☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.01

 四国八十八ヵ所のお遍路をしてみたいと思ったのは、たしか、修行を終えてすぐでしたが、そのときは歩き遍路を考えていたので、日程的に無理でした。
 その後も、何度かお遍路をしたいと思ったのですが、やはり歩き遍路だと約2ヶ月間という時間的余裕はなく、とうとう平成29年になってしまいました。もう、この歳になれば歩き遍路は体力的に無理なので、車でまわることにしました。ちょっとは手軽なツアーをとも思ったのですが、ゆっくりと自分のペースでまわるには自分で運転してまわるということに落ち着きました。
 時期は雪が多く、お詣りの少ない2月から3月ということで、最終的には2月28日に出発して、遅くても3月15日には帰ってくるということで計画を立てました。ここから第一番札所の霊山寺までは861qで、最初に無理をしてしまうと後が続かないということで、途中の京都篠山で1泊することにしました。ここまででも724qあり、自宅を出たのが午前7時20分で、ホテルに着いたのが午後4時15分でした。
 翌3月1日にはホテルから霊山寺まで160qです。そして、第1番札所霊山寺に着いたのが午前9時40分でした。ホテルを出発したのは午前7時ちょうどでしたから、ここまで1時間40分かかったことになります。
 四国八十八ヶ所のお遍路は、ここ第1番札所から四国八十八ヶ所霊場会の公式ホームページによると、全行程はおよそ1460qだそうです。ここで巡礼に必要な納経帳や金剛杖などをそろえ、先ずは改めて第1番札所霊山寺の仁王門から入り直し、手水を使って身を清め、本堂、そして大師堂をお詣りし、これからの長いお遍路の無事満願を祈願しました。

 本堂は修理中で、足場が組まれ、全体を見ることはできませんでしたが、大師堂は放生池と呼ばれる向こう側にあります。この池には錦鯉が飼われているようで、その姿も見えます。また小さな子どもたち6体が、お大師さまの方に手を差しのばしているかのような姿で蓮の葉に乗っていました。その小さな橋を渡り、大師堂の前でロウソクを点け、線香に火を点け、作法通りにお詣りをしました。
 ちなみに、阿波の国徳島は「発心、つまりは菩提心を発する道場」で、それから右回りで土佐の国高知は「修行の道場」、伊予の国愛媛は「菩提、つまりは自己の執着を離れ、他人を思いやる慈悲の心を持つための道場」、そして讃岐の国香川は「涅槃に至る道場」として位置づけられ、最後に高野山にお詣りして、四国八十八ヵ所のお遍路をしたことをお大師さまに報告し感謝しなければならないといわれています。
 また、なぜ八十八ヵ所かといいますと、男の大厄が四十二歳、女性の大厄が三十三歳、子どもの厄年が十三歳を合計すると八十八で、すべての厄を祓うことができるという説などがあり、定説というのはないようです。
 ということで、先ずはここから八十八ヵ所をすべてまわって、再びここに戻ってきますという気持ちを込めてお詣りをしました。そして、買ったばかりの納経帳にご朱印をいただこうと思ったら、すでにおされてあり、それで持参した納経帳にだけいただきました。さらに、四国遍路が日本遺産に認定されたことを記念して、平成28年1月1日より平成29年5月31日まで特製の記念散華をいただけるということで、こちらもいただきました。この記念散華は四国四県それぞれの専用台紙に貼付し、四枚の台紙を組み合わせると色鮮やかな一輪の華が完成するそうですが、結局はその台紙を買わなかったので、そのまま手元に納経帳といっしょにあります。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかで、ときどき思い出すのが、「心暗きときは、遇うところ悉く禍なり。眼(まなこ)明かなれば、途(みち)に触れて皆宝なり」というのが『性霊集』に載っています。たった今からはっきりと眼を明けてお遍路に出て、宝ものを見つけたいと思っています。
 駐車場に戻ると、午前10時10分を少し過ぎていました。次は第2番札所極楽寺です。

 第1番札所 竺和山霊山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 釈迦如来
 ご詠歌 霊山の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.02

 第2番札所極楽寺は、第1番札所霊山寺から県道12号線を西に1qほどのところにあります。時間は約3分ほど、あっという間に着きました。
 こんなにあっけなく着いてしまうと、残りの86ヵ所も意外と簡単にお詣りできるかもしれないと思ってしまいます。でも、案内書を見ると、この第1番札所から第10番札所までは楽にまわれると書いてありました。それでも午前10時を過ぎているので、今日はどこまで行けるのか、どこに泊まればいいのかを考えなくてはなりません。これが、四国八十八ヵ所お遍路の初心者の最大の悩みでもあります。
 先ずはとりあえずお昼ご飯を食べるときにでも考えようと思い、仁王門の脇の駐車場に駐めました。
 ここの仁王門は朱塗りの大きなもので、とてもよく目立ちます。この門をくぐると、静かな境内地があり、なんとなく山に囲まれているような落ち着いた雰囲気です。
 仁王門から右に曲がると手水場があり、それがすべて石の彫刻で出来ていて、とくに4本の柱の部分や屋根の龍の彫り物が見事です。ここで手口をそそぎ、そのまま進むと左手に石段が見えます。その石段を上りきると、真正面が本堂です。

 先ずは本堂にお詣りし、その右手にあるのが大師堂です。すでにお詣りをしているお遍路さんがいるので、邪魔にならないようにローソクを灯し線香を点け、お賽銭と納め札をあげ、それからお経を唱えました。
 ここのお大師さまは、別名「安産大師」とも呼ばれているそうで、由来書には流産される女性にお大師さまが加持祈祷すると、即座に子宝に恵まれたそうです。
 石段を下りるときに気づいたのですが、その下の大香炉のところに黒御影石の仏足石がありました。これを見て思いだしたのですが、お釈迦さまが悟りを開かれたブッタガヤには、大きな仏足石があり、その上に色とりどりの花々が添えられていました。
 石といえば、お大師さまの言葉のなかに、「解宝の人(にん)は礦石(こうしゃく)を宝と見る」(般若心経秘鍵)というのがありますが、宝石のわかる人は、ただの石のかたまりにも宝を見いだすことができるという意味で、先ずは見る目を養うことが大切です。
 また、ここにはお大師さまが植えたとされる「長命杉」があり、その案内板には、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルと書かれていました。そしてこの巨木は鳴門市の天然記念物にも指定されているそうです。たしかに見上げるような巨木で、今も青々としていて、つい触れたくなりましたが、やめました。
 やはり、植物だって、見ず知らずの人に触れられたくはないのではないかと思うからです。
 納経所は、広い境内地の一角にある庫裡のところで、お詣りした最後にここでご朱印と御影などをいただきました。そして、再び仁王門から出て、そこで立ち止まって一礼し、車に戻りました。
 時計を見ると、午前10時36分です。次は第3番札所金泉寺です。ナビに電話番号を入力して、すぐに案内開始を押しました。

 第2番札所 日照山極楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 極楽の 弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.03

 第3番札所金泉寺は、同じ県道12号線を西に3qほど進んだところにあります。正式な寺院名は亀光山釈迦院金泉寺というそうで、その由来はこのあたりの村人たちが日照りに苦しんでいたのを見て、お大師さまが井戸を掘ると、そこから霊水がわき出てきたといいます。それで、もともとの寺名が「金光明寺」だったのを改め、「金泉寺」としたそうです。
 ここの仁王門の左側にある駐車場に午前10時48分に着き、仁王門で一礼し境内に入りました。この門も朱塗りの立派なもので、そのわきには、「阿波北嶺薬師第九番霊場金泉寺」と書かれた木柱があり、ここはお薬師さまのお詣りもあるらしいと思いましたが、本堂に行くと、ここのご本尊さまは釈迦如来でした。かえり道で気づいたのですが、六角堂の観音堂もあり、とうとうどこにお薬師さまがまつられているのかわかりませんでした。
 本堂に向かう手前に「ごくらくばし」と書かれた朱塗りの小さな橋があり、そこを渡って行くと、正面に本堂があります。流れの弱い疏水ですが、橋を渡ることによって、気が引き締まります。

 本堂にお詣りした後で、その右手前にある大師堂に向かいました。ここでも同じように、ローソクを灯し線香を点け、お賽銭と納め札をあげ、それからお経を唱えました。
 この納め札は、いまでこそ紙に印刷したものに自分の住所と名前を書き込み、本堂と大師堂の納め箱に入れますが、もともとは板札に書き、釘で直接お堂に打ち付けていたそうで、だからお遍路や巡礼を「お札打ち」と言ったのだそうです。今でも、置賜三十三観音詣りで「お札ぶちにいがねが」というお札ぶちは、ここからきています。
 ここの大師堂は、屋根の軒先が広く伸び出すような形をしていて、なんとも優美な感じです。両側に同じような燭台があり、お堂の木の階段の手前に正方形の香炉があり、とても整然と列んでいます。
 ほとんどのお遍路さんが使うローソクは、小さな5センチ程度のもので、お経を唱えているうちに、半分ぐらいはなくなっています。それでも火を使うことは間違いないので、十分な注意が必要です。
 火といえば、お大師さまの言葉に、「水を悪(にく)みて火を愛し、心を捨てて色を愛す」(十住心論)というのがありますが、意味するところは「羹に懲りて、膾を吹く」というようなもので、極端な用心深さも困ったものだということのようです。
 ここの大師堂の階段の左下には、ブリキのバケツに水が入っていたので、これも用心のひとつかもしれないと思いました。また、どこの燭台にもガラスがはめられていて、風が強いときなどはとくに安心でした。
 ここのホームページを見ていたら、ここは昔から交通の要所で、熊蜂が多く飛ん でくることがあり、悪いお遍路さんを懲らしめたと書かれていました。今だと、あちこちに「ハチ注意」と立て看板を立てて置かないと問題になりそうですが、結局は自分で自分の身を守るしかないと思います。
 ちなみに納経所は仁王門の近くなので、そこでご朱印と御影などをいただき、それから仁王門を抜けて一礼し、車に戻りました。
 まだ午前11時3分なので、次の第4番札所大日寺です。案内書によると、ここから約7q、時間は15分程度だそうです。

 第3番札所 亀光山金泉寺 (高野山真言宗) 本尊さま 釈迦如来
 ご詠歌 極楽の 宝の池を 思えただ 黄金の泉 すみたたえたる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.04

 第4番札所大日寺は、県道12号線を西に向かって進み、羅漢タクシーのところの信号を右折し、徳島自動車道の下をくぐり、さらに進んだ突き当たりにあります。
 ここへの道はだいぶ狭いところもあり、ちょっと不安でしたが、ナビの通りに進むと道路の右側に駐車場がありました。そこから山門が見えたので、そこを進むと両側にツバキやツツジなどが植え込まれていました。
 山門は、いかにも山奥の楚々としたもので、とても奥ゆかしい清楚なものです。考えてみれば、境内地との結界の意味もあり、わかればいいわけで、あまり目立ち過ぎるよりもとても好ましく感じました。
 そこを抜けると、ちょうど庭木の消毒をしていたらしく、農薬のニオイがしました。そういえば、お大師さまの言葉に、「鼻下に糞あれば、香を嗅ぐともまた臭し」(十住心論)というのがありますが、たしかに自分の側にその臭さの原因があれば、いつまでもそのニオイはついてまわることになります。ちょっと拡大解釈をすれば、それが臭いニオイだけではなく、お金をひけらかしたり、美貌を鼻にかけたりすれば、まさに鼻持ちならない人になってしまいます。
 それでも、本堂に着くごろには、このニオイに慣れたせいもあり、あまり感じなくなっていました。

 本堂は山門から少し歩き、八段ほどの石段を上った真正面にあります。その本堂でお詣りをして、次に本堂の右奥にある大師堂に向かいました。
 大師堂の右手前には燭台があり、それにローソクを灯し、そこで線香に火を点け、正面にある丸い石の線香立てに立てました。
 それから石の階段を上り回廊のところにある納め箱に納め札を入れ、お賽銭箱にお賽銭を納めてから鰐口を鳴らし、また石段を下りてその右側でお経を唱えました。ここ四国では、次のお遍路さんのために真ん中でお経を唱える方はほとんどいなく、端の方でゆっくりと唱える方が多いようです。これはとてもいいことで、お互いに譲り合う心を感じました。
 まだ4ヶ寺しかまわっていないのですが、少しずつここ四国八十八ヵ所の風習のようなことがわかってきました。やはり、郷に入っては郷に従えです。
 良いと思うことはなるべく真似をして、少しでも早くなじみたいと思いました。途中で歩き遍路の方を見つけると、ほんとうに頭が下がります。「がんばってください」と声を掛けたくなりますが、その足を止めては迷惑でしょうから、心の中だけで応援しました。
 納経所は、本堂石段手前の左側にあります。そこでご朱印と御影などをいただき、また、山門をくぐり、立ち返り一礼し、車に戻りました。
 ここはほんとうに行き止まりの山寺で、周りの山々も常緑樹が多いこともあり、緑豊かです。
 自宅を出るときには、まだまだ雪があり、冬タイヤのままでここまで来ましたが、ここではちょっと場違いです。でも、タイヤまで気にする人はいないでしょうから、私も気にしないで走ることにしました。
 また、狭い道を戻るのかと思うと、ちょっと憂鬱です。これが大型バスだったりすれば、ここまで乗ったままでは来られないと思います。これからますますこのような山寺があると思いますが、ちょっと道幅の狭さが気になります。そういえば、昨年まわった秩父三十四観音霊場も狭い道が多かったです。それも、札所のすぐ近くの駐車場だけは広くて、ビックリしましたが、ここもそのようです。
 先ずは注意して運転をしようと思いながら、次の第5番札所の地蔵寺に向かいました。そこは、ここから少し戻ったところにあるとナビにはでていました。

 第4番札所 黒巌山大日寺 (東寺真言宗) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 ながむれば 月白妙の 夜半なれや ただ黒谷に すみぞめの袖



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.05

 第5番札所地蔵寺は、第4番札所を元来た道を戻り、さらに羅漢タクシーのところまで行かないで右折すると、すぐにその堂宇が見えてきました。
 距離にして2qほど、時間にして5分ほどです。
 仁王門を入ると、すぐ右側に修行大師御尊像があり、とくに目立つのは大きなイチョウの樹で、樹齢は800年以上だといわれているそうです。
 その正面には庫裡や納経所があり、向かって左側に本堂があります。ご本尊は延命地蔵で、その胎内仏として勝軍地蔵菩薩が納められているということです。でも、本堂の柱には「御本尊 地蔵菩薩」とありますから、あまり厳密に考えることはないようです。この勝軍地蔵菩薩というのは、一般的には甲冑を身につけ、武器を持った姿で表されているそうで、とくに鎌倉時代に武家に信仰されていたようです。
 ここの胎内仏は、甲冑を身につけ、右手に錫杖、左手には如意宝珠をもち、軍馬にまたがる勇ましい姿をしているそうですが、悪者を退治し、災いを祓ってくれるという地蔵菩薩だということです。そうであれば、ぜひ、見てみたいような気もしますが、胎内仏ですから見ることはできないと思います。本堂の右横には、いつも見慣れた穏やかなお地蔵さまの石仏がまつられていました。

 その本堂の向側の大きなイチョウの樹を間にするような形で大師堂があります。つまり、仁王門を入って右側です。
 ちょっと見た目には本堂より大きな大師堂で、イチョウの巨木にも負けていません。そのイチョウの樹の下にあるベンチで、すでにお詣りを済ませたお遍路さんが休んでいました。私たちもいつものようにお線香を立て、お経を唱え、静かにお詣りをしました。
 それから納経所に行くと、この裏手に弥勒堂があり、そこには五百羅漢がおまつりされているということを聞き、そこもお詣りすることにしました。裏手に回ると、盆栽にでもできそうな大きなウメの古木が並木をつくっていて、一部は花も咲いていました。そこを進むと石段があり、上りきるとその正面に弥勒堂がありました。
 その左側の回廊から入るらしく、そこで拝観料を払おうとすると、現在はお堂の一部が修理中なので半額でいいということで、中に入りました。ほんとうに500体もの羅漢さんがいらっしゃるのかと思い、途中まで数えましたが、真ん中で折り返して、一端外に出て、今度は右手の回廊から入るということで、数えるのをやめました。案内書には、現在200体ほど残っているということです。
 よく五百羅漢には、必ず自分に似た羅漢さんがいるとか、縁のある故人の姿に似たのがあるといいますが、ここの羅漢さんを見る限り、そんなに似ていないのではないかと思いました。でも、この弥勒堂から眺める風景はとても良かったです。
 そういえば、羅漢さんは修行を達成した方で、お大師さまの言葉に「大士の用心は、同時これ尊ぶ」(高野雑筆集)というのがあります。ここでの大士というのは菩薩のことで、この同時というのは相手の身になって考えるということです。たとえていうならば、子どもなら、その子どもの目の高さに合わせて話しをすることです。
 相手を自分と同じように常に考えるというのは、とても難しいことですが、できるだけ寄り添うということならできます。いや、むしろそう心がけるべきではないかと思います。
 そんなことを考えながら、駐車場に戻ると、12時15分でした。そこから第6番札所の安楽寺までの5qの区間で、お昼ご飯を食べられるところを探しながら運転したのですが、見つかりませんでした。

 第5番札所 無尽山地蔵寺 (真言宗御室派) 本尊さま 勝軍地蔵菩薩
 ご詠歌 六道の 能化の地蔵 大菩薩 導き給え この世後の世



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.06

 第6番札所安楽寺へは、再び県道12号線に戻って西に向かい、約4qほど走った上板町引野の信号を右折します。そこから県道139号線を進むと案内板があり、そこを左折し、さらに右折するとほどなくして堂宇が見えてきます。
 着いたのは12時22分でしたから、7分ほどです。県道139号線沿いにも駐車場はありますが、混んでいないときにはお寺の手前にも駐車場がありますので、200mほどですが歩かなくてすみます。
 進行方向の右手に山門があり、どっしりとしたコンクリート造りの重量感があります。そこをくぐると、一番先に目につくのは多宝塔で、この周囲には八十八ヶ所のお砂踏ができるそうですが、今回は自分の足でしっかりと八十八ヵ所をまわるわけですから、これは当然パスしました。
 そして正面には、これも昭和38年に再建されたという鉄筋コンクリートの本堂があります。雨が降ってもお詣りできるようにと、本堂前には横長の回廊のような建物があり、とてもいいことだと思いました。その左手側には古札入れがあり、この配慮もうれしいものです。

 先ずは本堂でお詣りをして、それからその右手奥に大師堂があり、本堂の回廊を渡っても行くことができます。
 大師堂の前には、ヒカンザクラが咲いていて、とても明るい雰囲気です。お堂の左側には修行大師尊像が建ち、こじんまりとしたお堂に沿うようなお姿です。
 先ずは朱色に塗られた燭台にローソクを灯し、線香を点け、誰もいなかったのですが、お堂の左端で静かにお経を唱えました。ここは温泉山という山号をもっているぐらいですから、昔は本当に湯が出ていたそうですが、現在はラジューム鉱石や薬草を浴槽に入れて、ゆっくりと入浴できるそうです。だから、ここの宿坊はけっこう人気があるということで、この日も団体客が入っているということでした。
 そういえば、この薬草を見つけた人はすごいと思います。お大師さまの言葉のなかに、「医王の目には途(みち)に触れて皆薬なり」(般若心経秘鍵)というのがありますが、そのへんの道端に生えている雑草から見つけ出すわけですから、それなりの知識もなければ使いこなせません。もちろん、その中には毒草もあり、毒にも薬にもならないものだってあります。
 つまりは、その分別が大事なのかもしれません。四国八十八ヶ所霊場会の公式ホームページを見ると、宿坊がある札所もかなりありますが、ほとんどが予約しないと泊まれないそうで、どこまで行けるかわからないお遍路には、午後5時すぎの納経所が閉められてからでも泊まれる宿坊などがあればいいのに、とつい思ってしまいました。
 ご朱印や御影などをいただき、山門で一礼し、車に戻りました。12時45分です。そろそろお昼を食べないと思いながら、第7番札所十楽寺へと向かいました。

 第6番札所 温泉山安楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 かりの世に 知行争う むやくなり 安楽国の 守護をのぞめよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.07

 第7番札所十楽寺へは、再び県道139号線に戻り西に進むと、1qほどで札所の案内板があります。そこを右折すると、一見すると中国風な山門が見えてきます。
 お寺のホームページをみると、それを竜宮門としていました。その左側に駐車場があり、そこに車を駐め、境内に進みました。その竜宮門を入り、左に進むと、右側に石段があり、その上に遍照殿とかかれた山門があります。その山門の右側には愛染堂とあり、右側には護摩堂と書かれています。
 でも、先ずは本堂にお詣りをしたいと思い、遍照殿をくぐるとその少し左手に本堂はありました。もともとこの十楽寺は、現在地より北へ3qほど離れた十楽谷の奥にあったそうで、そこから名前も来ているようです。
 しかし、1528年の天正の兵火で焼かれてしまい、ときの住職であった真然和上がご本尊を背負い、弟子たちに経本を持たせて逃げたそうですが、ご本尊だけは無事で1635年にお堂が再建されたということです。
 やはり、長い歴史のなかには、とても困難なときがあり、あるいは廃寺やむなきときもあったと聞きますが、それでも現在はお寺として残っていることにご住職の方々のご苦労が偲ばれます。ちなみに、現在の木造のお堂は平成6年に建立されたものです。

 先ずはその本堂でお詣りをして、それからその左手奥にある大師堂に向かいました。
 大師堂の前には、屋根のついた大香炉があり、その前に黒塗りの燭台があり、とても使いやすくまとまってありました。最近は鰐口を外してあるところもありますが、ここはちゃんとついていて、やはり鳴らしながらお詣りをすると気持ちがいいものです。
 もともとこの鰐口は、平安時代初期には使われていたらしく、いわば、雅楽でつかう鉦鼓をふたつ合わせて、片手でも叩けるようにしたものだそうです。だから、あまり仏教とは縁のないものだったと思います。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「一手拍を成さず、片脚歩むこと能わず」(高野雑筆集)というのがありますが、たしかに片手では拍手もできないし、片足でずーっと歩くことも難しいものです。ある意味、呼応とか感応ということも大事なのではないかと思いました。
 納経所でご朱印と御影などをいただき、くぐってきた遍照殿の2階の部分に上ると、なかに愛染明王がまつられていて、護摩を焚くこともできるようになっていました。愛染明王は、梵語では「ラーガ・ラージャ」といい、煩悩そのものを悟りに変え、悟りの境地まで導いてくれる力を持っている仏さまです。でも、ここにお祀りされているお姿も、全身が燃え立つような赤色で、3つの目と6本の腕を持ち、なんとも異様な忿怒の相をしています。でも、それは諸々の悪いものを懲らしめるためで、愛敬や開運を授けてくれるといいます。
 もともと愛染明王は秘仏が多く、なかなかそのお姿をお詣りすることはできないので、ここではしっかりとお詣りをさせていただきました。
 そして遍照殿をくぐり、竜宮門をくぐり抜けて、車に戻りました。時計をみると午後1時5分です。
 そろそろ昼食を食べないと、お腹が空きすぎます。そこで、第8番札所熊谷寺に向かう途中で、食べられるところを探すことにしました。

 第7番札所 光明山十楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 人間の 八苦を早く 離れなば 到らん方は 九品十楽



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.08

 第8番札所熊谷寺は、再び県道139号線に戻り西に進みますが、2.5qほど走ったところで、「御所の郷」という温泉施設を見つけました。ここなら、食事もできるのではないかと思いフロントで聞くと、靴を脱いでなかにある和風レストラン「秋月」を利用してくださいということでした。
 そこでランチメニューを頼み、30分ほどで昼食をすませました。ここには「日々食彩」という産直の野菜や果物などの売店もあり、朝採りいちごを買いました。これは、もちろん今夜の食後のデザートです。
 ここを出たのは午後1時43分、県道139号線を西に進み、阿波市土成町土成のあたりから右折し広域農道を進むと、ほどなくして右側にお堂が見えます。そこを右折すると熊谷寺本坊の真光院があり、その先が駐車場です。
 熊谷寺の本堂や大師堂は、ここから歩くのですが、左手には1774年に建立された多宝塔があり、さらに進むと石段があり、そこに仁王門が建っています。よく見ると、両側に極彩色の仁王像がにらみを利かせています。そこをくぐると、また石段があり、上りきった真正面に本堂があります。

 本堂の石段の両側にはステンレス製の燭台があり、真ん中には大香炉があります。本堂は瓦屋根の素木造りで、素朴な中にも力強さが伝わってきます。
 ここでお詣りをして、それから左手にある36段の石段をのぼったところに大師堂があり、案内板には1707年に建立されたもので、県指定文化財だそうです。すでにお詣りをされている方がいて、あまり邪魔にならないように、いつもの作法でお堂の端によけてお詣りをしました。
 この時期はほとんど混まないようで、ゆっくりとお詣りもご朱印もいただけます。そういえば、四国札所といえばお接待というものがありますが、この風習もだいぶ昔からあるそうです。
 たとえば、江戸時代後期に『東海道中膝栗毛』で弥次さんと喜多さんの珍道中を書いている十返舎一九が、『金草鞋(かねのわらじ)』という旅行案内で四国遍路についても書いています。この『金草鞋』のなかで、第八番札所熊谷寺で「髪月代(かみさかやき)の接待あり」と書いていて、これは無料で散髪をしてもらったようです。さらに、ここだけでなく、強飯や麦こがし、梅干し、豆腐汁、お金までもらったり、善根宿にも世話になったとあります。ところが、やはりそこは十返舎一九、どこでも酒の接待だけはなかった、これだから田舎者は困るとも書いています。
 しかし、もともとお遍路は白装束が基本で、いわばこれは死装束でもあり、その姿で札所を巡り、八十八番の大窪寺までたどり着いたら、新しい生を得て甦るといわれる所以ですから、お酒の接待などありえないわけです。ですから、もうその当時から、神社仏閣のお詣りは物見遊山的なことでもあったということがわかります。
 まだ、ここまでのところでお接待をいただく機会はなかったのですが、このお遍路で、なんとかそれを味わいたいと思っています。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「物を観て、其の人を想う」(高野雑筆集)というのがありますが、お接待を含めて、いただいたことに感謝をします。そして、そのものを観て、送ってくれた人柄を偲びます。だから、自分が送るときには、いろいろな想いが錯綜するのかもしれません。
 そんなことを考えながら、車に戻り、次の第9番札所法輪寺を目指すことにしました。

 第8番札所 普明山熊谷寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観音
 ご詠歌 たきぎとり 水熊谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.09

 第9番札所法輪寺は、再び県道139号線に戻り、また西に進みます。1.6qほど走ったところで、左折し236号線に入り、はしもと美容室のところを右折すると、ほどなくして法輪寺の案内板が見えてきます。そこを左折すると駐車場にたどり着きます。
 そこに車を駐め、道路を進むと右側に仁王門が見えてきます。ここをくぐると、すぐに左手に手水場があり、ここで作法通りに手や口をそそぎます。
 それから真正面に向かい、そのまま本堂へと進み、お詣りをします。ご本尊さまは涅槃釈迦如来像で、ご開帳は5年に1度だそうです。ホームページには、「北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されている。」とありました。
 そういえば、本堂にはたくさんの草鞋が奉納されていましたが、これはむかし、松葉杖を使わないでは歩けなかった人がお詣りをして、ほどなく足が軽くなり、松葉杖なしでも歩けるようになったという言い伝えがあるからだそうです。納経所には、健脚祈願「足腰お願いわらじ」もありました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「如何が己身の膏肓(こうこう)を療せずして、たやすく他人の腫脚(はれあし)を発露すや」(三教指帰)というのがありますが、自分が病気なのにもかかわらず、人のあれこれを言うべきではない、というような意味にもとれます。やはり、自分のことを棚に上げて、他人のことをぼろくそに言うのはあまりにもおかしな話しです。
 このようなことは、いつの時代にもあったのかもしれませんが、気をつけたいと思います。

 そして、本堂のすぐ右隣にあるのが大師堂です。その間には修行大師尊像があり、たくさんの生花が供えられていました。
 大師堂の右側に燭台があり、そこでローソクに火を灯し、線香を点け、同じ右側の柱の前にある石の丸い線香立てに供えました。そして石段を上り、回廊のところで納め札とお賽銭を入れ、その石段の下でお経を唱えました。そこからよく見ると、石段だと思っていたのはコンクリート製の階段で、こうすれば回廊まで靴を履いたまま上れるし、上り下りも楽です。そういえば、本堂も後から見たら、同じようになっていて、奉納された方の名も刻まれていました。
 たしかに、見た目も大事ですが使いやすさとか管理のしやすさなども大事なことです。一番大事なことは、お詣りをする人たちの安全です。最近はバリアフリーで、車いすでもお詣りできるようにスロープを設置してあるところもありました。お詣りをして歩くと、今まで気づかなかったことを気づかせてもらえます。これはとても有り難いことです。
 仁王門を出て、道路をはさんだその前に、「あわじ庵」と書かれた小さなお店があり、草餅などを売っていました。たしか、駐車場の近くにも同じようなお店があり、お詣りの方に帰りに寄ってくださいと大きな声を掛けていました。ここはおばあちゃんで、しかも昔からそっとたたずんでいるような風情が感じられ、味も素朴ではないかと思い、買いました。後から食べたのですが、とても草餅の香りがして、お手製らしい粒餡が美味しかったです。
 駐車場に戻ると、やはりお店の人が大きな声をかけてきましたが、挨拶だけして車に戻り、ナビに次にもまわる第10番札所切幡寺を入力しました。時間は午後2時30分です。

 第9番札所 正覚山法輪寺 (高野山真言宗) 本尊さま 涅槃釈迦如来
 ご詠歌 大乗の ひほうもとがも ひるがえし 転法輪の 縁とこそきけ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.10

 第10番札所切幡寺は、県道139号線に戻り、左折しそのまま進むと、仏具や遍路用品なども扱う金山商会のところを右折します。そして徳島自動車道をくぐりそのまま進むと仁王門が見えてきます。そのすぐ先に駐車場がありました。
 おそらく、ここまではマイクロバスなどで来るのは道が狭く難しいと思います。昔はみな歩いてのお遍路だったのでそれでもよかったのでしょうが、今はツアーなどの場合はタクシーなどに乗り換えてここまで来るのでしょう。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「沈迷(ちんめい)の端(はし)驚かずんばあるべからず」(性霊集)というのがありますが、足元を見てみなさい、今まさに地獄と天国との剣が峰に立っているようなものだ、というわけです。この剣が峰というのは、もともとは火山の噴火口の周縁を指す言葉だそうですが、ある意味、人生もそのような危うきところにいるのかもしれません。だとすれば、狭い道をどうのこうのと言ってみても仕方ありません。
 先ずは仁王門のわきを通り、その前に出て、改めて仁王門のところで一礼し、参道を歩きました。すると、「杖無し橋」があり、この小さな石橋では杖もいらないな、と思いながら先に進みました。すると、なだらかな石段があり、「是より三三三段」と彫られた石柱があり、そこを進むと急な石段の前に、「是より二三四段」と彫られた石柱がまたありました。
 それを上ると、左側に「女やくよけ坂」と彫られた石柱があり、それを上ると今度は「男やくよけ坂」で、その上りきったところに本堂がありました。
 ここまで仁王門から800mほど、10分ほどかかりました。本堂の左手にはピンクのウメが咲いていました。

 先ずは本堂にお詣りし、少し落ち着いてから境内を見渡すと、左手の石段を上ったところに大塔が見えます。この塔は豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため建立したもので、国の重要文化財に指定されています。また、その形が特殊で、初重と二重の間が方形で、普通の多宝塔とは構造が違い、だから大塔なのかな、と思いました。ちなみに、明治6年に移築し、完成まで10年もかかったそうです。
 大師堂は、本堂のすぐ右隣にあり、その右には修行大師尊像が建っていました。そして花入れにはコウヤマキが生けられ、そこにもいっしょにお詣りをしました。
 そして、左手を見ると、板塀に囲まれたところに立ち姿の観音像がありました。そういえば、ここの由来は「ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。」とありました。
 やはり、長い歴史のなかで伝えられてきたものがあり、だからこの観音さまも左手に織った布を手にしているのか、と納得しました。ただ、お詣りをして歩くだけでなく、このような言い伝えを聞きながら手を合わせるということも大切なことだと痛感しました。
 また、上ってきた石段を気をつけながら下りました。それでも、駐車場に着いて、時計をみると午後3時20分でした。ここは、もしかすると時間がかかりそうだと思っていたのですが、40分ほどです。
 今日はここまでと考えていたのですが、まだ余裕がありそうなので、次の第11番札所藤井寺にお詣りしてから途中で予約したホテルに行くことにしました。

 第10番札所 得度山切幡寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観音
 ご詠歌 欲心を ただ一筋に 切幡寺 後の世までの 障りとぞなる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.11

 第11番札所藤井寺は、吉野川を渡って、鴨島の町を抜けてほぼ道なりに進むと、その細くなった道の行き止まりのところにありました。
 でも駐車場はなく、案内を見ると「本家ふじや」の駐車場を利用とあったので、道路の左側のそこに駐めました。そして、小さな橋を渡るとすぐの所に料金所があり、200円を払いその道を上っていきました。途中にフジ棚があり、その脇に「四国へんろみち」と書かれた看板が立っていたので、そのまま進むと、すぐ仁王門が見えました。
 そこで一礼して入ると、少し進んだ右手に石段があり、そこを上ります。その奥まったところが本堂です。
 ここから約200mほど離れたところに8畳岩があり、お大師さまは42歳の厄年のときに自らの厄難と衆生の安寧を願って護摩壇を築き17日間の修行をされたそうです。そしてそこに堂宇を建て、その前に5色の藤を植えたことから、藤井寺と称されたということです。
 そういえば、お大師さまの「過因の詩」に、「道(い)うことなかれ此の華今年開くと、まさに知るべし往歳種因(おうさいしゅいん)を下せることを。」(拾遺雑集)というのがありますが、これは今年ひとりでに花が咲いたのではなく、種がまかれたのが因になっていることを知りなさい、というような意味です。
 すべてが因果応報のつながりのなかにあります。つまり、花が咲いたのが果とすれば、因は種がまかれたことで、さらにいろいろな環境条件がそろって、つまりは縁によって咲いたということになります。

 現在の伽藍は、1860年に再建されたもので、ご本尊は「厄除け薬師」として親しまれ、国の重要文化財に指定されています。
 本堂には地元出身画家の描いた雲龍の天井画があるとの石板の案内がありましたが、回廊からは見えませんでした。その石板のわきには、大師尊像があり、その下には「万人安泰」と彫られた石板もあり、先ほどの由来と相通じています。
 本堂にお詣りしてから、その右手前の大師堂に行きました。もう午後4時を過ぎているので、今日から始めた四国八十八ヵ所のお遍路も明日に持ち越しなので、しっかりとお経を唱えお詣りしました。
 何ヵ所か札所をお詣りしていると、なんとか見よう見まねで四国八十八ヵ所のお遍路の作法もわかってきます。今日は11ヵ寺をまわったのですが、まだ77ヵ寺もあります。やはり、観音霊場の33ヵ寺とはまったく違います。
 ただビックリしたのは、観音霊場はいろいろな宗派があるのは理解できますが、ここ四国八十八ヵ所は当然真言宗だろうと思っていました。ところが、ここ藤井寺は臨済宗妙心寺派です。おそらく、長い歴史のなかで、お寺にもいろいろなことがあったのではないかと想像できます。これからは、その歴史にも思いをはせながら、お詣りしたいと考えながら、帰りの石段を下りました。
 そういえば、お遍路に「遍路ころがし」というのがあり、その意味はお遍路さんがころげるようなきつい坂というようなことで、いわば遍路道の難所を指す言葉です。その遍路ころがしのなかでも、一番細く嶮しいのがここ第11番から次の第12番焼山寺までの山道だそうです。聞くところによると、約13qほどあり、その途中には、お大師さまが修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残されるそうです。
 そんなことを聞くと、私もぜひと思ってしまいますが、もし機会があれば、いつかは少しだけでも歩いて見たいと思いました。
 駐車場に戻り、車に乗り、時間を見ると午後4時15分でした。今夜泊まるホテルは、JR徳島線の鴨島駅のすくわきの「セントラルホテル鴨島」です。
 ホテルに着いたのが午後4時30分、今日車で走ったのは198.7qです。実際に札所をまわった距離はそんなでもないでしょうが、京都篠山からここ四国に入るまでの距離のほうが長かったからでしょう。

 第11番札所 金剛山藤井寺 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 色も香も 無比中道の 藤井寺 真如の波の たたぬ日もなし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.12

 第12番札所焼山寺は、焼山寺山(標高938m)の8合目近くにあり、四国八十八ヵ所札所のなかで2番目に高いところにあります。
 朝、ホテルを出たのは午前7時42分で、四国での最初の朝はちょっと出発の準備で手間取りました。そしてナビに入力し出発すると、伊予街道を東に進みます。目的地は南の方角にあるのですが、しばらく走るとわかりました。南側には山々があり、それを回り込むように進んでいました。石井町城ノ内辺りから、県道20号線を右折し、峠を越えます。そして国道438号線をしばらく走り、神山町で案内板にしたがい右折します。そしてJA名西郡左右内出張所のところを左折し、細い山道を進みます。ここが4.5qほどあり、対向車が来ないようにと願いながら運転しました。
 駐車場はとても広く、そこに車を駐め、団体のお遍路さんたちを追い越して早めに歩きました。というのは、写真を撮るために、あまり人を入れたくなかったのです。でも、この道はとてもよく整備されていて、快適でした。すると右手に石段がみえ、そこを上ると仁王門がありました。
 仁王門で一礼して顔を上げると、杉の巨木が参道に立ち並んでいます。それが朝日を浴びて、斜光の帯に見えます。なんとも神々しい雰囲気でした。
 その先にも石段があり、そのさらに先に本堂がありました。

 本堂の右隣には大師堂、さらにその右にはちょっと離れて十二社神社があります。やはりここも神仏一体の聖地です。寺伝によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされているそうです。
 先ずは本堂でお詣りし、次に大師堂と思っていたら、その間に三面大黒天のお堂がありました。天台宗ではよくお祀りされていますが、中央が大黒天、そして右面が毘沙門天、て左面が弁財天のお姿です。そこもお詣りし、大師堂ではここまで上ってくるときのことなどを思い出し、昔ここでお大師さまも虚空蔵求聞持の法を修されたかもしれないなどと考えながら、ゆっくりと念じました。
 四国八十八ヵ所札所には、お大師さまが虚空蔵求聞持の法を修行されたといわれている場所がいくつもあります。この法は、記憶力や暗記力を増進させる修行法ですから、お大師さまの業績を考えれば、なるほどと思います。
 お大師さまは「三教指帰」に、「爰有一沙門。呈余虚空蔵求聞持法。其経説。若人依法。誦此真言百万遍。即得一切教法文義暗記」と書いています。つまり、「一沙門より虚空蔵求聞持法を授かる。法に依って此の真言百万遍を誦すれば、一切の教法の文義を暗記する事を得。」ということです。
 だからこそ、遣唐使の一員として唐に渡っても、たった2年ほどで、御請来目録に記載されているようなことがなしえたわけです。また、そこで学んだことが、真言宗を広める大きな力ともなっていると思います。
 ここを戻るときに、先ほど急いだこともあり、ゆっくり仁王門を下ると、両側にシャクナゲが植え込まれていました。葉の裏を見ると、ヤマトシャクナゲのようです。さらに参道を下ると、その崖際には白御影石で柵がつくられ、その一定間隔で石灯籠が設置されています。また、山側には、大きな不動尊石像や観音石像、そして文殊菩薩石像もおまつりされています。さらに参道の入り口近くには、岩屋のなかに鬼子母神石像がまつられ、周りには小さな子どもたちの石像もありました。
 これらをお詣りしながら参道を歩くと、あっという間に駐車場に着いてしまいます。駐車場からは、遠くの山々も見えます。ここは小鳥のさえずりしか聞こえないような凜とした雰囲気が漂う霊場でした。
 車にもどり時計をみると午前9時20分です。
 次は第13番札所大日寺を目指して進みます。

