターが貼ってあり、その上に「テレフォン法話」の案内がありました。たしかに、今の新型コロナウイルス感染症の拡がりのなかでは、テレフォン法話も大切な布教活動だと思います。
 駐車場を出たのは11時12分で、次は第4番札所の「円通寺観音」ですが、そろそろお昼の食事をするところを考えながら進む時間のようです。

 第7番札所「白津山観音」 別当寺 南嶽山 東源寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 花もゆき 眺めのぼれば 白津山 あかぬ心も 池にかけはし



☆信達三十三観音札所巡り Part.06

 第4番札所「円通寺観音」へは、いったん国道115号に入り、福島市方面に行き、東北自動車道の下をくぐったあたりで時計をみると、11時20分でした。そろそろお昼ご版を食べるところを考えないと思っていたら、円通寺へ向かう左折するところを過ぎたらしく、しかたなく東北新幹線の高架下のところを右折し、セブンイレブン 南福島店のところをさらに右折すると円通寺に行けそうでした。
 すると100mほど進んだ右側に、「トラットリア ラ・エガオ」というレストランがありました。エガオは笑顔ですから、これも何かの縁と思い駐車場に車を駐めると、お昼の開店は11時30分からと書いてあり、車のなかで待っていた人たちもレストランに入っていきます。私もその後について入っていくと、よくお参りにいらっしゃる方が中から出てきてくれ、すぐに案内してくれました。まさかとは思いましたが、縁というのは不思議なものです。しかも、私のところでランチの予約でいっぱいになったらしく、電話でも午後1時以降の案内をしていました。ここでは、お勧めの「エゴマ豚と茄子のショートパスタ」のセットをいただき、ドルチェ盛り合わせもたいへんおいしくいただきました。
 時計をみると12時35分を過ぎていて、あっという間の時間でしたが、観音詣りにしてはとてもいいお昼ご飯でした。車にもどり、今度こそはナビをしっかり合わせ、出てすぐの信号を左折し、永井川の信号から右折し、後はほぼまっすぐに走り円通寺の駐車場に着きました。エガオから約2qで、着いたのは12時40分ころでした。
 ここの円通寺では、第4番札所「円通寺観音」と第5番札所「城山観音」の両方のご朱印をいただくので、先に庫裡にまわり、ご朱印帳を預け、それから観音堂に行きました。お堂は本堂の左手にあり、もともとは現在の円通寺より1.1qほど北東にある舘ノ内境内から移されたそうです。

 ここ円通寺観音堂の鰐口は、大きく立派ですが、それを鳴らしてお詣りをしました。ここでも同じように観音経と諸真言を唱えました。
 ご本尊は如意輪観世音菩薩ですが、高さは75pほどあるそうですが、秘仏ということで、その前に御前立ちとして聖観世音菩薩が安置されているそうです。普通は、ご本尊と同じ観音さまが御前立ちなのですが、お堂は鍵がかけられていて、ほとんど見えませんでした。その違う理由も、どこにも書かれていませんでした。
 ここのお堂の前からは、第5番札所「城山観音」のある大森城山も見え、案内書には、ここの駐車場に車を駐めたまま行ったほうがいいと書かれていたので、そのようにしました。
 もう一度観音堂に一礼して、ちょっと考えてみると、この円通寺という寺名はどこかで聞いたことがあります。そういえば、2004年9月に広島大学の先生からの依頼で、講演したことがあります。その帰り道、前から行きたいと思っていた良寛さまが10数年もの間修行した岡山県倉敷市玉島にある曹洞宗のお寺が、ここと同じ山号で補陀落山円通寺でした。また、ここの本尊は聖観世音菩薩で、中国三十三観音霊場第7番札所、備中国浅口三十三観音霊場第1番札所、百八観音霊場第9番札所にもなっています。
 私はこのすぐ近くの国民宿舎良寛荘に泊まり、夕方と翌日の早朝にお詣りし、厳しい戒律のなかで修行し、4年目で母親の訃報を知らされても帰らず修行を続けたことなどを知りました。その場所が今では「良寛堂」となり、本堂からみて、左側にありますが、いずれもかや葺き屋根のため、とても壮麗な感じがしました。そして良寛さまは34歳のときに、ここから諸国を巡礼して歩くことになります。
 観音経偈のなかに、「具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身」というのがありますが、この意味は、「神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方諸々の国土に、刹(せつ)として身を現さざることなし」です。つまり観音さまは、神通力を持っていて不思議な計らいを、どこにいてもすぐにしてくれる、ということです。たとえそれが自分にとって不本意なことでも、後から考えれば納得できることもあります。おそらく、良寛さまも、全国を行脚することで、観音さまのような慈悲の心になられたのではないかと思います。
 次はここから歩いて次の第5番札所「城山観音」に向かいました。時計をみると、午後1時25分でした。

 第4番札所「円通寺観音」 別当寺 補陀落山 圓通寺(曹洞宗) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 おしなべて 仏もおなじ 円通寺 へだてあらじと 祈る身なれば



☆信達三十三観音札所巡り Part.07

 第5番札所「城山観音」へは、第4番札所「円通寺観音」から歩いて230mぐらいで、塀のところに「城山観音堂園・北舘供養塔」(福島市信夫観光協会)の看板があり、城山観音堂はそこをまっすぐの矢印がついていました。その左側の看板には「観音堂参道太鼓橋」とあり、その左手にはほんとうに小さな石製の太鼓橋がありました。そこを渡ると、右側に「信達札所第五番 聖観世音菩薩」と彫られた黒御影の石塔があり、さらにその先には白い四角の柱に「信達三十三観音霊場第五番札所」と書かれていました。これでは、間違いようがありません。
 そこを進むと、つづら折りの参道の端々に古い石塔が建っていて、とてもよい雰囲気です。さらに上るとツバキ観世音石像がありました。案内書によると、この辺りには野生のツバキがあるらしく、この観音像は別当寺の円通寺が平成元年に建立したそうです。
 さらに上ると参道の両脇にはキブネギクが満開に咲いていて、足取りも軽くなります。このキブネギク(貴船菊)は、もともとは京都の貴船近くに多かったことからその名が付いたようですが、おそらく古い時代に中国から渡ってきた植物のようです。というのも、この仲間のシュウメイギクは中国雲南省にたくさん自生していて、私も何度も見ています。
 そのキブネギクの花のむこうに城山観音堂はありました。

 石段を上りきると、すぐ右側に観音堂があり、その手前にも5段ほどの石段があり、そこから木の階段を4段上ると回廊になります。そこで鰐口を鳴らし、回廊の上で観音経などを唱えました。
 観音堂のなかの様子はわからなかったのですが、お堂の左脇に、白い案内板があり、その右側にご本尊さまの写真と説明が載っていました。それによると、木造聖観世音菩薩立像で、高さは170p、カツラ材による寄せ木作り、光背は輪光になっていて、小さな円が7つあり、それぞれに梵字が彫刻されているそうです。制作されたのは室町時代で、福島市有形文化財に指定されています。
 この城山は、伊達実元・成実父子2代が居城とした大森城があったところで、標高143m、東西300m、南北950mあり、現在は山頂に城址碑が建っているそうです。そこからさらに進むと、「大森鉱山(大森金山)」の説明板があり、吾妻連峰が正面に見えるそうですが、今回は観音詣りなので、次の機会に残しておくことにしました。
 城山観音堂から下り、ツバキ観世音石像の前を過ぎようとしたとき、観音さまが左手に持っているのはツバキの枝だと気づきました。ツバキを漢字で書くと「椿」ですが、これは日本人がつくった半国字で、中国ではチャンチンという木を意味します。この木は、春に白い小さな花を咲かせますが、センダン科の植物で、ツバキとはまったく違います。日本のツバキは、中国では「山茶」と書きますが、「海石榴」と書くこともあります。ちょっとややこしいですが、植物名を漢字で書くと、このような違いがときどきあります。
 たとえば、ハギもそうですが、日本の萩は日本でつくられた国字です。だから中国では「楸」と同音同義で、「トウキササゲ」を意味します。今は秋で草花も少ないので、春にでも観音さまをお詣りするときには、植物の写真を撮りながら歩いてみたいと思いました。
 ここからさらに下がって、「観音堂参道太鼓橋」を過ぎると、車道に出ます。もと来た道を間違えないように歩きながら、円通寺のご朱印所に行き、第4番札所「円通寺観音」と第5番札所「城山観音」のご朱印料をおさめ、車にもどりました。
 時間を確認すると、両観音堂で40分ほどでした。次は第1番札所「小倉山観音」で、ここからナビでみると5.7q、15分ほどです。

 第5番札所「城山観音」 別当寺 補陀落山 圓通寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 昔より 名も大森と 聞くからに あがりきてみる をちこちの山



☆信達三十三観音札所巡り Part.08

 第1番札所「小倉山観音」へは、右折して県道362号に入ります。そして、高架になった東北新幹線の越えて、国道4号線を横切ります。300mほどで阿武隈川にかかる蓬莱橋があり、それを渡るとすぐの信号から左折します。600mほど進んだ丁字路の信号機から右折し山の方に上って行きます。そして国道114号を横切ってそのまま進むと右手に案内板があり、そこからさらに山手のほうに上って行くと、大蔵寺に着きます。
 上りきったところに大きな駐車場があり、バス停もあるところをみると、ここまでバスも来ているようです。時計をみると、午後1時43分でした。大蔵寺本堂のほうに歩いて行くと、右手の大きな黒っぽい石に「信達第壹番札所 小倉寺千手観音」と彫られていて、昭和59年甲子歳を記念して建てられたと刻まれていました。そこを進むと、左側に本堂があり、その右側に庫裡があって、そこにご朱印受付所の窓がありました。そこでご朱印帳を出してお願いすると、「書いておくからゆっくりお詣りしてきてください」といわれ、そのまま先に進みました。
 そのすぐわきには「邨社八幡神社」と彫られた門碑があり、その鳥居をくぐっても観音堂に行けそうです。でも今回はあくまでも観音詣りですから、そのまま進むとまた左側に地蔵堂があり、さらに進むと左側に25段ほどの石段がありました。その石段の左側には、福島信夫ライオンズクラブが設置した「ふるさとの良さを見つけよう」という看板があり、観音堂の歴史が書かれていました。
 その石段を上ると正面に観音堂がありました。

 お堂の回廊のところでお賽銭を上げてから鰐口を鳴らし、いつものように観音経偈などを唱え、静かにお詣りしました。お詣りが終わってから、ここは信達33観音の第1番札所なので、観音堂をバックにして記念撮影をしました。そういえば、ほとんどのところで、第1番札所と第33番札所で記念の撮影をしていますが、誰もいないと気楽に写真も撮れます。
 それが終わって、もう一度お堂を振り返ると、屋根は銅板葺で、三間堂になっていて、屋根の頂上は四角くなっていて、四方に卍が描かれ、その上に赤い宝珠のようなものが載っていました。さらにこのお堂の裏にはコンクリートで造られた多宝塔があり、そこまで上ってみるとここが奥の院で、もともとはここにご本尊の観音さまがまつられていて、現在の観音堂は、その礼拝堂だったようです。そしてそのご本尊は、さらにその奥の収蔵庫に収められているそうで、木像の千手観音立像です。そういえば、先ほどお詣りした観音堂には、たしかお顔のほうは見えないぐらいの大きな聖観世音菩薩がまつられていたので、不思議だとは思ったのですが、しかたないので、千手観音と聖観音の両方のご真言を唱えましたが、間違いではなかったようです。
 しかし、ご詠歌には、「小倉寺や 松吹く風も おのづから 千手の誓い あらたなるらん」とあり、千手観音がご本尊です。そういえば、観音経偈のなかに、「弘誓深如海」というのがあり、訳すと「弘き誓いの深きこと海の如く」という意味です。つまり観音さまのご誓願は、海のように深いということで、すべて許してくれそうです。
 ちなみに、この海の世界一深いところは、1984年に日本の「拓洋(海上保安庁海 洋情報部所属)」がマリアナ海溝の10,924mと、1980年にアメリカの「トーマス・ワシントン号(スクリップス海洋研究所所属)」が測定した10,915mという結果を国際会議で協議し、現在はマリアナ海溝の最深部チャレンジャー海淵の水深値を10,920±10mと確定して、各国の海図や理科年表などにも載っています。
 そんなにも深い観音さまの誓いをいただき、ご朱印所にまわり、ご朱印帳をいただき、車にもどりました。時計をみると、午後2時5分です。
 順調にいけば、あと2ヶ寺はまわれそうだと思いながら、次の第2番札所「文知摺観音」を目指しました。ナビで確認すると、ここから7.2q、13分ほどだそうです。

 第1番札所「小倉山観音」 別当寺 宝城山 大蔵寺(臨済宗妙心寺派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 小倉寺や 松吹く風も おのづから 千手の誓い あらたなるらん



☆信達三十三観音札所巡り Part.09

 第2番札所「文知摺観音」へは、先ほどの道を右折して国道114号へ入り、そのまま進みます。すると、この道は花見山にくるときに何度も通ったこともあり、土地勘もあり、ほとんど迷わずに進むことができました。渡利大橋の手前の信号から右折して県道309号に入り、阿武隈川沿いの花見山へ行くときの臨時駐車場になる「あぶくま親水公園」を左に見て、次の信号を右折して国道115号に入ります。そして800mほど進み、左側に見える福島市立岡山小学校のところへと左折すると300mほどで左側の文知摺観音の駐車場に着きます。
 ここに到着したのが午後2時18分ですから、ナビ通りの13分で着いたことになります。やはり、何度か来ている道路もあったので、まったく迷わずに来ることができました。
 大きな駐車場ですが、車は1台もなく、どこに駐めても大丈夫なので、なるべく参道に近いところに駐め、そこから県道317号を横断して観音堂に向かいました。境内地に入るところに、「普門橋」があり、そこを渡ると、左側に鐘楼があり、右側にご朱印所があったのですが、誰もいないので、そのままお堂に行きました。
 左手側に石垣があり、そのわきに石段があるのでそこを上って行くと、右奥のほうに観音堂がありました。石垣の上の右手側には石碑やスギの大木があり、その前の菱形の石畳を歩くと、その正面が観音堂でした。お堂の右の柱には「信達三十三観音霊場 第二番」という柱札が掲げられ、左側には「奥の細道三十三霊場 第二十九番」とあり、この奥の細道三十三霊場というのは、始めて知りました。
 観音堂の戸は開けられていて、中でお詣りできましたが、鰐口の紐はなく、鳴らすことはできませんでした。

