★本のたび 2014★



 若いころから読書カードを作っていましたが、近年、読書離れが続いているということを聞き、こんなにも楽しいことからなぜ離れてしまうのかと思い、この掲載をはじめました。
 でも、自分が読んだ本について語るということは、自分の本棚を他人に見せるようなものですし、もう少し踏み込んで言うと、自分の心のうちをさらけ出すようなものです。それは、とても恥ずかしいかぎりです。
 でも、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさ、本と遊ぶおもしろさをなんとか伝えたいと思うようになりました。
 2014年9月30日に1,000冊を超えましたが、これからも本とたびを続けて行きますので、ときどきはのぞいてみてください。
 ここが、本のワンダーランドになれば、本望です。



No.1029 『世界の美しいフクロウ』

 この本は、どちらかというと写真集に近いもので、副題は「神秘的なポートレートと生態」とあり、スタジオで撮影された36点が1ページずつ大きく載っていて、その左側のページにその特徴や生息地・分布などが書かれています。
 でも、これらフクロウの写真こそが見事で、見ていて見飽きません。それほどしっかりと撮影されています。野生のなかで撮影されたものとの違いは大きく、羽の1本1本までくっきりと写っていて、鋭い目はこちらを本当にみているかのような錯覚に陥るほどです。
 序章で、「フクロウの生活は、とても興味深いものです。暗闇の中で獲物をしとめられる機能を完全装備。羽衣にはゴージャスなほど複雑に入り組んだ模様があり、太陽の光の下で眠る時、木々の樹皮や枝に巧みにカモフラージュをします。また、フクロウの多くは、一羽のパートナーと一生に渡る関係をゆっくりときずいていきます。一本の枝に仲良く止まり、お互いの羽を整え合い、何時問も優しく寄り添うのです。そして自分たちの縄張りに侵入者が現れると、一転、冷酷なほどの攻撃力を発揮し、やってくる者を追い払います。伝説にいわれるほどの賢者ではないかもしれませんが、フクロウは頭のよい鳥で、トレーニングがしやすく、なつきやすいため、鷹匠やバード・トレーナーに人気です。」とあり、いかにフクロウに惚れ込んでいるかが、この文章からも伺い知ることができます。
 この本の説明によると、大きくメンフクロウ科とフクロウ科の2つのグループに分けられ、メンフクロウ科には16種、フクロウ科には224種いるそうです。フクロウというと、どうしても森の中に住んでいるという印象がありますが、意外とどこにでもいるそうで、たとえば白フクロウなどは雪に覆われた北極圏にいますし、イギリスなどでは開けた田園地帯にいます。また、アメリカの砂漠に住むサボテンフクロウなどもいて、まさにフクロウの生息地はさまざまです。
 よくフクロウは知恵があるといわれますが、その由来になりそうな記述を下に抜き書きしました。
 そういえば、今年の7月にイギリスに行きましたが、訪ねる予定の人にお土産を持って行こうとし、彼の趣味を尋ねました。すると、野帳観察と植物が好きだとのこと、すぐに米沢で作られているオタカポッポを考えました。それで、それを作っている工房に行くと、フクロウの一刀彫りがあり、少しだけ木肌を残してあります。それがいかにも素朴な手作り味が感じられ、それを持って行くことにしました。7月10日にケンブリッチからレンタカーで1時間ほど離れたところまで捜し訪ねて行ったのですが、萱葺屋根の童話の世界のような家でした。部屋に通されて挨拶をし、そのお土産を渡すと、実はオタカポッポはだいぶ前にいただき、大事に飾ってあるということで、このフクロウの一刀彫りをとても喜んでくれました。まったくの偶然でしたが、彼の書斎には、米沢名産のオタカポッポとフクロウが並んで飾られることになりました。
 そんなこともあり、このフクロウの本に目が行ったのかもしれません。もし、機会があれば、ぜみ見てみてください。そのフクロウの多彩さにビックリすること間違いないはずです。
(2014.12.25)

書名著者発行所発行日ISBN
世界の美しいフクロウマリアンヌ・テイラー 文、アンドリュー・ペリス 写真グラフィック社2014年8月25日9784766126341

☆ Extract passages ☆

 人間がフクロウに魅了されてきた痕跡は、世界最古の文明までさかのぼることが出来ます。古代エジプトの象形文字では、フクロウの絵が「m」の文字をあらわしていました。3万年前に描かれたとされるフランスのショーヴェの洞窟壁画には、首を180度後に回しているフクロウの姿が描かれています。この180度回転こそ、長年、人々の心に感嘆と怪しみの両方を引き起こしてきたフクロウの神秘的な技の一つです。
 古代ギリシャ人は、フクロウに深い敬意を払っていました。知恵の女神アテナに選ばれた鳥として特別に保護され、首都アテネのアクロポリスのいたるところにかなりの数のフクロウが巣を作っていたといわれています。表情豊かな顔、そして、まるで不思議な能力を使って闇に光を投じてでもいるかのように夜の世界を見ることが出来ることから、知恵ある生物と尊ばれていたのです。また、夜、不寝番のごとく油 断なく目覚めていることから、擁護者とみなされ、軍隊は戦場でフクロウの画を掲げ、戦時にフクロウを見かけたら勝利を意味すると信じられていました。
(マリアンヌ・テイラー 文、アンドリュー・ペリス 写真 『世界の美しいフクロウ』より)




No.1028 『名もなき山へ』

 山といえば深田久弥というぐらいに有名にしたのは、おそらく「日本百名山」ではないかと思います。この本の題名も『名もなき山へ』で、名もないということは、あまり知られていない山ということではないかと思い、読み始めました。
 ところが、この本のなかの文章は、雑誌や新聞等に掲載された作品から、単行本や「山の文学全集」未収録の随筆を集めたものだそうです。だからなのか、ちょっと今の時代からすると不適切な表現もありました。でも、それが時代ということなのでしょうから、そのときの時代背景を考えながら読ませていただきました。それと、その時代の登山の装備や思いなどがわかり、それはそれでとても興味がありました。
 私も山好きですが、著者はこの本のなかで、「僕の山好きは小学校の時から始まった。故郷にある富士写ケ岳という千メートル足らずの山に登ったのが最初だ。そこで僕の頑張りと健脚とがほめられて、すっかり自分は山が好きなのだと思いこむようになった。すべて物ごとに熱中する最初の動機は、こういうおだてと思い上りによることが多い。」と書いています。そういえば、私も初めて吾妻山に登ったときのことを今でも覚えていて、それが縁で高校生のときには山岳部に入りました。著者は、「中学時代には小登山家気取りで、故郷の近くの山々を次々と登って行った。登った山を地図の上にしるしを附けるのが、この上ない楽しみであった。」と書いていますが、私の場合は夏休みとか連休ぐらいしか登れませんでした。
 私の初めての吾妻山は若女平から登ったのですが、今ではロープウェイで天元台まで行き、そこからリフトを乗り継ぎ、あっという間に西吾妻山まで行けます。これが登山かといわれれば、なんとなく違うような気がします。一番違和感があるのが東吾妻山で、やっと登りきったかと思うと、浄土平が見えると、たくさんの車と人が見えます。これなどは、あまり達成感が感じられません。
 著者も、新たな登山道よりも旧道がいいとして、「歩くことが唯一の交通であった昔の人は、あだおろそかに道をつけてはいない。もちろん無駄な遠廻りなどはしていないが、ただ便宜ばかりを顧慮してはいなかったようである。そこには何か旅人の心を娯しませるようなものが附加されている。」と書いていますが、私もその通りだと思います。
 この本のなかでおもしろいと思ったのは、山の話しだけでなく、戦後4年半ほど過ごした金沢のことが書いてあり、来年には金沢まで新幹線が開通します。おそらく、今ではここに書いてあるような情緒はないかもしれませんが、ぜひ訪ねてみたいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、有名でなく人もあまり訪れることのないような山がいいといいますが、著者の「日本百名山」がそれらの山々を有名にして、登山者を増やしたことを考えると、それをどのように思っていたかを聞いてみたいと思いました。なかには、この百名山を登ることに自分の登山人生の目標に掲げている人もいて、まさにスタンプラリー的な様相さえ呈しています。これも、聞いてみたいことの1つです。
(2014.12.24)

書名著者発行所発行日ISBN
名もなき山へ深田久弥幻戯書房2014年9月15日9784864880541

☆ Extract passages ☆

 名のある山へこう大勢が押し寄せては、いくら自然保護を説いても防ぎきれまい。それに登山者の便宜という名を借りて、為政者や観光業者までが自然を壊している。そんなむごたらしい山が厭だったら、はかの山へ行けばいい。自然のままの静かな山がいくらでもある。
 有名というのは現代病の一つで、有名でありさえすれば価値があるように思う。つまらぬ名所に人が群がって、それより遥かに美しい無名の風景には眼もくれない。一たい行列して登るような山に、どこに楽しさがあるのか。どうやらこの頃の人は自然に対して鈍感になってきたらしい。
(深田久弥 著 『名もなき山へ』より)




No.1027 『自然はそんなにヤワじゃない』

 だいぶ前から読みたい読みたいと思いながら、なかなか読めないでいた1冊です。ちかくに野生のサルが出没するようになり、自然災害も増え、環境や生物多様性の問題が指摘されるようになってきたこともあり、読んで見ました。
 なるほど、この本を読むと、たしから自然は人間が考えるほどヤワじゃないと思えるようになりました。
 そのヤワじゃない理由として、30億年前に光合成を始めたというシアノバクテリアの存在を上げ、これがそれまでの環境下で優先してきた生物たちを絶滅に追いやったけれど、その酸素を巧みに利用してエネルギーを得た生物たちにとっては、陸地に上陸できたし、だからこそ多様な生物たちも生まれたといいます。でも、これは20億年以上の年月をかけて地球上に酸素が満たされたことで、最近の大きな環境の変化はたかだか100〜200年のことです。でも、今から6500年前の中生代白亜紀末の大隕石の衝突は、劇的な大変化で、「これにより飛び散った破砕物が大気中で浮遊し、太陽光の地上への到達を妨げたといわれている。それが植物による光合成を強く抑え、また地上の寒冷化を引き起こしたと考えられている。そしてこのとき、当時優占していた恐竜をはじめ、多くの生物が絶滅することになった。ところが、これほど急激で大きな生態系の攪乱に直面しても、生き残ったものがいた。そして、その生物たちは、新たにつくられた環境に適応しながら、多様な生態系をつくってきたのである。」といいます。
 これらのことを考えると、生物というのはとてもタフで、打たれ強いといいます。だから、人間がいくら考えても、その複雑系はなかなかわからないのではないかと思いました。でも、だからといって、考えないでいいということではありません。その考えの限界を知るということも大切だと感じました。
 たとえば、南アルプスのお花畑がシカの食害によってマルバダケブキが増えてきたそうですが、これは、「マルバダケブキが、そこにつくられた環境の下では、ミヤマキンポウゲやホソバトリカブトとの競争に勝てなかったからなのだ。すなわち、後者は、お花畑では競争に強い植物であり、人間が手をさしのべなければ生きていけない可憐な存在ではなかったのだ。むしろ、マルバダケブキの方が、お花畑でじっと競争に耐えながら、自分が優占できる環境がつくられるまで細々と暮らしていたのである。」とありましたが、これなどもそうです。
 また、「まえがき」に書いてありましたが、国の特別天然記念物のトキを10羽が佐渡に放たれました。それはそれでとても有意義なことですが、近年になって新種の可能性の高いカエルが佐渡で発見され、その放たれたトキがそのカエルを食べていたという新聞記事を紹介していますが、やはり自然の生態系というのは微妙なバランスのうえに成り立っていると改めて思いました。
 下に抜き書きしたのは、人間もそれら生態系の重要な一員であるという自覚と、人間がいかに生物群集や生態系に及ぼしているのかという影響を多面的に考えてみる必要があるという提案です。
 だいぶ前から読みたいと思いながら読めないでいましたが、ほんとうに読んでよかったと思いました。
(2014.12.21)

書名著者発行所発行日ISBN
自然はそんなにヤワじゃない(新潮選書)花里孝幸新潮社2009年5月25日9784106036392

☆ Extract passages ☆

 人間は生物である。そして、他の生物たちと同様に、生態系の重要な一員である。したがって、人間はいやでも他の生物と関わりを持たなければ生きていけない。その結果、他の生物たちも人間との関わり(生物間相互作用)を持つことになる。また、人間はさまざまな構造物をつくり、さらに物理的、化学的な刺激(攪乱)を生物群集に与えている。すると、人間の存在そのものが他の生物にとっての環境因子になるのである。そして、人間という環境因子は、それぞれの生物との関わりにおいて、ある地域の多様性を下げることもあるが、逆に高めることもあるのである。
 人間活動はとにかく生物多様性を下げている、という一方的な見方をせずに、人間が生物群集や生態系に及ぼしている影響を、多面的に考えてみる必要があるのではないだろうか。
(花里孝幸 著 『自然はそんなにヤワじゃない』より)




No.1026 『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』

 この本は「河出ブックス」の1冊ですが、このシリーズはなかなか読む機会がなく、おそらくこの本が最初ではないかと思います。ただ、手に取ったときには、この題名からは中に書いてある内容がわからず、おそらく国立極地研究所につとめているから南極探検隊に参加したときのペンギンの話しなのかな、と思っています。
 ところが、読み進めるうちに、とてもおもしろく、何度も読んだところがあります。また、カードに抜き書きをしたところもあり、かなり楽しく読みました。
 「はじめに」のところで出てくるバイオロギングという言葉もわからなかったのですが、著者がいう「未来からやってきた双眼鏡」という意味が、とてもよく理解できました。ちなみに、このバイオロギングというのは、「代表的なものが三種類ある。一つ目は人工衛星に電波を飛ばし、ドップラー効果によって測位するアルゴスシステム。最も汎用性の高い測位システムであり、幅広い動物に応用されている。二つ目は渡り鳥の移動追跡に特化したジオロケ一夕。一年間にわたる照度を記録し、天測の原理を使って粗く測位をする。三つ目は魚の追跡に特化したポップアップタグ。あらかじめ設定した日時に魚体から切り 離されて水面に浮かび、人工衛星にデータを送り始めるアルゴスとジオロケ一夕のハイブリッドである。」と説明しています。
 このバイオロギングを使えば、今までわからなかった生き物たちのいろいろがわかってくるようです。たとえば、クロマグロは沖縄や台湾周辺の温かい海で卵からかえり、それが黒潮に乗って北上するといいますが、それから後のことはあまりわかっていなかったようです。それが「バイオロギングの調査結果によれば、黒潮の中で成長したマグロたちはある日突然、決意を固めたかのように生まれ故郷を離れ、東に東にと泳ぎ始める。そして数カ月かけて8,000キロも離れた太平洋の向こう岸、アメリカはカリフォルニア州の沿岸にたどり着く。その後数年間はカリフォルニアの海に落ち着いて、多くの沿岸の魚がそうしているように、夏には北上、冬には南下という、季節的な水温変化に合わせた小スケールの南北移動をするようになる。けれどもまたあるとき、思いついたようにカリフォルニアの海と決別し、西へ西へと泳ぎ始 め、ついには日本近海に戻ってくる。」というように、太平洋を横断するようなダイナミックな移動をしているということがわかってきたようです。
 それと、子ども向け図鑑などには、クロマグロは時速80Kmほどで泳ぐと書かれていますが、実際にバイオロギングで計ってみると、体重250キロのクロマグロは平均時速7Kmだそうです。これは、まったく違います。以前の計測は誰がどのようにして計ったのかと疑いたくもなります。
 そこで、下にこのことを抜き書きしましたので、読んで見てください。なるほどと思うはずです。
 この本を読んで一番おもしろかったのは、極地で研究する場合の各国の生活インフラの違いです。この本には、「フランス人にとって毎朝焼き立てのバゲットが食べられることは、インターネットで毎日の ニュースがチェックできることよりもはるかに大事なことなのである。南極や亜南極にある世界各国の調査基地において、どの生活インフラに力を入れ、何を犠牲にしているかには、はっきりとした国民性が表れて面白い。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、よくクロマグロは子ども向けの図鑑などには時速100キロぐらいで泳ぐと書かれていますし、ペンギンは時速60キロ、アザラシは40キロ、シャチは65キロと、いかにも正確に調査した結果のように書いてあります。でも、下を見ていただければわかりますが、まったく違います。それがわかったのは、バイオロギングで計測された様々な魚の遊泳スピードを解析した結果だといいます。おもしろいので、ぜひ読んで見てください。
(2014.12.18)

書名著者発行所発行日ISBN
ペンギンが教えてくれた物理のはなし渡辺佑基河出書房新社2014年4月30日9784309624709

☆ Extract passages ☆

 けれども私がバイオロギングで計測された様々な魚の遊泳スピードを解析した結果、それはとんでもない誤報だとわかった。巡航時の平均時速は驚くなかれ、どんな魚でも8キロ以下。それどころかマグロ以外のサケだのブリだのタラだのといったほとんどの魚たちは、だいたい時速2〜3キロで泳ぐ。
 魚以外の海洋動物はどうだろう。……これも残念ながら、バイオロギングによる調査結果とは大きく乗離してしまっている。実際はペンギンもアザラシもクジラも、せいぜい時速8キロがいいところだ。
 マグロが遅いのではない。ペンギンやアザラシが遅いのでもない。そうではなくて、海中を泳ぎ回る動物の動きのことなんか、バイオロギングの始まる前はろくすっぽわかっていなかったのである。そしてバイオロギングの研究成果は、ここ20年くらいの新しいものがほとんどなので、まだ一般社会には十分に浸透していない。
(渡辺佑基 著 『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』より)




No.1025 『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』

 俳句といえば芭蕉と思ってしまいますが、ではなぜか、というとただなんとなくそう思っていたようです。
 そこで、この本を見つけたので、なぜ俳句といえば芭蕉なのかを探ってみたいと思い、読み始めました。すると、やはり、芭蕉はすごいというか、並の俳人ではないということがわかりました。著者は「至高」と題名で使っていますが、至高とは広辞苑には「この上もなく高いこと」とあり、最大級の表現です。
 そういえば、芭蕉といえば、『おくのほそ道』が有名だし、今回本棚をあらためて見渡すと、この関連の本が10冊程度はあります。なかには、まだ読んでいないものもありますが、紀行文だとしているものや、これは文芸作品だとしているものもあります。私は、どうもあまり整いすぎているような感じがして、創作ものだと思っていましたが、この本で具体的な例がいくつか出ていて、この『おくのほそ道』は紀行文などではないと断定しておられます。これで、すんなりと納得できました。
 私も山寺に何度か行き、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句碑も見ていますが、あの場に立つと、この句がスッと感覚的にも理解できます。この本では、随行した曾良の『俳諧書留』によると、実際に山寺で詠んだのは「山寺や石にしみつく蝉の声」だったと書かれています。そして「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」とかわり、元禄7年に『おくのほそ道』が完成したときには、現在のような「閑さや岩にしみ入る蝉の声」となったそうです。
 私のような素人がみても、やはり最後の句がよいとわかります。いや、それでないとここの雰囲気は伝わってこないように思います。
 著者は、この推敲の課程をつぶさにみて、『芭蕉は決して天才ではない。「しみ入る」を獲得するためにはいろいろな語を試してみているのだ。』と書いています。
 また、著者は、「芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で一流の俳人になり、『おくのほそ道』の旅で超一流の俳人になったと言われているが、そのことは、『おくのほそ道』の中の50句や翌年の元禄3年の句々を見るとよく分かる。芭蕉はこうして常に前進しているのであり、決して一所に停滞しないのだ。」といいます。
 この本を読むというよりは、ところどころに配された句も楽しみで、それを何度も読むので、ついつい時間ばかりかかって、ページが進みませんでした。でも、早く読むばかりが能ではないので、じっくり鑑賞もしました。それで5日間もかかってしまいました。
 この本を読んで思い出したのが、京都を旅していたときに寄り道した嵐山の「落柿舎」です。受付に1人だけいて、人が来ると受付して、後はズーッと本を読んでしました。やはり、芭蕉も訪ねたことのある去来の別宅だなあ、と思ったものです。ところが、この本では、ここにあったのではなく、しかももっともっと大きく、まったく雰囲気も違うと知り、びっくりしました。
 そこで、下にそこのところを抜き書きしましたので、見てみてください。おそらく、知らない方も多いのではないでしょうか。また落柿舎の名の由来もおもしろいものです。
 本を読むと、このように知らなかったことがわかる、これも読書の楽しみの一つです。
(2014.12.15)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ芭蕉は至高の俳人なのか大輪靖宏祥伝社2014年8月10日9784396614980

☆ Extract passages ☆

現在の落柿舎は、江戸時代中期の明和7年に俳僧井上重厚によって再興されたもので、もう場所が分からなくなっていたので、去来の句「柿主や梢は近き嵐山」に合うところとして新たに嵐山に近いところに選定されたのである。下嵯峨にあった本来の落柿舎は約1000坪の敷地内に数棟の建物があり、柿の木だけでも40本あったという。古くなってはいたが建物も庭も立派なものであった。元禄2年の秋、去来は庭の柿の実を立ち木のまま銭1貫文(2万5000円くらい)で商人に売ったが、突然の天候悪化で一夜のうちに柿の実が全部落ちてしまった。商人があまりに嘆くので去来は金をすべて返してやったという。これが落柿舎の名の由来である。
(大輪靖宏 著 『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』より)




No.1024 『不可思議プランツ図鑑』

 装丁が正方形で、地色の黄色が目立ち、なかを開くと、ちょっとおどろおどろしたような植物の絵もあり、つい、恐いもの見たさに読み始めました。表紙に書いてある書名は「おどろきの植物 不可思議プランツ図鑑 食虫植物、寄生植物、温室植物、アリ植物、多肉植物」です。
 内容は、レアっぽい植物を中心に、博士役の近所のおじさんと、道端小学校6年生の草野太郎君が不可思議植物を巡る旅をするという設定です。そのレア度も、レア度1では34種類、レア度2でも同じく34種類、そしてレア度3では32種類を取りあげ、合わせて100種類の植物を文と絵で紹介しています。
 文を書いた木谷さんが食虫植物が好きということもあり、どちらかというとその仲間が多く取りあげられていました。そういえば、今年の7月にイギリスに行きましたが、植物園の温室にもいろいろな食虫植物が栽培されていてびっくりしました。さらに、ハンプトンコート・フラワーフェスティバルの会場では、この食虫植物の仲間のコーナーがいくつかあり、この本に出てくるものも何種類か展示即売されていました。
 この本のなかで取りあげられていますが、アリノトリデといわれる「ミルメコディア(Myrmecodia)」をキューガーデンで見て、感激しました。おそらく、知らなければそのまま通り過ぎるでしょうが、木に着生しているのを見つけ、写真を撮りました。この本では、「内部は複雑に入り組み、大きな部屋もある。この中に、アリが侵入し、女王アリが卵を産み、卵がかえり、巣として暮らすのじゃ。アリは巣の中に食べ残した昆虫や糞を運び、それが、このアリトトリデの栄養になるのじゃ。実に、お互いにとって、よい関係なんじゃ。……しかも、地上には、アリの天敵も多い。木の上に巣があるのは、アリにとっても好都合じゃ。まさにツリーハウスなんじゃ。この中に住むのは、アカアリである。アリ植物は、アリノトリデだけではなく、多くの科や属にまたがって、なんと数百種もあるのじゃ」と説明してます。
 裏表紙の絵は「ロマネスコ」で、最近、ぽつぽつとお店にも出るようになった野菜です。これはアブラナ科の緑黄野菜で、ブロッコリーとカリフラワーの中間だそうで、とてもユニークな形をしています。この本では、「螺旋野菜」と表現していますが、この渦巻きの塊は未成熟な花蕾と花梗で、ここを食べるそうです。
 でも、これだけの説明では、その様子がなかなかわからないと思います。やはり、実物を見てみることが一番で、百聞は一見に如かずです。そういえば、この本に出てくる植物は、その名前を聞いただけではほとんどわからないものが多く、機会があれば、ぜひこの本を見てみてください。
 下に抜き書きしたのは、「ヒスイカズラ」です。この花を初めて見たときには、私もこのような色の花が実際にあるなんてとビックリしました。
 ここには、おじさんと太郎君の掛け合いそのままを載せました。このような雰囲気で話しが進められるのです。
(2014.12.10)

書名著者発行所発行日ISBN
不可思議プランツ図鑑木谷美咲 文、横山拓彦 絵誠文堂新光社2014年9月13日9784416614655

☆ Extract passages ☆

おじさん 「わしも目にするのは久しぶりじゃ。ヒスイカズラといい、マメ科のヒスイカズラ属の、つる性の植物で、学名をストロンギロドン・マクロボトリスというのじゃ」
太郎君 「怪獣みたいな名前だ」
おじさん 「ストロンギロドンは、ギリシャ語の円と歯、ガクが丸い歯のようなことに由来するんじゃ。マクロポトリスは、長い房という意味だぞい。別名を"女王の首飾り"という。フィリピンのミンドロ島、ルソン島と限られた地域に自生し、ほかの大きな木に絡み付くようにして育つ。属全体では、20種、マダガスカル、東南アジア、ポリネシアに分布しておるのじゃ」
太郎君 「それにしても、大きいな。首飾りというより、シャンデリアみたい」
(木谷美咲 文、横山拓彦 絵 『不可思議プランツ図鑑』より)




No.1023 『日本の樹木』

 著者の舘野正樹氏の名前が、いかにも植物学者というか、『日本の樹木』を書くのにふさわしいような気がしましたが、この本のヒノキの項で、自分の名前の名付け理由を書いています。それをみると、島崎藤村の『夜明け前』の主人公は青山半蔵ですが、その実在のモデルは藤村の父親である島崎正樹で、その名前から名付けられたといいます。本人は、「高校生のときに『夜明け前』を読んで以来、その重さをひしひしと感じてきた」そうです。
 でも、肩書きを見ると日光植物園園長となっていますが、たしか、ここは小石川植物園の分園なので、小石川植物園の園長がここの園長さんでもあるはずです。そのへんの詳しいことはわかりませんが、この本の内容には直接関わりのないことなので、後から確認しようと思いました。
 さて、読み始めると、「進化というと新しいものが古いものを駆逐するような印象をもつが、古いものでも長所があれば生き残る。裸子植物、特に常緑針葉樹は寒冷地に適応できたため、主に高緯度地方や標高の高い場所で生き残った。一方、常緑広葉樹は温暖な地方で旺盛な成長を示すため、気温の高い場所で優占種となる。落葉性の樹木はこれほどきれいには棲み分けない。落葉広葉樹はすべての温度に適応できるが、落葉針葉樹はほとんどが絶滅し、カラマツなど少数の種が生き残っているにすぎない。」とあり、とてもザクッとした解説でおもしろいと思いました。
 読み終わって、題名の『日本の樹木』というわりには、26種類しか紹介してなくて、ちょっと物足りなさを感じました。もちろん、新書版ですから、そんなにもたくさん取りあげるわけにいかないでしょうが、地域別とか、種類別とか、何冊かに分けて書くということもありえます。あるいは、本の題名を少し違うように変えるというのもありえることでしょう。
 とはいうものの、読んでいてとてもおもしろかったです。たとえば、マツの自生地についてとか、イチョウの寿命とか、植物の寒さ対策とか、です。たとえば、この寒さ対策については、細胞外凍結のおかげだとして、「植物細胞の場合、細胞の外側の水がまず凍る。これを細胞外凍結という。細胞の外側の水は真水に近いので凍りやすいのである。細胞外凍結がおきると細胞から水が外に出て行く。この水が凍ると、さらに水が出ていく。こうして、細胞の中の物質の濃度はどんどん上昇し、さらに凍りにくくなる。マイナス10℃にもなると、細胞の中の水の90%程度が細胞の外に出てしまう。このとき、縮んだ細胞の中 身はどろどろで、もう凍ることはなくなる。種によって耐えられる温度は違うのだが、マイナス50℃にもなるシベリアのタイガでも植物が生きていけるのは、基本的にこの細胞外凍結のおかげだ。」と説明しています。
 下に抜き書きしたのは、自然林と人工林について書かれたところで、なぜ自然林は積雪にも大風にも強いかという説明部分です。それと人工林ではいかに人による間引きが大事かも説いています。
 たしかに、これで納得です。もし、機会があれば、ぜひ読んで見てください。
(2014.12.8)

書名著者発行所発行日ISBN
日本の樹木(ちくま新書)舘野正樹筑摩書房2014年10月10日9784480067999

☆ Extract passages ☆

人工林では同じ大きさで同じ性質を持った苗が植えられるため、競争の勝者と敗者がなかなか決まらない。そのため、すべての個体が伸長を続けることになる。一方、自然の林では発芽時期もずれるし、個体の特性も多様であることが多い。こうなるとより速く大きくなれるものが勝者となり、負けたものは日陰になって枯れてしまう。これを自然間引きとよぶ。これによって面積あたりの個体数は常に低下していき、人工林でみられる際限のない競争は回避される。
(舘野正樹 著 『日本の樹木』より)




No.1022 『降り積もる光の粒』

 著者の旅エッセイは、ときおり、東京出張のときに座席に置いてある「トランヴェール」に掲載されているのを読むので、少しはなじみがありました。この第2章に掲載されているのは、この「トランヴェール」の2011年4月号から2013年2月号までと12月号ので、このうちのいくつかは読んだことがありました。でも、それ以外は初めて読むので、楽しめました。
 読むと、若いときには時間があってもお金がないので、ほとんど海外に出かけたとのこと、そういえば、飛行機代さえ工面できれば、国内旅行より断然安いのです。宿泊代はもちろん、食事代だって、日本では考えられないほどの料金です。30年ほど前の中国では、日本で食べる一人前の料金で、20人全員がたらふく食べることができました。まさに、ウソのような話しですが、本当です。今では、中国も物価が上がり、それはできないでしょうが、今でも、ネパールでは10人くらいなら食べられます。
 でも、著者が書いているように、旅は海外であろうが国内であろうが、あるいは長くても短くても、その場にいるということが本質だと思います。著者は、『5日だろうが3日だろうが、その場所に「いる」ということが、きっと旅の本質なのだろうと思うようになった。その地に立って、空気を吸って、暑いとか寒いとかを感じて、その町の人たちが食べているものを食べて、その土地で飲まれている酒を飲んで、ちょっとこわいと思いながら、夜のなかを歩く。短いあいだでも、何かしら、目を見開いてしまう光景には出くわす。道幅が広い、建物がでかい、バスが長い、建物が落書きだらけ、お墓のかたちが不思議。市場がにぎやか、物乞いが多い、値段が高い、安い。いちいち驚く。驚いて、なんとか慣れようとする。それが、私にとっての旅の定義になった。』といいます。たしかにそうで、そこに立ってみないとわからないことがたくさんあります。
 この本は全部で第4章まであるのですが、この第4章だけがちょっと重いテーマで、アフリカの声なきメッセージやインドの女性たちの涙と怒り、そしてパキスタンの女性の修学など、さらには「三陸再訪」で、東日本大震災で大きな被害を受けた三陸に再び訪れ、感じたことを書いています。これらは、どれも長い歴史や伝統や民族意識なども絡んでいて、すぐに解決できる問題ではなさそうです。それでも、このように記事にすることによって、意識が高まり、流れが変わることもあります。
 それって、とても大事なことだと思います。
 著者は、「あの地震から続く日々のなかで、自分はなんとおろかで無力なのかと幾度も思い知らされた。そうしてインド南部のシェルターや赤線地帯を訪ねながら、私はあのときとはまた異なる愚かさと無力を味わう羽目になった。」といいながらも、「怒りも、涙も、この無力さも、決して絶望へと向かうものではないと私は信じたい」と書いています。
 下に抜き書きしたのは、ひとり旅のことについて書いてあるところです。私も一人旅が好きなので、この感覚はすごくわかります。
(2014.12.6)

書名著者発行所発行日ISBN
降り積もる光の粒角田光代文藝春秋2014年8月30日9784163901084

☆ Extract passages ☆

 ひとり旅ならば、自分の感覚しかない。何をうつくしいと思い、何をきたないと思い、何をおいしいと思うか、自分自身を信じるしかない。そうすると、自分ですら知らなかった、まったく新しい自分に、出会えることも多いのである。旅の記憶も純度が高まる。それは、ひとり旅の無駄さ、面倒さ、心細さ、すべての欠点にもまさる重要なことなのだ、私にとって。
(角田光代 著 『降り積もる光の粒』より)




No.1021 『閉じる幸せ』

 著者の残間里江子さんは、とまにテレビなどに出るので顔を知っていますが、さて、何をしている人なのかといわれても、わかりませんでした。この本を読んで、そのプロフィールを見て、いろいろなことをしてきたと知りました。そのプロフィールには、アナウンサー、雑誌記者、編集者などを経て、現在プロデューサーとあり、なかなか多才な人だなあ、と思いました。
 出版社の解説では、「いつも全開で生きてきた著者ならではのユニークな生き方エッセイ」とあり、この題名の『閉じる幸せ』ってなんだろうというのが、読むきっかけになりました。
 たしかに人生は短いようで長いので、どこかで区切りをつけないと、ダラダラと流されてしまいそうです。そこで、閉じるというか、仕切り直しというか、そのようなことをしないとダメだと思います。著者は、それを「わが身の棚卸し」といい、『棚卸し。辞書を見ると「決算や整理のため在庫の商品・原材料・製品などの種類・数量・品質を調査し、その価額を決定すること」と書かれています。つまり、在庫チ ェックをして、不良品や古い品などを整理するということですね。人生も同じです。長く生きていると、知らず知らずのうちに「古い品」や「不良品」を溜めこんでしまうことになります。日頃から相当意識して棚卸しをしないと、沈殿物や堆積物は溜まる一方です。そのまま放置したり先送りしていると、思考を硬直化ざせ、行動を鈍らせる原因にもなります。』と書いています。
 これは、自分のことに当てはめても、納得できます。ちょうど還暦を過ぎたあたりに自宅を建て直すことになり、一番頭を悩ませたのが、本の整理です。昔は私設図書館を作りたいなどと考えていたので、片っ端から読んだり見たり、そのまま積んだりしていました。その状況が本の山になっていたのです。でも、考えてみると、本は重いし、室内が適度に乾燥していないと傷んでしまうし、なかなか管理も大変です。そこで、大きな決断をして、その本の三分の二を処分することにしました。でも、そう決めても、どれを残し、どれを処分するかの判断は大変でした。約1年ほどかかり、なんとか踏ん切りがつきました。
 でも、それから4年ほど経ちますが、また本が本棚に収まりきらず、積み重ねるような状態です。なるべく、図書館から借りて読んではいるのですが、それでも、知らず知らずのうちに溜まってしまいます。そろそろ、また、整理しなければと思っているのですが、なかなかその決断ができずにいます。
 だから、このような本が目に付いたのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、『「9」で閉じる』という項に書かれている文章です。
 これを読みながら、まだ「9」までは少しあると思い、本棚をため息交じりに眺めてしまいました。
(2014.12.3)

書名著者発行所発行日ISBN
閉じる幸せ(岩波新書)残間里江子岩波書店2014年10月21日9784004315100

☆ Extract passages ☆

 正確にいえば、「9の年」はそれ自体が変革の年なのではなく、「0の年」を真に変革の年にするための前準備の年なのかもしれません。前から引きずっていることを止めたり、辞めたり、リセットしたりしたくなるのが「9の年」というわけです。
 「9の年」から一年かけて身辺整理をして「0の年」になり、そこからまた一年をかけて「1の年」になると、そろそろ成果が見えてくるというパターンです。つまり、「9」で閉じて、「0」で開いて、「1」で新しい展開が見えてくるということですね。
(残間里江子 著 『閉じる幸せ』より)




No.1020 『生きる力、絵本の力』

 東京国立博物館で開催されている「日本 国宝展」を見ようと上野に行くと、その途中で国立国会図書館の国際子ども図書館で「日本の子どもの文学―国際子ども図書館所蔵資料で見る歩み」というパンフレットをいただきました。見ると、とてもおもしろそうなので、「日本 国宝展」を観ての帰りに、回ってみました。初めてのところですが、パンフレットの案内図を見ながら歩くと、あっという間に着きました。
 展示会は3階で開かれていて、ほとんど誰もいない会場をゆっくりと観て回りました。1959年に発行された『だれも知らない小さな国』佐藤暁著、若菜珪絵、講談社、などの古い絵本や、最近の絵本まで、いろいろな絵本が展示されていて、見たことのある絵本などを見つけると、とても懐かしく感じられました。
 たしかに、絵本というのは、子どもたちだけでなく、大人たちにも、いろいろな力を授けてくれます。この本を読むと、ほんとうによくわかります。
 たとえば、オーパル・ウィットリー作、バーバラ・クーニー絵の『ひとりぼつちのかえる』(こぐま社)は、〃ひとりぼっち″をテーマにしていますが、その絵本には、「朝、大きな石の上で日の出を見るかえるに、太陽が、たったいっぴきでくらしていて、さびしくないのかと聞くと、かえるは答える。〈さびしくなんかありません。まいにちこうしておひさまにおめにかかれるんですから。おおきくて あたたかい おひさまは ぼくの おとうさんです〉太陽は喜んで、もっと暖かくしてくれる。次に、雨に同じように問われると〈さびしくありません。めぐみの みずを ふらせてくれる あめさんは ぼくの おかあさんですから〉そして、雨は池を水でいっぱいにしてくれる。さらに土には、〈ぼくを そだててくださったのはあなたです〉と答え、風にも月にも感謝の気持ちを伝える。夜、空いっばいに広がる星が、自分の歌に合わせてまたたき、山々のかえるたちも呼応するので、かえるはますますのどをふくらませて歌いつづける。」とあり、自然界から受けている大きな恩恵に感謝している姿が描かれています。むしろ、そのような自然のなかで皆んなで生かされている、だからさびしくない、というメッセージも含まれているように感じました。
 下に抜き書きしたのは、「あとがき」のところに書いてあったものですが、まさにこの本の題名の説明のような部分だと思います。「絵本は人生に三度」というのは、この本を読んでみて、たしかにそう思いました。
 体調を崩して、なかなか本も読めないときでも、絵本なら読めそうです。最悪の場合には、読めなくても、絵を見ただけでもなんらかのメッセージは読み取れます。
 ぜひ、今から好きな絵本でも探して、手元に置きたいと思いました。
(2014.12.1)

書名著者発行所発行日ISBN
生きる力、絵本の力柳田邦男岩波書店2014年1月29日9784000259460

☆ Extract passages ☆

 絵本とは言葉の発達の未熟な幼い子のために絵を添えてわかりやすくしたもの、といった先入観にとらわれている大人が大半を占めているように見える。それは間違いだ。絵本は、生きることや人生や対人関係やいのちについて、基本的に大事なことを忍ばせている表現ジャンルなのだ。人生経験を積むほどに、絵本が秘めている深い語りかけに気づいていくものだ。人生で大事なことは、すべて絵本から学べると言ってよい。
 だから、私はかねてから「絵本は人生に三度」と言ってきた。一度目は自分が子どもの時、次は子どもを育てる時、そして三度目は、特に人生後半になった時や重い病気になった時だ。
(柳田邦男 著 『生きる力、絵本の力』より)




No.1019 『短編集 買い物かご』

 久しぶりにISBNの記号の入っていない本に出会いました。しかも、発行所が「公益財団法人 大同生命国際文化基金」です。でも、表紙には「アジアの現代文芸 ミャンマー G」とありますから、シリーズ本のようでした。
 なぜ、この本を選んだかというと、昨年の2〜3月にミャンマーのチン州を訪ね、市場などで買い物をしたときに、いろいろと不思議な風習を目にしたからです。たとえば、その日の一番最初のお客さんの紙幣で、お店の商品をパタパタとはたきのようにして触れるなど、今まで見たことも聞いたこともなかったようなことを体験しました。
 だから、それはどのような意味があるのかだとか、その他にもいろいろと変わった風習があるのではないかと思い、読んでみたかったのです。ただし、文芸ですから、創作もあるかもしれず、自分の旅を思い出しながら読みました。
 すると、旅では気づかなかったことなどがあり、とても興味深く読みました。たとえば、物売りは現金で買うことだけでなく、後払いで買い、それを期間は1ヶ月などいろいろだそうですが、毎日返済するというものがあり、中には、お店でありながら、質屋も兼ねていることもあるそうです。やはり、このような通りすがりでは気づかないこともたくさんあり、とても参考になりました。
 でも、私が目にした紙幣でパタパタすることは、この本のなかには書かれてなく、おそらく物語に登場する地域ではそのような風習がないのかもしれません。
 それと、各地で仏塔祭りがあるのですが、私たちもそれにたまたま出会い、見て来ました。この本のなかでも、舞台がかかるということで準備をしている様子などが描かれていますが、役者たちがなかなか到着しないというふうな設定でした。私たちが見たのも、まだ役者たちは着いていなかったのですが、おそらく旅役者のようで、各地のお祭りなどで演じているようでした。
 仏塔の周りには、屋台が建ち並び、子どものオモチャなどがいっぱい並んでいて、女の人たちの飾り物なども売っていました。そして、舞台の入口付近には、揚げながら売っているお店や飲み物などがあり、多くの人たちで混雑していました。私たちは、そこから更に奥地へと車で進んだのですが、その途中でお祭りに行くような着飾った人たちとあったので、近郷近在だけでなく、ちょっと遠いところからも集まってくるようでした。
 そういえば、書きながら思い出したのですが、近くに竹で編んだ囲いがあり、何だろうと思い近づいてみると、それはトイレでした。まさに作ったばかりのようですから、お祭りごとに作られ、撤去されるもののようです。食べればもようすのは当然ですから、やはり必需ではあります。
 下に抜き書きしたのは、「祭りの屋台」という短編のなかに出てくる描写です。仏塔祭りの接待の様子がうかがわれ、ここに載せました。
(2014.11.28)

書名著者発行所発行日ISBN
短編集 買い物かごキンキントゥー 著、斎藤紋子 訳大同生命国際文化基金2014年10月9日

☆ Extract passages ☆

 食事を出されるお客もいれば、祭りのお菓子程度で終わりになるお客もいる。仏塔祭りのお菓子というのは、揚げ菓子、ちまきや、口に入れてなめていられる甘い田舎のお菓子だ。一軒から二軒訪問すると、お腹がいっぱいでそれ以上食べられなくなる。もち米と椰子砂糖のようなミャンマーのおやつは、お腹が膨れるだけでなく、脂っこくて胃がもたれるだろう。ごちそうするだけにとどまらず、お土産を持たせる人たちもいる。自分の親戚、あの人の親戚。あちらの村での仏塔祭りのときに自分が土産のお菓子をもらったことがあるなら、こちらからもお菓子のお返しをしなければならないのは習慣となっている。
(キンキントゥー 著、斎藤紋子 訳 『短編集 買い物かご』より)




No.1018 『ブッダの言葉』

 この本の表紙の写真がとても良く、さて、ここはどこだろうと思って手に取ったのが読むきっかけになりました。ところが、この写真の説明はなく、おそらくどこかのインドボダイジュの下で瞑想している1人の僧ではないかと思いました。
 中を開いてみると、私の見たことのある風景があり、訪ねたところがあり、そのまま読み始めました。読みながら、写真を眺めながら、懐かしくもありました。
 ブッダの言葉の翻訳は中村 元 先生で、写真は写真家の丸山 勇さん、そして解説は佐々木一憲さんです。写真はだいぶ前の写真もありますが、ブッタガヤのものを見ると、比較的新しく撮ったものもあります。このブッタが悟りを開いたブッタガヤのボダイジュは、2000年に訪ねたときには、その中まで入れたのですが、一昨年再び訪ねたときには、頑丈な柵が回されていて、まったく中に入ることはできなくなっていました。これがいつ作られたのかはわかりませんが、インドの知り合いは日本の「Aasahara」が金剛宝座でおかしなことをしたからだ、と話していました。
 この本は、簡単な解説が各章の始めにあり、あとは写真の中にブッダの言葉がちりばめられているという構成です。
 いくつも印象に残ったブッダの言葉はありますが、たとえば、なるべく短いものを選んでみると、『もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。』とあり、そういえば、越後の良寛さまは大愚良寛と自称していましたが、まさにこの言葉のようだと思いました。愚かだとわかることも、それを知っているからこそです。
 また、「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい心理を知らない愚かな者とせもには、生死の道のりは長い。」などは、その通りだと思いながら、いざそのような立場に立つと、わからなくなって、じたばたしそうです。だからこそ、常日頃、意識しなければならないのでしょう。
 下に抜き書きしたのは、第6章の「執著を離れる」に解説されているのですが、普通は「執著」ではなく、「執着」といいます。では、ここでわざわざ執著と表現したのは、良くに著しく固執するからという意味のようです。
 ぜひ、この言葉を味わってみてください。
 そして、もし興味が持てたら、読んでみてください。
(2014.11.25)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダの言葉中村 元 訳、丸山 勇 写真、佐々木一憲 解説新潮社2014年8月30日9784103363118

☆ Extract passages ☆

 欲をこじらせてしまったのが執著である。世間でも、風邪を引くのは不可抗力だが、こじらせるのは自己責任だ、などといわれる。同様に、欲が起こるのは自然なことだが、対象に固執して苦しむのは多くの場合、自己責任である。無意識にであれ、みずから執著に心を預けてしまっているのだから。
 欲はそれ自体善でも悪でもないけれども、そこに「われ」〈我〉・「わがもの」〈我所〉という思いが絡むとき、執著となってその人を苦しめる。
 厄介なことに、心にこの〈我〉の思いがあると、欲と執著の区別がつかなくなる。だが、この区別がつかない限り、執著を離れることはままならない。
(中村 元 訳、丸山 勇 写真、佐々木一憲 解説 『ブッダの言葉』より)




No.1017 『新版 本屋の窓からのぞいた{京都}』

  No.1000で取り上げた『世界の美しい書店』のなかに出てくるのが、今回の著者、すなわち恵文社一乗寺店です。副題に「恵文社一乗寺店の京都案内」とありますが、観光的な京都案内ではなく、自分の本屋を中心とした京都案内です。
 この店のキャッチフレーズは、「本にまつわるあれこれのセレクトショップ」ですから、たんに本だけでなく、本にまつわるさまざまなツールもあるそうで、それらのいくつかも取り上げられています。
 そういえば、「読書」というキーワードを入れて検索したときに、おもしろい文房具屋さんがヒットしたことがあります。それは、読書用品のあれこれを品揃えしたもので、たまたまそのときに本を立てたまま読みたいと思い、木製のブックスタンドを注文しました。また、ある木工屋さんのサイトを見ていたら、本の形をしたブックエンドがあり、それも注文したことがあります。
 だから、『世界の美しい書店』を見て興味を持ったからというだけでなく、本にまつわるあれこれも好きなんだと思います。
 この本を読んで共感したのは、「文庫本は鞄に放りこまれ、あちこちで酷使され、あげく風呂の湯気に蒸されて束の厚みを増したりするような、いわばツールに近い存在だ。読後、多少みすぼらしくはあるも愛着のある一冊へと変化しているからこそ、骨董扱いするわけにはいかない。あちこちに連れ回されてくたびれた文庫本は、一般的な価値を超越した、ある種旅の記録のような、固有の思い出が刷り込まれているからだ。」というくだりです。私も旅には必ず文庫本を持って行くのですが、いくら丁寧に鞄に詰め込んだとしても、なんども読むために出し入れしているうちに、角が傷んだり、ページがめくれ上がったりしてしまいます。でも、そんな無残な姿であっても、その旅とともに歩いた物的証拠のようなもので、とても愛着を感じます。だから、私も旅に持ち出した文庫本のための本棚でも作りたいと思いました。
 また、本を読みながら、お茶を飲んだり、珈琲をすすったりするのですが、この本でも、『中国茶でもコーヒーでも、茶を淹れる行為は「待つ」ことが必須。ケトルが白い湯気を上げるのを待ち、挽いた豆に湯を注ぎ蒸らす。あるいは急須の中で茶葉が開き、飲み頃になるのをじっと待つ。蛇口を捻れば出る水のような便利さとは違う「面倒くささ」。しかしそれを厭わずお茶を淹れるのは、その時間を含めて楽しみたいからにほかならない。』とあり、これもその通りだなあ、と思いました。
 とくに古本は、下に抜き書きしたように、まさに出会いです。探そうと思っていてもなかなか出会えず、何も考えていない時と場所で出会ったりします。本当に不可思議なものです。
 だからこそ、その出会いを求めて、神保町に行ったり、小さな街の古本屋をのぞいたりするわけです。
 もし、本屋さんが好きだとか、観光客の行かない京都に憧れたりしたら、ぜひこの本を読んでもらいたいと思います。
(2014.11.24)

書名著者発行所発行日ISBN
新版 本屋の窓からのぞいた{京都}恵文社一乗寺店 著マイナビ2014年9月30日9784839953034

☆ Extract passages ☆

 古本の最大の魅力は、いつでもそこにない″ということだ。あまた溢れる新刊書の宇宙はインデックス化され、今や検索行為によって簡単に取り寄せることが可能となった。しかし、古本に限っていえば、そこに行けば買えるという保証は何ひとつない。古本市に目当ての本を探しに行くひとは多くはないと思う。探そうとしているもの以外との出会い、というのは、それが何の役に立つのかわからないものをストックしておくという、まさに読書の醍醐味であり、学習の在り方の本質でもある。
(恵文社一乗寺店 著 『新版 本屋の窓からのぞいた{京都}』より)




No.1016 『すごいインド』

 日本人の書いたインド論はいろいろとありますが、この本はインド人が書いていて、おもしろいかもしれないと思い読み始めたものです。副題は「なぜグローバル人材が輩出するのか」で、自身の体験を交えて書いています。
 結論からいいますと、とてもおもしろく、やはりインド人は興味深いと思いました。私もインドに友だちがいますが、彼らも議論好きで、何時間でもしゃべり続けます。そのノリで書いているような気もします。
 そういえば、初めてインドに行ったときに感じたのは意外と着ている服装で人を判断しやすいということで、私はよれよれの服を着ていたことから「バクシーシー(おめぐみください)」ということから免れました。ガイド本には、必ずあるようなことが書かれているのですが、そのような声がけはありませんでした。この本でも、いい服を着るというのは『自分を守るための手段でもあります。インドで粗末な服を着ていれば、他人から露骨に見下されてしまいます。嫌なことですが、それが現実なのです。警察の対応も、着ている服ひとつで違います。高級な洋服を着た人が被害者であれば、親身になつて話を聞いてくれるでしょう。でも、お金がない人間だと思われれば何もしてくれない。「外見」や「ステータス」は、インド人にとっては命を守るためにも大切なのです。』とあり、なるほどと思いました。
 インドては、これが今も現実です。だから、いくら日本人でも、よれよれの服を着ていては、乞食も近寄らないというわけです。
 それと、よくインド人は数学が得意だとかいいますが、一昨年前に行ったときに聞いたのですが、九九などは遊びでやっているといいます。しかも、スポーツをの成績が良くても親はほめないけど、九九ができるとしっかりほめてくれるといいます。スポーツは、むしろ勉強の邪魔だからやらないほうがいいとまで、言うそうです。だから、子供達が将来何になりたいかと聞かれると、起業家とか学校の教師とかいうと喜ばれるけど、プロスポーツの選手などと答えると顔をしかめられるのだそうです。
 この本にも、このようなことが書かれていますから、いまでもそうだと思います。それとおもしろいと思ったのは、今、インドで公文式がはやっているそうです。教育にメソッドというものがないので、ある意味、珍しがられるのかもしれませんが、教育に熱心なのは間違いなさそうです。
 下に抜き書きしたのは、インド人の適応力です。今、インドではIT産業が盛んですが、英語や数学が堪能だけでなく、このようなインド人のアイデンティティに固執しない性格もあるのかもしれません。
 この本はインド人の著者が本音で書いたようですから、インドに興味があれば、ぜひ読んで見てください。
(2014.11.22)

書名著者発行所発行日ISBN
すごいインド(新潮新書)サンジーヴ・スィンハ新潮社2014年9月20日9784106105852

☆ Extract passages ☆

海外で生きるインド人は「インド」というアイデンティティへのこだわりが薄いのです。アメリカに住めばアメリカ、シリコンバレーで起業すればシリコンバレーのやり方に従います。インド人としてのつながりよりも、どうすれば異文化の中でうまく生き抜けるかを重視する。良く言えば順応性が高く、移り住んだ国に同化しやすいのです。
 それもまた、インドから「グローバル人材」が数多く生まれる大きな要因にもなっています。インド人としてのアイデンティティに固執しないため、世界中から人材が集まる環境では他国の人たちから受け入れられやすいのです。
(サンジーヴ・スィンハ 著 『すごいインド』より)




No.1015 『逸話に学ぶ 茶室と露地』

 この本も、例大祭期間中ということで、選んだようなものです。つまり、この前の本と同じように、いつでもどこでも読めるように新書本で、逸話なのでその部分だけ読んでもいいわけです。電話が鳴っても、人に呼ばれても、いつでもやめられますし、集中力もほとんど要らないです。
 茶の湯とは、ずいぶん長い付き合いになり、思い返してみると40年ほどになります。あまり流派にこだわらず、いろいろな方々とお付き合いをさせてもらっていますが、それぞれになるほどというのがたくさんあります。むしろ、それらのいいところをつなぎ合わせて混合流でもいいのではないかと思うときもあります。
 さて、この本は、茶室と露地のことについての逸話で、今まで「なぜだろう?」と思っていたことも、納得しました。
 たとえば、茶室には古材を使いますが、利休自身も「埋め木の多い座敷」がいい茶室だと「茶話指月集」で答えているそうです。なぜというと、『「埋め木」とは、再利用した古材のことで、以前に明けられた「ほぞ」などの穴を、同じ材で埋めて使用するのでこのように呼ばれます。ですから「埋め木」が多いというのは、貴重な再利用の古材を多く用いている、ということです。古材は何らかの由緒などがある場合が多く、先人から受け継ぎ、さらに後世に伝えるという意味合いも含んでいて、茶人の楽しみの一つでもあります。』と書いてあります。
 また、燈籠というのは、露地の点景のようなものと思っていたのですが、「槐記」には「燈籠は、明かりのためでなければ、本来何の役にも立たないもの」と言い切っています。言われてみればその通りで、さらにその説明を読んでみると、『しかしそれにまた意味があります。単に露地はどこもかもを明るくするものではありません。まず露地へ入ると、向かう先に燈火が見えるように据え、その燈籠のそばまで行くと、また行く先の向うに燈火が見えるようにすることです。それはすべて露地の広狭によります。』とあります。なるほど、まさに露地の空間は、世俗の垢を払い捨てるところですから、ちゃんとした意味があるわけです。
 下に抜き書きしたのは、『南方録』に書かれている「立水を打つ」の項です。ちょっと長いのですが、茶の湯の精神を端的に示しているのでここに掲載しました。
 もし、茶の湯に興味があるなら、ぜひ読んでいただきたい1冊です。
(2014.11.19)

書名著者発行所発行日ISBN
逸話に学ぶ 茶室と露地(淡交新書)飯島照仁淡交社2014年10月8日9784473039606

☆ Extract passages ☆

 一会が済み、客が席を立つ前に打つ水を立水といいます。
 津田宗及などは「立水というのは納得できません。いかにも客に帰れというようにあしらうのは、いかがなものでしょうか」と言ったそうです。
 このことを伝え聞いて、利休に尋ねたとき次のように述べられたのです。「それは本当の意味をまったく取り違えています。だいたいわびの茶の湯というものは、はじめから終わりまで四時間を過ぎてはいけません。四時間以上になれば朝会は昼会の時間にさしさわり、昼会は夜会にさしさわります。その上、このようなわびた小座敷に、世間一般で行われている宴会か遊興のもてなしのように長々と居座るのは無作法です。だから後座の薄茶が終わる時分に水を打つべきです。わび茶の亭主が濃茶ばかりか薄茶まで出し終わってしまうと、それ以上ほかに何をすることがあるのでしょうか。客もだらだらとしたおしゃべりをやめて帰るのが当然です。客の帰る時分であるから亭主は露地をあらため、粗相のないよう手水鉢にもまた水を満たし、草木にも水を打つといったことをするべきなのです。客もそのことを考えて席を立つものです。そして亭主は露地口まで送って出て、別れの挨拶を述べるのがよいのです。
(飯島照仁 著 『逸話に学ぶ 茶室と露地』より)