 第12番札所 摩盧山焼山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 虚空蔵菩薩
 ご詠歌 後の世を 思えば恭敬 焼山寺 死出や三途の 難所ありとも



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.13

 第13番札所大日寺は、第12番札所まで走ってきた道を戻り、県道20号線をそのまま徳島市方面に進みます。距離にして約27q、私の場合は40分ほどかかりましたが、大日寺手前の右側に駐車場があります。そこに車を駐め、その道を進むとすぐに、左手にあります。
 ここは、県道20号線と鮎喰川にはさまれたようなところです。道路向かいには一宮神社があり、ここは「阿波國一宮」ということで、祭神は、大宜都比売命・天石門別八倉比売命と書いてありました。おそらく、昔はこの神社の別当も兼ねていたのではないかと思わせる近さです。唐金製の馬が立っていました。
 山門の写真を撮ろうとすると、道路の反対側からでないとできないぐらい、ギリギリのところに建っていました。しかも、車の通行量もあるので、左右を確認しながら、なんとか撮ったのが、左の写真です。
 そこから入ると、すぐ左側に手水場があり、そこで手や口をそそぎ、そのまま進むと本堂です。
 すぐ道路のそばにあるお堂ですが、境内地は意外と静かで、心を鎮めてお詣りできました。

 本堂と境内地で向かい合わせるように建てられているのが大師堂です。そこに行く途中に、つまり山門から入るとすぐの場所に「しあわせ観音」と名付けられたお姿があり、合掌している手のなかにすっぽりと収まるような形で、極彩色の観音さまがおまつりされています。花立ての台座には、梵字の「あ」の一文字が金文字で彫られていて、それで思い出したのですが、真言宗ご詠歌のなかに「阿字の子が阿字の故郷立ち出でてまた立ち帰る阿字の故郷」というのがあります。
 つまり、意味するところは、私たちは大日如来の子どもとしてこの世に生を受け、その役目が終わるとまた親である大日如来のところへかえってゆくということです。それが対の花立ての台座の両方にあるので、ちょっと考えさせられました。
 大師堂でお詣りをして、そり左手側にある納経所でご朱印と御影などをいただきました。そして、山門を出て帰ろうとして辺りを見渡すと、第13番札所大日寺と一宮神社が無理矢理この道路で引き裂かれたような感じがしました。まさに、明治初期の神仏分離令の激しさを表しているかのようです。
 しかし、もともと神仏分離令は仏教の排斥を直接意図したものではなかったのでしょうが、これをきっかけにして全国各地で廃仏毀釈運動が起こりました。その結果、各地の寺院や仏像や仏具などが壊され、破棄されたのです。これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文化財が失われました。しかし、これらを強力に推し進めてきた神祇省が明治5年(1872)に廃止され、次第に神仏分離令そのものが有名無実化されていったのです。
 でも、四国八十八ヵ所のお遍路をしてみて、いまだにその爪痕があることを感じましたし、ここ第13番札所大日寺でもそう思いました。
 さて、気を取り直して、次は第14番札所常楽寺です。時間は10時20分を過ぎたところです。

 第13番札所 大栗山大日寺 (真言宗大覚寺派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 阿波の国 一宮とは ゆうだすき かけて頼めや この世のちの世



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.14

 第14番札所常楽寺へは、約3qほどです。県道20号線をそのまま進み、左折し県道207号線に入り、鮎喰川の橋を渡って右折します。すると、案内板が見えたところから左折し、ところどころの案内板を目印にして進みます。
 お堂を回り込むようにして行くと、10台ほど駐めることのできる駐車場があります。
 そこに駐めて少し歩くと、第14番札所常楽寺を示す石柱があり、その石段を上ると真正面に本堂が見えます。その境内地は、ごつごつとした岩がむき出しになったようで、なんとも不思議な空間です。さらに、お堂に近づくと、まったくその岩の上にお堂が建っていることに驚きます。
 本堂前にも5段ほどの石段があり、その石段で高さを調節しているようです。ご本尊は、四国八十八ヵ所では唯一の弥勒菩薩で、お大師さまの御遺告のなかに、「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」とあり、迷える衆生を救済し続けるという思いが伝わってきます。

 本堂の脇に巨木があり、その枝の間にお大師さまがまつられていました。これは、アララギ大師とか地蔵大師とかいわれているそうで、この木の名前を納経所で聞くと、やはり「アララギ」だと教えてくれました。この木は、イチイというのが一般的ですが、東北や北海道ではオンコともいいます。
 むしろ、アララギというと、大正や昭和の短歌雑誌やその派をあらわし、伊藤左千夫や島木赤彦らが代表的な歌人でした。この『アララギ』も1997(平成9)年12月に終刊となり、それまで90年間で1047冊も発行されたそうです。
 このアララギ大師にお詣りすると眼病や糖尿病にいいそうで、先ずはここで祈願をしてから、大師堂でお詣りをしました。
 この常楽寺は、もともと谷地というところにあったそうですが、1818年にそこに灌漑用のため池をつくることになり、現在地に移されたそうです。やはり、四国は温暖な気候とはいえ、いつも水不足に悩まされてきた歴史があります。だから、お遍路をすると、お大師さまとため池の話しや井戸水が出てきたというような話を多く聞きました。やはり、特に有名なのは、満濃池でしょう。今回の四国八十八ヵ所のお遍路でも、この讃岐の満濃池だけは訪ねてみたいと思っていました。その他にもいろいろありますが、だからこそ、個人でゆっくりとお詣りしたいと思ったのです。
 また、そのごつごつとして歩きにくい流水岩の上を気をつけながら下って、駐車場まで戻りました。
 ここに着いたのが午前10時30分、ここを出発したのが10時50分過ぎでした。ここは比較的境内もこじんまりしていたので、移動時間も少なくてすみました。
 次は第15番札所国分寺です。ナビをみると、目と鼻の先ぐらいしか離れていませんでした。

 第14番札所 盛寿山常楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 弥勒菩薩
 ご詠歌 常楽の 岸にはいつか 到らまし 弘誓の船に 乗りおくれずば



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.15

 第15番札所国分寺へは、1qもないそうで、歩いても10分ぐらいです。しかし、車では少し遠回りをするので、7分ほどかかりました。
 仁王門の右脇を通ってすぐに駐車場です。そこに車を駐め、引き返して正式に仁王門から入りました。
 でも、その真正面に見えるはずの本堂が現在は修理中ということで、覆われていてほとんど見えません。案内によると「重層の入母屋造りで、文化、文政年間(1804〜30) に再建された」と書かれていますが、その様子さえもわかりませんでした。
 そこで、右手に仮の本堂があり、そこでお詣りをしました。
 やはり、このように修理をしたり補修をしたりしなければ、お堂は護持できません。鐘撞き堂の手前に七重塔の心礎という立て札がありましたが、昔はそうとう大きな伽藍があったのではないかと思いました。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかに、「大弁は訥(とつ)なるが若(ごと)し」(真言付法伝)というのがありますが、その意味はほんとうの雄弁家は意外と口べただということです。それと同じように、大きな立派な伽藍があるから、仏法が盛んになるというものではなく、小さなお堂のなかにも素晴らしい教えを説く方がいられるかもしれません。ここ四国八十八ヵ所の帰りに、新潟県の良寛さんが住んでいた五合庵にまわりましたが、おそらく、そこにも仏法は生きていたように感じました。

 その仮本堂の右側に大師堂がありました。案内には、そのわきに「旧大師堂」とありましたから、おそらく見た感じも新しく建立されたばかりの大師堂でした。それで、いつごろ建てられたのかと思い、ネットで調べてみても、なかなか出てきません。古い建物はすぐに年代が出てくるのですが、やはり神社仏閣は古くならないと値打ちがでてこないのかとも思いました。
 ここ四国には、それぞれの県に国分寺があり、一番早く建てられたのがこの「阿波国分寺」だそうです。全国には、聖武天皇の勅命により68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建したとありますが、その総国分寺ともいうのが奈良の東大寺です。その所以もあって、ここには現在も聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られているそうです。
 そこで案内図で国分寺を調べてみると、ここ第15番札所と、高知県には第29番札所、愛媛県には第59番札所、香川県には第80番札所です。でも、考えてみれば、それなりの栄枯盛衰はあったとしても、奈良時代に建立された寺院が現在も残っていることがすごいことだと思います。ここは第15番札所国分寺の開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としたそうで、その当時は奈良の法隆寺や薬師寺などと同じように南都の学派に属する法相宗でした。それがお大師さまが巡教された際に真言宗に改め、その後天正の兵火などで荒れ果てて、1741年に阿波藩郡奉行の速水角五郎によって伽藍が再建されたときに曹洞宗になったということです。
 やはり、歴代の住職は相当苦労されて護ってきたことがうかがわれます。そして今、修理が進んでいるということは、とても喜ばしいことだと感じました。
 もし、機会があればと思うのですが、なにせここ四国はあまりにも遠いので、あまり考えないことにしました。
 次は第16番札所観音寺です。もう午前11時を少し過ぎたころです。

 第15番札所 薬王山国分寺 (曹洞宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死の 秋のもみじ葉



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.16

 第16番札所観音寺は、国道192号線を2qちょっと走ると案内板があり、その県道123号線のすぐ左側にあります。その手前が駐車場で、普通車なら6〜7台は駐められます。
 そこに駐め、遍路道に面した鐘楼門は、とても大きな和様重層の門で、堂々とした風格すら感じられます。ところが、あまりにも大きく、道路側から撮っても全体は収まりきれず、少し離れると道路に立つ電柱の電線がじゃまになり、なかなか撮れませんでした。
 しかも門までの塀の部分が、寄付をされた方々の石塔です。でも、古いもので、「金参拾圓」などと彫られていて、これも歴史の一部と思えば、絵になります。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「財を積まざるを以て心とし、法を慳(おし)まざるを以て性(しょう)とす」(性霊集)というのがありますが、あまりにお金に執着すると世間から疎まれます。どっちみち、あの世には持っていけないのですから、「金参拾圓」と残ったほうがいいのではないかとも思いました。
 その門から入ると、正面に本堂があります。その門と並ぶように手水場があり、そこで手や口をすすぎました。本堂の左側には、真新しいような修行大師像があり、本堂の右の柱の下には、小さな仏足石がありました。また、本堂の右側には、お地蔵さまの石像が立っていました。
 これも新しいお賽銭箱が正面にあり、その左側にある納め箱に札を入れました。ここは鰐口があり、鳴らしてからお詣りできました。

 大師堂は、境内地の右側にあり、その左手にある燭台にローソクを灯し線香を点け、それを柱手前の丸い石の香炉に立ててお詣りをしました。
 終わって、ふと見上げると、「弘法大師」と書かれた扁額の後ろの松の彫刻の欄間に三鈷が彫られています。あまり見えないところなので、ちょっとびっくりしました。
 おそらく、これは三鈷の松の由来から彫られたものでないかと、想像しました。これは、お大師さまが唐に渡られたとき、帰国のときに、自分が受け継いだ密教を広めるにふさわしい地に行くように、との願いを込めて「三鈷杵」を東の空に投げたそうです。そして日本に帰国してから、その三鈷杵を探し求めて高野山の松の木に引っかかっていたというのです。
 しかも、その松の木は、普通は二葉か五葉なのですが、この松は三葉だったそうです。それが、現在も高野山の御影堂の前に、その子孫の松の木があります。
 そういえば、昨年の7月に中国雲南省に行ったときに、麗江というところで、この三葉の松を見つけました。中国科学院の植物研究者に聞くと、これは「雲南松」で中国南部の雲南省や四川省南部、そしてミャンマー北部にも自生するそうです。標高は600〜2600mぐらいで、山岳地帯の斜面や峡谷などの比較的日当たりのよい乾燥した斜面に多いそうです。大きなものになると、30mに達するそうで、学名は Pinus yunnanensis といいます。
 でも、中国にはこの三葉の松は他にもあり、たとえば「白松」は中国の北西部が原産で、中国でも神聖な木とされていて、寺院などにも植栽されています。特徴は樹皮が光沢のある淡灰色なので、その名が付いたようです。
 どちらにしても、日本には三葉の松はないので、中国から請来されたのは間違いないようです。
 大師堂でお詣りした後で、ジョギング姿でお詣りに来ている方に会いました。そして、お詣りをすませると、またジョギングをして出て行かれました。おそらく、地元の方でしょうが、地元の人たちも気軽にお詣りされるところのようでした。
 車に戻ると、まだ午前11時34分です。お昼ご飯を食べるには早いので、次の第17番札所井戸寺に向かいました。

 第16番札所 光輝山観音寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 忘れずも 導きたまえ 観音寺 西方世界 弥陀の浄土へ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.17

 第17番札所井戸寺は、県道29号線を走り、県道30号線へ右折し、しばらく走ると、案内板が見えてくるのでそこを右折します。すぐに大きなお堂が見えてきます。
 その道の左側に大きな駐車場があり、どこから本堂に行けばよいのか少し迷いましたが、案内板を見つけ、その狭いお墓のわきを通り抜けると、広い境内地に出ました。その先を見ると仁王門があったので、そのまま境内を抜けて一端仁王門を出て、そこから引き返して再度門の前で一礼しました。つまり、駐車場はお寺の裏側だったようです。
 仁王門を入ると、すぐ左手側に手水場があり、そこからから見ると、ほぼ正面に本堂があります。この井戸寺の歴史を古く、白鳳時代にここに隣接して郡司がおかれ、天武天皇が勅願道場として建立したのが始まりで、その当時は「妙照寺」だったそうです。ご本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像ということで、聖徳太子の作と伝えられているそうです。お薬師さまのいる浄土を浄瑠璃国といいますから、山号も瑠璃山ということかもしれません。
 では、お薬師さまが七体並んでいて祈るということは、もともと天台宗の良源が摂関家の安産祈願をしてから有名になった祈願法で、ここ井戸寺では七難即滅、七福即生との関連で開運信仰が多いということです。まさに七福神と同じような考え方みたいです。
 また、現在の本堂は昭和46年に再建されたものだそうです。

 本堂の左側には、修行大師尊像があり、大師堂は本堂の手前の仁王門から見て右手にあります。
 向かって右側には、十三重石塔が建っていて、この石塔はほとんどが供養塔のようです。でも、いちおう基準があり、同朋舎から1978年に出版された『日本塔総鑑』中西亨著によると、「各階の平面形はどの階も同じ正多角形であること、一階にだけ仏像が安置されていて、二階以上はただの飾りであること、最上階の屋根の上に九輪(相輪)という九つの輪を積み重ねた細長い飾りがついていること、などである」と書いてあります。やはり、宝篋印塔や五輪塔などとは違うようです。
 大師堂への四段の石段を上ると中央に屋根の付いた大香炉があり、そこで燭台で線香を点し献じました。そこからまた石段を七段上ると回廊で、そこでお賽銭や納め札を入れ、また石段を下って少し外れたところでお経を唱えました。ここは広々とした境内でしかも人がいなかったので、声をいつもより高めに唱えることができました。
 それから、井戸寺の名の由来ともなっている「日限り大師」石像が祀られているお堂に行きました。なぜ日限りかというと、たった一夜で井戸を掘ったとの伝説からそういわれるようになったそうです。もともとここは、水不足や濁り水に悩んでいたそうで、それを見たお大師さまが自らの錫杖で井戸を掘ったというところです。それ以来、この付近を「井戸村」といい、寺名も「井戸寺」に改めたというでした。
 そのお堂のなかに「面影の井戸」があり、覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、もしうつらなかったら3年以内の厄災に注意すること、といわれているそうです。
 たしかに、四国はため池が多いところから考えても、昔から水には苦労したようです。だからお大師さまの伝説にも、水に関わるものが多いのではないかと思いましたが、ここ井戸寺のようにお寺の名前にもなっているのは、なんとも直接的です。
 そういえば、この井戸ということから思い出したのですが、お大師さまの言葉に「仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」(般若心経秘鍵)というのがありますが、仏法などというのは遙かなところにあるのではなく、突き詰めていけば、自分の心の中にあるというような意味です。でも、私は仏法そのものが心中にあるのではなく、その種しかないのではないかと思っています。つまり、その種に水をやり、肥料を与え、育てる力が伴わなければと思うのです。
 時計をみると、ちょうど12時です。そろそろお昼ご飯を食べて、次の第18番札所恩山寺に向かうため、車に戻りました。

 第17番札所 瑠璃山井戸寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 七仏薬師如来
 ご詠歌 面影を うつしてみれば 井戸の水 結べば胸の あかやおちなん



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.18

 第18番札所恩山寺は、第17番札所から約13qで、時間にして40分ほどです。この道は国道55号線を通るので比較的混んでいるのですが、お昼ご飯を食べるところはいろいろあります。
 25分ほど走ったところにうどんや屋さんがあり、そこで食べました。ほんとうに四国はうどん屋さんが多いところです。しかも、みな注文してから早いので、お遍路さんには最適です。ここも12時30分に着いたのですが、12時55分ごろには出発できました。
 また国道55号線を走り、小松島市芝生町狭間の信号を右折し、ほぼ道なりに進みます。途中には案内板もあります。そして「これより進入禁止」の看板のところの右手に駐車場があります。そこに車を駐めました。
 その進入禁止の道を歩いて行くと、大きな弘法大師像があり、さらに進むと左手に石段が見えてきます。その左側には「四国第18番 恩山寺」と彫られた石柱が立っています。そこを上って少し歩くと、また左手に修行大師像があり、その右側には手水場があり、そこで手や口をそそぎました。
 そこにも石段があり、その途中の左手には大きく育ったヤシが数株あり、いかにも南国に来たという風情です。そこを上りきった真正面に本堂はありました。

 昔、お大師さまが延暦年間にここで修行していたとき、母親の玉依御前が遠く讃岐の善通寺から訪ねてきたのに、その当時は女人禁制のお寺だったそうです。そこで、お大師さまは女人解禁の祈願を成就させ、母親をここに迎えることができたという言い伝えが残っています。そして、母親はここで剃髪をし、その髪を奉納されたので、お大師さまは山号寺名を「母養山恩山寺」と改めたということです。
 たしかに、母の思いも、それに答えようとする子の思いも、昔から変わることはないようです。たとえ、それがお大師さまでも同じことで、むしろだからこそ、親しみを感じるのかもしれません。
 また、ときには子どもの目線で考えることも大切です。お大師さまの言葉に、「物に善悪あり、人に賢愚殊(こと)なり。賢善り者は希れに、愚悪の者は多し」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、大人は意外と自分の愚かさに気づいていないことも多いようです。そのときには、自分自身を子どもの目で見つめてみるということも大事なことです。
 そのようなことを考えながら、本堂でお詣りをして、石段を下り、大師堂に行くと、その隣に母親の玉依御前をまつるお堂がありました。その脇には「弘法大師御母公御剃髪所」という石碑が立っていました。
 先ずは、お大師さまにお詣りをし、それからその隣の玉依御前のお堂にもお詣りしました。そして、帰ろうと思って右手を見ると、そこに大きな木がありました。あまり見たことがない種類のもので、案内を見ると「毘蘭樹」とありました。これは、一般的には「バクチノキ」で、サクラの仲間です。自生地は本州関東地方以西から沖縄までなので、東北ではほとんどありません。
 なぜバクチノキという名前がついたのか調べてみると、この木は太くなると樹皮がサルスベリのように剥げ落ちるので、ばくちに負けて身ぐるみはがされるという比喩から名付けられたそうです。
 でも、このバクチノキは、母親の玉依御前を迎えた記念に植えたと書いてありますが、名の由来から考えると、ちょっと違和感を感じました。
 そんなことを考えながら駐車場に戻り、車の中で時計をみると、午後1時35分です。もう3〜4ヶ寺はまわれそうです。次は第19番札所立江寺です。

 第18番札所 母養山恩山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 子を生める その父母の 恩山寺 訪らいがたき ことはあらじな



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.19

 第19番札所立江寺は、県道136号線を通り、次に県道28号線で右折し、立江川すじを進み信号を左折するとお堂が見えてきます。恩山寺からは約4.5q、20分ほどでした。
 そこを右折すると、有料駐車場があり、そこに駐めました。塀には白い筋が入り寺格を表しているようです。
 よく見ると、その塀の水路のところに、ゴイサギが1匹いました。この立江寺の由来に、行基菩薩にこの辺りにお寺を建立したいと思い探していると、一羽のシラサギがどこからともなく飛んできて、九ツ橋(現在の白鷺橋)の上に止まったので、ここに建てることにしたそうです。その由縁もあって、この橋にシラサギが止まっているときに橋を渡ると罰が当たるといわれています。
 でもゴイサギがいるのは道路の上だし、すぐよけてくれたので、仁王門の手前の白鷺橋を渡り、仁王門から入りました。その正面に本堂がありました。
 本堂への参道の右側には、たくさんのボタンが植えられていて、花時はさぞや見事ではないかと想像しました。また、左手に植えられた五葉松は、そのまま盆栽にでもなるような、いい木姿でした。

 創建当時の伽藍は、現在地より西へ400mほど山寄りの場所だったそうで、それが「天正の兵火」(1575〜85)では他の寺院と同様に立江寺も壊滅的な打撃を受けましたが、ご本尊だけはその難を免れたそうです。そして、阿波初代藩主の蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に再建されたということです。
 ところが、昭和49年にも火災にあいましたが、またもやご本尊は救い出され、昭和52年に再建されたのが、現在の本堂です。外からははっきりとは見えなかったのですが、格天井画は、東京芸大教授等により花鳥風月などが描かれているそうです。
 たしかに大きな本堂ですし、286枚もの天井画なら、見応えがありそうです。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかに、「未だ有らず、一味美膳をなし、片音妙曲を調ぶ者は。」(性霊集)というのがありますが、たった1つの味だけでおいしい料理を作ることはできないし、たった1つの音階だけで妙なる曲を奏でられないということです。いろいろなものごとが寄り集まって、その味わいも深く豊かになります。
 ここ四国のお寺も、四国八十八ヵ所というまとまりの中で続いてきたのではないかとさえ思います。そのようなことを考えながらお詣りをして、仁王門の右手にある大師堂に行くと、階段の前に大きな石の香炉があり、それにお線香を立てました。でも、ここは何度か火災に遭っていると聞いているので、お詣りが終わったときに、倒れないほど短くなっていたので安心しました。
 大師堂の右手前には多宝塔があり、さらにその脇には大きな修行大師像が建っていました。今回のお遍路で、たくさんの修行大師像をお詣りしましたが、大きいのやこじんまりしたもの、あるいは青銅製や石像など、ほんとうにいろいろです。お顔もみな少しずつ違い、今も歩いているようなお姿のもありました。
 次にお遍路をする機会があれば、このお大師さまのお姿をすべて撮ってみたいと思いました。
 そういえば、ここ立江寺は、四国八十八ヵ所に4つある「関所寺」の最初のお寺です。関所寺というのは、心がけの悪い遍路は、山門から先に進めないといわれているそうです。ちなみに、あと3ヶ寺は、第27番札所神峯寺、第60番札所横峰寺、第66番札所雲辺寺だそうです。
 ということで、先に進めるように、心を込めてお詣りをし続けるためにも次の第20番札所鶴林寺に向かいます。

 第19番札所 橋池山立江寺 (高野山真言宗) 本尊さま 延命地蔵菩薩
 ご詠歌 いつかさて 西のすまいの わが立江 弘誓の舟に 乗りていたらむ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.20

 第20番札所鶴林寺は、県道28号線を北東の方角に進み、突き当たると県道22号線を右折し、そのまま進みます。そして県道16号線を左折し、案内板のところからまた左折します。そしてそのまま進むと、だんだんと狭い道になりますが、約5qほど進むと道幅が広くなり、駐車場があります。
 そこから先は進めないので、ここに車を駐めて歩きます。ここまで、第19番札所立江寺から距離にして約16q、25分ほどかかりました。もし、対向車が多ければ、だいぶ時間がかかりそうです。
 そこから歩くとほどなくして仁王門が見えてきました。大きな扁額が掲げられていて、「霊鷲山」という山号が金文字で彫られています。霊鷲山はインドにあり、何年か前に行きましたが、お釈迦さまはここで何度も説法をされたそうです。私は、ぜひ夜明け前に行きたいと言ったら、ここを夜中に上るのは危険だから護衛がなければだめといわれ、ライフルを持った警察官に連れて行ってもらいました。星空がとてもきれいで、お月さまも見えました。少しずつ明るくなり、朝日が昇ると、多くの巡礼者も上ってきて、熱心にお経を唱えていました。
 そんなことを思い出しながら仁王門をくぐり、さらに進むと、右側に1100年のお大師さまご遠忌のときに建立された弘法大師像が立ち、その少し先の右手に長い石段があります。
 そこを上ると、真正面に本堂があります。

 ご本尊は地蔵菩薩で、国の重要文化財に指定されているそうです。そして暴風雨で難破しそうになった船を導いてくれたことから、波切り地蔵ともいわれているとか。
 ここは遠く山道を上ってこなければならないこともあり、「天正の兵火」でも難を免れたそうで、今なお貴重な文化財が多いそうです。そういえば、ここまでの参道の木々も巨木が多く、まさに静謐な雰囲気です。ここにいると、煩雑な世俗の世界を忘れてしまいそうです。まさに寺名の鶴林寺というのが、ぴったりです。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「山鳥時に来りて歌いて一奏し、山猿軽く跳ねて技は倫に絶す。春華秋菊笑って我に向い、暁月朝風情塵を洗う」(性霊集)とあり、世俗の世界を離れて修行する喜びが感じられます。
 ただ、山号の「霊鷲山」は、ここの山容がインドの霊鷲山に似ているからとのことですが、昔のことですからそれに憧れてということもあったのかもしれません。
 そういえば、本堂の両側には青銅製の鶴がいて、いかにも狛犬の代りのようでした。さらに本堂の右手には三重塔もあります。
 大師堂は、その上ってきた石段を下った右手にあり、金剛杖を置いて、山の霊気を感じながらお詣りをしました。その右手に納経所があり、そこでご朱印と御影などをいただき、元来た道を下りました。後から気づいたのですが、唐金製のお不動さまも立っていました。
 やはりお詣りは、行きも帰りも、見落としがないかどうか、気をつけないとだめだなあと思いました。
 車に戻って時計をみると、午後3時です。次の第21番札所太龍寺へはロープウェイに乗って行くので、その乗車の間隔も気になります。
 ナビで確認すると、ロープウェイの山麓駅まで20分だそうです。山道の下り坂なので、対向車に気をつけながら運転をしました。

 第20番札所 霊鷲山鶴林寺 (高野山真言宗) 本尊さま 地蔵菩薩
 ご詠歌 しげりつる 鶴の林を しるべにて 大師ぞいます 地蔵帝釈



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.21

 第21番札所太龍寺へは、県道19号線まで戻り、そこを右折し、そのまま進むと太龍寺ロープウェイの山麓駅の広い駐車場が見えてきます。
 そこに車を駐めて、どこから行けばいいかと辺りを見ていると、ロープウェイの係の方が来てくれて、すぐに出発するとのことでした。急いで大人往復2,470円で切符を買い、乗り場に走りました。乗るとすぐにベルが鳴り、出発です。
 ここに着いたのは午後3時15分で、ロープウェイが出発したのは20分ですから、あっという間のことでした。
 ロープウェイの中の案内によると、このロープウェイは全長2,775mで西日本で一番長いそうで、しかも山や川越えを行うなど、とても珍しいそうです。しかも、途中にニホンオオカミの実物大の銅像があったり、お大師さまが19歳のころに「舎心嶽」という岩上で虚空蔵求聞持法を修したという言い伝えがあり、そのお姿も見ることができます。
 この間約10分、あっという間に那賀川や剣山山系を越えました。山頂駅で外に出ると目の前に、左側には「四国霊場第21番」、そして右側には「舎心山太龍寺」と大きな黒御影石に彫られた石柱が石段の両側に立っています。その三段に区切られた長い石段を上りきると、本堂です。大きくて、石段の上からでは全体の写真を撮ることはできません。

 ここは、お大師さまが書かれた『三教指帰』の中に、「阿国太龍嶽にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す」とありますから、ここでも修行されたことは間違いありません。しかも「明星来影す」とあるから、おそらく「虚空蔵求聞持法」も修されたと思われます。だから、本堂のご本尊は虚空蔵菩薩なのかもしれません。
 ここは、それこそ昔は山の中のさらに山奥だったでしょうから、オオカミがいたり、いろいろな危険なことがたくさんあったと思われます。それでも、お大師さまを慕うお遍路さんたちがここまで歩いて登ってきてお詣りされたわけですから、その信仰の力はすごいものです。
 その本堂の右手奥には多宝塔があり、1861年の辛酉の歳に建立されたそうです。そこに上る石段のわきを通り、左手に進むと修行大師像があり、その先に石橋が見えます。まさに高野山の奥の院のような風景です。聞くと、この配置はそれを模して拝殿と奥殿というような形になっているとのことです。手前の拝殿にはお大師さまの十弟子が壁に描かれ、奥殿には弘法大師像が安置されています。ちなみにお大師さまの十弟子とは、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延がよく上げられていますが、その他の方になることもあります。
 なかでも、智泉はお大師さまの甥で最初の弟子といわれていますし、真雅は実の弟です。また道雄は佐伯氏の出身で、いわば親族筋にあたります。やはり、最初からお大師さまについていたのは、身近な方々だったようです。
 ここの大師堂は、回廊につり下げられている釣灯籠も、なんとなく奥の院の灯籠に似ていて、ここでお詣りしていると、高野山でお詣りしているかのような錯覚に陥ります。むしろ、それ以上の静寂さが周りを包んでいます。何時間でもここに居たいような雰囲気があります。
 しかし、太龍寺ロープウェイの運行間隔は20分おきで、最終は午後5時です。少し急げば午後4時のロープウェイに乗れそうです。急いでご朱印をいただき、山頂駅に戻りました。その途中の山肌に沿うように築き上げられた石垣が見事でした。
 帰りのロープウェイのなかで、ガイドさんが、この時間だと次の第22番札所平等寺まで行けますよ、と話してくれました。そこで、山麓駅の駐車場に駐めた車に戻り、時計をみると、午後4時15分でした。
 すぐにナビで確認すると、平等寺まで13.5q、18分と出ました。ということは、納経所の閉まる午後5時までは十分に着けるはずです。

 第21番札所 舎心山太龍寺 (高野山真言宗) 本尊さま 虚空蔵菩薩
 ご詠歌 太龍の 常にすむぞや げに岩屋 舎心聞持は 守護のためなり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.22

 第22番札所平等寺へは、ロープウェイから見えた那賀川にかかる赤い橋を渡って進み、国道195号線から左折してしばらくそのまま進みます。そして、県道284号線を右折し、桑野川沿いをそのまま進み、案内板のところを右折し進むと右手に仁王門が見えてきます。
 駐車場のその左側にあり、20〜30台ほどは駐められそうです。到着した時間は、午後4時35分でした。
 早速、仁王門から入って一礼し、左手に大師堂を見ながらそのまま参道を進むと、男坂といわれる長い石段があります。その手前に小さな石製の橋があり、「厄除橋」と欄干に書かれていました。その右側には弘法大師像があり、左側には水子地蔵尊がまつられていて、どちらも青銅製でした。
 そこを渡ると、塀の陰から垂れ梅が花を咲かせて、右側にまつられている六地蔵に枝先を垂らしています。その赤いウメの花と赤い帽子と前垂れがとてもよく似合っています。左側には「弘法の霊水」と書かれたところがあります。その間の石段を上ると、本堂です。

 この本堂までは、仁王門の手前の石段の手すりから、ずーっと五色の布が延びています。おそらく、足腰が悪くて、ここまで上れなくても仁王門のところでお詣りできるようにとの心づかいかもしれません。これは有り難いと思いました。そういえば、本堂に3台の箱車が奉納されており、大正や昭和の時代に医者に見放された足の不自由な人が巡礼を始め、この寺で霊験をさずかって足が治ったとして奉納されたものだそうです。おそらく、このような縁起もこの五色の布には込められているのかもしれません。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかに、「医眼の観る所、百毒変じて薬となり、仏慧(ぶって)の照す所、衆生即ち仏なり」(平成天皇灌頂文)というのがありますが、いろいろな毒でさえもたちまちに薬となり、仏さまの智慧の光によって、そのまま仏になれるというような意味です。平成天皇とは、「へいぜい」と読みますが、822年に三昧耶戒を授けたときの文章です。
 お大師さまがここ第22番札所平等寺で修行しているとき、5色の霊雲がたなびき、その中に黄金の梵字が現れたといいます。それで加持されると薬師如来の尊像が現れたそうです。さっそく杖で井戸を掘ると、お乳のような白い水がわき出してきたそうです。その霊水で身を清められ100日の修行の後に薬師如来像を刻み本尊として安置し、山号を白水山、そしてみんな平等に救済できるようにと寺号を平等寺と定められたと言い伝えられています。
 本堂にお詣りし、下りは女坂といわれている緩やかな坂を下ると、ちょうど「弘法の霊水」のところに出ます。今はこの水は無色透明だそうで、容器代を払えば持ち帰りもできるようになっています。
 そして、大師堂は仁王門の左手にあり、その右側には井戸寺と同じような十三重石塔が建っていて、その前の石版には「祈願 世界平和 報恩謝徳」と彫られていました。
 中は護摩壇がしつらえてあり、「南無大師遍照金剛」と書かれた横額の下に、お大師さまのご尊像がまつられていて、両側の戸も開けられていました。ときどき、風が通り抜け、御簾が揺れていました。このように開放的な大師堂も、とても珍しく感じました。ここでは、午後5時近くまでお詣りし、それから急いでその筋向かいにある納経所でご朱印や御影などをいただき、車に戻りました。
 ちょうど午後5時でした。今日はここでお遍路も終わりです。後は予約をしておいた阿南市の「ホテル石松」に向かいました。
 そこまでの距離が14.5q、時間にして25分ほどでした。ホテルの駐車場でメーターをみると、今日走った距離は158.2qです。ホテルで聞くと、夕食はないということなので、部屋に荷物を置いて、外で食べようと探したのですが、適当なところがなく、コンビニで買い物をして部屋で夕食を食べました。それでも、今日も順調にお遍路できたので、満足でした。

 第22番札所 白水山平等寺 (高野山真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 平等に へだてのなきと 聞く時は あら頼もしき 仏とぞみる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.23

 第23番札所薬王寺へは、阿南市の「ホテル石松」から県道24号線 と 国道55号線へと進んで約29q、時間にして40分ほどかかりました。
 ここに着いたのは午前7寺40分で、すぐに大きな駐車場に車を駐め、少し引き返して仁王門から入りました。
 そこをくぐり、すぐに左に曲がり、その先に「女厄坂」と書いてある33段の石段を上ります。さらに屋根のかかったところを進むと、急勾配の石段「男厄坂」の42段があり、そこを上ると本堂です。さらに、その右手にある「瑜祇塔」までは「還暦厄坂」と呼ばれる61段もの石段があり、その石段1つ1つの下に『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれているそうです。
 だから、ここは厄除けでも有名なお寺で、本堂にも「厄除祈願所」と書かれた板札が下がっていました。

 先ずは本堂でお詣りをして、それから左手のちょっと離れたところにある大師堂に行きました。この手前には大きなクスノキがあり、その脇に「町指定文化財薬王寺の大楠 平成13年12月11日指定」と書かれたものが立っていました。おそらく、その近くのクスノキも大木なので、いっしょに指定されたものかもしれません。
 このクスノキは、樟脳の材料になったり、医薬品として強心剤や皮膚病の外用薬の軟膏などにも使われていましたから、医王寺の名にふさわしい木のようです。
 大師堂は、扉が少しだけ開けてあり、その上の部分には今年の酉年の切り紙が吊してありました。そこからお賽銭を入れ、左右にある納め箱に札を入れ、その手前の鰐口を鳴らしてから、石段を下りてお経を唱えました。
 扉が少しでも開いていると、お大師さまとつながっているように思えます。しっかりと閉じられていると、本当にお大師さまに伝わっているのかと不安になります。そういう意味では、ここはとても気持ちよくお詣りできました。
 そして、お大師さまの言葉で思い出したのが中国青龍寺の恵果阿闍梨との話で、「大乗開門の法に依って、治病の人には塩酒を許す。これに依ってまた円座(まとい)の次(つい)でに平(へい)を呼んで数(しばしば)用うることを得ざれ。もし必ず用うべきことあらば、外より瓶にあらざる器に入れ来りて、茶に副(そ)えて秘に用いよ」(二十五箇条御遺告)というのがあります。まさに、酒でさえ病気を治すためなら用いてもよいし、そのときには酒だとわかるような容器ではないものに移し替えて持ち込み、お茶を飲みながらそっと飲酒しなさいといいます。まさに、お酒を持ち込む手口まで伝授しているもので、お大師さまの心の広さが伝わってきます。
 第23番札所薬王寺は、「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場でもあります。次の第24番札所最御崎寺は土佐の国、つまり高知県です。だから、ここで一区切りですし、次の札所までは、75qもあるそうです。
 せっかくなので、還暦厄坂も上って「瑜祇塔」まで行きました。とても大きな塔で、高さ29mだそうです。上方が四角で下方が円筒形の一重の塔で、天と地の和合を説く『瑜祇経』の教えに基づき、屋根に五柱の相輪が立っています。昭和39年に、四国霊場開創1150年と翌年の高野山開創1150年を記念して建立したそうです。
 ここは見晴らしがよく、日和佐の街並みがはっきりと見えます。その先には日和佐城も確認できます。空は青空で、このようないい天気のだと室戸岬への海岸線もきれいに見えることでしょう。
 ここからは約2時間ほどかかるそうなので、飲み物を買ってから、車に戻りました。時間は午前8時28分です。
 「発心の道場」から「修行の道場」まで、75qほどの旅です。

 第23番札所 医王山薬王寺 (高野山真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 皆人の 病みぬる年の 薬王寺 瑠璃の薬を あたえましませ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.24

 第24番札所最御崎寺へは、77.1qほどあり、時間は1時間40分ほどかかるということで出発しました。国道55号線を室戸岬の方向にひたすら進みます。左側には太平洋が見え、雲一つない青空でした。
 ときどき車を駐め、写真を撮りながら進みました。3qほど手前に大きな「室戸青年大師像」があり、そこにもよってお詣りしました。さらに、300mほど離れたところに「御厨人窟・神明窟」があり、ここは最初からお詣りをする予定でした。こここそが、お大師さまが空海と自ら名乗ったきっかけになったような場所です。『御遺告』にも、「土佐の室生門崎に寂留す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来って、菩薩の威を顕す」と書かれており、左側にある「御厨人窟」はその名の通り居住スペースで、右側の「神明窟」は修行をするための場所といわれています。
 しかし、残念ながら落石等があるため現在は立入禁止になっていて、今のところ復旧の目処も立っていないそうです。しかし、空海の名の由来は中から外を見てみないことにはわかりません。ぜひ、近い将来、中に入れるようにしてほしいものです。もちろん、ここでもご朱印はいただきました。
 そして、再び国道55号線を走り、案内板の指示に従い、室戸スカイラインへ左折し9kmほど走ると第24番札所最御崎寺に着きました。駐車場は、遍路センターのところで、道幅が広がっているところです。
 そこに車を駐め、少し戻るようにして左折すると、参道です。左側に「お迎え大師尊像」があり、そこから石段と坂道の両方があります。石段のほうには「本坊・宿坊」とあり、坂道のほうには「本堂・納経所」と案内があったので、先ずは本堂のほうへと坂道を上りました。この道は、室戸岬測候所へと続いています。
 その途中から左折し石段を上ると、仁王門が見えてきます。その左手前にお大師さまの像が建っていて、ちょうど専門家の方が磨いておられました。そこで、後からお詣りしようと、先ずは仁王門から入りました。