 今回の観音巡りで始めて堂内に入れたので、ここではキンを鳴らし、観音経偈と諸真言を唱えました。やはり、堂内だと数珠の摺る音もしっかりと聞こえます。私の持って行った数珠は、2002年3月にネパールの友人アンバブさんとインドのブッタガヤに行ったときに近くのボダイジュ(おそらくはジュズボダイジュ)の実を子どもたちといっしょに拾い集め、日本に帰国してから京都の数珠屋さんで造ってもらったものです。だから、とても思い出に残る念珠で、最近は観音詣りに行くときには必ず持って行きます。これを使うと、なぜか祈りが届くような気がします。
 観音堂でのお詣りが済み、お堂の右側から裏手に行くと、足止め地蔵尊石像があり、その左側の石段を上ると小さなお堂があり、そこを左に行くとなだらかな石段になり、そこを上った右側に安洞院多宝塔があります。この多宝塔は福島県重要文化財に指定されていますが、もともと多宝塔というのはお釈迦が法華経を説いたときに空中に七宝の塔が現われ、そのなかの多宝仏がお釈迦さまにその座の半分を分けたという説話に基づいて造られた建造物です。その多くが上層部が円形で、下層部が方形の覆鉢形二重の塔が一般的です。ここもそのようになっていましたが、では、安洞院多宝塔というのはなぜかというと、ここは平成28(2016)年までは安洞院が別当寺でしたが、そのときから文知摺山普門院へと変わったそうです。
 そういえば、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』の「偈」の少し前のところに、「多寳佛塔無盡意観世音」というところがあり、無尽意菩薩がお釈迦さまの説法を聞き、観世音菩薩に自分が首にかけていた金銀やいろいろな宝石がついた首飾りを差し出すところがあります。ところが観音さまはどうしてもそれを受け取らないので、お釈迦さまが間に入り、その心をくみ取って受け取るように話すと、観音さまはそれを丁重に受け取り、その場でそれを2つに分け、ひとつをお釈迦さまに、そしてもうひとつを多宝塔に捧げたそうです。そして、これを見たお釈迦さまは、無尽意菩薩に、観世音菩薩はこのように自由自在な力をしっかりと具えていて、その力をもってこの世に来ているのだと話したそうです。
 こうしてみると、お経に書いてあることも楽しい読みものですから、この「信達三十三観音札所巡り」でもときどき取りあげながら歩きたいと思っています。
 多宝塔からもどろうとしたとき、お寺の方にお会いし、ご朱印所に誰もいなかったことを話すと、すぐに戻って、ご朱印を押してくれました。今日はどこの札所もいてくれて、すべてご朱印をいただけました。とても有難いことです。
 駐車場に戻ると、午後2時43分でした。たしか第3番札所「羽黒山観音」のご朱印受付は、午後4時までなので、なんとか間に合いそうです。ナビで確認すると、ここから5.3q、12分です。市内を抜けるので少し時間はかかると思いますが、とりあえず出発しました。

 第2番札所「文知摺観音」 別当寺 文知摺山 普門院(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 きのう見し 信夫もちずり たれならん こころほとけぞ かぎり知られず



☆信達三十三観音札所巡り Part.10

 第3番札所「羽黒山観音」へは、国道115号にもどり、阿武隈川にかかる文知摺橋を渡り、国道4号を横切り曲がりながら進むと、祓川通りの信号から右折し、福島東稜高等学校のわきを通り信夫山へと上っていきます。道が狭いので、信夫山第一展望台のところへと回り道しながらなんとか「羽黒山観音」別当寺別当の薬王寺に着きました。
 時計をみると午後2時55分ですから、ナビ通りの13分で着いたことになります。ここは駐車場がないので、薬師寺の狭い石門の間を通って境内地に車を駐め、本堂の前を通って庫裡でご朱印をお願いしました。その間、その前に広がる福島市内を眺めながら、待っていました。ところどころにハス鉢があり、夏にはみごとな花が咲くのではないかと思いました。本堂の手前にはキブネギクが、そして右側の日陰のところにはキチジョウソウが咲いていました。
 10分ほど待っているとご朱印ができあがったようなので、有難くいただきました。そして、車に乗り込み、次は観音堂に行くばかりなので、時間の制限はなく、途中で遍照院を遙拝し、信夫山ガイドセンターの駐車場わきを通り、一の宮明神の駐車場に車を駐め、そこから下って「羽黒山観音」へ行きました。
 下がっていくと、左側に山王宮と三宝荒神が並んでいて、少し行くとまた左に大日如来がまつられていて、その先の右側には牛頭天王宮があり、ここはさすがに羽黒神社への参道です。さらに下がると、右奥に西坂稲荷、通称ねこ稲荷があり、すぐその下の右側に第3番札所「羽黒山観音」がありました。
 この道は車が入れないような狭い道で、さらに急勾配です。その道の右側に石段があり、そこにお堂があります。その石段の両側には新しい石灯籠があり、その左側の石灯籠の左脇に白塗りの案内柱があり、その正面には「信達三十三観音霊場第三番札所」と書かれていて、その右面にはここのご詠歌「あわれみの 月さし昇る 羽黒山 漏らさで輝す 誓いありとや」と書いてあります。

 先ずは、観音堂の前で鰐口を鳴らし、観音経偈と真言を唱え、お詣りしました。ここのご本尊は聖観世音菩薩ですが、火災で焼失してしまい、その火元のお寺より譲り受けた如意輪観世音菩薩をお前立ちとしてまつっているそうです。それが福島市の有形文化財に指定されていて、現在はこの観音堂ではなく、薬王寺本堂に安置されています。そういえば、第1番札所「小倉山観音」もご本尊は千手観音ですが、観音堂には聖観音がまつられていて、まさに融通無碍の観音さまです。
 写真でこの御前立ちの如意輪観音を拝見すると半跏像で、片膝を立てて座っている六臂のようです。右手の1手は思惟相を示し、右の2手は胸の手前で如意宝珠を持ち、右の3手は数珠を垂らしています。そして、左の上からの1手は法輪を支え、左の2手はハスのつぼみを持ち、左の3手は掌を下に垂らしています。
 写真が小さいので詳しくはわかりませんが、一般的な如意輪観音のお姿のようです。このハスのつぼみは、「未敷蓮華」といい、真の悟りを開く直前の大菩薩の悟りを表しているそうです。そういえば、仏教の世界では、花のなかでもよく取りあげられるのがこの蓮華で、汚れた泥のなかからでも美しい汚れのない大輪の花を咲かすことから、「泥中蓮華」のたとえもあります。
 そもそも、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』というお経の題名にも「蓮華」という文字が使われているぐらいですから、宜なるかなです。
 そういえば、私が始めてインドに行ったのは1986年4月で、ブータン王国に行った帰りにカルカッタ、今のコルカタに2泊しました。なぜかというと、ブータンからの飛行機は毎日飛ぶことはなく、ここから日本に帰る飛行機に乗るには時間的な余裕が必要だったのです。そこで、せっかくの機会なのでカルカッタ植物園に行くことになり、始めてバンヤン樹や鳳凰木、オオオニバスなどの熱帯の花を見ました。そして、そのなかのハス池で真っ白なハスを見つけたのです。
 インドでは、ハスのなかでも一番高貴なのが白花のハスで、とても大切にされていました。その後、2011年の3月にスリランカに行ったときも、大きな寺院には白ハスがあり、やはりハスは仏教のシンボルでした。
 そして思い出したのが、さきほどご朱印をいただいた薬王寺の鉢植えのハスです。
 今回の信達三十三観音札所巡りは、ここでいったん終了です。次は新型コロナウイルス感染症の状況次第なので、先ずは帰宅することにしました。先ほど車を駐めた一の宮明神の駐車場まで戻り、時計をみると午後3時38分でした。
 帰りは十分に時間があるので、この一の宮明神の前をそのまま進み、信夫山第三展望デッキのわきを通り、ほぼ信夫山を一周するかのように遠回りをしました。そして、先ほど入ってきた福島東稜高等学校のわきから、祓川通りへ右折し、信夫山トンネルの手前から国道13号に入りました。
 ここからの道路は、何度も通っているのでナビがなくても大丈夫です。自宅に着いたのは午後4時55分でした。今日、車で走った距離は152.4qで、私自身の歩数は12,019歩でした。
 すぐに、今日1日のお詣りの無事を大黒さまに報告し、次の機会が早く訪れるようにとお願いをしました。

 第3番札所「羽黒山観音」 別当寺 青葉山 薬王寺(天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あわれみの 月さし昇る 羽黒山 漏らさで輝す 誓いありとや



☆信達三十三観音札所巡り Part.11

 10月6日に第1回目の信達三十三観音札所巡りをして、新型コロナウイルス感染症の状況をみようと思っていたら、意外と感染者は少ないようです。また、県外へ出かけることもできるし、何よりも福島市の感染者がいなかったので、あまり間を開けずに第2回目の札所巡りをすることにしました。
 10月8日、午前7時27分に自宅を出発し、この前と同じように米沢中央インターから東北中央自動車道に入り、福島ジャンクションから東北自動車道に入り、国見インターで下りました。そこから福島大笹生インターで下りて、左折して県道46号を進みます。そこをほぼまっすぐに1.8qほど進むと、直進方向に第20番札所「松蔵寺観音」の松蔵寺が山手の方に見えてきます。
 県道46号から狭い道に入りますが、急な坂の途中に白御影石に「幡龍山 松蔵寺」と彫られた石塔があり、その右側に駐車場の案内がありました。そこを進むと、左側にサルスベリが咲いていて、その先に駐車場がありました。時計をみると午前8時22分でした。ここまでは自宅から59.8qほどありますが、高速道路を使ったこともありほぼ1時間で着いたことになります。たまたま案内書に第21番札所の「地蔵庵観音」は事前連絡が必要と書かれていたので、電話をしましたが、そのときにこの第20番札所の住職が入院しているので、同じように連絡をしておいたほうがよいと言われたので、連絡をしておきました。
 すると、住職の娘さんが本堂を開けておいて、さらに境内地を掃除していました。たった一人のために、本当に申し訳ないと話すと、ときどきお堂を開けて掃除をしないといけないのでいい機会ですと話してくれたのでほっとしました。先にご朱印帳を預けて、それから本堂の左側にある観音堂に行きました。
 何度か火災に遭い、現在のお堂は昭和33(1958)年に再建されたそうで、瓦葺き、宝形造りです。

 先ずは鰐口を鳴らし、お賽銭を上げ、そして観音経偈とご真言を唱えました。お経のあいだに聞こえてくるのは、竹箒で境内地を掃いている音だけです。ここは通行量の多い道路から離れているだけでなく、山手にあることもあり、下界の音はほとんど聞こえてこないようで、まったくの別世界です。
 お堂のなかの金色の観音さまの上に「施無畏」と書かれた横額が掛けられていて、昭和33(1958)年に本山管長の高階竜仙善寺がこの観音像を寄進されたとき書いたもののようです。施無畏といえば、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』というお経のなかに、「是菩薩能以無畏施於衆生」とあり、訳すと「この菩薩、能く無畏(むい)を以って衆生に施さる」ということです。その前後の話しを紹介しますと、昔は国土のなかに悪い賊がたくさんいて、商人が大切な荷物を運ぶとき、特に悪い道を通るときなどには「南無観世音菩薩」と唱えながら進むと、観音さまは「無畏」を施して私たちの恐れを解いてくれ、賊がいたとしてもその難から逃れられます。
 考えてみれば、玄奘三蔵の『大唐西域記』のなかにも、賊に襲われた話しが出てきますから、遠くへ旅立つ人たちにとっては、切実な問題だったのではないかと思います。今でも、ネパールの山奥に入ると山賊が出るから気を付けるようにといわれ、テントを張って泊まるときには、近くの民家から山賊が夜に来たときにわかるようにイヌを借りてきて夜通し見張りをしてもらいます。そういえば、ソマリア沖には今でも海賊が出没しますから、昔の話しでもなさそうです。
 さて、お詣りがすんで、本堂へご朱印帳をいただきにいくと、ここ松蔵寺の本寺は米沢市の林泉寺だとのことで、せっかく米沢からいらっしゃったのだから本堂の中でお詣りしてくださいと言われました。そこで本堂の外陣で般若心経を唱えてお詣りをしました。すると、本来のご本尊がここの須弥壇の奥に遷座されているということなので、その前でもお詣りさせていただきました。本当に有難いことです。
 そこで、昨日電話したときに、住職が入院されていると聞いたのですがいかがですかと娘さんに尋ねると、自分はお嫁さんに行ったので一人暮しなのですが103歳なのに自分でなにもかもしないと気が済まない性格で、つい骨折してしまい、近くの施設で療養しているとのことでした。
 それはたしかに大変ですが、103歳でこのお寺を護っているのはすばらしいことで、ここにお詣りすると長寿になるのではないかと話し、本堂を出ました。本堂の前には、白い平和観音像が建ててあり、その左脇には、赤い毛糸の帽子をかぶり肩掛けをした六地蔵が並んでいました。
 車に戻ると、8時50分でした。下りの坂の途中にも庚申供養塔などの石像があり、何度か火災に遭いながらも寺域を守ってきたことを感じながら次の第21番札所「地蔵庵観音」へ向かいました。
 これは後日談になるのですが、2021年12月6日に再びこの松蔵寺を訪ねたのですが、急な坂の途中の石塔の左脇に、白木の「山内不幸」と書かれた立て札がありました。読んでみると「堂頭大和尚以十月二十八日午前三時示寂」とあり「主喪比丘 大英 訃報告」と添えてあり、住職が10月28日に亡くなられたことがわかりました。ご冥福をお祈りいたします。

 第20番札所「松蔵寺観音」 別当寺 幡龍山 松蔵寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 汲む水も 誓いも深き まつがさき みとおしひらく 風ぞ涼しき



☆信達三十三観音札所巡り Part.12

 第21番札所「地蔵庵観音」へは、いったん県道46号に戻り、小坂峠の方に100mほど進み、丁字路を右折すると500mほどで着きます。しかし、ナビの案内でも狭い道なので通り過ぎてしまったのか、なかなかわかりませんでした。その辺りをうろうろしていると、近くの方が案内してくれました。さらに朱印所がわからないというと、その前を通るからお詣りが終わるまで車のなかで待っているといわれ、少し時間がかかるといいましたが、それでもいいということなのでそのご厚意にあまえることにしました。駐車場は「地蔵庵観音」の手前の広場で2〜3台は置けそうです。
 観音堂に上る石段の右手前には延命地蔵があり、左手前には小さな祠とそのわきにガラス戸になった展示コーナーがあり、ここの由来などが書かれていました。そして石段の両側には石灯籠があり、石段を上ったところの両側には太い桜の木があり、案内書にはこの桜が咲いたときの写真が載っていて、みごとなものでした。
 この正面に観音堂はありました。現在のお堂は、明治8(1875)年に再建され、白漆喰の土蔵造りで正面は向拝があり、残る三面には庇がついていました。これで、雨などのときにも濡れずにお詣りできそうです。