No.1014 『モノを捨てよ 世界へ出よう』

 11月19日が例大祭なので、この時期はなんとなく慌ただしく、いつでもどこでも読めるようにと、文庫本を選びました。それと、どこから読んでもわかりやすいのも、選ぶ基準の1つです。あっちに行って2ページ読み、こっちに戻って3ページ読み、なんとか読み切るのにだいぶ時間がかかってしまいました。
 著者の名前は知らなかったのですが、表紙に写真があり、なんとなく見たことがあるという程度でした。知らないまま読んでもいいわけですが、なんとなくネットで調べてみると、「元妻は女優、歌手の沢尻エリカ(2013年12月26日、離婚)」とあり、やっと思い出しました。
 そういえば、そのときもどのような仕事をしているのかわかりませんでしたが、この本を読んでいても、「創造産業全般にわたって活動」という経歴をみても、やはりわかりませんでした。とりあえずは、何でも屋かもしれません。
 出身大学は日大芸術学部だそうで、在学中に「東京国際ビデンビエンナーレ」グランプリ受賞したそうで、そこが出発点であることは間違いなさそうです。
 さて、この本についてですが、たしかに「世界に出よう」というのは、いいことです。著者がいうように、明治維新で活躍した方々は、ほとんどが洋行の経験者であることもたしかにそうです。でも、それはあくまでもあの停滞してしまった江戸時代からの移行期だからこそのことで、それが今でも当てはまるとは思えません。ただ、あまりにも官僚制に引っ張られてしまっている現状は、やはり問題です。それの打破には、洋行帰りよりは、内部にいる官僚改革派が力を持つことが必要だと思います。
 この本で興味を持ったのは、イギリスの「ウーフ」という農業就業システムです。それは、「1971年にイギリスで発祥したもので、主に有機農業を実践する農家と働き手を世界規模でマッチングさせようというものだ。農家は食事や宿泊場所を提供し、参加者は労働力を提供する。現在では20ケ国以上にウーフ事務局があり、農家と参加者の募集・マッチングを行っている。」といい、一種のホームスティのようなものですが、農業の手伝いをしながら宿泊と食事を得ることができます。
 それと、今の時代のお金との距離感のことで、「資産を大量に所有することが前時代的なライフスタイルになっていくため、これ見よがしにモノを持っていることをアピールすることは、これ以上なくダサいこととして受け止められる。これと同じように、資産を持っていない人が、不相応なモノを所有しようとしたり、背伸びをして高額なモノを購入することも、不健康な行為に映るだろう。資産があるなしにかかわらず、そのことを主張しないようにするのが、これからの時代にふさわしい態度となるはずだ。」とあり、まったく同感です。
 下に抜き書きしたのは、本の題名にもなっている「モノを捨てよ」という部分についてのことで、これもその通りだと思います。私自身の体験からいっても、旅の荷物が多いと、行動がとても制限されます。でも、荷物を少なくして身軽になると、行動も身軽になり、どこへでも行けそうな気になります。それって、とても大事なことだと思います。
(2014.11.15)

書名著者発行所発行日ISBN
モノを捨てよ 世界へ出よう(宝島文庫)高城 剛宝島社2013年1月24日9784800206800

☆ Extract passages ☆

 荷物を極小化することは、物理的にも精神的にも、「いつでもすぐに動ける態勢をとっておく」ことを実現させる。それは、いつ何が起こるかわからない現代において、一層大事になってくる。ここで大きな役割を果たしているのがデジタル技術の存在で、その技術をどれだけ有効活用しているかどうかが重要となる。例えば、空港にいながら格安航空券を予約して搭乗券データを入手できるのを知っていれば事前に航空券を手配しておく手間も省けるというわけだ。世界を渡るのには国際感覚が重要だが、このデジタル感覚とでもいうべきスキルも見逃すことのできない要素だ。
(高城 剛 著 『モノを捨てよ 世界へ出よう』より)




No.1013 『比べずにはいられない症候群』

 たしかに、知らず知らずのうちに比べてしまい、一喜一憂するのが人間のようです。だから、お釈迦さまは比べるなとおっしゃったのです。それ自身で、貴重な存在なんだ、まさに「天上天下唯我独尊」です。
 でも、つい比べてしまうから、それを知っていて「比べるな」とおっしゃったわけで、症候群というほどでもないのに比べてしまう、それの心の有様を書いた本でした。
 著者は、マスコミでも活躍されている精神科医で、豊富な臨床経験をもとに書いているので、説得力があります。
 では、比べるとはどのようなことかといいますと、著者は、序章で以下のように書いています。
@ 常に自分より恵まれている人、幸せな人と比べる
A 自分も恵まれているかも、幸せかも、ということは目に入らない
B 相手は「幸せに見える」というだけで、本当は違うかもしれないなどとは考、えられなくなる
C 自分がいまの生活に満足していても、「あの人のほうが上」という相手が見つかるとすぐに比べあいをしてしまう
 というようにまとめています。つまり、「わかっちゃいるけどやめられない」とはいうものの、「比べあいって意味がなーい」ということです。
 つまり、この本は、比べずにはいられないというものの、比べることがいかに空しいことか、意味のないことなのか、ということをいろいろな角度から書いています。おそらく、この本を読めば、それがわかるような気がします。
 でも、比べずにいられなくて、それで傷ついたり、プレッシャーを感じたときにどうするかというと、著者は下に抜き書きしたようなことを提案しています。ぜひ、参考にしてみてください。
(2014.11.12)

書名著者発行所発行日ISBN
比べずにはいられない症候群香山リカすばる舎2014年6月28日9784799103449

☆ Extract passages ☆

まず心ではなくてからだをいたわるのです。心の傷つきは全身の神経を緊張させ、それにともなって全身がどんどんおかしな状態になっていきます。それを防ぐためにも、すぐにからだをゆるめ、くつろがせてあげることが最優先です。
 そのためには、「歩いていれば止まる」「立っていれば座る」、そして椅子の背もたれなどにだらんともたれかかり、まずは緊張を解く。
 それでも落ち着かないときには、深呼吸してみでください。
 深呼吸は「6回」がちょうどいい、と言われています。しかも、吸うよりも吐くほうに時間をかける深呼吸です。
(香山リカ 著 『比べずにはいられない症候群』より)




No.1012 『おいしい街と本と人』

 今江祥智という著者も幻戯書房という出版社も知りませんでした。最後のページに書かれた略歴を見ると、中学の英語教師から編集者になり、短大講師をしながら童話や絵本を書いたり、そして50歳を期に執筆に専念するようになったそうです。年代的には17〜8歳ほど上なので、おそらく子ども向けの本を書いているころには、私のほうがとっくに大人になり、それらを読む機会がなかったのかもしれません。
 でも、今日まで今年の読書週間なので、何も知らない方の本を読むのもいいのではないかと思います。
 この本は、そのような主力の作品を集めたものではなく、あちこちに書いたエッセイを集めたもののようで、割合気安く読むことができました。それでも、文化の日を挟んだ読書週間の中で読めたのは、それに相応しかったようです。街だって文化ですし、本も人だって、文化そのものです。しかも、初めての作者のものは、やはり読んでいても新鮮さを感じます。
 この話しがどのような展開になるか想像もつきませんし、そもそもどのような話しが取り上げられるのかもわかりません。
 とくにおもしろかったのは、1冊の本が作られる過程に触れたところです。その1冊にどのような思いが、関わった人たちの思いが感じられ、読むときにはそれらを感じながら読まなければと思いました。私も、どちらかというと、本の装丁や触感なども大切だと思っています。手に持ったときの重さだって本の重要なポイントです。
 たしかに、電子辞書は便利で使っていますが、必要な箇所をすぐに引いたり、1台で国語辞書から漢和字典、さらに英和・和英辞典まで縦横無尽です。でも、その前後をついでに読むなんてできません。必要なところに直行するには便利ですが、寄り道をしたり、回り道をする気にはあまりならないようです。
 しかも、紙の本は目にも優しく、積んでおいても背表紙を見ただけで読みたくなったり、電子ものにはない良さがたくさんあります。
 たとえば、写真のデータは保存しておいても目に見えないので壊れたかどうかもわからず、気づいたときには手遅れということもあります。ところがフィルムデータは、いづれ劣化したとしても、形は必ず残っています。これは大事なことです。
 だから、最近では、紙の本を読み、その良いところを抜き書きしてカードに残し、さらにデジタル化していつでもすぐに使えるようにしています。そうすると、手間はかかりますが、いつまでも読んだ本が印象として形と心に残っています。
 著者は、いろんな書き方があるとして、「私どもが作る童話というのも、原稿用紙に三、四枚から十枚くらいで、それもほとんど平仮名でも、かなりのことが書けるし、絵本にしたって三十二貫くらいの薄さの本に、なかなかの世界を閉じこめることだってできる。小説なんて三百枚も書かないと一冊にならないんだよ、と友人の作家はつぶやくし、まあ五百枚くらいでないとちょいとした社会史なんぞ書けっこないからなあ、と学者の友だちはぼやく。」と書いていますが、枚数にかかわらず、おさらく精魂を傾けているに違いありません。
 この本も、いろいろなところで発表している文章を集めたものですが、パッチワークのようなおもしろさがあります。そういえば、著者の講演会でも上野瞭氏がパッチワークみたいだと言われたことがあると書いているところを、抜き書きしました。
(2014.11.9)

書名著者発行所発行日ISBN
おいしい街と本と人今江祥智幻戯書房2014年7月8日9784864880510

☆ Extract passages ☆

 ――君の話はパッチワークみたいやねぇ。ここと思えばまたあちら……と飛びに飛んで、それでもおわるころにはちゃんと一枚の布になってる。
 と、上野瞭がいつかあきれ顔で言った。
 ――そら当り前やろ、こっちは何せ、洋の東西を問わず、いま面白い本を片端から紹介し論評し、一人でも多くの人に読んでもらわンと――と並べたてる。終わってみたらまぁ、万国旗模様のパッチワークやろな……。
(今江祥智 著 『おいしい街と本と人』より)




No.1011 『イギリス 水辺の旅』

 今年の7月初・中旬にかけてイギリスを旅しました。イギリスは鉄道の国だと思っていたのですが、あちこちに運河などがあり、そこに船が動いていました。ということは、水運の国でもあるということです。そう思っていたら、この本を見つけました。
 この本の「はじめに」のところで、『水辺のウォーキングを総称して「ウオーターサイド・ウォーキング」という。運河沿いのトゥパス(遊歩道)を歩けば「カナル・ウォーキング」。水路に沿って歩いていれば迷うこともなく、高低差も少ない。歩くのに疲れたら、運河沿いで営業するパブで一休み。地図や道具も要らず、水辺を楽しむのに一番手軽な方法だ。』とありました。
 そういえば、イギリスでは、運河だけでなく、遊歩道もきれいに整備されていました。そして、ところどころに寄付の名札が付いたベンチがあり、休んでいる姿も多く見かけました。ほんとうにイギリス人は歩くのが好きだと思いました。さらに続けて『トゥパスが運河に沿って続いているのは、運河が輸送の根幹を担っていた時代の名残りである。エンジンのない時代、運河を往くボートは馬が曳いていた。この馬が歩いていた道がトゥパスだ。ボートの船頭や馬が休むためにパブもつくられた。』ということです。
 つまりは、昔は馬がボートを曳いて通っていたトゥパスが、今では散歩道やサイクリング道として親しまれているというわけです。
 この本は、イギリスの旅の案内のなかでも、水辺にこだわって紹介しているところがユニークで、しかも写真が豊富に載っていて、読んでも見ても楽しめました。もし、もう一度行く機会があれば、今度はぜひナローボートに乗ってみたいと思いました。これだと、船の中から、ゆっくりとイギリスの風景写真を撮れそうです。  そして、デッキで本を読んだり、紅茶を飲んだり、とくにすてきな風景のところでは船を留めて、そのままそこに1泊してもいいわけです。そのような自由な旅が楽しめそうなのが、ナローボートの旅のような気がします。
 でも、このナローボートを運転するには、免許とか操縦法の訓練とか必要なのかな、と思っていたら、本の最後で「ナローボートで旅するには」という章がありました。
 簡単にいうと、このナローボートの操縦には、免許もいらないし、操縦だってすぐできるようになるそうです。その理由は、この下に抜き書きしたところに書いてあります。
 時速およそ3マイル(約4.8キロ)という歩く程度のゆったり感が、気持ちよさそうです。
(2014.11.6)

書名著者発行所発行日ISBN
イギリス 水辺の旅秋山岳志千早書房2009年12月5日9784884924409

☆ Extract passages ☆

 ナローボートがレンタカーと違うのは、操縦に免許が要らないという点だ。イギリスでは運河だけではなく、テムズ川やエイボン川などの河川も含め、ほぼすべての水路でボートの操縦に免許は不要。その理由は、操船のシンプルさとスピードにある。
 ナローボートの操縦に必要なレバーは、ボート最後尾のデッキにある「ティラー」とスロットル(アクセル)レバーの二つだけ。舵を動かすティラーを進行方向に対して右に振るとボートは左へ、左に振れば右に向く。スロットルは、前に倒せば前進、後ろに倒せば後進で、ギヤチェンジなどは必要ない。
 そしてナローボートの時速はおよそ3マイル(約4.8キロ)と歩く程度の速さ。このスピードだからこそ、免許や経験がなくとも誰でも操縦が可能なのだ。
(秋山岳志 著 『イギリス 水辺の旅』より)




No.1010 『アヘン王国潜入記』

 今年の7月、この本の著者の高野秀行さんと角幡唯介の対談集である「地図のない場所で眠りたい」講談社刊、を読み、そのなかに出てくる『アヘン王国潜入記』を読んで見たいと思っていたのですが、なかなか手に入らず、そのままになっていました。ところが、10月30日から東京出張があり、本屋さんに立ち寄り、この本を見つけ購入、そしてホテルですぐに読みました。
 一言で言えば、とてもおもしろく、普通には考えもしないようなゴールデン・トライアングルに入って取材するだけでなく、ケシの種まきから収穫までを自分で体験するというものでした。
 まさに事実は小説より奇なりでして、冒険談としても奇想天外なこともあり、さらには民俗学的にも興味深いものがありました。
 たとえば、私も昨年の春、ミャンマーの奥地に旅したのですが、家族も村とのつながりも比較的緩い関係だと感じてきました。ここアヘン王国でも、畑仕事の共同作業では、「共同作業をするのは、@親戚、A畑が隣り合った者、B親しい友だち、C何かほかに貸し借りがある者、のほぼ4パターンがある。しかし、助け合いといっても、今日あんたのとこをやったから明日はうち、といった規則正しさはない。参加者は多種多様で、とてもそんなきちんとしたスケジュールは組めない。結局、そのときいちばん作業を必要としている畑へ仲がいい者同士が行き、収穫のときまでに村全体でつじつまが合っていればよいという、きわめておおらかな、システムとも呼べないシステムである。」と書かれていて、なるほどと思いました。
 また、村人同士がケンカをしても、「どちらが悪いかは問わず、とにかく一晩寝たら、間髪入れずに仲直りする。私は村人ではないのでほんとうのところはわからないが、見ているかぎり、それは不文律というより、そうしないと野暮だという気気配がある。」というのです。
 やはり、その場に長期間いて、見たり感じたり、そして考えたりしなければわからないはずです。
 しかも、そこはゴールデン・トライアングルというなかなか入りたくても入れないところですから、ドキドキ、ワクワクです。
 ホテルで読んだり、電車のなかで読んだり、帰りの新幹線のなかですべて読み切りました。むしろ、旅をしているときのほうが、読んでいておもしろかったさえいえます。
 下に抜き書きしたのは、家を修理したときに「モイック」を作って食べる風習があるといい、そのモイックの一番必要な食材がネズミだといいます。では、なぜ、ネズミなのかというと、これがいかにもアジア的というか、とてもわかりやすく説明しているので、これを載せました。
 日本も、アジアも、そしてゴールデン・トライアングルに住む人たちも、意外と似たようなことを考えるものだと思いました。
(2014.11.3)

書名著者発行所発行日ISBN
アヘン王国潜入記(集英社文庫)高野秀行集英社2007年3月25日9784087461381

☆ Extract passages ☆

ネズミ入りモイックであるが、たまたまネズミを捕まえたから入れたのではなく、この場合は、必ずネズミを入れるらしい。このネズミはサム・タオじいさんが自分の家でとってきたものだという。あとで気づいたが、どこの家でも囲炉裏の上に燻製のネズミを常時ぶら下げていた。この日のように、すぐにネズミが捕まえられればそれに越したことはないが、なかなかそうもいかないので、いつでもお供えできるように取り置きしているのだ。ネズミを入れる理由は、この小動物が米を食うからだとのこと。米を食われるのはたいへんな迷惑だが、米があってこそネズミがやって来ると発想を逆転させて、家に米がたくさん入ってくるようにネズミを象徴として用いるようだ。
(高野秀行 著 『アヘン王国潜入記』より)




No.1009 『旅する知』

 10月30日から上京していて、電車などでも読んでいます。やはり、旅のなかでは、旅の本がいいですよ。
 また、装丁の絵が安野光雅氏の絵で、それが旅の雰囲気にぴったりで、ついつい読んでいます。ということは、装丁も大事な本の要素ではあります。
 その数日前に、ブックオフから別冊太陽『安野光雅の世界 1974-2001』というのを買ったばかりで、毎日それを眺めていたこともありそうです。この本の中にも、装丁に近い絵もあり、最初から装丁用に描いた本などもあり、その装丁だけを見ていても、飽きませんでした。
 さて、この『旅する知』ですが、「おわりに」という最後のところで、『私が昔の旅を振り返りながら、この本で書きたかったのは、昔の話ではありません。その昔が姿を変えた現在の、そして、このいまの生活が将来もう一度振り返るとどのような時代としてとらえられるのか、という、(いま)の話でした。かたちは論文でも論説でもない「旅日記」ですから、結論を出そうとしたり、提言をしたりしようとはし ません。もしかすると、驚いた、びっくりした、分からない、を連発しているかもしれません。むしろそうして、不思議さの中を動かないようにしたいと思っています。』と書いています。つまり、この本は旅のガイドブックではなく、旅の心構えというか、考えて欲しいことです。
 そういえば、今年の7月初旬から中旬にかけてイギリスを旅したのですが、行く前の印象としてはイギリスもヨーロッパも同じだと思っていたのですが、ヒースロー空港から地下鉄に乗ろうとしたら、その電車の小ささにビックリしました。乗っている人たちも、私と背丈がほとんど変わらないのです。旅の途中で、アフタヌーンティーに個人宅に誘われたときも、その間取りの小ささに驚きました。つまり、イギリス人とフランスやドイツの人たちとは体格が違うのです。だから、生活的には日本人に近いと感じました。
 そういえば、『漱石のロンドンの下宿でも、家主の家族の「経済」のつましさが詳しく措かれる。文学や絵画や音楽に惹かれて西欧に出かけていった日本人が、生活のレベルで「人々」と出会うと、知っている西欧が2つのレベルに分けられる。芸術と生活? 素朴だがそういうことだ。人が何のために生きているかに関わる「文化」と、どのように生きているかに関わる「経済」とが、違っているものとして現れる。本当は、2つはぴったり張り付いているのだが、それが同じ塊として見えるようになるには時間がかかる。』とあり、まさにそのように感じました。
 たしかに食事も「フィッシュ&チップス」だし、泊まったホテルも5階建てなのにエレベーターもなかったりして、階段もとても急でした。ホテルといっても、普通の自宅のような部屋の作りみたいで、しかも料金はとても高いと思いました。
 まあ、旅はいろいろなことがあるもので、それがまた楽しかったりします。
 下に抜き書きしたのは、人類学でいうところの「遅れた返礼」という考え方です。たしかに若いときには、なかなか周辺にまで気配り心配りなどはできずに、自分の気持ちがストレートに出やすいものです。それが若さかもしれません。
 だからこそ、それなりに年を重ねてきたら、その返礼を心がけなければならないと思いました。返礼に遅すぎるということはなさそうです。
(2014.10.31)

書名著者発行所発行日ISBN
旅する知船曳建夫海竜社2014年8月18日9784759313611

☆ Extract passages ☆

こうしたさまざまな人の恩をそれからも受けていくことになるのだが、若いとはまことに不遜なもので、そのときも、そのあとでも、かなり長い間、大人の他人が時間やら都合やら何かを犠牲にして若い自分を助けてくれたことに気がつかなかった。しかしそれは、若い者が順番にそうした不義理を行い、年を取ってそれに気がついて若い者を助けてやる。人類学で言う「遅れた返礼」だ。人類全体のつじつまは合うのだ。いまはそう考えないと、かつての非礼が恥ずかしくて困る。
(船曳建夫 著 『旅する知』より)




No.1008 『音楽を愛でるサル』

 No.997の倉本 聰・林原博光 著『愚者が訊く』やNo.998の人類学・霊長類学者の山極寿一著『「サル化」する人間社会』などを読んで、霊長類やサルの世界もおもしろそうだな、と思っていたら、たまたまこの本と出会いました。
 この本の題名を見ただけで、だいぶ前にソニーのウォークマンの広告で、サルがヘッドフォンをして目を閉じ、いかにも音楽を聞いている姿を思い出しました。サルって、ほんとうに音楽がわかるのかな、とその当時も思いました。それを思い出したことで、急に読みたくなりました。ところが、副題は「なぜヒトだけが愉しめるのか」とあり、もう結論は表紙に出ていました。
 でも、なぜ、という思いが残り、やっぱり読むことにしました。
 著者は京都大学霊長類研究所教授なので、おそらく、サルそのものが音楽を愛でるか愛でないかという話しだと思って読んだのですが、どうもそうではなく、どちらかというと人間そのものがなぜ音楽を聞くようになったのかという話しが多かったようです。
 この本のなかで、いろいろな音楽を使った実験を紹介していますが、たとえば「ポケモン実験」で、好きなフィギュアを選んでもらい、それを使って遊ぶことを厳しく禁止する場合と、緩やかに禁止する場合と、モーツァルトの音楽を流しつつ穏やかに禁止する場合と、どのように違ってくるかという実験です。これによると、厳しく禁止されることより強く、さらに強くオモチャの価値を高める傾向にあるといいます。つまり、それをさらに欲しくなるということです。そして、緩やかに禁止された場合は他の場合と比べると、オモチャの価値が少し下落したそうです。これはまさに「おあずけ」された状態と同じですから、なんとなくわかります。
 ところが、音楽を流しつつ穏やかに禁止された場合でも、オモチャの価値は強く禁止されたときと同じようにオモチャの価値を高めたといいます。ということは、普通は「できないんだからしようがない」と考えて、オモチャの価値が下落するのに、そのままの気持ちでバランスをとるということです。つまり、オモチャがなくても、音楽があると心の平安を与え、心地悪さを低く抑えるということです。
 そういえば、修行していたとき、なんで同じようなことを何度もしたり、唱えたりするのかとはじめの頃は思ったのですが、この本で、「仏教の多くの宗派か説くように、どうして念仏は百万遍も唱えなくてはならないものなのかというと、宗教的な祈念というものは理屈としてではなく、身体に浸みわたってこそ意義を持つからではないだろうか?」とあり、なるほどと思いました。そして、仏教にも声明があり、修行のメリハリをつける「触媒の役割をしてくれる力」かと考えました。つまり、その力が音楽であると著者はいいます。
 下に抜き書きしたのは、音楽が誕生する素地として記述した部分です。
 これを読むと、人間も、サルも同じように「音楽性」を持っているような気がします。
(2014.10.28)

書名著者発行所発行日ISBN
音楽を愛でるサル(中公新書)正高信男中央公論新社2014年7月25日9784121022776

☆ Extract passages ☆

 周囲に見てもらって歓心を買いたい。それにはアピールする要素がないと、おはなしにならない。アピールするとは、「うける」ことと同義だ。「うけ狙い」のサービス精神にもとづく行動パターンの変容――その基本は、「音楽性」と呼んでも差し支えない要素なのかもしれない。そして「音楽性」が、動物がそもそも仲間に向けて遂行するディスプレイに組み込まれたとき、音楽が誕生する素地が到来したのだろう。
(正高信男 著 『音楽を愛でるサル』より)




No.1007 『漢字に託した「日本の心」』

 漢字はおもしろい、と常々思っていたので、この題名を見ただけで、すぐに読みたくなりました。
 読んでからも、やはり、漢字はおもしろいし、こんなにも奥が深いのかと関心もしました。
 この本は、「NHKカルチャーラジオ 歴史再発見」において、2013年7月から9月に放送された「漢字と日本語の文化史」という番組のガイドブックに、さらに新書化するために大幅に加筆・修正を加えて全体を再構成されたそうです。そのラジオは聞かなかったのですが、もし、知っていれば13回ぜんぶ聞きたかったと思いました。
 この本を読んで、今まで知らなかった漢字のことをいろいろと知ることができましたが、たとえば、よく言われている「人という漢字は、2人の人が支え合った象形文字」だということも、意外と歴史は浅く、教育学者の新渡戸稲造があえて字体を分析して生み出した新たな解釈だったそうです。だから、もともとの漢字本来の解釈では、『「人」は一人の人が左横を向いて立っている姿にほかならない。一人立ちしている様をかたどった象形文字そのものであった。「ノ」が伸ばした腕、「丶」が頭から胴体、脚までを表している。』といいます。
 でも、人という漢字は、支え合っていると解釈するほうが、なんかぴったりくるような感じがします。
 また、たとえば、東日本大震災以降よく使われる漢字に「絆」がありますが、糸を半分ずつ持って強いつながりを表しているような気になっていましたが、これも、「漢字も和語(きず(づ)な)も動物を捕まえておくための綱を意味した」そうです。その例として「羈絆」「絆創膏」などの漢字が載っていますが、それを見れば漢字本来の解釈が正しいと思いました。
 このように、著者は、漢字は今もなお「その場でしっくりくる最適な視覚的表現を求めて運用されながら、試行錯誤がさまざまな社会で繰り返されている」といいます。そういわれれば、いくつもそのような風潮を思い出します。
 だから、この本は、「そうしたことが繊細で素晴らしいのか、細かすぎるのかといった功罪を直接説くのではなく、その姿をありのままに記し、よって立つ来歴をできる限り辿って、変わるもの、変わらぬものに触れつつ展望を述べてみた。漢字を通して日本語の姿を見出そうとし、それらを使う日本人の心のあり方にまで迫ろうと努めた。」そうです。
 この本を読むと、今まで気づかずに使っていた漢字が、まったく違う意味があったと知り、でも、日本人にはこのほうがいいなあ、と何度も思ったりしました。また、一つのことをいくつかの漢字で表現するというのも、心のありようを示しているようで興味深かったです。
 その1つとして、下に抜き書きしたしました。たかが卵ですが、されど玉子です。でも、最近は、さらに「たまご」や「タマゴ」の表現もあり、英語で使ってもほとんどの人に伝わります。
 ほんとうに漢字や日本語はおもしろいと思いました。
(2014.10.25)

書名著者発行所発行日ISBN
漢字に託した「日本の心」(NHK出版新書)笹原宏之NHK出版2014年6月10日9784140884386

☆ Extract passages ☆

 食にこだわる中国ではタマゴは「タン」と発音し、茄でようが焼こうが「蛋」としか書かない。ほとんどの日本人は、「たん白質」のタンがこのタマゴの意であることを忘れきっており、「蛋」という字があってそれがタマゴを指すという理解も乏しい。
 アメリカではタマゴはどういう状態に加工されても常に「egg」と書かれるのであって、表記(綴り)も変わらない。こうした統一こそが世界の文字と表記に共通する大原則である。しかし、日本人は自己の感性に即し、自身でも気づかないうちに日常の表記を揺らしている。
(笹原宏之 著 『漢字に託した「日本の心」』より)




No.1006 『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』

 久しぶりに、椎名 誠の本を読みました。そして、椎名ワールドを満喫いたしました。
 昔は、『さらば国分寺書店のオババ』や『わしらは怪しい探険隊』、そして初めてインドに行くときには、『地球どこでも不思議旅』や『インドでわしも考えた』など、いろんな本を読みました。でも最近は、なかなかその機会がなく、久しぶりに読んだのですが、やはり椎名 誠はおもしろかったです。
 この本は、新しくどこかへ行ったとか、何かをしたというものではなく、頭のなかで考えたことが中心で、それ以外は過去に行ったところの思い出話しみたいなものです。最近は、「通販生活」などでたまにお姿を拝見するのですが、あの精悍さはちょっと陰に隠れたみたいです。もちろん、私自身もそうですから、他人事ではありません。
 もしかして、この本は通販生活でもとめたものに囲まれて書いていたのではと邪推したりしてましたが、それはそれ、缶ビールを空けながら書いたに違いありません。
 じつは、この本は『SFマガジン』に隔月で「椎名誠のニュートラルコーナー」で2008年6月号から2014年4月号まで連載したもののなかから、セレクトし加筆修正したものだそうです。もともと、SFものにはまったく興味がないので、このようなマガジンがあること自体知らなかったです。あっ、だから出版社は早川書房だったのですよね。
 いちおう、3つに分かれていて、1つは「ヘンないきもの」、2つめは「とてつもない未来」、3つめは「旅するこころ」です。題名にもなった『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』というのは、「ヘンないきもの」のなかの「人間とアリンコの本質的な違いをふたつあげてみなさい。」に書かれていました。ちなみに、このなかでは、一番なじみやすい「旅するこころ」がおもしろかったです。
 たとえば、『ほんの少し前、自動車が発明されて間もない頃は、世界には自動車を規制するいろんな法律があった。主にそれまでの人間の移動手段として絶対的だった「馬」の立場を守るものだったのだ。 たとえばイギリスで1865年に施行された交通法令は「自動車は時速3.2キロで走り、その前を赤旗を持った人が走って行ってこれから危険なものがやってきますよ、と知らせなければならない」と決められていた。あるいは「馬が道で自動車とすれ違うのを嫌がったら、車の持ち主は車を分解し、部品を藪のなかに隠さなければならない」「夜間に田舎道を走っている車は1.6キロごとに花火をうちあげ、10分待って陸上に誰もいなくなってから再び走ること」(どちらもアメリカの州法)などというのもあった。』という記述を見て、なるほどなるほどと思いました。
 よく、ここまで調べるなあ、と思いましたが、もともと法律なんて、多数の方に都合良くつくられるものだと思ってますから、ただおもしろいとしか思いませんでした。
 この本は、ある意味、気楽に読めますし、この本の性格上、どこから読み始めてもいいので、手元に置いて読んで見てください。
 下に抜き書きしたのは、もしアリンコが「死」というものを知ってしまったらどうなるか、ということを想像して書いている部分です。これなども、いかにも椎名ワールドだと思います。
(2014.10.21)

書名著者発行所発行日ISBN
地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい椎名 誠早川書房2014年9月25日9784152094834

☆ Extract passages ☆

 自分の「死」を知ってしまったアリは、くわえていた葉を捨てて、もっと別な、もっと楽ができるここちのいい場所を求めて行列からはずれるかもしれない。そういうアリが沢山増えていったらアリのコロニーは崩壊する。
 そのアリの行列の道の下に朽ちて重なっている森の落ち葉の堆積のなかをごそごそくねっているミミズも、自分はいつか必ず死ぬんだ、と気がついたとき、それまでの行動やこれからの行動にささやかな疑問を持つかもしれない。
 そうなのだ。自分の「死」を意識してしまうということは「自分の未来」を考えてしまうということでもあるのだ。
(椎名 誠 著 『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』より)




No.1005 『野生哲学』

 この新書が書かれたのは、おそらく東日本大震災前だと思いますが、出版されたのはその後で、アメリカ・インディアンがうまく自然と共生してきたことを思えば、タイムリーな本だと思い、読みました。副題は「アメリカ・インディアンに学ぶ」とあり、文章を管啓次カさんが書き、「太陽の男と大地の女(ナバホの創世神話)」というコミックを小池桂一さんが描いています。
 私はほとんどコミックは読まないのでわからなかったのですが、小池桂一さんは『ウルトラヘヴン』などで有名だそうで、幻覚や夢、悟りや瞑想による至高体験などを描いたストーリーが多いそうです。
 そういえば、だいぶ前の話しになりますが、出版関係の友人から、自分が発行した『北米インディアン悲詩』という大きな本をいただいたことがありますが、それを読み返すきっかけにも、この本はなりました。
 どちらの本を読んでも、インディアンは土地と密接な関係を保ちながら生きてきたようです。人はなんのために生きるかと問われれば、「祈るため」と答えるといいます。
 この本では、その祈りを「自分たちの日々の行動を律する規則、それ自体が祈り」だそうです。そして、次のような言葉を記しています。
 植物を育てることが祈り。
 動物を狩ることが祈り。
 太陽や月を見上げることが祈り。
 水を汲むことが祈り。
 風を感じることが祈り。
 つまり、自分たちも土地の一部であり、すべてが土着の人々の祈りとなります。
 だから、彼らインディアンは、「土地という母をよく敬い、彼女に棲む種々の動物や植物たちによく気を配り、土地の体を傷つけないようにしなくてはならない。土地を私有するとは、あまりにばかげた考えだ。土地を売買したり、鉱物を掘ったり、木々を大規模に伐採したり、動物を狩りつくしたりしてはならない。水を汚してはならない。野生の、あるがままの姿を損なってはならない。そして機会あるごとに、歌や踊りによって土地への感謝をよく表し、よく祈り、土地を知るためによく歩かなくてはならない。」といいます。
 たとえば、アメリカ・インディアンのホピ族にはある恐ろしい予言が伝えられていました。それは「母なる大地から心臓をえぐり出してはならない、もしえぐり取ったならば、それは灰のつまった瓢箪と化し、空から降り、やがて世界を破滅に導く。この瓢箪の灰は、恐ろしい破壊力を持ち、川を煮えたぎらせ、大地を焼き尽くし、生命が育たなくなる。そして人々は不治の奇病に苦しむのだ。」といい、ウラン採掘を戒めていたそうです。
 やはり、自然を損なうような生き方は、おかしいと思います。温暖化だけではなく、自然に自分たち人間も生かされていると考えなければ、将来はないような気がします。下に抜き書きしたのは、自然、あるいは土地との関係を見直すための一つの大きなポイントだと著者はいいます。それを掲げました。
(2014.10.18)

書名著者発行所発行日ISBN
野生哲学(講談社現代新書)管 啓次カ・小池桂一講談社2011年5月20日9784062881074

☆ Extract passages ☆

 土地との関係を見直すにあたってのひとつの大きなポイントになるのが、聖性に対する感覚だ。ある物がそこにある。それは日常的なありふれたものであると同時に、何か濃厚な意味をおびた聖なるものでもありうる。世界の多くの土地の伝統文化が、そんな二重写し(日常性+聖性)の構図をもっていた。いいかえれば、カミが身近にいて、人々はカミを敬い力づけるための仕組み(儀礼や習慣)を必ずもち、実践していた。そしてそのカミは万物にそれぞれのかたちで住む。自分たちの生活とイノチに関わるすべてが宇宙論化され、その聖性が敬われた。
(管 啓次カ・小池桂一 著 『野生哲学』より)




No.1004 『雲の上に住む人』

 副題は「富士山須走口 七合目の山小屋から」で、とても分かりやすく、すぐに書かれている内容が頭に浮かぶほどでした。これは、大事なことです。読む方の立場からいえば、たくさん並んでいる本棚から1冊を選び出すわけですから、題名は単刀直入なものがいいわけです。それでも、本の内容がよくわからない題名もあり、それで読みたくなるものもあるから不思議です。
 この本は、関 次廣さんが書いているわけではなく、もう1人の著者である山内 悠さんが写真を撮り、文章を書いています。その主人公が関 次廣さんというわけです。関さんが話したことや関さんのポートレートのような写真もあり、それで共著のような形になっているようです。その関係はというと、山小屋の主人とアルバイトのようなもので、2人ともほとんど一緒に仕事をしています。だからこそ、そこで感じたことや風景などを書きつづることができるわけです。そして、気がついたときには延べ600日も一緒にいたそうです。
 だから、最初に「その場所で毎年繰り返される山の暮らし。そして、関さんの言葉を伝えることができたらと思う」と書いています。
 この山小屋の名前は「太陽館」で、富士山須走口の七合目に立っているそうです。なぜここにあるのかというと、富士山は高い山だから、気圧の変わりやすい場所があり、そこで登山者にも多少の影響があり、事故なども起きやすいといいます。だから、その近くに昔から山小屋があり、人の命を守る役割があると関さんはいいます。
 私も山登りをしたからわかりますが、山小屋があるということは、そこで少し休みなさいということです。山では、もう少しもう少しという無茶が命にかかわります。
 そういえば、御嶽山が9月27日午前11時52分に噴火して大きな災害を引き起こしました。やはり、災害は時なし、場所なし、予告なし、です。昔は、山男なら山で死ねれば本望だというような歌がありましたが、絶対にそんなことはありません。
 この本の最後のところで、関さんが「すべては円(まる)だよ、……結局はね、中心点はひとつしかないんだ。そうでないと円にはならないからね」と山を下りながら言ったそうです。
 なんか意味深な言葉ですが、たしかにそういう面はあるような気がします。
 下に抜き書きしたのは、水の大切さについて書いているところです。
 どうも日本人は、水は大切といいながら、案外ぞんざいに使っているような気がします。
 でも山小屋に行けば、必ずやそれを実感するはずです。ぜひ、この本を読んで見てください。
(2014.10.15)

書名著者発行所発行日ISBN
雲の上に住む人関 次廣・山内 悠静山社2014年7月10日9784863892835

☆ Extract passages ☆

 ある朝、外に出ると雨が降っていた。
 関さんに指示され、合羽を着て外に出た。屋根に雨どいを取り付け、水を溜めるタンクを置く。雫が滴り落ちる場所すべてにバケツを置いた。すると、水が瞬く間に溜まっていく。水面に雫が落ちて、ポチャポチャと音が聞こえる。それがうれしく心地よかった。
「ここは、すべてが溶岩と火山灰だから、水はぜんぶ浸透してしまう。山の上では水源はどこにもないからね」……
 いつも横を見ると雲があった。それを照らす太陽の光。その光と風が雲をうねらせている。すべてが緻密な関係をもってつながり、こうして今、雨を降らせている。この雨が大地を潤し、植物を育む。川となり、海へと繋がっていく。その循環のなかで自分が生きているということをあらためて実感した。
(関 次廣・山内 悠 著 『雲の上に住む人』より)




No.1003 『僕らはまだ、世界を1ミリも知らない』

 「僕らはまだ、世界を1ミリも知らない」って、どういうこと、という疑問から読み始めました。書かれてはいませんが、おそらくはほとんど知らないということと同義語だと思いました。たしかに、ちょっと海外に行ったからといって、すべてわかるはずはないし、著者のように約2年ほど海外をバックパックしていたからといって、それでわかるはずもありません。考えてみれば、自分たちが住む日本のことだって、ほとんどわからないというのが現実です。ある意味、著者は正直だと感じました。
 まず、海外旅行に先立って、英語がわからなければということで、フィリピンに語学留学をします。しかも、その体験を長期旅行の期間中に本として東洋経済新報社から出版するのですから、ただ者ではないようです。そして一時帰国し、その1ヶ月後に世界旅行に出発しました。
 著者は、まず北米に行きます。それも起業家の聖地シリコンバレーを選ぶというのは、著者も学生時代に起業したことが起因していると思いました。そこから中米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、中東、アジアと渡り歩きます。それぞれにおもしろい出来事があったのですが、やはり、人との出会いがあったからこその出来事です。だから、著者は、「旅先の土地の印象というのは、結局はそこで出逢う人の印象そのものの影響が大きい」といいます。もちろん、いいこともあれば、悪いことだってあります。その悪いと思ったことだって、人との出逢いでまた行きたいと思うのです。だから、「僕は、人生はバトンリレーだと思っている。僕が渡したバトンをその人が次の誰かに渡せばいい。そのバトンが僕のところまで戻ってこなかったとしても、別にそれはそれでいい。これからの旅の中で、どれだけの人から僕はバトンを授かり、どれだけの人にバトンを渡して繋いでいけるのか。たとえ授からなくても、自らがバトンリレーのスタート走者でありたいと思う。」と書いています。
 たしかに、そうです。
 そういえば、イギリスのエディンバラには、市街の通り沿いと公園などに200個を越えるベンチがあったそうです。そこには、名前や思いなどが書かれていて、その人たちが寄付したものだそうです。それを「ベンチドネーション」といいます。私も今年の7月初、中旬にイギリスに行ったのですが、ロンドンの公園や植物園にも、このようなラベルのついたベンチが所々にありました。そこに座り、ゆったりとした時間を過ごしているカップルがいたり、本を読んでいる人もいました。これがイギリスなんだと思いました。この本で知ったのですが、ベンチを寄付するには10万円前後かかるそうですが、「そのベンチが残り、故人を想う人たちがそこで故人に話しかけたり、そのベンチから見知らぬ若者たちの新たな出逢いが生まれたりと、物語を繋いでいくのだから本当に素敵な仕組みだと思う。」といいます。
 このような仕組みは、ぜひ、日本でもあればいいと思います。
 下に抜き書きしたのは、世界の絶景を見たいというのも旅の目的なので、南米に行ったときにはぜひともマチュピチュに行くと決めていたそうですが、あまり感動しなかったそうです。その理由を書いています。この理由を聞き、私もなるほどと思いました。
 ちなみに、著者が見た世界の絶景ランキングは、1位が「ウユニ塩湖」、2位が「ティカル遺跡」、3位が「アタカマ高原」、4位が「マチュピチュ」、5位が「ペトラ遺跡」だそうです。それでも、「マチュピチュ」が4位に入っていますから、絶景には違いないようです。
(2014.10.12)

書名著者発行所発行日ISBN
僕らはまだ、世界を1ミリも知らない太田英基いろは出版2014年8月8日9784902097696

☆ Extract passages ☆

きっと、写真や映像で見過ぎていたんだ。日本で目にする写真や映像は、一番のベストコンディションの天候時に一流カメラマンが撮影するのだから、素晴らしく見栄えがいいのが当たり前だ。だからこそ、事前に見ていたイメージに勝てなかったんだ。
 あんなにも楽しみにしていたマチュピチュで心が躍らないなんて悔し過ぎる…。それ以来、僕は行きたいと思っている場所の写真や映像を極力見ないように心がけるようになった。日本のガイドブックは写真中心で観光地紹介されているのだが、欧米人に人気のガイドブックは文字が多く、写真はあまりない。文字だけを読み、そこから自分の中でのイメージを膨らませていった。どんな場所なのだろう? そこ には何が待っているのだろう?と。
(太田英基 著 『僕らはまだ、世界を1ミリも知らない』より)




No.1002 『金沢を歩く』

 著者は1990年から5期20年間金沢市長職にあっただけでなく、1954年に金沢大学卒業し金沢市役所に入った方で、まさに金沢とともに生きてきたような経歴の持ち主です。
 ですから、良くも悪くも金沢市の立場から書いてるような感じがしました。本人も「あとがき」で、「この本は、金沢の成り立ちから現代までのまちづくりと市民の暮らしの歩みをまとめたもの」と書いています。でも、その現場に立っていたからこそわかる多くの内容の裏付けがわかり、とても分かりやすかったように思います。
 この金沢という地名の起こりは、『「金城霊揮」は、兼六園の南東端、金沢神社のそばにあります。芋掘り藤五郎の伝説とともに「金洗いの沢」として親しまれてきました。1592(文禄元)年、前田利家が、その名にちなんで町の名前を「尾山」から「金沢」に改めたとされています。まちの名前が伝説に由来するのは、珍しいことです。』とあり、「金洗いの沢」が金沢になったようです。
 私は、たった一度ですが学生のときに金沢に行き、兼六園や町並みを歩いたことがあります。そのころは茶道の心得もなかったので、お茶室や大樋焼などもまったく興味はなく、お菓子屋にも行かなかったようです。
 ところが、2004年のときに金沢21世紀美術館ができ、それをテレビで見たときには、また行ってみたいと思いました。ところが、行く行程を考えたときに、あまりにも遠いことに気づきました。学生のときには、東京から行ったのでそんなにも遠いとは思わなかったのです。ところが、実際に計画をたててみると、なぜかどのルートを通っても、かなりの時間がかかるのです。それで、なかばあきらめていました。
 ところが、2015年春に保区立新幹線が金沢まで開業すると聞き、にわかに金沢が気になりだし、この本を手に取ったというわけです。
 新幹線で行くと、もっとも早い「かがやき」で、東京―金沢間が2時間28分だそうです。今まで3時間48分もかかっていたわけですから、相当短縮されます。米沢から新幹線を乗り継いでいくと、約4時間半で行く計算です。これは楽しみです。
 そのためにも、この本で紹介されたところだけでなく、いろいろな情報を集めておいて、ぜひ行きたいと思ってます。
 まずは、学生のときに回ったところを訪ね歩き、それから茶道関係のところを見て、お茶に使える手仕事なども見てみたいと思います。
 この本は、金沢のことをまんべんなく、偏りもなく紹介されているところがいいと思いました。でも、あまりにも絞り切れていない感じもあり、もう一度読み直してから旅の行程も考えたいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、金沢の特長を一言で言い表しているところです。言い得て妙と思い、載せました。ぜひ、この本を手にとって読んでみてください。そして金沢を訪ねてみてください。
(2014.10.08)

書名著者発行所発行日ISBN
金沢を歩く(岩波新書)山出 保岩波書店2014年7月18日9784004314936

☆ Extract passages ☆

 金沢は、加賀藩時代のサムライ文化が根源でしたので、公家文化の京都とは違います。したがって、金沢を「小京都」と呼ぶのは適切ではありません。他方、いまの東京は江戸時代の遺産をなくしたも同然です。金沢は、京都ではなく、東京でもありません。だから、金沢は、やはり金沢なのです。城下町文化のモデルは、世界に例がないといわれます。そうであればあるほど、金沢は城下町文化をしっかりと守り、これを世界に発信していかなければならないのです。
(山出 保 著 『金沢を歩く』より)




No.1001 『本を愛しすぎた男』

 前回でちょうどこの『本のたび』も1,000回になりましたが、それにふさわしいかふさわしくないかはわからないのですが、この『本を愛しすぎた男』は、副題が「本泥棒と古書店探偵と愛書狂」で、古書をめぐるノンフィクションと銘打たれています。ノンフィクションというからには、虚構によらず事実に基づいたものだと思いますが、読んでいると、こんなことが本当にあったことなのかとつい思ってしまいます。いわば、事実は小説より奇なり、です。
 でも、ここでいう稀覯本のコレクターは、『ギルキーは稀覯本を手に入れると、歳月を経た本の匂いやぴんとした紙の感触を楽しみ、悪いところはどこにもないかを確認してから、そっと本を開き、数ページぱらばらとめくってみる。作者が生きているなら、サインが欲しいかどうかを考えてみる。ギルキーに言わせれば、『透明人間』のような本は高級ワインと同じで、所有すること、自分のコレクションに加えることこそが喜びであり、読むことが目的ではない。そして、実際にほとんど読まない。彼が愛着を感じるのは――ほとんどの本のコレクターと同じように――本の内容というより、本が象徴しているものすべてに対してであった』と、本泥棒までしてコレクションしているギルキーは言っています。つまり、本そのものが好きなだけで、本に書かれていることを読む楽しさではないようです。
 そういう意味では、たまたまコレクションの対象が本であったというだけで、蒐集マニアというだけのようです。この本は、本そのものを愛した男という意味で、読書家ということではなさそうです。
 著者がこの本を書きたいと思ったのは、「今の私をつき動かしているのは、サンダースの物語とギルキーの物語への興味と、ふたりが正反対の人生をどんなふうに送り、どんなふうに関わり合ったかを突き止めたいという思いだ。そして、ほかにも答えを出そうとしていることがある。なぜギルキーは本に対してあれほど情熱的なのか、なぜ本のために自分の自由さえ危険にさらすのか、そしてなぜサンダースはギルキー逮捕にあれほど躍起になっているのか、店の経営を危うくしてまでなぜそうするのか。私はその答えを導きだすために、ひとりひとりと多くの時間を過ごし、ふたりに共通な領域(本の蒐集)の奥の底まで探検することにした。」と書いています。
 でも、私の場合は、単に本を読むことのほうがおもしろくて、読み終わった本は、後で参考程度になればよいと考えています。だから、この『本のたび』で取り上げた本の8割以上は図書館から借りて読んだものです。だから、返してしまうと手元に残りませんから、必要な箇所はカードに書き込んで残します。それを40年以上続けていますから、その図書カードは何万枚にもなり、私の宝物になっています。
 それでも、昔は、私設図書館をつくりたいと思ったこともあります。だが、読むだけなら図書館から借りて読んでも同じことだと気がつき、本の管理をしないですむと思えばそのほうがいいと思えたのです。
 下に抜き書きしたのは、本の力を象徴するような焚書の歴史についてです。たしかに、本を破壊したり、禁じたりするのは、つまり書物には力があると認めているからでしょう。
(2014.10.5)

書名著者発行所発行日ISBN
本を愛しすぎた男アリソン・フーヴァー・バートレット 著、築地誠子 訳原書房2013年11月25日9784562049691

☆ Extract passages ☆

本に関する書物を読んでいくうちに私が繰り返し目にしたのは、「焚書」という本の歴史の暗部だった。紀元前213年に農業、医学、薬学、占いについて以外の書物はほとんどすべて燃やすように命じた秦の始皇帝から、二万五千冊の本の、火による「払い清め(ゾイベルング)」をしたナチス・ドイツに至るまで、全体主義のリーダーたちは人を啓発する危険な力を持つ書物に対して、断固たる行動を取ってきた。今日でも、アメリカ合衆国の指導者の中には、図書館の本の貸し出しを禁じることで、同じことをしている人がいる。
 それを考えると、『薬草図鑑』のような古い書物が現存していることが、一層喜ばしいことに思えてくる。本を破壊したり、禁じたりするのは、つまり書物には力があると認めているからにほかならない。そして、偉大な科学や政治や哲学の本だけでなく、小さな、つつましやかな詩や小説にも、私たちを変えるとても大きな力が宿っている。
(アリソン・フーヴァー・バートレット 著 『本を愛しすぎた男』より)




No.1000 『世界の美しい書店』

 とうとう、この『本のたび』も1,000回を数えました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。これは、この上に書いてある通りです。
 ここに書いた本以外にも、自分の仕事関係の本とかは読んでいます。それを含めると、おそらくは2〜3割は増えるかも知れません。でも、このコーナーの目的は、多くの人たちに本のおもしろさを感じてほしいと思ったからです。だから、あえて、専門書のような堅苦しい本は除いたのです。
 たまたま手に取ったのが、この『世界の美しい書店』で、まさか、このような本があることすら知りませんでした。そして、手にとって中を開いてみて、さらにビックリしました。装丁もそうですが、写真集で、たしか、この『本のたび』の最初も写真集でしたから、なにか因縁めいています。
 そういえば、今年の7月初・中旬にイギリスに行きましたが、オックスフォード大学付近を歩いていて、「Waterstones」という本屋さんを見つけ入りました。そこにはカフェもあり、のどが渇いていたこともあり紅茶を飲みました。そして、ゆっくりと店内を見て歩くと、MANDY KIRKBYの「The Language of Flowers」という、いかにもイギリスの本らしい装丁に惹かれて買い求めました。今では、旅の良い思い出です。
 そういえば、この『世界の美しい書店』の「書店へ、ようこそ」で、「異国へ旅をしていると、知らない街に降り立つと、居心地のいいカフェを探すこと、そして、本屋を見つけることだ。短い旅であっても、1軒の愛すべきカフェを見つけたいと思う。そのカフェで過ごす半時間ほどの時間が、忙しない旅を豊かなものにしてくれるからだ。カフェでひと息ついたら、知らないその街を歩く。地下鉄があれば乗るだろう。そして、ブックストアを探す。小さな町にも、必ずブックストアはある。どんな書店でもいい、そこへ入って、書棚を眺め、本を手に取り、ぺ−ジを開く。紙とインクの匂いをかぐだろう。」とあり、まさにそれを地で行くような体験でした。
 そういえば、だいぶ昔の話しですが、中国に行くたびごとに、植物関係の本を買い込み、中国科学院「中国植物志」や「中国高等植物図鑑」、「西蔵植物志」などのほとんどをそろえたことがあります。ときどき手に取ると、その時に出会った植物などや人たちとのことが思い出されます。やはり、本は、人との出逢いと同じようなものだと思います。
 この本では、日本の書店も5店ほど取り上げていますが、その一つ、京都にある「恵文社一条寺店」紹介の文も本好きならすぐに納得できます。それは、『入った瞬間が好きだ。開いている。けれど、「ようこそ」でも「どうぞ」でもない。こちらから「ただいま」という感じ。どの本も、理由があってここにある。そして自分は本を探しに来たのではない。本と出逢いに来たのだ。自分のワクワク・スイッチが、店に入った瞬間、起動する。天井からぶら下がるまるい電灯が好きだ。柔らかな光にホッとする。懐かしい友だちの家にやって来たような感じ。』。
 まさに、このような感じが本屋さんに入るときにあります。
 下に抜き書きしたのは、最初の「書店へ、ようこそ。」に書かれている一節です。本当は、BACH代表の幅允孝氏の文章を掲載しようと思ったのですが、ここでは著者に敬意を表して著者の文章にしました。
 ちなみに、幅氏の文章は、『本屋とはむしろ、疑問を見つける場所、疑問と出逢う場所であってほしいと僕は考えています。あるいは、「考え続けるための耐性を整えるための場所」とでも言うのかな。……結局のところ、本とは「出逢い」だと思います。だから、行く前から出逢いがわかっていたら興ざめしますよね。求めるものがわからないまま本屋へ行くのが一番楽しいんじゃないでしょうか。』ということで、ある意味、とても内容が似ています。
 この本屋の写真集、とてもユニークで、おもしろいので、ぜひ手にとって読んで見てみてください。
(2014.9.30)

書名著者発行所発行日ISBN
世界の美しい書店今井栄一宝島社2014年7月2日9784800227256

☆ Extract passages ☆

 本屋とは、出逢いの場所だ。そこには数多の本があり、その中の「ただ1冊」が、僕を、私を、待っている。そのような出逢いは、ネット上にはないのではないか。
 なぜなら本とは「五感で感じるもの」だからだ。目で見、手で触れ、インクの匂いをかぎ、指でぺ−ジをめくり、そうやって身体全体で感じることなのだ。恋と似ている。ドキドキしながら関わっていく作業なのだ。本を買うこととは、肉体の運動でもある。
 本屋は、そんな「出逢い」を与えてくれる。今も、変わらずに。
(今井栄一 著 『世界の美しい書店』より)




No.999 『エリートたちの読書会』

 前回は愚者で、今回はエリートですか、と何でもありの『本のたび』だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、この本でも、最初の「書物についての書物」のなかで、エリートの考察をしています。私的には、愚者よりもエリートのほうがちょっと嫌みらしく感じるのですが、これを読むとエリートのもともとの意味がわかり、なるほどと思いました。
 では、そのもともとの意味であるヨーロッパのエリート観というのは、『特別に神から選ばれた人、すなわち「エリート」は、第一に、神に対して、そして、第二には、仲間である他の人間に対して、相応の責任を負うことになりましょう。』というのが根本的な考え方のようです。それを、さらにオルテガ流に解釈すれば、『「他人に対してよりも、遥かに自分に対して厳しい人」が、エリートであり、さらに言えば、そのことをもって、社会と他人のために尽くそうとする人がエリートである』といいます。
 だとすれば、他人に対してよりも自分自身に対してより厳しさを求める人がエリートとなり、日本人の普通のエリート観とは違います。そのような人たちの読書会だとすれば、それはとても興味深いものがあります。
 このようなエリートのための、あるいはリーダーシップ涵養のための特別な読書プログラムというものがあり、たとえば、「グレート・ブックス」もそうだといいます。これは、アメリカ特有の教育プログラムで、1909年にハーヴァード大学が51巻からなる『ハーヴァード・クライシックス』を編纂し刊行していますが、これを「グレート・ブックス」といい、いわば百科全書のようなものだそうです。でも実際には、このような書籍を指すのではなく、教育プログラムですから、1〜2週間ほど参加者たちは同じ施設で寝食をともにしながら、識者によって選ばれた古典などのテクスト集を読み、対話します。そのようなプログラムは、日本でもアスペン研究所などでも行われ、通常の読書会とはひと味違う野心的なことをしているそうです。
 このような読書会ですから、初めて知るような古典的な本もありますし、本の名前だけは知っているけどまだ読んだことがないものもあります。たとえば、日本のエグゼクティヴ・セミナーで使われているテクスト集では、6つのカテゴリーに分かれていて、その1つが「自然・生命」です。その中には、1.チャールズ・ダーウィン『種の起源』八杉龍一訳、岩波文庫、2.ジュール・ミシュレ『山』大野一道訳、藤原書店、3.ヤーコブ・ユクスキュル『生物から見た世界』日高敏隆、野田保之訳、新思索社、4.ヨーハン・ゲーテ『科学方法論』、『形態学序説』木村直司他訳、潮出版社、5.レイチェル・カーソン『沈黙の春』青樹簗訳、新潮社、6.ヨハネ・パウロU「進化に関する教書」法王庁科学アカデミーでの講演、7.ヴュルナー・ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房、の7冊が選ばれています。
 このような本が6つのカテゴリーに分かれて40冊もあります。なかには、「世界と日本」のカテゴリーのヴァーツラフ・ハヴェルの1994年にアメリカで行った講演の「ポストモダンの世界における自己超越の探求」のような原稿も含まれています。おそらく、これらの本をすべて読むには、すごい時間がかかりそうですが、それらの中からいくつかをかいつまんで紹介するというわけです。
 ちょっと難しい本ですが、たまには、このような硬派の本も読まないと、頭がなまってしまうかもしれません。
 だから、この本に出てくる本を書き出しておいて、機会があれば読んで見たいと思いながら、なまりつつある頭を抱えながら筋を追っていました。
 下に抜き書きしたのは、本を読むことの快楽を若い人たちに伝えたいという思いが記されています。
(2014.9.29)