 境内は広く、仁王門から見える正面には本堂があり、右手前には鐘楼堂、そして9段ほどの石段を上ると多宝塔があります。本堂には大きな青銅製の香炉が備えられていました。そこでお詣りをして、そこから引き返して、石段の下の左手側にある大師堂に行きました。
 大師堂には屋根のかかった大香炉があり、自分のローソクから線香を点し、立てました。そして、このような離れたところまでお大師さまが来て修行されたことに驚きながら、自分たちも来れたことに感謝をしてお経を唱えました。そのときに気づいたのですが、普通は納経とは写経をしてそれを納めた印としてご朱印をいただきますが、その意味からするとお経を唱えた印としてご朱印をいただいてもいいわけです。ちなみに、帰ってから世界大百科事典で調べてみると、「西国三十三所観音霊場巡礼や四国八十八ヵ所観音霊場遍路のように,仏前で経巻を読誦することを納経というようになった。」と書いてありました。
 やはり、そのような理解でよかったわけです。そう思うと、納経所に向かう足取りも軽くなります。
 そして、それから多宝塔にお詣りすると、その脇に六地蔵がまつられていて、その後ろには「キバナアマ」がたくさん咲いていました。 この花は、別名「雲南月光花」といい、中国雲南省でたくさん見たことがあります。やはり、ここ室戸岬は冬でも暖かいから自生地のように元気に育っているのでしょう。
 せっかく、ここまで来たので、先ほど上ってきた道をそのまま進み、室戸岬測候所の灯台まで行ってみました。思っていたより建物は低いのですが、さすが反射鏡は大きく、本当はフレネル式レンズというそうで、直径2.6メートルもあります。だから、外から見ても大きいとわかったのです。しかも、その歴史的価値からいっても、海上保安庁ではAランクの保存灯台に指定しているそうです。
 近くには、ツバキも咲いていて、もしかすると海岸線まで下りるといろいろな亜熱帯の植物を見ることができるかもしれないと思い、先ずは駐車場まで戻り、室戸スカイラインを下り、国道55号線を左折し、灌頂ヶ浜へ下りる駐車場に車を駐め、浜まで下りてみました。ちかくにアコウの大木もありました。
 ここを出たのは12時過ぎですが、そろそろお昼にしようと、探しながら車を運転しました。次は第25番札所津照寺です。

 第24番札所 室戸山最御崎寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 虚空蔵菩薩
 ご詠歌 明星の 出でぬる方の 東寺 くらき迷いは などかあらまし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.25

 第25番札所津照寺は、国道55号線をそのまま5.7qほど進むとあるそうです。でも、もう12時も過ぎたので、お昼ご飯を食べられそうなところを探しながら走っていると、左側の海の近くに、「海の駅とまむ」と書かれたのがあり、駐車場もとても広かったので、そこで食べることにしました。右側の「レストラン「ぢばうま八」に入ると、地元の人たちも食べていて、それと同じ刺身定食を頼みました。とても美味しかったです。
 その隣が地場どれ新鮮市場の「くじらはま」で、ここではポンカンを買いました。そして、元の道に戻り、案内板の通りに進むと、室津港近くの道端に駐車スペースがあり、何台も車が並んでいました。たった1台分しか空いていなかったのですが、なんとかギリギリと駐めて、その先の津照寺へ向かいました。
 その道路の細くなったところを右手に行くと、朱塗りの山門があり、少し歩くと長い急な石段があり、その途中に鐘楼門を兼ねた仁王門があり、まだ石段が続きます。
 そこを上りきると、正面に本堂があります。ここから眺めると、今上ってきた石段や室津港、さらには室戸市内も見えます。右手には、次に行く予定の第26番札所の金剛頂寺も見えるそうです。

 ご本尊は延命地蔵菩薩ですが、朱塗りの山門の左側の白御影石には「御本尊 楫取地蔵(かじとりじぞう)大菩薩」と彫られていました。それで、由来を見ると、「慶長七年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないがともあれ探して津寺へ参詣してみると本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった、之より本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになりました。」と旧記南路史に書かれてあるそうです。だから、海の守り神でもあるからなのか、港の広場を無料で駐車場として使わせてもらっているようです。
 そういえば、お大師さまの言葉に「六塵は能く溺るる海、四徳は帰する所の峯なり。已に三界の縛を知むぬ。何ぞ纓簪(えいしん)を去てざらむ」(三教指帰)というのがありますが、まさに現実の世界(色・声・香・味・触・法)は迷いの世界であり、如来の四徳の境地はすばらしい峯だとは思います。ただ、そこに至るには相当な修行が必要ではないかと思います。
 本堂でお詣りし、また、あの長くて急な階段を下ると、その左側に大師堂がありました。つまり、山門を入るとすぐの右側にあります。
 ここは、お大師さまが四国で修行されていたときに、ここの後ろの山の形が、いかにもお地蔵さまが持つ宝珠の形に煮ていることから宝珠山真言院津照寺と号されたということです。現在の大師堂は昭和38年に、そして本堂は昭和50年に新築されたそうです。
 この大師堂の右手に納経所があり、さらにその脇には檀信徒会館があります。
 そういえば、駐車場にやっと駐めたこともあり、あまりゆっくりはできず、ここに着いたのが12時35分、そして車に戻ったのが午後1時20分でした。
 今日は、ここまでまだ3ヶ寺しかお詣りしてないので、あと3ヶ寺ぐらいはまわりたいと考え、昼食のときに香南市野市町の「高知黒潮ホテル」のお遍路さんパックを電話約しました。1人1泊税込みで7,900円でした。
 先ずは、次の第26番札所金剛頂寺を目指して進みます。

 第25番札所 宝珠山津照寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 楫取地蔵菩薩
 ご詠歌 法の舟 入るか出づるか この津寺 迷ふ我身を のせてたまへや



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.26

 第26番札所金剛頂寺へは、再び国道55号線を3qほど進み、案内板にしたがい右折します。そこから3.2qほど山道を進むと右側に駐車場があります。マイクロバスが通り抜けていったので、もう少し行けるかと思い走ると、だんだんとお寺から遠ざかってしまいました。マイクロバスは違うところに行くようです。そこで引き返し、戻っていくと、西寺壇信徒会館の駐車場があったので、そこに駐めました。午後1時35分でした。
 そこから歩いて行くと、仁王門があり、その手すりの所に大きな錫杖が結びつけられていました。その仁王門の中には、大きな草鞋が両側にあり、お薬師さまがご本尊さまだから、もしかすると足腰が丈夫になるかもしれないと思い、それも願いのなかに入れました。
 昔から、室戸岬の最御崎寺は「東寺」と呼ばれ、ここは行当岬の頂上にあることから「西寺」と呼ばれているそうで、そういえば、先ほど車を駐めた駐車場のところにある壇信徒会館にも西寺の名が付けられていました。

 本堂の左側には、今にも駆け出しそうなお大師さまの石像が建ち、本堂の手前には屋根付きの大きな香炉があります。お堂もりっぱで、「瑠璃光殿」と書かれた扁額が掲げられていました。
 ここ金剛頂寺には、昭和31年6月28日に指定された国の重要文化財の「金銅旅壇具」などが収蔵されています。この旅箪笥は、どこでもいつでも修法できるように火舎や六器、花瓶、飯食器、洒水器、塗香器、金剛盤、五鈷杵、五鈷鈴などを小さく携行しやすいように入れてあるものです。これは平安時代後期の旅壇具としては、わが国唯一の法具だそうです。
 寺伝では、もともとお大師さまが使っていたということですが、国指定文化財等データベースには、平安時代の作品と説明書きがあるだけでした。
 それだけをみても、このお寺が古くから信仰されてきたということがわかります。そういえば、お大師さまは、常住坐臥すべて修行と考えておられたようですが、その内容も多岐にわたっています。たとえば、「密を以て内となし、顕を以て外となして、必ず兼学すべし。茲に因って本宗を軽んじて末学を重んずることなかれ。宜しく吾が心を知って兼学すべし。但し人の器に任せて兼ねるに堪えざらん者は、まさに本業に任せて精進修行せよ」(二十五箇条御遺告)と、志のある者は誰でも修行できるようにかみ砕いて説明しています。
 さて、大師堂はその本堂の左側のお大師さまの石像をちょっと回り込むようにして建っていました。ここもお堂の前に屋根のついた大きな香炉があり、左側の燭台にローソクをたて、線香を点しお詣りをしました。
 ここは境内の外れにあり、静かにお詣りできます。大師堂全体の写真を撮ろうとすると、その前の石段を下らないとできません。そこで下から写真を撮り、また石段を上ってくると、その右手に「がん封じ乃椿」と書かれた小さなお堂があり、そのなかに椿の木がありました。そのお堂のところには、「がん封じの椿御霊木」とあり、いかにもぼこぼこと節くれ立った樹が納めてありました。
 もちろん、ここにもお詣りし、また本堂へと戻り、納経所でご朱印や御影をいただき、車に戻りました。
 次は第27番札所神峯寺です。案内書には34.2qとありますから、およそ1時間前後はかかりそうです。ここを出発したのは午後2時3分でした。

 第26番札所 竜頭山金剛頂寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 往生に 望みをかくる 極楽は 月のかたむく 西寺の空



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.27

 第27番札所神峯寺へは、先ほど金剛頂寺に上ってきた道と少し違う道を通りましたが、すぐに元来た道と合流し、国道55号線に至ります。そこを右折し、そのまま国道を走ります。
 唐浜駅と書かれた案内板から右折し、その駅から約3.8qほどかかります。しかも山道ですし、対向車が来たらよけられないほど狭いので注意しながらゆっくりと運転し、時間もかかりました。着いたのは午後3時5分ですから、ほぼ1時間かかったことになります。
 道路の左側にお寺の専用駐車場があり、普通車なら30台以上は駐められそうです。すぐ脇にはドライブインもあり、とても便利です。
 そこに車を駐め、歩いて4〜5分ほどで仁王門に着きました。ここは、いかにも神仏分離前はいっしょだとわかるようなつくりで、左側に仁王門へと続く石段があり、右手にはその仁王門と並ぶように石の鳥居があり、それぞれに石段になっていました。
 そこで由来をみると、「明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。」とあり、明治初期の神仏分離の動きに翻弄されたことがわかります。
 その仁王門をくぐり、さらに歩くこと2〜3分で開けたところに出て、ここに納経所がありました。その脇を通り、先が見えないほど長い石段を上りきると、「みちびき弘法大師」像があり、本堂が見えてきました。

 本堂でお詣りし、それから石段を上ったところから右手のほうに大師堂があります。
 大師堂も山を背に建っていて、新しい石灯籠などがいくつも奉納されていました。右側に燭台があり、ローソクがともっているところをみると、先ほどお詣りしたばかりのようです。私たちもローソクをつけ、線香を点し、お経を唱えながらお詣りしました。
 ここはまったくの山寺なので、辺りを気にすることもなく、近くに人もいなかったので、大きな声で唱えることができます。そうすると、なぜか気持ちも高揚します。今、こうして、お大師さまの修行の後を訪ねてお詣りしている、という気持ちになります。「南無大師遍照金剛」を唱えると、山にこだまするかのようです。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかに、「山中に何の楽か有る、遂に爾(しか)く永く帰るを忘る。一つの秘典、百衲の衣、雨に湿(うるお)い雲に霑(うるお)うて塵と与(とも)に飛ぶ」(性霊集)というのがありますが、山中には長く帰るのを忘れるような楽しみがあるというような詩です。
 この百衲の衣とは、つづり合わせの衣という意味で、インドでも粗末な布きれをたくさん綴り合わせて作ったのが衣です。
 そのようなことなどを考えながら、山中にある第27番札所神峯寺でお大師さまが修行されていたころは「観音堂」といっていたそうなので、十一面観世音菩薩のご真言「おん まか きゃろにきゃ そわか」もいっしょに唱えました。
 聞くところによると、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎のお母さんが、この山道を、しかも自宅から20kmも離れたところから、21日間日参し、息子の出世を祈願したという話しが残っているそうで、次の第28番札所大日寺に向かう途中の安芸市を通っているときに、「岩崎弥太郎生家」という案内板を見つけました。
 お詣りが終わって、また長い階段を下っていくと、その途中の風景はとても整然としていて、とくにツツジの刈り込みがきれいでした。もし、花の咲くときだったら、何時間でもここにいたいようなところです。また、石段の中央部に設置されている真っ赤な手すりもアクセントになっています。
 納経所の近くでは、石職人が働いていたので、ときどき補修をしたり、新しい石加工をしたりしているようです。ここのように、つねに管理しているところもあれば、ほとんどそのままというところもあり、やはり何をしなくてもきれいに掃除だけはしてほしいと思いました。
 車に戻って時間をみると、午後3時38分です。次の第28番札所大日寺まではナビで確認すると37.7qです。ここも1時間ほどかかりますが、泊まるところはその近くの「高知黒潮ホテル」です。もし、間に合わなければそのまま泊まり、翌日にお詣りすればいいだけです。

 第27番札所 竹林山神峯寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 みほとけの めぐみの心 神峯 山も誓いも 高き水音



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.28

 第28番札所大日寺へは、再び国道55号線まで戻り、そこから高知市に向かって進みます。香南市の「高知黒潮ホテル」を過ぎたあたりから右折し、そのまま県道22号線を行くと、案内板があり、そこを右折します。
 神峯寺から38qほどあり、予定通り午後4時35分に到着しました。ほとんどの札所が午後5時で納経所を閉めるので、途中で何度か時間を確認したのですが、間に合いそうなのでそのまま進みました。
 駐車場に車を駐め、石段を上ると、その途中に山門があり、さらに上ると正面に本堂があります。
 このお寺は、聖武天皇の勅願によって創建されたといわれ、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造したのをまつっているそうです。しかし、その後荒廃してしまい、お大師さまが四国を純教されたときに復興されたといいます。
 本堂には大日如来と書かれた扁額が掲げられ、案内によると、高さが約146cmの寄せ木造りで、四国では最大級だそうです。さらに脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、これも高さ約172cmで、ともに国の重要文化財に指定されています。
 お詣りするところからは、定かには見えないのですが、想像しながらお詣りしました。

 しかもこの本堂は、平成9年に再建されたそうですが、檜と松を使って釘を1本も使わずに木組みだけで造られたといいます。そして大師堂は、その手前の左側の奥にありますが、このお堂も昭和58年に改修されましたが、大師像は土佐2代目藩主、山内忠義公が奉納されたといいます。
 この辺りは、ちょうどウメが花を咲かせ、馥郁とした香りが漂ってきます。そういうなかでお詣りするのは、とても気持ちが良いものです。
 いつものように手順を踏んで、午後5時という時間を気にしながらも、ゆっくりとお詣りできました。その大師堂から鐘撞き堂のほうに歩いてくると、さらに紅白のウメが咲いていて、近くにはサンシュユも花を着けていました。
 再び本堂の前に戻ると、その右手に、六角堂があり、扁額に「地蔵菩薩」と青字で彫られていました。
 納経寺は、最初に上ってきた石段の上を右に入ったところで、そこから奥の院にも行けるということでした。でも、ちょうど午後4字55分、あと5分で納経所も閉まります。
 今日はここでご朱印と御影をいただいて、戻ることにしました。
 今日3月3日は、第23番札所薬王寺からここ第28番札所大日寺までお遍路をしました。6ヶ寺まわったことになります。ここ高知の札所の間隔があり、一番遠いところだと、薬王寺から最御崎寺まで77.1qもありました。これでは、徳島のように次々とまわることができません。
 そういえば、お大師さまの言葉に「仏智を証せんと欲(おも)わば局執(きょくしゅう)すべからず。一歩して即ち憩えば誰か宝城を見ん。」(性霊集)というのがありますが、やはり、目標から目をそらさず、ただ前を向いて進むことを楽しむしかありません。
 先ずは駐車場に戻り、お遍路パックで予約しておいた「高知黒潮ホテル」に行きます。ここは来る途中の右側にあったので、すぐに行けます。
 実際にコンビニに寄ってからでも、午後5時10分には着きました。車の距離計をみると、今日は194.2q走りました。
 ここ高知黒潮ホテルの「1泊2食温泉付四国霊場参りお遍路さんパック」も電話予約のみで、ネットでの予約はできませんでしたが、隣接したところに黒潮温泉「龍馬の湯」があり、洗濯機の大きいのもあって、とても便利でした。

 第28番札所 法界山大日寺 (真言宗智山派) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 露霜と 罪を照らせる 大日寺 などか歩みを 運ばざらまし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.29

 昨日は午後5時ギリギリまでお詣りをし、さらに洗濯などをしたので、今朝は午前7時18分にホテルを出発しました。天気もよく、昨日と同じような雲ひとつない青空です。
 第29番札所国分寺へは、国道55号線を高知市方面に向かい、途中から右折し広域農道に入り、「土佐くろしお鉄道」の踏切を渡りそのまま進みます。県道45号線を右折し、新改川を渡るとすぐに左折し進むと、杉林の一角が見えてきます。
 道の左側にはバスの駐車場があり、乗用車は右手の狭い道路を入ると40台ぐらいは駐められる駐車場があります。ただ、ここに入る道は極端に狭いので、要注意です。
 そこに着いたのが午前7時38分でした。
 ここからいったんバスの駐車場の前にある仁王門のところまで戻り、そこから一礼して入りました。この仁王門には、摩尼山と書かれた扁額が掲げられ、1655(明暦元)年に土佐2代藩主、山内忠義公が寄進されたもので、豪壮な二層造りです。
 周りは杉林で、その奥に本堂が見えます。この本堂も、長宗我部元親が、1558(永禄元)年に再建したもので、柿葺き、寄棟造りで外観は天平様式を伝えていて、国の重要文化財に指定されています。

 ここ、土佐の国といえば、平安中期の紀貫之を思い浮かべる方もいるかと思いますが、国司として4年間赴任していた国府は、ここ国分寺から北東へ1qほどしか離れていなくて、ここが土佐の国の政治や文化の中心地だったことがうかがわれます。
 おそらく、紀貫之の書いた『土佐日記』にも、ここの情景が綴られているかもしれませんが、あいにく全部を読んだことがないので詳しくはわかりません。
 本堂の前にはしだれウメが咲いていて、『古今集』に載っている「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)ににほひける」という和歌を思い出しました。でも、ここ土佐で詠んだわけではなく、詞書に「初瀬に詣(まう)づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家の主人(あるじ)、『かく定かになむ宿りは在る』と言ひ出して侍(はべ)りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める」とありますから、奈良の長谷寺付近で詠んだものだと思います。
 そういえば、角川書店から1983年より1992年にかけて刊行された『新編国歌大観』を清水の舞台から落ちるような気持ちで購入したことがありますが、この全5巻は、江戸時代までの和歌などのどの一句からでも探し出せるという優れものです。
 今でもたまに引っ張り出して見ますが、とても重く、ついネットで調べてしまいますが、それでも出てこないときには重宝しています。
 さて、ここの大師堂は、本堂の左手にあり、本堂と屋根付きの廊下でつながっています。この建物は1634(寛永11)年に建立されたもので、文化年間と明治17年に修繕され、昭和35年の屋根の修理のときに柿葺きから銅板葺きに改められたそうです。
 柿葺きなら、なかなか管理も大変でしょうが、本堂と同じような柿葺きなら、さらに見応えがあったのではないかと思いました。ここにはしだれ桜が植えられていましたが、まだ花は咲いていませんでした。
 そういえば、お大師さまの言葉に「春花、枝下に落ち、秋露、葉前に沈む。逝水(せいすい)、住(とど)まる能わず、廻風、しばしば音(おん)を吐く」(三教指帰)というのがありますが、まさにその通りです。
 仁王門を入った右手側に納経所があり、そこでご朱印や御影などをいただきました。ここの庭はとても整備されていて、白壁に囲まれた別世界のようです。ちょうど梅の古木に花も咲いていました。
 車に戻ると午前8時13分でした。次は第30番札所善楽寺です。ここは南国市ですが、善楽寺は高知市の一宮にあります。ナビでみると、8.7qと出ていました。

 第29番札所 摩尼山国分寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益残せり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.30

 第30番札所善楽寺へは、県道45号線を左折し、国道32号線でまた左折して進みます。途中から県道384号に行くように右折し、入ったら左折しそのまま進みます。近づくと案内板があるので、東天神社の方から入ります。
 ナビの案内でそのまま進むと、とても狭い道に入り込み、バックせざるをえなくなります。実は、私もそれでバックしました。
 駐車場はお寺の境内地にあり、20台ぐらいは駐車できそうです。
 ここへは山の裾を走ってきたので、あまり実感はなかったのですが、ここからJR高知駅まで約4qほど、また高知城へは約6qと、繁華街の近くにあります。この辺りは、昔は「神辺郷」といわれ、そういえば、すぐ近くに土佐神社もあります。
 この駐車場に車を駐め、山門もないので、そのまま本堂に行きました。ここ善楽寺も、名前では善く楽でというお寺ですが、明治時代の廃仏毀釈では相当な苦難があったようで、再建されたのが昭和4年だそうです。しかし、その後も2ヶ寺で納経ができるなどの混迷期を経て、やっと平成6年1月1日から善楽寺が第三十番霊場となったそうです。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「それ境(きょう)は心(しん)に随いて変ず、心垢(けが)るれば則ち境濁る。心は境に遂(お)いて移る。境閑なれば則ち心朗らかなり。心境冥会(しんきょうみょうえ)して道徳玄存す。」(性霊集)というのがありますが、心と環境が整って、そこに万物の根源である道とその働きである徳が存在するのだという思いです。
 今現在も、第62番札所宝寿寺でいろいろともめているようですが、いつの時代もそのようなことがあったと知り、いやな気持ちになりました。

 先ずは、気を取り直して、本堂でお参りをしました。
 本堂は昭和4年に再建され、昭和58年に改築されたそうです。本堂の石段の左手には「仏足石」があり、さらにその左側にはお不動さまがまつられています。小さな石像ですが、火焔だけは赤く塗られ、他ではあまり見られないようです。
 さらにその左手に、大師堂があります。これは大正時代に建立されたそうで、地元では「厄除け大師」として知られていて、厄年にあたった方や交通安全などの祈願などにもお詣りがあるということです。
 ここで、私たちもいろいろな願いを込めて、お詣りをさせていただきました。
 大師堂の右隣に修行大師像があり、不思議なことに赤い前掛けと脚絆をしていました。脚絆を着けるのは修行中だからとわかるのですが、赤い前掛けはちょっと違和感があります。
 そういえば、ここ善楽寺は「子安地蔵堂」があり、寺伝では、弘法大師作といわれるやさしいお顔のお地蔵さまをまつっています。地区の人たちは安産や子宝祈願でもお詣りされるそうですから、そのつながりなのかもしれません。
 私たちも子育ては終わっているのですが、孫たちの健やかなる成長を願って、「子安地蔵堂」にもお詣りしました。
 本堂と大師堂の間にウメの古木があり、やっと2分咲きぐらいでした。これが満開に咲けば、白梅でもそうとう華やかになるでしょう。ここ四国は、北国からやって来たお遍路には、うらやましいほど穏やかな気候です。あちこちでウメだけでなく、サクラも咲き始めています。
 もし、また機会があって四国八十八ヵ所をお遍路するときがあれば、他の季節にしたいと思います。そうすれば、咲く花も違い、もっと南国の雰囲気を感じ取れるかもしれません。
 車に戻って時計をみると、8時48分でした。やはり、駐車場が境内地にあり、すぐお詣りできるところは、あまり時間もかからないようです。
 次は第31番札所竹林寺です。ナビで確認すると、8.5q、所要時間22分と出ました。

 第30番札所 百々山善楽寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 人多く たち集まれる 一ノ宮 昔も今も 栄えぬるかな



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.31

 第31番札所竹林寺へは、土佐神社楼門の右側を通り、そのまま県道251号線を進みます。途中から左折して県道44号線に入り、絶海池付近から案内板があり、県立牧野植物園の方面に進みます。
 山道に入ると左手に石段の上に仁王門が見えますが、そのまま進むと右側に牧野植物園の温室が見え、もう少し進むと、道路が広くなったところに駐車場があります。
 ここに車を駐め、客殿わきの細道を進むと、仁王門のところに出ます。ここには「五臺山」と金文字で書かれた扁額が掲げられていて、そこで一礼して入ります。その先は幅広い石畳になっていて、その先はそれと同じ幅の広い石段があります。
 ここで、ここ2〜3日、ときどき会う少女とまた会い、その可愛らしいお詣りについほほえみます。なぜお詣りをしているのかはわかりませんが、ふと、お大師さまの「始めを合(よ)くし終わりを淑(よ)くするのは、君子の人なり」(性霊集)というのを思い出し、これからの長い人生を笑顔ですごしてもらいたいと思いました。
 そこを上りきると、左手の奥に五重塔が見えます。これは鎌倉時代初期の様式を真似て昭和55年に建立されたそうで、高さが31.2m、総檜造りです。ここ高知県内では唯一の五重塔だそうです。
 この石段の境内地を左に行くと大師堂、右に行くと本堂で、本堂に向かって右側に納経所や拝受品受所があります。
 先ずは本堂でお詣りをしました。ご本尊さまはお文殊さまで、寺伝では行基が諸国を訪ね歩き、ここが中国の五台山に似ていることで自ら文殊菩薩を彫ったとあります。

 その由縁から、本堂を文殊堂といい、入母屋造で国の重要文化財に指定されているそうです。しかも、四国八十八ヵ所の霊場では唯一のお文殊さまのご本尊でもあります。
 次に向かったのは大師堂です。
 ここは本堂と違い、簡素でありながらも趣のある建物で、土佐2代藩主山内忠義が1644(寛永21)年に建立したものです。とくに目を引いたのは、階段のところにある「なで五鈷」です。そこには、「お大師さまとの結縁のお手綱・なで五鈷」とあり、その五鈷と手綱が結ばれていて、ずーっとお大師さまのお姿まで延びていました。
 このような実際になでて縁が結べるという、形がみえるのは、わかりやすくていいことだと思います。10年ほど前になりますが、ネパールで1m位の巨大な五鈷を造っている工房に行ったときに、なんとかそれを欲しいと思い、交渉したことがあります。五鈷本体はなんとか手に入れても、それを日本に運ぶのが大変だそうで、友人に見積もってもらうと、輸送料の方がそれ以上に高かったのを覚えています。
 ここでも、懇ろにお経を唱えながら、お詣りしました。そして、もちろんなで五鈷をなでながら、お大師さまとの縁を結びました。
 再び仁王門をくぐり、石段を下り、駐車場に戻ってから、すぐ近くにある高知県立牧野植物園に行きました。ここからちょっと上がったところに広い駐車場があり、もし、竹林寺の駐車場が満杯だったら、ここにも駐められるのではないかと思いました。
 この植物園にまわったのは、以前、ここの園内に古い遍路道があり、いまも保存されていると聞いたことがあり、また植物園も見てみたいと思ったからです。ここで特に印象的だったのは、牧野富太郎の自宅書斎を復元したところです。新聞紙にはさまれた標本がうずたかく積まれていて、本も何冊も重なっています。牧野富太郎の姿も、ちょっと生々しいぐらいに復元されていました。
 そして、たしかに古い遍路道があり、そこには石仏もあり、ちょうどヤブツバキが咲いていました。また、その付近にはアセビやニシキマンサク、そしてツワブキの実も着いていました。
 また来るというわけには行かないので、園内だけでなく温室も見学し、駐車場に戻って撮ってきた写真を確認すると、なぜかおかしいのです。いろいろと設定を変えてやってみたのですが、やはりおかしいのです。それで、ここからは別のカメラで撮ることにしました。
 ここ竹林寺に着いたのは午前9時12分、そこを出たのは9時46分、牧野植物園を出発したのは11時5分でした。次は第32番札所禅師峰寺です。ナビで確認すると、7q、所要時間18分と出ました。

 第31番札所 五台山竹林寺 (真言宗智山派) 本尊さま 文殊菩薩
 ご詠歌 南無文殊 三世の仏の 母ときく 我も子なれば 乳こそほしけれ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.32

 第32番札所禅師峰寺へは、県道376号線を進み、県道14号線を左折し、案内板を見てまた左折すると、そこから600mほど進むと左側に大きな霊園が見えます。そこを少し進み、右折するとすぐ駐車場があります。
 ここに着いたのが午前11時23分です。ここには十一面観音さのま石像が建ち、そこから石段があり、そこを上ります。長い石段の途中に仁王門があり、さらに石段が続きます。そこを上りきると、視界が急に開けて遠く右手のほうに浦戸湾まで見えます。
 ここは標高82mほどの峰山の頂上で、地元の人たちは「みねんじ」とか「みねでら」とも呼んでいるそうです。たしかに、土佐湾の海岸線がよく見えます。
 この場所に立つと、寺名に峰という字がつくのが理解できます。でも、なぜその前に「禅師」というのがつくのか、ちょっとわかりませんでしたが、ここは禅寺でもなさそうです。案内を見ると、真言宗豊山派ですし、ここでお大師さまが虚空蔵求聞持法の護摩を修法されたとき、この峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号したそうです。
 だから、それも禅師とはあまり関係なさそうですが、少し調べてみると、この禅師という諡号は、高徳な僧侶に対する尊称であり、禅僧に限ったものではないそうです。むしろ、古くは禅行と呼ばれる山林修行を行った僧に対する敬称として広く用いられていたようで、僧医として治療活動を行う者に対しても与えられたそうです。
 つまり、禅師だから禅宗ということではないみたいです。

 本堂の前には、立派な屋根のかかった大香炉があり、その先に石段があり、そのまま本堂に進めるようになっています。
 ご本尊さまは、お大師さまが自ら十一面観世音菩薩像を彫造し、「禅師峰寺」と名付けたと寺伝にあります。また、この左側には、奇っ怪な岩石を組み合わせたようなところがあり、その中に芭蕉の句碑「木がらしに岩吹き尖る杉間かな」が立っています。
 その向い側には古い宝形印塔があり、その下に真新しい小さなお地蔵さまがありました。これが、いかにも今風のもので、せっかくの雰囲気を壊しているかのように感じました。でも、誰かが奉納したものを無碍には断り切れなかったのかもしれないとも考えましたが、なかなか難しいのかもしれません。
 大師堂では、ここまでの札所でも、何度も出会った団体の方がお詣りしていたので、ゆっくりとここからの眺望を楽しみました。ここから見ると、浦戸大橋や桂浜の駐車場も見えます。せっかくここまで来たのだから、桂浜にもまわり、あの坂本竜馬の銅像も見てみたいと思いました。
 団体の方のお詣りが終わったので、次は私たちの番です。ここのお堂の前にも、屋根付きの大香炉があり、その右手の燭台にローソクを立てて線香を点します。そしてお詣りをするのですが、お堂の前が狭いのです。だから待っていたのですが、次の方がいないので、ゆっくりとお詣りできました。
 また、あの長い石段を下りましたが、仁王門のところで、しだれウメが咲いているのを見つけました。まだ小さな木ですし、禅師峰寺と彫られた石碑に隠れて、来るときには見つけられなかったようです。
 ここ土佐の高知は春爛漫のようです。この日も快晴で、雲もほとんどありません。お遍路をしていて、心配なのは天気です。毎日いい天気に恵まれて、気持ちよくお詣りできます。
 でも、やはり雨も必要です。お大師さまの言葉に、「雨足多なるもこれ一水なり」(吽字義)というのがありますが、やはり土砂降りの雨でも、静かに降る雨でも、その一滴一滴は同じ水で、生きていくためにも絶対に欠かすことのできないものです。
 車に戻ると、午前11時50分でした。そろそろお腹も空いてきました。次は桂浜に寄って、それから第33番札所雪蹊寺を目指します。

 第32番札所 八葉山禅師峰寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 静かなる わがみなもとの 禅師峰寺 浮かぶ心は 法の早船



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.33

 第33番札所雪蹊寺へ行く前に、桂浜に向かいました。ここまで来たのですが、ぜひあの懐に手を入れた姿の坂本竜馬の銅像を見てみたいと思いました。そこで、先ほど禅師峰寺から見た浦戸大橋を越えて、桂浜の駐車場に車を駐めました。
 そこから一気に銅像まで行き、そこから桂浜に下りて砂地を歩きました。そして、駐車場に戻る途中の「末広屋」でお昼ご飯を食べました。車に戻ったのは午後1時ちょうどですから、ここ桂浜には55分ほどいたことになります。
 県道34号線から県道278号線に入り、少し進むと右側にお寺が見え、その前に駐車場があります。小さなところですが、混んでいなかったので、スムーズに駐めることができました。
 そして、すぐの石柱のあるところの石段を9段ほど上ると境内地です。
 入ってすぐの右手に鐘撞き堂があり、その隣に大師堂、そして正面には本堂があります。その手前には手水場があり、先ずはここで手や口をそそぎました。それから本堂でお詣りをしました。

 不思議だったのは、ご詠歌に「高福寺」とあるのですが、ここは雪蹊寺、しかも南国なのに雪蹊とは、と考えていたのですが、寺伝を開くと、お大師さまによって開かれたときにはもちろん真言宗で、「高福寺」だったそうです。しかし、その後「慶運寺」と改め、廃寺となってしまったのを、戦国時代の土佐領主であった長宗我部元親が、自分の宗派である臨済宗から月峰和尚を招き初代住職にして開山されたそうです。だから、いわば中興の祖となります。
 さらに元親が亡くなり、四男の盛親が後を継ぎ長宗我部家の菩提寺としたときに、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改めたといいます。つまり、寺名にも歴史あり、ということです。
 先ずは本堂でお詣りをして、それから大師堂に行ってお詣りをしました。大師堂の前にはサクラの木があり、三分咲きほどでした。
 それでも、雪の中から出てきた私たちにとっては、一足早いサクラの開花です。しかも、お堂のすぐ近くには柑橘類もあり、種類まではわからなかったのですが、あまり見ることのない木です。
 そして、帰ろうとして石段を下りると、そこに「人生即遍路」と刻まれた山頭火の句の石碑があり、その側面に「禅師峰寺 7.5粁」とあり、手で指さすような図柄もありました。
 このような句碑には、qと書くより「粁」のほうが風情があります。米はメートルですから、それが千あればキロメートルということです。なるほど、漢字というのはとてもわかりやすいと思います。
 ちなみに、この山頭火の「人生即遍路」というのは、山頭火の遺品の中に「行李」があり、そのふたの裏側に墨で「人生即遍路 山頭火」と記されているそうです。
 ということは、この句碑は、ただの碑のようですが、山頭火にしてみればすべてが句だったのかもしれません。
 また、お大師さまにしても、「影は形に随って直く、響きは声に逐(したが)って応ず。」(十住心論)と言いますが、たしかに影はもとの形にそってそのまま現れるし、こだまだって声の大小そのままの響きでかえってきます。つまり、当たり前のことですが、その当たり前がほんとうは有り難いのではないかと思いながら、歩きました。
 車に戻ると、午後1時30分でした。次は第34番札所種間寺です。

 第33番札所 高福山雪蹊寺 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 旅の道 うえしも今は 高福寺 のちのたのしみ 有明の月



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.34

 第34番札所種間寺へは、県道278号線から県道279号線へ進み、そこから広域農道に入り、案内板にしたがって右折して再び県道279号線に入る、まもなく左手にお寺が見えてきます。そこを入ると、すぐに駐車場です。
 手前は大型バスの駐車場で、奥が普通車の駐車場です。だから、普通車の場合は少し戻るようにして修行大師像のわきを通って入ります。ここも山門などはなく、石柱が両側に立っていました。
 それが結界ですから、ここで山門などと同じように一礼して入りました。この種間寺という寺名も初めて聞くので調べてみると、「唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁年間である。大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。」とあり、なるほどと思いました。
 そういえば、お大師さまの言葉に「春の種を下さずんば秋の実いかに獲ん」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、まさに蒔かぬタネは生えずです。
 名の由来を考えながら、先ずは一番奥にある本堂に行き、お詣りをしました。

 本堂の中には、「さわり大黒」がお賽銭箱のわきに安座しており、いろんな方にさわられるためか、とくに足の辺りが黒くなっていました。これは、おそらく足腰が善くなりますようにとの願いかもしれません。
 この本堂は、昭和45年に台風で被害を受け、鉄筋コンクリートで再建されたそうで、見るからに丈夫そうな建物です。  本堂の次は、やはり大師堂にお詣りです。大師堂は少し戻った本坊の隣にあり、こちらは木造の建物で、風情があります。左側に風よけのついた燭台があり、お堂の手前に蓮形の石の香炉があります。
 ここには、ちゃんと鰐口が下げられているので、それを鳴らしてからお詣りをしました。ちょうど先ほどまで一人でお詣りをしていた方も納経所に行かれたので、私たち以外は誰もいません。ここでも、ゆっくりとお詣りできました。
 そして、そこから少し戻ると、向かって左奥に「子安観音堂」があり、ここには青銅製の左手に子どもをのせた姿をしています。
 そういえば、ここ種間寺には、妊婦さんが柄杓をもっていくと、お寺でその底を抜いて安産祈願をして、それをお札とともにお授けするそうです。その底の抜けた柄杓を床の間に飾っておいて、無事安産のときにはそれをお寺に持っていき納めるという風習があるそうです。
 だから、ここは「安産の薬師さん」としても有名だそうです。でも、柄杓の底を抜くという風習も珍しいのではないかと思います。
 帰り際に、入口の石柱のわきを見ると、歩いているような修行大師像が建っていました。ほんとうに、歩いているかのようです。おそらく、お大師さまは、いつもこのように皆といっしょに歩きながら護っていてくださるということなのかもしれません。
 車に戻って時計をみると、午後2時3分でした。次は第35番札所青竜寺ですが、今日は土曜日で泊まるところを確保するのが大変だと思い、少し前に「かんぽの宿伊野」を予約して起きました。
 なので、先に第36番札所清龍寺からお詣りした方が良さそうです。そこで、ちょっと順逆になりますが、清龍寺に行くことにしました。ナビで確認すると、13.6q、所要時間は25分だそうです。

 第34番札所 本尾山種間寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 世の中に まける五穀の たねまでら 深き如来の 大悲なりけり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.35

 第36番札所青龍寺へは、県道23号線と県道47号線、つまり黒潮ラインを通って行きます。近くまで行くと案内板があり、マリンレストラン酔竜のところを右折すると、極端に狭い道になります。
 その道の突き当たりを左折し、山道に入っていくとお寺の前に駐車場があります。ここは20台ぐらいは駐められますが、近くに有料駐車場もあるそうです。
 この日は比較的空いていたので、お寺の駐車場に駐め、そこを左折すると、すぐに石段があります。その入口にはジンチョウゲがたくさん咲いていて、白花もありました。
 その石段の途中に仁王門があり、そのすぐ左手には平成4年に建立された三重塔があります。仁王門をくぐると、さらに石段が続き、左側には瀧もあります。その長い石段の途中にはここにもジンチョウゲが花盛りで、大きな株立ちになっていました。
 誰が数えたかわかりませんが、下から171段あるといいますが、それを上りきったところに本堂がありました。その本堂の柱には、「四国第三十六番 本堂」と「御本尊 波切不動尊」の青地で書かれた板が掛けられていました。
 その右手にはお不動さまの石像が建てられ、不動剣だけが青銅製でした。先ずは、本堂でお詣りです。