 先ずはお堂の前に立ち、鰐口を鳴らし、お賽銭をあげ、観音経偈と馬頭観音のご真言「オン・アミリトドバ・ウン・ハッタ・ソワカ」と7返となえました。
 そして、待っていてくれるので早々に車に戻り、地蔵庵観音を守る会の役員の方の朱印所に向かいました。ところが、行ってはみたものの留守のようで、電話をかけても通じません。仕方ないので、外でブラブラしていると帰ってきたようで、すぐにご朱印を押してくれました。いくら事前連絡をしていたとしても、一般宅で役員が替わるところは、ご朱印をいただくのも大変です。
 ご朱印をいただき、先ほどは待っていてくれたこともあり、お堂の写真を撮れなかったので、もう一度地蔵庵観音堂にもどりました。そのとき気づいたのですが、ご詠歌にある「滝」というのはどこかと探していると、お堂の道路側に古い石段があり、その右脇に小さな滝がありました。その古い石段の上が「鳥取公民館」になっていて、地区の集会所の役割を担っているようです。その右側に観音堂があるので、もう一度お詣りすると、本尊は黒塗りの厨子におさめられていて拝見することはできませんでしたが、聞くところによると秘仏なので33年に1度だけご開帳されるそうです。
 そういえば、乗代雄介さんの『旅する練習』という小説のなかに、馬頭観音のご真言が出てくるのは意外でしたが、それが重要な要素になっていることにさらにびっくりしました。つまり馬頭観音が再会のキーワードになっていて、その描写もすごく克明に描かれています。たとえば、本堂のわきに2体の石仏があり、「左の小さい方は輪郭と膨らみをなんとか保ったのっべらぼうで、かろうじて馬の細長い顔が認められ、水気の抜ける暇もないのか、苔がびっしり溝を埋めている。右の大きい方は1メートル足らず。野ざらしなのに綺麗なもので、作者の彫り出す手つきまで見てとれる。蓮華座を敷いた馬の上に趺坐している観音は柔和な顔つきで宝冠をかぶり、左手に蓮の蕾を持ち、右手の鉾以外はどう見ても聖観音である。しかし、人々の発願が馬を悼み大事に思う心にあるなら、こんな柔和な顔に作りたくなるのも頷ける。さぞ心をこめて作られたか、石質もよく一時の湿りもじきに乾くようで、水滴の集まる胸から腹の広いところ、光の届かない顔の左側など、ところどころだけ青白い苔の乾きをあしらいつつも、緑濃い藪の前に美しく立っている。」と書いています。
 この馬乗り馬頭観音を、ネットで調べると、なんと千葉県内に確認されているだけで262基もあるそうで、千葉県固有の石仏だそうです。でも、馬頭観音が馬に乗っている像容も変わっていて、あそらく仏教本来の儀軌にはないようだし、本来の馬頭観音は忿怒相ですが、ほとんどが観世音菩薩のような顔だったり、笑顔だったりしています。
 そういえば、今思い出したのですが、ある図像に「水牛に乗る三面八臂」の馬頭があり、それは水牛の上で火焔を放つ姿として描かれていました。三面は、いずれも牙をむき三眼をつける忿怒相で、本面の頭上には大きな馬頭がありましたが、それとはだいぶ趣きが違うようです。
 世の中には、さまざまな観音さまのお姿がありますが、とくに馬頭観音は優しいイメージの観音さまと違い、独特の雰囲気を持っています。
 さて、次は第30番札所「利生寺観音」です。ナビで確認すると、ここから10.1q、17分だそうです。時間は9時25分なので、事前連絡は9時40分ごろと話してあるので、気をもまずに運転しました。

 第21番札所「地蔵庵観音」 別当寺 鳳凰山 福源寺(曹洞宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 まことある 寺と知られて 庭の藻に たえずもおつる 滝の音かな



☆信達三十三観音札所巡り Part.13

 第30番札所「利生寺観音」へは、今朝、第20番札所「松蔵寺観音」に来るときに下りた東北自動車道国見インターのわきを通り、東北新幹線の下をくぐり、国道4号を横切り、200m先の左折し県道31号に入り、阿武隈川にかかる徳江大橋を渡り、再び左折して国道349号に入ります。そして次の信号を左折すると、広瀬川にかかる橋を渡るとすぐに右折するとすぐ左手に「利生寺観音」の別当寺、称名寺が見えます。その堤防の道から左に下り、お墓のわきを通って行くと左側の庫裡の裏に駐車場がありました。
 ここに着いたのは9時43分ですから、ほぼ予定通りです。さっそく称名寺の庫裡にうかがい、ご朱印をお願いして、その間に本堂をお詣りし、毘沙門堂のわきの大きなイチョウの写真を撮りました。これは伊達市の天然記念物に指定されているそうで、称名寺が建立された天正10(1582)年当時からあり、根回り6.2m、高さが約29mの雄の巨木と案内板には書かれていました。
 そしてご朱印帳をいただき、また車に乗り、堤防の道にもどり、福島県立梁川高等学校の手前の十字路を右折し、広瀬川を渡るとすぐに右側に第30番札所「利生寺観音」はありました。ここは道路の間にはさまるようにして建っていて、案内書には駐車場はないと書いてありましたが、ほとんど車が通らないのでその道路のわきに駐めました。すると、そこにも大きなイチョウの木がありましたが、梢も枝先もしっかりと刈り込まれています。
 観音堂の前は小さな公園になっていて、お堂のわきにはいくつもベンチがあり、参道の石畳の両側には「常夜燈」と彫られた石灯籠もありました。

 さっそく観音堂の前で鰐口を鳴らし、観音経偈と聖観世音菩薩の真言などを唱え、お詣りしました。
 なかを拝見すると、六角形の鞘堂のなかに六角円堂の厨子がおさめられていて、そのなかにご本尊さまがまつられているようですが、ほんの少ししか開いてないのでほとんど見えません。この像も厨子も鞘堂も、伊達市の文化財に指定されているそうです。
 お堂の前にもう一度立ってみると、右手に黒御影石の石塔があり、上に観音さまの梵字、その下に「信達三十三観音霊場 第三十番札所 利生寺観世音」、その左側にご詠歌の「常よりも のどかなりける 春なれば 今日の暮るるも あかずもあるかな」と彫られていました。
 観音堂は三間四方の総欅造りで、屋根は銅板葺、頂上は四角になっていて四方に金色の葵のご紋があり、その上は丸くなっています。そして左後ろには、避雷針が設置されていて、お堂の後ろには石塔も並んでいました。このお堂は江戸後期に建てられたものだそうで、しっかりと管理されているようです。
 利生寺観音の「利生」とは、もともとは「利益衆生」のことで、仏さまが衆生にご利益を与えることです。また、「利生方便」という言葉もあり、仏さまが衆生にご利益を与える手立てを講じることをいいます。つまり、どちらもご利益があるということで、観音さまを信仰することによって、大きな幸せに包まれます。
 ここは長くは車を駐めておけないので、早めに車にもどると、10時5分でした。これから先の札所は、梁川町の山奥にあり、地図を見ても食堂などありそうもなく、ましてやコンビニなどもありません。そこで、次の第33番札所「龍宝寺観音」に行く前の梁川市内で昼食を買っていくことにしました。そういえば、先ほど通った広瀬橋を渡った先にコンビニがあったので、そこでおにぎりなどを買うことにしました。
 そして、次の龍宝寺観音へは、ナビで確認するとここから2.2q、6分ほどです。

 第30番札所「利生寺観音」 別当寺 不遠山 称名寺(浄土宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 つねよりも のどかなりける 春なれば 今日の暮るるも あかずもあるかな



☆信達三十三観音札所巡り Part.14

 第33番札所「龍宝寺観音」へ行く途中のコンビニでおにぎりと飲み物を買い、右に「まちの駅やながわ」を見ながら、信号機のところから左折して国道349号に入ります。そして、「伊達氏ゆかりの公園」の先から左折し入っていくと、左側に駐車場があります。ここに着いたのが10時17分で、そこから参道に向かうと、その入口の左手にしろ御影石に「真言宗豊山派 八幡山龍寳寺」と彫られた門碑があり、その後ろに過ぎの巨木があり、参道の右側には桜の木の間に観音石仏や不動尊石仏などがまつられていました。かや葺き屋根の山門の右手前にはお地蔵さまが赤いずきんをかぶっていていました。山門の右側には門碑と同じように「真言宗豊山派 八幡山龍寳寺」、そして左側には「信達第三十三番観音満願札所」と彫られた板が掛けられていて、その山門をくぐると本堂の正面と両脇に唐金の大きな灯籠がありました。この本堂の前には、たくさんの植物が植えられていて、季節ごとの楽しみもありそうです。また、その一角には小槌を高く掲げた青銅製の大黒さまもおまつりされていて、もちろんお詣りをさせていただきました。
 本堂の手前を右折して進んだところがご朱印の受付所で、先にお願いをしてから観音堂へ行きました。
 いったん山門を出ると、左側に重閣入母屋造り茅葺き屋根の「龍寳寺鐘楼」があり、これは山門とともに梁川町の文化財に指定されているそうです。そこを更に進むと、伊達政宗が初陣のときに祈願をしたという八幡神社があり、「伊達家縁りの三社御朱印めぐり」の案内板が立っていました。
 そこから左に曲がると、掘り割りがあり、そのなかに観音堂がありました。

 その掘り割りのところにかかった石橋を渡ってお堂の前に行き、本来ならここが33番で結願なのですが、ほぼ半分ぐらいしかまわっていないので、あまり感慨もありませんが、さっそくお詣りをしました。
 近くは植物がたくさん生えていて、しっとりとした空間なので、鰐口を鳴らし、大きな声で観音経偈と聖観世音菩薩の真言などを唱え、ゆつくりとお詣りをしました。
 お堂のなかはまったく見えなかったのですが、案内書には結願寺となるので33体の観音像がまつられ、伊達氏の重要文化財に指定されているそうです。観音堂は、三間の宝形造りで、結願の寺らしく金剛杖が何本か手すりに立てかけられていました。お堂前の境内には、たくさんの石塔があり、特に左側にあった「湯殿山」と大きく彫られたものはとても立派でした。
 ここは第33番札所なので、第1番札所「小倉山観音」のお堂前でも記念撮影をしたので、ここでもしました。そして、この信達33観音霊場のすべてのお詣りができるように祈りました。
 それから、お堂に入る石橋から出て左回りに進むと、「シオン」がきれいな花を開き、そのわきで「白花シュウメイギク」が盛んに咲いていました。シオンを漢字で書くと「紫苑」で、中国では「紫?」と書きますが、中国の本草の本には「その根の色、紫にして柔苑、ゆえに名付く」とあります。またシュウメイギクは「秋明菊」と書きますが、本来はキクの仲間ではなく、アネモネの仲間です。
 さらに裏手に回ると、参道沿いに昭和57年に建立された聖観世音石仏があり、そこを進むとまた山門に入っていきます。受付でご朱印をいただき、観音堂の周りの掘り割りについて聞くと、もともとは「鬼石観音」といわれ、その後亀岡八幡宮七堂内の弁財天宮跡に移され、そのときに別当をしていたのが八幡山亀岡寺でした。明治の廃仏毀釈で亀岡寺が廃寺になり、そのときから龍寳寺が別当をしているとのことでした。
 弁財天は、もともとはインドのガンジス河の流れの音から生まれたといわれていますから、ここでも水とのつながりがあり、さらに龍も水神さまですから、みなつながっています。観音経偈のなかにも、「?甘露法雨 滅除煩惱焔」というのがあり、和訳すると「甘露の法雨を?ぎて、煩悩の焔を滅除す」とあり、仏教の教えは水そのもののように煩悩をも洗い流してしまうということです。
 駐車場に戻ると、10時40分でした。次は第31番札所「長谷寺観音」ですが、ここ龍寳寺が別当なので、すでにご朱印をいただいているので、お詣りするだけです。ナビで確認するとここから3.5q、6分ほどだそうです。

 第33番札所「龍宝寺観音」 別当寺 八幡山 龍寳寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ぎゃくえんも 巡礼堂に 納めつつ 松の嵐も 法のことのは



☆信達三十三観音札所巡り Part.15

 第31番札所「長谷寺観音」は「ちょうこくじ」と読むそうで、ここからいったん県道101号へ左折し、200mほど進んでから右折し県道102号に入ります。そこをしばらく走ると右側に観音ため池があるので、その右手の駐車帯に車を駐めます。ここは数台ほどしか駐められませんが、この日は誰もいなくてゆっくり駐めることができました。
 時計をみると10時46分で、予定通り6分でここに着きました。車から出ると、砕石の音が絶え間なく聞こえてくるので、急いで県道102号を横切り、手すりのついた石段をまっすぐに上り、右に折れるとお堂が見えます。しかし、その屋根だけでなく、付近一帯が砕石の細かな白い粉が降り注いでいるようで、急いでマスクをつけました。それまでは人と出合ったときだけマスクをつけるようにしていたのですが、ここは例外です。もともとは鬱蒼とした林のなかにあったお堂でしょうが、おそらく観音さまもびっくりしているのではないかと思いました。
 観音堂の前からは、観音ため池が見え、その周りはまったくの山林で、もともとは静かなところだったようです。
 お堂は、坂を上りきったところにありました。

 ここでは、マスクをしたまま鰐口を鳴らし、静かに観音経偈と千手観音の真言などを唱え、お詣りしました。
 それからなかを拝見すると、お賽銭を入れるところから少しだけ見え、なんとか大きな木像の千手観音のお姿の下のほうが見えました。案内書によると、ここの「長谷寺観音」は、別名「背高観音」とも呼ばれるように、高さが365pもあるそうで、その部分の天井を外してさらに天井裏まであるそうです。だから、お顔のほうは見えなかったのです。造られた年代は不明だそうですが、福島県北で一番大きな像だそうで、梁川町(現在は伊達市)の指定文化財第1号になつているそうです。
 また別名を「取揚観音」というのは、もともとは現在の観音堂の対岸にあり、麓を流れていた白根川に流れてきたのを地元の人が発見しまつるようになったからで、そのお堂が長谷寺の境内地だったことから「長谷寺観音」というそうです。しかし、この長谷寺が明治に廃寺となり、第33番札所の龍寳寺が現在の別当になっています。
 お堂の左側には、石像がたくさんあり、小さな石宮もあり、おそらく周辺の地区から集められたものかもしれませんが、やはりここが聖域であることは間違いありません。そんなことを考えながら、参道を下って車に戻りました。そして、その対岸まで走らせて、車を駐めて観音ため池のむこうに建つ観音堂を眺めました。ここまでは砕石の音が聞こえないし、観音堂の周辺も林のなかにすっぽりと収まり、静寂さに包まれているかのようでした。
 そういえば、京都の広沢池の観音島に古い千手観音石像がまつられていて、大きさが1.5mほどですが、存在感はあります。というのも、正面からみると脇の手がカニのように出ていて、横からみると全体に厚みがあり、手は肩から腰の間にかけてそっと出ています。お顔も優しく、全体から優しいオーラが出ているようでした。この観音ため池の湖面を見つめていると、琵琶湖の竹生島にある西国33観音第30番札所の「宝厳寺」や中禅寺湖畔の坂東33観音第18番札所の「立木観音」などを思い出しますが、全国には湖や沼のほとりにある観音堂もたくさんあるのではないかと思います。
 次は第32番札所「清水寺観音」ですが、その道筋の手前に別当の龍澤寺があるので、とりあえずそこを目指しました。ナビを見ると、ここから1.6q、3分ですが、そこから「清水寺観音」までは4.2q、11分だそうです。しかし、ほとんどが山道なので、この時間はあまりあてにはならないようです。

 第31番札所「長谷寺観音」 別当寺 八幡山 龍寳寺(真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 浅からぬ 頼みをかけし 長谷寺の 雪もろともに 罪や消ゆらんは