書名著者発行所発行日ISBN
エリートたちの読書会村上陽一郎毎日新聞社2014年4月25日9784620322599

☆ Extract passages ☆

書物を手にして、1ページ1ページめくりながら、読み進む時の快楽は、電子書籍にはないことも確かでしょう。そう、快楽と書きましたが、若い人々が、その快楽を知らない可能性がなきにしもあらず、という思いが、これからの本書の記述を進める動機の一つになりました。蔵書家でも、稀覯本蒐集家でもない、一介の学者に過ぎない私の器量で、どこまで、快楽の快楽らしさを伝えることができるか、心許ないことは承知しているつもりではありますが。
(村上陽一郎 著 『エリートたちの読書会』より)




No.998 『「サル化」する人間社会』

 No.997の倉本 聰・林原博光 著『愚者が訊く』の第5は人類学・霊長類学者の山極寿一氏でしたが、霊長類のゴリラなどの話しがとてもおもしろくて、まさに人間社会を見ているように感じました。「人間とは何か、人間の本性は何に由来するのか」と考えると、とても興味深いものです。
 そのように思っていた矢先、たまたま山極寿一著『「サル化する人間社会』を見つけ、すぐさま読み始めました。読書の楽しみの一つは、このように興味が連鎖的に広がることで、楽しみの相乗効果があります。テレビやDVDなどは、一方向からの情報ですが、本は気に入ったところは何度も繰り返し読めますし、いったん休んで、それから改めて読み続けることもできます。
 この本ですが、やはり、とても興味深く読むことができました。著者は霊長類のなかでも、1958年に中央アフリカのヴィルンガ火山群に入りマウンテンゴリラの研究をしたこともあり、特に関心がありそうでした。それらを踏まえて、たとえば、「ゴリラには、群れの仲間の中で序列を作らないという特徴があります。喧嘩をしても、誰かが勝って誰かが負けるという状態になりません。じっと見つめ合って和解します。ゴリラの社会には勝ち負けという概念がありません。……面白いことに、多くのサルはゴリラとは正反対で、まさに勝ち負けの世界を作り出します。サル社会は純然たる序列社会で、もっとも力の強いサルを頂点にヒエラルキーを構築しています。弱いものはいつまでも弱く、強いものは常に強い。争いが起きれば、大勢が強いものに加勢して弱いものをやっつけてしまいます。」といいます。だとすれば、ゴリラとサルと、どちらが平和的で優れているかわかります。
 著者は、長く霊長類を研究してきて、そこから人間を考えてみると、人間の持っている普遍的な社会性というのは3つに集約されるといいます。
「ひとつは、見返りのない奉仕をすること。これは家族内では当たり前のことですが、そこに留まらないで、見ず知らずの讐や自分とはゆかりのない地域のためにボランティア活動などを行えるのが人間です。……2つめは互酬性です。何かを誰かにしてもらったら、必ずお返しする。こちらがしてあげたときには、お返しが来る。これは共同体の維持のためのルールですね。……3つめは帰属意識です。自分がどこに所属しているか、という意識を人間は一生、持ち続けます。」と書いています。
 たしかに、「奉仕」と「互酬性」、「帰属意識」は人間らしさにつながります。特に、東日本大震災のときなどの災害のときには、ボランティア活動だけでなく、食事を整然と並んでいただくとか、地域の結束や絆が大きく取り上げられていました。おそらく、そこまで高度な社会というのは、やはり人間独特の社会性だと思います。
 ところが、最近では、インターネットやケイタイ電話などの普及で、顔と顔を合わせてのコミュニケーションが少なくなってきています。このまま現在の状況が進んでいけば、ますます家族や共同体のつながりも希薄になり、ひいては人間の帰属意識も失ってしまいます。
 それを、著者は「サル化」する人間社会として警鐘を鳴らしているのです。
 下に抜き書きしたのは、「サル化」すれば、このようになりかねないということを示しています。つまり、「サル社会は序列で成り立つピラミッド型の社会」ですから、つねに強いものは強く、弱いものは弱いままだということです。さらに、人を蹴落としても勝とうとする社会になります。そうなれば、人間は平等であるという意識もなくなり、まさにサルのような序列社会になるということです。
 これは、とてもいやな社会だと、私は思います。少しは、ゴリラを見習いたいと思いました。
(2014.9.26)

書名著者発行所発行日ISBN
「サル化」する人間社会山極寿一集英社インターナショナル2014年7月30日9784797672763

☆ Extract passages ☆

 家族も共同体もなくしてしまったら、人間は帰属意識も失います。人間は、互いに協力する必要性も、共感する必要性すらも見出せなくなっていくでしょう。
 個人の利益さえ獲得すればいいなら、何かを誰かと分かち合う必要もありません。他人を思いやる必要もありません。遠くで誰かが苦しんでいる事実よりも、手近な享楽を選ぶでしょう。どこかの国の紛争なんて、他人事。自分に関係ないから共感なんてする必要もない。これはまさにサルの社会にほかなりません。
 サルの社会に近づくということは、人間が自分の利益のために集団を作るということです。そうなれば、個人の生活は今よりも効率的で自由になります。しかし、他人と気持ちを通じ合わせることはできなくなってしまいます。
(山極寿一 著 『「サル化」する人間社会』より)




No.997 『愚者が訊く』

 愚者というと、どうしても大愚良寛という号を思い出すのですが、いくら「はじめに」で愚者のことを書いてみても、なんか空しいような気がします。そして、ただのポーズのようでもあり、ちょっといやみったらしいようにも感じられました。
 そして、最後まで読み終わっても、やはり、その気持ちをぬぐい去ることはできませんでした。本の題名というのは、やはり難しいようです。読者が本を選ぶときには、その題名を見て、さらに目次や書き出しなどをさらって読んで見て、選びます。でも、まず手に取るときには、その題名がきっかけです。
 それらを考えないと、本そのものの内容はとても興味深く、楽しく読ませていただきました。
 内容は、著者たちが7人の人と対談することですが、7人の選び方もバラエティに富み、しかもとてもわかりやすく解説してくれるところが良かったです。一番バッターはジャーナリストの池上彰氏で、内容も「分かりやすい伝え方」です。それを最初にもってくるということは、この本の全体につながっているようです。
 第2は海洋学者の大島慶一郎氏、第3は養蜂業の山田英生氏、第4は理学博士の松居孝典氏、第5は人類学・霊長類学者の山極寿一氏、第6は原子核工学者の小出裕章氏、第7は農民作家の山下惣一氏です。この顔ぶれを見ると、どちらかというと、独自の世界観をもっている方々が多いようです。だから、興味深かったともいえます。今の時代は、流れに逆らわず、むしろその流れに乗って世の中に出るという人が多いような気がします。だからこそ、希少価値でもあります。そして核心を突いているように思います。今回の朝日新聞の誤報問題にしても、池上さんの記事掲載拒否がなかったらどうなったかと考えると、やはりぶれないということも大切だと思いました。
 そういえば、原子核工学者の小出裕章氏との対談も、科学者としての良心を感じました。そして、今まで良いと思って進めたことであっても、悪いとわかれば、すぐにそれを訂正し、なぜ悪いかを懇切丁寧に説明をし、理解してもらうということの大切も知りました。科学は万能でもなんでもなく、ある意味、単なる仮説にしか過ぎないこともたくさんあります。間違いを責めるより、それを訂正し改めることです。それをしっかりとやることこそ、科学者としての対応だと思いました。
 おもしろいと思ったのは、人類学・霊長類学者の山極寿一氏との対談です。そして、霊長類のオランウータン、ゴリラ、チンバンジーと人間との遺伝子の違いはたった2%しかないと聞き、びっくりしました。だからこそ、それらを研究することで、人間のあり方もわかるというのは理解できます。
 たとえば、倉本さんが「類人猿にとって、食欲、性欲ときたあとは、どんな欲が大きいンですか?」と聞くと、山極氏は「……友達欲かな。共存欲と言いますか。一人でいるのが、怖いんですよ。……オランウータンはまた違うんですけど、チンパンジー、ゴリラは、やっぱり一人でいたくないんですね。」と答えます。すると今度は林原さんが「ということは、群れを作っている彼らには、やっぱり相手とコミュニケーションをとることは、ものすごく重要なんですね。」と聞きますと、山極氏は「すごく重要です。しかも顔を合わせて声をかけ合うコミュニケーションが重要です。顔を合わせること自体が、仲間である証拠なんですよ。」と答えます。すると倉本さんは、「その、顔を合わせて、目を見て、声をかけ合うという直接的なコミュニケーションが、本来のコミュニケーションの姿ですよね。」と言うと、山極氏は「はいはい。」と答えます。まさに、今のインターネットとかスマホとかの時代に対する警鐘でもあります。
 下に抜き書きしたのは、同じく山極寿一氏との対談ですが、やはり、親子関係に対する大切なものを現しているような気がします。ぜひ味わって、読んで見てください。
(2014.9.23)

書名著者発行所発行日ISBN
愚者が訊く倉本 聰・林原博光双葉社2014年5月25日9784575306668

☆ Extract passages ☆

山極 人間は生まれつき、感動の共有を本能的に求める特性があることが、それでも分かります。自分が見て感動した景色を、誰かに一緒に見て一緒に感動してもらいたい。同じ気持ちを持ってもらえる誰か、特に家族が傍にいることが嬉しくてたまらない。それはヒトとして生まれた者の、一番幸せな瞬間だと言えます。
林原 でも本来、一緒にいて子どもの「見て見て、聞いて聞いて」に応えて、情操を育てるはずの親は、今は共働きだから、子どもの傍にはいられませんよね。
山極 そうなんです。感動の共有を一番一緒にしてもらいたい家族が、その時に傍にいないのが、今の社会です。先ほど倉本さんも言われました通り、感動は共有することで増幅します。「お母さん、見て見て、給麗だよ!」って子どもが言った時、お母さんが「ホント椅麗だね〜」って一言応えるだけで、感動が増幅されてその景色は子どもの心に、一生の宝ものとして刻み込まれます。子どもの頃に、そういう感動 の共有をたくさんした家族の絆は、本当に深くて強いです。
倉本 家族の根っこですね。
(倉本 聰・林原博光 著 『愚者が訊く』より)




No.996 『じぶんの学びの見つけ方』

 子どもであれば当然のことながら学ぶということは大事なことですし、もし卒業して働いていたとしても、学ぶことは必要です。この本は、副題に「働くあなたに"じぶんの学び"が必要な理由」とあるように、働いている人に学ぶことを勧めています。
 最初に宇宙飛行士の山崎直子さんと石戸奈々子(CANVAS理事長)さんの対談が載っています。そして、24名の方々の学び方が載っていて、仕事が違ったり、年代が違ったりして、それぞれに学び方が違うことがおもしろいと思いました。
 この本のなかで、いろいろとおもしろい考え方に出会いましたが、たとえば、設計事務所で特にこども関連施設に関わっている日比野拓さんの「大切なことは、好奇心を奪わないこと。そして好奇心を育むために、子どもが失敗することを恐れないこと。ドンドン挑戦することです。失敗を重ねるにしたがって失敗は減っていき、成功する確率は高まっていくものです。」という言葉も、納得です。
 今は、どうしても子どもたちがケガをしないように、事故に遭わないようにと、大人たちが先回りして考えてしまいます。だから、ほとんどの場合、できて当たり前のことばかりで、興味や関心もだんだんとなくなります。できなかったり、難しかったりするから、またやろうとするわけです。ちょっとばかりケガしても、子どもはすぐに治ります。むしろ、一度痛い目に合うと、次からは注意します。ところが、すぐに親がでてきて、そのケガをさせたのは誰だとか、そのような施設が悪いとか、すべて他の問題にすり替えてしまいます。だから、その施設を預かる人たちも、そう言われないように安全第一を考えてしまうのです。
 だから、たとえばインドなどを歩いていると、今の日本の子どもたちが、このなかで何人ぐらい暮らせるのかな、と考えてしまいます。抗菌グッズなんて、そんなものはない世界です。むしろ、いろいろな菌たちとも仲良く暮らしていこうとするのがインドです。
 そういえば、組織人事コンサルタントでもある小倉広さんは、「学びとは体験することです。行動することで初めて本を読んだだけでは得られない気づきを手にすることかできます。陽明学の創始者、王陽明はそれを知行合一と呼びました。知っているだけで行動していないことは、知っていることにさえならない。行動の中に本物の知がある。つまり、知と行は不可分であり、同時に起きるものだ。」といいます。
 まったくその通りで、最近は知っていることだけで、満足してしまう人もいるそうです。この情報過多の時代には、ただ知っているだけでは、ただの頭でっかちに過ぎません。車のナビだって、机の上で動かしてみても、むなしいと思います。車載して、そこに車で動いて行けるからこそいいわけです。それと同じだと思います。
 本の最後のところで、学校法人自由の森学園の鬼沢理事長さんが、「学びとは本来楽しいものです。学びがあることによって、一生を豊かに過ごしていけるのだと思います。」と書いていますが、私もそのような立ち位置です。学ぶことって、ほんとうに楽しいと思います。新しいことを知るって、ワクワクします。
 下に抜き書きしたのは、前掲の小倉広さんの言葉ですが、「これをやろう」と思っても、なかなか続かないのが人間です。それでもいい、途中で投げ出したとしても、また「やり直す」ことが大事だといいます。
 これを読んで、そうだよなあ、継続するって難しいけど、あまり気負わずにやればいいと思いました。そうすれば、この『本のたび』ももう少しは続けられそうな気がしています。
(2014.9.21)

書名著者発行所発行日ISBN
じぶんの学びの見つけ方フィルムアート社編集部フィルムアート社2014年7月24日9784845914340

☆ Extract passages ☆

 早起きを始めたけれども続かずに三日坊主だったとします。3日続けて4日目に失敗して寝坊する。そんなときはそこであきらめてしまわずに、また翌日から続ければいいのです。3日続けて4日目に失敗する。また3日続けて4日目に失敗する。これを365日1年間繰り返すと年間273日もの早起きに成功したことになります。これは十分に続いている、と言ってもいい成果ではないでしょうか。何度でも、何十回でも、何百回でも図々しくやり直す。これが継続する大きな秘訣であることに気づいたのです。
(フィルムアート社編集部 編 『じぶんの学びの見つけ方』より)




No.995 『ねずみに支配された島』

 まずは、この本の題名に惹かれました。何が書いてあるのか、それがこの題名からはまったく想像もできませんでした。だから、読み始めたようなものです。
 そして、読み始めてからも、びっくりの連続でした。というのは、自然のサイクルを壊すのはほとんどが人間だと思っていたのに、ブタもヤギもネコもキツネも、そしてネズミもそうでした。そういえば、かなり前に、小笠原諸島の父島に自生するムニンツツジが人間が持ち込んだヤギなどが増えて、絶滅寸前まで追い込まれたという話しを聞いたことがあります。でも、そのときはまれな例だと思い、それ以上の関心はありませんでした。ところが、この本を読んで、世界中の島で起こっていることだと知りました。
 そういえば、今年の2月から3月にかけて、ニュージーランドに行ったのですが、テアナウのワイルドライフセンターで見たのは、絶滅寸前といわれるプケコやタカヘでした。この本にも出てくるカカポもいるということでしたが、見ることはできませんでした。まさに、これらの鳥は飛べない鳥で、警戒心もないことから簡単に襲われて食べられてしまったのです。
 この本によると、ニュージーランドのネズミは3種類いるそうですが、植物学者のイアン・アトキンソンの調査によると、「ニュージーランドに侵入した3種のネズミのすべてが、深刻な破壊行為を繰り返しているのを見てきた。彼が最初に取り上げたのは、3種の中で最大の、体重が500グラムにもなる茶色いネズミ、ドブネズミだ。本来、地中の巣穴に暮らし、都会では下水管に棲むことで知られるが、ニュージーランドでは川沿いの森に侵入し、ニュージーランドの海岸に近い群島にしがみついている固有種にとってはさらに不吉なことに泳ぐことを厭わない。次に登場したのは、木のぼりが得意なクマネズミである。都会では壁や屋根裏をちょろちょろ走っているが、野生の森の林冠でも同じように達者に動きまわり、樹木に棲む鳥の命を脅かす。3番目に紹介されたキオレは、3種の中で最も小さく、ポリネシア人の船で島々に運ばれた。地上を駆けまわるのは得意だが、ドブネズミほど泳ぎが得意ではなく、クマネズミほど木登りがうまいわけでもないので、それらとの競争に敗れ、ニュージーランド本土から追い出されて、いくつかの離れ島に棲むだけとなった。」ということです。
 さらに、ネズミといえばネコですが、そのネコも「バイキングとともに大西洋を航海し、キャプテン・クックと太平洋を渡り、アザラシ猟師と亜南極を冒険した。ネコはよく親善の印として島の先住民に贈られた。また、船から跳びおりて、島に居つくこともあった。そうやってネコは人間にくつついて地球の果てまで行き、その途中にある多くの島に上陸した。」といいます。
 このネコよりも、世界を放浪した距離やスピードで上回るのがネズミだといいます。そういえば、世界の七不思議でもあるイースター島の滅亡も、ネズミが原因ではないかという学説もあるそうです。
 そのほかにも、ブタやヤギなどが野生化することによって、大きな脅威になるということも書かれています。
 この本には、島でのんびりと暮らしていた海鳥たちが絶滅寸前まで追い詰められ、それをなんとかしたいという人間たちの苦悩が記されています。まさに、戦いのようです。
 では、なぜ海鳥たちを守らなければならないのか、ただかわいそうだからという訳でもありません。
 そこには、エコロジカル・カスケードということもあり、下にそれを抜き書きしました。自然界というのは、非常にデリケートで微妙なものだということがおわかりいただけるのではないかと思います。
(2014.9.18)

書名著者発行所発行日ISBN
ねずみに支配された島ウィリアム・ソウルゼンバーグ 著、野中香方子 訳文藝春秋2014年6月15日9784163900810

☆ Extract passages ☆

エコロジカル・カスケードとは、食物連鎖の頂点の変化によって起きる連鎖的な崩壊のことで、アリューシャンの島々では壮大な規模でそれが進んでいるように見えた。長年そこで生物保護にあたってきた人々は、キツネが残っている島といなくなつた島に、質的な違いがあることに気づいていた。海鳥の有無だけでなく、景観が異なるのだ。キツネが横行する島のツンドラは、茶色がかっていて、荒れているように見える。カムチャッカ・リリーや、丈の高いハナウド、シーコースト・アンゼリカも少ない。キツネが増えるにつれて海鳥が減り、景観はくすんでいくというカスケードが予想された。そして、その逆も。
(ウィリアム・ソウルゼンバーグ 著 『ねずみに支配された島』より)




No.994 『広辞苑を3倍楽しむ』

 「広辞苑」といえば、私たちの年代なら、代表的な国語辞書の一つで、いつも手元に置いていました。そして、わからないことがあれば、重いと思いながらもまず引いたものです。
 ところが、歳を重ねると、その重さがネックになり、その軽さと便利さ故に電子辞書になってしまいました。それでも、その収録された辞書類のなかに、「広辞苑」があるものを選んでいます。
 この本は「岩波科学ライブラリー」の1冊として出されたもので、雑誌『科学』に同名で連載されたものを再編成されたそうで、カラー写真やイラストも新鮮でした。というのは、「広辞苑」はあくまでも国語辞書であり、それ以上でもなく、ある意味、型にはまったような言葉の羅列です。それに、新たな試みがなされたわけで、とても興味ある内容でした。
 たとえば、『蝶のおしりには"目″がある――驚かれることと思うが、交尾や産卵の鍵をにぎる大切な役割を担っている。ただし目といっても、1匹にわずか4個の細胞があるだけで、感じるのも紫外線だけ。色や形は認識できない。雄では目が隠れて「暗くなった」と感じれば交尾成功、雌では目が産卵管の脇にあって、「明るくなった」と感じれば産卵準備完了の信号となる。目をつぶすと、雄は交尾ができなくなるし、雌は卵を産めなくなる。生き物はそれぞれの感覚世界を生きている。(蟻川謙太郎)』のように、まさかチョウチョのおしりに目があるとは思いつきもしませんでした。でも、このような解説があると、なるほど、この目は絶対になければならないものなんだと思いました。
 この本は、たった120ページほどですが、このような説明を専門家の立場から書いていて、とてもおもしろく読みました。
 下に抜き書きしたのは、おなじみのコンクリートについての解説です。まさか、古代ローマ時代から使われていたとは知りませんでした。そして、その巨大建造物の維持修繕費がローマ帝国の衰亡に拍車を掛けたとは思いもしませんでした。
 今、公共事業というと箱物を造りたがります。おそらく、これらも、同じような理由で国を疲弊させるようになるのかもしれません。
(2014.9.15)

書名著者発行所発行日ISBN
広辞苑を3倍楽しむ岩波書店編集部 編岩波書店2014年4月24日9784000296250

☆ Extract passages ☆

 古代ローマで巨大建造物を可能ならしめたのは、コンクリートであった。ポッツォラーナ(ポッツォリの丘の塵)と呼ばれた火山灰に着目し、それに石灰と水を混ぜて、強度と耐久性に優れ早く固まるコンクリートを見出したのである。次々と生み出された巨大建造物はしかし、その莫大な維持補修費用のためにローマ帝国の衰亡を招いた。良質の材料で誠実に造られたコンクリートは2000年の風雪に耐える一方、条件をないがしろにすればまたたく間に崩れ去る。土木の美学は、強靱さを裏づける構造と力学にある。(小林一輔)
(岩波書店編集部 編 『広辞苑を3倍楽しむ』より)




No.993 『生き物をめぐる4つの「なぜ」』

 この本の題名の「4つのなぜ」って、何だろうと思ったのが、読み始めるきっかけでした。しかも、だいぶ前に買っておきながら、ただ積んでおいたもので、そのなかから崩さずに取り出せただけでも奇跡ものです。
 よく図書館からも本を借りてくるのですが、米沢市立図書館では2週間で5冊までと決められていています。だから、つい、その期間でなんとか読もうとするのですが、買ってしまえばいつ読んでも良いので、だから積ん読になりやすいようです。
 それはさておき、この「4つのなぜ」は、「はじめに」のところで、オランダ生まれのニコ・ティンバーゲンが言ったこととして紹介しています。それをそのまま抜き書きすると、
 『「四つのなぜ」とは、@その行動が引き起こされている直接の要因は何だろうか、Aその行動は、どんな機能があるから進化したのだろうか、Bその行動は、動物の個体の一生の間に、どのような発達をたどって完成されるのだろうか、Cその行動は、その動物の進化の過程で、その祖先型からどのような道筋をたどって出現してきたのだろうか、という四つの疑問です。これらは、それぞれ、@至近要因、A究極要因、B発達要因、C系統進化要因、と呼ばれています。』と書かれています。そして、さらに、それに呼応するかのようにシジュウカラがなぜ春になると「ツピーツピー」と鳴くのかを、この「4つのなぜ」に当てはめて解説しています。それをまた、そのまま抜き書きすると、ちょっと長いですが、
 「@の至近要因に関する答えは、シジュウカラの脳内にどのような構造があり、季節の変化を感知させるメカニズムはどんなものであり、それらがどんなホルモンによって歌生成を促すようになるか、というようなものになるでしょう。
 Aの究極要因に関する答えは、シジュウカラの歌はなわばりの維持と配偶相手の雌の獲得のために機能しており、歌う方が歌わないよりも繁殖成功率が上がったので、鳴く行動が進化した、というようなものになるでしょう。
 Bの発達要因に関する答えは、シジュウカラのヒナには、もともと、歌の原型を生成するプロセスが遺伝的に組み込まれているのだけれど、それが、他のシジュウカラの歌声を聞くことによって、どのようにおとなのパターンになっていくのかというようなものになるでしょう。
 Cの系統進化要因は、あまり美しくさえずらなかった、シジュウカラの祖先の鳥から、どのようにしてあのようなさえずりができてきたのか、という歴史的な道筋の話になるでしょう。」とあります。
 だから、このような4つのなぜを、第1章「雄と雌」、第2章「鳥のさえずり」、第3章「鳥の渡り」、第4章「光る動物」、第5章「親による子の世話」、第6章「角と牙」、そして第7章「人間の道徳性」を取り上げています。
 そういえば、今まで、なんとなくそれぞれ個別に考えたり読んだりしていたのですが、こうしてまとめてみると、なぜという疑問がはっきりするように思いました。何がわかって、何がわからないかも、わかります。
 下に抜き書きしたのは、著者が実際に研究していたときの体験ですが、親と子のつながりの不思議さを感じました。
 このような実際の話しがたくさん載っていますので、もし、生き物に興味がありましたら、ぜひ読んでもらいたいと思います。
(2014.9.13)

書名著者発行所発行日ISBN
生き物をめぐる4つの「なぜ」(集英社新書)長谷川眞理子集英社2002年11月20日9784087201680

☆ Extract passages ☆

ヒツジの母親は、赤ん坊がメェーメェーという声を出しているのを聞き続けていないと、世話行動を維持しないようです。この事実のために、ひどく苦労したことがあります。私は、北海の孤島、セントキルダ島というところで、野生ヒツジの研究をしていたことがあります。生まれた子ヒツジたちがどのように成長していくかを計測する研究だったので、定期的に子ヒツジを捕まえるのもたいへんなのですが、こちらの作業におびえて遠くへ行ってしまった母親の注意をつなぎとめておくのも、またたいへんなのです。
 子どもを捕まえられてしまった母親は、やがて歩き去ってしまいます。こちらはその間に、子ヒツジの血液を採取し、体重を計り、耳に識別のタグをつけるのですが、この仕事は二人一組でおこないます。一人はもちろん、こういう作業をするのですが、もう一人は、双眼鏡で母親の動きを見ながら、子ヒツジの鳴き声をまねて声を限りにメェーメェーと叫び続けるのです。そうしないと、母親は、自分の子どもが死んでしまったと思い、子育てをやめてしまうので、作業が終わって放した子ヒツジを受け入れないことがあるのです。放した子ヒツジが走っていくのを双眼鏡で追い、母親といっしょになって再び乳を吸い始めるのを確認すると、ほっとしたものでした。
(長谷川眞理子 著 『生き物をめぐる4つの「なぜ」』より)




No.992 『「自分」の壁』

 著者は「バカの壁」で有名ですが、それ以外に「超バカの壁」ゃ「死の壁」などもあり、なんか柳の木の下というイメージで読み始めました。でも、「あとがき」で、「言いたいことをずいぶん言ったので、当分、こういう本はつくらないでしょう」と書いてますから、それで読み始めたようなものです。
 それと、少し旅関係の本が続いたので、ちょっと目先を変えたいというか、旅と同じように、ある意味では自分探しなども旅みたいなものだと思ったこともあり、それならこれだと思ったのです。
 著者は、自分探しなんてムダなことだといい、『生物学的な「自分」とは、この「現在位置の矢印」ではないか、と私は考えているからです。ほかの人がこういう言い方をしているのを読んだり聞いたりしたことはありませんが、そう考えるとわかりやすいのです。「自分」「自己」「自我」「自意識」等々、言葉でいうと、ずいぶん大層な感じになりますが、それは結局のところ、「今自分はどこにいるのかを示す矢印」くらいのものに過ぎないのではないか。』と書いています。
 でも、この本は、「あとがき」をみると、新潮社編集部の方が原稿を起こし、それにただ手を加えてできた本のようです。すべて自分で書いたのは「まえがき」と「あとがき」だけというから、すごいというか、手抜きというか、これでも自著というか、不思議な本です。それでも、著者は、「同じ話でも、一度他人の頭を通すと、わかりやすくなる」といいますから、解剖学者だから言い切れることかもしれません。
 そうだとしても、このことを明かさずに、ゴーストライターにすべて任せてしまうより潔いような気がしないでもありません。
 そして、著者のいうように、わかりやすさというのは、ありそうです。たとえば、文中に『「子どもの世話にならない」という考え方を持つ人は、それを一種の美学だと捉えているのかもしれません。しかし、社会全体がそういう考え方に向かうのは、ちょっと危ない傾向に思えます。それは、「子どもの世話をしない」ということの裏返しだからです。要は、「人のことなんか知ったこっちゃない」ということです。これは実は人間関係において、手抜きをしているということです。このことは、「自分の体は自分だけのもの」という考え方にもつながります。そして自殺も「俺の勝手」になってしまう。』という話しも、素人にはとてもわかりやすく、なるほどと思ってしまいます。
 また、下に抜き書きしたところも、第10章の『自信は「自分」で育てるもの』の1節ですが、目の前に問題が発生し、何らかの壁に当たってしまったときに、そこから逃げるか、たとえ、かなりの面倒やストレスを背負い込んだりしても正面からその問題に立ち向かうかというときのことです。著者は、自分の経験から、下に抜き書きしたように、逃げないで対処すれば、自分に自信がつくといいます。
 そして、「自信」というのは、そうやって自分で育ててきた感覚のことをいうそうで、壁をつくっているのは、まさに自分自身だということになります。
(2014.9.10)

書名著者発行所発行日ISBN
「自分」の壁(新潮新書)養老孟司新潮社2014年6月20日9784106105760

☆ Extract passages ☆

要領よく立ち回った人は、意外とうまくいっていない。
 社会で起こっている問題から逃げると、同じような問題にぶつかったときに対処できないからです。「こういうときは、こうすればいい」という常識が身につかないのです。
 ことは社会的な問題に限りません。社会的な問題から逃げ切っても、それと似たような構造の問題を家庭内に抱えてしまうこともあります。
 そのときに逃げる癖のついた人は、上手に対処ができない。だから結局は、逃げ切れないのです。
(養老孟司 著 『「自分」の壁』より)




No.991 『イザベラ・バードの東北紀行[会津・置賜篇]』

 今回は旅つながりでこの本を選びましたが、じつは、以前からイザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読んでみたいと思っていました。でも、全4巻もあるし、1冊が3,000円ほどで高いこともあり、なかなか手を出せずにいました。
 この本は、いわば、ガイド本みたいなものですが、それでも十分に楽しむことができました。そして、早く「日本奥地紀行」も読んでみたいと思いました。
 でも、旅先での印象というものは、各個人で違うものの、外国人ならなおのこと違うと思いました。時代もあるし、信仰の違いもあるでしょうし、旅先で出会った人たちにっても違ってきます。まさに、旅は後戻りできない通過型の印象ではないかと思いました。
 とくに、イザベラ・バードが東北を旅したのは、梅雨時です。日本人でも、なんとなくじめじめした雰囲気を嫌うのですから、梅雨を知らない国からやってきた旅人にしてみれば、なおさらのことです。とくに、今の道と違って、人馬が通ってひとりでに出来上がったような道なら、ところどころぬかるみます。しかも、峠道ならなおさらです。第2篇「置賜紀行」は、「十三の峠を越えて」となっていますから、峠道ばかりを選んで歩いたようなものです。ぬかるまないはずがありません。
 今年の7月初旬からイギリスに行きましたが、イギリスの道はどちらかというとカラカラに乾いています。いたるところ、芝草が生えていて、歩いても気持ち良いものです。しかも、馬で駆けることもでき、山らしい山もなく、すっきりしています。レンタカーを使ったり、自然保護区の道を歩いたりしましたが、まさに快適でした。そこから来れば、やはり惨めな気持ちになると思います。
 そういえば、外国人が日本に来ると、女性が一人で夜に歩いても安全だと、ビックリします。イザベラ・バードもそういう印象を書いています。「ヨーロッパの多くの国では、またわが国[英国]でも地方によっては、その土地のものとは違う服装をして一人旅する女性は危険な目にあわずとも、礼を失することをされたり侮辱されたり、金をゆすられることはある。ところが、[日本では]そんな失礼な目にあったこともなければ、過剰な料金をとられたこともこれまでまったくなかった。群衆でさえ礼を失しはしなかった。(「第十六報」)」とあり、女の一人旅でも安全だと書いています。
 ここ山形では、イザベラ・バードといえば、「東洋のアルカディア」といったという言葉がとくに有名です。このアルカディアとは、もともと、ギリシャのペロポネソス半島にある古代からの地域名で、理想郷の代名詞として使われています。だから、それをそのまま解釈すれば、東洋の理想郷ということですから、すばらしい評価です。
 その原文をしたに抜き書きしましたから、ぜひ読んでみてください。この本によりますと、そのときまで梅雨だったのが、やっとそれが明けたときに宇津峠を越え。置賜盆地を見たということです。なるほど、種明かしをすれば、やはり納得できます。でも、日本の花園のひとつだと絶賛されると、ちょっとこそばゆい感じがしないでもありません。
(2014.9.7)

書名著者発行所発行日ISBN
イザベラ・バードの東北紀行[会津・置賜篇]赤坂憲雄平凡社2014年5月23日9784582836370

☆ Extract passages ☆

 とても暑いもののよく晴れた夏の日だった。……南には繁栄する米沢の町、北には来訪者の多い温泉場である赤湯を擁する米沢平野[盆地]は、まさしくエデンの園である。「鋤の代わりに鉛筆で耕したかのよう」であり、米、綿、玉蜀黍、煙草、麻、藍、大豆、茄子、胡桃、西瓜、胡瓜、柿、杏、石榴が豊かに育っている。晴れやかにして豊饒なる大地であり、アジアのアルカディアである。繁栄し、自立している。そしてその豊かな土地すべてが耕作する人々の所有に帰している。人々は葡萄や無花果や石榴の木々の下に暮らし、抑圧とも無縁である。アジア的圧制の下では珍しい美観である。ただそれでもなお、住民は大黒[大黒天]を第一の神とし、ひたすら物質的な幸せを願っている。(「第二十三報」)
(赤坂憲雄 著 『イザベラ・バードの東北紀行[会津・置賜篇]』より)




No.990 『いい旅のススメ。』

 この本は、八戸で8月31日に講演を頼まれた折に持って行き、読みました。やはり、旅では旅の本を読むというのが相性が良さそうで、いつも心がけています。
 著者は、小田急電鉄に勤め、それからカナダで旅行業を経験し、帰国後は日本旅行に入社、1999年から(有)ベルテンポ・トラベル・アンドコンサルタンツを創業したそうです。だから、いわば旅のプロフェッショナルで、おそらく、旅の極意のようなことが書かれていると勝手に思っていました。だって、題名からして、そう思わせます。しかも、副題は「――日本人の忘れ物を見つけに行きましょう――」ですから、そう思うのも当然です。
 ところが読んでみると、著者は、どちらかというと自身が言うには、「障害がある方」「手配に配慮が必要な方の旅行を思いに手がけてきたそうです。だから、ある意味、普通の旅行ではなかなかわからないというか、気づかないところもあります。この本を読んで、それがわかっただけでもよかったと思いました。
 この本のなかでも、なんども指摘されていますが、一般的な観光旅行があまりにも名所旧跡を数多くまわり、とても慌ただしいものになっています。私は数回しかそのような団体旅行をしたことがないので詳しくはわからないのですが、よく言われることです。たとえば、ネパールのカトマンドゥのホテルに泊まっていると、私が朝に起き出すころには、日本人客のほとんどはすでに次の場所に旅立っています。ところが、西欧人はお昼ぐらいまでは芝生で寝転がったり本を読んだりしていて、お昼少し前に外出します。そして夕方早くにホテルに戻り、またゆっくりしています。そのほとんどが数泊同じホテルの場合が多いようです。
 この本でも、『私たち日本人は、旅行に出かけると「どこかへ行かなければもったいない」と思ってしまうクセがある。何もしないのがいちばんの贅沢かもと思っても、ベランダやプールサイドで本を開くのは大の苦手。ホテルで一日ずっと過ごすことなど躊躇してしまう。』と書いてありますが、自分がこのように何もしないでのんびりしていると、まったくその通りだと思います。
 私は、美術館や博物館も1日に午前中に1つ、午後から1つと絞っていますが、本当は1日に1つにしたいと思っています。でも、そこは貧乏性なのか、せっかく出てきたのだからと、つい2つも観てしまいます。おそらく、このような心理が日本人にあって、つい、旅行をただ忙しいだけにしてしまうのかもしれません。美術館もそうですが、あまりたくさん観すぎると、あまり詳しくは覚えてはいません。おそらく、旅行も同じだと思います。
 ただ、この本のなかで、旅行中にたくさん写真を撮ると印象にのこらない、と書いていますが、私の場合はそうではないように思います。むしろ、写真を撮ることによって、そこの印象が深まったりします。そして、帰ってきてから写真を整理していると、そのときの印象がはっきりと思い出されて、1回の旅でなんども楽しめます。もちろん、私のほうが特殊なのかもしれませんが、旅はだからこそ一筋縄ではいかないのかもしれません。100人いれば、100通りの旅があるのかもしれないようです。
 私の今回の旅は、八戸から奥入瀬渓流付近の宿に泊まり、翌日は午前中に渓流沿いを散歩して、午後から後生掛温泉に行き泊まりました。本当は連泊したかったのですが、宿が1泊しかとれなかったので、仕方ありません。でも、後生掛温泉の湯は、とてもよかったです。
(2014.9.4)

書名著者発行所発行日ISBN
いい旅のススメ。高萩徳宗エイチエス(株)2014年7月10日9784903707495

☆ Extract passages ☆

旅行費用は捻出するものではなく、創り出すもの。「行けない」と諦めるのは、心のどこかに「行けなくてもいいや」という諦めと、行けない自分を正当化する理由を抱えているだけかもしれない。……
「明日の健康が保障されていない」のは誰にとっても平等なのに、今日の時点で健康な人は、明日も来年も健康であることが保障されていると信じて疑わない。
 体に障害があったり、進行性の病気を抱えていたりする方は、健康のありがたみを実感しているからこそ、「明日の健康が約束される保障などどこにもない」という事実を大切にする。そして、行くと決めた旅行には必ず行くのだ。そのための費用は捻出するのではなく創ってしまう。
(高萩徳宗 著 『いい旅のススメ。』より)




No.989 『美しいくらげ』

 これはくらげの写真集で、この山形県庄内の「鶴岡市立加茂水族館」通称クラゲ水族館が人気なので、パラパラと見ていました。
 著者も「あとがき」で、『水中で出会うと緊張し、触手に触れないように、程よい距離を保ちたくなってしまう。ところが、水槽内で、照明を浴びてゆったりと泳ぐ姿を見ると、なぜか癒しを感じてしまう不思議な生物が「クラゲ」なのだ。』とあり、たしかにそうだと思いました。
 よくテレビなどで漁網被害が出るとして嫌われものの「エチゼンクラゲ」は、日本近海で見られるクラゲでは最大の大きさだそうで、ときには200キログラムを超すものもあるそうです。この名前は、1921年に初めて福井県水産試験場の野村貫一氏によって採集されたことから、「越前海月」といい、学名も Stomolohus nomurai と野村氏の名前が入っているそうです。これは、もともと中華料理に使われるクラゲなので、なんとか利用法はないかと各方面で検討されているようですが、なにぶん、水分が体重の98%もあり、その水分を抜くのが大変だそうです。でも、おそらく、日本人ならなんとかその利用法を見つけ出し、商品化するのではないかと思っています。
 鶴岡市立加茂水族館は、1930年に地元有志により「山形県水族館」として設立されたもので、まさに山形県内では唯一の水族館です。でも、建物も老朽化し、入館者数も激減し、まさに閉館の危機に直面したそうですが、1999年頃から本格的にクラゲの展示を始めたところ、たいへん好評で、それから入館者数も増加に転じたそうです。さらに、オワンクラゲなどを使った研究で、2008年に下村脩氏がノーベル化学賞を受賞者し、2010年には初めて来館し、一日名誉館長を務めたことなどもあり、その勢いに弾みが付いたようです。
 そして、2014年6月1日に新たな施設として改築オープンし、その際に改築費用は住民参加型の公募債である「加茂水族館クラゲドリーム債」を発行し、申し込み多数だったので抽選になるほどでした。もちろん、約30億円の改築費の一部に使われました。
 これらは、孫たちがこの夏休みに行ったので、その資料などをいただいたものから書いているのですが、とても混んでいたそうです。すでに、過去最大の入館者数をここ2ヶ月ほどで追い抜き、現在もシャトルバスで対応するなどの人気ぶりです。
 この本の著者であるカメラマンは、「あとがき」で、「撮影したクラゲの写真を見ると、改めてその実しさや不思議な体の形や構造に見とれてしまう。海の波間にふわふわ舞い、不思議な浮遊感を持ち、潮や海流に流されて一見自由きままに暮らすクラゲ。しかし、ほとんどのクラゲが動物食で、他のプランクトンや、小魚、そして同じ仲間のクラゲまでも襲って食べる意外な食性を持つ。」といいます。
 でも、見ているだけの人にとっては、「妖しくも美しく、心が和らぎ、優しい雰囲気を感じ、ストレスが低下する不思議な生物クラゲ」です。
 下に抜き書きしたのは、このクラゲという言葉のいろいろを書いていたので、それを載せました。
 もし、機会があれば、この本だけでなく、実際に鶴岡市立加茂水族館にも足を運び、クラゲの美しさに触れてもらいたいと思います。
(2014.9.1)

書名著者発行所発行日ISBN
美しいくらげ中村庸夫・中村武弘アスペクト2014年3月10日9784757223073

☆ Extract passages ☆

「古事記」にも登場し「海月」、「水母」、「久羅下」、さまざまに表記されるクラゲ。ポルトガル人が水面に漂うクラゲの姿を見て「海の月」と表記したものを、その意味に「海月」の漢字を当て、クラゲと読んだとされ、ロマン溢れる言葉だ。
「水母」は中国での表音己を借用したもの、「久羅下」は言葉への当て字とされる。
 英語では「ゼリー状のもの」や「ジャム」が「Jetly」で、水に棲む生物を指す「fish」と組み合わさって「Jellyfish」で、半透明で、まるでゼリーのような質感や柔らかさを現す。クラゲ漁以外の漁師や、サーファー、ダイバー、海水浴客などにとっては、「厄介者」で「危険な生物」。そのため、毒のとげを持つ「刺草」(イラクサ)nettleから「Sea nettle」で「海の刺草」や、触手で刺すところから「Sea sting」=「海の刺すやつ」などとも呼ばれる。
(中村庸夫・中村武弘 著 『美しいくらげ』より)




No.988 『ツアー事故はなぜ起こるのか』

 この本でも取り上げられていますが、2009年7月の北海道大雪山系トムラウシ山でツアー客が死亡した事件がありましたが、ちょうどその直前、7月2〜5日まで大雪山系の富良野岳や旭岳に登ったこともあり、とても強烈な印象が残りました。私も山岳部に所属していたこともあり、天候悪化により、頂上に登るかどうかの判断はとても難しいと思っています。どうしても、せっかくここまで来たのにとか、次はこれるかどうかわからないとか、いろいろと考えるものです。それが登ることを目的に集まってきたツアー客にすれば、なおさらのことです。
 この本では、「悪天候の中、出発しないという選択肢、あるいは途中で引き返す、別ルートで下山するという選択肢があったにもかかわらず、予定通りの登山が決行された。それは客の願望を実現しなければならないというマス・ツーリズムの宿命である。さらには、トムラウシ山のケースで見たように、停滞することなどありえないという前提で、旅行会社は効率よく、ヒサゴ沼避難小屋に次のグループが宿泊するようにスケジュールを組んでしまっている事情もあった。」といいます。
 つまり、考えてみれば、いくらツアーだといっても、登山である以上は個人一人一人の経験とか体力なども必要です。そうでないと、他のツアー客に迷惑をかけてしまいます。でも、ツアーを企画している会社にしてみれば、個々人のことはほとんど知りませんし、もし、体力がなさそうだと思っても、利益は人数が多ければ多いほど多く出るので、申し込みを受け付けないとは考えられません。
 もともと、このマス・ツーリズムは、山の頂上に立ちたいと考える人が多いから成り立つわけで、自分の経験とか体力を考えてというわけではなさそうです。だとすれば、ツアーであろうとなかろうと、事故は起こりえるわけです。
 この登山を含めて旅というものは、普通は見知らぬ土地への移動ですから、そこにはさまざまなリスクが潜むのは当たり前で、たとえそれが現代のマス・ツーリズムであっても、リスクはとても少なくなっているとはいえ、ゼロではありません。むしろ、限りなくゼロにしたいというのがマス・ツーリズムであったとしても、それはやはりゼロではないのです。
 とくにやっかいなのが、今の生活そのものがとても快適で昔なら考えられないような贅沢だからです。快適な日常生活をそのまま旅に求めても、それは無理というものです。
 この本では、「産業革命以降の近代は――今日の「近代のいま」においても――日常生活やオフィス環境を考えてみても分かるように、より便利に、より贅沢になっているのが時代の特徴だという点である。それは個人の願望が実現されていったという側面ばかりでなく、企業が顧客の欲望を育て上げることに最大の努力を払ってきたという側面もあるはずだ。大きなシステム――生産者・製造者と消費者という関係のみならず、そこを取り結ぶ流通の仕組みなどを含めて――の中にはぼすべての人間が放り込まれているという現実からは抜け出しがたいところがある。」と書いています。
 つまり、そこにもツアー事故が起きる宿命が潜んでいます。この本では、今のツアーを根本的に考え直さない限り事故は起きる、と断言しています。
 これからツアーに参加したいと考えている方ならなおさらですが、ぜひ、この本を読んでみてください。なぜ、ツアー事故は起きるのかが、多くの検証とともに書かれています。
 下に抜き書きしたのは、参加者の希望を最大限にくみ取ろうとする姿勢そのものも問われていることを示しています。
(2014.8.30)

書名著者発行所発行日ISBN
ツアー事故はなぜ起こるのか(平凡社新書)吉田春生平凡社2014年4月15日9784582857283

☆ Extract passages ☆

 どの業界であれ新たな消費者の願望を次々に叶えていくことをしなければ企業の持続的な発展は難しいだろう。いや、むしろ消費者の願望を先取りするような、消費者が自覚していないような潜在的な欲望を企業側から商品として提示することの方が重要かもしれない。消費者はその情報を見て願望を芽生えさせるのかもしれない。気球による遊覧とはそのような新たな工夫だった。そうした多彩な工夫を、リスクを伴うのでないかたちで、あるいはリスク管理という点で十分な配慮がなされた上で提示することができればツアー事故の起きる可能性は減っていくほずである。
(吉田春生 著 『ツアー事故はなぜ起こるのか』より)




No.987 『論語と「やせ我慢」』

 この『論語と「やせ我慢」』を見て、なるほど、たしかに論語には「やせ我慢」的な要素があるかも、と思いました。そして、読み始めると、著者は、大蔵省から米沢市税務署長に赴任してきたと略歴に書いてあり、それで思い出しました。そのようなこともあり、上杉鷹山に触れたところもあり、一気に読みました。
 ここでやせ我慢とは、福沢諭吉の「痩我慢の説」を引用し、その後で解説風に『やせ我慢とは、しなくてもよいのに、あえて自ら進んで、自発的にする我慢のことである。叱られるのが嫌だ、罰せられるのが恐いといった消極的動機から生じる普通の我慢とその点が異なる。進んでしようと思うのだから、「私情に発する」わけだが、我慢である以上、たんなる私利私欲の発露ではない。』と書いています。
 つまり、「我慢という感情や行動は、自分のやりたいことを他の何ものかのために抑制している状況から生まれる」から、そこに「公的なもの」があるというわけです。おそらく、このような解釈から、論語と結びつけられたように思います。
 この本のなかで、「仁」とか「中庸」という言葉そのものを孔子が使い始めたと書かれていて、とても興味深く読みました。つまり、「仁」には「人間愛」とでもいうような最上の徳としての意味があるといいます。また「中庸」にも、たんなる中程ということではなく、とても深い意味があり、それこそ時代によっても動くものだとしています。
 そして、論語のおもしろいところは、ひとつの価値観に凝り固まらずに、多角的視点をつねに忘れないことだともいいます。この中庸にしても、人によって、国によって、時代によって変わってくるといいますから、まさに一所にとどまらないということです。だから、一度約束をしたからといって、もし正義にもとることにでもなれば、それを反故にしてもいいといいます。
 ある意味、すごく現実に即した物の考え方であり、渋沢栄一もこの論語の魅力の一つは、その一条一句がすべて日常生活で実際に応用できる教えだと言っているそうです。
 下に抜き書きしたのは、「他者に関心のない者に公はない」という第2章の一節ですが、最近の人とのつながりを持ちたくないという風潮に、警告をならすような文面になっています。人はバラバラには生きていけません。都合の良いときだけつながって、都合が悪くなると一人がいいといっても、それは独りよがりでしかありません。
 人は、やはり、人とつながってしか生きられないのが現実です。だとすれば、いかに「つながる」か、その「つながり」をいかに大事にするかということだと思います。それが「私」と「公」をつなぐ絆だと思っています。味わって読んでみてください。
 そして、この本だけでなく、論語もぜひ読んでいただきたいと思います。
 この人生のなかで、なにが起こったとしても、それを受け止めるだけの強さが鍛えられるのが論語だと思います。
(2014.8.28)

書名著者発行所発行日ISBN
論語と「やせ我慢」羽深成樹PHP2014年6月9日9784569819440

☆ Extract passages ☆

つながっていることから生まれる社会への帰属意識や遵法意識が「自制」を生み、より積極的な他者への愛情や共感が「奉仕」を生む。
 その対象は、家族だったり、友人だったり、弱い人や困っている人だったり、会社などの組織であったり、国家であったり、いろいろだろう。最近はネットによる「つながり」にも注目が集まっている。家庭の「お茶の間」が崩壊し、男女各世代バラバラに分かれていた人々が、地理的な距離を超え、新しい「つながり」を持つことになる。
 こうして「つながっている」対象は、客観的には「他者」でも、その人にとっては「私」の一部なのである。だから、社会のルールを守り、他者を助け、支えるというのは、「他者のため」だけでなく「自分のため」でもある。その意味で、「私的」なのだが、外形的には公的に見えることになる。このような公的行為は、身近には、家族、友人、恋人を助けることから始まり、一体感の対象が社会、さらには国家まで及べば、「因っている人を助ける」「会社のために汗をかく」「国のために働く」と広がっていく。
(羽深成樹 著 『論語と「やせ我慢」』より)




No.986 『サイエンスの発想法』

 表紙に「化学と生物学が融合すればアイデアがどんどん湧いてくる」と書かれていて、それはおもしろそうだと思い、読み始めました。さらにその題名の上に「京都大学人気講義」とあり、それも興味を持った理由です。
 でも、生物学というから、もう少し植物などの生き物も出てくるのかと思っていたのですが、同じ生き物でも細胞とかウイルスなどでしたが、遺伝子のところは、とても読みやすかったです。なるほど、あまり化学式など使わずに説明してもらえると、素人にはとてもわかりやすいと思いました。化学式だけでなく、数式などが出たりすると、それだけで退いてしまいます。それだけで、もう難しいと思ってしまいます。それでも、化学式のところは、少し流して読みました。
 それと、実例も豊富で、おもしろいと思ったのは、アメリカの小学校で行われているという「リーディング・マラソン」です。これは、「小学生が1冊の本を読むと、地域の銀行が10セントをアフリカの難民キャンプに寄付するというのです。この銀行は単にアフリカの難民に寄付をするだけでなく、小学生に本を読ませるという教育的な効果を組み合わせました。小学生は本を1冊読んで学習するたびに、アフリカのために役立ったという満足感も得られます。」とあり、まさに一石二鳥です。
 これだと、本を読むことによってアフリカの難民も救っているんだという意識も芽生え、かなりの教育効果がありそうです。それぞれ単独のものより、相乗効果があると思います。
 著者は、この本のなかで、SCAMPER(スキャンパー)法というアイデアを出すための7つのチェックリストを提案していますが、このなかのC(Combine)に該当し、いくつかの目的や要素などを組み合わせることで、発想が活性化されたり、複数の問題が同時に解決できたりするといいます。このリーディング・マラソンも、その一つです。
 最近、日本を含めた先進国でメタボリックシンドローム(代謝疾患)が問題になっていますが、もともと疲れたときの糖分は必須のものです。だから、体の方が身体や頭脳を働かせるためにも糖分を要求するのです。そこまではなんとなくわかっていたのですが、実は、「これまでの人類の歴史の中で、これほど食べ物が豊かな時代はありませんでした。人類は食べ物を探し続け、飢えに耐えてきたのでした。長い飢僅を生き延びることができた人たちが、私たちの祖先です。食べ物がなかったころの経験がDNAに刻み込まれていて、もっと食べておいて、糖分を脂肪として蓄積する行動に出てしまいます。」という理由があるそうです。
 だとすれば、ある意味、食べるのも本能だし、太るのもDNAだとすれば、相当気をつけなければ太るのは当然ということになります。
 下に抜き書きしたのは、最初のほうに出てくるもので、甘いものが好きな饅頭屋と嫌いな饅頭屋では、どちらが成功するかというのに答えたものです。
 たしかに、このように考えると、なるほどと思いました。
(2014.8.25)

書名著者発行所発行日ISBN
サイエンスの発想法上杉志成祥伝社2014年4月30日9784396614911

☆ Extract passages ☆

 好きなものには客観性を失いがちです。甘いものが好きだと、みなも好きだと思いがちで、甘いものなら何でも売り出してしまうことがあります。いっぽう、甘いものが嫌いな店主は、工夫します。何とか好きになる方法はないか、甘いものが嫌いな人でも食べてくれる方法はないかと考えるうちに、新しい商売のアイデアを生んで、そのノウハウを他人に教えてフランチャイズ化することもあるでしょう。私の場合、英語、化学、生物学は、自分が工夫して克服した科目だからこそ、学生に首尾よく伝えることができたのかもしれません。
(上杉志成 著 『サイエンスの発想法』より)




No.985 『体を使って心をおさめる修験道入門』

 お盆も過ぎ、山に秋の風情を見に行きたいな、と思ったら、山伏の秋の峯のことを思い出しました。山伏と言えば、ここ山形県では出羽三山ですが、今年は出羽三山の開祖である蜂子皇子のご尊像がはじめて公開されたとのことですが、なかなか行けないでいます。
 そこで、図書館に行ったら、この『体を使って心をおさめる修験道入門』という本があり、借りてきて読み始めました。
 この本の説明では、「修験道の山修行というのは、日本人の心に深く深く根差した古来の信仰をベースにしているがゆえ、もっとも日本人にフィットする体験のはずです。富士山をはじめとする近年の熱烈な登山ブームにみるように、山が大好きな日本人のルーツは修験道の世界にあるとさえいっていいでしょう。物があふれかえり、高度に情報化された社会にあって、頭ばかりを使うような現代だからこそ求められているはずです。」とあり、山では、「身体を使って心をおさめる」ことができると書かれていました。
 たしかに、山に登るといろいろな体験ができますし、つねに便利に使っているものが使えないという不便さなどもあり、非日常の世界を体験できます。それをいいと思う人もいるし、わざわざ不便なことを体験しなくてもいいと思う人もいるでしょう。
 でも、山には景色がいいというだけではない、不思議なことがたくさんあります。疲れていても、なぜか後ろから押してくれるような感覚がありますし、何よりも自然の懐に抱かれたような安心感があります。私自身、中学3年生のときに吾妻山に初めて登って以来、高校では山岳部に所属し、修行時代にはあの大峰山にも登りました。考えてみれば、自由に山登りをしていたときにはあまり意識もしなかった高山植物なども、時間がなくて行けなくなったころから、なぜか懐かしく、それらを栽培するようになっていきました。
 だから、今の植物たちとの付き合いも、それらがきっかけです。
 やはり、山は不思議な存在です。
 とくに、私の場合は、山の頂上に立つというよりは、山の5合目から8合目あたりをのんびりと歩くのが好きです。そのあたりは高山植物が咲き、下界とはまったく違う様相を呈しています。渡る風も心地よく、ただ歩いているだけで、すがすがしい気持ちになれます。
 おそらく、この気持ちよさがあるからこそ、汗をかきながらもの登っていくような気がします。そして、山に登ることで、いろいろなことを考え学びます。そして、それが下界に戻ってからも、いろいろと役立ちます。おそらく、著者が「体を使って心をおさめる」ということは、このようなことをいうのではないかと、勝手に想像しています。
 お盆も過ぎて、秋風がたち、少し時間がとれたら、また山に登りたいと思っています。
(2014.8.22)

書名著者発行所発行日ISBN
体を使って心をおさめる修験道入門(集英社新書)田中利典集英社2014年5月21日9784087207385

☆ Extract passages ☆

 山伏というのは、山に龍もり、山に伏して、山から霊力をいただいて修行することから生まれた呼び名です。山というものは、古来、偉大な学びの場です。人々は、山によって霊感を得たり、心を癒されたり、元気のもとをいただいたりしてきました。山には心が震えるような美しさもあれば、命を脅かす危険もあります。限りない優しさとともに恐怖や厳しさもあります。
 山に入り、山に伏し、自分の足だけを頼りに山を歩むと、人間の存在がいかに小さく、しかし、いかに貴重なものか知らされます。山では知恵と力がなくては生きていくことができません。人々は山に学びながら日常の暮らしにその知恵を活かしてきたのです。
(田中利典 著 『体を使って心をおさめる修験道入門』より)