 そもそも、ここが独鈷山というのは、お大師さまが中国から独鈷を投げたのをいまの高野山の奥の院の老松にあったということから、この地を巡錫しているときにここに堂宇を建て、寺名を恵果阿闍梨のいた青龍寺の名をいただき、山号を遙か異国の地から放った「独鈷」にちなんでいるそうです。
 そういえば、お大師さまの言葉に「遮那は中央に坐(いま)す。遮那は阿誰(たれ)の号ぞ、本是れ我が心王なり」(性霊集)とあり、この遮那とは大日如来のことです。大日如来は曼荼羅の中央に位置し、恵果阿闍梨による伝法灌頂のときに、空海はそこに自分の投げた華が落ちたそうです。そのような由来なども、ここで思い出しました。
 そのときからまつられている石造の不動明王像は、今でも境内から南へ約600mほどのところにある奥の院にあり、昔は女人禁制だったそうです。
 その本堂左側には、大師堂があります。ここ数年前に建てられたような真新しいお堂です。そういえば、案内書には、古い大師堂の写真が載っていましたから、ほんとうに最近のようです。
 そこでお詣りをして、ゆっくりと石段を下りながら、よくここまで上って来れたという気持ちになります。上から見渡すと、杉木立のなかにもジンチョウゲの株がたくさんありますが、やはり花付きのよいのは、階段脇で少し日当たりもあるところです。
 もともとジンチョウゲは、中国南部に自生していたのを日本に持ち込んだそうですが、そのとき雄株だけだったそうで、花は咲いても実はなりません。だから増やすには挿し木しかないわけで、これだけ増やすためには、長い年月がかかったと思われます。しかも、寒さに弱いので、ここらあたりは一番の適地です。香りもいいので、この長い石段の上り下りには、とても慰められます。
 納経所は、駐車場近くにあり、帰りにご朱印や御影などをいただきました。
 駐車場に戻って時間を確認すると、午後3時ちょうどです。次は第35番札所清滝寺です。距離にして13.9q、時間にして27分かかりそうです。

 第36番札所 独鈷山青龍寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 波切不動明王
 ご詠歌 わずかなる 泉にすめる 青龍は 仏法守護の 誓いとぞきく



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.36

 第35番札所清滝寺へは、青龍寺へ来たときの県道47号線を戻り、県道39号線のところを左折します。そしてしばらく走って土佐バイパスのところを左折し、次に県道39号線で右折し、あとは案内板などを見ながら高知自動車道の下を抜けて、山道に入っていきます。
 その辺りから急に道幅も狭くなりますので、対向車に気をつけながら走りました。もう、これ以上狭くなったら車がすってしまうかもしれないと思って右折したら、そこが駐車場でした。おそらく、ここまでは普通車か、慣れたジャンボタクシーかしか入れないと思います。駐車場も10台ぐらいしか駐められそうもありません。
 でも、この日は1台駐まっていただけで、すぐに駐めることができました。時間は、午後3時35分です。ここからでは、次の第37番札所岩本寺までは50qほどあるので、今日はここで終わりです。だから、ゆっくりお詣りできます。
 駐車場のあるところから、左手側に石垣があり、その中央に厄除け薬師如来立像が立っていて、台座を含めると高さ15mほどあるそうです。これは昭和8年にある製紙業者が寄贈したもので、いわばこのお寺のシンボルのようでした。
 紙といえば、お大師さまの「弘法は筆を選ばず」というのが有名ですが、実は「良工は先ず其の刀を利くし、能書は必ず好筆を用う。刻ろう、用に随って刀を改め、臨池、字に遂って筆を変ず」(性霊集)とあり、字に応じて使う筆を変えていたことがわかります。
 厄除け薬師如来立像の両側に石段があり、左手は大師堂に、右側は本堂に上がることができます。そこで、先ずは右側から上り本堂にお詣りしました。

 本堂には、国の重要文化財にも指定されている薬師如来立像がまつられています。
 ここは醫王山の中腹、標高400mほどのところにあるので山号はわかりますが、正式には醫王山鏡池院清滝寺というそうです。もともとの開山時は、「影山密院繹木寺」という寺名だったそうですが、お大師さまが本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をしたそうです。その満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという由来から、現在のような名に改めたそうです。
 大師堂には、本堂からも行けるので、そのまま左側に行き、お詣りしました。
 そして、その石段を下り、改めて石段の下から大師堂を眺めると、右には白梅が、そして左には桜が咲いていて、とてもきれいでした。その桜の下には弘法大師像があり、さらに白梅の下には平和観音像が立っていました。どうも、真ん中の厄除け薬師如来立像が目立ち過ぎて、他のお姿が目に付かないようです。
 そこで、もう一度石段の下から見上げながらお詣りをすると、今日一日の締めくくりができたように思いました。そして、その反対側の土佐市内を眺めると、遠くまで一望することができます。
 そういえば、仁王門に気づかなかったと思って確認したら、途中の遍路道にあるそうです。しかも車道から離れているので、歩かなければならないようです。もう、午後4時近いので、ここから泊まる予定の「かんぽの宿伊野」に向かうことにしました。
 ナビでみると、ここから7.1q、所要時間13分だそうです。県道39号線を経由して、仁淀川沿いの「かんぽの宿伊野」に着いたのは午後4時13分でした。
 今日も無事にお遍路ができ、今日の走行距離は95.9qでした。車から必要なものを出したり、フロントでチェックインをしたりして、部屋に落ち着いたのは4時30分です。
 しかも、お遍路パックではなく、今日は豪華な「伊勢海老プラン」です。しかもいつもより早く着いたので、しっかりと休んで、明日からのお遍路に備えました。

 第35番札所 医王山清滝寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 厄除薬師如来
 ご詠歌 澄む水を 汲むは心の 清瀧寺 波の花散る 岩の羽衣



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.37

 今日は3月5日、日曜日です。おそらく札所の少しは混むかも知れないと思いながら、ゆっくりと午前8時にホテルを出発しました。
 目指すは第37番札所番岩本寺です。ここまでは52.6q、時間にして52分だそうで、高知自動車道を経由して進みます。途中で美味しそうなイチゴがあったので買ったりしたので、着いたのが午前9時5分でした。
 ここまで、おそらく海岸端を通るのかと思っていたのですが、須崎市の辺りは海岸がよく見えましたが、すぐに山になり、そのまま岩本寺に着きました。ここは高知県高岡郡四万十町茂串町というところで、国道381号線を左折し、細い道を入った突き当たりです。
 そして駐車場は、そこを右折してすぐのところにあります。
 ここは門前町のようになっていて、お土産屋やお菓子屋もあり、その間を通って行くと仁王門があります。その前に石段があり、その両側と手すりの下に子どもたちの描いたひなまつりの絵が34〜5枚、飾ってありました。これは板に描いたもので、だから外に飾ってもおけるようです。
 それを見ながら仁王門をくぐり、その奥の右側にある本堂にお詣りしました。

 この本堂は、昭和53年に新築された際に、全国から公募した花鳥風月から人間曼荼羅まで、575枚の絵が内陣の格天井画として彩りを添えています。これは外からお詣りしても、明るいので見えました。そしてその天井近くに、不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩と書かれた奉納額が納められていました。
 そういえば、ここはお大師さまが一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置したといわれています。だから、ご本尊さまも五体あるわけです。
 そういえば、先ほど通ってきた仁王門に注連縄が掛けられていました。つまり、もともとはここも神仏一体のお寺で、明治期には廃仏毀釈の影響をだいぶ受けたようです。
 次に仁王門を入って右側にある大師堂に行きました。このお堂は、約200年ほど前のもので、境内では最も古いそうです。ここにもなで五鈷がお堂の階段の手前にあり、やはりお堂の中のお大師さままで縁結びの布が伸びていました。それに触れながら、しっかりとお詣りをさせていただきました。
 そして、大師堂の右手前に丸い聖天堂があり、その周りに大聖歓喜自在天と書かれた幟旗がたくさん立てられていました。納経所は、入って右側にあり、トイレもその隣の建物のなかにあり、靴を脱いで入るようになっていました。
 仁王門を出て、駐車場に戻ろうと思っていたら、そのかどに「松鶴堂」というお菓子屋さんがありました。そして、外にあるメニューに、お抹茶付きと書いてあったので、入ってみることにしました。
 ここの岩本寺銘菓は「小室の浜」ということで、それをいただき、さらに後から食べるために別のお菓子も買いました。私はまったくの下戸ですが、お大師さまの言葉のなかに、「痛狂(つうきょう)は酔はざるを笑ひ、酷睡(こくすい)は覚者(かくしゃ)を嘲(あざ)ける。」(般若心経秘鍵)というのがあり、どうしても酒に強う人は酒を呑まない人を笑ったり、あるいは目覚めのよい人は寝起きの悪い人を小馬鹿にしたりします。しかし、人はそれぞれ十人十色で、違って当たり前です。それが個性でもあります。
 むしろ「人の振り見て我が振り直せ」の心があれば、他人をあざ笑うことはできないし、むしろみっともないことです。ここで時計をみると、午前9時40分でした。
 ここから駐車場までは1分もかかりません。すぐにナビに次の第38番札所金剛福寺の電話番号を入れて、出発しました。ここから四万十川までは遠くないということで、もし風景のよいところでもあれば寄ってみたいと思いながら走らせました。

 第37番札所 藤井山岩本寺 (真言宗智山派) 本尊さま 不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩
 ご詠歌 六つのちり 五つの社 あらわして ふかき仁井田の 神のたのしみ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.38

 第38番札所金剛福寺へは、国道56号線を足摺岬の方向に進みます。そして、約1時間ほど走った四万十市竹島のところに駐車場があり、そこから四万十川の堤防に上れます。そこからの風景は、いかにもゆったりとしていて、魚つりの舟も見えます。そして四万十大橋まで行くと、橋の名前のところにトンボの絵が描いてありました。
 橋の欄干のところどころにもトンボの絵があり、やはり、ここはトンボ王国だと思いました。今回はまわれなかったのですが、四万十市具同というところに「トンボ王国」があり、そのなかの「トンボ館」には「世界のトンボ標本約1000種3000点は、単一施設の常設展示として世界一の数です。約200種に及ぶ、日本産種ほぼ全種の標本を展示しています。」と書いてありました。
 四万十大橋を渡り、対岸を走ると、まもなく四万十川から離れて、また山のなかに入りますが、少しすると海岸端の道になりました。そしてそのまま足摺岬を目指して車を走らせました。金剛福寺に着いたのは午前11時53分でした。途中休憩しましたが、岩本寺からは2時間10分かかったことになります。
 駐車場は道路の右側にあり、そこに駐めて少し戻ると、すぐに仁王門があります。ここには嵯峨天皇ご宸筆の「補陀洛東門」と彫られた扁額が掲げられています。
 その手前に9段の石段があり、そこを上って仁王門で一礼し、そこを進むと、またまた11段の石段があり、そこを上ると諸堂があります。先ず左側に「大師亀」があり、さまざまな由来が書いてありました。
 そして正面には本堂があります。

 ここは四国の最南端にあり、足摺岬を見下ろす中腹に位置し、境内は120,000平方メートルあるそうです。そして、ここは昔から補陀落浄土への入口とも考えられていたそうです。このお寺を開いたのは、お大師さま49歳のころといわれています。
 本堂には、「補陀落山」という扁額が掲げられていました。大師堂は、向かって左手の奥にあり、真新しいお堂でした。
 この他にも、愛染堂、不動堂、弁天堂、そして多宝塔もあり、それらが池の周りに配され、さすが由緒のあるお寺です。「金剛福寺」という名の由来は、「金剛」とはお大師さまが唐から帰朝する際に日本に向けて五鈷杵、つまり金剛杵を投げたという由来に基づき、「福」は観音経の「福聚海無量」に由来しているといいます。
 そういえば、ここの本堂のご本尊さまは、三面千手観世音菩薩です。菩薩というのは、お大師さまの言葉によれば、「菩薩の用心は皆、慈悲を以て本(もとい)とし、利他を以て先(せん)とす」(秘蔵宝鑰)とありますが、苦を抜き楽を与えたり、自己中心の考えを捨てまず人のためになることをするということです。つまりは、他人を思いやる心で、すぐ行動に移す気構えでもあります。
 もちろん、なかなかできることではありませんが、少しでもその心に近づこうとすることが大切です。
 ここのお詣りをすませ、時計をみると、12時20分です。そろそろ昼食をと考えながら車に向かうと、その途中に「レストランつばき」がありました。そういえば、先ほどの金剛福寺の境内にもツバキが咲いていたので、花の縁でここにしました。とても川鰻が美味しかったです。
 せっかくここまで来たので、腹ごなしに足摺岬灯台や海岸端を散歩し、アコウやヤブツバキなども見ました。再び、車に戻り、午後1時13分にここを出発しました。
 次は第39番札所延光寺です。ナビをみると、62.5q、所要時間1時間16分とありました。

 第38番札所 蹉だ山金剛福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 三面千手観音
 ご詠歌 ふだらくや ここはみさきの 船の棹 とるもすつるも 法の蹉だ山



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.39

 第39番札所延光寺は、宿毛市平田町中山にあります。ですから、今来た道をまた戻るので、ここまで来た記念に白山洞門と松尾のアコウを見てから、行くことにしました。今日のお遍路は、札所の距離があり、第37番札所から第40番札所まで、つまり4ヶ寺しかまわれません。時間をみると、それらを見てからでも、なんとか午後5時まで第40番札所まで行けそうだと判断しました。もしダメだったら、泊まるところが第40番札所の近くなので、明朝にお詣りしてもいいわけです。
 行くと決めると、いろいろと言い訳しながらも白山洞門と松尾のアコウにも行きました。白山洞門では、四国八十八ヵ所お遍路に茶杓を削ったり、松尾のアコウの巨木に圧倒されたりしました。ここを出発したのは、午後2時14分です。つまり、約1時間ほどここら辺にいたことになります。
 そして再びお遍路のコースにもどり、先ずは先ほどの四万十市まで行き、そこから国道56号線を走ります。そして案内板のある平田町戸内の信号を右折し山なりに進むと、右側に駐車場があります。そこに車を駐め歩くと、すぐ仁王門があります。
 でも、仁王門から入ったところに大きなクレーン車があり、作業をしていました。それに気をつけながら歩くと、右手に「大赤亀の石像」がありました。ここの山号の由来でもありますが、赤いというよりは喉のところに赤い布がぶら下がっているだけでした。その亀の背に鐘が乗っていて、それがとても珍しいそうです。
 本堂は、まっすぐ手前にある大師堂を右に曲がったところにあります。

 ここは高知県の最後の霊場で、西南端にあります。まさに、「修行の道場」の最後でもあります。
 お大師さまの言葉に、「鳴鐘を掩耳(えんじ)に偸(ぬす)む」(十住心論)というのがありますが、この逸話に、月夜の晩に泥棒がすばらしい音色の釣り鐘を盗み、密かに運んでいると、遠くから鐘の音が聞こえてくると、たった今盗み出した鐘も共鳴して鳴り出したので、泥棒は思わず耳をふさいでしまったということです。つまり、すばらしい音色を聞くことはできなかったということで、何のための鐘なのかという疑問を出しています。
 ちなみに、ここ延光寺の鐘は、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれており、国の重要文化財に指定されています。総高33.6cm、口径23cmだそうですから、そんなに大きな鐘ではないようです。
 本堂をお詣りし、次に大師堂に行くと、左手前に屋根付きの石の大香炉があり、そこで線香を点して、お堂に行きました。鰐口の綱には、可愛らしいミニチュアの草履が結ばれ、おそらく足腰が丈夫になりますようにと、お詣りの方が着けていかれたようです。
 そこで、私たちも足腰が丈夫だけでなく、かすかな鐘の音も聞こえるようにと願いながら、お詣りをしました。そういえば、ここのご詠歌も、「諸病悉徐の 願こめて」とあります。
 それから納経所に行き、ご朱印や御影をいただき、車に戻りました。帰りに仁王門から出たときも、まだクレーン車は動いていました。
 時計をみると、午後3時45分です。ナビで確認すると、ここから次の第40番札所観自在寺までは、28.7q、所要時間39分とありました。予定通りに行ければ、ご朱印をいただく十分な時間がありそうです。

 第39番札所 赤亀山延光寺 (真言宗智山派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 南無薬師 諸病悉徐の 願こめて 詣る我が身を 助けましませ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.40

 第40番札所観自在寺からは、愛媛県に入り、「菩提の道場」となります。ここは宇和郡愛南町御荘平城で、ここへは国道56号線経由で来ます。駐車場は、大型車などは平城小学校前の駐車場に駐め、普通車は仁王門の右下まで入れました。
 ここには20台前後駐めることができそうで、私たちもそこに駐めました。時間は午後4時20分です。ほぼ、予定通りに着きました。
 さっそく仁王門の手前の御影石の石段を上り、一礼して通り抜け、まっすぐが本堂です。仁王門には、「平城山」という扁額が掲げられ、本堂は昭和39年に建て替えられたもので、鉄筋コンクリートの入母屋造です。
 しかも、全国の信徒の浄財だけで再建されたそうで、多くの人たちの心がこもっています。そういえば、お大師さまの言葉に「一塵、大嶽を崇(たこ)うし、一滴、広海を深うす」(性霊集)というのがありますが、一塵一滴こそ、有り難いと思います。それだけの数が集まったことが大切だと思います。もっと簡単にいえば、塵も積もれば山となります。
 たった数人の有力者よりも、幾十万もの方々の力こそ大きな力になります。今の時代、なかなか難しくなってはきていますが、だからこそ、お大師さまの言葉に訴えかけてくる力を感じます。

 本堂でお詣りをして、それからその左手にある大師堂に行きました。
 この大師堂も、平成5年に再建されたもので、総檜の宝形造りで、回廊では四国八十八ヵ所のお砂踏もできるようになっていました。でも、実際に四国八十八ヵ所を今現在にまわっているので、ここでわざわざお砂踏みをすることもないので、しませんでしたが、何回かに分けてお遍路をする場合などは、いいかもしれません。
 ここ大師堂のお賽銭箱の上に、大きな五鈷がありましたが、なかのお大師さまと布で結ばれてはいませんでした。ここは純粋に撫でるだけの「撫で五鈷」のようです。
 これを撫でながら、お大師さまとの縁を感じました。そして、納経所でご朱印と御影をいただき、それから手水場に行き、その日の金剛杖の汚れを落とすように洗いました。これはその日の最後にいつもすることで、やはり金剛杖は、お大師さまですから、今日もお世話になりましたという感謝の気持ちを込めてです。
 駐車場に戻ったのが午後4時42分でした。急いで駆け込んでいったお遍路さんもいましたが、私たちはちょうど余裕ある時間で締めくくることができました。
 今夜は、お昼に直接電話をして予約した「ホテルサンパール」に泊まります。これもお遍路さん応援プランだそうです。場所は同じ南宇和郡愛南町ですが、ここから1.5q、約5分もかからないそうです。
 実際に着いたのは午後4時50分でしたが、おそらく夕方のラッシュで少し混んだからです。このホテルは、温泉もあり、僧都川の河口と公園に囲まれているということでしたが、国道56号線沿いということもあり、夜も少々ざわついていたようです。
 今日3月5日の走行距離は233.5qでした。自宅からの総走行距離は、1,592.7qです。今日は高知県の足摺岬を通り、愛媛県の南宇和郡愛南町まで来たことになります。

 第40番札所 平城山観自在寺 (真言宗大覚寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 心願や 自在の春に 花咲きて 浮世のがれて 住むやけだもの



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.41

 3月6日も快晴で、ホテルを午前7時15分に出ました。今日最初の札所は、第41番札所龍光寺で愛媛県宇和島市三間町戸雁にあります。ナビでみると、49q、所要時間50分ということでした。
 先ずはそこを目指して出発です。
 国道56号線を進み、途中から宇和島道路を経由しましたが、この区間は無料でした。三間で下りて、県道31号線を進むと案内板があり、道の脇に鳥居がありました。
 この鳥居は、その前後だけ昔の道のようで、その右側を通ってさらに進みますが、右に曲がってからの細い道はすれすれでした。そして、その先にお寺の駐車場があり、12〜3台ぐらいは駐められそうでした。
 ここに着いたのは、午前8時10分です。やはり高速道路を通ると、時間的にはだいぶ短縮できます。これができる前の案内書には、1時間30分ほどかかると書かれていましたから、それから考えると30分ほど短縮されたようです。
 そこに車を駐め、細い参道を歩いて行くと、左手に石段があり、その先に「天下太平」と「国土安穏」と彫られた石柱が両側に立っていて、そこに注連縄が張ってありました。その石段を上ると、その先に長い石段があり、そこは稲荷神社でした。
 そういえば、お大師さまが東寺の五重塔を建てるときに伏見稲荷の神域の山からその用材を切り出したところ稲荷神の怒りで建設が中止に追い込まれ、自らその非礼を詫びで東寺の境内に伏見稲荷のご分霊を祀ったこともあり、縁を感じます。
 この地においても、お大師さまが訪ねたときに、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げたそうで、お大師さまはこの老翁こそが五穀大明神の化身ではないかと思い、稲荷明神像を彫造しお堂を建てて安置したそうです。
 石段の左手には本堂があり、右手には大師堂があります。先ずは本堂にお詣りしました。

 ここも、明治の廃仏毀釈の影響で、もともとの本堂が「稲荷社」となり、その左下に新たに本堂を建て、お稲荷さんの本地仏であった十一面観世音菩薩像をご本尊としてまつっています。だから、この本堂の扁額は、金文字で「十一面観世音」と書かれていました。
 本堂の左下には手水場があり、そこで手や口をそそいでから、お詣りをしました。そして、次に右手にある大師堂に行き、ここでも作法通りにお詣りをしました。
 この近くには、「南予七福神」があり、ここは恵比寿尊で、ご利益として「商売繁盛・大漁・豊作」と案内板には書かれていました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「道を聞いて動かずんば、千里いづくんか見ん」(性霊集)というのがありますが、たしかにただお詣りだけしていてもいいわけではありません。自らもその道を進んでいかなければ、千里どころか一里にもとどきません。ここ四国八十八ヵ所でも同じで、案内書が何冊あっても、動き出さなければ満願は達成できませんし、もし少しぐらいわからないところがあったとしても、進んでいるうちにわかってきます。
 そう思って振り返ってみると、徳島県の「発心、つまりは菩提心を発する道場」、そして高知県の「修行の道場」とまわってきて、今は愛媛県の「菩提、つまりは自己の執着を離れ、他人を思いやる慈悲の心を持つための道場」まで来ました。ある意味、道場の半分を超えたとも考えることができます。
 ここの駐車場に戻ったのが午前8時30分でした。次は第42番札所仏木寺です。ここは同じ宇和島市内で、3.4q、5分ほどだそうです。

 第41番札所 稲荷山龍光寺 (真言宗御室派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 この神は 三国流布の 密教を 守り給わむ 誓いとぞ聞く



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.42

 第42番札所仏木寺へは、県道31号線を松山方面に進み、「仏木寺 右50m先」という案内板のところで右折します。
 駐車場はその案内板のある道路の右側にあり、バスなども駐めることのできる大きなところです。そこに車を駐め、その先の仁王門から入ります。
 仁王門は、新しいような感じで、その付近も最近整備されたような白壁の塀があり、そこをくぐると、目の前にかわいらしい大師石像が立っています。そこの石段を上ると、珍しい萱葺屋根の鐘楼堂があり、元禄年間(1688〜1704)に再建されたのだそうです。
 そして、そこから左に回り込むと、本堂があり、その左側に大師堂があります。
 先ずは本堂にお詣りをしようと右側を見ると、これもかわいらしい道祖神がまつられていました。おそらく、最近立てられたものらしく、「道祖神尊」と石に彫られていました。
 もともと道祖神は路傍の神さまですが、よく村の境界付近や道のつじなどに祀られていますが、最近では子孫繁栄や旅の安全、さらには良縁成就なども祈願されるようです。やはり願いも、時により場所により、変わってくるようです。
 先ずは本堂に行ってお詣りしました。

 ご本尊は大日如来像で、鎌倉時代の作で、大きさが1.2mほどの寄せ木造り、県の文化財に指定されています。背面には、お大師さま作の小像が胎内に納められている旨の墨書があるそうですが、当然ながら前からは見えませんでした。
 ここはご詠歌にもあるように、牛や馬などの家畜の安全を祈ったところで、すべてが即身に成仏できるというのが真言宗の考え方です。お大師さまの言葉に、「異生羝羊心」という悟りへ至る十段階の一番最初にあたるものですが、ここに「凡夫狂酔して吾が非を悟らず、但し淫食を念ずること彼の羝羊の如し」(秘蔵宝鑰)とあります。つまり、迷うとか悟るとかの以前のことで、雄羊のようにただ性と食だけしか思っていないということです。
 でも、それはあくまで最初の段階で、それを自覚することから最後には第十段階の「秘密荘厳心」に至るということです。
 そのような言葉を思い出しながら、本堂、そして大師堂でお詣りをしました。ここは高台にあり、周りを樹々に囲まれているので、とても静かです。
 ちょっと気になったのは、山号の「一か山」で、案内書には「か」は「王ヘンに果」と書いてありますが、パソコンでは出てきません。そこで白川著『字統』で調べてみると、これにも出てきません。四国八十八ヶ所霊場会のホームページには、「「カ」は王偏に「果」」とあり、その説明はありませんでした。
 先ほど車を駐めた駐車場に戻り、次の第43番札所明石寺に行こうと、再び県道31号線を松山方面に進みました。するとその途中の峠のところで「全面通行止め」の標識があり、誘導係に聞くと、引き返して、三間のインターから松山自動車道に入ったほうがいいということでした。
 もう少し手前に「全面通行止め」の標識でもあれば、ここまで来なかったのにと思いながら、第42番札所仏木寺の前を通り、第41番札所龍光寺の近くを通り、朝来た三間のインターから松山自動車道に入りました。ここから13.6q、18分とナビには出ていました。

 第42番札所 一か山仏木寺 (真言宗御室派) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 草も木も 仏になれる 仏木寺 なお頼もしき 鬼畜人天



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.43

 第43番札所明石寺は、愛媛県西予市宇和町明石にあり、寺名の明石寺(めいせきじ)は、本来は「あげいしじ」と読むそうですが、その由来は、「昔、女神が願をかけ深夜に大石を運んでいるうちに夜が明け、あわてて消え去ったそう」で、そこからきているようです。
 ここへは、三間のインターから松山自動車道に入り、西予宇和インターでおり、県道29号線から、県道237号線に右折して入り、松山自動車道の下をくぐり抜けてから左折し、再び松山自動車道の下を抜けるとほどなくして駐車場に着きます。
 ここには常楽苑という売店などもあり、ここに車を駐めて歩きます。時間は9時25分でした。
 すぐ左手に石段があり、その先にまた石段があり、仁王門があります。その左手前に手水場があり、ここで手や口を清めてから仁王門で一礼し、入りました。
 その仁王門の先には、また石段があり、それを上りきると、真正面に本堂があります。

 本堂は、明治時代に多くの信仰者の浄財によって建てられたもので、屋根は唐破風造りの瓦屋根で、どっしりとした重みがあります。その回廊の天井絵には、大黒さまも恵比寿さまも、お多福も鬼も、みないっしょにさまざまな花の絵のなかの一コマとして描かれていました。
 これが神仏習合の良さで、みんなが仲良くいっしょに暮らしているかのように見えます。そういえば、お大師さまは、「物の情(こころ)一つならず、飛沈性異なり、是の故に聖者人を駆(か)るに、教網三種あり、所謂、釈・李・孔なり」(三教指帰)と書いています。つまり、いろいろなものはその性情が違い、鳥は空を飛ぶし、魚は水に沈んでいる、だから聖人が人を導くのにも三種の教えがあります。それが釈は仏教、李は道教、孔は儒教ということですという意味になります。
 そして、三種の教えを説きながら、24歳の空海は自分にとっては仏教が優れていると思うといいます。これが大学を中退し、山野を駆け巡りながらたどり着いた結論だったのかもしれません。
 大師堂は、本堂の左側にあり、その間に鐘撞き堂があります。大師堂の右側には仏足石があり、さらにその左手には夫婦杉があります。
 その夫婦杉が大きいこともあり、大師堂はなんとなくこじんまりとした風情です。仏足石の右側にある燭台にローソクを点て、線香をお堂の手前の蓮形の石の香炉に点てました。だれもいなかったので、少し声を高くしてお経を唱えました。
 おそらく、この山奥のお寺も、巡礼の多いときには混雑するのでしょう。この夫婦杉も、お遍路さんのいろいろな声を聞いてきたに違いありません。
 また、石段を下り、納経所に行くときに、再びお堂を見ると、高い石垣で護られているかのように見えました。この様子から、昔はそうとう立派なお堂がいくつもあったのではないかと想いました。
 車に戻り、時間を確認すると午前9時48分でした。次は第44番札所大寳寺です。ナビでは76.8q、所要時間1時間31分と出ました。

 第43番札所 源光山明石寺 (天台寺門派) 本尊さま 千手観世音
 ご詠歌 聞くならく 千手の誓い ふしぎには 大盤石も かろくあげ石



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.44

 第44番札所大寳寺へは、先ずは松山自動車道を走り、内子インターで下りて国道56号線を走ります。そして国道379号線へと進み、その先の国道380号線を経由します。ところが、この国道は曲がりくねっているだけでなく、とても狭く、とくに畑峠(はたのとう)といわれる遍路道の分岐点あたりは難所で、まさに峠越えが続きます。
 ここを歩けば、約20時間を越えるそうで、昔から「遍路ころがし」といわれているそうです。しかも、ここでちょうど四国霊場八十八ヵ所の半分に当たるので、「中札所」ともいわれているそうです。
 それでも、久万高原町までくると道幅も広くなり、やっとホッとして運転できました。ここからだと、大寳寺までは3qほどです。
 近づくと、赤い小さな橋を過ぎると、その車道のわきに昔ながらの遍路道があり、さらにその先に進むと、道幅が広がってはいますが切り返しをしないと曲がれないような急カーブがあり、その先に駐車場がありました。ここには、20台前後は駐められそうですが、ここまで来るのがたいへんです。
 ここに着いたのが午前11時20分でした。第43番札所明石寺から、1時間30分以上かかったことになります。
 そこに車を駐め、少し歩くと、左手に石段が見え、それを40段ほど上ると本堂でした。ここは明治7年に3度目の全焼となり、その再建に大変だったようです。

 この本堂が再建されたのは大正14年で、銅板葺の堂々としたお堂です。そして、その左手に鐘撞き堂があり、その先に大師堂がありました。
 このお堂も昭和59年に総檜造りで建てられたそうで、屋根も本堂と同じ銅板葺です。ここの回廊は広く、お堂の左側から階段を上るようになっていて、「御影堂」という金文字の扁額が掲げられていました。
 ここで、あの曲がりくねった峠道を思い出しながら、よくぞここまで来れたという気持ちで、ゆっくりとお詣りしました。
 終わって、お堂の回廊を歩くと、銅板の「宝大黒天」と書かれたものがあり、でも閉まっているので、なかを見ることはできませんでした。
 そして、本堂の前の石段を下りながら、その途中に大きな木があり、ところどころ焼け焦げていました。それでも、しっかりと枝を伸ばしているところをみると、まだまだ元気なようです。  しかも、その根元のところには、子育て地蔵さまなども祀られていて、お詣りできるようにはしご段も設置されていました。でも、苔むして滑りそうなので、途中から引き返しました。
 お大師さまの言葉に、「五大に皆響き有り、十界に言語を具す。六塵悉く文字(もんじ)なり、法身は是れ実相なり。」(声字実相義)というのがありますが、つまりは、自然界の響きは宇宙の声であり、すべてが仏さまの言葉であるというような意味です。この焼け焦げた大木さえも、いろいろなことを私たちに伝えようとしているように思えました。
 そう考えれば、常に自然の声に耳を澄ませ、それらを日々生かしていくことも仏の教えです。すべてが仏のメッセージかもしれません。
 駐車場まで歩き、車に乗り込み、ナビで次の第45番札所岩屋寺を入力すると、10.6q、所要時間17分と出ました。ここを出発したのは、午前11時40分です。

 第44番札所 菅生山大寳寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音
 ご詠歌 今の世は 大悲のめぐみ 菅生山 ついには弥陀の 誓いをぞまつ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.45

 第45番札所岩屋寺へは、県道12号線を経由して行きます。途中「高原ゴルフ倶楽部」の間を通ったりして、山間の静かな道を走ります。竹谷公民館のところに案内板があり、右折するとすぐに赤い橋を渡り、坂道を進むと、駐車場があります。
 ここは有料で、300円を払い、車を駐め、ここから歩きます。ここの茶店で聞いたのですが、ここが四国八十八ヵ所でもたいへんなところで、歩けない人もいるそうです。そのここから岩屋寺という石柱のところに郵便局のバイクが停まっていて、たまたま途中で会ったので聞くと、ほぼ毎日ここを上り下りするそうです。途中、石段もあるので、いくらバイクでも上ることはできないようです。
 たまにというか、一生に1回しか上らない方もいれば、毎日仕事として上るというのは大変でしょうが、おそらく、ここの担当は若くて足腰が丈夫な方が選ばれるのかも知れません。そのようなほとんど益にもならないことを考えながら上ると、山門の前に着きました。
 仁王門は本堂の近くにあり、1898(明治31)年に火災があったときも、虚空蔵堂と仁王門を残して諸史料などもすべて焼失したそうです。やはり、このような山奥の札所で一番怖いのは火災です。水の便が悪いので、なかなか消火作業ができず、すべてを失ってしまいます。
 そして、最初に再建されたのが、大正9年の大師堂で、次が昭和2年の本堂、そして昭和9年の山門、昭和27年の鐘楼、宿坊遍照閣は昭和38年、逼割不動堂と白山権現堂は昭和53年にそれぞれ再建されているようです。
 この山門は昭和9年の建立で、「海岸山」という扁額が掲げられていました。その下をくぐり、一礼し、さらに上り続けました。極楽橋のところまで一気に上り、そこで少し休み、また歩き出しました。
 そこから先の参道の山側には、たくさんの奉納された石仏があり、右手には平地に建つ大師像もあり、いかにもいっしょに歩いているようにも見えました。
 そして上ること20分、やっと本堂の前に立ちました。

 ここは、もともとは第44番札所大寶寺の奥の院とされていたようですが、1874(明治7)年に第1世住職が晋山したことで、独立したようです。ご本尊の木像は本堂に安置され、石像は奥の院の秘仏として岩窟にまつり、この山すべてをご本尊の不動明王としてお大師さまは護摩修法されたと伝えられています。
 本堂は岩屋にくい込むかのように建てられていて、その右側のはしごを上ると、上の岩屋に行けます。でも、今回はまだ半分しかまわっていないので、何かあれば困るということで、本堂で全山のお詣りをさせてもらいました。
 そして、その左手にある大師堂でお詣りし、その先の仁王門をくぐり、一礼だけしました。この先を進むと、三十六童子行場などがあり、岩屋寺奥の院へと続いているようです。
 大師堂から納経所に行くと、その途中で、岩屋寺穴禅定というのがあり、中に入りました。これは本堂の真下に続く洞窟で、弘法大師、不動明王、地蔵菩薩がまつられていました。ただ、暗闇のなかを歩くので、注意が必要です。
 この暗闇のなかで思い出したのが、お大師さまの言葉「無辺の生死何んが能く断つ 唯禅那正思惟のみ有ってす」(般若心経秘鍵)です。生死を超越した境地にはなかなかなれないでしょうが、心の不安を取り除くには静かに座って正しい智恵の働きを待つしかありません。たしかに暗闇が怖いのは、何もわからなくなるからで、わかってしまえば怖さも取り除かれます。
 この暗さを思うと、ここまで明るいところを上ってくるということは、ある意味、とても楽なことだと気づきました。
 それでも、山登りも上るときよりも下りのほうが足腰がガクガクになりやすいので、気をつけながらゆっくりと歩きました。やけに、上から見ると、幟旗が多いように見え、だからこそ道に迷わないのではないかと考えました。やはり、下り坂より、石段のほうが膝にくるようです。
 そして、山門をくぐりながら、その扁額を見て、なぜここの山号が山の中にあるのに「海岸山」なのかと思いましたが、その由来はどこにも書いてありませんでした。
 下の駐車場に戻ると、ちょうど午後1時でした。たしか、この近くに古岩屋荘という国民宿舎があります。ネットで調べてみると、「キジうどん」が美味しいとか。
 先ずはそこまで戻って、昼食です。

 第45番札所 海岸山岩屋寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 不動明王
 ご詠歌 大聖の いのる力の げに岩屋 石のなかにも 極楽ぞある



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.46

 県道12号線を戻ると、すぐにトンネルがあり、その先に国民宿舎古岩屋荘がありました。そこの駐車場に車をとめると、先ほど岩屋寺の駐車場で会ったタクシーも停まっていました。やはり、このあたりが昼食には一番よいところというよりは、他にはあまりないようです。
 ここで頼んだのは「キジうどん」で、キジの肉が入っていました。前もって頼んでおくと「名物キジ鍋」も出るそうですが、ゆっくりと食事を楽しむような時間はないので、なるべく早く食べられるものが一番です。ここに着いたのが午後1時5分で、出発をしたのが1時35分ですから、ちょうど30分でした。
 目指すは第46番札所浄瑠璃寺で、愛媛県松山市浄瑠璃町にあります。ナビではここ古岩屋荘から32q、所要時間42分です。まずは県道12号線を走り、国道33号線で右折し、しばらく走ってから伊予郡砥部町宮内の信号からまた右折して浄瑠璃町の目的地まで進みます。
 駐車場は浄瑠璃寺の山門の右手から入ったところにあり、すぐに右折はできないので、どこかでUターンしてきて入ったほうがいいようです。その先に10台ほど駐められる駐車場があります。
 ここに着いたのが午後2時25分でした。そこに車を駐め、県道194号線の通りにある山門まで戻り、境内に入りました。そこを進むと本堂があり、その左手前に手水場があり、先ずは手や口をそそいでからお詣りしました。ご本尊さまは薬師如来で、本堂の扁額は「医王山」と山号が彫られていました。
 この本堂などのお堂は、1715(正徳5)年に山火事で焼失したそうですが、1785(天明5)年、その当時の住職が托鉢などをして全国を行脚して浄財を集め再建されたそうです。

 本堂の前にはソテツが植えられていて、四国は暖かいことを証明しているかのようです。そして、ここは本堂なのに、「南無大師遍照金剛」の白い垂れ幕が下がっていて、いかにもお大師さまの霊場の雰囲気です。
 そういえば、ここの山号は医王山ですが、お大師さまの言葉に「曽て医王の薬を訪(とぶら)わずんば、何れの時にか大日の光を見ん」(般若心経秘鍵)というのがありますが、自らの努力で名医を訪ねて薬を手に入れなければ大日如来の悟りの光明を見ることはできないのではないか、という問いかけにも聞こえます。
 この医王とは、薬師如来の異称でもあり、仏法を説いて人の悩み苦しみを癒やす意味から仏や菩薩をも指すことがあります。つまり、ここは病気を治すご利益があるだけでなく、仏法を説くことによってさまざまな悩み苦しみから救ってくださるというところでもあります。
 この本堂の右手に大師堂があり、その間に「説法石」があり、その説明によると、その石にはお釈迦さまがインドの霊鷲山で説法をされたところの石が埋め込まれているそうです。よく見ると、たしかに三角形の石があり、ここに座れば、お釈迦さまの説法に触れることができるのかもしれません。
 私もまだ暗いときに警察官に護衛してもらい霊鷲山に上ったことがあり、今でも、そのとき煌々と夜道を照らしてくれたお月さまのことが忘れられません。もちろん山頂には誰もいませんでしたが、明るくなると、スリランカの僧侶たちが信仰者といっしょに上ってきて、みんなでお経を詠み、その後で瞑想をしていました。
 私は誰もいない霊鷲山で、一人で瞑想をしてみたかったのです。ただ、地元の人に聞くと、夜道はとても危険だといわれ、警察官を3人も頼み、それを実行しました。今では、忘れられない貴重な思い出です。
 そんなことを思い出しながら大師堂に行き、お詣りをしました。ここも、お大師さまとの縁が結べるように、お大師さまのお姿の右手に持つ五鈷から五色の紐が出ていました。五鈷というのは珍しく、しっかりと何度もその紐の先を額にいただきました。
 そして、帰ろうとすると、「もみ大師」像のところに、樹齢約1,000年のイブキビャクシンの大木がありました。これは松山市の天然記念物に指定されていて、樹高は20メートルほどあるそうです。このイブキビャクシンはヒノキ科ビャクシン属で、多くの品種があります。
 ご朱印や御影をいただき、山門から出て、駐車場に戻りました。時計を見ると午後2時42分です。
 次は第47番札所八坂寺です。ここと同じ松山市浄瑠璃町にあるので、この近くにありそうです。いちおうナビで確認すると、そこまで950メートルです。