☆信達三十三観音札所巡り Part.16

 第32番札所「清水寺観音」へ向かう途中に、別当の龍澤寺があるので、先ずはそこを目指します。観音ため池わきの県道102号を進むと、白根簡易郵便局があり、そのすぐ手前の右側に龍澤寺と清水寺観音の案内板があり、そこを右折すると、すぐ橋があり、そこを渡って30mほどで左折します。そこにも案内板があり、そこから山の方へ上って行きます。すぐに左側に案内板があり、ここは歩いて上る参道で、その案内板には「車は直進」と書いてあり、そのまま進みます。200mほど行くと、左側に「龍澤寺東参道」とあるので、そこを左折し進むと駐車場がありました。
 ここへの参道入口から駐車場にかけても、たくさんの灯籠や石仏があり、ここに着いたのは11時5分でした。先ずは本堂にお詣りし、それから庫裡のほうにうかがい呼び鈴を鳴らすと、すぐに出てきてくれ、ご朱印をお願いしました。
 その間に山門や境内地をまわると、さらに多くの石塔などもありましたが、私には本堂前のキブネギクのほうが心を癒やしてくれたようです。庫裡にもどると、筆や墨を探しているらしく、とうとう15分ほど待つことになりました。
 そして車にもどりナビで確認すると、ここから「清水寺観音」までは4.2q、11分だそうですが、ナビでも「不明な道路経由」とあり、だいぶ山道のようです。先ずは、先ほど上ってきたところまでおりて、そこを左折し、白根山岸地区まで行くと、左側の橋の手前に案内板があり、ここから左に約3qと書いてありました。そこを進むと、また案内板があり、ここから1.7qと書いてありました。また進むと、民家もなくなり、舗装道路が砂利道になり、道幅も車1台がやっと通れるほどです。さらに道に倒れた木をやっと避けるように進むと、左側に観音堂があり、その先に駐車場がありました。
 こんなにも山奥だと、たった一人のお詣りでは寂しくなりますが、先ずは車を駐め、少し下がったところから石畳の参道があり、その右側に黒御影石に「信達観世音 札所 三十二番 清水寺」と彫られた門碑があり、その先にはいくつかの石灯籠があり、石段を上ると、正面に観音堂がありました。

 まったく人気のないお堂の前で、誰にも遠慮することがないので、思いっきり鰐口を鳴らし、大きな声で観音経や聖観音などの真言を唱えました。
 お詣りをすませ、お堂の左側に書いてある由来を読むと、そこには「白根清水寺観音」とあり、さらにそのお堂の左手を見ると、1998(平成10)年に寄進されたという三十三観音石像がまつられていました。ご詠歌にもこの「白根」とあり、昔から呼び習わされていたのかもしれません。
 時計をみると、11時45分なので、ちょうど昼食にはいい時間です。そこで、座るところをさがしたのですがどこもなく、仕方ないので、車のなかで買ってきたおにぎりを食べることにしました。このような山奥で食べると、何を食べてもおいしく、あっという間に食べ終わりました。
 そこで、道の反対側に行くと、沢沿いの大きな岩の上に、「塩野川の源流 清水川 平成11年4月建立」と彫られた石碑が建っていて、ここの川が清水寺の由来になっていました。ただ、岩のところどころに木の根などが流れ着いていたので、大水のときなどは増水するようです。
 そういえば、観音経のなかに「若為大水所漂 称其名号 即得浅処」というのがあり、和訳すると「もし、大水のために漂(ただよ)わされんに、その名号を称せば、即ち浅き処を得ん」です。つまり、もし大水に流されてしまっても、その名号を称すると即座に浅い場所に移れる、ということです。水がなければ人は生活できませんし、だからといって必要以上の水は害を及ぼすこともあります。最近多くなった線状降水帯などを考えれば、これからますます水害は増えてきそうで、小さい川だからと安心はできません。
 ここの水は、清水とはいうものの、口をつけて飲むにはちょっと勇気がいるので、車に戻ってからペットボトルのお茶を飲みました。時間は12時を少し過ぎたところです。
 ほとんど食休みをせずに、先ずは出発です。
 次は第29番札所「霊山寺観音」です。ナビで確認するとここから15.6q、24分ほどですが、山道などでゆっくりと気を付けて走りました。

 第32番札所「清水寺観音」 別当寺 瑞雲山 龍澤寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 尋ねても 誰が白根の さとありと みな岩寺の 法のともしび



☆信達三十三観音札所巡り Part.17

 第29番札所「霊山寺観音」へは、地図でみると山越えのルートもあるようですが、ナビでは出てこないので、遠回りでも安全な道を行くことにしました。
 先ずは県道102号へと戻り、観音ため池のわきを通り、阿武隈急行の踏切の手前100mほどの丁字路を左折します。その道を道なりに進み広瀬川にかかる孫老内橋を渡り200mほどで、左折し県道31号に入ります。そして、左側に「霊山神社 これより2q」の案内板のところの信号を左折し県道45号を進むと、1qほどで左手の山際に霊山寺が見えます。道路の左側に駐車場がありました。下から見上げると、石垣の上に建っていて、石段の上には山門があり、その右手の建物は土蔵のようでした。
 ここに着いたのが12時34分で、石段を上ってすぐに本堂へ行きお詣りし、庫裡でご朱印をお願いしました。その間に、境内を歩くと、鐘楼も立派で、朱塗りの手すりが目立ちます。本堂の左手前には、伝教大師の聖句「忘己利他慈悲之極也」と彫られた石碑が立てられていて、この意味するところは、自分のことより、まず人に喜んでいただくことが仏さまの行いで、そこに幸せがある、ということです。
 また先ほど気づいた土蔵はお堂になっていて、小さな仏像がたくさん安置されていて、もともとは山中にあった山王21社のご神体だそうです。山王院という院号も、それにちなむのではないかと思いました。
 ご朱印をいただき、車に戻り、霊山寺から先ほどの県道45号を250m進むと、左側に霊山地区交流館がある方に左折し、そこの駐車場に駐めます。案内書にもここを利用と書いてあったので、お詣りのときは駐めてよいようです。そこから少し山に上ると、右側に「観音様」という案内板があり、その石垣の下の道を進み、左折すると、山道の先に石製の旗立てが両側にあり、さらにその先に石段がありました。
 幅の狭い石段ですが、手すりがあり、ゆっくり上って行くと、正面に観音堂がありました。

 先ずはお堂の前で鰐口を鳴らし、観音経偈と千手観世音菩薩の真言などを唱え、お詣りしました。
 ここまで歩いてくると、ちょっと汗ばむような陽気ですが、林のなかにあるせいか風が清々しく感じます。お堂は、宝形造りの三間堂で、江戸時代の安政6(1859)年に再建されたもので、その後で右側におこもり堂が増築されています。ここ霊山寺観音は、霊山町大石字西舘にあることから、西舘観音と地元では呼ばれているそうです。
 そういえば、ここ霊山町は相馬市との境に標高825mの山があり、それが霊山です。この山を伊達市のホームページで調べてみると、「阿武隈山系のゆるやかな稜線の中にそそり立つ奇岩怪石は、ひときわ威容を誇り、春の新緑、山ツツジの花開く5月下旬、そして10月中旬〜11月初旬の紅葉は目を見張る美しさとなります。特に紅葉のころ、岩肌に赤や黄色の色彩がちりばめられたさまは、錦絵を思わせます。」と書いてありました。
 観音経偈のなかに、「或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住」とあり、和訳は「あるいは、須弥の峰に在りて、人の為に推し堕されんに かの観音の力を念ずれば、日の如くにして虚空に住(とど)まらん。」となり、もっとわかりやすくいえば、須弥山の峰から、誰かに突き落とされようとしても、この観音の力を念ずれば、体は太陽のように宙に浮くということです。
 この霊山も奇岩怪石の山ですから、もしもここから落下すればひとたまりもありませんが、もし観音さまの力をいただければ大丈夫ということです。
 また、そのホームページには、この霊山という名前は、釈迦が修行したインドの霊鷲山にちなんで円仁によって名付けられたと書いてありました。つまり、お釈迦さまが法華経などを説法したインドビハール州の霊鷲山によく似ているからということですから、何かと観音さまとつながってきます。
 そのようなことを考えながら、もう1度お堂を振り返ってみると、近くには多くの古い石塔があり、ここは昔から信仰の厚いところだったようです。
 駐車場に戻ると、午後1時でした。次は第28番札所「千尋寺観音」です。
 ナビで確認すると、ここから5.8q、9分ほどです。意外と次々とお詣りできそうです。

 第29番札所「霊山寺観音」 別当寺 南岳山 山王院 霊山寺(天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしき 誓いありとや 霊山寺 枯るる草木も 花さきにけり



☆信達三十三観音札所巡り Part.18

 第28番札所「千尋寺観音」へは、「霊山寺観音」からここへ来たときの道を戻り、県道31号から左折して県道150号に入り、広瀬川を渡り、看板がたくさん立っているところからのいろいろとあるところを県道122号へと左折します。そして三叉路のところを右折し100m ほどで左側に千尋観音の案内板があります。そこを左折し山の方に上って行くと右手に観音堂が見えます。
 ここは駐車場がないのですが、ギリギリ上れるところに車を駐めましたが、Uターンするのがやっとでした。しかし、ここで行き止まりなので、通行の邪魔にはならないようですし、しかもお堂からも見えるので、もしも何かあったら車を移動すれば大丈夫です。
 ここに着いたのは午後1時10分で、すぐに石段を上りました。石段の中央にはしっかりと手すりがあり、これだと少しばかり足腰が弱ってからでも上れそうです。石段の周りには、まったく花の咲くような植物は植えられてなく、草刈り機で除草するには好都合のようです。
 その石段を上ると、観音堂があり、その手前は広場になっていました。お堂の扁額には「千尋山」と彫られていて、正面の格子の4ヵ所から、お賽銭を入れることができました。

 ここでも他の観音さまと同じように、鰐口を鳴らし、観音経偈と聖観世音菩薩の真言などを唱え、お詣りしました。
 そして、そのお賽銭の口からお堂のなかを見ると、ご本尊さまの前にカーテンのような布が下がっていて、まったくうかがい知ることもできません。案内書によると、高さは約60p、金色の舟形光背を持つ木像聖観世音立像で、御前立ちはなく、その左側に不動明王座像がまつられているそうです。このお不動さまは、江戸時代にこの千尋寺観音堂を護っていた天台宗系の修験本山派の本明院のご本尊ではないかといわれています。
 現在の別当、三条院は江戸時代後期の文化年間からのことで、お寺が移り変わっても観音堂はみんなの力で護られてきたようです。
 そういえば、観音経偈のなかに、「衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦衆生」というのがありますが、和訳すると「困厄(こんやく)被りて、無量の苦、身に逼るも、観音の妙智力、能く世間の苦を救ひたまふ。」となります。もっとわかりやすくいえば、人々が大変困窮して、たくさんの辛い身が切迫したとしても、観音さまの妙智力は、よく、世間の苦悩から救ってくれるということです。
 つまり、多くの人たちが観音さまの力を感じていたからこそ、別当寺院が変わっても護られてきたのではないかと思いました。もともと千尋とは、1尋の千倍のことで、転じて、非常に長いこと、きわめて深いことを表します。この名前からしても、千尋観音の慈悲の深さを感じることができます。
 「千尋寺観音」からご朱印所のある三乗院へは、先ほどの県道122号から右折し、そのまま県道45号を進み、りんどう通りに右折するとすぐに駐車場があります。右側の駐車場に車を駐め、山門から本堂に進みお詣りし、その右手にある庫裡でご朱印をお願いしました。案内書には「霊場会発行の納経帳以外は、基本紙朱印になります。住職不在の場合は、参拝日の記入は各自でお願いします」と書いてあり、私の場合には、持参したご朱印帳にゴム印だけが押されてありました。
 このようなときは、一言だけでもあればいいのですが、黙って出されると、ちょっとイヤな気持ちになります。ご朱印代を納め一礼して、すぐに車に戻り、次の第26番札所「専旦寺観音」を目指しました。
 ナビによると、ここ三乗院から4.9q、7分の予定です。

 第28番札所「千尋寺観音」 別当寺 拈華山 三条院(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 我がとがは ちいろなりとも かの仏 あわれみたまひ などかうかばん



☆信達三十三観音札所巡り Part.19

 第26番札所「専旦寺観音」へは、三乗院からりんどう通りを右に進み、国道399号へと右折し、道路標識の福島 山口方面へ左折すると県道387号です。550mほど進み左折し、700mほどで県道387号へ左折し、東根川ぞいを進みます。すると東北自動車道の下をくぐり、150mほどの橋の手前に「信達第二十六番札所 富澤聖観世音菩薩」と彫られた大きな白御影石の門柱があり、そこから右折すると右側に長い石段がありました。
 その石段の付近にはいくつかの石碑が立っていて、黄花コスモスが咲いていました。ここから上るのが正式ですが、近くに車を駐められないので、20mほど先から右に上る道があるので、そこを上りました。突き当たりが駐車場ですが、案内書には1〜2台と書いてありましたが、民家のすぐわきなので、ちょっと駐めにくかったです。
 でも、ここ以外にはなさそうなので、玄関の方へ一礼して、石段を上りました。石段の両脇の斜面には「庚申塔」などの石碑があり、両端には手すりも付いていました。
 その上りきったところが観音堂です。
 ここの専旦寺観音は、先ほどの門碑には「富澤聖観音」と彫られていて、地図には「下ノ内観音堂」とも書かれていたりして、ちょっと戸惑います。でも、先ずはお詣りをしました。

 観音堂の回廊への階段を上り、2ヵ所ほど開いている小窓からお賽銭を入れ、その手前に下がっている鰐口を鳴らし、観音経偈と聖観世音菩薩の真言などを唱えてお詣りをしました。
 それから内陣を拝見すると、御前立ちの金色の木像聖観世音座像が安置されていて、その奥の厨子のなかは見えませんでした。案内書によると、9寸2分の弘法大師作と伝えられるご本尊で、秘仏だそうです。御前立ちの右側にも仏像があり、岩の奥におさめられたようなお姿で、はっきりとは見えませんでした。
 回廊から下がり、お堂の前に立ってみると、銅板葺で向拝がある三間四方の建物です。そして、その右側におこもり堂があり、ガラス障子になっていました。お堂の後ろにまわってみると、たくさんの石仏がおまつりされていて、この場所は古くから大切に護られてきたところだということがわかります。
 ここに着いたのが午後1時47分でしたが、民家の玄関さきに車を駐めたこともあり、10分ほど車にもどり、別当の高福寺に向かいました。
 いったん県道318号にもどり、右折して東根川の橋を渡り、伊達警察署富成駐在所から100mほど先を右折し、200mほど走った左側です。石段の左側に車道があり、その先に駐車場がありました。そこに車を駐め、本堂にお詣りし、その左側にある庫裡で、ご朱印のお願いをしました。
 その間に、本堂の右側にある山門をぬけて、石段のところまで下がり、もう1度上ってみました。山門を抜けると、右手に大きなサルスベリの木があり、花が咲いていました。その先がまた石段になっていて、そこを上ると、本堂前の広場に出ます。そこには大きな聖観音石像が立っていて、その左側には、六地蔵が並んでいました。
 お地蔵さまには、新しい赤いずきんと前垂れがかかっていて、生花も供えられていました。さらに、台座には、右から「大定智悲(地蔵)地獄道」、次に「大徳清浄(宝手)餓鬼道」、「大光明(宝処)畜生道」、「清浄無垢(宝印手)修羅道」、「大清浄(持地)人道」、「大堅固(堅固意)天道」と黒御影石に彫られたものがあり、一体ずつお詣りをしました。
 そういえば、観音経偈のなかに「種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅」とあり、これを和訳すると「種種(しゅじゅ)諸々の悪趣、地獄・鬼・畜生、生老病死の苦、漸く、悉く滅せしむ」であり、簡単にいえば、様々な諸々の悪や、地獄・鬼・畜生、生老病死の苦も、すべて、ことごとく消滅してくれるということです。これは、とても有難いことです。これを心の中で唱えながら、ご朱印をいただき、車に戻ると午後2時10分でした。
 次は第27番札所「壽徳寺観音」で、ナビではここから2.3q、5分ということでした。