No.984 『期待の科学』

 最初はなかなか読みにくく、何をいいたいのかわからない感じでした。
 それが、第2章の「過去の呪縛」あたりから、なるほどと思えるところがたくさん出てきて、それから一気に読み進めることができました。やはり、翻訳本は慣れるまで時間がかかるようです。
 副題が「悪い予感はなせ当たるのか」で、それに惑わせられたような気もしますが、むしろ副題なんかつけなくてもいいのではないかと思いました。表紙の裏に書かれた、「人間の脳には、常に未来を見る癖がある。いつでもどこでも『この先はどうなるのか』という予測ばかりをする。特殊な状況に置かれない限り、自分の脳の未来予測に自分が支配されているなどとは思わないのである。」と書かれていて、この言葉のほうがこの本の内容をはっきりさせているようです。
 この本のなかでは、『人間は常に未来のことに心を奪われる生き物であり、いくら好きなものであっても、手に入ってしまえば喜びはすぐに消えるし、また新たに欲しいものができれば、そちらに注意が移る。つまり何かが手に入った喜びではなく、何かが「手に入るかもしれない」という期待感の中で生きているのが人間ということだ。』と書いてあり、言われてみればその通りだと思いました。
 すごくおもしろいと思ったのは、第4章の「高いワインは本当に美味しいか」というところで、ステートフェアのワイン審査委員長の『プーシロウスキーは品評会の結果や評論家の意見は、ただ参考にすればいいと言う。自分が美味しいと思うワインが品評会で賞を獲得した、評論家に絶賛された、ということがあれば、おそらくその品評会や評論家は自分の晴好に合っているということだろう。反対に自分が美味しいと思うワインが選ばれなかったり、美味しいと思わないワインが選ばれたりしたら、それ以降、無視すればいいということだ。』とあり、これでは、高いワインが必ずしも美味しいとは限らないと言っているかのようです。
 でも、人の味覚なんて、あるいは臭覚も含めて、そんなことなのかもしれません。だって、いくら専門家といえども、体調もあるだろうし、家庭内のいざこざでいらいらしていることもあるでしょうし、人は毎日毎日違うわけです。
 そういってしまえば、ほとんどの嗜好品はみな同じようなものです。
 自分が美味しいと思えばそれでいいわけですし、いくら高くても美味しくないというのは敬遠すればいいのです。でも、そうばかりとは言い切れないのでが人間です。たとえば、ブランド品もそうですし、高級なレストランもそうです。ただ美味しいからだけで高いお金を払うわけでもなさそうです。その商品やサービスなど、それらを取り巻く状況や情報などにもお金を支払っているようです。もっとざっくばらんに言えば、「見栄」にも払っているかもしれません。
 この本は、いろいろな期待そのものを科学的な味付けで書いています。とくに、最初から最後まで一貫して取り上げているのは「プラシーボ」です。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「過去の呪縛」のところに書かれているものです。
 もし、興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。とてもおもしろい本です。
(2014.8.19)

書名著者発行所発行日ISBN
期待の科学クリス・バーディック 著、夏目 大 訳阪急コミュニケーションズ2014年6月25日9784484141077

☆ Extract passages ☆

お守りや「ラッキーアイテム」を持つことで、緊張や不安がほんの少し和らぎ、そのおかげでぎりぎりの場面で最大の力を発揮できる場合もあるだろう。アスリートの中にも、元来特に信心深い人でなくても、いざという時には神の手にすべてを委ねるという気持ちで競技に臨む人は多い。それで不安が軽減されると実際に良い結果になることは、これまでの研究でも確かめられている。祈りが本当に神に届いているかどうかは、この際どちらでもいい。
 まとめると、プラシーボには二つの効用が期待できることになる。一つは能力が高まったと信じ込むことで通常であれば安全のためにはたらく「ブレーキ」がはたらかなくなること、もう一つは自信がついて不安が和らげられることである。
(クリス・バーディック 著 『期待の科学』より)




No.983 『道楽科学者列伝』

 先月、イギリスに行き、王立キュー植物園など、いろいろと訪ねて歩きました。その科学的な資料の収集に驚き、大英博物館などの展示物の豊富さにどもぎを抜かれました。しかも、博物館や美術館のほとんどが入場無料で、それにもいささかびっくりしました。
 そこで、帰ってきてから、たしか以前に積んでおいた本のなかにヨーロッパの科学者の話が載っている本があったはずだと思い探してみると、この『道楽科学者列伝』がありました。
 この本によると、科学者という言葉はそんなに古くからあるものではなく、今のような職業としての科学すらも、19世紀以降のことだといいます。つまり、それ以前はいわば道楽のようなもので、楽しみのために科学していたといいます。だから、著者は学問は、「楽問」、つまり楽しむための問いかけだったそうです。
 そのような道楽者の科学者を取り上げたのがこの本で、6人の方を取り上げています。そして、最後の終章で、「ディレッタントの末裔たち」ということで数人の科学者を簡単に紹介しています。
 この本では、今方訪ねたキュー植物園のことも詳しく書いていて、もともとは「キューはロンドンの南西郊外に位置するテムズ河沿いの地域である。1759年、この地に館を構えていたジョージ三世の母オーガスタが、邸内の敷地を庭園として整備したのが、キュー植物園の始まりとされている。その後、1772年にオーガスタが亡くなると、ジョージ三世は隣接する王室の領地を加え、ここを王立植物園として運営することにした」そうです。その顧問に就任したのが、バンクスで、ここに世界中から珍しい植物を集めさせたといいます。
 それが、バンクスが目をかけていたウィリアム・ジャクソン・フッカーという植物学者の時代になると、キュー植物園も窮状を極めるようになり、彼がその管轄を王室から国家に移すことを認めてもらい、1841年に国立植物園となり、そのキュー植物園の初代園長になりました。
 その息子であるジョセフ・ダルトン・フッカーは、プラントハンターとしても有名で、父と同じようにキュ−植物園の園長もつとめました。
 今年の7月にキュー植物園を訪ねたおり、標本室で偶然にも見つけたのがジョセフ・ダルトン・フッカーが東ヒマラヤで採取し標本にしたもので、自筆の書き込みもありました。すぐに頼み込み、この写真を撮らせてもらいました。
 ここ、キュー植物園は、やはりイギリスの代表的な植物園であるだけでなく、世界の植物の資料室でもあります。標本だけでなく、本やイラストなどをはじめ、さまざまな資料が所狭しと収められています。1日に2日で、すべて見ることは絶対にできません。おそらく研究者なら、数年いたとしても、その全容を知ることはできないと思いました。
 この本を読むと、昔の科学者は、ほんとうに楽しみながら、好き勝手なことをしていたと思いました。だからこそ、その発見もあったのだと思います。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「断頭台に消えた化学者」で取り上げているラヴォアジェ(1743-94)の項に書かれていたものです。これを読むと、たしかに趣味だからこその贅沢な道具という感覚で、これこそ道楽の極みだと感じました。
 現在の科学は、細分化され、専門化され、職業化されているので、逆に全容がわからなくなっているようです。経済学にマクロとミクロがあるように、科学にもその両方が必要ではないかと思います。
(2014.8.16)

書名著者発行所発行日ISBN
道楽科学者列伝(中公新書)小山慶太中央公論社1997年4月25日9784121013565

☆ Extract passages ☆

 一般に趣味が高じると、人間は少しでもよい道具をほしくなるものである。カメラ、ゴルフ、楽器、碁、釣り……となんでもそうであろう。ラヴォアジェの場合はもちろん、単なる物品愛好主義から高価な品を揃えたわけではなく、実験のためであったわけであるが、それでも、「幸福な一日」に集まった同好の士や遠来の客の前で、自慢の器具や装置を見せながら、実験の成果を語る気分にほ、やはり趣味人のそれに通ずるものがあったような気がする。
(小山慶太 著 『道楽科学者列伝』より)




No.982 『ポケットに物語を入れて』

 この本は、いわゆるブックレビューであり、解説本でもありますが、最初の「あなたのポケットの、あなただけの物語」でこれを書くときの気持ちを述べています。それは『はじめての文庫本解説でそうしたように、その後も、書評でも解説でも、私の気持ちとしては感想文として、「私はこのように読んだ」という巨大なもののほんの一部、私が触れることのできたところのみを書いてきた。ほかの人の書いた解説や書評も、そのように読むようになった。そうすると、実際に会話するわけではないが、会話が生まれる。へえ、あなたはそこを触ったんだね、そんなふうな感触だったんだね。え、そんな部分があったとは、ぜんぜん気づかなかった、私ももう一度、あの巨大なものを違う角度から見てみよう……等々と。』とあります。
 ということは、この本は著者のいわゆる読書感想文でもあるようです。だから、この本を読んで、著者はこのように感じ、考え、読んだんだと思ったり、この本はまだ読んでいないけれど、ちょっとおもしろそうだと興味を持ったりすればいいわけです。
 取り上げられた小説で、佐野洋子『コッコロから』の解説に出てくるのが、「私はかつて、東南アジアのとある島に滞在したことがあるのだが、この島にはやたらに野良犬が多かった。この野良たちはみな、島の住民と旅行者に溺愛されて生きている。野放しに甘やかされているのではなく、きちんと愛されて人と共存している。意味もなくぶたれたり、蹴られたり、追い払われたりしたことがない。それで、この野良たち、人を威嚇したり、疑ったり、おそれたり、警戒したり、まったくしない。本当にもう、もんのすごくかわいいのだ。犬と並列したら亜子ちゃんはかなり怒るだろうが、しかし、愛され肯定されて育ったものは人間だろうと犬だろうとおんなじだ。」とあり、主人公の亜子ちゃんがまっすぐで、ピュアで、かわいいのも、やはりそうされて育てられてきたからだという説明が、ほんとうになるほどと思いました。
 「じんわりとしあわせを感じさせてしまう」というのです。しあわせなんていうものは、そんなに大上段に構えてわかるものではなく、じんわりと感じさせるというのがなんともいいと思います。
 それと同じようなものですが、著者が物書きになって実感したのが、不幸やかなしみを書く方がたやすいということがわかったそうです。それを下に抜き書きしましたから、ぜひ読んでみてください。
 この文章を読んで、幸せやよろこびなんて、なかなか表現できなくて、むしろ言葉にならないようなものだということが実感できます。
 ちょうど今は、旧盆間近です。
 ご先祖さまも、常にはほとんど意識しないでしょうが、自分は両親がいるからいるのだし、その両親にはまた両親がいるからいるのだし、それが限りなく続いていて、今の私たちがいるわけです。下の文章を逆に読めば、不幸や悲しみには法則があるということになります。つまり、そうなる理由があるということです。
 この時期だからこそ、自分へと伝わる大きな流れを考え、自分の存在を改めて見つめ直してみるのもいいことだと思います。
(2014.8.13)

書名著者発行所発行日ISBN
ポケットに物語を入れて角田光代小学館2014年6月2日9784093883641

☆ Extract passages ☆

物書きになって私が実感したことのひとつに、幸福よりも不幸を書くほうがたやすく、よろこびよりもかなしみを書くほうがたやすいというものがある。さらに、いい男よりも、だめな男、格好悪い男を書くほうが、これまたたやすい。なぜなら、幸福やよろこびというものに法則がないからだ。それは言葉にならないところからひょいとあらわれて私たちをうっとりと満たし、言葉が追いつく前に消えてしまう。お茶漬けを食べているだけなのに指の先までしあわせなこともあれば、どこがおかしいのかわからないまま思い出し笑いをすることがある。なぜ、と問われても自身ですらわからない。幸福やよろこびというのは、そうしたものだ。
(角田光代 著 『ポケットに物語を入れて』より)




No.981 『頭が良くなる文化人類学』

 世の中には、なぜこのようなことが、ということがあったり、もうすでに当たり前というか常識のようなことがあったりしますが、それらにはそれなりの存在理由があります。それらを謎解きしたのがこの本です。だから、とても興味深く読みました。でも、頭が良くなるとは、思えません。
 ただ、世の中のものを一方的に見たり、当たり前のこととして考えなかったりすることから、ちょっと距離を置いて見直すというか、考えてみることはするようになります。副題は、『「人・社会・自分」――人類最大の謎を探検する』です。
 そう、いわばいろいろなものやことを探検するような気分で見よう、ということかもしれません。
 おもしろいと思ったのは、動物のときの名前と、食べるときの名前が違うことで、「名前もウシ井ではなくギュウ井、ブタカツではなくトンカツ、ニワトリツクネではなくトリックネだ。つまりウシ、ブタ、ニワトリでは生きた動物、ギュウ、トン、トリにして初めて人が食べるべき食べ物になるというわけだ。英語でも、生きたウシはcow、bull、肉になるとbeefと区別するし、ブタもpigとpork、ヒツジもsheepとmuttonで全く別名だ。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 つまり、日本人も西洋人も、感覚的には動物をそのままでは食べたくないから、せめて名前ぐらいは変えて食べようということです。
 これは言われなければ、気づかないことです。
 また、嫌がられているカラスでも、「スリランカでは、カラスは星神の使いとされ、エサを与える人もいるほどで、街じゅうでカラスがのんびり暮らしているし、日本でもかつて山の神の使いとされ、現代でも、八咫烏はサッカー日本代表のシンボルマークだ」とあり、たしかにそうだと思います。つまり、たかがカラスだって、国によっても、その時代によっても、評価がかわるということです。
 下に抜き書きしたのは、植物の分類が民族で変わってくるということですが、これなども、自分たちに必要なものは詳しく、関係ないことはほとんど区別もしないということの現れだと思います。
 また、男らしさとか女らしさなどということも、国によって、あるいは民族によって、だいぶ様子が違ってくるようです。最近は、日本でも中性化が進んでいるようですが、1931年から翌年にかけパプアニューギニアの3つの民族を調査したアメリカの文化人類学者のマーガレット・ミートさんの研究が紹介されています。これを読むと、民族が、あるいは時代が「らしさ」をつくるということがわかります。
 興味がありましたら、ぜひこの本を読んでみてください。人というのは、いかに「自己中」なのかがわかります。
(2014.8.10)

書名著者発行所発行日ISBN
頭が良くなる文化人類学(光文社新書)斗鬼正一光文社2014年6月20日9784334038069

☆ Extract passages ☆

 ナバホインディアンは、植物名を1000以上持っている。さらにフィリピンの山岳民族ハヌノオ人は、植物のさまざまな部位や特性を表す語を150も持ち、それにもとづいた植物分類が1800種もあるという。
 私たちは伝統的な生活をする民族の場合、語の数も少ないのだろうなどと思いがちだが、実は植物学だって分類は1300以下しかないのだから、ハヌノオ人に負けている。
 人はあらゆるものを分類して認識、記憶、伝達などを行うが、その分類は、それぞれの民族が独自に決めているし、どの程度細かく分類するかは、それぞれの民族の生活に即し、何を重要と考えたかによって違う。未開だから、文明国だからなどということは関係ないのだ。
(斗鬼正一 著 『頭が良くなる文化人類学』より)




No.980 『風通しのいい生き方』

 著者の本は何冊も読んでいますが、その文章の歯切れの良さで読んでいるようなものです。ある意味、歯に衣着せぬというか、とてもストレートの物言いに、ある種の爽快感が感じられます。
 下に抜き書きしたこともそうですし、あるいは「すべての生命の営みは、命を育てる優しさと、劣等なものは取り除く淘汰という残酷な面と、両面を持っているのである。それを日本の社会は全く教えなかったのだから、人間教育の基本もできなかったのだろう。」という意見もそうです。
 これは、畑の間引きということから、この話しがあるのですが、ただ野菜と人間を同じ土俵で話しをしてもいいのかなあ、という危惧は残ります。でも、たしかに長い目で見ると、淘汰ということはあると思います。でも、淘汰される人にとっては、やしり残酷過ぎます。そうなりうるとわかっていても、そうしないのがヒューマニズムです。おそらく、著者はこのような考えを軟弱というかもしれませんが。
 この本の題名の『風通しのいい生き方』には、大賛成です。著者は、「風通しよく生きる方法は、それほどむずかしくはない。家族の一人があまり強烈な我を通さず、物事に執拗に固執せず、諦めと共に、淡々と家族が大して辛くないことだけを願って生きれば、多くの場合、その関係はうまく行く。」といいます。
 たしかに、案ずるより産むが易しかもしれません。
 人は、考えれば考えるほど、悪く悪く考える傾向があります。あまり考えないと、すんなりと行くかもしれません。
 風通しが良ければ、湿気もなく、カラカラと乾いて、居心地良いことこの上なしです。
 この本は、『新潮45』に連載された「人間関係愚痴話」(2012年8月号〜2013年11月号)を改題の上、まとめたものだそうで、やはり、その時々の時事問題を考えて読む必要があると思いました。
(2014.8.7)

書名著者発行所発行日ISBN
風通しのいい生き方(新潮新書)曽野綾子新潮社2014年4月20日9784106105647

☆ Extract passages ☆

 自分も他人のために、いささかの損をするか傷つくのを覚悟しなければ、人を助けるなどということはできない。一切の損を認めない絆などありはしないのだ。どうしても、人のために犠牲を払うことがいやなら、自分は冷酷な人間だと思って、絆などという美辞麗句は口にしない方がいいのである。
(曽野綾子 著 『風通しのいい生き方』より)




No.979 『祈りの大地』

 著者は最初はプロの棋士を目指しながらも、そこから新たにプロカメラマンを目指して、とうとうその道のプロになり、活躍しています。とくに空撮という特殊な分野のカメラマンで、おそらく第一人者ではないかと思います。
 この本は、東日本大震災の翌日に、被災地を空撮し、その後も東北各地で取材をしていることなどを中心にして書いています。そこに、30年以上も関わり続けてきた祈りを追想する内容を付け加えています。どちらが主というわけでもなく、それらが響き合うように綴られていて、その思いがひとつに集約された形でまとめられているような気がします。
 では、この本の題名になぜ「祈り」とあるのだろうか。おそらく、人間はどうしようもないときに祈るしか手立てがないのではないだろうか。著者は、「仰ぎ見るヒマラヤ。実際にその荘厳な姿を目にすれば、誰もが、そこにある神性を感じざるを得ないだろう。ラダックやネパールなどを旅していると、上を見上げれば、いつもそこに、私たちを静かに見つめているかのように、ヒマラヤの山々があった。ヒマラヤがあるからこそ、この地にチベット仏教が生まれ、人びとの篤い信仰心を培った、と言ってもいいのかもしれない。ヒマラヤの雪解け水は聖なる川、ガンジスとなり、インド大陸にヒンドゥー教も育んだ。」といいます。
 つまり、大自然のまっただ中にいると、そこに神性を感じ、信仰心が芽生えるように思います。私自身もネパールを旅し、あの大きな山塊に抱かれていると、不思議な感覚にとらわれます。おそらく、それが神性なのかもしれません。もう、細やかな人間関係などどうでもよくなり、この大きな大自然のなかではすべての人間が無力だし、むしろそこで生かされていると感じます。
 だから、海の民は、海そのものからそのような感覚を感じ取ってるのかもしれないし、この本を読んでいると、そのように感じます。あの東日本大震災で大きな被害を受け、大切な人命も多く失ったにもかかわらず、気仙沼の村上さんは、著者の「海を恨むことはありませんか」という問いかけに、「とんでもない。恨んだことなど一度もない。海はこわいものなんだ。船乗りならみんな知っている。俺たちは海に育てられたんだから」といい、さらに「むしろ、海に感謝している」といいます。
 でも、陸前高田の菅野さんは、「恨みがないといえば嘘になる。海に対する気持ちは人それぞれだから。置かれた状況も違うしね」といいながらも、「自分らは、山のことをおやじといってね、海のことをおふくろと呼んでいる。津波はね、おふくろが怒ったんだよ。でもね、恨んじゃいけないんだよ。おふくろなんだから」と言ったそうです。
 このような取り上げ方が、ジャーナリステックでもなく、だからといって文学的でもなく、フリーの写真家の目だろうなと感じました。
 写真家といえば、下に抜き書きしたところが、写真の大切な記録の部分だろうと思いました。いつも身近にありながら、いざ、なくしてしまうと急に寂しくなるというのが実感としてわかります。7月末に孫と旅行したのですが、途中でカメラが壊れてしまい、記録すらできませんでした。とても残念でしたが、どうしようもありませんでした。
(2014.8.4)

書名著者発行所発行日ISBN
祈りの大地石川 梵岩波書店2014年4月22日9784000259675

☆ Extract passages ☆

 男性の傍らには、妻と高校生の娘の姿があった。
 「写真が見つかるのが、なによりもうれしい」
 男性の妻はそう言って、わざわざアルバムを見せてくれ、撮影にも応じてくれた。泥まじりのアルバムには、まだ幼い息子や娘とともに笑う夫婦の姿があった。
 瓦礫の中で写真を探している被災者は多い。通帳や金庫など、金目のものばかりではない。かといって、その人たちは震災で家族と死別したとは限らない。幼いころの家族の写真、出産や入学式、結婚式など、大事な思い出の写真を探しているのだ。こうした被災者に接すると、撮影を職業としていながら、記録としての写真の大切さを初めて教えられた気がした。私たちは、食料や現金、通帳など、いざというときのための備えをしている。しかし、そのリストの中にアルバムを入れている人は少ないだろう。失って初めて気づく大切なものがある。
(石川 梵 著 『祈りの大地』より)




No.978 『日本人はなぜ美しいのか』

 著者は曹洞宗徳雄山建功寺住職ですが、庭園デザイナーであると同時に多摩美術大学環境デザイン学科教授でもあり、さまざまな分野で活躍しておられるそうです。
 そこで、それらのことから、改めて日本や日本人を考えてみると、その美しさはしなやかな強さであるといいます。そのことを、いろいろな筋道を立てて考えたのが本書のようです。つまり、『この「しなやかな強さ」の基盤にあるのは、シンプルな思考と生活です。シンプルであるからこそ、人は、「本来の自分」を見つけ出すための思索を深めることができ、さらに、本来の自分の姿で、しつかり足を地につけて、立つことができるのではないでしょうか。決められた枠組み、ルールのなかからつくりあげたものとはちがって、自分自身で、自分の内から見つけ出したものは、しなやかで強いのです。』といいます。
 たしかに、いくつかの例を取り上げていますが、日本と西洋の違いは多々あります。西洋的な庭は、どちらかというと対称的でシンメトリーです。ところが、日本の庭は、石組みにしても不等辺三角形を基本にしていて、著者が言うように「完全を超えた不完全なる美」です。茶碗でいえば、あの織部焼の沓形のようなねじれたような器にこそ、おもしろさがあると思っています。不完全だからこそ、そこにいろいろな思いが宿っているともいえます。
 むしろ、移ろっていくからこそ、そこに変化が生まれ、その変わりゆく姿に美しさがあるように感じています。
 この本の中に出てくる禅語のなかで、「冷暖自知」というものがとてもわかりやすいと思いました。この意味は、「器に入っている水が、冷たいのか暖かいのかは、見ているだけではわかりません。しかし、自分の手をそこに入れてみたら、すぐにも冷暖を感じることができるのです。知識だけ持つことのむなしさと、からだで感じることの大切さ、を説いた禅語です。」と解説されていますが、まさにその通りだと思います。ある意味、百聞は一見に如かずです。
 庭にしても、何度も何度も見て、あるいは時間をおいて、つまり歳とともに見方も変わっていくので、そのときどきの感じ方があります。その融通無碍のなかにも、しなやかな強さがあると著者はいいます。
 下に抜き書きしたのは、たしかに便利なことはいいことですが、時には、あえてその便利さに背を向けてみることが必要ではないか、と言っています。そして、日本人として生まれてきたからには、ちょっとぐらい不便であっても、一度は日本文化にからだごと触れてほしいと訴えます。
 もし、機会があれば、その思いを確かめながら、この本を読んでいただきたいと思います。
(2014.8.1)

書名著者発行所発行日ISBN
日本人はなぜ美しいのか(幻冬舎新書)枡野俊明幻冬舎2014年3月30日9784344983434

☆ Extract passages ☆

 技術が進歩してものごとがどんどん便利になるのは歓迎すべきことです。しかし、そのことによって手に入れた時間を、なすこともなく浪費してしまったのでは、人は怠惰に流れていくと思うのです。
 掃除はロボット型掃除機にまかせて、その時間、所在なげにテレビを観ている。その姿が、ふるまいが、美しいでしょうか。ただ、ダラダラと意味もなく過ごしている時間はあなたのためになっているでしょうか。
 ときには便利さに背を向けてみる、というくらいの意識は必要かもしれません。
 かつての日本では、掃除には箒とはたきが使われました。はたきで塵をバッバッと払い、箒ですばやく掃いていく。その動きはそれぞれにリズムがあり、手際よく機敏でテキパキしたものでした。見ていても、その掃除の様子は、所作として心地よく、美しかったのです。
(枡野俊明 著 『日本人はなぜ美しいのか』より)




No.977 『地図のない場所で眠りたい』

 前回に続き2人の対談ものですが、本の性格はまったく違います。この本は題名のように、いわゆる秘境とか海外放浪とか、なんか冒険チックなので、それに惹かれて読み始めました。とくに、今月初旬から中旬にかけてイギリスを旅したのですが、やはり旅は調べてもわからないような、ある意味、地図もないような場所のほうがおもしろいと改めて感じました。
 著者の高野秀行さんと角幡唯介さんの書いたものはそれなりに読んでいますが、この『本のたび』でも取り上げていますが、「空白の五マイル」角幡唯介著、集英社、2010年刊、はとてもワクワクしながら読みました。というのも、雲南省には4度ほど入っているのですが、この地域は入境禁止で、入りたくても入れないと思っていたので、それだけにインパクトもありました。どうして入ったのだろうか、とか、どんな人たちが住んでいるのだろうか、とか、次々に興味が広がりました。やしり、これらの本を読むときには、このワクワク感がとても大事です。
 それと著者のタイプもあるのでしょうが、角幡さんは、『ひとりのほうがやりやすいんですよ。人の言うこと聞かなくていいし、自分が納得いくとこまでできるじゃないですか。「ここまでやってダメだったら帰ろう」とか「でも、まだ行けるだろう」とか、全部自分の基準で判断できるから、モチベーションが続く限りはできるわけですよ。その点、チームを組んでモチベーションに差があると、どうしても誰かが「もういいんじゃないか」と言い始めて、隊全体の士気が下がるということが出てくる。単独で行ったのはそれが嫌だったというのはありますね。』と語ります。
 じゃあ、自分のモチベーションが下がったら、と高野さんが聞くと、「帰ればいいだけ。その探検をする能力が自分にはなかったということだから」と淡々としたものです。
 一方、高野さんのほうも、いろいろと準備をしてから行くのと聞かれ、『俺も、まったく準備しないでバッと行っちゃうということを、何度かやったことがあるんだけど、おもしろいんだよね。なにしろガイドブックに書いてあるようなことでも知らないから、「ええっ、なんでこんなことになってるの」とか、いちいち驚けるんだよ。逆に入念に準備して行くと、たいていのことに驚けなくなってしまう。「ああ、 聞いたとおりだ」というだけで。』といいます。
 私もどちらかというと高野さんタイプで、帰ってきてから、改めて調べ直したりします。すると、脇で見ている人は、最初から調べて行くとロスなく見られるんじゃないのといいますが、やはりそれでは感動が薄まるような気がするわけです。
 下に抜き書きしたのは、角幡さんの話しですが、このまえに高野さんから「冒険ってスポーツ的な面があるじゃない。枠がちゃんとあってさ。その範囲がかなりはっきりしてるよね。」と問いかけがあり、それに呼応するかのようにつぶやいた部分です。
 やはり、このあたりも、探検に憧れる強い理由のような気がします。まあ、今更、この歳で探検もないような気がしないでもないのですが……!
(2014.7.29)

書名著者発行所発行日ISBN
地図のない場所で眠りたい高野秀行・角幡唯介講談社2014年4月24日9784062188890

☆ Extract passages ☆

その範囲の外に出るのが、僕の考える探検のイメージなんですよ。僕がやりたいことというのは、やり方が決まっていないことなんです。登山は好きですけど、登山ってルールとかモラル」がすでにあって、ある程度やり方が決まっているんですよね。そういうものがまったくないところに行って、その場所にいったいなにが必要なのかとか、一から自分でやり方を考える。そういうことが楽しいわけですよ。探検はテーマと場所が与えられるだけで、そこでなにをしたらいいのかというのは個人の工夫になってくるじゃないですか。そういうジャンルとして決まってないようなところに惹かれるというのが昔からありますね。(角幡唯介)
(高野秀行・角幡唯介 著 『地図のない場所で眠りたい』より)




No.976 『この世で大切なものってなんですか?』

 対談する二人とも、おそらく知らない人はいないぐらい知名度はあります。対談なので、スラッと読めますし、「談笑」と表書きにもありますから、まずまず楽しく読めました。
 そのなかでも、ちょっとこれはいいと思ったのが、次の
酒井 姉が堂入りから元気になるまでにどうしたかというのを記録をつけてくれていたんです。ちょっとお見せしましょうか。お堂入りから出てきて一日目、甘酒の上澄みを少々、うがい、氷水の溶けたものを少々……。
池上 それだけですか。
酒井 二日目はガラスのコップ一杯のお水、おもゆを少々、朝昼夜、甘酒の上澄みを少々。
池上 その程度なんですね。九日間断水だったのに、わずかな水を与えられるだけ。
酒井 そうでないと、腸も粘着しているから、いきなりたくさん水を入れると裂けてしまうというんです。だからじわりじわりと入れていくんです。
池上 そば汁、野菜スープと少しずつ漉くなって、四日目にしてやっとおかゆ、スープ。お昼茶碗に一杯。六日目で初めて便通があったんですね。夜七分がゆ。七日目で蕪の煮付け、おじや七分。
酒井 徐々に徐々に、二十七日聞かけて、体を戻していったんです。
 とあり、なるほどと思いました。たとえば、元に戻すのに3倍かかるのだから、なるべく気をつけましょうという人もいれば、3倍かかっても元に戻るんだから、今は大変でもなんとかなるよと気楽に考える人もいます。どちらにしても、3倍かかることをあらかじめ考えて行動することで、何かが違ってくるような気がします。
 この本の題名である「この世で大切なものってなんですか?」という池上さんの問いかけに、酒井さんは「やっぱり、生きることでしょう。いかにして生きるかということでしょうな。生きることを放棄することなく、どんな苦難があっても切り抜けていかなくちゃならない。」と答えています。
 これを読んで、もう少し深みのある答えを期待していたのにと思ったのですが、「やっぱり、生きることでしょう」と簡単にいわれてしまうと、やはり、そうだよね、とつい、頷いてしまいました。
 簡単には読めますが、深読みもできますので、じっくり味わって読んでもらいたいと思います。
(2014.7.26)

書名著者発行所発行日ISBN
この世で大切なものってなんですか?(朝日新書)酒井雄哉・池上 彰朝日新聞出版2011年7月30日9784022734044

☆ Extract passages ☆

 回峰行をしていると、自然界との会話もできるような感じがしましたね。ある日、回峰中雨が降ってきて、まいったなあ、草鞋が濡れちゃうと思って草鞋に気をつかいながら歩くわけですよ。でも、どう足掻いても草鞋は濡れてくる。それならいっそ濡れちゃえと思うと、気持ちが楽になって、それと雨で山の下草も濡れて浄衣もびしょびしょなんですよ。でもこの雨の雫が土に還って眼下に見える琵琶湖に注ぎ、この近畿圏の水がめになるんだなあと思ったら命の水だよなと思えてね、濡れることなど苦にならなくなったね。
 自然もいろいろ学ばせてくれるんですよ。(酒井雄哉)
(酒井雄哉・池上 彰 著 『この世で大切なものってなんですか?』より)




No.975 『記憶力の正体』

 副題の「人はなぜ忘れるのか?」に惹かれて、読み始めました。というのは、たしかに記憶力が良いにこしたことはなさそうですが、あまりにも記憶が良すぎるのを「超記憶症候群」といういうそうで、現在、世界に4人ほどが確認されているそうです。これはとても生きにくいそうです。ということは、忘れることにも、それなりの効用があるということです。
 なんでもそうでしょうが、やはり程度問題です。忘れるのも困りものですが、忘れられないことも大変だと思います。たとえば、『「忘れる」と一言で言っても、そこには二つの意味があります。その一つ は、長い年月がたってしまうことで、記憶が消滅してしまうケースです。プラトンの蝋板モデルで説明されます。もう一つは、どこかに記憶としては残っているけれど、それをうまく引き出せないケースです。プラトンの鳥小屋モデルで説明できるものです。』といいます。たしかに忘れるにもそれなりの意味があります。
 よく「忘却」といいますが、この本でも、『「忘却」の「忘」という字は「心を亡ぼす」とか 「心が亡びる」と読めます。つまり、完全に消滅してしまうことを表しています。一方、「忘却」の「却」という字は「去る」という意味があり、「退却」や「却下」のように、「後ろへ下がる」とか「しりぞける」ということを表していて、消滅という意味ではないのです。』と説明しています。
 記憶をするにも、それなりの強くするヒントがありますが、忘れるにも早く忘れるための秘訣がありそうです。逆に、いやな思い出や不快な記憶は、早く忘れたいがために記憶喪失状態になることさえあるそうです。これでも困ります。
 この本の第5章は「忘れないと覚えられない」、第6章は「記憶を強くするヒント」、第7章は「忘却を使いこなす」です。全般は記憶そのものの感覚的記述が多いようですが、このあたりはとも具体的で読み応えがあります。さらに、参考にもなります。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「忘れられない」の正体のなかにある1節で、なんとなく後悔するとはこのようなものかと思っていたのですが、文字で示されると納得してしまいます。
 もし、機会があれば、ぜひお読みいただきたい1冊です。
 たとえば、記憶を強くしたい人も、早く物事を忘れたい人でも、どちらでも理解できるかと思います。
(2014.7.23)

書名著者発行所発行日ISBN
記憶力の正体(ちくま新書)高橋雅延筑摩書房2014年6月10日9784480067807

☆ Extract passages ☆

 実は、後悔と言っても、「やったこと」に対する後悔と「やらなかったこと」に対する後悔の二種類があります。しかも、人は最近のことを振り返る場合と人生を振り返る場合とで、この二種類の後悔の強さが異なります。つまり、最近のことを振り返る場合には、「あとさきを考えずに即断したこと」などの「やったこと」の方をより強く後悔するのに対して、人生を振り返る場合には、「家族や友人と共有する時間をあまりもたなかった」など「やらなかったこと」 の方を強く後悔するのです。
 また、年齢に関係なく、同じ後悔であっても、「やったこと」の後悔よりも「やらなかったこと」の後悔の方がいつまでも記憶にとどまります。
(高橋雅延 著 『記憶力の正体』より)




No.974 『みっともない老い方』

 副題は『60歳からの「生き直し」のすすめ』で、そろそろ還暦も過ぎてだいぶ経つので、老い方を考えてみたいと思って読んでみました。一つ一つの言葉が実感として感じられるから、やはり、その年になってきたように思います。
 たとえば、旅行などもあまり時間やお金を気にせず、行きたいところに一人で行くなどということは、60歳も過ぎて、家族のことや仕事のことなどをあまり考えなくてもいいからできることです。そう考えれば、いろいろあるようです。
 だから、第二の人生は延長戦ではない、とありますが、まさにそうだと思います。延長戦だとしたら、なんのための還暦なのかわかりません。せっかく生き直しができるわけですから、今までしたくてもできなかったことや新しいことをやったほうがいいと思います。この本にも『第二の人生は、第一の人生の延長戦にはあらず。まったく新しい人生なのだ、と肝に銘じよう。そうでないと人格を疑われるか、大恥をかいてバカにされるのがオチだ。第二の人生は、肩書も何もない、「素」のままの人間なのである。』とありますから、やはり自分の気持ちに素直なほうがいいようです。
 そういえば、年を重ねてくると、なぜか旅もおっくうになります。だから、添乗員の案内するツアーに参加するのでしょうが、やはり、旅は一人旅がいいようです。だって、一人だと、時刻表を見て切符を買うのも、泊まるところを確保するのも自分自身です。だから、ある程度の判断力や決断力も必要です。つまり、老年の脳の活性化に大いに役立つと思います。
 また、著者は、『旅に出ると、人はなぜか、ものを考えるようになる。そんなひと時も気持ちがよいものである。ふだんの生活がいかに惰性で動いていたかがよくわかる。2、3日でいいから、四季ごとに、年四回くらいは旅をしてみることをおすすめする。とくに、「この先、何をするか」などと悩んでいる人は、絶対に一人旅をしてみるべきだ。きっといいアイデアが浮かぶ。」といい、モンテーニュの言葉を掲げています。
 「私は、旅に出る理由をたずねる人があると、いつもこう答えることにしている。『私は自分が何を避けようとしているかはよくわかるのだが、何を求めているのかはよくわからない』と」
 つまり、何をもとめているかわからなくなったら、旅をするといいと勧めています。
 下に抜き書きしたのは、人はいくつになっても好奇心を失わないことが大切だといいます。ぜひ、味わってみてください。
(2014.7.20)

書名著者発行所発行日ISBN
みっともない老い方(PHP新書)川北義則PHP研究所2011年6月29日9784569797144

☆ Extract passages ☆

 人間は好奇心の動物である。何かに興味をもち、追究することに情熱を注ぐ。それがあるから、いろいろな困難に出合っても、がんばり通して生きていける。義務とか使命感も人を行動に駆り立てるが、最終的に残るのは好奇心だと思う。
 元気いっぱいだった子どものころ、ヨボヨボの老人を見ると、「この人は何が楽しみで生きているのだろうか」と思ったものだ。七十代になって思うことは、「この年になっても、いくらだって楽しみはある。知りたいことが山ほどある」ということだ。
(川北義則 著 『みっともない老い方』より)




No.973 『仕事の小さな幸福』

 まず目にひかれたのが本の装丁で、シンプルなのに形がユニークで、新書版よりちょっと大きめのサイズです。
 読んでみても、とんでもない話しなどではなく、身近な小さなできごとを、まさに実感に近いかみしめるような「小さな幸せ」が感じられ、ほのぼのとしました。登場者は18人で、どちらかというと小説家が多いように感じました。それでも、プロパーカープレイヤーの木原直哉さんなどもいて、そもそも、そのような仕事があるとは思ってもいなかったので、興味深く読みました。小説家は、文字を糧にしていることもあって、たしかに表現はゆたかですが、写真家の古賀絵里子さんや元プロ陸上選手の為末大さんなども、実体験からきたことを言葉を飾らずに話してくれて、なるほどと思いました。
 自分の今のことに即していえば、伊集院静さんのこうすべきじゃないかという意見に、じわっと反省しました。
 それは、『インターネットを見る量を、まずは半分にする、携帯電話を使う量を三分の一にするということ。アナログの生き方を、もう一回取り戻さなければならない。なぜか。みんなと同じものを見ているのに膨大な時間を費やしていても、行き着くところ、やることは同じで、検索でもした結果「こういうことか」と思うだけに留まる。それは、何かをわかっているということとは違うんです。情報に辿り着いただけで、自分自身と情報との関わりは何もないわけだ。』といいます。
 たしかに、言われてみればその通りで、情報だけかき集めても、そこからは何も生まれないわけです。でも、情報を集めてしまうと、なんとなくそれだけで満足してしまいがちで、そこから先にはなかなか進めません。
 さらに伊集院さんは、「あのね、一日二時間、インターネットに時間を費やしていたら、二十四歳が四十人歳になった時には、丸二年間、何も飲まず食わず、おしっこも何もしないで、ただインターネットだけをやっていることになるんですよ。」と続けていいます。もう、なにも反論はできません。
 そこで私は、インターネットはなるべく自分の情報を発信するようにしていますが、この「本のたび」もその一環と考えています。
 下に抜き書きしたのは、一番最初に登場したクリエイティブ・ディレクターの箭内道彦さんの言葉です。彼は「いちばん正しい答えではなくても、今はそれでやっていく、でいいや」と答えています。
 たしかに、そうです。正しい答えを求めて、いつまでも考えていても前には進めません。おそらく、東日本大震災での体験もあるからでしょうが、やっているうちに、だんだんと答えらしきものが見つかることだってあるはずです。
 この本は、サラッと読めますが、何度か読み返してみると、いろいろな発見があるはずです。ぜひ機会があれば読んでみてください。
(2014.7.17)

書名著者発行所発行日ISBN
仕事の小さな幸福木村俊介日本経済新聞出版社2014年4月25日9784532169268

☆ Extract passages ☆

 タワーレコードのどこかには、今自分が聴いているものよりもっと個人的に必要としている音楽があるかもしれないのに、そういうものに出会わないで死んでいくわけじゃないですか。もっと言ったら、誰とともだちになるとかも、ぜんぶそうで。
 最近、本屋さんに入った時に今言ったようなことをあらためて深く実感して、世の中にある本の多さと自分の処理できる量の落差に対してはくらくらしてめまいがしたと同時に、何か逆に、「あ、人って、ほんとうに世の中のほんの一部だけを味わって、取り組んで、死んでいかざるを得ない存在なんだな」とどこかあきらめもついたんですね。
(木村俊介 著 『仕事の小さな幸福』より)




No.972 『新装版 繪本 歌の旅』

 旅に本はつきもので、なるべく小さくて軽い本がいいのですが、この本は正方形でやや持って歩くには不便なのですが、軽いのは合格点です。さらに、移動のときもあっち読み、こっち読みできるので、とても都合がよいのです。それで持って行きました。
 もちろん著者は画家で絵本作家でもあります。収録された歌は、ほとんどがなじみのもので、いわゆる童謡や唱歌も入っています。それらの歌に登場する場所などを独特な絵本のようなタッチで描き、文章なども添えています。おそらく、画家ですから、絵が先かもしれませんが、歌のイメージが先行したような絵もあると思います。
 著者の安野光雅さんの絵を見ると、いつも、旅先でこのような絵が描けたら楽しいだろうな、と思います。絵を描いてると、そこにいる時間は当然長くなりますし、その場所の印象も強くなるような気がします。そこまで考えて、絵心がないのだから、そこにいる時間を長くするための他の方法、たとえば、そこで湯を沸かしお抹茶を点てて飲むとかしたらと思いました。でも、それはときどきやっています。やはり、イメージ的には、こじんまりしたスケッチブックにさらさらと描きたいのです。でも、それはやはり無理だろうな。
 だから、その代わりに、この本を持ってきたのかもしれないと、自分の深層心理を読み解きました。
 著者の絵も文章も、どちらかというと、サラッとしています。軽く読むとホンの数十分で読み終わりますが、文章を精読し、それと相前後して絵をなんどもじっくりと見ると、数十時間もかかります。だから、旅の本としてはいいような気がします。しかも、この本は、歌に出てくるところを旅するもので、そこで描くから、臨場感も描き出せるようです。
 私も、今、旅の真っ最中で、移動するときには絵を眺め、寝る前にはベットに寝転んで読んでいます。すると、「思うに、汽車の窓ほどおもしろいものはない。なぜなら自分はじっとしていて、景色の方が後へ後へと飛んで行くからだ。大げさに言うと、汽車ができるまで、人類は、景色の方が後退するという相対的な感覚を体験したことはなかったのだ。」のような箇所があり、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、一番最初の「美しき天然」の1節です。やはり、自然はきれいだと、ケンブリッジ大学に向かう途中の車窓からも思いました。
(2014.7.14)

書名著者発行所発行日ISBN
新装版 繪本 歌の旅安野光雅講談社2014年4月28日9784062189095

☆ Extract passages ☆

 自然は美しい、自然でさえあれば、なんでも美しい。これはおそらく真理である。海の底、洞穴の中、あるいは地中の木の根など見慣れぬ世界も自然なら美しいのだが、普通に暮らしていると、その美しさ に感応してきた体験のほうが乏しいだけだ。
 勢定した木や、人工交配などで作った動植物は、胴長だろうと、大輪だろうと、奇異なおもしろさはあっても自然には勝てない。わたしたちの美に感応する感覚は自然によって育てられたのだ。芸術という仕事は、その自然に帰依する生き方かと思っている。
(安野光雅 著 『新装版 繪本 歌の旅』より)




No.971 『イギリス気ままカレンダー』

 7月4日午前11時40分に成田空港から飛び立ち、時差の関係から、その日の午後7時30分にロンドンのヒースロー空港に着きました。途中、コペンハーゲンで乗り換えましたが、そこまで12時間25分、そこから55分ですから、合計で13時間20分の長道中でした。
 その機内で読もうと思って持って行ったのがこの『イギリス気ままカレンダー』です。著者は、1971年に研究留学のために単身度英したそうで、長く自分の目で見、耳で聞いたことなどを書いたようで、もともとは『イギリス歳時記 粋な話 無粋な話』という題名でしたが、文庫本化するときに改題し、加筆訂正をされたそうです。
 やはり、旅に出て読むのはこのような文庫本か新書版が携帯にもよく、鞄のどこにでも滑り込ませることができます。
 ちょっと古い本ですが、イギリスはもともと保守的な国のようですから、10年や20年でそうは変わらないと思い、読んでいました。そして、やはりここに着いてからもそう思いました。
 まず、建物がこぢんまりしていて、小さいながらも統一感が感じられます。空港から地下鉄に乗ったのですが、地下通路も電車も天井が低く、これもこぢんまりしています。聞くと、昔のイギリス人は日本人とほとんど体格が変わらなかったそうです。だから、体格が変化した今でも間取りの狭い部屋に住んでいて、平気なんだそうで、これも変化を好まない性格の一つかもしれません。
 でも、地下鉄などの切符システムなどはとても便利で、日本などと同じようなカードでチャージするやり方です。これで、ほとんどどこへでもいけます。乗ってみると、やはり小柄な人が多いようです。なるほど、これは来てみないとわかりません。
 ビックリしたのは、大英博物館やおおかたの美術館などは基本的に無料で、しかもほとんど写真撮影も可能です。ある美術館でターナーの絵を見たのですが、これは日本でも公開されたので、つい思い出して写真を撮りました。おそらく、日本だと係員が間違いなく飛んでくるはずですし、撮ろうとする気も起きません。やはり、撮れないのが当たり前ですから。
 下に抜き書きしたのは、7月の項に書かれていたもので、「歩くこと」についてです。
 よく、イギリス人は園芸に関心があるといいますが、花々を見て歩くことも好きなようです。
 6日はウイズレーガーデンに行き、7日はキューガーデンに行き、8日もキューガーデンの資料館に行きましたが、どこも園芸好きの人だけでなく、ただ散歩をしているような人も多く見かけました。ということは、やはり「歩くこと」は好きみたいです。ウイズレーガーデンの研究者に午後のお茶に誘われて行ってきましたが、自宅までは歩きでした。歩きながら植物の話しをしたり、たまたまであった研究者と立ち話しをしたり、のんびりとしたものでした。お茶の時間もゆったりとして、夕方になってしまいました。それほどあくせくすることのない時間でした。
 日本に帰れば、また以前と同じような生活に戻るのでしょうが、いいことは真似をして、ゆったりとした時間を過ごしたいと思っています。
(2014.7.10)

書名著者発行所発行日ISBN
イギリス気ままカレンダー(中央文庫)マークス寿子中央公論社1998年5月3日9784122031401

☆ Extract passages ☆

 イギリスで最も人気のあるスポーツと言えば、それは間違いなく「歩くこと」である。歩く人の数は最近急増している。イギリス人が歩く散歩道ほ、イングランドだけでも一万二千マイル(約一万九千三百十二キロ)に及ぶと言われる。「散歩道」というのは、Public right of wayと言って、一般の人々の通行が保証されている道のことである。
 私有地でも公共の土地でも、その中にほ、必ず、人々が歩いていい道が何本か通っている。一般通路とか乗馬道とか書いたサインポストが、明らかに私有地とみえる野原や牧場の入口に立っている。それほ、たとえ私有地であっても人々が通行できる道を示すもので、道とはいっても、細い踏み固められただけの一筋の小道なのだが、それらの道には人々が歩くのに障害となるようなものを置いたり、草や木を植えてはいけないことになっている。
(マークス寿子 著 『イギリス気ままカレンダー』より)




No.970 『事物はじまりの物語/旅行鞄のなか』

 7月4日の午前の便で出かけました。リックの中には、この本など数冊の文庫本が入っています。この本は、ただ、題名に「旅行鞄」の三つ文字が入っていたから選んだだけで、読んでみると、事物はじまりの由来などが書いてあり、短くまとめられているので、旅行のちょっとした空き時間に読むことができました。
 なぜ題名が2つあるのかと思っていましたが、2つの物語が1冊に詰まっているからという単純な理由からでした。ページの最後に、「本書は『事物はじまりの物語』(ちくまプリマー新書、2005年1月刊)、『旅行鞄のなか』(文春文庫、1992年8月刊)の合本です」と書かれていました。なんか、1冊で2冊分あるので、ちょっと得をしたような気分です。
 気持的には、せっかくの旅行の道すがらに読むのですから、「旅行鞄のなか」が読みたかったのですが、これとて、自分の思いを綴ったもので、旅先のことも書いてはありますが、ほとんど旅行とは関係ないようです。それでも、とても面白かったです。
 「事物はじまりの物語」では、日の丸の国旗の話しは初耳でした。おそらく、明治時代にでも制定されたと思っていたのですが、江戸時代の廻船にかかげられていた幟、旗の船印から始まったというから、相当な歴史があります。もし、もっと深く知りたかったら、ぜひこの本を読んでみてください。
 たしかに、物事にははじまりはあるなあ、というのが読んでみての実感です。
 また、「旅行鞄のなか」では、「F氏からの電話」の項で、新聞の書評のことが書いてあり、つい、そうそう私もそう思っていたというヶ所がありました。それは、「新聞の書評欄にみられる批評は、ほとんどすべて讃辞につきている。批評なのだから、賞めるものがある半面、けなすこともあっていい。それなのに賞めてばかりいるのは、おかしいではないか、と思っていた。しかし、それがあきらかな誤解であることを知った。書評委員会では、秀れた作品であると判定されたもののみが採りあげられ、書評されるのである。悪しき作品ものせて徹底的にけなす書評もあってもいいではないか、と言うかも知れぬが、私個人で考えてみても、つまらぬものを書評する気になどなれず、惚れこんだものだから批評の筆がとれるのである。とは言え、話題作とされた作品をかなりするどく批判した書評がのせられたこともあったが……。」とあり、なるほどと思いました。
 知らないうちは、おそらく同業者だからけなしにくいのかとも思ったのですが、そうではなく、ちょっと安心しました。
 そうそう、ラーメンの話しで、米沢のラーメンがおいしいとも書いていました。
 下に抜き書きしたのは、福井県三方町の向笠という村の祭りについて書いたものですが、なんか時代離れした静かなお祭りで、今も続いていれば行ってみたいと思いました。
 やはり、旅は、「ゆ一っくり、ゆ一っくり」がいいようです。
 そうそう、山形の話しも出ていて、「山形県のどこであったか忘れたが、私は夜の雪道を一人で歩いていた。雪はやんでいた。前方から赤い角巻をかぶった女性が藁靴で雪をふみながら歩いてきた。そして、私とすれちがう折りに、「お晩すー」と、挨拶した。通りすぎる時、その女性は角巻の中から顔をのぞかせた。それはすき透るように白い肌をした顔で、目鼻立ちが驚くほど整っていた。「お晩すー」という声は澄んでいた。「すー」という声が、冷い夜気の中に余韻をひいてとけこんでいった。」とありました。
 もう、山形でもそのような情景や挨拶はないのではないかと思いながら、むしろ懐かしいような気持ちで読みました。
(2014.7.7)

書名著者発行所発行日ISBN
事物はじまりの物語/旅行鞄のなか(ちくま文庫)吉村 昭筑摩書房2014年2月10日9784480431363

☆ Extract passages ☆

 私は老人の顔に見惚れた。翁の面に似ているが、それよりもはるかににこやかである。老人が笑うと、私も自然に笑ってしまう。なんという笑顔らしい笑顔だろう、と私は老人の顔を見つめつづけた。小学校訓導でありましたと老人は言ったが、心の美しさが顔にあふれている。
 夫人らしい人が、私たちの前に料理を並べはじめた。私たちはあわてたが、老人は、祭りにくる者のために料理を用意して待っていたが、来ないので食べて欲しいという。遠慮しては却って老人を淋しがらせるかも知れぬと思い、私は著をとった。
 私たちが、家の前の径を気にしていると、
「まだ来ません、神さんは、ゆ一っくり、ゆ一っくりおいでになられるから、腰をお据えになって……」
 と言ってお酒もすすめてくれた。
 しばらくすると、行列がやってきたと言うので、私たちは家の前に出た。老人の言葉通り、行列に加わっている男たちは、一歩足をふみ出しては長い間とまり、やがて反対の足をふみ出すという悠長な行列の動きであった。それが時代ばなれしていて、実にいい。
 老人は嬉しそうに行列に眼を向けていた。
(吉村 昭 著 『事物はじまりの物語/旅行鞄のなか』より)




No.969 『旅に生きて八十八年』

 そろそろ旅をしたいなあ、と思っていたら、ある友人から誘いが来ました。まさに、渡りに船、とばかりにその誘いに乗りました。そのとき、偶然にも目にしたのがこの本で、自分も八十八歳まで旅ができるかなあ、という思いで読み始めました。
 この本は、旅そのものを自分の生活の糧にしてしまったようなもので、長く月刊誌『旅』の編集部に籍を置き、編集長まで務めたそうです。現在の肩書きは「紀行作家」で、まさに旅に生きてきたといえます。
 では、「旅」とはなにかといえば、この本のなかで、『「旅」と「旅行」のニュアンスのちがいは、文字通り、「行」が下についている言葉が持つ「行」の方に重きを置くか置かないかであろう。「旅」という言葉には、かならずしもどこどこへ行くということがなくても、環境の変化だけでも味わえるような感じのものがある、という人は多いだろう。別に、行動上の裏付けまで区別する必要はないが、「行」ということにとらわれると、どこへ行くかがまず意識にのぼるが、旅のほうは、ちょっと気分さえ変えることが出来れば、味わえるということである。自宅付近で、日頃あまり歩いてみることのないような道を散歩しても旅の気分があり、通勤電車での往復をちょっと切り替えて終点まで乗ってみるだけでも、あらたな気分になれる。』と書いています。
 なるほど、「行」くことにあまりとらわれない気分先行形が旅なのかもしれません。よく、旅はトラベル、だからトラブルが付きものだといいますが、やはり、なるべくならトラブルはないにこしたことはありません。でも、後から考えてみると、ちょっと大変だったときのことが一番印象に残っていることを考えれば、旅にはトラブルが似合うようです。
 著者は、何か一つ色紙に書いてほしいと頼まれると、シャクナゲの一枝を描き、その余白に「石楠花のように 強く美しく」と二行分けにして書くのだそうです。
 なぜかというと、その気持ちをたずねられれば、下に抜き書きしたような理由によるのだそうです。
 このシャクナゲ、この本の中でもなんどか取り上げられているところをみると、相当好きなようです。もちろん、山に登って見ることが一番ですが、花の時期はあっという間に終わってしまうので、なかなか見ることはできません。そこで、自宅の庭に植えたいと思うのが人情としうもので、著者もそのようにしたそうです。本当はアズマシャクナゲを植えたいとおもったのですが、これは難しそうだということで、ホンシャクナゲを植えたみたいです。さすが、その選択は正しく、もしアズマシャクナゲを植えたら、東京では枯らすことのほうが多いようです。
 だから、花を見ることもできなかったと思います。
 今日の午後に山形新幹線で上京し、成田近くで1泊し、4日の午前中の便で旅に出ます。もちろん、リックのなかには、文庫本が何冊か入れてあります。
(2014.7.3)

書名著者発行所発行日ISBN
旅に生きて八十八年岡田喜秋河出書房新社2014年1月30日9784309022543

☆ Extract passages ☆

かつて山へ繁く登り、その折々に石楠花という山中の花との出会いで、この花ほど心に残ったものはないということで、一見もっと美しい高山植物よりも、石楠花の方が、心にせまってきた、と言いたかったのである。
 石楠花は強靭な葉を持ち、深い雪の積もる厳冬を何年越しても、初夏になると、見事に柔らかで美しい花を咲かせる。あの生命力に感じいったのであり、それは一見ツツジのように見えても、ツツジの持たないあの葉と枝のつよさ、それを一文として絵に添えた。
(岡田喜秋 著 『旅に生きて八十八年』より)