 第46番札所 医王山浄瑠璃寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 極楽の 浄瑠璃世界 たくらえば 受くる苦楽は 報いならまし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.47

 第47番札所八坂寺へは、いったん県道194号線に戻り、500メートルほど走ったところで左折します。そこに案内板と、みまもり修行大師像、八坂寺と自然石に彫られた石塔があるので、すぐわかります。
 道はすれ違うには少し狭いのですが、気をつけて進むと、その突き当たりに山門があり、その左側を通って行くと、すぐに駐車場があります。そこに車を駐め、山門までもどり、そこから境内へと入ります。
 この八坂寺は、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立したときに、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことのが寺名の由来とされ、さらにますます栄える「いやさか(八坂)」ようにとの願いが込められているそうです。
 山門を入ると、右手に手水場があり、その先の石段を上ります。その石段の10段目の左側にお賽銭箱があり、うっすらと手形がついています。由来を聞くと、ここが「救いの手」といわれているところで、「九難を去る救い」の手だそうです。とくに足や目の病に効験ある話が伝わっています。
 その石段を上りきると、向かってほぼ正面に鉄筋コンクリート造りの本堂があります。本堂には「無量寿如来」という扁額が掲げられていました。

 本堂の左手には大香炉があり、右手には自然石に「念ずれば花ひらく」と大きく彫られた石碑が立っています。間口よりは奥行きの広いお堂です。
 ここでお詣りをして、その左の閻魔堂のそのまた左手に大師堂があります。大師堂の屋根の鬼瓦は、波と亀はすぐにわかったのですが、その上にさらに鯉のようなものがあり、初めて見るものでした。
 そしてお堂の両側には、雨水をためる石の水鉢があり、なんどか火災に見舞われたことから備えられているような気がしました。ここ四国八十八ヵ所を遍路していると、もちろん、町中のお寺は違いますが、多くが山奥か、里でもどん詰まりのところにあるところがほとんどです。やはり、お大師さまが修行されたところといえば、深山幽谷がふさわしいわけで、そこで一番怖いのが火災です。やはり、どこも水の便が悪いようで、もし火災が起こればどうしようもありません。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「澗水一杯、朝(あした)に命を支え、山霞(さんか)一咽(いちいん)、夕(ゆうべ)に神(しん)を谷(やしな)う」(性霊集)というのがありますが、朝にはたった一杯の谷川の水で命をつなぎ、夕べには山の霞を一呑みにして精神をやしなうというような意味だそうです。
 だから、山においては、このような環境だからこそ修行に打ち込めるという気持ちと、そのたった一杯の水さえも貴重だったのではないかと、この詩から想像しています。
 ここでも、お賽銭箱の上に大きな撫で五鈷があり、そことお大師さまのお姿の五鈷とが、五色の紐で結ばれていて、縁結びができます。ここは五鈷と五鈷でつながっていますが、このやり方はそれぞれのようです。私もネパールで大きな五鈷を求めてきましたが、いつかは撫で五鈷として観音堂にでも置ければと思っています。
 大師堂の中には、お米の奉納もあるようで、30キロ入りの米袋がいくつも並んでいました。最近は米あまりの話しも聞きますが、やはり仏さまにはご飯を差し上げたいと思います。ある仏具屋さんに行ったとき、「仏パン器」なるものがありましたが、なんとなく違和感を感じました。ビールが好きだったから清酒ではなくビールをという気持ちがわからない訳ではないのですが、それでも炊きたてのご飯を上げてほしいと思っています。
 帰りに、平成17年につくられたという柴燈護摩道場にお詣りしました。ここには不動三尊(いやさか不動尊)が祀られ、毎年4月29日に柴燈大護摩供火渡り修行が厳修されているそうです。
 駐車場に戻り、車に乗り込み、ナビで次の第48番札所西林寺を検索すると、4.9q、所要時間19分と出ました。時間は午後3時17分でした。

 第47番札所 熊野山八坂寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 花を見て 歌詠む人は 八坂寺 三仏じょうの縁 とこそきけ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.48

 第48番札所西林寺へは、県道207号線と県道40号線を経由して行きました。この辺りは、案内板もあり、ほとんど間違わずに行けます。
 お寺の前を右折すると、西林寺橋の手前に駐車場があり、普通車なら20台ぐらいは駐められそうです。ここに駐め、仁王門から入ります。
 その仁王門前には道路をはさんで小川があり、きれいな水が流れていて、そこに架かる橋が西林寺橋です。仁王門の左手には「洗心の塔」があり、その前が道路より低い位置にあるので石段を下りて参道があります。
 仁王門は大師堂と同じ江戸末期に再建されたもので、二層の重厚な造りです。屋根瓦も高くて見えにくかったのですが、役瓦に屋根瓦と同系色の鯱(しゃち)のような姿のものが両端に載っていました。これは、もともとは想像上の動物で、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているといいます。有名なものは、名古屋城の金のしゃちほこです。
 でも、ここのほうがあまり目立たず、周りの風景に溶け込んでいました。
 この仁王門をくぐると、真正面に本堂があります。その左手前に鐘撞き堂があり、本堂とともに1707(宝永4)年に中興の祖、覚栄法印が松山藩の後ろ盾もあり再興されたそうです。

 本堂の右手にあるのが大師堂で、その前にはツバキとしだれウメの花が咲いていました。そして、ドウダンツツジなども植えられていて、とても掃除が行き届いていました。
 ここで思い出したのが、お大師さまの「桃李珍なりと雖も寒に耐えず、豈(あに)柑橘の霜に遇って美なるに如かんや。星の如く玉の如し黄金の質なり。」(性霊集)という詩です。ここに来るまでに、いろいろなところでミカン畑を見ました。北国から来るととても珍しく、どうしても写真を撮ってみたくなりますが、やはりそれはミカンが黄金色だからです。ここで見たツバキもヤブツバキ系で、北国のユキツバキとは違います。またしだれウメも北国では雪囲いが大変で、なかなか育てられません。
 植物も人も、ある意味、環境が育ててくれるような気がします。最近、環境行動学と呼ばれる研究分野があり、心理学や社会学などの手法を使って「人を取り巻く環境」や「人間の行動」の関係を探求する学問のようです。つまり、人は環境にいかに左右されているかを示すことにもつながります。
 この大師堂の左手前には、大きな白御影石に「大師堂」と大きく彫られた石塔が立てられていて、これぐらい大きいと絶対に間違いはなさそうです。
 ここでも、ローソクを点て、線香を灯し、お経を唱えてお詣りしました。そして、終わってから、もう一度お堂を見渡すと、なんとなく新しい建物のような気がします。今回のお詣りのために買い求めた案内書の写真を見ると、お堂の写真が違います。ということは、この本が編集され出版された後に、新しく建て直されたようです。
 お寺の場合、どうしても古い方が値打ちがあるように思っているのか、古いお堂の説明は詳しく書かれているのですが、新しく再建されたものについては載っていない場合が多いようです。でも、新しくても再建するのは大変なことですので、それもしっかりと縁起を書いてもらいたいと思いました。
 納経所でご朱印と御影をいただき、車に戻りました。時間は午後3時35分です。
 次は第49番札所浄土寺です。ナビで確認すると、3q、所要時間10分と出ました。

 第48番札所 清滝山西林寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 弥陀仏の 世界をたずね 行きたくば 西の林の 寺に詣れよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.49

 第49番札所浄土寺へは、県道40号線を通り、伊予鉄横河原線の踏切をわたって、県道40号線で左折して、その先の案内板の通りに進むと、すぐに仁王門が目の前にあります。
 その右側に駐車場があり、普通車なら20台程度は駐車できそうです。そこに車を駐め、その目の前の仁王門から入りました。
 仁王門には「西林山」という大きな縦型の扁額が掲げられ、お仁王さまも外からでもはっきりと見えました。でも、ここは山号ですが、第48番札所西林寺とちょっと紛らわしいと思ったのですが、その由来はわかりませんでした。でも、このお仁王さまの前に掛けられている千羽鶴がとても華やかに感じられました。
 その仁王門で一礼し、境内に入ると、すぐに石段があり、それを上ると真正面に本堂があります。その右手は釣鐘堂です。
 この本堂は、兵火で焼失したのち、文明年間に領主河野道宣公によって再建されたそうで、昭和36年に解体修理されただけで、その当時のままだそうです。ここの内陣の厨子には、室町時代から江戸時代にかけての落書きがあるそうで、これも貴重な歴史史料です。おそらく、それを含めて、お堂全体が国の重要文化財に指定されています。
 改めて見てみると、和様と唐様の良いとこを簡素に仕立て上げたような建物で、「釈迦堂」という青字の扁額が印象的でした。

 その本堂でお詣りをして、次にその右手にある大師堂に行きました。その間に修行大師の大きな石像があり、その右脇に、「四国霊場開創千百五十年記念 弘法大師供養塔」と書かれた石塔が立っていました。
 さらに、大師堂の右手には同じような大きさの石塔が立っていて、同じように「四国霊場開創一千百年記念 弘法大師供養塔」と年数だけが違っていました。でも、こちらの方がちょっと古そうに見えたのですが、石の違いなのか、それはわかりませんでした。
 その間にある大師堂でお詣りをしました。ここの燭台は六角形のアルミ製で、なかなか洒落ていました。そこでローソクを点て、手前にある屋根付きの石の大香炉に線香を立て、また大師堂の七段の石段を上ってお賽銭と納め札を入れて、またその石段を下がった端のほうでお経を唱えました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「時機(じき)応ぜざれば我が師黙然す」(性霊集)というのがありますが、この師とは間違いなくお釈迦さまのことです。ここのご本尊さまは釈迦如来ですから、それで思い出したのですが、お釈迦さまは対機説法といい、相手にわかるように、かみ砕くように話されたそうです。でも、自分で納得するためには、たとえば、鬼子母神とザクロの話しが残っていますが、鬼子母神はわが子を育てるために人の子をさらってそれを食べさせていたそうです。そこでお釈迦さまは鬼子母神の子供を隠してしまうと、鬼子母神は気が狂ったようにわが子を探しまわり、悲しみで途方に暮れてしまったそうです。そこでお釈迦さまは、「おまえは何人も子供がいるのにひとりいなくなっただけでそんなにも嘆き悲しむのです。それと同じように、おまえにさらわれた子の親も同じように嘆き苦しんでいるのだ」といって教えさとし,これから人の肉を食べたくなったらこのザクロを食べなさいと差し出したそうです。
 また、子どもに諭すときにも、悪いことをしたその時に話さなければダメです。その子が忘れてしまうほど、だいぶ経ってから言ってみたところで、納得できるわけはありません。まさに、時機が肝心だということです。
 所定のお詣りをすませ、駐車場に戻ると午後4時5分でした。もう1ヵ所ぐらいはまわれそうなので、すぐに次の第50番札所繁多寺の電話番号をナビに入れると、2qほどで所要時間6分です。すぐに出発しました。

 第49番札所 西林山浄土寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 釈迦如来
 ご詠歌 十悪の わが身を棄てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.50

 第50番札所繁多寺へは、県道40号線を経由して1.5qほど進んだところで右折し、案内板の通りに進むと、浄水場のすぐわきにあります。その手前に駐車場があり、普通車なら5〜6台ぐらいは駐められそうです。
 そこに車を駐め、山門を通り、広い境内地をまっすぐに進むと、石段があり、その先に本堂があります。
 その本堂のすぐ左側に、石の鳥居があり、歓喜天をお祀りしている聖天堂があります。この歓喜天像は、徳川四代将軍の家綱が念持仏としていた3体のうちの1体だそうで、とくに富貴を与え、厄除け、夫婦和合、商売繁盛などのご利益があると案内には書かれていました。
 このお寺の場所は、淡路山という丘陵地にあり、多くの緑に囲まれたところで、とても静かな雰囲気です。本堂の右手前には鐘撞き堂があり、この辺り一帯は、景観樹林保護地区に指定されているそうです。

 本堂には、大きく「本尊薬師如来」と書かれた扁額が掲げられ、時宗の開祖である一遍上人ゆかりの寺としても有名です。そういえば、一遍上人は伊予の名門、河野通広の次男として生まれ、10歳のときに出家し全国を行脚したことから「遊行上人」とか「捨聖」とも呼ばれています。意外なところで、高僧にであったという気がしました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「物に定まれる性(しょう)なし。人なんぞ常に悪ならん」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、一遍上人も10歳のとき母が亡くなったので父の勧めで出家し、13歳で大宰府の法然の孫弟子、聖達の下で10年以上浄土宗の西山義を学んだそうです。しかし、25歳の時に父が亡くなり、それをきっかけに還俗して伊予に帰ります。ところが一族の所領争いなどをみて、32歳で再び出家しました。このように、なんどもいろいろなことに出会い、それでも、享年51歳でなくなるまで遊行を続けたそうです。しかし、その過酷な遊行で結果的には過労と栄養失調が死因だとも伝えられています。
 人というのは、どのような人生を歩もうとも、変わろうと思えばいつでも変われるもののようです。今の自分に安住することなく、縁を生かせば、さらに大きな生き方ができそうです。いや、むしろそういう生き方こそ、お大師さまの言葉には秘められているような気がしました。
 一遍上人の生き様を思い出しながら本堂でお詣りをして、次にその右手にある大師堂でお詣りをしました。その間に緑の空間があり、そこにひっそりと青銅製の修行大師像が立っていました。その左側の古い石仏もこじんまりとしてほほえましいお姿をしていました。
 このあたりでは、この繁多寺を「ばんたいじ」と呼んでいるそうですが、ここのお寺は、心を広くさせてくれるような風景があります。緑の空間が広がり、貯水池の向う側には松山市内が見えます。ここは山というよりは丘という雰囲気なので、それがおだやかさにつながっているのかもしれません。
 山門の左手側にある納経所でご朱印と御影をいただき、時計をみると午後4時23分でした。
 急げば、次の第51番札所石手寺に行けるかもしれません。もし納経所が閉まれば、その近くの道後温泉本館などを見て今夜泊まる予定のビジネスホテルに行けばいいと思い、車に戻りナビで確認すると、2.9q、所要時間10分と出ていました。このとき、午後4時25分でした。

 第50番札所 東山繁多寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 よろずこそ 繁多なりとも 怠らず 諸病なかれと 望み祈れよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.51

 第51番札所石手寺寺へは、県道40号線を経由して、案内板の通りに進むと石手寺の山門の前に出ます。その左手の有料駐車場に車を駐めようとすると、1台も駐まっていなくて、管理の人が閉めようとしていました。お詣りしてすぐに帰るからというと、なんとか開けてくれました。どこでもいいと言われたので、なるべく山門に近いところに車を駐め、すぐに出かけました。
 山門から仁王門までは屋根のかかった回廊になっていて、その両側にお土産屋さんが並んでいましたが、やはりほとんどが閉まっていて、つい早足になってしまいます。
 仁王門には注連縄が張られ、そこにすだれのようにワラが垂れ下がったもので、初めて見る形でした。写真だとすぐにその雰囲気が伝わりますが、文章であらわすとなると、なかなか難しいものです。おそらく、右の仁王門の写真を見ていただいたほうがわかりやすいと思います。
 また、このお寺では「二王門」と表記していて、1318(文保2)年に建立された二層入母屋造り本瓦葺きで国宝に指定されています。
 そこで一礼し境内に入ると、広々としていて、右手には三重塔があります。これも重要文化財に指定されていて、石段を上った先の本堂もそうだそうです。このように堂宇が残っているというのは、火災がなかったということの証しでもあります。
 本堂に至る石段の途中に、金色の大きな五鈷が立てて据えられていました。触れやすいところの金色が薄れているところをみると、それを撫でていくようです。
 そしてさらに石段を上ると、本堂があります。

 本堂の左側には、白地の大きな看板が立てられていて、ひこには、「夢実現力 大勝薬師」とあり、さらに「暗黒から光明へ」と書かれていて、大悲は阿弥陀如来で「人の痛みを観る」、大憤は不動明王で「苦難に立ち向かう」、大欲は弘法大師で「喜ばれる喜び」、大楽は釈迦如来で「皆一緒の楽しみ」大勝は薬師如来で「人生を獲得する」とあります。
 ちょっと意味がわからないのもありますが、言葉だけを見て感じることはできそうです。今はこのような時代なのかもしれません。そういえば、仁王門のところに政治的な立て看板もあり、ちょっと違和感は感じました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「文の起り必ず由(ゆえ)有り、天朗らかなるときは即ち象(しょう)を垂る。人感ずるときは、即ち筆を含む」(三教指帰)というのがありますが、やはり、自分の思いを伝えたいときにはいろいろな文章を書くようです。つまり、文章を書くにはそれなりの理由があるというわけです。
 先ずは本堂にお詣りし、そしてその左手側にある大師堂へと進みました。
 大師堂の前にも、大きなしゃもじが立てかけられていて、右には「厄除け 開運」、そして左には「合格 開運」とあり、小さなしゃもじがたくさん奉納されていました。しゃもじといえば、安芸の宮島ですが、ここにもさまざまな言い伝えがあるのかもしれません。
 お大師さまにお詣りし、時計を見ると、午後4時50分です。ここに着いたのは4時35分でしたから、ちょっとバタバタしました。それでも納経所でご朱印と御影をいただき、車に戻るとちょうど午後5時でした。
 駐車場では管理人がすでに車に乗って待っていました。私たちが出ると、すぐに閉めて、帰って行きました。私たちの今日のお遍路はここまでですが、この近くに道後温泉本館などがあり、そこに行こうとナビに入力すると、1.3q、所要時間5分です。こんなに近いとは思ってもいませんでした。
 道後温泉本館近くの駐車場に駐め、買い物をしたり写真などを撮ってから車に戻り、今夜泊まる予定のビジネスホテルに向かいました。ここから3q、所要時間は12分と出ていましたが、夕方のラッシュで20分ほどかかりました。ホテルに着いたのは午後6時10分でした。
 今日はここまでで1,813q、今日1日の行程は220.3qです。

 第51番札所 熊野山石手寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 西方を よそとは見まじ 安養の 寺に詣りて 受くる十楽



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.52

 今日は3月7日火曜日です。山形を出たのは2月28日の火曜日でしたから、まるっと1週間が過ぎたところです。昨日はギリギリまでお詣りしていたので、今日は朝ご飯をゆっくり食べて、午前7時50分にホテルの駐車場を出発しました。
 先ずは第52番札所太山寺へと向かいます。ナビで確認すると、11.2q、所要時間は32分です。でも、朝のラッシュの時間ですから、気をつけて運転しました。
 県道20号線から県道40号線を経由し、県道184号線、県道183号線をまっすぐに進むと、途中にバスなどの駐車場があり、その先に仁王門がありました。そこには、観音さまがご本尊のお寺らしく、「慈眼視衆生」と「福聚海無量」の柱掛けが掲げられていました。
 そして、その石段の手前には、ここより本堂まで570メートルと書いた石柱がありました。
 その右側の狭い道を行くと、急な滑り止めのついた上りになり、その先の右側に普通乗用車が20台ほど駐められる駐車場があります。
 ここに着いたのが午前8時17分です。朝のラッシュの時間にしては、予定よりだいぶ早く着いたことになります。本堂への参道を上っていくと、途中に庫裡があり、そこが納経所になっています。先ずはそのまま進むと、右手に石段が見え、それを上って行くと豪壮な仁王門がありました。この仁王門は二層になっていて入母屋造りの本瓦葺き、鎌倉時代の再建で国の重要文化財に指定されています。その先に仁王門と同じ時代に再建された本堂があり、国宝に指定されています。

 本堂は、1305(嘉元)3年に松山城主・河野家が寄進されたもので、案内によると、桁行7間、梁間9間の入母屋造り本瓦葺きです。しかも、「本堂 国宝」と大きな白地の看板が立てられているので、誰にでも目がつきます。
 先ずはここでお詣りをして、そこを左手に進むと、石段の上に大師堂があります。そこの扁額は、青文字で「遍照殿」と大きな文字で彫られています。それだけで、ここが大師堂だとわかります。
 この遍照金剛というのは、恵果阿闍梨からいただいた灌頂名ですが、お大師さまの言葉のなかに、「如来は実に平等にして、悲心普(あまね)からずということなし」(五部陀羅尼問答偈讃宗秘論)というのがありますが、如来の救いの光は平等に誰にでも降り注いでいるというような意味です。
 だから、なぜ私だけがとか、誰も気づいてくれないとか、つい考えてしまいますが、まさに太陽の光と同じように誰にでもその光は注がれています。もちろん、お大師さまも同行二人、いつもいっしょに歩いてくださるのです。
 お堂の中には、お大師さまのお姿があり、金剛性を持って、こちらをいつも見ているかのようです。そこで、ここでも、「南無大師遍照金剛」とお唱えしました。まだ朝の時間なので、他には人はいません。ところが第31番札所竹林寺で少しお話しをした少女とおばあちゃんがすでにお詣りを済ませたところで、元気な声で「おはようございます」と挨拶を交わしました。なぜか、今日もスムーズにお詣りできそうな気持ちになりました。
 そして私たちもお詣りをして、納経所でご朱印と御影をいただき、その庫裡の庭に植えられているウメの古木の花などを眺めながら下りました。
 駐車場に着くと、午前8時55分でした。次は第53番札所円明寺です。ナビに入れると、2.5q、所要時間10分と出ました。

 第52番札所 瀧雲山太山寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 太山へ のぼれば汗の いでけれど 後の世思へば 何の苦もなし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.53

 第53番札所円明寺へは、県道183号線をそのまま経由して松山市和気町まで行くと、左手に円明寺の山門があり、右手に駐車場があります。ここはまったくの町中にあります。
 ここの駐車場は、10台以上は駐められそうで、そこに車を駐め、道路をはさんだ向かいの山門から入りました。意外と通行量があるので、横断するときには注意が必要です。
 山門で一礼し、境内地に入ると、その前に「遍照金剛」という扁額を掲げた二層の門があります。その先が本堂です。
 その右手前に自然石を掘り抜いて造った手水場があり、そこで手や口などをすすぎました。そして改めて二層の門で一礼しくぐり抜け、本堂へと進みました。ここは阿弥陀如来がご本尊なので、柱の右には「即滅無量罪」、左には「現受無比楽」と白字に彫られた板が掲げられていました。また、ところどころに白地で「南無阿弥陀如来」と書かれた赤い幟旗も立っていました。
 聞くところによると、ご本尊が安置されている厨子に打ち付けてあった四国霊場最古の銅板納札が1924(大正13)年に巡礼していたアメリカシカゴ大学のスタール博士が発見したそうです。それには、1650(慶安3)年の銘があり、縦24p、幅が9.7p、厚さが約1oだそうで、破損もなく、現存最古の銅板製の納め札だそうです。
 でも、外国人のお遍路さんが見つけたとは、びっくりです。おそらく、外国人の方が先入観がなく、ありのままに見ることができたからではないかと思います。

 先ずは本堂でお詣りをし、それから山門脇の大師堂に行きました。ここの屋根瓦はとてもユニークで、虎もいれば亀や唐獅子などもいて、まさに動物園みたいです。極めつけは、龍が羽を広げたような形で、その下に「大師」と書かれた瓦もあります。そして瓦の先端には転法輪のような模様がついていて、屋根の上ではちょっと見にくいのですがとても楽しかったです。
 この瓦には、陶器瓦と無釉薬瓦があるそうですが、この屋根の瓦はおそらく無釉薬瓦のいぶし瓦のようです。そういえば、お大師さまの言葉に、「摩尼、自ら宝に非ず、工人能く瑩(みが)く」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、宝玉は最初から宝玉ではなく、磨かれて初めて光り輝く玉となるというような意味です。この瓦も、どこにでもある土を焼いてつくるのでしょうが、瓦をいぶして表面に炭素を主成分とする皮膜を作ることによって独特の風合いを出すのがいぶし瓦だそうです。さらに塩を使って表面を独特の赤褐色に焼き上げる塩焼瓦などもあり、長年の試行錯誤があればこそのたまものです。
 北国の屋根は、ほとんどがトタン屋根なので、この瓦屋根には憧れすらあります。おそらく、海に近ければ塩害の少ない瓦が多用されるのでしょうが、やはり、風格というか重みを感じます。
 また、このお堂の「弘法」の扁額の後ろの長押には、古い金型の鳥居があり、ここにも神仏一体の長い歴史を感じました。そして、その天井の格子には絵が描かれていて、具象的な花や抽象的な図柄などもあり、一番内側には、五鈷を持ったお大師さまと編み笠をかぶり修行しているお大師さまが描かれていました。
 堂内のお大師さまは、御簾に隠れてお顔が見えませんでしたが、右手に持った五鈷がはっきりと見え、その前に鏡が置いてありました。お賽銭と納め札を入れ、階段を下り、端にずれてお経を唱えました。
 納経所は、本堂の右手の鐘撞き堂のさらに右側から入ったところです。その帰り、次は今治市まで行くので、時間がかかりそうなのでトイレにまわりました。すると、蔵造りのような建物で、ここの屋根瓦も変わっていました。
 駐車場に戻り、時間を確認すると午前9時25分です。次は今治市の第54番札所延命寺です。ナビに入れると、35.8q、所要時間51分と出ました。

 第53番札所 須賀山円明寺 (真言宗智山派) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 来迎の 弥陀の光の 圓明寺 照りそふ影は 夜な夜なの月



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.54

 第54番札所延命寺へは、国道196号線と県道339号線で今治市菊間町西山まで行きます。そして神宮交差点を左折し、県道38号線で右折し、道案内にしたがって狭い住宅街の道を進むと、ため池があり、その先に駐車場があります。普通車なら20〜30台ぐらいは駐車できそうです。
 ここに着いたのが午前10時20分でしたから、第53番札所円明寺からは55分かかりました。
 駐車場の手前に仁王門があり、その間に駐車場があり、そして山門があるというぐあいです。山門で一礼し入ると、多くの人たちで混んでいました。石段を上り、本堂に行くと、多くの子どもたちが堂内で住職の話を聞いていました。ということは、本堂の外に立っていたのは父兄たちのようで、近所のお年寄りもいたようです。ここでとりあえずお詣りして、子どもたちが帰ってからもう一度お詣りすることにして、大師堂に向かいました。
 本堂の左手側の石段の上にあるのですが、その石段がアセビの大木で覆われていて、ちょうど花盛りでした。こんなにも大きなアセビを見たことがなかったので、とてもビックリしました。案内よると、「境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている」とあり、ここの風物詩になっているようです。あらためて周りを見渡すと、あちこちに大きなアセビの木があり、その他にもまだ花は咲いていないのですがツツジの大きな刈り込みもありました。

 石段の上の大師堂は、左側には燭台があり、右側には屋根付きの大きな石の大香炉があります。ここは高台になっていて、周りを植物に覆われているので、吹く風もさわやかです。この日はとてもいい天気なので暑いぐらいですが、お詣りをしているうちに、汗がしずみました。
 石段の上に戻ると、そこから見るアセビの樹々は見事で、まさにアセビのトンネルをくぐって石段を下りました。
 石段を下る途中から、子どもたちの声が聞こえてきて、黄色い帽子をかぶった小学生たちが本堂から出てくるところでした。おそらく、今まで緊張して座っていたからなのか、元気ではち切れそうな笑い声も聞こえてきます。そのときにお大師さまの言葉を思い出したのですが、それは「もし信修(しんじゅ)すること有らば、男女を論ぜず、皆是れその人なり。貴賤を簡(えら)ばず、悉く是れその器(き)なり。」(性霊集)です。つまり、自分がこうと思ったら、男とか女とか、あるいはお金があるとかないとか、ほとんど関係ないもので、きっと道は開けるだろうということです。これは、とくに子どもたちに伝えたい言葉です。できない理由をいろいろと探すより、一歩でも二歩でも進むようにしたほうがいいに決まっています。まさにお大師さまは、昔々に男も女の性別は関係ないといわれていたのです。そして、勉強したい若者たちに無償で学べる綜芸種智院をつくられたのです。
 小学生が堂外に出るにつれて、外で立っていた大人たちも帰って行くようで、それからゆっくり本堂でお詣りをさせてもらいました。
 ご本尊さまは不動明王で、寺伝では行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創したといわれているそうです。だからなのか、本堂の石段の右下のところに、青銅製の不動明王像が建っていました。
 住職さんは、境内地でも説明しているようで、私たちはご朱印と御影をいただいて、車に戻りました。
 次は第55番札所南光坊です。場所は同じ今治市内の別宮町にあり、ナビでみると、4.3q、所要時間14分です。

 第54番札所 近見山延命寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 不動明王
 ご詠歌 くもりなき 鏡の縁と ながむれば 残さず影を うつすものかな



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.55

 第55番札所南光坊へは、県道38号線を経由して進めば、その先は案内板をたよりに行けます。でも、今治市南大門町辺りで右折するのですが、この道が狭いので要注意です。
 その先の南光坊が見えてから、その手前を左折すると、右側に駐車場があります。普通乗用車なら20台以上は駐められます。しかも、境内地ですからすぐお詣りできます。
 私たちは大師堂の近くに車を駐め、先ずは一端仁王門から出て、その前に立ちました。
 南光坊は町の中にあり、太平洋戦争最末期の昭和20年8月の空襲によって、大師堂と金比羅堂だけを残して罹災したそうです。この仁王門は平成10年に再建され、一番早く再建された本堂は昭和56年の秋です。つまり、本堂再建まで36年かかっているわけです。いかにお寺を護ることが大変かというのは、これらを考えればわかります。そして、平成3年には薬師堂を再建しています。
 それにしても、大師堂が残ったのはすごいことで、おそらく再建の一番大きな手助けになったのではないかと思います。
 仁王門には、「日本総鎮守 三島地御前」という大きな扁額が掲げられ、ここが別宮大山祇神社(三島地御前)の別当寺だったことがうかがえます。そこで一礼して入ると、境内地は広く、その真正面の奥に本堂があります。
 見るからにがっしりしたお堂で、右手手前には唐金の修行大師像が立っています。先ずは回廊まで上り、お賽銭と納め札を入れ、誰もいないのを確認してから、ちょっとだけ脇にそれてお経を唱えました。ご本尊は大通智勝如来で、法華経の化城喩品(けじょうゆほん)に出てくる仏さまで、三千塵点劫の昔に世に出て、八千劫の間「法華経」を説いたとされています。
 やはり、本堂の間近でお詣りできるのは、とても気持ちのよいものです。それから大師堂に行きました。ここは境内地の中心部にはほとんど緑がなく、広々とした感じです。そのなかに、芭蕉の「物いへば 唇寒し 秋の風」の句碑がありました。

 そういえば、この大師堂に昭和20年8月の空襲のときに身を隠していた方がいたそうですが、全員無事だったそうです。周りが焼けたのにここだけが助かるのは、やはり不思議なことです。この四国八十八ヵ所を巡っていても、なんともなくここまで来れたことだって、不思議な縁です。一度だけ四国徳島に来たことはありますが、高知、愛媛、香川は初めてで、それが誰にも案内されずスムーズにお詣りできるのですから、不思議です。
 お大師さまの言葉に、「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く。一字に千里を含み、即身に法如を証す。」(般若心経秘鍵)というのがありますが、まさに不思議です。この言葉のように、真言を唱えるだけで無知の闇が取り除かれ、たった1字のなかに千の法があるというのですから、やはり不思議です。
 大師堂の左手前には「百度石」があり、そのくりぬかれたなかにソロバンのように数えることができ、しっかりとお百度を踏むことができるようになっていました。でも、このような町中で、人に見られないようにとか、裸足でとかなかなかできないのではと思いました。
 そういえば、南光坊住職を務めた先師天野快道師が京都醍醐寺の座主に就いたこともあって、1978(昭和53年)に真言宗御室派から真言宗醍醐派に転派しました。しかし、2013(平成25)年9月に、もともとの仁和寺を総本山とする真言宗御室派に再び転派されたそうで、お寺の世界もいろいろあるものです。
 本堂の左手にある庫裡のところでご朱印と御影をいただき、また大師堂の前まで戻り、車に乗りました。
 時間は午前11時15分です。次は第56番札所泰山寺です。場所は同じ今治市内小泉にあり、ナビでみると、3.4q、所要時間10分ほどだそうです。

 第55番札所 別宮山南光坊 (真言宗御室派) 本尊さま 大通智勝如来
 ご詠歌 このところ 三島に夢の さめぬれば 別宮とても 同じ垂迹



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.56

 第56番札所泰山寺へは、今治市内を通って、小泉2丁目の信号を右折し、狭い道を進むと、右側に山門が見え、その左側が駐車場になっています。
 駐車場は普通車なら30台ほどは置けそうです。ここに駐めて、「四国五十六番 泰山寺」と彫られた石塔のわきの狭い露地のようなところを通って行きます。その石塔の脇には、小さな祠もあり、この道はまさに遍路道のような雰囲気でした。
 そこを歩くと、お城のような石垣があり、そこを進むと、真正面に真新しい石段があります。そこを上りきると、右側には「四国第五十六番霊場 泰山寺」、左側には「本尊地蔵菩薩 千枚通六字名号」と彫られた石柱があり、その間を通ります。
 この「千枚通」というお守りは、東北ではほとんど見かけませんが、ここ四国や九州ではよく知られているそうで、この辺りでは弘法大師ゆかりのお寺で授与されているそうです。このお守りは、病気平癒や安産にもいいということでした。
 本堂は、向かって左手にあり、「地蔵大菩薩」という金文字の扁額が掲げられていました。

 そして、本堂の向い側には「地蔵車」という石塔に丸い輪がついているのがあり、それを回すと六道輪廻の輪を断って悟ることができるそうです。この六道というのは、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の6つの迷界であり、そこから抜け出すのが本来の悟りです。お大師さまの言葉に、「三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識(さと)らず。」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、たとえ天界や人間界であっても、迷いの世界ですから、なかなか自分がその迷いの世界にいることすら気づかないといいます。
 だから、欲界、色界、無色界の三界などにいるかぎり、流転を繰り返すというわけです。そこでその輪を断つことが大切だということになります。なかなか仏教的な論理は難しいのですが、ただ石塔の丸い輪を回してみなさいといわれると、その意味はわからずともしてみたくなるのが人間のようです。
 お大師さまは、ここに「不忘の松」を植えて、地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」から寺名としたそうです。しかし、大師堂のわきにあった不忘の松は枯れてしまい、いまは切り株だけが残っているそうです。
 そこで、次は大師堂に向かうと、その途中のウメの花が盛りに咲いていて、やはり樹木は生き生きとしているからこそいいものだと思いました。
 その不忘の松は、石段を上ってきたすぐの右側の少し入ったところにあり、それを示す石塔のわきに、小さな松が植えられていました。さらにその左脇には、弘法大師像、神変大菩薩像、不動尊、聖宝理源大師と並んでお祀りされていました。このようなご尊像をお祀りしているのは、やはり真言宗醍醐派です。
 大師堂に行くと、その柱に、右には「同行二人之愛」、左には「相互供養之恩」とあり、他では見たことのない柱掛けです。ここは誰もいなかったので、ゆっくりお詣りさせてもらいました。
 納経所でご朱印と御影などをいただき、駐車場に戻りました。時間は11時45分です。次は第57番札所栄福寺です。場所は同じ今治市内の玉川町八幡にあり、ナビで確認すると、3.3q、所要時間9分だそうです。

 第56番札所 金輪山泰山寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 地蔵菩薩
 ご詠歌 みな人の 詣りてやがて 泰山寺 来世の引導 たのみおきつつ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.57

 第57番札所栄福寺へは、県道155号線を経由して行きますが、橋を渡ってすぐの信号機を右折します。少し走ると、案内板があり、そこを左折しますが、そこが大型バスなどの駐車場です。普通乗用車はさらに進むと、また左折するとその右手に駐車場があります。
 ここには10台ぐらいは駐められそうで、ここに車をおきました。そこから山手に進むと、右に入る道があり、そこが栄福寺です。
 その角には寺名の彫られた石柱が立ち、左側には唐金製の修行大師像が建っています。ここは2015年11月に「ボクは坊さん」という映画が公開されましたが、その舞台になったところです。若い住職は、その原作本を書いた方で、もともとは本屋さんで店員をしていたそうです。たまたま、この本を図書館で見つけて、読んだことがあります。
 歩いていくと、右手に鐘撞き堂があり、そこを左に曲がり、すぐにまた曲がると石段があります。そこを上ると、右側に大師堂があり、正面に本堂があります。
 先ずは本堂に進み、お詣りしました。柱の両側には、仏足石がありました。丸くなった屋根のところには、鶴の彫刻があり、鬼瓦は飛天のようでした。回廊の手すりが新しそうで、ときどきは修繕をしているようです。

 もともとここの府頭山の山の形が山城の男山と似ていて、ここの八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、栄福寺も「四国五十七番」と仲良く石塔に名が刻まれていて、道標にもなっていたそうです。ところが明治時代の神仏分離令によって、寺領は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、神社と寺がそれぞれ独立したそうです。現在の大師堂はもともと山頂にあったお堂を移築したといわれています。
 本堂からおりると左手にその大師堂があります。右手の石段の上には、「お迎え大師」の石像が立ち、足元には「空海」と大きな文字で彫られていました。
 大師堂のお賽銭箱には、酉年なので、米俵に乗った2匹のニワトリの切り絵が張られていて、そのわきに杵と臼もあります。この大師堂と本堂とは廊下でつながっているらしく、さらに庫裡にも行けそうでした。このようなつくりだと、毎日の掃除には便利だと思います。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「心を洗って香とし、体を恭(つつし)んで花とす。」(性霊集)というのがありますが、人に安らぎや心地よさを与える香も花も、しっかりと掃除をしてあることが前提でしょう。いかにきれいな花が咲き競っていたとしても、ゴミ箱からゴミがあふれていては、身も蓋もありません。
 その納経所の隣に、演仏堂と名付けたおもしろい建物があり、ちょっと違和感がありましたが、これが若い住職ならではでしょう。そして、帰るとき、右手に「お願い地蔵」がありました。今のところ、特別にお願いしなければならないこともないので、手だけを合わせて、駐車場に戻りました。
 もうお昼が過ぎ、12時14分です。でも、この近くに昼食を食べるところはなさそうなので、次の第58番札所仙遊寺の電話番号をナビに入れました。場所は同じ今治市玉川町の別所というところです。ここから5.2q、所要時間13分です。
 遍路道を通ると2.9qですが、道が狭そうなので、ナビの言うとおりにしました。

 第57番札所 府頭山栄福寺 (高野山真言宗) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 この世には 弓矢を守る 八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.58