 第26番札所「専旦寺観音」 別当寺 金沢山 高福寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 世は春と 照る日はここに 陰見えて 山より北に おつる富沢



☆信達三十三観音札所巡り Part.20

 第27番札所「壽徳寺観音」へは、先ほどお詣りした「専旦寺観音」の東根川の橋を渡り、左折してきた県道387号をそのまままっすぐに進み、県道317号もまっすぐ行くと、左側に「明福院」の案内板があります。そこを左折し180mほど進むと、右側に観音堂があり、その右が明福院で、左へ入ると駐車場があります。
 ここに着いたのは午後2時20分で、案内書には「事前にご連絡ください」とあったので、前日に電話をすると、この日は留守になるからお堂のなかにご朱印した紙を用意してくれるとのことでした。そこで、長屋門のような山門をくぐらず、その前で一礼して、左側にある観音堂へ行きました。
 いったん駐車場から外の道路に出て、それから観音堂の前に来ると、門碑の右側には「壽徳寺観音」、左側には「信達札所 第二十七番」と彫られています。その間を通って進むと、玉石で作られた9段ほどの階段があり、その上の両側には石灯籠が立っています。その先が観音堂で、下足台があったので、そこで靴を脱いで上がりました。

 回廊の手前にお賽銭箱があり、そこに鰐口が吊されていたので、先ずはお賽銭を入れ、鰐口を鳴らし、そしてお堂の中に入って観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えました。お堂のなかですから、金も使わせてもらいましたが、お灯明と線香は何かあると困るので使いませんでした。
 その経机の上にご朱印があり、さらに一筆箋にご苦労さまなどのねぎらいの言葉がしたためてあり、さらにお菓子が1個、添えてありました。
 この心づかいに感謝し、そこにご朱印代を置き、さらにゆっくりとご本尊さまを拝ませていただきました。すると、なんとなく厳しいようなお顔立ちで、一般的な優しいお顔をした観音さまとは違います。
 観音経のなかに、「応以天龍夜叉乾闥婆阿修羅 迦樓羅緊那羅摩?羅伽人非人等 身得度者即皆現之而為説法」というのがあり、和訳すると「天・竜・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだっば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩候羅迦(まごらが)・人・非人等の身を以って得度すべき者、即ち、皆、これを現して、為に法を説く」です。意訳すると、観音さまは、皆それぞれの姿を現して、その者のために法を説くということです。
 だから、観音さまは三十三に姿を変えて人々を救うだけではなく、すべての者のために法を説くわけで、時には厳しいお顔をされるときもあると思いました。
 そして、堂内の右側には五角形の厨子のなかに「薬師瑠璃光如来」が安置され、行法もできるように仏器が並んでいました。
 お堂のなかはとてもきれいで、平成5(1993)年に新築されただけのことはあります。もともとの観音堂は江戸後期の文政11(1828)年に立てられたもので、明治になり保原町高成田の自性院にあつたものを移築したものですが、現在も本堂左側に一部修復し「大師堂」としてお大師さまをまつっているそうです。次の機会には、こちらもお詣りさせていただこうと思いながら、車に戻りました。
 次は第25番札所の「野崎寺観音」です。ナビで確認すると、ここから2q、5分ほどです。

 第27番札所「壽徳寺観音」 別当寺 廣澤山 壽徳寺 明福院(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 とやまより 朝陽かがやく 寺のうち 庭の清水や 鏡なるらん



☆信達三十三観音札所巡り Part.21

 第25番札所「野崎寺観音」へは、壽徳寺観音から県道317号までもどり、さきほどの道をそのまま進むと、阿武隈急行の保原駅があります。その手前の右側に駅の駐車場があり、そこに車を駐めました。ここに着いたのが午後2時40分で、そこから阿武隈急行の線路の下をくぐって、左折したところに、大きな門碑が立っていて、「信達第廿五番札所 野崎観世音菩薩」と彫られていました。
 その道を100mほど進むと、赤い鉄管の案内板があり、ここにも「信達三十三観音 第二十五番札所 丸山 野崎寺観音」と書いてあり、その下をくぐると、正面の高いところに観音堂はありました。
 そこを左側からまわりこむと、石段のある観音堂の正面に立ちます。
 石段の手前右側には、真新しい四角の厚板に「野崎寺観音」と緑色の文字で彫られ、左側には別当寺の長谷寺のりっぱな案内板が立っていました。その石段の左手には大杉があり、右手には鐘撞き堂があり、石段を上るとその両側に新しいような石灯籠がありました。
 その正面の観音堂のお詣りするところには、すでに街灯が灯っていました。

 回廊のところに、「参拝の方は土足のままお上り下さい」と書いてあったので、そのまま回廊に立ち、丸く開いた穴からお賽銭を入れ、鰐口を鳴らし、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えました。
 ここは公園になっていて、石段の下のところにある四阿で数人が話し込んでいたのですが、そこまではお経の声が聞こえるようで、話し声も聞こえなくなりました。終わって振り返ると、こちらを見ているようでした。
 それからその丸い穴からは、金色の厨子は見えましたが、ご本尊は拝見できませんでした。そして、お堂の前に立ち見上げると、銅板葺のしっかりとした建物で、総欅造り、虹梁や柱に彫刻も施されていました。案内板にはこの観音堂は江戸時代の享保13(1728)年に建立されたもので、近くの「幸座池」から農夫が偶然に発見した金色の仏像をまつっていて、それがご本尊さまです。この観音堂が建っている小高くなったところは「丸山」といわれ、もともとは古墳だったそうです。だから、ここは「丸山観音」ともいわれているそうです。
 ただ、この地にあった野崎寺は、室町時代の元亀元(1570)年に落雷があり、その火災ですべて焼失したため、詳しいことは不明だそうです。
 この火災が大火になってたくさんの家屋が焼けてしまったか、あるいは焼死者が出たかなどはまったくわかりませんが、観音経偈に、「假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池」というのがあり、和訳すると「仮使(たと)ひ、害意を興して、大火坑(だいかきょう)に推し落されんも、かの観音の力を念ずれば、火坑 変じて池となる。」となり、さらにわかりやすく解釈すると、たとえ、殺意のある者に大火の中に落とされたとしても、この観音の力を念ずれば、火坑も池に変わってしまいます、ということです。
 そういえば、ここのご本尊さまは、「幸座池」で発見されたそうですから、池とのつながりはありそうです。
 次は第24番札所の「卯花広智寺観音」です。ここから850mほどしか離れていないそうで、別当寺はここと同じ長谷寺ですので、そこで2ヶ寺のご朱印をいただけます。
 駅の駐車場で時間を確認すると午後3時です。案内書には午後5時まで受付けと書かれていたので、ゆっくり行っても間に合いそうです。

 第25番札所「野崎寺観音」 別当寺 金剛山 長谷寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 尋ねいる みちは野崎の 観世音 すすむる法(のり)の さきのよければ



☆信達三十三観音札所巡り Part.22

 第24番札所「卯花広智寺観音」へは、阿武隈急行保原駅の駐車場から県道317号へ右折し、陸橋をくぐり、県道349号へ左折します。そして、県道349号で右折し水口家具センターのところから右折し、最初の信号の手前左角が駐車場です。ここに着いたのは、予定通り午後3時4分です。
 車を駐めて、ここでは、先にお詣りした第25番札所「野崎寺観音」とここの「卯花広智寺観音」のご朱印をいただくために、山門から入りましたが、その右手前に光明真言が彫られた大きな石碑が立っていて、左側にはお地蔵さまが立ち、山門には「金剛山」と書かれた扁額が懸けられていました。この山門は明治期に保原陣屋の表門を移設したそうで、伊達市の指定文化財になっています。そこから入ると、真正面が本堂で、右側にはブロンズ製の「宗祖 弘法大師修行像」がまつられ、左側には小ぶりな大塔があり、その前には白花のシュウメイギクが咲いていました。
 そこを左に入ると庫裡があり、そこでご朱印をお願いしました。
 そして、また山門の前に出て、お地蔵さまの前を進むと、右手の小高いところに観音堂が見えました。石段の両側にはいくつかの石碑があり、その間の二十数段の石段を上ります。上ってから右を向くと、そこが観音堂です。
 お堂は二間四方の宝形造りで、右側にガラス戸の入った座敷があり、下から見ると舞台造りのように見え、保原の街並みを見渡すことができます。

 先ずは、お堂の右側の柱に「土足厳禁」と書かれていたので、靴を脱いで回廊のところに立ち、お賽銭を箱に入れ、鰐口を鳴らし、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えました。このお堂は、まったく中が見えないのですが、案内書によれば、身の丈9寸2分の木像で、厨子のなかに納められているそうです。そして、ご本尊といっしょに蚕神である馬鳴菩薩像も安置され、こちらはこの地区が養蚕業が盛んだったことによるそうです。
 とくに卯花が咲く春の縁日には、近郷近在から多くの参拝客で賑わったとも書かれていました。ということは、この「卯花広智寺観音」というのは、この辺りに卯花がたくさん咲いていて、その当時は広智寺と呼ばれていたということです。そして、幾多の変遷の後に、江戸時代の元和5(1619)年に現在の長谷寺が再建されたそうです。
 もう1度お堂の前に立ち、一礼してから石段を下りると、ちょうど庭師が作業をしていました。聞くと、今、下草刈りと枝下ろしをしたばかりだといいます。そういえば、石段の左側に大きな欅の木があり、その2mほどのところに大きなムロがあり、その穴から観音堂が見えました。そのことを庭師の人たちに話すと、なるほどと見ていましたが、実はこの木ばかりでなく、お堂の手前の木もムロになり、倒木の恐れがあるといいます。でも、住職に話すと、なるべくなら切りたくないということで、今回もそのままにしているということでした。しかし、台風などの強風の時には、すぐ下にある民家の方は怖そうです。
 そういえば、観音経偈に、「雲雷鼓掣電 降雹?大雨 念彼観音力 応時得消散雲雷」というのがあり、和訳すると「雲雷(くもいかずち) 鼓(な)り、掣電(いなびかり)し、雹(あられ)を降らして大雨を?ぐも、かの観音の力を念ずれば、時に応じて消散することを得ん。」となり、さらにわかりやすく解釈すると、雷が鳴り響き稲妻が走り、雨あられになったとしても、観音の力を念ずれば、しばらくしたら落ち着く、ということです。
 まさに、だから心配することはないということですが、私のように通りすがりでお詣りしただけでも、やはり心配ですが、ここでいくら心配していても仕方がないので、庫裡にまわり、ご朱印をいただき、車に戻りました。
 時計をみると午後3時25分です。今回はここまでということにして、帰宅することにしました。帰りは国道4号線から県道387号へと右折し、通い慣れた国道13号へと右折、さらに福島大笹生インターから東北中央自動車道に入り、ほぼ前回と同じように午後4時41分に帰宅しました。
 今回の移動距離は176.8qで、私自身が歩いたのは11,174歩でした。残るは11ヶ寺ですが、それよりも新型コロナウイルス感染症のあまり心配のない時期を選んで、次の計画を練るほうが大変です。

 第24番札所「卯花広智寺観音」 別当寺 金剛山 長谷寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 広智寺の 鐘のひびきを しるべにて まことのみちに 入るぞ嬉しき



☆信達三十三観音札所巡り Part.23

 2021年10月8日に第2回目の信達三十三観音札所巡りが終わり、残すところ11ヶ寺ですが、新型コロナウイルス感染症の感染者の動向もあり、なかなか日にちを決められずにいました。さらにお茶の仲間の方が亡くなられたり、家族の送り迎えなどもありましたが、10月21日はまるっと1日、予定なしでした。そこで、急きょその日に再開することにしました。
 目指すは第19番札所「観音寺観音」で、自宅を出発したのは午前7時23分、ナビは東北中央自動車の福島大笹生インターチェンジで下りて、飯坂市内を通るルートを示していました。このコースで、53.5q、1時間4分の予定でしたが、朝のラッシュもあり、着いたのは8時31分でした。向かう途中に「万正寺の大カヤ」がありますが、それは帰りに撮ることにして、先ずは東北自動車道の下をくぐり、駐車場に車を駐めました。
 そういえば、ここにお詣りしたのは奥州三十三観音札所巡りのときで、2019年7月9日で、そのときにはアジサイがたくさん咲いていましたが、今回は本堂の近くにツワブキの花が咲いていました。やはり、季節をかえてお詣りすると、境内の様子も違って見え、楽しいものです。
 本堂で一礼し、左側にある庫裡でご朱印をお願いし、山門のある駐車場のほうの参道まで下りて、石垣の下の石段の前に立ちました。2年前のときには、この付近のアジサイが満開で、それを見ながら石段を上ったことが思い出されます。山門の右手には鐘楼があり、山門をくぐるとまた石垣があり、そこに石段もあります。それを上ると観音堂です。
 右側の柱には「奥州霊場第十二番」と書いた板札があり、左側には「奥の細道三十三霊場第二十六番」と書かれていました。そして、回廊の板戸には「信達三十三観音霊場」のポスターや納め札などが貼られていて、ここが間違いなく信達三十三観音札所であることがわかります。

 回廊までそのまま上がり、鰐口が2ヵ所あるので両方とも鳴らし、正面の格子口からお賽銭を上げ、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えました。そして、その格子からお堂のなかを見ると、正面の須弥壇のなかは幕が張られていました。
 案内書によると、ご本尊の観音さまは、寄木造りで宝冠に化仏をつけていて、高さが2m55pで、別名「坂町観音」とも呼ばれているそうです。
 お詣りをすませ、お堂の正面に立ってみると、大きなお堂で、銅板葺の宝形造り、蟇股や柱にはみごとな彫刻が施され、間口は3間で中央間は3mほどもあります。このお堂は、元禄2(1689)年に地元の半田銀山を経営していた野村勘右衛門が建立したそうで、文政9(1826)年に銅板葺に改修されたそうです。
 そろそろ、ご朱印帳をいただきにと思っていたら、住職がお堂まで持ってきてくれたので、ご朱印代をお渡しして、前々から気になっていた東北自動車道の騒音の話しをすると、たしかに最初はとても気になっていましたが、最近はほとんど気にならなくなってきたという話しでした。むしろ、どこかへ泊まりに行ったりして静かだと、かえって眠れないのだそうです。本当に人間の適応力というのはすごいものです。
 そういえば、「念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙」というのがあり、和訳すると、「念々、疑を生ずること勿(なか)れ。観世音は浄聖にして、苦悩死厄において、能(よ)く為に依怙と作(な)れり。」です。もっとわかりやすく言えば、ゆめゆめ、くれぐれも疑ってはなりませんよ。観音さまは浄聖にして、苦悩死厄において、みなさんの頼りになる存在なのですから、ということですが、もしかすると、観音さまがこの騒音を消し去ってくれているのではないかとさえ思いました。
 私には、あの低周波音のような耳に刺さる音は、今思い出しても気になりますが、まだまだ修行が足りないのかもしれません。
 次は第22番札所の「常西寺観音」ですが、その途中に第12番札所「満願寺」の別当の無能寺があるので、お堂近くで管理されている世話人でご朱印をいただけるとのことでしたが、時間もあるので直接お寺に寄ることにしました。そこまではナビで確認すると、1.2q、4分ほどですが、先ほど通過してきた「万正寺の大カヤ」にまわると、このカヤの実を拾っている方がいて、周りからそっと写真を撮りました。