No.968 『得手に帆あげて 完全版』

 おそらく著者の名前を知らなくても、「ホンダ」の名前を知らない人はいないでしょう。その世界のホンダを育て上げたのが、著者本田宗一郎です。
 でも、1906年生まれで、すでに1991年8月5日になくなられていますから、今更新刊もなさそうですが、「完全版」ということで出版されたようです。読んでみると、そうとう時代が経っていると思われるか所もありますが、もちろん、今でもとても大事だというか所もあり、だから「完全版」として出されたように思いました。
 著者はあるときを境にして、マスコミに一切の文章を書かないことにしたそうです。そして、社長を辞してから、社長在職中に支えてくれた国内外の全従業員に握手をして歩いたというから、すごいものです。この本にも、従業員はとても大切な同志だと書いていますが、それを実践したのがこの握手行脚です。それに退職後の3年ほどの時間をかけています。
 では、なぜ、またこのような本を書くようになったのかというと、「独楽は、今もなお回る」のところで、「沈黙を続けるうちに、なにやら私について、私とは別個の『虚像』が生れつつあるのだ。すべて好意に満ちた評価ばかりだが、それぞれに過大評価という誤解が含まれている。その複合作用のせいだと考えた。その訂正の必要があった。」といいます。
 つまり、あまりにも祭り上げられてもイヤだという思いがあるようです。だから、この本を読むと、そのユニークな考え方がわかり、だからこそ、世界のホンダを育てられたのではないかと思います。でも、この抜き書きしたすぐ後で、「私は、好きなことだけをやり続け、常識にかからぬ野性的な個性をむき出しにして、気儘に生きてきた技術屋である。こんな私が、今日あるのは、第一には仕事の面では私に欠けた才能を発揮して、私の片腕となってくれた前副社長の藤沢武夫の存在である。彼は、プライベートでも私にとってかけがえのない無二の友人であった。」と書いています。さらに、そのすぐ後に「第二に、私を信頼して集ってくれた従業員の存在である。それぞれに輝くような個性と才能を持った人たちが、同志として私を支えてくれたのである。」とあり、これが握手行脚につながったのではないかと思います。
 つまり、自分は好きなことをしただけで、それをさせてくれたのはみんなのおかげです、と言わんばかりです。
 おそらく、自分で書いているぐらいですから、それが本当の気持ちだと想像します。まさに、本の題名通りです。
 下に抜き書きしたのは、第1章の「栄光に突っ走れ」のなかの「それでも地球は動く」というところの文章です。まさに面目躍如という書き方で、まったくその通りだと思います。
 もし、機会があれば、ぜひ読んでいただきたい1冊です。
(2014.6.30)

書名著者発行所発行日ISBN
得手に帆あげて 完全版本田宗一郎光文社2014年3月20日9784334977757

☆ Extract passages ☆

 私のように、朝に夕に機械と取り組み、科学と取り組んでいる者にとっては、特にこのことを痛感する。機械だけは一つの部品を損失しても機械として成立しない。途中をごまかすことも、省略することも許容されない。つまり、絶えず構造のすじ道を丹念に追究することだけが要求されるのだ。それだけに私たち自身も論理的、合理的な人間になってくる。何事にも理論を大切にするようになる。
 理論そのものは非常に冷たい。そういうものの集積に、人間の血を重ねたものが、製品ということになる。口でしゃべったり、文字で書いたりするものには嘘が入り易い。心の秘め事を綴るものといわれる日記でさえ、信頼できない。ゴム消しさえあれば、どうにでもなるからだ。嘘発見機なんて機械で調べたって、人間から嘘はなくならない。殊に政治家なんてのは、相当に嘘をつく。しかも、そういう嘘が、時にはある程度本物らしく通用する場合もあるのだから困る。だが、われわれが造っている技術的製品には嘘がない。
(本田宗一郎 著 『得手に帆あげて 完全版』より)




No.967 『面白くて眠れなくなる生物学』

 この「面白くて眠れなくなる」シリーズは、とても面白いのですが、この本の最初の部分はDNAの話しで、私にはあまり興味がなく、むしろ眠気が差しました。大事なことだとはわかるのですが、それと興味とはまったく別物です。
 それでも、「Part2」からは植物や昆虫などの目に見える話しなので、とても面白く、今度はほんとうに眠れなくなりそうでした。
 たとえば、ザリガニの話しですが、「ザリガニのオスはメスをめぐつて他のオスとケンカをしますが、ケンカに負けたザリガニはしばらく闘おうとしなくなるのです。このとき、ザリガニの脳を調べると、神経伝達物質の分泌が少なくなっていました。意欲をなくしたザリガニの脳の生理状態は、鬱状態の人と似ていたのです。負けたことでストレスを受け、一種の鬱になっていると解釈できます。さらに、鬱状態のザリガニに抗鬱剤を投与すると、再び闘うようになることも報告されています。」とあり、ザリガニにもストレスがあるのかとビックリしました。
 ところが、そのすぐ後に出てくるコクヌストモドキという昆虫は、やはり雄同士のケンカで負けるとしばらくは戦わないそうですが、3日間程度でまたケンカをするそうです。では、なぜなのかというと、その間にケンカをして負けたことを忘れてしまうからだそうです。ということは、忘れることも大事なことになります。いつまでもクヨクヨと考えていても、仕方ありません。さらにこの昆虫を調べてみると、2日で忘れてしまうものや、4日もかかるものもあるそうです。ということは、ある種の遺伝的なものがあるのではないかと書いています。
 ということは、もう、さっさと忘れて、再び戦うことが生き延びられる要件になりそうです。
 ところが魚などでは、川に抗うつ剤の成分が流れ出ると、魚が大胆な行動をとるようになり、隠れずに開けたところに出てくるといいます。ということは、大きな魚に食べられやすくなるということで、このような報告も実際にあるそうです。
 つまり、あまりにも躁状態になると、生存率が下がるということで、鬱状態も困りますが、若干の鬱状態のほうが生存率を上げるということになります。
 これらを読んでいると、どうしても人間の生き様とダブってしまいます。だから、面白いのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、なぜ葉は緑色をしているかという理由です。
 物が見えるということは、そこに当たっている光が反射しているからですが、それさえわかれば、葉がなぜ緑色をしているのかがわかるはずです。じっくりと読んでみてください。
 葉がなぜ緑色なのか、わかりましたでしょうか。
 それでもわからなければ、この本や植物関係の本を読んでみてください。1冊の本だけでわかるというのは、むしろ少ないのではないかと思います。
 それも読書のおもしろさです。
(2014.6.28)

書名著者発行所発行日ISBN
面白くて眠れなくなる生物学長谷川英祐PHP2014年4月1日9784569817453

☆ Extract passages ☆

 クロロフィルは太陽光を吸収することで、光のエネルギーを利用します。太陽光は無色ですが、光は波長を持っており、人間が見ることのできる光は360〜830nm(ナノメートル)くらいの範囲です。プリズムに光を当てると、光は虹の七色として投影されますが、これは白色光の中にある様々な波長が、その屈折率の違いにより分光されるからです。
 虹の七色は、波長の短い方から紫、藍、青、緑、黄色、オレンジ、赤にたとえられています。実際には光の波長は連続的なのですが、このように見えます。クロロフィルはこのうちどの色を、エネルギーを取り出すのに利用しているのでしょうか。‥‥
青(650nmくらい)と赤(450nmくらい)に吸収のピークがあることがわかります。ということは、吸収されず反射されている光は何色でしょう。そう、緑です。では植物が緑色をしているのはな〜ぜだ?そうです。緑色の光はクロロフィルに利用されずに反射されているからです。
(長谷川英祐 著 『面白くて眠れなくなる生物学』より)




No.966 『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』

 何気なく、「植物」という言葉に惹かれて手に取った1冊でしたが、とても興味深く読みました。しかも、ページを開くたびごとに、文字と絵が交互に出てくるような編集で、飽きることなく読み続けられました。また、「おわりに」というところに書かれた共同研究員の方々と関係諸機関の数をみると、ほんとうに多くの人たちの成果がこの1冊に凝縮してあると思いました。
 縄文時代というと、すぐに年月を答えられる人は少ないと思いますが、じつは約16,000年前から2,500年前頃までのことをいうそうで、この縄文時代草創期にはまだ最終氷河期も終わっていなかったそうです。つまり、13,000年も縄文時代が続いたことになります。
 縄文時代というと、縄文土器ぐらいしか思い浮かばなかったのですが、最近では炭素14年代測定や圧痕レプリカ法、木製品や木材の樹種同定、花粉分析、種実分析など、さまざまな研究手法が開発されたことで、縄文人の植物利用についての情報が引き出せるようになってきたそうです。それらの研究成果を、この本にまとめたといえるようです。
 そういえば、縄文人には縄文カレンダーというのがあり、いかに植物を利用していたかがわかるそうです。ちなみに、それは『縄文人の資源利用の特徴は、季節に応じて利用可能な野生動植物をまんべんなく、効率よく利用するところにあります。春は植物や山菜、夏は魚などが中心になり、実りの秋にはクリやドングリなどの堅果類を集中的に利用し、冬は植物資源が乏しくなる代わりに動物資源にウエイトを置く「縄文カレンダー」とよばれる資源利用です。』と書かれています。
 つまりは、今も山里では春の山菜や秋のキノコ類など自然の恵みをいただいていますから、縄文時代とその点に関してはあまり違いはなさそうです。
 もう1つビックリしたのは漆の利用で、もともとウルシの木は日本に自生はないとされていますから、中国や朝鮮などから渡ってきたに違いありません。それを利用していたのですから、すごいものです。
 それと、野生のダイズやアズキを栽培していたということも驚きです。なぜ、そのようなことがわかるかというと、その理由を下に抜き書きしました。
 読むと、なるほどと納得されると思います。
 ちょっと難しいところもありますが、自分たちの祖先である縄文人たちが、どのように植物を利用していたのかを理解するためにも、読んでいただきたいものです。定価が2,500円+税ですから、ちょっと高いので、もし図書館にあれば、それでもいいかと思います。
(2014.6.25)

書名著者発行所発行日ISBN
ここまでわかった! 縄文人の植物利用工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館 編新泉社2014年1月6日9784787713179

☆ Extract passages ☆

 縄文時代のダイズ属種子の大きさを示したグラフをみると、中期段階にダイズの大きさが急激に大きくなっていることがわかります。縄文人が大きなダイズを選択して土の中に深く撒くことをしない限りこのような現象は起こりません。つまり、種子の大型化は人為的行為の結果であり、栽培によって発露した栽培化徴候群と考えられます。小さなマメは深くまかれると発芽できなくなり、大きなマメだけが淘汰されて生き残っていきます。もちろんこれは採集の仕方でも変わってきますが、マメが弾けなくなってくる性質も人間が栽培をすることで発動してくる遺伝的性質です。
 っまり縄文人たちは、おそらく最初は野生のダイズやアズキを採集し、その中の大きいものを選び出し、土中に撒いて育てはじめ、そのような行為を1000年以上繰り返すことによって、種子を大きくしていったものと思われます。
(工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館 編 『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』より)




No.965 『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』

 『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』というと、おそらくはお金に染みついた欲を払うために投げるのかな、と思っていたのですが、最後の最後の第6章に「賽銭はなぜ投げるのか」という19ページ程度のものがあり、なるほどと思いました。その前は、民俗学の話しが中心で、副題も「民族信仰を読み解く」ということでした。
 この本の最初の方で、七夕の伝承がいくつか載っていて、そのなかに「各地の民俗行事として伝えられた七夕の特徴は、水に関する伝承が多いという点である。女性はこの日必ず洗髪する、子供たちは七回水浴びする、家族全員で行水する、食器を洗う、井戸渫いをするなど、じめじめした長い梅雨の問にたまった不浄なものを楔ぎ祓へ清める意味の伝承が顕著であった。」とあり、私たちの年代までは8月6日の夜に川原に小屋をかけて泊まり、翌早朝に七日浴びと称して水浴びをしました。これは長い梅雨の間にたまった不浄なものを水で洗い流すことかなと納得できました。
 それと同じようにこの地区で行われていた「お庚申講」の歴史も、「直接的に青面金剛一辺倒となったのではなく、その間に十七世紀半ばの寛文、延宝期を中心として一時期、「見ザル言わザル聞かザル」の三猿が盛行した時期があったのであるが、それも天台系の修験者たちによって天帝に人々の罪過を告げてはならないと制止される彭侯戸、彭矯戸、彭質戸という三戸の虫を「見ザル言わザル聞かザル」の三猿に変奏させたものであることがわかってきたのである。」といい、俗説では庚申の夜に禁忌を破ったからできたのが石川五右衛門だとも伝えられているそうです。
 やはり、民俗のなかにはなるほどと納得できるものが多く、今では忘れ去られてしまったようなものまで取り上げられていて、読んでいてとてもおもしろかったです。よし、この点をもう少し調べてみようとか、別な資料はないかなどと思いました。
 著者がこの民俗学に興味を持ったのは、「あとがき」のところに、「身近な生活の中の素朴な疑問から、大きな謎が解けていくという民俗学の快感は、私は柳田国男という人からその著書を通じて教えられた」と書いていて、なるほどと思いました。そういう気持ちがあるからこそ、人をもそういう気持ちにさせるのではないかと考えました。
 下に抜き書きしたのは、汚いものが逆に縁起物になるという現象が民俗のなかに非常に多いことを指摘した後の記述で、「貨幣はケガレの吸引装置」であるという小見出しのなかの文章です。ある意味、そうかなあ、とも思いますが、一つの見解としてここに載せておきます。
(2014.6.22)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ日本人は賽銭を投げるのか(文春新書)新谷尚紀文藝春秋2003年2月20日9784344983397

☆ Extract passages ☆

一つはこのようなケガレの逆転現象である。そしてもう一つは、ケガレはそれが祓へ清められるときに貨幣に託されている、貨幣に依り付けられているという事実である。一般的には貨幣とはものを買うための経済的な道具であるが、ケガレという分析概念を設定してみると、いまみた埼玉県の大野の送神祭でも神輿にお金を供えて村境に放り捨てて村の災厄や疫病、つまりケガレを祓へ捨てていることがわかる。神社で賽銭を投げるのも、同じようにきれいな清水の湧く泉にお金を投げ込むのも、厄年の人が厄払いのためにお金を撒くのも、ケガレを放ち捨てて祓へ清めているのだということになる。つまり、貨幣はケガレの吸引装置である、磁石のようにケガレを吸い付ける道具である、ということになる。だから、きれいな清水を前にしてそこにコインを投げ込みたくなる衝動が湧いてくるのも、人々の潜在意識のなかにケガレを 祓へ清めたいという衝動があるからだと考えることができる。
(新谷尚紀 著 『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』より)




No.964 『元気が出る俳句』

 たしかに、元気が出るだけでなく、あっという間に読んでしまいました。読むというよりは、この本の中に出てくるお気に入りの一句を探すようなものでした。
 著者自身は、「パワースポットならぬパワー俳句」を集めたそうです。
 だから、まずは、ここに掲載された俳句のみを読み、それから解説を読むようにしました。そのほうが、自分なりの読み方ができるかな、と思ったのです。2回繰り返しましたが、ほぼ1回目に良いと思った俳句がやはり良いと感じました。つまり、時間をかけて読むことよりも、ある種のインスピレーションみたいなものです。
 最初に良いと思ったのは、第5章「ほっこりとしたあたたかい気分になれる俳句」ほっとひと息つきたいときに、に出てくる谷口摩耶さんの「菜の花のまんなか安全地帯かな」でした。
 いつのころに作られたのかな、と思って見ると、私と同い年です。しかも、先月に朝日町水本で満開の菜の花畑を見てきたばかりです。やはり、自分の今の環境と生まれた頃の時代的な背景などが微妙に句を鑑賞するときに影響しているようです。ほとんど良いと思ったり、元気をもらえそうな句は、そうでした。だから、総数1000を超える句のなかから、これはと思うのは7つです。おそらく、草花が好きだから、そのような句もありますが、それよりは価値観だろうと思います。
 まさに世界最短の文学が俳句ですから、裏表紙に書かれているように「ハリ治療の針のように心や精神の凝りやよどみをほぐして」くれるかもしれません。
 ちなみに、前掲の句の他には、「満開の花のことばは風が言ふ」(林翔)、「まあいいか少しうるさいグラジオラス」(川崎展宏)、「クレパスの七十二色春を待つ」(津川絵理子)、「黙読のしろさるすべりさるすべり」(穴井太)、「生きるとは一と筋がよし寒椿」(五所平之助)、などです。
 そうそう、「死ぬときは箸置くやうに草の花」(小川軽舟)もよかったです。本当にこのように死ねたらいいなあ、と思いました。
 この本を読んで、この本の前に出たという『怖い俳句』も、これからだんだんと暑くなるので、暑苦しい夜などに読んでみたいと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第5章の解説の部分です。
 まさに「菜の花のまんなか安全地帯かな」のような、ほっとひと息つけるような感じです。
(2014.6.19)

書名著者発行所発行日ISBN
元気が出る俳句(幻冬舎新書)倉阪鬼一郎幻冬舎2014年3月30日9784344983397

☆ Extract passages ☆

 あたたかい飲み物を口にして、ほっとひと息ついてにっこりする。そういったかけがえのないブレイクタイムがあります。そんな一杯の幸せにも似た俳句を集めてみました。どれも暖色の色使いで、長調のメ ロディですが、色調や響きは俳句によって違います。そのあたりもお楽しみください。
(倉阪鬼一郎 著 『元気が出る俳句』より)




No.963 『世界とわたりあうために』

 本の題名は『世界とわたりあうために』ですが、読んでからの印象では、どちらかというと「私は世界をこのように渡り歩いてきた」という感じがしました。
 それと、2000年まではときどき近くの川西町のフレンドリープラザでもワークショップをしていましたが、世界を舞台に活躍し始めると、時間的な制約などもあり、この本でも川西町は登場しなくなります。それでも、2004年にはフランスで「東京ノート」を公演し、その合間に一時日本に帰国し、フレンドリープラザで2日間のワークショップをその年の3月に『ソウル市民』を上演するプレイベントとして行っています。そして、またフランスのパリに戻っています。
 このような話しを聞くと、いかに川西町のフレンドリープラザでの公演を大事に考えているかがわかります。というか、いかに井上ひさしの影響力が大きかったかということでもあります。
 本の中では、世界デビューするまでとしてからの初期の部分の流れを丹念に書いていますが、2007年以降はさーっと書き終わっています。おそらく、世界デビューのきっかけとか、そのきっかけがさまざまな縁に結ばれていたかを書きたくて、この本を書いたのではないかとさえ思いました。
 そして、2014年1月1日のブログで終わっています。その最後の言葉が、「新しい年が始まる。あとから来る者たちに負けないように、私も前へと進まなければならない。いや、負けないだけではダメだ。誰も追いつけない、誰もたどり着けないところまで行くのだ。」と強い決意です。
 たしかに、世界とわたりあうために、いろいろなことにチャレンジしています。おそらく、それはこのような強い決意と多くの仲間たちの支えがあったればこそだと思います。
 そういえば、下に抜き書きしたのは、ヨーロッパ公演が成功した後のことを書いた文章です。とくにフランスは古典的なものが主流を占め、斬新な新しい演劇は少ないように思います。著者は、『フランスでは、極端に前衛的な作品やアマチュアの小劇場以外では、作・演出という形式は少ないらしく、作家に直接質問する機会があるということが、まずフランス人俳優にとっては興味深いことのようです。何しろ出演者の半分近くは、生きた作家の作品に出るのは実質初めてというような、極端な古典偏重の国なのです。彼らにとっては、不思議の国で書かれた『東京ノート』という戯曲が、ヨーロッパとは異なった、しかし別のしっかりとした論理構造を持っているという発見が日々あるようで、お互いにとって充実した稽古になっています。』と書いてありました。
 もし、演劇に興味があれば、ぜひ読んでみてください。
(2014.6.18)

書名著者発行所発行日ISBN
世界とわたりあうために平田オリザ徳間書店2014年3月31日9784198637750

☆ Extract passages ☆

 一度ヨーロッパで公演を成功させれば、何十というオファーがやってくる。しかし、その中で実現するのは一つか二つだ。でも、何十というオファーに丁寧に対応していなければ、一つか二つのチャンスも失ってしまう。そういうことが、やっと分かってきたのが、この頃だった。だから、ヨーロッパに行ったときには、とにかく黙々と人と会い、話を聞かなければならない。
(平田オリザ 著 『世界とわたりあうために』より)




No.962 『いなしの智恵』

 副題は『日本社会は「自然と寄り添い」発展する』というもので、そこに「いなし」という智恵が必要だと著者はいいます。
 では、「いなす」ということはどのようなものかというと、『日本人は、圧倒的な自然の脅威を上手にかわし、自然とともに生きる方法を模索してきた。最初から敵わないことはわかっている。だから、相手(自然)の様子をうかがいながら、うまくつき合っていこう、というわけだ。荒々しい自然のカを「いなす」技。それは日本人が、気性の荒い日本の国土とつき合っていくために生み出した独自の智恵なのだ。』と書いています。
 つまり、向かってくる相手の力をかわし、正面からぶつからないようにすることです。たとえば、相撲などでもいなすといいますが、相手が全力でぶつかってきたときに、相手の腕を払ったり、自分の体勢をずらしたりすることです。これは横綱相撲ではないと感じるかもしれませんが、これだってちゃんとした相撲の技です。だって、そのタイミングの難しさとか、力関係とか、いろいろなことがあっての技のようです。
 著者は、これからの豊かさは、「量」ではなく、「質」を深めなければならないといいます。そのための都市づくりは、「里山」や「江戸」がキーワードだそうです。たとえば、「もしも欧州の都市で、江戸と同じ人口密度で人が暮らしていたら、たちまち感染症や伝染病の問題が出ただろう。下水道が普及するまで、欧州の都市では、道ばたにゴミや糞尿が捨てられているのがあたり前という、非常に不衛生な状態だったからだ。‥‥‥ところが江戸の街では、下肥は近郊農家の貴重な肥料として買い取られ、通称「汚穢舟」と呼ばれる船によって各地へ運ばれていった。そしてそれらは、米や野菜になって江戸へ戻ってくる。この循環型のシステムを上手に使っていたため、江戸の街に公衆衛生上の問題はほとんどなかった。同時代の欧州の都市と比べて、江戸の街はずばぬけて清潔だったのだ。」とあります。もちろん、この「里山」だって、まさに元本に手をつけずに利息で暮らすようなもので、そこにはとてもいい循環型の生活があります。
 この本を読んで、あらためて水田のすばらしさを思ったのですが、たとえば、「日本国内の農業用水路をすべてつなげると、なんと40万キロメートルもの長さになると言われている。地球10周分の距離だ」そうです。これはすごいことで、このような水管理が行き届いているからこそ、自然環境も安定しているのかもしれません。
 この『いなしの智恵』、読めば読むほど、なるほどと思いました。
 もし、機会があれば、ぜひ読んでみてください。
(2014.6.15)

書名著者発行所発行日ISBN
いなしの智恵(ベスト新書)涌井雅之KKベストセラーズ2014年3月20日9784584124352

☆ Extract passages ☆

 春に咲き誇る花の美しさを愛でる一方で、散り際の儚さにも心を動かす。一瞬の紅葉を楽しみ、葉が落ちた樹々の梢を見て、次の季節に思いを馳せる。
 日本の座敷は「移ろいの座敷」である。日々の出し入れは「押入」、月ごとの出し入れは「納戸」、年ごとの出し入れは「蔵」というように、時間や季節によって収納が使い分けられている。
 さらに季節によって、部屋の「しつらえ」も変化する。冬には障子が立てられ火鉢が置かれていた座敷が、夏になると畳の上に竹床が敷かれ、障子やふすまが簾戸(竹を粗く編んでつくられた戸)に変えられる。床の間の飾りも、季節によって変えられる。
 このように日本人は、「ときの移ろい」そのものを楽しみ、そこに美しさを見出しているのだ。
(涌井雅之 著 『いなしの智恵』より)




No.961 『生きているとはどういうことか』

 生きているとはどういうことか、と問われても、すぐに答えられる人はほとんどいないのではないかと思います。そのような、ある意味、普遍的な問いに答えるように書かれたのが、この本です。
 読み始めて、何を言おうとしているのか、ちょっとわかりませんでした。それでも我慢して読んでいると、おぼろげながら見えてくるものがあり、おそらく、時間をかけて読むと、さらに理解できるのではないかと思います。
 たとえば、植物はなぜ長生きなのかというと、この本では、「植物が長生きするのは、細胞のテロメラーゼがすべて活性化しているからだ。つまり細胞が分裂しても、テロメアが短くならない。だから千年でも二千年でも生きる。植物には未分化の細胞が多く、茎の細胞から葉や根の細胞をつくれる。そのへんに茎を挿しておけばそこから根が生え葉が出て、また大きな木になる。」、つまり挿し木や取り木など、少し植物に関心があればやっていることです。でも、このように説明されれば、なるほどと納得できます。
 結論としては、あるような、ないような感じですが、「あとがき」に「枠だけが決まっていて、その中では比較的自由度があるのが生命の特徴だ。そう記すと、たとえば将棋に似ていると感じられる。将棋ではルールは厳密に決まっていても、ある局面でどの駒が動くかは決定されているわけではないからだ。ならば、生命は将棋と同じようなものなのだろうか。どうもそうでもないようだ。生命はゲームをやりながら、時々ゲームのルールを変えているらしい。」とあり、ルールに縛られていればわかるでしょうが、ルールそのものも変わるといわれれば、なんともあやふやになるのはやむを得ないような気がします。
 著者はまた、生きていくことのおもしろさを、武道家の内田樹著「修行論」のなかの言葉を取り上げ、『修業とは、あるひとつの目標に向かって突き進んでいくことではなく、何だかわからずにやっているうちに、自分が変わってしまうことだと述べる。日々稽古をしているうちに「ああ、今日の俺は昨日の俺と違う」ということが起こる。昨日までできなかったことが、突然できるようになる。つまりヴァージョンアップする。』といいます。
 つまり、生物がやっていることが、まさにそれそのものなんだそうです。だから、ミクロ的には個体が違うヴァージョンに入ってしまうということです。著者は、「それが生物の面白さであり、われわれが生きていくうえでの楽しみなのだと私は思っている」と書いています。
 下に抜き書きしたのは、生きていることと直接のつながりはないのですが、とても興味の事例なので、ここに紹介します。
 でも、だからといって、まったくこの通りだとは言えないと思いますが、参考にはなるはずです。
(2014.6.12)

書名著者発行所発行日ISBN
生きているとはどういうことか(筑摩選書)池田清彦筑摩書房2013年12月15日9784480015891

☆ Extract passages ☆

 毎年健康診断を受けて、医者にコントロールを頼んだからといって、必ずしも長生きするわけではない。30年ほど前に「フィンランド症候群」という言葉が流行った。1974年にフィンランドの保険局が、40歳から45歳の1,222人を対象に5年にわたってある実験を行った。被験者を無作為にほぼ半分ずつに分ける。一方のグループには、医師による4カ月ごとの定期検査、栄養チェック、運動、タバコや酒などの健康管理を行い、必要ならば治療を行った。もう一方のグループは、健康管理は本人に任せ、医師は介入しなかった。
 それからの15年間で、総死亡者数は113人。介入群で67人、非介入群では46人だった。介入群のほうが死者数が多いことに多くの人が驚いた。特に、心疾患死と外因死(自殺、他殺、事故)では介入群のほうが目立って多い。医者による介入がストレスを招き、その結果これらの死因の上昇につながったのではないかといわれ、医者に診てもらってかえって早死にする現象を「フィンランド症候群」と呼んだのだ。
(池田清彦 著 『生きているとはどういうことか』より)




No.960 『主人公になった動物たち』

 動物が主人公の小説や児童書などはたくさんありますが、世界中の人が知っているとなれば、数はそうとう絞られてきます。さらに、何十年も読み継がれてきた作品となれば、さらに数は少なくなります。
 この本は、そのような誰でも知っている作品に登場する動物たちが主人公の物語を取り上げています。
 その数、14編。おそらく読んだことはないにしても、その題名だけは知っているはずのものばかりです。たとえば、「子鹿のバンビ」とか「クマのプーさん」とか、「かもめのジョナサン」もみんな知っていますよね。
 でも、「子鹿のバンビ」は、最近ではウォルト・ディズニーが作ったと思われるらしく、本当の原作者であるフェーリクス・ザルテンであることを知らない人のほうが多いのではないかと思います。著者の説明によると、『ザルテンは熱心なハンターである、しかも善良な類いの。ザルツカンマーグートの避暑地でももちろん暇があれば森の動物たちのかたわらで時を過ごしていたが、ウィーン近郊のシュトッケラウでも自分の猟地を所有していた。明け方に猟地へ行き、双眼鏡を手に見張り台に腰を据え、動物を撃つよりも静かに観察する方を好んだため、仲間たちの何人もが彼に失望して離れていった。彼は狩猟監視人よりも林務官との付き合いを好んでいた。そして彼は日がな一日、時には夜半に及ぶまでこの森の中で過ごし、森の動物を知り、彼らの好きな場所、彼らの行動様式、彼らの「言葉」を知った。こうして森で過ごした計り知れない時間が、動物も思考し言葉を交わしているのだという堅い確信へと彼を導いてくれた。この確信から『バンビ』が生まれた。』というのです。
 そういえば、「クマのプーさん」にもいろいろあって、主人公のクリストファーは著者のA・A・ミルンの本当の息子ですが、あまりにも有名になりすぎて、その分身から逃れたくて戦っていたそうです。たとえば、『何といっても嫌だったのは学校で「君のテディベアはどこにあるんだい?」と絶え間なく訊かれることで、それは悪夢すらになつた。大人になっても絶えず創作のために利用された自身の幼児期につきまとわれた。自己紹介すれば、人々は「ああ、あなたがクリストファーですか。すばらしい! ちょっと話してもらえませんか」と言ったり、あるいは、子供たちを連れてきて、あとで本物のクリストファーと知り合いになったと友達に自慢できるように、彼と握手をするよう促すのだった。』といいます。やはり、これではほんとうにイヤになります。有名税だと簡単には片付けられません。でも、結局は、死ぬまでそのような創作上の分身といっしょだったのではないかと思います。
 その点、動物たちはそのような気遣いはまったく必要ありません。有名になろうと、ただの動物であろうと、同じです。この本を読むと、動物たちは、いわば創作された分身にしか過ぎないようです。だって、人間の言葉を話すなどということは、本来、あり得ないわけですから。
 下に抜き書きしたのは、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」の初版出版時の状況です。
 名作とか、ベストセラーなどというのは、結局は口コミです。読者が読んでくれなければ、いくら宣伝しても売れません。その良い例が、この「かもめのジョナサン」かもしれません。
(2014.6.10)

書名著者発行所発行日ISBN
主人公になった動物たちディートマー・グリーザー 著、宮内俊至 訳北樹出版2014年1月30日9784779303951

☆ Extract passages ☆

それまで18もの出版社(例えばハーバー・アンド・ロウ、ランダムハウス、モーロウなどの著名な出版社もあった)に断られてほとんど諦めていたバックは、『かもめのジョナサン』の原稿を彼女に送り、受け取ったエレナー・フリーデは3ページ読んだだけで完全に魅了され、内容が子供向きなのか大人向きなのかはわからなかったが、上司を説得する。とはいえ、初版七千五百部というアメリカの出版業界では滑稽なほど小さな数字は、マクミランの上層部がこの実験的な試みをどう評価しているかを如実に物語っていた。まったく期待はしておらず、それが証拠に4ドル95セントの本にかける宣伝もささやかだった。『パブリッシャーズ・ウィークリー』と『ニューヨーク・タイムズ』にそれぞれ小さな広告を出しただけだった。書評も出なかった。
 これが1970年、初版出版時の状況である。
 そして2年後にはどうなったか。何と百万部を超えていた。最良の(同時に最安の)宣伝がそれを可能にした。そう、口コミである。
(ディートマー・グリーザー 著 『主人公になった動物たち』より)




No.959 『人を幸せにする目からウロコ!研究』

 よく新書版を読みますが、この岩波ジュニア新書もそうですが、最初から一定の意義を持って発行されています。たとえば、この岩波ジュニア新書の発足に際してという項には、「わたしたちは、これから人生を歩むきみたちが、生きることのほんとうの意味を問い、大きく明日をひらくことを心から期待して、ここに新たに岩波ジュニア新書を創刊します。現実に立ち向かうために必要とする知性、豊かな感性と想像力を、きみたちが自らのなかに育てるのに役立ててもらえるよう、すぐれた執筆者による適切な話題を、豊富な写真や挿絵とともに書き下ろしで提供します。若い世代の良き話し相手として、このシリーズを注目してください。わたしたちもまた、きみたちの明日に刮目しています。」高らかに宣言しています。おそらく、1979年6月当時は、ここに出てくる「刮目」という言葉を知っているジュニアもいたでしょうが、今になってみると、おそらく知らないのではないかと思います。
 それでも、このような思いだけは変わることがないのではないでしょうか。
 もちろん、この本もそのような思いで書かれています。
 編著者が「まえがき」のところで書いていますが、この「目からウロコ研究の誕生に三種類ある」といいます。それは、「まさに自分の仕事を推し進めるために、ブレークスルーのための目からウロコ研究、自分の研究には違いないが、ふっと視線をずらして気付いたもの、全くの門外漢がふっと気付いたもの」だそうです。
 12名の方々が、「人を幸せにする目からウロコ!研究」を紹介していますが、どれもまさに目からウロコでした。たとえば、赤壁善彦さんの「柑味鮎の開発」は、ジュースの絞りかすを鮎のえさに混ぜて使うそうですが、そのヒントは鮎が育つ川ごとに味が違うことから考えられたようです。そういえば、5月11日にすぐ前の鬼面川でニジマス釣り大会が開かれましたが、そのときにある漁業関係者から聞いたのですが、塔の原橋から砂防ダムまでの間で育った鮎はとてもうまいといいます。それで、この研究もすぐに納得出来ました。
 また、鳴海拓志さんの「食べたつもりになるARダイエットメガネ」などもおもしろいと思いました。そのなかで、「ポテトチップスは食べきり用の小さなサイズからパーティ用までいろいろなサイズの袋で売られています。頻繁にポテトチップスを食べるのであれば、大きい袋を買って何回かに分けて食べた方が割安になるので、そのような買い方をしている人もいることでしょう。ところが、小さい袋から取って食べる場合と大きい袋から取って食ベる場合を比べると、同じ満足度に達するまでに食べる量が変わる、それも袋が大きいほど満足するまでに必要な量も増える、というのです。この結果は、割安だからと大きい袋を買っていると、袋のサイズの影響によって消費量が増えてしまい、結果としてより多く買ってしまっているということにもなります。」とありました。たしかに、そういわれれば、その通りです。おもしろい研究をしている人もいるものだなあ、と思いました。
 下に抜き書きしたのは、足こぎ車いすを開発している(株)TESS代表取締役の鈴木堅之さんの言葉です。まさに、身近なものから未来は生まれということです。
 車いすを足こぎにするといろいろないいことがあるといいます。ぜひ、その熱い思いを実際に本を読んで、感じてみてください。
(2014.6.7)

書名著者発行所発行日ISBN
人を幸せにする目からウロコ!研究(岩波ジュニア新書)萩原一郎 編著岩波書店2014年1月21日9784005007653

☆ Extract passages ☆

研究の起源もビジネスの原点も「誰かの為に」です。
 誰かの笑顔の為に、まずは行勤してみることです。身近にある物や現象の中からいろいろな組み合わせをつくり、諦めず新しい発想へつなげ、頑張っていく。こんな世の中だから駄目だ、環境が悪い、自分には何もない、などと嘆く暇があったら、今の自分に出来ることから前進してみることです。
 大きな壁が立ちはだかることもあるでしょう。自分の想像を遥かに超える障害が現れることだって必ずあります。しかし、それはあなたが前進している証拠なのです。その壁の向こう側にあなたを待っている人たちがいることを忘れないでください。(鈴木堅之)
(萩原一郎 編著 『人を幸せにする目からウロコ!研究』より)




No.958 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

 よく昔はキツネにだまされたとか、タヌキにばかされたとか、というのがありました。まさか、と思いながらも、もしかすると、と思っていました。
 そこにこのような題名の本が本屋の棚に並んでいたのを見つけたので、読んでみました。読んでみて、キツネにだまされることにこのように深い意味があったのかと感じ入りました。まさに、この本は哲学書みたいでした。
 というより、著者は都立新宿高校卒の異色の哲学者で、有名大学でも教鞭を執っているそうです。しかも東京と群馬県上野村を往復しながら暮らしていて、この上野村はつい最近までキツネにだまされるような村のようです。これはけっして侮蔑しているわけではなく、むしろ、とても素朴で人情厚いということです。むしろ、キツネにだまされるぐらい、人が良いという証拠でもあります。
 ところが、1965年ぐらいを境に、経済発展こそが人を幸せにするという価値観の変更で、ただしゃにむに経済のことだけを考え、「企業戦士」や「モーレツ社員」、さらには「過労死」などという言葉も生まれました。まさに、世の中のすべてを貨幣で換算するような、味気ない社会に突き進んでいったのです。
 そのころから、人間がキツネにだまされなくなってきたようです。
 お金がすべての価値基準であれば、あやふやな自然の不可思議などというものは、簡単に無視されてしまいます。それがいいかどうかは、個人の価値観の問題です。私自身は、自然というのは、とても恐れ多いもので、とてもすべてをわかろうとすることは絶対に無理です。むしろ、わからないところのものが多くありそうです。
 著者は、自然を、『オノズカラとしてのジネンは、シゼンの世界でもあり、人間が「祈り」をとおしてみつけだした世界である。霊の穢れという思いが、それからの救済を求めて「祈り」をつくり、ジネンをみつけださせた。ところが社会が近代化していくと、人々は自然(シゼン)を自然(シゼン)としてみるようになっていった。自然(シゼン)は人間から分離し、自然(シゼン)という客観的な体系になっていった。』といいます。つまり、シゼンのなかにジネンをみなくなったから、自然と人間の関係も変り、人間がキツネにだまされない時代をつくりだしたのではないかと考えます。
 だから、経済効率至上主義のなかで、自然も自分たちのものという認識からすれば、人間がキツネにだまされるなどとは考えられないわけです。
 でも、だからこそ、自然から大きなしっぺ返しがあったのではないかと思います。自然のなかに私たち人間もいると考えるほうが、むしろまともな考え方だと思います。キツネに人間がだまされるぐらいの不可思議さがあれば、自然を今のように冒とくはしないはずです。
(2014.6.4)

書名著者発行所発行日ISBN
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか(講談社現代新書)内山 節講談社2007年11月20日9784062879187

☆ Extract passages ☆

身体や生命の記憶として形成された歴史は、歴史を循環的に蓄積されていくものとしてとらえなければつかむことができない。「発展していく歴史」は、知性が歴史に合理性を求めたことによって、そのようなものとしてみえてきた歴史であって、それだけでは身体や生命を介した歴史はつかむことができないのである。
 現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。
(内山 節 著 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』より)




No.957 『しあわせの五・七・五』

 おもしろくって、あっという間に読んでしまいました。でも、そのままでは、おもしろかった川柳も忘れてしまいそうなので、カードを作りました。
 著者はMBSラジオ「川柳で生き方再発見! しあわせの五・七・五」などにレギュラー出演したり、毎日新聞(大阪)の「近藤流健康川柳」の選者をつとめているそうで、主にそのなかから掲載の川柳を選んだということです。元々は、毎日新聞の論説委員や「サンデー毎日」の編集長などをされたそうです。
 副題は、この本に掲載された川柳の「足して引き ひとつ残れば いい人生」で、たしかに人生はこのようなものかもしれません。同じような気持ちで、「あたりまう こんな幸せ 気づく朝」(中村啓子)とか、「回り道 したら真っ赤な 薔薇に会え」(にこール)みたいなことで、人は意外と幸せを感じたりするのです。
 そのありふれたことの積み重ねが、なんともいとおしく感じられます。考えてみると、人はいつも何らかの不安を抱えています。だからこそ、あまり変わらないことが有り難かったりするわけです。
 それらを川柳はうまく詠んでいます。たとえば、「何事も 起きずに暮れて 晩ごはん」(はがくればあば)などです。まさに「日々これ好日」です。
 ちょうど20日前に「第38回 春の山野草展」が地元の三沢コミセンでありましたが、ある方が、「草花をいじっていると何も考えなくて良いのよ」と話していました。この本のなかにも、同じような気持ちの川柳が載っていて、「何かしら 辛いときには 花いじる」(牧野文子)とありました。さらに、「物言わぬ 花に一番 励まされ」(安部亜紀子)というのもありました。
 この本で知ったのですが、よく「花は笑い、撮りは歌う」といいますが、この花が咲くの「咲」という文字は、本来は口偏に「笑」と書くべきで、だから「わらう」という意味になるといいます。なるほど、と思いました。
 下に抜き書きしたのは、そもそも川柳というのは何かということと、どこから川柳が生まれてくるのかについて触れたところです。
 ほんとうに気楽に読めますので、ぜひおすすめいたします。
(2014.6.1)

書名著者発行所発行日ISBN
しあわせの五・七・五近藤勝重幻冬舎2014年1月10日9784344025158

☆ Extract passages ☆

 僕はいつもいい川柳とは何だろうと考えています。昔から言われているのは、穿ち、滑稽、軽みです。穿ちとは意表に出て、隠れた真実をとらえること。滑稽はおかしみです。軽みは全体的にリズムがよく、軽快な感じです。
 この三要素に通底しているのは何でしょうか。笑いです。その笑いが、自分と他者をつないで川柳を生み出しているのだと思います。
 赤ちゃんの笑いは別として、人間は笑いたくもないのに笑えるものではありません。笑いたい。言ってみればそれは、笑欲のようなものがあって、笑いが生まれているということではないでしょうか。そしてその笑欲と、やはり人間の内にある表現欲が一緒に作用して川柳が生まれているのだと思います。
(近藤勝重 著 『しあわせの五・七・五』より)




No.956 『新版 日本人と英米人』

 この本の初版は1973年だそうですから、その当時は副題の「身ぶり・行動パターンの比較」とあるように、なぜそのような身ぶりをするのか、はたまた行動パターンの違いなど、いろいろとわかりにくいことがあったと想像できます。でも、今では、テレビなどで外国の興味深いことなどをさまざまな取材を通して知れるようになってきて、日本人との違いなども取り上げられています。そういう意味では、この本の初版当時とはだいぶ違ってきています。
 でも、それでも、まだまだ知られていないこともありますし、その違いがコミュニケーションを微妙に阻んでいる可能性もありそうです。この本を読んでみると、なるほどというのがよくわかります。
 昔と違うのは、時間のとらえ方もそうです。「第2章 文化・異文化に気づく」で取り上げられている講演の時間では、「聴衆を待たせておくと、聴衆は何か偉大なことが起こるのではないかと期待するものである」と書いてありますが、それは昔はあったかもしれませんが、今では時間通りに開演しないとブーイングです。「正客が顔を見せるのはできるだけ遅らせるのが東洋流」だなんて考えは、今ではまったくありません。
 それでも、読んでいて興味深いのは、いくら時代が変わったとしても変わらないようなものです。ところがそれでも、日本人と英米人との違いはあります。
 たとえば、日本人は「シャンとしろ!」という意味で、「褌を締めてかかれ!」といいますが、英米人は「くし下を引き上げろ!(Pull up your socks!)」というそうです。また、日本人は「青年時代、彼はその日暮らしの生活をしていた」と表現するとき、英米人は「手から口へ(In his young days,he lived a hand-to-mouth existence.)」というそうです。この手から口へという表現は、いかにも手で稼いだお金をすぐに食費にまわすという余裕のなさを表して、とてもおもしろいと思いました。
 数多くのイディオムが取り上げられていますが、ちょっと似通ったものもあり、たとえば英米人が「空中を歩いている(I'm walking on air.)」というのは、文字通り「うれしさで足が地につかない」ことです。これなどもいい表現です。
 日本人はよく親指と人差し指でまるをつくって「お金」をあらわしますが、これはアメリカの人の場合は親指と人差し指でまるをつくって他の三指を軽く伸ばし手のひらを相手に向けて、比較的高く構えるそうです。この意味は、「うまくいった」とか「完璧」ということを意味するそうです。では、お金はどう表現するかというと、英米人は親指の腹と人差し指・中指の腹をすりあわせるのだそうです。
 こう見ていくと、日本人と英米人との身ぶり・行動パターンの違いはあります。それをある程度理解しないと、とんでもない間違いをしてしまうかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、手を使って数を数えるときの仕方です。これなども、海外旅行に行くときなどには重宝するかもしれません。でも、今は、計算機ですませてしまうことも多いようです。
(2014.5.30)

書名著者発行所発行日ISBN
新版 日本人と英米人ジェイムズ・カーカップ/中野道雄大修館書店2014年1月20日9784469245837

☆ Extract passages ☆

 日本人は、数を数えるとき、‥‥まず、どちらかの手のひらをひろげ親指を折り曲げる。これが「1」である。人差指・中指・薬指・小指と曲げていって、「5」でこぶしをにぎった形になる。次に、小指を伸ばして「6」になり、順次指を伸ばして「10」で元の形にもどる。これがもっともふつうの数え方であろう。
 ところが、英米人は、このように器用に指を折り曲げできない。彼らのもっともふつうのやり方は、まず左の手のひらをひろげる。右手の人差指で、左手の親指から順に数えていく。「6」になると手をかえて続ける。このほかに、拳をにぎり親指から一本ずつ指を立てて数える人もいる。「6」で手を変えて親指を伸ばし、以下同様にし、「10」で両手の指が伸びた形になる。どちらの場合も、小指から始める人 もある。しかし、このように指を使って数を数えるのは英国人にはこどもじみて見える。日本人は、俳句を作るときなど、また「指折りかぞえて待つ」という表現もあるごとく、大人がしてもごく自然な動作である。
(ジェイムズ・カーカップ/中野道雄 著 『新版 日本人と英米人』より)




No.955 『人間は治るようにできている』

 副題は「長生きしたければ薬は飲むな」です。
 たしかに最近は、今まで聞いたこともないような病名もあり、こんなにも医学が発達しているのになぜ、と思ってしまいます。平均寿命も長くなり、それは医学と新しい薬のおかげだと思っていたら、この本では、それは違うということらしいのです。それで読んでみました。
 たとえば、抗生物質についても、「私たち人間には無数の微生物が寄生し、ともに生かし、生かされるという絶妙な関係を築き上げてきた。その微生物を全部殺してしまう力を持っているのが抗生物質。今後、胃のピロリ菌除去療法が、おかしな奇病を生み出してくる可能性も大いに考えられる。」といわれれば、なんとなくその通りではないかと思います。たしかに、抗生物質が開発されたから結核による死亡率は激減したといえますが、なんでも抗生物質を使うことには、やはり抵抗があります。
 そういえば、「はじめに」のところで、『病気の根本原因がストレスにあることさえ理解できれば、病気を治せる唯一の存在は自分自身であることがわかる。そもそも、人間は自分で病気を治せるようにできていて、その治ろうとする力を最大限に高めていくのが、「自分で治す」という気持ちなのである。それが、神が人間に与えた病気の治し方であり、治ろうとする力のもとで医者が関与できるのは、ほんの5%程度のお手伝いにすぎないと、私は考えている。』といいますが、医者が関与するのは5%というのはどうかと思います。でも、それ以外は、なるほどと納得できます。
 自分で自分の病気を治すという気持ちがなければ、どんな名医でも病気を治すことは難しいと思います。病気の当の本人が人任せでいいわけはありません。
 この本のなかで、ガン治療に関してはちょっと迷うところがありますが、アトピーに関してはその通りのように思います。もし、自分がアトピーなら、合成副腎皮質ホルモン剤は使いたくありません。この本には、「ステロイドを切らないとアトピーの治癒は始まらない」と書いてありますが、そのリバウンドの怖さを初めて知りました。これでは、麻薬の禁断症状と同じではないかとさえ思いました。
 下に抜き書きしたのは、白血球の大切さを書いたものです。白血球は、顆粒球とリンパ球、単球(マクロファージ)とに大別されるそうですが、顆粒球とリンパ球の数と働きは自律神経が調整しているのだそうです。でも、体が治ろうとするときには、なぜか単球も動くそうで、やはりどれもが大切な働きをしているということみたいです。
 大きな活字で書かれていて、とても読みやすいので、あまり薬に頼りたくないと思う方には、とても参考になる考え方だと思います。
(2014.5.28)

書名著者発行所発行日ISBN
人間は治るようにできている福田 稔マキノ出版2013年12月21日9784837671992

☆ Extract passages ☆

 リンパ球数には、その比率とともに白血球総数が関係する。健康な人の白血球数は通常5000〜7000個に保たれるが、長寿者には総じて白血球数が多いことから、白血球の数は生命力を表すものと私は理解している。
 いい換えれば、免疫の「力」を示すのが白血球の数で、顆粒球とリンパ球の比率は免疫の「質」を示す。免疫の質がよくても、力が足りない場合は病気を防ぎきれないが、逆に免疫に力がある場合は、免疫の質が落ちても白血球の数をふやして必要なリンパ球数を確保することができ、長寿に結びついているのだろう。
(福田 稔 著 『人間は治るようにできている』より)




No.954 『息子がドイツの徴兵制から学んだこと』

 この本は、ドイツ人と結婚し、ミュンヘンで生まれた息子、茂・ベンジャミンさんがドイツの徴兵制から学んだことを母親が見聞き感じたことを書いたものです。日本には、このような徴兵制がないので、ある意味、とても参考になるかと思い、読み始めました。
 どこの国でも同じだと思いますが、昔は徴兵制というとなんとかそれから逃れたいといろいろなことをしたと伝え聞いています。この本でも、「以前は何とか合格しないようにと、病気の症状が出るように何かを飲んだり、数日間不眠状態のままで行ったり、化粧して女装で出かけたり、精神障害を装ったり、ひどいアレルギーがあり喘息が時々出るとか、骨の問題があるとかという偽の病気診断書を提出したりと大変だったという。」と書いてあり、おそらくどこの国でも同じようなことが行われていたのかと思いました。ところが、ドイツでは2011年7月1日から軍事役務とあわせて社会福祉施設などでの非軍事役務も停止され、徴兵制そのものは残っていますが、志願制が導入され、新しく男女ともにその対象になったそうです。
 ということは、今では実質的な徴兵制は見られないので、この本のような半強制的な徴兵制の心の葛藤のようなものはなくなっているようです。だから、むしろ参考になることがありそうな気がしました。
 ドイツ人というと、とても質実剛健でなんでもきちんとしている印象がありますが、たとえば整理整頓も、自己管理能力の1つと考えられているそうです。この本にも、訓練のなかで、「すべての物は決められた場所に置き、そのチェックもある。真夜中にチェックの指令が来たら暗闇の中でもすぐに何がどこにあるかわからないと大変なことになる。短時間で着替えと準備が出来なく、何かを探すのに時間がかかるようでは兵士として失格になるのだ。1人でも乱れたロッカーがあると、全部出されて全員やり直しの連帯責任となる。仲間に迷惑をかけないためにも、誰もが気を使うことになるわけだ。」とあり、もしかすると国民性だけでなく、このような徴兵制のなかにもドイツ人らしさが生まれるきっかけがあるのではないかと感じました。
 たしかに、身の回りや頭の中の整理整頓ができていれば、いつでもサッと対処できますし、無駄な時間もストレスもなさそうです。これはぜひまねをしたいと思いました。
 この本を読んでみて、本人が徴兵制で体験したことより、それを端で見ていた母親だからこそわかる部分もあると思いました。下に抜き書きしたのは、著者が息子の徴兵前と後で感じたことを書いた部分です。なるほどと思いながら、すべての人が同じように感じるものでもないのではないかと思ったことも事実です。ぜひ、機会があれば読んでみて、自分で判断してみてください。
(2014.5.25)

書名著者発行所発行日ISBN
息子がドイツの徴兵制から学んだこと(祥伝社新書)永冶ベックマン啓子祥伝社2013年12月10日9784396113520

☆ Extract passages ☆

 この徴兵期間で、息子はまったく新しいアイデンティティを確立したようだ。
 この徴兵が終わると、誰も指令のない自由の世界に戻り、戸惑う時期があるそうだが、時間とともにそれが本当に自分を助ける訓練だったことに気がついて、自発的に変化成長していくという。徴兵制以外でも、野生に富む自然の神秘な世界の体験、グループで行なうスポーツなどでも、規律や、仲間意識、五感や直感力、創造性を鍛え伸ばすことは確かに出来る。
 しかし、徴兵の中で学ぶことは、プログラム化されて検討改良を重ねられて来ている長い歴史があり、より真剣で、多面的でスケールが大きく国が国民のために行なう学校での人材教育でもあり意味が深い。
(永冶ベックマン啓子 著 『息子がドイツの徴兵制から学んだこと』より)




No.953 『辞書から消えたことわざ』

 ことわざは、時代によりころころと変わらないと思っていたのに、変わるそうです。でも、考えてみれば、使わなくなった物や言葉がなくなれば、それで表していたことわざもなくなってしまうことは当然です。
 たとえば、「錦にくるまるも菰(こも)を被るも一生」といっても、この菰がわからなければ意味は通じません。つまりは、「きらびやかな錦織を身に着けて豪勢に暮らしても、反対に粗末なムシロを被って惨めに過ごしても、どちらも同じ一生だということ」です。これは、今でも使う「泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生」と同じようなことわざです。
 今でもそのまま使えそうなことわざは、たとえば、「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」というのがあります。この意味はそのままで、「叱るのが三度、褒めるのが五度、そして教えるのを七度やって、やっと子供は育つというもの」です。でも、ある道歌に「可愛くば五つ教えて三つ褒めて二つ叱りて善き人にせよ」というのがあるそうです。どちらかというと、こちらの最初に教えるというのが流れ的にには順当なような気がします。「まず教え、そして褒める点を褒め、その上で過ちを正そう」ということがやはり教育の基本です。
 だから、この本に出てくるような『辞書から消えたことわざ』でも、ちょっと解釈を付け加えれば今でもちゃんと通じるものがたくさんあります。消えたそのままにしておくのは、いかにももったいないと思います。
 たとえば、この冬も厳しかったのですが、この雪国だからこそわかるということわざもあり、たとえば、「老いたる馬は雪にも惑わず」というのがあり、「多くの経験を持つ者は物事の判断や考えに誤りがないという意」です。これに似たものは『平家物語』にもあるそうで、「老いたる馬ぞ道を知る」という句です。
 下に抜き書きしたのは、この雪つながりで「雪と良くはつもる程道を忘れる」というものの解説です。新潟では雪を「ヨキ」と発音すると書いてありますが、今度、新潟県の人と会ったら、ぜひ聞いてみたいと思っています。
(2014.5.23)

書名著者発行所発行日ISBN
辞書から消えたことわざ(角川SSC新書)時田昌瑞KADOKAWA2014年3月25日9784047316348

☆ Extract passages ☆

雪が積もると道が失われて厄介なことになって困るが、同じ積もるものでも、欲望が嵩むのはもっと厄介だ。いくら積もっても雪には限度があるが、欲望は「欲に限りなし」「欲の山の頂なし」といって限度というものがない。また、「欲に耽る者は目見えず」といい、欲で目がくらんだ者は、ことの善悪や理非がわからなくなり自己を顧みることもできなくなるし、ついには、「欲は身を失う」といい、身の破滅を招 くことになるのだ。
 見出しの句にある「道」は、雪道と人として歩むべき道が重ねられている。これは新潟地方にみられることわざ。新潟では雪をヨキと発音するので、欲にヨキが掛けられて語調が整い耳響きのよいことわざとなっているが、こうした技巧的に優れた点以上に雪国ならではの郷土色のある表現として印象深い。
(時田昌瑞 著 『辞書から消えたことわざ』より)




No.952 『ダメ出しの力』

 『なまえのチカラ』の後で、「チカラ」つながりで『ダメ出しの力』を選んだわけでもありませんが、これはまったくの偶然です。
 よく、テレビなどでもダメ出しという言葉を使っていますが、この本の説明によると、「ダメ出しとは、もともとは演劇の世界で使われてきた言葉です。役者の芝居に対して、演出家が悪いところを指摘することであり、役者はそれをもとに演技をやり直すことで芝居が作り上げられていきます。最近は日常的に用いられている言葉ですので、研究以外の場面では、ネガティブ・フィードバックを「ダメ出し」という言葉で表しています。」と書いてありました。
 なるほど、だから演劇関係者がよく使っているのだとわかりましたが、でも、このもともとの意味ではとてもよいことです。でも、巷では、良い意味でも悪い意味でも、両方の使い方がされているようです。
 それが気になり、この本を読むきっかけになりました。
 この本のなかでも、「ダメ出しはプラスにもマイナスにも転びうるからこそ難しい」とあり、やはり両方の意味があるようです。でも、これを上手に使えれば、これほとせ効果的なコミュニケーションもないようです。でも、コミュニケーションというのは、この本でうまく説明しているのですが、『コミュニケーションの効果とは、「Aさんが言うことをBさんが受け取り、受け取ったことがBさんに影響する」ということなのです。Bさんに影響を与えているのはAさんの言うことそのものではなく、Bさんが受け取ったものなのです。』。
 つまり、Aさんが言ったことが一番大事なことではなく、Bさんがどのようにそれを受け取ったかということなのです。そこに、コミュニケーションの難しさがあり、ダメ出しの難しさもあるわけです。
 でも、著者は、このダメ出しは日本人だからこそ使いこなすべきだと主張しています。その根拠を、下に抜き書きしました。
 ぜひ読んでみて、日々のコミュニケーションにもこのダメ出しを有効に使いこなしていただきたいと思います。
(2014.5.21)