 第58番札所仙遊寺へは、栄福寺と同じ今治市玉川町内ですが、広い道から山道に入り、その狭いつづら折りの道を上って行きます。すると、仁王門が見えてきて、そこに「補陀落山」と彫られた扁額が掲げられていました。
 ちょうどヤマザクラが咲いていて、今までウメの花が多かったので、とても新鮮な感じがしました。
 その前をさらに進むと、1回では曲がりきれないような急な勾配の道があり、その手前が広くなっているので、そこでUタウンしてから上ると、そこに駐車場がありました。
 でも、工事の車が駐車していて、参拝者の駐められるのは4〜5台分しかありませんでした。
 ちょうど今の時期は、お遍路も始まったばかりで、どこも駐車場に駐められないということはないので、ここでもちゃんと駐められました。しかも、すぐ近くが本堂です。その周りにも、サクラが咲いていました。ここは山の上なのに、内陸部なので暖かいのかもしれません。
 仙遊寺という寺号は、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどしたそうですが、718(養老2)年に忽然と姿を消してしまったという伝説があり、その阿坊仙人からきているそうです。その後、弘法大師が再興したそうですが、長い時代のなかで興隆や荒廃などもあり、それでも明治時代の廃仏毀釈の嵐の吹くときに宥蓮上人は再興に尽力されたそうです。そして、宥蓮上人は1871(明治4)年に即身成仏として入定されたそうです。その供養した五輪塔が、境内に残っているそうです。

 本堂の手前には、丸みのある石灯籠が両側に立ち、その左後ろには「百度石」があります。でも、ここまで上ってきてお百度詣りをするのは大変そうですが、誰にも気づかれずにお詣りできることは間違いなさそうです。
 お大師さまの言葉に、「孤雲、定処無く、本(もと)自(よ)り高峰を愛す。知らず、人里の日、月を観て青松に臥す。」(性霊集)というのがありますが、まさにここは作礼山の頂上にあり、見晴らしは抜群です。ここなら、世俗の生活にはほとんど関係なく、月を観て青い松に臥して暮らせそうです。地図でみると、標高は300mほどしかありませんが、おそらく、昔はここまで上ってくるだけでも大変だったと思います。
 そういえば、先ほど急勾配でUタウンしないと上れないところから、今治市内が見渡せました。左手には「しまなみ海道」も一望できます。
 仙遊寺の納経はこの本堂の中でするのですが、先ずは本堂でお詣りし、さらに大師堂にお詣りしてから、もう一度ここまで来てご朱印や御影などをいただきます。
 なので、次は大師堂に行くと、その右手裏側の土手の工事でした。作業員が数名いましたが、お詣りしているときには、静かにしてくれました。さすが、四国だと思いました。
 大師堂の右側には仏足石があり、大師堂の御影石の石段は、この工事で造られたばかりの新しさで、汚れた靴で上がるのはちょっと気が引けます。そこで、手水場で手と口と靴の汚れを少しばかり落としました。すると、ステンレスの燭台のわきに、「心は見えない、心づかいは見える」と書かれていて、ハッとさせられました。
 再び本堂に行き、ご朱印と御影などをいただき、車に戻りました。時間は12時45分です。そろそろお腹が空いたのですが、この山の中では食堂などはありません。そこで、次の第59番札所国分寺をナビに入れて、その途中で食べることにしました。
 そこまでは7.5q、所要時間16分だそうで、山の中から町中へ一気に下ります。

 第58番札所 作礼山仙遊寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 この世には 弓矢を守る 八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.59

 第59番札所国分寺へは、先ずは山を下り、県道155号線を右折し、今治市古屋あたりをまた右折し進むと、道路の左側に「やまびこうどん本店」の大きな看板が見えました。
 時間は午後1時ちょうどなので、ここで食べることにしました。もちろん、うどんです。地元の人たちが多かったので、この近くの人気店のようです。
 食べ終わって車に戻ると、午後1時35分でした。この昼食の間に、今夜の泊まるところを「いまばり湯ノ浦ハイツ」に決め、お遍路さんパックで2食付き、温泉つきでした。これで今夜の泊まるところも確保できたので、後はゆっくりです。
 うどんを食べ、県道156号線に出て右折し、3qほど走ると左側に駐車場があります。ここの駐車場は2ヵ所あり、どちらでも駐車できます。ここなら大型バスも大丈夫です。
 ここに車を駐め、左手に進むと、大きな石灯籠の間を歩くと広い石段があります。その左側には「霊場第五拾九番」、右側には「本尊瑠璃光如来」と彫られた石塔が立っていました。
 もともと国分寺は、いまの寺から150mほど東にあったそうで、東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟になっているといいます。何度も罹災し荒廃しながらも、江戸時代後期に本格的な再興がなされました。人の世もお寺も、みな同じです。栄枯盛衰、必ずつきものです。現在の本堂は1789年に第43代住職恵光上人が建立したそうです。

 ここの手水場はお薬師さまのつぼから手水が出てくるようになっています。左脇に、ちょっと大きすぎる押しボタンがあり、それを押すとつぼに付いている4枚の葉っぱからちょろちょろと水が流れました。たしかに、ここのご本尊さまはお薬師さまなので、これもおもしろいと思いました。
 先ずは正面の本堂でお詣りし、それから右手奥にある大師堂でお詣りをしました。
 大師堂右の少し離れたところに、握手ができる「修行大師像」があります。よく見ると、お大師さまが右手をさしのべてくれているようなお姿で、ほんとうに握手できます。その右手は、かなり黒くなっているので、おそらく多くの人たちが握手しているのではないかと思いました。
 さらに、その右側には、「薬壷」があり、その説明文には、「からだの健康を念じつつ 御真言に触れながら 一度 お唱えください」と書いてありました。お薬師さまは、人々の病苦から救う仏さまですから、左手に薬壺(やっこ)を持つお姿が多いようです。そのつぼには目とか頭とかの部分が彫られているので、体調の悪い部分をさすりながら真言を唱えるのかもしれません。
 お大師さまの言葉に、「病人に対(むか)って方経を披(ひら)き談ずとも、痾(やまい)を遼するに由(よし)無し」(性霊集)というのがありますが、病人に向かって医学書を開いて病名を説明したり、薬の効能を話してみても、病人は治らないというような意味です。つまりは、治そうとする行為がなければならないわけで、もし治らなければ熱心に祈ることも大事です。あるきっかけで、治った人もいます。なにもしないで、考えているより、何かをするだけでも救われると思います。
 ここ国分寺に着いたのは午後1時45分、ここを出たのは午後2時10分です。ここで今治市にある札所はすべてまわったので、次は第60番札所横峰寺です。
 でも、ほとんどの案内書には、先に第61番札所香園寺に行ったほうがよい、と書いてありました。ここからだと、西条市ですから、今治小松自動車道をつかっても20qほどあります。そこで、今治市は初めてなので、市内を巡ってから、今日の泊まる予定の「いまばり湯ノ浦ハイツ」に行くことにしました。
 そして、今治地域地場産業振興センターの中にある「いまばりタオルブティック」や今治城などを見て、宿に着いたのが午後4時30分でした。
 総走行距離は1,904.7q、今日3月7日の走った距離は91.7qでした。たまには、早く宿に着き、温泉に入るのもいいものです。

 第59番札所 金光山国分寺 (真言律宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよめぐむ 薬師なりけり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.60

 今日は3月8日水曜日です。昨日はゆっくり休めたので、今朝もその流れで少しゆっくりめの朝食でした。宿を出発したのは午前8時5分です。目指すは第61番札所香園寺です。
 ここは今治市ですが、香園寺は西条市小松町にあり、ここから15.2q、所要時間29分です。県道159号線と144号線を経由して行きます。
 国道11号線を左折し、ほどなくして案内板を見て右折すると、さらにその先も案内板にしたがって進むと、左側に駐車場があります。その突き当たりが香園寺です。
 境内地も広く、その真ん前に真四角のビルのような本堂があります。その1階のところでもお詣りができますが、案内によると、2階の本堂に入ってお詣りできます。
 そこで、左脇の階段を上り、2階の入口で靴を脱ぎ、中に入りました。大きな空間で、イス式の本堂で、中央に大きな護摩壇があり、正面に大きな大日如来、そして左側にはお不動さま、右側にはお地蔵さまが祀られていました。
 でも、あまりにも広いと、なぜか落ち着かず、しかもビルの中でお詣りしているようで、これまでの四国八十八ヵ所霊場の本堂とはまったく違う雰囲気です。今の時代ですから、これもありかと思いますが、案内によると、この本堂、お寺では大聖堂と呼んでいますが、建立されたのは1976(昭和51)年で、鉄筋コンクリート造り、高さ16m、1階が大講堂、2階が本堂と大師堂、本堂には620余のイス席があるということでした。

 先ずはご本尊さまの大日如来の前でお詣りし、次にその右手にあるお大師さまのお姿のある護摩壇の前でお詣りしました。お大師さまは、厨子のなかの更に小さな厨子に安置され、その前には、御本尊さまの前にあると同じ形ですが、それより小さい護摩壇があり、その上には小さな金色の大塔がのっていました。
 そして、本堂正面の壁面には真言八祖の画像がかかげられています。このお寺は、明治36年に晋山した山岡瑞園和尚が、1914(大正3)年に本堂を再興し、さらに1918(大正7)年に「子安講」を創始して、講員の拡大と寺門の興隆に尽くされたそうです。
 だから、1階のお詣りする場所に、「子安大師」という扁額が掲げられていたのかもしれません。
 お大師さまの言葉に、「大日の光明廊(かく)として法界に周(あまね)く、無明の障(しょう)は忽ちに心海に帰(き)せん。無明忽ち明(みょう)となり、毒薬乍(たちま)ちに薬となる。」(三昧耶戒序)というのがありますが、大日如来の光明は明らかに真理の世界に遍くというような意味です。そうすれば無知はたちまち智慧となり、毒薬は薬になるといいます。
 言い換えれば、大日如来の光明は地球にとっての太陽みたいなもので、すべてのものを平等に照らし、私たちに悟りの智慧を授けてくれます。
 そういえば、昨日の夕方からだいぶ寒くて、今朝もセーターを着て朝ご飯を食べました。この時間になってもまだセーターを着たままです。そこで右手に見える石鎚山系を見ると、頂上付近に雪が積もっています。まさか、3月になって四国に雪が降るとは思っていなかったのですが、その白っぽくみえるのは雪のようです。
 第60番札所横峰寺に行くのがちょっと心配ですが、案内書では、次は第62番札所宝寿寺にまわるように書いてあります。その辺りで確認するのが良さそうです。車にもどると午前9時3分でした。次の宝寿寺までは、1.5q、所要時間5分とナビには出ていました。

 第61番札所 栴檀山香園寺 (真言宗単立) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 後の世を 思えば詣れ 香園寺 止とめて止まらぬ 白滝の水



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.61

 第62番札所宝寿寺は、第61番札所香園寺へと来た同じ国道11号線を進み、3分ほどで着きました。お寺の入り口のところに駐車場があり、すぐにお詣りできます。
 実は、この第62番札所宝寿寺は四国八十八ヶ所霊場会と裁判となっていて、私がお詣りした3月8日にはまだ結論は出ていませんでしたが、3月22日に高松地裁丸亀支部で判決が出ました。それによると、小川雅敏裁判長は霊場会側の請求を退け、宝寿寺の主張通り、同寺の霊場会からの脱退を認めたそうです。つまり、霊場会への入会手続きを定めた規定はないとしたうえで、「宝寿寺の住職であることをもって霊場会の正会員であるとは認められない」と判断し、仮に入会していたとしても「退会の手続きについて特段の定めがない」として、住職が電話で不参加を連絡したことから退会が認められるとし、霊場会側の訴えを棄却しました。
 でも、この判決を聞いて、宗教問題と裁判とは、あまり相性がよくないと思いました。宗教は、昔から言い伝えみたいなものが多く、記録も残っていないこともあります。しかも、宝寿寺側の主張である「午前7時から午後5時っていうと10時間労働になり、労働基準法の範疇に入らない。霊場会の規則には無理がある」ということにしても、もともと住職が庫裡に住んでいるのは、いつでも信者さんのために対応できるようにとのことだと思っています。だから、12時から13時まで納経所はお休みというのもおかしな話しです。
 でも、この騒動について、『月刊住職』の矢澤澄道編集長(安楽寺住職)は、「今回の裁判は、世俗的な論争に、法的な結論を出したというだけ。今の時代に則した取り決めかもしれませんが、信仰上では、ささいなことだと思います。四国遍路は、霊場会がつくったわけでも、寺がつくったわけではありません。長い間、お遍路さんをしてきた人たちすべてが、つくり上げてきたものなのです」と話しておられますが、私もそうだと思っています。
 いずれにしても、ここをお詣りしたときには、ときどき話題になるお寺だという思いしかありませんでした。
 そこで、先ずは本堂にお詣りし、次にその右手にある大師堂にお詣りしました。

 その時、作務衣を着た方が黒いビニール袋を持って、納め札を回収していました。自分がたった今納めた札もすぐに回収されるのはちょっとイヤなので、それが終わってから入れました。このようなことは、お詣りの人がいないときにして欲しいものです。
 このお寺は、もともとは伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたそうです。ところが、1585(天正13)年の豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い、明治10年に再建されたようです。
 また、1921(大正10)年に鉄道が開通し、境内の中を汽車が走るようになったことで西へ100mほど移転しました。そして、国道11号線が開通することで、さらに境内が削られたということです。
 だから、今のようなこじんまりとした境内地になったようで、まさに次々といろんなことが起こってきたお寺でもあります。
 しかし、四国八十八ヵ所という歴史のある霊場が、このような裁判沙汰を起こしていいわけがありません。しかも、退会をするのに、住職の電話一本でできるというのも、誰が考えてもおかしな話しです。まったく四国八十八ヵ所の歴史の重みもありません。
 お大師さまの言葉に、「物の興廃は必ず人に由る 人の昇沈は定めて道に在り」(性霊集)というのがありますが、物事が興ったり廃れたりするのは、必ず人によるということです。そういえば、松下幸之助さんも「事業は人なり」と書いていますが、まったくその通りだと思います。
 これからどうなるのか、おそらく誰にもわからないでしょうが、おそらく、お遍路さんたちが行動で示してくれるのではないかと思っています。
 ここ伊予の国は「菩提の道場」です。菩提とは、つまりは自己の執着を離れ、他人を思いやる慈悲の心を持つことですから、四国八十八ヵ所の各寺院のご住職方もお遍路さんのことをもっと考えてほしいと思います。
 私の場合でも、2月28日に出発して、3月15日に帰りましたから、15泊16日かかりました。それぐらいの日数をかけてもお詣りしたいと思うから、実際に行けたのです。それがもし、1ヶ寺でも欠けたりすれば88ヵ所ではなくなりますし、今回も第60番札所横峰寺が積雪で車で上れないと聞いても、なんとかお詣りできたのも、そこが欠ければ満願にはならないという強い気持ちがあったからです。
 この原稿を書いている時点で、第62番札所は四国八十八ヶ所霊場会によって、第61番札所の駐車場に仮の札所がつくられ、ご本尊も十一面観世音菩薩が祀られているそうです。
 ぜひ、納得のできる方向に納めてもらいたいと願っています。
 次は第63番吉祥寺です。今は午前9時18分です。

 第62番札所 天養山宝寿寺 (高野山真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 さみだれの あとに出たる 玉の井は 白坪なるや 一の宮かわ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.62

 第63番札吉祥寺へは、国道11号線をそのまま進み、1.6q、5分ほどで着きました。予定よりかかったのは、駐車場でちょっと迷いました。
 お寺専用の駐車場がわからないので、近くの有料駐車場を探し、「パーキング岡本」に駐めましたが、駐車料金は300円でした。そこからJA西条氷見のわきを通り、左に曲がって少し進むと、山門のところに出ました。
 山門のまえに、一対の象が狛犬のように置いてあり、山門の左の柱掛けに「本尊 四国唯一体 毘沙門天王」と緑色の文字が彫られていました。ここには、お大師さまが1本檜に出会い、その霊木で毘沙聞天像を彫造したと伝えています。そして、その脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置したことから、ここの字号が吉祥寺となったのかもしれません。
 本堂の前では、新しい角材の塔婆が立てられ、周りでもいろいろな作業がおこなわれていました。聞くと、3月20日にお大師さまの御影供会がおこなわれるとかで、その準備のようです。あわせて、御彼岸春期法要もあり、当日にはJR基山駅より送迎バスも順次運行されるそうです。

 先ずは山門から入って右手にある本堂にお詣りしました。本堂には歩きやすいように板が敷かれ、緩やかな勾配になっています。誰もいないので、その回廊部分でお詣りをさせていただきました。
 それから本堂の左側横にある大師堂に行き、お詣りをしました。よく見ると、本堂と大師堂はつながっていて、中からもお詣りできるようです。
 その大師堂の左手に「成就石」の説明が書かれていて、それは本堂の手前にある高さ1mほどの石の中央より下に30〜40pほどの穴が開いていて、そこに金剛杖を通すと願いがかなうといいます。でも、その石を見つけることはできませんでした。
 見つけられなくて思い出したのが、お大師さまの言葉で、「近うして見難きは我が心、細(さい)にして空に遍きは我が仏なり。我が仏、思議し難し、我が心、広にしてまた大なり。」(秘蔵宝鑰)です。たしかに、あまりにも近いとかえって見えにくいものですし、いくら宇宙に遍満しているといっても我が仏を思い考えることは難しいです。つまり、我が心は、広くて大なるものがあるというような意味です。
 だから、ここで「成就石」を見つけられなくても、この言葉を思い出しただけでも良かったです。
 できないとか、できるとか考えるより、いろいろな可能性があると考えていればいいような気がします。
 山門の近くにある納経所でご朱印や御影をいただき、第60番札所横峰寺のことを聞いたのですが、今の時期でも雪で上れないことはよくあるということでした。仕方ないので、駐車場でも聞くと、ここでも詳しくはわからないということでした。
 時計をみると、午前9時40分です。本来ならば、ここから第60番札所横峰寺に向かう予定をしていたのですが、少しでも気温が上がれば、もしかすると通行止めが解除されるかもしれないと思い、第64番札所前神寺に先に行くことにしました。
 それをナビに入れると、3.2q、所要時間7分ということでした。もし、次に横峰寺に行くとすると、また逆戻りをしなければならないようです。

 第63番札所 密教山吉祥寺 (真言宗東寺派) 本尊さま 毘沙門天
 ご詠歌 身の中の 悪しき悲報を 打ちすてて みな吉祥を 望み祈れよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.63

 第64番札前神寺へは、再び国道11号線を進み、それから右折して讃岐街道に入ります。ほどなくして、右手に駐車場と山門が見えてきます、ここの駐車場は広く、大型バスも駐まっていました。
 そのバスの運転手さんに第60番札所横峰寺の通行止めのことを聞くと、おそらく今日はダメではないかということでした。横峰寺付近は20pほどの雪があるということです。でも、私の車はスタッドレスだし四駆だしというと、でも、車そのものが通行止めだから通れないといいます。
 そこで、対応は後から考えることにして、先ずはお詣りをすることにしました。
駐車場は広いので、どこに駐めてもいいらしく、また情報があれば聞きたいと思い、その大型バスの近くに駐めました。
 いちおう、山門まで戻って、そこをくぐって一礼し、広い駐車場を歩いて、左手にある小さな橋を渡って、坂道を上ります。その斜め正面に大師堂があります。
 そこから右に曲がり、そのまま進みます。そういする、とても大きな本堂がありました。両側には、屋根付きの回廊もあります。ここは、石鎚山の山麓にあり、真言宗石鉄派の総本山です。
 この本堂と囲むようにして屋根付きの回廊がありますが、その手前に柴灯護摩の道場があり、ここが修験道の根本道場とわかります。お大師さまも、若いとき、この石鎚山に2度ほど登り、虚空蔵求聞持法や三七日護摩法、あるいは三七日断食修行をしたといわれています。

 先ずは本堂でお詣りし、柴灯護摩道場の前でもお詣りしました。ここでは、毎年7月1日からの10日間、石鎚山の「お山開き」が開かれ、数万人の白衣姿の信者たちが集まり、法螺貝を響かせるそうです。奥の院は奥前神寺といわれ、石鎚山頂近くにあるそうですが、現在はロープウェイがあり、手軽にお詣りできますが、毎年7月1日だけは女人禁制だそうです。
 ぜひ、このときにお詣りしたいものです。
 次に、引き返して、大師堂にお詣りしました。柱の梁のところに、丸に石と赤文字で描かれた紋と三葉葵の紋が描かれた提灯が5個下がっていて、やはりここは石鎚山の霊場であることを実感しました。
 花立てには、生のシキビが生けられ、周りもきれいに掃き清められていました。実に気持ちのよい札所でした。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「人の短を言う事なかれ、おのれの長を説くことなかれ」(崔子玉座右銘)というのがありますが、これは中国の「さいえん」さんの「座右の銘」をお大師さまが書かれたものです。お大師さまは、この言葉はいいと思うと、それを書き残していたのです。たしかに、相手の欠点をあげつらったり、自分のことを延々と語ったりするのは見苦しいものです。もし、きれいに掃除がしてあれば、、自分もそれを真似してみようと思えばいいわけです。
 私もここ30年ぐらい、いろいろな名言を集めていますが、そのノートが何冊にもなりました。ときどきそれを眺めては、よし、次はこれをやってみようと思ったりしています。
 そんなことを考えながら、駐車場に戻りました。時間は午前10時10分です。
 まだ駐車場に大型バスがいたので、再び運転手さんに横峰寺のことを聞くと、おそらく今日は一日中ダメだろうということでした。そこで、ダメもとで直接横峰寺に電話をして、ダメと言われながらも一押しすると、それなら自分の責任で上ったらといわれました。
 そこで、再び、国道11号線をもどり、氷見交差点から左折し、山に入りました。この交差点から第60番札所横峰寺までは、11.9q、所要時間36分だそうです。

 第64番札所 石鉄山前神寺 (真言宗石鉄派) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 前は神 後は仏 極楽の よろずの罪を くだくいしづち



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.64

 第60番札横峰寺へは、第64番札所前神寺の駐車場でナビに入れたら、14.7q、所要時間42分と出ました。
 先ずは、先ほど来た国道11号線をもどって、氷見交差点から左折しました。そして県道142号線に入り、松山自動車道の下をくぐり、黒瀬湖の近くで右折し県道12号線に入ります。その先に、「横峰寺大型バス駐車場」があり、普段はここでマイクロバスに乗り換えるようです。
 そこから山道に入り、3qほど進むと、平野林道料金所があります。ここから先が通行止めになっていました。料金所には誰もいなくて、案内板を見ると普通自動車1,850円、ここから横峰寺の駐車場までは約6q、20分と書いてありました。
 でも、いちおう横峰寺には電話をしているので、車止めを外し、車を乗り入れてから、また車止めをしました。そして、山道を上って行きました。ところが、雪道ではないのですが、最後の数qだけは少し道路に積もっていました。しかし、この程度の雪なら、雪国のドライバーにとって、まったく気にもなりませんでした。そのままお寺の駐車場まで、心配なく行けました。
 もちろん、駐車場には1台も駐まっていなくて、一番近いところに車を駐めました。そして、車のなかに入れて置いた雪道用の靴を履いて、駐車場から階段を下り、参道に向かいました。当然、参道にも歩いた足跡がなく、ほんとうにまっさらな雪道を歩いて行きました。おそらく、4〜5pの積雪ではないかと思います。これで車両通行止めですから、雪国の人にとっては笑い話にもなりません。
 長い参道を歩くと、谷間に横峰寺が見えてきて、「石鉄蔵王大権現」や「石仏大菩薩」などの大きな幟旗が見えます。その辺りは、一面の雪でした。
 その参道の脇に、黄色いロウバイの花に真っ白な雪がかぶり、とてもきれいでした。ホンシャクナゲもたくさん植えられていて、その葉も雪をかぶっていました。ほんとうに幻想的な風景です。ここまで上ってきて、ほんとうによかったと思いました。参道は、すっかり除雪され、歩くのにまったく支障はありませんでした。
 先ずは、本堂に行き、お詣りをしました。

 ここは西日本の最高峰、石鎚山(標高1982m)の山懐にあり、境内はその山の北側中腹にあり、標高750mほどのところにあります。ここは四国の札所のなかでも3番目に高いところにあり、昔から「遍路ころがし」の最難所だったそうです。しかし、昭和59年に林道が完成したことで、比較的楽に上れるようにはなったのですが、冬期は12月下旬から2月いっぱいは不通になるのだそうです。
 ということは、まだ3月上旬ですから、たまには通行止めもありうるということです。
 お大師さまも、若いときには「或時は石峯に跨って粮を絶ち轗軻たり」(三教指帰)と書いていますが、粮を絶つとは断食のことで、轗軻というのは苦しく厳しい修行をしたということです。
 次に本堂から少し戻って大師堂に行きました。石畳にも雪が少し積もっていましたが、凍ってはいないので、安心して歩けます。それでも、納経所に行くために石段を下ったところにある手水舎の水の表面は凍っていました。やはり、冬用のコートを持ってきて、正解でした。
 大師堂の屋根にも、本堂の屋根にも雪が積もっていて、むしろ静寂に包まれた雰囲気がしました。この程度の雪では、むしろきれいな風景にしか見えません。
 また、歩いてきた参道を戻ったのですが、その途中で、下から歩いてくる遍路道があり、そこにはいくつか足跡がついていました。おそらく、ここまでの道のりを歩いてきたのでしょうが、ここ1ヵ所を残しても満願にはならないからです。八十八ヵ所すべてを巡拝してこその満願です。
 駐車場から下るときにも、上ってくるお遍路さんに出会いました。途中まで車で来て、雪のあるところから歩いてきたのではないかと思いました。やはり、雪になれていないドライバーや雪道対応のタイヤでなければ、急な山道ですから怖いです。料金所にも、下りはエンジンブレーキを使用するようにと注意書きがありました。
 いくらスタットレスで四駆だとしても、下りは気をつけて運転し、料金所まで戻ると、ホッとしました。また車止めを外し、車を出してから、また車止めをして次の第65番札所三角寺へと向かいました。
 ナビで確認すると、松山自動車道を使っても、58.4q、所要時間1時間6分だそうです。だとすれば、途中で昼食にしなければと思いながら、走りました。

 第60番札所 石鉄山横峰寺 (真言宗御室派) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 たて横に 峰や山辺に 寺たてて あまねく人を 救ふものかな



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.65

 第65番札三角寺へは、先ずは加茂川橋交差点を右折して国道11号線に入り、いよ西条インターチェンジから松山自動車道に入り、松山方面に進みます。
 高速道路なので快適に運転し、途中の「こかげ亭入野パーキングエリア上り店」で昼食にしました。もちろん、ここでもうどんを食べました。ここに到着したのは12時40分、ここを出たのは午後1時5分です。
 三角寺は愛媛県最後の札所で、四国中央市金田町三角寺にあります。再び松山自動車道を進み、三島川之江インターで下りて、国道11号線に入り、国道192号線を右折し、次の信号からまた右折し、案内板を見ながら山の方へと走らせます。
 すると、有料駐車場「渡辺」というのがあり、そこに車を駐めました。200円でした。
 その駐車場のところから、白御影石の手すりのついた長い石段があり、その上り口のところに「由霊山 三角寺」という石柱が立っていました。石段は古くすり減っていましたが、石段の中央にも手すりがあり、比較的上りやすかったです。誰が数えたかはわかりませんが、72段あるということでした。
 その石段を上りきったところに山門があり、そこに梵鐘が下がっています。そして、橦木(しゅもく)もあるので、ここで一礼し、鐘も突くことができます。そういえば、同じ「しゅもく」でも、撞木という漢字を使えば、お寺のなかにあるお経などを唱えるときに使う鐘の仏具を鳴らすT字型の棒のことです。シュモクザメというのは、この形から名付けられたようです。
 そして、山門をくぐって、正面が庫裡で、そこを左奥に進むと、本堂があります。現在の本堂は1849(嘉永2)年に再建されたもので、その後1971(昭和46)年に修復されているそうです。

 ここは標高約430mの平石山の中腹にあり、とても静かです。近くに大きなサクラの木が数本あったので、納経所で聞くとヤマザクラとのこと、そういえば、小林一茶が1795(寛政7)年にここを訪れたときに「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠んだそうで、たしかそのようなことが案内書に載っていました。
 ご本尊さまは、十一面観世音菩薩で昔から安産の観音さまとして知られ、ご祈祷して腹帯を授けたり、なかなか子宝に恵まれない夫婦には「子宝杓子」を授け、それで仲良く食事をすると子宝に恵まれるそうです。そして赤ちゃんが生まれたら、授けていただいた「子宝杓子」と新しい杓子をもってお礼詣りをする習わしだそうです。四国八十八ヵ所のお遍路ももちろんですが、このような風習もぜひ残していただきたいものです。
 本堂をお詣りし、それから少し戻って本堂の右手にある大師堂に行きました。ここにも石段があり、本堂より高い石垣の上にあり、ここから眺めると、境内にあるヤマザクラの古木もはっきりと見えます。お堂の右側には、1977(昭和52)年に再建された高さ7mほどの延命地蔵菩薩立像があり、同じ素材で造られた大きなハスが両脇に供えられています。
 やはり、仏教の花といえばハスです。お大師さまの言葉に「蓮(はちす)を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る。」(般若心経秘鍵)というのがありますが、このハスの花はどんなに濁った泥池に育ったとしても、本来のきれいな花姿を見せてくれます。またツボミのころから、その中には実が備わっていて、まさに生まれながらにして仏性を持っているかのような姿です。
 この1.5m以上はある大きな青銅製のハスにも、花とツボミと葉がバランス良く備わっていました。そのわきに、ヤブツバキも咲いていました。
 ここで伊予の国、「菩提の道場」ともお別れで、次は讃岐国に向かいます。ここはお大師さまの生まれたところで、縁の深い霊場がいくつもあると思います。とても楽しみです。
 駐車場に戻り、時計をみると、午後1時53分です。次の第66番札所雲辺寺は、徳島県三好市池田町白地にあります。ここはロープウェイに乗って上るので、その山麓駅まではナビをみると、ここから28.9q、所要時間40分と出ました。再び、松山自動車道を走るようです。

 第65番札所 由霊山三角寺 (高野山真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 おそろしや 三つの角にも いるならば 心をまろく 慈悲を念ぜよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.66

 第66番札所雲辺寺は、徳島県三好市池田町白地にあり香川県ではないそうです。ここは雲辺寺山、標高921mの山頂付近にあり、ロープウェイで上るので、その山麓駅に向かいました。
 先ず、三島川之江インターまで戻り、そこから再び松山自動車道に入り、香川県観音寺市大野原町の大野原インターでおります。そして国道11号線を豊浜の方向に左折し、次の信号で再び左折します。そこから「大野原町萩の丘公園キャンプ場」の方向に進み、その近くに案内板があるので、そこから右折し、大谷池のわきを通り、山道に入っていきます。3qほど走ると大きな駐車場があり、そこが雲辺寺ロープウェイ山麓駅です。
 ここに着いたのが午後2時35分です。すぐに準備をして切符売り場に行くと、2時40分発だそうで、急いで乗り込みました。20分間隔の運行で、往復2,060円です。ここ山麓駅から山頂駅まで全長約2,600m、高低差は約660m、定員101名ですから、大きなゴンドラです。
 約7分で山頂駅に着き、ゴンドラを下りると、ここは標高916mと書いてあり、そこにあったデジタルの温度計は現在の気温−2℃と表示されていました。
 頂上駅から少し歩くと、「おむかえ大師」が立っていて、その手前の道の真ん中にセンターラインがあり、その手前側が「香川県」、そしてその先が「徳島県」という銘板が埋め込まれていて、ここが県境でした。これで納得です。第66番札所雲辺寺があるところは徳島県ですが、この雲辺寺ロープウェイ頂上駅のあるところは香川県というわけです。
 その左手に下がる参道を行くと、その両側に五百羅漢の石像が立っていて、ところどころに「南無千手観音」や「おたのみなす」と書かれた幟旗も立っていました。ここも雪が降ったらしく、まだとけずに残っていました。
 仁王門の手前に手水舎があり、そこの水には氷が張っていて、穴を開けて手や口をすすぎました。さすがここは四国八十八ヵ所の霊場のなかで一番高いところにある札所です。
 お遍路道を登ってくると古い仁王門があるそうですが、ここの仁王門は新しそうで、「巨鼇山」という扁額が掲げられていました。そこをくぐると石段があり、その石垣のところに「本堂 ←」という案内板があったので、その石段を上らずに庫裡の脇を通って本堂に行きました。

 昔の本堂の痛みが激しかったので、鉄筋コンクリートで新本堂を建て替え、2009(平成21)年11月に落慶法要を行ったそうです。たしかに、このような山上にあれば痛みやすいと思います。
 ご本尊は千手観世音菩薩ですが、現在ここに安置されているのはお前仏の石仏で、本来のご本尊は国指定の重要文化財なので、収蔵庫に安置されているそうです。脇仏は不動明王と毘沙門天のようです。
 本堂でお詣りし、次に大師堂に行こうとすると、その近くに茄子の形の石をくりぬいて、そこに「おたのみなす」と書いてあり、説明には「くぐって腰掛ければご利益倍増」と御影石に彫ってあり、さらにその左側に「※頭上注意」と赤字で彫ってありました。これが紫色地に白抜きの「おたのみなす」の幟旗のところのようです。
 そこから納経所の前を通り、緩やかな坂道があり、それが石段になり、その左手前方に大師堂があります。その両脇にはたくさんの石灯籠が並び、そこに石灯籠の寄進の勧めが書いてあり、1基23万円とのことでした。そして、その石段の付近には、たくさんのシャクナゲが植えてあり、ここなら育つと思いました。
 大師堂は立派で大きかったので、その回廊部分でお経を唱えました。屋根にはまだ雪があり、境内地にも雪が残っていますから、少し肌寒いぐらいです。でも、声を出していると、それすらも忘れるほどでした。
 そのとき、思い出したお大師さまの言葉は、「閑林に独座す草堂の暁、三宝の声に一鳥に聞く。一鳥声有り人心(ひとこころ)有り、声心(せいしん)雲水倶(とも)に了了(りょうりょう)。」(性霊集)です。このような静かなお堂の前で、ふと鳥の声が聞こえてくると法を説いているようにも聞こえるような気がします。人間なら、なおさら仏心を起こさないでいられようか、というような意味です。つまりは鳥の声も雲の流れも水の流れも、すべてが悟りの姿ではないかと問われているような気持ちになりました。
 ロープウェイ頂上駅に下りたときに聞いたのですが、下りのロープウェイは午後3時20分だそうです。ここに25分ほどいますから、そろそろ時間です。急いで頂上駅に向かいました。せっかくの静かな時間だったのに、ちょっと慌ただしく帰ることになり残念でした。
 予定通りに着き、売店で記念のお盆を買い、すぐにゴンドラに乗り込みました。駐車場で出発の準備をして、次の第67番札所大興寺へ行くためのナビを入力しました。
 10.3q、所要時間19分と出ました。今の時間は午後3時35分です。

 第66番札所 巨鼇山雲辺寺 (真言宗御室派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると 雲のほとりの 寺に来て 月日を今は 麓にぞ見る



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.67

 第67番札所大興寺へは、大谷池の近くまで戻り、そこから県道241号線と国道377号線を経由して、三豊市山本町辻を右折します。あとは、道案内の看板の通りに進み、仁王門はこちらという案内にしたがって左折すると駐車場があります。  おそらく10台前後は駐車できます。そこに車を駐め、疏水に架かる小さな石橋を渡り仁王門をくぐります。そして、その先に石段が見え、その右脇には大きなカヤの木があり、説明には「県指定 自然記念物小松尾寺のカヤ」、樹高20m、胸高幹周4.1m、樹齢1,200年余りと書かれていました。さらに、「弘法大師四国修行の砌りカヤの種子植えられたとつたえられている」と添え書きされていました。
 ということは、地元では「大興寺」というよりは、「小松尾寺」と呼ばれているようです。そういえば、ご詠歌も「小松尾寺」です。
 石段は92段あり、その途中の右手にはクスノキの巨木があり、いかにも歴史が感じられます。
 石段を上りきると、正面が本堂です。現在の本堂は1741(寛保元)年に建立されたもので、ご本尊は、弘法大師作と伝えられる平安後期の檜寄木造りで、像高84pの薬師如來座像です。

 先ずは本堂にお詣りし、次に本堂に向かって左側にある大師堂に行きました。でも、右側にもお堂があるので寄ってみると、なんと天台宗第三祖智をまつる天台大師堂です。そういえば、本堂のご本尊の脇仏も不動明王と毘沙門天で、お不動さまをまつるのは天台宗に多いようです。
 そこで寺の歴史を調べてみると、今では真言宗善通寺派のお寺ですが、昔は真言24坊、天台12坊があり、同じところで真言天台二宗が兼学したということでした。これは、本当に珍しいことだと思います。もともとは真言宗も天台宗も密教ですから、なじみはあるはずですが、それにしてもいっしょに学べるというのはいかにも日本的です。
 お大師さまの言葉に、「悠々たり悠々たり 太(はなは)だ悠々たり。内外のけんしょう 千万の軸あり。香香(ようよう)たり香香たり 甚だ香香たり。道をいい道をいうに百種の道あり。書死(た)え諷(ふう)死えなましかば本(もと)何(いかん)がなさん。」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、仏典もその他の書物も千万巻もあり、その広く深く限りがない、だからその道を説くのに百種の道がある、という言うような意味のようです。そして、それらを書いて暗記しなければ、どのようにして教えの根本を伝えることができようか、といいます。まさに、自分から間口を絞ってしまってはダメだということだと思います。いろんなことにチャレンジする必要がある、と思います。
 だから、お大師さまは、いろいろなことができたのではないかと想像しました。
 そういえば、本堂で赤いお灯明が灯されていましたが、これは「七日燈明」といって、本堂で赤い蝋燭を7日間灯し祈祷していただくと、病気平癒や安産、良縁などのご利益があるといわれているそうです。これなども、初めて聞く祈祷法です。世の中には、知らないだけでいろいろなものがあるようです。
 大師堂の屋根瓦の鬼瓦が見事で、狛犬なども載っています。とくにてっぺんの宝珠も瓦と同じ素材でつくられたようで、巴の紋や梵字なども彫られていました。いつもはすぐにお詣りするのですが、この広がるようになでらかな屋根は見ていても飽きません。でも、もう午後4時10分です。
 急げば、次の第68番札所神恵院と第69番札所の観音寺までは行けそうです。駐車場に戻り、ナビで確認すると、10.2q、所要時間22分です。このとき、16時15分でした。

 第67番札所 小松尾山大興寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 植え置きし 小松尾寺を 眺むれば 法の教えの 風ぞ吹きぬる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.68

 第68番札所神恵院は、琴弾公園内の琴弾山の中腹にあるので、そこを目指します。財田川の橋を渡り、そのまま直進すると、左手に「神恵院・観音寺 駐車場」と書かれた案内板があり、そこには20台ほど車が駐められそうです。そこに駐めて、急いで仁王門のところに行きました。ここに着いたのが午後4時32分ですから、予定より少し早く着いたようです。
 仁王門の右の柱に「四国第六十八・六十九番霊場」、左には「七宝山 観音寺 神恵院」と書かれた板札が下がっていました。つまり、ここは四国八十八ヵ所の2つの霊場があるということです。
 仁王門で一礼し、その先の石段を上っていくと、そこに道案内があり、神恵院と観音寺の方向も書いてありました。先ずは左の方の神恵院に行きました。
 神恵院を開基したのは、法相宗の日証上人といわれ、703(大宝3)年にこの地で修行しているときに宇佐八幡宮のお告げを受けて、かなたの海上で神船と琴を発見して、「琴弾八幡宮」を建立してまつったそうです。そして、お大師さまが琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊としてまつったことから、神宮寺から神恵院と字号を改めてようです。しかし、明治の神仏分離令で、琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は琴弾山麓の観音寺境内に移転したのだそうです。