 第19番札所「観音寺観音」 別当寺 大悲山 観音寺(浄土宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると 歩みむかえて 観音寺 大慈大悲の かぜをしるべに



☆信達三十三観音札所巡り Part.24

 第22番札所「常西寺観音」へ行く途中に第12番札所「満願寺」の別当の無能寺に寄りました。飯坂温泉の満願寺観音のすぐわきの世話人宅でもご朱印はいただけるということでしたが、ここから1.2qで4分ほどですし、常西寺観音への通り道です。
 東北新幹線の高架下を通り、最初の十字路を右折し、西大隅の交差点を左折すると80mほどで無能寺の駐車場があります。そこに車を駐め、山門をくぐると、左手に朱塗りの鐘楼があります。ちなみに、この「信達三十三観音の旅」の表題部分の写真はここです。まっすぐに本堂があり、その手前に大きな「御蔭廼松」があり、その下をくぐるようにして本堂にお詣りし、右側にある庫裡でご朱印をお願いしました。
 この「御蔭廼松」の周囲をまわりながらご朱印を待っていると、持って来てくれて、この松は450年ほどの樹齢があるなど、いろいろな説明をしてくれました。
 そして、駐車場に戻り、ここを9時15分に出発し、常西寺観音に向かいました。ここからいったん国道4号線を左折し、桑折町役場伊陸痔の信号を右折し、そのまま県道123号に進むと、右側に大聖寺があります。その本堂の手前に駐車場があり、そこに車を駐めると、住職が車に乗り、出かけるところでした。ここは連絡が必要とのことで前日に連絡しておいたのですが、予定の到着時間が少し早かったこともあり、すぐ帰るからということで先に観音堂にお詣りすることにしました。
 そういえば、ここは奥州三十三観音の13番札所にもなっていて、2019年7月9日にもお詣りしてますが、そのときも本堂の修理をしていました。今回も足場が組まれ、本堂の屋根が瓦から銅板葺になっていて、ほぼ完成してたようです。
 その前を通り、右折すると参道の先に観音堂への石段があり、左手には鐘撞き堂があります。そこを上り、先ずはお堂の前で鰐口を鳴らし、階段を上り、格子のすき間からお賽銭を入れと、お詣りしました。

 いつも通りに観音経偈などを唱え、それからお堂の前に立つと、左側にはたくさんの供養塔があり、ここが昔からの信仰の篤かったことを感じさせます。
 お堂は、宝形造りの二間半のしっかりした建物で、最初は平安時代の元慶5(881)年に建てられ、その後何度も修復が重ねられ、昭和59年には外観なども大改修されたそうでしっかりと保存されています。この観音堂は、もともとは常西寺、あるいは常在寺が別当をしていたそうで、そこから今でも「常西寺観音」と呼ばれています。
 またご本尊は、空海作と伝えられ、白檀の聖観世音菩薩で、今は頭部のみが残っていて、33年に1度ご開帳されるとのことです。そこで、御前立ちとして、50pほどの観音さまがその前にまつられています。次のご開帳を聞くと、令和31年だそうで、西暦にすると2049年になり、ちょうど私が100歳になります。これだけはどうにもなりませんが、できればご開帳に立ち会いたいと願いました。
 そういえば、観音経のなかに、「是観世音菩薩摩訶薩於怖畏急難之中 能施無畏是故此娑婆世界 皆号之為施無畏者」というのがあり、和訳すると、「この観世音菩薩摩訶薩、怖畏急難(ふいきゅうなん)の中において、能く無畏を施す。この故、この娑婆世界、皆、これを号して施無畏者(せむいしゃ)と為す。」となります。
 つまり、観世音菩薩摩訶薩は、みなさんが大変な困難におちいったときに、恐れたりしないようにします。だから、この娑婆世界では『 施無畏者 』(無畏を施す者)という呼ばれ方をします、ということです。
 観音堂に行くと、「施無畏」と書かれた額などをよく見ますが、観音さまは畏れをなくしてくださるからという意味です。人は畏れるから怖くなるし、出来ることもできなくなってしまいます。だからすべてをお任せして、出来るできないとかいうより、100歳になったらここのご開帳に立ち会おうと思いました。
 住職が帰宅され、ご朱印もいただき、車に戻ると、そこに大きな石碑が建っていて、そこに信達信和会講中の西国三十三観音札所、坂東三十三観音札所、秩父三十三観音札所、信達三十三観音札所の観音霊場巡拝記念が彫られていました。そこに軽く会釈をして、出発したのは9時38分でした。
 次は第23番札所「平寺観音」です。その別当をしている光台寺までは3.6q、約7分ほどです。

 第22番札所「常西寺観音」 別当寺 明王山 大聖寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 西くもり 晴れゆく月の 常在寺 にごる心や 澄みのぼるらん



☆信達三十三観音札所巡り Part.25

 第23番札所「平寺観音」へは、大聖寺から県道123号へ左折し、そのまま国道4号に入り左折します。そして、伏黒入口の交差点から左折し県道125号に入り、阿武隈川の大正橋を渡ってすぐを左折し、堤防の道路から下に右折し300mほどで左側に光台寺が見えてきます。
 左折するとすぐに駐車場があり、そこに車を駐めて、山門を入ると、お寺の方が掃除をしていたので、ご朱印をお願いすると、庫裡の方に案内してくれました。
 それから本堂の前でお経を唱え、きれいに掃き清められた境内を歩き、六地蔵尊やお堂のなかに安置されている供養石塔などをお詣りし、ご朱印をもらい、平寺観音までは歩いても5分ぐらいとのことでしたが、車で移動しました。
 ところが、観音堂はすぐにわかったのですが、どこに車を駐めていいのかわからず、迷っていると、自転車で通りかかったおばあちゃんが、お堂の後ろ側にあると教えてくれました。そこは2〜3台と駐められそうです。そこに着いたのは10時ころで、そこから正面の参道へ戻りました。
 ここは子どもたちの遊園地になっているようで、ブランコやぶら下がって遊ぶラダーなどがありました。案内してくれた方にうかがうと、この遊園地は地元では「かんのんゆうえんち」といい、今でも子どもたちの遊び場やお年寄りのたまり場になっているそうです。
 参道の左側には、白御影石に「信達第二十三西伏昌平寺 南無馬頭観世音 別当光臺寺」、さらにその右脇にはご詠歌が彫られた大きな門碑が立っていました。そこから入ると、すぐに右側に手水があり、左側にはお地蔵さま、そして参道の両側には真新しい石灯籠が対でありました。
 そして、その先の正面が観音堂です。

 先ほど、案内してくれたおばあちゃんが脇にいたので、お堂の中でお詣りできますかと聞くと、ダメなようです。そこで、その回廊まで上り、いつものように鰐口を鳴らし、格子になったところの1ヵ所からお賽銭を入れと、観音経偈と馬頭観音のご真言などを唱えました。
 そして、お詣りが終わってから、おばあちゃんに由来などを聞くと、このお堂のみぎがわにおこもりするところがあり、よく昔は集まってお詣りしたということでした。でも、少しずつ少なくなり、そして新型コロナウイルス感染症が広まってからはまったくできなくなり残念だと話しました。
 たしかに、どこもそのようで、この信達三十三観音札所のお堂のわきにおこもりをする場所が併設されているところが多く、心のよりどころになっていたのです。ところが、コロナ禍により、不要不急の外出はできなくなり、さらに三密がダメといわれれば、集まることすらできなくなります。お詣りというのは、もちろん一人でもできますが、みんなでする楽しさもあります。みんなが集まれば、話しをしているうちに悲しさも苦しみも忘れさせてくれます。
 もし、女性であれば、今の時代はそのようなことはないでしょうが、どうしても男の子がほしいとか女の子がほしいとなれば、昔は観音さまにもお願いしたのではないか、だからこそ、観音経には、「若有女人設欲求男禮拝供養観世音菩薩 便生福徳智慧之男設欲求女便生端正有相之女 宿植徳本衆人愛敬」とあり、和訳すれば、「もし、女人有りて、もし、男(おのこ)を求めんと欲して、観世音菩薩を礼拝供養せば、便ち、福徳智慧の男を生まん。もし、女(めのこ)を求めんと欲せば、便ち、端生有相(たんじょううそう)の女、宿(むか)し徳本を殖えて衆人に愛敬(あいぎょう)せらるを生まん。」とあるのも、うなづけます。
 これをさらにわかりやすくいえば、ある女性が、もし、どうしても男の子が欲しいと観音さまに礼拝供養すれば、徳があり智慧の高い男の子が生まれ、もし、女の子が欲しければ、端正かつ美形で、前世に徳を身に付けた、みんなに愛される女の子が生まれることでしょうという意味です。
 まさか観音経にこのような具体的なことが書かれているとはあまり思わないでしょうが、おそらく昔は切実な願いだったと思います。おそらく、今でもその願いは変わらないでしょうが、厚生労働省が発表した1900年から2014年までの日本の人口動態統計表から、その男女の確率は、男の子が生まれる確率は51.278%、女の子が生まれる確率は48.722%だそうです。つまり男の子が多いのはなぜかは今もわからないそうですが、男女の生存率の違いではないかと専門家はいいますが、どちらが生まれてくるのかは、誰にもわからないということです。
 やはり、コウノトリが運んでくるのではないか、などと考えながら車に戻ったのは10時18分でした。次は第18番札所「慈雲寺観音」で、ここから4.1q、8分だそうです。

 第23番札所「平寺観音」 別当寺 鳳凰山 光臺寺(曹洞宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 名も知るる 行くはたいらの 道すがら いさめる駒の 足なみの音



☆信達三十三観音札所巡り Part.26

 第18番札所「慈雲寺観音」へは、平寺観音から先ほどの国道4号の伏黒伊陸痔の交差点まで戻り、そこを右折し、210mほどで左折します。そして産ヶ沢川の橋を渡り、県道124号で左折し、東北新幹線の下をくぐり、200mほど進んだところの右側に小さな案内板があります。そこを右折し100mほどで左側に「JAふくしま未来睦合支店」があり、そこを左折し100mほど進んでから右折すると、その正面の山のところにお寺が見えます。そこが慈雲寺です。
 長い石段の前に、白御影石に「曹洞宗 祝王山 慈雲寺」と彫られた大きな門碑があり、その脇に小さな同じく白御影石に「信達札所 第十八番 慈雲寺観世音」と彫られた石碑があり、石段の左手には十六羅漢の那伽犀那(ながせな)尊者と伐那婆斯(ばなばし)尊者の石像があり、その間に施餓鬼会をしたときの塔婆が挿してありました。そこを右側に曲がると、慈雲寺の駐車場まで行くことができます。
 ここに着いたのは10時27分で、さきほどの石段の正面が慈雲寺の本堂です。その右側には「南無釋迦牟尼佛」と彫られた石碑があり、その先が観音堂です。
 お堂の前には、白御影石に「信達札所 第十八番 成田慈雲寺観世音」と彫られた石碑があり、すぐにわかります。珍しい土蔵造りの観音堂で、左脇におこもりをするところがありました。

 先ずはお堂の前に下がっている鰐口を鳴らし、お賽銭を上げようとしたら、戸が開きました。せっかくなので、その戸を開けたまま、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えてお詣りをしました。
 中は板敷きで、正面の台の上の厨子の中にご本尊がまつられています。そのすき間から、お姿が見え、なんとも有難く思えました。案内書によれば、光背を含めると約80pほどあり、手は禅定印で、蓮弁の上に座っているそうです。ここからは、そこまで詳しくはわかりませんが、お顔を拝めるだけでもよかったと思いました。
 また、天井の格子の絵もみごとで、本堂内陣の格天井にも絵が描かれているそうですが、今回は拝見することはできませんでした。本堂は昭和22(1947)年の火災で焼失したそうですが、昭和32(1957)年に再建されましたが、現在は無住のようです。また近くを通る東北自動車道の建設により、境内と墓域が分断され、墓地は高台に移転されたそうです。
 本堂にいたる石段を少し下ってみると、観音堂の下にツワブキがたくさん咲いていて、先ほど石段の下のところに座す十六羅漢も見えます。阿羅漢というのは、もともとはお釈迦さまの直弟子で、十大弟子の舎利弗(しゃりほつ),目連(もくれん),迦葉(かしょう)などそうで、これ以上修すべきものがないという意味もあります。ところが観音経では、「応以比丘比丘尼優婆塞優婆夷身 得度者即現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身 而為説法」というのがあり、和訳すると「比丘(びく)・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の身を以って得度すべき者、即ち 比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の身を現して、為に法を説く。」とあります。さらに簡単にいえば、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の身を以って得度すべき者には、その身を現して、その法を説くといいます。
 この前後に、たとえ声聞や自在天、あるいは長者や童男童女であっても、その身を現して法を説くとあり、観音さまはすべての人々のためにその姿を現して法を説くと書いてありますから、いわば法を聞き修行するのに限りがないというわけです。
 よく仕事をしている方にうかがうと、これでよいということはなく、いつまでも修行だという話しを聞きますが、まさにその通りです。これでよいと思った時点から、退歩が始まります。仏法の修行もそれと同じではないかと思います。
 ここ第18番札所「慈雲寺観音」のご朱印は、第16番札所「法明寺観音」別当の松原寺です。そこで、次の第17番札所「大沢寺観音」に向かいました。ここを出たのは10時40分で、ナビの案内では1q、3分という近さです。

 第18番札所「慈雲寺観音」 別当寺 萬年山 松原寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 雨晴るる 峯よりかすむ 慈雲寺の 鐘のひびきに 花や散るらん



☆信達三十三観音札所巡り Part.27

 第17番札所「大沢寺観音」へは、「慈雲寺観音」から下がって右折し、成田堰上の信号から斜め右に進みます。500m程走ると右側に小さな案内板があるのでそこから右折し、東北自動車道の下をくぐり、すぐに左折し、100mほどで駐車場が右側の少し上ったところにあります。
 駐車場の右側に「大沢観音 右折徒歩10分」と書かれた案内板があるので、ここに駐めました。着いたのが10時47分で、歩き始めると、柿の木があり、真っ赤に熟した実がなっていましたが、誰も採らないようです。でも、この実が自分に落ちてきたら服が汚れてしまうと思い、急ぎ足で上って行きました。
 塀の側を通り、少し進むと左側に大きな家がありましたが、まったく人の気配はなく破れた戸にもたれるようにして大きなサザンカに花が咲いていました。そこを曲がると、ほとんど人も踏み跡もない泥道になり、これでは進めないと思い、一度車に戻り、長靴を履いて出直しました。先ほどよりさらに進むと、道の左手にクマを生け捕る大きな罠があり、これにはびっくりしました。
 ここはクマが出てきても不思議でなさそうな山道で、遠くからサルの鳴き声も聞こえてきます。さらにそれに呼応するかのように野犬の鳴き声も響きます。ここを進めば観音堂に行けるとわかっていても、やはり怖いものです。ここで引き返そうかと何度も思いながら、少し進み考え、また少し進んで考えていると、さらに奥の方にお堂らしきものが見えてきました。
 なんとかそこまでは行こうと決心し、お堂に近づくと、その近くにいたサルたちが木々の上で、枝を揺らすのが見えます。お堂の右の柱には「信達三十三観音 第十七番 大沢寺」と書かれた木札が下がっていて、ここが間違いなく「大沢寺観音」だとわかります。
 しかし、外回りもそうですが、中をのぞいても、まったく人が訪れた形跡もなく、心配でした。しかし、お詣りだけはしなければと思い直し、鰐口を力いっぱい鳴らしました。