書名著者発行所発行日ISBN
ダメ出しの力(中公新書)繁桝江里中央公論新社2014年3月25日9784121022585

☆ Extract passages ☆

 ダメ出しをする側がダメ出しの効果を高めるためには、自分のネガティブ感情を抑えたり、相手のフェイスに配慮したり、相手の立場に立つことがポイントでした。これらは、実は、日本人が得意だと言われていることです。コミュニケーションの「適切さ」を重視し、「察し」の文化を持つからこそ、うまくダメ出しができるはずなのです。
 また、ダメ出しをされる側は、成長に繋げるという意識がポイントでした。これも日本人が得意とすることです。なぜなら、日本人は自己改善の動機づけが強いとされているからです。日本企業が常に改善を続けることほよく知られていて、「KAIZEN」という単語が英語の辞書に載るくらいです。さらに、日本人は長期的な思考をすると言われています。ダメ出しに一時的にはネガティブに反応しても、長期的に物事を考えられるのであれば、それを活かしやすいはずです。
 このように、日本人はダメ出しに弱いようでいて、日本人だからこそ、ダメ出し上手、ダメ出され上手になる可能性も持っているのです。
(繁桝江里 著 『ダメ出しの力』より)




No.951 『なまえのチカラ』

 インターネットであることを調べていたら、この本のような「なまえ」を読み込んで書く色紙のサイトがあり、ちょっとおもしろいなあ、と思ったことがあります。そのときには、このようなことを書いて、誰かにあげたらたしかに喜んでもらえるとも思いました。
 そして、何ヶ月か過ぎ、偶然に手にした本がこれでした。そのときと同じ作者かどうかはわかりませんが、内容的には同じようでした。インターネットと違って、本の場合は気に入った箇所をずーっと見ていられます。また、そこから感じるものも、やはり違います。これは紙や製本などの質感の違いだけではなく、なんとなく自分の手の中にある確とした存在感みたいなものです。読めるからいいというものではなく、ページを繰るリズムとか、何行目に何が書いてあったのかとか、紙の本だからこその楽しみがあります。いくら電子ブックが流行ってきたとはいえ、絶対に紙の本はなくならないと思います。むしろ、電子ブックと紙の本の棲み分けみたいなことが起きると考えています。
 ちょっと話しがずれてしまいましたが、この本の題名の「なまえのチカラ」とはなにか、ということを下に抜き書きしました。
 たしかに、自分の名前に自身を持つことはいいことです。だって、勝手に変えることはできないし、むしろ与えられた名前に愛着を持つことが大切です。
 自分でも、名前から連想する言葉を考えてみました。
 せ‥せかいでたった一人の私
 き‥きずなを深めながら
 や‥やじるしみたいに真っ直ぐに
 よ‥よろこびも楽しみも
 し‥しっかりと受け止めながら
 ひ‥ひだまりのようなあったかい心で
 ろ‥ろう(労)をいとわずやっていく
 おそまつでした。まあ、即興だから、こんなもんでしょう!
(2014.5.18)

書名著者発行所発行日ISBN
なまえのチカラ土師彩鶴扶桑社2013年10月10日9784594069315

☆ Extract passages ☆

 名前は両親からあなたへの初めてのプレゼント。
 生まれくる子ともの幸せを願わない親なといるはずがありません。
 あなたの名前は無限にして無償の愛に満ちあふれています。
 同時に、そこにはあなたの運命を幸せへと導くメッセージが込められています。
 生きていると、つらいことや苦しいことが誰の身にも起こります。
 そんなとき、どんなふうに生きれはいいか迷う人も多いでしょう。
 でも、答えはすでにあなたの名前にあります。
 心を落ち着けて自分の名前と向き合い、「なまえのチカラ」を作るだけで、あなたの進むべき道が開けるのです。
「なまえのチカラ」とは、名前の一文字一文字の音を織り込んで作った詩のことです。
(土師彩鶴 著 『なまえのチカラ』より)




No.950 『「城下町」の人間学』

 米沢市も上杉の城下町だし、パラパラとこの本をめくっていたら、最後のところに上杉鷹山公で出ていたので、つい読み始めました。
 読み始めるとそれなりにおもしろく、城下町の歴史的成り立ちに、つい思いをはせてしまいました。私の場合は旧城下に住んでいなかったので、昔は市内に出かけるときには「城下に行く」と言っていました。そのときのことを考えると、まさにこの本に書かれているようなことが現実だったのです。とても今では考えられないのですが、つい半世紀前にはそうだったのです。
 たとえば、高校に通うようになると、年度初めには教科書を買いに本屋さんに行くのですが、それがまた老舗書店で、教科書販売の権利を持っているだけで食べていけるといわれていたようです。ところが、今現在は、ほとんどそれらの老舗書店はなく、全国チェーンの本屋さんになってしまっています。
 また、昔のメインストリートは、現在ではシャッター通りになってしまい、昔のような活気はありません。そういう意味では、この本を読み始めたきっかけも、もしかすると城下町で町おこしをしているところはないかと思ったからでもあります。
 そういえば、この本のなかで、有名な城下町には必ずお菓子屋さんがあると書いていますが、なるほどと思いました。やはり、城下町には茶道があり、それとの結びつきもあるからではないかと思いました。 ところが、それだけではなく、「実は、菓子商を営むのは、本来かなり大変なことであった。もともとが皇室や貴族しか口にできないものであり、菓子商人は京都の中御門家の支配下にあったため、菓子商人はかならず官名=掾国名をいただくことが義務づけられていた」そうです。
 この「掾」とは、律令制四等官のうち国司の三等官を指すそうですから、それなりの立場でないとお菓子も作れなかったということになります。たとえば、虎屋の羊羹は大好きですが、この東京赤坂の虎屋は、17世紀末ごろには「虎屋御菓子司近江大掾」と称していたそうです。そういえば、京都に行ったときに、この「掾」のついたお菓子屋を見つけたことがあります。そのときは、ただの商号だとしか思わなかったのですが、このような深い意味があると知って驚きです。
 まさに、本を読むことは、ワンダーランドです。
(2014.5.16)

書名著者発行所発行日ISBN
「城下町」の人間学岩中祥史潮出版社2013年12月20日9784267019623

☆ Extract passages ☆

 全国各地の旧城下町に行って気づくことの一つに、全体がとにかく「おっとりしている」ということがある。町の構え・つくりを見ても余裕が感じられるし、人々の歩き方もどこかゆっくりしている。「落ち着き」といい換えてもいいかもしれない。東京や大阪などの大都市から行くと、よけいそれが強く感じられる。‥‥
 だが、日本の社会というのは、何をするにつけても、落ち着きが求められていたのではないだろうか。「待てば海路の日和あり」「急いては事をし損じる」「あわてる乞食はもらいが少ない」「残り物に福あり」など、落ち着いて事に臨むことの大切さを説くことわざや格言も多い。
(岩中祥史 著 『「城下町」の人間学』より)




No.949 『和食の知られざる世界』

 著者は、辻調理師専門学校の校長で、辻調グループ代表でもあります。だから、まさに和食の申し子だと思っていたのですが、12歳でイギリスに渡り、その後アメリカで勉強し、証券会社に勤めた経験もあり、1993年に父・辻静雄の跡を継ぎ、現在に至っています。
 だからというわけでもないでしょうが、和食を海外に積極的に発信しており、和食がユネスコの世界文化遺産に指定されるのにも尽力されたのではないかと思います。でも、この本が発行されたのは12月20日で、ユネスコがアゼルバイジャンのバクーで開いた第8回政府間委員会で「和食」という食文化を無形文化遺産に登録することに決めたのは2013年12月4日ですから、おそらく、そこに時間差はあります。実際に、この本を執筆中の2013年10月現在と書いているところから、この本が書かれた後に登録されたということになります。
 この本の最後のところで、茶碗蒸しに「トリュフ」を入れるようになったいきさつが書かれてあり、『例えば、その作業から生まれた人気メニューの一つに「トリュフの茶碗蒸し」がある。もともとブーレイさんは茶碗蒸しが大好きで、「これにトリュフを入れよう」と言い出した。そこで山田君は、トリュフのジュレを掛けて試作。そのときはカロリーを考えて豆乳で茶碗蒸しのベースをつくったのだが、豆乳との組み合わせだと淡泊過ぎる。そこで、「ちゃんとした卵の茶碗蒸しにしなさい」と私が修正を加えた。アメリカの卵は日本の卵のように香りが出ない。だから、トリュフとの相性を良くするためには餌の配合から変えてみる必要があった。』といいます。
 たしかに、伝統的な和食の考え方からすればトリュフの茶碗蒸しなどは邪道かもしれませんが、アメリカのディヴィット・ブーレイさんがトリュフを入れようと提案し、和食の料理人が工夫し、さらに著者が修正をする、というチームワークが大切だと思います。「作り手もお客様に近づき、お客様も作り手に近づいて」と書いていますが、その接点に新しい和食がありそうな気がします。
 和食は、今の世界の料理の流れからすると、その方向性で一致するといいます。それは、「味覚の簡素化」、「量(ポーション)の少量化」、「カロリーの低減化」です。それは料理の簡素化、素材の尊重、軽さの追求を推し進め、これが流れとなっているそうです。
 だとすれば、和食こそ、その流れにぴったりです。
 だからこそ、和食がユネスコの世界文化遺産に登録されたのかもしれません。
 この本を読み、もう一度、和食のすばらしさを味わってみたいと思いました。そして、京都にある「草喰(そうじき) なかひがし」と同じように、おいしいご飯に目刺しをメインに食べたいと思いました。やはり、ご馳走とは、駆けたり走ったり、それなりの努力をしなければあり得ないものなのだと知りました。
(2014.5.13)

書名著者発行所発行日ISBN
和食の知られざる世界(新潮新書)辻 芳樹新潮社2013年12月20日9784106105500

☆ Extract passages ☆

 和食が異文化で成功するために、絶対に必要なものは何か。
 私はそれは「変換力」だと思っている。これがないと、いくら国内で人気の料理でも、この和食ブームにのって世界展開することはできない。どんなに国内で人気のメニューでも、異文化の厚い壁に阻まれてしまう。そんなケースを数多く見てきた。
 このことは、何も料理だけに限らない。料理で言う「変換力」とは、たとえば文学で言えば「翻訳」ということになるのだろう。
(辻 芳樹 著 『和食の知られざる世界』より)




No.948 『スキマの植物図鑑』

 ちょうど今日から、三沢コミセンで『第38回春の山野草展』が開催され、明日までの予定になっています。
 それに先立ち、5月8日には三沢東部小学校の児童たちといっしょに近くの山に入り、自然体験学習をしてきました。すると、この植物の名前は、とか、自然のなかにこんなにもきれいな花が咲いているとはしらなかったとか、いろいろな感想を聞きました。やはり、自然を守ろうといっても、その自然を知らなければその意識も生まれるはずはありません。自然っておもしろい、楽しいという思いがあれば、守ろうという意識が出てくるのだと思います。そういう意味では、このような山野草展を開催することによって、植物を知ったり、それに親しむきっかけにはなるはずです。
 この本は、アスファルトの割れ目、電柱の根本、ブロック塀の穴、石垣など、さまざまなスキマから芽生え、花を咲かせる植物たちを取り上げています。その数、110種をカラーで紹介しています。
 このような狭苦しいところにと思うのですが、それが意外と毎年出るところを見ると、このようなところが好きなのかもしれません。著者は、「こうしたスキマはじつは植物たちの楽園なのだ」と言い切っています。
 でも、このスキマの植物たちだけで1冊の本を書くのですから、すごいと思います。また、このアイディアにはびっくりです。
 そういえば、10数年前に、鉢植えの中に石を組み、山野草を植えたことがあります。というのは、そうすることによって、水はけが良くなり、石の下などは日陰で水持ちが良くなるかと思ったからです。植物は停滞水を嫌いますが、でも、水分は必要です。その二律背反を同時に満足させようと考えたのです。
 それは意外と良く育ち、見栄えも自然に近く良かったように思います。
 考えてみれば、それはまさにスキマでした。
 だから、スキマも住み心地はいいのかもしれません。何より、他から進入してくることも少なそうです。そう考えれば、著者が言うように「楽園」なのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、なぜこのスキマが楽園なのかという説明です。このように詳しく説明されると、なるほどと思います。
 この本は、題名通り、1種の植物図鑑です。世の中には、このような特化した植物図鑑もおもしろい、と思いました。
(2014.5.10)

書名著者発行所発行日ISBN
スキマの植物図鑑(中公新書)塚谷裕一中央公論新社2014年3月25日9784121022592

☆ Extract passages ☆

隙間に生えるということは、過酷な環境への忍耐などではなく、‥‥むしろ天国のような環境の独り占めなのだ。
 なぜなら植物は、陽光を受け、水と二酸化炭素とを原料に、糖分を生み出す生きものである。この糖分が、植物のからだの元手。その原料の一つである水は、日本のような雨の多い環境なら、それほど困らず手に入る。二酸化炭素は昨今、各種報道にある通り、むしろ増えすぎているくらいで、空気さえ通えば不自由しない。ここで困るのが、光だ。屋内で育てられている植物を例外とすれば、植物は、太陽の光を唯一の光エネルギー源としている。太陽の光は頭上から射すため、ひとたび他の植物や建物の影に入ってしまうと、とたんに植物はその栄養源を得るのが難しくなってしまう。‥‥
 ところがである。アスファルトの隙間のような環境には、この競争をせずに済むという利点がある。というのも、隙間の周りは一面、アスファルトの舗装だからだ。‥‥だから、隙間に入り込むことに成功した瞬間、その植物は、そのあたり一帯の陽光を独り占めできる利権を確保したことになる。これほど楽なことはない。
(塚谷裕一 著 『スキマの植物図鑑』より)




No.947 『書き出しは誘惑する』

 ゴールデン・ウイークなので、あまり難しいものより、軽く小説でも読もうかと思ったのですが、最近小説をほとんど読んでいないことに気づきました。昔はだいぶ読んでいたのに、と思いながら本屋さんの本棚を見ていたら、この本を見つけました。たしかに、小説の書き出しは独特の雰囲気があり、とても印象深いものもあります。
 今まで、雪に悩まされてきたこともあり、川端康成の『雪国』の冒頭部分の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」などはすぐに思い出されました。また、夏目漱石の『吾輩は猫である』という題名通りの「吾輩は猫である。名前はまだない。」や、同じ夏目漱石の『草枕』の「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」などというのは、とても箴言的でおそらく誰でもすぐに思い出されることと思います。
 ちょっと考えただけでも、すぐに頭に浮かぶ小説の書き出し部分はたくさんありそうです。でも、おそらく、小説家が一番悩むのはこの部分ではないかと思います。それほど、書き出し部分は重要だということでもあります。この本の副題は、「小説の楽しみ」であり、なるほどと思いました。
 でも、翻訳本の場合は、その翻訳者によって当然違うわけで、たとえば、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、新しい研究成果を生かした訳業もあるそうで、この本では4冊取り上げられています。それぞれに味がありますが、日本文は違うので、どうも勝手が違います。
 著者は、最後の最後に、なぜこの「書き出し」にこだわってきたのかを「それは書くことによって息を吹きかけられ、動き始める言葉に立ち合いつつ、小説という虚構装置の招く楽しみを更新するためなのである」と書いています。だから、それが誘惑という題名になったようです。
 そういえば、この題名というのは、ある意味では「書き出し」より先に目につくもので、それも書き出しといわれればそのような気がします。この本で知ったのですが、この題名が長い作品というのは、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』だそうです。それは、「ヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの人生と不思議にして驚くべき冒険。この人物はアメリカ大陸の沖合、大オリノコ川の河口近くの無人島にたった1人、20と8年間暮らした。船の難破で岸に打ち上げられたが、クルーソーをのぞいて全員が絶命。さらに不思議にも彼がどのように海賊から救われるに至ったか記録したものである」というそうです。これは有名なことらしく、「ウィキペディア」にも書かれていました。
 これでは、本の題名をおぼえるだけでも大変です。
 下に抜き書きしたのは、著者がとりわけ若い読者にぜひ伝えたいことだそうです。ちょっと長いのですが、引用させていただきました。
(2014.5.7)

書名著者発行所発行日ISBN
書き出しは誘惑する(岩波ジュニア新書)中村邦生岩波書店2014年1月21日9784005007639

☆ Extract passages ☆

 〈背伸びする読書のすすめ〉。時には少し難しいと感じられる本に挑む読書こそ大切だと思う。口当たりのいいものだけでは、滋養にならない。歯ごたえのあるものを咀嚼するうちに、読書のスタミナがつく。こうした読書の積み重ねで身につける思考力や感性の経験知は、人生のさまざまな応用問題に直面したとき、意外にタフな対応を可能にするのだ。
 〈読み行為の身体化を心がけよう〉。どういう意味か? ある小説といつどこで出会ったのか、その具体的な遭遇の場面をなるべく記憶しておくのだ。本文中であえて私の個人的なエピソードにしばしば言及した理由でもあるのだが、その小説を読んでいた時や場所を覚えていると、自分の人生のある時期に、ものの感じ方や考え方がリセットした起点のようなものを自覚できる。開いていた本からふと顔をあげ、小説の世界を移りゆく風景に溶かし込むようにして、また読書を続ける。必ずしも旅先の読書とは限らない。図書館の窓から見える夕暮れに影を濃くしていく木々の梢でも、電車のなかで中吊り広告をぼんやり見つめている中年の男の横顔でもいい。そうした生きられた時間に寄り添った読書は、身体の奥に沁み込むように記憶されるはずだ。時に小説によって揺れ動く感情や思念とともに、風景も身体もー体となって鳴り響く瞬間がおとずれる。
(中村邦生 著 『書き出しは誘惑する』より)




No.946 『「生き場」を探す日本人』

 著者の下川裕治といえば、なんとなくバックパッカーというイメージがあり、とくに東南アジアと強く結びついているように思っていましたが、この本の舞台もタイが中心です。
 どうも、日本での生き場が見つからず、ついついたどり着いたのがタイというのが多いようで、6つの中心人物が取り上げられています。でも、私自身はタイの国内は歩いたことがなく、いつもバンコクの「スワンナプーム国際空港」でトランジットするだけです。でも、この旅客ターミナルビルの総床面積は世界一だそうで、563,000平方メートルもあるそうです。道理で、空港内で迷ったことがあるはずです。
 でも、ここに登場する人たちは、昔からのタイというイメージがぴったりするようで、いわば場末の感じです。
 たとえば、この本に登場するある一人は、『バンコクはアメ横のような街に映った。街にはエネルギーが満ち溢れている。亜熱帯の暑さと人々の熱さに圧倒された。これが東南アジアなのかと思った。アメリカとはまるで違う……。タイ人に親近感を覚えた。同じアジア人だったからだろうか。欧米人のなかにいるような緊張感もなかった。タイ人の懐の深さというようなものも漠然と感じていた。そのせいだろうか。「またここに来るかもしれない」という気がした。確たる根拠もなく、そう感じていた。実際、その翌年から何回かタイを訪ねることになる。アメリカを旅していたときには味わえなかったような居心地のよさがタイにはあった。昼どき、オフィス街の通りを歩く。そこかしこに会社員風の男女が溢れている。露店で買い食いをしたり、商品を冷やかしている。皆、とても楽しげだ。日陰に目をやると、いい年をした男たちがゲームに興じている。バイクタクシーの運転手だった。そのゆるさに惹かれた。昔の日本人を思わせるタイの女性に魅力も感じはじめていた。「ここなら住めるかもしれない」。いつしかそう考えるようになっていた。その気持ちが「住んでみたい」に変わるのに時間はかからなかった。』と言っています。
 どちらかというと、ゆったりした時間の流れる昔の日本みたいです。しかも、「タイの社会ほ、日本と違い、年齢を気にしない。七十歳になったからそろそろ引退……といった発想もない。だいたい、相手の年齢など知らないのだ。」というから、ある程度、年齢を気にする年代の人にとっては、とっても気楽になれそうです。
 それと、以前はバンコクというと観光が主流でしたが、最近では「バンコクを拠点にする欧米人も増えている」のだそうです。この本にも、「以前、バンコクにアトリエをもつアメリカ人アーティストに会ったことがある。彼は年に2回、ユーヨークで個展を開いているが、その作品をバンコクでつくっている。まだ名の出ていない彼にとって、アトリエ代が安く、満足とはいえなくても、そこそこ欧米風の生活ができるバンコクの費用対効果は高かった。彼のようなアーティストが、続々とバンコクにセカンドハウスを構えたり、拠点を移しているのだという。」とあり、だいぶ変わりつつあるという印象です。
 下に抜き書きしたのは、このような状況を考えると、日本人も以前と同じようなものの考え方では通用しなくなったということです。
 この言葉は、著者がアジアの路上で考えていたそうです。
(2014.5.4)

書名著者発行所発行日ISBN
「生き場」を探す日本人(平凡社新書)下川裕治平凡社2011年6月15日9784582855920

☆ Extract passages ☆

 経済的に突出した日本という国がかつてあった。日本はアジア人にとって憧れの国だった。しかしいま、等身大の日本を皆が理解しはじめている。その軌道修正がいちばん必要なのは、豊かな国だと思っていた日本人自身かもしれない。
(下川裕治 著 『「生き場」を探す日本人』より)




No.945 『不思議な薬草箱』

 この本は、「あとがき」を読むと、『魔女の薬草箱』の姉妹編のような位置づけだそうで、道理で付録として「ドイツの薬草園と魔女迫害の跡地を訪ねる」がありました。でも、好みとしては、どちらかというと「薬草園」を知りたかったというのが本音です。
 副題は「魔女・グリム・伝説・聖書」で、著者はモアビートプロモーションの「ドイツセミナー」の講師をされているそうです。
 読んでみると、キリスト教や聖書のこともいろいろと書いてありますが、それらと植物、とくに薬草との関わりが詳しく書いてあり、とてもおもしろかったです。
 また、ときどき取材旅行もされているらしく、『昔、ドイツの田舎道をタクシーで走っているとき、両側にリンゴの木が植えられていて、ちょうど薄桃色の花がまっさかりだった。その時に運転手から聞いた話だが、「昔のドイツでは、親方(マイスター)になるために、多くの若者がいい親方を探して修行の旅をしたんだ。彼らが旅の途中でお腹が空いたときに食べられるように街道にリンゴの木を植えたのだよ」と言う。ちょっといい話だと思った。』とあり、ほんとうにドイツらしい良い話しだと思いました。
 また、このリンゴにはいろいろなエピソードもたくさんあり、アダムとイブの話しや白雪姫、そしてウイリアム・テルの話しなど、すぐにでも思い出されるのが多いのですが、ビートルズの管理会社である英Apple Corpsや米Apple Computerなどのアップルもあり、リンゴとの関わりがいかに深いかを現しているようです。
 下に抜き書きしたのは、ボダイジュでも西洋ボダイジュで、シナノキ科の木です。この本には「コバノシナノキ」と「ナツボダイジュ」の自然交配種だと紹介されていますが、インドのお釈迦さまの悟りを開いたときのボダイジュはインドボダイジュで、クワ科の木です。日本のボダイジュは、シナノキですから、同じボダイジュといっても、なかなかややこしいものです。
 ところが不思議なことに、インドでも、このボダイジュの下で裁判が行われたそうで、そういう意味では、似たような役割を持っていたことになります。
 しかも、今でも町の中心部にあり、市民の憩いの場になっていて、大きな木がたくさん残っています。
 この本を読みながら、薬草の使い方なども、意外と似ているところもあり、それを考えながら読むと、東西の接点がありそうにも思いました。
(2014.5.1)

書名著者発行所発行日ISBN
不思議な薬草箱西村祐子山と谿谷社2014年3月10日9784635810104

☆ Extract passages ☆

ボダイジュは愛の木だけでなく、厳粛な面も持っている木である。古代の裁判はボダイジュの木の下で行われたという。そういう木を「グリヒトリンデ(裁きのボダイジユ)」と言う。ヴェッツラー(ドイツ中部)近郊のアーメナウの丘にこう名づけられたボダイジュの木があると知って、物好きな私はあるとき出かけで行った。
 村のまわりは一面畑で、その畑の真ん中に小高い丘があり、そこに大きな樹が一本立っている。高さ30メートル、幹回り4メートル。三十年戦争(1618年〜1648年)の頃、この木の下で村人が裁かれたという。どんな被告たちだったのだろう。魔女もいたのだろうか。容疑は何だったのだろうか。ボダイジュの木を見あげていると、想像が膨らむ。
 また、ボダイジュには避難所(アジール)の役目があるともいう。そこに逃げたら世俗(国家)の権力が及ばない場所をアジールと言う。教会や聖地がそれにあたり、ボダイジュの木の下もそういう場所の一つだったという。菩提樹に仮託された愛と裁きと保護、どれも私たちが生きていくうえで必要なものなのだ。
(西村祐子 著 『不思議な薬草箱』より)




No.944 『あと1%だけ、やってみよう』

 著者はドーンデザイン研究所を設立し、現在も不動産広告のパース絵や家具や建築などのデザインを手がけています。私が知るきっかけになったのは、JR九州の「ななつ星」を手がけたデザイナーだったことです。それは昨年の10月15日、12時47分博多駅を出発した「ななつ星」です。でも、これだけのお金をかけて、たった28名しか乗れない車両で、はたして採算が合うのかどうか、それの方が心配でした。もしかすると、採算を度外視下したプロモーションではないかとさえ思いました。
 でも、この本を読み、JR九州の経営戦略の流れの一環だと確信しました。その流れをつくったデザイナーが、この本の著者です。そして、この本で、「私の仕事哲学」を披露しています。
 おそらく、本の題名になったのは、「これまで車両をはじめとするデザインに携わってきて、いや、パース画時代からも含めて、ひとつわかったことがあります。それは、私たち自身はもちろん、メーカーの 人をはじめ参加する人全員が、いまの能力を1%上げれば、多くの問題は解決するということです。」といいます。つまりは、リーダーが「みんな、1%上げようよ」と言えるかどうかです。
 同じ1%でも、下に抜き書きしたような考え方もあり、デザイナーの奥の深さを感じました。そして、それは気持ちの上にも現れると著者はいいます。たとえば食器を選ぶときも、「気持ちというのは、その人の着ているもの、顔つき、プレゼンテーションをする場、出すお茶、そんなものすべてに表れるものです。その大きな窯元が私たちを招いたのは、工場の中にある大きな会議室でした。一方、清六窯の方は、小さい工房だったけれども、素晴らしい茶器、お菓子でもてなしてくれた。それが気持ちなのです。」と書いています。つまりはやる気という情熱です。
 それとおもしろいと思ったのは、近頃は目利きといわれる人や遊び人がいなくなってきた、それが今の日本の問題点だという指摘も、なるほどと思いました。たしかに著者がいうように「米仕事、花仕事」というような生活するためや仕事をするための稼ぐ仕事も大事だが、すぐにはお金にならなくても次世代のためにやっておかなければならないことをやる、というのも大切だと言い切ります。これは本当に大切なことだと思います。
 また、このようなことができる、あるいはわかるようになるためには、若いときに5年か10年でも死にもの狂いで働く期間があった方がいいと言いますが、これはたしかにその通りだと思います。ある程度歳を重ねると、踏ん張りがきかなくなるし、徹夜でさえもできなくなります。もう、できるとかできないというよりも、体がいうことをきかないんです。だから、その前に、できるだけのことをしておく、ということでもあります。
 この本は、読んでもいいし、デザイン画や写真を見ているだけでも楽しめます。そして、一つの企画が形をなすためには、これだけの時間と労力がかかるのかと今更ながら思いました。
 もし、機会があれば、ぜひ読んでいただきたい1冊です。
 ちなみに、JR九州が企画・実施するクルーズトレイン「ななつ星in九州」は、第4期(2014年8 月〜11月出発分)の予約も即日完売状態で、とても好評のようです。では、自分も乗るかというと、金額的なこともありますが、並んでまで乗りたいとはまだ思いません。
(2014.4.30)

書名著者発行所発行日ISBN
あと1%だけ、やってみよう水戸岡鋭治集英社インターナショナル2013年11月30日9784797672565

☆ Extract passages ☆

 99%理屈で固めたうえに、最後の1%で感性を入れる。センスで魔法をかける。人に見えるところはその最後の1%だけだったりするから、最初は、その魔法の1%が素晴らしいとみんなの目に留まって褒められるわけです。けれどもそれは氷山の一角にすぎず、水面下には99%が埋もれているのです。努力したものがそこに詰まっているのです。
 だから、最後の1%は、最後のひと振りとなるわけですが、そこを私たちは間違ってはいけない。たとえ、偉い社長が言っても、町長が意見してきても、おかしいことはおかしい、無理なことは無理と、はっきり言わなければならないのです。そうしないと、せっかくたくさんの人が頑張った99%の仕事が台無しになってしまうのです。
(水戸岡鋭治 著 『あと1%だけ、やってみよう』より)




No.943 『読む時間』

 本には訳者として渡辺滋人の名前が出ていますが、おそらく、訳したのは最初の「新版へのまえがき」と最後の「作品一覧」だけではないかと思います。ということは、この本は写真集だからです。
 巻頭詩として、谷川俊太郎の「読むこと」が載っていて、それがこの本の写真を言葉で補っているようです。表紙に載っている写真は、1959年10月17日にコネチカット州のニュータウンで撮ったもので、薄いレースのカーテンが風で揺らめき、その手前に置かれたテーブルの上には鳥の置物と読みかけの本があり、その本にはレースのカーテンを通したやわらかい太陽の光があたっています。なんともさわやかな時間が流れているようで、こんなところでゆっくりと本が読めればいいなあ、と思います。
 谷川俊太郎の「読むこと」という詩の一節「いまこの瞬間この地球という星の上で いったい何人の女や男が子どもや老人が 紙の上の文字を読んでいるのだろう 右から左へ左から右へ上から下へ(ときに斜めに) 似ても似つかないさまざまな形の文字を 窓辺で木陰で病床でカフェで図書室で なんて不思議…あなたは思わず微笑みます 違う文字が違う言葉が違う声が違う意味でさえ 私たちの魂で同じひとつの生きる力になっていく しばらく目を木々の緑に遊ばせて あなたはふたたび次のページへと旅立ちます」と書いていますが、まさに本を読むのは旅立ちと同じような気分です。
 この本の写真のなかで、ここでなら読んでみたいと思ったのは、1963年にパリで撮った1枚で、詳しい場所はわかりませんが、おそらくセーヌ川沿いの木の下で、たった一人で足を投げ出して読んでいるところです。川面を渡るさわやかな風を感じならず、ときおりそれらの風景に目を休ませ、また読み始めるというゆったりした時間の流れに身を任せられるのは気持ちのいいものです。
 もう1枚は、1962年7月18日にブエノスアイレスのレサマ公園で撮ったもので、老人がベンチに深々と腰を下ろし、静かに本を読んでいるところです。おそらく、午後の斜めから差し込む太陽の光も本を読むのに強すぎることもなさそうです。柵に囲われたかどで、その上に飾り付けられている大きなテラコッタにも植物が植え込まれ、周りの木々からも植物の香りが伝わってきそうです。
 どの写真にも、物語が感じられ、つい何回も見てしまいます。
 ただ、ここに掲載して、この写真はといえないのがちょっと残念です。文章なら少しの抜き書きもいいのでしょうが、写真はそれそのものが著作物です。
 だから、もし興味がありましたら、ぜひ購入して見ていただきたいものです。白黒写真ならではの、とても雰囲気のあるものばかりです。一番古いのは1915年のハンガリーのエステルゴムの写真ですが、「新版へのまえがき」の一部を抜き書きさせていただきました。これで、この写真集の概要がわかるかと思います。
(2014.4.27)

書名著者発行所発行日ISBN
読む時間アンドレ・ケルテス創元社2013年11月20日9784422700601

☆ Extract passages ☆

 この小さな本は1971年に最初に出版され、ケルテスの代表的な作品集の一つとなっている。1915年から1970年までの間に撮影された作品一つ一つの中で、あらゆる暮らしぶりの人々が読むときに見せる、きわめて個人的だが同時に普遍的でもある瞬間をケルテスはとらえようとした。屋上で、公園で、混雑する街角せ、学芸会の舞台の袖で――考えられるあらゆる場で、写真家のイメージはこの孤独な行為の力と喜びを称える。
 キャリアを積んで、ついにはメディアの歴史上最も創意にあふれ、影響力のある、多産な写真家の一人として認められ、個人作品集だけで20冊以上を世に出したケルテスだが、この親しみやすい小さな本は彼自身のお気に入りの一冊であり続けた。
(アンドレ・ケルテス 著 『読む時間』より)




No.942 『多種共存の森』

 飛行機の上から見ると、日本の森は名ばかりのようで、あちらこちらにゴルフ場があったり、杉や檜などの単一のものだったり、ちょっと画一的な感じがしていました。この本を読んで、いかに多種類の木々が共存できる森がいいのかを痛感しました。
 副題が「1000年続く森と林業の恵み」とありますが、これはおそらく本の中にも書かれてありますが、20年ごとの式年遷宮のおこなわれた伊勢神宮の森を2003年に見たときの印象から1000年という年月が生まれたように思います。この本には、『伊勢の宮城林は大径木が枯渇した後も、江戸時代の「お伊勢参り」の客のために、薪炭林として酷使された。そして禿げ山同然になり、そのため神宮の中を流れる五十鈴川は氾濫し、江戸から大正にかけて伊勢の町は洪水が頻繁に起きるようになった。大正7年の大洪水を機に、神宮司庁内に本多静六ら当時の著名な森林学者を招き森林経営計画がつくられた。大正12年に策定された三つの方針は、1.神宮に相応しい景観の保持、2.五十鈴川の水源滴養、3.遷宮用材の確保であった。』と書かれてあり、この3つを同時に達成することを90年以上も前に目標としていることに驚いたといいます。
 やはり、なんらかの契機があったからこそ、その対応をしたということで、この場合には度重なる五十鈴川の氾濫でした。でも、森を再生するというのは100年以上もの年月が必要で、むしろこの本の題名にあるように1000年も続く森を目指すことが望まれます。
 この本のなかに、曲がったシラカンバの並木を見たことがあると書いていますが、ここを読んだときに、自分がシラカンバの実生をして、小町山自然遊歩道に植えたときのことを思い出しました。なぜ植えたかといいますと、シラカンバのまっすぐな白い幹の根元に青々としたシャクナゲの葉がある風景を夢見たからです。ところが、北海道から種子を取り寄せ実生し、それを何年か鉢植えで大事に育て、それから小町山自然遊歩道に植えました。ところが、なぜかまっすぐには育たないのです。あの高原のような雰囲気にはならないのです。なぜなのだろう、とだいぶ考えたのですが、そのヒントさえ思い浮かばず、そのままになっていました。それが20数年ぶりにわかったのです。
 この本には、「人工植栽で危倶されるのは形質の悪い木が残ることである。幹が曲がっているシラカンバの並木を見たことがある。天然林では見られないことだ。多分、西畑で大事に育てた苗は天然更新した 実生に比べほとんど競争を経ていないため形質の悪いものも生き残ったのだろう。天然更新したシラカンバはタネから成木になるのは数十万分の一以下である。厳しい競争に勝ったものだけが生き残る。そ のため天然林では形質の悪いものは淘汰され真っ直ぐなものが多い。また、密度が高いと横に自由に枝を伸ばすことができず、上の方に真っ直ぐに伸びていく。形質の悪い木を減らすには、遺伝的に優れた形質をもつ精英樹からタネを採取し、それらをある程度高い密度で植えるのが良いだろう。」と書かれていました。
 ほんとうに納得です。やはり、自然にしかできないことがある、というのが強く印象に残りました。
(2014.4.25)

書名著者発行所発行日ISBN
多種共存の森清和研二築地書館2013年11月10日9784806714675

☆ Extract passages ☆

一つの森に多くの植物種が共存するという生態系は、「物質の循環がうまくいっている」ということである。個性の違う植物種が地上の空間だけでなく、地下の空間でも棲み分け、地上・地下の資源を有効に獲得しているのである。万度に獲得された資源はすべてくまなく利用され、生態系全体の生産力を底上げしているのである。一次生産をする植物社会が豊かになれば、その生産物を食べて生きていく植食者や有機物を無機化する分解者も増える。さらに、それらを捕食したりそれらに寄生したりするものも増え、生物社会は豊かになっていく。太陽の光から同化産物を作る一次生産者である植物の多様性は、豊かな生物社会の大元であり根源なのである。多様な種から構成される生態系は、単純に針葉樹一種だけを生産する系に比べ物質循環や食物連鎖のシステムは安定するだろう。そして、同時に多様な広葉樹も生産することができるとあれば、経済的な生産システムとしても長期的にみればむしろ合理的だといえるのではなかろうか。
(清和研二 著 『多種共存の森』より)




No.941 『なぜ、あの人の頼みは聞いてしまうのか?』

 最近、この本のように、ちょっと長くても内容がちらっとうかがえる題名が多くなってきているように思います。なぜ、と問いかけられれば、じゃあ「なぜ」なのか、あるいはどのようなことが書いているのかなと思い、ついつい読んでみたくなります。
 この本を読んでみると、頼みを聞いてくれるのは、ことばを大事にするからだと書いてあり、社会生活を送る上で一番大事なものは「人とのつながり」だといいます。そして、人とのつながりで大切なものは「信頼」で、その信頼を得るための手段として最も重要なものがコミュニケーションです。そのコミュニケーションの基本になるのが「ことば」だと『おわりに』のところで書いています。
 だとすれば、頼みを聞いてくれるのは、信頼されるように人とのつながりを大切にし、たえずコミュニケーションをこころがけること、それには言葉遣いにも気をつけることだといいます。
 やはり、「学問に王道なし」と同じで、なにごとも簡単に手に入るものではないようです。たしかに、人に何かを頼むというのは、相手の時間と手間暇を奪うことになります。ブラウンとレビンソンという学者が唱えているポライトネス理論(1987)によると、「人は、自分の自由を邪魔されることを恐れ、抵抗を示します。人は自由でいたい生き物なのです。だから、聞き手の自由を奪う行為をするときは、配慮をして、丁寧な言い方をすることが必要になってくる」のだといいます。たしかに、そうです。もし、時間がなかったりしたくなかったりした場合には、できないと言いやすくすることも必要です。つまり、断る自由を確保しなければならないということです。
 おもしろいと思ったのは、子どものしかり方で、アメリカでは、『個人を重んじるアメリカの文化では、子供も社会を構成する一個人です。この叱り方がうまいのは、子供の自尊心を傷つけないように気をつけながら、自分の悪いところを自覚させた上で、最後は愛情たっぷりに包み込んでいるところです。こうすれば、子供は自分が個人として尊重されていることを強く認識し、それと同時にそのように尊重してくれている相手の叱りのことばを素直に受け取り、「悪いことをした」と反省するはずでしょう。』と書いてあります。
 また、もう一つおもしろいと思ったのは、ほめ方です。
 それは下に抜き書きしましたので、見てみてください。そして、ぜひ実行していただければと思います。
(2014.4.21)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ、あの人の頼みは聞いてしまうのか?(ちくま新書)堀田秀吾筑摩書房2014年2月10日9784480067654

☆ Extract passages ☆

ミューラーとドゥクェクの研究(1998)によると、「あたまが良いね!」と「才能」をほめた場合と「一生懸命頑張ったね!」と「努力」をほめた場合では、続く難しい課題と簡単な課題を選ぶ実験で、才能をほめた子のほうが失敗を恐れて臆病になり、簡単なほうを選ぶ傾向があったのに対し、努力をほめた子のほうは、よりチャレンジ精神旺盛に、難しいほうの問題に挑む傾向があったそうです。
 ですから、実際に会社で誰かをほめる際には、社員としてのデキをほめるよりも、一生懸命さや頑張りをほめるほうが、後々のことを考えると効果的なのです。
(堀田秀吾 著 『なぜ、あの人の頼みは聞いてしまうのか?』より)




No.940 『なぜ男は女より早く死ぬのか』

 この本の題名の『なぜ男は女より早く死ぬのか』というよりは、なぜ平均寿命が女性のほうがダントツに長いのか気にはなっていたのですが、どこに焦点を合わせるかによって同じ問題でもあります。そこで、すぐに手にとって読み始めました。
 副題は「生物学から見た不思議な性の世界」で、世の中にはいろいろな繁殖報があるものだというのが率直な感想です。たとえば、ハタ科の「ハムレット」という魚は、『これは一晩のうちに、ペアリングした2個体が、それぞれオスの役目とメスの役目を繰り返して、受精卵を産むことで有名な魚です。その様子が、魚がどちらの役をやったらよいか、あたかも迷っているように見えるので、悩み多き青年王子「ハムレット」という名前がついたと言われています。』ということです。また、クロダイは、生まれてから万2歳まではすべてオスで、3歳になると全部がメスに性転換するそうで、とても人間では考えられない世界です。
 おそらく、このようなことが遺伝的に継続されているわけですから、それなりの根拠もあります。このようなさまざまなオスとメスの物語をたくさん紹介しています。
 そして、この題名にあるように、なぜ男は女より早く死ぬのかというのは、直感的にも感じられるのですが、現在は2つの説があるそうです。そのうちの1つは、アンドロジェン説で、下に抜き書きしました。たしかに、このような説明をされれば、やはりと思わざるを得ないようです。
 この本のなかでも、女はそのまますんなりと女になれますが、男はむりやり男になるという記述があり、それとかみ合わせると、やはり納得できます。
 それはそうと、山中伸弥教授がiPS細胞でノーベル賞を受賞しましたが、これは再生医療に多大なる貢献をするのではないかという期待を感じていました。ところが、それだけではなく、「たとえば、男性同士の組み合わせで実子が欲しい場合、自分の体細胞からiPS細胞を作り、それを元に卵子を作ります。その卵子に相手の精子を受精させれば、同性同士の実子ができます。もっとも、現在では人工子宮がないので、こうして作られた受精卵はほかの女性の子宮を借りて(借り腹)妊娠させなければなりません。すでに欧米では、合法的に借り腹が実施されているので、技術的には可能な時代になるでしょう。」といいます。
 もし、これが女性だったら、当然、1人だけで完結しますから、自分一人だけの子どもを持つことだって可能なわけです。つまり、男はいらないということです。
 だとしたら、先に死ぬなどという問題ではなくなり、男としての根拠もなくなってしまうかもしれません。それでは困ります。勝手に自然の摂理を変えてしまうのは、大問題です。
 この本を読みながら、いろいろと考えさせられました。もし興味があれば、ぜひ読んでみてください。
(2014.4.18)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ男は女より早く死ぬのか(SB新書)若原正己SBクリエイティブ2013年12月25日9784797375305

☆ Extract passages ☆

 アンドロジェンは男の精巣で作られるホルモンで、第二次性徴に関連した男らしさを発現させるホルモンです。単純に言えば、男の体を筋肉質にし、声変わりを支配し、いわゆる「マッチョ」にするホルモンです。これが出ることにより、男は攻撃的になってケンカをするし、殺人を犯すし、逆に殺されもするし、事故にも遭いやすく、また病気にもなりやすい、という考えです。……
 それは、ネコやネズミの精巣を除去する実験をすればわかます。いわゆる去勢です。よくケンカをしていたネコのオスも、去勢した後はすっかりおとなしくなり、ケンカもしなくなることが多いのです。同じようにネズミの実験でも、去勢したネズミとしないネズミの寿命を比べると、精巣を除去したネズミは明らかに長生きをします。
(若原正己 著 『なぜ男は女より早く死ぬのか』より)




No.939 『東洋脳×西洋脳』

 この本は対談集なので、とても読みやすく、しかもわかりやすい内容で、あっという間に読んでしまいました。ところが、あまりにさらっと読むと、印象もさらっとしてしまうので、仕方なくもう一度読み直し、カードも作りました。
 すると、さらっと読んでいたところに、おもしろい考え方のヒントがあったりして、熟読も必要だと思いました。たとえば、毛沢東は「貧しきを憂えず、均しからざるを憂う」といい、ところがそのままでは愛国心は育っても経済的にはなかなか大変です。ところがケ小平の時代になると、「このままでは先進国との差が開くばかりだから、先に豊かになれるものから豊かになりなさい」と方向転換したので、今の中国があるわけです。やせ我慢しても、革命の大義を優先させたのです。そう読み解くと、すごくわかります。日本の小泉首相のときに、米100俵の話しがありましたが、それとまったく同じです。だから日本も総中流の時代から格差がますます開いていく時代になったようです。
 さて、この本の副題は「多様化する世界を生きるヒント」で、この混沌とした時代を生き抜くためには、リヴァイアサン(これはT・ホッブズの『旧約聖書』に登場する怪獣の名に由来するそうです)のようなものが必要であるといい、ある意味ではハイブリッドである必要があるといいます。
 でも、このリヴァイアサンというのはいまいちはっきりしないのですが、怪獣ですから、そうでなければ輝かないといわれても、ちょっとイヤです。少しぐらいやせ我慢でも、大義を考える時代のほうが格差もなく、過ごしやすいような気がします。西洋の考え方にはとても冷たい面があるという指摘のところで、アインシュタインの「この馬はどれぐらい速く走るかと、競走馬を見るように人を評価するのは冷たい」と、レオボルト・インフェルトという弟子に言っているそうですが、たしかにそういう面はあるかと思います。
 この本を読んで知ったことなのですが、今、飛ぶ鳥落とす勢いの孫正義氏のことですが、茂木氏が『今、孫正義さんの自伝を読んでいて、その中に彼が日本に帰化したときのエピソードが載っていたんです。帰化申請の書類を「孫正義」という名前で出したら法務省が「孫という姓の前例はない」という理由で拒否した。そこで一計を案じて、日本人である奥さんを孫という姓にして前例を作った後で、再び申請したら通ったそうです。』とあり、日本の硬直化した行政のあり方よりも、孫氏の戦略勝ちのほうが際立っているようです。
 下に抜き書きしたのは、同じ民族だという意識の違いです。でも、中国人もそうだとはちょっと思えません。というのは、加藤氏が『もともと中国人には、リスク分散の播種本能があります。私の知り合いの中国人でも、「自分は日本の大学にいるけれど、息子はニューヨークに留学中で、いとこは中国に根をはっている。たとえドルが駄目になつても、円が駄目になっても、人民元が駄目になつても、どれか一つが残れば一族は生き残れる」とリスクを分散している人が、今でも結構いますよ。』という指摘があり、まさに多様化する世界を生き抜くリヴァイアサンのように思えました。
(2014.4.15)

書名著者発行所発行日ISBN
東洋脳×西洋脳(中公新書ラクレ)茂木健一郎+加藤 徹中央公論新社2013年10月25日9784121503817

☆ Extract passages ☆

例えばアフガニスタン人は、中国人や日本人をうらやましがる。その理由は、アフガニスタンに行くと、過去2000年くらいの歴史が、数百年ごとにガラツと変わっている。そのために、バーミヤンの大仏(2001年に破壊されてしまいましたが)は、アフガニスタン人の先祖の遺産とみなすべきなのか、それとも、自分たちとは無関係の異教徒が作ったのか、悩むんですね。
 でも、日本人は、その点で悩む必要はない。例えば、縄文時代の遺跡が出てきたときに、これは日本にいた先住民の遺跡なのか、そうではないのかと悩む日本人はいない。我々は縄文人を日本人だと無批判に思い込んでいる。中国人も黄河文明は中国文明であると信じて疑いません。しかし、世界的に見ると、こうした態度は結構珍しいことらしいですね。(加藤 徹)
(茂木健一郎+加藤 徹 著 『東洋脳×西洋脳』より)




No.938 『その科学があなたを変える』

 この著者の本は、2010年5月17日にこの「本のたび」に書いたように『その科学が成功を決める』という似たような題名のものを読んだことがあります。とてもおもしろく、それでこの本も読んでみようと思いました。
 なかには、前の本に書いてあるような記述もありましたが、とても興味深く読みました。でも、その骨子は変わらず、行動が感情を生み出すというW.ジェームズの説をとっていて、これを「アズイフ(のように)の法則」と名付けています。つまり、ジェームズの言葉を借りて、「幸せになりたければ、すでに幸せであるかのように行動をすればいい」ということから、この「のように」を「アズイフ」と呼ぶのだそうです。
 たとえば、今の時代はうつ傾向の人が多くなっていますが、そのような人は、なにか悪いことが起きると自分を責めることが多いそうで、将来もまた失敗するのではないかと考えてしまうといいます。逆に、この傾向がない人は、「自分の欠点に目を向けることが少なく、将来を楽観的にとらえ、失敗してもそれをほかの場面にまで影響させることはない」といい、それがわかれば、うつにならないような性格を身につけることが肝要になります。それができる、という考え方が「アズイフの法則」です。
 また、アイオワ州立大学の心理学者ブラッド・ブッシュマンは、祈るという行為に心を鎮める力があるということを実証したそうです。彼は、『キリスト教系大学の学生を集め、まず彼らが書いた作文を極端にけなして(「まったく、これはまさに最低の文章だね」)、不愉快な気分にさせた。そのあとで希少がんを患う女性についての新聞記事を読ませた。つぎに学生たちを2グループに分け、片方のグループには5分聞手を合わせてその女性のために祈るよう頼み、もう片方のグループには彼女について考えるように頼んだ。すると祈った学生たちのほうが、単に女性について考えただけの学生にくらべ、はるかに怒りが鎮まっていた。穏やかに静かに行動した結果、穏やかで静かな気持ちが生まれたのだ。』といいます。
 このように、この本のなかではいろいろの心理学的実験などが紹介され、「幸せになりたければ、すでに幸せであるかのように行動をすればいい」ということを実証しています。つまり、このような考え方が、あなたを変える、というわけです。
 下に抜き書きしたのは、第6章の「若々しく行動すれば、若返る」という項目に書かれていたものです。もし、この通りであるとすれば、読書は認知症の進行度を35パーセントも抑えることができるそうです。
 ということで、認知症にならないようにするためにも、これからもこのコーナーを続けたいと思っています。
(2014.4.13)

書名著者発行所発行日ISBN
その科学があなたを変えるリチャード・ワイズマン 著、木村博江 訳文藝春秋2013年10月25日9784163767505

☆ Extract passages ☆

ニューヨーク市にあるアルバート・アインシュタイン医学校の研究者は、1980年から2001年にかけて1グループ500人以上の参加者を集め、調査をおこなった。彼らはまず、参加者全員にどの程度脳と体を刺激する活動をしているか、アンケートに答えてもらった。脳を刺激する活動内容は、読書、趣味の作文、クロスワードパズル、楽器演奏など。体を刺激する活動内容は、テニス、ゴルフ、水泳、サイクリング、ダンス、ウオーキング、登山、家事などである。参加者の年齢が75歳以上のグループについては、認知症との関係も調べた。その後の追跡調査結果では、読書をしていた人は、認知症の進行度が35パーセント低下し、クロスワードパズルを少なくとも週に4日していた人は、47パーセント低下していた。興味深いことにサイクリングや水泳など体を動かす運動の場合は、そんな影響はまったく見られなかった。ただし例外はダンスで、定期的にダンスをしている人たちは、認知症が進行する度合いが76パーセント低下していた。ダンスを踊って若者のよぅに行動すると、老化の速度が抑えられるのだ。
(リチャード・ワイズマン 著、木村博江 訳 『その科学があなたを変える』より)




No.937 『生物の大きさはどのようにして決まるのか』

 この本を読む前に、図書館から借りてきた『私たちには物語がある』(角田光代)を読み始めたら、「あれ、どこかで読んだことがあるかも……」と思いました。それでも読み続けると、「これはまちがいなく読んだことがある」と思って調べてみると、たしかに2010年8月7日に「本の旅」を書いていました。では、なぜ、借りてきたのかと考えたら、この前に読んだのは単行本でしたが、これは2013年10月13日発行の小学館文庫でした。やはり、見た目が変われば、わからなくなるかも、と思いました。
 さて、この本ですが、生物の大きさには、まさにネズミからゾウまで、いろいろな大きさがあります。では、なぜ大きさに違いがあるのか、あるいは、なぜ大きさはどのようにして決まってきたのかと、単純な興味から読み始めました。
 ところが、写真や図版はたくさんありわかりやすいように書いてはあると思うのですが、内容があまりにも難しく、すべて理解できるところまでは読めませんでした。それが、興味本位から入った限界かもしれません。
 ところで、この副題は「ゾウとネズミの違いを生む遺伝子」とあり、その基本的な知識がないから、わからなかったようです。でも、わからないなりに、おもしろかったです。
 それと、興味を持ったのが、なぜ大きくなるのかということから、では肥満がなぜ起こるのかということです。もちろん、肥満にはいろいろな悪影響はあるはずで、この本でも、「肥満は直接的に高血圧を引き起こし、それによって動脈硬化を起こし、また脂肪の蓄積が糖尿病、動脈硬化および肥満を招くという複合的仕組みで健康に悪影響を及ぼす」と書いています。
 では、大きさの研究をしているわけですから、もしかして、肥満を防ぐ効果的な方法でもあるのではないかと思って読むと、「二大要因は、遺伝的なもの(遺伝子)と食事あるいはカロリーの摂り過ぎである」とあり、あまりにも常識的な答えにちょっとガッカリしました。
 でも、肥満を解消するには、王道はないのかもしれません。つまり、カロリー摂取を控えるしかなさそうです。
 もちろん、この生物の大きさには植物のことも書いてあり、それはなんとか理解できました。大型化する具体的な過程も書いてあり、とても興味深かったです。
 そのなかで、「植物に肥満はあるか」の設問に、動物のような意味での肥満はないとあり、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、動物の体の構造の違いと生息環境への適応という箇所に書いてあるものです。これを読むと、なるべくしてなったという気がしないでもありません。
 興味があれば、ちょっと難しいとは思いますが、読んでみてください。
(2014.4.10)

書名著者発行所発行日ISBN
生物の大きさはどのようにして決まるのか(DOJIN選書)大島靖美化学同人2013年11月30日9784759813562

☆ Extract passages ☆

 動物では、手足や口が大きいと腕力や噛む力が強く、速く走れるので、一般に大型の動物がより小型の動物を捕食してエサにすることになる。‥‥陸上生物の問の捕食の例であるが、同様に水中では大型の魚が小型の魚を捕食し、土の中では小型の昆虫や線虫がより大きいモグラやネズミに描食される。しかし陸上では、小型の動物のはうが隠れやすく、またより多様な棲息環境に適応できるという利点がある。土の中ではそのうえ、小型の動物のはうか明らかに棲みやすい。やや特殊な例として、水面で生活するアメンボ、ミズスマシのような昆虫は、小型であるために(正確には水に接している肢の表面の周の長さの総和と体全体の体積の比が大きいために)、水の表面張力によって水面に浮かぶことができる。
 このように、動物の大きさは、棲んでいる生態系の中での地位や適した棲息環境を決める重要な要素である。
(大島靖美 著 『生物の大きさはどのようにして決まるのか』より)




No.936 『日本人と神様』

 このポプラ社の新書版は、「ポプラ新書」といい、平成25年9月18日に創刊されたもので、今現在で28冊あります。
 たまたまですが、このポプラ新書を2冊続けて読みました。でも、まったく毛色の違うものです。
 この本の副題は「ゆるやかで強い絆の理由」で、著者は皇學館大学文学部教授で、神道関係の著書も相当あるようです。とても読みやすく、おそらく一般向けの入門書という位置づけではないかと思います。
 この本で初めて知ったのですが、ハワイ・オアフ島にハワイ大神宮というお宮があって、そのご祭神は、天照大御神と、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、八百万命神(やおよろずのみことのかみ)だそうで、さらに「カメハメハ大王」と「ジョージ・ワシントン」もあわせて祀られているそうです。でも、考えてみれば、その地で生涯を過ごすわけですから、その地やその国の人たちにとって大切な人物も合わせて祀るというのが日本人です。だから、外国でもあまり軋轢を起こさないのかもしれませんし、これからの国際問題を語るときも、これは重要なことだと思います。
 ただ、一神教の方々には、これはなかなか理解できないことです。
 そういえば、朝日新聞がウェブサイト上で行ったアンケート(平成25年8月末〜9月初め・回答者数2,093人)の調査結果が載っていましたが、明らかに若い人たちの神社に対する考え方が変わってきたと思いました。それは、『神社に行く目的で一番多かったのは、「初詣、七五三など儀礼のため」で29%。これはおよそ想像がつきますが、二番目は「心身が清められる気がする」で22%を占めます。神社という空間に身を置くことで、「気持ちが落ち着く」「パワーを授かれる」「逆境を乗り越えられる」と思う人が大勢いるのです。ほかに、「見えない神様に守られている感覚がある」という声もありました。』といいます。
 これは、おそらく、今の不安な時代や不安定な社会を反映しているようです。
 下に抜き書きしたのは、第4章の「神様とどうつき合っていくか」のなかの「今、なぜ神様が求められるのか」というところの一部ですが、これはなんとなく理解できます。でも、このような時代は、必ずしも良い時代ではない、ということはたしかです。
(2014.4.6)

書名著者発行所発行日ISBN
日本人と神様(ポプラ新書)櫻井治男ポプラ社2014年1月7日9784591137796

☆ Extract passages ☆

 便利になれば楽になれるだろうと、何においても合理性と効率性を追い求めてきたのに、それが実現するとかえって時間に追われるようになり、心身ともに疲れ果ててしまった。制約や伝統といったものが消え、自由を手に入れたものの、自由も過ぎると逆に不安になる……。
 今、人々はそんな状況に置かれて苦しさや不安を感じ、時間の動きが止まっている場所や、他からはきっちりと区切られた空間を求めているのではないでしょうか。その条件を満たすものが、神社の伝統性だったのではないかと私は考えています。
(櫻井治男 著 『日本人と神様』より)