 2002(平成14)年に、阿弥陀如来像を安置していた西金堂が新築され、神恵院の大師堂と観音寺の大師堂の間を入ったところにあり、四角のコンクリートを打ちっぱなしにしたようなデザインで、これは何と思いました。左側の壁に「六十八番 神恵院本堂」と書かれたものがあるだけで、なかの様子はまったくわかりません。
 その中の階段を上ると、天井に天蓋が下がっていて、さらにその上にお堂が見えてきたので、本堂だとわかりました。
 でも、本堂は横長で、ちょっと見には普通の感じがしますが、よく見ると、ここもコンクリートの打ちっぱなしです。おそらく、このような形のほうが管理しやすいのかどうかですが、違和感はあります。
 そういえば、お大師さまの言葉に、 「水は自性なし 風に遇(お)うて即ち波たつ。法界は極にあらず 警(いましめ)を蒙って忽ちに進む。」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、水にはそれ自体に定まった性はなく、波を起こすのは風が吹くからです。だから悟りの世界もこれが究極の段階だと思わないで、さらに進むべきだというような意味です。このコンクリートの打ちっぱなしの建物も、屋根があって、雨漏りなどの気象の影響がなければいいわけで、それでご本尊さまをしっかりと護持できれば、それはそれでいいと思います。
 このような斬新な建物を見ると、いろいろなことを考えてしまいます。だから、いいのかもしれません。当たり前の世界から、ちょっとはみ出ると、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれません。
 そこから引き返して、左側にある大師堂にお詣りしました。
 大師堂の前には、雨が降ってもお詣りしやすいように屋根がかかっていて、その下に燭台や石の香炉もあります。
 ここの第68・69番札所は、同じところに納経所があるので、次に第69番札所観音寺へ行きました。時間は午後4時44分です。

 第68番札所 七宝山神恵寺 (真言宗大覚寺派) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 笛の音も 松吹く風も 琴弾くも 歌うも舞うも 法の声々



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.69

 第69番札所観音寺は、もともとの観音寺の境内にあり、開基も同じ法相宗の日証上人で、山号も同じ「七宝山」です。しかも納経所も同じなので、ここ観音寺をお詣りして、第68番札所神恵院の大師堂の前にある納経所に午後5時まで行かなければなりません。
 でも、同じ境内にありながらも、観音寺の本堂は上ってきた石段の右手奥にあり、朱塗りのお堂です。雰囲気も神恵院の本堂とはまったく違い、落ち着いたなかにも鮮やかな感じです。
 たしかに同じ境内地に札所が2ヵ所あるのは珍しいですが、まったく性格の違うような雰囲気があり、別々の歴史もあります。結果として、2ヵ所になったというのがはっきりとわかります。たとえば、これを書いているときに、第61番札所香園寺の駐車場に第62番札所宝寿寺の代りのお詣りする場所と納経所ができたようですが、それとはまったく違います。
 もう夕方ですので、ゆっくりはお詣りできないのですが、広くお堂を開けているので、しっかりと中が見えます。これもとても有り難いことです。このお堂は室町時代に建てられたそうで、国の重要文化財に指定されています。1929(昭和4)年に解体修理もされています。

 本堂でお詣りし、次はまた戻って観音寺の大師堂に行きました。その間にクスの巨木があり、注連縄がかかっていました。
 この大師堂も朱塗りで、そのためか、白地の「弘法」という扁額がくっきりと見えます。両側に燭台があり、そこにお灯明を点て、線香は左側にある石の香炉に立てました。
 ここでは、少し大きな声でお経を唱えた方がお詣りの方がいるとわかっていいかもしれないと考えましたが、急いで納経所に向かう方もまだいるようです。それをチラッとうかがいながら、お詣りをおわしました。
 時計を見ると、午後4時55分です。そして、納経所でご朱印と御影、記念の散華をいただきました。ちょうど5時です。
 これで今日のお遍路も終わりました。今日は第60番札所横峰寺から第69番札所観音寺までお詣りしました。とくに横峰寺は初めはどうなるかと思いましたが、なんとかお詣りできてよかったです。
 お大師さまの言葉のなかに、「法は本より言(ごん)なけれども 言にあらざれば顕われず。真如は色(しき)を絶すれども 色を待ってすなわち悟る」(請来目録)というのがありますが、真理なるものは言葉でも形でも顕すことはできませんが、でも、言葉や形を通じて真理を悟ることしかできないという意味です。
 たしかに、言葉や形というのは絶対というようなものではなく、顕しにくいことだってあります。今日の横峰寺の雪景色も、そこに立ってみないことにはなかなかわからないのではないかと思います。だからといって、写真でそれを伝えたとしても、それがすべてではありません。
 そのようなことを考えながら、駐車場まで戻り、今夜泊まることになっている琴平町のビジネスホテルの場所をナビに入れると、21.9q、所要時間36分と出ました。意外と遠いと思いながら運転しましたが、ほぼナビの通りに午後5時40分に着きました。ここには2泊して、第70番札所本山寺から第75番札所善通寺、そして満濃池や金刀比羅宮などもお詣りする予定です。
 3月8日までの総走行距離は、2,069q、今日一日の走行距離は164.3qでした。

 第69番札所 七宝山観音寺 (真言宗大覚寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 観音の 大悲の力 強ければ おもき罪をも 引きあげてたべ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.70

 第70番札所本山寺へは、いったん、昨日ホテルまで来た道を戻ります。昨日お詣りした第69番札所観音寺からは、5.5qほど離れています。ということは、16.4q戻るということですが、これは仕方のないことです。
 同じところに連泊すると、荷物の移動がないし、洗濯もできます。ずっと1泊ずつでしたし、ここ讃岐の国はお大師さまのお生まれになったところですから、ここらで少しゆっくりとまわるのもいいのではないかと思いました。地図を見ると、この辺りには、札所が多くあります。
 ホテルを出たのが午前7時58分、ここ本山寺に着いたのは8時25分でした。駐車場は川のわきにあり、20台ぐらいは駐められそうです。そこに車をとめ、境内に入ると、仁王門が白御影石の台座にのったような雰囲気で、その右の柱には、「重要文化財 仁王門」と書かれた真新しい板札が下がっていました。
 残念ながら、本堂の左手にある五重塔は、現在修復中で、ネットなどで覆われていて、ほとんど見えませんが、その五重塔の上にのっている相輪が、客殿の前で特別展示されていました。この五重塔は1910(明治43)年にその当時の住職、頼富実毅(じっき)が再建したもので、盲目だった実毅が四国59番国分寺を巡礼後に目が見えるようになったこともあり、そのご加護に報いるためにお堂の復興に意欲を燃やしたそうです。いずれ、この相輪も五重塔の上に飾られるでしょうから、このように間近で見ることはできなくなります。

 その右側にある本堂は、1300(正安2)年の墨書きが礎石や棟札に記されているそうで、国宝に指定されています。1952〜1955(昭和27〜30)年にかけて解体修理され、その流れるような反り返る屋根の姿はとくに見事です。
 ご本尊が馬頭観音というのは、四国八十八ヵ所の霊場のなかでここだけのようです。そのような縁もあり、境内のなかに青銅製の2匹の馬の像が立っていました。
 お大師さまの言葉に、「法身の三蜜は繊芥(せんかい)に入れどもせばからず 大虚(たいこ)にわたれどもひろからず。瓦石(がしゃく)草木を選ばず 人天鬼畜を嫌わず。いずれの処にか遍ぜらる なに物をか摂せざらん。」(吽字義)というのがありますが、繊芥はちりあくたのこと、大虚とは宇宙のこと、瓦石とはかわらや石のことですが、それらすべてに平等に仏さまはいらっしゃるということです。つまり、ここの馬でさえも忌み嫌うことはないのであって、すべてに仏性はあると言い切ります。ここがお大師さまの心の広さではないかと思います。
 大師堂は、本堂の右手前にあり、その大師堂の左側には「みちびき弘法大師」像が立っています。いかにも、歩いているようなお姿で、花立てにはナノハナとスイセンが生けられていました。
 大師堂のなかには、黄金色の仏さまがいたので、おそらく五重塔に安置されていたものかもしれないと思いましたが、納経所て聞いてくるつもりでしたが忘れてしまいました。もし、機会があれば、解体修理が終わった五重塔を見てみたいものです。
 もう一つ聞きたかったのは、山号の「七宝山」です。第68番と第69番札所がともに「七宝山」というのはわかりますが、ここ本山寺もおなじ山号です。帰ってきてから調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。
 次は第71番札所弥谷寺です。ここも難所の一つと聞いているので、なるべくあまり足の疲れていない午前中にお詣りしたいと思っていました。
 今の時間は午前9時50分です。ナビに弥谷寺を入力すると、11.8q、所要時間26分と出ました。

 第70番札所 七宝山本山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 本山に 誰か植えける 花なれや 春こそ手折れ たむけにぞなる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.71

 第71番札所弥谷寺へは、国道11号線を経由して進みます。県道48号線で左折し、三豊市三野町大見の辺りで右折し、「ふれあいパークみの」の手前から駐車場に入ります。
 そこに車を駐めて歩きます。もし足が不自由なら、マイクロバスで弥谷寺の近くまで行けるそうです。でも、今日はまだ2つめの札所なので、足取りも軽く、石段を上り始めました。少し上ると仁王門があり、自然木の扁額に「剣五山」と書いてあり、右の柱には「真言宗大本山弥谷寺」、左には「弘法大師御修行道場」と白地で書かれた板が掛けてありました。
 そこからが大変で、誰が数えたかはわかりませんが、全部で540段あるそうです。なかでも、金剛拳菩薩のお祀りしてある先の赤い手すりのある階段は、「百八階段」と呼ばれ、おそらくここを上れば108の煩悩がそぎ落とされるのではないかと思いながら上って行きました。
 ここを上りきった上には、大師堂があり、その下の道を右に進むと、右の山手には大塔が見え、そこに上るには、石をくりぬいて造った急な石段を上るようです。そこはスルーして、さらに進むと、また右手の石垣を高く積み上げた上に「修行大師像」が立っていました。その先の左側にまた石段があり、その途中の磨崖仏をお詣りしながらさらに上ると、やっと本堂です。

 さすが、ここまで上ってくると、見晴らしはよく、ちょっと一休みして眺めました。それからゆっくりとお詣りしました。
 石段は、上るより下りのほうが足を痛めやすいので、ゆつくりと歩きました。この本堂から修行大師像のところまででも170段あるそうで、ここにいる人は足腰が丈夫になるのではないかと思いました。
 そして、先ほど通り過ぎてきた大師堂の石段を上ると、その一番上のところに大黒さまが祀られていました。そこにお詣りして、そこで靴を脱ぎ、そこから大師堂に入りました。
 石段を上るときに出会ったお坊さんに、あの丸窓のところが「獅子の岩屋」だから、お詣りしたら、その左手から奥に入り、そこにもお詣りしたほうがいいと勧められました。そこで、行ってみると、まさに獅子が口を開いたかのような岩窟で、言い伝えではお大師さまが7歳のころに学問に励んだところだそうです。ここには、大師像のほかに阿弥陀如来像や弥勒菩薩像も安置されています。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「生れ生れ生れ生れて 生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死んで 死の終りに冥(くら)し」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、我々は生まれてくるときも暗く、死んでしまうときも冥いというような意味です。たしかに考えてみれば、その通りですが、生まれてくるときには何もわからずに生まれてくるからいいのですが、死ぬときには意識があるから怖いのです。
 この「獅子の岩屋」の洞窟を見ると、昔は、昼は明かり取りから光りが差し込むから明るいでしょうが、夜になればお月さまが出ていなければ真っ暗です。まさに、毎日が生と死の繰り返しみたいなものだったかもしれません。
 ここでお詣りをして、再び、あの長い階段を下ります。考えただけでも、ちょっと憂鬱になりますが、今日はある程度時間をとってあるので、ゆっくりと下ることにしました。
 ここに着いたのが午前9時12分、駐車場まで下ったのが10時15分でした。つまり、1時間ちょっとかかったことになります。それでも、難所と聞いていたところが終わり、なんかホッとしました。
 次は第73番札所出釈迦寺です。本来は第72番に行くのでしょうが、ほとんどのツアーの案内によると、先に第73番札所に行くと書かれていたので、そのようにしました。
 ナビに入力すると、4.7q、所要時間10分と出ました。

 第71番札所 剣五山弥谷寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 悪人と 行き連れなんも 弥谷寺 ただかりそめも 良き友ぞよき



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.72

 第73番札所出釈迦寺へは、県道48号線で左折し、三井之江東の信号を左折し進むと、ため池の間の道を進み、突き当たりの左側に駐車場があります。
 そこに車を駐め、参道を歩いて行くと、左側に弘法大師石像や大きな青銅製の大師像などが迎えてくれます。さらに歩くと、今度は右側に十二支の守り本尊がまつられていて、その先に石段があります。
 その石段の上に山門があり、「我拝師山」と金文字で彫られた扁額が掲げられています。そこをくぐると、こじんまりとした境内地です。
 山門を入ってすぐを右手に行くと、「求聞持大師」像がまつられていて、その由来書には当地でこの求聞持法を修されたことにより当山院号を「求聞持院」という、と書かれていました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「爰(ここ)に一りの沙門有り 余に虚空蔵聞持の法を呈(しめ)す 其の経に説かく「若し人 法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば 即ち一切の経法の文義暗記することを得」と。」(三教指帰)というのがありますが、お大師さまがいろいろなことができたのも、もしかすると、この虚空蔵聞持の法のおかげかもしれません。
 本堂は、山門からまっすぐのところにあり、右隣の大師堂とほぼ同じ大きさですが、屋根の形が少し違っています。こちらの方が、サラッとしていて、屋根瓦の四隅に宝珠の鬼瓦がのっていました。

 本堂でお詣りし、次は大師堂に行くと、こちらの屋根には向拝がついていて、このほうがひさしがあるだけお詣りしやすいのです。その向拝の鬼瓦には、松竹梅に囲まれた大きな龍が顔を出しています。巴瓦も珍しく、この辺りのお寺は、屋根瓦に凝っているのかもしれません。
 本堂の裏側に行くと、「捨身ヶ嶽遙拝所」があり、そういえばこの先の捨身ヶ嶽は、お大師さまが「私は仏法に入って、一切の衆生を済度せんと欲す。私の願いが成就するものならば、お釈迦様よ、姿を現してその証を与え給え。成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に奉げます」といって、断崖絶壁より飛び降りると、そこに紫色の雲が起こり、お釈迦さまが現れ、さらに羽衣を身にまとった天女により真魚、すなわち後の空海を抱きとめたといわれているところです。
 ここから見える「捨身ヶ嶽禅定」までは、お寺の境内から50分ほどかかるそうですが、そこからさらに100mほど登るとお大師さまが捨身された行場があるそうです。今回は、そこまでは行けないので、ここからお詣りさせていただきました。
 帰り道、気づいたのですが、「山あれば 山を観る」という山頭火の句碑が建っていました。そういえば、 山頭火は晩年、松山市に移住し「一草庵」を結び、翌1939(昭和14)年、この庵で58年の生涯を閉じました。この句は「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く」で、句集『草木塔』に掲載されています。
 駐車場に戻り、時計をみると午前10時50分でした。次は第72番札所曼荼羅寺です。ナビで確認すると、500mほどです。そういえば、その近くを先ほど通ってきたようです。

 第73番札所 我拝師山出釈迦寺 (真言宗御室派) 本尊さま 釈迦如来
 ご詠歌 迷いぬる 六道衆生 救わんと 尊き山に出ずる 釈迦寺



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.73

 第72番札所曼荼羅寺は、やはり先ほど知らずに通ってきた近くにありました。車だと、2分しかかからず、後から思えば、こちらをお詣りしてから第73番札所出釈迦寺に行っても、何も問題はなさそうでした。
 駐車場は、仁王門の左側にあり、20台以上は駐車できそうです。この駐車場は新しいようで、2014年に仁王門の両隣にあった旧門先屋旅館の土地建物を購入し、駐車場にしたようで、お寺側は白壁で区切られていて、新たに石組みや植栽もおこなわれているようでした。
 また、仁王門の両側も白壁になっていて、とてもすっきりとしています。そこに「我拝師山」と彫られた扁額が掲げられ、真正面に本堂が見えました。参道の右側にはしだれウメが咲いていて、左側にツバキの花が咲いていて、その先に石の小さな太鼓橋があり、そこを渡って行きます。
 その橋を渡った左側に手水舎があり、そこで手や口をそそぎました。そして、次は本堂です。

 本堂にはご本尊、金剛界大日如来をおまつりしているそうですが、右側にある観音堂に胎蔵界大日如来も祀ってというので、どちらもお詣りさせてもらいました。
 そして、本堂の左側に大師堂があります。大師堂は鎌倉様式だそうですが確たる古文書もなく、建築年代は不明だそうです。そして、2013(平成25)年に改築され、まだ新しさが残っていました。
 この大師堂に向かう参道のところから見上げると、ちょうど、「我拝師山」という山号の通り、「捨身ヶ嶽」が見えます。そこには行けなかったのですが、ここからも出釈迦寺からも拝めたので、悔いはありません。
 そういえば、お大師さまの言葉に「無尽の荘厳 大日の慧光を放ち 刹塵の智印 朗月の定照を発(ひら)かん」(性霊集)というのがありますが、ここのご本尊は大日如来で、この智印というのは、智拳印ともいい、ほとんどの金剛界大日如来の結んでいる印です。この意味するところは、大日如来の智慧の光で月のような変わらぬ明るさで衆生を救って欲しいという願いが込められています。というのは、この文章は「高野山万燈会の願文」ですから、月の光が取りあげられたのかもしれません。
 このお寺の近くに「水茎の丘」という丘があり、そこに西行法師が庵を建てて7年ほど暮らしていたそうです。ときどきはここに来て、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたということで、この石を「西行の昼寝石」と詠んでいるそうです。また、ここには不老松という樹齢千年以上の松があり、今も生き生きと育っています。
 お詣りが終わり、仁王門で一礼し、車に戻りました。時間は午前11時10分です。次は第74番札所甲山寺です。ナビを見ると、2.7q、所要時間8分で行くようです。

 第72番札所 我拝師山曼荼羅寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 わずかにも 曼荼羅拝む 人はただ 再び三度 帰らざらまし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.74

 第74番札所甲山寺へは、県道48号線を通って、善通寺市仙遊町付近の橋のすぐ手前から左折し、辻村建設(株)の砕砂工場のわきを走って行きます。400mほどで甲山寺の駐車場に着きます。
 ここは広い駐車場で、この日はほとんど車が駐まっていなかったので、山門のすぐ近くに車をおきました。
 山門の前に立つと、真っ青な空で、白壁に囲まれた境内地がその間から見え、まっすぐが手水舎です。そこで手や口をすすぎ、そこを左に進むと、また山門があり、その先の6段ほどの石段を上ると本堂です。
 その右手前に青銅製の「弘法大師像」が立っていました。そのわきのヤブツバキの大きな木に、花が咲いていました。
 ここは甲山という標高87mの丘みたいな北麓にあり、その前は先ほどそばを通ってきた川が流れています。この甲山という由来は、この山の形が毘沙門天の鎧の兜に似ているからだそうで、そこから「甲山寺」と名づけられたようです。
 本堂には、ご本尊の「薬師如来像」がまつられ、それは檜の一木造りだそうです。このお寺の山号が「医王山」というのも、薬師如来をご本尊としてまつっているからのようです。

 お大師さまは、子どもの頃にはこの辺りも遊び場だったそうで、神童ぶりを発揮しながらも、元気いっぱいだったようです。そのときの遊びながらの体力増強が、修業時代に山野を抖藪できた原動力になったと思います。やはり、よく遊びよく学びの精神こそが大切です。
 お大師さまの言葉に、「枝を攀(よ)ずる者は悉く根を極むるに驕る」(性霊集)というのがありますが、この意味は、枝先によじ登ろうとすれば木の根元の強さを過信してはいけないということです。
 これなども、子どもの時に木登りをした経験があればわかることですが、木の種類によっても枝の強さが変わりますし、根の張り具合によっても違ってきます。この教えなどは、どのようなときにでも考えなくてはならないことの一つです。
 大師堂は、本堂の左手の一段高いところにあり、横からでも、いったん石段を下りて、大師堂前の参道から石段を上って行くこともできます。大師堂前の石製の大香炉は、屋根の下がコンクリート板になっていて、もし火がついても大丈夫なようになっていました。これは安全性からいってもいいことだと思いました。
 その大師堂の左に、毘沙門堂があり、そのお堂の奥が岩窟になっていて、その奥にお大師さまが彫ったといわれる毘沙門天像がまつられていました。でも、中は暗くて、お姿は見えませんでした。
 納経所でご朱印と御影などをいただき、車に戻ると、午前11時35分でした。次は第75番札所善通寺の予定ですが、ここは時間をかけてゆっくりとお詣りしたいので、先にお昼ご飯にすることにしました。
 昨夜泊まったホテルのエレベーターの中に、金刀比羅宮近くの「神椿」の案内が張ってあって、食事の後にそこの駐車場に車を駐めたまま金刀比羅宮の参拝もできると書かれていました。そこで、その「神椿」をナビに入れると、ここから10.6q、所要時間29分と出ました。ここで昼食を食べて、それから金刀比羅宮をお参りして、また第75番札所善通寺に戻ってくることにしました。

 第74番札所 医王山甲山寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 十二神 味方に持てる 戦には 己と心 かぶと山かな



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.75

 第75番札所善通寺へ行く前に、昼食を食べることにし、「神椿」へと向かいました。ここは琴平公園を回り込むようにして金刀比羅宮の近くまで専用道路があります。そこで管理人から食事の有無を聞かれ、食事をするというと、通してくれました。ただ、一方通行なので、青信号にならないと通行できません。そして神椿専用駐車場に車を駐め、その前にかかる『えがおみらいばし』を渡るとすぐに神椿です。そこで食事をして、そこから金刀比羅宮へ上る階段の500段目のところに出られます。
 この金刀比羅宮は昔から階段が多いことで知られていて、1368段もあるそうです。しかし、ここから500段目のところに出て、1837年に建てられた「旭社」まで、128段上っただけで着きます。とても立派な建物なので、ここが本宮だと勘違いして帰った人もいるそうです。ご本宮までは285段上ると到着です。つまり、奥宮、正式名称は「厳魂神社」で、ここまで上れば下から1368段というわけです。
 もちろん、今回の目的は四国八十八ヵ所お遍路なので、本宮と三穂津姫社をお参りして下りました。「神椿」で昼食を食べたので、285段上っただけで、参拝できたことになります。また神椿専用駐車場に戻り、時計をみると午後1時46分です。ここから予定の第75番札所善通寺までは、8.8q、所要時間25分とナビには出ました。それにしたがって、車を走らせました。
 善通寺の駐車場に着いたのは、午後2時10分です。先ずは本堂に向かいました。善通寺の境内は総面積約45,000平方メートルで、本堂、善通寺では金堂といいますが、これら伽藍があるのは東院で、創建時以来の寺域だそうです。そして御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡で、ここがお大師さまの誕生したところと伝えられています。
 現在の金堂は、1688〜1704(元禄年間)に再建されたもので、ご本尊は薬師如来坐像で、高さが3mほどあり、1700(元禄13)年に御室大仏師運長法橋によって造像されたといいます。その金堂の右手にあるのがシンボルともいえる五重塔で、何度か建て替えられたそうですが、現在の五重塔は総高45mで、1845(弘化2)年に始まり1902(明治35)年に寛政したそうです。

 金堂をお参りし、そして再び仁王門をくぐり、誕生院に戻りました。もちろんここで御影堂にお参りします。ここも大師堂ではなく、高野山と同じように御影堂と呼んでいるようで、現在のお堂は、1831(天保2)年に建立され、1936(昭和11)年に修築されたものだそうです。
 ここの地下には、約100mの「戒壇めぐり」があり、宝物館拝観料とがセットで500円なので、それも体験しました。本当に真っ暗で、ほぼ中央のお大師さまが生まれたところとされるところだけは、明るくなっていて大日如来がまつってありました。
 お大師さまの言葉に、「一身 独り生没し 電影 是れ無情なり 鴻燕 更(こもご)も来り去り 紅桃 昔芳(せきほう)を落す」(性霊集)というのがありますが、人は孤独のうちに生まれ死んでしまいます。それは稲妻の光のように無情で、雁と燕が次々にやって来ては去り、桃の花が咲いたと思ったら散ってしまっています。つまり、世の中のことは、あっという間のできごとかもしれません。
 だからこそ、今、生きている今を大切にしなければならないのです。
 戒壇めぐりの後に、御影堂の左側にある宝物館に行きました。その途中に「弘法大師 産湯の御水」と書かれた小さな建物があり、このなかの井戸が産湯に使われたということです。宝物館には、平安時代の国宝「一字一仏法華経 序品」がありましたが、よく見ると複製で、たまには原本を展示することもあるそうです。なかでも平安時代に造られた「毘沙門天立像」が力強く感じられ、見応えもありました。
 ここ善通寺は観たいところがたくさんあり、1時間20分ほどいましたが、この讃岐でもう1つ見てみたいと思っていたのが満濃池です。地図で確認すると、泊まっているホテルよりさらに遠いようです。
 そこで、次は満濃池に行くことにして、ナビに入力すると、12.6q、所要時間23分と出ました。
 その満濃池に着いたのは、ちょうど午後4時ころで、曇りがちの空にとても広々としたところでした。この満濃池は、難工事でなかなかできなかったので、821年(弘仁)12年にお大師さまが築池別当として派遣され、約3ヵ月ほどで改修が終わったということです。しかし、歴史的には、その後も決壊と復旧を繰り返し、現在に至っているそうです。そして2005年に、財団法人ダム水源地環境整備センターにより、「ダム湖百選」に選定されています。
 ここからホテルまでは、5.3q、所要時間10分です。実際にホテルに着いたのは、午後4時40分です。今日までの総走行距離は2,147.9q、今日1日の走行距離は78.9qでした。

 第75番札所 五岳山善通寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 我すまば よもきゑはてじ 善通寺 ふかきちかいの 法のともしび



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.76

 3月10日金曜日です。天気は快晴で、車の運転をするときには、サングラスが必要でした。ホテルは午前7時47分に出発しました。
 先ずは第76番札所金倉寺へ行くのですが、ナビで確認すると、9.2q、所要時間14分と出ました。ホテル前の国道319号線を善通寺市の方に進み、善通寺市原田東の信号を左折し、県道33号線 に入ります。
 そして善通寺市金蔵寺町の信号を左折し、100mほどで再び左折すると駐車場があります。大きな駐車場なので、ゆったりと駐められます。
 仁王門から入ると、その両側は黄色い壁になっていて、その手前に大きな石灯籠が対になってあります。火屋の部分が木の格子になっていて、ちょっと珍しいと思いました。仁王門をくぐり入っていくと、その左側に大きなクスの木があり、注連縄が張ってありました。
 そして参道を進むと、また左手に「お遍路の 鈴の法楽 誕生寺」という句碑があり、そういえば、ここは智証大師(円珍)さんの誕生されたところでもあります。そして、さらに進むと、真正面に本堂があります。
 現在のお堂は、湖東三山西明寺の本堂を模して造られたそうで、1983(昭和58)年11月に落慶しました。ご本尊は薬師如来で、向かって右に不動明王、左に阿弥陀如来の三尊をまつっています。やはり、天台宗のお寺です。
 でも、ご詠歌が「〜真言加持の 不思議なりけり」とあるから、おもしろいものです。本堂の前には、「金箔 大黒天」がまつられ、「金箔をはっておかげを頂いて下さい」と書かれていました。大黒天の左肩のところには、2匹のネズミがいました。

 本堂の左奥には大師堂があり、その右手前には石の鳥居があり、訶梨帝母堂です。
 大師堂には、中央に智証大師、向かって右側に伝教大師、左側には天台大師、そして右奥に弘法大師、左奥に神変大菩薩と、五祖師を一堂におまつりしています。これは四国霊場で唯一だそうで、その故もあって大師堂を祖師堂と金倉寺ではいいます。
 このお堂は、もとの本堂、ここでは金堂といいますが、それを移築したものです。
 そういえば、お大師さまの甥(姪の子)が智証大師で、ここ金倉寺を訪れたときに3歳の円珍を見て「文殊菩薩の応化なり」と驚いたと伝えられています。この円珍が天台宗寺門派の開祖となり、智証大師となられるわけです。
 そういえば、天台宗といえば最澄さんとともに唐に渡った縁もあり、お大師さまに「理趣釈経」の借覧の申し入れをされたことがあります。そのときに、お大師さまは、修行の大切さを指摘し、「文は是れ糟粕(そうはく) 文は是れ瓦礫なり 糟粕瓦礫を受くれば 即ち粋実至実を失う」(性霊集)と答えたといわれています。この意味は、文というのは糟粕、つまりは酒粕であり、瓦礫であるから、それのみをいくら知ったとしても本質を失ってしまうというようなことのようです。
 再び仁王門から出て、駐車場に戻り車に乗り込みました。時間は午前8時35分です。
 次は第77番札所道隆寺です。ナビに入力すると、4.6q、所要時間9分と出ました。

 第76番札所 鶏足山金倉寺 (天台寺門宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 まことにも 神仏僧を ひらくれば 真言加持の 不思議なりけり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.77

 第77番札所道隆寺へは、県道25号線で右折し、予讃線の踏切すぐ手前を右折し、道案内にしたがって進むとお堂が見えてきます。その付近にも駐車場はありますが、そこを右折し進むと、仁王門の近くにも駐車場があります。そこに車を駐めました。
 この辺りは金倉寺を開基した和気道善の弟、道隆の桑畑であったそうで、その中にあやしく光る桑の木を見て矢を放ったところ、そこに乳母が倒れていたそうです。それを嘆き悲しんだ道隆は、その桑の木で薬師如来を刻み、お堂を建てて、供養したそうです。
 このお寺の第3世住職は、お大師さまの実弟の真雅僧正で、第4世は智証大師、第5世は聖宝理源大師と高僧が相次いで住職になられ、栄えたといいます。
 現在の本堂は天正年間に再建されたといい、仁王門から本堂へと進む参道の左側に細身の観音像がたくさん建っています。これを拝みながら進むと、なんとなく優しい気持ちになりそうです。そして、本堂近くなると、両側に建っていました。
 本堂には、大きな扁額が掲げられていて、「薬師如来」と金文字で彫られています。その前に立つと、中央にお薬師さま、右側に日光菩薩、左側に月光菩薩、そしてその右側に持国天と多聞天、その左側には増長天と広目天がおまつりされています。

 本堂の右手には二重塔があり、その右側に大師堂があります。大師堂の右手前には、お大師さまと衛門三郎の銅像があり、ひざまずいて両手をお大師さまに捧げているようなお姿です。
 ここ四国八十八ヵ所霊場の由来に、今までまわったところにもこの衛門三郎の話がいくつも伝わっています。それによると、むかしの話しですが、伊予の国浮穴の郡荏原の郷(現在の松山市久谷恵原荏原)というところに、河野衛門三郎という強欲非道な大百姓が住んでいたそうです。そこに、旅のお坊さんがやって来たのですが、追い返そうとしても動かないので、竹箒でお坊さんの椀をたたき落としてしまったそうです。すると、その碗は8つに割れて飛び散り、次の日から衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいました。するとある晩に衛門三郎の夢枕に旅のお坊さんが現れ、「今までのことを悔いて情け深い人になれ」 と告げたそうです。そこで衛門三郎は、旅のお茫さんがお大師さまと気づき、四国を20数回お遍路したそうですが、その途中で倒れてしまい、そのときにお大師さまが現れ、「これでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と声をかけると、もう一度河野一族の世継ぎとして生まれ変わりたいと言うと、「衛門三郎再来」と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせたそうです。それから数年後に、望み通り伊予の国道後湯築の領主、河野息利の男の子として生まれたそうです。
 この話しには、いろいろなパターンがあるようですが、つまりは強欲非道はダメだということです。そういえば、お大師さまの言葉に、「仏心は慈と悲となり 大慈は即ち楽を与え 大悲は即ち苦を抜く 抜苦は軽重を問うこと無く 与楽は親疎を論ぜず」(性霊集)というのがありますが、これはどんな人にも親密さの違いもなく、仏心というのは抜苦与楽をなされるというような意味です。よく、観音さまの慈悲の心をあらわすときにも、この抜苦与楽といいます。
 この大師堂でお詣りしていて気づいたのですが、相方の金剛杖の鈴がなくなっていました。どうりで音がならないと思いました。そこで、仁王門の前の「サンエイ遍路の店」に寄ると、すぐに代りの鈴を着けてくれて、50円ということでした。さらにお接待だからと、お茶までご馳走になりました。ほんとうに有り難いことです。
 車に戻ると、午前9時10分です。次は第78番札所郷照寺です。ナビで見ると、7.9q、所要時間21分です。

 第77番札所 桑多山道隆寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 ねがいをば 仏道隆に 入りはてて 菩提の月を 見まくほしさに



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.78

 第78番札所郷照寺へは、県道33号線を丸亀市まで進み、浜町付近から案内板があるので、その指示にしたがいます。
 駐車場に入る道はとても狭く、その先の駐車場はとても広く、相当数の乗用車が駐められそうです。そこに車を駐め、山門から入りました。山門の左の柱には、「厄除根本霊場」とあり、地元では「厄除うたづ大師」と呼んでいるそうです。
 ここはまた、四国霊場で唯一の「時宗」のお寺でもあります。
 山門を通って境内に入ると、そこからの見晴らしは抜群で、この日は、とても天気がよかったので、瀬戸内海にかかる瀬戸大橋もよく見えました。
 本堂は庫裡と向かい合うように建っていて、右手には形の良い松の木が植え込まれていました。本堂の屋根には、鴟尾があり、破風の部分には、真新しいような金色の金具が飾られ、そこには菊のご紋章が刻まれています。
 見るからに、とても豪壮なお堂です。

 本堂のすぐ左隣から大師堂に上る石段があり、その左手前には「厄災消除 開運招福 厄除大師」と彫られた石塔が立っています。そこから上ります。
 上りきると唐様の屋根のついたところがあり、そこに6個の「厄除大師」と書かれた赤い提灯が下がっていました。そして、そこには唐金の香炉があり、ロウソクや線香なども売っていました。
 大師堂には、「厄除祈祷殿」の板が掲げられていたので、ここでご祈祷もするようです。もともと、ご祈祷は加持祈祷といい、真言密教においては、手に印契を結び、真言などを唱え神仏のご加護を祈る修法で、大きく分けて息災・増益・敬愛・調伏の4つがあります。
 しかし、お大師さまの言葉に、「加は往来渉入(しょうにゅう)をもって名(みょう)となし 持は摂(せっ)して散ぜざるをもって義を立つ すなわち入我我入これなり」(大日経開題)と、「大日経」の大要をまとめた注釈書に書いてあります。つまり、加は行ったり来たして互いに入り込むことであり、持はバラバラにしないようにまとめ上げること、だから我に入り我が入るということです、と説明しています。
 郷照寺は、「時宗」の開祖である一遍上人が1288(正応元)年に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開いたことから時宗になったようですが、もともとは醍醐寺を開山した聖宝理源大師(832〜909)がここで籠山し修行したと伝えられているので、いわば真言と念仏の2つの教えが伝わっているようです。
 大師堂の左手に地下に下がる階段があり、「万躰観音洞」と呼ばれています。その地下回廊には、全国の信者さんが奉納した30,000の観音小像がまつられていました。
 そして、納経所でご朱印と御影などをいただき、車に戻ると、午前9時52分でした。
 次は第79番札所天皇寺です。ナビで確認すると、7.5q、所要時間15分と出ました。

 第78番札所 仏光山郷照寺 (時宗) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 踊り跳ね 念仏唱う 道場寺 拍子を揃え 鐘を打つなり



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.79

 第79番札所天皇寺へは、国道11号線を経由して行きます。目印は「崇徳天皇 白峰宮」で、そのすぐわきが天皇寺です。
 駐車場は境内の東側にあり、10台ほど駐めることができます。
 寺名「天皇寺」というのは珍しく、その由来を聞くと、讃岐に流された崇徳上皇の崩御を都に伝える間、ここのお寺に棺が安置されていたことから名付けられたそうです。現在も宮内庁の管轄で「崇徳天皇 白峯陵」として、四国第81番霊場白峯寺近くにまつられています。
 そして、明治の神仏分離令により、お大師さまの開かれた摩尼珠院は廃寺とされ、天皇社は白峰宮となって、その初代神官に摩尼珠院主が赴任されたそうです。明治20年に、いくつかあった末寺の筆頭、高照院がここに移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっているそうです。
 本堂は、白峰宮の参道を横切るように進むと、その右側にあります。ご本尊は、お大師さまが弥蘇場の霊域にあった霊木でつくったとされる十一面観世音菩薩で、脇侍は阿弥陀さまと愛染明王だそうです。

 本堂の右手にはサクラが咲いていて、のどかな感じがしました。たしかに崇徳天皇ときくと、あまりにも悲しい出来事が思い出されますが、それも昔々の話しです。本堂では、そのことも含めて、ご本尊さまにお詣りされていただきました。
 大師堂は、すぐその左隣にあり、内部をみると、護摩壇の向こうにある厨子は閉じてありましたが、おそらくお大師さまのお姿が納められているようです。
 本堂と大師堂の前の境内地はとても狭いのですが、きれいに掃除され、新たな苗木も植えられていました。境内地もそうですが、教えなどもすぐ身近にあります。というよりは、自分の中にあるのかもしれません。
 お大師さまの言葉に、「法身何くにか在る 遠からずして即ち身なり 智体云何(いかん)ぞ 我が心にして甚だ近し」(性霊集)というのがありますが、まさにその通りです。まさに身近にありすぎて、気づかないこともあります。広大な広さよりも、小さな空間で見つめ直すからこそ、気づくこともたくさんあります。
 本堂、大師堂でお詣りし、駐車場に戻る手前に、朱塗りの立派な鳥居があります。これはよく見かける明神鳥居の左右にやや小さい脇鳥居を組み合わせたもので、とても珍しいといいます。案内には、ここの他に奈良の大神神社など全国で3ヶ所にしかないということです。
 そして、納経所に行き、ご朱印と御影などをいただき、車に戻りました。時間は午前10時32分です。
 次は第80番札所國分寺です。場所は同じ香川県坂出市内ですが、ナビでは7q、所要時間16分のようです。

 第79番札所 金華山天皇寺 (真言宗御室派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 十楽の 浮世の中を たずねべし 天皇さえも さすらいぞある



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.80

 第80番札所國分寺へは、予讃線に添って走る県道33号線を高松市の方へ走ります。10分ほど走ったところに、「こだわり麺や 坂出鴨川店」というのがあり、まだお昼時間には少し早いのですが、セルフうどん屋さんに入りたいと思っていたのでそこにしました。看板には、たしかに大きく「うどんセルフ」とありましたが、最近増えてきたうどん屋さんと同じものでした。でも、讃岐に来たからには、讃岐うどんを食べないわけには行かないでしょう。
 お店に入って、注文して、食べてからお店を出るまで、約20分でした。これも昼食にうどんを食べる良さかもしれません。
 お店の前の道路をまた走り、国分駅近くのY字形の道を案内にしたがって進むと、ところどころに道案内があり、駐車場の案内もありました。
 駐車場は、ちょうど仁王門の前で、20台前後は駐められそうです。そこに車を駐めて、仁王門から入りました。
 仁王門は大きく、そこに左から門かぶりの松の枝が伸びていて、時代を感じさせます。そこで一礼し境内に入ると、すぐから四国八十八ヵ所の「ミニ霊場」があり、阿波の国徳島県は「発心の道場」、土佐の国高知は「修行の道場」、伊予の国愛媛は「菩提の道場」、そして讃岐の国香川は「涅槃に至る道場」の順にお詣りできるようになっています。
 広い境内地には松の古木があり、右手には鐘撞き堂があり、そこに吊されている梵鐘は、創建当時から残る四国最古の鐘だそうです。
 さらに進むと、石橋があり、そこを渡ると正面に本堂があります。このお堂は、鎌倉中期に再建されたもので、全面と背面に桟唐戸のあり、国の重要文化財に指定されています。ご本尊の十一面千手観世音菩薩は、ケヤキの一本造りの秘仏だそうです。