 サルたちがすぐ近くまで来ましたが、わざと大きな声で観音経偈や諸真言を唱えて、ゆっくりとお詣りしました。ボスザルのような大きなサルがすぐ近くを通って行きました。
 私はだいぶ前に白ザルの写真を撮ったことがあり、家の周りにもときどきサルが来るのであまり怖くはないのですが、先ほどのクマの檻を見たり、遠くから聞こえてくるイヌの鳴き声が聞こえると、誰もいないこのようなところで、野生の大型動物と出合うのはやはり怖いです。
 そういえば、観音経に「時悉不敢害 若惡獸圍遶 利牙爪可怖 念彼觀音力」というのがあり、和訳すると、「もし、悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(するど)き牙爪(げそう)怖るべきも、かの観音の力を念ずれば、疾く無辺の方に走らん。」ということです。さらに意訳をすれば、もしも悪い獣たちに囲まれて、鋭い牙や爪で襲いかかられようとも、観音さまの力を念ずれば、さっと逃げ去る、という意味です。
 それを考えたら、だいぶ恐怖感は薄らぎ、サルが観音堂の屋根で騒いでも、あまり気にならなくなりました。しかし、ここに長居はできないので、私はまったく怖くないという姿勢を保ちながら、ゆっくりと下りました。そして、クサギに実がついているところを見つけて、やっと自分らしさに戻ったようです。
 車に戻り、長靴をぬいで靴を履き、もし長靴を持ってこなければこの札所はお詣りできなかったのではないかと思いました。やはり観音詣りといえども、何があるかわかりません。そういえば、電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルは、「何はさておいても、準備こそが成功の鍵である。」と言ったそうですが、この日はほんとうにそのように思いました。時計をみると、11時15分でした。
 ここ第17番札所「大沢寺観音」も第18番札所「慈雲寺観音」のご朱印も、第16番札所「法明寺観音」別当の松原寺でいただけます。そこで、松原寺にむけて出発しました。
 ナビで確認すると、ここから650m、2分ということです。

 第17番札所「大沢寺観音」 別当寺 萬年山 松原寺(曹洞宗) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 のちの世の 罪はあらじと 結ぶなり 大沢寺の 法のきよきを



☆信達三十三観音札所巡り Part.28

 第16番札所「法明寺観音」へは、「大沢寺観音」の駐車場から右折し、80mほどで斜め右折で県道124号に入ります。そこから300mほどで右側に松原寺の案内板があるので、そこから右折し、さらに80mほど進み、山の方に右折し120mほどで松原寺があります。その途中には白御影石に「曹洞宗 萬年山 松原寺」と彫られた門碑が立ち、その左側には「葛乃松原 信達札所第十六番観世音」と彫られた石塔があり、これは昭和13年6月に建てたと左側にありました。
 そこをもう少し上ると、右側に駐車場があり、10台ほど駐めることができます。そこに着いたのは11時18分で、先ずは石段を上り、正面の本堂にお詣りし、右手にある庫裡でご朱印のお願いをしました。というのも、ここは第16番札所「法明寺観音」だけでなく、先にまわった第18番札所「慈雲寺観音」と第17番札所「大沢寺観音」もここで受け付けていますので、手間がかかると思いました。
 さっそく住職が出てきて、お願いしましたが、大沢寺観音はクマの檻や近くにサルがたくさんいて、お詣りするのが大変だと話しました。すると、住職は、あの近くの人たちは怖くて移転したり、私も3年以上行ってないとのこと、さらにイノシシも出るそうで、何ごともなくてよかったと話されました。
 でも、考えてみれば、先にそのことを知っていれば観音堂に行かず、遠くから遙拝したかもしれないので、知らないからこそよいこともあると思いました。でも、話しを聞くと、今さらながら身震いをするのを感じました。
 それから、観音堂まで歩くと、本堂の裏手の墓地には、たくさんのサルたちがいて、なかにはお墓の上に乗っているのもいます。昔は、ここから山を越えていくと、大沢寺観音まではたった200mほどだそうですから、先ほどのサルたちもこの同じ群れなのかもしれません。
 石段の左側には、「信達札所 第十六番 松原法明寺観世音」と彫られた石碑があり、これは平成21年の春彼岸に建てたものです。そこから石段を上り、突き当たりを左に進み、次に右側の石段を上ると真正面が観音堂です。

 先ずはお賽銭を上げ、回廊のところに下がっている鰐口を鳴らし、観音経偈と十一面観音のご真言を唱えてお詣りをしました。
 中の様子はまったくわかりませんが、近くでさわいでいるサルの声だけははっきりと聞こえます。あらためて、ここを護っていくのは大変だと感じました。
 それでも、ここから眺める伊達の街並みはきれいでした。この伊達市は、もともとは伊達家の領内で、伊達政宗という人物は2人います。伊達家中興の祖といわれる第9代政宗と、「独眼竜」として知られる第17代政宗です。この第9代政宗のころには、この伊達領のほかに伊具郡、刈田郡、宮城県の柴田郡、さらには山形県の長井郡なども領地でした。
 そして、第17代政宗のときに、豊臣秀吉の時代にこの伊達郡や信夫郡、長井郡などを没収され、伊具や名取、亘理などは安堵され、さらに替わりに葛西・大崎などの12郡を与えられたそうです。やはり、戦国時代はある意味、弱肉強食の時代でもあります。強い者には逆らえないないのです。
 そういえば、観音経偈のなかに、「或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊  或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱」というのがあり、和訳すると「あるいは、王難の苦に遭いて、刑に臨みて寿(いのち)終らんと欲(せ)んに、かの観音の力を念ずれば、刀、尋(つ)いで段段に壊(お)れん。あるいは、囚われて枷(くびかせ)や鎖に禁ぜられ、手足 忸械(ちゅうかい)せられんに、かの観音の力を念ずれば、釈然(しゃくねん)として解脱することを得ん。」とあります。さらにわかりやすく意訳すると、王の裁きに遭遇して、刑に臨んで処刑されようとするとき、観音さまの力を念ずれば、刀は、ボロボロに折れてしまいます。また、囚われの身になって鎖につながれ、手かせをはめられたとしても、観音さまの力を念ずれば、するすると解かれることでしょう、ということです。
 おそらく、昔は王様の言動はすべてを支配していましたから、正しいことでも処罰されることもあったに違いありません。いや、今の時代であっても、これを書いている現在もロシアがウクライナに軍事侵攻しているので、いつの世も支配者の怖さはあったようです。
 だとすれば、なおさらのこと、すべての人たちが安心して暮らせるように観音詣りをすることは大切です。
 そんなことを考えながら庫裡に行き、ご朱印帳をいただき、車に戻りました。時間は11時38分です。次は第15番札所「明智寺観音」ですが、そこへの途中で、昼食ができればと思いながら、車を進めました。ナビでは、2.6q、5分ほどだそうです。

 第16番札所「法明寺観音」 別当寺 萬年山 松原寺(曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 いやしきも のこさで救へ 法明寺 仏のたすけ ありといふより



☆信達三十三観音札所巡り Part.29

 第15番札所「明智寺観音」へは、松原寺からもとの県道124号へ右折し、900mほどで左折します。そして果樹畑のなかを550mほど進み、国道399号でまた左折します。そして東北自動車道の下をくぐり300mほどすると、「曹洞宗 明智寺 信達第十五番札所」と書かれた案内板があるので、そこから左折し250mほどで道路の右側に白御影石の旗を立てるのがあるので、そこからまた右折するとお寺が見えます。
 そのお寺の裏側に「明智寺 参拝者用駐車場」があり、そこに車を駐めました。時計をみると11時45分でした。
 ここの別当は福源寺ですが、ここから1.7qほど離れているので、ここの鍵を預かっている坂田さんに昨日連絡しておきました。そこで、駐車場からお寺の前にまわり、観音堂の手前までくると、歩いてくる方がおられ、その方が坂田さんでした。ほぼ、予定通りの時間でしたが、すぐに来てくれて、ほんとうに有難かったです。
 観音堂への参道入口はなだらかなスロープになっていて、右側に赤い頭巾をかぶり、赤いはんてんを着たお地蔵さま、左側には黒御影石に「聖観世音」と横書きに彫り、縦には「信達札所第十五番」と「絶えず聞く 法の言葉を 明智寺の 池のはちすも 花ひらくらん」というご詠歌が彫られていました。
 その間を歩くと、お堂の手前に3段ばかりの石段があり、それでも手すりがつけてありました。お堂へは、土足厳禁と書かれていたので、そこで靴を脱ぎ、観音堂を開けていただき、お堂のなかに入りました。
 中には、あちこちの観音さまを巡礼したときの写真がたくさん掲げられていて、座卓もあり、そこで坂田さんにご朱印帳をお願いしました。

 私は、観音さまの前の経机の前に座り、お賽銭を上げ、金を鳴らし、木魚もあるので、それを叩きながら、観音経偈と聖観音のご真言などを唱えました。やはり、すぐ前でお詣りできることはとても有難いものです。
 お詣りが終わってから、ご本尊さまに紫の幕が懸けられているので、ご開帳はあるのですかと聞くと、坂田さんも拝見したことがないということでした。現在、この明智寺は無住になっていますが、江戸初期のころは米沢市にある五百羅漢像が安置されていることで有名な東源寺から天国応雪和尚を招いて開山したと伝えられいます。
 この五百羅漢というのは、お釈迦さまが入滅したのち、その教えを伝えるために第1回の経典のための集まりと第4回目に集まったときが500人いたとの伝えから、そこに集まった500人の聖者を五百阿羅漢というようです。でも、私はその第1回目に集まった七葉窟に行ったことがありますが、500人もの聖者が集まれるようなところではありませんでした。また、第4回目は南伝仏教では、紀元前1世紀にスリランカのアルヴィハーラ石窟寺院で開かれたそうですが、ここにも行きましたが、そんなに集まれるほど広くはありませんでした。でも、ここにはヤシの葉に書かれた古い仏典がたくさん保存されていて、私もその同じ方法で作ってもらったものをお土産に持ち帰っています。
 そういえば、観音経には、「仏告無尽意菩薩善男子若有国土 衆生応以仏身得度者観世音菩薩 即現仏身而為説法」とあり、和訳すると「仏、無盡意菩薩に告ぐ。善男子、もし国土の衆生ありて、仏の身を以って得度すべき者、観世音菩薩、即ち 仏の身を現して、為に法を説く。」といいます。つまり、仏さまは無盡意菩薩に説くところによれば、「よきお方よ、もし国土の人々の中で仏(ブッダ)として悟りを開くべき者には、観世音菩薩は、仏の姿を現して、その者のために法を説く、と答えています。この無盡意菩薩というのは、衆生を尽きることなく余すことなく救うという仏さまで、金剛界曼荼羅の檀外の北方(右側)の4尊のうち西(上)から1番目に配されています。
 おそらく、お釈迦さまは、誰にでもその立場に立って教えを説いてくれるし、観音さまも同じように悩み苦しんでいる人たちを限りない慈愛のもとに救ってくれるということです。
 お堂のなかで、ご朱印をいただき、坂田さんから話しを聞くと、現在の別当をしている福源寺の本寺は、米沢市にある林泉寺だそうで、やはり米沢との関係が深いところです。もっといろいろと話しを聞きたかったのですが、お昼ということもあり、いっしょに外へ出て、挨拶をして分かれました
 私は、本堂のところにまわり法楽を捧げましたが、無住といいながらも、境内はきれいに掃除されて、庭木も丁寧に管理されていました。おそらく、自分たちのお寺だという思いが、この境内にもお堂にも現れていると思いました。
 次は第14番札所「宝寿寺観音」です。今、12時5分ですので、連絡してある時間は午後1時ころということなので、どこかで昼食を食べてから行こうと思い、先ずは国道399号に戻ることにしました。ここから第14番札所「宝寿寺観音」までは、ナビによると2q、5分ということです。

 第15番札所「明智寺観音」 別当寺 長倉山 福源寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 絶えず聞く 法のことばを 明智寺の 池のはちすも 花ひらくらん



☆信達三十三観音札所巡り Part.30

 第14番札所「宝寿寺観音」へは、「明智寺観音」から国道399号に戻って左折し、東北新幹線の下をくぐり、700mほど進んでから県道353号の天王通りへ右折します。
 ところが、まだ連絡しておいた時間には早いので、昼食にすることにしました。国道399号を進んでいると、左側に「すし竹伊達店」の看板が見えました。
 駐車場には1台の車もなかったので、店内に入ると、テイクアウトが多いようで、少しだけ食べるところもありました。聞くと、中で食べられるということなので、海鮮丼(1,180円)を頼みました。そして、今日まわったところやこれから行く予定の観音さまを考えながら待っていると、すぐに呼ばれ、ゆっくりと食べました。食べている間に、2〜3人は来ましたが、みな持ち帰りの人ばかりです。食べ終わって店内を見ると、「お持ち帰り専門」と書いてあり、なるほどと納得しました。
 出てきてからもまだ時間があるので、近くの空き地で食休みをして、それから国道399号に戻り、予定のルートで宝寿寺へと向かいました。天王通りは7時から8時30分までは進入規制があり、100mほど進んで右折する細道もその時間帯は通行止めになるそうです。
 宝寿寺は、八雲神社の左隣で、参道の右側には「曹洞宗 天徳山 宝寿寺」と彫られた石碑と、左側には「十四番札所」と彫られた石碑が立っていました。そこの間を進むと、両側に門碑があり、右には「曹洞宗」、左には「宝寿寺」と彫られていて、そこの間を車で通れました。正面が本堂で、ご朱印は右手の庫裡らしく、玄関の戸が開いていました。
 ここの別当は福島市舟場町の「萬年山 長楽寺」で、ここから8.6qほど離れていますが、福島市内にあり朝夕の混雑するときには30分以上もかかるそうです。案内書には事前に連絡をしたほうがいいと書かれていたので、昨日の朝に連絡したのですが、ここに住職が来てくれることになりました。本当にありがたいことです。そのことを話しますと、「ときどき来て掃除をしたりするので」という返事でしたが、そのさり気なさがとても印象に残りました。
 本堂の前でお詣りし、それから観音堂に向かう途中に、令和元年11月16日に新命住持になられた方の晋山式の角塔婆が立っていたので、今しがたご朱印帳を手渡した方ではないかと思いました。観音堂は本堂の左手前にありました。