No.935 『紙の本は、滅びない』

 やはり、本は紙でなければと思っているので、つい、この本を手に取りました。そして、読んでみると、やはり本は紙でなければと確信しました。
 もちろん、電子辞書なども使っていて、デジタルの良さも感じていますが、本を読みながら感慨にふけるなどという行為にはディスプレーは不向きです。本を持ったときの重さや装丁の良さなど、そして、本棚にそろえたときの楽しみなど、すべてにおいて紙の本のほうが勝っていると思います。
 この本にも書かれていますが、本屋さんや図書館で本を選び出す楽しさ、インターネットで探すのはもうすでに知っていることが中心ですが、まったく思いもしなかった本を探し出したときの愉快さなど、これは絶対にデジタルでは味わえないものです。また、ベストセラーが自分の読みたい本などではなく、まして他の人が選び出した本のランキングなどまったく参考にもならないと思っています。この本に、「一見きわめて開放的なインターネット空間だが、大抵あらかじめ知っている筋道を通ってしか情報に到達することはなく、ましてや目指してもいなかった情報に出会うことは滅多にない。一方、一冊の本との出会いの覚束なさ、偶然性、不思議は、思ってもみなかった可能性に人を導く。その入口である書店という空間が偶然の出会いに満ちたものであることが、多くの読者の足を書店へと向けさせる原動力だと、ぼくは思う。」とありますが、まさに本の樹海に迷い込む感覚の楽しさ、それが本屋さんです。
 書店というのは、著者によれば、「本というモノとしてそこに存在していることの意味。そうした本が並んでいる書店の意味。書店という空間に入っていき、未知の世界、未知の思索の詰まった本の大群に囲まれて、時に目眩を覚えながら、手を伸ばし、一冊の本を開いてまったく新しい世界に踏み込む行為の、読者にとっての意味。読者は書棚に並ぶ本をまなざしながら、同時に本たちにまなざされている。書物は読者を常に新しい世界へ誘い、時としてそれは世界にとって新しい。ほんとうに新しい本が出現し、読者が手に取り開くのを待つ。過去のデータの集積だけでは決して生まれず、決して出会われなかったような、ほんとうに新しい本のある場所。それが書店だ。」だそうです。
 下に抜き書きしたのは、人気投票の功罪みたいなもので、それが本当の良さを引き出すものではないということです。いくらインターネットで人気があるといっても、それは人によっては本を選ぶ際のヒントにもならないかもしれないようです。
 たしかに、実物の本があるから楽しいのだし、ワクワク感があるのです。
 みなさん、本屋さんで本を買って、本屋さんをもっともっと楽しい場所にしましょう。
(2014.4.3)

書名著者発行所発行日ISBN
紙の本は、滅びない(ポプラ新書)福嶋 聡ポプラ社2014年1月7日9784591137420

☆ Extract passages ☆

例えばグーグルの検索結果はいわば「人気投票後の多数意思」に過ぎないということである。そこにすべての情報がある、と信じてしまう危険を、まずは回避しておかなくではならない。しかも人気投票には、ケインズの言う「美人投票のパラドクス」が伴う。自分が投票した候補者がトップの座を射止めるためには、自分が最も美人だと思う候補者に投票するのではなく、他人が最も美人だと思うであろう候補者に投票しなければならない、その結果、トップ当選を果たすのは、誰も本当に美人だと思っていない候補者になる、という逆説である。グーグルのランクも同様だとしたら、皆が褒める本がいい本だとは限らない。確かにぼくは、評判となって皆が読んでいる本には、ほとんどの場合興味を持たない。
(福嶋 聡 著 『紙の本は、滅びない』より)




No.934 『心は前を向いている』

 今日で今年度も終わり、明日から新年度がはじまります。新しく小学校に入学する子もいれば、今年から大学で学ぶ学生もいることでしょう。やはり、心は前向きでいてほしいものです。
 この本では、脳は基本的に前向きになるようにできていると書かれています。ということは、前向きでいるほうが自然だということでもあります。
 この本のなかに出てくる「脳がもっている特徴」をここにまとめると、
 @いつも先を予測しながら、
 A事実を見るより期待をもって、
 Bものごとをポジティブに見ています。
 ということだそうです。「ひとことで言えば、脳は錯覚することに特徴がある」と書かれています。
 脳というのは、カメラで写真を撮るようにはっきりと処理するのではなく、先読みしながら、自分の期待どおりのものを実現していこうとするのだといいます。
 これらのことを説明するために、たくさんの心理学の研究を掲載してあり、ちょっと煩雑なような気もしましたが、「あとがき」にそのことに触れ、さらに、『人生を前に進めるためには、苦しい気持ちをあるていど背負う必要があるのだと思います。そのために、私たちは物語を必要とするのでしょう。だれかががんばっている姿を見て、「自分もやらねば」と思ったなら、それが自分の物語です。若いみなさんへ、前向きになる秘訣を一つあげるとすれば、「そうなりたい」と憧れる存在をもつことかもしれません。そういう対象との出会いが、自分を前に引っぱってくれるはずです。』と、書いています。
 たしかに、ただ前向きにとか、物事をポジティブにとらえなさい、といわれても具体的にはなかなか理解できません。それをこのように書いてくれれば、なるほどと納得できます。
 この本は、やはりジュニア新書だと思わせてくれた一節です。
 ぜひ、若い人たちに読んでもらいたい1冊です。とくに、落ち込んだときでも、ニューヨーク大学のガブリエレ・エッティンゲンらの研究では、「現実的な困難についてもきちんと考慮する(メンタル・コントラスティング)ほうが、行動力につながり、目標を達成できることがわかってきました。しかもそれは、ちょっと悲しい気分のときのほうがうまくいく」というから、あまり心配することはなさそうです。
 さらに、下に抜き書きしたように、誰でも、ちゃんと未来に対して希望を持つことができるようになっているようです。
(2014.3.31)

書名著者発行所発行日ISBN
心は前を向いている(岩波ジュニア新書)串崎真志岩波書店2013年12月20日9784005007622

☆ Extract passages ☆

この結果は、「自分は平均よりもちょっと上」と思うしくみが、私たちの脳に基本設計として備わっていること、そこにドーパミンという物質が関与することをしめしています。「知らぬが仏」という言葉がありますが、脳はそれを自分自身に対しても実行しているというわけです。このすこし身びいきな性質(セルフ・サーヴィング・バイアス)は、自分の精神的な健康を保つうえで、じつは重要です。私たちは、あえて「事実を見ない」ことで、未来に対して希望をもつようにできているのです。
(串崎真志 著 『心は前を向いている』より)




No.933 『医学的根拠とは何か』

 医学的根拠というのは、当然のことながら、お医者さんの仲間内でははっきりしているとばかり思っていました。ところが、そうではなかったようです。
 そういえば、東日本大震災のときの福島第一原発の放射能漏れについても、情報が錯綜し、どの専門家のどの話しを信じていいのかわかりませんでした。このときも、びっくりしました。えぇっ、そんなに基準がはっきりしていなかったの、とか、そんなに基準値に差がありすぎて、本当にだいじょうぶなの、とか、いろいろと考えさせられました。だから、この本を見つけたときには、すぐ手にしていました。
 では、この医学的根拠というのはなにか、といいますと、この本には、「歴史的には、医学的根拠は三つ存在するのである。本書では、それらを仮に直感派、メカニズム派、数量化派と呼ぶ。直感派は医師としての個人的な経験を重んじ、メカニズム派は動物実験や(現代では)遺伝子実験など、生物学的研究の結果を重視する。そして数量化派は、統計学の方法論を用いて、人間のデータを定量的に分析した結果を重視する。一般にはあまり知られていない分野ではあるが、今日では、病気などの原因を科学的に証明するためには、疫学あるいは医療統計学と呼ばれる方法論が用いられる。生物学的メカニズムの解明こそが病気の原因を明らかにするという考えは、実は誤りである。」と書かれていて、経済学を学んだ一人としては、もう学生の時には数理経済学が主流になりつつあるのに未だこの段階なのかと唖然としました。
 だから、第4章の最初に書かれていたイアン・エアーズの「あなたはドクターといっても博士号のドクターですか、それともただのお医者さん?」(『その数字が戦略を決める』山形浩生訳)というフレーズを見て、ついニコッとしてしまいました。
 たしかに、人は、一人一人違うのは当然でしょうが、それをあまりにも重視したら、人を科学することはできません。
 また、それをいいことにして、違う方向に導こうとしたら、これは困ったことです。
 下に抜き書きしたのは、福島第一原発の放射能漏れに伴うものですが、これはとんでもないことだと思います。この本の中でも触れていますが、2011年8月26日に経産省の試算として発表されたそうですが、この福島第一原発事故で放出された放射性物質は広島原爆の168.5倍と推定されるそうです。
 これは知りませんでした。28倍ではないかという話しは聞いたことがありますが、168.5倍とは考えてもいなかった数字です。
 これで、医学的根拠などという問題を持ち出すのは、おかしなことで、影響がないというその根拠をまず示してほしいと思います。そして、10数年も経ってから、今度は時間が経ってしまってその直接の被害の検証は難しいなどといわれたら、これこそ言語道断です。
 この本は、ぜひ、機会があれば読んでいただきたい1冊です。
(2014.3.29)

書名著者発行所発行日ISBN
医学的根拠とは何か(岩波新書)津田敏秀岩波書店2013年11月20日9784004314585

☆ Extract passages ☆

 人間を対象とする統計学を用いた研究を知らない多くの直感派の医師や医学研究者は、多いことや少ないことや発生するとかしないとかは、形容詞や副詞的表現でどうにでもごまかせると考えている。メカニズム派の影響で、病気の発生が多いことを観察し確認することで因果関係を察知することすら知らない。このような積み重ねは、公害事件などにおいて確信犯的な医学者のつけいる隙を作ってきた。放射線によ る健康影響の問題では、もはや確信犯なのかそれとも無知なのかもわからない状況を作り出している。
(津田敏秀 著 『医学的根拠とは何か』より)




No.932 『新老人の思想』

 この前、ある情報番組を見ていたら、日本の前期的鬱状態にある人は1,000万人もいるというから驚いてしまいました。この前期的鬱状態というのはどの程度の状態なのかはわかりませんが、それにしても多いと思いました。もしかすると、なんでも鬱にしてしまうのではないかとさえ、思いました。
 でも、高齢化は確実にやって来ていますし、私たち団塊の世代もすでにその入り口にいますから、人ごとではありません。
 だいぶ前のことですが、還暦を迎えた人たちは、ほんとうにお年寄りだと思いました。還暦まで長生きできて、良かったとさえ思いました。ところが、2012年の平均寿命は、女性は86.41歳、男性は79.94歳だそうで、女性は世界一だそうです。
 ということは、女性の場合は還暦を過ぎても26年以上も平均で生きていることになり、もっと長生きする人なら、昔の人の人生を2回も経験するほどの年齢を生きることになります。
 これはいいことなんでしょうが、ある意味、たいへんなことでもあります。つまり、今までの生き方をそのまましていてもダメで、長寿社会の生き方というのがありそうです。それを考えようとこの本を読んでみたのですが、残念ながら、そのヒントになるようなことは書かれてありませんでした。むしろ、「下山の思想」のほうがおもしろかったです。
 どちらも、「日刊ゲンダイ」に書きつづったものから選んだものだそうですが、柳の下にはドジョウはいなかったようです。少なくとも私にとっては。
 ただ、捨てるということは、とても大事なことだとこの本を読みながら思いました。とくに紙類は重いし、かさばるし、湿気を嫌うので管理も大変ですし、なかなか捨てようとしても捨てられません。この本の中で、「捨てるには、価値判断などしていては駄目である。要するに火事になったと思えばいい。最小限、必要なモノだけでも持ち出すことができたら大成功ではないか。これはいつか使うだろう、とか、たぶん必要になるだろう、とか、そんなことを考えていては一歩も前に進まない。亡くなった友人、知人からの手紙なども、合掌しつつシュレッダーにかけるしかないのだ。」というのは、たしかにそうだと思いました。
 下に抜き書きしたのは、これからの逝き方のヒントではないかと思ったところです。
 たしかに、昔はお詣りというと老人が多かったのですが、最近は若い人たちも増えています。まさか、若いときから逝き方のお稽古をしているのではないでしょうから、それだけ生きにくい世の中だということなんでしょうか。
(2014.3.26)

書名著者発行所発行日ISBN
新老人の思想(幻冬舎新書)五木寛之幻冬舎2013年12月10日9784344983311

☆ Extract passages ☆

 かつてリタイアした老人たちの仕事は、お寺参りとか、お遍路とか、ご詠歌の会とか、おおむねそんなものだった。いずれもただの楽しみではなく、あの世へいく「逝き方」の稽古だった。いずれやってくる死を、日々みつめながら、人生の締めくくりをイメージするトレーニングだったといっていい。
 いま、ほとんどの老人たちには、余生をさらに「充実して生きる」ことがすすめられている。時間と、ある程度の経済力をもった老人たちが、暴走したり、迷走したり、疾走したりしている。そんな新老人が目立つ時代になった。
 人生の目的は長寿ではない。医学の任務は延命ではない。
(五木寛之 著 『新老人の思想』より)




No.931 『アジア人との正しい付き合い方』

 副題が「異文化へのまなざし」とあり、最近の中国や韓国との文化的な軋轢や政治的な対立などを思い、読んでみようと思いました。
 なんであんなにも繰返し繰返し古いことを持ち出すのだろうかと思ったり、あんなにもお世話になったのに、次に会ったときには、それにはまったく触れずにさも当然のようなこととしたり、とても普通の日本人では理解できないことが多々あります。もちろん、私の数少ない経験の中でも、理解できないことがたくさんありました。
 それらを、この本を読んで、なるほどと思いました。お隣の韓国の人たちとさえなかなか理解できないのに、一色単にアジア人といわれても、それは当然のことです。
 でも、それらは悪気があるわけでも、こちらを見下しているわけでもなく、それが文化だと感じました。それは良いとか悪いとかという価値判断ではなく、その違いを認めることも大事だと知りました。この本の中では、『「寛容な心」こそ、異文化間コミュニケーションにおけるキーワードの一つで、自分とちがう行動スタイルをとる相手を、頭からダメだ、ケシカランと否定してしまうのではなく、しばし立ち止まって相手の立場に立ち、〈なぜ、そんなふうにするのだろう?〉と、想像力をはたらかせてみる。すると、そのときまで見えなかった物事の側面が、いろいろ見えてくるものだ』といいます。
 たしかにそうです。理解するためには、まずは「寛容な心」が必要ですし、理解しようとする気持ちもないと見えてもきません。
 そういえば、よく「カルチャーショック」といいますが、これは昔からあった言葉ではなく、アメリカの文化人類学者、ピールズとハンフリーが1957年に初めて造語して使い、それをオバークが1960年に「カルチャー・ショック〜新しい文化的環境への適応」という論文のなかで詳しく書いてから使われるようになったそうです。そこでは、このカルチャーショックを『「社会的なかかわり合いに関するすべての慣れ親しんだサイン(記号)やシンボル(象徴)を失うことによって、突然生まれるもの』と規定しているそうです。
 慣れ親しんできたものがなくなれば、やはり、慌てふためくと思います。たんなる旅行者なら、この広い世の中だから、いろいろあるよね、と思っていられますが、そこで生活をしなければならないとすれば、やはり問題です。仕事となれば、なおさらです。
 下に、海外の異文化のなかでも理解し合えた方たちのタイプを抜き書きしました。
 このようなタイプでなくても、このような気持ちで理解しようとすればいいわけです。たとえば、だれでも勉強すれば語学が堪能になるわけではなく、私のようにいくらやってもなかなか上達しない人もいるわけですから。
 むしろ、このようなことにこだわらずに、素のままの気持ちでつきあえば、わかり合えると思います。この本では、『論語』の言葉を引用して、『これを知る者はこれを好むものにしかず。これを好むもの はこれを楽しむ者にしかず(理解することは好きになることに及ばない。好きになることは楽しむことに及ばない)」とあるとおり、何事も楽しんでやることがもっとも身につき、能力も上がるものだ。』と書いています。
(2014.3.24)

書名著者発行所発行日ISBN
アジア人との正しい付き合い方(NHK出版 生活人新書)小竹裕一日本放送出版協会2008年12月10日9784140882757

☆ Extract passages ☆

 いわば「海外タイプ」とでも呼べる人たちが、異文化環境下で成功した諸要因を整理してみると、おおむね次の8つの事項にまとめられたという(キリーとルーペンの研究)。
(1)共感性(異なった文化を共感的に理解できるかどうか)
(2)敬意(相手の持つ文化への判断を保留し、まず敬意を持ってのぞめるかどうか)
(3)現地の人と文化に対する興味(異文化環境への好奇心をどれだけ持ち続けられるか)
(4)柔軟性(パラダイム・シフトがどれだけできるか)
(5)忍耐力(勝手の違う土地で、思うようにことが運ばないことに、どれだけ辛抱できるか)
(6)仕事上の技術(その土地の人を使って、実際に仕事を進める実務能力があるかどうか)
(7)社会性(現地の友人をどれだけ作ることができるか)
(8)オープンな心(偏見なく、寛容でおおらかな心で異文化環境を受け入れられるか)
(小竹裕一 著 『アジア人との正しい付き合い方』より)




No.930 『アップデートする仏教』

 2回続けて仏教についての新書本ですが、やはり、本を読むとさらに疑問や興味がわき、つい似たような本を読んでしまうようです。
 でも、この2冊の本は、ともに禅宗のに関わりのある方たちの本ですが、まったく性格が違います。それは曹洞宗とか臨済宗などという宗派の違いなどではなく、どのような宗教生活を過ごしてきたかの違いのようです。かたや芥川賞作家の玄侑宗久師であり、もうかたほうは在家から紫竹林安泰寺でともに修行し、海外へと出て行った僧侶たちで、いわば体験したこともその生活もまったく違います。だから、興味があったのかもしれません。
 だいぶ前のことですが、自分がつくっているホームページに英語版を加えようとしたときに、普段なにげなく使っている言葉がいかにも曖昧だったことを思い知りました。この本の中でも、藤田師が『日本で勉強したことをもう一回、英語で全部表現していかなきゃいけなくなったから、その作業を通して、自分の甘い理解のところなんかにあれこれ気づくことができた。日本語では、なあなあでごまかしていたというか、あいまいなまま素通りしていたことが、英語ではそれではすまされない。「ちょっと待って。それはどういうことなんですか」って突っ込んでくるから。そういう英語の本って説明が実に細かいですよ。さっと二言ですませたりしないで、しつこいくらい、ああも言いこうも言ってなんとかわからせようとしている。非常に分析的だし、喩えもうまい。何でなんだろうな、ああいうふうに書けちゃうというのは。やっぱり言葉で言えないのはわかってない証拠だ、みたいな伝統があるのかな。東洋のように「言うものは知らず」じゃなくて、「言わないものは知らず」というところだから、とことん言い尽くすみたいな。』と書いていますが、言葉だけでなく自分が理解できるまで次々に聞いてくる姿勢なども、とても違うように思いました。
 この本の題名になっているアップデートというのは、旧来の形骸化した仏教を「仏教1.0」だとすると、「仏教2.0」は方法・テクニックとしての仏教、そして「仏教3.0」は自分たちが目指しているラジカルな本来の仏教というような位置づけをしています。
 下に抜き書きしたのは、その日本の仏教の今の姿、つまり「仏教1.0」の状態を痛烈な言葉で表現しているのですが、なるほどと頷いてしまうのもちょっと情けないことです。相手方の藤田師も「手厳しいね」というぐらいですが、たしかにそのような一面もあります。
 それと、これは私自身も思うのですが、日本の仏教は宗派が中心で、真言宗なら弘法大師、曹洞宗なら道元禅師というように、宗祖のことがまず語られます。でも、本来は、仏教を開かれたお釈迦さまが中心であると思います。そこで、なんどもインドに行き、直接お釈迦さまの足跡を訪ねたことがありますが、その仏跡に行っても、ほとんどがスリランカなどの上座部の方たちがほとんどです。これでは、なんとなく本末転倒だと思います。
 藤田師は、曹洞宗のことに触れ『宗乗というのは曹洞宗の宗学のことですね。それ以外は余乗と言うんですよ。その残りの、余りの乗と書くのね。お釈迦さまの言った言葉を集めていると言われている『スッタニパーク』とかを読むのは余乗になっちゃうんだ(笑)。』と書いています。つまり、文字通り、お釈迦さまより宗祖の教えのほうが根本だということです。やっぱり、なんか違うような気がします。
 だから、この後で、『僕自身としては道元さんと親鸞さんの大きな肩の上に乗せてもらって、ブツダという高蜂を遥かに仰ぎ見るという気持ちでいるんですよ。』といいます。たしかに、このほうが表現的にも納得できます。
 この本は、海外から仏教を冷静な目で見つめ直そうとしているところがあり、とても実直だと感じました。もし、仏教に興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。
(2014.3.21)

書名著者発行所発行日ISBN
アップデートする仏教(幻冬舎新書)藤田一照・山下良道幻冬舎2013年9月30日9784344983212

☆ Extract passages ☆

「仏教1.0」の状況を喩えて言うと、病で苦しむ人が山ほどいて、「病院」という看板のかかった場所もたくさんあって、そこには医者や看護師もいる。だけど、病人のほうは医学が自分の病気を治してくれるとは思っていないし、医者や看護師もそれを信じてはいない。でも病人は病院に出入りしている。そこで何をしているかといえば、庭で紫陽花の花を見たり、食堂でヴェジタリアンの食事をしたり、病室で宿泊したりしている。でも、医療行為だけは行われていない。こういう不思議な状況が日本の仏教の現状なんじゃないですかね。医療行為が行われていない病院がいっぱいあるって不思議じゃないですか。それを不思議と思わないのが、さらに輪をかけてとても不思議なんですよ、わたしには。(山下良道)
(藤田一照・山下良道 著 『アップデートする仏教』より)




No.929 『さすらいの仏教語』

 副題が「暮らしに息づく88話」で、この仏教語に関しては多くの著者がいろいろな本を出していますが、僧侶で小説家の立場から仏教語をどのように取り上げるか興味がありました。
 おもしろかったのは、たとえば「どっこいしょ」とか「うろうろ」などという擬音語や擬態語などのオノマトペを仏教語として取り上げていることです。「がたぴし」の項では、『通常は、古びて建てつけの悪くなった戸とか、二つ以上のものがうまく噛み合わない様子に用いられるが、これは「我」によって「自他」の融合が妨げられ、「彼」と「此」とも無益、に比較してしまうという人間存在への本質的な仏教的認識を、じつにうまく表現している。仏教が説く「無我」においては、一切が「我他彼此」せず、平和的に融合している。』という説明をしていて、なるほど、この「がたぴし」も仏教語なのかなあ、と思いました。
 いかにも仏教語とわかるような「娑婆」や「檀那」、「伽藍」などもありますが、その説明はちょっとユニークで、たとえば「伽藍」では「ガランドー」に言及され、『この伽藍堂宇が略されて「伽藍堂」になり、やがて片仮名で書かれて「ガランドー」になる。意味は、基本が変わったわけではないのだが、やはり表記と共にけっこうさすらったといえるだろう。境内に建つ建物そのものではなく、その在るべき姿、状況を意味するようになるのである。誰もいない、何もない閑散とした停まいが強調された「ガランドー」は、やがて「がらんとした」とか「がらがら」などの形容詞句や形容動詞的な使われ方もするようになる。「がらん」という音は、もとは音写語だというのに、日本人の心深くに弛み入って馴染んでしまったのである。伽藍は、使われるときだけ賑わってあとはまたガランとする。それが仏教的というより、日本的な美学に適ったということなのかもしれない。』といいます。
 たしかに、「ガランドー」を漢字で「伽藍堂」と書けば、まさにその通りです。
 そういえば、この本の題名の「さすらいの」の意味は、もともとの仏教語の意味が長い時間の中で違う意味に使われたり、まったく逆の意味になったりと、それをさすらうという表現をしたものです。その例では、「出世」というのは、普通は会社での出世とか役職での昇進などを表しているのですが、仏教では逆にそのような世俗のしがらみから出て、つまり出家して修行の道に入るというような意味になります。
 言葉というのは、やはり生きものです。その時代なりの使われ方があり、意味づけがあります。ということは、そこから、その時代をみるということもできそうです。
 そんなことを考えながら、仏教を知るきっかけになる1冊だと思いました。多くの人たちにお勧めしたいと思います。
  (2014.3.18)

書名著者発行所発行日ISBN
さすらいの仏教語(中公新書)玄侑宗久中央公論新社2014年1月25日9784121022523

☆ Extract passages ☆

 私の住む地方には「因果を見た」という言葉が託った常套句「エンガみた」という表現があり、これも悪い結果が起こったときにしか使わない。過去の罪業の結果がこれだと、いわば納得するための言葉なのだろう。
 思えばそれは、他人のせいにするよりはよほどマシな生活態度だ。しょせん、世に起こる出来事の因果など、すべてが見えるはずはない。それならよいことが起きたときには「お陰さま」と感謝し、嫌なことが起きたら「自業自得」と我が身を見つめるのは、じつに仏教的な態度といえるだろう。
 悲嘆のときにも、腹が立つときにも、自分を見つめることでしか本質的な変化は起こらない。「言語道断」と他人を怒ってみても、何の所得もないのである。
(玄侑宗久 著 『さすらいの仏教語』より)




No.928 『世の中に新しい価値をつくる教室』

 ただ、なにげなく手に取った本ですが、いろいろな人がいろいろな方法で新しい価値を作ろうとしていることがよくわかりました。読んで、とてもおもしろかったです。
 じゃあ、その新しい価値って、そもそもなんだと考えれば、なんか漠然としていますが、では、アイデアってなに、と考えると、ちょっとは見えてきます。つまり、あまり前例がないというようなもので、この本で取り上げられていたヘンリー・フォードの「自動車がなかった時代に、自動車が必要になるかどうか?と聞いて回っても、もっと丈夫で早く走る馬が飲しいと答えただろう」ということがよくわかります。
 ビジネスコンサルタントの細谷功さんは、『おいしいレストランの要素を考えてみると、おいしい料理について、食材がいいかどうか、これは「知識力」です。そして料理の腕が「思考力」つまり、知識や材料を組み合わせられる力です。そして、料理の盛り付けやレストランの内装が「対人関係力」です。人に動いてもらう力、とも言えるかもしれません。これらのうち2つ以上がほかのレストランより上回っていれば、ほかのレストランよりも良いレストランだと言うことができると思います。』と書いていますが、さらにもっとわかりやすいのではないかと思います。
 このように、この本では、第1講が「そもそもアイデアってなんだ?」、第2講「どんなプロセスがあるの?」、第3講「どうやってアクションしていくの?」、第4講「チームで成果を出すためには?」、第5講「継続していくためには?」という具体的なことをそれを実践している実務家から直接話しを伺うという体裁をとっています。
 そもそも、この「schoo WEB−Campus」というのは、自らも書いてあるように、『サービスコンセプトは「WEBに誕生した学校の新しいカタチ」。インターネット生放送授業によるライブ感と、画面の中と自分たちが同期している感覚を利用して、「圧倒的に楽しい」学び体験をインターネットで提供することです。そして、「学べない状態をつくっているたくさんの理由」を取り除き、新しい学びの選択肢を提供し続けることで、すべての人が学び続けられる世の中をつくり、その人の人生を豊かにすると同時に、学び続けられること、簡単に新しい学びにアクセスできるようにすることで、世の中の進化速度を高め続けていこうと考えています。』とあります。
 これは、とてもおもしろいアイデアだと思います。今はまさにインターネットの時代で、それなしには仕事も生活も成り立たないと思ってしまうほどです。
 下に抜き書きしたのは、ハウツーサイト「nanapi」を運営する会社の代表取締役の古川健介さんが優れたコンセプトについて書いているところです。最初に「アイデアに勝ちはない」と言い切るあたり、ただのアイデアマンではないようです。意外と、安易にコンセプトという言葉を使う人がいますが、ぜひ読んでもらいたいと思います。
  (2014.3.15)

書名著者発行所発行日ISBN
世の中に新しい価値をつくる教室schoo WEB-campus 編ディスカバー・トゥエンティワン2013年8月27日9784799313688

☆ Extract passages ☆

 サイモン・シネックという有名なコンサルタントは、優れたコンセプトは「Why→How→What」の順で思考されているということを提唱しています。
 Why=なぜそれをやるのか
 How=どのようにするのか
 What=何をするのか
 もし「What」から考え始めてしまうと途端に行き詰まってしまいます。仮に、「Why」と「How」が決まっていると、Whatがいくら変わっても対応可能です。
 たとえば、googleは、「世界中の情報は整理されていたほうがよい」という「Why」のもとに、googleの検索サイトを始めました。これがもし、「What」からスタートしていたらどうなっていたでしょうか?「イケてる検索サイトをつくります」となっていたら、googleからgmailやgoogle mapのようなサービスは生まれなかったでしょう。
(schoo WEB-campus 編 『世の中に新しい価値をつくる教室』より)




No.927 『花のベッドでひるねして』

 久しぶりに小説を、しかもはじめてよしもとばななさんの書いたものを読みました。なんとなく気にはなっていたのですが、どうしてもすぐ話題作りができるものを優先して読んでいたので、冬の暇のときにあえて読んだのです。
 吉本隆明の娘さんだとは知っていたのですが、それ以上のことは何も知らず、でも、それがなぜか新鮮な感じがして一気に読んでしまいました。やはり、小説は時間があるときにその本のなかに没頭できるような読み方をしたいと思っていましたから、シチュエーション的にはちょうどいいタイミングでした。
 なぜ読もうと思ったのか、それは意外と単純な理由で、この本の題名がよかったからです。そして、装丁のイラストもよかったです。
 では、なぜこのような題名が生まれたのか、それを本のなかで探してみると、おそらく、祖父が主人公の幹に「花のベッドに寝ころんでいるような生き方をするんだよ。幹のいちばんいいところは、心からの幸せの価値を知っていることだ。今のままでいい。うっとりと花のベッドに寝ころんでいるような生き方をするんだ。もちろん人生はきつくたいへんだし様々な苦痛に満ちている。それでも心の底から、だれがなんと言おうと、だれにもわからないやり方でそうするんだ、まるで花のベッドに寝ころんでひるねしているみたいに。いつだってまるで今、そのひるねから生まれたての気分で起きてきたみたいにな。」と語りかけるところにあるのではないかと思いました。
 たしかに、この世の中は混沌に充ち満ちているし、何が何だかわからない闇の部分もあります。でも、だからこそ、「花のベッドに寝ころんでいるような生き方をする」ことが大切だと思います。幸せって、どこか別の場所にあるのではなく、その今いる場所にあるっていうか、その場所そのものが花のベッドのような気もします。そう思えれば、とても幸せです。
 最後のほうで、主人公が、「それが世の中なんだな」とつぶやくところがあります。そして、下に抜き書きしたような独白がつづきます。
 それらすべてわかった上で、やはり「花のベッドに寝ころんでいるような生き方をする」ということが大切です。
 最近はほとんど小説を読まなかったのですが、これを機会に、少しは読んでみたいと思いました。ただ、この「本のたび」に書くことはあまりないと思います。
  (2014.3.12)

書名著者発行所発行日ISBN
花のベッドでひるねしてよしもとばなな毎日新聞社2013年11月30日9784620107998

☆ Extract passages ☆

 一寸先はほんものの闇だったり、みんながみんなそうありたいと願ったいいほうには向かえなかったり、ただただその場の状況に流されたり、思いつきで行動したり、なかったことにしたり、殺したり汚したりすることにも慣れっこになったり…信じられない大きな渦がうちの裏の家だけではなくて、一歩外にでたら渦巻いているのが人間の社会というものだ。毎日顔を合わせている人はある程度自分で選んでいるから、その外でどんな違う世界が渦巻いているかをふだん人はあまり意識しない。
 でも一歩、ほんとうの意味で外に出たら、それはいつもそこにある。
 私はその一歩外からこの村にやってきたのだ、とあらためて確信した。
(よしもとばなな 著 『花のベッドでひるねして』より)




No.926 『エネルギーを選びなおす』

 2011年3月11日に起こった東日本大震災による東京電力福島第一原発事故は、多くの人たちが住んでいた土地を奪ってしまいました。その付近に住む人たちにも、さまざまな不安を与えています。それをテレビなどで見ると、すぐにでもすべての原発を即時停止しなければと思います。
 でも、それですべて解決するかというと、それも疑問です。とにかく、福島第一原発事故の収束をはかり、できうる限りの除染をし、全国に残っている核の廃棄物の始末をしなければならないと思います。そして、その原発に代わりうるエネルギーをどこに求めるか、というのも大きな問題です。
 この本のなかで、「エネルギー浪費型社会は18世紀半ばの産業革命で離陸し、19世紀半ばに石油掘削成功で上昇期を迎え、20世紀半ばには急上昇期に入った。現在はおそらくその曲線が頂点に達したころだろう。つまり、後は下降する一方だ。遅くとも今世紀後半には、すべての既存エネルギー資源が減少局面を迎え、来世紀には、掘削と精製にコストとエネルギーがかかり、歩留まりが悪すぎて手をつけようにもつけられない資源しか残らなくなるにちがいない。そのころ私たちの子孫はエネルギー資源が枯渇する中で核廃棄物や気候変動のような負の遺産ばかりを押しっけられて、先祖を恨むのではなかろうか。」とあり、たしかにそうだと思います。
 自分たちの時代だけ、好き勝手なことをして、今の技術では核廃棄物の処理はできないからと先送りにすれば、私たちの子孫は恨むのは当然です。
 では、どうすればいいのか、ここには、「自然エネルギーへの転換にはコストがかかりすぎるという人がいるが、それは新しい持続可能な社会への投資と見るべきだろう。しかも、自然エネルギーはその獲得 のためにさまざまな犠牲を払うこともない、平和で持続可能なエネルギーである。」とあり、まずは少しでも自然エネルギーへの転換を図るべきだと提言しています。
 たしかに、たとえば電気をつくるには、原子力だけでなく、化石燃料を使う場合でも、採掘や精製の段階でも汚染しますし、燃焼する段階でも大気汚染物質を排出します。たとえば、今、中国で発生しているPM2.5による大気汚染は、工場などが安価な石炭を十分な環境設備を持たないまま燃やしている事が主な原因ではないかと考えられています。
 電気は、たしかに便利ですし、その便利さに麻痺してしまいなんどもかんでも使いすぎれば、いろいろな問題を引き起こします。人類を便利にするはずの電気も、実は、この電気のために苦しんでいる人たちも多くいることを忘れてはなりません。
 そういえば、ここニュージーランドには原子力発電所がまったくなく、地熱発電も盛んに行われていて、北島のタウポ周辺をレンタカーで走っていると、道路のわきに丸く太い管が張り巡らされているのを見ました。あまり電気を使わない生活も、ここでは見ることができました。
 下に抜き書きしたのは、この電気を使い始めたのが、わずか100年と少ししかたっていないのですから、ちょっとびっくりです。こんなことは、歴史を少しみれば、すぐにわかります。でも、それだけあまりにも身近に存在し使っているということではないかと思います。
 そろそろ別の道を考えるときだと、私も思います。ぜひ、読んでいただきたい1冊です。
(2014.3.10)

書名著者発行所発行日ISBN
エネルギーを選びなおす(岩波新書)小澤祥司岩波書店2013年10月18日9784004314516

☆ Extract passages ☆

 電気の最大の弱みは、「二次エネルギー」だということである。なんらかのエネルギー源を投入しないと作ることができない。そしてその過程で多くのものが失われる。そしてエネルギーの用途のうち、電気でなくてもすむものは多いのだ。そのことを考えれば、別の道が見えてくる。その一つがバイオマスエネルギーの熱利用だったのである。
 福島第一原発事故後になっても、電気偏重の議論はあまり変わっていない。まるで電気がなければ社会や経済が成り立たなくなるというように。しかし人類が電気を使い始めてからまだわずか百年と少ししかたっていないことを考えれば、その議論は少し奇妙な気がする。20世紀初めの日本の総発電容量は数十万キロワットで、原発一基分もなかったのである。
(小澤祥司 著 『エネルギーを選びなおす』より)




No.925 『原発が全くない国、ニュージーランド』

 今、ニュージーランドにいますが、たしかに原発が全くないだけでなく、自然エネルギーの利用も盛んに行われています。特におどろいたのは、ダウトフル・サウンドでクルーズするために行く途中のマナポウリ湖のすぐ近くにある「マナポウリ地下発電所」です。普通の水力発電所は、高いところから導水路で水を発電所まで導き発電するのですが、ここはその発電所を地下深くにつくり、その水を10qほどの放水路からダウトフル・サウンドへと流すのだそうです。だから、電気を送る送電線だけは見えるものの、それ以外は地下にあり、気づかない人もいるようです。つまり、自然エネルギーを利用するといっても、ちゃんと環境にも配慮しているわけです。
 それと、入国にさいしての検疫も厳しく、入国ガイドには薬は医師からの処方箋のない薬や食べものなども申告しなければならず、さらに靴底まで調べられたのは初めての経験でした。これは靴などについた泥が生態系に影響を及ぼさないようにとの配慮だそうです。だから、山に入る入り口には、ほとんど靴底を洗う水とブラシがあり、それで靴底の泥をきれいに洗い流してから入山します。
 そういえば、山に入っても必ずすれ違うときには挨拶をしますし、道を譲ると必ず「サンキュー」といいます。この本にも「ニュージーランドの治安の良さは、その国民性や人間性によるところが大きいように思う。ニュージーランド人の国民性は、フレンドリーで優しくどこかおっとりしている。知り合いでなくても道端で会う人、誰にでも挨拶をするのが普通だ。手を挙げたりウインクしたりして陽気に挨拶し合う光景は、日本では見られない。このように開放的な性格でありながら、島国独特のシャイで穏やかな国民性もあり、日本人に通じる面がある。争い事や口論を好まず、英語が上手く話せなくてもオープンに接してくれる。容姿は西洋人だが、性格はむしろ日本人に近い印象さえ受ける。私はニュージーランドを訪れる度、ニュージーランド人の人間性の素晴らしさに感動するのだ。」と書いてあります。
 たしかに、ほんのわずかの滞在でも、それを感じることはできました。
 原発は、人間が作ったものだから、必ず事故は起きると思います。ここニュージーランドに全く原発がなくても、たとえばヨーロッパのように国と国が隣接していれば、チェルノブイリのときのような大きな影響を受けるはずです。ところが、「隣国のオーストラリアにも原発がないため高濃度の放射能に汚染されるリスクはゼロだ。しかも、オーストラリアとは2,000キロメートルも離れているため、化学工場の爆発など何かオーストラリアで事故があったとしても、ニュージーランドが被害を受けることはまずないだろう。」といいます。
 しかも、ニュージーランドは非核平和主義を国是として掲げています。過去には、アメリカの核兵器を搭載できる軍艦の寄港を拒否したことがあり、そのときにはアメリカは強い圧力をかけました。さらにはニュージーランドを国際社会から締め出す動きも見せたのです。それでも、どこかの国のように国是を曲げようとはしませんでした。
 おそらく、その強さは、食料自給率の高さではないかと思います。下に抜き書きしたのは、その当時のロンギ首相の言葉です。
 ぜひ、読んでみてください。そして、原発の是非というのは、電気をたくさん使いながら快適な生活を望むか、それとも自然に優しい安全で質素な生活を望むか、のどちらかの究極の選択だと思いました。
(2014.3.6)

書名著者発行所発行日ISBN
原発が全くない国、ニュージーランド浅井 隆第二海援隊2011年6月20日9784863351325

☆ Extract passages ☆

当時のロンギ首相は「ガソリンがなくなれば馬車を使えばいい。牧場をやって、野菜や果物をつくり、魚を獲って暮らせばいい。われわれにはそれで暮らせるだけの土地があり、自給自足できる」と国民に呼びかけ、国民もそれに賛同したという。
(浅井 隆 著 『原発が全くない国、ニュージーランド』より)




No.924 『キウイおこぼれ留学記』

 2月24日の夕方の便なので、当日に自宅を出て成田空港に向かったのですが、東京駅からメモリーを買い足したいと思い秋葉原に行き、ついでに「書泉ブックタワー」に行き、ニュージーランド関係の本を探しました。もちろん、持って行く都合もあり、文庫か新書版ですが、ほとんどないのです。
 しかたなく、目星をつけていた小林聡美『キウイおこぼれ留学記』を探したのですが、それもなく、店員に訊ねるとしばらく調べてくれましたが、ここにも本店にもなく、お取り寄せになるということでした。今更、お取り寄せもないと思い、次に「ブックオフ」に行くと、2冊もありました。そのうちのきれいな本を1冊とって、それを京成成田空港線の電車内から読み始めました。
 スカイライナーだと乗車券と特急券で2,400円ですが、船橋経由のアクセス特急だと1,000円で成田空港まで行けます。時間はちょっとかかりますが、それでも電車内で本を読んでいれば必ず着くので、迷わずこれに乗りました。そして、この本の半分以上は読んでしまいました。
 ところが、それ以降はなかなか読む機会がなく、28日のテ・アナウのホテルで読み終わりました。
 著者の小林 聡美さんは、もともとは女優さんで、とてもユニークな雰囲気をお持ちです。それがそのままこの本に出ているという感じの書き方です。そういえば、元夫は映画監督の三谷幸喜さんだそうで、どちらもたしかにユニークそのものです。
 やはり、旅には行先に少しでも関係するような本とか、読みやすさなども選定なども大事なことです。この本も、ある意味では、お気楽に読めるもので、移動中の飛行機や車の中でも読めてしまいます。だから、何冊かは、いつもザックのなかに入れてあり、歩いています。
 ただ今回は、レンタカーでの移動なので、読むのはホテルの就寝前のちょっとした時間だけでした。
 下に抜き書きしたのは、著者が感じたホームステイ先の印象ですが、私もニュージーランドでは人柄の良さを感じました。ここで研究している方に伺うと、もともとこの国に来たイギリス人たちは、それなりの裕福な方たちが多かったので、生活にゆとりがあるのではないかと話していました。ここにいると、本気で性善説を信じたくなりました。
(2014.2.28)

書名著者発行所発行日ISBN
キウイおこぼれ留学記小林聡美幻冬舎2002年10月25日9784344402829

☆ Extract passages ☆

 初めてのホームステイ先が、このご夫婦の家で本当によかった。ゴハンも美味しく、部屋も清潔。そしてなによりも微妙な繊細さが、ワタシのカユイところと非常にマッチしていた気がする。ワタシのほうは、いろいろ迷惑や心配をかけたと思うが、それでも、清く正しく善良なキウィ魂のおふたりは、本当に親切で愛情を持って接してくださったと感謝している。
(小林聡美 著 『キウイおこぼれ留学記』より)




No.923 『ニュージーランドすみずみ紀行』

 ニュージーランドって、遠い世界だと思っていたけれど、昨年12月に行かないかと誘われました。ほとんど何も知らなかったけど、即、「行きます」と答えました。
 それから、本屋に行き、ガイドブックを買おうと思ったら売っていなくて、仕方なく図書館に行くと、これまたなく、旅行記などもありませんでした。つまり、あまりメジャーなところではないのかな、と思いました。それでインターネットで調べてみると、あるにはあるのですが、植物関係の本はまったくありませんでした。
 普通、一般にはニュージーランドというとキウィフルーツしか思い浮かばないらしく、この本にも、「やや意外に聞こえるが、キーウイフルーツはニュージーランド原産ではなく、もともと中国産のマタタビ科の植物である。20世紀初頭、ニュージーランドに持ち込まれたあと、1950年代後半から生産が本格化し、このネーミングもその際に考案されたものだ。意外にも歴史は浅いが、世界的にこの果物が認知され、生産量が急増したのは1980年前後という、さらに最近のことだ。その頃には北島東海岸を中心に、キーウィフルーツで一発当てた億万長者が出現したという。」と書いてありました。
 それで仕方なく、ブックオフとかいろいろと探して見つけたのがこの本と「原発が全くない国、ニュージーランド」の2冊でした。それで旅行も近づいてきたのでこの本から読み始めたのです。
 これはなんどもニュージーランドに行っている、いわば旅行ライターのような人が書いたもので、自分の足で歩いたところを取り上げています。だから、とてもリアリティがあり、これは行ったときに参考になると思いました。
 たとえば、「主要国道を走っていても、橋の部分だけが一車線になってしまうところがたくさんあるのだ。交通量の多くないところで、二車線分の橋を造るのにカネをかけるなどもったいないという、単純明快な発想だ。一車線になる橋の手前にはちゃんと道路標識があり、どちらの方向の車両に優先権があるかを示しているので、混乱はない。」とあり、今回はレンタカーを借りて移動するので、とても大事なことです。
 また、これはインターネットで調べたのですが、「ラウンドアバウトと呼ばれる交差点をよく目にする。日本の駅前によくあるロータリーと形は似ているが、信号がなくても交差点の車をスムーズに流す働きを持つ。基本は、「自分の右側にいる車が優先」。先にラウンドアバウトに入っている車が優先なので、右から来る車をやり過ごしてから進入する。ラウンドアバウトの中を走っている間は、一時停止の必要はない。」とあり、これは気をつけなければと思いました。また、運転のマナーでは、あまりクラクションをならさないとか、不要なアイドリングはしない、エンジンのかけっぱなしはうるさいのと排気ガスの両面から嫌われるとか、日本でも通常行われているものもありました。
 今回はおそらく長距離バスでの移動はないのですが、この本には「遠隔地へ行くバスは、郵便物の入った袋を町の郵便局に渡したり、ちょっとした荷物を届けたりと、いろいろな役目をもっているようだ。小さな町に着くと、その都度ドライバーは地元の人と言葉を交わし、荷物を積み下ろしたり、なかなか忙しそうに立ち回っている。」と書いてあり、そういえば、日本でも昔はこのようなことがあったと思い出したりして、楽しく読むことができました。
 今、この旅に持って行く本を選んでいますが、ちょっと悩んでいます。いつもは、手軽な文庫本や新書版を持って行くのですが、ニュージーランド関連のものがほとんどないのです。もし、見つからなければ、成田空港に向かう前にどこかの大きな本屋さんで探すしかないかな、と思っています。
(2014.2.24)

書名著者発行所発行日ISBN
ニュージーランドすみずみ紀行佐藤圭樹凱風社1999年2月20日9784773623055

☆ Extract passages ☆

 ゴンドワナ大陸の分化は、三億年ほど前の古世代後期から一億年前の中世代中期に起こつたと推定される。我がニュージーランドはといえば、おおむね一億年くらい前に大陸から分かれたというのが定説だ。一億年前というと、この世にまだ恐竜がいた白亜紀である。哺乳類が本格的な進化を遂げる以前の段階だ。この段階で大陸から離れて小さな島国となったニュージーランドは、地球上のほかの場所で始まった生物の進化からは切り離され、ひたすら独自の生態系を育てる道を歩んでいくことになる。
 その結果、ニュージーランドに哺乳動物は育たなかった。クジラ、オットセイなど海の動物を別にして、陸に棲む哺乳類はコウモリだけだったのだ。
 こうしてこの島国は鳥の楽園となった。なにしろ、外敵となる肉食の哺乳動物が一匹たりともいないのだ。鳥はもはや飛ぶ必要すらなくなり、実際にいくつかの種が飛ぶことをやめた。ニュージーランドの国鳥であり、シンボルでもあるキーウィがその代表だ。地中に住む虫をおもな餌とする彼らは、地面を突っつくのに適した長い嘴をもった代わりに、翼をほとんど退化させてしまった。
(佐藤圭樹 著 『ニュージーランドすみずみ紀行』より)




No.922 『すてきな地球の果て』

 この本は、極地に憧れて、実際に3度も南極地域観測隊に参加したり、北極に出かけたりしたときのことを記録したもので、写真もとてもきれいです。読み始めると、スーッと最後まで読んでしまいました。
 「はじめに」のところに書いてあったのですが、「自分の足で、見たこともない場所に行って、匂い、音、温度、湿気、色、風の流れ、季節の移り変わり、全部を自分の体で知りたい。人間が暮らしているのと同じ地球上に存在する、けれどそこから遥か遠いところにある隔絶された世界。何度でもそこへ行きたい。そして、いろんな瞬間に出会いたい。」という気持ちが、文章のところどころに感じられます。
 また、キョクアジサシという鳥のことを書いていますが、「北極で繁殖するものは北半球が夏の間に北極へ行き、子育てを終えると、その後、夏を迎える南半球のずっと果て、なんと南極まで渡りをするというのだ。そしてまた、南極の夏の終わりとともに、再び北極を目指して渡りをする。」というから驚きです。
 このことを知ったのは、南極に行く約1年半前のことだそうですが、これは興味があるからこそキョクアジサシに関心を持ったので、行ってみたいとか知りたい、ということの効用です。興味や関心がなければ、なかなかその先には進めません。
 そういえば、木村拓哉が主演したテレビドラマ『南極大陸』は、TBS系列の「日曜劇場」で放送されたことがありましたが、見ているだけでも環境の厳しさが伝わってくるようでした。それでも行きたい、という熱い情熱のようなものが感じられ、ついつい見てしまったことを、この本を読みながら思い出しました。
 そのなかでも描かれていましたが、南極に近づく手前で、すごい嵐に船が翻弄されるシーンがありました。それがあるから、容易に人も他の動物たちも近づけないのだと思いましたが、その部分を下に抜き書きしました。たしかに、たいへんな暴風域のようです。
 でも、それを経験したからこそ、南極の海の静けさがあるので、いわば、一種の通過儀礼のようなものではないかと思いました。
 もし、極地に興味があれば、ぜひ読んでみてください。写真を見ただけでも、極地のすばらしさを感じることができると思います。
(2014.2.21)

書名著者発行所発行日ISBN
すてきな地球の果て田邊優貴子ポプラ社2013年8月11日9784591135624

☆ Extract passages ☆

南極大陸の周りには地球を一周する海流があるため、常に暴風が吹き荒れている。この暴風が障壁のようになって、生き物たちが南極大陸へ侵入するのを拒んでいる。おかげで、氷海に入るまでは船が激しく揺れ続ける。‥‥‥
 暴風圏では、船がなんと43度まで傾き、南極海の凄まじさを身をもって体験することになった。荒れ狂う波はまるで刻々と姿を変える壁のようで、初めて海というものが意志を持った生き物のように見えたのだった。‥‥‥
 ある朝、船が揺れなくなったと思い外へ出ると、異次元に迷い込んだのではないかと疑いたくなった。
 暴風圏という壁を抜けると、突然、これまでとはまったく異質な世界が現れる。海は一面鏡のように静まり返り、空の色が信じられないほどに透き通っている。
(田邊優貴子 著 『すてきな地球の果て』より)




No.921 『言葉と歩く日記』

 現在、ドイツのベルリンに住み、日独2カ国語で作品を発表しているそうで、それって、言葉をどのように操っているのかと思いながら読みました。
 やはり、それは日本語をドイツ語に翻訳するようなやり方で作品を作っているのではなく、ドイツ語で考え、ドイツ語で書いているというような感じでした。
 それとおもしろいのは、外国では作家の朗読がけっこうあり、そのためにいろいろなところで朗読会に出席し、その場所のことなども書いてあり、興味をそそられました。というのは、この本そのものが、いつの1月1日かはわかりませんが、正月から4月15日までのことを書いています。
 ただ、この本にも書いてありましたが、「わたしは現在、「二重帳簿」をつけている。言葉に関することを中心に書くこの日記の他に、その他のことを書く普通の日記がある。普通の日記は小学校の高学年からつけている。」とあり、おそらく、この本に出てくるものは、その二重帳簿の合作ではないかと思います。
 そういえば、日本人との違いでみると、アメリカフロリダ州のタラハシーというところでの話しですが、『カフェのドアに「Open 7 days」と書いてある。日本語なら「年中無休」と書く。一日も休まない、と言うのと、毎日開いている、と言うのではかなり違う。日本の場合、「わたしは全然休まないで働いているんですよ」と客に言っているわけだ。わたしなどは、「年中無休」と言われると、「そう言わずにたまには休んでください」と言いたくなる。』と書いていて、たしかに陽気なアメリカ人と日本人ではこのように書き方にまであらわれてくる、と思いました。
 また、ドイツでのことですが、『「駄目」をローマ字で「Dame」と書くと、ドイツ語では「婦人」の意味になる。ある日本人旅行者がドイツでトイレに入ろうとすると片方のドアには「だめ」、もう一つのドアには「ヘーれん(Herren)」と書いてあったので、どちらにも入れなかった、という笑い話がある。』と紹介していますが、たしかに言葉にはちょっと笑えるようなこともありそうです。
 下に抜き書きしたのは、作家らしい文章で、推敲に関するものです。私も頼まれた原稿はさっさと書き、数日寝せておいてからまた書き直すと、意外と気づかなかったところがはっきりします。まさに、この内容の通りだと思い、ここに掲載しました。
(2014.2.18)

書名著者発行所発行日ISBN
言葉と歩く日記(岩波新書)多和田葉子岩波書店2013年12月20日9784004314653

☆ Extract passages ☆

 推敲という作業は不思議なもので、同じ箇所を一日のうち何度も読み返して何度も推敲することがなかなかできない。一晩寝かせておいて(この場合、寝るのが原稿なのか自分なのかよく分からないが)翌朝、昨日書いたことは何もかも忘れた頭で読み返してみると、どこを直したらいいのかが明確に見えてくる。翌朝また同じ作業を繰り返すと、また別のところを直すことになる。そしていつの日か、「これでいい」が「これ以上いじると悪くなる」に変わる瞬間が訪れる。そうしたら、できあがった原稿を旅立たせてあげればいい。それまでに何晩も眠らなければいけない。深い眠りが良い推敲の条件である。眠りによって、全体をぱっと動物的にとらえる能力が脳の前面に出てくる。
(多和田葉子 著 『言葉と歩く日記』より)




No.920 『茶の湯の銘 物語のことば』

 前回の『父、小堀宗慶の背中』に続きお茶関係の本ですが、自分でも茶杓を削るので、とくにこの「銘」ということに関心があります。
 この本では、「銘」を広辞苑を引き合いに出し、「器物・茶・酒・菓子などの固有の名」としていますが、初めてこのような銘がつけられたのは、『看聞御記』に出てくる「円壺 号安計保乃」だそうです。ここでは銘ではなく、「号」として「あけぼの」という名になっているそうです。
 この本では、「物語のことば」として、『古事記』、『伊勢物語』、『源氏物語』、『平家物語』、『宇治拾遺物語』など、学校でも古典の時間に登場した物語からたくさん引用されています。
 和歌は、「国歌大観」を持っているので、なんとか原典を探すことはできるのですが、物語のなかから探すのは、相当な古典力がないとできません。だからこそ、このようなことば集が必要になるのではないかと思います。
 読んでみると、何度か見聞きしたものもありますし、初めて聞くことばもあり、それらはカードに書き写しました。
 たとえば、「波波迦」というのは「ウワミズザクラ」のことだそうで、これは『古事記』に出てくる「天の香山の天のははかを取りて、占合ひまかなはしめて」とあるそうで、このウワミズザクラの木の皮で鹿の肩骨を焼いたり、材の上面にみぞを刻んだりして占いに使ったそうです。
 また、『源氏物語』の「宿木」に、「花心におはする宮なれば、あはれとはおぼすとも」の花心とは、移りやすい心、つまりは浮気心だそうで、これもちょっと理解できませんでした。ただ、解説を読むと、なるほどとも思いますが、別な意味もあり、それは「はなやかな心」とか「陽気な心」だといいますから、むしろこちらの解釈のほうが花心に似合うのではないかと思います。
 やはり、古典はなかなか解釈が難しいものがあります。だいぶ前のことですが、「これで古典がよくわかる」橋本 治、ちくま文庫、を買ったまま読まなかったのですが、そろそろ読んでみようかな、と思いました。
 下に抜き書きしたのは、『枕草子』のなかに出てくる「虎杖(イタドリ)」の解説です。
(2014.2.15)

書名著者発行所発行日ISBN
茶の湯の銘 物語のことば淡交社編集局 編淡交社2013年11月22日9784473039156

☆ Extract passages ☆

 「いたどりはまいて、虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべき顔つきを」(148)
 タデ科の多年草。山地、荒地に自生。晩夏、白色の小花を多数穂状につける。花が紅色のものは明月草と呼ぶ。スカンポ。古名は「さいたずま」。春の季語。
 *見た目にはたいしたことがないけれど、文字に書くと大げさなものの一例。
(淡交社編集局 編 『茶の湯の銘 物語のことば』より)