 本堂でお詣りし、右に進むと、赤い鳥居に「良縁」という額が掲げられていて、そのわきに「願かけ 金箔縁結び」の石像があり、金箔が貼られていました。この金箔は300円だそうです。
 そういえば、大師堂の門の右側にも「願かけ金箔大師像」がありました。しかも、ここにはその金箔を貼るやり方も書かれていて、願い事も先祖供養から合格祈願まで、いろいろ並べらて書かれていました。
 この寺の大師堂は、多宝塔のような形で、鉄筋コンクリートのお堂です。山門をくぐり入っていくと、千体地蔵がまつられていて、そのわきを通って納経所に入っていきます。つまり、その中から大師堂をお詣りするのです。
 その納経所も遍路用品だけでなく、多種多様なお守りがあり、なかには、「びんぼう封じ」や「万病封じ」、さらには「糖尿病ふうじのお箸」などもあり、まさにお守りのスーパーマーケットみたいでした。おもしろいので、写真を撮ろうと思いましたが、「撮影禁止」と書かれていたので、撮影はできませんでした。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「自心に迷うが故に 六道の波 鼓動し 心原を悟るが故に 一大の水 澄静なり」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、自分自身に迷いがあったり、人からいろいろと言われて迷ったり、あらゆる迷いの世界の波が揺れ動いてしまいます。でも、心の本源を悟ると、唯一広大な水は静かに澄んでいるというような意味です。お守りも大事ですが、それ以上に心の本源に迫ることが大切なのではないかと思いました。
 駐車場に戻り、時計をみると、午前11時16分です。次は第81番札所白峯寺です。場所は香川県坂出市ですが、白峰山の中腹にあります。ナビでは13q、所要時間26分と出ましたので、もし食べるところがあれば、その途中で昼食にしたいと思います。

 第80番札所 白牛山國分寺 (真言宗御室派) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 国を分け 野山をしのぎ 寺々に 詣れる人を 助けましませ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.81

 第81番札所白峯寺へは、県道188号線を高松市の方向に進みます。そして、県道180号線を経由して白峰山へと上って行きます。そして案内板にしたがってお寺の道路に入ります。
 その突き当たりが駐車場で、すぐに山門が見えました。駐車場には、20〜30台は駐められそうです。この他にも、途中に駐車場がありましたが、なるべくなら、ここに駐めた方がいいようです。
 そこに車を駐め、その山門から入りました。そこに「綾松山」と金文字で彫られた扁額が掲げられ、その下には注連縄が下げられ、形としては高麗形式の門の左右に、2棟の塀を連ねた堀重門という珍しい門です。その手前には小さな石橋がかかっていました。
 そこを抜けると、正面に護摩堂があり、ここが納経所にもなっています。そこを左折し進むと、その正面が「頓証寺殿」で、崇徳上皇の霊をまつる法華堂になっています。そこに入る門の右手前の92段の石段を上ると、正面にあるのが本堂です。
 お詣りしやすいように燭台や線香を立てるところには屋根がかかっていて、さらにその格子の天井には吊り灯籠が36個ほどさがっていました。この吊り灯籠は、ここの開創1200年と四国八十八ヵ所霊場開創1200年、さらには第75代孝徳天皇850年忌の各種記念として「吊灯籠奉納のすすめ」と書かれたものが掲げられていました。

 大師堂は、その本堂の右手にあり、大きな香炉のわきに、大黒天石像が立てられていて、そこには「身も心も裕福」と書かれていました。
 先ずは大師堂でお詣りし、それから大黒さまと、本堂の左脇にある薬師堂などをお詣りしました。この辺りは高台ということもあり、山を背にしていることもあり静かな雰囲気です。さらにここからは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋も見えます。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「三密 刹土に遍く 虚空に道場を厳(かざ)る 山毫(さんごう) 溟墨(めいぼく)を点じ 乾坤は経籍の箱なり」(性霊集)というのがありますが、三密というのは身密、口密、意密で、それがあまねく国土に満ち、虚空に荘厳な世界を作っています。そして、山は筆となって大海原の墨池に墨をつけ、天地は経典の入れ物となるというほどの意味です。ここは白峯であり、眼下に広がる瀬戸内海を硯の墨池に見立てて描くというのは、なんとも豪快な話しです。
 さきほど、開創1200年と書いてありましたが、ここ白峯寺はお大師さまと縁のつながる智証大師とが創建された由緒あるお寺です。もちろん、今までの間にはいろいろな栄枯盛衰はあったでしょうが、こうして連綿と続いているからこそ有り難いのです。
 再び、92段の石段を気をつけ下りながら、そう思いました。
 駐車場に着いたら12時30分です。次は第82番札所根香寺です。場所は、高松市中山町にあり、ナビで確認すると、7.4q、所要時間13分です。
 ここも次の根香寺も、山のなかなので、ちょっと早めでしたが、昼食をすませておいてよかったです。

 第81番札所 綾松山白峯寺 (真言宗御室派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 霜寒く 露白妙の 寺のうち 御名を称ふる 法の声々



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.82

 第82番札所根香寺へは、県道188号線を高松市の方向に進みます。山道をしばらく走ると丁字路があり、左に行くと五色台少年自然センターに行くので、右折します。少し下ると、右側に根香寺の案内板があり、その道を上っていくと駐車場があります。
 ここはけっこう広く、その駐車場の右奥に仁王門があります。そして、その両側には大きな草鞋が下げてあり、その草鞋に触れながら、ここまでお詣りを続けられたことを感謝しました。
 その仁王門をくぐると、いったん石段を下ります。その先が平らな参道で、また石段を上ります。ちょうどその高さが仁王門と同じで、そこからまだ先に石段があります。つまり、いったん下がってまた上がるので、おそらくここの境内地の地形がそのようになっているみたいです。
 その石段を上ったところに納経所があり、さらに石段が続きます。その上りきったところに本堂がありました。本堂を囲むように凹字型の回廊があり、そこには「万体観音」というぐらいの観音像が並んでいました。
 その内庭には、白梅が咲いていて、そこはかとなく薫ってきます。おそらく、囲まれているからなのでしょうが、とても清々しい気分です。椿も咲いていました。

 本堂への最後の石段は、真新しい白御影石のもので、とても上りやすく、そこまでいたる石段は自然石なので、それも風情がありました。まさに、ここは石段だらけの山岳寺院です。
 本堂でお詣りし、納経所まで石段を下り、その筋向かいにある大師堂に行きました。このお堂は、お詣りする外陣のほうが大きく、靴を履いたままお詣りできるので、雨が降ったときなどはとてもいいと思います。その柱の内側に長いすがあり、お遍路さんが休んでいました。
 このお寺に長く居るということは、ここが気持ちのよいところだからです。そういえば、お大師さまの言葉に、「それ釈教は浩汗(こうかん)にして際なく涯(はて)なし。一言にしてこれを蔽(おお)えばただ二利に在り」(御請来目録)というのがありますが、たしかに仏教は広大無辺な教えですが、それを一言でいえば、二利、つまり自利と利他です。自利というのは自分が修行して悟りを得ることですし、利他というのは他の人のために尽くすことです。
 だから、お詣りする人のためにきれいに掃除をしておくことも、ゆっくり休んでいただけるように環境を整えておくこともすべてお釈迦さまの教えです。むしろ利他行こそが悟りを得るための最善の方便かもしれないのです。
 仁王門から本堂まで、誰が数えたかはわかりませんが、石段すべてで135段あるそうです。そこを上り下りしながら、そのようなことを考えました。
 石段の右手に役行者の石仏があり、その両側に前鬼が控えていました。そういえば、ここには人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼の伝説があることに気づきました。その石仏には、「南無神變大菩薩」と書かれたお札が供えてありました。
 駐車場に戻って時計をみると、午後1時22分です。次は第83番札所一宮寺です。場所は、高松市一宮町にあり、ナビで確認すると、ここから13.9q、所要時間32分です。

 第82番札所 青峯山根香寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 宵の間の 妙降る霜の 消えぬれば 後こそ鉦の 勤行の声



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.83

 第83番札所一宮寺へは、県道180号線を進み、県道33号線を国分寺の方に行きます。その途中、県道177号線へ左折し、県道12号線でまた左折します。次に一宮町の交差点を右折し、そこからは案内板にしたがって進みます。
 そこから少し進むと、左手に小さな橋があり、そこを渡るとすぐに駐車場があります。そこに車を駐めました
 山門があり、そこから入ると、新しく造られたような露地があり、右手に鐘撞き堂があります。すると、そのさらに右手の方に仁王門があるので、そこの横道を歩いて、改めて仁王門から入り直しました。そこにも大きな草鞋が供えられていました。
 そこで一礼し入ると、その正面が本堂です。その左側には3基の宝塔があり、神仏分離のときに田村神社から移されてきたそうです。また右側には大きなクスノキがありました。
 このお寺の開基は古く、奈良時代に遡り、その当時は「大宝院」といい、その後、行基菩薩がこの堂宇を修復したことで、それから「神毫山一宮寺」と改名されたそうです。さらに大同年間にお大師さまが訪れ、106cmの「聖観音」を彫造し、伽藍を再興したことから、このときに真言宗に改宗されました。
 やはり、お寺といえども、その時代時代の流れに添うしかないようです。

 本堂でお詣りし、それから本堂の右手にある大師堂に行きました。その前にある大きな石の香炉は、3匹の鬼が支えていて、その香炉には四角のなかに「大」と彫られていて、これがお大師さまを表すのかな、と思いました。でも、他ではあまり見ないものです。
 それで思い出したのですが、お大師さまの言葉に、「如来の説法は必ず文字(もんじ)に籍(よ)る 文字の所在は六塵その体なり 六塵の本は法仏の三密 即ち是れなり」(声字実相義)というのがあります。つまり、如来の教えは必ず文字を借りておこなわれるし、その文字は六塵、つまり色、声、香、味、触、法のなかにあり、その根源は如来そのものの三密、つまり身体や言葉、心という3つの働きのことだというような意味です。
 ですから、この文字というのはとても大切で、おそらくこの四角のなかの「大」にも、秘められたものが隠されているかもしれません。
 また、この大師堂の近くで、「厄除弘法大師」の石像があり、そこの上に金属製の天蓋がありました。外に金属製の天蓋があるのも珍しく、つい写真を撮ってしまいました。さらにその先には白御影石で蓮のツボミなかに、真四角の黒御影石に般若心経を彫ったものが納められていました。
 この台座には、昭和60年5月に奉納したとありますから、30年ほど前からあるようです。
 今夜の宿は、屋島寺の近くの「ホテル望海荘」なので、これからすぐに屋島寺に向かってはまだ時間があります。時計をみると午後2時30分です。ここからだと18.7q、所要時間40分です。
 そこで、その途中の「栗林公園」にまわることにしました。そして、そこに着いたのは午後2時40分でした。たった10分で来たことになります。
 すぐに駐車場に車を駐め、東門から入園料410円で入りました。ここは紫雲山の麓に広がる廻遊式大名庭園で、国の特別名勝に指定されています。たしかに、園内の松などの木々は姿は圧巻で、ウメ園ではちらほらウメの花も咲いていました。私が見たかったのは飛来峰からの南湖の眺めで、これだけでもここに来た甲斐があったと思いました。帰りは、少しでも駐めた車に近いようにと花園亭近くの出口から出ました。ほんのちょっとの寄り道でしたが、とても満足しました。
 次は第84番札所屋島寺です。ナビで確認すると、10.6q、所要時間26分です。今の時間は午後3時35分ですから、16時過ぎには着く予定です。

 第83番札所 神毫山一宮寺 (真言宗御室派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 讃岐一宮の 御前に 仰ぎ来て 神の心を 誰かしら言ふ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.84

 第84番札所屋島寺は、名前の通り、屋島にあります。ここはあの屋島の戦で有名なところで、高松市の東、標高293mの台形の半島です。お寺はその南峰にあります。
 まず、栗林公園まえの国道11号線を左に進み、高松町交差点を左折します。そして琴電志度線の踏切を渡り、その先を道なりに左折すると屋島ドライブウェイです。630円の通行使用料を払い、そのまま進みます。
 すると、右側の向こうに第85番札所八栗寺が見えますが、今日はここ屋島寺で打ち止めです。そのまま進むと、大きな駐車場があり、そこに車を駐めました。
 その先へと進むと、朱塗りの鮮やかな山門がありました。そこをくぐると、広い境内地です。そのすぐ前に青銅製の観音さまが立っていました。
 そこを右折すると、手水舎ではないのですが、水の出ている天女が彫られた水鉢があり、そのわきに千体堂があります。そのすぐわきに大師堂があるのですが、先ずは本堂へと向かいます。
 本堂は、鎌倉時代に建てられたそうですが、それから戦乱などで修築せざるを得なくなり江戸時代にもなされたそうですが、国の重要文化財に指定されています。ご本尊の十一面千手観音坐像はそのころに造られており、こちらも重要文化財になっています。
 本堂には、観音経の一節、「廣大智慧観」と金文字で書かれた大きな扁額が掲げられていました。

 本堂まで行って気づいたのですが、そのだいぶ手前に大きな門があり、そこまで下りていくと、なんと仁王門でした。改めて、そこから入り直し、しっかりと一礼し見上げると、ずーっと向こうに本堂が見えます。やはり、ここ仁王門から入らないと、境内地の様子がわかりません。その参道の左側に大きな宝物館があり、中にはご本尊をはじめ、源平盛衰記絵巻物、源氏の白旗、屋島合戦屏風などたくさんの寺宝が保存、展示されているそうですが、すでに午後4時をだいぶ過ぎているので、後日の楽しみに残しておくことにしました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「風燭滅(き)え易く、良辰(りょうじん)遇い難し」(高野雑筆集)というのがありますが、簡単にいえば、よい星は自分でつかみそれを逃がさないように、というほどの意味です。たしかに、好機をしっかりととらえ逃がさないことは大事です。いくら次の機会に、とはいってもここ四国はあまりにも遠すぎます。そこで宝物館に行ってみると、残念ながらすでに閉まっていました。
 本堂にお詣りし、その右側には「蓑山大明神」がまつられていて、案内板によると「四国狸の総大将「太三郎狸」と呼ばれる土地の氏神」だそうで、赤い鳥居の前にタヌキの石像が対で立っていました。
 それから、もう一度戻って、今日最後の大師堂で、ゆっくりとお詣りしました。大師堂の左側には、七福神の石像が立っていて、そこもお詣りさせていただきました。
 最後に納経所でご朱印と御影などをいただき、車に戻りました。ここからすぐ近くだということでしたが、「ホテル望海荘」の場所がわからず、なんどか行ったり来たりして、それでもわからないので駐車場の売店の方に聞くと、駐車場のすぐわきを通って行くと教えられ、その狭い道を通ってなんとか着きました。
 時計で確認すると、午後4時40分、今日までの総走行距離は2,245.7q、今日1日の走行距離は97.8qでした。
 今夜は1泊2食つきで、「幻の隠れふぐコース」だそうで、案内された部屋も快適でした。明日の日程はだいぶゆとりがありそうなので、今日から準備をせずにノンビリと途中で買った和菓子を食べながらお抹茶を飲みました。

 第84番札所 南面山屋島寺 (真言宗御室派) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 梓弓 屋島の宮に 詣でつつ 祈りをかけて 勇む武夫



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.85

 今日は3月11日の土曜日で、今朝も快晴、ホテル望海荘を午前9時に出発しました。今日は第85番札所から第88番札所までまわり、そして第1番札所に戻り、徳島市内に泊まります。なぜか徳島市内のホテルがとれなくて、昨夜は遅くまでパソコンで調べてやっと予約できました。
 先ずは第85番札所八栗寺を目指します。ナビで確認すると、ケーブルカー乗り場の八栗登山口駅まで7.1q、所要時間17分と出ました。
 昨日通った屋島ドライブウェイを下り、詰田川沿いを走り、再び対岸の道を上ります。すると、右側に広い駐車場があり、ぴったり17分で着きました。ケーブルカーは午前9時30分ということなので、ゆっくりと準備をしてから切符を買い、乗り込みました。往復料金で930円でした。
 八栗山上駅までは、たったの4分で到着です。乗車定員は127名だそうで、やはりロープウェイよりは乗っていても安定していました。
 そこから歩くと、先ず大きな石の鳥居があり、その先を左折し進むと、朱塗りの多宝塔があり、その右側に大師堂があります。
 でも、先ずは本堂にお詣りしなければと思い、さらに進むと、なぜか参道に甘栗屋さんがいました。ここは八栗だから栗つながりかなと思いましたが、そのまま通り過ぎ、再び大きな石の鳥居をくぐると、その正面に歓喜天をまつった聖天堂がありました。その左手側に本堂があります。
 でも、右手を見ると、ずーっと先のほうに仁王門があるので、そこまで行ったら、その先に「お迎え大師」の石像があるというので、遍路宿の前を通り、行ってみました。すると、高松市内を見下ろす絶景の場所に立っていました。ここからは、昨日お詣りした第84番札所屋島寺の朱塗りの山門もはっきりと見えます。
 ここがお迎え大師ですから、やはり、ここから入るのが昔からの道のようで、もう一度戻って仁王門から入り、一礼をしました。やはり、順を踏むとなぜか安心するものです。その仁王門から望むと、五剣山の岩山が見え、その正面に本堂があります。五剣山は標高375mで、地上から5つの剣を突き上げたような山肌なので、このような名がついたようです。八栗寺はその8合目にあります。

 たしか、昨夜泊まった宿の人は、先に聖天さんにお詣りをした方がいいと教えてくれましたが、やはり本堂からお詣りをしました。現在の本堂は、高松藩主松平頼重により再建されたそうです。
 次にすぐ本堂のわきの聖天堂にもお詣りしました。ここには木喰以空上人が東福門院から賜った歓喜天をまつっているそうで、商売繁盛や学業成就、縁結びにご利益があるといいます。地元の人たちにとっては、「八栗の聖天さん」として親しまれているそうです。今でこそ仏教を守護する天部の善神ですが、もともとはインドのガネーシャで、多くは象頭人身で表されています。だから、多くは秘仏としてまつられています。
 しかし、ご利益だけを願ってのお詣りは、おそらくお大師さまの教えに反するものではないかと思います。受け身ではなく、自分も積極的に動かなければなりません。お大師さまの言葉に、「実義を知るをばすなわち真言と名づけ、根源を知らざるをば妄語と名づく」(声字実相義)というのがありますが、真実の教えだけが苦を楽に変える力となり、偽りのことばは苦悩を深めるだけだということです。
 さらにこの考えをすすめると、自分自身で真実を見極め、真実かどうかを判断しなさいとも読めます。つまり、自分自身で疑問を持ち、それを考え、悩みながら答えを見つけ出すことも大事だと言えるのではないかと思います。
 この五剣山の厳しい山肌を見ながら、そのようなことを考えました。そして、大師堂まで戻り、しっかりとお詣りをしました。時計をみて、次のケーブルカーの時間が午前10時30分ですから、ちょっと急がないと間に合わないようです。
 そして、八栗山上駅には2分前に到着しました。無事に予定していたケーブルカーに乗ることができました。八栗登山口駅の駐車場で、次の第86番札所志度寺の場所を入力すると、そこまでは7.2q、所要時間17分と出ました。ここを出発したのは、午前10時35分です。

 第85番札所 五剣山八栗寺 (真言宗大覚寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 煩悩を 胸の智火にて 八栗をば 修行者ならで 誰か知るべき



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.86

 第86番札所志度寺へは、国道11号線を経由して、志度交差点を左折し、その先からは案内板にしたがって進みます。駐車場は2ヵ所あるそうで、私たちは海際の駐車場に駐めました。
 そこから歩くと、横道があり、すぐに本堂の脇へと出ました。その右側に五重塔があり、1975(昭和50)年5月に落成したそうで、四国八十八ヵ所霊場で五重塔があるのは、竹林寺、善通寺、本山寺とここ志度寺の4ヵ所だそうです。
 縁由は古く、何度も栄枯盛衰はあったものの、この本堂は1671(寛文10)年に高松藩主松平頼重の寄進などで再建されたもので、ご本尊の十一面観世菩薩立像、さらに両脇侍の不動明王立像、毘沙門天立像は平安時代の檜一木造り、それらが国の重要文化財に指定されています。
 お詣りをする前に手水舎に行くと、横長の大きなもので、屋根瓦も古色を帯びていました。樹々が多いので、自分がどこにいるかさえもわからなくなりそうでした。
 先ずは本堂の前に行き、お詣りです。

 本堂は桁行七間の大きなお堂で、志度浦で見つけた霊木で十一面観音さまをつくりまつったことから、藤原不比等の子、房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられています。
 本堂の右手には大師堂があり、そこには、大きなお大師さまの絵馬が掲げられていました。よく見ると、「大師誕生千二百年記念」に奉納したとあり、それほど古いものではなさそうですが、扁額と違い、親しみが持てそうです。
 また、境内地には、「悲願金剛」という石仏があり、背丈の高い台座にお大師さまと思われる方が両手で宝珠を持っています。おそらく、どのような願いも一心に祈ればかなえてくれそうです。
 大師堂でお詣りをし、納経所に行くと、その右手に仁王門が見えました。そこで、そこに行くと、ここが門前町の突き当たりになっていて、本来はここから入ってお詣りするのだと知りました。しかも、この仁王門は本堂と同じく高松藩主松平頼重の寄進されたもので、三棟造りの堂々とした門構えです。これも国の重要文化財に指定されているそうです。そのお仁王さまは、運慶作と伝えられ、大きな草鞋も掲げられていました。
 その仁王門から少し下がった右側に常楽寺があり、そこに平賀源内のお墓がありました。お墓には「智見霊雄大居士」と彫られただけで、案内板でもなければわかりませんでした。
 そして、改めてこの仁王門から入り、もう一度、本堂と大師堂を巡拝し、納経所でご朱印と御影などをいただきました。そして、五重塔を右に見て駐車場に戻ろうとしたとき、その参道の椿の花の下に隠れるようにしてお釈迦さまの石像が安置されていました。
 このとき、ふと、お大師さまの「身は花とともに落つれども、心は香とともに飛ぶ。」(性霊集)という言葉を思い出しました。
 この意味は、この体も花が落ちるようにいずれ枯れ落ちてしまうけれど、心だけは香のように天に昇りながら薫っているということです。やはり、去るときには、清香を残していきたいと思います。ここを去るときに、それに気づいただけ有り難いと思いました。
 車に戻り、時計をみると午前11時24分です。次は第87番札所長尾寺ですが、場所はさぬき市長尾で、ここからは7q、所要時間16分だそうです。

 第86番札所 補陀落山志度寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 いざさらば 今宵はここに 志度の寺 祈りの声を 耳に触れつつ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.87

 第87番札所長尾寺へは、県道3号線を経由して行きますが、琴電長尾線の終点、長尾駅の近くです。
 近づくと、ところどころに案内板があり、すぐにわかります。駐車場は境内地にもあり、すぐにお詣りできます。そこに車を駐め、いったん外に出て、鐘楼門のところから入りました。ここにも大きな草鞋が奉納されていました。
 門前には、古い供養塔があり、そこには屋根がかかり、格子で囲まれていました。いかにも、大切に保存されているようです。
 そこで一礼し、中に入ると、すぐ右手にクスノキがあり、「長尾寺のクスノキ」と石柱に彫られていました。この前に手水舎があり、そこで手や口をそそぎました。
 その正面が本堂です。広々とした境内地ですが、参道のところをのぞいて車が駐まっているので、なんとなく気がそがれます。樹々があまりないというのも殺風景なものです。それでも、この日は真っ青な空に、白い雲がポッカリと浮かび、それを見ているだけでも悠々とした気分になりました。
 本堂は、1683(天和3)年に藩主松平頼重が修築されたそうで、ご本尊は幾多の火災に遭いながらも難を逃れ秘仏として残っています。そのときから、天台宗に改めたということです。

 本堂の右側に大師堂があり、本堂よりは小さなお堂ですが、屋根の飾りは五重塔の上の相輪のようで、いかにも天に向かって突き出しているというような感じがしました。そこから四方にくさりが伸びところどころに鈴が付いています。おそらく、風が吹けばその音色が聞こえるのかもしれません。
 普通は屋根の頂上にのっている宝珠水煙は、屋根の四隅にのっています。ここ讃岐のお寺は、屋根にこっているところが多く、北国の雪深いところから来ると、とても興味深いものです。
 ちょうど、お遍路さんの団体がお詣りしていたので、終わるのを待って、自分たちもお詣りしました。ここは町中で交通の便もよいので、団体のお詣りも多そうです。
 ここは第87番札所ですから、残るはあと1ヶ寺です。つい、お詣りにも力が入ります。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「挙體空空(きょたいくうくう)にして所有(しょう)なし、狂兒迷渇(きょうじめいかつ)して遂に帰ることを忘る。」(性霊集)というのがありますが、陽炎はさかんに立ったとしてもその実体はなく、人もときどき惑わされ、帰り道を見失ってしまうことがあります。
 そう考えれば、実体のないものにきゅうきゅうとするよりも、その過程を楽しんだほうがいいのではないかと思います。ゴールが必ずしもいいわけでも、それで幸せだとも限らないのです。むしろ、そこに無心になって突き進んでいるときのほうが幸せだったりします。
 この四国八十八ヵ所霊場巡りも残りが少なくなってから、達成感よりも、むしろ寂しいような気持ちもします。そのような複雑な気持ちが、このお大師さまのこの言葉に表れているような気がします。
 駐車場に駐めてある車にもどり、時計をみるとちょうど12時です。少しお腹も空いたのですが、あと1ヶ寺と思うと、それを達成してからゆっくりと昼食にしたいとも思います。
 先ずは次の第88番札所大窪寺を目指します。場所は同じさぬき市の多和兼割で、ここから16.4q、所要時間25分です。おそらく山道なので、安全運転で行くことにしました。

 第87番札所 補陀落山長尾寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺 秋の夜すがら 御名を唱えよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.88

 第88番札所大窪寺へは、県道3号線と国道377号線を経由して行きます。国道377号線に入ると、ところどころに案内板もあり、ほとんど迷うことのない1本道です。
 近づくと、左手に大きな駐車場があり、そこに車を駐めましたが、もともとの二天門のある参道から入ると、ほとんどがお店の駐車場しかなく、この時間帯だと昼食を食べないわけにはいかないようです。
 ここから進むと、国道377号線の左の山手に大きな仁王門があり、「醫王山」と金文字で彫られた扁額が掲げられ、二層になった大きな門です。
 そこを入ると、右手に手水舎があり、手と口などをそそぎ、石段を上りました。その先は二股に分かれ、左に行くと大師堂、右に行くと本堂なので、先ずは右手に進み、本堂に向かいました。ここは四国八十八ヵ所霊場の結願のお寺です。よくぞここまで来れたという感慨がわき起こります。その思いを込めて、本堂でお経や真言を唱えました。すると、ここまでのお寺のいくつかが思い出されます。
 お詣りが終わり、二天門まで石段を下がってみると、その途中の右側に「おんな厄ばし」と「おとこ厄ばし」があり、その小さな橋のたもとに真魚石像がありました。その後ろに大きく「神童 真魚」と彫られた石柱があるからわかったようなものです。
 ここは矢筈山(標高787.5m)の東側にあり、本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があるそうです。ここの二天門を過ぎた辺りから眺めると、それらがよく見えます。本堂のすぐ後ろには多宝塔の先端部が見えます。ご本尊は薬師如来ですが、普通は左手に薬壺を持つのがおおいようですが、ここではホラ貝を持っているそうで、秘仏だそうです。

 本堂の左手側には、真新しい十二支守り本尊の石仏があり、本堂から大師堂に向かう参道の右手には、古い石仏がまとめて安置されていました。それでも、新しい前垂れがかかっているところをみると、今でも手を合わせていかれる方がいるようです。もちろん、新しい石仏もいいでしょうが、やはり、古い石仏の方が多くを語りかけてくれるような気がします。
 大師堂は、高野山の御影堂のようなお堂で、この下には、四国八十八ヵ所の小さなご本尊がまつられていて、お砂踏みができるようになつているそうです。たしかにこれはいいことですが、今日まで1ヶ寺ずつまわってきたので、今回は遠慮しました。
 大師堂の左側には、大きな唐金の大師像が立っています。最後にここでお詣りをしていると、お大師さまの「時至り人叶いて、道、無窮に被らしむ。人と時と矛盾なれば、教(きょう)、地に墜つ。」(性霊集)という言葉が思い出されました。つまり、人と時がそろって好機が訪れれば、道は自然と開けてくるというような意味です。
 私も何度かここ四国八十八ヵ所をお詣りしたいと思いながら、なかなか叶えられませんでした。おそらく、人と時が未だ整わなかったからでしょう。でも、今回はこうしてなんとか四国八十八ヵ所の霊場をすべてまわることが出来ました。本当に感謝の一言しかありません。誰にということではなく、この機会をつくってくれたすべての人やことに対してです。
 いろいろな思いがわき起こりましたが、次は第1番札所霊山寺に戻ってお詣りをすることが慣例だそうで、それに従って、先ずは昼食よりそれを先にすることにしました。
 ここから霊山寺までは、40.2q、所要時間は48分ということで、そこを目指します。ここ大窪寺を出たのは午後1時10分、そして霊山寺に着いたのはちょうど午後2時でした。ということは、予定通りの時間で到着したようです。
 そこで、本堂と大師堂にお詣りし、納経所で満願できたお礼のご朱印をいただき、この付近で食べようかと思ったのですが、お昼時間も過ぎたようで、どこも終わっていました。そこで、仕方なく、今夜泊まる予定の徳島市に向かう途中で食べることにしました。それが、なんと「丸亀製麺藍住」で、米沢のお店で食べるのと変わりはありませんでした。
 泊まったのは徳島市内の「ダイワロイネットホテル徳島駅前」で、着いたのは午後3時50分でした。なぜ、この日がなかなかホテルが見つからなかったのかといえば、駅前に行って初めてわかったのですが、翌日が徳島大学の受験日でした。やはり、世の中にはいろいろなことがあります。
 ここまでの総走行距離は2,340.2q、今日11日の走行距離は94.5qでした。明日は、この車をフェリーに積んで、和歌山港から高野山に向かいます。

 第88番札所 医王山大窪寺 (真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 南無薬師 諸病なかれと 願いつつ 詣れる人は 大窪の寺



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.89

 3月12日の日曜日です。ホテルを午前6時40分に出て、コンビニで朝食のおにぎりを買い、フェリー乗り場に向かいました。
 ナビでみると、4.4q、所要時間14分ということですが、今日は徳島大学の受験の日で、ホテルマンも少し早めに出た方がいいということでした。しかし、ほとんど十体もなく、予定通りフェリー乗り場に到着し、車に乗ったまま、昨夜泊まったところの予約確認をスマホで見せると2割引きでした。つまり、自動車航送運賃9,600円、旅客運賃2,000円ですが、合計して9,280円でした。
 そして、そこから指定されたところまで移動し、フェリーに積み込むまで待っていました。乗船が午前7時45分、出港が8時ちょうどでした。これで、四国ともお別れで、甲板に出て、八十八ヵ所のお寺を思い出していました。寒くなったので、船室に入り、やっと朝食のおにぎりを食べ、お茶を飲み、のんびりと過ごしました。自分で運転しなくても、前に進むというのはいいものです。
 和歌山港に着いたのは、午前10時10分です。すぐに車を出し、車を駐車できるところでナビを高野山と入れると、ここから60.3q、所要時間1時間38分です。そこで、その途中の根来寺にまわっても、時間的には無理ではなさそうなので、国道24号線から根来寺の方へと進みました。ところが、この日は、「第11回 岩出マラソン大会」の当日で、根来寺への道路は規制区間になっていて、乗り入れ禁止でした。
 それで、仕方なく、またもとの国道24号線まで戻り、そこを左折し、高野山を目指しました。高野山の大門に着いたのが12時ごろ、先ずはお昼ご飯を食べようと、「角濱ごまどうふ」のお店に行き、「角濱ごま豆腐懐石」をいただきました。
 そして、先ずは奥の院へ行くために、中の橋駐車場へ行き開いているところを探しましたが、今日は日曜日ということもあり、なかなか見つかりません。そうこうしていると、1台が出て行ったので、すぐにそこに駐め、奥の院に向かいました。左上の写真は、奥の院です。この橋の先は撮影禁止なので、これ以上は撮れないのです。

 奥の院で、お大師さまに四国八十八ヵ所をまわってきたご報告と感謝のご法楽を捧げ、納経所のある大黒堂で、ご朱印と御影をいただきました。それから、石畳の道を下り、二の橋近くのわが家のお墓にお詣りをしました。これも、今回の巡礼の大きな目的の1つです。これで、なんとかの四国八十八ヵ所のお遍路が終わったように思いました。長いようで、ほんとうに短かった13日間でした。
 お大師さまの言葉に、「少年の日 好んで山水を渉覧せしに 平原の幽地有り 名づけて高野(たかの)という 計るに紀伊国伊都郡(のこおり)の南に当たる」(性霊集)というのがあり、これは43歳のときに、高野の土地を賜りたい旨を朝廷に上奏したときのものです。
 これをみると、少年の頃から、ここに道場をつくりたいと考えていたのかもしれませんが、それを実行できたのは、さすがお大師さまです。さらに、なによりすごいことは、今でも、この高野山に多くの方々を引き寄せているということです。私も、四国をまわって、多くのお遍路さんと会い、いろいろなことを考えましたが、みんなお大師さまのことが大好きです。
 この高野山でいちおう一区切りです。もちろん、自宅まで戻らなければすべて終わったことにはならないでしょうが、あとは、付録かおまけみたいなものです。
 そのようなことを考えながら、中の橋駐車場まで戻り、車で壇上伽藍まで行き、その道路のわきの駐車場に車を駐め、歩いて巡りました。そこから金剛峯寺まで行き、そこでもご朱印をいただきました。この右の写真は、壇上伽藍の大塔です。もちろん、ここの御影堂もお詣りし、その前の三鈷の松も見て、わが家の三葉の松も早く大きくなればと思いました。
 そして、再び車に乗り、大門のところで写真を撮り、高野山から下りました。時間は午後3時50分です。ほんとうは高野山にでも泊まろうと思ったのですが、明日は伊勢に行く予定なので、少しでも歩みを進めたいということで、五條に泊まることにしました。ナビで確認すると、34.8q、57分とありましたが、ナビだと国道370号線を洗濯するようで、すごい山道を走ることになりました。この道でほんとうに間違いないのか、と何度も思いました。
 それでもホテルには午後4時50分に着きました。今日までの走行距離は2,450.7q、今日12日の走行距離は110.5qです。もちろん、これにはフェリーの区間の距離は入っていません。今日もだいぶ移動しました。



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.90

 今回で、「四国八十八ヵ所お遍路」も最終回です。長い間、お付き合いをいただき、ありがとうございました。そこで、今日3月13日月曜日から15日まで、お伊勢さまから白川郷を経て、新潟県の糸魚川に泊まって自宅に帰るまでのことです。
 奈良県の五條のホテルを出発したのは13日の午前8寺30分です。この日は伊勢市のビジネスホテルに泊まる予定なので、先ずは伊勢の外宮をナビに入れると、122q、所要時間2時間24分です。途中で何回か休みながら、ナビの案内で進みました。
 外宮の駐車場に着いたのは、午前11時46分です。途中、吉野辺りで、何度か写真を撮ったので、予定よりちょっと時間がかかったようです。
 外宮の本宮を参拝し、それから内宮へ行くと、駐車場が混んでいて、なかなか進みません。仕方なく、途中の有料駐車場に駐め、歩いて「おかげ横町」の西入口から入りました。先ずは腹ごしらえをしなければと思い、「手こね茶屋内宮店」に入り、名物のてこね寿司と伊勢うどんの名物合わせを頼みました。
 そして、宇治橋から入り、神苑を通り、そして正宮へと進み、参拝しました。左の写真は、その内宮正宮の石段の前で撮ったものです。
 帰り道、ここまで来たら、ぜひ赤福本店で赤福餅を食べたいと思い、少し並んでも、お召し上がり盆に赤福2個と伊勢茶の番茶がついて210円に、さらに赤福2個を追加していただきました。本当に美味しかったです。
 そこから車に戻ると、午後3時ちょうどでした。ここから二見浦まで行き、あの有名な夫婦岩を見て、伊勢市内のビジネスホテルに着いたのが午後4時5分でした。今日までの総走行距離は2,597.8q、今日3月13日の走行距離は147.1qでした。
 今日はゆっくりと休み、明日は白川郷にまわり、後は無理をしない程度のところで1泊する予定です。

 3月14日火曜日、今日は快晴で、ホテルを午前7時58分に出発しました。
 ここから白川郷までは293q、所要時間3時間44分です。伊勢自動車道に入り、東名阪自動車道から東海北陸自動車道へと高速道路を乗り継いで進みます。もし、高速道路がなければ、おそらく名古屋市内で道にとまどってしまうかもしれません。
 白川郷の荻町城跡展望台に着いたのが12時20分です。ここから白川郷の集落を眺め、その下り道で「ます園文助」で昼食を食べました。それから、村営の駐車場に車を駐め、白川郷を見て歩きました。特に印象に残ったのは明善寺で、庫裡の部分が郷土館になっていて、本堂もお詣りさせていただきました。
 右の写真は、その明善寺の庫裡と、手前が雪の消えた田んぼです。向こうの山並みには、まだまだ雪が残っていました。ここを出発したのが午後3時で、ここからでは新潟県の糸魚川付近で泊まろうと思い、その辺りを目指して車を走らせると、後からナビで確認すると159q、着いたのが午後4時38分でした。
 今日までの総走行距離が3.035.3q、今日14日の走行距離が437.5qでした。ホテルでは格安の「冬の日本海満喫プラン」で、ゆっくり休むことができました。

 3月15日水曜日、今日は自宅に戻る日です。でも、昨夜考えたのですが、今、新潟県にいるので、ぜひ冬の五合庵に行きたいと思い、そこにまわることにしました。ホテルを出発したのは、午前8時40分です。
 五合庵のある国上寺までは、ここから132qです。着いたのは10時40分で、駐車場に車を駐め、五合庵まで歩き、帰り道は千眼堂吊橋を渡って戻りました。五合庵は人っ子一人いなく、椿の花が咲いて落ちていました。
 あとは心置きなく帰るだけですが、そろそろお昼時間なので、昨年の夏に食べた「ことぶき寿司 内野店」が美味しかったので、そこにまわることにしました。ここも美味しかったです。
 食べ終わって、ここの駐車場でナビで自宅を入れると、152qと出ました。12時50分にここを出発しました。あとは、磐越自動車道に入り、会津若松インターから国道121号線に出て、自宅まで戻りました。荷物を下ろして、今日までの総走行距離を確認すると、3,370.5q、今日15日の走行距離は335.2qでした。
 2月28日に自宅を出て、3月15日まで、車で移動した距離数は、3,370.5qでした。これで四国八十八ヵ所のお詣りも終わりです。最後に、お大師さまの言葉ですが、「此の身は脆きこと泡沫の如し、我が命の假(かり)なること夢幻の如し」(性霊集)というのがあります。つまり、人生は夢まぼろしのようなものだが、その夢を大切にできるかどうかが重要です。まさに、夢だと思えば、なんでもできるような気がしました。