 すると、観音堂も開いていて、その心づかいも有難く、ゆっくりとお詣りできました。お堂の入口の上には、「観世音菩薩」と白抜きで彫られた額が掲げられ、その向こうにある鰐口を鳴らし、その先のお賽銭箱に入れました。そして観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えました。
 観音堂は双堂形式で、手前のお堂は戦後に建てられたもので、礼堂と接待所兼用になっていて左奥にはガス台や洗い場などがあり、お堂の後ろは1800年代に建てられた銅板葺き宝形造りで、内陣の須弥壇もりっぱで、きれいに掃除をされていました。この観音堂の裏手は墓地になっています。
 お堂の手前の左側には、同じ大きさの白御影石に、左は「観世音」右には「観世音浄聖」と白抜きで彫られていました。この「観世音浄聖」というのは、観音経偈に「念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」とあり、和訳すれば「念々、疑を生ずること勿れ。観世音は浄聖(じょうしょう)にして、苦悩死厄において、能く為に依怙と作(な)れり。一切の功徳を具し、慈眼をもて衆生を視、福聚の海、無量なり。是の故に、まさに頂礼すべし。」です。
 その大意は、「くれぐれも疑うものではありません。観音さまは浄聖にして、苦悩死厄において、みなさまの頼りになる存在なのです。また観音さまは、一切の功徳をそなえていて、慈眼をもって人々を見ています。福聚の海は無量なのです。ですから、まさに頂礼すべきなのです。」となります。
 これはある意味、観音経偈のもっともいいたいところであり、大切なところでもあります。よく墨跡で「慈眼視衆生」や「福聚海無量」と書かれたのを見ますが、ここからとったものです。
 ご朱印帳をいただきに戻るとき、観音堂近くのサルスベリの葉からこもれびが地面に映り、さらに本堂の左脇の大きなイチョウの木が木陰をつくってくれていました。それもきれいに掃除されていたからこそ、感じたものかもしれません。
 また、庫裡の右側には観音石像が建ち、その右下には『お疲れ様です。「なんとかなるさ」でがんばりましょう。』と彫られた石版が添えられていました。
 ご朱印帳をいただき、きれいに掃き清められたところでお詣りできて有難かったと、つい言葉に出ました。でも、本音です。
 気持ち良く、車に戻ると、まだ午後1時過ぎでした。次は第13番札所「龍源寺観音」で、ここから2.2q、5分ほどです。

 第14番札所「宝寿寺観音」 別当寺 萬年山 長楽寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 舟よせて 運ぶ宝の いのち寺 阿武隈川は 法(のり)をえてしも



☆信達三十三観音札所巡り Part.31

 第13番札所「龍源寺観音」へは、「宝寿寺観音」から天王通りの県道353号で右折し、摺上川を渡り、800mほど進んだ左側に「龍源寺」の案内板があり、そこの押しボタン信号機から左折します。
 すると、15〜6mほど進んだ突き当たりです。石塀の中に駐車場があり、30台ほど駐めることができます。その左側が本堂で、正面が庫裡になっていて、そこでご朱印をお願いしました。
 先ずは本堂にお詣りすると、大正8年のときに火災で観音堂と古山門だけ残して類焼したそうで、現在の本堂は昭和6(1931)年に再建されたそうです。
 その左脇に観音堂があり、もともとは世光寺から移転したもので、信達地方では最も古い建物です。この世光寺は阿武隈川の東岸向瀬上にあり、平安時代の創建だそうで、天台宗の古刹でしたが、時代の流れから無住になり、現在の龍源寺に合寺されたそうです。それで、今でも「世光寺観音」と呼ぶこともあるといいます。やはり、呼び名からも、歴史を感じることはできます。
 お堂の左側には、休憩所みたいな建物がありますが、戸が閉まっていて、何に使われているのかはわかりませんでした。
 先ずは観音堂に行き、お詣りしました。屋根を見上げると、唐金製の宝珠が二重の蓮の葉に載り、古いお堂であることを感じさせます。

 お堂の前の鰐口を鳴らし、板戸を少し動かすと開いたので、なかにはお賽銭箱があり、その先の戸も開いていてご本尊さまが拝めました。ここも、「宝寿寺観音」と同じように、戸の開いているところでお詣りできることはとても有難いことです。
 ここでも、お賽銭を上げ、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えてお詣りをしました。遠くからではなかなかわからないので、案内書によると、カヤの一木造りで、高さは約18pの聖観世音座像で、左右には三十三観音像がまつられているそうです。
 お詣りをすませ、観音堂の裏手にまわってみると、石像の三十三観音もあり、瓦屋根の鞘堂で覆われていて、手前にはお詣りできるように線香立てもありました。また、お堂の左脇には、お地蔵さまがまつられ、赤い頭巾とガウンがかけられていて、同じようにトタン屋根がかかっていました。
 そういえば、「世光寺観音」と呼ばれていた江戸時代末期の文久2(1862)年に、堂内から出火したにもかかわらず大事にいたらなかったこともあり、火伏せのご利益があるともいいます。そのおかげなのか、現在地に移転後の大正8年のときの火災でも、この観音堂は残りました。
 観音経偈のなかに、「無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間」というのがあり、和訳は「無垢清浄の光ありて、慧日(えにち) 諸々の闇を破り、能く災いの風火を伏して、普(あまね)く明かに世間を照らす。」です。つまり、観音さまには(真観・清浄観・広大な智慧観、そして、悲観に慈観があり)無垢清浄の光があって、その明るい太陽は諸々の闇を破り、災いの風や火を鎮めて、広く世の中を明るく照らしてくれるということです。
 また、観音経の先段のところに、「設(たと)い大火に入るとも、火焼くこと能わず」と書いてあり、たとえ大火のなかに入ったとしても火に焼かれることはないということです。
 やはり、昔から怖いものは「地震雷火事親父」といいますが、火事も怖かったと思います。越後長岡藩牧野家の家臣だった河井継之助(かわい つぎのすけ)は、「実に火事ほど恐ろしいものはない。他人から来る火は仕方がないが、自分から出した火は取り返しがつかぬ。」と話しています。
 この広い境内で、そのようなことを考えながら庫裡に行き、預けておいたご朱印帳をいただき、車に戻りました。時間は午後1時26分です。
 次の観音さまは、第12番札所「満願寺観音」で福島市飯坂町湯野にあります。ここから6.5q、15分ほどだそうです。

 第13番札所「龍源寺観音」 別当寺 青揚山 龍源寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 かの仏 深き誓いの ほど見えて 波間に浮ぶ 瀬の上の月



☆信達三十三観音札所巡り Part.32

 第12番札所「満願寺観音」へは、「龍源寺観音」から県道353号を右折し、70mほどで県道155号へ左折します。そこから6.4qほど直進し、下飯坂の信号から右折し、県道399号のところで左折し摺上川を渡り、すぐに右折し100mほどで左折し、旧堀切邸のわきを通り、次の丁字路を左折します。また100mほどで右折すると、60mほどで右側に満願寺観音があります。
 ちょっとややこしいですが、ナビのある車なら、意外と簡単に行けますが、道路が狭いので気を付けてください。右側の「浄土宗 満願寺 信達第十二番札所」と書かれた白い案内板が目印で、その手前から入ると駐車場があり、5〜6台は駐めることができます。
 ここに着いたのは午後1時50分でしたが、意外と時間がかかったのは、途中でお茶を買ったり、道を少し間違えたからです。それほど、この飯坂温泉の市街地はわかりにくかったです。
 お堂の左側には、浄土宗らしく阿弥陀石仏をまつった祠があり、右手奥には集会場のような建物がありました。お賽銭箱は、階段の左手前の柱の前にお宮型のものがありますが、「土足禁止」の張り紙の手前で靴を脱ぎ、回廊のところまで上りました。

 先ずはお堂の前に下がっている鰐口を鳴らし、格子戸のところに2ヵ所丸い穴が開いているのでそこからお賽銭を上げ、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えてお詣りをしました。
 それが済んでから、上を見上げると板額があり、増上寺大僧正が書いたもののようで、「満願寺」と彫られていました。この芝増上寺は、浄土宗の七大本山の一つですから、そのころはここもそれなりの寺格を誇っていたのではないかと思います。
 さらにその上に扁額が掲げられていて、そこには「観世音」と金文字で彫られていました。そういえば、「観世音菩薩普門品」の最初に、無盡意菩薩がお釈迦さまに「観世音菩薩はなぜ『観世音』という名前なのですか、と質問をしています。そこには、「世尊観世音菩薩以何因縁名観世音 佛告無盡意菩薩善男子若有無量 百千萬億衆生受諸苦悩聞是観世音菩薩 一心稱名観世音菩薩即時観其音聲皆得解脱」云々と書いてあり、和訳すると『「世尊、観世音菩薩、何の因縁を以って『観世音』と名づくるや」仏、無盡意菩薩に告ぐ、「善男子、もし、無量百千万億の衆生ありて 諸々の苦悩を受けんに、この観世音菩薩を聞きて一心に称名せば、観世音菩薩、即時にその音声を観じて、皆 解脱を得ん。』と説いています。もっとわかりやすくいえば、お釈迦さまに、どんなわけがあって観世音菩薩は『観世音』という名前なのですかと質問すると、お釈迦さまは無盡意菩薩に、観音さまは多くの生きとし生けるものがそれぞれの悩みを抱えているので、それらの者たちが観世音菩薩を一心に称えると、即座にその声を聞いて、悩みから解放してくれるからです、と答えたということです。
 つまり、一心に称えていると、その声を聴くだけではなく観ているということでもあります。そういう意味では、どこにいても必ず観て聴いていてくださるということです。
 この満願寺は、江戸時代の宝暦7(1757)年に伊達郡桑折町の無能寺が別当になり、現在に至っています。無能寺はここから県道124号を経由して7.5q、約13分ほどの距離にあります。そこで、お堂の東隣の世話人が管理をしていますが、今回のお詣りでは、第22番札所「常西寺観音」へ行く途中で別当寺にまわってご朱印をいただきました。それも有難いことに、そこに行ったことで「御蔭廼松」を見たり、この「信達三十三観音の旅」の表題の写真、朱塗りの鐘楼の写真を撮ることができ、とても印象に残りました。
 次は信達三十三観音の旅の最後、第11番札所「天王寺観音」です。ここは同じ福島市飯坂町にあり、奥州三十三観音札所の台11番札所でもあります。ここには2019年7月9日に奥州三十三観音巡礼でお詣りしたので、道順はわかります。
 先ずは、県道319号へと進み、そのまま穴原温泉の方へ向かいます。ナビの案内では1.9q、5分だそうです。

 第12番札所「満願寺観音」 別当寺 守一山 学運院 無能寺(浄土宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 さわりなく 願を満てし 寺なれば 月も心も 曇らざりけり



☆信達三十三観音札所巡り Part.33

 第11番札所「天王寺観音」へは、「満願寺観音」から右折し、30mほどで左折し、飯坂温泉の共同浴場「八幡の湯」のわきを通り、飯坂町商工会のところから右折し進みます。次に八幡新田のところから飯坂バイパスに入り、県道319号で左折し450mほど進むと天王寺です。
 ここは2019年7月9日に奥州三十三観音巡礼でお詣りしたのですが、どちらも第11番札所ですから、不思議なものです。右手の方に進むと、駐車場があり、30台ほど駐めることができます。ここに着いたのが午後2時11分でした。
 先に門碑のところまで戻ると、右には「臨済宗妙心寺派」、そして左には「香積山 天王寺」と大きく彫られていて、その間の参道を歩きました。その先に10段ほどの石段があり、その上に山門があります。山門には「香積山」と白抜きされた額が掲げられ、そこから入って少し進むと石段があり、そこを上ると真正面が本堂です。
 天王寺という名は、聖徳太子が開基され、四天王寺のひとつとして毘沙門天を安置したからとのこと、それにしてもすばらしい寺号です。その本堂の右側に庫裡があり、そこでご朱印をお願いしました。すると、書いて置くから先にお詣りしてきてくださいといわれ、庫裡の裏手にある観音堂に向かいました。
 石橋を渡ると、その両側に石碑があり、右には「奥州三十三観音霊場 第十一番札所 天王寺」、そして左には「信達三十三観音霊場 第十一番札所 天王寺」と彫られていて、さらに石段の右側には「子育地蔵」、そして左側には観音石像が建っていて、その間を上って行きました。
 そこに、観音堂は建っています。

 ここで、信達三十三観音札所巡りも満願なので、先ずはお堂の前にいくつも下がっている鰐口をまとめて鳴らし、お賽銭を上げ、観音経偈と聖観音さまのご真言を唱えてゆっくりとお詣りしました。
 それから中を拝見すると、お堂には「三済閣」と書かれた扁額が掲げられ、この「三」は四苦の「生老病死」から「生」を抜いた3つ、つまり「老病死」を済うという意味のようです。
 そういえば、観音経偈のなかに、「種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅」というのがあり、和訳すると「種種(しゅじゅ)諸々の悪趣、地獄、鬼、畜生、生老病死の苦、漸く、悉く滅せしむ。」となり、わかりやすく意訳すると、さまざまな悪や、地獄・鬼・畜生、さらには生老病死の苦も、すべて、ことごとく消滅してくれる、といいます。
 たしかに「生」も苦の原因ですが、すでに生まれてきてしまったのだから、それ以外の苦しみを消滅してもらいたいという願いが込められています。
 そして、妙法蓮華経『 観世音菩薩普門品 』第二十五の最後のところに、「佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心」とあり、和訳すると、「仏、この普門品を説きたもう時、衆中八万四千の衆生、皆無等等(むとうどう)の阿耨多羅三藐(あのくたら さんみゃく)三菩提の心を発(おこ)せり。」ということです。
 つまり、お釈迦さまがこの普門品を説かれたとき、人々の中の8万4千の者たち全員が、並ぶものがないほど優れた「阿耨多羅三藐 三菩提」という、この上なく、正しく、真実なる、完全な悟りを得たいという心を、起こしたそうです。
 じつは、この法華経を説かれたインドの霊鷲山に登ったことがありますが、8万4千人も集まれるところはありませんでした。しかも、まだ暗いときから登り始めたので、危険だからということで、警察官の護衛まで頼みました。それでも月明かりがあり、次第に朝日が昇るころには、少しずつお詣りの方々も集まり、各国の言葉でお経を唱えていました。ここで見た、お月さまと太陽の光は、今でもしっかりと印象として残っていて、この同じ場所で2,500年前にお釈迦さまが説法をしていたという事実に、身震いをするような感動に包まれました。
 この天王寺観音で信達三十三観音札所をお詣りする旅も最後なので、観音堂の前に立ち、記念撮影をしました。福島往復3回で、無事に信達三十三観音札所の旅も満願です。すると、そこに住職が出かけるからということで、ご朱印帳を持ってきてくれました。もし、あと数10分遅れていたら、ご朱印をいただけなかったかもしれず、観音さまに見守られての札所巡りだったと改めて感じました。
 駐車場に戻ると、午後2時35分でした。途中でお土産の福島名産の果物を買い、さて、次はどこの三十三観音札所巡りをしようかと考えながら、自宅に着いたのは午後4時10分でした。

 第11番札所「天王寺観音」 別当寺 香積山 天王寺(臨済宗妙心寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 説きおける 法の始めを 天王寺 知るや悟りの 仏ある世に