No.919 『父、小堀宗慶の背中』

 お茶といえば利休ですが、昨年暮れに映画『利休にたずねよ』を観て、やはりその師匠の村田珠光や弟子たちの古田織部などにも興味を持ちました。そして、たまたま立ち寄った本屋さんで見つけたのが、この『父、小堀宗慶の背中』で、著者は現遠州流の家元でした。
 小堀遠州は古田織部の弟子で、金森宗和などとともに綺麗さびといわれる武将です。いわば、大名茶道で、この本の中にも出てきますが、弟子をとって教えるということもほとんどなく、祖父の時代にはお稽古用の道具というものもなく、古い伝来の茶道具を使っていたといいます。
 それを象徴するのが、『除夜釜では、毎年必ず『鐘声』という利休瀬戸の茶入を使う。祖父の時代には、お稽古用の道具というのがなかったので、古い伝来の道具でお稽古していた。関東大震災のときにこの茶入がたまたま水屋にあって、落ちて割れてしまったらしい。その破片を祖父が一つひとつ集めて漆で繋いで、それを108つの煩悩にかけて、「百八の煩悩くだく鐘の音に鬼もすみかにたち帰るらむ」という銘をつけて、以来、それを除夜釜で使うようにしたのである。ばらばらになってしまったものだけれど一つひとつ繋げて一つの形にしていくというお茶のこころの象徴でもある。ちなみに仕覆も片身替わりである。』との逸話が載っていて、なるほどと思いました。
 私は表千家流の茶を習っているが、元を正せば、すべて利休につながります。利休はまさに富士山の山頂だとすれば、そこに登るための登山口が表千家や裏千家、あるいはこの遠州流です。どこから登ってもいいと思っていますから、どこの流派の本でも読みます。必ずそこには、自分の流派にないいいところが書いてあり、お手前以外の心構えなどとして参考にします。
 たとえば、自分でも茶杓を削りますが、この本のなかでも、「もともと金属や象牙の薬を掬う匙の形を倣って、節も何もなかったが、利休の時代に節のあるものが登場していまの形になっているわけで、つまり、利休の作であることが大事だった。だから、利休や織部作の茶杓はとても個性が強い。遠州は、誰が作ったというだけでなく、そこに美的な要素を取り入れ、竹の景色が美しいものを選んだり、さらに文学的要素を加えて、歌銘を取り入れた。和歌には本来もっている意味がある。その歌は古今集に入っているものからとることもあれば、自分で詠むこともある。季節的なことや、自分の心の動きが歌に込められているわけだから、茶杓の世界が広く、豊かになる、というのが遠州さんの考え方だった。」といいます。
 そういえば、私も自作の茶杓に銘をつけるときには、季節感やそのときの想いなどを和歌に託すことがありますが、まさにそのことです。
 だから、その茶杓をつくるための竹は常日頃から集めていて、そのときそのときでいつでも造れるように蓄えてあります。
 お茶って、ほんとうにおもしろいと思います。茶杓1本でも遊べるわけですから、奥も深いと思います。
 これからも、流派にこだわらずにお茶を楽しみたいと思っています。
(2014.2.13)

書名著者発行所発行日ISBN
父、小堀宗慶の背中小堀宗実角川マガジンズ2013年5月3日9784047318717

☆ Extract passages ☆

 私は、茶の湯の花は潔くないといけない、と思っている。きっぱり、さっばりしていることが大切である。一言で綺麗といっても、ごてごてした装飾ではなく、洗練された品のよい綺麗さであり、そこに潔さがないといけない。だから、入れるときもさっと入れて、手を離したらそこで完成、くらいの気持ちで入れている。父に聞いたことはないけれど、きっとそう思っていたのではないかと思う。
 遠州流のお茶のあり方もそうありたい。父自身も実に潔い人で、生き方もそうだし、亡くなり方も綺麗だった。私はそれを受け継いでいきたいと思っているし、花に関しては、父の「花の命をいただいている」という言葉と、そこに、私の考える潔さを加えて取り組んでいこうと考えている。遠州流の綺麗さびとは、そういうことではないかと思っている。
(小堀宗実 著 『父、小堀宗慶の背中』より)




No.918 『ミャンマーを知るための60章』

 ほぼ1年前にミャンマーを訪ねて以来、やはりその関連のものに興味があり、この本も「ミャンマー」と題名にあるだけで読んでみようと思いました。
 そして読み進めるにしたがって、いろいろなことを思い出したり、風景が浮かんだりして、とても懐かしく感じました。たとえば、行く前に、ミャンマーではドル紙幣はなるべく高額できれいなものが喜ばれるといわれ、100ドル紙幣を中心にして、新札に両替してもらいました。なぜ、そうなのか、ミャンマーの人に尋ねてもわからなかったのですが、この本にも、「ミャンマーに持ち込むお金は、なるべくきれいなドル紙幣を用意するのがよい。書き込みや折れ目のあるドル紙幣は受け取ってもらえないことがある。別に汚れているから偽札と疑われているわけではない。ミャンマー人は皆、理由はよく知らないが、汚れたドル紙幣はなかなか受け取ってもらえないと思っているので、そうしたドル紙幣はあらかじめ受け取らないようにしているようである。」と書かれてありました。
 やはり、理由はわからないようですが、まあ、考えてみれば、きれいなほうがいいわけで、あまり深い理由はなさそうです。
 それと、今、思い出しても、ミャンマーの人たちはとても純朴でした。もちろん、行ったのは辺境の地で、ほとんどが少数民族の村だったこともありますが、どこでも気楽に受け入れてもらい、写真も自由に撮らせてもらいました。おそらく、それは深い信仰心の表れでもあり、国民性でもあるようです。
 行く前は、長い軍事政権下で、おそらくちょっと暗いイメージを持っていたのですが、そんなことはみじんも感じられず、「ほほえみの国」そのものでした。おそらく、ガイドのチュウチュウさんの印象もあるのかもしれませんが、とても親切で、いやな顔を見せることもありませんでした。
 ミャンマーは宝石も採れるらしいのですが、この本で紹介していますが、「ビルマ語で石の輝きを表現するとき、宝石を扱う者の間ではプインデーを使う。プインには「花が咲く」という意味があり、あたかも花が咲いているかのように美しく輝きを放っているものを、この石は「咲いている」といって評する。また宝石の数を数えるときも、ふつう丸い物を数えるときに使うロウン(個)という数詞は使わず、花を数えるときと同じようにタプイン、フナプイン(ひと花、ふた花)と数える。」といいます。
 なんとも、風情のある数え方だと思いました。
 この本は、一般の人はもちろん、さらに研究をしたいとか学生たちのために、ミャンマーを知るための豊富なブックガイドが巻末にまとめられています。行く前に調べたときにはあまり資料はないと思っていたのですが、こんなにもたくさんあるとは、気づきもしませんでした。
 このなかから、また数冊を選び出し、読んでみたいと思っています。
(2014.2.10)

書名著者発行所発行日ISBN
ミャンマーを知るための60章田村克己・松田正彦 編著明石書店2013年10月15日9784750339146

☆ Extract passages ☆

 海抜2000メートル以上では、キングドン・ウォードが紹介したことで有名なシャクナゲ林が発達し、たとえば西部のビクトリアピーク(ナッマタウン国立公園)ではネパールヒマラヤと共通のシャクナゲ(Rhododendron arboreum)が樹冠の高さ20メートルにもなる純林をなして、乾季の後半に開花し稜線を赤く染めるのが見られる。環境によって松林が混じることがあるが、マツの樹幹に着生し、大きな白色の花を咲かせるシャクナゲの一種(Rhododendron cuffeanum)は独特である。山地の一部は広く草原に覆われるが、その要因は石灰岩など土壌の貧栄養によるものと、放牧や火入れなど人為的なものがあると考えられている。ビクトリアピークでは3月から5月にかけて黄花のシャクナゲ(Rhododendron burmanicum)、サクラソウ属、アネモネ属、キジムシロ属などが美しく咲き乱れる産地性の草原が広がっている。(邑田 仁)
(田村克己・松田正彦 編著 『ミャンマーを知るための60章』より)




No.917 『記憶がウソをつく!』

 まさに、今もっとも話しのうまい2人がトーク・バトルをするわけですから、おもしろくないなんてことはあり得ないと思いながら、読みました。
 全部をあっという間に読み終えて、やはりおもしろかったと思いました。だいぶ前に買っておいて積んでいたなかの1冊でしたが、数日前まで忙しかったので、このぐらいが軽く読み進めるには最適な本でした。
 よく、左脳が言葉脳で、右脳が音楽脳とか絵画脳とかといわれますが、実は右脳は言語を使わないで、音は音、視覚は視覚で処理しているのだそうです。ということは、左脳はいわば言語脳なのです。
 養老先生いわく、「僕は芸大で美術を教えていたんですが、面白いんですよ、学生はだいたい外国語が下手なんです。芸術の能力を高めようとしたら、言葉の能力が低くなるんです。目と耳の共通処理部分が小さくなってくるわけです。だから芸大は入試で外国語を課しちゃいけないところですよ。逆に、言語能力が高いということは、極端にいえば右脳の側の能力が低いということになるんです。」という発言につながります。
 でも、この言い切ってしまうところが、おもしろいところで、「僕はね、若いときから、女の人が鏡の前に一時間いるっていうのが本当にわからなかった。でも最近になるとよくわかりますね。あれはね、五年に一回鏡の前に座ったら大変なことになるから(笑)。だから毎日見て、昨日の記憶は今日の姿で消しておかないといけないわけ。絶えず昨日の記憶を新たに取り替えておくと、ほとんど変わってないって思えますからね。」とも言っています。でも、それだけではないでしょう、と思いながらも、ある意味、核心を突いているのかな、と笑ってしまいます。
 これがこのお二人のトーク・バトルのおもしろさです。古舘さんが質問して、養老先生から引き出す答えが、とてもユニークというか、ほのぼのとしています。
 たとえば、昔の記憶は当てにならないというところでの話しですが、「その記憶の中に自分がいるからなんです。映画のシーンみたいになっているのになんで自分が映っているんだ、と。正確な記憶としては、ちょうど自分がテレビカメラになって見ているわけだから、自分はカメラのこつち側にいなくちゃいけない。情景の中に俺がいるじゃないか、おかしいよそれは、と思うわけです。」と答えています。たしかに、これでは自作自演みたいなもので、いくらでも都合良く変更できるわけです。
 このような話しが次から次へと出てきます。とてもおもしろいので、興味があったら、お読みください。
(2014.2.7)

書名著者発行所発行日ISBN
記憶がウソをつく!養老孟司×古舘伊知郎扶桑社2004年2月20日9784594045258

☆ Extract passages ☆

 祇園精舎の鐘の音だってね、叩いたら必ず同じ振動数で鳴るから、いつでも同じなんですよ。そこに諸行無常の響きがあるのは、聞いている人がひたすら変わっていくから。そういう意味なんです。『方丈記』の書き出しとまったく同じです。「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」っていうくだり。あれは、川というのはいつもそこにあるし、情報として「あ、川だ」と認識できる形で確かに川はあるし、あなたも川があると認めるだろう。だけど、私が川と言ったときとあなたが川だと認めたときには、もう水が入れ替わっているだろう、と。つまりは同じことを言っているんですよ。情報は止まっているけれど、そして鐘の音も川の姿も変わらないけれども、実態は絶えず変化しているでしょうという、中世の人の常識なんですよ。
 それが現代人になると逆さまになって、情報はどんどん毎日変わっていくけど、自分は同じだと思っている。自分はずっと同じだと思うために、情報を自分の中に入れないで、全部外部化しているんです。そうすれば自分が変わるということに気が付かないですむから。それで、変わらないはずの情報のほうが変わる変わると言っているんですよ。(養老孟司)
(養老孟司×古舘伊知郎 著 『記憶がウソをつく!』より)




No.916 『子どもが伸びる ほめる子育て』

 もうとっくに子育ては終わっているけど、孫がこれからということもあり、つい、このような本を見つけてしまいました。しかも、孫といっしょに図書館に行ったときのことでした。
 副題は「データと実例が教えるツボ」とあり、その実例を読んでいるうちに、最後まで読んでしまいました。
 たとえば、その実例の一つですが、熊本市立池上小学校では、1年生から6年生までの各クラスで、自動が相互にほめ合う「ほめ言葉のシャワー」という取り組みをしているそうです。それを始めてから、この学校では、児童の間には次のような変化が表れてきたといいます。
 第1に、日常生活のなかでほめ言葉が即座に言えるようになった。
 第2に、相手をよく見るようになり、また自分の考えをもつようになった。
 第3に、児童が自己肯定感をもてるようになった。
 第4に、児童の表情が明るくなった。
 第5に、不登校がなくなった。
 第6に、児童たちに落ち着きが出て、成績も上がった。
 さらに、高学年特有の群れる集団が少なくなったとか、すすんで挨拶する子が増えたともいいます。
 やはり、子どもはほめて育てたほうがいいようです。
 でも、このほめかたも意外と難しいものです。ほめすぎては逆効果だし、ほめるタイミングだって、あります。あるいは、高校生ぐらいの年頃には、「叱るほめ方」もあるそうです。
 とくに、今の時代は、家庭でも叱らないし、学校の先生たちもなかなか叱れない雰囲気がありますし、さらには地域だって、叱るような場面に出くわすことも少なくなっています。そのような環境で育ってきた子どもたちが卒業して、会社に入って、ちょっと叱られただけで、その抵抗力がないので、パニックになってしまうのだそうです。やはり、それでは困ります。
 最後の第4章の親子関係のところで、「人間関係には縦と横、それに斜めの三種類がある。縦の関係は命令と服従、支配と被支配、庇護と忠誠が基本であり、横の関係は協力、対立、競争が基本である。親と 子、教師と生徒の関係は縦、同級生や友だちとの関係は横が中心になる。これらは比較的単純である。それに対して兄弟や先輩・後輩のような斜めの関係には、単純な図式では表せない複雑で微妙な要素が入ってくる。力関係が接近したり離れたり、突き放されたり甘えたり、常に関係が変動する。また、縦と横の関係が主にタテマエで成り立っているのに対し、斜めの関係にはホンネが強く働いている。」と書いてありますが、今の少子化の現状では、この「斜め」の関係、つまり、ときには兄や姉のような態度で子どもと接する必要があるというのは、本当に大切なことだと思います。
 下に抜き書きしたのは、ちょっと長いのですが、「やればできる」という自信をつけさせるためには、成功体験が必要だと書いています。これを読めば、たしかにそうだと納得できます。
 もし、現在、子育て中なら、ぜひ、読んでみてください。もちろん、私のように孫といっしょに生活している方も、読んでいただきたいと思います。
(2014.2.5)

書名著者発行所発行日ISBN
子どもが伸びる ほめる子育て(ちくま新書)太田 肇筑摩書房2013年11月10日9784480067470

☆ Extract passages ☆

「やればできる」という自信は、何よりも自分の経験によって得られる。自己効力感を高めるのに、いちばん効果があるのは成功体験なのである。
 その証拠に、成功体験がもたらす効果は人間だけでなく他の動物にも見られる。たとえばイヌやネコでも、自分で戸を開けたりエサをとったりするのに何度か成功したら、堂々とそれをするようになる。逆に何度か失敗したらそれをあきらめてしまう。‥‥
 人間の場合にも成功体験が大切である点は他の動物と同じだ。しかし、人間の場合には他の動物ほど単純ではない。そこに「認知」や「思考」という過程が加わるからである。たとえば、いくら成功体験を重ねても何かの拍子に突然失敗するイメージが頭をよぎって不安に襲われることがあるし、失敗するリスクを過大に意識する場合もある。あるいは成功しても、たまたま運がよかっただけだというように解釈し、成功体験をなかなか自信につなげられない人もいる。
 そこで、承認が力を発揮する。成功したときにほめたり認めたりしてやると、その成功が自分の力によるものだと確認できる。
 もちろん成功したとき以外にも承認は必要だ。そもそも努力や挑戦をしなければ成功も進歩もあり得ないので、結果はともかく努力したこと、挑戦したことをほめてやればそれも自信になる。また子どもの能力をほめて、「やればできる」と自覚させることもできる。
(太田 肇 著 『子どもが伸びる ほめる子育て』より)




No.915 『山からの絵本』

 文庫本だと思い気軽に手に取ると、まず、その表紙の絵がいいと思いました。中をパラパラと開くと、挿絵が豊富で、とくにカラー版が16点あり、いずれもほのぼのとしたタッチのものでした。
 これらの挿絵が絵本かな、と思って読み始めると、書かれている内容も絵本というか、奇想天外のようなものもありました。
 そこで、改めて著者を調べてみると、なんと、父親が辻潤で、母親が伊藤野枝でした。両親とも個性が強く、伊藤野枝が大杉栄のもとへ出奔してからは、辻潤とともに徘徊同然の隠遁生活をしていたということです。だから、居場所を転々とするわけですから、学校も転々としますが、知人宅に預けられていた中学生のときに父親とともにフランスに行きます。そして、嫌々ながらも帰国し、家計のやりくりに追われて、とうとう学業をあきらめて職に就いたそうです。まさに、苦労の多い人生だったようです。
 この本は、1966年7月に創元社より刊行されたものを底本にしていますが、生誕100年に当たることから、このヤマケイ文庫から再版されたもののようです。
 道理で、ちょっと今ではわかりにくいこともあったり、奇想天外と感じることもあるのは、だいぶ古い話だからなのかもしれません。それでも、「読書は私の人生にとってかなり大切なものだ。他人の書いたものの中に自分の思想を発見したときほど愉しみを感じ、なぐさめを与えられることはない。良い友人は、良い書物に似ている。それを失うことは全く残念千万だ。」や下に抜き書きしたものなどは、今でもその通りです。
 だから、時代が変わっても、このように読み継がれていくのかもしれません。
 ぜひ、機会があれば、読んでもらいたい1冊です。
(2014.2.2)

書名著者発行所発行日ISBN
山からの絵本(ヤマケイ文庫)辻まこと山と渓谷社2013年10月5日9784635047609

☆ Extract passages ☆

 夢中になることは素晴らしいことだけれども、夢中になるためには、相当多量の馬鹿らしさが必要だ。つまり人間夢中になるためには無知が大切な条件なのだ。ところが夢中になっているうちにだんだん知識が積み重なってきて、最初の無知は消えてしまう。そのあとに新しい無知が発見できなければ、それで夢はおしまいになる。
(辻まこと 著 『山からの絵本』より)




No.914 『生物とコラボする』

 いまさら「ジュニア新書」でもあるまい、と思いながらも、ついつい読んでしまうのは、やはり、おもしろいからだと思います。わかりにくい分野を、ジュニアにもわかりやすいように書いてあり、だから理解しやすいわけです。
 井上ひさしの座右の銘といわれるものに、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに」というのがありますが、まさにその通りです。
 難しいことを難しく書かれていても、読む気にもなれませんが、この座右の銘のように書かれていれば、いくらジュニアと銘打ってあっても読みたくなるものです。
 たしかに、この本も読んでみると、とてもおもしろく、ついつい仕事を忘れて読みふけってしまいました。副題は「バイオプラスチックの未来」ですが、それを中心にして、裏表紙にも書かれてあるように、「植物から自動車をつくる、クモの糸を人工的につくる、ミドリムシからプラスチックをつくる。そんな事の実現に向けて研究をつづける科学者たち。大学や企業などで開発が進む地球環境にやさしい技術は、けっして未来の技術ではなく、すでに実用化されているものも多い。生物と人間が切りひらく新しい材料の、現在と未来を紹介する。」という内容です。
 最初のプラスチックは、石油を原料とするのではなく、木や綿などの天然素材を原料とするニトロセルロースに樟脳を混ぜてつくった「セルロイド」だそうですが、そういえば、小学生のころお世話になった筆入れは、たしかセルロイド製だったような気がします。
 でも、そのセルロイド製の最初のものがビリヤードの玉だったとは知りませんでした。この本に、『セルロイドは、高価な象牙製だったどリヤードの玉を、より安い材料でつくれるようにするために、考えられた。アメリカでビリヤードの玉を製造していた会社が、「象牙にかわる材料を見つけた者には一万ドルの賞金を出す」と宣言して開発をうながした結果、ジョン・ハイアットという発明家が合成に成功したのだ。』ということです。
 ジュニアならぜひ、この本を読んでもらいたいと思います。最近は理工系はちょっと敬遠されているそうですが、この本を読むと、理工系こそおもしろいということがわかります。
 コラムには、8人の研究者が、なぜ科学者を志したかという理由が書かれていますが、それも科学者になる道筋が描かれ、とても興味深く読みました。なるべくしてなった方もおられますが、ある偶然のきっかけからなられた方もおられ、科学者の世界も十人十色だと感じました。
(2014.1.31)

書名著者発行所発行日ISBN
生物とコラボする(岩波ジュニア新書)工藤律子岩波書店2013年11月20日9784005007592

☆ Extract passages ☆

 研究や発明は、それ自体がおもしろく、研究している人や私たちを興奮させてくれるものだ。けれど、それを暮らしの中で活かすには、安全で使いやすく、役に立ち、手に入れやすい値段のものにしなければならない。私たちが利用する製品を生み出すために奮闘する科学者たちは、そこを考えながら、試行錯誤をつづけている。
 そんな研究が私たちの日常の中でもっと活かされるためには、私たち自身も「安いもの」というだけでなく、「エコな製品を使おう」という意識を高めていく必要がありそうだ。
(工藤律子 著 『生物とコラボする』より)




No.913 『学んでみると気候学はおもしろい』

 何かあると天気予報は見るのですが、毎日は見ていないようです。それでも、昔は山登りをするときには、必ず自分で天気図を作って、それで登っていました。だから、ラジオの「石垣島、南南東の風、風速2、‥‥」などという放送から天気図を作成するわけです。その専用の記入紙も市販されていました。おそらく、今ではないのではないでしょうか。
 そういえば、一般的に「天気とは、ある時刻における大気の総合的な状態のこと」だそうで、日常生活でも使っている、晴れ、曇り、雨、雪などの言葉で天気を表しています。また、天候とは「数日から数カ月くらいの間の大気の平均的な状態」を言うそうです。ちなみに、気象庁では5日間以上の平均的な天気の状態を天候とよんでいるそうです。
 また、気象とは、「時々刻々と変化する大気の現象」を意味する用語で、気候の定義は、辞書や専門書によってさまざまだといいます。この本で、気候というものを少し広くとらえて「気候とは、気象の統計をとることでみえてくる、ある場所またはある地域の特徴である」という立場だそうで、そういえば著者は現在筑波大学生命循環系(計算科学研究センター)の准教授ですから、「気象の統計をとる」という言葉が出てくるのではないかと思います。
 たしかに、読んでみると「気候学」というのはおもしろそうですが、第6章の「さらに勉強するための参考図書」には、気候学の本は7冊程度しか紹介されていませんが、気象学のほうは15〜6冊もあり、気象の方が気象庁とあるぐらいですから、一般的なのかもしれません。
 毎日の天気予報だけでなく、1週間程度の天候の予測、そして長期の気候変動など、自分たちの生活に非常に密接に関わりがあると、改めて思いました。
 下に抜き書きしたのは、今、話題に上る地球温暖化のことです。これは、気候モデルを作成して将来を予測するわけですが、「領域気候モデルによる地域気候の将来予測の結果だけでなく、推定した社会・経済シナリオと、全球気候モデルの予測結果に大きく依存」します。現在、気象庁が実施した日本の地域気候予測と、環境省の環境研究総合推進費で実施された日本の気候予測結果があるそうですが、モデル間の予測結果は多少違うそうですが、今世紀末までの年平均気温の上昇量は日本全国の平均でおおよそ3.0℃(2.6〜3.4℃)程度と予測されているといいます。
 これらのモデルでも、地球温暖化の影響は、北日本のほうが気温上昇率は高いのだそうです。気候学に興味のある方は、ぜひ読んでみてください。たしかに、おもしろかったです。
(2014.1.28)

書名著者発行所発行日ISBN
学んでみると気候学はおもしろい日下博幸ベレ出版2013年8月25日9784860643621

☆ Extract passages ☆

どのモデルを用いた結果でも、気温上昇量は北日本で大きく南西諸島で小さいなど、共通点も見られます。気温上昇量の大きい北日本では、将来、気候が大きく変わると考えられています。たとえば、モデルによりますが、2050年代の札幌の気候は現在の東北地方の気候になるとも予測されています。札幌が東北地方のようになるという結果は、地球温暖化というものが地域レベルではどういうことなのかということを教えてくれます。
(日下博幸 著 『学んでみると気候学はおもしろい』より)




No.912 『人づきあい 疲れない人間関係のヒント 新装版』

 この本は、いわば「言葉集」のようなもので、著者の本のなかから、これはと思うものを選んで掲載したものです。さらに、これは「新装版」だといいますから、けっこう人気のあるシリーズのようです。
 でも、このような本は、私は図書館から借りて読みます。というのは、あっという間に読み終わり、なんか、新聞の切り抜きを読んでいるかのような錯覚に陥ります。たしかに、編集者がいて、それなりの配慮で選定しているのでしょうが、私ももう少し順序だったものの方が好みです。しかも、時間をかけて、ゆっくりと読めます。
 そういえば、最近はやりのサプリメントを飲んでいるかのようにも思えます。
 たとえば、『「ワンダフル」という英語は通常「すばらしい」と訳すが、それは「フル・オブ・ワンダー」=驚きに満ちている、という意味で、つまり「びっくりした」ということだ。生きていれば必ず、その人の予想もしなかったことが起きる。英語を話す人たちは、予想通りになることをすばらしい、と感じずに、予想外だったことをすばらしい、と感じたのだ。(『至福の境地』)』というのは、思いもしなかった訳で、これは目から鱗でした。
 これがサプリメントというわけで、即効的に理解できます。
 また、『ほんとうに困った時に、助けてくれるのは、けっして経済的に余裕のある人でもなく、権力者でもないのです。それは、苦しみと悲しみを知っている人、なのです。そっ思って私たちは友情を見直すと、また新鮮な感動を覚えるのではないかと思います。(『聖書の中の友情論』)』というのも、なるほどと思います。
 いわれてみれば、経済的にゆとりのある人は、ない人の大変さがわからないでしょうし、権力者はなんでもできると思っているかもしれないので、できない人のことが理解できないのではないかと思います。だとしても、私は友情を見直すことはないと思います。だって、助けてもらうために友人になったわけではないからです。
 下に抜き書きした言葉も、たしかに一理あります。
 ぜひ、かみしめて、自分なりの考えを導き出したいと思っています。
(2014.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
人づきあい 疲れない人間関係のヒント 新装版曽野綾子イースト・プレス2013年9月15日9784781610641

☆ Extract passages ☆

 私くらい長く生きて来ると、人がたくさん行く方向へは行かない方がいい、という下らない処世術も実感としてわかるのである。人ごみに行くと、花火見物だけでなく、初詣でも踏み殺されることはあるのだ。それに時流に乗ると、生き残ることも、ましてや頭角を現すことも大変だ。しかし競争の少ない世界なら、ゆっくりと生きて行くことができる。 (『魂の自由人』)
(曽野綾子 著 『人づきあい 疲れない人間関係のヒント 新装版』より)




No.911 『科学者が人間であること』

 あの東日本大震災のときに、「想定外」という言葉があっちでもこっちでも使われました。そもそも自然の力を想定するなんてできるのか、というのが素朴な疑問でした。それほど、自然の力は大きく、計り知れないと思っていたからです。
 この本の著者も、この「想定外」という言葉を科学者が使ったことで、科学技術そのものが不信感をもたれた要因ではないかと書いています。また、そういわれても仕方のない状況でした。絶対に安全であると言い続けてきたのが科学者といわれる学者でしたから、いわば当然のことです。
 この東日本大震災で明らかになったのは、「科学技術が自然と向き合っていない」ということだと、いいます。だから、この本の題名もそうですが、「人間は生きものであり、自然の中にある」という当たり前のことに視点を当てて考えようというのが、この本のようです。
 そういえば、国立大学も独立行政法人みたいになってきたようで、ある意味、経済的な利益まで追求するようになってきたようです。それはそれで、必要なことなんでしょうが、すぐ役立つようになるものばかりではないはずです。この本でも、「役に立つ」という言葉が威力を発揮するようになってきたといいます。そして、『この言葉は主に、本当に人々のためになるかどうかではなく、経済的な利益につながるかどうかを意味していました。そしてそこからさらに進み、実際に経済的利益につながるか否かよりも、「つながるかの如く見せる」ことが大事になってきます。研究の多くが税金や企業の資金で進められている以上、さらに研究を続けていくためには、役に立つことを知らせて予算獲得につなげなければならないからです。自分たちの「ムラ」を守るためには、研究の目的や意義よりも、その研究が「役に立つ」こと をアピールし、さらに巨額の予算を獲得していくこと自体が、専門家たちの至上命題になってしまったのです。』といいますから、まさに本末転倒です。
 そのなかから、「想定外」という言葉が無造作に使われれば、やはり不信感につながるのも当たり前です。
 その科学者のお一人としての著者から、このような本が出てくるというのは、いいことです。
 さっと読んでも、ちょっとわかりにくいところもあり、そのわからなかったところをもう一度、読み直しました。それでも、わからないところは何カ所かありました。このまま本棚に置いておいて、時間がたってからもう一度読んでみたいと思っています。
(2014.1.23)

書名著者発行所発行日ISBN
科学者が人間であること(岩波新書)中村桂子岩波書店2013年8月21日9784004314400

☆ Extract passages ☆

 科学に限らず、知の世界は想像力あってのものです。知の世界だけでなく日常生活でも、世界のあちこちで起きている戦争を思い、飢えている子どもたちを思う気持は、他の生きものには持てないものです。東日本大震災後痛感したのはこのことでした。近代社会は近視眼的になり、見えるものの豊かさを大事にしすぎたために、見えないもの、遠いものに思いを致す想像力なしで暮らす方向に来たのではないか、あまりにも想像力に欠けた暮らしをしてきてしまったことへのつけがきたのかもしれないと思ったのです。想像力こそ人間らしさの象徴であり、それを思いきり生かして暮らす社会を作ることが人間らしい生き方であると思います。
(中村桂子 著 『科学者が人間であること』より)




No.910 『古本の時間』

 装丁もいいのですが、その内容もバラエティに富み、ついつい手が出てしまう本でした。もともと神保町も好きですが、最初に出てきた「目録・殿山泰司と沢渡恒」を読み、沢渡恒が山形県出身と知り、親近感も増したようです。
 そして、ついつい、あっという間に読み切ってしまいました。この本を読みながら、何カ所かつい頷いてしまうところがあり、たとえば、『本というのは増え出すと、ある段階から突如制御不能になる。知り合いの古本屋は、通路に本を積んでいるうちに、棚を隠し、人も入れなくなり、つまり制御不能な状態に突入した。そのまま店の半分を本で埋めてしまったのだが、何年か後に道路の拡張で店が移転となったとき、この本の山を崩していたら、中から50∝の原付バイクが出てきたというのだ。「そういえば何処にいったのかなって思ってた」と暢気に笑う主人にもあきれたが、なによりも増殖する本は凄いものだと思った。』というのがあり、さもありなんと思いました。
 というのは、私も数年前に自宅の改築のとき、いざ片付けようと思ったのですが、自然に集まってしまった本の山にただただ呆然としてしまいました。自分であるところまでしたのですが、つい、昔やっと手に入れた本を見つけると、立ち読みしてしまい、なかなかできませんでした。そこで、そのままでは解体時期がせまり、とうとう一括してブックオフに来てもらい、強制撤去に踏み切りました。
 そして、数年たちましたが、また、自然と本が集まりはじめています。この本棚がいっぱいになったら、またブックオフを読んで片付けてもらうと考えているのですが、その本棚のわきに積み重なり、奥の本棚が見えなくなりつつあります。だから、この「制御不能な状態に突入」しつつあるわけです。
 それでも、なるべく本を保管することがないように、図書館の本を借りてきて読むようにしているのですが、それでも図書館にない本とか、参考資料などは手元に置いておきたくなれます。
 そして、この本のなかに出てくる「不便も無駄も通り抜けてない知識には味気がない」という言葉にすごく納得してしまいました。
 自游書院の若槻さんの言葉として出てくるのですが、「稼ぐのは幸せではない、稼いだ金の遣い場所を持っていることが幸せなのだ」という台詞に頷きながら、今日もまた、本を通販で買い求めてしまいました。
 今の時期、雪降りが多く、なかなか外出するのも大変なのですが、今はなんでも通販で買える時代です。当然のことながら、本もその通りで、新刊本から古本まで、なんでも検索してほしい本を手に入れることができます。なんとも便利な世の中です。
 それでも、やはり本屋の棚をのぞきながら選ぶのは楽しみです。本の装丁や活字の読みやすさなど、手に取ってみないとわからないものがあります。
 下に抜き書きしたのは、そのへんのところをうまく表現した箇所です。興味があれば、ぜひ読んでみてください。
(2014.1.20)

書名著者発行所発行日ISBN
古本の時間内堀 弘晶文社2013年9月10日9784794969118

☆ Extract passages ☆

 古い本を手にすると、これはいつも思うことだが、本は著者だけの作品ではない。活字をデザインした人、それをレイアウトした人、印刷した人、製本した人、そして出版した人の作品でもある。そんな無名の痕跡が、たしかに本には刻まれているのだ。その痕跡を読もうという人がいる。本の読み方はいろいろだ。
 そういえば、ふりがなを「ルビをふる」と言うが、これは宝石のルビーからきているそうだ。5.5ポイントの小さな活字をルビーと呼び、大きくなるとダイヤモンド、エメラルドと区分したらしい。言葉を宝石で編む。素敵な話だと思った。
(内堀 弘 著 『古本の時間』より)




No.909 『日本人の宝』

 装丁が朱色っぽいカラーで、ちょっと目につきました。そこで、塩沢さんの略歴を見ると、現在仙台市秋保の慈眼寺住職で、大峯千日回峰行成満者とのこと、これは読んでみたいと思いました。
 もう一方の竹田さんは、マスコミなどの情報では明治天皇の玄孫だそうで、本のなかでも、皇室に触れたところがたくさんあります。1975年生まれで、氏名と生年月日が共に知られると呪いをかけられると考えているので非公開としているそうです。
 ということは、いわば塩沼さんは仏教で、竹田さんは神道という立場から話されていますが、大峯千日回峰行者であるということは役行者とのつながりがあり、修験道です。つまりは神仏混合ですから、息の合うのは当然のようです。
 下に抜き書きしましたが、仏教と神道の関係を「旧約聖書」と「新約聖書」の関係から説いていて、このような考えはいままで聞いたことがなかったので、ここに掲載させてもらいました。
 また、個人の自由に関して、竹田さんは『自由について福沢諭吉は「手を広げて当たらない範囲で動いてよいという意味で、近くにいる人に当たってよいというものではない」といったことを述べています。いま自由というと「例外なき自由」で、何でもやってよいかのように言われますが、実際は「他人の権利を害さない」という制約の中での自由なのです。福沢諭吉はまた「自由は不自由の中にあり」とも言っていますが、我々の存在が、先祖から預かって子孫に伝えていくための中継ぎ役だと思えば、自由といっても自ずと制限されるのです。』と書いていますが、この「中継ぎ役」という考え方は、とてもわかりやすいと思います。
 そういえば、この「個人」についてのことですが、『「連携」よりも「個」が大事という発想です。「君は独立した人格の持ち主で、君は君の人生を謳歌しなさい」と教えます。本来は逆で、「お前なんかいなくても、どうってことない。地球は回っている」と教えるのが正しい教育です。』というのは、ちょっと過激かもしれませんが、的を得ていると思います。やはり一人一人の人格を尊重することは大事ですが、個人の権利ではあっても、みんなとともにという連帯も大事にされなければなりません。それが、教育の分野でもおろそかになっているように思います。
 さーっと読んでみて、たしかに明治時代の神仏分離、さらには廃仏毀釈の影響は、とても大きいものがあります。この本のなかで、仏教と神道がお互いに支え合うことが大事ということはありえることだと思います。それこそが、日本の宝であり、日本人の精神的支柱ではないかと思いました。
 興味のある方は、読んでみてください。
(2014.1.18)

書名著者発行所発行日ISBN
日本人の宝竹田恒泰・塩沢亮潤PHP研究所2012年5月7日9784569802886

☆ Extract passages ☆

 私は日本に仏教が入ってきたことは、非常によかったと思います。神道が担える部分と仏教が担える部分は、若干、違う気がするのです。その違いは、キリスト教で例えると『旧約聖書』と『新約聖書』のようなものです。キリスト教では『旧約聖書』が大宇宙の構造や真理といったものを担い、『新約聖書』で個人がいかにして幸せになるかなど、人間個々の生き方の話をします。つまりキリスト教徒は『旧約聖書』と『新約聖書』の両方があることで、社会全体と個人個人のあり方について両方語れるのです。
 ところが神道は、宇宙的です。神様は五穀豊穣や四海静謐など、社会全体を守ってくださるという印象が強い。‥‥それに対して仏教は、どうすれば迷いがなくなるか、どういう生き方がよいかなど、個人に焦点を当てている気がします。だから神道しかなかったところに仏教が入ってきて、しかも寄り添ったことで日本人の精神構造は豊かになったと思うのです。
 神道の場合「こうしろ、ああしろ」といった教えがありませんでした。そこへ仏教が「みんなが求める真理が誰にでもわかりやすいように」文字を伴って入ってきたのです。
(竹田恒泰・塩沢亮潤 著 『日本人の宝』より)




No.908 『「売り言葉」と「買い言葉」』

 言葉っておもしろいな、と思ってたら、コピーも言葉で、まさに人の心に響かなければ役に立たないわけです。この本の副題は、「心を動かすコピーの発想」で、この題名だけを見ただけで、読んでみたくなりました。まさに、これこそコピーに惹かれてしまったということです。
 この本の題名の「売り言葉」と「買い言葉」というのは、いわゆる「相手の暴言に応じて、同じ調子で言い返す」ことではなく、いわば売り手目線の「売り言葉」と、書いて目線の「買い言葉」という著者独自の整理の仕方で、コピーを区分けしていきます。これは、なるほどと思いました。
 そういえば、コピーにも流行があり、というかコピーが流行を作り出すようなところもあり、それが「売り言葉」優勢の時代と、「買い言葉」の時代があるようです。
 詳しくは、この本を読んでいただけばすぐわかりますが、著者は、『「売り言葉」とは、どちらかと言えば体育会系の言葉ではないか』と書いています。つまり、その言葉には、「啖呵をきったような威勢のよさがある。事実をわかりやすく伝える誠実さがある。短い言葉の中に力強いメッセージがある。だからこそ受け手は、この商品やサービスを利用してみようかとふと心を許してしまう。」といいます。
 たしかに、「目の付けどころが、シャープでしょ。(1990年)」は今でも覚えていますし、「人類は、男と女と、ウォークマン。(1982年、SONY)」もそうです。すーっと、ストレートに心に響きます。
 一方の「買い言葉」は、著者によれば「限りなく文系の言葉です。詩や小説のように、読む人をどこか別の世界へ連れていってくれる表現や、人間の心の深い部分に触れる表現が多く見られるからです。」といいます。つまり、「人を前向きな気持ちにしたり、悩みを少しだけ軽くしたりと、そういった感情の変化を生み出す力があります。ですから、商品やサービスを利用してもらうという広告本来の目的とあわせて、見た人をちょっと幸せにするという、うれしいおまけを備えた表現でもあるのです。」と書いています。
 そういえば、「いまのキミはピカピカに光って(1982年、ミノルタ)」や「あったかい夜をプリーズ。(1982年、サントリー)」などは、やはり記憶の片隅に残っています。それほど、コピーって、すごいものだと思いました。
 下に抜き書きしたのは、コピーライターの仕事のことを語りながら、じつは普段のコミュニケーションにもおおいに役立つと書かれていました。ぜひ、参考にしてみてください。
(2014.1.15)

書名著者発行所発行日ISBN
「売り言葉」と「買い言葉」(NHK出版新書)岡本欣也NHK出版2013年7月10日9784140884126

☆ Extract passages ☆

いまではコピーライターという仕事を通じて、伝えることの先にある、行動をうながすことを意識するようになりました。仕事に限らず、ふだんの生活でも「この人の共感を誘うにはどうしたらいいのかな」とか、「どうしたら気持ちよく協力してもらえるかな」といったことを自然に考えるのがクセになつています。行動につなげるための共感。それを生むために、伝える中身や順番を逆算しているような感覚です。
 だから、思うのです。コミュニケーションに課題を感じている人の多くは、ここでつまずいているのではないかと。よりよく伝わる言葉とは、すなわち相手の心を動かし、行動をうながす言葉のこと。じつはこの点をほんの少し意識するだけでも、見えてくる世界はこれまでとはずいぶん変わってくるはずです。
(岡本欣也 著 『「売り言葉」と「買い言葉」』より)




No.907 『脳と魂』

 養老孟司さんと玄侑宗久さんの対談本で、しかも文庫本ですから、どこから読んでもいいので、いつから読み始めたかも忘れるほどです。でも、読み終わったのは、間違いなく今日のたった今です。
 対談は二人の息が合うことも大事でしょうが、話しの勢いも大切です。養老孟司さんは解剖学や形態学の視点をベースに幅広い分野について批評や本を書いていますし、一方の玄侑宗久さんは第125回芥川賞を受賞した臨済宗妙心寺派の僧侶ですから、この本の題名も頷けるというものです。
 養老孟司さんは現在フリーなので、言いたいことは何でも言える立場ですし、玄侑宗久さんは、現役の福聚寺住職ですが、今回のテーマは宗派や檀家制度などにほとんど関係ないことがらなので歯に衣着せぬ物言いで、これもストレートです。だから、おもしろかったのかもしれません。
 それでも、「たとえばビッコっていう言い方だって、元々左右揺れながら歩くという状態を指す言葉ですから、歩行障害って言われるよりずっとマシなんですよね」というあたりは、ちょっとなあ、と思いました。たしかに、『だいたい障害っていう言葉も、「害」っていう字は「碍」に戻すべきですよ。あの字はひっかかってる状態ですから、ひょんなことでひっかかりが取れて治るかもしれないっていう可能性を感じさせます。』というのはわかりますが、それでもビッコという言葉を使うのはいただけません。
 でも、養老さんの「芝居の襲名がそうですが、親と同じ社会的役割をするようになったら、同じ名前で別に何の問題もない。本人の中身は一切問わない。名前なんか他人が見るもんであって、当人とは関係ない。そうすると鈴屋にこもっている本居宣長のようなものです。彼は小児科の医者ですけど、医者としての本居宣長は社会的役割であって、国学者としての本居宣長には何の関係もない。」というのは、さすが卓見です。要するに、名前で勝負するわけではなく、芸で勝負するわけですから、自分を売り出すそのきっかけに襲名ということもありだと思います。
 また、玄侑さんの「とりあえず一つのときには一つの役になり切るのが幸せであるけれども、役を乗り換えるというか、服を着替えるのと同じように、いろんな役を生きなきやいけない」という表現は、やはり小説家だなあ、と思います。それに対して、養老さんは、「たとえば、家庭の中では父親の役割なり夫の役割なり、さまざまな役割がありますよね」と具体的な言い方をします。その言い換えも、また非常にわかりやすく感じました。
。  たしかに、脳といえば、その存在ははっきりとわかりますが、魂といわれると、たしかにあるような、ないような、そんな雰囲気です。それを脳と対比させると、見えてくるものがありそうです。
 下に抜き書きしたのは、玄侑さんの言葉ですが、いかにも日本人らしい「水に流す」ということで、一つのものを多面的に使いこなす術です。そういえば、日本の建物は木と紙でできているとよくいわれますが、障子などは光の陰影がわかり、とても印象的だと思っています。カーテンや窓硝子では絶対にまねのすることのできない雰囲気を持っています。でも、建具屋さんに聞くと、新築の家屋に障子や襖を使う人は年々少なくなっているそうです。
(2014.1.12)

書名著者発行所発行日ISBN
脳と魂(ちくま文庫)養老孟司・玄侑宗久筑摩書房2007年5月10日9784480423269

☆ Extract passages ☆

「水に流す」っていうことを個人の問題として考えると、何度も生まれ変わることだと思うんですね。生まれ直すというんでしょうか。それって日本文化の根底にあると思うんです。つまり日本の建物は、もともと、一つの部屋が茶の間であって食堂であり、勉強部屋になって、客間になってまた片付けて寝室になる。要するに、構造は変わらないのに機能は次々と変わっていくわけですよね。実は脳もそうじやないかと思うんですよ。脳はコンピューターと違って、構造と機能が完全に分かれることはないですよね。たとえば、メモリーを受け持つ部分と思考する部分が脳では重なっていますよね。だから、構造は変わらないのにそこにいくつかの機能が生まれる。それって実に日本的なことなのかなって思うんですけども。(玄侑宗久)
(養老孟司・玄侑宗久 著 『脳と魂』より)




No.906 『なぜデザインが必要なのか』

 副題は「世界を変えるイノベーションの最前線」で、もともとの書名は「WHY DESIGN NOW ?」です。著者は、エレン・ラプトンの他に、カーラ・マカーティ、マチルダ・マケイド、シンシア・スミスです。
 では、なぜ、デザインが必要かというと、イントロダクションのところに、「デザイン・プロセスは多くの場合、シンプルさの追求と重なる。多くのデザイナーは、目的を明確化した、統一性のあるコンパクトなシステムを創ろうとしている」といいます。
 この本の中で特におもしろいと思ったのは、今やトウモロコシのデンプン質やサトウキビなどからプラスチック代替品が作られる時代だが、なんと切り倒され捨ててしまうバナナの幹から繊維を取りだし、合板をつくるというから驚きです。それは「バナナ繊維の手作り合板」で、これを開発したのはリオ・デジャネイロ州立大学の工業デザイン学部の学生たちによって設立された、持続可能な素材の開発を専門とするフィブラ・デザイン・スステンタヴェル社です。これを開発した目的は、環境にやさしいだけではなく、貧困に陥った地元コミュニティに雇用機会を提供することでもあったそうです。
 これと似たような発想ですが、インドネシアのシンギ・カルトノは、天然素材をつかっての「マグノ木製ラジオ」を国際市場向けに売り出しているそうです。そして、2008年にはカルトノの工房が伐採した木は100本にとどまり、30人に生計を立てる手段を提供し、8000本以上の木を新たに植えたそうです。つまり、ここでは、地元産の木を原料に使うだけでなく、カルトノの基本原則は「木は少なく、作業を多く」と「伐採は少なく、植樹は多く」ですから、木を1本切るたびに少なくとも1本異常は植樹するというわけです。
 それと、なるほどと思ったのが「道路標識」の書体で、たしかに標識そのものが小さければ読めないから役に立たないし、大きくすれば視界を妨げたり、風景になじまなかったりし、さらには設置にも多額の費用がかかります。つまり、なるべく小さくてはっきりと文字が見えるのがいいわけです。
 その活字の改善に取り組んできたのがグラフィックデザイナーのドナルド・ミーカーで、活字デザイナーのジェームズ・モンクルベーノ、ヒューマンファククー科学者をはじめとする専門家チームと提携して、15年以上取り組んできたそうです。この本には、その活字の写真が載っていますが、なるほど、同じ大きさの活字でも視認性が違います。パソコンのフォントにはとても関心がありますが、まさか、このようなものにまで必要だとは思ってもいませんでした。
 また、手の不自由な人も含めて、だれにでも使いやすいエレガントなコップをつくりたいとデザインしたコップも出ていました。これを創ったのはスウェーデンのカリン・エリクソンです。
 手の障害の中でもっとも多いのは、「握力が弱くなる、震える、感覚がなくなる、握ったり手を使うと痛むなど」だそうで、「多くのグラスは、わずかな障害のある人にとってさえ、無理なく握って持ち上げるには、重すぎたり、太すぎたり細すぎたり」といろいろ問題があるそうです。そこで、このグリップ・グラスには、「中央近くにはっきりわかる突起部があり、安定して持てる一方、グラスに優雅なラインが生まれて」います。写真で見るとすぐわかるのですが、とても端麗な形をしています。現在は、ワイン、ビール、水用にデザインされているそうです。
 これらを見ると、いいデザインのものは姿形がすっきりしていて、まさにシンプルです。
 下に抜き書きしたのは、デザインをするときに、いかにシンプルさが大事かということです。やはり、デザインの本は、掲載されている写真などを見ないとなかなかわからない部分が多いと思います。デザインに興味があれば、ぜひ読んでみてください。まさに時代の先を読むような感覚です。
(2014.1.10)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜデザインが必要なのかエレン・ラプトン他 著、北村陽子 訳英治出版2012年1月31日9784862761200

☆ Extract passages ☆

 音を削ぎ落としたメロディ、言葉を厳選した文、部品を切り詰めた製品。そうしたものに出会うと、それが当たり前のように思えるかもしれない。だが、シンプルさは容易に作り出せるものではない。デザイン思考にはしばしば、余計な要素を容赦なく除去するクリエーティブなプロセスが含まれる。簡素なフォルムやソリューションは、各地固有の技術から古い寺院に至るまでどこにでもある。今日デザイナーは、素材を節約し、作品を自然のプロセスに組み込むことを目指すのだ。シンプリシティの追求は、デザインの美的側面だけでなく、経済・環境・倫理面での目的を決定する。
(エレン・ラプトン他 著 『なぜデザインが必要なのか』より)




No.905 『迷惑行為はなぜなくならないのか?』

 昨年の暮れ、1ヶ月の間に二度ほど上京しましたが、電車に乗ると、ほとんどの若者がスマホをいじっています。あるいは、歩きながらいじっている者もいます。上野公園近くでは、自転車に乗りながらいじっているのも見ました。これは危ない、と感じました。
 そんなときに、この本を見つけました。副題は、『「迷惑学」から見た日本社会』で、そもそも「迷惑学」ってどのような学問なんだろうと思いました。でも、著者がプロローグで書いているように、そういう学問がはっきり存在しているわけではないそうです。いわば、「迷惑行為の心理学的研究」で、この本そのものが著者の「迷惑学宣言」なんだそうです。
 でも、たしかに、迷惑だなあ、と感じることがたくさんあります。たとえば、駐車禁止のところに駐車している車や、自転車が走ってはいけない歩道を走っていたり、いろいろと目に付きます。
 この本にも書かれていますが、「そもそも、迷惑行為の多くは、自分がラクをしたいとか、負担を回避したいといった動機に基づいている。これは、否定されるべきことではあるが、非難する資格は誰にもない。すべての人間は、効率化の名の下にラクをしようと、いつも画策しているからである。駐車違反しかり、列の横入りしかり、電車内の化粧しかりである。これらはすべて、面倒事やコストを回避した結果、迷惑行為となっているものである。わざわざ遠くの駐車場に駐めるのは面倒だから、路肩に駐めればいい。電車を待つ列に並ぶのが面倒だから、ショートカットして座ればいい。電車内で化粧すれば、そのために早起きしなくてすむ。」ということです。
 でも、これだって、時代が違ったり、国が違ったりすれば、迷惑という行為も違ってきます。あるいは、自分で毎日していることでも、人から見ればおかしな行為で、迷惑まではいかなくても、不愉快程度のものもあります。この本で紹介されていますが、『モリスという心理学者が、「『やってはいけないこと』に制裁が伴うのがルールであり、伴わないものは価値観である」と定義』しているそうですが、なるほどと思います。
 これらを考えれば、迷惑というのは行為そのものというより、そのことを他の人たちが不快に感じるかどうかという心理的な側面もあります。
 この本のなかで、『人間関係は難しいなどとよくいわれるが、実はそんなことはない。基本的には返報性にだけ気をつけていれば、問題が生じることはほとんどない。要は、「自分がされたらイヤだ」と思うことはしないことである。』と書いています。この返報性というのは、互恵性とでもいうべきもので、「何かしてくれた人にはお返しをしなければならない」とか、「そういう相手を傷つけてはいけない」といったものだそうで、簡単にいうと「ギブ・アンド・テーク」のことです。
 つまり、お互い様です。下に抜き書きしたのは、なぜ守らなければならないルールがあるのかという、基本的なことについて書いてありました。とてもわかりやすいので引用しました。ぜひ、読んでみてください。
(2014.1.7)

書名著者発行所発行日ISBN
迷惑行為はなぜなくならないのか?(光文社新書)北折充隆光文社2013年10月20日9784334037697

☆ Extract passages ☆

 そもそも、どうして世の中に、守らねばならないルールが存在するのだろうか。この間いに答えるのは難しく思われるが、実は非常にかんたんである。答えは「人類が集団生活をする種であるから」ということ。この一点に尽きる。
 ヒトが、もしもネコのように単独行動をとる種であるなら、ルールをつくる理由も、守る必要もない。ただし、生き残って種を残していくためには、ひたすら健康で、強くあり続けるしかない。某アニメの主題歌ではないが、お魚をくわえたドラネコとて、逃げ足が遅ければ、裸足で駆けてきた人に捕まってしまう。弱いネコは、強いネコに縄張り争いで負けてボコボコにされても、どうすることもできない。病気になれば、外敵の餌食になるかもしれないし、治す術がなければ、座して死を待つしかない。こんなぐあいに、集団生活をしないのであれば、自由と引き換えに、すべて自分で何とかしなければならない。
 それに比べ、人間は社会の中で、個人の能力・労働力を、特定の分野に投入するだけでいい。お金という共通尺を用いることで、分業が図れるからである。私たちは、資本や労働力を提供することで、お金を手に入れることができる。腹が減っても、お金を払えばかんたんに食べ物を入手できるので、食料の確保に奔走する必要はない。財産や生命を脅かす者が現れたら、110番通報すればいい。必死になって撃退しなくとも、税金で雇われた警察が駆けつけてくれる。
(北折充隆 著 『迷惑行為はなぜなくならないのか?』より)




No.904 『なぜ夜に爪を切ってはいけないのか』

 正月は忙しく、なかなか本を読み通すような時間がなく、細切れでも読めるような本を探しました。すると、たまたま手元にあったのが、『なぜ夜に爪を切ってはいけないのか』でした。
 この副題は、「日本の迷信に隠された知恵」で、たしかに迷信とばかりは言い切れないことがたくさん載っていました。
 たとえば、「便所をきれいにすると美しい子か生まれる」といいますが、P33 「トイレの神様」(トイレのかみさま)は、植村花菜による楽曲 2010年2月、TOKYO FMで1か月期間限定番組『TOKYO FM MONTHLY SPECIAL 植村花菜?トイレの神様』が4回にわたって放送された[3]。その後も多くのラジオ番組等で流され、同年11月24日にはシングルカットされた。同年12月30日の第52回日本レコード大賞で優秀作品賞および作詩賞を受賞し、翌12月31日には『第61回NHK紅白歌合戦』で披露された。 曲の長さは約10分(アルバム、シングル収録のトラックでは9分52秒) 『NHK紅白歌合戦』出場が決まった際に曲の長さのことも話題になったが、植村は会見で「どこも削るところがないので全部歌わせていただきたい」と述べている。ただし実際に歌われたのは、歌詞はそのままで8分弱に短縮された紅白バージョンであった。 は昨年末出版されたばかりで、副題は「競争とつながりの生態学」です。昨年末に読んだのは『科学の限界』でしたから、いわば、もう一度自然を捉えなおし、見つめていこうという思いもあります。なにせ、新しい年を迎えたばかりですから、新しい気持ちでものごとを考えていこうというわけです。
 そういえば、この本で、モノとコトの違いを書いていて、「私たちがみつめるものごとはモノとコトからなっているはずですが、モノが目にみえる物理的存在であるのに対し、コトは現象や出来事であり、たとえ目の前で起こらなくとも、その名称を聞いただけで人がそのことをイメージできる抽象概念であるといえます」とあり、なるほどと思いました。
 つまり、この本にも書いてありますが、コトはモノ間の相互作用で、たとえば「リンゴが地上に落ちる」というコトは、地球というモノとリンゴというモノの「相互作用=引っ張り合い」ということです。だから、コトをあまり複雑に考えすぎると、収拾が付かなくなり説明もできなくなります。科学はある意味、それらを割り切ることでもあります。それが昨年末に読んだ『科学の限界』です。
 今年こそ環境をしっかりと考え、自分たちが受け継いだ自然を自分たちの孫子に伝えていかなければならない、と思ってこの本を読み始めたのですが、そのきっかけは一昨年の福島第一原発の事故です。人間にはいまだ制御不可能な放射能をこの大切な自然界に垂れ流ししたのですから、これこそが大問題です。地球温暖化や生物多様性の危機など、さまざまな問題がありますが、最も緊急の課題がこの放射性物質の拡散の問題だと思います。この本では触れていませんが、自然を捉えなおすなら、この問題を抜きには考えられません。
 ぜひ、全科学者が一丸となって、この問題に取り組み、科学の信頼を取り戻していただきたいと思います。
 ちょっと概念的なことが多く、読みにくいところもありますが、機会があればぜひ読んでいただきたいものです。
(2014.1.4)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ夜に爪を切ってはいけないのか(角川SSC新書)北山 哲角川SSコミュニケーションズ2007年10月30日9784827550092

☆ Extract passages ☆

P103 環境問題は私たち人が過去に、生態系を構成する大気・水・地表面・生物のいずれかに与えた過剰なインパクトが、私たち自身に多様なタイムラグをもちながら跳ね返ってきている大きなツケだということができます。ここで重要なことは、これら生態系の各要素に与えたインパクトが当該要素の問題として直接人に跳ね返ってくるのみならず、他の要素にも必ず影響を与え、間接的にも跳ね返ってくるということです。なぜなら自然はすべてつながっており、生態系の構成要素間には常に相互作用が存在しているからです。
 たとえば、地球温暖化はもともと大気の問題であり、直接的には酷暑という問題を生じ、近年では熱中症という実被害をもたらしていますが、そのいっぽうで「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる湖底への酸素供給を阻害する危険を秘めており、このことが私たちの飲み水と食糧である魚介に深刻な打撃を与える恐れがあります。
(北山 哲 著 『なぜ夜に爪を切ってはいけないのか』より)




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